むじな
山岸会の女
                       在橿原990403/1241
 ワコと一緒に暮らしていたころ、関東地方から一人の女がやってきた。山岸会に入っていると言っていた。「お散歩にいってらっしやい」となぜか、ワコは言った。甘樫の丘を一巡した。昔、蘇我氏が栄えていたところで、中大兄皇子に滅ぼされた豪族だった。
 彼女は子供を会に置いてきて単身だった。40代だったと思う。彼女は私と結婚したくてやってきたようだった。ワコがすでにいるのを見て、「来るのがほんのすこし遅かった」と嘆いていた。
 夜になって布団を敷くと、彼女はさっさと奥の間の私の布団にもぐり込んで、「はやくこちらにいらして」と促す。ワコなど完全に無視している。私はワコと顔を見合わせて、そのまま逃げてしまおうということになった、逃げて、とあるラブホテルに泊まった。翌朝はさすがの彼女の興奮も落ち着いていて、ワコの友達が急を聞いて駆けつけ、どこかでご馳走して、帰りの旅費を持たせて帰した。二度とその女からは連絡はない。世にも奇妙なことがあるものだ。

椎間板ヘルニア
                       在橿原990403/1311

 時計は1111を指している。あのヘルニアが始まったころは、歩けなくなって、座敷中を這い回った。だんだん歩けるようになっても、足の裏がカツカと熱い。そして痛い。その痛さはまだ残っている。

 もう4月5日になっている。昨日は午前11時ごろから、けさの7時まで寝ていた。20時間も寝ていたわけだ。あいだあいだに、小用にゆき、電話に答え、食事もしていたようだ。しかし、だんだん時間が分からなくなり、今日は火曜日と感違いし、HHを迎える支度をしていたら、やたら酒が飲みたい。気づいたた、今日は月曜日の朝だった。喜んで飲んでいる。ヘルニアから始まった全身の痛みはどうにもならん。リハビリのため温水プールのある水泳学校に行こうと思っている。水泳パンツと帽子を買って、あとは月に5600円かかる。馬鹿馬鹿しいのかもしれない。もう少し寝るわ。9:41AM。

錦荘に移転
                       在橿原990405/1223

 生活保護で決まっている住宅費の上限を明日香マンションが越えていたので、今の3万5000円の文化住宅に移った。2DKのアパートである。何もおこらぬ。つまらない、といっても、孤独老人であるから、それなりの事件はしょっちゅう起きる。壁におでこをぶつけるなどは日常事で、うっかり自転車に乗って、二回ドブに嵌ったことがある。そういう外傷性だと思われるが、去年の暮れ、蜘蛛膜より表側にある硬膜下の血腫で大嫌いな脳外科の手術を受けた。病院を二つに老人ホーム一つを転々として、2カ月を越えてしまった。それで手紙の返事も書けず


                −5−

あちこちに失礼した。お詫び申し上げます。
 錦荘に来てからは楽しい思い出がないので、ムジナは化けて少年になる。


アリンコ
                       在橿原990406/0809

 私はアリが好きで、母さんからお砂糖をもらって、蟻の穴の周辺にまき、彼らが
何をするかを懸命に観察した。まだ小学校にも上がっていなかっただろう。杉並区の貸家暮らしである。近くに私を可愛がってくれるハントンちやん(旗本)という小母ちやんがいた。そこにゆくと、真ん中に一筋入った珍しいごはんを食べさせてくれる。「ハントンちやん、このお米何というの?」「おむぎというのよ。りんちゃんのところでは食べないの?」「うん、たべない。」
 岡山の祖父が、食べる米にも苦労しているだろうと思って、定期的に、自分が山で作った米を送ってくれるのだった。したがって、白米しか見たことがない。当時は今の値段と違って、麦の値段はぐんと安かった。脚気の閑係もあううが、軍隊でも刑務所でも麦飯だった。

 その年か次の年に、両親に連れられて、鉄道省の偉い官吏をやっていた親類の家に遊びに行った。そこの坊やが二人も立て続けに狸紅熱で死んだので、父は葬儀委員長のような仕事の忙しさで長逗留になってしまった。
 その年の翌年に、私は杉並第3小学校に入り、12月23日には、いまの天皇陛下がお生まれになり、学童は提灯行列をやってお祝いした。なにしろ初めての皇子誕生である。国民が熱狂したのも無理はない。

ヤクザの伯父さん
                       在橿原990406/0910
 狸紅熱というのは、最近あまり聞かない病名だが、幼児期から学童期にかけて多いとされる。熱を伴い、紅色の発疹が出る。あの家庭でやられなかったのは、長男と私だった。
 あのうちは毎日のように豚肉を食へていたから、それが原因かもしれない。新千葉駅に近いあの辺はきっと豚肉が安かったのであうう。私は自家では主として野菜と魚を食べていた。父は逆に魚は臭いとか言って、牛肉を好物としていた。生来の菜食家なのか、子供の私は歯は出揃っているのに、牛肉が嫌いで、チュウチュウ汁だけ吸って、あとは吐き出してしまうのだった。今も、ニワトリ、豚、牛は全部好まない。ニワトリなど臭くて敵わない。やはり、子供のころと同じで、魚は好きだ。ただし、赤身の魚はだめだ。鮪のトロなどは閉口だ。貝、蟹、蛸、烏賊はOKである。

 生き残った和正兄さん(と呼んでいた)は、子供たちのなかで一番成績が悪く、皆に軽蔑されていたが、鉄道省の大伯父さんが、世話をしてくれるみんなと死に別れ(娘はカーティス・工レベーターの社員の嫁になり、その人はのちに出世して日本支社長となった)という境遇になると、その一番出来の悪い息子に面倒を見てもらう

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