「厳しいものですなあ!」と、先生は嘆息した。
 「その先のほうには、月経中の女と寝た者は、両人とも村八分にされ、その民から絶たれるともありますのじゃ。」
 「でも、現代では月経中の性交を犯している者は相当の数に上ると思われますが。」
 「そうじゃ」と、博士は天を仰いだ。「末世じゃ、末世じゃ。」
 そして、ふっと思い出して、次のように言った。「私が林参先生に会うたときも、そんな話がきっかけでしたのじゃ。鳥羽のホテルで、あの仁と話を交わしたのじゃが、ハネ−ム−ンということで、若い奇麗な花嫁がそばに寄り添うておられた。初めは娘御かと思うたが、違っておった。"お幸せじゃのう"と声を掛けたら、"いや、修行ですよ"という答えが返ってきましたのじゃ。"月のもので・・・"ということで、最初は解(ゲ)しかねたが、すぐ月経中ゆえ、新婚旅行も心だけの関係だということが、私にも呑みこめ申した。私はレビ記を思い出し、現代にもこんな御仁がおられるかと、奇異の思いをいたし、クリスチャンでござるかとお尋ね申したところ、いや別にということじゃった。なぜ、そのように戒律を守っておられるのやと質問しましたのじゃ。すると・・・」
 話をかい摘まむために、その場を再現しよう。前に記したとおり、林参先生は語学の達人である。相手の意思を「気」で捉えるから、いわばテレパシ−会話が先行し、言葉がそれを補うという話し方をするのが、林参先生の「気話術」だった。
 ホテルから見下ろす海はもう暗くなりかけていた。遥か東方の島々は夕日を浴びて、赤く燃えてはいたが、目の下は青黒い波がうねっていた。林参先生は話を続けていた。
 「女性はもともと、月経のときの自分の身体に触れられるのを好みません。相手を汚すことを心配するものです。だから、その"気"に沿うのが、彼女を愛する男のなすべき行動です。ところが、多くの男は、女を恥ずかしい気持ちにさせて喜ぶというサド的な心理を持っています。そして、生臭い血のにおいを喜ぶという変態的な男もいます。また、月経中は妊娠しないというので、避妊の目的でわざとそれをやる男たちもいます。さらに、性欲に迫られて、血などどうでもいいという男もいるのです。」
 男たちは英語で話していたから、カズコは、ほとんどその内容を理解しなかったが、女の直感で話のあらましは分かっていたかもしれない。新嫁はレストランの窓の外のカモメの群れを見ているようなふりをしていた。
 「いや、ご説は充分に了解いたしますじゃ。私が親しくしているカナダの学生にも、獣姦、近親相姦の過去を持った男がござって、私にだけその告白をしたことがあり申した。結婚しておるもので、その者に月経中性交のことも尋ねたが、それも平気でやっちょるということでありましたのじゃ。今ではだいぶ悔い改めているらしいが、ああいうことをもし黙認しておれば、良心が鈍摩して、不倫その他で結婚を破壊するようになるのは、火を見るより明らかでござったよ。」

42.砂丘講演会
                                       在天神940305/1906
 そのころ、"気武道"道場では、伊勢湾周遊旅から帰ったばかりの林参先生夫妻は、仲良く南窓の外にしゃがみ込んで、蔓が延びはじめた瓢箪のための支柱を立てていた。真夏になって一面に生い茂ると、そこは風雅な日よけになるはずだった。
 「ヒョウタンぶらぶら、オレもぶら、ぶらはぶらでもアイ・ブラ・ユ−・・・」
 先生得意の即興歌が聞こえた。カズコはくつくつ笑っていた。「またあ!」
 「ハネ−ム−ンではブラれたからなあ。いつ、ラブできるのかい?」
 「すみません。あしたあたりと思いますわ。」
 「それにしても、伊良湖水道を渡って、あの岬から見た夕日は奇麗だったねえ。」
 「ほんとにそうでした」と、カズコはうなづいた。
 「あれから船で知多半島に渡ったのだったね。常滑に出て泊まったあの旅館のハマグリ汁は全く旨かったなあ。」
 「あのときも、わたくしをからかったりして・・・」
 「なかなか開かないハマグリだったからだよ」と、林参先生は笑った。「あれは死んでいたんだ。」
 「わたくし、生きています」と、すこし憤然。
 陽が落ちかかって早めの夕食中、イチロウから電話が入った。
 「先生、イカキ先生が恐山にお出かけになる話を耳にされましたか?」
 「いんや。」
 「林参先生のご紹介とかで、オ−シンというお名前の大学教授がいらっしゃったそうです。例の悠久君から電話があって知りました。彼も同行するのですって。先生ご夫妻はいらっしゃらないのですか?」
 「いや、何せ、新婚旅行から帰ったばかりだからな、当分静かに暮らすつもりだよ。」 「そうですか」と、ちょっぴり残念そう。
 「きみも行きたいのかね?」
 「はい。ただ、僕の会社がいま忙しくて、ちょっと無理なのです。」
 イチロウは土曜日の夜に遊びに来ると言って、電話を切った。
 先生は南アルプスの白根山に沈む夕日を眺めながら、しばらく腕組みをしていた。
 「カズコ、きみと旅中に話をしたあの件だがね。ここの道場をだんだん盛んにしてゆくという君のプランはとてもいいのだが、そろそろ"気武道"という枠を外そうかと、このごろよく思うのだよ。」
 「枠を外すと言いますと?」
 「武の字を取って、純粋に"蒼古気道"としてやって行こうかな、ということだ。」
 「一般の人に分かるものでしょうか?」
 「そこだね、問題は。」夕日が山の端に隠れるのを見届けてから、先生は座敷に上がってきた。麻績村から届いた新茶をすすりながら、
 「本を書くことも昔から考えていたが、どうしても哲学的表現になって、かえって解らなくなってしまう恐れがある。やはり、口から耳へだ。どうだろう。思い切って講演会を開くのは?」
 「素敵だわ!」と、カズコの瞳は輝いた。「どこでなさるの?」
 「沢山の人を集めるのだったら、東京か大阪。少数なら砂丘の上。」
 カズコは呆気に取られた。どういう発想なのかと判じかねた。
 新婚旅行に彼女の貯金を全部はたいてしまい、これからの生活をどうしようかと、カズコは一心に考えていたところだった。先生は根っから経済に無関心。前の奥さんが出て行ったのもよく解る節々もあった。でもそんなことには負けないと、決心していた。
無より