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人喰いの時代/山田正紀

1988年発表 ハルキ文庫や2-8(角川春樹事務所)/(徳間文庫や3-17(徳間書店))

 以下、作中からの引用箇所はハルキ文庫版です。

「人喰い船」
 作中で霊太郎が挙げている“三つの謎”(32頁~33頁)のうち、〈なぜ船の上で殺したのか?〉と〈なぜ死体を海に捨てなかったのか?〉は、犯人たちの仕掛けた入れ替わりトリック*1につながるもので、殺された藤子義介が帆立貝を握り締めていたことも併せて、よくできた謎解きになっています。
 残った〈なぜ死体が服を着たり脱いだりしたのか?〉の真相は、いくら犯人が“名人かたぎで、洋服を仕立てることしか頭にない”(12頁)としても、なかなか想定しがたいものですが、犯人の最後の台詞で明らかになる凄まじい真の動機*2と相まって、狂気じみた心理を印象づけているのが見事です。

「人喰いバス」
 五人もの“消失”となれば、(少なくとも一部は)強制されたものではなく自らの意志によるのが自然。というわけで、ポイントは“なぜ消失しなければならなかったか?”になりますが、そこに組み込まれた特高の変死という事件はさすがに重大で、ほぼ全員が“消失”して“なんだかわけのわからない”(85頁)事件にしてしまおうという心情にも納得できるものがあります。
 その特高課員・霜多の死については、よりによって秀助を犯人とした偽の解決にまずニヤリとさせられますが、序盤の“もう死ぬしかないわ”(59頁)といった一幕と、勝手に飲み食いする霜多自身の悪癖とが意外な結びつきをみせる真相がよくできています。

「人喰い谷」
 浅葱宗一郎と蓬矢周平の死体が谷底に見つからなかったことから、二人(のいずれか)が生きている可能性を疑うのは自然ですし、書生の島田という“エサ”も周到に用意されてはいるのですが、三角関係の真相――宗一郎と周平が弥生を争うのではなく、弥生を差し置いて宗一郎と周平が恋仲になっている――を見抜くのはさほど難しくはないでしょう。
 しかしそこから、冒頭の“ランプをこっそり盗んでいく人がいる”(95頁)という手がかりなどをもとに、弥生の隠された犯罪が暴かれるのが見事。そして最後に弥生の口から語られる死体回収の動機は、十分な意外性を備えるとともに、そこまで考えるものかと半ば戦慄させられます。

「人喰い倉」
 秀助の危機を救うため、気の進まない安楽椅子探偵に乗り出す霊太郎ですが、“密室からの消失”の実演を経て披露されるその謎解きは、O-市の倉の特殊な建築法を利用しているところがなかなか面白いと思います。後に霊太郎自身が口にしているように、子供だましといえばそうかもしれませんが……。
 しかして、語られなかった真相――カミソリの刃を飲み込んで隠したという凶器消失トリックは、国内短編に前例もあります*3が、篠田が手にしていたの身も蓋もなく実際的な用途が、幸が作り上げた“きれいな話”を打ち砕いてしまうのが何ともいえません。と同時に、その救いのない真相を隠すために、消失の実演までしてみせて“偽の真相”に説得力を持たせようとした霊太郎の心情が、強く印象に残ります。

「人喰い雪まつり」
 紀子自身が父親の死体を発見した*4ことを回想しているにもかかわらず、公には紀子が死体に気づかなかったとされている(184頁)という食い違いが、事件のとらえどころのなさにつながっている感があります。また、雪が降っている間の犯行ならば不可能犯罪ではない一方、紀子が事件に関わったとすれば現場に足跡がないことがネックになるという、微妙に曖昧な状況もそれに一役買っています。
 特高の卑劣な企みによって自殺に追い込まれた父親を、氷のソリに乗せて生き返らせようとしたという真相は、いかにも子供らしい発想が悲哀を誘うだけでなく、父親が聞かせてくれた雪女の話をもとに、父親の仕事の様子を参考にしてやってのけたというところが、強く心に残ります。

「人喰い博覧会」
 まず「過去」パートの事件は、作中で笹間刑事課長が指摘している(236頁)ように、“心臓麻痺で死んだ宮口を放送塔から落としたのはなぜか?”が大きな謎となっています。実際のところは、秀助が人が落ちた(211頁)とつぶやいた場面が、フェアに書こうとしてある*5がゆえにかなりあからさまに怪しくなっており、放送塔からの墜落が偽装であること――と同時に、秀助が少なくとも共犯者であること――は見え見えですが、それでも“そのように見せかけたのはなぜか?”が謎となるのは同様です。
 それが捜査陣を欺くためではなく、もう一人の特高・霜多だけを標的としたトリックだったという点、そして放送塔でなければならなかった理由が、いずれも非常に秀逸。人間としての尊厳を奪うといっても過言ではない、転向者座談会のおぞましさが生々しく伝わってくる感があります。が、最後に示唆されている藤子義三の“操り”が、さらなる救いのなさをもたらしているのが凄まじいところです。

 さて、前作「人喰い雪まつり」までの五篇では、舞台が“O-市”とされた上に年代もぼかしてあった(13頁)のに対して、この作品の「過去」パートでは“小樽市”(205頁)と明記され、年代もはっきりしています。このあたりは、最初の「人喰い船」“椹秀助の思い出ばなしを、できるだけ忠実に記録したもの”(13頁)と宣言され、「人喰いバス」から「人喰い倉」までにも“作者”の存在をうかがわせるニュートラルな視点の記述が入り込んでいる*6ことも踏まえて、“作者”の介在の有無による違いと考えることができるでしょう。
 しかし、特高の宮口や霜多、さらには藤子義、浅葱宋太郎、藤子弥生といった人々が登場するに及んで、それが「人喰い雪まつり」までの五篇とは異なる“現実”だと考えざるを得なくなります。そして「現在」パートでの呪師良彦の登場を受けて、「人喰い倉」を除く事件のほぼすべてがフィクションだったことが明かされるのが何とも大胆。〈連鎖式〉の作品にはそれまでのエピソードをメタレベルで引っくり返すものも散見されますが、本書の仕掛けは例を見ないものといえるのではないでしょうか*7
 単に“フィクションだった”で終わりではなく、そこに込められた“語り手”――秀助の思いが解き明かされるのが、“人間心理の探求者”たる霊太郎が探偵役に据えられている所以でしょうが、それが「過去」パートでの事件の真相と密接に関わっているがゆえに、「過去」「現在」とが並行して交互に語られる構成になっているのも見逃せないところでしょう。

 「現在」パートでは、年老いた秀助が新たな“事件”に遭遇していますが、(心情的な問題もあるとはいえ)かつて自ら類似のトリックを使ったがために、謎のないところに謎を見出してしまうことになっているのが皮肉というか何というか。大森望氏の解説で指摘されている、“トリックや名探偵にこだわりつづけていたのは、じつは霊太郎ではなく、椹秀助のほうではなかったか”(345頁)という“転倒”も含めて、この部分は一種のアンチミステリといってもいいのかもしれません。
 そして最後に、霊太郎が秀助の心理を解き明かして遠藤美子の死が自殺だったと断言することで、秀助が長い年月にわたってとらわれていた“人喰いの時代”の呪縛が断ち切られる結末は、実に見事というよりほかありません。

*1: 源三に“死体は藤子義介の偽者ではないか”という疑念を持たせ、入れ替わりの可能性を示唆した上で、死体が“正真正銘の藤子義介”(42頁)だと明言させてあるのもうまいところです。
*2: その直前に明らかになる安芸子夫人の心情も大概ですが、最後にはすっかりそちらの影が薄くなっている感が(苦笑)。
*3: (作家名)都筑道夫(ここまで)の短編(作品名)「人ごろし豆蔵」(『まぼろし砂絵』収録)(ここまで)
*4: 回想の中の“きれいに雪が積もり、人が歩いたあともなかった。”(172頁)というのが、宮口らが死体を発見した際の“もちろんそのときの特高の足跡は残された”(184頁~185頁)よりも前の出来事であることは明らかです。
*5: 「人喰い船」での“藤子義介”の登場場面(10頁~11頁)や、「人喰いバス」で“霜多”がバスに乗り込む場面(67頁)なども、地の文では虚偽にならないような記述がされています。
*6: 「人喰い雪まつり」では紀子の視点が導入されているせいもあってか、あからさまに“作者”視点の記述は見当たらないように思います。
*7: さらにいえば、「人喰い船」から「人喰い雪まつり」までの五篇が作中で言及されているそのままに雑誌(「問題小説」)に掲載され、その後に「人喰い博覧会」秀介の独白(337頁)どおりに書き足されたことで、メタフィクション形式がより効果的なものになっているように思います。

2000.06.08再読了
2013.10.09再読了 (2013.10.15改稿)