無より
9.基準と背反
                                       在天神940226/0003
 時計は真夜中を回った。朝の8時からぶっ続けに働いていたので、夜の9時には疲れ切っていたが、40分ほど祈りと瞑想とラティハン(私の場合にはこの三つは渾然と一つに溶けている)をやっていたら、また元気になった。したがって、私にはどうも早寝早起きという基準は合わない。食事も不規則である。本当に自分が空腹であることを確かめてから食事をする長い習慣になっている。瞑想や祈りも、基準は安座して、背骨を真っ直ぐにするように教えられているが、私は胡座にくたびれると、仰臥して行なう。それで眠くなることはないから、私の場合はそれでいいのであるが、一般の人はそのまま眠ってしまうことが多いので、サイババは横にならないように勧めている。朝も3〜4時に起きるのがいいと、サイババは教えているが、私の場合は気がつくと3〜4時になっていることがよくあり、そのまま日の出を迎えてから眠ることもある。
 教条主義は私には苦手である。だから、サイババから言われたとおりに、私を型に嵌め込もうとするインド人「教師」がいると、むきになって反発したものである。日本人には正座のほうが楽で背中もシャンとするのに、何年か前の全国大会で正座をしていたら、あるインド人から胡座(あぐら)をかくように注意されたので、「もう大会などには出席するまい」と決意したこともあった。私は左ききなので、インドに行ったときに、食堂でつい左手で物を食べようとし、あわてて左手を引っ込めたりしたが、あとでインド人の婦人に尋ねたら、「インド人でも左利きの人はいます。左を使ってもいいのですよ」というアッサリした答えを得た。左利きの人は、きっと右手で肛門の始末をするのだろう。私は形式に引っかかりやすい癖がある。こういう問題を仮に私がサイババに直接質問したら、きっと笑って「あなたの身体に楽なようにやればいいのだよ」と言うだけだろう。私は形式面でのインド的強制を嫌いすぎていた。今はその辺もずいぶん柔らかくなった。
 「怒るな」という教えでも、サイババは別のところで、「怒りを押し殺しても、あとで爆発するのでは何にもならないよ」と言っている。教条主義はそういう誤りに陥りやすい。キリスト教の戒律的「べからず」も沢山あるが、私が親しくしていた釘宮牧師は、「神さまの心と一つになると、自然にそうなるのですよと受け取ったらいいのです」と私に教えてくれた。「憎むなかれ」を形式で守っても、腹のなかは煮えくり返るようだったら、どうしたらいいのか。暴言を吐いたり、相手を殴ったりするのは下の下である。やはり、昔の日本人がよくやったように、数を十までゆっくり数えて、怒りの去るのを待ったり、場から離れて静かに祈って怒りが消えるのを待つのが賢いだろう。迂闊に衝動的に行動や言葉で表現しないほうがいい。「物を言わないと、腹がふくれる」と古人は言ったが、誰かがやっていたように、一週間に一回岡の上に登って、「バカヤロウ!」と叫んでストレスを取るというのも、社会で喧嘩をするよりはよほどいい。しかし、怒りが湧かないように、内密で心を調教すれば、岡の上のバカヤロウも不要になるだろう。いろいろの段階がある。
 
10.蟻とキリギリス
                                       在天神940226/0103
 マ−フェットのように、サイババから直接「プレマの洗礼」を受けられる人は、特別に恵まれている。前世および今世の良い心がけが実ったというべきであろう。過去の悪業を自覚していても、人間には完全な自由意志などありはしないのに、責任を人間に押しつける神は不届き至極だと、この本の初めのほうに私は悪態をつき通したが、理屈はどうあれ、反逆すれば神(=親)は悲しむはずである。饅頭を食べすぎて下痢した子供を父母はやはり叱るだろう。「食欲があったんだもん、仕様がないじゃねえか!」と逆らっても、親は悲しい顔をするだけだろう。食欲のコントロ−ルができなかった子供でも、親の注意をありがたく思う心が少しでも兆せば、「はい、もう食べすぎはしません」と言えるはずだ。そして、その素直さに何か見えない力が感応して、自然に食欲をコントロ−ルする力がその子のなかに育つのではあるまいか。ひねくれないほうがいい。
 人間を解放する方向の自由意志は、神から頂くものだと、今の私は素直に思っている。「悪いことをする力を与えたのも神だろう。原爆投下を黙認したのも神ではないか!」と言い募ったって仕方がない。神の宇宙計画などが人間に分かるはずはない。屁理屈はやめよう。せっかくの頭脳力を下らない方向に使うのはやめよう。「罰する神はいない」と言われたら、そのまま受けたほうがいい。「慈愛無限の神」を信じたほうがいい。「依怙贔屓の神」を信じたら、やはりそのような人生が君の回りに展開するだろう。人間にどう思ってもいい自由があるとしたら、やはりキリストやサイババが教えるように思ったほうがいい。
 ニニンガシ(2x2=4)が分からないとゴネて、算術を拒否した変わった級友が、私の小学校にいた。彼は絵に特別の才能を持っていて、のちに優れた画家になった。きっと数学方面に自分の頭脳を使うと、直感的な美意識が育たないことを教えられないでも知っていたのだろう。大分県が誇る朝倉文夫(1883〜1964)という彫刻家がいる。昭和23年に文化勲章を授与されたほどの人物だが、旧制の竹田中学では英語と数学が駄目で中退したと伝えられる。全く学校の成績などはどうでもいいのだ。
 人間には、生まれつきのスペシャリスト(一芸に秀でる専門家)とジェネラリスト(総合的に知能を開発する人)がいるようである。専門馬鹿という言葉もある。ギリシャの或る哲学者は何かを深く考えてドブに落ちた。人々は腹を抱えて笑った。その逆に、万事に抜け目のない人がいる。私はどうもそちらのほうで、長所はそのまま短所になっている。それでも記憶力が非常に乏しいというところもあって、やはり抜けている。とにかく、人間には個性があって、個性には或る程度のイビツさが伴う。これも天与のもので、自分ではどうしようもない。これも仕方がない。こういう「道具」ですが、神さま、よろしかったらこのイビツ人間をうまくお使いくださいと、自分を捧げ出すしかない。そして、神という「無上無限の全体」に溶けてしまうのだ。
 個性尊重と気張る必要はない。気張らぬでも、個性は体臭に似ていて、その人間には付きまとうものである。むしろ、エゴを抜いたほうが真の個性が花咲くだろう。大根の花も、タンポポの花もみな無心に咲いている。万物の霊長と威張らないで、野の花からいろいろ学ぼう。「人間は猿ではない」というマントラをサイババから貰って修行していた或る帰依者がいた。それを聞いて、「動物を軽蔑するのは間違っている」と非難した人がいた。私はサイババの言葉(それは無限分の一である)に一々引っかかるのを、本当にやめてしまった。猿のマントラがぴたり合う人はたしかにいるのだが、全人類が猿のマントラを唱えていれば「成神」するということではない。仮に「私はミミズより劣る人間です」というマントラがあったとする。猫を蹴飛ばし、犬に石を投げるような残酷人間には、きっとミミズ・マントラは非常に効くのではあるまいか。
 たとえば、私は猫を尊敬している。あの注意深さと慎重さに敬服するからである。私は蜜蜂の勤勉に脱帽する。誰からも報酬を貰うわけでもないのに、ハチたちは飽きもせず懸命に働いている。私みたいに、若いときに怠けて、人生の冬が来て食物がないと嘆くよう