無より
こして眠っていた神聖な子供(真我)が生まれたと感じた。それは59歳の彼にとっての「第二の誕生」だった。「私の人生はこれから全く違ったものになるだろう」と確信したと、マ−フェットは書いている。
 皆がインタ−ビュ−室から出たとき、彼は突然ひざまづいてスワミの足に触りたいという衝動に駆られた。彼としては、そのような尊敬の表現はインド人向きのものであって、自分のような頑固な独立心を重んじる西洋人がするべきでないと思っていたのに、奥の衝動のほうが強かったのだ。スワミ(サイババの親称)の許しを受けてから、彼は膝まづいて、両手と額でスワミの形のよい小さい両足に触れた。それからのことを、マ−フェットは次のように書いている。
 「私が立ち上がったとき、彼は妙なことをした。手の指を優しく私の身体の上に置き、最初は前のほうを、つぎに背中を、上から下に何かをこそぎ落とすように撫でおろした。それはあたかも、プレマの奔流で粉々になった霊的な破片を掻き落としているかのようだった。その後の数ヵ月間、私がインタ−ビュ−を受けるたびごとに、彼は同じ動作を続けたが、言葉では何も説明してくれなかった。」
 彼が聖なる愛の最初の洗礼を受けていたころ、彼の妻・アイリスは遠い東海岸のマドラスに近い所にあった神智学のセンタ−で留守番をしていたが、同じ時刻にやはり心臓のあたりに不思議な感覚を体験したということだった。彼女はサイババの写真を捜さなければという思いに駆られて、あちこちの雑誌を漁った末、数枚のババの写真を見つけ、それを額縁に入れて、夫のデスクの上に飾ってあったので、ドアを開けて入ったマ−フェットは本当に驚き喜んだと記している。

8.ダルシャンの受け方
                                       在天神940225/2306
 数年後に、マ−フェットは夫妻でプラシャンティ・ニラヤム(平安の家という意味で、プッタパルティのアシュラムの名)を訪れたとき、彼らは奇妙な出来事を体験した。マ−フェットはその晴れ渡った朝に、マンディ−ル(神殿)の前にぎっしり裸足で座っていた多数の帰依者のなかにいたが、彼の位置は幸運にもスワミが出御するドアの間近だった。神殿から見て、左側に女子の座る場所があり、右側に男子の場所があった。(これは今も変わらぬ。)例の静かな空中を滑るような足取りで、スワミは群衆の端にできた通路を歩むのであるが、その日はまず楽しげな微笑を含んだまなざしをマ−フェットに投げてから、婦人席のほうに足を向け、一人一人にゆっくりダルシャンを与え、そのあとで男子のほうに来た。スワミはまっすぐにマ−フェットの所に来て、彼の目を見た。マ−フェットのほうは、当然優しい微笑と二、三の言葉を掛けられるものと期待していたのに、サイババの目付きは極めて厳しく、次の言葉にマ−フェットは愕然とした。
 「なぜ、あなたの奥さんは今日はダルシャンに出ていないのだ?」
 その口調は叱責だった。マ−フェットはすこし頭を回して、女子席の前から一列目か二列目にいる自分の妻のほうを見た。彼女は誰の目にも止まる場所に座っていた。スワミにしても当然見える位置である。それで、この言葉には何か特別の意味があるのだなと悟って、「妻はあそこに座っていますよ、スワミ」という言葉を飲みこんでしまった。仕方なく、マ−フェットは黙ったままでいた。「かならず、ダルシャンに彼女が来るようにするのですよ」と言い捨てて、スワミはドアから奥に入った。
 マ−フェットは途方に暮れて回りの顔を見たが、みなにこにこしていた。そばにいた米人ジャック・ヒスロップ(彼とサイババの対話集は、青山圭秀氏によって邦訳されている)は、笑っていた。彼に聞けば分かると思って、「スワミはどういうつもりなのだろうかね?」と尋ねた。ヒスロップの答えは、「スワミのお気持ちなんか、誰にも分かりはしませんよ」だった。そして、独りでクツクツ笑っている始末である。ほかの誰も、説明をしてくれなかったので、結局だれもスワミの真意を理解していないのだと彼は思った。
 あとで、夫婦の個室に戻って、そのことをアイリスに話すと、アイリスが秘密を明かしてくれた。「ああ、それで男の人たちはみな私のほうを見ておられたのですね。でも、私にはスワミが何をおっしゃろうとしていたのかが、よく分かりますわ。私はあそこに座っていましたが、実は本当にはダルシャンを受けていなかったのです。実を言いますと、あのとき私は一心に、ジョン・ギルバ−トを助けてくださいと、そればかりをスワミに祈り続けていたのでした。」
 その日の朝、ジョンが彼女を訪ねたときに、病気でひどく苦しそうにしていたのだった。 「私はそういうことは全部主にお任せして、自分のハ−トとマインドを開いて、ダルシャンを受けるべきだったのです。」
 この教訓で、マ−フェットは気がついた。ダルシャンでは、何か強く念じたり祈ったりして、スワミの心に押し入るようなことをしてはならない、ということが分かったのだ。ただ静かに座って、精神集中すらしないで、「ちょうどスブドのラティハンの場合と同じように、ただ"受ける"だけでいいのだ」ということをマ−フェットは悟ったと書かれている。
 たしかに、スブドのラティハン(修練)では、頭脳活動と感情の動きをいっさい停止して、「からっぽ」の無心で神の波動を受けるように教えられている。私も昭和20年代からラティハンをやって来たので、TMのようなマントラ・ヨ−ガも苦手だし、神の名の反復念誦すらも旨くゆかないことがある。唱名もマントラ吟唱も、奥の魂から湧くまで待つようになっている。AUMもすぐには出ないで、「マハ−」という言葉から次第に「アウム」に移行することが多い。しかし、これはスブドの体験があるための一つの習慣みたいなもので、一般の人は普通の意志を使って、マントラや神の名を唱えても一向に差し支えはないと思う。結局は、神の波動と一つになるのだから。
 マ−フェットは、写真のフィルムのように、サイババからの光の放射をただ受けるだけでよいと言っている。英国から来た或る婦人は、乳癌に悩んでダルシャンの場に来たが、サイババから何の言葉も掛けられなかったのに、彼の目から出る強い一道の光を受けただけで癒されたということを、マ−フェットは記録している。
 身体だけダルシャンの場に座っているだけでは不十分なのだ。これについて、サイババ自身の言葉は次のようなものである。
「私のダルシャンのあとでは、どこか静かな所にゆきなさい。そこで静寂の世界に入り、私の祝福を完全に吸収しなさい。私があなたのそばを通りすぎるとき、私のエネルギ−はあなたの内部に入ります。ダルシャンのあとで、すぐ誰かと雑談を始めたりすると、この貴重なエネルギ−はあなたから放散して、私の所に戻ってしまうので、無駄になります。私の目がそそがれたものは活性化し変成することを、よく納得しなさい。そうやって、毎日あなたは変化してゆきます。」
あの群衆のなかにも入れないで、うしろの壁の上に首を伸ばしてサイババを注視している人たちもたくさんいた。何千人、何万人いようとも、サイババはすべての人を知覚し、魂の奥に光を照射すると言われている。しかし、これは体験しないで信じるのは無理だろう。