ネタバレ感想 : 未読の方はお戻りください
  1. 黄金の羊毛亭  > 
  2. 掲載順リスト作家別索引 > 
  3. ミステリ&SF感想vol.219 > 
  4. あぶない叔父さん

あぶない叔父さん/麻耶雄嵩

2015年発表 (新潮社)
「失くした御守」
 題名の“失くした御守”が事件とまったく関係ないことに苦笑を禁じ得ませんが、それが突然の証拠発見につながるのがうまいところで、その衝撃がすべてを持っていっている感があります。
 コタツの中に隠れた“消失”トリック、そして叔父さんに扮した屋敷からの脱出トリックと、いずれも噴飯もののトリックがぬけぬけと使われているのも苦笑。もっとも、“犯人自身が真相を語る”という形、すなわち推理の不在ゆえに、フェアに手がかりを出しようがない(ただし実効性はある)トリックを使うのは、理に適っているようにも思えます。“雪密室”のトリックも同様に手がかりを出しづらく、普通には使いにくいトリックだと思いますが、これはちょっと面白いトリックだけに、ぎりぎりまで謎が表面化しないのが少々もったいない気も。

「転校生と放火魔」
 “室町の山稲荷”と“室町の風見の家”、そして“西室町のノ門”に“室町の月”と、四つを並べられれば四神というミッシングリンクが見えてもおかしくはないかもしれませんが、最初の二つ(に加えて“室町の月”の存在)でそれに気づく叔父さんはおかしいような気が……。そしてもちろん、他の三神を消すことで“麒麟”を独占しようとする潟田祥子の計画は、途方もないというか、常軌を逸しているというか。
 連続放火事件が叔父さんの仕業ではない――最初の事件でアリバイがある(80頁~81頁)――ことは明らかですし、平川桐也の存在と玄関の施錠もミスディレクションとなって、真相は微妙に読みづらいようにも思われます。

「最後の海」
 前の二篇の真相から、〈叔父さんが犯人〉というのが本書の趣向――だと思わされてしまうと完全に騙される、強力なミスディレクションが秀逸です。
 犯人らのアリバイを支える二人羽織トリックはもちろん強烈なインパクトがありますが、窓からの風でスタンドの笠を揺らして死体に表情をつけるという細かい工夫も見事。そしてもう一つの工夫の痕跡――指に巻いた絆創膏が、真相と犯人を見抜く手がかりとなっているのも面白いところです。
 それにしても、叔父さんが突然事件の謎解きに挑むきっかけには、思わず絶句。

「旧友」
 前の「最後の海」が〈叔父さんが犯人〉という趣向からはずれているので悩まされる部分もあるものの、叔父さんが犯人であることを前提として考えてみると、柳ヶ瀬伸司以外の二人――首を絞められた妻・聡子と首吊り死体となった汐津雅之は叔父さんの犯行らしくないので、真相はある程度見えてくるかもしれません。しかし、〈叔父さんが犯人〉を成立させるために鮮やかな構図の反転を用意してあるのはやはり見事。
 “汐津の侵入(と脱出)”から“柳ヶ瀬の脱出(と帰還)”へと反転することで、叔父さんが協力者として組み込まれた密室トリックが成立するところもよくできています。その具体的な手段、特に書斎の閂についてはやや脱力を禁じ得ませんが……。
 優斗に忠告するために叔父さんが事件の真相を語り始めるあたりは、ある意味では物語と謎解き(?)がうまく結びついているといえなくもないような、とにもかくにも本書を象徴する一幕といえるのではないでしょうか。

「あかずの扉」
 叔父さんがプレゼントの話を知っていた(249頁)というわかりやすい手がかりで、叔父さんが浴場にいたことは明らかですが、石のふりをしていたというバカトリックを見抜くのはさすがに困難でしょう(苦笑)
 見逃せないのが、“表向きの解決”で死体の出現を説明する珍現象で、同じ作者のある作品((作品名)『翼ある闇』(ここまで))の“アレ”に通じるものがあり、ニヤリとさせられます。

「藁をも摑む」
 死んだ二人の女子生徒が犬猿の仲だったことで、一方が一方を殺そうとした末の“事故”だということは予想できると思いますが、そこで〈叔父さんが犯人〉だと考えてみると、舞台が高校であるために“叔父さんがなぜそこにいたのか?”が風変わりな謎となってくるのが面白いところ。しかし、事件発生時に現れたが手がかりになっているとはいえ、勝手に学校に入り込むのはいかがなものか(“なんでも屋”で顔が広いから大丈夫なのでしょうか)。
 真紀と明美との三角関係に追い詰められた優斗が、“幽霊”のせいもあってか突然危険な行動に出ようとするところに驚かされますが、それまで散々やらかしてきた叔父さんが無事に(!)それを止めるのが、よく考えてみると何とも皮肉な気がしないでもありません。そしてその後の、色々なものを棚上げしたかのような叔父さんの長台詞(302頁)が……。

*

 さて本書では、「最後の海」を例外として〈叔父さんが犯人〉という趣向で統一されているのが、最大の特徴となっています。叔父さんの存在こそが、小さな田舎町で殺人事件が頻発した原因の一つだったわけで、題名のとおりまさに“あぶない叔父さん”というよりほかありません(苦笑)

 いわゆる本格ミステリというか、事件の謎解きを中心としたミステリにおいて、レギュラー探偵ならぬ“レギュラー犯人”が登場するというのはほとんど例がありません。というのはもちろん、犯人であることが明らかになれば、普通はそこで物語から退場せざるを得ないからで、事件のたびに真相が(読者に)明かされながらも*1なお犯人が登場し続け、犯行を繰り返すという作品は、他には有名な国内作家の某作品((作家名)山田風太郎(ここまで)(作品名)『妖異金瓶梅』(ここまで))くらいしかないように思います。というわけで本書は、その某作品の“レギュラー犯人”の趣向に挑んだものであるようにも思われます。

 しかし、麻耶雄嵩の作風を念頭に置いてみると、やや違った見方もできるのではないでしょうか。というのも、本書での叔父さんは〈犯人〉であると同時にもう一つの役割――「最後の海」も含めて毎回、語り手である優斗に、ひいては読者に事件の真相を明かす役割を果たしているからで、(そこに至る過程はさておき)“真相を明かす”という結果だけをみると、一部の作品での銘探偵・メルカトル鮎、あるいはそれを突き詰めたような『神様ゲーム』『さよなら神様』の“神様”鈴木くんとの間に、さほど大きな違いはないといってもいいでしょう*2

 そう考えると本書では、“レギュラー犯人”という趣向が先にあったのではなく、ミステリの〈探偵〉をどんどん変形させていった果てに、“語り手/読者に事件の真相を明かす”という役割にたどり着き、明かすべき真相を知る手段として――手がかりをもとにした推理や“神様”の特殊な能力などの代わりに――自身の体験が採用されている、と考えることもできるのではないでしょうか。つまり、本書の帯には“「探偵のいない」本格ミステリ”と記されているものの、叔父さんは〈探偵〉の変種という役どころ*3であるようにも思われます。本書で唯一、「最後の海」叔父さんが謎解きを行う形になっているのも、一つには叔父さんが〈探偵〉であることを強調する意図の表れでもあるのかもしれません*4

 また、叔父さんの造形が(カバーのシルエットも含めて)あからさまに金田一耕助を連想させるものになっているのも意味深長。ストレートに〈探偵〉をイメージさせるのもさることながら、しばしば取り沙汰される金田一耕助の“防御率”の悪さ*5を踏まえると、“防御率”どころかうっかり“オウンゴール”を連発する叔父さんを、“事件を食い止められない〈探偵〉”をエスカレートさせた“事件を起こす/拡大する〈探偵〉”と位置づけて、金田一耕助のイメージを“借用”することでブラックな金田一耕助パロディに仕立ててあるのではないか、とも思われます。

 いずれにせよ、叔父さんが〈探偵〉の変種であったとしても、罪が露見してしまえばもはや〈探偵〉ではなくただの〈犯人〉にすぎなくなってしまうわけで、事件の真相が作中で公にされないまま進んでいくのも必然というべきでしょう。かくして本書では、叔父さんがレギュラーの〈探偵〉兼〈犯人〉として登場し続ける結果になっている、ということになるのではないでしょうか。

 そして本書では、〈叔父さんが犯人〉という真相を明るみに出さないために、〈探偵〉と〈ワトソン役〉の造形と関係に独特の工夫が凝らされています。まず、真相を聞かされる〈ワトソン役〉の優斗は、序盤からの語りでもおわかりのように、自身の日常の出来事に比べると事件への関心は薄く、事件がどのように決着しても(基本的には)どうでもいいと思っている節がある一方、叔父さんのことは大好き。対する〈探偵〉の叔父さんも、優斗のことをかわいがっているのはもちろんですが、“犯行”もさることながら様々な理由をつけた事後の隠蔽工作まで、どうやらすべてが悪意のない“天然”の産物で、結果として優斗の主観ではあくまでも“いい話”にまとまっているため、ますます優斗が叔父さんを告発する理由はないことになります。

 しかしこの“いい話”はいわば“二人だけの世界”であって、読者からみると非常に居心地の悪い――見事に気持ち悪い(←ほめ言葉)ものになっています。特に、「藁をも摑む」での“自分が起こしたことの責任は”で始まる長台詞(302頁)を筆頭とする叔父さんの説教には、「お前が言うな!」と突っ込まずにはいられませんし、「最後の海」で優斗に疑われたというだけの理由で遠慮なく枇杷家に乗り込んで真相を暴露する、いわゆる“後期クイーン問題”の“第二の問題”*6に正面から喧嘩を売るような姿勢が、叔父さん自身が犯人である他の事件でのそれと鮮やかなコントラストをなしているのも実に気持ち悪いものがあります。

 というわけで本書は、連作としてのオチをあえてつけることなく、〈探偵〉兼〈犯人〉の趣向とそれを支える〈探偵〉と〈ワトソン役〉の関係を――「最後の海」はそれを強調するための例外として――最後まで貫くことで、何ともいえない後味がじわじわと積み重なり、(作中ではいざ知らず)読者にとっての“イヤミス”に仕上がっていると思いますし、その意味では傑作……というのはいいすぎにしても、十分に成功しているといっていいのではないでしょうか。カタルシスやカタストロフこそありませんが、本書の全体にしみこませてある“毒”は、やはり麻耶雄嵩らしい味わいの一つだと思います。

* * *

*1: 偽の解決が示されて事件が一応決着していき、最後に“レギュラー犯人”だったという真相が明らかになる、という形であれば、例えば国内作家の某作品((作家名)霞流一(ここまで)(作品名)『首断ち六地蔵』(ここまで))が思い浮かびますし、他にもあるかもしれません。
*2: むしろ、叔父さんの方が“神様”やメルカトル鮎よりも親切に多くを明かしてくれるような……。
*3: “謎解きをしないのに〈探偵〉といえるのか”と思われる向きもあるかもしれませんが、(やや意味合いが違うものの)麻耶雄嵩自身がすでに『貴族探偵』で“(自身では)謎解きをしない探偵”を登場させていることもありますし、たまに見受けられる、どうみても破綻している推理で真相を導き出したと称する――実際には作者が“知っている”真相を代弁しているだけの――〈探偵〉と比べれば(以下略)。
*4: また、この「最後の海」が定型からはずれていること自体、“レギュラー犯人”の趣向が優先ではないことを示しているといえます。
*5: 「金田一耕助#殺人防御率 - Wikipedia」を参照。
*6: 「後期クイーン的問題#第二の問題 - Wikipedia」

2015.04.23読了