Act.1 Start×Smile

 

 

 いつもと変わらぬ平和な放課後。七月の強い日差しに照らされた穂群原学園3年A組の教室は期末試験の終わった開放感がもたらす喧騒に包まれていた。

「あ、そうだ」
「ん? どうした由紀っち」
 乱暴に荷物を鞄へと詰め込んでいた蒔寺は思い出したかのように唐突に喋りだした友人の声にくるりと振り向いた。
「今日は試験明けだから部活は―――」
 ないぞと続けようとしたその瞬間。


「えっと、わたしに彼氏さんができました」
「な・・・ッ!?」

 蒔寺の脳髄を焼き切る僅かに頬の赤らんだ笑顔と共に三枝由紀香の口にした言葉によって、三年A組は突発的な氷河時代を迎えた―――!


「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」

 教室に広がる耳が痛くなるほどの静寂。
 音をたてたらその瞬間に正体不明の生物に足の皮をコリコリ食べられてしまうのではないかとかそんな感じのホラーっぽい妄想すら浮かぶ緊張。それはただの水虫じゃないかというつっこみすら入らない沈黙が支配する中。
「あれ?」
 本人だけが、まったくのこと事態が理解できていないようであった。
「蒔ちゃん、鐘ちゃん、どうしたの?」
「・・・いや」
 そんな空気を読めてない親友に声をかけられ、氷室鐘は脳内CPUの再起動に成功して眼鏡に手を当てた。
「少々唐突だったのでな、驚いただけだ」
 少しずれていた眼鏡を直し、ニヤリと口元に笑みを浮かべる。確かに驚いたが何しろその手の話は大好物だ。
「して、由紀香。まずは問いたいのだが」
 好奇心八割、寂しさ二割の心持で氷室は三枝の笑顔を眺めながら一息つき。

「相手誰――――――――――――っ!」
「ひゃっ!?」
 しかしその問いは彼女以外の全クラスメートの口から同時に空気中に発射された。大音声のびくっと震えた三枝に蒔寺はぐいぐいぐいと詰め寄ってゆく。
「だ、誰だ!? 純真無垢なあたし達の由紀っちに汚らわしい毒牙を突き立てようっていう恐れ知らずのケダモノはどいつだぁあっ!」
「ふむ。前々から思っていたが蒔の字、君は少々百合の性質があるのではないか?」
「にゃ、にゃんだとーっ!?」
 唐突な氷室の指摘に思わず猫へと退化してしまう冬木の黒豹。黒といっても顔色は赤い。
「? 鐘ちゃん、揺りノ太刀ってなに?」
「どんな流派の秘剣だそれは。そうではなくてな、恋愛対象を男性ではなく女性に定めた女性のことを『百合』と称するのだ。要するに、同性愛者だな」
「かぁねぇぇぇっ! 変な説明してんじゃねーっ!」
 拳握り締める蒔寺を眺めてわぁとかそうなんだとか頬を染めている三枝に氷室はふむと頷き視線を向ける。
「さて、蒔の字の性的嗜好はさておき―――」
「置くなぁっ! つぅかレズと性的嗜好はまた別だっつーの!」
「ああ、君の嗜好はマゾヒズムだしな」
「わぁ・・・」
 何故か目を閉じ胸に手を当て感動の面持ちで声を漏らす三枝にぐがーっと吼え、蒔寺は頭を掻き毟った。際どい筈の会話なのにクラス中からそそがれる生暖かい眼が概ねいつも通りなのがこれまた痛い。
 あたしゃどんなキャラとして認識されてるんだ。


 ※ 答え:ライト変態

「話がそれたが由紀香。彼氏が出来たと言っていたが・・・それはどこのどなたかな?」
「あ、うん」
 問われた三枝は恥ずかしげにコクコク頷いて、俯き加減にほにゃっと笑い。

「衛宮くん・・・衛宮士郎くんです」

 そうきっぱりと―――
「嘘!?」
「わ?」
 告げた瞬間響いた絶叫に、きょとんと目を見開いた。
「びっくり・・・」
 全然びっくりしていない声で呟いて眼をパチパチとしばたかせ、三枝は声の主を探す。
 見渡したクラスの中には誰それ六割聞いたことある三割そして…
「遠坂さん?」
 呆然と口を開けて硬直しているツインテールの優等生。遠坂凛その人が居る。どうやら先ほどの声は彼女だったようだが、完璧最強無敵とやたら漢字二文字のワードに縁がある学園No.1アイドルの少女にしては意外すぎ、そして隙だらけの表情であった。
「あ…こほん」
 ?マークの浮いた目で見つめられた凛は数秒で脳内再起動に成功し、表情を作り変えて口元を隠した笑みを浮かべて見せる。
「ごめんなさい。盗み聞きするつもりはなかったのですけど、ちょっと意外な名前だったもので・・・」
「???」
 三枝は首をかしげた。何故だろう? なにか、彼女が手をついている机がミシミシ言っているような気がするのだが?
「ふむ…由紀香、衛宮某というのは生徒会によく出入りしているという、かの御仁か?」
 きょとんとする友人と妙なオーラを発するクラスメートを見比べて氷室はしばし迷ったがそちらの疑問を優先して尋ねてみる。
「うん。衛宮くん、いろんなもの直せるんだよ」
 すごいよねーと楽しげに語る三枝をよそに、さっきから静かだった蒔寺がぐっとしゃがみこんだ。そしてそのまま身体を捻り。息を吸い。たっぷり力を溜め込んで。

「納得いかね――――――ーっ!」

 ぐわっほぅ! と両手を振り上げて大絶叫する。
 豹だ! なんか豹のオーラが見えた! なんかデフォルメされた豹! 猫か?
「由紀っち! 何故だ! なんでよりにもよってあんな馬鹿スパナなんだ!?」
「蒔の字・・・仮にも人の恋人に対してその言い草は無いと思うがね」
 氷室の呆れ声も聞こえない。蒔寺大暴走である。常時これくらい暴走しているが。
「つーか信じられねー! 絶対嘘。あれだ! 今日エイプリルフールだろ!?」
「いま、7月だよ?」
 はてなはてなと首をかしげる三枝に蒔寺はぐぐぐと声を詰まらせた。
「と、とにかくあたしはこの目で見るまで信じないもんねー」
 しゅっしゅっと何故かシャドーボクシングをはじめながらぶつぶつと呻き。
「あー、三枝さん、居るか?」
 教室のドアから戸惑いがちに顔を出した少年の声にベキリと顔を歪ませた。シャドーの相手からいいのを貰ったのかもしれない。
「あ、衛宮く・・・士郎くん」
 声に振り向いた三枝はほにゃっとした笑顔で言いかけて呼び名を訂正。
 恥ずかしげに笑う姿に、少年―――言わずと知れた衛宮士郎その人は困ったような笑みで頷いてみせた。
「三枝さん。部活無いんだよな? い、一緒に帰ろう」
 途中少し噛みながら言い切った言葉に教室中がおおっとどよめく。
「野郎…満月の夜だけだと思うなよ…」
「よせ、ヤス。男ってのは引き際が大事なんだ…ボディにしな」
「兄貴、わけわかんねぇよ」
 敵意いっぱい好奇心山盛りの視線に士郎は苦笑を漏らして頭をかいた。 とりあえず、もう帰ったのか凛の姿が見えないのは幸いか。
「はい、ちょっと待ってくださいね」
 三枝はこくこくと頷いてから氷室と蒔寺に視線を戻す。
「・・・ごめんね鐘ちゃん、蒔ちゃん。今日は士郎くんとかえっていい?」
 おずおずと問われた氷室はひょいっと肩をすくめた。拒絶の叫びをあげようと息を吸い込んだ蒔寺の口を手のひらで塞いで頷いてみせる。
「ああ。詳しい話は今度聞かせてもらおう。部活の時にでもな」
「うん、ありがとね」
 笑顔でぺこりと頭を下げ、三枝は既に勉強道具収納済みの鞄を手に取った。
「じゃあ、また明日ね?」
「うむ。気をつけてな」
「ごも、ごむもぐがーっ!」
 鷹揚に頷く氷室と口をふさがれたままジタバタする蒔寺に手を振って三枝はパタパタと士郎の元へと駆け寄った。小動物的な動きに、クラス中から啜り泣きが漏れる。
「嗚呼、あの可憐な三枝は、もう俺達のものじゃないんだな・・・」
「最初から違うけどな・・・」
「でも独占されちまうんだなこれからは・・・」
「遠坂さんはどうやっても無理にしても、三枝ならなんとか手が届きそうで妄想に浸れたのにな・・・」
 トップアイドルに憧れるのとは別のベクトルで身近なアイドルとして人気の三枝嬢である。
「えっと、お待たせしました士郎くん」
「あ、ああ、いや。じゃあ帰ろうか三枝さん」
 体中に突き刺さる嫉妬ビームが居心地悪いのか落ち着かなげにそう言って踵を返す士郎の袖を、三枝はんーっと首をかしげて引っ張った。
「三枝さん?」
「駄目ですよ士郎くん。ほら、呼び名は・・・」
 軽く頬を染めてごにょごにょと告げられ、士郎はうっと半歩引く。
 だがここで引いては男ではない。ましてや正義の味方になどなれる筈があろうか。そう、切嗣が言っていた。女の子には優しくしないと後が怖いと―――
 士郎はごくりと唾を飲み込み、腹に力を込めて頷いた。
「わ、わかったよ由紀香・・・」
 ざわり、と。
 その言葉を口にした瞬間、もはや眼で見えそうな程の濃度の嫉妬が士郎を包んだ。一度はこの世全ての悪にさらされたことすらある身だが身近なコレはコレで怖いのだ。
「さ、さて、行こうか・・・」
「はい」
 陽だまりのような平和な笑顔で頷かれ、士郎はやや引きつった笑顔を顔に貼り付けて歩き出した。半歩遅れて三枝もその後を追い、二人の姿が廊下の向こうに消える。
「いやはや、なんとも初々しいな」
 その姿を見送った氷室はむずがゆさ満点な会話に肩をすくめ。
「むーっ! むぐっ! むっ! ぐぐぐっ!」
 そして、窒息寸前で愉快なダンスを踊っている蒔寺に気付いて口とついでに鼻を塞いでいた手を離した。
「ああ、すまんな蒔の字。私としたことが、少し動揺していたようだ」
「嘘だッ! ぜってー嘘! 妄想だね!」
「・・・ふむ。穂群原症候群とでも名付けようか」
「んなことはどうでもいいっつぅの! ぐあああああああっ! あたし達の愛した由紀香は死んだッ! 何故だ!」
 なんとなく危険なフレーズを呟く氷室をよそに蒔寺は叫び続ける。駄目だー! マキジが止まらないー!
「ちっきしょぅ、なんだよぅあのラヴラヴ空間は…! マジか!? マジなのか!? スキスキだけはマジがいい感じであの二人付き合いだしたわけ!? わけなのかぁ・・・?」
 酸欠と精神的ショックで精神的な二重の極みをかけられた蒔寺はずるずるとその場に崩れ落ちながら声を落とした。
 ぐへぇとローテンションに吐き出される疑問文ではあるが半ば諦めの入った負け豹なその台詞に―――

「いや、それはどうだろうな」

 氷室は、逆光で目が見えない眼鏡も迫力十分に、疑問を提示して見せた。
「あ? どういう意味よ」
「先程の態度、どうにも腑に落ちない。由紀香は勿論の事、伝え聞く衛宮氏の性格も、友人でありここで帰り支度をしている我々を置いて二人で帰ることを優先するようなものでは無い筈だ。あの場合衛宮氏も一緒に帰って良いかと由紀香が聞いてくるのが普通だろう」
「―――同感ですね」
 冷静な分析に、静かな同意が挟まれた。
「あれ? 遠坂さっき居なくなんなかったか?」
 蒔寺の疑問をさあと曖昧に受け流し、遠坂凛は微笑む。
「先程の衛宮君の態度、どこかぎこちなかったのが気になります。ふふ、何か裏があるのかもしれませんね・・・」
 にっこりと。背後に文字が浮かびそうな程見事な笑顔だ。
 なのに、
 何故、
 こんなにも、
 本能がうずく、の、か。
 ニゲロニゲロドアヲアケロナゼニワラウ―――!
「あ、あのさ、あたしなんかちょっと寒くなってきた気がするんだけどなんでかな・・・」
 原因不明の冷気にさらされガタガタ震える友人はさておき、氷室にとってこの状況は中々に愉快だ。恋愛探偵の血が沸々と沸き立つではないか。
 ならばどうするのか。視線を向ければ、がっちりと絡み合う目と目があって。
「・・・遠坂嬢、追うか?」
「・・・ええ、勿論です氷室さん」

        フレンドシップ
 交わす握手は友情。

 今ここに、あまりにも性質の悪いコンビが誕生した。

 

 

 

Act.2 Slow×Step

 


 教室を出た士郎と三枝はなんとなくお互いを意識してしまい、無言のまま足だけを動かす人形と化していた。お互いに喋らねばとは思ってはいるのだが、どうにも話題が見つからない。
(いかん。これでは計画上も男としても駄目だ…)
(これじゃえみ、じゃなくて士郎くんが退屈しちゃう…)
「あのさ」
「あのですね」
 意を決して見切り発車で何とか口を開いたものの、声が被って黙り込む。
「な、なんだ?」
「いえ、士郎くんお先にどうぞ」
 この場合、気が合ってるというべきなのか、機が合わないというべきなのか。


 一方、アワアワと困り果てる背中の10メートル程後方で。
「基本その1、だな。衛宮氏も中々に侮り難い」
「お約束を忠実にこなしてますね・・・」
 氷室と凛は額に浮かんだ汗を拭って呟いた。
 まさか教室を出て数分と経たずに背後から射殺したくなるとはこのリンの目をもってしても見ぬけなんだわ!
「なー、あいつ殴っていいんだよな?」
「まぁ待つんだ蒔の字。まだなにもイベントがおきていないではないか」
「ええ、まだ早いわ。ちゃんと背景を掴んでから殺さないとすっきりしませんから」
 やめろとは決して言わない二人である。
 蒔寺は、ひょっとして自分が一番まともなのかなと考えかけて、やめた。


「あ、先生さようなら」
「ああ、気をつけて帰れよ」
 三枝がすれ違った教師に挨拶した事で終わりを告げるのを見て士郎はふと思い出したことを口に出してみた。
「…そういえば、A組って担任変わったんだよな」
「はい。葛木先生、行方不明ですから」
 三枝の顔がわずかに曇った。基本的に持ち上がりの穂群原学園では一年から三年までクラス替えがなく同じクラスで三年間を過ごす。
 それに伴い担任教師も三年越しの付き合いとなるものなのだが、旧二年A組の担任であった葛木宗一郎教師は2月の中ごろから行方がわからない状態が続いていた。
 一時は事件性も疑われていたのだが、婚約者といわれていた女性も同時期に姿を消している事やどこからも捜索願いが出ていないことなどから現在は何らかの事情で自ら失踪したものとして扱われている。
「葛木先生、いまどうしてるのかな…」


「ふむ、今のは減点だな。話題が見つからなかったのだろうが由紀香の性格からしてあのような話は自分の事のように心配してしまう」
「へん、どうせ人の不幸っつーゴシップで盛り上がるつもりだったんだろ。やっぱり馬鹿しゃもじに由紀っちはわたせねー!」
 少し離れて後をつけていた氷室の寸評に蒔寺は悪態をついたが。
「・・・そういうのは、ないと思いますよ」
 苦笑交じりに凛が言った言葉にはぁ? と首をかしげた。
「あいつには『人の』不幸っていう概念無いもの」
 凛は呟き、前を行く背中を静かに見つめる。


「一成も心配しててさ・・・まあ、元からふらっとお寺にやって来た人だったらしいからふらっと居なくなってもおかしくないって住職は言ってたけど・・・」
「どこかでげんきに暮らしてるのならいいですけど・・・あの時期は色々ありましたし・・・」
 互いに身内のことのような深刻な表情。士郎はそこに来てようやく話題の選択を間違えた事に気付き。
「とりあえず近隣の病院とかに入院した記録は無かったし、どこの寺の無縁仏にも―――と、すまん。女の子にする話じゃないよな・・・」
 話をまとめようとして更に選択を間違えてへこんだ。


「衛宮は葛木教師の捜索に参加していたのか?」
「・・・そのようですね」
 氷室の呟きに凛はそっけなく答える。
 彼女にとっては失踪した時期と重なるあのイベントの事を知っている以上、葛木が何に巻き込まれてどうなったのかは容易く想像出来る事だ。
 もちろん、それは士郎にとっても同じなのだが。
「あー、なんかそんな話も聞いた事あったけな。柳洞と一緒にあちこちに聞き込んだりチラシ配ったりしてたってさ」
 それでもなお、捜索に全力で協力していたというのが士郎の士郎たる所以であると凛は思っている。
 良くも悪くも見切りが早い自分には出来ないことである、と。
「ふむ・・・そういう人柄であるならば、確かに遠坂嬢の言う通り人の不幸を楽しむとも思えんな」
「でしょう? あいつは女の子相手に何を喋るべきかわかっていないっていうだけです。まあ、最後で踏みとどまっただけまだマシになったかしら」
 苦笑交じりの表情を盗み見て氷室はほうと相槌をうつ。
 現状の最優先事項は三枝と衛宮の交際状況なわけだが、どうにも遠坂と衛宮の関係も気になる。彼女の美意識はその組み合わせは無しと告げているが、この親しみの混じった表情は―――
「ふふ、わたしの顔に何かついてますか? 氷室さん」
「む・・・いや、なんでも・・・」
 ぞくり、と牽制の視線に背筋を冷やした氷室は緊急回避ルーチンを脳内発動。
 話をそらすべく前方へ目を向け。
「ん? 階段を通り過ぎたぞ?」
 二人が昇降口へと続く下り階段を素通りしたのに眉をひそめた。
「あん? あれじゃね? 学校中に見せびらかして回るんだーとか。けっ」
「さすがにそれは穿ち過ぎだろう蒔の字」
 言い合っているうちに前方の士郎と三枝は校舎を端から端まで横断していた。
 そのまま、二言三言交わしてさっき通過したのとは逆側の階段を昇り始める。
「上?」
「ふむ、成程な。屋上へ行くつもりだったのか」
「高い所は気持ちいいものですからね」
 逃げ場の無い屋上へ追っていったのではさすがに危険度が高すぎると階段が見える位置で待機しつつ凛が呟くと、氷室はほうと眼鏡を光らせた。
「時に遠坂嬢・・・『新都の飛び降り女』という都市伝説をご存知かな?」
「と、とびおりおんな・・・?」
 びくり、と身を震わすクラスメートの反応を氷の頭脳は見逃さない。
「うむ、満月の夜に新都のビル街に現れるという赤い装束の怪人でな、ふと見上げるといつの間にかセンタービルの上に立っているそうだ。そして、何をしているのかと見ていると唐突にそこから飛び降りるらしい。長い髪をひるがえし、きりもみ回転しつつ『あーいきゃーんふらーい』と絶叫するとか・・・」
「そんなこと叫ばないわよ!」
「ほう」
 ニヤニヤと。氷室の浮かべた笑みに凛はうっと喉を鳴らす。不覚なりや魔術師よ。
「こほん・・・わたしが聞いた話ではもっと優雅に舞うように飛ぶって聞いてますから。ちょっと驚いてしまいました」
 仮面でも被ったかのように表情を変えて微笑む凛に氷室はうむうむと頷く。
 美綴嬢から赤い服を極めて好むと聞いていたので話を振ってみただけだったのだが、中々どうして面白い。まさか飛び降り女などという怪人が実在しているわけもないが、その元となった事実に彼女は絡んでいるのかもしれない。
「そういう話ならわたしも一つ知っていますよ。なんでもこの学園のどこかに人の色恋沙汰を専門に漁る探偵の真似事をしている人が居るとか」
「む・・・」
 別段秘密にしているわけでもないが下世話であることは自覚しているので吹聴するのも躊躇われる自己の性癖だ。牽制としては十分な威力であった。
「・・・ふふふ」
「・・・ふふふ」
 二人して不気味な笑みを浮かべる。廊下を往来する人の波が、どよりと乱れた。
 魔術でも使われたかのように誰もがこちらに目を向けないまま進路を変えて避けて行く。
「まあ、余計な話はやめにしようか」
「ええ、それが賢明ですね」
 周囲の微妙な空気に目立つのもまずいかと氷室は休戦を申し出た。苦笑交じりに同意する凛と頷きあい。
「と、そう言えば蒔はどこへ?」
 さっきまで詰まらなさそうに壁を叩いていた筈の友人が居ないことに気付いて戸惑いの声をあげた。
「待つのに焦れて行ってしまったようですね・・・」
「ここでばれては元も子もない。行こう遠坂嬢」
「嬢はやめてもらえると助かりますけどね」
「それは失礼」
 軽く言葉を交わしながら二人は階段へ向かい、二段飛ばしで上へと向かう。
「鐘! 遠坂! 遅いっつーの!」
 屋上への扉を細く開けて向こうを覗いていた背中に追い付くと、蒔寺は二人に指など突きつけてそんな事を叫んできた。
「どうせいつかは降りてくるのだから下で待っていればよいだろうに。気付かれないようにしなければ尾行とは言えん。不用心だぞ蒔」
「はん、由紀っちはのんびり屋だからすぐ後ろに立っても気付かないしもう片方は衛宮だぞ衛宮。ぜってー気付かねーですー」
 ははん、と肩をすくめる蒔寺に凛が眉をひそめる。
「油断するとあっさり見つかりますよ。ああ見えて武術の心得もあるんですから」
「そう言えば弓では全国までいける腕前なのに弓道部を辞めてしまったのだと美綴嬢が嘆いていたな・・・」
 弁護の言葉にあっさり同意する氷室に、蒔寺はぬーっと不愉快そうな顔で唇を尖らせた。
「って言うかさぁ、なんでさっきから遠坂が衛宮のフォローしてるワケ?」
「フォローじゃなく知り合いから聞いた事実を語ってるだけですけどね」
 にっこりと笑うその顔にもう騙されない。やはり遠坂嬢、つつけば埃のネタの宝庫か。内心でメモをつけながら氷室はとりあえず本題に戻る。
「それで、由紀香と衛宮はどうしている?」
「あー、それが・・・やっぱおかしーよあいつら」
 尋ねると、蒔寺は納得いかねーと眉をひそめながら扉の方を指差した。どれどれと三人縦に並んで折り重なるように密着し、扉の隙間を覗き込む。
「・・・ふむ」
「・・・ちっ」
「あの、なんか変な寒気感じるんですけど・・・」
 並び順は上から順に氷室、凛、蒔寺。二番手が一番手から感じているたぷんとした重みが殺気となり三番手がぶるぶる震えているが、まあ気にする事はない。それより重要なのは・・・
「あれは何をやっているのだ? 遠坂さん」
「・・・正直、わかりかねます」
 視線の先で屋上の端から端へと歩き回っている二人であった。


「こんなもんでいいのかな・・・」
「はい、いいとおもいますよ?」
 戸惑いがちに呟いた士郎の台詞に三枝は相変わらずのほんにゃりボイスで答えて笑う。楽しげだ。
「あ、端っこです」
 しばし歩くと、屋上の端まで来てしまうのでその場でターンして逆側目指しまた歩き出す。
 まばらに居る他の生徒が奇異の目でこちらを見ているのを士郎はさりげなく気にしているが、三枝の方は全く意に介さないようだ。
「なんだかいいお天気ですね」
「ちょっと暑くなってきたな・・・もう、夏か」
 屋上のコンクリートが傾いた日を照り返す。
 士郎は床から伝わってくる熱気に眼を細め、ふと足元に眼を向けた。
 
 この屋上に魔術が刻まれていた頃。
 あの、寒い季節に。
 彼の隣に居てくれた、少女が、居た―――

「―――士郎くん?」
「あ・・・あ、ああ。なんだろう」
 ぎこちない答えに三枝はちょっと迷い。
「・・・だいじょうぶですか? 士郎くん」
 そんな事を、言ってきた。
 その唐突さに士郎は何か聞き逃したのかと前後の文脈を想定し。
「? いや、大丈夫だけど・・・あ」
 今日の予定に入っていて、かつ大丈夫かどうか確認を取られるべき事項を思いついて頭を掻いた。
「そっか、手だよな? ああ、もちろん大丈夫」
 そして心中で気合を入れなおし、ずいと三枝へと手を伸ばす。
「え?」
 突き出された左手に三枝は一瞬戸惑い。
「あ、はい!」
 ほにゃっと笑って左手でその手を正面から握る。何故だか入り口の鉄扉がゴチンとなったがなんだろう。
「さえぐ―――由紀香、それじゃ握手だ。逆の手じゃないと意味が無い」
「あ、す、すいません・・・」
 ぎゅっと握った手を慌てて離しペコペコと頭をさげる姿に士郎は思わず苦笑した。
「いや、謝るようなことじゃないと思うけど・・・とりあえず、俺達にはまだちょっとレベルが高すぎる行動だったかもしれないな・・・」
「そうですね・・・あの、またあとでもう一回挑戦とかどうでしょう?」
 真剣だ。わたしがんばりますよと平仮名で伝わってくるこの現状をどうしたものか。いや、どうするもなにも頷く以外に選択肢は無いのだが。
「・・・よし、それじゃあもう一往復してから次行こうか」
「そ、そうですね」
 

 再度屋上の反復運動を始めた二人を眺め、氷室はむぅと首を捻った。
「あの二人は・・・何をしているのだ?」
「あん? 散歩じゃねーの?」
 じっとしているのが辛いのかつまらなそうに言い捨てる眠れる豹に凛は首を振って否定の意を告げる。
「これから帰ろうっていうときにわざわざ屋上を散歩したりしません。普通屋上に行くなら景色を眺めるとか風で涼むとかですけど・・・」
「景色が目的にしては二人の視線が違う向きなのが気になる。風で涼むくらいであればさっさと帰れば良いだろう。確かに風通しは良いがわざわざ校内に留まる程の意味はあるまい」
 さてさてと考え込む氷室に、凛は試すような笑みを浮かべた。
「それで、この状況をどう考えますか? 氷室探偵」
「そうだな・・・」
 問われて氷室は考え込んだ。からかわれているとはわかっているが、まあ実害はないのだから気にしない。
「何かの脅迫を受けているという線はどうだろう」
 マジ恋人説を真っ向から否定する意見に凛はふむふむと頷く。方向性は気に入った。
「つまり、誰かに付き合っている振りをさせられておりその脅迫者があそこを往復しろと指示を出していると・・・何の為に?」
「うむ。やはりそれは付き合っている振りをしているかの確認ではないだろうか。おそらく犯人はこの屋上を監視できる位置から双眼鏡もしくは望遠鏡で見ているのだろう」
 氷室の推理に凛はまあ筋は通ってるなあ通ってるだけだけどと頷き、更に疑問を積み上げる。
「でも、そうなるとそもそも何故付き合ってる振りなんかさせてるのかっていう問題になりますね・・・」
「あぁ? そんなの由紀っちの評判落とす為に決まってんじゃん。ほれ、ふんにょーひわいとかいうヤツ」
「・・・風評被害のことか? 間違えるにしてももう少しこう品というものをだな」
 こめかみを押さえて氷室は嘆くが、蒔寺はそのつっこみ自体が理解できていないのかくひゅーくひゅーと息を荒くするばかりだ。
「とにかく衛宮は許せねー! このあたしから遠坂を奪っただけじゃ飽き足らず由紀っちとその弁当まで盗む気かこんちくしょー!」
「いや、わたしあなたのものじゃないから」
「由紀香との付き合いは偽装という前提で推理しているのだが・・・」
 二人の声も豹耳東風。LosLosLosとばかりに屋上へと突撃をかけようと地を蹴るが・・・
「まあ待て。慌てる虎は前半で出番無くなると言うだろう?」
「ええ、まだ時期尚早よ。東南の風を待ちましょう」
 氷室と凛、二人がかりで上から押しつぶされてぐへっという色気の無い声と共に地に伏した。
「えー、なんでだよー。いいじゃんとっちめよーぜー」
「まだ熟成が足りん。ようやく盛り上がってきたとこではないか」
「証拠が全て挙がってから一気に締め上げた方が楽しいものね」
 くくくふふふと盛り上がる二人に両腕を拘束され、それぞれ固定ファンのある大きさのふくらみを押し付けられながら蒔寺は再度思った。

 やっぱ、あたしこいつらよりまとも?


 

 

Act.3 Sweet×Spicy

 

 

「それでだ」
 蒔寺は先行する二人を眺めて口を開いた。屋上から降りてきた士郎達は自分達の教室がある4階でも昇降口でもなく中途半端に3階の廊下を歩いている。
「なんであいつら、3階でぶらぶらしてるんだ?」
「ふむ・・・」
「そうね・・・」
 問いに挑むは二人の探偵。
 何を選んで何を探るべきかは。決して、士郎にだけは知られてはいけないよ――――
「じゃあ、私から行きますね。そう・・・誰か人を探してるのではないかしら? さっきの脅迫説を取るならば、その相手に二人でいるところを見せ付けるとか」
「ほう、成程・・・しかし、そうなるとその『誰か』とやらは衛宮もしくは由紀香が誰かと恋仲になることで不利益を得る相手、となるな」
 氷室はニヤリと笑う。中々に自分好みの展開ではないか。
「そんなんアレじゃん。由紀っちに惚れてる後輩かなんかに見せて馬鹿しゃもを殺させるんだ。完全犯罪っ!」
「完全でもなんでもありませんけどね。まあ、殺すとかは別にしてその方向性は悪くありませんね・・・ただ、逆という可能性も忘れてはいけないと思います」
「衛宮に惚れている女子にそれを見せつけて、という事か。ならばこういうのはどうだろうか。恋人らしき振る舞いを目標の少女・・・そう、仮にM嬢とでも名付けるが―――」
 何故唐突にMと凛はジト目になる。ひょっとしてこのヒムロン、Mの苗字の士郎ラヴ人を知っているのだろうか。
「そのM嬢に見せつける事によって、その少女が衛宮に抱いている恋心を諦めさせるのだ」
「んな事してどうすんだよ。アレか? やっぱ修羅場トルで衛宮が刺殺されるのを期待か?」
「だからすぐに殺そうとするのをやめなさい。いい? 衛宮くんに惚れてる・・・そうね、S子さんとでも名付けますけど、そのS子さんとあの二人が遭遇します。そしてS子さんが素直に諦めてくれれば良し、暴れだしたら暴れだしたで衛宮くんのサク―――S子さんへの評価はダウン。それを恐れてその場は黙っておいて三枝さんだけを闇討ちしようと企んでも・・・」
 人差し指を立てて繰り広げられる凛の推理に氷室は我が意を得たりと頷いて同意を示す。
「被害にあうのは由紀香だけ。それを目論んだ真犯人はなんら被害を受けない。そして由紀香に何らかの被害が出ればそれはM嬢がやったと真犯人にはわかる仕組みか」
「ええ。それを士郎にさりげなくチクればあいつのことだから我がことのように怒るわ。そして全てが終わった後にさりげなく真犯人登場、と」
 盛り上がるあまり口調が変わってる凛の説明に蒔寺はあんにゃろめと喉で唸り、二人に次の問いを投げた。
「じゃあ、その衛宮が好きだとか言う趣味の悪い奴は誰だよ」
「・・・3階に居るんだとすれば、2年か」
「・・・2年、ね」
 凛の脳裏にM嬢でありS子さんである女子生徒の姿が浮かぶ。MでSな妹の姿が。
「もしわたしの予想が当たっていれば被害はこの学校だけに留まらなくなりますね・・・」
「さすがにそこまでの破壊力が一介の学生にあるとも思えないが、まあ由紀香は守られるべき存在だ。その生徒の所へ―――」
 先回りして、と言いかけた時だった。
「あ、あいつら下降りたぞ」
 氷室が指差す先で、士郎と三枝はさっさと2階へと降りてしまった。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 二人の探偵はニヒルに笑い、窓の外を眺める。
「仮説は、仮説だからな」
「ええ。多数の推論から見出してこその真実よ」
「おまえら使えねー! 座布団ボッシュート!」

 

 背後でガタガタ騒ぐ三人娘改に気付くことなく士郎と三枝はひたすらに歩き続けていた。2階を端から端まで歩いて一階へ降り、今度は逆側の端へ向かう。
「視線とか、あんまり感じませんね」
 ペタペタ歩く三枝に士郎はそうだなと頷いた。
「とりあえず今のところ注目されているような感じじゃないな」


「・・・へへーん、しかし実のところはバッチリ注目されてるんだよこの馬鹿しゃ! こんだけ見られてても気付かねーとはこの鈍ちんめ!」
 前を歩く二人の会話を盗み聞いて盛り上がる三枝に氷室は肩をすくめた。
「まあ、今は集団に紛れてるからだろうが・・・少々意外ではあるな。以前声をかけようとしたときにはもっと遠くからでも気付かれたのだが」
「・・・・・・」
 凛はそ知らぬ顔でポケットの中に手を入れる。
 そこに常時入れてあるブローチは軽度の認識阻害を起こす限定礼装だ。効力こそ薄いが長時間使用ができるそれは別段こんな事に使うつもりで持ち歩いていたわけではないが、不自然でない程度に無視されるという効果はこの際非常に重宝であった。


 士郎は隣の三枝の小さな歩幅に合わせてゆっくり歩き、廊下の終端へと辿り着いてその向こうを見る。そこにあるのは渡り廊下と体育館だ。
「次はあっちか?」
「そうですね。でも体育館の中とか、あんまりお邪魔しちゃまずいかもしれません」
 うんと頷き合って渡り廊下へ出る。
 蒸し暑い空気に三枝は歩き回って渇いた喉を自覚し、襟を少し緩めてから慌てて元に戻した。はしたないのはだめだとおもうのです。
「・・・・・・」
 士郎はその動きと顔を真っ赤にして見てませんよね? 気付かれてませんよね? とこちらを伺う三枝を見なかった振りをした。
 その代わりに前へと視線を向け、そこにある赤くて長方形な物体を見る。
「士郎くん?」
 いきなり足を早めた士郎に三枝は少し驚いて小走りにその後を追った。
「いや、さえ・・・違った由紀香は急がなくていいぞ」
 言い置いて士郎はそれに・・・自動販売機に辿り着き、財布を取り出す。100円玉と10円玉4つを投入、適当なお茶を探してボタンを押す。
 ビー、ガシャンと落ちてきた缶を取って再度硬貨を投入。
「由紀香、なにか好みとかあるか?」
「ふぇ?」
 驚きのあまり口が回らなかった。
 数瞬に及ぶ忘我の時を越え、三枝は慌ててスカートのポケットに手を入れ、そこじゃないですと鞄を開けようと金具をカチャカチャ弄る。
「あ、あの、今お金出しますから・・・!」
「いや、奢るよ。ほら、俺一人で飲んでるのもなんだしさ」
「で、でも、あの、わるいです・・・!」
 いっぱいいっぱいで上手く鞄を開けられないらしいその手を掴み止め、士郎は苦笑混じりに自販機へ視線を向けた。
「―――たまには、自発的に奢ってみたいんだ」


「自発的?」
「ヴ・・・」
 背後で交わされる言葉には全く関係せず・・・


 士郎の提案に三枝は硬直して考え込む。
 奢ってもらうなんてわるいと思う心と、人の親切を断るのもどうだろうという心がせめぎ合い。
「駄目かな?」
 数十秒にわたる逡巡は、士郎の声で終わりを告げた。
 少女は恥ずかしげにこくりと頷き。
「・・・あの、じゃあ桃の天然水を」
 控えめな笑みと共に自分の好みを教えてくれた。
「ん、了解」
 士郎はそう答えてペコンとボタンを押し込み、取り口に落ちてきたショートのペットボトルを取り出そうと手を伸ばす。
「あ」
 そこで気付いた。先程から、彼は三枝の手を鞄の金具ごと握っているではないか。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 今度は士郎が硬直する番であった。逆の手でお茶と天然水のボトルを掴んだまま次のアクションを忘れて目をしばたかせ。
「あの、握りますね」
 そして三枝は笑みのまま士郎の手をきゅっと握った。
「うぉっ!?」
 驚きにペットボトルを落としかけるがギリギリで耐える。日頃の鍛錬の賜物であった。
「ご、ごめんなさい、駄目でしたか?」
 士郎の大きなリアクションに三枝はそう言って手を緩めた。
 失敗しちゃいましたと意気消沈するその姿に、士郎はぶんぶんと首を振った。自分の手からすり抜けようとする自分のものより小さくて柔らかいその掌を今度はこちらから握り返して頷いてみせる。
「いや、大丈夫。ちょっと驚いただけ」
「わ、わたしも自分で驚きました・・・」
 放課後の渡り廊下でぎこちなく手を繋ぎ、二人はちょっと笑った。
「慣れれば、問題無さそうだな」
「はい。あの、バッチリじゃないでしょうか」
 三枝は顔を赤くしたまま微笑んだが、しばらくして「あ」と呟いた。
「どうした?」
「でも、このままじゃそれ、飲めませんね・・・」
 どうやら、『手を繋いで歩く』はまだ次のフェーズであるらしい。


 そして。
「鐘、遠坂。ああいうの、どう思う?」
「・・・べ、別に。どうでもいいです」
「素晴らしいではないか」
 野獣の問いにツンデレと素直クールは、それぞれの言葉で羨ましいとそう言った。

 


 

Act.4 Sakura×Strike

 

 

 運動部の面々を邪魔しては悪いと体育館には入らず周囲をうろうろ回るだけに留めた二人はそのまま校舎へと引き返し、下駄箱にやって来ていた。
「ちょっと待っててくださいね?」
 言い置いてちょこちょこと自分の下駄箱へ向かう三枝に言い知れぬ和みを感じながら士郎も手早く靴を履き替える。
 使い古された外履きをつっかけ爪先を床にトントンと打ちながら見ると、三枝はこちらへ背を向けてあたふたと靴を地面に置くところだった。
「わ、と、と・・・」
 慌てるあまり前のめりにつんのめった三枝のスカートがひるがえってなんかすっげぇいいものが見えるが正義的に見なかったことにする。
「・・・うむ」
            スルー オン
 意味も無く後ろを向いて誤魔化し開始。
「あ、あの、おまたせしました! ・・・うしろ、どうかしましたか?」
「・・・いや、なんだか職員室の戸がガタガタいってるような気がして・・・行こうか」
「はい」
 にこーっと笑う三枝と共に士郎は歩き出した。校舎を出ると、容赦の無い直射日光がタイガのスクーターっぽい勢いで降り注ぐ。
「あつ・・・」
 士郎は思わず呟いて空を仰いだ。
 いつのまにか、季節は夏に移り変わっている。
 どれだけ過去が鮮烈でも、時を止める事はいつまでも魔法だ。
 あの頃ならばもう日が沈みかけていた筈の時間だというのに、こんなにも、眩しく、目に染みる。
「士郎くん、どうかしましたか・・・?」
 そこで、我に返った。目の前には三枝由紀香の心配そうな顔。
 本日2度目の失態に士郎はいよいよまずいと大反省する。もしも一緒にいるのが彼女ではなかったら大惨事になっていた筈だ。気を引き締めねば。
「いや、ちょっと考え事・・・ってそれも失礼だな。ごめん」
 すまなそうな顔に慌てて首をぶんぶんと振り、士郎が見ていた―――実際にはぼぅっとしていただけなのだが―――方を見てぽんっと手を打つ。
「部活棟の方にも行ってみたほうがいいですか?」
「! い、いや、それはよそう。危険だから!」
 思わず汗が出た。部活棟・・・特に運動系部活棟、ぶっちゃけ弓道場はこの状況では非常に危険だ。
 いずれは通らなくてはならない道としても、初日から茨の道へ大突入することもあるまい。飛ぶ→落ちる。これとても当たり前な物理法則。ふわふわ飛ぶのは大人になってからだ。
「そうですか? じゃあ、帰りましょうか」
「そう、だな。そろそろ時間も遅くなってきたし」
 素直な性格に感謝しながら士郎は校門を目指して歩き出した。その横に並んで三枝も少し早足でついてくる。ちょっと歩幅が広すぎたかと調整。
「そういえば、士郎くんはお家のご飯作ってるんですよね? 時間とか大丈夫ですか?」
「ん? ああ。今日は俺の当番じゃないから―――」
 大丈夫。そう言おうとして気が付いた。
 今週は期末試験の返却週間なので部活が無い。だからこそ陸上部のマネージャーであるところの三枝も引継ぎの仕事が無くこうやって一緒に帰っている。それはいい。
 問題は、それは他の部活でも同一だということだ。
 士郎が夕飯を作らないでも良いというのも、某部活の新部長として忙しい衛宮家のおさんどん2号が久しぶりに腕を振るおうと張り切っていたわけで・・・
「あ、先輩! 一緒にかえ―――」
 そんな日は一緒に買い物に行きましょうとよく校門で待ち伏せをって言ってる間に来たッ!
「さ、桜・・・!」
「あ、間桐さん」
「え・・・?」
 おさんどん2号―――間桐桜は満面の笑みで声をあげかけた姿勢のまま、硬直している。
 今までにもこんな場面はあった。
 だがその相手は生徒会長であったり遠坂凛であったり藤村大河であったり、ちょっと捻った選択でも藤村家に居候している銀髪幼女程度のことであった。

 だが・・・!

「さ、三枝、先輩?」
 今、士郎の隣に立っているのは桜と同じ日常系地味癒し属性持ちの三枝由紀香。
 そして―――
(こ、この距離、この距離は一体ッ!?)
 士郎と三枝の間は僅か20センチ。すこしよろければ肩が触れ合うその距離は桜の持つレコードである『先輩と一緒にお料理(42センチ)』を遥かにぶっちぎる大記録だ。
(お、落ち着いて桜。素数。素数を数えるのよ。・・・1、2、たくさん。よし落ち着いた。冷静にクールに二人の関係を見極めなきゃ・・・)
 桜は深呼吸などしてじっと二人を見つめる。士郎はだらだらと汗をかき、一方で三枝はニコニコと実に楽しそうだ。
(二人は・・・)

 1.ハンサムな衛宮士郎は突如桜に友達を紹介しに来た
 2.凛が来て桜をからかう冗談だと告げる
 3.彼氏彼女。現実は非常である。

「せ、先輩・・・その、方、は・・・?」
「あ、ああ。三―――」
「3!?」
 士郎の口から発せられた文字に桜はよろりと後ずさる。
「さ、桜? どうしたんだ?」
「あの、顔色がよくないですよ?」
 顔を覗き込む士郎と三枝の視線を受け止め、桜はぷるぷると震えた。
 そうだ。あきらめるものか。あきらめたらそこで試合終了だ。そう、日常系として戦っても正直勝てる気がしない。ぶっちゃけ、捻った魅力で勝負の身の上でもあるし。

 ならば、いっそのこと。

「あ、あの、先輩ッッ!」
「ん? ど、どうした桜そんなに猛って・・・」
「わ、わたし・・・先輩のことお兄ちゃんって呼んでもいいですか!?」
 新しい属性を身にまとって勝負ッ! 妹属性を攻撃表示にしてわたしのターン、エンドです!
「は!?」
 士郎は思わぬ攻撃にのけぞった。可愛い後輩によるお兄ちゃん呼称。
 それは萌えだ。
 確かに萌えなのだが―――
「・・・何かの罰ゲームか?」
 罠カードオープン! イリヤによる日常的お兄ちゃんコールで桜の攻撃は無効化される!
「ぬ、ぬかりました! なら他の呼び名はどうでしょう!? ご主人様とか旦那様とかパパとかダーリン、マスターとかおとーさん、にーに、兄ちょち、■■■■、婿殿、早漏、駄犬、素人童貞―――」
「・・・あの、俺は罵倒されているんだろうか?」
 徐々に方向性が変わって行く呼び名に心の中の何かを傷つけられたのか遠い目で呟く士郎に桜はうぐっとのけぞった。
 そして、焦りのままに検索した記憶の片隅に残る士郎が喜びそうな台詞に飛びついてしまう。
「ええともういっそ先輩にとっての最強萌えワードであるシロゥとか―――」

 


 士郎は、静かに微笑んだ。
「ごめん。それは、やめて貰えるか? 桜」
「あ・・・」
 穏やかな声に、勢いづいていた桜は息を飲む。


 わかっていた筈なのだ。
 桜自身に、決して知られたくない過去があるように。
 ―――衛宮士郎にも、他人が勝手に触れてはいけない場所があるのだということを。

「・・・桜?」
 黙り込んでしまった桜に、士郎が気遣わしげに声をかける。
「ごめんなさい・・・」
 大きく見開いたままの目から、ぽろりと涙がこぼれた。
「さ、桜!? な、どうした!? 俺、言い方きつかったか!?」
「あ、あの、何かあるようでしたらわたしの方はまた今度でいいですのでその!?」
 途端大混乱に陥る二人を涙に歪んだ視界で見つめ、桜はぐしぐしと袖で両目を拭る。
「ご、ごめんなさい・・・ちょっと、自己嫌悪、です」
 笑顔を作る。作り笑顔は、慣れている。
「すいません、スーパーのタイムセールが始まっちゃいますのでわたしはもう行きますね?」
 早口でそう告げて、何か言おうとする士郎が口を開くより早く自分の言葉をそこにかぶせた。
「なんかもう気分的に物凄いのを作っちゃいますから楽しみにしててください!」
「・・・桜」
 士郎の心のうちを桜がわからぬように、桜の心にどんな思いが詰まっているかを士郎は読み取れない。
 だが、今自分が引き止めればこの少女が傷つくのだなと、それだけは理解できた。
 あの冬に、少しだけ人間に近づけた心で、わかることができた。
「ああ、楽しみにしてる。そろそろ和食の腕前は俺を抜きそうだしな」
 だから、いつものような声で、そう言ってみせる。
 なにもなかったと、誤魔化して。
「はい。頑張ります!」
 桜はぶんっと大きく頷き、そのままの勢いで三枝の方に目を向けた。
「あの、三枝先輩ッ!」
「ひゃいッ!?」
 そして、勢い良く呼ばれてびくっとする三枝にぺこりと頭を下げる。
「先輩は目を離すとすぐに誰かを助けにいっちゃいますから・・・しっかり見ててくださいね?」
 その笑みに何を見たのか。
「・・・はい」
 三枝は、今までに無く真剣な表情で頷いた。

 

「・・・・・・」
 その背後で。
「・・・んー、聞こえねー」
「しかしこの状況では近づくわけにもいかんだろう。すぐ見つかるというのもあるが、あの雰囲気は我々のような興味本位の人間が参加していいものでもなかろう」
 蒔寺の退屈そうな愚痴に氷室はそう答えて肩をすくめた。本音を言えば彼女としても何を話しているかが是非知りたい。
 だが、それを思いとどまらせるのが間桐桜の浮かべた後悔の表情であり。
「・・・ったく」
 隣に立つ少女の、苛立ちの表情であった。
「・・・もうやめた方がいいかもしれないな」
 思わず漏らした呟きに、しかし凛は首を横に振る。
「ここまで来てやめても意味がないでしょう。何かあるのは間違いないと思いますし、場合によっては協力できることもあると思いますから」
「・・・ふむ」
 氷室は頷き、校門から外に出て行く桜とそれを見送る二人を眺める。
 実際、氷室としても釈然としないものはあるのだ。
(あの二人が付き合っているかどうかはともかく、この下校に何か意味があるのは間違いはないだろう・・・だが、何をしようとしているのだ? それに、何かあるのだとすれば・・・)
 何故、三枝は親友である氷室と蒔寺に何も言わないのだろうか。
「お、二人とも歩き出した。追おうぜ鐘、遠坂」


 なんとなく話しづらい雰囲気で士郎と三枝は校門前の坂を下りていた。
 結構な時間を校内で潰していたが部活が無い影響で周囲にはまだまだ生徒が多く、賑やかな雰囲気にとけこめないままに足を動かし続ける。
(駄目だ。これじゃあ一緒に帰ってる意味が無い)
 士郎は内心で呟き、よしと頷いた。気持ちを切り替えて三枝の方に目をむけ。
「・・・士郎くんは」
 しかし、先に口を開いたのは三枝の方であった。
「ん?」
 機先を制された士郎に、少しだけ寂しげな笑顔で少女は告げる。
「士郎くんは、いつも嘘の表情をするんですね」
「嘘の表情・・・?」
 思わぬ台詞に首を傾げる姿に、はいと三枝は頷いた。
「昔は、顔は笑っていても笑っていませんでした」
 過去の記憶と、今そこに居る士郎。それを重ね合わせて静かに呟く。

「今は、泣いてるのに・・・顔は泣いてません」

 答えは無い。
 士郎は、べつにそんな事は無いと言おうとして、なんとなく口を開く事が出来ないままに歩き続ける。
 自分でも意識せずに否定してしまったあの呼び方。
 彼女への未練は無い筈だ。心残りは探せば見つかるかもしれないが、それだって彼女の誇りと引き換えに出来るようなものではない。2度と会えぬその人との思い出は今もこの胸にあり、それは彼の生きる道を照らしてくれている。
 だから。
 あの瞬間によぎった痛みは、きっと夏の日の夕立のようなもの。
 ほほをつたったところで、すぐに乾いていくだろう。
「・・・大丈夫。確かに今はそんなこともあるかもしれないけど、ちゃんとしていくって決めたから」
 しばらく考えてから伝えた言葉に、しかし三枝の表情は曇ったままだ。
 全くもって未熟と士郎は苦笑する。どうせ強がりを言うならば、あの男くらい堂々と言い放てばいいものを。
 今だ記憶に色あせない、あの赤い背中に笑われている気がして士郎は苦笑を濃くした。頭を掻きながらもう一度フォローの言葉を組み上げようと試みて。
「・・・む」
 その表情が消えた。背後から視線、しかも複数。
 あの頃、彼女が言っていた言葉が脳裏に蘇る。危険の気配に敏感であるべきだと。
「・・・・・・」
 気配は離れない。偶然や勘違いではないことを確認して士郎はよしと頷き。
「由紀香、こっち!」
 いきなり三枝の手を取って走り出した。
「はぅえっ!? は、はい!?」
 突然の手つなぎ&ダッシュに常時スローライフな三枝ブレインはついてこれず目と口を3つのOにしてつんのめってからフラフラと走り出し。

 

「なっ! 気付かれた!?」
「・・・気を抜きすぎたか」
 唐突に走り出した二人に蒔寺と氷室は小声で叫んで走り出した。
「・・・しまった」
 先行する二人の背を眺めて凛はポケットを押さえて呟く。認識阻害の限定礼装はそこにあるが、念の為程度で持ち歩いているものなので効果は大したものではない。
(近づきすぎた、か)
 心の中で苦く笑う。
 真剣な追跡ではなかったとはいえ、頭の中に叩き込まれている筈の有効距離を踏み越えてしまったというのは・・・
(焦ってたのかな。フォローしなくちゃって・・・あんな顔、久しぶりに見たから)
 それを何とかしなければと思ってしまうのは、義務感だろうか。それとも、驕りか。好意か。
(ったく、一回肌重ねた程度で思い上がっちゃってまあ)
 頭の中で自分におしおきビンタを往復で三セット程くわえてから凛は先行する氷室達を追った。気付かれた以上尾行を続けても何の意味も無いだろうが、わびを入れるには前の二人だけでは不安だ。
「待ってください氷室さん、蒔寺さん! あいつもあれで頑固だからもう―――っ!」
 早口で呼びながら角を曲がった凛はそこに立ち尽くしていた蒔寺の背にぶつかりかけて慌てて足を止めた。
 どうしたのかと視線を辿れば、きょろきょろと辺りを見渡す氷室と人気の無い路地。赤みのかかった髪の少年も、栗色の髪の少女も見当たらない。
「どうやら逃げられたようですね・・・」
「ああ。ぼぅっとしているように見えて中々にアグレッシブな御仁なようだな」
 まあ、あれで殺し合いを潜り抜け、そういう意味での『童貞』も捨ててる奴だしなあと凛は肩をすくめ。
「・・・おい」
 不意に背後からかけられた声にビクッとのけぞった。おそるおそる振り返った。
「・・・ほ、ほほほほ・・・き、奇遇ですね衛宮君。今帰りですか?」
「・・・そうだな。物陰に隠れながら追ってくる遠坂と会うなんて奇遇だな」
 そこに居たのは、やや呆れ顔の士郎。そして。
「まさか遠坂、あんたが犯人だったなんてね」
「いずれは何かしでかすとは思っておったが、まさかこのような・・・」
 半笑いの口を手で隠した美綴綾子と割と本気で慄いているような柳洞一成であった。

 

 

 

 

Act.5 Stalker×Scheme

 


「ストーカー!?」
 マウント深山商店街にて営業する閑静な喫茶点に、黒豹の咆哮が響き渡った。
「・・・蒔」
「・・・蒔寺さん」
「蒔寺。他の客に迷惑であろう」
 氷室と凛はおろか一成にまで非難の目で見られてぐむむと唸る蒔寺に、三枝は困り顔で手元のカップを所在なさげに弄る。
 通学路での大集合の後、さすがにこのまま解散というわけにはいかないという点で意見が一致した一同は試験後の気軽さも手伝って喫茶店でそれぞれの情報公開と相成ったのだ。
「一週間くらい前から学校から帰る途中に誰かがついてくる気がしてて、振り返っても誰も居ないから最初は気のせいだって思ってたんだけど・・・」
 普段はのんびりとしているだけに、その困惑の表情に氷室達の緊張が高まる。
「でも、それにしては毎日気配がするし、急に振り返ってみたら植え込みとかが揺れてたりとかするから・・・ちょっと怖くなっちゃったの」
「・・・ふむ。それは・・・洒落にならんな」
 氷室は腕組みをして唸る。恋愛話を好む性としては、そのような犯罪的なものを恋愛に持ち込む輩は許せない。八つ裂きの上で川にでも流してしまいたい。祭りの夜にでも。
「うん。それでね? 昨日、部活が終わって鐘ちゃんと蒔ちゃんと別れた後にまた気配がしたから思い切って声かけてみたの」
「無用心ですね・・・本当に変質者だったらどうするんですか」
 軽く眉をしかめる凛に困り笑いを浮かべ、三枝はこくりと頷いた。
「そうなんですけど、まだ気のせいかもって思ってましたから。でも、誰か居るんですかって言ったら曲がり角から衛宮くんが出てきて―――」
「おまえか犯人か! こ、殺す! 衛宮殺す! なんかもう3年くらい殺すッ!」
「なんでさ!?」
 がっと士郎に詰め寄る蒔寺に三枝は慌ててパタパタと手を振った。
「ち、違うよ蒔ちゃん。士郎くんはたまたま通りがかっただけで―――」
「ふむ。それでナチュラルボーン世話焼きとして名高い衛宮が護衛を買ってでたというわけか」
 冷静に呟く氷室のまとめに、掴みかかる巻寺をいなしながら士郎は首を横に振る。
「いや、俺が何か言い出す前に三枝さんが―――」
「由紀香です・・・」
 言いかけたところで三枝に袖を引かれ、士郎はきょとんとした表情で首をかしげた。一瞬だけ興味深げに眼鏡を光らせた氷室と一瞬だけ引きつった凛のこめかみに気付かず言い直す。
「由紀香に仲介を頼まれて、生徒会長の一成に相談しようってことになったんだ」
 全員の視線を受けて一成はうむと頷く。
「昼休みに衛宮から相談があると言われてな。生徒会室で話を聞く事になったのだ。何事かと思ったぞ。衛宮と三枝はともかく美綴までやってきた時には」
「そうですね。今の話の流れだと美綴さんは関係無さそうですけど?」
 凛の声と氷室の視線を受けて美綴は肩をすくめて見せた。
「あたしは弓道部の用事で柳洞に話をつけようとしてただけだったんだけどね。ほら、間桐も忙しいし柳洞相手だったらあたしの方が慣れてるし」
 最近はずいぶんと芯が強くなったと評判の桜だが、まだまだ人間関係の構築は不得手だ。年上の助言者が必要だろうというのは周囲の皆の共通見解である。
「むしろ驚いたのはこっちだよ。士郎が生徒会室に入るのが見えたからちょうどいいと思ってあたしも後から入ったら中に陸上部の子が居るわ会長がまさかおまえもかとかおまえや遠坂ならストーカーの10人や20人返り討ちだろうとか言い出すわ」
「・・・へえ?」
 遠坂凛は、にっこりと微笑んだ。
「ぐむ・・・じ、事実であろうが! それに、そんな事は本題ではないッ!」
 わかり易い威圧に汗を滲ませながら一成はなんとか息を整えてその時の事を語り始めた。

 


                             ■■S×S■■


 季節柄やや蒸し暑い昼下がりの生徒会室。
「ふむ・・・我が校にそのような輩が居るとは思いたくはないが・・・」
 三枝の話を聞き終えた一成は深く溜息をついてから湯飲みの茶をすすった。
 はっきり言ってしまえば彼女の話には何の証拠も無い。
 常識的に考えれば十中八九ただの気のせいであり、残りも0.9くらいは内気な男子が告白のタイミングを計っている程度のものだろう。
 だが。
「このような問題は長引くほどに被害が大きくなるからな・・・三枝さんには当面単独行動を避けてもらい、その間に全校生徒に綱紀を正すよう通達するか。事によっては警察の力を借りることも考えねばならん」
 一成は残りの0.1を見逃すような男ではなかった。最悪に備えて最善を為す。責任の極めて軽い学生の世界とはいえ長く組織の長を務めた者の、それが方法論である。
 まずは生徒会顧問にでも相談してみるかと話を進める生徒会長に、なし崩し的に話しに加わった美綴はどうかなと首を傾げる。
「でも、それじゃ大事になりすぎるし結局不確実だろ? 大山鳴動して鼠一匹っていうんじゃ三枝さん自身が責められる事になりかねないんじゃない?」
「無論それはわかっている。当面、彼女の名は出さんつもりだ。警察に協力を依頼するとなればそうともいかんがな」
 そんな事にならねばそれにこしたことはないがと続ける一成に、美綴は腕組みなどして考えた。
「それだったらまず、本当にストーカーが居るのか確認すべきじゃないか? たとえば三枝さんを男と一緒に歩かせてそこを監視するとかさ。ここんとこ毎日視線を感じるっていうんだし、しばらく仲良さげにしてても何も無いんだったら気のせいなんだろ」
 提示された案に、しかし一成は首を横に振る。
「却下だ。効果的かもしれんがストーカーが逆上したらどうする。刃傷沙汰にでもなっては目も当てられん」
「そこで、並みの相手なら指先一つでダウンできる衛宮の登場だ」
 渋い顔に、美綴は士郎を指差してみせた。学年が上がってからたまにだが再び弓道部に顔を出すようになったこの男が一冬で異常なまでに運動能力を増した事を彼女はよく知っている。
 バレンタイン前後に、なにがあったか衛宮士郎。
「む・・・確かに安心感はあるが・・・いやいやいや、やはり一般生徒にそんな事はさせられん」
 一瞬だけ納得しそうになって一成はぶるぶると首を横に振った。普段は散々自分の仕事を士郎に手伝わしているが、それとはわけが違う。
「いや、俺は構わないけど」
 二人の視線を向けられた士郎は一度言葉を区切り、三枝の方に目を向ける。
「でも、さっき一成も言ってた通り三枝さんに危険が及ぶ可能性があるから賛成はできない。燻り出すっていうなら、三枝さんも替え玉の方がいいんじゃないか?」
「ふむ。例えば俺が三枝さん役―――いや、忘れてくれ」
 一成は特に考えずに放った台詞の危険性に気付いて慌てて口をつぐんだがもう遅い。
「・・・・・・」
 美綴は、やっぱりなあという目で彼を見た。
「・・・・・・」
 士郎は、友情は変わらぬと固い決意の視線を向けた。
「どきどき・・・」
 三枝は、友人がよく語っている世界を垣間見て顔を赤らめた。
「くっ、お、おまえ達! なんだその目は! 喝ッ!」
「あははははは、でもまあ、そうだよな。柳洞はともかくあたしが変装してってのはどうだ?」
「いや、無理だろう。身長とか・・・そもそも美綴は有名すぎる。でも・・・」
 変装どころか変身だってして見せそうな赤い人を思い浮かべながら考え込んだ士郎の袖が、ふいにくいっと引っ張られた。
「えっと、あの・・・」
「ん? どうした、三枝さん」
 士郎の視線を受けた三枝は数秒躊躇し。
「さっきのお願いできますか?」
 机の下できゅっと拳を握りながら早口でまくしたてた。それでも氷室の3分の2、蒔寺の5分の1くらいのスピードだが。
「さっきのって・・・俺が護衛するっていう?」
「はい。衛宮くんなら安心ですし、その・・・・あ、でも、ご迷惑で・・・すよね・・・」
 当人比1.5倍の勢いも長くは続かなかった。自己完結してしおしおと沈んでいく少女の表情に士郎はむうと唸る。
「いや、俺は構わない。最初に聞いたときにも考えたしな。でも、さっき一成も言ってたけどほんとにストーカーが居るんなら近くに男が居た場合、そいつが諦めるか逆上するかわからないぞ。だから登下校だけじゃなく夜の外出とか休日とかまでフォローしなくちゃ危険なんだ。俺が四六時中一緒に居られたら迷惑だろ?」
「え? なんでですか・・・?」
「いや、なんでって言われても・・・」
 戸惑いの表情で見詰め合う二人に美綴はニヤリと笑みを漏らして頷いた。
「じゃあ、とりあえず登下校は二人をわかりやすい餌にして泳がして、あたしと会長で遠巻きにそれを監視すればいいんじゃないか?」
「ふむ・・・二人に危害を加えそうな奴が居たら我々が捕まえるわけか・・・」
 一成はその提案に一考の価値はあるかと考え込む。
「いや、それだとそっちが危ないだろう。掴まえる担当を俺と一成にするべきじゃないか?」
「女二人じゃ餌にならないし会長と三枝じゃ、あからさまに罠でしょうが。だから、消去法で衛宮ってこと。まあこっちはいざとなったら通報するだけだし心配するなよ」
「ん・・・まあ、そうか・・・どうだろう三枝さん」
 士郎は危険性と有効性を頭の中で秤にかけ、一つ頷いて問いかける。
「はい。お願いします」
 そして、三枝にそれを断る理由がある筈も無かった。


                             ■■S×S■■


「・・・それで、学校の中をうろついてたというわけですか?」
 呆れ顔な凛の言葉に士郎は苦笑混じりに頷いた。
「出来るだけあちこちを回っていぶりだすって作戦だったからな。気配が無いから学校の中は安全だと思ってたんだけど―――」
「あたしたちが居たのであった! まいったかにぶシャモジめ!」
 無用に胸を張る蒔寺に美綴は首を傾げる。
「でも、あたし達も気付かなかったんだよな。遠坂達が居るの。同じ人間を見張ってたってのに」
「うむ。衛宮があそこで気付かなければ俺達は最後まで役立たずのままで終わったかもしれん。やはりこの手法には問題があるか・・・」
 反省の表情で考え込んでしまった一成に、士郎はちらりと凛を見た。ちろりと小さく舌を出す姿にやっぱり遠坂の魔術かと溜息をつく。
「それにしても、遠坂はともかく何故氷室と蒔寺までついてきてたんだ?」
「ふむ。私達の側からすれば遠坂嬢の方が意外なキャストなのだがな」
 氷室は片目をつぶってくくと喉で笑った。
「親友にいきなり恋人が出来たとなればどのような相手か知りたくなるのも当然だろう? まあ、手段は少々悪乗りが過ぎたと反省はしているけどね」
「え…?」 
「む…?」
 その発言に士郎と一成は同時に声をあげた。
「衛宮。明言は…」
「してない。指示通り…だと思うぞ」
 ごもごもと言葉を交わして腕組みなどする二人に凛は少し眉をしかめて目を向ける。
「どうしたんですか? 難しい顔して」
「…うむ。俺と衛宮が女性の心理に疎いのは最初からわかっていたことではあるのだが…その、なんだ。女子は男子と二人で帰るを目撃したら、即恋人なのか? なんというか友達以上とかそういう猶予期間はないのだろうか…」
「一応、余計なことは言ってないつもりなんだけどな…」
 困り顔二つに問われて凛はため息をついた。
「確かにそれだけならグレーゾーンかもしれませんけど…直前に三枝さんが恋人できましたと大宣言したでしょうが…」
「なんと!? さ、三枝さん!? 今回の件が終わった後に面倒なことにならぬよう明言はさけるようにと…!」
 全身をつかった大きな驚きリアクションで迫る一成に三枝はふぇ!? と目を丸くして首を傾げる。
「でも秘密にしてもどうせ首突っ込んでくるだろうから鐘ちゃんと蒔ちゃんには話しておいた方がいいって…」
「だ、誰がそんな事を!?」
「あー、ごめん。それあたしだ」
 ややひきつった表情で状況を静観していた美綴は苦笑交じりに挙手してみせた。
「み、美綴!」
「落ち着けよ柳洞。いや、こっそり教えておけよって意味だったんだけどな」
「へへん。うちの由紀っちにこっそりなんて概念は無いね!」
「事実だが何故そんなにえばっているんだ? しかもおまえが」
「…あの、ご迷惑…でしたか…?」
「いや、別に迷惑ではないけど…っていうか三枝さんに迷惑がかかるっていう…」
 途端しょんぼりこんな顔になってしぼんでしまった三枝に士郎は戸惑いの声をあげる。はて、何故にこんなにも落ち込んでいるか?
「混沌としてきましたね…ともかく、こうなってしまった以上今日はこれまでということになるのかしら?」
 最早好き勝手に喋るだけの場と化したテーブルに飽きてきた凛は少し強めの口調で声を発した。
「…というよりも、やっぱりこのやり方は駄目だとわかっただけのような気もする」
 士郎が顔をしかめて答えた言葉に凛も苦笑混じりに頷いてみせる。
「衛宮くん達はわたし達に気づかなかったし、わたし達は柳洞くん達にも気付かなかったとなると…もう一組くらい誰にも気付かれてない人が居てもおかしくないものね」
 士郎に神経を集中するあまり自分達以外の追跡者という可能性など考えもしなかった。またうっかりだと一人で脳内反省裁判。結審、3日間スコーンにジャム付け禁止の刑。
「不用意に三枝さんを危険にさらしただけになってしまったか…」
「いや、そうでもないのではないか?」
 悔恨の表情で俯く一成に氷室は口元に笑みを浮かべる。
「少なくとも私達を釣る事には成功したと言えるし、それに対する衛宮の対処能力が高い事も証明されたではないか」
「うん、士郎くんすごいんだよ。わたしをだっこしたままで簡単に屋根まで登っちゃったんだから」
 三枝はニコニコと語り、コチンとそのまま硬直した。
「だっこ…」
 思い出し照れのようだ。凛からの静かな、蒔寺からの騒がしい殺気に士郎はぐぎぎと呻きを漏らす。
「それでいきなり降ってきたのか。何事かと思ったぞあれは」
 三角関係よきかなよきかな。むしろ何故あたしの方には春がこないのかねと美綴は笑い、氷室に目を向ける。
「となると、基本ラインはこのまま継続ってことでいいのかね」
「うむ。しばらくの間由紀香には単独行動を避けてもらうという方向でよいのではないか? 衛宮氏…というよりも男子には無理な領域は私達が受け持てばいい。撃退するとは言えないが逃げるのならば本職だからな」
 ちなみに、陸上部における彼女の種目は高飛びである。
「生徒会室に防犯ブザーがある。一応それも支給しよう。本来なら生徒会役員から応援を付けたいところだが…」
「あ」
 実務的な話を始めた一成と氷室の話に耳を傾けていた士郎はふと窓の外に目を向けて声を漏らした。
「む。どうした衛宮。何か気付いたことでもあったか?」
「いや…由紀香、時間大丈夫なのか? 夕飯作ったりするんだろ?」
 彼が目にしたのは赤から黒への色の流れ。既に夕方と呼ぶには辛くなりつつある空である。
「わ。あ、そうです」
 三枝は手首を裏返して腕時計を眺め、あたふたと立ち上がった。
「ごめんなさい。わたしもう帰らないと…」
「うむ。衛宮」
「ああ、家まで送るよ」
 そう言って立ち上がる士郎に当然よねと頷き、凛もまた席を立つ。
「では、一応その後ろをわたしが尾行しておきますね。皆は今後の計画をきっちり詰めておいてください」
「しかし一人では危険―――」
 その言葉に一成は反射的に反論しかけてから首を横に振った。
「でもないな。遠坂ならば」
「ああ、遠坂だからな」
「遠坂じゃあ仕方ないな」
 皆で頷く面々に凛はピキリとこめかみを引きつらせながら優雅に会釈をする。この遠坂凛、恨みは三代忘れぬぞ。特に士郎は今晩覚悟せよ。今宵、影絵の土蔵で君を奇襲。
「で、ではわたし達はこれで…ここまで首を突っ込んだ以上わたしもお手伝いはしますから出来ることがあればなんなりと言ってくださいね」
 笑顔で怒りを表現するという器用な真似をしながら喫茶店を出ていってしまった凛に苦笑しながら士郎は財布を出し、三人分の紅茶代をテーブルに置いた。
「じゃあ、行こうか」
「あの、お金…」
「由紀の字。こういう時は男に格好をつけさせてやるのがいい女というものだぞ?」
「むしろ搾り取れ! 100人から先は覚えちゃいねぇー!」
 三枝は数秒間躊躇ってからこくりと頷いた。
「今度なにかの形でおかえししますね?」
 気合と決意を込めて大きく頷いた。

 

 

 


Act.6 Saver×Stop

 


「三枝さん、数分だけ衛宮くんを借りていいでしょうか?」
 喫茶店を出た二人に凛は少し離れた所から声をかけた。
「?」
「?」
 士郎は三枝と顔を見合わせて首を傾げ、考え無しな顔で凛のほうへやってくる。
「どうした? 遠坂」
「…わたしは帰るからしっかり三枝さんを送りなさいよ?」
 暗に二人っきりにしてやると告げる言葉に、しかし士郎はきょとんとするばかりだ。
「尾行するんじゃなかったのか?」
「三枝さんは意外に大物っぽいから大丈夫として、士郎はわたしがついて来てるの意識して不自然な言動になりそうだから。周囲の警戒はアレに任すわ」
 言って指差したのは近くの電信柱の上。そこで翡翠の羽根を休めている鉱物の鳥。
「…そうだな。俺がキョロキョロしてちゃ囮にならない」
 うむうむと真剣な顔で頷く士郎に凛はため息を一つついて苦笑した。
(うわのそらだったら三枝さんがかわいそうってだけよ)
 そのまま肩をすくめ、気を取り直す。
「ともかく…害意がありそうな奴が居たら知らせるから士郎はそっちは気にせず三枝さんを家まで送ること。いいわね」
「了解。っと、そういえば遠坂」
 話は終了とその場を離れかけた凛は急に呼び止められて振り向いた。
「何よ」
「いつも思うんだが、あれって一般人に見つかったらどう思われるんだろう」
 指差す先には鉱物の鳥。ちょっと自然には居ない代物だ。
「そうね」
 凛は肩をすくめて笑みを見せる。
「きっと自分の頭を疑うと思うわ。人間、常識の範疇から外れたものは認めたくないものよ。若さゆえの過ちとか三枝さんの宣言とかね」
 そして手をひらひらと振って少女はその場を去った。
「じゃ、しっかりね」

 

 帰り道。夕日も既に山へと消え、月の光と電柱の街灯に照らされて二人は歩く。
 なんとなく、言葉は無い。
 三枝は会話がなくとも楽しげに歩き、士郎には語るべき事が見つからない。
 それでもいいように思えた。
 歪みしかない自分には、多分永劫にわからないことだけれど。こんな自分とは真逆な彼女が笑っているのなら、自分がその笑顔の理由になれるのなら。多分それでいいのだろうと思えた。
 誰かが笑ってくれる世界を。笑い方を忘れた自分の代わりに笑ってくれる人が居る世界を。自分は望んだのだから。
             せいはい
 別れの言葉の代わりに、都合の良い奇跡を否定した自分の為に。
 別れの言葉の代わりに、愛を告げて去った彼女の為に。
 

「―――士郎くんには」
 そして、三枝は静かな笑みのまま口を開いた。
「ん?」
 物思いから覚め、こちらを向いたその目を見つめて吐息に言葉を乗せる。
「士郎くんには、好きな人が居るんですよね?」
「ぅえ!?」
 唐突な言葉に士郎は思わずつんのめった。転ぶ前にバランスを取り直して奇行に目を丸くする少女に向き直る。
「・・・三枝さん?」
「由紀香です」
「ゆ、由紀香? 何故いきなりそんなことを」
 少しむくれた顔で訂正する少女に汗をかきながら問うと、三枝はいつも通りのような…しかし士郎が今日見てきたものとは違う笑顔でもう一度笑ってみせる。
「見ていればわかりますから」
 呟き、呼吸を一つ。
「遠坂さん・・・ですか?」
「・・・・・・」
 士郎に答える義務は無い。本来、あれに関わっていない彼女に語るべきことでもない。
 だが―――
「いや。そいつはもう、遠い国に居る。多分、二度と会えないと思う」
 士郎は、そう答えた。
 記憶は、いつか薄れていく。かつて凛に問われた際にも思ったその事実に抗う為に。あの少女の記憶を、留める為に。
「…どんな人なんですか?」
「ん。そうだな・・・」
 問われた士郎は意識を過去に飛ばし、記憶の中の彼女を呼び起こす。
 


 思い出の中の少女は真顔でぐいっと茶碗をこっちに差し出してきた。

「はらぺこな奴だった」
「え?」
「あ、いや、今の無しで」
 ごほんと咳払いなどして仕切りなおし。
「そうだな・・・不器用な奴だったよ。真っ直ぐで、いつも人の為に一生懸命になって自分の為の幸せを探せない奴だったから・・・あいつが自分の為に笑えるように、してやりたかった」
 今も鮮明に記憶に残る彼女の姿は、朝焼けに照らされ微笑む別れのもの。
 最後の記憶が、血に塗れたものでないことを、無惨なものにしないですんだことを士郎は一人安堵し、誇った。
 聖杯戦争に勝利した事でも、それにまつわる惨劇を防いだことでもない。
 一人の少女の生き方を守れたことをこそが、あの戦いで得た衛宮士郎の誇りなのだから。
「なんだか・・・似てますね」
 くすりと笑う三枝に追憶から覚め、士郎一瞬戸惑ってから苦笑を漏らした。
「いや、俺の生き方は親父の真似だから自分で選び取ったあいつとは比べられない。でも、あいつに恥じないような自分にはなりたいとは、今も思ってるよ」
 三枝は静かに微笑み、頷いてみせた。
 彼女が似ていると感じたのはその誰かと士郎ではなく、自分と士郎についてなのだが。
 それをわざわざ語る必要もないとただ笑みを浮かべる。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 一度途切れた言葉に繋ぐ台詞も思い浮かばず、二人はまた無言で歩きつづけた。
 しばしして覗き見た三枝の表情は、なにか真剣に考え込むそれである。
 どのような思考がその微笑ましくもある表情の奥で巡っているのかは士郎如きにはわからないが、邪魔しても悪いかと無言の道行きがしばし続き。

(―――誰か居るな)

 三枝の家まで数分というところで士郎はそれら全ての思考と配慮を消去した。
 僅かに聞こえる音、空気に混じる僅かな気配、電信柱に付けられたカーブミラーに映った植え込みの揺れ、士郎自身が意識したわけでは無いその細かな情報が脳内で再構築された警告となり全身を緊張させる。

「どうしましたか士郎く―――」
「止まって」

 士郎は不意に足を止めた彼に不思議そうな顔で問いかける三枝の歩みを手を伸ばして制し。

 

 聞き違いか。
 微量―――ふに、と何処よりか音がする。

 

 ―――掌の中には、微乳がぴつたり入ってゐた。


「え?」
「あ?」
「なッ!」
 士郎と三枝は一点で繋がれたまま見詰め合って硬直する! なんだこの展開! 唐突に展開された桃色空間に星すらも震撼していると言うのかッ!?
「あ、わ、えぅ―――」
「ご、ごめん!」
 ただただ混乱する三枝に対し経験の差が出たか士郎は一瞬早く我に返った。素早く手を引っ込めて一歩飛び退く。
「っていうか今3番目の声誰―――!?」
 そして中途半端に戦闘モードのままだった脳髄が浮かべた疑問を口にした途端。
「ねーちゃんになにしてんだよおまえッ!」
 その答えは自分から勢い良く飛び出してきた。
 背後の植え込みの中から、物理的にぴょーんと。
「い、いや、なんていうか、事故なんだこれは!」
「責任逃れかよ!」
 ガクガクと弁解する士郎とぼーっとしている三枝の間に割り込み睨みつけてくるのは小学生くらいとおぼしき少年だった。どこかで見たことがあるような気もする。
「う・・・いや、すまない・・・」
「謝るのはおれにじゃないだろ!」
 怒鳴られ、士郎は素直に三枝に頭をさげる。
「その通りだ。ごめん三枝さん」
「由紀香です。っていうよりも、こら! 孝太!」
 無意識に訂正をいれて我に返ったのか、三枝は め! と腰に手をあてて少年に顔を近づけた。
「な、なんだよう姉ちゃん・・・」
 途端にしおしおと勢いを失う少年に怒り顔というより困り顔という表情を向ける。
「目上の人には礼儀正しくってお姉ちゃんいつもいってるでしょ? それにご挨拶は? はじめて会った人にはちゃんと―――」
 怒涛であった。喋っている速度自体は遅いのだが、一言一言に問答無用の重みがある。
 士郎はこれを知っていた。たまにだが虎の人もこんな風に喋る。遠坂も限定状況でこんな感じだ。美綴すらこれを発動して無敵化することがある。
 そう、それこそはANE属性。弟属性を持つ者にとっては強力無比たる一撃必殺抵抗不能。なにしろACE属性と一文字違いだ。んー、見て欲しいのねこの滾るシスターパワー。力はパワーだよ兄貴!
「ほら、孝太―――」
「いや、さえぐ、由紀香・・・悪いのは俺だから」
 予想外の展開におそるおそる口を挟む士郎に三枝はぷるぷると首を横に振る。
「いえ、士郎くんはいいんです。むしろ望むところです」
「え?」
「ね、姉ちゃん!?」
「はわっ! ・・・えっと、なんでもないですっ! と、とにかく! 孝太、ご挨拶は?」
 不用意な発言にガフッと吐血っぽい驚愕を見せる男衆に慌てて手をばたつかせて誤魔化しをアピールしてから再度ANE属性を発動する。
「ぅ、ぅう・・・」
 少年はぎぎぎとしばし抵抗を試みてからがっくりと肩を落とし、士郎に小さく頭を下げた。
「・・・三枝孝太・・・です。はじめまして」
「あ、ああ。俺は衛宮士郎。よろしく・・・」
「……」
 三枝の一瞥を受け、孝太は嫌そうな表情で士郎に手を差し出す。士郎は同情の表情でそれを握った。
「・・・やっぱりおまえがエミヤシロウか」
「目上の人を呼び捨てにしちゃだめでしょ?」
 生ぬるく非常に気まずい握手を終えて口を開いた孝太に三枝はめっと注意を入れる。
 三枝家は金は無くとも心は錦、作法は気にしなくとも礼儀には厳しいご家庭なのだ。
「いや、構わないから。しかし、孝太だっけ? なんで植え込みの中から出てきたんだ?」
 礼儀にも作法にもこだわらない親に引き取られた士郎が苦笑と共に尋ねると、孝太は唇を尖らせてそっぽを向き。

「―――最近ねーちゃんおまえのことばっか家で話すから、わるいむしじゃないかおれがちゃんと見張ってなくちゃって」

 そして、ぼそりとそんなことを口にした。

「・・・・・・」
「・・・・・・」
 士郎と三枝は顔を見合わせる。
 ピースははまった。はまってしまった感じだ。どこかで玩具好きな探偵が間違っていたらごめんなさいと前置きするような幻視を経て、三枝はおそるおそる口を開いた。
「・・・こ、孝太? 色々言いたい事はあるけど…お、お姉ちゃんを見張ってたのっていつから?」
「・・・一週間くらい。サッカーの誘い断るの大変だったんだぞ」
 口を尖らせて睨んでくる孝太を余所に、士郎はうむと頷いた。
「間違い無い、かな」
「・・・そ、そうみたい、です・・・」
 ばつの悪そうな三枝がしょぼーんと肩を落とすのに苦笑しながら士郎は空を見上げた。頭上に翡翠の鳥は見当たらない。夜闇に紛れているのか、はたまた呆れて帰ったのかもしれない。
「姉ちゃん! どうした!? くそっ! おまえなんかしたのかエミヤシロウ!」
「孝太がしたのーーーーーーっ!」
 士郎は、この日初めて三枝由紀香の絶叫を聞いた。
 意外性が、ちょっと嬉しかった。

 

 泣きながら叱る三枝にさんざん謝らされた孝太を士郎がとりなすという奇妙な光景を十数分間くりひろげた後、三人はそろって三枝家へと帰ってきていた。
「まあ、これで事件は解決。俺もお役ご免か・・・」
「そうですね、ほんとうにごめんなさい・・・ほら、孝太もちゃんと頭下げて」
「ま、またかよう・・・もう何回目だよぅ・・・」
 しきりに恐縮しても頭をさげさせようとする三枝に孝太はむくれたが、涙目の姉に折れて苦い顔で頭を下げる。
「すまんエミヤ」
「またそんな言い方・・・」
「いや、だから俺はいいって。あいつらなら多分みんな気にしないし。ストーカーが居ないってわかっただけで大収穫だ」
 苦笑する士郎に今度は三枝がずどーんと落ち込んだ。
「そうですね・・・元々わたしが勘違いしただけですし・・・ごめんね孝太。わるいの、お姉ちゃんだ」
「い、いや、姉ちゃんは悪くないぞ!」
 しょんぼりスキルで言うならばA+、どこぞのぽんこつさんにも負けなさそうな勢いで失意の底へスパイラルダイブする姉に孝太はフォローの言葉をかけ。
「・・・まあ、原因は三枝さんであることに間違いはないかな」
 士郎は表情無くそう告げた。
「な! エミヤシロウ! おまえ―――」
「でも、みんなが動いたのはそれぞれにとっての当たり前を形にしただけだ。そうしたかったからそうした、そうすべきだと思ったからそうしただけの事に責任を感じる必要は無い。むしろ、その行動の責任を横取りすべきじゃないと俺は思う」
 国の為に殉じた彼女も、正義の為に聖杯を壊した自分も、その根幹にあったのはそうしたいからという望みだ。
 その願いが自分に返るものでなくとも、それは確かに自分だけのものだったのだから。
「だから、みんなに向ける言葉はごめんなさいじゃない。―――多分、ありがとうだ」

 その『みんな』に士郎自身は入っているのだろうか。
 まだ三枝にはそれがわからない。だから、こそ。
「―――ありがとうございます」
 少女が出来得る限りの想いを込めた笑顔は、10年前に見たような、あの冬に見たようなそれで。
「―――どういたしまして」
 衛宮士郎はぎこちなくだが確かに微笑んだ。
 笑い方を知らない者にも、つられる事くらいは、できた。

「さ、そろそろ解散にしよう。三枝さん」
「―――はい、おやすみなさい。衛宮くん」
 三枝由紀香は僅かに笑みの色を薄くしてぺこりとお辞儀をし、弟に家へ入るよう促した。
 そして今のはなんだったんだと首をかしげながら玄関へ消えた孝太の背を見送って足を止める。
「・・・衛宮くん」
 振り返ったその顔にはいつものような、いつものように見えるよう努力した笑顔。
「わたし、衛宮くんのことが大好きです」
 その、士郎の目にも無理をしている笑顔のままで、彼女はそんな事を。
「だから、今日はとっても嬉しかったです」
 そんな、過去を語る言葉を口にしてみせて。
「三枝さん―――」
 もう一度頭をさげてから踵を返し、玄関へ・・・彼女を待つ家族のもとへと去っていった。
 返す言葉をもたない士郎をその場に残して。
 

 

 

 

Act.7 Sin×So

 

 

「あーもう桜ちゃんのご飯おいしぃいいい! 何があったか知らないけどこの大判振る舞いお姉ちゃん大満足〜ッ! あ、あ、もう! 桜ちゃん藤村組に就職しない!? いっそわたしに永久就―――」
「自重しろ。藤ねえ」
「自重してください藤村先生」
「自重したら? タイガ」
 


 物質化した気合という物が存在するのならばまさにこれがそうであろう夕食をすませた士郎は、桜を家まで送るという藤ねえを送り出してから一人洗い物を済ませて風呂に漬かっていた。
「・・・・・・」
 脳裏に浮かぶのは今日を偽の恋人として過ごした少女の事。
 明日はもう、知り合いに戻る少女の事。
 最後に見た彼女らしくない笑顔を思い浮かべながら、しかし何を考えられるでもなく士郎は淡々と湯から上がる。
「・・・・・・」
 Tシャツと短パンに着替えて茶を入れた士郎はふと思い立って縁側に、既に一昔といえる過去に、彼の憧れた人が座っていた場所に座った。
「女の子には優しく・・・か。でも親父、俺はさ―――」
 思い出の中の教えに語りかけても返事があるわけも無い。首を振って空を見上げる。
「・・・士郎」
 しばし月を眺めてぼぅっとしていた士郎は不意に声をかけられて視線を庭に落とした。
 欠けた月に照らされてほの明るいそこに居たのは、見慣れた顔。
「遠坂か。どうしたんだ? こんな時間に」
「まあ事後報告って所ね。あなた柳洞君達にさっきの事報告した?」
「!? 忘れてた!」
 慌てて立ち上がり電話に向かおうとした士郎に苦笑し、凛はまあ座れと手でしめす。
「そうだろうと思ってわたしの方から連絡しといたわ。今ごろは他のみんなにも回ってる筈よ」
「そっか。すまない遠坂」
 お茶を置いて頭を下げる姿に凛は軽く目を細めた。
「そこは、『ありがとう』でしょ?」
「・・・・・・」
 痛いところをつかれ、士郎は苦笑を浮かべる。
「その・・・今の台詞が出るってことは、最後のも聞いてたわけか?」
「ええ、悪いけど」
 いや、悪くは無いと士郎は首を振って再度湯呑みを手にした。
「・・・正直、どうしたらいいのかわからない。遠坂はこういうの慣れてるんだよな?」
「・・・正直、その物言いは失礼だと思うけど・・・まあ、そうね。いわゆる告白ってのは結構受けたわ。今年に入ってからはあんまり声かけられることもなくなったけど」
「高嶺の花だって知れ渡ったからなぁ・・・」
 感心するような声に凛は内心で苦笑する。
 告白されなくなったのは、たぶんあんたと一緒に居ることが多くなったからよ。
「それで士郎はどう返事するつもり? まさかこのまま放置プレイなんてことはしないわよね?」
 問いに答えはない。凛は士郎が口を開くまでのんびりと待つことにした。
 しばし時がたち、湯飲みから立ち上る湯気が消える頃。
「俺は・・・俺には、セイバーが居る。聞いてたなら知ってるだろうけど三枝さんにもそう言った」
 ぼそりと呟かれた言葉に凛は首を横に振った。
「でも、セイバーはもう帰ってこないわ。伝説にはアーサーの復活っていうモチーフもあるみたいだけど、それを頼りに待つつもり?」
「別にそんなつもりはない。でも、俺はセイバーに恥じないように生きるって決めたから・・・人のことで精一杯だよ。自分の事まで手は回らない」
 庭の池に意味も無く目を向け、ぼそぼそと士郎は喋りつづける。
「それに卒業したら遠坂の手伝いでイギリス行くわけだし・・・もし付き合ったとして、半年しかないからな・・・」
「・・・・・・」
 凛はしばし沈黙してから肩をすくめ、ため息をついた。
「そうね。じゃあ士郎、イギリス行きの話は無かった事にして頂戴」
「・・・え?」
 いきなりの言葉に士郎は目を丸くした。声こそ軽いが視線の先、凛の目は何度も見たことある激怒のそれだ。ぶわっと背筋に冷たい汗が出る。
「そんな言い訳に使われる為に助手にするわけじゃないわ。お断りよ。元々あなたの異能は系統だった訓練で伸びるものじゃないからあんまり意味のある留学でも無いし」
「そうなのか!?」
 ぶっちゃけられた事実に肩が落ちる。そう言うことは早く言って欲しかった。
「聖杯戦争の時だって結局アーチャーのアドバイスで成長しただけでわたしが教えた内容は投影魔術には関係なかったじゃない」
「で、でも今だって遠坂の訓練メニューこなしてるし・・・ひょ、ひょっとしてこれも無意味だったりするのか!?」
 遠坂に限ってと遠坂なら有り得るの間でふらついている馬鹿弟子を見下ろし、凛はひらひらと手を振ってみせる。
「今士郎にさせているのは回路を鍛える為のメニューなのよ。今のあなたは放出量に対する供給量が不自然に少ないし、わたしの読みでは士郎の回路は鍛え続ければもう一つ上のフィールドで開花すると思うのよね」
 ふぅとため息をつき、凛はもう少し未来に種明かししようとしていた事を淡々と告げる。
「時計塔に連れて行けば鍛錬に使う道具は充実するだろうし、それ以上にあなたに一番欠けている魔術師としての常識が備わるだろうから意義があると思っていたんだけど・・・そんな逃げ場みたいな気分ならとてもじゃないけど連れていけないわね。これ、悪意じゃなくて好意で言ってることよ」
 そして、唖然とする士郎に心を込めて告げる。
「だから、わたしを師だと思うのなら従いなさい。士郎はこの地に残るの。魔術の方は別の人に任せようと思ってた仕事があるから、それを代行しつつ通信教育ってことにするわ」
「・・・仕事ってなにさ」
 士郎はようやく落ち着いてきたのか深呼吸して立ち上がった。サンダルをつっかけ凛の傍へと歩み寄る。
「わたしが留守してる間の冬木の管理。まあ、今は教会側が協力的だからそんなに難しいことは無いと思うわよ? もう一人サポートもつけるし。それで、遠坂の屋敷の管理がてら地下にあるいろんなブツを扱って位階をあげてもらおうかしらね」
「むう、それは構わないが、でも・・・」
 傍まで来た士郎の混乱が抜けない表情にくすりと笑い、凛はその鼻先を軽く人差し指でつついて告げる。
「そして、そうね・・・三枝さんが行くようなら大学にでも入って、一緒に居てあげなさい」「・・・なんでさ」
 拗ねた子供のように呟く士郎に凛はふうと息をついた。ゆっくりと歩き出しながら背後へと言葉を投げる。
「魔術師には血統を残す義務があるわ」
「は!?」
 いきなり方向転換した台詞に素っ頓狂な声があがるのを無視。
「あなたのその回路はあまりにも異形だから遺伝するかわからないけど、やっぱり一代で途絶えさすには惜しいでしょ。だから、セイバーはもう居なくても誰かと子供を作る必要があるの」
「いや、誰かとって・・・」
 呆れ声にため息をつく。その先を言うのは彼女をして・・・いや、むしろ彼女が遠坂凛だからこそ勇気が必要だった。
「たとえば、わたしだって好きな男が死んじゃったりしたらどっかの血統がいい魔術師捕まえて遺伝子だけ提供させて子供を作るつもりだし」
 そして、絶句している背後の少年にくるりと向き直り凛は真っ直ぐにその目を見つめる。
「だから、士郎の相手はわたしかなって思ってた」
 今はまだ、ぬくもりでしかないその感情に気付いた日から。
「士郎がわたしの相手ならいいなって思ってた」
 いつかそれが、押さえきれないほどの熱いものになるだろうと気付いてから、
「でも」
 今日までは、そう思っていたのに。
「あなたは、三枝さんと一緒に居て、とても楽しそうだったから」
                         かたち
 気付いてしまった。士郎の傍に居るべき在り方に。
「―――ねえ、士郎。あなたは何になりたいんだったかしら?」
「・・・俺は」
 思いがけない言葉の連続に言葉を失っていた士郎はようやく自分を取り戻して口を開いた。
「俺は、誰かを助けられる存在に・・・正義の味方になりたい」
 それは、それだけは彼にとっての確かなこと。全てを失った日に縋り、どんな結果で終わろうとも歩むと胸の奥の剣に誓った生き方。
「そう。あなたは誰かを助けたい。それは魔術師の考え方とは相成れないものよ。たとえば、わたしとは。だから、あなたの手助けを出来るのは魔術師じゃないわ」
 自嘲するような笑みに士郎はむっと顔をしかめた。
「・・・遠坂だって俺を助けてくれたじゃないか」
「そうね。でも、それは助ける理由と手段があったからよ。士郎は助けられる人を助けるだけじゃなく・・・きっと助けを求める誰かを探しに行ってしまうから」
 そしていつか、彼女のサーヴァントが辿った道を―――
「ねえ、士郎。聖杯戦争の頃の話だけど、セイバーはあなたにも聖杯が必要だって言ったのよね?」
「・・・ああ」
 彼女の言葉は全て覚えている。それはまだ二人がわかり合えてなかった頃の事。士郎の歪みを知ったセイバーはそう言って彼を戒めたのだ。
「わたしも同感よ。そして、三枝さんは多分、あなたの聖杯になりえるわ」
「どういう、意味だよ」
 不穏な言葉に顔をしかめる士郎を眺め、凛は静かに微笑む。
「誰かを護ることがあなたの願いなら、護られる人が必要でしょ? それはわたしにも、桜にも、イリヤにも・・・セイバーにもできなかったことよ」
 思いがけない言葉に士郎は視線を鋭くした。
「三枝さんをこっち側に巻き込むわけにはいかない」
「当たり前でしょ。だからこそ、それがあなたの原動力になる」
 ただ人の為に護り続ける士郎の望みには自分に返るものがない。故にその先にあるのは磨耗する未来だけだ。1が無くては0は0のままとは、誰の言葉だっただろうか。
「どんな時でも無条件に護れる人が、あなたには必要よ」
 だから、得るべき1が、彼女のように士郎が自分から護りたいと思える人が必要なのだ。
 凛には不可能な、普通であるという力を持つ彼女のような人が居れば。
 どんなに磨耗しても、士郎はきっと人の世界に、彼女の待つ世界に踏みとどまるだろう。
「そんな、利己的な理由で・・・」
「利己的も何も三枝さんの方から告白してきてるんでしょうが。問題なのはあなたが彼女をどう思うかってだけのこと。まあ、わたしが見た限りでは―――」
 あの、最後に浮かべた作り物でない笑顔を見た後では。
「士郎も三枝さんに好感を持ってるのは間違い無いと断言できるけどね」
 せざるを得ないけどね。
「・・・・・・」
 とても信じられないと黙り込んでしまったその表情にくすりと笑い、凛は両の手で士郎の頬を挟んだ。
「ねえ、士郎。結局のところわたしの言ってる事なんて経験伴ってないし説得力ないと思うけど・・・これだけは信じて」
 そして息をつき、真っ直ぐに士郎の眼を覗き込む。
「あなたは皆を幸せにしたいと思っている。でも、あなたが幸せになってほしいと願う人も居るのよ」
「俺に―――?」
 思い出す。彼女が呟いた言葉を。似ているというのは―――
「うん・・・だからさ、士郎。みんなを幸せにしたいのならちゃんと自分に向き合いなさい。セイバーとか信念を言い訳にすることだけはしちゃ駄目よ」
 目を見開いた士郎に笑みを向け、凛は手を離してくるりと後ろを向いた。照れくさい。
「まあ、次に顔を見た時に感じた気持ちに素直になっとけばいいと思うわ。魔術は内面と直結してるものよ。解析を得意とする自分のインスピレーションを信じなさい」
 ああ。
 冬の日もこうだった。彼女はこんなやっかいな自分に、笑みと共にエールを送ってくれたのだ。決めた道なら頑張れと。
 だから、もう迷いは無かった。
「・・・ああ、頑張ってみるよ。遠坂」
「頑張ってどうするのよ。普通に接しなさい、普通にね」
 自分に伝えられる全てを吐き出した凛はふぅと息をついて苦笑した。
「まったく、あんまり悩んで引き伸ばさないでよ? わたしは綺礼みたいなお切開は趣味じゃないんだから」
 それは嘘だなと士郎は心の中でだけ呟いた。きっといつまでも悩んでいたらまた助けにくるのだろう。自分でも言っていたように、救える人は救わずにはいられない人だから。
「ありがとう。遠坂が居てくれてよかった」
 だから、士郎は心を決めた。背中は押してもらったのだ。前に進まねば嘘だろう。
「よろしい。じゃあわたしはこれで帰るから、今日はぐっすり寝る事ね。浮かれて夜更かしして遅刻とかしたら明日全力で笑ってやるわ」
 悪戯っぽく言ってから最後にもう一度。今宵ではなく、生きている限り最後にするつもりで凛は微笑んだ。
 恋を語る少女として、微笑んだ。
「おやすみ、士郎。振られたってわたしは拾ってあげないからせいぜい頑張りなさいよ?」

 

 

 

 

ACT.Final S×S

 

 

 そして、翌朝。
 戸締りをして外に出た士郎はそこで足を止めた。
 視線の先、門に背をつけ、不安げな顔で俯いているのは少女の小柄な体。
「あ・・・」
 戸を閉めるカラカラという音に顔をあげた少女は落ち着かなさげにスカートの端を弄りながらぽそぽそと呟き始めた。
「あの、来るつもりはなかったんですけど、もう朝練とかもないんでちょっと暇でしたし昨日はちゃんとお礼も出来なかったですし・・・」
 言い訳がそこで尽きたのか、ぎゅっと目を閉じ手をぎゅっと握りしめる。
「だから、その―――いっしょにいきたいんです! 学校・・・!」
 ―――ああ、その小さな叫び声に、どれだけ勇気がいった事だろうか。
 その決断に、向き合わないなどできる筈も無い。
 士郎は自分の胸に軽く手をあてて息を吸った。やはり凛は正しかった。あの目を見た瞬間に、答えはもう決まっている。

 

1.「・・・おはよう、三枝さん」
2.「・・・おはよう、由紀香」
3.「・・・っていうか何やってんだ遠坂!」