こ恥も外聞もなく、サイババの足にしがみつくように仕向けた。「貧乏ぐらいに負けないぞ」という天狗の鼻をへし折ってくれた。
 人それぞれ弱いところがあろう。サイババは一人一人にそれを的確に見抜く。「俺は20年近くも乞食をやったのだぞ」という妙な私の「自信」をブチこわしてくれた。
 人の自我を突き崩す弱点はさまざまだろう。人によって、それが病気であったり、生別死別であったり、名誉の失墜だったり、事業の失敗だったり、知的優越感だったり、千差万別だろう。前に言ったとおり、それは56億7000万通りある。エゴの天狗鼻がどこにあるかは、その人すら知らない場合が多い。それを見抜くのは神のみだ。そこを見抜かれたら、それこそ手も足も出ない。その鼻をポキンと折られるまでは、人は全託などできるわけがない。「神におまかせ」という言葉は、観念的には理解し、それを人に説いたりしたし、自分でもしているつもりでいた。しかし、何もかも怪しかった。私自身のエゴはきれいにこれを温存し、神にも世間にも隠しおおせたと思っていた。そのネズミがとうとう尻尾を出してしまった。

 次の日の朝(940225/0832)である。昨夜は1時には床に入っていたが、よく眠れた。サイババへの手紙を書いてから、またこの本が書けるようになり、お願いどおりに不眠からも救われた。眠るまえの祈りと瞑想もいつもと変わっていた。昔からよく出る「オロセ、オロセ」の神言葉も、その意味がやっと分かった。「私」にこびりついていたエゴのかさぶたを掻き下ろしてしまえ、ということだった。
 牧野元三君がプッタパルティに旅立つ前に送ってくれた、ハワ−ド・マ−フェットの新著『道の終わるところ』(Where the Road Ends)が昨日到着していた。これは渡部英機さんの訳で知られている『奇跡の人−−サイババ』を書いた彼が去年(1993年)出版した、サイババについて彼が書いた4冊目の本である。マ−フェットは1906年生まれであり、私より20歳年長であるから、今年は88歳になるはずである。彼は長年の執筆生活で、両眼の網膜出血となり、今は片目の周辺がわずかに見えるくらいになっており、読み書きができなくなっているのに、1989年のインタ−ビュ−で、スワミから次の言葉を受けた。
 「あなたはそこにある本を書かねばならないよ。」その強い命令の言葉とともに、スワミはマ−フェットの胸を軽く叩いた。「家に戻ってその本を書き、2年たったらそれをわたしのところに持って来なさい。」
 古いタイプライタ−で原稿を書くことに慣れていた彼は途方に暮れたが、ディクタフォ−ンという助けが与えられた。器械に声を吹き込んで、それを助手が彼の目にも見える大きい活字にしてくれるという手順だった。何台かのエレクトロニックスの器械を利用して、どうにか彼はこの本を仕上げた。題名は「旅路の果て」と言った感じであり、彼の一生の回顧録である。これを器械口述で書く第1冊として、芹沢光治良さんのように90代に入っても彼がこのさき書き続けることを願ってやまない。文章は88歳とはとても思えないほど若々しく、生き生きしている。
 この本で初めて知ったが、マ−フェットは1960年にドイツでスブドの開魂(オ−プン)を受け、1961年の春には英国のク−ム・スプリングズでジョン・ベネットに会っている。ベネットの『二十世紀の奇跡・スブド』は、日本で翻訳が出たスブドの最初の本である。私のスブド開魂は1954年に東京で行われたから、インドネシア国外では私が世界で一番早くラティハン(霊的修練)を始めたことになる。私を開いた英国人のフセイン・ロフェが本国に帰って、ベネットをオ−プンしてから、スブドの世界的発展が始まったのである。マ−フェット夫妻はある期間ラティハンをやっていた。彼はこの新著の第11章を「スブドの道」という題にして、8ペ−ジにわたり詳しくスブドを紹介しているが、私はほかの場所でスブドについては何度も書いたから、それには触れない。
 マ−フェットはベネットと暮らしていたころ、名前のヴァイブレ−ションの関係で、スブドの開祖ムハマッド・スブフの勧めを受け、通名のデ−ヴィッドをハワ−ドに変えた。そして、スブフから、自分のダルマ(正しい行動、天命)は著述だと教えられ、ハワ−ドという筆名で今日まで来ているということである。そのあと、彼の興味はスブドから離れ、長いあいだ神智学とヨ−ガの研究をしたのちに、マドラスでサチャ・サイババに会うことになる。ベネットも最後にはスブドから離れ、彼の旧師であるグルジエフとウスペンスキ−の道に戻ったが、死去の前には私と何度か文通があり(私もスブドから離れていた)、飛行機のなかでメ−ヘル・ババに会ったとかで、そのババに関心を持っていたようだが、遂にサチャ・サイババには会うチャンスを得ず、世を去った。
 スブドの生き残りのマ−フェットと私が、この順でサチャ・サイババにつながることができたのだ。昨日はマ−フェットの新著をあらかた読んだが、すこしも私の憂悶は取れず、苦し紛れにサイババに手紙を書いたのだった。

7.最大の奇跡は神の愛
                                       在天神940225/2149
 1966年(昭和41年)2月に、ハワ−ド・マ−フェット(時に59歳)は初めて、プッタパルティにあるサチャ・サイババのアシュラムを訪れた。サイババは39歳だった。マ−フェットは年に一度のマハ−シヴァラトリ(シヴァの夜祭り)に参加することになった。その日はたまたま2月18日であり、私が去年(1933年)の2月にプッタパルティを訪問したときに、かねて願っていたとおり、サイババ(私とともに65歳)の「大凝視」を受けたのも2月18日だった。マ−フェットは『奇蹟の人−−サイババ』にその時のことを詳しく書いているが、そのシヴァ大祭での二つの奇蹟は、サイババが体内で物質化したリンガム(ニワトリの卵大、またはそれより大きいもので、金銀または宝石を材質とする)を口から出すことと、多量の聖灰(ビブチ)を空の壺から物質化してシルディ・サイババの像に振りかけることであった。私が訪れた去年はもうこの二つの行事はおこなわれなくなっていた。(詳細については、訳者の渡部英機氏から上掲書を取り寄せていただきたい。同氏のアドレスは、799−23愛媛県越智郡菊間町種3145・電話0898−54−3610である。)
 そのときの滞在で、マ−フェットはプレマの洗礼をサイババから受けたと、去年の新著で語っている。その梗概を紹介しよう。
 彼は他の帰依者とともに、サイババのインタ−ビュ−を受け、彼が前から強く引かれていたシルディ・サイババの黄金の姿が浮き出している指輪を物質化してもらった。そのあと、個人面接のために奥の間に導かれた。彼の原文を引用しよう。
 「私は最後に呼ばれたとき、何が起こるかわからず、独りで何となく恥ずかしい気持ちでその小部屋に入って行った。サイババは初めに甘い蜜がしたたるような優しい声で、私の過去と現在の問題、また将来に起こることを幾つか話してくれた。そのとき、予想もしない或る素晴らしいことが起こった。千人の母親を一緒にしたような行き届いた気づかいをこめて、彼の甘美な言葉が続いているうちに、頭の上から足指まで洪水のようなものが流れくだるのを感じた。それは神聖なシャワ−を受けているような感覚だったが、聖灰(ビブチ)というより、聖なる油をそそがれているという実感だった。その暖かい油は私の身体の内部を流れ、肉体のあらゆる細胞に滲み込み、私の凝り固まった態度と習慣の堅い殻を溶かすようだった。それは喜ばしい清めの奔流だった。スワミはそれが何であるかを私に話してくれなかったが、私は説明なしでも、それがプレマすなわち聖なる愛の洗礼であることを知った。それは疑いなく、聖霊のバプテスマと同じものだった。」
 マ−フェットは自分の霊的な心臓中枢が開かれたことを知った。そして、そこで胎児と
無より