『痾』及び『夏と冬の奏鳴曲』/麻耶雄嵩
以下の文章では、麻耶雄嵩『痾』に加えて前作『夏と冬の奏鳴曲』の内容にも言及していますので、ご注意下さい。
以下、『痾』の中で『夏と冬の奏鳴曲』と関連すると思われる部分をいくつか引用し、検討してみます(頁はいずれも講談社ノベルス版『痾』より)。
- ・“桐璃”――(全体)
『夏と冬の奏鳴曲』とは違って、『痾』の地の文においては、桐璃の名前は常に引用符(“”)で括られています。これは、『夏と冬の奏鳴曲』に登場した“もう一人の桐璃”(烏有を
“うゆーさん”
と呼んでいた桐璃)と区別するためかとも思ったのですが、烏有の記憶の断片に登場する“うゆーさん”の桐璃についても同じ表記がなされている(例えば、“炎の中に、烏有の目の前に拳銃を持つ中年の男の姿が映った。(中略)そして自分の脇にはベッドに横たわる“桐璃”。”
(156頁)(*1))ところをみると、二人を区別するというわけではなく、“桐璃”という存在の不安定性/不確実性を強調する意図によるものなのでしょう。- ・“桐璃”が語る和音島事件の“真相”――(166頁~168頁)
“桐璃”は、村沢を射殺したのは烏有であり、それ以外の殺人は小柳神父によるものだと語っています。しかし、『夏と冬の奏鳴曲』で描かれた事実はまったく逆で、小柳神父が殺したのは村沢だけであり、烏有はそれ以外の三人――武藤・結城・村沢尚美を殺害しています。
烏有が三人を殺したという事実をそのまま告げてしまうと、その動機を取り繕うのが難しくなる(*2)ため、事件の背後に隠された真相を明かすわけにはいかない“桐璃”としては、その事実を伏せざるを得ないでしょう。
その一方で、すべてが小柳神父の犯行だとするのではなく、村沢を射殺したのは烏有だと嘘をついたのは、烏有が殺人者だという秘密(を握っていること)を明かすことで、烏有を束縛しようとしたのではないでしょうか。
- ・香山家の使用人、青柳勝・圭子――(187頁)
“八月中旬から香山武男の家に住み込みで働いていた。”
(226頁~227頁)というこの二人は、『夏と冬の奏鳴曲』で八月六日の夜に和音島から姿を消した真鍋泰行・道代夫妻ではないかと思われます。新生児売買を行っていた院長夫婦(すなわち真鍋夫妻)が“ヨハネの教”の関係者だった(203頁~204頁)ことから、その伝手を頼って香山家に身を寄せていたのでしょう。- ・“桐璃”の肖像画――(193頁)
“私も、知り合いの人に描いて貰った、でっかい肖像画持ってるよ”
・“ちょっと大人っぽいやつ”
(193頁)という“桐璃”の台詞は、『夏と冬の奏鳴曲』で和音館に飾られていた(“桐璃”そっくりの)『和音』の肖像画を連想させます。もちろん、そちらは切り裂かれた上に和音島とともに失われた(と考えられる)のですが、武藤が“桐璃”の肖像画を描いていた――『和音』のみならずその肖像画も“復活”させるために――という可能性もあるのでしょうか。- ・綜合的キュビスム(パピエ・コレ)に対する烏有の反応――(199頁)
これはもちろん、パピエ・コレに関する忌まわしい記憶が無意識のうちににじみ出ているのだと考えられます。
- ・武藤紀之の描いた『少女』――(199頁~200頁)
これも和音館にあったキュビスム画との関連が想像されるもので、やはり『和音』を描いたものだと考えていいのではないでしょうか。
- ・藤岡の過去――(273頁)
記憶を失った烏有自身は気づいていませんが、
“子どもの頃にな、赤信号で飛び出してダンプに轢かれかけたところを、ある青年に救われたんだ。”
(273頁)以降、藤岡が語っている過去の出来事は、『夏と冬の奏鳴曲』で描かれた烏有の過去と酷似しています。これは、『夏と冬の奏鳴曲』で示された、映画『春と秋の奏鳴曲』のシナリオと烏有の人生が酷似しているという謎に対する、
“和音は、シナリオで描かれたような交通事故の体験者を捜し、ようやく見つけました。それが烏有だったのです。”
(「麻耶雄嵩とエラリー・クイーン」より)という考察を裏付けるものであるように思われます。つまり、藤岡もまた烏有と同じように、『和音』の相手役である『ヌル』の候補として、編集長の身近に呼び寄せられていたということなのでしょう。もし烏有が見出されなければ、『春と秋の奏鳴曲』と多少の齟齬(*3)には目をつぶって、烏有の代わりに藤岡が“桐璃”とともに和音島に渡ることになったのかもしれませんが、より『ヌル』役に適している烏有が選ばれたことでお役御免になった(*4)ということでしょうか。
*2: 桐璃を護るための殺人だったという真実をそのまま語るとしても、その前提となる、三人もの人間が桐璃を狙った理由を説明するのは非常に困難です。
*3: 例えば、藤岡はすでに“社員”なので、『春と秋の奏鳴曲』の
“いつの間にか“準社員”という肩書がついていた。そんなある夏の日に、彼は編集長にある島への取材を命令されたのだった。”(講談社文庫版『夏と冬の奏鳴曲』611頁)という設定と矛盾します。
*4: そうでなければ、藤岡と岡田百合子との交際も編集長によって妨害されていたかもしれません。