無より
先生はアイゼンに、「そう、その手を自分の心臓のところに、恭しく引き寄せてごらん」と言った。その通りにすると、カバの身体は飛んだ。殴られそうになった場合とか、後方から羽交い締めになった場合とか、棒で打ち掛かられた場合とか、多くの実例で教えられたが、気に従ってこう動くということだけで、型としては何の指導もなかった。だから、記憶では覚えられない。身体で覚えるしかない。メモも取りようがない。カバは投げられ役ばかりをしていたが、そのたびに身体がしなやかになってゆくのが、他の人たちにもよく分かった。カバは別に、人を投げるというようなことには興味がないらしく、しまいには喜んで、いそいそ投げられて、その快感を楽しんでいるというふうだった。
 「カバさん、君はだいたい人を怒らせるような性質ではないから、武道なんか要らないのだよ。今日は代わりに、君に"蒼古気道"の応用の一つである華道を教えてあげよう。カズコちゃん、外に行って、何でもいいから花や草をたくさん取ってきてくれたまえ。」 まだ春も浅かったので、タンポポとか大根の花とか僅かの花しかなかったが、それを補うように、木の枝や草も沢山取ってきた。その材料で、先生は懇切に「野草流」の手ほどきを、カズコとカバにしてやり、空間における調和美を三人で楽しんでいた。アイゼンは疲れが出たのか、休息したままニコニコそれを眺めていた。
 昼食後は、やはり応用編で、小笠原流にどこか似ている日本座敷での礼法とか、「気による会話の仕方」なども教えられた。
 「人と話をするときは、瞬間でも、あれを言おう、これを言おうと思ってはいけないのだよ。相手の話を聞いていて、急にある考えが浮かんだって、それを口に出すいとまもないほど、向こうが気に乗ってしゃべりつづけていたら、どうするね?」 
 「相手が話を中断するチャンスを待つのですか?」と、カバが尋ねた。
 「いや、それをやると、何か浮かんだ考えを或る時間心に保って、同時に相手の言葉を聞き、さらに相手の隙をねらうというような複雑なことになってしまうよ。つまり、そのあいだは相手の話を100%聞いていないということになる。」
 「どうすればいいのですか?」と、カズコも訊いた。
 「思いが浮かんでも、それをすぐ放してしまうのだよ。大事な思いであれば、忘れたって後で一番良いときに戻ってくるものだ。相手の話を無心に集中して聞くだけだよ。そうすれば、自然に自分が話す順番もやってくるものさ。実際にやってみようね。カズコさん、相手になってください」と、なぜか先生は丁寧な言い方をした。二人は向かい合って座り、他の二人が見守るという形を取って、対談が始まった。
 「あなたは結婚をしたいですか。それとも、一生独身で過ごしますか?」
 「分かりません。そんなこと、考えたこともありませんから。」
 「わたしが今プロポ−ズしたら?」
 「あ、それ、そのとき考えてみます。」
 「カズコさん、わたしと結婚してください。」
 「あら、早いのですね。どうしようかしら・・・」助けを求めるように、カズコはアイゼンを見た。アイゼンは黙っていた。
 「年齢が違いすぎるということですか? きっと、23歳くらいの差はあるね。」
 「いいえ、年齢はどうでもいいのです。」
 「性的な魅力とか、性の上で自分を満足させてくれる相手であるかどうか、とかは?」 「そんなこと分かりません。考えたこともありません。」カズコはだんだん大胆になり、あまりあいだを置かず、サッサと答えている自分を意外に思っていた。同時に、精神分析でもされているような感じも受けていた。表現するたびに、自分の心がはっきりするようで、そこには或る種の快感さえあった。
 「わたしではどうですか?」
 「即答は無理です。」
 「どのくらい待ったら、答えが出ますか。」
 ちょっと考えて、「三ヵ月ください。」「ほう!」と先生は驚いたようで、「どこから、その3ヵ月が出たの?」
 「分かりません。口から出任せみたいでした。」
 「いいよ。6月まで待ちましょう。そのあいだ、君の住む麻績村に遊びに行ってもいいかい。君のお父さんにも会いたいから。」
 「いいえ。今は父を巻き込みたくありません。わたくし、帰宅したらすぐこのカイ市に移転するつもりです。父から離れて、あなた、いえ先生のことをずっと考えてから決めます。」先生はそこで打ち切って、男たちに訊いた。「どうだい、横から聞いていて?」
 「無駄がなくて感心しました」と、アイゼンが答えた。「俺だったら、女の子の気を引こうと思って、興味をそそりそうな話題をボンボン出して、ついでに相手の反応に注意しますね。それから相手とのこれからのセックスを想像して、色気を匂わせます。」
 「なるほど、そういうものかね」と、先生は感心した。
 ちょうど、そのとき、勝手口にプロパンガスの集金で−すという声がした。カバが財布を持って、すぐ立って行った。
 「そうそう、あしたは朝ご飯を食べてから、もうお開きにするが、そのとき気持ちがあったら、幾らかお金を置いていってもらいたい」と、先生は言った。カバに聞こえないのも構わないというふうだった。
 夜は大ご馳走になった。アイゼンも思いついて、寿司と蒲焼の出前を頼んだ。先生はどこかからドブロクを一升買い足してきた。宴半ばにして、先生は「気歌」を歌おうと言い出した。「プレゼントにするから、テ−プに取っておいてくれたまえ」とカズコに頼んだ。 気のままの歌というのはどんなものかと、一同は先生に注目した。先生は、何やら唸り出した。「アウム、アウム」と聞こえた。それから、「ア−ハ−ミ−ムタ−・・・」というような無意味な音を出して、それにだんだんメロディ−がついて、始めはスキャットのように、そのうち日本語の歌詞が乗ってきた。それは文章では紹介不能であるが、メロディ−としてはどことなく日本風の、聞いたことがあるような、ないような、懐かしい響きも入っていた。カズコの耳には、その歌詞の一節が次のように聞こえた。
     いものはぢらふそのおもてひしとだきしめくちすひて・・・
(先生はわたくしのことばかり考えておられるみたい・・・)と、カズコは頬を染めて、台所にちょっと避難した。戻ってみると、まだ続いていた。
     たらちねのははのおもかげいまみるやはなをうづめてちちをすふかな
終わると、先生は皆に「君たちもやって見るかね」と訊いた。みな首を振った。
 「やれと言われたって、やりかたが分かりません」と、アイゼンが代表して答えた。
 「まあ、何度か聞いてください。テ−プをお土産に渡しますから、気が向いたら聞き直してもらうかな。」先生はカズコにダビングを頼んだ。

36.おひらき
                                       在天神940304/1910
 (以下大説。)呑気なものである。失業の身で、仕事を捜すでもなく、棚からボタ餅が落ちないのも不思議に思わず、小説世界に遊んでいる。私は芥川賞も直木賞も狙わない。あれはやはり文学職人のやることだ。小説でメシを食おうとは思わない。好きなことを好きなように書いているだけで充分。まかり間違って、どこかから買い手が現われれば、もちろん売って進ぜよう。そうなって欲しいものだ。愉美子は今のところ、借金をやりくりして、首をくくるなどとは言い出していないから、放っておこう。さっきも、私がどこかで