ミステリ&SF感想vol.165

2008.09.21

トスカの接吻 オペラ・ミステリオーザ  深水黎一郎

ネタバレ感想 2008年発表 (講談社ノベルス)

[紹介]
 プッチーニ作曲の歌劇『トスカ』の第二幕、主役のトスカが隠し持ったナイフで悪役スカルピアを殺害するクライマックス。トスカを演じるソプラノ歌手・中里可奈子は、徹底的にリアリズムを追求する演出家・郷田薫の指示に従い、本物と見まがうほど精巧な小道具のナイフを、スカルピア役のバリトン歌手・磯部太の頸動脈めがけて思いきり突き立てた。だが、仕掛けで刃が引っ込むはずの小道具が、いつの間にか本物のナイフにすり替えられていたのだ。自ら手を汚すことなく、舞台上での殺人を成功させた犯人は? さらに、郷田薫が事件にもひるむことなく、記者会見で『トスカ』の画期的な新演出を予告した直後、第二の事件が……。

[感想]
 『エコール・ド・パリ殺人事件』に続いて“芸術探偵”神泉寺瞬一郎と伯父の海埜警部補のコンビを主役とした本書は、ユニークな美術ミステリであった前作とは打って変わって、オペラ――プッチーニ作曲『トスカ』の、特に演出面に焦点を当てた作品となっています。

 まず「プロローグ」でいきなりオペラの話が始まって思わず身構えてしまいますが、そこは前作で“エコール・ド・パリ”の画家たちについて要領よく解説してみせた作者のこと、『トスカ』の(背景も含めた)ストーリーの説明と現在進行中の舞台の描写とを巧みに切り替えながらのダイジェストは実にわかりやすく、なおかつあっという間に殺人事件の発生まで持っていく手際のよさに感心させられます。

 演劇・音楽を問わず舞台上での殺人を扱った作品は数多く見受けられます*1が、観客(目撃者)の目の前で事件が発生しながらミステリとして成立し得るという状況は、かなり限られてくるように思われます*2。本書では“殺人の実行者”は誰の目にも明らかであり、ナイフのすり替えによって“実行者”の行為を“殺人”に転化させた“真犯人”を探すことになりますが、さらにすり替えそのものに一種の不可能状況が設定されているあたりは、(舞台上の事件ではありませんが)カーター・ディクスン『殺人者と恐喝者』を彷彿とさせます。

 また、ナイフのすり替えとともに舞台上での殺人を支えているのが、いわば“独裁者”として君臨する演出家による、リアリズムを追求した演技指導です。その指示は、“ナイフを振り上げ、正確に相手のバリトン歌手の頚動脈目掛けて振り下ろすこと”(77頁)という詳細かつ具体的なもの*3で、前述の『殺人者と恐喝者』における“催眠術”と同様に“殺人の実行者”の行動を束縛し、結果として犯人の目論見を成功させる大きな要因となっているのです。

 かくして本書では、捜査の一環としてオペラの演出という行為がクローズアップされることになるのですが、その中で重要な位置を占めるテキストの読み替え――作中で“誤読する権利”あるいは“夢みる権利”と表現される――を介して、さらに発生した第二の事件を受けてダイイングメッセージや見立てといったガジェットを俎上に上げる*4ことで、ミステリにおける“解釈”の多様性へと読者の意識を向けていくあたり、非常に興味深いものがあります。

 ミステリとしての仕掛けは前作よりも小粒な印象で、さらりと読んでしまうと物足りなさを覚える向きもあるかもしれませんが、それでも作者らしい丁寧な伏線とミスリードはやはり健在で、犯人を巧みに盲点に置くことに成功しているところが特に秀逸です。また、事件の真相と物語部分とがうまくかみ合っているのも見逃せないところで、やや地味ながら佳作というべきでしょう。

*1: とりあえず思い出した範囲では、ナイオ・マーシュ『死の序曲』『道化の死』、ヘレン・マクロイ『家蝿とカナリア』、クリスチアナ・ブランド『ジェゼベルの死』、マイクル・イネス「ハンカチーフの悲劇」『アプルビイの事件簿』収録)、倉知淳「一六三人の目撃者」『日曜の夜は出たくない』収録)、由良三郎『運命交響曲殺人事件』などがあります(歌野晶午『動く家の殺人』と有栖川有栖「八角形の罠」『ロシア紅茶の謎』収録)もそうだったような気がしますが、自信がありません)。
*2: (1)犯行の機会がなかったようにみえる不可能状況、(2)直ちに犯人が特定できない遠隔操作や時限式等の仕掛けによる犯行、そして本書のような(3)他者を“道具”として利用した犯行、の三通りに大別できるのではないかと思います。
*3: さらにその後には、“頚動脈がどこにあるかわからないと言う場合は(中略)自ら人体解剖図などでその正確な位置を把握するように”(77頁)という偏執的な指示まであります。
*4: 見立てに関して、江草刑事が“死体の頭部を切断して帽子掛けにかけたりした犯人が、これまで現実に一人でもいましたか?”(181頁~182頁)と否定的な意見を述べていますが、すぐ後に読んだ麻耶雄嵩『翼ある闇』にまさしくこれが出てきて苦笑させられました。

2008.08.10読了  [深水黎一郎]

七番目の仮説 La Septieme Hypothese  ポール・アルテ

ネタバレ感想 1991年発表 (平岡 敦訳 ハヤカワ・ミステリ1815)

[紹介]
 その夜、時ならぬペストに苦しむ下宿人の青年のもとを訪れたのは、中世風の異様な衣装に身を包んだ三人の医師。患者を担架に乗せて部屋から狭い廊下に出た途端に、肝心の患者が煙のように消え失せてしまう。さらにその直後、巡回中に一人の医師に出くわした巡査が、言われるままに路地に置かれたゴミ缶の蓋を開けてみると、そこには……。
 ……やがて、ツイスト博士のもとに何とも奇怪な話が持ち込まれる。それは、高名な劇作家ゴードン・ミラー卿と友人の俳優ドナルド・ランサムの二人が絡んだ、驚くべき計画の話だった……。

[感想]
 ツイスト博士シリーズの最新刊は、まずあまりに突拍子もない発端が強烈な印象を与えます。何せ、いきなり異形の仮面をかぶった怪人物――“ペストの医者”*1の出現に始まり、ペストを発症したという患者の不可解な消失、まるで奇術のような死体の出現といった具合に、発端に置かれた“謎”の魅力はそれだけで読者を物語に引き込むに十分といえるでしょう。

 しかしながら、患者の消失と死体の出現という不可能状況はともかく、“ペスト(の医者)”という異様な雰囲気の“装飾”が、その後の物語の中でうまく生かされていないのはいただけません。結果として、発端(「第一部 八月三十一日の夜」)とそれ以降(「第二部 死の決闘」以降)で物語はがらりと姿を変え、木に竹を接いだような形になってしまっている上に、発端の魅力的な“装飾”があまり意味のない単なる装飾――悪くいえば“こけおどし”――に堕しているように感じられます。

 とはいえ、「第二部 死の決闘」以降にはまた違った魅力が備わっているのも確かです。まず、ツイスト博士のもとに持ち込まれる奇怪な話――推理物を得意とする劇作家と俳優との、再三のどんでん返しが盛り込まれたスリリングなやり取りは、本書の大きな見どころの一つといえます。またその話に対して、狂言回し的な役どころであるハースト警部がツイスト博士を差し置いて六通りもの仮説を立て続けに披露する場面*2は、特にシリーズのファンであれば必見でしょう。

 さらにその後も様々な出来事が起こり、物語は混沌きわまるものになっていきます。注目すべきは、前述のどんでん返しの構図が終盤まで引きずられたまま容易に底を見せないことで、容疑者が極度に限られた中でのフーダニットという、あまり例を見ない状況となっているのが面白いところです。

 解決に先立ってツイスト博士がいわば“カンニング”しているのはご愛嬌として、解決場面で次々と解き明かされていく事件の真相はまさに圧巻。奇想と巧妙さを兼ね備えたトリックが盛り込まれ、無駄に大がかりでありつつも細部までよく練られた偏執的な犯行計画は、その裏に潜むどろどろとした動機と相まって、異様な犯人像を強く印象づけることに成功しています。

 前作『狂人の部屋』にはやや及ばない感があるものの、十二分によくできた快作といえるのではないでしょうか。

*1: 「ペスト 医者 - Google イメージ検索」を参照。
*2: もっとも、いずれの仮説も的を射ていないのは題名から明らかなのですが。

2008.08.13読了  [ポール・アルテ]

翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件  麻耶雄嵩

ネタバレ感想 1991年発表 (講談社ノベルス)

[紹介]
 京都近郊に建つ、ヨーロッパ中世の古城を彷彿とさせる今鏡家の屋敷・蒼鴉城。依頼を受けた私立探偵の木更津悠也がそこを訪れた時、惨劇の幕はすでに切って落とされていた。依頼人である今鏡伊都は、首を切断された上に甲冑の鉄靴を履かされた異様な死体となって発見されたのだ――さらに蒼鴉城で相次ぐ常軌を逸した事件に、さしもの名探偵・木更津悠也も苦杯をなめさせられる。そんな中、蒼鴉城を訪れたもう一人の探偵・メルカトル鮎は……。

[感想]
 島田荘司・綾辻行人・法月倫太郎の推薦を付して刊行された麻耶雄嵩のデビュー作にして、(嫌らしい表現かもしれませんが)ミステリ初心者にはあまりおすすめできないメタミステリ/アンチミステリの問題作です。

 本書の特徴の一つが、古典的なスタイルの“名探偵”木更津悠也をはじめ、いかにも探偵小説(本格ミステリ)*1というガジェットが過剰なほどに盛り込まれた現実感の希薄な物語世界です。様々な後続の作品に触れた現在の読者の目にはさほど奇異には映らないかもしれませんが、少なくとも初刊当時はいわゆる“新本格ミステリ”の中にあってもここまで“コテコテ”のものは他に見当たらず、本書がかなり特異な作品であったことは確かです。

 もちろん、そのような現実から切り離された物語世界の構築は意図的なもので、小栗虫太郎『黒死館殺人事件』のパロディという性格がある(らしい)*2ことからしても、本書は“現実”の代わりに“探偵小説の世界”に基盤を置いた物語として書かれたものだと考えることができると思います。そしてそれはガジェットのみにとどまらず、作中において現実世界の論理よりも探偵小説世界の論理が優先するという形で表れているように思われます。

↓以下の文章には、本書の結末にかけての内容を暗示するような記述が含まれています。本書を読む前に先入観を持ちたくないという方は、ご注意下さい。

 作中では、警察はほぼ一貫して“名探偵”の推理を――たとえそれが(以下伏せ字)常識的に考えてあり得ないもの(ここまで)であっても――唯々諾々と受け入れているようにみえます。それはご都合主義というよりもむしろ、“名探偵”が警察よりも上位の特権的な地位にあるという、探偵小説世界に厳然と存在するヒエラルキーによるものではないかと思われます。

 本書の中でそのようなヒエラルキーが重視されていることは、“結局、あなたは神ではなかった。”という言葉を含む結末そのものに端的に表れていると思います。つまるところ本書は、“名探偵”と唯一それに抗し得る“犯人”とが“神”の座――物語世界の中の最上位――を争う物語であり、対決を複雑化させるために二人の“名探偵”が登場することも半ば必然といえるのではないでしょうか。

↑ここまで

 ……といったようなわけのわからないことを考えなくとも、本書はある種のバカミスとして読めるものであることも事実です。物語半ば、(一応伏せ字)解決に失敗して山籠り(ここまで)する“名探偵”には苦笑を禁じ得ませんし、もう一人の“名探偵”*3であるメルカトル鮎に至っては(ネーミングを含めて)存在自体が非常識。そして次々と量産される死体に施される奇怪な装飾、さらにはどんでん返しを経て明らかにされる突拍子もない真相といった要素を考えれば、素直に(?)バカミスととらえて楽しむだけでもそれなりに満足できるかとは思います。とりわけ、本書の初刊当時と比べてミステリが大きく“拡散”した――内容に関して、また媒体に関して――感のある現在にあっては、本書のメタミステリ性はさほど大きな障壁とは感じられないのかもしれません。

 ただ、やはりある程度以上ミステリ経験を積んでからの方が本書をより楽しむことができるのは確かだと思いますし、作者自身も(一応伏せ字)エラリイ・クイーンの〈国名シリーズ〉十作(ここまで)を読んだ読者を想定しているようなので*4、できれば本書の前にそのあたりを読んでおくことをおすすめします。

*1: どちらが適切なのかわかりませんが、以後「探偵小説」に統一します。
*2: 「翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件 - Wikipedia」によれば、“館の描写や衒学趣味どころか文章をそのままなぞったラスト数行など全編にわたって繰り広げられる小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』のパロディ”とのことですが、恥ずかしながら『黒死館殺人事件』は未読なので……。
*3: 作中の時系列としては“メルカトル鮎最後の事件”ながら、発表順でいえば初登場となる本書では、メルカトル鮎はまだ(?)“探偵”と自称してはいないようです。
*4: 「『翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件』(麻耶雄嵩/講談社文庫) - 三軒茶屋 別館」を参照。なお、リンク先では“教養主義の崩壊”という観点から本書を論じてあり、大いに参考になりました。

2008.08.21再読了  [麻耶雄嵩]
【関連】 『夏と冬の奏鳴曲』 『痾』 『木製の王子』 / 『メルカトルと美袋のための殺人』 / 『名探偵 木更津悠也』

マイナス・ゼロ 広瀬正・小説全集・1  広瀬 正

ネタバレ感想 1970年発表 (集英社文庫 ひ2-1)

[紹介]
 昭和二十年五月二十五日の夜、東京大空襲の最中。焼夷弾が落ちた隣家の様子を見にきた中学生の浜田俊夫は、そこに住む伊沢先生が直撃を受けて死に瀕しているのを発見する。その先生は俊夫に、十八年後のちょうど同じ日にこの場所に来てほしいという奇妙な頼みを残し、息を引き取った……。
 ……そして昭和三十八年五月二十五日。俊夫は約束通り、かつて先生が住んでいた家を訪れる。やがて約束の時間、そこに現れたのは、十八年前の空襲の夜に行方不明になっていた先生の娘・啓子だった。だが戦時中そのままの服装をした彼女は、十八年前と同じ若さをとどめていたのだ……。

[感想]
直木賞の候補作にもなった、タイムトラベルSFの名作として名高い広瀬正の第一長編。タイムトラベルという手段を用いて昭和の東京とそこに生きる人々の姿を鮮やかに描き出した、評判に違わぬ傑作です。

 過去へのタイムトラベル*1を扱った作品の面白さとしては、まずタイムパラドックスに代表される時間SFならではのアイデア処理が挙げられますし、また歴史改変の結果としてのパラレルワールドもののような方向性もあるでしょう。しかしそのようなSFとしての面白さだけでなく、タイムトラベルによって到着した過去の世界そのものにも注目すべきところで、それがしっかりと構築されればされるほど歴史/時代小説に通じる味わいが加わっていくことになります。

 本書の最大の魅力も、主人公の浜田俊夫がタイムトラベルによって到達することになる昭和七年の東京そのものにあり、その風景や風俗、そして人々の営みに至るまで丁寧な描写が積み重ねられることで、実に鮮やかで生き生きとしたものになっています。しかもこの年代は、当の浜田俊夫が生まれた頃(そして大正十三年生まれの作者が幼い頃*2)であるために、全体的にどこかノスタルジックな雰囲気に包まれているのが印象的です。

 見逃せないのが物語序盤、まず伊沢先生の娘・啓子が昭和二十年から昭和三十八年へタイムトラベルしてくる点で、彼女にとっての“未来”の世界を理解させるために昭和三十八年という時代がある程度しっかりと説明され、それによって読者も昭和三十八年から昭和七年へとタイムトラベルした浜田俊夫と視点を共有しやすくなっている感があります。

 そして、“現代人”である浜田俊夫が過去の世界においてどのように生きていくかという点についても、読者の興味に応えるべく力が注がれています。最初から資金が豊富に用意されているところはずるいといえばずるいのですが(苦笑)、それを除けばタイムトラベラーが日常生活を送る上での様々な問題が網羅されているといっても過言ではなく、さらに“未来”の知識をうまく生かすことができない、あるいは“未来”の知識を持っていても抗し得ない状況が再三にわたって描かれるあたりも含めて、説得力のある物語に仕上がっていると思います。

 というわけで、終盤近くになるまでは過去の世界における浜田俊夫の生活に焦点が当てられているのですが、最後には時間SFらしくタイムパラドックスが顔を出してきます。ある程度は途中でほのめかされていますし、類似のアイデアを扱ったロバート・A・ハインラインの某作品((以下伏せ字)「輪廻の蛇」(ここまで))と比べると難がある*3ようにも思えますが、やはり物語の締めくくりとしては非常によくできています。そして、壮大なヴィジョンを感じさせる最後の二行がこれ以上ないほど見事です。

*1: 意図的でない、いわゆる“タイムスリップ”を含みます。なお、“過去へのタイムトラベル”に限定しているのはいうまでもなく、未来へのタイムトラベル(のみ)ではタイムパラドックスも歴史の改変もあり得ないからです。
*2: 実際に作中には“ヒロセタダシ”少年が登場しています(改訂新版333頁)
*3: ただし、ハインラインのこの作品には別のところで大きな無理があります。

2008.08.23読了  [広瀬 正]

収穫祭  西澤保彦

ネタバレ感想 2007年発表 (幻冬舎)

[紹介]
 1982年8月17日、台風の接近による暴風雨の最中、首尾木村北西区に住む五家族のほぼ全員が惨殺された――異変に気づいた中学三年生の伊吹省路、小久保繭子、空知貫太らは、地区にある家を次々と見て回るが、どの家にも刃物で殺された無惨な死体が転がっており、彼ら自身の家族も例外ではなかった。やがて川にかかる橋が落ち、逃げ場を失った彼らは小学校の旧校舎へ向かったのだが……。
 不可解な点を残しながらも、犯人死亡という形で事件が決着してから九年後。事件の生き残りの一人である繭子を訪ねてきたのは、犯人とされた外国人英会話教師の親族から依頼を受けて、事件を再調査しているフリーライターだった。調査に協力しながら改めて事件を振り返る繭子だったが、やがて九年前の事件を再現するかのような新たな惨殺事件が発生して……。

[感想]
 無差別大量殺人事件を中心とした足かけ30年にもわたる物語を、二段組で600頁余り(原稿用紙にして1944枚)という分量を費やして描いた超大作。全編を通じて死体が量産されながらも、(例えば綾辻行人『殺人鬼』などとは違って)殺戮場面が直接描写されることはほとんどない*1のですが、その分(というべきか)様々な形の性的な妄執がこれでもかというほど盛り込まれており、間違いなく好みが分かれる作品といえるでしょう。

 目を引くのはやはり、首尾木村での大量殺人を中学生の視点で描いた「第一部」。(ありがちなだけに効果的な)暴風雨の夜という状況の下、家族や隣人らの無惨な死体を次々と発見していく行為の過酷さ、そしてその場に正体不明の犯人とともに閉じ込められる恐怖は、いずれも想像を絶するに余りあるものです。しかも本書では、そのような状況にありながら*2、視点人物である伊吹省路が抱えている生々しい欲望が随所に顔をのぞかせるのが特徴的で、事件の凄惨さと相まって一種異様な物語世界が構築されています。

 しかし、その中にもしっかりと解決への手がかりが織り込まれているのが巧妙なところ。実をいえば「第一部」だけで犯人を特定する手がかりは出揃っており、ここから一気に“解決篇”へなだれ込んでもおかしくはないところかもしれません。が、「第一部」の最後に用意されているのは“解決篇”どころか、それまでに描かれてきた事実とはっきり食い違った、読者からみればあからさまにおかしな幕引きで、思わず唖然とさせられてしまいます。

 続く「第二部」では、事件から九年を経て再調査が行われることになりますが、当事者である小久保繭子自身がトラウマによる記憶の欠落と改変を抱えているのがポイントで、事件の表面的な決着とともに繭子の記憶までもがひっくり返されていく過程が、大きな見どころとなっています。一方、かつての事件の“変奏曲”のような、新たな事件が発生するあたりは“お約束”ともいえますが、物語は予想を裏切って混沌としていき、ある意味で意表を突いてはいるものの強引すぎる結末を迎えます。

 そして「第三部」では再び視点が変わり、新たな角度からの調査と推理を経てようやく事件の真相が明らかになりますが、ここに至ってはもはや犯人の意外性は無きに等しい状態で、ただ後に残るのは(これは「第一部」の手がかりだけでは判然としない)大量殺戮に及んだ犯人の心理と事件の爪痕の、何ともいえない痛々しさです。結局のところ本書の眼目は、事件の真相もさることながら、事件発生以前(犯人の心理)と事件発生以後(関係者の行く末)を描くところにあったといえるのではないでしょうか。

 それが表れているように思えるのが、本書の最後に対になったエピローグのような形で配された、作中の年代で最も新しい「第四部」と最も古い「第五部」で、そこでは長大な物語の両端に位置する“因”と“果”が示されています。そして、最後の最後に明らかになる“収穫祭”の意味が非常に秀逸です。

*1: 視点が特定の人物(例えば「第一部」では伊吹省路)に固定されているので、犯人を伏せておくためには犯行を描写する(目撃させる)わけにはいきません。
*2: とはいえ、あまりにも突然で途方もない事件ゆえに、現実離れした感覚を生じてしまう部分があるのかもしれませんが。

2008.08.26読了  [西澤保彦]