無より
カズコは面白いどころか、呆気に取られてしまった。「先生、説明してください。」
 「うん、この家は三つしか部屋がないだろう。今は6畳のほうは襖をはずしてあるから、ふた部屋だ。きみが一人で寝るとなると、このわたしの部屋だろうな。わたしはほかの男たちと広間に寝るということだ。」
 カズコは何となくホッとした。やはり、そのことが気になっていたからである。
 それにしても、よく分からない。なぜ、こんなことをするのだろうか。
 それを察したかのように、林参先生はこう言った。「それはX定と言って、人の心のなかを映し出す方法だよ。きみの潜在意識が隠された文面を読み取って、マルをしたわけだ。それだけのこと。わたしが書いた線は"気線"というのだ。」
 「エックステイってよく分かりませんが、それと"気武道"とどういう関係があるのですか?」
 「"気武道"というのは"蒼古気道"の一部門、一つの応用面なのだよ。」
 「ソウコキドウって何ですか?」
 「大昔から伝わっている気の道ということだ。」
 それから、先生は突然、カズコの右手を取って、アッというまに小指に軽く噛みついた。 「イタッ!」と叫んで、カズコは先生を睨んだ。「なんで、そんなことをなさるんですか!」
 「ごめんごめん。きみにどんなに隙があるかを、見せてあげただけだよ。もし、事前にわたしの行動の気が分かったら、君は一瞬に飛び退いていただろうよ。」
 カズコはそれもそうだなと思った。そして、すこし赤面した。まず、この先生に気を許してはいけないなとも思った。
 そのあと、食後の洗い物を済ませたころ、二人の男が到着した。

  1. ふたたびイカキ邸               在天神940302/1853
 胸倉を掴まれたまま、林参先生は何もしなかった。カズコに、「きみ、悪いが、わたしの袂からピ−スを出して、火をつけてくれたまえ。」
 イカキ先生は煙草をやらなかったので、ライタ−も灰皿もない。台所から、マッチと小皿を持ってきた。
 「すみませんが、コップに水を一杯お願いします。」
 イチロウはその水をブッ掛けられるのではないかと妄想して、ヒヤッとした。
 カズコは慣れたもので、先生の和服のたもとから青いピ−スを出して、ホステスがやるように自分の唇にくわえて火をつけ、それを先生の口もとに運んだ。林参先生は手を出そうともしない。カズコはコップの水を小皿に少し移した。
 「これは消火用なのです」と、イカキ先生に説明をした。
 「よく、吸い殻に火がついたまま中座するケチん坊がいるでしょう。あれはいがらっぽい煙を出して、よくありません。わたしはすぐ水のなかに放り込みますよ。すると、その人が帰ってきて、すこし不服な顔をすることがあります。わたしは言ってやります。"あんたは毒ガスでわたしを殺すつもりかい?"すると、相手は恐れ入ります。人間って、そのくらい人のことは考えないものですよ。」
 それを聞いて、イカキ先生はカッカカラカラと大笑いした。どうも、この二人は気が合いそうだ。それにしても、「気武道」はどこに行ってしまったのか。林参先生はイチロウに言った。
 「きみ、腕がくだびれないかい?」
 「くたびれました。」
 「じゃあ、下ろしたまえ。」
 そのあと、自分の指でピ−スを持ち、林参先生は旨そうに紫煙を吹き上げた。
 「それで終わりですか?」と、イカキ先生は怪訝な声を出した。
 「はい、終わりです。イチロウ君と言いましたかね、彼が何もしないからです。」それからイチロウに向かって、「きみ、気が納まったかね?」
 「ええ」と、20歳の青年はモジモジしながら答えた。襟をつかみながら、あれこれ考えていたので、くたびれてしまっていた。もう一回やれと言われたら、断わろうと思っていた。
 「相手が本気で攻撃してこないかぎり、私は何もしませんよ。だから、手とか技術など何もないのですよ。」
 「ほう!」と、イカキ先生は無邪気に感心した。
 「イカキ先生」と切り出した林参先生はこう尋ねた。「わたしのところは、弟子などめったに来ないもので、たいへん貧乏しています。女房は呆れて出ていってしまいましたよ。イカキ先生も離婚なさったと聞いていますが、ご不自由はございませんか?」
 「いいえ、別に。気楽なものですよ。別れた妻のヒステリ−には全く往生しましたからね。」
 「いずこも同じ秋の台風ですか」と言って、林参先生はカラカラと笑った。「先生はご年輩のようですから、平気でしょうが、わたしはまだ若いもので、夜が寂しいので困っております。」
 カズコは自分の頬に、先生の流し目を焼けるように感じた。(さっき、タバコを口移しにしたのは失敗だったかも)と考えていた。そこへズバリとあの言葉が来た。
 「わたしはそのカズコ君と結婚したいと、ずっと考えていたのですよ。」
 頬の焼けた跡のまわりに、急に紅潮が始まった。
 「彼女は貞節だし、貧乏にも強そうだし、カズコみたいな美人が来てくれれば、道場も繁盛し、リッチになります。」
 とうとう、呼びつけにされてしまった。心理学者の先生もカズコの顔に視線を送った。 「いいではありませんか。もちろん、カズコさんの気持ち一つですが・・・。」
 「しばらく考えさせてください」と、カズコはお決まり文句を言っている自分がやりきれなくなっていた。話題を変えたいと焦った。その心を見抜いたように、林参先生は言い足した。
 「はい、これは個人的問題ですから、あとでカズコ君とゆっくり話すことにします。ときに先生、あなたはお弟子さんを沢山持たれているとお聞きしていますが、わたしと違って、ご生活は豊かなのでしょうね。失礼な質問ですが。」
 「ええ、千人ほどの生徒が全国におりまして、一人から千円の月謝を貰っています。」 「ほう! それじゃ、10人で一万円、100人で10万円、1000人で100万円ですな。豪儀(ゴウギ)なものですなあ!」
 「しかし、別れた妻子に半分は送金しています。」
 「なるほど、わたしのほうの離婚は慰謝料も何もありません。女房も、自分が勝手に出てゆくだけだからと言って、いっさい請求はしません。家庭裁判所にも出しません。もっとも、彼女の実家は裕福な医院ですから、わたしからのスズメの涙みたいなカネは要らないでしょう。」
 カズコは横合いから、ちょっと意地悪な質問をした。
 「先生ほど気を大切になさるかたが、どうしてそんなに短い結婚をなさったのですか?お子さんもいらっしゃらないとお聞きしましたし。」
 「どうしたのかなあ。神さまの気まぐれでしょう。しかし、あの女房のお陰で、小さいながら道場も新築してもらったし、彼女を通じて、神さまがわたしを助けてくださったと思っていますよ。」
 イチロウは黙然として、悩み切っていた。寝耳に水で、大好きなカズコに中年男の、それもバツがついた見も知らぬ男が求婚したので、度肝を抜かれてしまったのである。頼みはカズコの本心だった。今まで、毎週一回はデ−トをしていた。もちろん、手も握ったことのないウブな関係だったが、彼女のほうからも好意を抱いていたと思いたい。
 「イチロウ君、きみの恋愛観を伺いたいものだね」と、だしぬけに林参先生の質問が飛んできた。悪戯っぽいその目が輝いている。

  1. ふたたび道場
                                        在天神940302/1941
 二人の男は連れ立ってやってきた。別に友達同士というのではなかったが、同じ線の列車に乗り合わせていたし、駅前交番で「気武道」の道場の所在地を尋ねに行ったところ、