自己限定
                            在樫原平成12年4月28日午後11時58分
 そろそろ零時です。「自己限定」は崇教真光で戒めるところです。ヘルパ−は、私が300歩が限界だと云ったら、「そこのところを次は350歩、次は400歩と伸ばしなさいよ」と忠告しました。私はあきらかに自己限定をしていました。しかし、逆に云えば、睡眠剤は副作用を伴うとか、酒を飲みすぎると下痢になるとかいうのも、自己限定ではないのでしょうか。天の邪鬼だからこそ、そういう発想ができます。もう零時を3分過ぎました。ミン剤をのみます。

 服みました。「のみ」で字を出そうとしたら、蚤が出ました。途端に身体じゅうが痒くなり、あちこち掻き始めました。私は暗示に弱いのです。蚤がいるのかいないのか。膝を検査したら、たしかにダニかノミに二ヵ所食われたあとがありました。いつもは気を向けないので、気にならないのでしょう。人間万事、"気"次第。身体が熱くなって、冬シャツ一枚になりました。室温は20度です。
                               
 アアアと大欠伸が出ます。シドロモドロになる前に寝ようかしら。ところが意識は案外ハッキリしています。

 第1章の最終ペ−ジになっています。あす4月29日(昭和天皇誕生日)にかけて完結でしょう。いやもう、4月29日の午前0時21分です。酒、まだ少量残っています。それを飲みきってから寝ましょう。気候が熱いと人体が熱いと、私は今まで熱いと暑いをゴッチャにしていました。リサ−チして、今それを確認しました。リサ−チをせっせとやるのは、私が「鬱」でない証拠です。「鬱」だと、字は書くけれども、そこまではやりません。すこし、シドロモドロになりかけました。ここで一応切ります。保存をして。


                        第2章

長すぎた
                             在樫原平成12年4月29日午後1時29分
 第1章が長すぎましたので、第2章を短くします。五月がさっき(言葉がダブリそう)私うどんを作ってくれたとき、「ヤリコミに作ったぜ」とか何とか云ったのが解(げ)せず、言葉の意味を聞きにいったところ、「ヤワラカメに作ったということです」という答えでした。東京でヤリコミというとヤリコマスことと受け取られます。きっと、ヤワラカイメがヤワラコウメになり、さらにヤリコメ、ヤリコミになったのでしょう。異郷に来たら、何でも分からない言葉の意味を聞くべきです。 

 それにしても、よく何でも沢山たべるようになりました。今度はリンゴとバナナとニンジンのミックス・ジュ−スを作ってくれるそうです。昨日、堂本正成さんとつき合って飲んで、また下痢になりましたが、5月4日に珠樹と松嶌徹さんが来るときには、あまり飲まないようにしようと決心しています。体重を計ったら56.4キロ。50〜2キロ台をフラフラしていた時代に比べると、格段の差です。

 急に下痢の"気"が起こり、トイレに駆け込みました。ヘルパ−に進められて、逆向きの道具に逆座りとなりました。女式です。今まで腰の痛さで終わってから立ち上がりにくかったのですが、楽になりました。ですが、酒故の下痢続きだと悲観していました。その最中、崇教真光の女人が二人来ました。凄い偶然=必然です。下痢のことを話して、黒い下痢でしたと言ったら、「それはよかったですねえ。黒いのは宿便です。腸がだんだん奇麗になります。出るものは出すことです」と。

 それから40分の「手かざし」を受けました。別に何ということはありませんが、腎盂のあたりを軽く指圧されたら、気持ちよく痛く感じました。「手かざし」は霊気療法のように、患者の身体に手を接しません。それから、無言でそのあいだ祈るということもしません。私とのあいだにも、二人同士でも雑談をタップリやっています。私の場合、不眠症なので、後頭部と鼠径部に特に「手かざし」をします。効くのかなあと思いますが、五月と仲良しになったり、経済的にもゆったりしてきたので、私は有難いと思っています。


                        第3章

ウナ重
                             在橿原平成12年4月29日午後7時49分
 これを書いていたら、五月手製のウナ重が届きました。野菜ス−プも漬け物も付いています。空腹感はないのに、すぐ食べ出しました。スイスイ入ります。酒と食事は別ものだなと悟りました。漬け物分のご飯が足りなくなり、もう一杯所望したほどです。漬け物は壬生菜だそうです。壬生菜はミズナの変種と云います。すこし固かったけれど、五月は私のために細かく切ってくれました。これだけ3食たべていたら、体重はどんどん増えるでしょう。今は56.7キロです。

 さすがに、お酒は飲みたくなくなりました。ウナ重は珠樹も喜ぶだろうと言ったら、作ってあげるということです。料理知識の宝庫のような人です。喘息は可哀相。今もやっています。病人と病人が同居して、助け合っている図です。

 食後、横になって休んでいたら、五月がテレビを見に来ました。台所の電球は普通の60Wで暗いと云っていましたが、要するに私の部屋に来たかったのでしょう。私は起きました。寝床にいたころ、入れ歯で右のほっぺたをよく噛むので、そのことを言ったら、「それはね、右の肩が凝っているからよ」ですって。

 何だろう。これを書いていたら、眠気が来た。「手かざし」が効いてきたのでしょうか。五月は9時からの事件ものを見るという。私は入れ歯を水に入れて、早めに眠ろうと思っています。

 会いたくなったというのは、「鬱」の消滅か減退でしょう。酒は続いています。崇教真光の人は下痢を歓迎していましたが、酒をやめろとは云いませんでした。

 崇教真光の信者(「神組み手」)は49万7000人と大島宏之の本に出ています。「世界人類が平和でありますように」のポスタ−を日本中に貼り巡らせた白光真宏会は、生長の家から独立した五井昌久が63歳で急死しましたが、その信者数は案外に少なく、約20万人と記録されています。信者数の多少は全く分からないものです。物を買いにゆくと、よく商店主が「これはよく売れていますよ」という進めかたをしますが、私はこの売り方を無視します。一個も売れなくても、いいものはいいのです。教団も同じこと。
ゆっくり