STEEL

最終更新日04/06/21

コラム

コラム179

記録として残るもの

 人間の会話と言うものは案外、気楽です。
何故って、話した言葉を本人や聞いた周りの人間も正確に記憶していないからに他なりません。

小学生の頃、作文を書くのが苦手でした。
頭の中での考えを文章にして書く能力が低かったので・・・・。
書いている内に何を書いているのか分からなくなって書いた本人が読んでも意味不明・・・・(笑)。

話し言葉ならば他人と会話していても言葉でちゃんと伝えられなくても表情や口調、動作(身振り)などが補助として相手に自分の感情や考えを伝えている事を人は案外、把握していないから作文や日記などの『書いた言葉』だけで相手に伝えようとすると「極めて大変なんだなぁ」と思っています。すでに書いたメールなどがそれに当たります。

文章だけで自分の考えを伝えようとすると「こんなに難しいものなのか」と嫌になった記憶があります。文章力が無いだけかもしれませんが(苦笑)
しかも、作文や日記などを書き綴るとそれらが記録として残ります。
話し言葉と違い、『残る』と言う事は大きな違いです。

話し言葉はその場限りの接し方なので案外、何を話したか過去になってしまえば話した本人も聞いた本人も覚えていません。
よっぽど心に残るような会話の場合は別ですが日常的な会話は忘れてしまいます。

でも、文章として残せばそれが残ります。
残った文章を誰が読むかにもよりますが、残る限り自分で書いた文章に責任を持つ必要性があるかもと思っています。

私がコラムの中で他人への中傷や批判等を避けているのは自分が軽い気持ちで言ったとしても読んだ人によってどう受け止めるか私の予想を越える可能性が高いからに他なりません。
だから、ある程度までの自分が考えを書いた上で決め付けるような『判断』をなるべくしないようにしています(しているつもり)。
恐らく、
掲示板、チャットをした人が腹を立てたり怒ったりする原因は書いた人が『話し言葉』と『書いた言葉』にする事に自体に差がある事を私を含めてみんなが知らないからだと思います。

文章として残す、ましてやHPに載せて不特的多数の人が見る・・・・ある程度は自分の書いた文章に気を使う必要性があるような気がしています。

何人かに言われたのは「コラムの文章が当り障り無さ過ぎる、もっと突っ込んだ意見を書いても良いのでは?」と言われました。
僕の中では感情的に強く言う事は簡単ですが、読んだ人が判断するような書き方をしている今の内容で「良いかなぁ」と思っています。一個人の考えを他人がどう思うか?は各自の判断で決めれば良いと思うからです。
それは、上記の理由の他に、
あまりに身近にデジタルとして記録出来る社会になりました。
日記や私のコラムに限らず記録を残す事、そしてその記録を人に見せる事が簡単になってしまいました。
これらの記録が情報として他人に影響する事自体の抑止力がまったく無い事に少し不安を感じています。だから書く事自体に配慮していると言う考えです。(これだけが理由ではないですけどね・・・・)

メモリステックのような物が一般的になるとは昔では考えられません。

あらゆる所で急激にデジタル化が進んでいますが、どこまでデジタルとして記録を残す必要性があるのか境界線が見うなくなっています。

コラム178へ  ▲コラムトップへ  ▼コラム180へ