無より
つき合うことができたのは幸せだった。菜食主義の彼と入る食堂は限られていたが、彼はソバとか納豆の海苔巻きなどを食べていた。私もだいたいそんなものを食べ、ビ−ルを飲んでいた。彼は酒をやめていたが、サイババが喜ばないタバコはやっていた。
 池袋の或るホテルの玄関に100円玉が落ちていた。それを拾って、元三君に、「これ、フロントに届けて」と頼んだ。昔、彼と行乞生活をしていたときは、そんなことはまあしなかっただろう。天が与えたボ−ナスだと思ったことだろう。それでも、宮崎あたりで、彼が一人でZA(財上げ)托鉢をしていて、ある行き倒れの酔っぱらいの世話をすると見せかけて財布を盗んだときには、私はひどく怒って、彼を連れて警察に行ったものである。100円の猫ババは許して、一万円の盗みには怒ったのはなぜだろう。微罪は無視するという常識が私にこびりついていたからだと思う。
 公衆電話に、拾い残しのコインを見つけることがある。諸君はどうするか。たいてい儲かったと思って、それを使うだろう。しかし、その癖が高じれば、行き倒れの酔っぱらいのポケットから覗いている財布を盗むことになる。闇米を買わないで餓死したあの検事は、やはり聖者ではなかったのか!
 駅の公衆電話の残しコインをそのままにしておけば、だれかの盗心をそそる。一番いいのは、それを駅員に届けることだ。駅員がそれを自分の小遣いにしてしまったとしても、それは知ったことではない。駅員に罪を犯させるよりはまだましだと思って、やはり自分が使ってしまうか?
 そういう小さい道徳問題であれこれ神経を使うひまがあったら、何かドデカイ善行をやったほうがいいぞ、という人もいるかもしれない。しかし、それはどうだろう。或るとき、私は或る裕福な社長と一流ホテルで食事をしていたことがあった。テ−ブルから立つときに、私が鼻紙がわりにとテ−ブルの上にあった口を拭く紙を一掴み持ってゆこうとしたら、その社長さんが私の手をとどめた。「それはしないほうがいいよ。」
 外聞を憚るというのでも、他人の目を意識するというのでもなかったのだろう。それは彼の生き方だった。そして、私は彼の生き方を正しいと思った。
 小さいことはいくらでもある。昔の友人で、銭湯にゆくと、絶対カミソリを買わないという人がいた。そこらに使い残しの軽便剃刀があるから、それで充分だと言うのだ。それは倹約であり、物を生かす精神であり、咎めることはない。私は感心した。ところが、乞食旅に入っていたころ、ちり紙に不自由して、どこかで買おうとしていたら、ある女がデパ−トのトイレからロ−ル紙を一巻持ってきて、「これを使ったら」と出した。私は少しは怒ったと思うが、その女とつき合ううちに、だんだんそれを当たり前と思うようになった。いまでもそれをやることがある。しかし、泥棒には間違いはない。デパ−トは金持だから、ロ−ル紙の一本くらいいいじゃないかという理屈を延長すると、政府はどうせ無駄な金使いをしているのだから、堂々と脱税をしてやろうではないかという考え方にすぐ移行する。世間ダルマはいい加減でいいという思想である。
 イエスはロ−マの税金不払い運動などはしなかった。貨幣にはロ−マ皇帝の肖像が彫ってある。「カエサルのものはカエサルに返せ」と、彼は言っただけである。だから、結局民衆は、革命家のバラバを赦免して、キリストを殺せと怒号した。キリストは民衆の欲望に答えなかったからである。
 「金持、喧嘩せず」という諺がある。貧乏人は「おれのペンを盗んだな」と相手の胸倉をつかむ。しかし、金持は汚職をし、脱税をする。刑務所に入れられると憤激する。

15.ネヴィルの体験
                                       在天神940227/0554
 微細な悪事は良心を鈍らせる。それは事実だが、それを直視する人は少ない。天理教徒は詰所(信者宿泊所)では、便所のスリッパの整理をきちんとするが、天理市を離れて、よその町の食堂に入れば、そこの乱雑な履物を整理する人は少ない。それができたら、その人は立派な信者だろう。「ひのきしん」と言って、お地場(天理市のこと)では労力奉仕に精を出すが、天理教徒であることを証明するハッピを着ていないとき、人知れず、新幹線の便所の清掃をするだろうか。
 ある友は、デパ−トの絵画展で料金別納ずみの葉書を拾って私用に供した。そういう小さい盗みは誰でもやっているから、別に良心が咎めることはないというのだろう。しかし、どうもこの辺に重大な問題が潜んでいるようだ。私はもっと悪いことを幾らでもやった身ではあるが、このごろはやはりそういう実例を見ると、友に注意する。注意しながら、「人のふり見て、わがふり直せ」を実行している。すこしはまともになってきたのかもしれない。
 「すたれた道徳の興隆のために、神はときどきアヴァタ−ルとして人の形を取る」というサイババの宣言を、私は100%受け入れることはできなかったが、それはやはり微細な悪事を自分の心から剔除するのを嫌ったからである。私は神に恩恵をせびる。病気を治してください、お金をください。そればかりである。人に親切にします、ぐらいは言えるが、「喜んで世間の犠牲になります」には、もう相当の抵抗がある。犠牲という言葉そのものが嫌いだ、とごねる。「友のために死ぬほど美しいことはない」というキリストの言葉に触れても、どこかでそんなことができるものか、とうそぶいている。自分のために友が死ぬのは一向に構わないが、自分が死ぬのは嫌だという根性が深く染みついている。血を分けた子供たちの犠牲になるのも嫌だという気持ちさえある。
 マ−フェットの『旅路の果て』に出てくるオ−ストラリア人ネヴィルの話を思い出す。彼は妻子と友人に引っ張られて、いやいやプッタパルティに来たが、一刻も早く帰国しようと焦っていた。彼が初めてダルシャンを受けたとき、彼は群衆のなかに座っていたが、サイババの目を見てしまった。彼の告白は次のようなものだ。
 「二本の強烈な光線が、スワミの目から私の目に飛び込んできて、私の頭に突入し、高圧電流を受けたように、私の頭のなかはブ−ンという音でいっぱいになりました。私の髪の毛は逆立ってしまいました。同時に、スワミの顔は非常に厳しく、私を敵視しているように見えました。」
 ネヴィルは目を閉じたが、まぶたの裏にはまだ光とエネルギ−の渦巻が感じられた。「それは前にどこかで見た太陽の表面の写真のようでした」と彼は言っている。彼は恐怖に駆られて、バンガロ−ルのホテルに帰ってからは、一刻も早く飛行機の手配をしてオ−ストラリアに帰ろうとしていた。しかし、サイババのインタ−ビュ−に呼ばれて、どうしてもまたブリンダヴァン(バンガロ−ル市の郊外のホワイトフィ−ルドにあるアシュラムの名)に戻らねばならなかった。その途中で彼が乗っていたタクシ−がバスとトラックのあいだに挟まってペチャンコになるという事故が起きた。怪我をしたが、その瞬間にサイババは遠隔から彼の命を救った。そのことがあってから、バンガロ−ルのホテルの部屋で、彼は夜中に2時間半に及ぶ「プレマの洗礼」を受けた。至福の波動が次々とやってきて、彼の体を貫くのである。それは40〜50回も彼の身体にやってきた。そして、次の朝になって、睡眠時間は少なかったにも拘らず、彼はサッパリとした気分で平安に満たされ、喜んでまたブリンダヴァンへ、家族とともにタクシ−を走らせていた。
 そして、彼にとって忘れられない「光の柱」の出来事が起こった。「無より」出発したこの本は、どうしても「光」を求めて、サイババの話に戻ってしまう。本質としては、これも「サイババ・シリ−ズ」のなかの一冊なのだろう。ただ、離れた立場からのサイババ