どうにか杖で歩いてきました。左ききなので左手で杖をもちます。右腰故障なら右で持つべきなのでしょうか。私はこういうこと無知です。なにしろ初めての体験ですから。帰ったら、五月から「お酒飲みすぎよ。顔が赤い」と云われました。たしかに食欲はない。元どおりです。それでも頭脳労働はできます。いや、しなければならない気の促しがあります。酒は飲み続けています。皆さんの云うとおりには行きません。自制心や自由意志が効きません。憑霊のブリ返しなのかな。遠い先祖や個魂のカルマは難渋するものです。「爽」で無酒になると、私は人の憑霊を除くことができます。若いころ、何度でもやりました。しかし、憑霊になると、どうにもなりません。(後記−−五月は右腰を痛めていました。)


サーモン豪華朝食
     在樫原平成12年4月28日午前9時41分
9時にサ−モンと納豆その他で豪華朝食を済ませました。ご飯も2杯。どうして、こんなに食べられるのか分かりません。多飲多食の霊でも憑いたのかな。ゆっくりゆっくり書こうと思っているのですが、眠ったり食事したり排便したりする以外の時間は、どうしても頭脳労働になります。そして「ゆっくり」が不可能になります。

酒で自分を眠らせました。ゆっくりするために。途中便意を催し、トイレに行ったら、紙がたくさん要る下痢便となりました。原因は明らかに酒。正露丸を3粒飲みました。部屋に戻って酒。酒止めも「ゆっくり」としかできません。酒は百薬の長どころか、百毒の最下です。分かっていてもやめられない口です。[ゆっくり]は悪書になるのかもしれません。

組織としての天理教は治病力が衰えています。今のところ、私の知るかぎり、崇教真光がもっとも活発に治病をしています。頼るしかありませんが、いつ下痢になるか分からないこの身体では、「お浄め所」に出かけることができません。向こうのお方が来るのを待つしかありません。今、午後0時11分。

食べなければ下痢はないのですが、最近食欲増進という現象が起こっています。入れれば出すしかありません。黒い便です。宿便がまだあるのかもしれません。体重を計ってきます。55.9キロもありました。食物が身に付いているのです。55キロは昔の旅時代の平均健康体重でした。

因縁・カルマのことを、英語ではcause and effect(原因結果)と云います。因あれば果あり。エドガ−・ケイシ−は、「人間みな、その果に巡り会っているのだ」と教えました。個魂問題です。そこに先祖霊がからむと、全くどうしようもない複雑な状況になります。崇教真光では、国から国にも転生する個魂問題を取り上げていません。もっぱら先祖供養です、

もう最後のペ−ジです。「ゆっくり」が思うように行きません。セカセカした性質は取れたと思っているのですが、全体の仕組みでしょう。抗しがたいものがあります。食欲、飲酒、下痢、服薬、喫煙、昼寝、睡眠剤服用。このリサイクルです。何にもない健康体になりたい。それでこそ真の「爽」です。

不思議にも、「鬱」は取れています。そして「微爽」です。たとえば、バッタ(飛蝗)のリサ−チができます。世界に約5000種もいて、日本には約40種いるそうです。オンブバッタ、トノサマバッタ、ショウリョウバッタ、ヒシバッタ、クルマバッタなどです。
もちろん、記憶力のない私はこういう名前はすぐ忘れてしまいます。本に書いておけば、誰かの役に立つだろうと思うだけです。また、「鬱」が取れて、あらゆる面倒臭さが消えて、どんなこともできる自分の再確認です。


忘れん坊
在樫原平成12年4月28日午後0時53分
超健忘症は都立一中以来です。よく東大を出て、地方公務員試験に受かり、足立高校の先生になり、オハイオ州立大学にも留学できたと不思議でなりません。今朝洗顔の際、風呂場の電灯を点けっぱなしにしておいて、気づいて消したのはついさっきでした。私の頭脳は変わっているのです、きっと。中学時代には親友の名前を忘れたり、英単語ひとつ覚えるのに、辞書を8回引いたり、ひどいものでした。最近でも、「ご住所は?」と聞かれると、すぐ「鳥屋町」が出ないことが多いのです。錦荘となると、ますます困難です。連想法で「故郷に錦を飾れなかった僕」と覚えることにしました。愉美子の電話番号なども大変苦労して、「産後苦なし不意に寄れ」と覚えました。35−974−2140です。
 普通の人は暗記がお上手のようです。「ああ田中さんね、28の7694よ」という具合に出て来ます。私が弟・珠樹の妻の名前を忘れたとき、亡母は「綾錦のアヤよ」と教えてくれました。連想法は普通の人も使っているのかもしれません。私は連想法オンリ−ですが、連想そのものを忘れることがあるので、よく掛ける電話番号はメモに大きく書いて。襖(ふすま)にギッチリ貼ってあります。さっき、月末まで二日ありますが、ありったけで払おうと思って、家主に電話しました。(覚えられない電話。)すると、午後にお出でになるというので、待っているところです。私の足が不自由なのをご存じなので、親切にして下さるのです。


堂本正成さん入来(ジュライ)
                在樫原平成12年4月28日午後8時39分
 堂本正成さんが来て、五月のご馳走を食べてゆきました。ご飯も炊き込みのを3杯。私も2杯たべ、堂本さんにお弁当のお土産を五月が作って上げたので、五月自身が食べるご飯がなくなり、私のところに来て「お酒ちょうだいな。」珍しいことですが、茶碗で2杯飲んで、それから眠くなったと申し、寝てしまいました。彼女はそういう奉仕型の人間です。珠樹たちが来るときにも、山菜の天ぷらを作ると云っています。

 堂本正成さんが、これも珍しく燗酒を所望したので、五月が徳利と盃を持ってきました。彼は大喜びでした。いつも弁当ものをロ−ソンなどよそから買って、一日一食くらいだったので、大きい弁当を貰って、「あすはこれで済む」と大感激。「五月さんを大切にしないとあかんで」とのことでした。彼が来たので、お付き合いで



ゆっくり