紹介書というのでなく、真裸かの私の体験書になっている。

  1. 乞食が光の柱になった
                                     在天神940227/0722
 ネヴィルの心は主・サイババのことで一杯で、ほかのことはすべて夢のなかのようだった。道路の上は混雑して、騒音は至るところに満ちていたが、そんなことは何の気にもならなかった。だだ、すべてのなかに静かな光が行き渡っていた。
 混雑で、一時タクシ−が動けなくなって、舗道の端に暫く止まっていた。歩道の向こうには数軒の商店があった。彼は歩道側の後部座席に座っていたので、ある店の前に一人の老人の乞食が立っている姿が見えた。20メ−トルくらい離れていただろうと、ネヴィルはあとで語っている。乞食は見るも哀れな様子だった。ぼろを着て、脚の一本は義足で杖をついていた。それはインドの路傍ではありふれた光景である。私もホワイトフィ−ルドにいたとき、アシュラムのすぐ前の道端で、両足のないイザリがそこらを這い回って、通行人から恵みを乞うているさまを見た。ほかにも不具者はたくさんいた。みな、サイラム、サイラム!と連呼している。あの哀れな人々に施しをしないのはよほど無情な人だろうが、「サイババから金をやるなという通達があるから」と言って、絶対に金を恵まない人たちもいた。「食物ならいい」ということだったので、日本から持って行ったお菓子を袋に入れて配っていたら、子供たちの大群が来て、2〜3分でなくなってしまった。小銭を一億円分用意して、サンタクロ−スのような袋に入れて歩いても、一日で奇麗になくなってしまうだろう。ところが、サイババに関する多くの書物のなかで、乞食についての悩みを書いてある本は一冊もない。私は不思議でたまらないが、おそらく皆、自分の悩みや問題で心が一杯で、縁もゆかりもない乞食のことなど念頭にも浮かばないのか、あれはインドのゴミだくらいに思っているのだろうか。4〜5回インドに行っている元三君も、やはり私のように悩むことは幾らでもあったと言っていた。或るときは、乞食の前で「この人に恵みましょうか、どうしましょうか。恵むとしたら、幾らがいいでしょうか」とサイババに祈ったら、突然コインが一枚物質化して、彼と乞食のあいだの路上に空中からポトリと落ちたという。乞食は喜んでそれを持って去ったという話を、彼から聞いたが、私にはそんなことは起こりそうにない。今年9月にもしインドにまた行けたら、やはり乞食に対する同情の問題で悩むことだろう。
 しかし、ネヴィルの乞食体験はそういうものではなかった。その老乞食を見たとき、ネヴィルの心は張り裂けたようになり、愛の洪水がその乞食のほうに流れ出した。同時に、彼の奥で、「神さまがあなたを祝福してくださるように!」という声がした。ネヴィルから発した強力な純愛の光線は驚くべき奇跡を生じた。老いた乞食は一瞬にして、20メ−トル先で、旋回する光の柱に変貌した。ふと気づくと、老人は両方の手のひらと自分の顔をタクシ−の窓ガラスに押し当てて、ネヴィルの顔をまじまじと見ていた。
 老乞食の顔はまばゆいほどの光に輝き、彼の二つのきらきらする目は、ネヴィルが送ったのと同じ純粋な愛を照り返しているように見えた。しばらくのあいだ、その老いた乞食と若いオ−ストラリアの実業家は一つの光に溶けた。やがてタクシ−は走り出したので、ネヴィルは後ろの窓から乞食のほうを振り返った。老人はピョンピョン飛ぶようにして、また壁際の元の場所に戻った。「その体験は、神は愛であり、神はすべての人のなかに存在するというスワミの教えの真実を、ネヴィルに確信させた」と、マ−フェットは書いている。常識人は言うだろう。「それはね、乞食がタクシ−を狙っていたから、ちょうど止まったタクシ−にせびりに来ただけだよ。」それはそうかもしれない。しかし、主観的な経験だったにしても、この事件が若いオ−ストラリア人に大きな覚醒を与えたのは事実である。
 私が去年の2月に、アショカンのタクシ−でプッタパルティを離れるとき、数人の少女が私の側のガラス窓を叩いて、ここをあけてと叫んでいた。開けたらどういうことになるかが分かっていたので、私は窓を閉めたままにして、窓ガラスにキスをしたら、少女たちは負けずにキスの真似をしていた。私の左に座っていた19歳の天理教青年は嫌な顔をしていた。汚らわしい大人の悪戯と思ったにちがいない。私は少女乞食を無視して、まっすぐ前方を見ているべきだったのか。
 親しくなったアショカン運転手は、ヒンドゥ−教寺院にお参りに行ったとき、同行の菅原三郎さんが路上で金の入ったパウチを開けるのをたしなめていた。そんなことをしたら、乞食がたかってきて、歩くこともできなくなるよと言ったのである。彼は私たちに教えた。「まっすぐ前を見て、知らん顔をして歩きなさい。物を渡されても受け取ってはだめですよ。」たしかに、インド人の紳士たちはそのようにして歩いていた。しかし、それはたいていの日本人にとって、非常に難しいことである。
 ある寺院で、利発そうな少年が近づいてきて、案内してやろうと申し出た。OKしたら、あちこちに案内し、実に該博な歴史的知識を披露して詳しく説明をしてくれた。小学校5年生くらいだったが、英語と社会科の点数は5ではないかと思われた。別れるときに、彼は手を出し、はっきり金額を言って私に案内料の請求をした。それは彼の生活手段だったのだ。「無償の行為」をインド人には期待するべきではない。乞食も職業である。文字通り、「食業」である。誰もそれを非難できない。
 私には「光の柱」の体験はない。神がア−トマ(神我)として、あの両手のない乞食に存在するならば、やはり金を恵みたくなる。神が不具の肉体のなかで苦しんでいるのを見れば、何とかしたくなる。子供に金を恵めば、家の親父がそれを取り上げて酒を飲むだけだと言った人もいる。祖先代々の乞食では、順ぐりに親は子供を搾取するようになっている。それがインド人の生き方、もしかしてダルマかも分からない。親孝行をするには、子供たちはせっせと乞食をせねばならない。「食物なら買ってやるよ、サイババがそれはいいと言ったから」と私が言ったとき、親孝行の或る少女は穀物屋に私を案内して、留守番をしている病気の母と、失業中の父と、やはり病弱の弟のために、限りなくあれやこれやを買ってくれとせがんだ。私はケチンボウにならざるを得なかった。自分で恵む金額の上限を決めて、それ以上は駄目だと突っ撥ねた。少女は悲しげに、それでも諦めていた。こちらの後味はたいへん悪かった。ホワイトフィ−ルドではアシュラムの外にある帰依者用のキャンティ−ン(カフェテリア式の食堂)では、外人が列を作っていた。彼らは高尚な話をしながら自分たちの食事の順番を待っていた。個人主義の白人たちは乞食で悩むことをしないのだろう。私は自分自身に乞食の経験があるので、ほっとくわけに行かない。青山圭秀さんはどうして乞食の話を書かないのだろう。

17.一番不幸な日本人 
                                      在天神940227/0823
 山里の朝は遅いが、東の窓には陽光があふれてきた。愉美子と日女が起きてきた。日女は4月から小学校。しかし、インドでは小学校にも行けない子供がいくらでもいる。彼らの仕事は乞食だ。ちょっとした恵みくらいでは、インドの貧困はかたづくものではない。マザ−・テレサのように、自分も乞食の仲間に入って救うしかない。あるいは、サイババのように自分も施しをしながら、全人類にプレマの心を注入するしかない。サイババがベンツに乗っていると云って非難する人もいる。それはきっと富裕な帰依者の寄進であろう。なぜトヨタにしないのかと、くだらぬことを言ったって始まらない。彼が一人で歩くときは、ポンコツ・タクシ−に乗ることもある。いずれにしろ、形でサイババをとやかく言う
無より