無より
「今は実家に帰っている女房だよ。もうこのままここには戻らないかもしれないな。」 「先生の貧乏だけが原因ですか?」
「そうだよ。それ以外に原因があるものかね。」それから、乞食の話を続けた。「ニケゴは、"あのお、人生相談って料金はおいくらなのですか"とわたしに尋ねたよ。いくらでもお気持ちでいいです、と答えたら、"ここは寒いですし、ほかの人に聞かれたくないこともありますので、近くの喫茶店でお話するのはどうでしょうか"と言うので、いいですよと、わたしは彼女について行った。それがきっかけでニゲコと結婚するようになった。わたしは、"男問題ですね。それに、水子のことで悩んでいますね"と切り出した。あの頃は特に冴えていて、人の心が楽に読めたのだよ。」
驚きが信頼になり、信頼が愛情になり、愛情が結婚に発展したという話だった。
「子供を生みなさいと言ったのだが、中絶手術で子宮をこわしていたのか、子供は生まれなかったな。」
「先生はなぜ結婚したのですか? 結婚の意味って何ですか?」と、ずっと沈黙をしていたアイゼンが、だしぬけに質問をした。
「男はやはり一人では寂しいからね。女を抱きたくなるよ。結婚とは、一人に決めて、それを政府に登録することだろう。意味だなんて、そのくらいではないかな。」
「それなら、結婚のような面倒なことをしないでも、適宜女を取り替えていたらいいではないですか。結婚制度も古いと思いますよ。貨幣制度と同じように。」
「それはそうだが、女が結婚登録を望んだらどうするの?」
「断わりますよ。俺はずっとそうして来ました。抱いたあとに必ずそれを言うことにしていました。結婚はしないよ、と。」
「気楽なものだなあ」と、モテないカバが嘆息した。全く羨ましい話である。
「だがね、アイゼン君、それじゃ君は愛などはどうてもいいのかね?」と先生。
「愛? そんなものは分かりません。美味しそうだから抱きたいという欲望はあります。それだけですから、愛だなんて考えたこともありません。」
「女に愛されたことはないのか。"行かないで、離れないで"と言われたことは、何度もあるのだろう?」
「ありますが、もしそうやって、ズルズル引っ張られたらどうなるかということは、何人もの友人の例で見ていますから、それには引っかかりません。」
「それにしても、昨日から君がダンマリを決め込んでいたのは、どういうわけなの?」 「女のことを考えていたのです。生理的に溜まってきたので、どうしようかと思っていました。それと一緒に、過去の女たちのことがいろいろ思い出されて、そればかり考えていました。"気武道"もこのくらいで切り上げて、帰ってしまおうかとも思っていたのです。」多少反抗的な表情だった。こう言ってみたら、先生がどう反応するかを試してみるという気持ちもあっただろう。
「なるほど、それほど差し迫っているのだったら、そうしてもいいよ。しかし、この道場ではカズコちゃんを一応の目標にしていたのではないかね?」
「ええ、そうなんですが、彼女はだめです。そういうタイプではありません。すぐそれが分かって諦めました。」
「そうかい。わたしはカズコが好きだなあ。一目惚れと言ってもいいくらいだ。今夜から彼女と寝ようと思っているよ。」
カバは目を丸くした。そんなに簡単にOKが取れるかと思ったのだ。
34.カズコと寝た
在天神940304/1652
(ここから大説。)私はここまで書いて来て、下のほうが盛り上がるのを感じた。たかが小説の上の女のことで、著者の性欲に火がつくとは妙な話かもしれない。女性の読者はここを読んで呆れ果てるだろう。それはこの著者の異常性によるのか、それとも男の通有性なのかと、小首を傾げるだろう。私はほかの男のことはよく知らないが、都会の退勤時の電車に乗ると、多くの男たちがスポ−ツ・エロ新聞を揃って読んでいるのに気づく。女はもちろんそんなものは読みやしないが、あの光景を奇異に感じないものかと思う。OLたちは、ああいう人種を将来の夫にするのかと思って、ゲンナリしないものだろうか。それとも、自分の父親を始め、男はそういうものと達観しているのだろうか。
私はあの種の新聞を買って読んだことはないが(スポ−ツも嫌いだし)、座席に置き捨てになっているのを拾って読むことはたまにある。私がいつも不思議に思うのは、ああいうポルノ作家はあれを書いていて性欲を覚えているのかどうかということである。どれもこれもありきたりで、文字通り劣情(古い言葉だから、最近はめったにお目にかからない日本語)をそそるだけに、あの手この手を使っている職人がいるわいと思う。しかし、これを真剣に読んでいる人種も人種だ。私は惚れっぽい人間だが、ああいうポルノ女を相手にしたいとは思わない。林参先生も、きっと私に似た男なのだろう。
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カズコが買い物を済ませて帰ってきた。速足で来たのか、ポッと上気して美しい。男たちはみなその顔を見た。バカは眩しそうな表情をした。先生は静かに言った。
「カズコ君、きみ、今夜からわたしと寝ないかい?」
「あらそれ、どういうことかしら。講習会も・・・」言葉に詰まった。
「そういう対象とは考えていないということかい?」
「突然だと、そういうの、わたくし困るのです。」
アイゼンが悪戯っぽく横から言った。「俺たちだったらいいんだぜ。なあ、カバさん。」カバもごくりと唾を飲み込んで、うなづいた。先生は言った。
「一緒に寝ようと言っただけで、君の嫌がることは何もしないよ。ただ、何となく君の肌にふれてみたい。」
「奥さんがいらっしゃるのに!」
「いや、あれとはもう一年も、そういう関係はない。」
「・・・」黙ってしまった。
それで結局、その夜は、先生は自分の布団を元どおり4畳半に運んで、カズコと「寝た」のである。
35.七日目/土曜日
在天神940304/1719
先生とカズコのその夜の寝物語がどうだったかは、誰も知らない。小さい話し声や物音に他の男たちが隣室から聞き耳を立てて、寝つきが悪かったのは事実である。
最終の土曜日になった。朝食の席で、男たちは先生とカズコの顔を見比べていたが、特にどうということはない。先生のほうから、皆を安心させるように、
「何もなかったよ。彼女の乳房は柔らかかったが、それだけ。」
カズコは俯いた。
その日は忙しかった。「気踊り」は猛烈に長い時間おこなわれ、それがいつのまにか"気武道"に変じた。アイゼンが力まかせに先生を抑え込もうとしても、いつもスルリと抜けられ、おまけのようにアイゼンは投げ出されてしまう。アイゼンとカバを組ませたとき