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(第一編)

        第五章 (父への嫌悪)   第六章 (精神病院へ)   第七章 (夜明け) 予感!

     第五章 父への嫌悪

 

 昭和40年(1965年)

 私は自分の嫌な性格は、みな父からきているように思えた。だから父に対して嫌悪を感じていた。父も私に対して、かなり根の深い、良くない感情を抱いていたようだ。この父が私に対して、異常なほど世話をやいた。
 朝、私が顔を洗おうとすると、父がさっと洗面器に湯をくみ、タオルを持って来る。靴はピカピカに磨きあげ、履きやすいようにそろえ、さらに靴べらを取りやすいように、その角度にまで気を使って置く。何をするにも父が私にまつわりつき、私のやることに先回りして干渉する。私はイライラし、大声で叫びだしたくなることもあった。
 父が異常なほど世話をやいたのは私に対してだけだった。姉や弟に対してはそれほどではなかった。なぜだろう? 父の心の内部には、すでに親が子に対して持ってはならない感情が芽生えていたのではないのか。父はその感情を打ち消そうとするように、私に世話をやいたのではないのか。

 私が勤めだして数年たったある日の朝、私は身支度をしていた。姉が編んでくれたカーディガン、茶色の地に、細かい白と黒の点々が入った、とても私の気にいったものだった。それを白いワイシャツの上に着た。清楚な感じがとてもよかった。私は自分の服装をながめまわし満足していた。その時、裏庭からガラス越しに、父がじっと私を見つめていた。その表情を見て私はびっくりした。それは父が子に見せる表情ではなかった。男が男に見せる表情であった。他の男がいい格好をするのを面白くなく思う、それであった。非難、さげすみ、ねたみといった感情が入り交じった表情であった。視線がまともに合った後も、父はその表情を崩さなかった。私は戸惑い、視線をそらした。『この父はどういう人間なんだろう?』とても信じられないことだった。

 そんなことがあってから、私がまだ小学生だった頃のことが思い出された。
 冬のある朝、母に起こされ、居間へ連れて行かれた。見知らぬお姉さんが来ていた。小さな外套を持って来ていた。母が大人用の外套をつぶして、私に外套を作ってくれたのだ。その朝まで私は外套の話を聞いていなかった。体の寸法も計られたことがなかった。その外套は私の体にピッタリだった。私はすっかりそれが気にいり、私の自慢だった。ところがあるときから、母はそれを私に着せるのをぴたりとやめてしまった。その後、私は二度とその外套を見ることはなかった。私はこの外套を、ほんの数えるほどしか着せてもらえなかった。
 後で、あの外套は、父の指示で母が処分してしまったのではないかと考えるようになった。また、教習所に通っていた頃、兄からもらったナイロン製の半袖シャツがあった。それは独特な生地で作られ、それと同じシャツを他で見たことがなかった。それも私がとても気にいり、大事に着ていた。このシャツもあるとき見えなくなり、どこを探しても出てこなかった。

 

   7月17日 土曜日 雨

 おれが苦しみ、悩み、元気がなくなるのを、父は平気でいるどころか、心の底でうすら笑い、楽しんでいるようにさえ思われる。これはおれの思い過ごしではない。最近、父と一緒にいると、むかついてくる。あの目を見ると、ぞっとすることがある。実の父をこのような目で見るのは異常であることはわかるが、どうにもならない。

 

 こんな私でも、いつも父を嫌悪の目で見ていたわけではない。
 ある夜、父と私だけが居間に残っていた。父が引出しを開け、何かを探していた。そのうちその引出しが抜け落ち、大きな音を立てた。『何をしているんだ!』私は険しい顔で父と、落ちた引出しを睨んだ。そのとき突然、私がそれまで父に対してとってきた態度が思い返された。父に対してすまなくもあり、かわいそうにもなった。
 私がこの世に、こんな人間として生まれたのを父のせいにして父を憎んできた。が、父だって、望んでこの世に出てきたわけでない。父もそれなりに苦しんだかもしれない。
 今、こんな態度をとっていて、父が死んだとき、自分のこのような態度を後悔して涙を流すかもしれない。これからは態度を改めようと思った。しかし、父と接すると、つい、いつもと同じ態度しかとれなかった。

 9月5日、日曜日、党の地区会議に岩渕さんと二人で参加した。本来、一つの班から一人だけ参加するのだが、岩渕さんが私も参加できるようにしたらしい。そのような場へ私を連れ出したら、私が変るとでも思ったのか。
 彼と二人で過ごすこの機を利用し、私は彼に悩みを打ち明ける決心をした。しかし、口頭で説明するのはむずかしいし、次元の低いもので終ってしまいそうだった。私は日記を持って行って見せることにした。読んでもらうところには赤鉛筆で印を付けておいた。
 午前の部が終り、弁当を食べ終ったところで彼は言った。
「おまえの問題というのを聞かせてくれないか」
 私は日記帳を出して見せた。彼が読んでいる間の三十分が二時間ぐらいに感じられた。読み終ると彼は言った。
「サワちゃんがこの問題を打ち明けたのが、他の人間ではなく、このおれでよがったぞ。この問題には必ず応える。一緒に解決しよう。このごどは誰にも一切話さない」
 私はうれしさから泣きだしそうになった。同時に、彼が後でその考えを変えはしまいかと心配になった。
 午後の部も終り、会場を後にした。食堂に入り、ラーメンを食べながら彼は言った。
「おれは、こうやれ、ああやれとは言わないから、おまえのほうから、こういうわけで、この点で協力してくれと言え。初めから人を頼らないで、独力で解決しろ。それでだめだったらおれが手伝う。おれが病院へ行って話してやることはひとつも苦ではない」
 これを聞いて私は、彼が逃げているのではないかと感じた。自分一人ではどうにもならないから、恥を忍んで打ち明けたのではないか。
 駅前で別れるとき、しばらく立ち話をした。彼は私に尋ねた。
「本当のことを聞くが、おまえは安い女を買ったことはなかったのか?」
 これはショックだった。私がそんなことをする可能性のある人間に見えただろうか? 最後に彼は、
「身体の一部の病気の悩みのために、他の面、党生活、精神生活までだめにしてはいけない。思いきって医者に話してみることだ」
 そう言って私の手を握って別れた。

 翌日の9月6日、月曜日、同盟の班委員会があった。そこへ釜石から地区委員長がやって来て出席した。前日、岩渕さんに打ち明けたことが、もう大槌に伝わっているのが感じられた。
 さらに二日後、職場で後輩の宮田君が私に尋ねた。
「岩渕さんとまだ話したことない?」
『こいつも知っているな』と私は思った。逆に私は彼に尋ねた。
「岩渕さん、何か話さなかった?」
 すると彼は、岩渕さんは私のことを、「物事をつきつめて考えている。みんなを的確に見ている。やりだしたら素晴らしいだろう」と言ったという。私の問題(悩み)は「気持からのことだ」と言ったという。どうも岩渕さんはみんなに話してしまったようだ。

 私はもう一度病院を訪ねる決心をした。しかし製鉄所病院へは、もう行く気になれなかった。またあの嫌な医師に会うことだけは避けたかった。
 市民病院に行くつもりで、何日か休んだが実行できなかった。病院の玄関まで行ったのだが、泌尿器科はおろか皮膚科すらなかった。受付の若い女を見たら、とても「泌尿器科はないんですか」などとは聞けなかった。
 岩渕さんは時々私に、「病院に行ってみたか?」と尋ねることがあった。

 

   9月18日 土曜日

 昨日、岩渕さんと話した。そのときの彼の様子から、今度こそ本当に党をやめようと決心した。
 これまでの私の恥さらしな行動をかえりみ、またこれからも恥をさらしていくかと思うと、これ以上やっていく気になれなかった。本来なら、ずっと以前にやめてしまっているべきなのだ。
 岩渕さんはおれに会うたびに、ニヤリと笑うようになった。これは、おれと彼との関係が、別の段階に移ったことを意味する。党をやめる決心をした大きな原因は、最近の彼の態度であるかもしれない。彼のような笑い方は、おれにはひどくこたえる。
 以前、党をやめることを考えると、その後に来るのは、墜落と自暴自棄しかないように思えた。しかし今、そうは感じなくなった。もともと、おれのような性格の人間には、このようなことは向かないのだ。やめてしまって、自分の好きな生き方をしようと思う。絵を専門的に学び、読みたい本をかたっぱしから読み、音楽も心ゆくまで聴きたい。
 そういう生き方をしようと考えるとき、いつもあの、ミケランジェロやチャイコフスキーのことを考える。そこに自分と共通したものを見出し、力づけられる。
 会議の連絡は二か月近くない。連絡されても、もう行かない。

 

   9月22日 水曜日

 党をやめるということが、何か「英雄的」な行為でもあるように思えることがある。そこにはまた、「悲しい快感」といったものもある。
 岩渕さんはおれを見ると、ニヤニヤする。田中君はおかしな目つきでおれを見ている。ヤスさんは全然口をきかない。
 私は党をもっと以前にやめるべきだった。党にも、同盟にも、何でこれまでしがみついていたのか、不思議になる。

   10月2日 土曜日

 党をやめることを宣言した。
 朝、ロッカーの前で着替えをしていたヤスさんに、
「おれ、やめるから」と力なく告げた。
 彼は一瞬まじめな顔になり、それから微かに笑いながら言った。
「なぁして‥‥、話し合ってみっぺすよ」
 やめることを告げてしまったら、気持が軽くなった。悲しいが、明るい気分だった。
 仕事をしていると、岩渕が、
「おはやんす!」
 と、わざとらしい大声で挨拶して行った。顔を上げて見ると、彼はこのうえない楽しそうな表情をしていた。
 入党して八か月しかたっていなかった。
 昼休み時間、職場(支部)から組合の大会への代議員を選出することになっていた。おれは休息所で長椅子に横になって休んでいた。1時近くになって、誰かに起こされた。岩渕だった。「投票だ」と言う。いない人間は棄権扱いにすればいいではないかと思いながら、作業場へ降りて行った。
 岩渕も立候補していた。投票に入るまえに彼は情勢を分析し、競争相手と票が同数になることがわかったのだろう。それでおれを呼びに来たらしい。
 岩渕は一票差で及川さん(私の上司)に勝った。
 夜、みんなが寝てから、レコードを静かにかけて聴いた。「白鳥の湖」第二幕の「情景」を聴いていると涙がこみ上げた。チャイコフスキーの音楽は、そのまま、おれの心を表わしているようだった。

 

 党をやめた後、同盟に残っている理由はなかった。三浦に「同盟をやめるから」と告げた。党のことも話した。それ以来、彼は私に話しかけなくなった。
 部屋を片づけ、党や同盟関係の新聞や、本の切り抜き、論文などを整理した。これまで、どうしても捨てられなかったものが、何の用もないもののように感じられた。それらの大半を捨てた。それまで私を覆っていた、古い殻を取り去るような思いで。

 

   10月11日 月曜日

 もし何年か後に、これらの苦しみ、悩みをかえりみることができたら、こうして苦しんだことがどんなに滑稽に見えるだろう。もし、今よりも苦しみから開放されていれば。

 

 このころ、私は職場で人とあまり口をきかなくなっていた。私が人と口をきかなくなるのは、ノイローゼの症状が強くなったときなのだが、このときのそれは様子が違っていた。それはかつて経験したことのないものだった。
 ノイローゼになろうとする力と、それを持ちこたえようとする力とがつり合っているといった感じ。張りつめた弦。少しでも力を抜くと、たちまち絶望のどん底に落ち込みそう。
 ちょっとしたことでこのバランスが崩れそうになることがあった。
 朝、職場の近くの路上で、誰かが私を追い越しながら、しきりに私をじろり、じろりと見る者がいた。見ると、それは党員で「ミッちゃん」と呼ばれていた事務員であった。彼は無表情のまま私を見ていた。私は彼から視線をそらしながら、
「おはようございます」
 と言った。向こうも挨拶するものと思っていたら、そのままスタスタ先へ行ってしまった。かなりショックだった。職場へ着いてからもすっかりバランスを崩し、いつものノイローゼの状態におちいった。ちょっとした事件が、こんなにも急激に精神状態を変えうるものかと不思議になった。昼頃になってやっと以前の状態をとり戻すことができた。

 職場では、敵(会社)とも、味方(党員ら)ともたたかわねばならなかった。孤独で苦しかった。
 自分が置かれている状況と、それに対する私の感情は、正常ではないことはわかっていた。しかしその苦しみに負けないように踏ん張っているのが精一杯だった。自分の立場を深く分析し、解決の方向にもっていくことはできなかった。そしてただ、いつかは彼ら(党員ら)が折れて出るだろうと思い、それを待っていた。
 私は彼らに苦しめられなければならないようなことを、彼らに対してやった覚えはなかった。それなのにこんなにまで苦しめられる。間違っているのは私ではなく、彼らのほうである。だから、いつかは彼らが彼らの過ちを認め、反省し、私に謝るようになるだろうと信じて疑わなかった。
 こうした混沌の中で、夜、独りでいるときなど、自分という人間は、ごくあたりまえの人間に感じられることがあった。それなのにどうしてみんなとうまくいかないのだろう? 不思議であった。

 

   11月1日、 月曜日

 夕べ、おれはこれからどうなるのだろうと暗い気持になった。
 彼ら(党員)とは、他人よりも、ずっと離れてしまったように感ずる。岩渕はこのごろ、笑うことこそしないが、それ以上に悪い。
 一体、すべてが終ったのだろうか? もう彼らと一緒にやる可能性はないのだろうか?
 二階へ上がり、独りになるなり泣いてしまった。

 今「アンナ・カレーニナ」の最後のほうを読んでいる。第七篇の後半からのアンナの心理描写はすごみを帯びてきた。これがトルストイだろうか? 「戦争と平和」や「復活」にはなかったものを感ずる。アンナの深い心理描写は、ドストエフスキーを思わせるものがある。
 アンナとヴロンスキーの心理状態を、おれは、今のおれと党員らとの関係に合わせて読んでいった。だいぶ得るところがあった。
 アンナの恐ろしい苦しみ。今のおれと全く同じといっていいほどの心理状態。だがそれは死にゆく者の心理状態である。
 それにしても、これほどの心理描写ができたということは、トルストイ自身、同等の苦しみを経験していなければならない。

   11月2日 火曜日

 今日はおれの誕生日なのだが、変ったことはなかった。母は忘れているのだろう。おれにしても、みんなに気をつかわれるよりは、忘れられていたほうが気楽だ。23歳になった。
 夜、弟と二人で、ウィスキーとぶどう酒を買ってきて飲み、日頃の苦しみをあるていど忘れることができ、楽しい気分になった。

   11月4日 木曜日

 今朝、どうしても起きる気になれず、休んだ。昨日は文化の日で休みだったが、描きかけの油絵もやる気になれず、絶望感にとりつかれていた。
 夕べ、電灯を消してふとんに入っていると、党のこと、同盟のこと、その他のことが一度に襲ってきて、泣きだしたくなった。思う存分泣けば気持が楽になるように思われたが、いくら泣こうとしても涙が出てこなかった。
 こんな恐ろしいことは、早く眠って忘れようと焦った。
 今朝、さすがに気分が重かった。父や母にいくら起こされても、どうしても起きて働きに行く気になれなかった。時計を見ると、もう6時40分を過ぎていた。今から起きてももう遅い。休むことにした。
 そのまま、うつら、うつらしていて、完全に目が覚めたのは11時過ぎだった。よく眠ったせいか、気分はかなりよくなっていた。枕許には、おれが会社に持って行くはずだった弁当が、新聞紙に包んで置いてあった。母が置いて行ったのを夢のように覚えている。
 気分はそんなに暗くはなかったが、すごく寂しかった。外は秋晴れで、山々は紅葉していた。日差しは部屋いっぱいに差し込んでいた。
 午後から油絵をやった。やる気がなくても、やりだしたらいくらか気持が紛れた。でも、今後しばらくは描くことはないだろうと思い、パレットをきれいに掃除しておいた。

 

 体重を計ったら、55キロしかなかった。二年ほどまえは65キロあった。10キロもやせた。
 11月12日、昼休み時間、ロッカーのところへ行くと、ヤスさんが独り、ロッカーの前の椅子に座っていた。なぜか寂しそうだった。彼は私の方へやって来て言った。
「今晩、都合いいが? 今晩、針生さんのどごでやるから」
 これを他の誰かから言われたのなら、口実をつくって断るのだが、そんな気持は起こらなかった。党をやめることをはっきりさせるためにも行くことにした。
 私は会議場所の針生さんの家を知らなかった。彼は組合の執行委員をやっていたので、顔は知っていた。ヤスさんから、その家までの道順を教えてもらった。
 しかし、教えられた家は別人の家だった。やっと探し当てた。部屋にヤスさんが一人でいた。約束の5時をかなり過ぎていたのに。
 私は、彼がどうして異なった家を私に教えたのかを問いたださなかった。彼が故意にそうしたのを私は直感していたから。
 いつまで待っても誰も来なかった。ヤスさんは口をきかず、火鉢に手をかざしているだけ。誰か来るのを待っている様子は初めからなかった。私は何かのために試されたのを感じた。
「誰も来そうがないから帰る」私は言った。
「そうが?」彼は答えた。
 どうしようもない不安と怒りで私の心は震えた。

 二週間後、私は党をはっきりやめることにした。
 同盟のほうは、「やめる」と告げたものの、ずるずる続いていた。分班長や、学習、及び財政の担当者にもなっていた。三浦の態度はかなり改まっていた。ただ、会議で若い女の同盟員に変な笑い方をされるのは、とてもこたえた。

 

   11月18日 木曜日

 おれは歳をとった自分を想像することができない。そこまで行くまえに、生命の線がどこかで切れている。

   11月19日 金曜日

 今、零時五分である。少しでも気をゆるめると涙が出てくる。
 上の一行を書いたら、涙がせきを切ったようにあふれ出た。しばらくの間泣いた。鼻が急につまり、すすり上げると、忘れかけていた、あの鼻にジーンとくる、甘ずっぱい感じが、子供の頃よく泣いたのを思い出させた。
 泣いたら気分がずっと軽くなった。

   11月20日 土曜日

 気持が悪いほど暖かい日だった。
 今晩も母は向かいの魚屋へ行って、遅くまでいわしの「穂通し」をやっている。思いきり酒を飲んでみたかったが、母が数百円の金を得るために、夜遅くまで土間に座って作業をしているのを見ると、どうしても酒に母の一日分の金を投げ込めなかった。
 それにしてもこの苦しみはどうしたものだろう。
 夕飯を食べ、二階へ上がり、マンドリンをかき鳴らしているうちに頭が重くなり、横になると眠ってしまった。一時間ほど眠ったらしい。そのときの目の覚めようといったら、泥沼の底から浮かび上がってきたようだった。苦悩が一塊になって、心深く食い入っていた。眠っている間も、苦悩はつきまとっているのだろうか。
 ここ数日で、シラーの「群盗」の二度目を読み終えた。そのまえの「若きウェルテルの悩み」では涙を流さなかったが、「群盗」では流した。以前読んだときは、それほど感じなかったが、その文章のもつ詩のような響き、簡潔さに一驚した。

   11月22日 月曜日

 今日はなんという日だったろう。
 誰も彼も、おれをおかしな目で見ているような気がした。
 神経がすっかり参ってしまったようだ。
 これまで持ちこたえてきた、あの力はどこへ行ったのだろう。
 すべてが終ったような感じ。
 絶望の中を、何のあてもなくさまよっている。
 孤独だ、愛情がほしい。
 うわべを見て彼らは笑う。
 だが、おれのこの苦しみ、悩ましさ、
 無限の寂しさ、悲しみ、
 誰がこれを知ろう。
 生命と一体になって存在する苦悩。
 いったいどうすればいいのだ。
 解決する方法はある。
 が、それはあまりに恐ろしい。
 だが、こんな苦悩の中で、突如としてひらめく、むせぶような喜び、限りない希望。
 いったいこれはなんだろう。

   12月24日 金曜日

 おれが典型的な精神分裂病者であることがわかった。
 月曜日、ふと「あの本」(何の本か不明)を見てショックを受けた。まさかと思いながら全部読んでしまった。読み進むにつれ、恐れていたものが間違いのないものになっていった。
 精神分裂病 ─ 以前この病名を聞いただけでゾッとしたのに、今はそれが自分のものになった。それだけにもう、これまでのように、普通の人間になろうという気はしなくなった。こんなにはっきりしてしまっては、残された道は、生か死かだけである。死はどんなことがあっても選びたくない。生を選べば苦悩の連続だ。生命のあるかぎりつきまとう。
 これまでは、精神病院の門をくぐるくらいなら死んだほうがましだと考えていた。しかし生を選べば精神病院のやっかいにならなければならないようだ。そうなったら会社をやめよう。みんなに変な目で見られながら働くことはとてもできない。
 おれはこれからの一生をどのように生きていったらいいのかわからなくなった。「あの本」を読むまでは、芸術に生きようと決心していた。しかし、その夢はみごとに崩れてしまった。だが生きていくとすれば、芸術なしにはとてもやっていけそうもない。
 結婚する気はない。おれのような人間のために、一人の女性の大事な一生をぶち壊したくない。それにまた、生まれてくる子供に、おれのような苦しみはさせたくない。
 このごろ、疲れているせいか、不思議な、恐ろしい夢をよく見る。恐ろしさのあまり、全身ぶるぶるっと震えて目が覚めることがある。

 

 私がまだ小学生の小さな子供の頃、家はまだ建て直すまえの古い家で暮らしていた。季節は秋だったと思う。私は裏庭に面した部屋で、両親と一緒に寝ていた。私は庭側の障子のそばで寝ていた。
 夜中、ふと目が覚めた。私は真っ暗なところで寝るのが嫌だったので、夜中もずっと電灯をつけさせていた。ところが、目が覚めたとき、その電灯が消えていた。月の光が障子に差し込んでいて明かるかった。
 そのとき、誰かが私の名を抑揚のない調子で呼んだ。
「エーボー、エーボー」
 それは庭に方からであった。見ると、障子に人影が映っていた。丸い坊主頭の子供の影が、月の光でくっきり映し出されていた。両手を上げて、障子を引っ掻くようなしぐさをしながら、さらに、
「エーボー、エーボー」と呼んだ。
 私はふとんから顔だけ出してそれに見入り、身体を固くしていた。やがて「ツン」という微かな音とともに、天井の裸電球が点灯した。あかりがつくと同時に、その影は私の足元の方へスッと飛んで消えた。私はしばらくすくんでいたが、恐る恐る頭をもたげ、足元の方を見た。何もなかった。ただ、親が信仰している日蓮宗の祭壇があるだけだった。私は恐くなってシクシク泣きだした。すると両親が目を覚ました。私は今のことを話した。両親は、私が夢を見たのだと言って笑った。障子に映ったのは、庭のとろろ芋のつるだろうと言った。
 親が何と言おうと、私は決して夢ではなかったという確信があった。
 夢ではなかった。しかしそれは現実にはありえないことだ。この現象をどのように理解すればいいのかわからないまま、ずっと記憶に残った。自分が精神分裂病ではないかと思ったとき、私は子供の頃のこの体験を思い出した。そして考えた。『あれは病気のせいだったんだ。すでに病気の兆候が子供の頃から現れていたのだ』と。

 それまでは、家族らにおかしな目で見られるのが、たまらなくこたえが、これは病気なんだと知ってからは、そのように見られるのがあたりまえのことのように思えた。病気なら私にだけ責任があるわけではない。病気と知ると、他人とうまくやっていこうと努力する気もなくなった。それまでの努力が滑稽にすら思えた。
 このような私になついてくるのは、兄や、姉の無邪気な子供たちだけだった。

 精神分裂病について、後で少し落ち着いて読んでみた。もしかすると私の症状は別のもの、ただの神経症か、あるいは性格が分裂質であるというだけのことかもしれないと考えるようになった。
 しかし、依然として人間社会に融和できなかった。私が生きていくために必要な、まわりの空間が次第にせばめられ、身動きできなくなっていくのを感じた。
 汽車の中で、同じところに一週間も乗ると、まわりの人たちからおかしな目で見られた。若い女は私を見ると、まるで気味悪い道化師でも見たかのように笑った。時々、この世に女なんていなかったら、どんなに住みよいだろうと考えた。

 昭和41年の年が明けた。
 元日の朝、新しい気持も、希望もなかった。食卓につくまえに、みんな神仏を拝んだ。兄さえ誰にも言われずに拝んだ。私も拝みたかった。そうすることによって彼らの仲間入りができ、この暗い気持から抜け出せるような気がした。しかし、どうしてもできなかった。てれくさかった。同盟に入った頃から、私は神の存在を否定するようになった。そのせいか、母も私には「拝め」と言わなくなった。寂しかった。

  昭和41年(1966年)

   1月16日 日曜日 

 今おれは、自分が、ぼんやりと何かに包まれていて、大体どういう立場に立たされているかを知っている。だが、今後どうすればいいのかわからない。
 いつかは、はっきりとした大きな壁に立ち向かわなければならない、ということだけはわかる。だが、それがどういう種類のものかわからない。

  (2009.12.31 追加)

(私は昭和44年から退職までの1年間、会社の寮に入っていた。その間、私は日記帳を段ボール箱に入れて寮の部屋の机の下に置いていた。当時、私は何者かが私の部屋に入り、調べていることを感じていた。うじ虫がこの日記を読んだなら『放っておけない!』と思ったろう。
 私は会社で仕事をしていて、作業長の様子から、『今、寮のおれの部屋に誰かが入っているな』と感ずることがあった。)

 

2月2日、日曜日の明け方、手の平がむずがゆいので目が覚めた。手首のあたりが腫れていた。身体にも赤い斑点ができていた。掻くと後から後から腫れ上がった。
 そういえば昨日、会社にいたときから、手の平や、首筋がかゆかった。じんましんみたい。
 そのせいか、頭がぼんやりして何もする気になれなかった。母が病院へ行けと言ったが、日曜日で病院は休みだ。それにかゆみもおさまってきたので、そのうち治るだろうと思った。しかし午後になるとまた体中かゆくなり、まぶたのあたりまで赤くなった。
 兄嫁が前の晩、松原医院でお産をし、入院していた。そこの医師が診てくれるから来いと言っているというので、行って注射をし、薬をもらって来た。それで、夜になってかなり良くなった。
 翌日の月曜日は、じんましんのために休んだ。前夜、かなり良くなっていたのに、明け方からまた体中かゆくなった。
 家族の中で、じんましんにかかったのは私一人だけだった。みんなと同じものを食べていたのになぜだろう?思い当たるのは、じんましんがでた前の晩、父がどこからか持ってきた酒であった。
 私が二階の自分の部屋にいると、父がやって来た。
「これ飲め」
 そう言って、彼は二合びんに入った日本酒を突き出した。
 半分以上飲んでから、コップの中の酒が濁っているようなので透かして見た。すると、埃がいっぱい漂っていた。びんのほうを見ると、こちらも濁り、底には、何か白い、豆腐の細かい小片のようなものが沈んでいた。それを見たら急に胸がむかついた。
 おそらくこの酒は、父の勤め先の宴会で、みんながコップの底に残したものを、後で集めたものだろう。
 日頃、嫌悪を抱いていた父でも、酒を持って来られたときは、『ああ、本当はいい親父なんだ』と感動し、それまでの自分を反省した。ところがこれは何だ! 父という人間がわからなくなった。
 火曜日も会社を休んだ。水曜日、会社へ出勤したが、おかしな一日だった。じんましんはほとんど治り、熱もないのに、めまいがしてならなかった。そのめまいは、風邪のときのめまいとは違っていた。道を歩いているのが自分なのか、自分の分身なのかわからないといった感じ。
 朝、釜石駅のホームで、山崎が例のごとくニヤニヤッとして近づいて来た。彼の問いかけに答えるため口を開いたとき、これが私の声かとびっくりするようなガラガラ声が出た。それからは急に、声を出すのが不可能に感じられた。汽車の中では、隣の人がちょっと動いただけで、飛び上がらんばかりに驚いた。
 このまま職場へ行って勤まるだろうか。引き返そうかと迷っているうちに職場に着いてしまった。鏡に写った自分の顔を見たら、目つきが異様であった。
 作業場へ降りてストーブにあたっていたが、そこにいるのは自分ではないような気がしてならなかった。一体どうしのだろう。気が狂ってしまったのだろうか。そう思うとますます恐ろしくなり、今にも本当に気が狂ってしまいそうだった。そこにあった印刷物を手に取り、一字一字読み始めた。今の自分の恐ろしい世界から、そこに書かれてある世界へ逃れようとするかのように。だが、目は活字を追っているだけで、内容は全くわからなかった。刻一刻、恐ろしい気持で過ごした。
 昼頃になって、いくらか良くなった。
 やっと、職場での恐怖の一日が終った。何だったのだろう。精神分裂病の症状か。

 翌朝、心が重かった。もう少し、もう少しと、ふとんの中にいるうちに、『いっそ休もうか』と考えた。いったんそう考えると、もうその考えをくつがえすことはできなかった。母が何度目かに起こしに来たとき、「今日は休む」と告げ、そのまま深い眠りに落ちた。正午過ぎまで眠った。
 母が昼飯を食べないか、と言いに来た。が、ちょうどそのとき、父が勤め先から昼飯を食べに帰って来た。それで私はそのままふとんの中にいた。
 父が帰って来るなり、何をするかと思うと、すぐに二階へ上がって来て、私の部屋のドアを開け、黙ってのぞき込んだ。私はその方を見なかったので、それが誰なのかわからなかった。私が咳をすると、そのとき初めて、部屋をのぞいていた者が、わざとらしい咳払いをした。それで父とわかった。父はそのまま下へ降りて行った。私はまた咳をした。すると階段の下で、父がまたわざとらしい咳払いをした。
「くされオヤジ!」
 私はふとんの中でののしった。
 ふとんの中でずっと考えた。こんな状態で長くは続けられない。こんなのは正常ではない。病院へ行かねばならない。独りではどうにもならない。誰に話す? 信頼できる人はいない。いや、母がいる。母は信じてもいいだろう。
 それにしても何という恐ろしい運命を負わされたものだろう。まだ23歳になったばかりではないか。みんなは青春を謳歌している。それなのに、私のこの苦しみは。
 精神病院、鉄格子のある窓、どんな気違いが入ったかわからない部屋、ベッド。ああ、考えるとどうしていいかわからなくなる。
 職場のほうはもう続けていくことができない。

 欠勤した翌日、会社へ出て行くのは気が重かった。また好奇の目で見られるかと思うと、行くのが嫌になった。彼らは、私が頭の具合が悪くて休んだものと考えているようだった。彼らはニヤニヤしながら私に話しかけた。
「会社休んだって? エヘヘヘ」
「精神的に疲れたんだべ」
「身体の調子良ぐなったが? 治ったが?」
 しかしこの日、職場へ出てみると、そんなことはほとんどなかった。前日、私が休んだ日、職場の新聞「安全塔」が配布されていた。それには、私が依頼されて描いてやった挿絵がのっていた。それが何らかの効力を発したのか。
 職場での私の最初の仕事は、数日前、私が分解し、修理した記録計(ペンオシロ)の紙送り機構部の組立てだった。紙送りスピードはそのまま時間軸となり、そのスピードは押ボタンによって、何通りにも選択された。その機構は結構複雑なものだった。それは私が分解して構造を知っていたし、また、そのような精密で細かい仕事は他の者にはできなかった。彼らは私が来るのを待っていたようだ。先輩や後輩の見守る中で組み立てた。自分でも面白いように、細かい部品がスパスパ合ってくれた。
 このように調子よく働いた日には、夕べあんなに考え、苦しんだことが嘘のように思われた。精神病院のことも、自分のことのようには感じられなかった。『このようにちゃんと働いているのに、病院へ行かねばならないのだろうか? 会社をやめなければならないのだろうか? そんな恐ろしいことがこの私に関係したことだろうか?』だがまもなく、地獄の底から吹き上げてきたような、どす黒い風が私を襲った。それまで頭の中を占めていた思考は一瞬に吹き飛び、あとは、重くどろどろしたものが頭の中を渦巻いた。
 私はそれらのものを吐き出そうとでもするように、ゲロを吐くような格好で胸の中の空気を一気に吐き出した。絶望した、声にならない声と一緒に。
 夜、町外れの堤防に腰を下ろし、空を見上げていた。輝いている無数の星を眺めていると、自分が限りなく深い海の底にいて、水面の光を眺めているように感じた。そして、自分が異常でもなんでもなく、ただ、取るに足らないゴミのように思われた。ああ、これが本当だったら。

 3月、弟が高校を卒業し、就職も決まり、研修のために盛岡へ行くことになった。前の晩、兄夫婦が、それまでに食べたこともないようなごちそうを作った。ビールも飲んだ。
 日記を書きながら、隣でぐっすり眠っている弟を見た。二人でふとんを並べて寝るのも、これが最後かと思うと感ずるものがあった。弟は五か月後には帰って来るという。しかし、そのときの私は、このままの私ではなくなっているだろう。
 3月14日、弟は発って行った。その夜、いつも二枚敷くふとんを、自分の分、一枚だけ敷いた。すると急に悲しくなった。弟のふとんがなくなったので、部屋の真中に私のふとんを敷けばよいのだが、弟のふとんがあったところにはどうしても敷く気にはなれなかった。そこは大事にとっておきたかった。
 こたつに入って、独りでウィスキーを飲んだ。すると、きのうまでの弟の姿がありありと浮かんできた。それまで経験したことのない種類の孤独感におそわれた。弟が私にとり、これほど大きな存在だったとは全く思いがけなかった。弟がいる間は、なにかと弟に腹をたて、早く盛岡へ行ってしまえばいいと思ったりしていた。家族の中で、親しく口をきけるのは弟だけだった。

 ある夜、遅く風呂から上がると、父が独り、こたつで戦争の写真集に見入っていた。11時だった。父はこれからふとんに入って、すぐ眠れるだろうか? 父のやせた姿、半分白くなった頭髪をバサバサさせて写真集に見入っている様を見たら、急に父が哀れになり、日頃の私の態度が後悔された。父のわきには、父の小さな黒いかばんが置いてあった。それがまた私の心を動かした。
 二階へ上がってから、迷った末、私はウィスキーをグラスに一杯注ぎ、それを持って降りて行った。私は何か言おうとしたが言葉にはならなかった。黙ってグラスを父の前に置いた。父は本から目を上げ、「だっ!」と言った。私はすぐ帰ろうとした。すると父が、「きみのはあるか?」と聞いた。こんなときにすら他人のことに気を使う父がじれったかった。私は「うん」と答え、二階へ上がった。部屋へ戻ったとき、複雑な笑いがこみ上げた。

 

   3月23日 水曜日 晴

 思いがけないことが、思いがけないときに起きた。
 朝食を終え、お茶を飲み、出かけようとしていると、母が突然おれに尋ねた。
「おまえには好きな人はいないべ?」
 初めおれは何のことかわからなかった。が、すぐに、ああ恋人のことかと思った。それにしても何でこんなことを今聞くのだろう? このとき、居間にいたのは、母とおれの二人だけだった。
 縁談であった。しかも一年前と同じ話だった。一年もの間その話は出なかったので、もうおしまいになったものとばかり思っていた。
 相手の女性は、以前、帰りの汽車で毎日のように同じところに乗り、胸をときめかせていたあの彼女。言葉こそ交さなかったが、「初恋の女」とも言うべきあの彼女。その女性と同一人物ではないかと自分で思い込んでいた、その話だった。
 母の言い出し方は、うわべは冗談のように聞こえたが、そのときおれは、にこりともしなかった。日頃から結婚というものを真剣に考え、そのあげく、一生独身で過ごそうと決心していたおれには笑えなかった。
「おまえには好きな人はいないべ?」と聞かれたとき、おれは、
「なぁして(どうして)」と聞き返した。
「稲子おばさまは、その娘さんを、おまえがもらうなら、どこへもやらないようにしておくと言っている。今、結婚しなくても、すると決まれば」
 その娘さんは今年成人式をしたそうである。釜石の楽器店に勤めていたが、辞めた後は裁縫などを習っているとのことだった。
 それにしても、この話がまだ続いていたということにびっくりした。そういえば、おれもはっきりした返事をしていなかった。しかし、おれの様子から、たぶん母が断ったろうと考えていた。
 汽車に乗ってからも、このことが頭から離れず、本など読めなかった。これは早いうちに断らなければならない。向こうが私をあてにしていては大変なことになる。一人の人間の運命を左右することになる。
 おれをおかしな目で見ていた母が、どうして今、縁談の話を持ち出したのだろう? おれがものを言わないのが、嫁さんをもらえば直るとでも考えたのか。
 おれは、おれのために一人の女の、大事な一生を台なしにさせたくない。おれのような者と結婚して幸福になれるわけがない。それどころか、最低の生活もできないのは、わかっている。おれの一生は、精神病院に入ったり出たりの生活。職場を続けていけないおれ、収入のない暮らし。いっそ死んでしまったほうがましなくらいの生活。何で結婚などできよう! 相手の女性にしても、一日、いや一時間もおれとつきあえば幻滅するのはわかりきっている。
 日頃、一生結婚しないつもりでいても、このような話を出されるとつらくなる。自分の運命というものを切実に思い知らされる。
 今晩、母がその話を出したら、はっきり断るつもりでいた。が、その機会はなかった。早く断って先方に迷惑がかからないようにしなければならない。

 職場は、もうがまんできない状態になっていた。上司は私をはっきり特別扱いし、他の現場へ作業に出るとき、他の班から未経験者を借りてきて連れて行くことがあっても、私は残された。
 直流機や高電圧モーターの試験をしようとして、私がスイッチやハンドルを操作しようとするものなら、一大事とばかり彼らが飛んで来て私を押しのけ、ハンドルにしがみついた。
 私が職場でこのような状態だということを、家の者は知らない。いつか機会をみて話さなければならない。だが機会はなかった。母を二階へ呼んだところで、隣の部屋には兄夫婦がいる。縁談もはっきり断らなければならない。

 3月25日、同盟をやめた。

 

   3月27日 日曜日 晴

 今朝、9時過ぎ、母がどこかへ出かけるらしく、髪を直し、おとし(床下貯蔵庫)から、やまと芋を取り出し、紙袋に入れていた。
「どこへ行く?」
 おれは尋ねた。すると、鵜住居へ、例のおれの縁談のことで行くという。おれは自分の知らないところで事が運んでいくのを知り、恐ろしくなった。おれはその場ではっきり断った。母は出かけるのをやめた。おれも悲しかったが、母はそれ以上に悲しかったにちがいない。本当ならここで、結婚しないわけをはっきり話すべきであった。しかし、弟がいるうちは(弟は夕べ家へ帰って来ていた)、家の空気を乱したくなかった。弟は夕方帰るから、今晩ゆっくり話そうと思った。
 夕方、弟は帰った。家を出るとき、弟は「やったなぁ(嫌だなぁ)」と言っていた。弟の会社は全くひどいところだという。とても長くいることはできないという。
 今度の弟の出立は、最初の希望に満ちた出立とは違い、弟も家の者も沈んでいた。弟がかわいそうになった。おれは弟に、漱石の「こころ」と、千三百円くれてやった。
 夜、みんなは弟のことをもう忘れたわけではないだろうが、いつもと変らぬ調子で話していた。
 弟が就職で苦労しているのに、おれはいい会社(大企業)にいながら、そこをやめようとしている。そのことを考えると、会社をやめるということは、並大抵のことではないことを思い知らされた。そしてふと、『病院に入ったからといって、会社をやめることもないだろう』と考えた。どんなに笑われようが、がまんできないこともないだろう。そう考えると、急に目の前が明るくなり、病院へ行くこともあまり苦痛には感じられなくなった。いつもこのように楽観的であってくれればいいが。
 今晩、母に一切を話してしまいたいが、機会があるかどうか。
 自分の生涯の苦しみは覚悟しているつもりでも、どういうときか、はたして、この恐ろしい運命がおれのものだろうか? おれは何か勘違いしているのではないだろうか? と、ひとり迷った。
 今からこれを書くのは、夜の12時過ぎである。10時から12時まで、テレビで木下順二の歌劇「夕鶴」を観、感激した。見終ったときのなんともいえない陶酔感、人間に生まれたことを感謝したくなるような喜び。
 だが、その喜びの絶頂から現実に戻った瞬間、そこには恐ろしい運命が待っていた。ああ、何ということだろう、こんなに高尚なものまで理解できるのに精神病院だなんて。それに加えて縁談のこと、かわいそうな弟のこと、それらが影響しあってか、ウィスキーを飲もうとしてグラスを磨いていると、涙がポトポト落ちた。とうとうがまんできなくなり、ふとんの上に泣き伏してしまった。声が出ないようにするため、タオルを力いっぱい口に押し当てなければならなかった。
 何でおれはこんなに苦しまなければならないのだろう。後から後から涙があふれた。今これを書いている間も涙が落ちている。もう少しで1時になるが、もう眠ることなどどうでもいい。
 まだ23歳になったばかりだというのに、何で今からこんな苦しみをしなければならないのだろう。まるで苦しむために生まれてきたようなものだ。

 

 

     第六章 精神病院へ

 

      昭和41年(1966年)  

   3月28日 月曜日 曇

 これまで結婚をあきらめていたが、今日はどうしたのだろう? 昨日の話のためか、悲しくなった。
 今朝、汽車が釜石に着き、客がどんどん降りて行って、車内には数えるほどの人しか残っていなかった。そのとき、隣のボックスに座っていた若い女二人が、しきりにおれの方を見ながら、何かささやいていた。おれはその方へ神経を注いだ。
「〇〇さんの姉さんをくれろと言ってきているそうだよ。とってもきれいなひとだよ」
 彼女の一人が言った。はたしておれのことだろうか? おれの縁談のことを話しているのだろうか? 彼女らも鵜住居の人間のようだ。しかし、彼女らがそんなことを知るはずがない。「とってもきれいなひとだよ」という言葉がいつまでも耳から離れなかった。そして、改めておれは結婚できないんだと悲しくなった。
 ああ、そのような美しい女性と結婚できたらどんなに幸福だろう。だが現実は、心身の病気、泥沼のような、苦悩に満ちたこれからの生涯。おれと結婚した女の一生を台なしにする恐ろしさ。結婚などできないのだ。できないのだ。
 最近、頭が異常なほど冴えている。職場での仕事も、一つ一つ冷静に、正確にやっている。これまでおれに大事な作業をさせなかった及川工長まで、彼の間違いをおれに指摘され、やり直したりするありさまだ。彼らはおれを見直しつつある。先輩の鈴木さんは検収品のテストをおれにまかせることがある。

 今晩のことを書こう。
 階下で、姉が訪ねて来た音がした。「父さんは?」と姉は聞いた。「酔って寝た」母が答えた。おれはいい機会だと思った。そのうち義兄も来たが、しばらくして姉と一緒に帰って行った。おれは下へ降りて行った。
 母はこたつに入ってテレビを見ていた。おれもこたつに入った。何から話そうかと思い、ため息をついた。すると母のほうで察したのだろう、
「室浜のほう(縁談)は断ったから安心しろ」
 母は悲しそうに言った。おれも悲しかった。
 この縁談はおととしも前からのものだと母から聞かされ、驚いた。おれがこんな人間でなかったら、この縁談は何と素晴らしいものだったろう。
「結婚は一生しないから」と言おうとしたが、どうしても言葉にならなかった。かわりに、
「おれはこれ以上、職場をやっていげねぇ」と言った。
 しかし母にはこの言葉がぴんと響かなかったようだ。さらにおれは言った。
「おれ、会社を辞めっぺど思ってだ」
 母はやっと事の重大さに打たれたらしく、口元をひくひくさせながら、じっとおれを見つめた。おれの口元もけいれんし、手で押えて止めねばならなかった。
 初めて聞くおれの職場の状態は、母の心を打ったらしい。おれの目に涙がにじんだ。しかしおれは思っていたよりも、ずっと落ち着いて話すことができた。話しているうちに、二人とも思わず笑いがこみ上げてくることがあった。こんなことは全く悲劇であると同時に、喜劇でもあるのだ。
 やっと、こうしたことは、おれの性格のためだけではなく、病気のせいだ、というところまでこぎつけた。ここでやっと、
「おれは一生結婚しないつもりだ」と言った。
 しかしこれは予想に反し、一笑された。
 もっとも、おれがそう決心するに至った苦しみを知らない者には、全く滑稽に響いたであろう。自分が苦しみ抜いて決心したことを一笑に付されると情けなかった。
 母は、おれが会社をやめると言ったことをとても心配しているようだ。おれも夕べから、会社をやめることの重大さを考えていた。他人にどんなに笑われても耐えていこうと、おぼろげながら心に決めていたところだった。それで、「会社はやめないようにするから」と言った。
 母は明日、さっそく釜石のお寺へ行って、おれがこうなったのは病気のためなのか、罪障のためなのかを、和尚さまに拝んでみてもらってくると言った。ばかなことを、と思ったが、とうてい引き止めることはできないのを知っていた。母が「病気ではないそうだ」という返事を持って来ても、おれは医師の診断を受ける決心だ。
 しかし母は、このようなことを打ち明けるおれの頭が確かなのを知り、安心しているようだった。
「あまり心配しないでね。母さんのほうが‥‥」
 二階へ上がるとき、おれは母に言った。母は、
「おれのごどぁ‥‥」と答え、それから優しく、「行って寝ろ、寝ろ」と言った。
 やっぱり母親は信頼できそうだ。たとえ人間でも。

 汽車で、私を見てひそひそ話していた若い女二人とは、その後数か月間、車内またはホームで出くわすことがあった。彼女らの様子はどんどん陰気になっていった。私を見ると、あからさまに気味悪そうに笑った。私にはそれがとても不愉快だった。そのうち私は、私の人格を全く無視した彼女らの笑いに出くわすのが恐くさえなった。
 私は、彼女らの背後に何者かが動いているのを漠然と感じた。

 

   3月29日 火曜日 みぞれ

 母が今日、お寺へ行って和尚さまに相談してきたそうだ。ノイローゼ気味で軽いものだから、早いうちに行って診てもらうように言われたという。
 何が軽いノイローゼなものか。それだけは信ずることができない。母は明日にも病院へ行こうと言うが、おれは上司に休むことを告げてからにするつもりだ。
 精神病院は釜石にもあるが、そこへは行きたくない。釜石には知っている人間が大勢いる。おれが精神病院へ入るところを誰かに見られる恐れがある。少し遠いが宮古市まで出かけようと思う。
 医師は、おれが自分から進んで来たことを知ったら、おれの病気を軽く見てしまうのではないだろうか? 病気なら病気で、入院して治したい。
 もしおれが精神病者だと知れたら、おれと結婚しようとする女もいなくなるだろう。そうすれば結婚にもあきらめがつく。これまで、死以上に恐れていた病気が、今のおれには救いとなる。
 こんな時期に縁談が決まりかけたということが、おれの苦しみを倍加した。

   3月31日 木曜日 晴

 病院(宮古精神病院)へ行ってきた。
 病気ではないということだ。何としたことだ!
 病気であったほうがどんなによかったろう。病気なら入院して、いくらかでも楽になりたかった。それなのに、今までどおり苦しまねばならない。
 ただこれからは、『おれは病気ではなかろうか?』という心配が一つ減っただけだ。
 今、とても暗い気持でいる。
 大槌を朝8時28分発の汽車で、母と二人で発った。汽車は空いていた。窓から見える、あたりまえの景色が異常な力をもって私の目に飛び込んできた。冬の海、雪をかぶった田畑。そして目の前には疲れた母の黒ずんだ顔があった。
 宮古駅からタクシーに乗った。病院は郊外にあった。病院の建物は予想していたようなものではなかった。小さな平屋が、ちょうどマッチ箱を並べたように建っていた。それが暖かい日差しをいっぱいに浴びて、平和な感じをかもしていた。ここが精神病院とはとても思えなかった。
 母と一緒に診察室へ入った。医師はとても話しやすい人だった。
 私はこれまでの状態を説明した。医師は私に質問した。入社したのはいつか? 職場ではどんな仕事をしているのか?
 私が症状を詳しく説明していると、医師ははっきり言った。
「これは病気ではない」
 私は唖然とした。そんなばかな! 聞き間違いではないかと思った。さらに医師は続けた。
「病気といえば病気で、性格といえば性格だ。病名をつけようと思えば病名もつけられる。だがそれは病気のうちには入らない」
 そこで私は言った。
「病気でないと言われても、実際、職場へ行けば、みんなとやっていけないのだから‥‥」
 このまま帰って、またこれまでの苦しみを続けたんではたまらないと思った。私が職場の状況を詳しく話すと、医師は、
「そんなに君の頭ははっきりしている。病気の疑いがあるなら、これらの器械で調べるけど、そんな必要はない」
 そう言って、医師は診察室の壁際にある器械を指し示した。
「夜は眠れるか?」
 医師が尋ねた。
「毎晩ウィスキーを飲んでいる」
 私は答えた。私の飲む量を知ると医師はびっくりした。
「アル中になるからやめろ。アル中になったら、いくら病気でないと言い張っても入院させてやるから」
 ここで話を切り上げれば、私も医師も、さっぱりした気持で別れることができたろう。そして今、こんなに暗い気持にならずにすんだかもしれない。
「あとは何かないか? ここでは何でもかまわずに話していいんだよ」医師は言った。
 私は、少年時代からずっと私を苦しめてきた、例の病気のことを話そうかと思った。精神に異常がないことがわかったとしても、私をこんなにまでした問題を解決しない限り、何にもならないのではないか。もし、このことを言い出せずに帰ったら、きっと後悔するだろう。しばらく沈黙が続いた後、思い切って話した。母の存在が気になった。
 さっき、医師に「病気でない」と言わせた私の冷静さは崩れだした。気まずい空気が我々を包んだ。医師は、
「製鉄所病院の医師が、いいと言ったら、それでいいではないか」と言った。
 私は話したことを後悔した。
 眠れるようにと、医師は私に薬を五日分くれた。睡眠薬だったら、後で全部一度に飲まなければならなくなった時のために残しておこうかと考えた。しかし毎食後服用というから、睡眠薬ではないだろう。
 医師の説明によると、私の状態は、薬を飲んだだけで治せるものではないという。医師との話し合いを何回も、繰り返していくなかで治さねばならないものらしい。だから、わざわざ宮古まで来なくても、釜石にも病院があるから、面白くないことがあったら、行って話しなさい。また、釜石製鉄所には時々仙台から有名な先生が来るから、相談してみるのもいいだろうと言ってくれた。
 酒を飲むなと言われても、この暗い気分では飲まずにはいられない。

   4月1日 金曜日 曇

 なんと憂うつな日だろう。
 快活にならなければならないはずなのに。
 精神には大して異常がないことがわかった。すると例の「病気」がまた頭をもたげてきた。
 精神病院の医師は、私がその病気のことを話したとき、これは医師(精神科医)との話し合いを繰り返すなかで解決する必要があると言った。私自身『おれはくだらないことで苦しんでいる』と頭の一角で感じているのだが、実際にはどうにもならない。
 論理的に問題をたどり、悩む必要はないんだ、と自分を説得しようとするのだが、最後までたどり着かないうちに、それまでたどってきた幹がいつのまにか霧に包まれ、どうしても見失ってしまう。そしてその霧はそのまま頭の中にモヤモヤと残り、たまらなく憂うつになる。いっそ、これまでのとを文章に書いて、専門の医師のところへ持って行こうかと思う。
 今日、職場で鈴木さんの態度が、これまでとは全然違うのに気がついた。及川工長は休んだ。
 鈴木さんが朝、先ず「製銑課へ行こう」とおれを誘ったのでびっくりした。おととい、「明日休む」と言ったとき、気持の悪い笑いを浮かべていた彼とは思えない。一体どうしたのだろう。
ふと、病院から職場に連絡があったのではないか、と考えた。病院を出たのは正午だったから、それから4時までの間には連絡すればできたのである。そう思って見ると、職場の多くの人間が変ったように感じられた。宮田君もおとなしくなり、おれにからんでくることも全くなかった。

 

 

     第七章 夜明

 

      昭和41年(1966年)  

  4月2日 土曜日 晴

まるで変な日だった。
憂うつな中で、これまで経験したことのない種の感情が時々、蚊帳をちょっとめくり上げたときのように襲ってくる。
いつもなら、混みあった汽車の中で、若い女の体が私の体に押しつけられると、もう緊張し、本を読んでも内容が頭に入らなかった。しかし今朝は少し様子が違っていた。
今朝、憂うつで本を読む気になれずにいた。鵜住居で大勢の客が乗り込んだ。私は後ろと横から若い女の体で押しつけられた。右側の女は私の方を向いていた。彼女の乳房が私の右腕に力いっぱい押しつけられた。彼女は顔を私の肩に乗せかけたりした。車内は暖かかった。私の額に汗がにじんだ。でもいつものようには緊張しなかった。
何よりも不思議な瞬間を感じたのは、釜石駅の改札口で、私の横からすっと前へ出て改札口を通った女性の顔を見たときだった。『ああかわいい、美しい!』と感じた。それは心の底から自然に湧き出た感情であった。湧き出る泉の水のように澄んでいて、単純なものであった。それは私がかつて経験したことのないものだった。
一体これは何という変化だろう。ふと、これはいま服用している、病院からもらった薬によるものではないかと思った。もしそうなら、その薬が無くなったらどうしよう。病院へ手紙を書いて薬を送ってもらおうか。
同じような現象が帰りの汽車の中でも起こった。一体この刹那の喜びは、普通の正常な青年に許されている青春というものだろうか?
だが、これからの私はどうなるのか? このままなのか、それとも良くなるのか?
良くなるためには、これまでの悩みの根源を完全に取り除くことが必要だ。夕べ私は、医師の前でうまく話せないことを文章にまとめてみた。
今日、及川工長が出て来た。(きのう、おとといは休んだ)。帰り際、私は彼に、話したいことがあるからといって残ってもらった。
私は彼に精神病院へ行ってきたことを話した。ふだん、思想面でしっくりいかないことがあっても、こういうことでは親身になってくれた。
みんなが帰り、二人だけになった。私から話しだした。
「おれが口をきかないので、みんなおれを変な目で見ているし、自分でもみんなと話ができないのは病気のせいではないかと思っていたので、おととい病院へ行ってきた。そこで病気でないと言われた。だからみんなもおれを変な目で見るのはやめてほしい」
最後の「変な目で見ないでほしい」といったのが彼にはおかしかったのか、顔をゆがめて笑った。それからいろいろ話し合った。
「釜鉄では時々仙台から先生を呼んで検査をしているそうだが、そのときはまえもっておれにも教えてほしい」
私はそう言って頼んだ。
「うん、おれもよくわからないが、三浦君(課の衛生担当者)に、それとなく聞いておく」
彼はそう答え、さらに、
「病気でないとすれば、何か悩みがあるんではないのか?」と尋ねた。
私は何と答えていいかわからなかった。本当のことを話すのはもう懲りている。だがそのうち例の病気で、病院へかかるとき、変に思われなくてもすむように、ここで少しほのめかしておかなくてはと考えた。それで病気の種類を内科のほうに向けて話し、以前、会社の病院に行ったが、さっぱりわからなかった。近いうち市民病院にでも行ってみようと思っている、と話した。
話してしまったら気持が楽になった。
汽車に乗り遅れたので、町へ下り、「音楽の友」を買った。帰り、市民病院に寄り、内科の受付時間を調べた。午後4時30分までだった。会社は4時までなので少しむずかしい。
以前、この病気で病院を訪ねるのは、とても困難に思えたが、今はそれほどではない。これもまた最近の不思議な変化の一つである。ただ、今度も結果がはっきりしないままに終ってしまうのではないかと、それのみを恐れる。

 

    4月3日 日曜日 快晴

朝6時頃、目が覚めた。そろそろ起きなければと思いながら、ふとんの中でぐずぐずしていた。が、ふと今日は日曜日であったことに気がつき、うれしくなった。それなら眠りたいだけ眠ればいいんだと思った。すると急に眠気がなくなった。窓をいっぱい開けて外の空気を入れた。気分は特殊なものだった。ヴァイオリンソナタ、ヴァイオリンが悲しみを奏で、ピアノが喜びを伴奏している、そんな気分だった。自分が普通の人間のようになれるかもしれないという期待。だが、もしそうなったらという不安。希望と不安の二重奏。

今日は宮沢牧場へ油絵のスケッチに行こうと思った。油絵の道具をそろえていると、母が私に、どこへ出かけるのかと尋ねた。そしたら急に行く気がしなくなった。母の語気には何か不自然なものがあった。
部屋の中で、以前スケッチしてきたものを油絵にした。
今晩はどうしたことか、子供の頃の呪わしい過去が思い出され、憂うつになってしょうがない。
病院へはあさって行こうと思う。以前、あれほど恐れていた病院行きが、今では別に恐ろしくは感じない。不安な喜びといった感じ。

    4月4日 月曜日

朝は、これまでに感じたことのないような喜び、生まれ変ったような喜びを感ずる。だが、夜の悲しみは何としたことだろう。
 精神に異常はないとしても、傷ついた神経は、もう取り返しがつかないように思われた。
 明日は病院へ行くのだが、どんな扱いをされるのだろう。夜、独りでいると、いろいろな考えが襲ってくる。誰にも気を使わず思いきり泣きたかった。
 私は外へ出た。小槌川の河口から堤防をずっと歩いた。家を出、町外れの河口まで来る間も、涙は後から後からあふれた。泣きながら堤防を歩いた。左側は川、右側は田んぼで、田んぼが終ったあたりに人家の灯が見えた。空はどんより曇っていたが、あまり暗くはなかった。薄い雲の上に月があるのか、空全体がぼんやりと明るかった。
 自分の状態がどうあるのかを、筋道立てて考えようとしても出来なかった。何もかも一塊になって私に覆いかぶさり、ただ泣けてきた。
 川には板の細い橋がかかっていた。しばらくその橋をながめ、その下の黒い流れを見つめていた。全身に鳥肌の立つような寒気を感じ、そこを離れた。『このまま行くと踏切がある』という考えがひらめいた。いつのまにか歩みを止めていた。右側の田んぼへ降りた。足を滑らし、そのとき突いた手の平に鋭い痛みを感じた。触ってみると、傷はついているが血は出ていないようだった。
 田んぼのわきの枯れ草の上に仰向けに寝ころんだ。どんよりした空を見つめていると、涙はしだいにやんだ。
 どれくらい時間がたったろう。どこかすぐ近くで、カサ、という微かな音がした。それは方向を確かめる間もないほど短いものだった。紙屑が風で動いたようだった。しかし今夜は、空気がそよとも動かない晩であった。不審に思い、頭を動かそうとした。その瞬間、何か白い塊が私のすぐそばから、ものすごいスピードで堤防を駆け上がった。気がつくと私はその場に棒のように立っていた。頭皮がギュッと収縮し、髪の毛が逆立っていた。堤防に上がってみたが、何も見えなかった。そのまま帰途についた。後方で終列車の来る音がした。

    4月5日 火曜日 晴

市民病院へ行った。
 病院が開くまで一時間ほど間があった。私は港の方へ行った。緊張で体が震えていた。港をぶらぶらしているうちにすっかり落ち着いた。
 病院へ行った。若い看護婦を相手にするのも苦痛には感じられなかった。淡い喜びすら感じた。
 私は用意していった手紙を内科の医師に渡した。私は、医師がその手紙をどのように受けとめるか気になった。私は医師の表情の変化に注意を注いだ。しかし医師の顔には、軽蔑とか嘲笑といったものは全く現れなかった。私はやっと安心した。医師は、「これは外科だな」と独り言のように言った。それから私に向かって、
「沢舘君、これは外科だよ」と言った。
 その言い方はさっぱりしていて感じのいいものだった。私は自信が湧いてきた。
 外科へ行った。受付の若い看護婦に診察券を渡した。
「体温を計ってください」
 彼女は私に体温計を渡そうとした。私は、いま内科へ行ってきたこと、体温はそこで計り、三十七度六分あったことを告げた。
「どうしたんですか?」
  彼女は尋ねた。私は答えに困った。
「泌尿器の方ですか」
 彼女は尋ねた。
「はぁ」
「向こうで待っていてください」
 やがて私の番がきた。外科の医師にもその手紙を読んでもらった。医師は若かった。私の手紙を読み終ると、医師は私を程度の高い人間とみたらしかった。(手紙の文章はよく吟味し、字も丁寧に書いておいた)。
「こんなことは、あんたのほうがよく知っているでしょうが」
 彼はそう前おきして、温度によって尿に溶けている成分が析出してきて、正常な人間でも尿は濁ることはあるものだと話した。
 医師はもう一人の医師を呼んだらしい。やって来た医師は私を別の部屋へ連れて行った。そこは院長室だった。
 私に対する医師の態度は、私のほうで分不相応と恐縮するほどだった。彼は部屋のドアを閉めた。客が訪ねて来てもそちらを待たせておいた。
「ここではあんまり心配しないように」
 医師はそう言った。私があまりにも心配しているようなので、それを和らげてくれようとしているようだった。
 現在の症状などを聞かれた。今日は尿をとり、結果はあさってわかるから、そのときまた来なさいと言われた。
 看護婦が検尿の順序など、丁寧に教えてくれた。
 病院を出た時、私の心はとても明るかった。精工堂(レコード店)に寄り、「エフゲニー・オネーギン」の全曲盤を注文した。それから購買部(会社が社員対象に設けた店)へ行き、靴下や果物ナイフを買って帰った。店内でも町でも、若い女性が健康的に私の目を楽しませてくれた。
 このような、生まれ変ったような喜びは、精神病院でくれた薬によるものではないだろうか? その薬が切れたら、また以前の状態に戻るのだろうか? しかも薬は今日で無くなる。もし以前の暗い気持に戻るようだったら、病院に手紙を書いて、薬を送ってもらおうと思う。

    4月7日 木曜日 雨

病院へ行き、検尿の結果を聞いた。「何ともない」ということだった。私自身、そうだろうと思っていたが、簡単に言われると少し心配になった。
 医師は五十歳近い、初対面の医師だった。そして、おとといとは正反対の扱いをされた。この医師の言動は、ただ私を痛めつけるためだけにやっているように思えた。
 先日、快く私の世話をしてくれた看護婦は、私と顔を合わせようとしなかった。
「ばい菌がいないから何ともない」
 医師はそう言い、私をカーテンで仕切られた診察室へ連れて行った。彼はズボンを下ろすよう命じた。
「皮が長い、だからそこにいろんなものがたまり、炎症を起こすのだろう」
 彼は触れることはせず、ただながめてからそう言った。それから彼は、ばかでかい声で、冷汗の出るような露骨なことを私に尋ねた。自慰については、
「若い男なら誰でもやっていることなんだ。心配することはない。そういうことをしたというのを、悪いことのように思っているのではないのか」
 さらに彼は、
「でも鉛筆を差し込むようなことをするのもいるからな」
 と、ぞんざいに付け加えた。
「もう来なくていいんですか?」
 私は尋ねた。
「うん、それでも悪いときは来てみな」
 カーテンの外へ出た。そこには看護婦のほかに、女子高校生が二人いた。彼女らは待ち構えていたように私を見た。私は顔から火が出るような思いでそこから逃げ出た。

この、天国から地獄への急激な変化は一体どうしたことだろう。
 私の知らないところで何かやられたのではないか? 私はそこに、悪魔のようなものの存在を感じた。
 後になって考えた。この日会った医師は、市民病院の医師ではなく、製鉄所病院の皮膚科の医師ではなかったのかと。

 

この日、宮古精神病院への手紙を投函した。
 宮古から帰った後の心の変化を詳しく報告し、この変化は病院からもらった薬によるものではないかと考える。その薬がもう無くなる。宮古までもらいに行くのは大変なので、できたら送ってくれないか、とお願いし、また、職場の人たちの態度が良い方向へ急変したが、これは、病院から職場のほうへ連絡してくれたのではないか、といったことを書いた。

 

    4月8日 金曜日 晴

この深い悲しみはどうしたものだろう。昨日、歓喜の渦に巻き込まれたかと思うと、今日は悲しみのどん底にいる。
 これまで私のとってきた行動は、どれも大それたことのように思われる。精神病院へ手紙を書いたこと、工長に、精神病院へ行ったことを話したことなど。しかし結果的には、職場で変な目で見られる苦しみはなくなってきた。

阿部さん(定時制高校の同期生)の結婚式には出席しないことにした。そのような場に出られる私ではないし、結婚しないことを決めている私は、誰からも祝ってもらうこともない。
 芸術だ、芸術だ!
 これまでは目の前が真っ暗だったが、今では少し見通しがついてきた。
 近いうちに祝田地区分譲地を買う。(会社が農家から田畑を買い上げ、社員のために格安で分譲する宅地)。そして家を建てる。家はあまり大きくなくていい。ステレオを置き、絵を描く洋間が一室。それから幾室か。
 自分で家事のことまでやるのはつらいだろう。そのうち女中を雇う。年をとった女ならいいが、若いのは‥‥、いや若くてもいい、当人さえよければ。
 独り、部屋でレコードを聴く。「白鳥の湖」や「オネーギン」。そして絵を描く。日頃の悲しさ、寂しさを忘れて。ああ、それは何と美しい生活だろう。
 精神病院のやっかいになるのは少しも恐れない。他人に何と思われてもいい、自分の生きたいように生きるのだ。
 一日も早くこの家から出たい。親父の顔を見ただけでも、声を聞いただけでも、頭の調子が変になる。

    4月9日 土曜日 晴

夜遅く、明日は宮沢牧場へスケッチに行こうと思いたった。夜10時を過ぎていたが、駅前のバス発着所へ行って、バスの発車時刻を調べた。帰ってからキャラバンシューズを出してみると、埃だらけだった。あまりにも汚いので、外へ持ち出し、ブラシで埃を払った。すると、母がその物音で目を覚ましたのか、起きてきた。私は明日、宮沢牧場へ行くから、7時に起こしてくれるように頼んだ。
 母はうれしいような、心配なような顔をした。外へ出るようになった私をうれしく思う反面、自殺されるのではないかと心配しているようだ。

    4月10日 日曜日 曇り

朝、起こされずに起きた。このごろ、朝早く目が覚める癖がついている。
 窓を開けて見ると、曇っていて寒かった。それでも出かけた。バス停留所へ行くと、十人ほどバスを待っていた。若い女も数人いた。油絵の道具をさげ、スケッチブックを持った、物々しい格好をしていたせいもあるが、私はどうしても彼らのところへ行けなかった。全く以前の引っ込みがちの自分に戻ったような感じ。
 「宮ノ口」でバスを降り、宮沢牧場へ入った。小川のせせらぎが聞こえてきたとき、私の心はおどった。私の最も好きな音。朝の爽やかな空気、芽を吹き出さんばかりにふくらんだ木々の枝。早いものはもう、エメラルドグリーンのもえるような芽をつけている。
 小川の橋の上で、暫しそのせせらぎに耳を傾けた。弦楽器とハープが奏でるような清らかな響き。自然とこんなに近づいたのは何年ぶりだろう。自然は何と美しいのだろう。この自然を私は数年間忘れていた。いや、忘れていたのではない。それだけの余裕が私の心にはなかった。
 長い間、自然から離れていた私を、自然は容易には受け入れてくれなかった。情けなかった。これまで家の中で、小手先ばかりの仕事をして満足し、うぬぼれていた私は、自然の中では全く相手にされなかった。
 あいにく今日は曇りがちで風が冷たく、寒さに気をとられて、どうしても絵に集中できなかった。焚火をすると、その火のほうに気が散った。
 油はどうしても物にならず、水彩に切りかえた。が、それもだめだった。数年前よりも腕が落ちたのを感じた。

帰りのバスは2時、その次は6時半だった。2時では早いし、6時半では遅すぎる。それまでいたら体の芯まで冷えきってしまう。それで、帰りは歩くことにした。
 沢をずっと上まで登ってみた。絵になるなと思って描きだしても、すっかり鈍ってしまった腕はいうことをきかなかった。うんざりして、4時には下り始めた。陽はもう沈みかけていた。
 沢を下りて来ると、下から沢道をバイクをうならせて登って来る人がいた。こんな道をバイクで登るなんて何ということだ! ところがそれは同じ職場の菅野さんだった。思いがけなかった。こんな山奥で会うなんて。職場ではあまり話したことはなかったが、場所が場所だけに打ち解けて話ができた。彼は松の木を掘りに来たという。この上に、目をつけておいた木があるらしい。
 帰り、渋梨を過ぎたあたりで彼に追い越された。私が歩いているのを見て彼はびっくりしていた。彼のバイクの後ろには大きな松の木が乗っていた。彼は気の毒そうな顔をして先に行った。
 町に入った。前方から若い女が自転車でやって来た。その女に見覚えがあった。すぐ近くまで来たとき、私は顔を上げて見た。彼女は私に気持のいい挨拶をした。私も反射的に頭を下げた。中学での同期生であることは確かだが、名前を思い出せなかった。
 宮沢牧場から家まで二時間はかかるだろうと思い、急いで歩いた。すると一時間20分しかかからなかった。いい運動になった。

風呂からあがり、二階へ上がると、宮古精神病院から薬が送られてきていた。速達で一か月分も送ってくれ、手紙も入っていた。なかなか送ってもらえないので、相手にされていないのだろうと暗い気持になっていたところだった。

 

 前略

本日、東京の学会より帰り御手紙を拝見しました。早速薬を送りますが、二、三御答致します。
 当方では全然君の職場に連絡をとっておりません。君の周囲に対する考えが変っただけです。それだけ君の心が、良い方に前進した結果だと思います。上司に話したとのことですが、大変結構です。勇気のいることですから。全て積極的に自分の方から向かって行くようにすれば病気は自然に治ります。
 次に尿道炎のことですが、恐らくこのほうも心配ないと確信します。私も今まで相当数の尿道炎でない尿道炎と云いますか、尿道の痛みを訴える人を診ております。何故なら尿道の病気は悪い病気、梅毒とか淋病とかを直ぐ連想し、一般の人は神経質に考えます。更に面倒なことには尿道即ち性器には神経の分布が多く、敏感で少しのことで緊張が疼痛として感ずる場合があるからです。結局君は、身体的には何等異常なく、医者または、周囲の不用意な言葉に悩んでいる神経症の一人だと思います。私は適当に君をなぐさめるために云っているのではありません。君を診察した後、再度泌尿器の本を読んで確認したのですから。
 薬が君の体に合っているようでしたら当分続けてください。今後又疑問がありましたら遠慮せずに質問して下さい。
 では又

41.4.9
 宮古精神病院
     及 川 新

 

私はこのころ、絵を描きに山の中に入ると、そこでよく不審な男と出会うことがあった。その男から私は、直感的に異様なものを感じた。男は山歩きをする格好ではなかった。
 自分がいつも何者かに監視されているような不安。

研修のために盛岡へ行っていた弟が、このころ帰って来て釜石勤務となった。しかも釜石製鉄所構内にある事業所へ。通用門も私と同じ東門で、職場も近かった。だから弟が時々、私の働いているところへ訪ねて来ることがあった。
 一度、私がトランスの極性試験をしているところへ弟が訪ねて来たことがあった。ところが、工業高校の電気科を出た弟が、私が何の試験をしているのかわからなかった。そこで説明してやった。気持よかった。

 

    5月9日 月曜日 晴

心ばかり焦ってならない。
 苦悩は過ぎ去った。暗黒の夜は去った。やらねばならないことがいっぱいある。土地を買う。家を建てる。そのための勉強。家を建てたらステレオを買う。それまでにはスピーカーぐらいは自分で作れるようになりたい。大工道具をそろえ、家具類は自分の好きなように作りたい。そのための木工技術の勉強。本も読みたい。絵も描きたい。レコードも聴きたい。ロシア語も勉強したい。チェーホフ全集も、読むのを途中でやめている。また今の職場にいるためには電気の勉強もしなければならない。

運命とは全く不思議なものである。龍之介も言うように、運命を決めるのは性格であるかもしれない。もし私が党や同盟に残っていたら(といっても私には不可能なことだったが)、全く違った人生を歩むことになっていたろう。
 党も同盟もやめてしまったが、入ったことは無意味ではなかった。自分の性格を変えようとした私の努力、学習。同志たちの、同志愛ならぬ同志愛。それらが私を叩きつけ、傷つけ、そして鍛えてくれた。やめたということは、負けたことを意味するのだろうか? そうは思いたくない。いや、負けたことになってもいい。このまえある本で「敗北する英雄」という表現を知った。副題に「ロシア文学の人間像」とあった。なんなら、私はその英雄でありたい。これはロシア文学を好む私と無関係ではないだろう。
 彼らは私を苦しめたかわり、私を強くした。今では顔を見るのも嫌な彼らも、私の人生全体からみれば有意義な存在であったかもしれない。

    5月13日 金曜日 晴

今日、会社で「精神衛生相談」というのがあり、行ってきた。場所は製鉄所病院の一室。
 医師は、釜石精神病院の年配の医師(院長)で、明るくて優しかった。
 彼は驚くほど詳しく、私に質問した。私は子供の頃から悩みがあったこともすべて話した。しかしその場には、医師のほかに、製鉄所病院の衛生課長と、私の職場の安全衛生担当者、三浦さんも同席していたので話しにくかった。
 私が話すことを医師は丁寧にカルテに書きとった。それから彼は聴診器で私の胸や背中を調べ、目や喉を診た。しまいに私は性器まで出させられた。性器を見ると医師は、亀頭はいつも露出しておくようにと言った。製鉄所病院の泌尿器科で、最後に突き放されたことを話すと、彼はあきれて笑った。市民病院へ行ったことも話した。すると医師は、市民病院では、朝の尿を検査したのか、と尋ね、朝の尿を調べれば一番よくわかると言った。
 結果は軽いノイローゼだということだった。宮古の病院からもらった薬がなくなり、今はやめていると私は言った。すると彼は、薬はずっと続けたほうがよいだろうと言った。私は薬を彼の病院からもらいたいと申し出た。薬をもらうには直接彼の病院へ行かねばならない。私が病院の場所を知らないので、最初だけ、三浦さんが会社の車で連れて行ってくれることになった。来週中に行くことにした。

    5月20日 金曜日

釜石精神病院へ薬をもらいに行ってきた。初めてなので三浦さんが車で連れて行ってくれた。私一人かと思っていたら、事務所の〇〇さんも最近調子が悪いということで一緒に行った。10時に出かけ、帰って来たのは12時過ぎだった。会社から病院まで車で15分位かかった。薬は一週間分しかくれなかったので、またすぐもらいに行かなければならない。

 

精神衛生相談があってから十日ほどすると、ふっとまた例の病気が頭をもたげた。『またか!』うんざりした。
 発端は精神衛生相談で、医師が「朝の尿を調べたか」と言った言葉にあるらしい。しかし以前のように深刻なものではなく、まもなくそれは薄れていった。
 病院からもらった薬が残り少なくなったある日、会社が終ってからバスで病院へ行った。
 医師が私に、変りはないかと尋ねた。変りないと答えると、薬を変えてみようといってそれまでとは違う薬をくれた。
 しかしその薬を服用すると、どうも具合が悪くなった。頭がぼんやりし、口が重くなった。まるで中途半端な昼寝から覚めたばかりのような気分。仕事中も眠く、夢の中で行動しているような感じ。耳鳴りもひどくなった。目にも変化が現れた。細かい仕事や読書をすることができなかった。どんなに努力しても、焦点を合わすことができなかった。
 私はこの薬を2日間服用しただけで止めた。あとは残っていた以前の薬を服用した。具合の悪い薬をやめ、すっきりした気分になってみると、以前と少し違った状態になっていることに気がついた。例の病気のことも、その薬を服用する前までは、『もしかしたら、まだ‥‥』という不安があったが、それが消え、ばかばかしいことのように思われた。その他、これまで心につきまとっていた垢のようなものが一掃された感じがした。

 

    6月13日 月曜日 快晴

昨日、今日と、梅雨にはめずらしく快晴が続いている。職場でふと、『今日病院へ行ってこようか』と考えた。今の季節、いつ雨が降るかわからない。雨の中、傘をさして病院へ行くのは、思っただけでじめじめしてくる。
 今日行こうと決めた。急いで風呂に入り、会社を出た。病院に着いたのは5時近かった。先生はいた。
 この前もらった黄色い薬のこと、その症状を説明した。先生と話していると、薬剤の感じのいい、若い女性が入って来た。先生は彼女に薬を処方した。薬は従来の「セルシン2ミリグラム」二週間分。
 それから彼と一時間ほど絵の話をした。病院を出たのは6時だった。陽が落ちかけていた。もう8時過ぎまで汽車はない。病院を出た後、病院のすぐ後ろの川原へ行ってみた。川伝いに少し上流まで歩いた。だが小道は途中で消えていた。堤防をゆっくり戻って来ると、向こうから白いトレーニングパンツに白いシャツを着た少女が自転車でやって来た。胸のふくらみが目立ち始めたばかりの少女だった。病院を出た私は、なごやかな気分だったので、そのような目で少女を見た。少女も同じような目で私を見た。視線が合ったとき、心が通じ合うのを感じた。すれちがった後、私はしばらくその少女を見送った。
 小佐野(こさの)社宅前からバスに乗った。途中から、和服姿の中年の女性が私の隣に座った。おしろいの香りが気持よかった。
 このまま駅まで行っても時間が余るので途中でおり、桑畑書店で7時過ぎまで本を見ていた。欲しい本ばかり目につく。「ロマン・ロラン全集」や「太宰治全集」など。
 本屋から駅までは歩いた。港に外国船が入っているのか、外人が目についた。米人らしい。
 汽車の中で「文学入門」を読もうとしたが、どうも身が入らず、「NHKラジオ技術教科書」を出して読んだ。降りるとき、ふと顔を上げると、中学での女の同期生、中野がじっと私を見ていた。挨拶したものかどうか迷ったが黙っていた。

 家へ帰ると一級酒があった。コップで三杯飲んで風呂に入った。私が入る前に、向かいの家の中学生の女の子が入っていた。彼女が上がって私が入った。しばらくして、外で足音がした。彼女だった。みんなはもう寝てしまい、戸はどこも鍵がかかっていた。
 「エイ君だ?」
 外から彼女が声をかけた。
 「うん」
 「時計がなかった?」
 そういえば、手を洗いに流しへ来たとき、脱衣かごに彼女の制服が入っていて、その上に小さな腕時計が乗っているのを見た。
 「かごに入れて置いたんだべ?」
 私は風呂の中から尋ねた。 
 「うん」
 彼女はそう答えたが、私が裸なためか、
 「ううん、いい」
 と言った。私は風呂から出、かごの中を見た。そこには時計と、女子中学生の紐状のネクタイが残っていた。私はそれを持って、いったん浴室へ戻り、それから浴室の窓を開けて彼女に手渡した。ふだんの私にはそんなことはできなかったにちがいないが、だいぶ酔っていたせいか、すいすいとやった。風呂の窓からは、腰から下は見えなかったが、彼女はそれを受け取るとき、うつむいた。何か気持がいい。エッチというのだろうか。

前年の9月から使っていた7冊目の日記帳は、ここでいっぱいになった。このノートの表紙には「苦悩を経て歓喜へ!」と書きしるした。涙でよごれたノートであった。

 

精神病院へはこの後二か月ほど通い、薬を服用した。スケッチブックを持って行って医師に見せたこともあった。
 たわいない病魔も一度頭をもたげた。ちょうどその頃、安全衛生担当の三浦さんが私に、まだその病気が心配だったら、中妻町に間山皮膚科という病院があるから、そこで診てもらってはどうか、と言ってくれた。
 7月25日、その病院を訪ねた。そこの医師は、製鉄所病院へかかったときの、感じのいいほうの医師だった。医師も私に見覚えがあったらしく、「前にも来た?」と尋ねた。私は「いいえ」と答え、製鉄所病院でのことは話さなかった。
 尿をとったが、あまりにもきれいで調べようがないと言われた。翌朝の尿をとって持って来るように言われ、容器を渡された。
 翌日、尿を検査し、異常はないと言われた。
 これでやっと病魔から開放された。

 

    7月16日 土曜日 雨のち曇

今晩、鵜住居の病院で働いている叔母が来た。私は二階の自分の部屋を掃除していた。
 掃除しているところへ叔母が上がって来て、ごみだらけの部屋の真中にちょこんと座った。そして私に尋ねた。
 「エイ坊は何年生まれだ?」
 「十七年」
 「こんなごど言ったら笑うべなぁ」
 「何のごど?」
 縁談であった。菊英さんの妹の娘さんで十八年生まれ、体格もよく、いい娘だという。
 「まだそんなごどぁ考えてない」
 私はそう答えた。叔母は残念そうだった。
 ふだんあまり話をしたことのない叔母、若いうちに離婚してしまたこの叔母が、私の結婚に気を使っているのを見ると、感謝の気持が湧き、またいじらしくなった。
 その娘さんの家は、かなりの金持で山も持っており、家を建てるときは木材をくれるという。しかしそう言った後、叔母は、
 「でも、そんなごどで頭が上がんなぐなってはなぁ」と言った。
 叔母は下へ降り、今度は父と話していた。母がいなかったこともあるが、父に話さず、最初に私に話しに来てくれたのは気持よかった。
 叔母が父と話しているのが、途切れ途切れ聞こえてきたが、私はそれに耳を傾けないようにした。私は父が私の結婚を喜ぶはずがないのを知っていた。
 結局、母が帰って来てから相談することになったらしい。だが母に相談してもどうにもならないだろう。母は今の私の状態を知っているから。
 叔母が帰った後、考えた。結婚は一生しないと決めている私も、若い女性の、はち切れるような肉体を思い、それを思う存分、自分のものにすることができるのだと考えると、芸術も何も影が薄れた。『何ということだ!』自分を叱咤し、現実へ考えを戻す。これからやらねばならぬことを考えると、結婚など考えていられない。
 それに今の私は、大きな転換期にある。性格的にも、人格的にも。これまで柔らかく、はっきりした形をもっていなかったものが、私の内部で形を整えつつある。今のうちにこれらに力を与え、少しでも良いもの、優れたものに形づくらねばならない。ここで結婚したら、せっかく形づくられつつあるものが壊されるか、あるいはそのままのところで止まってしまいそうな気がする。
 一方、未知の結婚生活からは、それにも勝る何かが得られるかもしれない、と考えたりもする。
 だが、いま結婚するくらいなら、最初の縁談を断りはしなかった。いま結婚することは、まえの娘さんを無限に傷つけるように感じる。

    7月22日 金曜日 小雨のち晴

結婚という問題を真剣に考えるようになった。
 最初の縁談をもって来られたとき、私は生きる望みを失い、死か、精神病院かと、苦しみのどん底にいた。結婚すら考えられない状態にあった。
 いま私は、生への限りない力に満ちている。自分がみんなと同じようになった。いや、もしかすると、もっと優れているかもしれない。
 一生結婚しないという決心は徐々に崩れ、いつかは結婚するかもしれないと考えるようになった。

  7月31日 日曜日 雨のち曇

自信がついてきた。対人関係にしても、女性に対しても。
 今まで、仕事の上で、私なんかとても及ばない高いところにいるように思われた人間も、大したことなく感じられるようになった。自分よりわずか一歩進んでいるにすぎない。

  9月2日 金曜日 曇

今晩9時45分からテレビで「コンサートホール」があった。それを聴くため、15分間で風呂に入った。
 風呂場の蛍光灯が古くなったのか、なかなか点かない。それで勝手場の白熱電球を点けて入った。すると、その光がドアのすりガラスを通し、柔らかい光となって浴室内を満たした。浴槽に沈もうとする自分の身体をながめた時、その美しさに感動した。自分の身体を美しいと感じたのは、これが初めてだった。性器まで美しく見えた。幸福だと思った。
 風呂から上がって「コンサートホール」を聴いた。これもとても感激した。

 

このころ、会社が私の町の、町外れにある祝田地区を社員に分譲するというので、私も申し込み、70坪を45万円で購入した。9月21日、代金を払い、契約書を受け取った。代金は私の社内預金を40万円下ろし、家から5万円出してもらった。
 祝田地区は、宅地造成されるまえは、田んぼや果樹園で、そこには母の実家の田んぼもあり、私が子供の頃、遊んだ場所でもあった。

 

  9月28日 水曜日

数日前から稲刈りがあちこちの田んぼでやられた。このまえまで青々していた稲、それに黄味がさしてきたと思ったら、もう刈られだした。山々を見ていると、その色の変化がゆったりしているのに、田んぼのほうは、時の過ぎるのが目まぐるしいほど早く感じられる。自分に対し焦りを感ずる。
 刈り取られ、むき出しになった田んぼを見ると、そこに寂しさと孤独を感じる。そしてその中から弱さのための強さといったような力が湧いてくるのを感じる。

  10月31日 月曜日 晴

最近調子が大変悪い。一か月ばかり薬をやめているので、そのせいかもしれない。気持がふさぎ、神経は過敏になり、頭が重い。
 でも以前のように悩みがあるわけではない。他人と話をすれば結構話せる。それに思考も、薬を飲み、調子が良かったときよりも深くなり、ふだん何とも感じないで見過ごすようなことにも心豊かに反応する。芸術的である。
 だが最もいけないことが起こった。職場の者たちが、むかしのように私を変な目で見、笑うようになってきた。初めのうちは気にしないで、『くだらないやつらめ!』と思っていた。しかしだんだんがまんできなくなってきた。そんなやつらには、私はもう挨拶もしなくなった。
 だが、その日その日の彼らの異様さが、一塊になって頭にこびりついて離れず、神経が緊張したままになる。夜も寝つきが悪くなる。
 『立ち直ったおれに何でそんなことをするんだ!』このまま増長するようだったら彼らに抗議しようと思った。

  11月26日 土曜日 晴

このごろ、人生について深く考えるようになった。短い一生をどのように生きるか。私の結論は、「面白いことをして過ごせばそれでいい」ということになった。
 数学だ、物理だと、頭を痛くして勉強し、それによって相当の仕事につき、高い報酬を得、楽に生活を送ることができたとしても、それが本当の幸福だろうか? 確かにその人間にとり、自分の腕がよく、他人以上に仕事ができるという誇りはあるかもしれない。だが私はそれだけでは物足りない。死んだ後に何が残るだろう。社会(経済)への貢献だろうか。私にとっては、本当の生きがいは、絵を描き、本を読み、音楽を聴き、涙を流し、喜び、笑い、自分を少しでも豊かにし、芸術の無限を、少しでも高く登りつめることである。
 それは、大衆への奉仕にもつながるものとなるであろう。

  12月3日 土曜日 晴

私の神経がこのままでいてくれればいい。
 十数年にわたる悩みで、すっかり傷ついた神経、一時は死を真剣に考えた心が、今では日、一日と良くなりつつある。いつも喜びが心の中にある。寒色をおびた喜びであったにしても。
 今から九か月前、今年の3月、悩みの絶頂にあり、生きる望みも失い、あまりの苦しさに、家に居たたまれず、夜の堤防を泣きながら歩いた頃、はたして今の私を思ってもみたろうか。あの頃は先のことを考えることはできなかった。考えるにはあまりに恐ろしかった。死か、精神病院か、二つに一つだった。
 3月の末、どうすることもできなくなり、母に泣きながら話した。母の驚き。
 少しでも遠く、世間に知れないようにと、宮古精神病院へ母と二人で行ったこと。窓の外の景色、冬の海、雪景色。それらが異常な力をもって目に映った。母の疲れた顔。
 あの頃を思い出すと、今の私は、良くなったことを喜ばなければならぬはずなのに、なぜか涙が流れる。

 


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