亜里さん!
                                     放天神930629/1555
                  初一念即行 V S 行動前熟慮

 テーマを書いたら越前TVの時間が来て、見ていたら、越前鯖江にお出かけの前日発の
お便りとフグと感熱紙と私の原稿が届きました。0627のお便りでは、奥方不調とのこと気がかりです。
 原稿はあなた以外には見せる人もいないので、返却には及ばなかったと思っています。
 サイの学生講話は、私の子供時代から受けた修身教育のおさらいみたいな気がしています。青年にはこういうダルマ講話しかないでしょうし、ひねた大人の背徳漢や罪人向きの公開講演などありえようがありません。易しい骨の折れない翻訳で口を糊する道を開いてくださったサイパパは私を教育し直しながら、純粋帰依の愉美子とその子たちの生活を見てくれているのだと、素直に受け取るしかないようです。
 難しい霊的心理分析にすぐれていたメーヘル・ババのDISCOURSESを合間合間に読んでいますが、前よりよく分かるようになったのは、サイパパのおかげでしょう。メーヘル・パパの言葉では、非常に稀な場合だが、二人以上のグルが連合して一人の求道者の面倒を見ることもあるとのことです。
 私は多くのグルについて来ましたが、それぞれの道標の矢印のままに素直に歩んでいたつもりでしたが、やはり好き嫌いで収捨選択をやってきたようで、矢印の記憶ばかりが知識倉庫に満載で、その在庫品を随時取り出して自分好みに組合せをやってきただけ。再検討すればあちこち矛盾だらけ。その一つが冒頭のテーマ。

 「最初のチラを大切に」と、私は若いときから生きてきました。人からは衝動主義と批判されてきました。30代、山岸会にかよっていたころも、研鑚の場で、古い会員から、「リンサンはピンポン玉みたいに、すぐ打てば返すをする癖があるが、相手の言葉をじっくり自分の胸に収めて、よく玩味し、それから物を言うようにしたらどうですか?」と言われたことがあります。
 それも尤もとは思いながら、じっくりと作戦を考えたり守備を固めたりになりそうで、そこに不純なものが忍びこみそうなので、それを警戒して、やはり江戸っ子なのか、新鮮なうちに刺身にしてしまうというような包丁さばきばかりしていました。
 今朝からやっていたサイパパ講話に、「現代の人々の多くは、何か考えつくとそれを急いで行動に移す癖があるが、心を調教するには、浮かんだ思いを理知(buddhi)でよくよく吟味し、理非曲直を熟慮によって判断し、しかるのち実行せよ」という教えがありました。
 早とちり、気分に任せた性急な判断というものは、あなたのように団体の長である人には危険きわまりないものでしょう。サイパパの言うようにしていれば間違いはないし、あなたは教えられなくても、そのようにしています。
 「チラと浮かんだことを直ちに実行せよ」と教えたのは、ひとのみち教団の幹部であり、御木徳近の叔父貴(または家老)格の丸山敏雄でした。マッカーサー命令で牢屋から出さ
れ、御木一族から別れ、「倫理研究所」を設立しました。全国の朝起き会の元祖です。
 丸山氏(今は2代目が継いでいます)は京大の哲学を出た人と思います。(日出麿さんと似ています。) ひとのみち教祖は修験道から出た人で、アカデミズムと無縁の人。王仁
三郎もそうですが、霊感や直感のゆたかな人は、側近にインテリを置きたがるのかもしれ
ません。

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 サイババですら、GOKAKやKASTURIはインドー流の知識人。MURPHET,HISLOP,PENNたちも揃ってハイクラスのインテリです。(ヒスロツプは落ちるが。)日本の青山圭秀さんもその系列です。
 メーヘル・ババは彼自身が高いIQの持ち主でしたから、自分の思想を精密に整理することができました。周囲に特別の賢人はいなかったようです。
 イエスも仏陀も最高の知識人でした。イエスの12使徒は庶民。受難後に拾われたパウロは知識人。仏陀十大弟子のうち知恵第一のシャリホツは記憶力はよかったが、賢者というほどの人ではなかったようです。
 サイババはインド聖典の学識では子供のころからどんな学者より上だったと伝えられていますが、公開講演ではそのようなところはおくびにも出しません。イエスも山上の垂訓のように、多くは庶民の言葉で語り、例え話をたくさんなさった。サイパパも同じです。
 メーヘル・ババとちがって、サイババやキリストや仏陀は自分では本を書きません。弟子たちが「について」の本を書くだけです。

 話を戻して、丸山敏雄は知性派の自分に欠けていたものを「ひとのみち」教祖に見たのでしょう。牢獄から出てからは、直感的・霊感的な部分の開発に専念していたようです。郵便用語ですが、「お振替」ということをよくやっていました。危機に臨んだ信者が「丸山先生!」と遠くで叫ぶと、その病気なり危険なりを先生が自分の身に振り替えて救ってくださるというのです。PL になってからは、そのことは消えています。徳近にはその父のような霊的能力がなかったのでしょう。この面は倫理研究所に流れました。
 丸山の例話(もうお話したと思う)に、ある人がふと目を覚ましたら、急に台所にゆきたくなったので、寝巻きのまま行ってみたところ、裏の戸から入ろうとしていた泥棒と鉢合わせして、泥棒がぴっくりして逃げたというようなことがありました。こういう場合には熟慮は問題外です。「何で夜中の3時に起きたのだろう。このまま台所に行って風邪でも引くのは愚かなことだ。もう一度、寝直しをするのがいい」という判断が来るでしょう。そして、混棒は仕事に成功して、朝が来るというわけ。
 車を走らせていた。交差点。前は緑でゴーサインだが、なぜか分からぬが、チラとストップの気が起きて、ブレーキをかけてしまった。そこへ、信号無視の暴走車が目の前を突っ切って行った。ヤレヤレ!
 20代終わりの私は、こういう話が好きでした。本屋の息子で、宗教もインテリ向きの生長の家から手ほどきを受けて、頭でっかちだった私は、火事の前に電線から逃げるネズミとか、伝書鳩の不思議な能力とか、人間より劣った下等動物にある能力が人間から消えてしまったのが不思議でした。そういうものをよみがえらせるには、直感を研ぎ澄ますしかないと思っていました。
 サイババはかならず、動物の域に堕落するなということを何度も言います。シッデイに特別の意義を認めません。人が奇跡と呼ぶ彼の能力は苦行などで獲得したものではなく、神のリーラ(遊び)なのだと言います。それはクリシュナの教えと同じです。欲望を無にしてアートマと合一するしか人生の目標はないと断言します。TMの空中浮揚などの価値を認めません。信者に超能力を育てよなどとは一言も言いません。メーヘル・パパも同じ。
 イエスは悪霊の追い出しができない弟子に、断食と祈りの必要を勧めましたが、一般信者
に苦行のすすめはしませんでした。
 直感や霊感がダルマから離れてひとり歩きすることには危険があるでしょう。丸山さんも倫理を説いていたのです。ESP や PK をやれと言ったのではありません。
 これも前にお話しましたが、丸山敏雄は来客中でも、急に思い立つと、「チョッと失礼」と断わったかどうかも分かりませんが、下駄をはいて庭に下りて、松の木にスルスルと登って

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