むじな
 光の話の続きであるが、私は新聞小説を楽に読みこなしていた少年だった。反射的に藻字を書いてしまっただけだった。
 前の年に「少年倶楽部」と「立川文庫」と「子供の科学」を、脱肛のために毎日読んでいた結果だから仕方がない。国語力は6年生並みだったかもしれない。きっと秀才だったのだうう。

級長になった
                       在橿原990408/0003
 杉並第3から第5、次は目黒区緑が丘小学校に移った。級長はチビだが、最前列に立って、朝のご挨拶に、ひとり高い壇に上がっている校長先生の前に進み出て、「おはようございます」と言うのである。すると、全生徒がオハヨウゴザイマスを斉唱するわけだ。

 私は第一回卒業生だったので、3年生のときから、ずっと最上級生だった。
 支那事変の慰霊祭には、女の子の代表とタクシーで出かけた。弔辞を読むのである。アベックで出かける私たちを、同級生は羨ましそうに見ていたが、こちらはそれどころではない。前の日から弔辞を作文し、墨で書かねばならない。卒業式のときも同じだった。優等生は何と忙しいことだろう。

 みなの世話もしなければいけない。名誉職どころではない。帰り道が一緒の松原君と歩いていたら、彼がうっかり田舎の香水のプールに、どっぶり浸かってしまった。そこらの水道で体を洗うように言ってから、懸命に松原君の家に走った。継母みたいな人で、オネショ布団を背中に負わせて、道端に立たせておくような人だったが、とにかく、渋い顔をして着替えを出してくれた。松原君は震えているだろうと思って、超スピードで走った。今と違って、運動不足で悩むということはなかった。
 その後、悪童たちは小学唱歌のもじり唄を始めた。

     松原ちかく
     寄ると臭い
     ・・・・・
 私は怒らなかった。そんなものだと諦めていた。

ドッジボール
                       在橿原990408/0446
 恐怖の対象だった。水崎恒夫先生はこれに熱中して、私たちを最強のチームに育て上げ、あちこちの試合で優勝した。私は逃げ回るのみ。外野(枠の外)でどうにか時間を潰した。ああ、こわ! 野球もだめ。三振ばかりだった。だから、総じて、スポーツは大嫌い。
 東京都立一中に入ってから、やっと私は自分に向くスポーツを見つけた。それは個人でやる水泳と鉄棒だった。水泳は立ち泳ぎが出来る。神伝流の極意をつかんだ。鉄棒は大車輪こそやらないが、小技では優秀だった。その代わり、グループでやるスポーツはみんな駄目だった。孤独人の傾向は、脱肛時代から続いているようだ。

                 −9−

 私は学校プールで、皆の脚の毛が濃く、あのあたりの膨らみが私より大きいので、劣等感をもった。柔道では出足払いのような小技でよく敵を倒したが、海軍兵学校に行った菊池君という黒帯の背負い投げにはどうしても勝てなかったが、ある日、一種の霊感が働いて、逃げようとせずに、片足を軽く曲げて相手の背中に積極的に乗るようにしたら、こちらの体がー転して、投げられたはずの私が彼の前にスックと立っている自分を発見した。
 ほかのスポーツはみんな駄目だった。

初めて飲んだ酒
                       在橿原990408/1823
 学齢前の私の家に、大酒のみの父の友人がよく来た。私を見ると、ジャジジャジと奇声を発するので、私は彼をジャジジャと呼んでいた。もちろん、大人たちは私に酒を強要したりしなかったが、中学の上級生になって、富士山の麓で野営で軍事教練をすることになった。父は思いがけなく、小さい瓶に洒を入れて、「山の夜は寒いから、風邪を引かないようにこれを持っていきなさい」と渡してくれた。素直にチョビチョビと飲んだが、熱い感じがしただけで、味など全く分からなかった。
 高校では、19歳のときにタバコを吸い始めたが、酒のほうは、大学を出るまで、ほとんど一滴も飲まなかった。だから、高校の新人教師として、先輩からの酒責めにあったときも、私ひとりはダウンせず、みなは「強いねえ」と言った。もともとそういう体質だったのだろう。
 しかし、仕事と研究に熱中していた私は、45歳まで酒を飲まなかった。だが、織子の準不倫で、一足とぴに一日一升を飲むようになった。そして、アル中になって大苦労をした。
 今日も、ウイスキーで腰が抜けて、もう一生飲むまいと決意をしたのに、数時間たつとまた日本酒をチビチビやっている。
 明日から、リハビリのためにスウィミング・スクールに週1回通おうと思っているのに情けないことである。
 齢とともに弱くなって、すぐ脚に来る。何しろ、杖を突いて歩いているのだから。

「霊気療法」
                       在橿原990408/1851

 弟・珠樹が2〜3歳のころ死にかけたとき、演劇界の長老である松居松翁先生から救われた。父もその「霊気療法」を習って、素質があったらしく上達した。いまレイキの名で有名になっている治療法もこの流派であろう。松尾松翁先生は貧乏人からはカネを取らなかったが、レイキは充分にビジネス式にやっている。霊的なものはない。
 私も父からの直伝で、病人がいれぼ手を当てることがある。ただし、一切無料である。あの療法は本来カネをとるべきものではない。

                −10/16−