無より
こ やがて、車の音がした。イチロウが少し蒼い顔をして上がってきた。
 「ゴロちゃんは裏に繋いでおきました。あの人がもう悪さをしないように。で、どうします? キカイ先生に会わせろと言って聞かないのです。いま、車のなかに待たせていますが・・・。」
 「いいだろう。お通ししなさい。」
 カズコはすくんで、先生の背中に隠れるような格好になった。武道をやって体格がよくても、案外気が弱いのかもしれない。
 その男がイチロウに導かれて入ってきた。
 「あら、林参先生!」と、カズコが叫んだ。
 「あれ、君、どうしてここに?」
 「先生こそ、どうしてこんな所に来たのですか?」
 「いや、わたしはイカキ先生のご高名を慕って来たのだよ。」それから、イカキ先生に向かって、折り目正しく次のように挨拶した。「これは失礼しました。お宅の犬とは知らないで、とんだことを致しました。どうか、お許しください。この青年君から、あの犬がイカキ先生の飼い犬と知って、まったく驚きましたよ。わたしはご番地だけでは分からないもので、郵便局にお住まいの場所を尋ねに来たところだったのです。すると、あの犬が女子局員に熱心に尻尾を振っていたので、何となく噛んでしまったのです。」
 「ぼくは怒ったのですよ」とイチロウが引き取った。「犬が人を噛むなら当たりまえだが、それじゃ逆ではないかと。すると、新聞種になるのはこれしかないとか、ヘンなことを言うのです。いや、おっしゃったのです。で、・・・本当にこの人が君の恩師の林参先生なのかい?」とカズコのほうを向いた。
 「ええ、そうよ。もう長らくお目にかかっていないので、イチロウさん、今日でもあなたを連れてお伺いしようと思っていたのです。」
 イカキ先生は興味ぶかそうに、3人をかわるがわる見ていた。イカキ先生は50代半ば、林参先生は45〜6歳というところか。カズコは22歳、イチロウははたちの青年である。 「イカキ先生、ご専門なのでお聞きしますが、犬に噛みつきたくなる衝動の持ち主というのは、心理学的に言ってどんな性格でしょうか?」と林参先生が訊いた。
 「そうねえ、きっと犬が好きでたまらないのだろう。犬の注意を引きたかったのではないですかなあ。」
 「やはりそうですか。うちでも甲斐犬という日本オオカミの血が混じっているとか言われている犬を長年飼っておりましたが、去年死にましたので、近くに犬の体臭を嗅いで、たまらなくなったらしいのです。」
 「それで、先生はあの日にわたくしにも噛みついたのですか?」と、カズコはいささか厳粛に質問した。
 「うん、そうだよ。」
 イチロウは(ドラキュラ−みたいな人だな)と思ったが、口には出さなかった。カズコが一週間、「気武道」を習っているあいだ、道場で何が起こったかを前から知りたかったので、すぐ次のように質問してしまった。
 「林参先生、その一週間でいったいどんなふうにして指導をするのですか?」
 「君も習いたいかね?」
 (いや、薄気味わるくて・・・)と言いそうになったが、黙っていた。
 イカキ先生のほうから続いて質問が出た。
 「型から入らず、気から入るということをカズコさんから聞いていましたが、それはどういうことなのですか?」
 「はい、説明よりも、今ここで実演しましょう。」そのままイチロウのほうを向いて、「きみ、わたしの胸倉を掴んでくれたまえ。」
 イチロウはまだムシャクシャした気持ちが納まらなかったので、渡りに舟と、すぐ林参先生の和服の襟を掴んだ。どうされるか不安だったが、何とかなるさ、と肚をくくっていた。カズコは平気だったが、イカキ先生は少なからず興味を持って、膝を乗り出さんばかりだった。みんな畳の上に座っている。
 ここで章が変わるのは、新聞の連載小説のコツである。

24.フラッシュバック
                                       在天神940302/1746
 映画用語で、「物語の進行中に、過去の出来事を現出させること」をflashbackという。どこまでバックさせるかというと、カズコの入門第一日までだ。
 彼女は初日の日曜日、昼ごろ道場に到着した。人っ子ひとりいない。道場といっても、6畳間を二つブチ抜きにしただけの簡素なもので、その奥に先生の居室があるだけだった。最初、案内書をもらいに来たときは奥さんがいたようだったが、その日はだれもいない。しばらく玄関で待っていたら、先生が重い荷物を背中にかついで戻ってきた。
 「おう、カズコさんか。早いね。でもちょうどいい。きみ、ごはん食べた?」
 「はい、すませて来ました。」
 「ふうん、まあいいや。きみ、わたしの昼飯の支度を手伝ってくれないかな。」
 「はい。」
 そろそろ、修行が始まったなと思った。好奇心一杯である。裏に回ると、昔風のカマドがあって、そこで飯を炊くという。電気炊飯器しか使ったことがなかったので、手首で水の量を計るとか、初めチョロチョロ、中パッパとかを教わって、どうにかご飯を炊いた。胚芽米に精白していない大麦が2割入っているとのことだった。
 「本当はアワをさらに一割足すのだが、あいにく切らしてしまって・・・」と言いながら、先生は牛蒡を笹掻きにしていた。「ササガキ」という言葉もそのとき初めて知った。ゴボウを漢字で書けと言われて困ったのも、あのときだった。先生は、
 「カラフトのロシア人は山牛蒡を取ってきて食べるのだぜ。ロシア語ではラプ−フという」とか、訳の分からないことを言っていた。
 食事の支度ができると、林参先生は自分の4畳半の居室にあれこれを運ばせて、ひとりで食べ始めたが、お茶がわりに冷酒を一本傍らに置いてあった。
 「先生、お酌しましょうか?」
 「いや、それには及ばない。それは祇園かどこかでやることだよ。」
 今回の一週間泊まり込み修行には、あと二人来るという。二人とも男だが、遠方の町からJRで来るので、3時すぎになるだろうということだった。
 「そうそう、もし皆がここのメシを食うということになれば、カズコくん、料理をしてやってくれるかね?」
 「はい、いたします。」
 先生はご飯を食べ、お酒を飲みながら、ときどき食卓の上のメモ帳に何やら書いておられた。そのうち、そのメモをくるくると畳んで、その端っこをカズコに見せた。何やら、鉛筆で3本の線が出ている。
 「これ、何ですか?」
 「ラインの端に、どこでもいいから丸をつけてくれたまえ。」
 訳がわからなかったが、真ん中にマルをつけた。すると、先生は、「では、それを開いて読み上げたまえ」と言った。カズコは読み上げた。
 「(1)カズコは一人で寝る。(2)修行者の男たちと寝る。(3)先生と寝る・・・」・黙ってしまった。
 「それで、マルはどこに付いているの?」
 「(1)です。」
 「ほお、面白いね。」