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最終更新日07/03/26

コラム

コラム249

追い続けるもの

  この頃、変な事を感じます。昔は自分に何か「出来る事」、「したい事」をただ追いかけていました。
自分の好きな事をする、それが実益を兼ねなくて自分がも自己満足出来ればそれでいい。
それが趣味でありであり、自分の目標とするものでした。

それらの行動も結果として見れば自分の理想とは違うものです。それは現実と理想(夢)の違いを知るからになりませんが・・・・。
しかし、それらの行動も経験も実際には無駄ではありませんが、
当時、何を求めていたのか今思えば分かりませんし、今も具体的に「何をしたいのか」「何をしたかったのか」を具体的に言い切れるわけでもありません。

何かを「したかった」と言う漠然の気持ちの中で他人と「ワイワイ」していたのだと思いますが、結果として何も変わらずただ年を取っただけかもしれないと感じる事があります(悲)。

年齢が若い時は「若さ」と言う逃げがあります。
何かをして達成出来なくても「まだ若いから、まだやり直せばいい」と言う年齢によるゆとりがあったのですが、それに甘えて何かを成し遂げたというわけでもない。

会社に行って。週末、プライベートで友達などと遊んで・・・・・それの繰り返しのまま歳を重ねていった。
そして、今になってそれを振り返ると、「何だったんだろう?」と思う時がある。それを改めて考えると半分むなしい・・。

この話の内容は真面目に話すとなると相手を選びますし私が思う限り人はこんな話を好んでしない、どちらかと言うと誰もが感じているようだけど考えないようにしたり触れないようにしているようです、または考えもしないようです。
中々話す機会が無いという感じです。

これらの話も人間が趣味(自分のしたい事)を追求することは、生活上の生きていく事に必要なものと一線を超えており普通に生きて行くだけの行動と比較して考えると、これらすべては甘い考え方であると言えます。
私の考え方も偏った考え方ですが、この話は生きていく為に必要なものではなく、あくまで私自身の自己満足を達成する為に「したい事」のみを言っている為、それらを言える環境などは年々減ってきていると言えます。

こう言う考え方は圧倒的に男性に多い考え方で女性は男性より現実的です。
私が言うのも何ですが男性はいつまでも夢とかを見ていたりしていつまでも子供の人が多いと言う事でしょうね。

ここでの話も過去コラムで夢などを話している内容と結果としては同じですが自分がしたい事が結果にならないまでも何かに夢中になる事自体が無くなって来て・・・・妙に覚める時を感じるので「寂しい」と思うわけです。
そう思うのは夢や趣味と言うのは自己満足の世界でありながらその内容を話す事が出来る相手が必要と言う事です。

自己満足といいながらも自慢する、内容を話せる相手が「居る」「居ない」は趣味を継続していく上で大きいようです。
そして、そのような事を話す事が出来る人達は年齢に伴って減って行きます。
それが「寂しい」と感じる要因になっているのも事実です。

結果として、私は10年前と同じ事を今でも継続していますが、これは考えて見れば一般的に普通とは言い難いようです。
但し、「正しい」「悪い」と言う単純な話ではないと思いますけどね。

私個人としては好きな事をその歳その歳で追求して探求する事をずーーと繰り返しているに過ぎないと思います。
そしてそれは「答えにならない内容なのだろう」とも思っています。

社会や家庭に関しない個人の追求を行う環境や時間は昔から見れば減ってきています。
しかし、趣味を追求する行為は生きていく中で自分の好きな事を続けていく事は所詮、自己満足でしかないにしても大切な事だと思います。

結局こんな事を言いながら好きな事で小さいことでも何かを達成すれば個人的に喜んでいるわけで、それの繰り返しの中に寂しさを感じているだけでしょうけど

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