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   第一編 混沌の中で

                  第一章 (入社)  第二章 (初恋)  第三章 (たわいのない病魔)  第四章 (入党・そして破局)

 

     第一章 入 社

 

私は昭和17年、岩手県の大槌という、太平洋に面した小さな町に生まれた。
 中学卒業当時、私は将来何をする人間になろうなどとは考えてもみなかったし、また考えることもできなかった。

 昭和33年(1958年)

昭和33年4月、親の考えで隣の釜石市にある富士製鉄株式会社釜石製鉄所の教習所に入った。そこに入るのは難しかった。競争倍率は十倍近かった。
 会社は毎年中学校の卒業生を60名ずつ採用し、二年間教育してから製鉄所へ送り出していた。私の町からは毎年二名だけ採用された。それが当町への割り当てであったようだ。採用された少年は町中の話題になり、羨望の目で見られた。東北地方の田舎には大きな会社はきわめて少なかった。教習所に入所できた少年は、その一生を保障されたも同然だった。

 近辺の中学校から集まってきた優秀な少年たちの間で私は小さくなっていた。当時私は、自分は彼らの誰よりも弱く、取るに足らない人間だと自覚していた。
 教習所では、普通高校及び工業高校の教科書を使い、二年間で一般教養のほかに電気、機械の基礎知識を詰め込み、さらに製鉄に関した知識を叩き込もうとした。私はついて行けなった。一年生の時、成績がほとんど最下位まで落ち、父が教習所に出頭を命ぜられたこともあった。しかし私はこのことがなぜか、あまり気にならなかった。二年生になると実習が加わった。私は勉強も少しやり、実習においては私の器用さが役立ち、成績が上位にまで上がったこともあった。

 実習には基本実習と専門実習があった。基本実習で我々は電気、機械その他を一通り実習した。専門実習では各自、選んだ道へ進んだ。私は電気を選んだ。
 教習所には、必修科目の中に「武道」があり、我々は柔道か剣道かのどちらかを選ばなければならなかった。人と闘うことの嫌いな私には、これは予期していなかった難題であった。私は剣道を選んだ。私は武道を嫌であったが一生懸命やった。私は決して弱くはなかった。

 私にとって教習所時代は、空転した二年間であったような気がする。でも幸いなことに、私はそこで、川崎君という親友を得ることができた。この川崎君との親交は、その後、あることが起こるまで、十年以上続くことになった。

 教習所を修了し、私たちは富士製鉄の社員となった。我々は各現場へ配属された。昭和35年4月、私は17歳であった。(1960年)
 一方、私たちは教習所の二年間を修了しても、高校卒業の資格は得られなかった。そのため教習生の多くは修了後、定時制高校へ編入学した。定時制高校は四年制であったが、私たち教習所修了生は第三学年に編入学することが許されていた。私も、私の町の大槌高校の定時制第三学年に編入学した。私と一緒に編入学したのは、教習所での私の同期生一人のほかに、教習所の一年先輩の佐々さんの三名であった。私たちが編入学した第三学年は、私たちを入れて十数人だけだった。中学時代一緒に学んだ顔ぶれのほかに、一、二年先輩や、二十代半ばの青年も含まれていた。
 こうして、私は昼働いて夜高校へ通うようになった。

 私が配属になったのは動力課電気掛だった。この職場は、現場実習でまわったところなので、そこで働く人々とは顔なじみであった。この職場に配属されたのは、私のほかに、もう一人、田中君というのがいた。
 電気掛はいくつかの班に分かれていた。最初の一年間は実習期間として、それらの班のうち、主な三つの班をまわることになった。三つの班とは、試験班、分解班、それに出張班であった。試験班というのは電気機器の試験をするところで、高度な電気の知識が要求された。分解班はモーターの分解修理組立をするところで、油と埃で汚れる作業。そして出張班は製鉄所内のあらゆる現場へ出かけて電気工事をした。
 私と田中君は一人ずつに分かれ、この三つの班を四か月ずつ実習してまわることになった。
 私は一人にされ、年令がさまざまに異なる人々の中へ放り込まれた。それは私にとって初めての経験であった。彼らの中で私は私の性格が彼らとは根本的に異なることを知らされた。私は本当に苦しかった。
 私は彼らに溶け込むことができなかった。私は彼らの雑談に加わることもできなかった。そして私は私自身の世界に沈んでいった。毎日、私は憂鬱だった。会社へ行くのが苦痛だった。私はそんな自分の性格をつくづく嫌になった。
 こんな私の性格について、職場のおやじ連中があれこれ言及した。「おとなしすぎる 」「声が小さい。もっと大きな声を出せ」「君はファイトがない」「今までここに来たのはよかった。(だが、おまえはだめだ)」等々。
 これらの言葉は私の胸に突き刺さった。このことがその後何日も頭から離れず、ますます憂うつになっていった。

 朝、汽車に乗る。中学での同期生たちは高校へ、そして私は会社へ向かう。駅から吐き出され、大勢の人々にはさまれながら会社の門に吸い込まれる。そんなときの私は一匹のアリよりも小さく感じられた。
 
『おれはこれでいいのだろうか? これからどうなるのだろう?』毎日のように考えた。門を入ると、そこには私がどうしても溶け込むことのできない世界が待っていた。

 私が彼らと同じような性格を持ち、彼らと楽しく話したり笑ったりすることができたなら、どんなに楽しいだろう。私の性格は、すべてのものに暗い影を落とした。
 私は青春を実感できない。これは誰を憎めばいいんだ? 私はこんな性格になりたくてなったのではない。親が悪いんだ! ところがその親が私のこんな性格を責めることがる。いったい彼らは私の性格に少しの責任も感じないのだろうか?
 こんな私でも、親友の川崎君とは、配属になった職場は別々であったが、会社が終れば待ち合わせて一緒に帰ったり、休日にはハイキングに出かけたりして楽しくすごしていた。
 また、職場は苦痛でも、夜、高校へ行けば、いくらか自分を取り戻すことができた。

 入社一年目の実習は、分解班、試験班、出張班の順にまわった。分解班は嫌だった。次の試験班の四か月は本当に短く感じられた。試験班では電気のことがかなりわかった。何がわかったと問われても、はっきりとは答えられないが、電気の性質というものを体でわかったような気がする。
 試験班の人たちはみんな親切だった。特に熱心に教えてくれた藤島さんに私は感謝した。
 出張班には、少しばかり荒っぽい人が多く、丁寧に教えてくれる人などいなかった。私など全くあてにされていなかった。彼らは私には何も仕事をさせなかった。私はただ彼らのやることをぼんやり見ていた。説明してもらうこともないので、見ていても、いま何をやっているのかわからないこともあった。質問する気にもなれなかった。

 一年間の実習が終り、私の配属が確定する時がきた。私は試験班に行きたかった。分解班は嫌だった。ところが、その嫌な分解班に決まった。掛長からそれを告げられたとき、目の前が真っ暗になった。
 その後、いっそう憂うつな日々が続いた。どろどろの油と埃にまみれ、力のいる作業。仕事が嫌なら、一緒に働いている人たちまで私は嫌になった。彼らの話を聞いていると、もうその場にいたたまれなくなった。どうしてこの人たちはもっとまじめな話ができないのだろう。
 私はこんなことをしていて一生を終ってしまうのだろうか?「いや!」と打ち消すが、その先がわからなかった。

 そのうち、芸術家になろうかと考えるようになった。そう考えると、一瞬、前途がパッと明るくなり、生きがいのある色で満たされた。音楽を聴けば音楽家になりたいと感じ、絵を見れば画家になりたいと感じ、小説を読めば小説家になりたいと感じた。
 しかし、そのどれになるにしても、才能と金が必要であった。専門の学校も出なければならないだろう。家族が許すなら、あんな職場はやめてしまいたい。しかし父はもうすぐ製鉄所を定年退職する。そうすれば家の収入は減る。あれこれ考えると、夜も眠れなくなった。耳鳴りもした。今にも気が狂ってしまいそうだった。以前、夜、高校へ行けばいくらか救われたが、このころにはもう高校へ行っても、モヤモヤしたものがつきまとい、勉強にも身が入らなかった。自分はノイローゼにおちいっているのかもしれないと思った。
 職場の者たちには、こんな私がおかしく見えたのかもしれない。時々、私の頭がおかしいんじゃないかと遠まわしに言うことがあった。自分でも心配していることを他人から指摘されると頭がグラグラし、具合が悪くなった。
 こんな私でも、会社を離れたところでは、なんとか人間らしく生きていたようだ。クラシック音楽を聴き、多くの本を読み、絵にも関心を示し、自分で描いてみたりしていた。定時制高校では、生徒会の執行委員を務め、書記をやったり、編集委員長として、文芸誌「かもめ」の編集を担当したりした。

 このころ社内報で、美術部が美術展への作品を募集しているのを見た。私も一点出品した。その絵は、稲の切株の残った寂しい秋の田んぼを描いたものであった。画用紙に水彩絵具を油絵具のように厚塗りした絵だった。
 美術展は12月1日から4日間催された。私は3日目に見に行った。最後の日に画家を呼んで作品の講評をしてもらったというが、私は出席しなかった。
 
その後、私は絵を美術部のアトリエに置いたままにしていた。12月7日、私は会社の帰りそれを取りに行った。アトリエには二人いた。私が自分の絵をふろしきに包んでいると、彼らは私に話しかけた。絵についていろいろ話した。話しているうちに楽しくなった。
 私の絵を見て石川先生が驚いていたという。これは私には意外なことであった。さらに彼らは、一人で絵を描いていては上達しないから、これからは毎週木曜日、アトリエに来てみんなと一緒に描くよう私にすすめた。
 彼らは早野さんと村井さんであった。早野さんは美術部長だった。村井さんの家は私の隣町、鵜住居だった。私は彼と同じ汽車で帰った。彼はとても親切だった。彼は私が一緒に働いている人たちとは種類の異なる人間のようだった。私は彼が私に対していつまでもそのようであることを望んだ。
 こうして週一回、アトリエでみんなと一緒に絵を描くようになった。三か月ほどすると、モデル写生会が催された。私は初めて裸婦を描いた。若い女のひとが私の目の前で裸になった。私はドキッとし、なかなか目を上げることができなかった。でも描いているうちに落着き、描くのに熱中した。

 昭和37年(1962年)

 昭和37年3月、二年間通った定時制高校を卒業した。卒業生は女子二名を含めて十二名だけだった。我々は昼働いて、夜高校へという苦しい生活を共にしてきた。我々は卒業と同時に離ればなれになるのは心残りだった。誰からともなく、これからも一緒にやっていこうということになった。山を好きな男がいて、みんなで山歩きもしようということになり、サークル名も「友峰」とした。数年間は楽しく活動し、「あしあと」という文集も発行した。しかし仲間の転勤や転職もあり、次第に消滅してしまった。

 昭和38年(1963年)

 昭和38年1月15日、成人の日を迎えた。成人式には、出席しないで済むものなら出席したくなかった。だが一生に一度のことであった。
 ネクタイは、兄が朝出かけるとき結んでくれ、私がそれに頭を通すだけにしておいてくれた。背広も兄が貸してくれた。
 背広姿で町を歩くのは恥かしかった。会場に着くと、兄は私が来るかどうか心配だったのか、会場の入口で待っていた。兄は町の教育委員会に勤めていたので、このような催しにもたずさわっていた。会場に来ていた女性は、中学での同期生であったろうが、さっぱりわからなかった。
 式が終ったら、兄が私を写真に撮ってくれることになっていたので待っていた。しかし兄は忙しいのか、なかなか来なかった。私は家へ帰った。
 二時間あまり私は背広姿で過ごした。私はこのような服装で生活することに魅力を感じた。同時に、それが現実になることを恐れた。

 成人式を終え、ふと、これまでのことを振り返った。私はこのままでいいのだろうか? 高校を卒業してから約一年、何をしたろう?
 教習所で私たちは、あたかも製鉄所の未来の担い手であるかのように思い込まされた。しかし現場はみじめだった。我々は作業員として会社の機構の最下位で働かねばならなかった。教習所での同期生の何人かは、会社の昇格試験制度を利用して出世した。しかし、私は昇格試験を受ける気になれなかった。昇格した後、私は他の同期生たちを見くだすことはできなかった。

 入社してから三年目の春(昭和38年)、上司の岩間さんが突然私に教習所の指導員をするようにと言った。私はびっくりした。それまで実習生は現場へ来ていたが、電気班の実習場が新たにでき、実習はそこでやることになったという。「試験」と「制御」は教習所勤務となった藤島さんが担当するが、モーターの分解、組立は彼にはできない。そこで私が行くことになったという。
 上司がなぜ私を選んだのか私には理解できなかった。私は彼らの中で一番若かった。そのうえ私は人前で話すのが苦手だった。私はモーターの構造を熟知していた。しかし、それを自分の後輩の前に立って教えることは、私にはとてもできないことのように思え、不安だった。
 しかし、ある期間、私はその任務をなんとか成し遂げることができた。それから何年かして、私は町などで若い男に挨拶されたり、話しかけられたりしたことがあった。誰だったろうと話してみると、この時の実習生だった。

 私は小説は古典的なものばかりを読み、現存する作家の作品にはほとんど興味をおぼえなかった。そんな私に、親友の川崎君が「現代の倫理」という毛色の違った本を貸してくれた。
 
「現代の倫理」は資本主義社会を否定し、やがて来るべき新しい社会、未来の社会について説いていた。川崎君はこの本を読んで、考え方がすっかり変ったという。私もこの本から少なからず影響を受けた。しかし彼ほど深くは影響されなかった。そこに書かれていることをそのまま鵜呑みにすることはできなかった。たしかに我々働く者にとってそれは良いことである。しかし、私は現存する社会主義の国に納得できなかった。

 ベルリン問題はどうだろう? 社会主義者たちは東から西へ市民が逃げるのを防ぐために柵を作った。それを乗り越えて逃げようとする者があると、彼らはそれを撃ち殺した。社会主義と、この殺りくはどのように結びつくのだろう?

 川崎君は、このような本を私に貸してくれる一方で、「アカハタ日曜版」を購読するよう私にすすめた。少し迷った末、私は購読することにした。
 
さらに二か月後、彼は私に日本民主青年同盟に加盟することを勧めた。
 また、私の町から製鉄所に通っている教習所の先輩、三浦さんからも話しかけられるようになった。彼は大槌の同盟の幹部の一人らしかった。週一回、学習会をやっているから出席してみないかと私に言った。
 9月24日の夜、彼は私を喫茶店へ連れて行った。彼は私に同盟に入ることを勧め、私に加盟申込書を渡した。でも私はその場では記入しなかった。
 彼の態度は本当にまじめで、人間的だった。私にとり、このような人間関係は初めてであった。私は完全に一人の人間として扱われた。私は少なからず感激した。
 10月9日、私は同盟の学習会に出席した。私は加盟申込書を提出した。
 こうして私は週一回、夜、学習会に出席するようになった。だが三か月ほどすると、一部の者たち(女)が私をあざ笑うようになった。不愉快だった。何のために笑われるのかわからなかった。彼らの前で私はおかしなことをやったおぼえも、言ったおぼえもなかった。

 

       第二章 初 恋

  昭和39年(1964年)

 私の職場には天井走行クレーンが一基あり、その運転士は私の属する分解班から出ていた。私もクレーンの運転免許をとることをすすめられ、受験し、合格した。製鉄所内にはクレーンは数えきれないほどあり、免許取得のための試験は、所内で定期的に実施されていた。受験のための講習会も、作業終了後に行なわれていた。

    

   1月14日 火曜日 曇

 クレーンの講習が終り、7時15分頃、会社の門を出た。
 釜石駅に着いたら、待合室の入口に若い女性が立っていた。はっとした。確かに似ていた。でも彼女はいつも4時45分の汽車で帰っていた。私は変だと思った。 が、やはり彼女だった。
 彼女は帰りの汽車で、いつも私と同じ、後ろから二両目に乗っていた。
 昨年の中頃から私は彼女に心をひかれるようになっていた。私は彼女も私に心をひかれているのを感じていた。
 彼女は通常、私より早く汽車に乗っていた。(汽車は釜石始発で、早くからホームに入っていた。)彼女はいつも入口近くの席で本を読んでいた。その脇を私はいつも通り過ぎた。私は彼女を意識し始めた時から、彼女の近くに席を取ることが出来なくなった。目が合うと、私たちはあわててそらした。
 そのような状態が長く続いた。私は彼女に近づき、友達になるべき義務を感じた。しかし私は彼女に近づくことは出来なかった。どんなに彼女に心をひかれても私はそれをどうすることもできなかった。それで私は彼女のことを考えないように努めた。でも、ときには、彼女と親しくなった時のことを空想し、時間のたつのを忘れた。
 一度、私は彼女の隣に座ったことがあった。それは佐々さんと一緒に乗った時のことであった。佐々さんは私の数少ない友人の一人でした。彼は、教習所での私の一年先輩で、また定時制高校では私と同期でした。彼は素朴な青年でした。
 彼はいつも彼女の近くに座っていた。彼女は釜石から二つめの駅、鵜住居(うのすまい)で降りた。私はその次の大槌で降りた。
 私は時々変なことを考えた。佐々さんも彼女に関心をもっているのではないか? 私は不思議な気持におちいった。これらは私の錯覚だろうか? 

 

 朝、私は彼女を見かけることはなかった。
 私の心はどんどん彼女にひきつけられていった。彼女も私と同じようだった。しかし彼女は決してそれを表情にも、行動にも表わさなかった。それでも私はそれを感じとることができた。
 3月8日、月曜日の帰り、釜石駅の改札口で彼女に出くわした。どきっとした。彼女はすでに私に気がついていたようだ。彼女は私より改札口に近かった。彼女は私を先に通そうとするように歩みをゆるめた。しかし私は自分の後姿を彼女に見られたくなかった。それで私は彼女を先に通した。このとき私は、あまり気にいっていないアノラックを着、すっかりつやのなくなった大きなゴム長靴をはいていた。
 私は服装には無頓着だった。兄のお下がりなど、気にいらないものでも、それがすり切れるまで同じものを着ていた。
 ホームで彼女はいつもの車両には乗らず、その先へ行った。私はいつもの車両に乗った。私は車両の中ほどへ進んだ。前寄りの乗車口から乗った彼女が、向こうへ行こうか、こちらへ来ようかとデッキで迷っていた。私を見ると彼女は向こうへ行った。

 

   3月31日 火曜日 晴

 昨夜、不思議な夢を見た。
 場所ははっきりしなかった。
 このまえ釜石の本屋で「音楽の友」を見ていたら、変った演奏会場の写真があった。それはすり鉢状で、その底の部分でオーケストラが演奏し、まわりに客席があった。夢の場所はその演奏会場のようであった。客はいなかった。私は誰かに追われていた。しかしそれは恐怖をともなったものではなく、見つかってもたいしたことのないものであった。私は物陰に隠れ、何のためか、そこにあった塗料の入った缶をかき混ぜていた。そうやっていれば、見つかったとき、何か理由がつくとでもいうように。やがて彼等は私の近くへ来た。私はどうしようかと迷った。(ここで状況が一変した)。彼らの中に女性が一人いた。彼女は長い間会っていなかった私の恋人のようだった。私は彼女を見たとき、懐かしさとうれしさから泣きだしそうになった。
 私はそこから飛び出し、彼女に近づいた。私は彼女を抱きしめた。そばに誰かがいたが、私は気にしなかった。長い間彼女に会っていなかったので、私はそうする権利があるように感じた。私が彼女を抱こうとした時、彼女はチラと私を見上げた。彼女は何か問いたげであった。その目は本当に美しかった。 我々は抱き合った。唇と唇が固く合った。経験したことのない甘い感覚が私を満たした。
 私は目が覚めた。彼女を抱きしめたときの感覚、唇の感覚が現実にあったことのように、はっきり残っていた。

 

 翌日、私は佐々さんと一緒に汽車に乗った。しばらくすると彼女が入って来た。彼女は通路をへだてて私の隣に座った。
 しばらくして、私は思いきって彼女を見つめた。親しい人を見るように私は彼女を見た。そのとき、本を読んでいた彼女のまつ毛が微かに震えた。その瞬間、夕べの夢での甘い感覚が私によみがえった。夢の中の女性は彼女だったように思えた。

 4月6日、一時間残業をしたので、私はいつもより一列車あとの汽車に乗った。すると彼女も乗っていた。彼女は小さな子供と一緒だった。彼女はその子供にかがみこみ、絵本を支えてやっていた。彼女の首筋がずっと奥まで見えた。美しい肌、細い首。私は彼女のそばに立っていたかったが、きまりわるかったのでそこから少し離れた。

 3月に入ったとき、掛内の編成替えのための希望がとられた。私は試験班を希望した。希望がかなえられたらどんなにうれしいだろう。でも試験班には同期生の田中君がいるからむずかしいだろう。
 3月25日、私は係長に呼ばれた。
「君は、希望通り、試験をやってもらう」と言われた。
 私は自分の耳を疑った。
 しかし田中君は出張班へ出されるという。田中君は私のために試験班から出される結果になった。彼の様子から試験班を出たくないのはわかった。しかも彼は労働組合の支部委員をしていて、その活動も調子が出てきたところだった。まずいことになった。
 翌日の朝、職場で支部委員会の報告があった。その席で、田中君が出張班に行くので、支部委員を、次点の千葉さんにやってもらうという報告があった。私の後方で中央委員の繋さんが田中君と話をしていた。繋さんが、試験班には誰が来るのかと聞いた。
「それなら沢舘君にやらせっか」
 彼が軽蔑した口調で言うのが聞こえてきた。
 昼、私は田中君に話し掛けた。
「おれが試験に行がながったら、田中君、動がなくてもよがったんだべ?」
「そんなごどぁねぇべ」
 彼はそう答え、支部委員をやっていて、上から睨まれているから、と答えた。
 彼と話し、私は肩の荷を下ろしたように感じた。

 私は分解班で三年間働いた。希望がかなえられ、試験班へ行くことが決まってからは、電気の勉強をしなければと強く感じた。それま私は仕事の勉強をすることは、会社(資本家階級)に協力することになると考えていた。そして私はマルクス・レーニン主義の学習に力を注いだ。しかしそれは間違っていることに気がついた。
 第一、電気を知らなくては仕事にならないし、みんなの前で恥をかく。

 日本民主青年同盟に入るまで、私はほとんど自分自身の世界に没頭していた。同盟に入ってからは、一気に外界との接触が拡大した。週一回の分班会議(学習会)があった。分班長になってからは、班委員会にも出席しなければならなかった。
 私は組合や地区労の集会、デモにも参加するようになった。そして、私はなんとかして彼らに溶け込もうと努力した。しかし、私がどんなに努力しても無理があるのを感じた。その原因は私の側にだけあるとは思えなかった。彼らは私を受け入れなかった。
 日頃、仲間として話をしていた彼等がこのような集会場ではなぜか私を避けた。彼らは私を指差して笑っていたこともあった。
 釜石での集会の後、私は大槌の仲間と一緒に帰れるだろうと思った。ところが集会が終ると、彼らはすばやくどこかへ姿を消した。
 また分班会議で、ある者たち(特に女)が私を見て、ばかにしたような笑い方をした。

 ある日、私は祝田君と佐々さんと泊まりがけで山登りをしたことがあった。彼らは高校での私の同期生でした。我々は町の奥地にある新山高原に登った。泊まりがけの山登りは私にとって初めてだった。私はそれを前から楽しみにしていた。
 しかしこのとき、祝田君はなぜか私に敵意をあらわにした。私を呼び捨てにし、冷たくあしらった。私にはとても信じられない現象であった。私は不快な思いをし、少しも楽しめなかった。本来なら私が楽しく過ごし、ストレスを解消すべき状況だった。彼はそれを意識的に壊した。
 また、祝田君の家を訪ねると、彼の家族、彼の弟や妹までが、まるで滑稽なものを見たかのように私を笑った。私はその原因を考えた。しかし全く見当がつかなかった。
 私が祝田君や同盟の仲間からそのように扱われる理由は少しもなかった。結局、私はその原因を私の性格のせいにした。
 ただ、祝田君に関してはあることが言えた。後日、私は町で彼の姉に出会ったことがあった。そのとき彼女は私に異様な表情を見せた。祝田君の異様な行為の根源はこの姉から発せられていたと私は感じた。彼女は大槌町役場に勤めていた。これらの間には何か関係があったのか?

   

   5月21日 木曜日 雨

 帰り、私はいつもの汽車に乗り遅れそうになった。いつもの車両のドアは閉まっていた。蒸気機関車の煤で汚れたハンドルを指先だけでつまみ、開けようとしたら、内側にいた女子高校生が開けてくれた。デッキへ上がり、ドアを閉めようとしたら、その高校生がまた閉めてくれた。ちょっといい気持だった。別に礼も言わず私は車内に入った。
 数歩前方に、あの彼女が立っているのに気がついた。彼女は黒いレインコートを着ていた。彼女は本を読んでいた。彼女はすでに私に気がついていたようだ。私は入口で立ち止まった。私は入口に寄りかかって本を読み始めた。彼女と私の間には客が一人立っていた。次の駅でその客は降りた。彼女と私の間には、さえぎるものは何もなかった。私は本から目を上げ、彼女の姿をながめた。彼女は横向きにすらりと立っていた。背丈は私とあまり違わなかった。
 彼女が降りるとき、私は彼女に「さよなら」と声をかけようかと考えた。ところが、彼女の駅へ着いたとき、私の脇の席が空いた。席が空いたのに座らないのは不自然だったので私は座った。座るまえに、私は近づいて来る彼女をじっと見つめた。彼女は私と視線が合うのを避けるように、私の胸のあたりを見ていた。彼女の表情は美しかった。ところが出口が混んでいるらしく、彼女は私の前で立ち止まった。数秒だったが私には長く感じられた。私は「さようなら」と言うことができなかった。 私は本を読もうとしたが、その動作は我ながらぎこちなかった。

 

 

     第三章 たわいのない病魔

 

 昭和39年(1964年)

 こうしたある日、思いがけないことが起こった。
 6月1日、排尿時私は尿道に痛みを感じた。翌朝、膿のようなものが出た。それを見たとき目の前が真っ暗になった。この症状が数日続いた。悪い病気にかかったのではないかと心配し、医学書を見たが症状が違うようだ。ただの尿道炎だろうと思い、気にしないようにつとめた。
 しかし、どうしても安心できなかった。私は子供の頃から自慰を覚えたせいか、子供の頃、周期的(数週間おき)に尿道が痛くなったことがあった。そのときは純粋に痛みだけで、他の症状はなかった。その症状は性的に成熟するにつれ消滅した。そんな経験があったので、今、悪い病気にかかったとしても、私だけ症状が違うのではないか? 考え出すときりがなかった。子供の頃の症状は、その後『あれは何だったのだろう?』と、ずっと私の心に重苦しく残っていた。今度のことでそれに火がついてしまった。私は完全に打ちのめされた。
 会社に行ってもこのことが頭から離れなかった。私はうなだれて歩いていた。構内線路を歩いていて、貨車がすぐ近くまで来ていてびっくりしたことがあった。一緒に歩いていたおやじさんは「歩ぐどぎぁ前見で歩げ!」と私を叱った。
 同盟に入って以来、私の性格は明るくなりつつあったのに、今度のことでまた以前の自分に戻ったように感じられた。医者にみてもらおうかと考えるようになった。私はその病気を完全に治したい。そして子供の頃から十数年間私におおいかぶさってきていた黒い雲を払いのけたい。そうしたらどんなに私の性格が明るくなるだろう。
 こままでは将来結婚するとしても心配である。いつも汽車で会う彼女と友達になりたいという夢も持っている。しかし、今の私は彼女に全く値しない。だから汽車に乗っても、私は彼女の目につかないようにしている。
医者にみてもらうのが一番よいことはわかるが、みてもらうところがところだけに決心がつかない。就業時間内に製鉄所病院へ行けば、通門券に診療科名が記入される。それを正門の受付の若い女に見られる。病院へ行けば看護婦がいる。おお恥かしい!
 もし行くとすれば、最初の日は会社を休もうと思う。
 6月10日(水)に病院へ行くことを決心した。決心したら明るい気分になった。一時恥かしい思いをしても、これからを安心して明るくやっていこうと思った。

 

   6月10日 水曜日 晴

 会社を休み、病院へ行った。
 朝、私は変な気持だった。家にはだれもいなかった。母は彼女の実家へりんごの摘果を手伝いに行った。父は出勤し、弟は学校へ行った。私は一人で朝食をとった。
 汽車の中で私は本を読む気にもなれず、窓の外をながめていた。見慣れた風景が異なった感じで見えた。
 釜石駅から病院までゆっくり歩いた。一歩一歩、死刑台へ向かっているようだった。数時間後には運命が決められる。
 受付へ行った。泌尿器科は皮膚科と一緒になっていて、泌尿器科の医師が来るのは土曜日だけだという。でも一応、皮膚科の医師が私を診ることになった。それからが大変であった。50歳位の医師が、他の患者のいる前で、ひとをばかにしたような口調、大声でいろいろ私に質問した。最初、私は縮み上がっていたが、そのうち、その医師に対する怒りがこみ上げてきた。
 尿をとり、結果は土曜日にわかるということだった。注射をし、薬をもらって帰った。医師の態度で、私はすっかり傷つけられ、打ちひしがれてしまった。病院へ行くまえより気持が重くなった。

 

 次の土曜日、私は病院へ行った。病名は単なる尿道炎だと言われた。
 製鉄所病院の泌尿器科には専従の医師はいなかった。町の開業医が土曜日に来院して診療にあたっていた。しかも、二人の医師が交替であたっていた。一人は明るく親切で、話しやすかった。もう一人は陰気で、いつも私をうさんくさそうに見ていた。そして、「肉体関係はなかったのか」と尋ねたこともあった。
 私は三度、病院へ行った。7月の第一土曜日、病院へ行くと、陰気な医師の番だった。
「もう来なくていい」彼は私に言った。
 完全に治ったのだろうか? 彼は治ったとは言わなかった。私はあまりうれしい気分にはなれなかった。私はその医師を信じきれなかった。
 気持が晴れないまま、その後も尿の状態に注意していた。そして、一週間後、病院にかかるまえと同じように濁っているのに気がついた。うんざりした。「もう来なくていい」と言った医師を憎んだ。やっぱりこれは特殊な悪い病気かもしれない。このまま放っておくと取り返しがつかなくなるのではないか? 私は結婚できないかもしれない。私はすっかり落ち込んだ。
 一方、私は自分自身を説得した。私が悪い病気にかかるような機会はこれまでになかった。だから私は何も心配することはないのだ。そのうち治るだろう。
 その時、私は納得した。しかし、すぐにまた不安がにじみ出して私の頭を占領した。
  要するに、子供時代に特殊な経験をしていたので、そのことに関して私は強迫神経症になっていたのだ。
 私はまた病院へ行った。親切な医師の番だった。尿の検査をした結果、トリモコナス菌が原因だと言われた。医師は私に「結婚しているか?」とたずねた。
 一体どこまで医師、病院を信じていいのかわからなくなった。彼は以前と異なる薬をくれた。しかしそれを飲んでも症状は変わらなかった。一週間後再び訪ねると、嫌な医師がいた。彼は何も調べることもせず、同じ薬をさらに一週間分くれ、邪魔者を追い払うように私を追い出した。
 二か月近く通院し、嫌な医師の番にあたったとき、彼は言った。
「ほとんどいいから、もう来なくていい」
「まえにもそう言われてやめたら、また悪くなった」私は答えた。
「そんなことを言っていたらきりがない。いつまでたっても薬をやめられない。それよりは気をつけたほうがよい
 私はこの「気をつけたほうがよい」という言葉の意味を理解できなかった。後で、これは「女あそびをするな」ということではないかと考え、唖然とした。
 こうして気持が晴れないまま通院をやめた。当然、病魔は私を解放しなかった。

 

   8月8日 土曜日 晴

 帰りの汽車で、彼女が彼女の姉らしい女性と二人で座っていた。私はすぐ近くに立っていたので、彼女らが話すのを聞くことができた。初めて彼女の声を聞いた。女性にしてはいくぶん低めで、心地よかった。

   8月16日 日曜日 晴

 私は義兄の誘いで御箱崎(湾の突端)へ船で行くことになった。私たちは四人で、義兄兄弟と私の兄弟。
 船着場へ行ったら、肝心の船がなかった。子供たちが乗って行ったらしい。しばらく待ったあげく、私たちは他の船に便乗させてもらうことになった。その船には若い男女が五、六人乗っていた。その中には中学での同期生もいた。彼らはビールやいろいろな食べ物を持って来ていた。私たちは邪魔者といった感じだった。
 私たちは御箱崎の少し手前の小さな砂浜で降り、彼らが帰って来るまでそこで遊ぶことにした。私としては御箱崎まで行きたかった。まだ一度も行ったことがなかったので。
 そこに降りるとき、私たちの荷物をその船に乗せてやってしまった。その中には昼飯や私のスケッチブックも入っていた。でも、りんごを何個か持って降りたので助かった。その浜で私はいくらか潜れるようになった。

 陽がだいぶ傾いてから、船が戻って来た。私たちはそれに乗り込み、帰途についた。
 その後、私にとって大きな出来事が起こった。朝、彼らは隣町の海水浴場、根浜海岸に寄って一人の男を乗せた。帰り、その人を降ろすために、また根浜海岸に寄った。
 海水浴客の大勢いる砂浜の中心部を避け、端の方に船を寄せた。その時、遠目にも、いつも汽車で一緒になる彼女の髪型にそっくりの女性が、二人の婦人と水着姿で海岸にいるのに気がついた。彼女らは津浪避けのコンクリートの壁を背にして立っていた。船が砂浜に近づくにつれ、間違いなく彼女であることがわかった。船はまっすぐ彼女たちの方へ向かって進んだ。船には男だけならまだしも、女が三人、水着姿で乗っていた。砂浜の彼女がこれを見たらどう感ずるだろう?
 私は麦わら帽子を下げ、顔を隠した。船は30分ほどそこに停泊するという。みんな陸へ上がってシャワーをあび、着替えをすることになった。仕方なく私もそうすることにした。私は覚悟を決めて船から降りた。彼女も私に気がついたようだ。彼女はその後、一度も私の方を見なかった。このまえ汽車で彼女と一緒にいた彼女の姉らしい人もいた。
 それまでならまだよかった。私たちが着替えをして船に戻り、出発しようとしたとき、まだ二人が乗船していないことがわかった。船は砂浜に沿ってゆっくり走りながらその二人を探した。
 夕暮れの砂浜に彼女らは座っていた。まわりに人影が少なくなって、彼女らはやっと着替えを始めた。(いなかの海水浴場で、当時まだ更衣室はなかったと思う)。ところがそのとき、船の舵をとっていた男が、意識してかどうか、彼女たちが着替えをしているところへ船を近づけた。それに人を探していたので、みんな陸をながめていた。そして、砂浜にそれらしい人を見つけたので、みんなその方を指さして騒いだ。彼女たちは着替えをしているところを見に来られたと思ったのだろう。彼女は明らかに戸惑っていた。私は恥かしく、穴があったら入りたかった。そして、私は今日出て来たことを後悔した。私の気持はすっかり沈み込んでしまった。彼女は私をどう思ったろう? 今後、彼女に会ったらどうしよう。私は絶望感におそわれた。
 今日の出来事は、偶然であったに違いない。しかし、あまりにも不思議だ。

 

 昼の出来事がかなりショックだったのか、この夜、私は2時近くまで眠れなかった。しかも朝、5時ごろ目が覚めた。
 身体の調子がとても悪かった。胸も苦しく、息を深く吸うことができなかった。体重を計ったら、56kgしかなかった。このまえまで60kgあったのに。
 尿が濃い茶色で、まるで血が混じっているようだった。
 この日の帰り、汽車で彼女が乗っているのを見かけた。しかし私は彼女のわきを通り抜ける勇気がなかった。それでデッキに立っていた。鵜居住に着いたとき、彼女がデッキへ出て来るはずだが、私はその方を見なかった。

 ある夜、兄の本棚から家庭医学書を持ってきて読んだ。読んでいくうちに、自分がかかっていると思われる病気が、次から次へと出てきて嫌になった。
 ノイローゼの症状が、現在及び過去の私の症状によく似ていた。また分裂症の症状にも似たところがあった。もう、自分の心身がボロボロになってきているように感じられた。
 こんなとき彼女のことを考えると、そのあまりの相違に悲しくなった。私など彼女に値しない。
 それにしても、私はなんという運命をもって生まれてきたのだろう。人間の一生は一回限りでやり直しはきかない。私が心身ともに健康に生まれてきていたら、どんなに素晴らしい青春をおくれたことだろう。彼女にも近づくことができただろう。同盟生活にも張りきって飛び込んで行けたろう。そう思うとくやしく、何ものかに対して腹が立った。

 このように、少し様子のおかしい私を、職場の人たちは冷たい目で見るようになった。作業中、私がぼんやりしていると、彼らは私を見て笑っていることがあった。
 家族も私の様子がおかしいのに気がついているようで、母や姉は心配そうに私を見ていた。だが父だけは、わざとらしく陽気にやっていた。私にはそれが妙にひっかかり、がまんできなかった。

 8月31日(月)から、希望していた試験班に配転になった。初日から、火力発電所へ発電機の絶縁劣化の測定に引っ張り出された。「tanδ」という測定器を使って測定した。とてもむずかしく、説明してもらっても理解できなかった。

 同盟に加盟してから一年ほどした頃から、私は同志たちに反感をもつようになった。彼らは私に対して不快で特殊な態度をとった。私は彼らとの心のふれあいを全く感じられなかった。彼らは私に会うと、ばかにしたようにニヤニヤしながら私に挨拶した。彼らの一人は私を敬遠した。
 私は同盟の会議(学習会)を時々欠席するようになった。しかし同盟をやめる気にはなれなかった。私は同盟そのものには反感を抱いていなかった。同盟はそれなりに私の心の支えとなっていた。
 ところがこうしたある日、はたしてこれが同盟員同志でやることだろうかと思われること起こった。
 会議のある日は、朝、駅のホームか車内で同盟の幹部が会議場所を仲間に連絡していた。その日は会議がある日であった。車内で三浦が私のすぐ後ろの席にいた一人の同盟員に、「コウちゃん、今晩キヨジさんのどごでな」と声高に言うのが聞こえた。私には連絡されなかった。私は不愉快だった。しかし私にも聞こえるように大声で言ったので、彼は私への連絡は省略したのだろうと思った。
 その晩、キヨジさんの家へ出かけた。ところが、その当人は乙番(夜勤)で家に居なかった。彼の家族も会議のことなど聞いていないという。私は戸惑った。会議のことなど忘れて帰ればよかった。しかし、三浦や他の者たちがグルになって私をだました、という怒りから、私は考えられるもう一つの家、新さんの家へ向かった。
「こんばんは」
 私は戸を開けた。やはり彼らはいた。数人こたつに入っていた。その中の一人と目が合った。私はひょこんと頭を下げた。私は彼らと視線を合わせないように下を向いたまま、とことこ入り、部屋へ上がり、こたつに入った。入りながら、自分のそういう入り方に愛想をつかした。
 誰も何も言わなかった。私は恐るおそる顔を上げ、まわりを見回した。彼らは私を見てニタニタ笑っていた。彼らの多くは私より年少であった。体中の毛が逆立つような怒りと恥かしさで顔を熱くし、うつむいた。このまま黙ってここから飛び出そうかと考えた。ちょうどそのとき、我が分班長、新さんが二階から降りて来た。さすがに立派な分班長だけに、ニヤニヤするようなことはなかった。まもなく、その朝、会議場所を連絡した三浦がやって来た。私がいるのを見た彼は声高に言った。
「あら、エイ君だ? よぐ来た、よぐ来た。おれたちの班はいつも集まりがいいなぁ」
 彼らは、私がこれらのことに気がつかないほど鈍感だと思っているのだろうか。

 数日後の朝、釜石駅のホームを歩いていると、三浦が後ろから追いかけて来て、私に同盟新聞を手渡した。そして言った。
「このごろ調子悪いようだね。何かあったらみんなに相談してみない?」
 私は薄笑いを浮かべ、黙っていた。
 会議にはもう出席する気になれなかった。私は一か月近く欠席していた。10月14日(水)にも会議があることになっていた。その前日と当日、三浦は私に念入りに場所を告げた。会議で私のことが問題にされそうな気がした。
 この夜の会議に私は出席した。9時半頃になって、やはり私のことに言及された。
「衛君、このごろ元気がないようだども」
 山崎が口をきった。すると三浦も相槌を入れた。
「原因は何なの? 言えるんだったら言ってくれて」
「何でもない」
 私は沈黙の後、答えた。胸の中では、「おまえたちのおかげだっ!」と叫んでいた。

 秋のこうした日、私は先輩の佐々さんと二人で旅行をした。
 花巻温泉の一角、志戸平温泉に会社の保養所、豊沢荘があった。そこに数日間滞在し、その近辺を散策した。小岩井農場や、宮沢賢治が生活していた地を訪ねた。
 しかし、日記には詳しいことは何も書かれていない。旅行から帰った翌日の10月6日の日記に「2日から5日までの旅行も終り、昨日の夕方帰った」とだけ記してあった。余り楽しい旅行ではなかった。
 でも、秋の小岩井農場、そこから眺めた雄大な岩手山。そこでスケッチもした。田んぼの中の小高い丘の林の中の賢治の碑、等々。今でも懐かしく思い出される。
 問題は宿にあった。若いウエイトレスが、極度に私を気味悪がったのである。女はその感情をあからさまに表情、態度に表わした。
 宿を出てしまえば、佐々さんと二人だけで楽しかった。しかし宿に戻ると、その女の異様な態度に合い、憂うつになった。
 それにしてもなぜだろう? 私はその女と以前に会ったことはなかった。それなのに彼女は私を見るなり私を気味悪がった。相手にそういう感情を起こさせる何かを私は持っているのだろうか? それは考えられなかった。ではなぜか? いくら考えてもわからなかった。旅の間中このことが頭にあり、心から楽しむことはできなかった。

 汽車で会うあの彼女に関しては何の進展もなかった。私はそれをどうすることも出来なかった。だから私は彼女から少し離れたところに席をとるようになっていた。
 列車が鵜住居に着いたとき、私は彼女がプラットホームを歩いて行くのを見ることができた。11月に入ると、日はぐんと短くなり、窓の外は暗くなった。気温も下がり、車窓が曇るようになった。その曇った車窓に駅の水銀灯によって、ホームを歩いて行く人たちの姿が影絵のように映った。私はそれらの中に彼女のシルエットを探した。『彼女だ!』あの髪型、顔、目。まつ毛まで映ったようだ。私は我を忘れて見入った。が、すぐに寂しさにおそわれた。

 

 

     第四章 入党・そして破局

 

 昭和40年(1965年)

 昭和40年の年が明けた。1月30日、田中君(職場の同期生)が私に話があるというので、仕事が終わってから彼の家へ行った。そこから彼は私を先輩の田中正幸さんの家へ連れて行った。
 彼らの目的は、私を共産党に入党させることだった。私はびっくりした。党の組織がこんなにも職場の末端にまで伸びていたなんて。私は恐さと感激の入り交じった気持で彼らの話を聞いた。入党申込書を渡されたが、私はその場では書き込まなかった。
 話が終ったのは夜10時頃だった。帰りの汽車はもう深夜の1時(夜勤者用の通勤列車)までなかった。私は田中君と町へ出、喫茶店に入って話をした。私は彼に、大槌の同盟は全く面白くないことを話した。
 私自身、いつかは入党しなければならないだろうと考えていた。だから入党することに、私は特に抵抗を感じなかった。町を歩いていて、仮に「おれは党員だ」と思ってみた。何ともいえない誇りに満たされた。ただ気になるのは両親だった。私が党員だと知ったら、彼らはどんなに驚き、心配するだろう。
 私が入党をすすめられるなんて全く予想できなかったし、また不思議であった。なぜなら、党の下部組織ともいうべき民主青年同盟で、私は彼らに相手にされていなかったから。私を推薦したのは田中君であった。彼にしてみれば、私が同盟に加盟してから一年になる。もう、一人前の活動家になっていると思ったのだろう。
 もし私が入党すれば、籍は大槌の党組織に属するようになるだろうという。私は嫌だった。同盟の幹部クラスは党員のようだ。大槌へ移ったら同盟と同じ顔ぶれでやらなければならない。彼らは私をまともに扱ってくれない。
 それかといって、職場の党組織に属し、釜石での会議に出席すると、帰りの汽車は、9時に乗れないと、次は深夜の1時になる。それは大変だ。
 この話があってから、一週間ほどした2月6日の朝、大槌駅のホームで同盟の幹部クラスが四人、私の方を見て何かささやきあい、微かに笑っていた。私は『また始まったか!』とうんざりした。私が近づくと彼らは離ればなれになり、すましていた。私が入党しようとしているのを知ってのことか?
 この日の昼、私は田中君に入党申込書を手渡した。党員になったと思うと、目に入るものすべてが新鮮に見えた。
 二日後の2月8日、田中君が私に、仕事が終ったら、できるだけ早く彼の家に来てほしいと言った。それで夕食もとらずに行った。5時頃だった。田中君のところで食事を出してくれた。
 それから我々は正幸さんのところへ行った。数人の男女がいた。どこかで見たことのある女性がいた。彼女は私に「大槌の沢舘さんだね」と話しかけた。彼女は私の姉を知っていた。
 彼らは私に、日本の社会情勢と、これからの私たちの任務について説いた。それから、今後私が釜石でやるのか、大槌でやるのかについて、私の意見を求められた。私は釜石でやることを希望した。日刊「赤旗」は大槌の党組織から配られることになった。最後に私は彼らと握手をして帰った。
 三日後、2月11日の帰り、大槌駅を出たところで、私は後ろから誰かに呼び止められた。花石さんだった。小さく折り畳んだ新聞を私に渡した。彼は小さな声で「日刊」と言った。この日、田中正幸さんから花石さんに電話があったという。途中まで花石さんと一緒に帰った。いつもの彼とは異なったものを感じた。壁が取り除かれたような、真の同志といった感じ。
「今月分の新聞代はどうなるの?」私はたずねた。
「今月分はいらない」彼は答えた。

 私はこれから共産党員として、きびしく充実した日々が展開していくものと思っていた。しかし現実は全く別の方向へ進んでいった。職場の党員たちとの間が、離れていくのを感じた。私に入党をすすめた田中君さえ、私と会っても白々しい顔をしていた。昼休み時間、隣に座って弁当を食べていても、彼は一言も言わなかった。
 こうして半月が過ぎた。とうとう私は田中君にたずねた。
「おれのほうはどうなっているの?」
 彼は困りきった顔をした。
「あとでマーちゃん(正幸さん)に聞いてみるから」彼は答えた。

 こうしてやっと私は学習会に出席するようになった。しかし、それまでの班は二つに分けられたようだ。私の班は、私を入れて四人だけだった。私は彼らが党員であるとをすでに知っていた。私は他の党員から隔離されたようで不快だった。
 入党してから一か月もすると、何か気抜けした。自分が党員であることにも誇りが持てなくなった。学習会に出席することも、『めんどうくさい』と感ずるようになった。
 その後、数か月間、私は彼らに教育された。テキストとして「共産党員の基礎知識」という本が使われた。私はその本をすでに読み終わっていた。その本にはわかり切ったことばかり書いてあった。私は会議には出席させられなかった。なんのことはない、彼らは間違って入党させた人間を、なんとかして党員のレベルまで引き上げようと努力していたのである。

 4月に入ると、また例の病気が気になりだした。朝、目覚めたとき、すでにそのことが頭にあった。どうしてそれが頭をもたげてくるのか理解できなかった。信頼できない医師であったが、彼は「もう良い」と言った。その後、私は健康な状態が続いていた。だから気にすることはないはずであった。私は何度も自分にそう言い聞かせた。私は一時的に納得した。しかしいつの間にか『まだ治っていないのでは?』という不安が湧き上がってきて、私の頭いっぱいに広がった。
 私はそのうち自殺するかもしれないと思い、恐ろしくなった。

 

   4月13日 火曜日

 今日はストライキだった。集会に参加するために、いつもより一列車遅い二番の汽車で釜石へ行った。
(山田線には通勤、通学者のために、朝二本の汽車が釜石へ向かっていた。早いほうを一番、遅いほうを二番と呼んでいた)。
 釜石駅で、彼女が私のすぐ横を歩いているのに気がついた。彼女は二番で通っているのだろう。
 ストライキ集会場で私は独りぼっちだった。田中君や教習所での同期生たちが少し離れたところで輪になり、楽しそうに話していた。私はみんなから取り残されているように感じ、気分が滅入った。でも、私は彼らに加わることはできなかった。最近、私は例のことですっかり気持が暗くなっていた。私は彼らに同調できないことを知っていた。
 私は楽しそうに話している田中君に憎しみを感じた。しかし、彼に対してそのような感情を抱くのは間違っていることを私自身わかっていた。
 デモ行進の後、我々は解散した。田中君たちは川原の方へ行った。私は帰りのバスを待った。私はそこで大槌の定夫さんと会った。私はほっとした。しかし、バスが釜石駅に着くと、彼は私を避けるようにどこかへ姿を消した。
 駅の待合室で、私はまた彼女を見かけた。私はさらに気分が滅入った。こんな私でなければ、彼女に近づくことも出来ただろう。
 家へ帰った後、私は独りきりになりたかった。昼飯を急いで食べ、二階へ上がった。部屋には陽が差し込んでいて暖かかった。群集の中で私は孤独に苦しめられた。しかし、部屋で独りになったとき、気分はかなり和らいだ。
 ふとんの上に横になり、今日の暗い気分を整理しようとした。が、できなかった。何も考えずにただ横になっていたかった。デモ行進で疲れたのか、そのまま眠ってしまった。

   4月19日 月曜日 小雨

 夕べ母から、私に縁談があったと聞いてびっくりした。室浜の稲子おばさんからの話だという。相手の女性はおばさんの主人の姪で、釜石の楽器店に勤めているという。
 私はこの話を聞いたとき、その女性はあの彼女ではないかとぴんときた。彼女らが利用する駅も同じだ。私は彼女らが間違いなく同一人物であると思った。もし私が普通の人間だったら、これはどんなにすばらしいことだったろう。

   4月20日 火曜日 曇

 今晩、班総会があった。その席で、私は今までに受けたことのないような侮辱、ショックを受けた。詳しくは書く気がしない。
(このとき私は露骨に精神異常者扱いされたように思う)

   4月21日 水曜日

 夕べ、頭ががんがんして遅くまで眠れなかった。彼らがどうしてあんな態度をとったのか不可解だ。泣くにも泣けない。今日も一日中、そのことで頭がいっぱいだった。がまんできなくなり、田中君に相談することにした。彼の家へ行った。彼に話してしまったら、少し心が軽くなった。彼は同盟をやめるべきでないと私に言った。しかし、私はもう同盟に残る気になれなかった。田中君はあとで三浦に話してみると言った。最悪の場合、釜石へ転籍することを私に勧めた。

 

 この日記が書かれてから、26年たった平成3年9月現在、この日記を原稿用紙に写しながら考えた。私に縁談があった。私がそれを受け入れたなら、私は幸福になったろう。しかし、私の幸福を望まない者たちが存在したかもしれない。彼等は同盟や党の仲間を利用して、私に大打撃を加えたのではないか? そして、私に縁談があったことをその者たちに告げたのは、私の父ではなかったのか?

 4月22日、朝、駅前で三浦がビラを配っていた。私が近づくと、彼はそれまで私に見せたことのないような笑顔で、「おはよう」と挨拶した。私は自分の顔がゆがむのを感じた。夜になると山崎が来て、私にガリきり(謄写印刷)の仕事を頼んで行った。あんなことをしておいて、よく来られたものだ。
 4月25日の朝、ホームで汽車を待っていると、花石が改札口を通らず、道路から直接構内に入り、線路を横切ってやって来た。私を見ると、彼は少しの邪心も抱いていない人間のような笑いを浮かべ、ホームの下から私に手を差し伸ばした。『畜生!』と思ったが引っぱり上げてやった。
 汽車がホームに入って来た。乗車口に客が寄って来た。ふだん私には話しかけない鈴木さん(大槌の同盟・党の最高幹部)までが、
「エッコ、元気だが?」
 と、持ち前の低い声で問いかけ、にやにやした。
 車内で、私が三浦のわきを通り過ぎようとすると、彼は手の平で顔を覆い、声を立てて笑った。
 朝、こんなことがあると、その日一日が狂った。職場でみんなにおかしく思われた。それを私が意識すると、ますますぎこちなくなった。その繰り返しで、どんどん落ち込んでいった。家へ帰れば、家族まで私を変な目で見、笑った。
 この世に、安心して自分の身を置ける場所がなくなる感じ。すごい不安。
 4月27日、三浦と花石に抗議することを決心し、二人に話がある旨を告げた。夜、花石宅で話すことになった。

 私は彼らに、私に対する彼らの行為を抗議した。抗議しているうちに涙がこみ上げてきた。ところが彼らは、口をそろえて、それらはすべて私の思い過ごしだと言った。彼らは私を特殊な目で見たり、笑ったりしたことはないと言った。私は具体的な例をあげた。半年ほどまえ、例の、異なった会議場所を私に告げたときのことを。私は彼らが狼狽するのを見た。しかし彼らはそれでも、私の思い過ごしだと主張した。彼らの態度は真剣だった。とても嘘を言っているようには見えなかった。
 
『やっぱりおれの気のせいだったのだろうか?』それまで張りつめていた力が抜けるのを感じた。思い過ごし、つまり妄想だとすると、それこそ精神異常である。しかし私は自分の感覚をすべて否定することはできなかった。この目で見、耳で聞いたことには確かな手応えがあった。

 抗議の後、彼らの態度は改まった。が、以前とは別の壁ができたように感じた。彼らは私を敬遠し、何かを探るような目で見ていた。
 花石は日刊「赤旗」を四、五日分ずつ、溜めて渡すようになった。しゃくにさわったので、私が毎日、取りに行くと彼に告げた。しかし彼は「来なくていい」と答えた。彼にすれば、私などそれを読んでもしようがないと考えていたのかもしれない。

 一方、職場の党組織のほうは、私に対して良い方向へ向かっていた。
 6月19日、初めて会議らしいものに出席させられた。それまでは岩渕さん、ヤスさん、田中君という顔ぶれだったが、この夜から新しい顔ぶれが加わった。もともと彼らは一緒にやっていたメンバーであったようだ。正幸さんが私を信用できないために、二つに分けたものらしい。後で岩渕さんたちがそのような正幸さんを批判しているのを聞いたことがあった。
 その夜、初めて、私は彼らの素晴らしい同志愛にふれた。もし、悩みさえなかったらどんなに素晴らしい気分だったろう。ただ、正幸さんだけは依然として私を大槌へ移したがっていた。
 その会議の議題は次の選挙についてだった。我々は票集めに戸別訪問をすることになった。が、私は週に二日だけその活動に加わり、他の日は選挙について独習する任務が与えられた。そして私は独習によって得た内容を、後日彼らに報告するとことになった。
 しかし選挙活動において、私は何もできなかった。仲間の党員と一緒にある家を訪ねても、私はそのそばで唖のように黙っていた。こんな私に彼らは失望したようであった。
 6月29日の夜、活動は早めに切り上げられ、総括に入った。その場で私は、学習の成果を報告することになった。だが私は何をどのように報告すればいいのかわからなかった。何かを格好よくまとめて話すということは私にはできなかった。だが誰も笑わず、暖かく私を見守った。
「サワちやん、がんばっぺす!」
 岩渕さんはそう言って私を励ました。私はそれまで、そのような同志愛を感じたことはなかった。大槌で私はみんなに笑われ、早くいえば、人間扱いされないできた。それだけに『これはいつまで続くものだろう?』と不安になった。
 二日後の7月1日、私は活動に加わることになっていた。朝、岩渕さんが私に「今日もな」と言った。しかしその後、集会場所、時刻の連絡がなかった。連絡されなければ行く必要はないのだが、「今日もな」と言われていたので迷った。それで田中君にたずねた。彼は少しつまった後、「行がねばならないべな」と煮えきらない返事をした。とにかく田中君の家に5時45分までに行くことになった。
 田中君の家から、ある家へ案内された。それは党組織の少し高い地位にある人の家らしかった。他のメンバーもそこへやって来た。活動に出るまえに、私のことについていろいろ話し合われた。岩渕さんが、
「たいした学習しているという話だが嘘だ。まだまだ足りない。電気か何かのことは少し勉強しているかもしれねえが」
 と言った。初め私は、自分のことを言われているとは思わなかった。が、すぐにハッとした。
 この夜、我々は上中島社宅を回ることになっていた。しかし、7時を過ぎても誰も立とうとしなかった。私はその場の雰囲気から、状況を理解した。そのうち彼らの一人が立ち上がって言った。
「今晩は一人ずつな」
 みんなその家からばらばらになって出た。私は駅へ向かった。来るべきものが来たと感じた。このような活動から一切、手を引こうかと考えた。
 数日後、岩渕さんが小さなかばんを私に渡した。二、三週間預かってくれと言った。選挙関係の書類が入っているので、彼の家に置くと具合が悪いとのことだった。このとき私は、『試されている』と直感した。私はこのかばんのファスナーすら開けなかった。

 

   7月13日 火曜日 曇のち晴

 一体、おれはどうなるのだろう。これからのことを考えると気が狂ってしまいそうだ。すべてが過去の暗い思い出につながっていく。
 それにしてもこの悩みさえなかったら、こんな性格に生まれていなかったら、と、どうしようもないことを考える。私は青春を実感できない。私は心から笑うことがない。
 だが私はこの悩みを取り除くことができるはずだ。この悩みを解決しないかぎり、私はいつまでたっても同じことの繰り返しになるだろう。しかし、この件で病院を訪ねるのは容易ではない。
 時々私は、どうしてこんなくだらないことに悩むのだろうと不思議になる。 しかし、「治った」という確信を持たされないまま、医師に突き離された。そのことがいつのまにかうごめきだし、頭いっぱいに広がる。
 今年は冷害で、それを苦にした農民が自殺したという記事を私は新聞でしばしば見る。私はそれを見るたびに不思議に思った。私は子供の頃から一つのことを悩み続けてきたのに、どうして気が狂わなかったのだろう? そこにどんな力が隠されているのか?

 

 ある日、岩渕さんが私に言った。
「おまえがそんな状態でいるのは、何か悩みがあるからではないのか? おれもむかし悩んだことがあるからわかる。悩みがあるなら話してくれ」
 しかし私は言い出せなかった。
 私が彼らの足手まといになっている間に、私の後から入党した党員達が私を追い越して行った。私はもう、党も同盟もやめてしまおうかと考えた。だが、決心がつかなかった。党をやめることは脱落を意味した。また私は彼らから駄目な人間とみられるだろう。『いっそ死んでしまったら』という考えが、ふっと入り込んでくるようになった。恐ろしくなった。

 7月7日、母がまた私に縁談の話をした。二か月近くまえに話されたのと同じものであった。相手の女性は、汽車で見かける彼女と同一人物ではないかと思っていたものであった。その彼女は、私に最初に縁談の話があった頃から次第に姿を見せなくなった。彼女が見えなくなったことを、私はほっとした気持と、寂しさの入り交じった気持で受けとめていた。彼女が私の前に姿を見せなくなったことと、私への縁談とは何か関係があるように思えてならなかった。
 再び出されたその縁談を私が断ったかどうかは、その日の日記からは不明である。以下はその日の日記の一部である。

 「結婚の話が出るたびに、おれは気が狂ってしまいそうになる。なんだっておれはこんな人間に生まれてきたのだろう。楽しいはずの青春ではないか。」

 これからどうなるのか? 生涯真っ暗か。そしたら気が狂ってしまうだろう。いっそ気が狂って、一切のことが終ってくれればいい。同志は悩みがあったら打ち明けろと言うが、おれにはできない。このままではだめだが、どうしたらいいかわからない。自分の呪われた性格を恨み、こんなおれをこの世に出したものを憎むしかない。

 

   9月2日 木曜日 曇

 どうにでもなるようになれ!
 悩みも、党も、どうでもいい。
 苦しめば苦しむほど滑稽になってくる。
 夕べ田中は「気の病だ」などと抜かして行った。
 職場で彼らと顔を合わすのはもう嫌だ。
 遠くへ、誰もいない、おれ独りだけで、何も考えなくてもいいとろへ行きたい。

  

 


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