無より
43.ワンロウ
                                       在天神940306/0447
 カズコはまた勤めに出ようと思ったが、それを言い出すと先生はなかなかウンとは言わなかった。「今は君となるべく長いあいだ一緒に時間を過ごしていたいな。たかがお金のことで君を世間に売りに出したくはないよ」の一点張りだった。そして、どういう偶然になっているのか、翌日から、カズコは名前も知らないいろいろの人から現金封筒が届くようになった。それも、家のなかの現金がなくなってしまうと、どこかに目に見えない会計係がいるかのように、誰かがお金を持ってきたり、送ってきたりした。先生の銀行口座に未知の人から入金があったりもする。結婚通知を出すようになったら、ますます入金が増えた。
 土曜日の夕方には、約束どおりにイチロウが遊びにきた。幸福で輝くように美しくなったカズコを、眩しそうな目で見てから、「新婚旅行に行かれたことは、カバさんから聞いておりましたが、お式はどうされたのですか?」と尋ねた。
 「伊勢神宮で拍手をして終わりだったよ。取り立てて式などはしなかった」と、先生は事もなげである。
 「披露宴はなさらないのですか?」
 「そんなお金はないよ。」
 「いいんですか?」と、カズコに確かめた。
 「葉書で皆さんにお知らせします。印刷する余裕はありませんので、毎日少しづつ書いているのよ。そうすると、お祝い金が届くこともあるので、それで暮らしているの。」
 「はあ、そんなものですか」と、イチロウは型破り結婚に驚いた。
 「あなた」と呼びかけて、「イチロウさんに砂丘講演会のことをお話しになったらどうですか?」
 「そうだな。イチロウ君、きみはラッキョウ好きかね?」例の話し方である。
 「ええ、あの、カレ−ライスにつくものですね。はい、食べます」と、ドギマギした。 「日本人は昔から、あれを甘酢で食べることしかしないが、あれの一番おいしい食べ方は、ただの塩漬けにして、浸かりすぎずサクサクしているときに食べるのが最高だ。」
 「はあ。」
 「そのラッキョウを栽培しているのが、鳥取砂丘だよ。東西16キロ、南北2キロもあるあの広い砂丘でだ。」
 「砂地に向いているのですか?」
 「そんなことはないよ。砂地ではたいていの作物はだめなのだが、そこは百姓の工夫だよ。あの砂丘で講演会をしようと思っている。」
 「何か建物があるのですか?」
 「別にありはしない。砂丘の上でやるのだ。」
 「口や目のなかに砂が入るでしょう?」
 「風が吹けばそうなるな。テントを張るから、大丈夫だ。」
 「交通が不便で、人は集まらないでしょうに。」
 「うん、そうだ。十人も来たら、それでいいのだ。わたしはあまり多くの人を集めるのは好かん。」
 「目的は何ですか?」
 「多くの資金を作ることだ。カズコも"蒼古気道"を発展させたがっているからね。」 「お金を集めるなら、大衆を動員しなくてはいけないではないですか。」
 「常識ではそうだな。だが、わたしは群衆の喧噪を好まない。金持ちが一人いればそれでいいわけだ。」
 それから、林参先生は社会と金銭について、いろいろ論じ出した。いつものように、無貨幣社会の到来は予想外に早いという予言から始まって、過渡期の現在では、資金集めの使命を天から授かっている人が何人か世界各地にいるはずだが、その蓄積した金を何に使ったらいいのか本人は解らないでいる。そういう人たちの最初の人を鳥取砂丘に呼ぶというのである。
 「どうやって、その人を捜して呼ぶのですか?」
 「それはわたしにも解らない。"気"が呼んでくれるだろう。ちょうど、カズコを呼んでくれたようにね」と、いとおしげに、先生は新妻に慈愛の目を向けた。カズコは黙ってうつむいていた。
 「資金が出来たら、何をなさるのですか?」
 「何をしようかね。君の意見でも聞いて、追々決めるさ。」
 イチロウは金庫を製造して販売する会社に勤めていた。ところが、金庫に入れるべき肝心の現金や有価証券そのものが少なくなっている不況の現代に、会社は赤字に傾いていて、イチロウは早くその会社を辞めたいと思っていた。
 「イチロウさんは何をやりたいの?」
 「そうですねえ。やっぱり生き生きした仕事がいいです。ミネラル的な仕事は嫌です。人間や動物が沢山いるような仕事が好きです。」
 「動物園でもやりたいの?」と、カズコは笑った。
 「イカキ先生のところのゴロちゃんみたいな犬と暮らせたらいいな。」
 「ケンとネルのかね?」と、先生は英語で洒落を言ったが、イチロウにはあまり通じないようだった。
 「それにしても、イカキ先生たちはもう恐山に旅立ったでしょうけれど、ゴロちゃんはどうしたの?」
 「そうそう、それです。実は、僕が頼まれて、いま預かっているのです。簡単な犬小屋をカバさんに作ってもらったので、今はそこでゴロちゃん、寝ていますよ。餌をたっぷりやってから、ここに来たのです。僕が出勤中、カバさんが昼休みに運動をさせるために、毎日来てくれています。僕のアパ−トの管理人が犬好きで、外飼いなら何匹でもいいのです。だから、うちのアパ−トの半数の人は犬を飼っています。猫をペットにしている人はみな出てゆきました。」
 「それはいいな。わたしらの仲間がみな犬好きなのは面白いね。」
 「今年はイヌの年ですよ」と、イチロウは真面目な顔つきで言った。「ネコ年というのはないのです。」
 「君はワンロウだものな」と、先生はまた洒落を言った。
 「そうです。僕は一回浪人して、大学をあきらめたのです。」

44.九十九歳の如風上人 
                                       在天神940306/0557
 そのころ、オ−シン博士一行は、恐山一帯のイタコの調査をだいたい終えて、十和田湖のほとりのロッジで、研究の整理をしていた。やはり、イタコの霊下ろしはもうパタ−ン化して、それほど面白いものではなかった。演技者として、ある程度の訓練を受ければ、誰でも出来そうな降霊現象だった。しかし、多少の霊能を具えたイタコもいて、依頼者の両親の霊を呼び出して、当人しか知らないような事実を指摘する例も実際に見たが、使う言葉はその土地の方言に限られていて、実際は依頼者の潜在意識を読み取っているだけではないかと、疑われるケ−スも沢山あった。オ−シン博士だけは非常に喜んでおり、あるイタコに昔の英国のサムライの霊が憑いていると言われたときは、大いにうなづいており、その日から彼の妙な英語が普通の現代風に直ってきたことには、ミス・パクもほっとしていた。もしかすると、その憑霊がオ−シン教授から離れてしまったのかもしれない。
 「所詮、死者の霊ばかりを問題にするのは、信仰上の邪道かもしれませんな」と、波立ちが荒くなった午後の十和田湖を見晴るかすロッジの部屋で、博士は述懐した。「霊を呼び出すことを専門とするキリスト教会は、カナダやアメリカに沢山ありますが、あれは霊界