無より
50.棚卸し
                                      在天神940307/0543
 2月19日から書き始めたこの本は、17日目の3月7日を迎えている。運命打開の兆しはどこにも見えない。今日は月曜日だから、どこかかから郵便が来るかもしれない。私は「外からの便り」に「神の証拠」を求めようとしている。「外からの証拠」に依存している。情けない自分だと思っている。なぜ内部に絶対の自信というものがないのだろう。、なぜ外部からの「支え」ばかりを期待しているのだろう。67年間、私は何をしてきたのだろう。
 神は常に、私にとって「棚ボタ」であった。日本大学理工学部の講師を辞めたときも、新日鉄の高収入を捨てたときも、私の行動はいつも衝動的であり、未知の未来(既知の未来などありえないが)に冒険的に飛び込んで行った。何とかなるさと、どこかで「なにか」を信じていた。私が信じていたのは神だったのか、運命だったのか、自分自身だったのか。物質や金銭を頼りにしていなかったことだけは事実である。物や金に頼らない自分に、神が働くと信じていた。限界状況に自分を追い詰めないかぎり、神の証拠は見えないと決めていた。禅語の「百尺竿頭を飛ぶ」をそのように解釈していた。冒険以外に神を証拠立てる道はないと思い込んでいた。結果としては、運命は勝手に展開して、私は生き延びてきた。オカルト(語源は隠すから来ている)の力はいつも働いていると感じていた。その神秘に私は神の匂いを嗅ぎ、神の肌ざわりを覚えていた。
 英語の辞書にオカルティズムを捜すと、雑多な定義が与えられている。神秘学、神秘主義、神秘論、神秘療法、果ては加持祈祷と並ぶ。その「秘密」に魅せられてきた私。
 ミスティシズムも一般に神秘主義と訳されている。しかし、その正純なるものは「神との融合」と解釈されている。いわゆるオカルト・パワ−は魔術に類するものまで含むが、「神との融合」にはそのような怪しいものが入りこむ隙がない。神と同一体になることを「成神」と私は呼んだ。オカルト・ブ−ムが世界を覆い、人々が超能力や奇跡やスピリチュアリズム(心霊主義と訳されるが、これは死者の霊との交流)を追い求めるようになったとき、私だけは「成神」を考えていた。サイババが奇跡を起こすように、神には神秘力が伴うかもしれないが、超心理学が扱うESP(超感覚的知覚)やPK(念力によって物質に影響を与える現象)その他を含め、それらは神を取り巻く一種の雲であった。この雲を取り払わないかぎり、神の真の姿は見えないし、たとえ微かに神が見えたとしても、みずからが神に成らないかぎり、終着点は来ないものと信じてきた。ゴ−ルは解脱であり、輪廻転生からの永遠の離脱であるとも教えられてきた。
 オカルト力に深く関わり、そこにすべての解決があると思い込むことは、成神と解脱から遠ざかることで、そこは果てしない迷路であることを、私は体験で納得した。サイババには、人間が考えうるあらゆる奇跡が凝集しているけれども、私がサイババと同格の存在になるためには、物質世界とその現象への執着を断ち切ることしかなかった。それにはダルマの道に立ち返り、有徳の生活をし、純粋の神の愛に生きることしかなかった。成神は成愛と同義語だった。キリスト式に表現すれば、「この世に死んで、神の愛に生き返る」ことしかなかった。
 しかし、私は肉体の牢獄につながれており、この肉体を支えるために、また身近の家族を維持するために、物と金を必要としている。モノ・カネを何度も捨ててきたのに、そのたびに相変わらずモノ・カネの呪縛のなかにいる自分を見出す。世人がやっているような専心一途に物・金を追い回す生活は、私には不可能である。それは私を物質と肉体の次元に追い落とすことだ。
 しかし、「エホバの証人」である佐保秀臣青年すら言う。「生活は根本ですから」と。「人はパンのみにて生くるに非ず」だが、パンがなくては生きられないという、ごく当たり前のことを言う。パンが先で、あとは余力と余暇で信仰をするという意味なのか。
 公式は知っている。「まず、神の義を求めよ。しかるのちに、何なりと神に求めよ。すべては与えられるだろう。」また、「一粒の芥子種ほどの信仰があれば、山もまた動く」とも言う。余力と余暇で信仰をするというような生易しいことではない。
 サイババを信じれば、奇跡は意のままという幻想。そのような奇跡は見聞した。しかし、人間が純化して神のごとき存在にならないかぎり、「意のまま」にはならないだろう。サイババはむしろ、人間の苦悩は不可避のものだと言っている。この世は苦界であり、因縁を背負って生まれてきた瞬間から、全人間は「人生病」にかかっているとも言った。
 だれでも奇跡力が欲しい。目的は健康と延命と豊かな物質生活のためである。だが、それは全部肉体にからまることではないか。肉体的・物質的御利益を求めて、人々はサイババのまわりに雲集する。サイババは或る者の願いを叶え、或る者の願いは叶えない。その取捨選択はカルマ法則に起因するものらしい。しかし、宝くじ的に、あわよくばと思って、人々はサイババへの、また他の神仏への帰依・信仰という名の執着を捨て切れない。蜘蛛の巣に引っかかった小虫のようなものである。
 キリストや弘法大師の事績からあらゆる奇跡を引き抜いたら、どのくらいのクリスチャンと真言宗信者が残るだろうか。
 奇跡にはロマンがある。そのロマンを引き抜いたあとの純粋の神愛。人間にそれだけを求める能力があるのだろうか。
 犠牲。「友のために己れの命を捨てることほど尊いものはない」とキリストは言った。このような犠牲的な愛には、物質的奇跡のかけらも残っていない。いや、そのような純愛そのものが最大の奇跡である。しかし、人は本気でそれのみを求めるだろうか。
 富を確保してからの、または富を確保しながらの求道。そんなものに何の力があるだろうか。「二人の主に兼ね仕えることはできない」と、キリストは断言した。サイババは世間の義務を果たせという。義務は神なりとも言った。義務は利得を目的としない。
 こうやって、私は人間の考え方をいろいろと羅列してきた。在庫調べみたいなものである。しかし、在庫品の目録記入や棚卸しに、どんな効力があるのだろう。羅列は羅列しにかすぎない。ほかに何もありはしない。
 自分が腸捻転を起こしたり、妻が人身事故に遭遇したり、子供が川に落ちて溺れたり、そういう人生に人々はアップアップしている。それだけでもヘトヘトなのに、なおかつ死に物狂いで神仏を求める人というのは、極めて例外的な存在なのだろうか。
 棚卸しに疲れ果てた。

51.神の手順
                                      在天神940307/1324
 結論的に言って、人は人を助けない。たいへん親切な人が私を助ける。反対に、たいへん冷淡な人は私に見向きもしない。うっかりすると、私は親切人を杖にして、その人がいなくなると倒れてしまう。また、冷淡人を敵視したり、あいつには何もしてやらないぞとまで思う。親切と冷淡で世間を敵味方に分けてしまう。これは多くの人の生き方だ。
 人は人を助けない。神のみが人を助ける。母は私を生んでくれたが、母は二つの生殖細胞を一つの胎児にまとめる知識も技能も持っていなかった。母は子宮と乳腺その他から成る「出産の場」を用意しただけである。しかも、その場は「母のもの」ではなく、これも神が創造したものだった。