無より
摘んできた菜の花をおかずに、ご飯を出してくれた。気を利かして、肉は抜いてある。ただ、ス−パ−で買ってきたらしい茄子の漬け物に、ミョウバンの味がして閉口した。色止めなのだろうが、不味いものだ。"気武道"道場の土曜日の晩餐会に、ウナギが出たそうだが、林参先生は食べただろうかね。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 二度目の日曜日は、お開きだった。カズコは麻績村までの旅費を差し引いて、残金を全部先生に差し出した。アイゼンも適当に封筒に入れて出した。カバはもじもじしながら、 「僕は大工みたいな仕事をこの市で捜したいのですが、先生の所にしばらく居候をさせてください。下男仕事は何でもします。めしも炊きます。」「OK、OK」と先生は快諾した。
 先生とカバは、あとの二人を駅まで送ってくれた。先生は駅前交番にちょっと寄って、「弟子たちに道案内をしてくれて有り難う」とお礼を言っていた。先生は誰とでも気楽に話をする。道々、先生はカズコと腕を組んで、恋人同士のように歩いた。カズコは恥ずかしかったが、振り払う気もしないで、そのままにしておいた。しかし、別れ際のちょっとした隙に、首のうしろにキスをされたのにはドギマギした。公衆の前でそんなアメリカ人みたいなことをしようとは、予想もしていなかったからである。カバもアイゼンもにこにこしていた。
 「こんど先生の所に伺うときには、若奥様ですね」と、アイゼンがからかった。
 アイゼンとは反対方向だったので、カズコは先に皆に別れを告げ、手を振ってホ−ムのほうに走って行った。
 見送りをすませての帰りに、何思ったか先生はカバに、「君、ちょっとパチンコやっていかないか」と誘った。カバは実のところ、パチンコはセミ・プロと言ってよいほどの腕だったので、喜んで誘いに乗った。店に入ると、カバは早速台捜しにあちこちを見て、「先生、これをやってみてください」と呼んだ。彼は自分の分の玉を千円買って、先生のも買おうとしたが、先生は、「わたしは100円でいいのだよ」と言った。「100円でも出るときは出るし、千円でも出ないときは出ないさ。」
 カバは自分でも呆れるほどツキがよかった。またたくまに小箱2つが一杯になり、大箱を持ってきた。先生は100円分をすぐなくしてしまい、横に座って観戦していた。どこから見ても素人という様子だったのに、台が振動を始めて出が悪くなると、「カバ君、もう台を変えたら」と促す。引き際が悪いと損をするのはよく知っているカバだが、先生が傍にいなかったら、きっと未練か希望か記憶で、出ない台に引きずられたかもしれない。先生の言うとおりにしていたら、40分も経たないうちに、大箱が一杯になった。先生が、もうやめようと言ったので、切り上げることにした。
 カバは玉を沢山のタバコに換えてから、「先生、何かお好きな景品、ないですか?」と尋ねた。「そうだなあ、お人形一つと、あとお金に換えてくれよ。」そのようにした。外の店に行って換金も終わると、先生は言った。
 「カバさん、君、車の前の草って知っているかい?」
 「いいえ、存じません。」
 「オオバコだよ。君の大箱を見たら思い出した。あの種子はシャゼンシというのだ。咳止めや熱下しにいいものだ。これから、漢方の店に行って捜してみようか。」
 漢方の店は幸い近くにあった。そこへ入って、白い髭の老主人とひとしきり、先生は話しこんでいた。オオバコの種子が利尿にいいかどうかということから発展して、ずいぶん専門的な話をしているようだったが、カバにはさっぱり分からなかった。ただ、先生が非常に注意深く店の主人の話を聴くので、主人のほうも良い客が現われたと喜んで、蘊蓄(ウンチク)の限りを傾けて、長い話になった。別れ際に、先生は言った。
 「ご主人のところにお孫さん、おられますか?」
 「おるよ。四つの女の子がな」と相好を崩した。
 先生はカバのカバンから例の人形を出させて、それを老人に献呈した。「もしよろしかったら、そのお孫さんに差し上げてください。ヒョンなことで手に入ったものですが、うちには小さい子がおりませんもので。」
 「それは、それは」と、老人は喜んで受け取った。
 店を出てから、カバは、「先生、あのお人形は、こういうことが起こると予知して手に入れたのですか?」と質問した。
 「いいや。ただ、自然にああなっただけのことさ。」

37.求婚受諾
                                      在天神940304/1953
 (大説部分です。)小説作家の楽屋ばなしというのは、めったに聞けない。それは秘密になっているのかもしれない。手品師が、一つ手品をすますたびに種明かしをしていたら、観客は面白いと思うか、興ざめするだろうか。やってみないと分からないが、引田天功さんもそんなことはしなかったと思う。小説家もそれはやらんだろう。それは読者の期待外のことだから。「そんなことより、早くその先を書きなさい」と言うだろうな。筋を追うというのが、小説読者の共通性だから。まあ、そう焦りたもうな。小説が逃げてゆくわけでもあるまいに。
 私は、イカキ先生の邸からカズコとイチロウと林参先生が辞去したあたりで、話を止めていたはずだ。そして、"気武道"の一週間講習の話に集中してしまった。きっと、道場の出来事のあと3ヵ月経ったあたりから、1000通の封筒準備の話が始まったのだろう。あの3人を追跡してみようか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− カズコはウィ−ヴという可愛い車で来ていたので、先生はさっさとその車に乗ってしまった。
 「君たち、どこでデ−トする約束だったの?」
 「どこでもよかったのですが、彼と先生のところに伺うつもりでいたのです。」
 「うん、もう3ヵ月経っているものね」と、先生は快活だった。
 「こうなってしまったら、デ−トも何も要らないのですけど、ちょっとイチロウさんに断わってきます。」
 カズコは車を下りて、動きかけていたイチロウの車に近づいた。4WDの頑丈そうな車である。すぐ戻ってきて、「先生、イチロウ君は先生にまだ話があるので、レストランにご招待したいと言っています。」「いいよ、OKだ。」
 二台は走り出した。4WDが先導している。川を越えて、すこし人家がまばらなところまで走った。その目立たぬ一角に「マンジェ」という名の小さいレストランがあった。瀟洒(ショウシャ)な作りだ。(ここでついでに、ショウシャという漢字を覚えようという読者は100人に一人もいないだろう−−大説。)
 「だから、人間は進歩しないのだ。見れども見えず、聞けども聞こえず、だからな・・・」
 先生がテ−ブルに座って独りごとを言っているまに、お水を持って店のマダムが近づいた。コロンの高雅な匂いが漂ってきた。先生は顔を上げて言った。
 「マンジェというのは食べるという意味だったね、マダム?」