枝の努定をしたそうです。客はおおかた弟子だったのでしょう。非礼を答めるより、ただただ感心していたようです。丸山は「人を叱りすぎた」報いだと反省してから、喉頭癌で死にました。
 山岸巳代蔵は弟子たちの面前で、夫人に馬乗りになって小便を飲ませました。「我ぬき」
と移した行為です。だれも師匠のまねはしませんでしたが、カリスマは反ダルマをOKします。モルモン教祖の多妻生活とモルモン社会用の紙幣の発行、連邦軍との銃撃戦――すべて無法のかたまりです。
 モルモン教も山岸会も教祖の反ダルマ部分を捨象して生き延びています。
 宗教には道徳と愛しかないということを、サイパパは何度でもくり返しています。耳に痛かったが、たしかにそれは間違いないことです。自分を反省すれば、愛はひとかけらもなく、動物的欲情に流されて罪の生活を重ねてきた過去が見えてきます。オカルトヘの興味も、欲望肯定の上に咲いたあだ花だったようです。
 論理力その他の知能らしきものも、自己の欲望の正当化にのみ使ってきたようです。
 過去のグルたちはみな「途上の人」だったのでしょう。スブド教祖は「ナフス(情念)をうまく使って金儲けをしなさい」と言い、全託のラティハン行は死ぬための準備だと割り切っています。毎日24時間を奉仕と義務と神の礼拝に過ごせという徹底した指示は、サイババから初めて聞きました。それは蒸留水みたいに純粋で、欲望の魚は生息できません。魚は汚いから食べるなでは、漁民はどうやって生きてゆくのかな。欧米人が肉食をやめたら、穀物が大量に余ることになり、世界の飢餓は解決するでしょう。人類が酒をやめたら犯罪はほとんどなくなってしまうでしょう。酒と女と金ぬきの政治はたしかに清潔でしょう。肉・酒・女・金を捨離した大統領は、イラク爆撃の命令を出さないでしょう。人類はたしかに変わります。人類5000年の狂気の歴史には終止符が打たれます。
 高級な音楽の楽しみも、微妙に洗練された欲望の充足の世界です。モーツァルトは天界
の住人でしょうが、神実現の道からは脱線か中休みです。
 天国も地獄もサンスカラの所産ですから。

 欲望を残しておいてはこの先、無際限の輪廻転生。四苦八苦の連続。アートマの光をチラと見ただけでも、欲望幻妄界厭離の志が生まれます。
 たしかにダルシャン以来、欲望世間全体に白けてきました。意欲的行動の司令部・本陣だった自我があやふやになったために、積極的な生き方ができなくなり、ダルマと義務の人生で、自分が神の「道具」だと思えばよいらしいが、肝心の神が分からないので、実感がなく、至福とか言われる奥の喜びが湧いてきません。
 ダルマ説法の饒舌は神の仕事。疑い反抗する自我の餞舌は迷妄の騒音。だから、やはり
唖が一番だと思います。
 他の帰依者の不完全を批判しても仕方がありません。不完全だから神に帰依したにちが
いないのですから。帰依ができないということは、心の調教と欲望の捨難ができないという無力感の絶望から来ているのです。そして、自分好みの神を作ろうというようなことにもなるが、これはもう白けすぎていて不能。

 まとまらないね。まとまるものでもないけれど。
 若くて情欲奔騰している人々もいるが、あなたや堂然さんみたいに静かな人も少しはいます。青山圭秀さんも涼しい人です。無駄道をせず、スイスイと進むのでしょう。私は学生諸君のあいだに混じって、ダルマ説法を聴聞します。
                                             AUM SAI RAM


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