無より
 「あるね、どこにでも。この世にだってあるよ。」
 「"蒼古気道"を学ぶと、地獄から抜けられるのでしょうか」と、カズコが訊いた。
 「そう思うよ。"気人間"になると、天国も地獄もないところに出られるはずだ。」
 「"気人間"って何ですか?」と、カズコ。
 「気と一つになった人間のことだよ。たとえば、ほら、あそこの橋に人が独り橋桁にもたれているだろう。あれは"気人間"かどうか、カバさん?」
 「別に修行をしている人のようではないから、違うんじゃないですか。」
 ちょっと遠くて表情は分からないが、中年の小母さんみたいだった。何か物売りらしく、そばにリヤカ−を止めてある。
 「すこし、実験をしてみよう。やはり、カズコちゃんだ。あの小母さんをジッと見つめていてごらん。ほかの人はしゃがんで川でも見ていてくれたまえ。」
 カズコが独り立って、視線を送った。ほんの2〜3秒で、物売りの小母さんは何かソワソワして、あちこちを見回したが、やがてカズコの姿を見つけ、リヤカ−をその場に置いたまま、こちらに歩き出してきた。皆は呆気に取られた。何が起こるのだろう。
 カズコも思わず、その小母さんのほうに歩き出した。二人が互いに近づいたところで、次の会話が男たちの耳に入った。
 「あんた、キヨちゃン?」
 「いいえ、カズコです。」
 「そうね。そっくりだったもんで。そりゃあ悪かったわね。さよなら。」
 男たちはカズコに追いついた。
 「何、今の?」と、オニクマが訊いた。
 「わたくしにも分からないんです。何だか、とても懐かしそうな顔をしていましたよ。」 先生が解説した。
 「視線を感じるというのは、"気人間"の特徴だよ。誰だって本当は"気人間"なのだ。ただ、人間の頭脳がいろいろ後から理屈や理由をつけるだけだよ。あの小母さんはなぜかこちらに歩き出してしまった。その行動の理由づけが必要だったから、キヨちゃんとかの昔の知り合いを思い出したのだ。人間は理由が解らないままに、何かの行動をすることがある。フッと何かを感じて、"あ、気のせいだ"と言って打ち消すことがあるだろう。意識して"気人間"修行をしていると、その気が解ってくるものだ。」
 「不思議なものですなあ!」と、カバが溜め息をついた。
 その日は城山に登って、お弁当を食べて、子供のように鬼ごっこをしてから、道場に帰った。一番敏感な鬼はカズコと先生だった。

31.四日目/水曜日
                                      在天神940303/0404
 四日目は朝4時に起こされた。不思議に三人とも眠さを感じなかった。「あしたは早く起こすよ」と、先生に言われていたので、どこかで皆が心準備、いや気の準備をしていたせいかもしれない。洗面後、20分ほど皆で瞑想をした。先生は小声で何かハミングをしていた。それを聞いているうちに、カズコは手先に電気のようなものを感じて、ビリビリしていた。椅子に楽に腰を掛けていたのだが、急に立ち上がりたくなった。しかし、自分を抑えた。瞑想で動いてはいけないと思い込んでいたからである。
 終わってから、先生はカズコを静かに見て、「あのまま動いてもよかったのだよ」とコメントした。
 「動く瞑想というのもあるのですか?」と、オニクマが訊いた。なぜか、彼は前の晩に休むまえに、髭を奇麗に剃り落としていたので、別人のように清潔に見えた。
 「あるよ。現に昨夜、君が髭を剃っていたとき、瞑想のような気分ではなかったかい?」
 「はい。そう言われてみると、そうでした。」
 「あれも気の働きだ。瞑想は気のままに任せることだよ。ああいう時は剃刀で皮膚を切ったりしないだろう?」
 「ええ、昔は焦ってよく顎に血を出したものでした。それがあまり続くので、嫌になって髭を伸ばすことにしたのです。」
 「自然な気のテンポというものがある。それに気づき始めたんだね。今日は水曜日だが、水のように動いていればいいよ。無理をしないで、自然に流れてゆくのが"気生活"だ。」 四日目のその日は、カバさんまでも先生と「気踊り」ができるようになり出していた。音楽も分かりだしたのか、幸せそうな表情を浮かべていた。
 「先生、これ、いい曲ですね。何という曲ですか?」
 「ショパンのプレリュ−ドだ。」
 「ほう、食パンみたいに美味しくて、涙がこぼれます」と、妙な感想を述べたカバだった。
 夜はたいてい酒の場になるのだが、カバはちびちび舐めるような飲み方になり、2合も飲むと、自分から杯を伏せてしまうようになった。逆に、飲めなかったオニクマがクイクイ飲むようになっていた。オニクマという名前だが、カズコが次のように提案をした。
 「オニクマさん。あなた、感じがすっかり変わったから、オニクマという名前をやめましょうよ。先生、何かいいニックネ−ムを考えてくださいな。」
 「オニでなければホトケかな。ホトケサマというのはどうだね?」
 頭を掻いて、「いやあ、まだあの世にゆくには早いですよ」と、ホトケサマは照れた。 「いや、多情仏心という言葉もあるぜ。君は色情に長じているから、さしづめ、愛染明王というホトケサマだな。ホトケが嫌なら、アイゼンでもいいんじゃないかい。ドイツ人みたいでしゃれているよ。」
 衆議一決で、アイゼンになった。先生の説明によると、アイゼンはドイツ語で「鉄」という意味だと聞いて、彼は「男らしい良い名ですね」とすこぶる喜んだ。
 ところが、先生がひとこと、謎のようなことを言った。「鉄の欠点は水のなかで沈むことだな」その謎は次の日に解けた。

32.五日目/木曜日
                                       在天神940303/0447
 朝はくつろぎの練習だった。前世以来凝り固まった「しこり」を、先生は「積み」と説明した。
 「善い悪いの罪ではなく、積み重なったものと思えばいいのだよ。たとえば、前世で君がうんと本を読んで大学者になり、頭脳のなかが知識で膨れ上がって、どうしようもなくなったとするだろう。それは積みだ。すると、自然のバランス作用で、今世はあまり頭が働かないようになる。人からは馬鹿と見られるようにもなる。」
 先生はカバのほうをずっと見ながら、その話をしていた。カバはてっきり自分のことと思って緊張していた。
 「木を見てごらん。茂りすぎて、頭デッカチになったところに台風が来たらどうなるかい?」
 「倒れるでしょう」とカバが答えた。
 「そうだ。そのあとで、根元に残った芽からまた新しい若木が育つことがある。君のことをバカとは言いたくないが、君はたしか、知能にはあまり自信がないと言っていたね。」 「はい、そうです。私は高校にも行けなかったのです。勉強が嫌いで、中学を出るとすぐにパン屋に勤めました。そのあとも、食物関係の仕事ばかりを転々としてきました。も