無より
koし、私が前世で知識を積みすぎたとしたら、これは罰が来たのでしょうか?」
 「知識そのものでは罰など当たりはしないが、君はおそらくその知識を鼻にかけて、無知な人々を馬鹿にしたかもしれないな。今だって、君は頭がいいのを自慢にする人間を見ると、やたら腹が立つのではないかな?」
 「そうなんです!」と、カバはびっくりして言った。「その通りなのです。」
 「それはね、自分の昔の姿を他人に見て、腹を立てているのだよ。その腹立ちが消えてゆけば、それだけ君は幸せになるはずだ。利口も馬鹿もない世界があるんだなと気がつけば、それでいいのだ。頭を鈍らせる良い方法は、思いきり過食をすることだ。血液がいつも胃腸に集まっているようにすれば、脳作用は鈍るよ。だから、君は自分を馬鹿にしようしようと努力してきた。そして、その結果が今のような肥満体になったというわけだ。」 「先生、もう食いすぎや美食は、金輪際やめます。思い切って商売替えもします。」
 「カバさん、ごめんね。ヘンな名前をつけて」と、カズコは心から謝った。
 「いいんですよ。バカが逆転したと思えば、かえって嬉しいですよ」と、頭を掻いた。 五日目の木曜日は、なぜかアイゼンの口数が少なかった。いつも、誰よりも快活だった彼がそんな様子を見せるのは意外だった。彼はそういう自分の状態に気がつかれないように、他の人と目を合わすのを避けているようにも見えた。カズコは心配だったが、アイゼンの心のなかに立ち入るのも憚られて、何も気づかないようなふりをしていた。先生は何もかも知っているようだったのに、やはり自分からアイゼンに語りかけようとはしなかった。
 朝食のあとに「くつろぎ」の練習があった。先生は誰でもできる一番やさしい方法として、「口あけ法」というのを解説してくれた。
 「楽に座って、上を思い切り見てごらん。頭が思い切り後ろに倒れたら、目をつぶって、その頭の重みのままにしてダランと力を抜くのだ。人間はうつむいて仕事をすることが多いから、この姿勢は誰にも楽なはずだ。そうやって静かにしてごらん。何が起こるか、よく注意していてみなさい。」
 「口が開いてきます」と、カバがまず言った。
 「そうだよ。外から見たら、いかにもだらしない格好だが、そのままにしていると、息が自然にゆっくり洩れてきて、ア−というかすれ声が出ることもある。自然に吐き切って、また吸いたくなったら、気のすむまでゆっくり息を吸い込むのだ。呼吸を自然に任せて、自分の力を用いなければ、出る息はますますゆっくり静かになるはずだ。息を最後まで吐いて、吐き切ったとき、別に次の息を吸い込みたくなければ、そのまま、無呼吸にしておくことだ。」
 しばらく、めいめいにこの口開け呼吸をさせてから、先生は一人一人に感想を訊いた。 「何も考えられないと言いますか、自然に無心な気持ちになりました」と、カズコが答えた。
 「息って、吸わないと不安になるかと思っていましたが、吸わないなら吸わないでも、生きているということが不思議でした」と、カバも言った。
 ところが、アイゼンは何も言わない。
 先生が「どうしたの、アイゼン君?」と促したが、アイゼンは口をあけたまま、何の返事もしない。まるで唖にでもなったような格好で、そのままにしている。だいぶ経ってから、ボツリと言った。
 「無念無想です。でも、あまり幸せでない・・・」
 「動きがなくて、どこかに沈んでしまったようなのかい?」と、先生は重ねて尋ねた。 「ええ、そう、・・・何もないのです。自分が・・・鉄の・・・固まりになったみたいな・・・」
 「そうだね。アイゼン君は、自分が何十回も何百回も生まれ変わって、積みに積んできたものに気づき始めたのだよ。それは鉄のように固く重いものだ。それが目の前にあるから、ほかに雑念の湧きようがない。それは虚無のようなもので、動きがない。アイゼン君は活動のなかに幸せを感じてきた人間だから、こういう新しい体験に入ると、戸惑うばかりなのだよ。」
 アイゼンが微かにうなづくと、先生はさらに言葉を続けた。
 「それは植物で言えば、堅いドングリの実のように感じる。それが発芽するには、湿り気と暖かさと長い時間が掛かるよ。まあ、焦らぬことだ。いつも、口開けの状態で、くつろぎを続けていることだね。」
 「口をあけたままで、世間の仕事はできませんが」と、カズコが口を挟んだ。
 「それはそうだ。普通に仕事をしていてもいいが、心のなかにはこの口開けの状態が残っているということだよ。回りの者には気づかれるものではない。」
 その日は「気踊り」もなく、皆が口数少なく、黙々と過ごした。カバは口開けを何時間もやっていたし、アイゼンは明るいうちから布団を敷いて、眠っているようだった。

  1. 六日目/金曜日                在天神940304/1548
 翌日も静かに始まった。先生はひとりで、ポツリポツリと話していた。
 「金曜日だから金の話をしようかね。金属のなかで展性と延性が最大なのはキンだ。金が他の金属を押し退けて、唯一の貨幣商品として残ったのは、その耐久性、均質性、可分性、希少性、それから美しさによると言われている。しかし、今は信用貨幣の紙幣が出回っていて、われわれはあまり金貨などを見たことがない。それにしても、人間が目の色を変えてカネを追いかけているのは、本当におかしい。そして、政府と法律がカネを大切にするように、世界中で努力をしている。カネが原因の害悪は山ほどあるのに、人類は貨幣制度を全廃しようとしない。未開人類の姿だ。」
 「貨幣制度が無くなる社会が来るものでしょうか?」と、カバが訊いた。
 「来るね、絶対に」と、先生は事もなげに言った。「こんな馬鹿馬鹿しいものはなくなるよ。地球的社会変動が近いからね。」
 「お金だけのために働きたいとは思いませんが、この講習会のあとで先生への感謝を表すのに、やっぱりお金が必要と思って、わたくしは貯めたお金を少しばかり持ってきました。将来がどうなるにしても、今はやはりお金は必要物でしょう?」と、カズコが言った。 「そりゃそうだ。それで思い出したが、もう台所にお米がないのじゃないかね、カズコちゃん?」
 「麦はありますが、お米は一回分にも足りないくらいです。」
 「それじゃ、悪いけど君、いろいろ買い物に行ってくれんかい?」
 「はい」と、カズコはすぐに立ち上がった。カバも「私もお金を出します」と、釣られて立ち上がったが、カズコは「いいです。持っていますから」と止めた。カズコが玄関を出てから、先生は話を続けた。
 「わたしは昔、座り乞食をやっていたことがあるよ。カンカラに[お金入れ]と書いて前に置き、別に白いボ−ル紙に[人生相談どうぞ]と書いて並べておいた。」
 「そんなので、お金が集まるものですか!」と、カバは半ば呆れて言った。
 「食べる分くらいはいつも集まっていたよ。三日目だったか、ニゲコがわたしの前に立った。」
 「ニゲコって誰ですか?」