ネタバレ感想 : 未読の方はお戻り下さい
黄金の羊毛亭 > シリーズ感想リスト作家別索引 > なめくじ長屋捕物さわぎ > からくり砂絵

からくり砂絵/都筑道夫

1972年発表 角川文庫 緑425-24(角川書店)
「花見の仇討」
 茶番の最中に起きた事件であり、観客の存在を前提としている点で(野外ではあるものの)“舞台上の殺人”の一種ととらえることができるでしょう。そして事件は、“舞台上の殺人”の典型*1の一つ、凶器のすり替えによって越前屋総太郎を単なる“道具”として利用した殺人の様相を呈しているわけですが、それをダミーとしてもう一つの典型――“観客に認識されない犯行”という真相が用意されているところが、非常に面白いと思います。
 機会の面からは“誰が刀をすり替えたのか”が絞り込めない中、もう一人の犯人の存在とその計画的犯行が明らかにされることで、侍の乱入を前提として展開される解決のロジックが秀逸。特にタイミングの調整に関しては、正確な時刻がわかりにくい江戸時代だけに際立っている感があります。

「首つり五人男」
 五人もの首つりを並べるのは示威目的以外には考えにくいところで、元ネタとなった佐々木味津三の作品で“見せしめ”と説明されているのも納得できます。が、邪魔な兼次を脅かして追い払うために首つりのまねをしたという、こちらの真相の方が遥かに合理的。佐野川菊之丞の死体をぶら下げるために松の木に登っていたという状況で、自分でぶら下がるのは手間もかからないわけですから、どうせなら五人全員でやる方が効果が大きいのも当然でしょう。
 そこで上州屋孝太郎が本当に首をつってしまったことをきっかけに、はずみもついてバタバタと首つりが増えていったという真相には、ある種不条理なブラックユーモアのようなもの*2が感じられますし、兼次に目撃させた“首つり五人男”を現実化しようとするかのような、因果関係の逆転を思わせる流れが何ともいえません。

「小梅富士」
 これも『くらやみ砂絵』収録の「天狗起し」と同様、“お題”がどの程度具体的だったのかはわかりませんが、おそらくは作者が付け加えたと思われる、久右衛門の足腰が立たないという設定が非常に巧妙で、死に場所は絶対に座敷でなければならないのですから、凶器と決められている庭石を座敷に運び込むことに説得力が生じています。そしてそこから、庭石と死体がともに座敷に運び込まれたという真相、ひいては“久右衛門”が偽者であり庭石の下に盗んだ金が隠されていたという真相につながっていくあたりが絶妙です。
 フーダニットとしてもハウダニットとしても、“全員が共犯”という真相がやや面白味を欠いているのは確かですが、“寝たきりの病人を殺すのに、どうして、座敷がいっぱいになるような大きな石で、圧しつぶさなければならなかったのか?”(92頁)というホワイダニットに対する解答として、実に見事なものといえるでしょう。

「血しぶき人形」
 真相が明らかにされてみると、“腹を刺されて、それから、首すじをひと太刀、斬られていました。”(135頁)という状況は確かに切腹と介錯*3に当てはまるのですが、それをしっかりと隠蔽しているユニークなミスディレクションが目を引きます。もちろん、自殺を他殺に見せかけるに際して凶器の消失は定番なのですが、この作品では凶器を持ち去ることが重要であり、他殺に見せかけるのは目的ではなく手段の一環にすぎなかったというのが面白いところです。
 土蔵に返せなくなったからくり人形と、邪魔になった竹光の脇差をうまく利用した偽装はよくできていますし、余った箒が番頭の偽証を見破る手がかりとなっているのも巧妙です。

「水幽霊」
 もとになった佐々木味津三の作品でも自作自演という真相が用意されていますが、特に根拠が示されていないのが難点。それに対してさすがは合理精神の持ち主であるセンセー、実地検証まで行っているのが印象的です。そして、寝小便をごまかすトリックとしてはなかなか秀逸だと思います。
 一方、大工殺しがややとってつけたような感じになっているのが残念なところですが、これは致し方ないところでしょうか。

「粗忽長屋」
 自身の企みの邪魔になるおそれのあるセンセーを予め排除しておくために、“センセーが死んだことにする”というアイデアを下駄常に吹き込む小柴仙四郎の仕掛けが周到です。また、センセーの推理の才をよく知っている*4という事実がうまく生かされているところも見逃せません。
 小柴仙四郎の企みまで推理できるようには書かれていませんが、それが逆に結末をより印象深いものにしているように思われます。

「らくだの馬」
 らくだの兄貴分が酒乱の屑屋に香典をかっさらわれるという落語「らくだ」を生かした筋に、兄貴分が別の“死体”を使って強請を繰り返すという筋が組み合わされているのがまず面白いところ。そしてその中で、らくだが生きているのか死んでいるのかという謎が浮かび上がってくるのが秀逸で、落語「らくだ」そのままのらくだの死因や死体の間違いが、非常に巧みに生かされている感があります。
 息を吹き返したらくだが行き倒れになったという表向きの結末の裏に、らくだが本当に息を吹き返したという人を食った真相が用意されているのが何ともいえません。

*1: 観客の目の前で事件が起きながらもミステリとして成立し得る“舞台上の殺人”は、以下のように大別できるかと思われます。
[1] 犯行が観客に認識されない(不可能状況)――例:H.マクロイ『家蝿とカナリア』、C.ブランド『ジェゼベルの死』
[2] 犯人(真犯人)が観客に目撃されない
  [2−1] 機械仕掛けによる犯行――例:N.マーシュ『死の序曲』
  [2−2] 他者を“道具”として利用した犯行――例:深水黎一郎『トスカの接吻』
*2: 例えば、西澤保彦『殺意の集う夜』の発端にも通じるところがあります。
*3: 伊勢屋幸右衛門が武家くずれだったという伏線もよくできています。
*4: いうまでもないかもしれませんが、『血みどろ砂絵』「心中不忍池」を参照。

2009.07.16再読了

黄金の羊毛亭 > シリーズ感想リスト作家別索引 > なめくじ長屋捕物さわぎ > からくり砂絵