無より
んと、生まれてから20年も付き合っているけれど、本当にお母さんの心が分かると思っているの?"僕はドギマギしました。だいたい、母の心など分かろうとも、探ろうとも思っていなかったことに気がついたからです。母は空気みたいに当たり前の存在で、ただそこにいるものと思っていました。とにかく、それから心理学の勉強を本気で始めました。いろいろ本を読んだし、あちこちの先生の講義も聞きました。」
 「しかし、駄目だったでしょうな」
 と、林参先生は独り言のように呟いた。
 「そうなんですよ。それで、僕は絶望して奈良のほうに行き、学校を一年休学して、禅寺で修行しました。」
 伊垣先生の話は長かったが、ほかの3人は一心に聞いた。それぞれの立場で、なかなか面白かったからだ。先生が師事した和尚さんは如風上人というかたで、飄々とした人物だったそうだ。ありきたりの公案や喝や棒をお使いにならなかった。野草料理がお好きな人で、イカキ青年を連れてあちこちの山歩きをなさり、あれこれの野草の名前や漢方における効能などを教えてくださった。ところが、人間の心理などの話は一つもしてくださらない。 「人の心はのう、草木の心が分かれば、すぐ分かるものじゃ。所詮、山川草木禽獣はみな一つのもの。人間とてみな同じじゃぞ。」
 それだけだった。しかし、三ヵ月もすると、イカキ青年にも、何となく野草のことが分かってきて、その姿形を見るだけで味や薬効などが飲みこめてきたという。それは、解ろうとしないでも、向こうから情報が飛び込んでくるような理解の仕方だった。彼はだんだん野山の草木が好きになって、面倒臭い俗世間のことなどどうでもよくなり、大学などやめてしまって、そのまま坊さんになろうかとさえ思うようになった。ちょうど一年経ったころ、如風上人は庫裏にイカキ青年を呼んで、エビスグサの薬用茶を振る舞いながら、こう言った。
 「伊垣君、そろそろ大学に戻る頃合じゃ。このエビスグサの種子を沢山みやげに持たすからのう。これで大学の女子学生たちの便秘を救ってやるがいい。喜ばれるし、君は感謝されて、ついでにモテるじゃろうよ、ホッホッホ。」
 復学して、大学の食堂の小母さんあたりを手始めに、顔色が悪かったり、肌に吹き出物が出ていたりする女子学生に見当をつけて、無言でその薬用茶の小袋を渡してやった。袋には「奈良山奥の便秘薬。煎じて飲んでください」とだけ書いてあった。「何これ?」と言いながら、たいていはスンナリ受け取ってくれた。だんだん評判が広がって、見知らぬ女性からも声を掛けられて、「あのお、エビスのお薬を分けてくださいませんか」と恥ずかしそうに言うので、彼がポケットから袋を渡してやると、千円札を握らせてから逃げるように去ってゆくのだった。学友からは「便秘の神さま」というニックネ−ムを奉られるほどになった。貰ったお金を如風上人に送って補給をお願いすると、上人はいつも沢山送ってくれた。
 そのうち、イカキ青年は若い女性や小母さんたちから、いろいろ人生相談を持ちかけられるようになった。何も分からないから、ひたすら聞き役に回っていると、みな喜んで、自分で解決がつくのか、お礼を言っては立ち去るというふうであった。彼の卒業論文は、「心理学の実用性について」という簡単な内容で、彼の体験を主体としたものだったが、主任教授はたいへん感心して、「伊垣君、君はいつのまにかカウンセリングのプロになっているね」と褒めてくれた。卒業してから、一時病院に勤務していたこともあったが、30代半ばにはもういろいろの著書を出すようになって、勤めをやめ、今のような自由業になったという半生述懐談だった。イカキ先生の話が終わったところで、今度は林参先生が語り出した。
 「虚虚実実と言いますが、今のお話がそれですなあ。草木には実を持って行っても駄目です。虚心に受けるだけですな。その修行が役に立って、皆の聞き役になったときは、解決を出してやろうとか、話を完全に理解しようとする"実"の意志を出さず、ただポカッと話を聞いて上げたというだけだったのだと思いますよ。"虚"というのは真空の鏡みたいなものですから、悩みのある人たちは、イカキ先生の透明鏡に自分の姿を映して、そこに解決をひとりで発見して、満足したのだと考えます。先生、違いますか?」
 「そうですね。そういう説明を僕はしたことがないが、確かにおっしゃる通りです。そういうことなんでしょう。」
 イチロウは小さく呟いた。「すると、誰かが好きだ好きだと気張っていたって、やっぱり駄目か!」
 「まあ、そう気を落とさないほうがいいですよ」と、イカキ先生が慰めた。「さあ、お二人に今日のアルバイト料として、5000円づつ差し上げましょう。もう夕方になりますから、二人でレストランにでも行ってらっしゃい。」
 すると、林参先生も腰を浮かせた。
 「わたしも失礼します。また、こちらに伺わせて頂いてよろしいでしょうか?」
 「はい、はい、どうぞ」とにこやかなイカキ先生だった。

28.修行二日目/月曜日
                                       在天神940302/2354
 小説の登場人物はみな、作者の分身である。武者小路実篤の小説を見ると、善人ばかりが出て来て性悪な人間は登場しない。『お目出たき人』という題の作品もあるくらいだ。私は元三と16年間、全国を托鉢行脚したが、大衆食堂に入ると、ムシャノコウジ先生の野菜の絵などがよく壁に掛かっているのを見た。理屈は苦手で、小説など読み慣れない民衆も、晩年のたくさんの野菜の絵を通じて、サネアツ先生を愛していることが解った。同じ白樺派でも、大衆は志賀直哉の作品などほとんど読んではおるまい。自殺した川端康成は有名だが、それも映画の『伊豆の踊子』くらいしか知らないだろう。民衆が愛する対象とまではいかない。
 私は武者小路さんが好きだったし、吉川英治もいいなあと思っていた。すべて、大衆に愛される人物にはどこか良いところがあると信じていた。評判を悪くして死んだが、田中角栄だって大衆に立派に愛されていた。『鳥』を作ったアメリカの監督・ヒッチコックは愛されるまでには至らなかったが、チャップリンは全世界から無条件で愛された。私もああいう人物になりたいと念願していたのに、大衆には全く手が届かない神秘思想や宗教・哲学の世界に深入りしてしまった。私のなかの大衆性を出すには、この本で、今までどうにか続けてきた「小説」の形式を採用したほうがよいのではないかと、思い直している。これを映画にしたら、もっと面白いだろうが、サチャ・サイババは映画がお嫌いなので、参ってしまう。メ−ヘル・ババは弟子たちを連れてよく映画館に行ったし、スペインでは闘牛までも見物した。いわば軟派のアヴァタ−ルである。サイババは硬派の「神の化身」。 もちろん、いろいろのタイプの「神人」(GOD−MAN)や「人神」(MAN−GOD)があってもいい。スケベな「神人」や「人神」はありえないだろうか。まあいい。いなくても構いはしない。私が言いたいのは、前に出れば緊張するだけという神さまばかりでは、人間は息がつけなくなるのではないかということである。
 全宇宙は神に充満しているという。神の身体が全被造物=creatureだという。もし、それが緊張だらけだったら、われわれは一瞬たりとも生きてゆけないだろう。何か眠くなってきたなあ。0:14AM。昨夜は2時に寝た。だんだん昼型に戻りかけている。お陰で午後は畑仕事を2〜3時間できるようになっている。お酒は頭が痛くなるから、昨日からすっぱりやめた。