むじな
けぼ、必ずこちらも酒を飲んで、元どおりになることが分かっていたからだ。
 私は酒には興味はなくなっていたが、あル日、猛然と飲みたくなった。愉美子に内緒で、大分市へ出て、ワンカップを飲んだ。その強烈なこと!私は朝群人の友達のことを思い出し、車で彼のとこうに行った。焼け跡が残っていた。近<の人に聞いたら、昨日昼火事が出て、足の不自由な彼は逃げ損ねて焼け死んだという話だった。彼が寝ていたあたりに、暁酎1杯と野花が手向けてあった。私は泣いた。幽体になってから、私を通じて飲みたかったのである。憑霊が起こっていたのだ。私は飲酒にもどって、表彰状は貰えなかった。

 清川村に住んでいたころ、ある人のベストセラーが私を肴代の「超秀才」と持ち上げた。何百通もの問い合わせが来た。教皇予言についてであった。お金や切手が沢山やってきた。その結果、私はあちこちの講演会に招かれたりして、多忙の極みであった。インドのサイババに会いに、2年続けて行った。
 そして、阪神大震災のまえの年に、インド帰りの報告をするために、清川村で講演会をやったとき、大酒のんで、ある小癪な小娘を張り飛ばしたので、会は大混乱。今は女を殴る男の数は暁の星の数ほどだそうで、私は愉美子に叱られ、今すぐこの家から出てゆけで、それが恐らくは永遠の別れとなるだうう(電話は通じる。)

大和に移る
                      在橿原990403/0312
 午前3時が私の大体の起床時刻であるが、けさは4時のチャイムが鳴った瞬間に、私は夢をみていた。それは気功の講義であって、私は愉美子と同席していた。その流派の太祖の名は「チャクゼン」と言って、チャクは竹かんむりに「者」という字を書く。ゼンは聞きもらしたが、夢は忘れることが多いので、私は起きてしまった。長い夢で、中断するのは残念だったが、いずれその続きが見られるといいなと思っている。

 以上は本文と関係ないが、私は急に「角」の水割りを飲みたくなって、HHの禁を破った。どうも私は禁制を破らないと生きて行けない人間のようである。男が女を殴るというのも禁制であろう。しかし、私は何度破ってきたか分からない。清川村での研修会でも、私が殴った女は私の指に噛みついた。向こうは唇に薄く出血していた。とにかく、これが私の単身大和移住のきっかけとなった。
 愉美子は大興奮で、サイババの写真類を全部剥がして、私の旅行鞄に詰め込んだ。深夜なのにタクシーを呼んで、私を押し込んだ。隣の三重町にホテルの予約の話がついているという。そこから、何年ぶりかの無銭ZA旅が始まった。元三は何年か前に、オウム真理教に逃げ込んで消息が定かでない。何日もかけて天理市に着いたた。私は朝倉大教会に属していたので、そこの詰所に−応入った。
 毎日お地場を5〜6時間は歩いた。当時は脚が強健だった。おやさまに祈った。私に住居を与えたまえと。ずいぶん長く滞在していたし、線香を燻らせていたから、事務所側は私をオウム真理教の回し者と思ったらしい。出てくれの強要のあったとき、私に50万ほどの金ができた。私は「気」歩きに入り、行ったこともない橿原神宮前駅に下車した。そこで脚の導くままに歩いたら、ある喫茶店に

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入った。そこのマスターの紹介で或る不動産屋につながり、とんとん拍子で明日香マンションに入った。それが私の大和定住の始まり。

 その直後から、阪神大震災やサリン事件が立て続けに起こった。

ワコ
                      在橿原990403/0443
 通常の読み方のカズコから、私はワコに変えた。天理の詰所にいたころから、何回か来て身の回りの世話をしてくれた。そのテキパキした仕事ぶりに惚れて、私はただちに彼女の恋の奴となった。京都の人妻であったが、結局、私のところに来て同棲するようになった。亭主への完全な反逆だった。そして、一つの家庭が崩壊した。3カ月は一緒に暮らしたか。それからまた暴力で二人は涙の別れをした。今は消息知れず。
 好きな女になぜ暴力の沙汰に及ぶのか。私が深く迫るからだ。魂の奥まで自分のものにしたいからだ。必ず抵抗がある。それで暴力。私の水割りは3杯目。

 5時だ。こういった書き方はいけないのかもしれない。自伝に現在が紛れこんでいる。でも、あれほどに愛したワコについて、詳しいことを書くのは辛い。ワコは70近い私に勃起+射精をさせてくれた。その後は曖昧模糊としている。きっとなかったのであろう。女体があっても気は乗らないという風に。そして、私は女性に興味を失ってきた。最後の女はワコ。それでいい。

 脚がゆらゆらモタモタしている。HHがくるまで4時間半寝るか。

明日香マンション
                      在橿原990403/0918
 明日香村と橿原市との境目にあった。南向きで太陽の動きとともに洗濯に励んだ。引っ越しして間もなく、翌年に阪神大震災が起こった。私はテレビを見て、毎日泣いていたので、目を泣き腫らして眼科に行くようになってしまった。そのあとにワコが来て、新婚旅行のつもりで富士周辺の旅をした。そこがほとんどオウム真理教の根拠地だったので、深夜異様な波動を感じて、落ち着かず、普通でない怒りに襲われた。

 人の出入りも多く、ワコはよく働いてくれたが、「ほんみち」という天理教の派の研究に身を入れすぎて、ほとんど徹夜でその文献の研究を、あるホテルの−室でワコと行なったが、それは体力の限界を越えていたのだうう。気の乗らぬ態度を示したので、私は怒った。ワコは工レベーターのほうに逃げようとしたので、引き戻して打擲した。そのとき首を絞めたと記憶する。その後、私が眠っているときに彼女は脱走した。そのショックで二人は別れることとなった。
 その後、私はめしも食わず、腰椎の椎間板ヘルニアを起こし、死ぬほど苦しんだ。

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