ミステリ&SF感想vol.167

2009.01.09

伯母殺人事件 The Murder of My Aunt  リチャード・ハル

ネタバレ感想 1935年発表 (大久保康雄訳 創元推理文庫174)

[紹介]
 “ぼく”ことエドワードは、ただ一人の身寄りであるミルドレッド伯母さんのもとで暮らしてきたが、この田舎町での生活にも、そして何かと口うるさい伯母さんにも、もううんざりだった。しかし、亡くなった祖母の遺言状ではミルドレッド伯母さんがぼくの後見人に指定されており、ここから出て行けば途端にぼくは一文無しになってしまう。かくして、自由と財産を手に入れるために伯母さんを殺すことを決意したぼくは、絶対に疑われることのないよう、事故に見せかけた殺人の計画を立て始めたのだが……。

[感想]
 リチャード・ハルの処女作にして、フランシス・アイルズ『殺意』及びF.W.クロフツ『クロイドン発12時30分』とともに“倒叙推理小説三大名作”の一つとされてきた作品です。古典的ともいえる作品だけに、ミステリとしてのネタがすでに古びている感があるのは残念ですが、作者らしいシニカルなユーモアに満ちた物語は一読の価値があるといえるのではないでしょうか。

 倒叙ミステリでは、どちらかといえば犯人による犯行後、それが“どのように暴かれるのか”(探偵役がどのように犯人を追い詰めるのか)に力点を置いた作品が一般的*ですが、主人公エドワードによる秘密の覚え書き(手記)という体裁の本書では、犯人が殺害計画を立ててそれを実行に移す経緯――犯行に至るまでの犯人の心理と行動の描写に力が注がれており、犯罪(心理)小説に近い形になっています。そして、それがスリルでもサスペンスでもなく、奇妙にユーモラスな雰囲気の漂う物語となっているのが本書の特徴といえるように思います。

 それは主に、本書の主人公にして一人称の語り手であるエドワードによるものですが、好感の持てる愉快なキャラクターというわけではまったくなく、むしろそのマイナス部分――身勝手な自己正当化や御都合主義な計画、ひいてはその背後に横たわる幼稚さ――が“苦笑”から“失笑”に近いブラックな笑いを誘います。とりわけ、誰にも見せることのない秘密の覚え書きという設定による主観的な記述が読者の視点にさらされることで、その“痛さ”が強調されているのが見逃せないところです。

 そして、実際に伯母を殺害しようとする手段にも、エドワードの(ある意味)“道化師”ぶりが表れています。事が起きた際に疑われるのは必然ですから、自身の安全を最優先にした計画を立てることは理解できるのですが、それにしても“犯行がどのように暴かれるのか”どころか“犯行計画は成功するのか”という興味でいつまでも引っ張られるあたりは、さすがに苦笑を禁じ得ません。

 今となっては結末にもほとんど意外性はなく、最後に明かされる趣向も必ずしもうまく決まっているとはいえないのですが、それでも何ともいえない味わいがあるのは確かで、ミステリとしてのネタにあまり期待しなければまずまず楽しめる作品だと思います。

*: 英語では、“inverted detective story”(逆さまの推理小説)という表現に加えて、(“whodunit”に対応するかのような)howcatchem(→“How catch them”でしょうか)なる語句まであるようで(→「Inverted detective story - Wikipedia, the free encyclopedia」を参照)、やはり犯人が追い詰められる過程が重視されていることがうかがえます。
 なお、このようなオーソドックスなもの以外にも、犯人と犯行過程を明かしつつ犯行の動機を謎としたホワイダニット、犯行過程の一部を伏せて謎としたハウダニット(例えば東野圭吾『容疑者Xの献身』など)、さらには倒叙形式でありながらフーダニットでもあるという異色作など様々な方向性があります。

2008.10.31読了  [リチャード・ハル]

リロ・グラ・シスタ the little glass sister  詠坂雄二

ネタバレ感想 2007年発表 (カッパ・ノベルス)

[紹介]
 吏塚高校の屋上で、墜落死したとみられる在校生の死体が発見された。だが、屋上へ墜落できるような場所はない上に、夜間にセキュリティシステムが作動していた校内へ死体を運び込むことも不可能だった。手品部の部室で副業として探偵業を営み、“吏塚の名探偵”と呼ばれる私は、前日最後まで学校に残っていた一人である同級生・観鞍茜から、自身の無実を証明してほしいという依頼を受ける。調査を進めていくうちに、写真部員だった被害者が盗撮した写真を使って複数の女子生徒を強請っていたことが判明し、私は新たな依頼を受けることになって……。

[感想]
 カッパ・ノベルスの新人作家公募企画〈Kappa-One〉から、綾辻行人・佳多山大地両氏の推薦を得て刊行された作者のデビュー作です。カバー裏の綾辻行人氏による推薦文の冒頭、“いかにも今どきの学園小説であること。そのくせ、いかにもそれらしい一人称ハードボイルドであること。そのくせ、事件の中心にはいかにも探偵小説的な物理トリックが据えられていること。”というあたりからうかがえるように、一見するとちぐはぐな要素が組み合わされた、一筋縄ではいかない作品となっています。

 内面が描かれた地の文のみならず、会話までいちいちハードボイルド風の高校生というのは、冷静に考えれば苦笑を禁じ得ないところですが、そんな主人公の周りに配されているのが、主人公を師と仰いで助手を自称するミステリかぶれの後輩、チキンラーメンを常食として情報屋を営む図書委員、そして立て続けに珍妙な台詞を発しながら誰彼かまわず“愛情”を振りまく援交少女と、いずれも無茶なキャラクターばかりであるためにあまり違和感はありません。リアリティがあるかといえばそんなこともないのですが、例えば麻耶雄嵩『あいにくの雨で』ほどの過剰さ*1はなく、さほど受け入れ難くはないのではないかと思われます。

 物語は、主人公が放課後の更衣室で着替える同級生の姿を目撃する場面から始まりますが、男子だったはずのその同級生・観鞍茜の胸には……という奇妙な謎がまず示され、続いて翌日屋上で不可解な死体が発見されたことを受けて、男装の少女(?)・観鞍茜が“探偵”である主人公に依頼をしてくるという一連の展開は、まずまず魅力的な発端といっていいでしょう。ただしそこから先は、色々な出来事が起こる割に今ひとつ盛り上がりを欠いたまま物語が進んでいくのが少々もったいないところ。

 一つには、taipeimonochromeさんご指摘*2のように主人公があくまでも“ハードボイルド指向の探偵”であることによるように思われます。つまり、事件の解決よりも依頼を果たすことを優先するというストイックな姿勢により、語り口だけでなく事件への関わり方もどこか抑制されたものになっているため、不可解な死体の謎が提示されながら肩すかしを食わされているような印象を受けることになるのではないでしょうか。もっとも、そこで前述のミステリかぶれの助手が鬱陶しく感じられるほどトリックの解明にのめりこんでいることで、結果としてうまくバランスが取られている感もあるのは確かです。

 そして終盤になると物語は急展開を見せ、その中で立て続けに“真相”が明かされていくことになります。正直なところ、早い段階で透けて見えてしまう部分もないではないのですが、見方によってはそれもさしたる瑕疵ではないようにも思えます。透けて見える部分も作者の計算の内、というのは買いかぶりすぎかもしれませんが、作者の狙いが単純なものではないというのは確かなところではないでしょうか。

 うまく説明するのが難しいところはありますが、伏線とミスディレクションが張り巡らされた上に結末も実に印象深いものになっており、表面的な様相よりは思いのほか奥行きのある佳作といっていいように思います。

*1: 『あいにくの雨で』をけなしているわけではありませんので、念のため。
*2: “しかしこのツマらなさの原因を考えてみれば、男装の娘っ子から依頼を受けた探偵が事件を追いかけていくものの、この語り手の私が学園の名探偵とはいえどうにも新本格以降の名探偵らしくないところに起因するようにも思われる”「taipeimonochrome ミステリっぽい本とプログレっぽい音樂 » リロ・グラ・シスタ―the little glass sister / 詠坂 雄二」より)

2008.11.03読了  [詠坂雄二]

九つの殺人メルヘン  鯨統一郎

ネタバレ感想 2001年発表 (光文社文庫 く10-2)

[紹介]
 渋谷にある日本酒バー〈森へ抜ける道〉。二人の常連客――刑事の工藤と犯罪心理学者の山内――とマスター、自称“厄年トリオ”の三人が顔を合わせる金曜日の夜、メルヘンを専攻する女子大生・桜川東子がふらりと店を訪れ、未解決事件の話を聞きながら容疑者の強固なアリバイを崩していく。「ヘンゼルとグレーテル」、「赤ずきん」、「ブレーメンの音楽隊」、「シンデレラ」、「白雪姫」、「長靴をはいた猫」、「いばら姫」、「狼と七匹の子ヤギ」、そして「小人の靴屋」と、九つのメルヘンにちなんだ謎解きの果ては……?

[感想]
 安楽椅子探偵の形式で史実に関する大胆な新解釈を展開した連作短編集『邪馬台国はどこですか?』でデビューし、驚異的なペースで*1様々な作品を発表し続け、ある意味では実験的ともいえる独特の作風を確立している(らしい*2)作者ですが、初期の作品である本書は“安楽椅子探偵・(メルヘンの)新解釈・連作短編集”とデビュー作をある程度踏襲した形の作品で、作者の本領が発揮されているといえるのかもしれません。

 それぞれのエピソードは“厄年トリオ”のとりとめもない雑談に始まり、刑事の工藤が解決困難な事件の内容を紹介したところで、横でそれを聞いていた桜川東子がメルヘンとその新解釈の話を持ち出し、容疑者のアリバイが崩されて事件が解決に導かれ、マスターが酔いつぶれて幕、という連作の定型が律儀に守られています。本題となる謎が提示される前にメンバーの雑談が配置されるのは、アイザック・アシモフ〈黒後家蜘蛛の会〉に代表されるこの種の作品の定番といえますが、本書のそれは作中の“厄年トリオ”と同世代(1960年前後生まれか?)以外には今ひとつ楽しめないピンポイントの“懐かしネタ”を中心としたものであり、また本題とのつながりが薄く導入部としてあまり機能しているとはいえないのも難点。

 枕というには長すぎる感のある雑談に比して、本題であるはずの事件の話は物語としての面白さを欠いたクイズに近いレベルまで刈り込まれていますが、安楽椅子探偵ものにおける語り手の本来の役割――(第一義的には読者に向けて、ではなく)探偵役に向けた“出題”としての語り――からすればむしろ自然*3とも思えますし、それこそ〈黒後家蜘蛛の会〉のような当事者による語りではないことを考えればなおさらです。そして事件の説明がかなり短いにもかかわらず、あっけなく解決されているという印象がほとんどないのは、“もう一つの本題”であるメルヘンの新解釈を介した二段構えの謎解きによるところが大きいでしょう。

 探偵役となる桜川東子の謎解きは、まず事件の構図をメルヘンに当てはめるところから始まります。もちろん事件とメルヘンとの間には直接の関係があるわけではなく、両者を重ね合わせることには無理があるようにも思えますが、安楽椅子探偵の先達でもあるアガサ・クリスティのミス・マープルと同様*4の、事件における人間関係を既知のパターンに当てはめることで経験的に真相を見出す推理法だととらえれば、十分に成立する余地はあるといえるのではないでしょうか。しかも、実際に推理のもとになるのは作者お得意の“新解釈”で、それ自体がメルヘンの“裏面”を読み解く楽しみを備える(個々の解釈の出来はさておき)ところがよくできていると思います。

 メルヘン(の新解釈)との相似をもとに主に動機の面から容疑者が特定される第一段階に続いて 容疑者が主張する強固なアリバイが崩されるのが謎解きの第二段階となりますが、もともとアリバイ崩しは動機などによる容疑者の特定を前提としているわけですから、この謎解きの組み合わせは絶妙といっていいのではないでしょうか。加えて、各エピソードで使われているアリバイトリックが有栖川有栖『マジックミラー』中の“アリバイ講義”における九つの分類*5に対応しているという秀逸な趣向が用意され、『マジックミラー』と同様にアリバイものについてのメタミステリ的な要素を備えているところも見逃せません。

 事件の構図もアリバイトリックも既存の“原型”――(新解釈が加えられているとはいえ)よく知られたメルヘンと、“アリバイ講義”の分類――を下敷きにしたものであるため、真相の大部分が見えやすくなっているきらいはあります*6し、様々な“縛り”による強固な連作の定型がワンパターンに感じられてしまうのも否めません。が、最後には“締め”としてそこそこ意外な結末も用意されており、トータルでは気軽に楽しめる内容でありながらもユニークな試みを盛り込んだ、なかなか意欲的な連作短編集というべきでしょう。

*1: 「著作リスト 鯨統一郎」「21世紀少年読本」内)によれば、デビューから十年ですでに著作が五十冊近くという勢いです。
*2: 本書以外には短編「大行進」(小山正編『バカミスじゃない!?』収録)しか読んでいません。すみません。
*3: その意味では、例えばジョン・ディクスン・カーの『盲目の理髪師』『アラビアンナイトの殺人』(こちらは語り手が三人、すなわち三つの視点からの語りという形ではありますが)などは、安楽椅子探偵ものの語り手としては不自然なほど冗舌というべきかもしれません。
*4: “起こった出来事もしくは話された内容を、自身の経験、特にセント・メアリ・ミード村で過去にあった出来事に当てはめることで推理をするという点に最大の特徴がある。(中略)他の探偵達と比べると論理的な推察よりも、主に動機面から推理を始める傾向が強い。”「ミス・マープル#推理法 - Wikipedia」より)
*5: 一応こちらにまとめてありますが、各項目をしっかり把握した状態で本書を読むのはおすすめしません
*6: 下手をすると事件の概略を明かしただけでネタバレにつながりかねないので、あえて個々のエピソードの内容は紹介していません(決して手抜きではなく/苦笑)。

2008.11.07読了  [鯨統一郎]

デカルトの密室  瀬名秀明

2005年発表 (新潮文庫 せ9-6)

[紹介]
 ロボット学者の尾形祐輔と進化心理学者の一ノ瀬玲奈、そして二人と一緒に暮らすケンイチは、オーストラリアで行われる人工知能のコンテストに出席することになった。その会場で祐輔は、死んだと思われていた孤高の天才科学者フランシーヌ・オハラと再会する。自身に瓜二つの精巧なアンドロイドを従えたフランシーヌは、チューリング・テストをめぐる“ゲーム”で祐輔に挑んできた……やがて密室に幽閉された祐輔は脱出しようともがき苦しみ、祐輔を探し求めるケンイチは悪夢のような殺人事件に巻き込まれて……。

[注意]
 本書は、中編集『第九の日』(もしくは島田荘司編『21世紀本格』)に収録された「メンツェルのチェスプレイヤー」の続編にあたる作品であり、以下の[感想]ではそちらの内容にも触れている箇所がありますので、未読の方はご注意下さい。

[感想]
 殺人事件が物語の(一つの)中心として扱われ、題名のみならず全編を通じて“密室”がキーワードとされるなど、骨格はミステリ仕立てとなっている本書ですが、「プロローグ」及び「エピローグ」において“これは「知能{インテリジェンス}」についての物語だ。”(7頁/599頁)と宣言されているように、“知能とは何か?”というテーマに重点が置かれていることは明らかです。あるいは、SF設定が導入された中での殺人事件の謎(ミステリ的な謎)を通じて“知能とは何か?”という謎(SF的な謎)に迫るSFミステリというべきかもしれません。

 まず「第一部 機械の密室」では“知能とは何か?”という謎への入口として、主にチューリング・テスト*1を中心とした人間と機械との対比が取り上げられています。ここでユニークなのがフランシーヌ・オハラが尾形祐輔に挑むゲームの内容で、“機械が人間と同じように考えることができるか”を判定するチューリング・テストを“裏返す”ことで、“人間は考えることができる”という前提に揺さぶりをかけるものになっています。フランシーヌの“感情が欠落した(ように見える)天才科学者”という造形は一見するとありがちなようにも思えますが、この転倒した“ゲーム”の提案者としては説得力のある造形というべきですし、さらに“ゲーム”に臨んだ彼女の*2機械的であると同時に人間的でもある反応が実に印象的です。

 すでに「メンツェルのチェスプレイヤー」をお読みになった方はお分かりかと思いますが、人間と機械との対比という点ではもう一つ、(一応伏せ字)ヒト型ロボットであるケンイチの視点の問題があります。櫻井圭記氏の解説で指摘されているように、ともに“ぼく”という呼称を使うケンイチと祐輔の一人称視点が共存した叙述は、“人間と同じように考えることができる”ようにも描かれているケンイチと祐輔との判別を読者に強いるものであり、それ自体が(サプライズを目的としたトリックではなく)“転倒したチューリング・テスト”となっているのが非常に面白いところです。もちろん、実際にはすべての記述が物語の外に位置する作者・瀬名秀明によるものではありますが、裏を返せばケンイチのパートでは瀬名秀明自身が(“ゲーム”の際のフランシーヌらと同様に)多少なりとも“機械らしさ”を感じさせる記述を意識しているともいえるわけで、興味深い試みには違いないと思います(ここまで)

 やがて「第一部」クライマックスとして、“ゲーム”の延長線上に位置するような一風変わった“密室”の中に祐輔が幽閉される事件が、続いて祐輔を探している最中のケンイチを巻き込む形で殺人事件が起こります。前者ではやはり形を変えたチューリング・テストが顔を出すという徹底ぶりが見逃せないところですし、後者は一連の状況が――有名なSFミステリ*3へのオマージュととらえるのは牽強付会かもしれませんが――実にショッキングなものであると同時に、なおかつ(ある意味で)非常に不可解な謎を残すものになっており、読者の興味を引きつけるに十分といえるでしょう。

 続く「第二部 脳の密室」では、「第一部」で起きた事件の背景にあるものが少しずつ明らかにされていく中で、これまた風変わりな密室における奇妙な殺人事件が発生しますが、密室殺人そのものには――後に明かされる真相はなかなか強烈ではありますが――さほど重きが置かれていない印象。代わりに主題となるのは、本書の題名につながる“デカルト劇場”*4というキーワードを介してクローズアップされる知能の主体である〈私〉であり、作中の議論は哲学的な方面へと移っていきます。個人的に苦手な分野であることもあってか、「第一部」からの主題の移行がやや唐突にも感じられますが、十分には理解できないまでも非常にスリリングな議論が展開されているのは間違いないところですし、それがさらに推し進められる「第三部 宇宙の密室」は圧巻です。

 SFとしての主題もさることながら、ミステリとの絡みという点で面白く感じられるのが、この「第二部」から「第三部」にかけての展開の中で“後期クイーン問題”との関係が浮かび上がってくる点です。本書の冒頭に掲げられたエラリイ・クイーン『最後の一撃』からの引用文が、(一応伏せ字)“犯人による探偵の操り”の構図を暗示しているのはもちろんですが、さらにいわゆる“ゲーデル問題”“ロボット(探偵)は世界を認識しているつもりでも、実は開発者(作者=犯人)の与えた箱庭の中でおままごとの推理をしているに過ぎない”*5という形に変換された上で組み込まれているのが非常に秀逸です。

 過剰な衒学趣味とも受け取られかねないほど膨大な情報が詰め込まれ、単に重厚というだけでなく“試されている”(解説より)という印象さえ与える*6本書ですが、結末そのものは比較的わかりやすいところに落ち着いている感があります。そこから振り返ってみれば――特に(以下伏せ字)ケンイチがこれからも成長し続ける(ここまで)ことを考えれば、本書がケンイチを主役としたビルドゥングスロマンでもあることは明らかですから、難解に感じられる議論にも構える必要はまったくないと思います。むしろ、多様な読み方のできる、そして再読に堪える傑作というべきではないでしょうか。

*1: テストの概略については「人工知能の話題: チューリングテストと中国語の部屋」を参照。
*2: 作中ではそれがフランシーヌによるものとは明確にされていませんが。
*3: ものすごいネタバレになりそうなので作品名は挙げませんが、(一応伏せ字)同じ作家による(ここまで)複数の作品を連想しました。
*4: 表記が異なりますが、「カルテジアン劇場 - Wikipedia」を参照。
*5: 作者自身による「『デカルトの密室』特別講義 ―第2回― 後期クイーン問題とデカルトの密室」より。
*6: もちろん決して悪いことではなく、それだけ読み応えがあるということですが。

2008.11.13読了

新装版 マジックミラー  有栖川有栖

ネタバレ感想 1990年発表 (講談社文庫 あ58-15)

[紹介]
 琵琶湖に近い余呉湖畔にある古美術商・柚木新一の別荘で、新一の妻・恵が殺害されているのが発見された。彼女に多額の保険金がかけられていたことなどから、夫の新一、さらにはその双子の弟・健一に疑惑が向けられたものの、推定される犯行時刻に二人は現場から遠く離れた博多と酒田にそれぞれ出張していた。警察も、さらに恵の妹・三沢ユカリに相談を持ちかけられた推理作家・空知雅也も、双子であることを利用したアリバイ工作の可能性を検討するが、強固なアリバイは一向に崩れる気配を見せないまま、やがて第二の事件が……。

[感想]
 デビュー作『月光ゲーム Yの悲劇'88』及びその続編『孤島パズル』に続いて発表された有栖川有栖の第三長編ですが、江神二郎を探偵役とした“学生アリス”シリーズでも火村英生を探偵役人とした“作家アリス”シリーズでもない非シリーズ作品であるというだけでなく、いわゆる“新本格ミステリ”らしからぬ印象のあるがちがちのアリバイ崩しを扱っているという点で、やや異色の作品といえるかもしれません。

 作中でも“『アリバイ』とは『四次元の密室』だと言い換えることができる”(333頁)と指摘されているように、密室ものとアリバイものとはいずれも“犯行現場に犯人が不在”という不可能状況が提示される点で共通しています。しかし、空間的な障壁によって犯行現場が閉ざされることで“誰にも犯行が不可能”となる密室トリックに対して、アリバイトリックによる(場合によっては“距離”を介した)時間的な障壁は概して特定の容疑者に関して有効なものです。つまりは、“アリバイ崩し”の前提として実質的に犯人が“特定”されることが不可欠*1ともいえるわけで、フーダニットの要素はほとんどないといっても過言ではありません*2。そのあたりが、どうも“新本格ミステリ”らしくないという印象を与える所以ではないかと思われます。

 もちろん本書もアリバイ崩しの常道のとおり、フーダニットでもホワイダニットでもなく*3、アリバイトリックをめぐるほぼ純粋なハウダニットとなっています。個人的には、アリバイトリックそのものに――特に本書のように時刻表まで登場するものについては――今ひとつ面白味が感じられないため、他に見どころの少ないアリバイもののミステリはあまり好みではないのですが、本書では双子が絡んだアリバイという大胆なネタが目を引きます。当然ながら安直な“双子トリック”などではなく、双子の双方が現場から遠く離れた(しかも逆方向にあたる)場所で目撃されるという、例を見ない状況設定がよく考えられています。

 そしてまた、アリバイものを得意とする推理作家・空知雅也を登場させることで、アリバイものミステリを俯瞰するメタミステリ的な視点が導入されているのも興味深いところです。それが最も色濃く表れているのはやはり、ジョン・ディクスン・カー『三つの棺』の“密室講義”にならってアリバイトリックの分類を行った“アリバイ講義”(第七章)で、空知雅也の口を借りてアリバイトリックを九つのパターンに類型化したその内容は、要領のいい説明もあって実にわかりやすく面白いものに仕上がっており、アリバイ崩しのファンならずとも一読の価値はあるのではないでしょうか。ただし、分類の観点については個人的に少々不満があるので、以下に詳述してみます。

 まず、本書の「第七章 アリバイ講義」におけるアリバイトリックの類型(九つの項目)を以下に列挙します。

1. 証人に悪意がある場合
2. 証人が錯覚をしている場合 (a.時間、b.場所、c.人物)
3. 犯行現場に錯誤がある場合
4. 証拠物件が偽造されている場合
5. 犯行推定時間に錯誤がある場合 (a.実際よりも早く偽装、b.実際よりも遅く偽装/A.医学的トリック、B.非医学的トリック)
6. ルートに盲点がある場合
7. 遠隔殺人 (a.機械的トリック、b.心理的トリック)
8. 誘導自殺
9. アリバイがない場合

 ここで気になるのは、犯人のアリバイを“成立”させるための原理と手段が混在しているように思われる点です。例えば、“犯行現場の錯誤”や“犯行推定時刻の錯誤”などはトリックの原理(あるいは偽装の対象)に関わるものであるのに対して、“証人の悪意(偽証)”や“証拠物件の偽造”などはトリックを成立させる手段に属するものです。また“遠隔殺人”と“誘導自殺”は、“アリバイがいかにして成立するか”という観点ではまったく同じ――実際に犯人にアリバイがある――で、具体的な手段が相違するにすぎません。このようなトリックの原理と手段とは、ある程度は区別して考えてみたいところです。

 また、(“遠隔殺人”と“誘導自殺”を除いて)アリバイトリックによる不可能状況は、実際には犯行時刻・犯行現場において一致するはずの犯人と被害者の所在にずれを生じさせたものといえるので、犯人と被害者のどちらを“ずらす”トリックなのか、つまり犯人側と被害者(死体)側のどちらにトリックが仕掛けられているか、という観点があってもいいのではないかと思います。

 そのあたりを念頭に置きつつ(個人的な好みももとにして)、考え得るアリバイトリックを以下のように分類してみます*4

[アリバイトリックの分類(仮)]
 トリックの所在トリックの原理トリックの手段
犯人にアリバイがある 殺害手段の偽装・遠隔殺人
・誘導自殺
犯人にアリバイがない被害者側時間の偽装・証人の悪意
・証人の錯誤
・証拠物件の偽装
場所の偽装
人物の偽装
犯人側時間の偽装
場所の偽装
人物の偽装
所要時間の偽装・ルートの盲点

 まず、犯人の(実際の)アリバイの有無という観点で二つに大別できます。“犯人にアリバイがある場合”にアリバイが取り沙汰されるということは、現場にいなければ犯行が不可能という錯誤が生じているわけですから、主に殺害手段を偽装するトリックだといえます。

 一方、“犯人にアリバイがない場合”は、前述のようにトリックが犯人側と被害者(死体)側のどちらに仕掛けられているかで分けることができますが、それぞれについて時間の偽装(犯行時間/犯人が目撃された時間)・場所の偽装(犯行現場/犯人が目撃された場所)・人物の偽装(“被害者”/目撃された“犯人”)が考えられます(複合の場合もあり得る)。具体的な手段については、“証人の悪意”・“証人の錯誤”・“証拠物件(死体そのものを含む)の偽装”などがあるでしょう。

 また、原則として犯人側に限られた*5トリックとして、犯行現場までの/からの所要時間を偽装するものがあります(上述の時間・場所・人物のいずれを誤認させるものでもないことに留意下さい)。その手段はもちろん“ルートの盲点”ですが、あるいは例外もあるかもしれません。

 以上、本書で分類された項目もおおむねどこかに取り込むことができているかと思います。ただし、九番目に挙げられている“『アリバイがない場合』”については、該当する作例を未読でどのようなトリックなのかわからず、うまく分類できていない可能性があります。

 さて、本書では二つの事件についてそれぞれアリバイトリックが用意されていますが、どちらもなかなかよくできていると思います。第一の事件のトリックは、実行に際して少々苦しい部分がないでもないですが、その見せ方/隠し方は巧妙といっていいのではないでしょうか。一方、第二の事件のトリックはアリバイものとしてはかなりユニークな発想に基づくもので、非常に秀逸だといえます。さらに、トリックが露見に至る決め手も含めて、解決場面の鮮やかな演出も実に見事。やや中だるみしているように感じられる箇所もありますが、総じてよく考えられた意欲的な作品といえるでしょう。

*1: 歌野晶午『密室殺人ゲーム王手飛車取り』では、容疑者として警察の捜査の対象となった段階では役に立たない(と思われる)アリバイトリックが使われていますが、犯人が“特定”されていることには違いありません。
*2: 裏を返せば、“犯人がどのように追い詰められていくか”という、倒叙ミステリに通じる要素が重視されるともいえます。
*3: アリバイ崩しにおける犯人は、強固なアリバイがあるにもかかわらず容疑者として扱われることになるわけで、強い動機を持っていることが示されるのが一般的です。
*4: 漠然とした構想はともかくとして、実質的には本書の“アリバイ講義”をもとに30分くらいででっち上げたものなので、あまり深くつっこまないで下さい。
*5: 殺害された被害者は自発的に移動できないのでこのように書きましたが、(以下伏せ字)犯行前に被害者がルートの盲点を使って移動することでアリバイトリックの一部を担う(ここまで)という例外もあったような気がしてきました。→(その後追記):よく考えてみれば、これは“被害者側”の“場所の偽装”という扱いでいいかと思います。

2008.11.27再読了  [有栖川有栖]