無より
 神は直接、または人を通じて人を助ける。助け人に神を見るべきであって、人を人と見てはならない。人は人を期待するべきではない。人に頼っても何も起こらない。先ほど、レックス・ハンバ−ドという牧師の日本主事である桜井剛さんから便りがあった。「神はあなたにとって最善を行なってくださいます」と書いてある。そして、何度読んでもその通りだと納得される次の文章があった。

  私たちの日常の問題に対しても、神は決して無関心ではあられません。すべてのことを相働かせて、私たちにとって益になるようにして下さるのです。
 もし、私たちに神と同じ知恵と賢さがあったら、私たちへの祝福と恵みの手順が良く分かって、困難なときにも、その次に来るより大きな恵みの故に、安心して耐えていくことができることでしょう。しかし、私たちにはそれがわからないため、不安もあり試練に耐えることが辛いことになってしまうのです。

  「神と同じ知恵と賢さ」−−そんなものが人間にあるわけはない。私たちは独力で爪一枚も作れない。しかし、爪がむけてしまっても、爪は自然に生えてくる。「神が決して無関心ではない」ということを、どうして桜井さんは信じられるのだろう。腸にポリ−プができた人に対する神の関心は、そのポリ−プを取ってやろうという働きになるのだろうか。神に頼まないかぎり、そのポリ−プはだんだん大きくなって、その人の命を奪うのであろうか。「神の手順」は分からない。人間の知恵は何の足しにもならない。「知」は無力無能であるから、神とつながる唯一の道は「信」である、と桜井さんは言う。「信」とは、無条件・無批判の受け入れである。希望を持ち、神のなさり方にあらかじめ感謝することである。たとえ末期癌という重荷を負っていても、神を信じ切ることである。そういう「信」を持つことは、人間の能力範囲に入っているのだろうか。人間に「信」が可能なのだろうか?
 「信」という第一歩すら神の賜物だと思われる。私がどう思おうと、それに関係なく、「信」は神の最大の賜物である。人間には、祈る力までも奪い去られるような最悪の落ち込みがある。そのときでも、人といっしょに祈ってくれる神。信じられない人間に力を添えて、ともに信じてくれる神。神という古里に人を連れ帰ってくれる神。どん底の人間に手を伸ばしてくれる神。善悪の差別を無視して、終身刑に喘いでいる極悪人にも語りかけてくれる神。(スタ−・デイリ−というアメリカの受刑者は、そのような神のアプロ−チを受けた。)そういう神なら、私にでも信じられそうだ。ダルマ的条件を課せられたら、手も足も出ない。色欲の目をくり抜き、私の僅かばかりの財産でも極貧の人に恵んでしまえと迫られたら、お手上げだ。そんなこと、できるわけはない。神の条件は過大・苛酷である。上着を取られたら、下着もおまけにつけてやれ。左頬を殴られたら、ニコニコと「右のほっぺたもどうぞ」と差し出す。妻を強姦されたら、娘のほうにもどうぞと招く。これはキチガイ沙汰である。しかし、そのキチガイにならねば、神のことは分からないと、キリストは言った。神狂いに狂い抜くしか道はないのか。
 人々は、クリスチャンですらも、その辺は適当にやっているようである。その適当を神は大目に見ておられるようだ。その大目が神の愛と寛大なのか。キリストは全人類の罪を背負って死んで下さった。だから、私たちの罪は許されているのです。そういう神学がある。勝手な論理に思えてならない。人に、しかも神の独り子と言われる人に、自分の罪をあずけ、なすりつけて、こちらはサバサバしているという信仰がどうしても納得できない。キリストは、「おまえたちも自分の十字架を背負って、わたしのあとからついてきなさい」と言った。「いや、そんな十字架は私にはありません。十字架はあなたの分だけで充分です」と言い張って聞かないクリスチャンが沢山いる。虫のいい話である。バイブルのなかで、自分に都合のいいところばかりを採用し記憶している。
 キリストが通った受難なら、自分も喜んでそれを受けようと、群衆の石に打たれて死んだあのステパノ。そのほか、無数の殉教者。踏み絵を拒否して十字架にかかった長崎のあの24人の聖人たち。それとアメリカ風のにこやかな牧師と神父たち。別人種ではないかとさえ思う。

52.小説断滅
                                       在天神940307/1508
 戦国時代の臨済宗の僧に快川(カイセン)という人物がいた。武田信玄の帰依を受け、今の塩山市にある恵林寺に住した。1582年に織田信長の軍の攻略を受け、寺を焼かれた。快川は山門の楼上に座ったまま焼け死んだ。「心頭を滅却すれば火もまた涼し」と唱えたという。神にも仏にも頼らぬ禅僧の死に様であるが、その平静さは異教のステパノに比肩する。
 イカキ先生が如風和尚を訪ねたときも、快川の話が出た。オ−シン博士はステパノについて語った。林参先生は黙然として二人の話を聞いていた。(小説の続行だ。)
 「日蓮が斬首の刑に遭おうとしたとき、突然雷が閃いて、武士が振り上げた太刀に落雷があったために、日蓮は難を逃れたという話がありますが、快川の場合にも、ステパノの場合にもそういう奇跡はなかったのですね」と、最後に林参先生が尋ねた。
 「なかったようです」と、イカキ先生は答えた。
 「ノ−」と、オ−シン博士も答えた。そばにミス・パクがいる。
 カズコは林参先生の隣に座り、その場は全部で5人だった。
 「奇跡はめったに起こらぬ。それでいいのじゃ。」99歳になるという如風和尚はにこにこしておられる。達観そのものの老人である。寺住まいもだいぶ以前にやめ、今は小さい茅葺きの庵に住んでおられる。寺からは歩いてこられる距離で、毎日、若い僧が交替で和尚の身の回りの世話にかよってくるが、その寺僧も夕食を差し上げてからは帰ってしまった。ラジオもテレビもない簡素な住居である。虫の音だけが庵を包んでいた。
 「あなたは奇跡がお好きかな?」と、和尚は林参先生に尋ねた。
 「別に好きということもございませんが、わたしの周囲に時たま不思議なことが起こることはあります。」
 「それは当たりまえということであろうのう。」
 「自然といえば自然であります。わたし以外の者が不思議というだけのことです。」
 「そうじゃろう。」

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 そして、小説の情景は消えてしまった。奇跡もミステリ−もない日常的な私。時刻は940308/2131。昨日も今日も夜昼なく眠ってばかりいた。いつものウツに追いつかれ、取りつかれ、大説も小説も進行しない。眠たいばかりである。