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  4. 刹那の夏

刹那の夏/七河迦南

2025年発表 (東京創元社)
「刹那の夏」

 “せつなのなつ”という題名から、それが回文の一部であることは読む前に予想できたのですが、“蜜の菓子 愛おしき瞳 刹那の夏”(10頁)を折り返した後の“せみとひきしおといしかのつみ”が、(慣れない文語調ということもありますが)さすがにその時点では意味まではわからず、真相が明かされてようやく腑に落ちたのが悔しいところです。

 回文に“罪”という言葉が盛り込まれているとはいえ、島にいたみずはと一斗には予期せぬ大津波による鉄壁のアリバイ*1があった……はずが、津波の前兆として訪れた大きな引き潮が海底に“道”を作ったという、何とも壮大なトリック(?)が圧巻です。“くしゃくしゃの髪には蝉の抜け殻がくっついている。”(62頁)という記述が、本土への往復を露骨に示唆しているものの、まさに“奇跡”としかいいようのない真相はやはり想定外。そしてそれを裏付ける、“岩ばかりの小さな島”(47頁)で、みずはが“片足裏のを岩になすりつけ”(52頁)ていたという、さりげない手がかりもよくできています。

 しかしこれだけで終わらないのがこの作品のものすごいところで、みずはだけでなく駿までが“道”をたどって島へやってきた*2という“二段目”の真相に驚愕。前述の蝉の抜け殻が、みずはが本土に戻った際に直接ついたものではなく(“離れより下には蝉いないって言ってるでしょ”(25頁))、隆臣から駿、そしてみずはへと移動したということで、駿が隆臣の相手をした後にタイミングが限定されるのがお見事です。そして一斗のノートでは、“みずはは(中略)石の床に指を向けた。/「駿兄さんは今もここにいる。あたしのそばに。(後略)(57頁)と、読み返してみるとしっかり駿の存在が暗示されていた*3ことに脱帽です。

 さらに、みずはが“ぴょんぴょん飛び跳ねて”(48頁)ようやく一斗を見つけることができたこと(加えて椅子が動かせないこと(52頁))を手がかりとして導き出される、二人が生き延びるために駿の死体を踏み台にした*4という凄絶な“三段目”の真相に至っては、もはや(作中の七夏と同じように)「そこまで解き明かしてしまわなくても……」と思えてしまうところさえあり、図らずも“罪”を重ねざるを得なかった二人の心境は、察するに余りあります。

 しかして、「プロローグ」からつながってくる「エピローグ」で、駿を殺したこと、その死体を踏み台にしたこと、隆臣を放っておいたこと――それらを含めて、“他の皆がどうなったっていい。世界にふたりだけでいたい。”(99頁)と思ったことこそを、最大の“罪”と二人が考えたことがうかがえます。そしてそれでもなお、“あのとき、わたしたちはしあわせだったのだ”という二人の想いには、胸を打たれずにはいられません

*

 ところで、“本名ではないのかもしれない”(9頁)*5とされている謎解き役の“藤原かなた”と“紺野七夏”ですが、“HUZIWARA KANATA”と“KONNO NANAKA”のアナグラム*6を考えれば、誰なのか明らかでしょう。ということで、「現在」のパートが2011年夏の出来事*7だと考えられるこの作品は、現時点で作中の時系列としては最新のエピソードとなります*8

 ちなみに、この作品のイメージソング「刹那の夏、永遠の海(feet.AI Merrow) - YouTube」の歌詞には、作中の回文と同様に“みずは”と“いちと”の名前が織り込まれているほか、Aメロ(?)の各行に“つみ”が隠されており*9、明るい曲調にもかかわらず全体として“罪に満つ”*10状態になっています。さらに、の 摘みの日から ずっと見ていた 空のかなたに、“寄せてかえす波は 色のカノンと、二人の名前のヒントも用意されています。

*1: “犯人が現場に出入りできない(ように見える)”という点では密室ともいえるかもしれませんが、現象としてはやはり、“犯行時に犯人が別の場所にいた(ように見える)”、すなわちアリバイととらえるのが妥当ではないでしょうか。
*2: アリバイトリックとしては、いわゆる“ルートの盲点”(→有栖川有栖『マジックミラー』の“アリバイ講義”などを参照)に該当すると考えられる海底の“道”のトリックですが、特殊な状況(被害者がすぐに死ななかったことによる、二度にわたる犯行)が前提とはいえ、犯人と被害者の双方が“ルートの盲点”を使用したというのはかなり異色ではないかと思われます。
*3: “その時大きな音がして、扉が揺れた。”(53頁)は、津波と見せかけて駿の到着を記したもので、直後の“* * *”で時間の経過を示してあるということでしょう。
*4: 必要な準備をしてテーブルに上り”(60頁)という記述は、やはり某有名な海外古典((作家名)アガサ・クリスティ(ここまで)の長編(作品名)『アクロイド殺し』(ここまで))を思い起こさせます。
*5: 二人が本名ではないのは(作者の都合は別にして)、“ニックネーム、ハンドルネームを使う人も多いです。”(9頁)という菜穂子の言葉を受けての、ちょっとした遊び心かもしれません。
*6: 菜穂子は、ボールペンのイニシャル“K・H”(74頁)“N・K”(9頁)を“名・姓”の順で解釈していますが、これが“姓・名”の順だとすると……。
*7: “この春にあった大きな自然災害”(8頁)は時期的に2011年春の東日本大震災であり、かつての災害は1968年の十勝沖地震(→「十勝沖地震 (1968年) - Wikipedia」)ということになるでしょうか。
*8: ご承知の方もいらっしゃるでしょうが、“藤原かなた”(H)の“復活”あるいは“帰還”(R)は2008年6月です(さらに、2011年1月頃まで進んだエピソードもありますが)。
*9: “はずみに見せた 愛おしき秘密”を逆にした“つみひきしおといたせみみずは”や、“月の野おとめの 蜜と相対性と”を逆にした“といせいたうそとつみのめとおののきつ”なども気になりますが……。
*10: 泡坂妻夫『喜劇悲奇劇』に登場していた(はずの)回文です(本がすぐに取り出せないので確認できませんが)。

「魔法のエプロン」

 真相が明かされてみると、“ママ”を誤認させるシンプルな叙述トリックですが、きれいに騙されてしまいました。中核となるのはもちろん、“魔法のエプロン”のせいもあって“あたし”が弟妹に“ママ”と呼ばれることですが、冒頭の一幕での、“11/26 Friday 15:40と表示されたデジタル時計を見て(中略)まだ帰ってこないつもりかよ。あんたの仕事なんだよ。”(104頁)“お姉ちゃんが帰ったらやるから”(105頁)の組み合わせが実に巧妙で、“何日も帰ってこない母親”*11“(学校が終わっても)すぐに帰ってこない長女”にすり替わると同時に、“お姉ちゃん”も“あたし”自身ではない、とミスリードされることになります。

 母親とのやり取りなどの回想(115頁・116頁)を直接話法とすることで、“あたし”の発言(もしくは立場)を誤認させるのもうまいところですし、“小学校の下校時刻にはまだ間がある。待った方がいいか少し迷うが”(123頁)がまた絶妙で、実際には小学生が出歩いてもおかしくない時刻まで待つことを思案しているところ、“お姉ちゃん”の帰りを待つかどうか迷っているようにしか思えないのがお見事です。

 一方で、“ついこの間も(中略)ママの子守唄が聞こえてた”(119頁)というのは少々ずるい気もしますし、真相につながる手がかりは、“あたし”が“お姉ちゃん”のことを気にかけていないようにみえることくらい……とも思いましたが、よく考えてみると、振り込まれた手当をあいつが引き出した”(127頁)ことが手がかりといえるでしょうか。“あたし”=母親と誤認していると、“あいつ”は離婚した父親のように思わされますが、四年も前に離婚した父親が“家族カード”(127頁)を持っているはずがない*12ので、“あいつ”=母親ということになるでしょう。

 母親が不在の中で懸命に弟妹の世話をしてきた、小学生のゆっちゃん(134頁)*13にとって過酷な真相が露わになったところで、さらに容赦なく追い打ちをかけるように、エプロンの“魔法”――身に着けるだけで“ママ”になる魔法が発動したかのような結末が用意されているのが強烈で、読んでいて何ともいたたまれないものがあります。

*11: 時計の時刻ではなく日付を見て怒りを覚えた、ということでしょう。
*12: “母三十一歳”“二十五の時に結婚し二年で別れている。”(いずれも117頁)とあります。少なくとも離婚後は母親名義の口座に手当が振り込まれるはずで、“家のお金を持っていったり”(129頁)する相手であればなおさら、家族カードを渡すとは考えられません。またついでにいえば、小学生の“お姉ちゃん”が勝手に全額引き出すとも考えにくいでしょう。
*13: もう一箇所、ルミが学校からの電話を受けた際に“ママ、電話(中略)ゆっちゃんの学校の先生だって”(123頁)とありますが、五歳のルミがここで呼称を使い分けるのは少々不自然にも感じられます……が、先生の言葉(“○○ちゃんの学校の先生”・“ママに代わって”など)をそのまま伝えようとしたとすれば妥当でしょうか。
 ただ、ここは“学校の先生だって”だけでも通じるはずですし、個人的には“ゆっちゃん”は一箇所だけの方がエレガントではなかったか、とも思います。

「千夜行」

 “なぜ明里の来訪を恐れるのか”が一つの謎となっていますが、“去年(中略)女の人の死体が上がった”(146頁)ことが伏線となって、明里が一年前に死んでいたことが明らかになったかと思えば、嵐の夜に死んだはずの“明里”が再訪し、さらに朝乃が問答無用で“明里”を殺害する*14、怒涛の急展開に驚かされ、何が起きているのかよくわからないまま進んでいくのが面白いところです。

 それによって、この作品のメインのネタである、叔母といとこ――朝乃と暖野の関係の誤認から目をそらさせられてしまうのが巧妙。この誤認については、いみじくも朝乃が“同じ中三だっていうからびっくりよね”(148頁)というように、同い年の叔母と甥という関係はなかなか想定しがたいものがありますし、そもそも理水の母親が勘違いしているのでより強固なものになっていますが、147頁の理水と朝乃の会話のすれ違いが(綱渡り気味ですが)よく考えられています。

理水 「それで、叔母さんは――」 (←朝乃を指している)
朝乃 「そりゃそうに違いないけど、叔母さんなんて言ったら怒るわよ」 (←暖野を指している)
理水 「いとこ?」 (←暖野を指している)
朝乃 「そう。本当はね。お母さん――あなたのお祖母さんと養子縁組してるけど」 (←朝乃自身を指している)
  (147頁から一部引用)

 また、祖母・日向に始まる一族の名前ネタについて、理水は、暖野の「野」の字を明里の“「里」の字”“予志満の「予」の字”(194頁)と考えていますが、暖野の「暖」の字に(日向の「日」はもちろんのこと)十友の「友」の字が隠れている(拡大図を参照)のが秀逸――朝乃については、(日向の「日」ではなく)明里の「明」と十友の「十」で「朝」――で、完全にしてやられました。

 「プロローグ」で言及されていた“「女子中学生が自宅に火をつけ燃やした」”(143頁)という事件記事が、「エピローグ」につながる伏線となっているのもお見事。事件を起こして児童自立支援施設まで、理水を追いかけてきた暖野の笑みが印象に残る結末ですが、どう考えてもハッピーエンドではない*15二人の行く末が気になるところです。

 なお、“北京でオリンピックがあった”(143頁)という記述をみると、少なくとも「プロローグ」「エピローグ」は2008年の話であることがわかります(意味深)

*14: この来訪者殺害の繰り返しは、某国内作品((作家名)京極夏彦(ここまで)の長編(作品名)『狂骨の夢』(ここまで))を連想しました。
*15: ブリュンヒルデの台詞(201頁)からも明らかでしょう。

「わたしとわたしの妹」

 麻里亜の日記では、フォントの違いによって二人の書き手の存在が示唆されていますし、気をつけて読めば最初の日記からして、“わたしはまりあです。あとおとうさんがいます。(中略)あとおかあさんがいます。(中略)あとはあたしです。”(205頁)と、“わたし”の他に三人いる*16ことが示されています。さらに、冬実が“しょっちゅう出てくるのもご愛嬌”(206頁)と考えている食べ物の話も、例えば“きゆうりをたべました。”“ごはんときむちとぎゆうにゆう”(いずれも215頁)などは食事として怪しいので、麻里亜とは別の“あたし”が存在すると考えられます。

 作中では、冬美が自身の経験を重ねながら解離現象――“妹”が実在しない――と推測しています(227頁)が、それによって逆に、メタ的には“妹”が実在することは確実といえます……が、“死んだとされていた紀里絵が生きていた”のかと思いきや、実在していたのは紀里絵ではなくもう一人の妹だったという真相にはさすがに驚かされました。双子ではなく三つ子だったということですが、先代の中野先生が“元々悪筆だった”(216頁)ことが伏線になっているのが周到です。

 家族との別れに際して、自分を“麻里亜の分身だと考えていた”名前のない妹が、それまで持っていなかった自称*17“あたし”を獲得する場面は非常に印象深いものですし、冬実を救うための奮闘、そして日記にも再三登場していた“いただきます”と“ごちそうさま”に込められた意味が明らかになる結末は、強く心に残ります。

 なお、この作品の渕上保健婦は、「魔法のエプロン」“フチガミ先生”(108頁)として登場していますが、そちらで“現場の保健師経験が長かった人”(108頁)とされていることからもわかるように、二つのエピソードは年代がややずれており*18、直接の関連はありません。

*16: 冒頭の“うちのかぞくは三にんです。”は、“わたし”の家族、すなわち“わたし”以外のメンバーを指しているということになるでしょう。
*17: 日記の“あたし”が麻里亜の字(を表すフォント)で書かれているという、細かい手がかりにうならされます。
*18: ついでにいえば、男女ともに“保健師”という名称に統一されたのは2002年のようで(→「保健師 - Wikipedia」)、「わたしとわたしの妹」はそれより前、「魔法のエプロン」はそれより後ということになります。

「地の涯て{ランズ・エンド}

 “わたし”の推理の中心となる落とし物のブローチの扱いが目を引くところで、永瀬が拾ったことになっているせいで落とした場所の誤認が生じて最初のミスディレクションとなり、次いで殺人現場で落としたことが判明すると*19そのまま“永瀬が犯人”と思わされる二段階目のミスディレクションとなるのがユニークです。

 “ブローチを拾ったのが永瀬ではない”という事実は完全な後出しですが(苦笑)、(ブローチとは無関係に)真犯人が事件当日に現場にいたことを示す直接的な手がかり――“ここは西日がきついですからね”(251頁)という一言――が用意されているのが周到。しかしそれが、事件当日の“一週間ぶりの夕日”(249頁)、“わたし”が犯人と出会った日の“空の色にも似たくすんだ灰色(中略)僅かに照らす夕日”(250頁)“四、五日前、(中略)西の空が目に入るようになっていた。”(251頁)、そして“一昨日(注:事件の翌日)は雨”(255頁)といった記述と組み合わせてようやく、“現場で強い西日を目にする機会があったのは事件当日のみ”という結論が導き出せるあたり、一筋縄ではいきません。

 もっとも、この作品の眼目がフーダニットではなくホワイダニット――犯人探しを含む“わたし”の行動に隠された意図であることは明らかでしょう。自分を殺してほしい*20というショッキングな依頼に始まり、その心境に至る経緯――(ある意味)“裏側”の事情が語られていくのが、(“表側”を知っているとなおさら)衝撃的。とりわけ、引っ越しを繰り返しても送られ続ける“あなたはあの人を殺した”(276頁)という告発の手紙が強烈な印象を残します。

 ということで、“アレ”を読んでいれば“わたし”の正体は見当がつくと思います*21が、しかしそうだとすると、少なくとも“二年”(275頁)が経過してなお殺した(276頁)という手紙が届くのは、“わたし”に対する誰かの“悪意”*22――とまでいうのはそちらに対して酷かもしれませんが――をうかがわせます。

 “わたし”の告発と依頼が空振りに終わったのが幸いで、永瀬とともにどこかへ旅立った結末は、一つの救いといえるのではないでしょうか*23

*19: 警察の巡回の際には“自分の左手が胸を押さえ拳をぎゅっと握りしめていた”(250頁)としか描写されていませんが、その後に“左手で胸のブローチをぎゅっと握ると”(261頁)とあるのをみると、月曜の昼間に“わたし”がブローチの有無を確認できたことは間違いなく、その時点でブローチがなければ“西日でつまずいた時に落とした”とは考えないはずです。
*20: 弁当屋から永瀬と帰る際に“滅多に人の通らない道”(263頁)を選んだのも、永瀬を通り魔殺人犯と見込んで(?)のことでしょう。
*21: 永瀬に語った過去(275頁)だけでなく、“遠い街のカフェ”(258頁)などの回想、何より“白い花の形の装身具”(251頁)が“その人物”につながるものですし、地味なところでは音楽の趣味――“その人物”が聴いていたジョイ・ディヴィジョンが、「スージー・アンド・ザ・バンシーズ - Wikipedia」でバンシーズから影響を受けたバンドの一つとして挙げられている――もヒントといってよさそうです。
(2026.02.02追記):うっかり見落としていましたが、エコー&ザ・バニーメンの曲“『セブン・シーズ』”(258頁)(→「Echo & The Bunnymen - Seven Seas (Official Music Video) - YouTube」)が、ヒントというかそのままというか……。
*22: “もしかしたら、その人が命をとりとめるんじゃないか”(275頁)
*23: しかし、この町ですでに一度手紙が届いている(252頁)にもかかわらず、結末で二通目の手紙が届いているのはイレギュラーな事態で、もしかすると(以下伏せ字)“もう一つの救い”とすれ違った(ここまで)ということになるのかもしれません。

2025.11.13読了