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(第一編)            

第八章 (初恋の女への追慕)   第九章 (絵―通信教育)   第十章 (スクーリング)   第十一章 (少女への恋)    第十二章 (弟の病気)   第十三章 (モデル)   第十四章 (家から寮へ)

 

     第八章 初恋の女への追慕

 

      昭和41年(1966年)  

暗黒の夜も去り、夜明けがやってきた。
 もう一つの新しい生命を見つけたような、生まれ変ったような喜び。自信も生まれてきた。しかも、揺るがすことのできない、しっかりした基礎の上に立った自信が。女性に対するコンプレックスも消えた。
 そうしてみると、あの彼女のことがしきりに思い出されるようになった。私の前から去っていった彼女。彼女のことを思うと、胸は甘さを含んだ苦しさで締め付けられた。涙がこみ上げた。彼女が私の前に現れるのがもう少し遅れ、今だったら。
 私は彼女のことで苦しみ始めたとき、自分の神経を気遣った。大丈夫持つだろうか? しかし、彼女を思い、苦しむのは甘い苦しみであった。以前の苦しみとは全く性質の異なるものだ。だから、それが私の神経にどれだけこたえるか分からなかった。それでも彼女のことを考えるようになってから食欲もなくなり、体重が2キロ減った。
 過去の日記を取り出して、彼女について書かれた部分を読み返した。読んでいて、彼女が去っていったのは無理ないと思った。なかには読むに耐えず、手早くページをめくったところもあった。日記を読みながら、私は甘く寂しい絶望へと落ちていった。涙がノートの上にポタポタ落ちた。彼女がかつて私の前に現れなかったらこんなに苦しむことはなかったろう。だが彼女のことをどんなに思ってみたところでどうにもならないのだ。過ぎ去ったことなのだ。これは運命のしわざなのだ。
 だが、どんなに自分を納得させようとしても、そこにはどうしようもない未練が残った。彼女に受け入れられなかったのなら、まだあきめもできよう。そうではなかった。二人とも互いに心を惹かれ合っていたのだ。それが私のために。
 生き返った今の私なら、こんな結末はつけなかったろう。そう思うと胸をかきむしりたくなる。わずかの時のずれで、運命が左右されたのだ。
 彼女が私の心に生きているかぎり、私は結婚する気になれないだろう。もしかすると、彼女は、今の私以上に苦しんだのではないのか? 彼女が去った理由は全部私にあったのだ。

 

        12月18日 日曜日 晴

町の奥地へ川伝いにずっと歩いた。スケッチブックを持って。家を9時過ぎに出、てくてく歩いた。寒くはなかったが、朝のうち風が強かった。
 山奥で川は沢に変わった。私はその沢を描きたかった。葉がすっかり落ちた林の間を、冷たく流れる沢を。同時に、自然の中で思う存分彼女のことを考えたかった。

収穫はスケッチ二枚だけだった。沢のゆるやかな流れの中に、ぽっかり頭を出した岩の上に乗って描いた一枚が油絵になりそうだ。だが油絵にするにはスケッチが不十分だ。こんどの休みにもう一度出かけて、しっかりスケッチして来ようと思う。

道のない沢を歩きまわった。びっくりするほど大きな鱒(もしかすると岩魚)が泳いでいた。疲れて、林の中の枯れ草の上に寝ころんだ。太陽が暖かく輝いていた。葉の落ちた木々の枝を通して青空が見えた。風が木々の枝を通り抜ける微かな音が聞こえた。沢のせせらぎが快く響いた。
 彼女のことを思った。孤独な私を見たら彼女はどう思うだろう。涙が落ちそうになった。運命のいたずらがひどすぎた。
 先週の日曜日に自慰をしたきり、これまでの一週間していなかった。彼女のことを思うと、自慰などする気がなくなるのだった。
 だがこうして、独り静かに林の中にいると、自慰も何の抵抗もなく自然にやれた。その自慰からくる快感は、あきらめを伴った清らかなものだった。

 

        12月21日 水曜日 晴

彼女のことで涙を流すことはなくなった。彼女のことは、一つの悲しみとして私の心に残った。彼女を思う心は、私を奥行きのある人間にしてくれる。彼女に恥じない人間になろう。
 それにしても、彼女は何と気高いひとだったろう。あの、ノイローゼ気味で、他人とろくに話もできない、暗い顔をした、着たきり雀の、そして、たいていの女から気味悪がられ、笑いものにされていた私。職場ではあの分解班で、油で真黒になって働いていた私。ろくに人間扱いされていなかった私。そんな私を彼女は何か月もの間、思い続けてくれたのだ。そして私の前から去って行った。
 重く沈んだ私の心に突然嵐が巻き起こる。彼女が現れるのが今だったら! 今の私なら、当時の彼女を二週間以上放っておくことはなかったろう。
 やがて嵐もおさまり、あきらめをともなった静けさに代わる。

 

 

     第九章 絵──通信教育

       

 昭和42年(1967年)  

昭和42年の年が明けた。
 武蔵野美術短期大学の通信教育を受けることを決心した。それまで迷っていたが、彼女を失ったことからくる心のむなしさを、何かでもって埋め合わせないと耐えられなかった。

1月7日、「入学案内」を請求する手紙を投函した。十日後、その案内書が送られてきた。1月18日、会社から帰って来ると、テレビの上にオレンジ色の大きな封筒が乗っていた。私宛で、袋には「武蔵野美術大学」と印刷されていた。心が躍った。私はそれを直ちに手に取ることはできなかった。
 入学許可の選考には、高校の「卒業証明書」と「成績証明書」が必要であった。それらを高校から取り寄せ、1月23日、大学へ送った。
 1月末、入学許可の通知が送られてきた。許可されるだろうと思っていたが、それを確かに手に取るまでは不安だった。
 実際に学習に入るのは4月からなので、それまでに数学と英語の基礎を勉強し直そうと思った。

職場のほうは相変らず面白くない。みんな、ばかみたいに見えてきてならない。誰とも話をしなくなった。
 通信教育では教職課程を受けようと思う。職場の面白くなさからいって、いつ会社をやめるようになるか分からない。

絵を描きたいが時間がない。私も毎日、専門に絵を描いたなら、少しは名の知れる絵かきになれるかもしれない。そう思うと悲しくなる。私がじっくり絵を描けるのは日曜日だけだ。だがその日曜日も休めないことがある。

通信教育の実技課題の中には石膏デッサンがあった。少し手をならしておこうと思い、石膏像(ミロのヴィーナス)を借りに荘介さんのところを訪ねた。荘介さんというのは、私の町の若い絵かきで、彼とは以前から交友があった。
 彼は居た。アトリエの真中に、落ち着かない様子で立っていた。アトリエに新しい絵は見あたらなかった。ただ四十号に、セーラー服姿の彼の妹が荒々しくデッサンしてあった。絵具がなくてそれ以上は描けないという。
 彼は私に、五十号の枠にキャンヴァスを張ってほしいような口ぶりだった。彼は私がキャンヴァスを一巻買ったのを知っていた。私は張ってやることにした。二人でアトリエを出た。私は石膏像を抱きかかえ、彼は枠を持って。

彼は、私が部屋の隅に放っておいた、四号の小さな油絵を見るなり言った。
 「これはいい!」
 それは私が宮沢牧場を描いた絵で、手こずって、投げ出しておいたものであった。
 しかし時々その絵を見て、私は心がなごむのを感じた。そのたびに、私は不思議に思った。この絵がどうして私の心を打つのだろう? この絵のどこにそんな力があるのだろう?
 しかし、その絵が荘介さんの目にもとまった。彼はその絵を、今度の釜鉄美術部の小品展に出品するよう私にすすめた。私はその絵を不当に扱っていたことを知った。

3月3日(金)がその小品展の作品搬入日だった。数日前からその絵の画題をあれこれ考えた。早春、まだ風が冷たく、人気のないあの宮沢牧場の静けさを表わす画題がなかなか出てこなかった。「早春」にしようか、それとも「小川のある風景」にしようかと迷った。搬入日の前夜、その絵をながめていたら、ふとその小川からせせらぎの音が聞こえてきた。それですぐに「せせらぎ」とした。実にいい画題だ。
 当日、たくさんの作品が搬入されていた。その中で私は自分の絵を出すのが恥かしかった。私の絵はあまりにも土くさかった。しかし、美術部長の早野さんはその絵を見るなり言った。
 「ずいぶん勉強したね」
 朽木先生も誉めてくれた。大藪先生は何も言わなかった。
 朽木先生も大藪先生も釜石製鉄所教習所の先生で、朽木先生は私たちの担任だったし、大藪先生は教習所長だった。
 その絵は彼らの心を捕えたらしい。それは何だろう? その絵を描いた頃の私の精神状態によるものか?
 その頃、私は精神病院にかかり、生きることに微かな喜びを感ずるようになっていた。その喜びを絵に向け、独り、早春の宮沢牧場で描いた。風が冷たく、焚火をしながら描いた自分の姿が懐かしく思い出される。
 村井さんもその絵に強く打たれたらしい。一緒に帰りながら、熱心に絵の話を続けた。
 「おれのような描き方(タッチ)で、おめぇさんのような感じが出せればいいなぁ」

2月に入ると、会社の酸素製造設備の配電盤、制御盤が検収品としていっぱい入ってきた。それらをチェック、テストするには人手がいくらあっても足りなかった。それまで私はいつも誰かに付録のようにくっついて仕事をしていた。先輩の鈴木さんが私に言った。
 「いつまでもそれではだめだ、一人でやってみろ」
 彼は私に一束の図面を渡した。彼はその内容を一通り説明した。私は途方にくれた。でも独りで、ああでもない、こうでもないと考え、図面と実物をにらめているうちにだんだん分かってきた。しかし、シーケンス(制御回路)は分からなかった。制御盤をテストするには、シーケンスを読めることが絶対に必要だった。
 私は本屋で電気の本をあさっているうちに、「シーケンス・ダイアグラムの読み方」(オーム社)という本を見つけた。私はその本で一生懸命勉強した。その結果、シーケンスを少しずつ読めるようになった。
 そのうち鈴木さんが、シーケンスを含んだ図面一式を私に渡して言った。
 「この盤は急がないから、一人でやってみろ」
 私はそれを他人の何倍もの時間をかけてやった。自分にもそれができたときの喜びは大きかった。
 工長も安心して私に仕事を任せるようになった。こうして次から次へと入荷してくる制御盤、配電盤をテストし、シーケンスに慣れ親しんでいった。
 この時、苦労して勉強したシーケンスが、20年後に「昔取った杵柄」として私を助けてくれるようになるとは夢にも思わなかった。

3月になると、私を教育してくれた鈴木さんが試験班から抜けた。工長の及川さんも、後輩の宮田君も東海製鉄へ行き、試験班では私が一番古くなっていた。新しい工長には、以前、試験班にいたことのある山崎さんが戻って来てその任務についた。彼は、私が党をやめる頃、入党した党員であった。この山崎さんが試験班を留守にするときは、私が中心にならなければならなかった。

このころ、ともすると、まわりのものが無意味に見えてきてならなかった。次はこのころの日記の一部である。

 

人生が、それも自分のではなく、他人の人生がまるで無意味に感じられ、私自身まで嫌になってしまう。
 多くの人間は、成人するとそれぞれ似合った相手と結婚し、子供をつくり、あくせく働いて育て、そして年老いて死んでいく。多くの人間は、生まれようが死のうが、歴史には少しの跡も残さない。そしてすっかり忘れられる。その人間の一生の仕事といえば、というよりは後に残したものは子孫だけである。そしてそのこともあたりまえのこととして、誰の注意も引かない。そうしたら、一体その人間は生きていて何の意義があるのだろう。
 この世の中が、無意味なものの塊でできているように思えてならない。

 

姉夫婦の家が完成した。
 私の家から歩いて数分のところに畑があった。姉の家はその畑の一角に建てられた。花や野菜をつくり、子供の頃から一生懸命働いた畑がどんどん姿を変えていった。
その家の二階を私に貸してくれるという。姉の家を見たら、私も早く自分の家を欲しくなった。

 

        3月5日 日曜日 曇のち雪

私がこれまでの縁談を受け入れていたら、私の生涯はどのようになっていたろう。大して才能もない頭をしぼるのと、美しい女性と結婚して平凡に暮らすのと、どちらが幸福なのか。
 彼女を除いて、私の理想的な女といえば、高校の女生徒の中の、まじめそうな少女である。だが彼女らも卒業してしまうと平凡な女に変ってしまう。制服に包まれている間だけが美しい。

 

3月半ば、岩波新書の「天才」を読み、神経をかき乱された。
 このころ私は、自分の変人ぶりを何とも思わなくなっていた。むしろそれを誇りにさえ思うようになっていた。ところが、「天才」の中で、それを病理的にみていくのを読み、私自身がその病理の深みに落ち込んでいくのを感じた。自分はそのうち、治療しようのない狂人になるのではないのか? 自分は社会に適応できない人間だろうか? そのうちそうなるのだろうか? そう思うと、今努力していることがすべて無駄なことのように思えた。
 このような本を読まなければよかったと後悔した。しかし読むのをやめることはできなかった。この本を知らなかったら、その日その日が喜びに満ちていたろう。
 しかし数日後には立ち直った。何もそんなに心配することはない。そのうち頭が狂うかもしれないと思って悩んだところで何になろう。なるようにしかならないのだ。これまでに数えきれない不幸な人たちが、魔の運命に捕まり、苦しんできたのだ。それなのに私は、ただ、そうなるかもしれないと考え、苦しむなんてばかげたことだ。気が狂って死のうが、どうなろうが、どうでもいいではないか。そんな先のことは誰にも分からないのだ。運命なのだ。ただそれまでに、できるかぎり優れた人間になるよう努力するだけだ。

3月後半、大学からテキストや講義課題集が送られてきた。英語はやさしそうだったが、数学はいきなり「数学V」から始まっていた。これまで「数学U」を勉強しなおしていたが、さっぱり分からない。どうしたものだろう。計算式を見ると頭が痛くなる。英語は、NHKラジオの大学講座を利用して学習するのだが、このあたりは中波がよく受信できない。
 4月に入ってからは、姉の家で過ごすことが多くなった。二階には二部屋あり、六畳と四畳半。六畳間は板張りのままアトリエとして使い、四畳半は寝室として使った。石膏像やイーゼルは、いつでも描ける状態にセットしておくことができた。
 最初の課題は、石膏の幾何形体だった。幾何形体は自分で買うまでもないので、教育委員会に勤めていた兄に頼んで中学校から借りてもらった。石膏像はミロのヴィーナスとアグリッパを用意した。ヴィーナスは荘介さんから借り、アグリッパは自分で買った。

弟はこのころシャープに入社することができ、テレビ修理の講習を受けるために大阪へ行った。

 

        5月1日 月曜日 晴

メーデーで休み。
 数日、初夏のような日が続いている。日中は二十度を越える。桜の花も終りに近づいている。山々は新緑におおわれてきた。麦畑は目の覚めるような青さだ。
 暖かくなり、頭はぼんやりするし、体もだるい。勉強に身が入らない。それとは反対に青春の血は湧き立ち、若い女性を見ては胸を焦がす。彼女らは待っていたように薄着になった。胸のふくらみが目につく。すると、こうして通信教育であくせくしている自分は、これでいいのだろうかと考えてしまう。
 私だって結婚する気になれば、すぐにでもできるのだ。縁談はこれまでにいくつかあったが全部断った。はたして私はいつ結婚するのだろう。もう少しで二十五歳になる。青春も終りつつある。季節がら、あちこちで結婚式が行なわれる。あくせくしているうちに自分だけが取り残されてしまうような気がしてならない。
 結婚して平凡に暮らすか?(必ずしも、結婚してしまえば、平凡な生活しか待っていないというわけではないが)。結婚はそっちのけで、どこまでも自分を高いところへもっていくよう努力するか? しかし、本当に理解しあえる女性と結婚して、自分の思う道を進むことができたら、それに越したことはない。
 結婚するにしても、彼女以上の女性でないと、自分が墜落した人間になるように思われてならない。私の人生の路上に彼女が現れていなかったら、女性に対する考え、結婚に対する考え、さらには生き方まで大きく変っていたかもしれない。

 

        5月14日 日曜日 晴

最近、私は成熟しきった女性には魅力を感じなくなった。大人になりつつある高校生に心を惹かれる。制服のせいだろうか。顔がどうであろうと、あの制服を身に着けただけで顔が生き生きして美しくなる。それは制服そのものの配色のせいだけでなく、制服─高校─学業─精神美となって生き生きするものだろう。現にこれまで、あの制服に身を包んでいた生徒が、卒業して制服を脱いでしまうと、全く平凡な女になってしまうのを見てがっかりしたものだ。制服を脱いでも、それまでの美しさを維持できたら、その女は本物である。
 私は気持が幼いのだろうか、二十四歳にもなって女子高校生に心を惹かれるなんて。毎年春、新しく通学に加わる顔ぶれの中から、自分の好みの女生徒を見つけては、卒業するまで見守る。全く滑稽なことかもしれない。
 そして今また、一人の女生徒に心を惹かれつつある。女子高校生にこれほど強く心を惹かれたことは、これまでになかったろう。

私が最初に送っておいた実技課題(幾何形体)が、5月26日、大学から返送されてきた。胸をおどらせて開けてみると評価は全部「C」であった。がっかりした。講評、指導書を見ると、ずいぶん突っ込んだことが書いてあった。絵のむずかしさを改めて感じさせられた。

 

 

     第十章 スクーリング

 

 昭和42年(1967年)  

夏になり、通信教育のスクーリングがやってきた。期間は六週間であった。
 スクーリングとしてはもとより、一人で上京するのは、私には初めての経験であった。不安であった。なにしろ、精神病院にかかり、立ち直り始めたのが一年ちょっとまえであった。それに有給休暇もそんなになかった。それで、そのスクーリングを二回に分け、三週間ずつ出席することにした。
 宿泊は昭島市のいとこ夫婦のところにお願いした。大学は小平市だからそんなに遠くはない。宿泊は大学の古い校舎(吉祥寺校)も利用できたが、昼も夜も団体生活というのは神経が疲れそうで不安だった。
 スクーリングに出発する数日前、釜石精神病院へ精神安定剤をもらいに行った。先生はいなかった。受付の若い女たちは私を覚えていてくれたが、私は薬剤の女性しか覚えがなかった。私は薬を二週間分もらった。

 

7月14日(金)の夜行で上京した。翌朝、昭島市のいとこのところに着いた。
 この地の夏の暑さには閉口した。東北の暑さと異なり、蒸し風呂のようだった。
 授業は17日、月曜日から始まった。初日はスクーリングの説明と体育の講義があり、二日目は体育の実技で、一日中、バスケットボール、ソフトボール、それにサッカーをやらされた。単位を取るためとはいえ、むちゃだと思った。おかげでその後、一週間ほど体が痛かった。
 三日目になってやっとデッサンに入った。まずは幾何形体から。翌日もそのデッサンの続きで、正午までに完成させなければならなかった。昼近くになって教授がまわって来た。私の番になり、教授は私の席に座って私のデッサンを見入った。
 「これはいいです‥‥、良くできました」
 そう言って彼は全然手を入れないで席を立った。去るとき、彼はもう一度私のデッサンを鋭く睨んだ。そのときの私の誇り、喜びはなんと大きかったろう。
 正午にこのデッサンを提出した。午後からはまた体育であった。代々木オリンピックプールまで出かけて水泳。

上京してから数日間は、緊張の連続で胸がいっぱいだった。一週間ほどしてやっとこの生活にも慣れてきた。そのとき、ふと自分の変化に気がついた。知らない土地へ出て来て、知らない人々の中に入ったら、話すということに苦痛を感じなくなっていた。分からないことは誰にでも気軽に尋ねることができた。
 しかし、この生活に慣れるにつれ、私の心の中に空虚感が芽生え、しだいに大きくなっていった。一週間ほどして、やっとその原因が分かった。友達がいないということだった。友達というよりは恋人。みんなは二人または数人のグループで楽しくやっていた。私は何をするにも独りだった。切実に女ともだちがほしかった。
 最初のデッサンに入るまえに、広い講義室で美術科の学生が一緒に講義を受けた。そのとき、私の右前方の席にいた一人の女が目にとまった。講義が終り、我々はいくつかのクラスに分けられ、それぞれのデッサン室に入った。彼女は私と同じクラスだった。ほっとした。でも、彼女の席と私の席は少し離れていて、しかも背中合わせだった。
 彼女は左ききで、熱心に描いていた。他の者達が席を離れて他人のデッサンを見て歩いたり、外へ出たりするのに、彼女は席を立つこともなく、ひたすら描いていた。彼女も独りのようだった。
 私が自分のデッサンを少し離れたところから見るため、席を立ち、彼女の近くまで行った。そのとき彼女の横顔を見た。彼女の顔はするっとした玉子型で、印象に刻むような特徴はあまり感じられなかった。ただその中に冷たさと鋭さを感じた。髪型はポニーテール。
 水泳の時間、我々はいくつかのグループに分けられた。25メートル以上泳げる者、5メートル以上泳げる者、そして泳げない者の三つのグループに。彼女は私と同じ、25メートル以上泳げるグループに入った。彼女が私を意識しているのが感じられた。
 泳いでいる間、私は彼女に無関心を装った。すると、彼女も私を避けるようになった。
 途中で教師が、水泳についての説明をするために、みんなをプールから上げた。説明を聞いていると、私のすぐ右後ろに立っている人と、腕と腕が触れあった。女の肌の感触だった。そっと目を横に移すと、彼女の水色の水着が目に入った。どうしたことだろう。さっきまでは私を避けるようにしていたのに。彼女はよく説明を聞こうとするかのように前へにじり出た。私たちのすねが触れあった。
 その後、私が水から上がり、プールサイドの椅子で休んでいると、彼女は私のちょうど前まで泳いで来て、しばらくそこにいることがあった。私は彼女と目を合わさないように別の方ばかり見ていた。彼女もめったに私の方を見なかった。
 彼女と話してみたい。しかし、関心のない女性となら気軽に話せるのだが、いったん特別な感情を抱いてしまうと、近寄りがたくなる。口をきけばうわずった声が出るだろう。

翌日からは、ずっとデッサンが続いた。その2日目、彼女はしきりに私のわきまで来て、彼女自身のデッサンをながめた。話しかけようと思えば話しかけらた。それなのに私は、ますます関心のない態度を装った。とうとう、彼女のそばで描いていた男が彼女に話しかけるようになった。その後、彼らはしきりに話をするようになった。私は気が気でなかった。
 帰り、私は寂しくデッサン室を出た。すると、後から彼女が出て来るのが感じられた。私は彼女の視線を背中に感じながら歩いた。心はうつろだった。宿へ帰って独りきりになるのがとても寂しく思えた。少しでも遅く帰りたかった。ちょうどそのとき、私は校内の図書館の前まで来ていた。私は目的のないまま、その方へ向かった。図書館に足を向けたとき、その建物の正面の大きなガラスに、彼女が男と歩いているのが映った。気のせいか、彼女が私を嘲笑しているように感じられた。いよいよ寂しくなった。図書館で私は上階へは行かず、下で学生の作品(デッサン)を見て歩いた。
 どれも大したことなく見えた。美術大学というから、みな、すごい腕と神経を持っているものと思っていた。がっかりした。ただその中で一点、憎いほどよくできたのがあった。メヂチの石膏デッサン。短大二年の女であった。見つめているうちに、それを破り捨てたい衝動にかられた。私はそこから離れ、その石膏像の実物の前へ行き、しばらく立ちつくした。彼女に関した寂しい思いを、明日からのデッサンにぶつけようと決心した。
 石膏デッサンにおける私の欠点は私自身気が付いていた。私はあまりにも対象にとらわれすぎる。形に対しては自信があるのだから、タッチを荒くすれば生き生きしてくるのだ。形がしっかりしていて、タッチが丁寧だと、おとなしすぎて感動のないものになってしまう。この日、立方体と円柱の組み合わせをデッサンしていたとき、教授が私に指摘した。
 「ずいぶん丁寧ですね。でも石膏像を描くときはもっと荒く描くといいです。これくらい調子が見えるのですから」
 第二週目から石膏像のデッサンに入った。私ははりきった。ところがこの週から、助手として私たちのデッサンを見てくれていた若い男が、故意としか思えない調子で私をこき下ろした。この週の終りには、全員の作品を壁ぎわに並べさせ、批評したのだが、彼はそこで私のデッサンを意地悪くこき下ろした。ショックだった。しかも意識していた彼女の前で。
 私のそのデッサンは、前日、中村教授がまわって来たとき、
 「その描き方でいいです」
 と言って、全然手を加えなかったものなのだ。
 この男の行為を見て私は考えた。他の何者からか、私に関する悪感情を植えつけられることなしに、このようなことをできるものだろうかと。

私のスクーリングは8月5日、土曜日で終った。気分は暗かった。原因はいくつかあった。他の学生らはあと三週間続けるのに、私は半分だけで帰らねばならないこと、友達ができなかったこと、助手にこき下ろされたことなど。
 キャンパスを出るとき、事務室に寄り、スクーリングにおける私の成績を見せてもらった。一週目の幾何形体は二つともA(−)、二週目のアグリッパはA(−)、かめはB(−)、三週目は二つともBだった。
 二週目のアグリッパは、さんざんこき下ろされたのでCだろうと思っていたが、なんとA(−)だった。

日の朝、昭島を発ち、夕方いなかに着いた。初めてのスクーリングは私にとり緊張の連続であったが、充実した楽しい期間であった。この濁りのない池で泳いでいたら、私の神経はどんなに早くいやされることだろうと思った。
 スクーリングからの帰り、列車が釜石に近づくにつれ、私の心は落ち着きを失った。列車が釜石を避けて走ってくれればいいと願った。どぶの中にむりやり沈められるように感じた。会社がこれほど私の心の負担になっていたことを知り、驚いた。
 翌日から出勤した。上京するまえと同じ日々が始まった。朝起こされ、飯を食べる。通勤列車に乗り込む。むかし見慣れた眠ったような顔々々、何もかも古ぼけて見えた。職場へ行ってみると、彼らはあまりいい顔をしなかった。
 一週間もすると、スクーリングの雰囲気も、頭の中で薄れていった。それなのに他の学生はまだあのデッサン室で、今もデッサンしているのだ。私は寂しくなった。二週間もすると、気持が滅入った。どうしてこんなに滅入るのか自分でも分からなかった。スクーリングに行くまえの、あの誇りに満ちた、明るい気持はどこへ行ったのだろう?
 土曜日、悲しくて何もする気になれず、夕食後すぐに二階に上がり、ふとんに入った。スクーリングで描いてきたデッサンを見たら気分がよくなるのではないかと思ったが、だめだった。
 夕暮れの光の中で、顔をふとんの中に埋めた。その暗さに安らぎを感じた。この安堵感は遠い昔に一度経験した感覚のように思えた。私がまだ乳呑児だった頃、外界の何かに怯え、母の胸に顔を埋めたとき感じた安堵感、それが記憶のどこかに残っていて、今よみがえってきたようだった。
 こうして落ち込んでみると、スクーリングでの女の子のことも、私にはありうべからざることのように思えた。私のような者が彼女に近寄ることを望んだなんて。そして彼女が他の男と親しくするのを悪く思ったりしたなんて。

だが、この暗い気分は、別のことで紛らわされた。まえから、弟と二人でステレオを買う相談をしていた。弟の勤務先、シャープの製品を安く買えるというので、カタログを見、機種も決めていた。弟がそれを8月末運んで来た。心をおどらせて梱包を開いた。それを見ていた父は、あまり喜ばない様子で、すぐにふとんに入ってしまった。
 それから数日間は、すっかりステレオのとりこになった。二晩がかりで「エフゲニ・オネーギン」全曲を聴いた。それまで安物のプレーヤーにラジオをつないでモノラルで聴いていたが、ステレオで再生される音は全く違っていた。私は音に包まれ、溶け込み、我を忘れた。

 

 

     第十一章 少女への恋

 

 昭和42年(1967年)  

女子高校生に恋をしたようだ。朝、汽車で同じところに乗るセーラー服の少女。彼女も、私に心を惹かれているようだ。
 彼女の胸のバッジを見ると、彼女は二年生だった。たぶん十七歳だろう。私と七歳も違うのに、どうして私に関心をもつのだろう。私が十七歳の頃は、二十歳を越えた女性は別の世界のもののように思えてあまり関心がなかった。性の違いだろうか。
 独りになったとき、勇気と自信をもって女性に近づかねばと思う。しかし、彼女が近くにいると、まともにその姿を見ることもできない。私が彼女を見ているのを彼女に感じられはしないか? そのことによって彼女に軽蔑されはしないか?
 彼女はまだ少女である。それなのに、彼女を見ると胸が高鳴る。もっと兄のような愛情をもてないのか。そうしたら近づきやすくなるのではないか。
 一方、私は考えた。私が彼女に心を惹かれるのは、あの年頃からくる魅力によるものではないのか? もし、大人になった彼女に出会ったとしても、別に何とも感じないのでないか?

これは夏の終りのことであった。それから一か月ほどの間、彼女も私も心が揺れ動いていた。彼女がいつものところに乗るのをやめたこともあった。目が合うと、彼女も私もあわててそらした。
 10月2日、月曜日、彼女が冬服姿で乗って来た。今日から衣更えなのだ。初めて彼女の冬服姿を見た。とてもかわいかった。夏の間しまっておいたのを着てきたのだろう、肩のあたりに折り目がついていた。私は乗車してくる彼女をじっと見つめた。以前、彼女を見るときの私はおずおずしていたが、このころにはまともにじっと見つめることができるようになっていた。
 いつもそうであるが、彼女は乗り込んで来ても、私から見えないように他人の陰に立った。この朝もそうであった。釜石へ着き、降りるとき彼女はチラと私を見た。私も彼女を見ていた。彼女はあわてて向こうを向いた。私の胸は何ともいえない喜びで満たされ、思わずほほえんだ。

翌朝、乗車してきた彼女が少し迷っていたが、私のすぐ隣に来て立った。後から後から乗り込んで来る客に押されて、彼女と私の体が触れあった。全く予想していなかった。私は本を読んでいたが、驚きと喜びで震え、文字を追うことはできなかった。
 それまで私の視線を避けるようにしていた彼女が私の隣に立っていた。そして、時々私を見上げた。私が持っていた本にも目をくれた。彼女が私に何かを求めているのを感じた。知らないふりして本を読んでいるのは、彼女を傷つける。私は彼女に応えなければならない。それが私の義務なのだ。だがまわりには乗客がいっぱいいた。彼女の後ろには工業高校の男子生徒がいた。話しかけられるか? とてもできない。しかも何を話すのだ? 彼女はじっと待っていた。私は彼女の方を見る勇気はなかった。ひざは細かく震えた。私は視界の隅の方でやっと彼女をとらえた。清らかなセーラー服の少女。思わず彼女を抱きしめてやりたくなった。
 私は本を読むのをやめ、それを胸に抱えた。汽車が揺れ、彼女と私の腕が強く触れても、彼女も私もそれを避けようとはしなかった。
 とうとう汽車は釜石に着いてしまった。私は謝るような気持で彼女の横顔をそっと見た。彼女の顔は少し紅潮していて美しかった。ホームに先に降りた彼女は、私を待つかのように、ゆっくり歩いた。私は明日、彼女に手紙を書こうと思った。彼女に今日の償いをするつもりだった。

 

私があなたに手紙を書く。そのことだけで何のことかあなたには分かるでしょう。
 私は、あなたに同じ車両で会ったとき以来、心を惹かれていました。しかしこのようにあなたに手紙を書くようになろうとは夢にも思いませんでした。
 あなたは今朝、私のすぐ横に来ましたね。私はおどろきとよろこびで胸がいっぱいでした。だって、あなたはこれまでいつも私から見えないようにしていたのですから。あのとき、私はあなたに何か言うべきだったでしょうか。それともあいさつぐらいすべきだったでしょうか。しかし、私はとてもはずかしがりやで、ぎこちない人間です。まわりの人を意識しないで話すことはできません。それにあなたにどんな顔をされるか分かりませんからね。そこで私はあなたに手紙を書こうと決めたのです。それで、あなたさえよければ、文通したいと思います。話し合っていくうちには、何か得るものがあるでしょう。ただ、このようなことがあなたの高校生活によくない影響を与えはしないかとおそれています。しかし、そんなことのないよう、お互いに努力しましょう。
 もしあなたがこの手紙を認めることができなくても、返事はくれるようおねがいします。

   10月3日

 

翌朝、この手紙を彼女に渡すことはできなかった。それだけの勇気はなかった。さらに次の手紙を加えた。

 

 10月4日(追伸)

昨日書いた手紙を今朝あなたに渡すつもりでした。ホームで渡すつもりだったのです。しかし私が先に降りてしまったので渡す機会はありませんでした。(このころの私には、後から来る彼女を待つために立ち止まるといった勇気はなかった。)ところが、階段を降りたところで、あなたが私の横を歩いているのに気がつき、渡そうと思いました。手紙を手にまでしたのですが、胸が高鳴り、渡すことはできませんでした。
 明日こそは渡そうと思います。でも、もしかするとこの手紙はあなたの手に届かないままになるかもしれません。そして、そのほうがあなたのためによいのかもしれません。
  10月5日(追伸)
 今朝も渡せませんでしたね。
 渡すつもりで、あなたより少し後に降りようとしたときです。それまで気がつかなかったのですが、あなたのすぐ後から私の知っている人が降りてきたのです。私は彼と一緒に歩かねばなりませんでした。
 私のすぐ前をあなたが歩いています。手紙は私のポケットにあります。そのときの私の気持を分かってください。

 

10月6日の朝、ホームで彼女に手渡した。薄い本(岩波の「図書」)にはさんで。
  「これ読んでみない?」
 彼女は疑うような目でその本を見つめるだけで、手に取ろうとしなかった。
  「中に手紙が入っていますから」
 そう言うと彼女はそっとそれを受け取り、私から離れた。
 そのとき私は『とうとうやった!』と思った。厚い壁の一部を破ったように感じた。しかし、夜になってひどく後悔した。いったい私は何ということをしたのだろう。このことで彼女が高校で、どんな噂を立てられるか分かったものではない。私はもっと分別があるべきであった。そんなことは初めから分かっていたのだ。
 ただ、私にその行動をとらせたのは、彼女が私に示した積極的な行動だった。私が彼女に応えなかったら、彼女の自尊心を傷つけることになっただろう。

翌朝、彼女の様子を見て安心した。彼女は友達と笑いながら話していた。頬にはうっすら赤みがさしていた。車内で私は彼女の方を見なかった。
 釜石に到着した。私が先に降り、ホームをゆっくり歩いた。改札口近くまで来たとき、私より後ろにいるものとばかり思っていた彼女が、私の前方で足早に改札口を通った。私はその後ろ姿から、怒りの気配を感じた。彼女は、私から話しかけることを期待していたのか? 私は胸の中で何かが壊れるのを感じた。

この日、注文していたレコード「ロシヤ民謡のすべて」(二枚組)が入荷したというので、会社の帰り、レコード店へ取りに行った。帰宅して聴いてみると、一枚に大きな傷があった。それで翌日、日曜日の朝、そのレコードを返しに、いつもより遅い汽車で釜石へ出かけた。
 この後、ただの偶然とは思えないことが起こった。喜んでいいのか、悲しんでいいのか分からない。あまり熱くない透きとおった炎で胸を焼かれるような感じ。
 大槌を出るときから、私の胸には予感があった。彼女がこの汽車に鵜住居から乗るのではないか? ところがどうだろう、汽車が隣の駅に着くと、窓の向こうに制服姿の彼女が立っているではないか。私は自分の目を疑った。
 彼女が乗り込んで来る。私はその方を見ることができなかった。目のやり場に困っていると、五十歳近い婦人がコツコツと急ぎ足でやって来て私の前の空席に座った。その後から彼女も近づいて来て、その婦人のわきで立ち止まった。婦人が彼女を見上げ、何か話しかけた。私は驚いてその婦人の顔に見入った。似ていた。話の内容から、彼らは親子であることが知れた。
 彼女の母が何か話しかけても、彼女はただ「うん‥‥、うん‥‥」と返事をするだけだった。彼女は私の視線を避けるように体を斜め向こうへ向けていた。短めのセーラー服の裾から見える細いウェスト、美しい脚。彼女が手にしていた定期券から、彼女が十六歳であることが分かった。名前は見えなかった。少したって、彼女は私に見えるように持っていた定期券に気がつき、あわててそれをしまいこんだ。
 彼女らはこれから、ある家庭を訪問するところらしかった。母親が、その家庭の息子たちについて話していた。
 「みんなきれい‥‥美男子ばかり‥‥、今大学に行っている〇〇もきれいだ」
 これを聞いて、私はあることを想像した。彼女が私の手紙を母親に見せた。母親は心配し、彼女の心を私からそこの息子たちのほうへ向けさせようとしているのではないか?
 の翌日から、彼女は私と同じところに乗るのをやめた。数週間しても彼女は姿を見せなかった。たまに見かけると、彼女は笑っていることがあった。私という人間が滑稽に思われたのだろう。私は彼女が乗らなくなったところに、ある期待をもって乗っている自分がみじめになり、私も乗る場所を変えた。

10月2日、会社で職能制度の格付けの辞令がみんなに手渡された。全員、休息所(食堂)に集められ、一人一人、前へ出て課長からもらった。その屈辱感はがまんできなかった。まるで子供のままごと遊びだ。もらった辞令をすぐに折ってポケットに入れ、作業場へ降りるなり、ストーブに放り込んで燃やしてしまった。みんなは大事そうにロッカーにしまいこみ、作業場へは持って来なかった。

11月1日から4日まで会社の美術展があり、私は海を描いた十五号を一点だけ出品した。この絵は荘介さんも感心した力作であった。私自身、自信があった。しかし次々に搬入される他人の作品を見ていたら、自分の絵を出す勇気がなくなりそうだった。あまり人が来ないうちにそっと出して置き、知らないふりをしていた。
 全部の絵がそろい、並べられてみると、私の絵は、別に恥かしがることはなかった。
 会場には会社の役職にある美術部員も何人かいたが、以前のように私は臆することはなかった。みな、つまらない人間に見えた。
 美術展の期間中、画家を呼んで作品の講評をしてもらい、写生会もやったというが、私にはなぜか全く連絡がなかった。

 

 

     第十二章 弟の病気

  

  昭和42年(1967年) 

         10月22日 日曜日

素晴らしい一日だった。計画では今日、このまえ写生してきた十五号の油絵を、同じ現場へ持って行って仕上げるつもりだった。
 弟が夕べ、明日は一人で新山高原へ、会社の車で行くと言っていた。私も行きたかったが、絵を仕上げねばならなかったのでがまんしていた。
 朝、油絵の道具を取りに姉の家(アトリエ)へ行った。
 「どごさ行ぐ?」
 姉が尋ねた。
 「新山へ行きてぇが、このまえのどごさ行ってくる」
 「新山へ行け、あと、そう行けるわけでねぇから」
 そういえば新山はもう冬に入りつつある。それで私も新山へ行く気になった。家へ帰ると、弟が出かける準備をしていた。私も行くと言うと、弟は私の気の変りやすさを笑っていた。スケッチ道具は油絵用で、四号の板を一枚持った。
 家を出たのが9時半頃。山道に入り、車を最後の民家の庭に置かせてもらい、そこから歩いて登った。
 まわりの木々はすっかり紅葉していた。私は汗が出るのを見越し、半袖の下着一枚だけになった。登るにつれ、風が冷たくなった。汗はほとんどかかなかった。休日のたびにスケッチにあちこち歩いていたせいか、足の調子がよかった。全然疲れなかった。これまでの登山コースは、途中に柵が作られ、放牧地になっていた。まわり道をしなければならなかった。沢伝いに登った。以前のように見晴らしはよくなかったが、せせらぎの音を聞きながら登るのも悪くはなかった。途中、にわか雨にあった。日は照っていた。雨に濡れた景色はとても美しかった。紅葉した葉が光っていた。体が濡れるのが少しも気にならなかった。
 登って行く途中、絵になりそうなところがあったが、一旦、頂上へ登った。頂上でにぎり飯を一つずつ食べた。頂上から少し降りたところで、これも絵になりそうなところを見つけ、草原に腰を下ろしてスケッチした。その間、弟は後方のくぼみで湯を沸かしてくれた。二,三時間で描き終えた。寒さで体が震えた。手袋をして描いた。新山に来てよかったと思った。
 あまりにも寒かったので、3時を過ぎたばかりだったが下山した。弟とはとても楽しくやれた。
 家へ帰って、スケッチしてきた絵を出して見ると、とてもきれいな作品だった。新山高原のすがすがしい空気がよく表れていた。

 

この翌日、夕方、会社から帰って来た弟が、右目が見えなくなってきたと言った。私は弟がテレビの修理や、車の運転で目が疲れただけだろうと思っていた。ところが一夜明けて病院へ行ったところ、網膜が剥がれる病気で、失明する恐れがあるという。とりあえず釜石の病院に入院し、手術は盛岡の岩手医大病院でやることになった。
 十日後、弟は医大病院へ移った。そこでいろんな精密検査をし、一か月後の12月1日に手術をした。両方の目を一度に。
 右目は失明するかもしれないという。左目もかなり視力が落ちるだろうという。私はそれまで、もし弟が両目とも失明しても、誰か(私のでも)の目をもらえばいいだろうと考えていた。ところが移植できるのは角膜だけで、網膜はできないという。それを知ったとき私はうろたえた。一生、暗闇の世界、思っただけでぞっとする。そうなったら生きる気力もなくなるだろう。かわいそうな弟。
 弟が発病する前日、私は弟と二人で新山高原に登った。その日、弟の心がそれまでにないほど和やかだった。弟はその日、とても私に気を使ってくれた。彼は私に自分のヤッケを着せ、彼は普通のジャンパーを着た。私が絵を描いている間、弟は一度も私の絵をのぞきに来なかった。私は不審に思いながら描いていた。また弟は水を汲みに行くと言って出かけ、長いこと帰らなかった。弟は私の視界に入らない後ろのくぼみで火を起こし、湯を沸かして私に持って来てくれたりした。
 「おれがそばにいて、気が散ってうまく描げながったべ」
 後で弟が言った。私はびっくりした。私が描いている間、そばへも来ず、話しかけもしなかった弟の不審な行動がこれで分かった。そんなにまで私に気を使っている弟がいじらしかった。
 その日、一日のことが、今、鮮やかによみがえる。日が照っている中を、冷たいにわか雨に打たれながら登ったときの感慨。紅葉した木々、下界では予想もつかない、身を切るような冷たい空気、風。弟にも私にも、あのような日は二度とこないだろう。

手術してから二十日ほどした12月22日、検査の結果、弟の目が両方とも見えたという知らせを聞いた。私は自分のことのように喜んだ。暮れの30日は、甥を連れて弟のところを訪ねた。元気だった。伸びた弟の髪を刈ってやった。
 弟と同室の患者のところへ看病に来ていた若い女(私より年上)が私を嘲笑していた。私に関した下劣なことを、どこからか聞かされているようだった。しかしそんなことはありえないことだった。どう考えていいか分からなかった。とにかく不快だった。

 昭和43年(1968年)  

昭和43年になった。正月休みは通常の日曜日、一日分のこともできずに終った。デッサンもしなかった。「正月」という肩書がつくと、どうも気持が落ち着かない。
 新年早々、大学から実技課題が返されてきた。開いて見ると「B(+)」だった。うれしかった。評においても誉められた。だがこの休みの間、全くデッサンをしなかった私には、もったいない言葉だった。

1月12日の夜、同盟時代の三浦さんが訪ねて来て、私の部屋で一時間以上過ごした。ステレオでロシヤ民謡を聴いた。通信教育の話もし、私の作品も見せた。ずいぶん親しく話ができた。まるで友達のように。

1月20日、弟が盛岡の医大病院から釜石の病院へ移った。あと一か月ほど入院するという。弟が入院している間、私は会社の帰り、よく見舞に行った。何度か行くうちに、弟と同室の男どもが、極度の嘲りの表情を浮かべて私を見るようになった。それはとても耐えられないものであった。弟にはわるいが、私は見舞に行くのをやめてしまった。
 その者たちが、私のことでかなり下劣なことを聞かされているのを感じた。一体、誰がそんなことをするのか、全く見当がつかなかった。

2月末になると、例の女子高校生、今度は本気で私のことを考えているようだった。以前のように笑わないし、何か真剣に考えているようだ。髪の手入れにも気を使っているのが感じられた。そういう彼女を見て私は胸がふくらんだ。

3月に入ってから、夜眠れなくなった。前年の春先も同じ状態におちいった。原因がないのにどうしてだろう? これから毎年この季節になると、こうなるのだろうか? そう思うと暗い気持になり、何もかも嫌になることがあった。そんなとき女子高校生のことを考えると、『なんでおれのような者があんなことをしたのだろう』と、自分自身いまいましくなった。
 ちょうどこうしたある日(3月16日)、職場での昼休み時間、私が本を読んでいると、不意に、全く不意に、何かが私の目の前に差し込まれた。あまりにも不意だったので、それが何なのか、しばらく分からなかった。次の瞬間、見るべきでないものを見てしまったと感じた。それは数枚の汚れた白黒写真だった。しかも何とひどい! どろどろしたものが目から入り込み、脳を汚染した。
 これが私の神経にどんな作用を及ぼすかが心配だった。家へ帰ってからもその写真が目にちらついた。必死でそれを振り払おうとした。汚物を払い落とすように。
 そのばかな行為をしたのは、職場の「大工」であった。
 全くあの写真を見せられたときは、ちょうど遠くに見える美しい城を、目の前に拡大して見せられた感じだった。その城はぞっとするような悪臭を放ち、そのヌルヌルした壁には、ナメクジが無数にはりついていた。城の入口には犬の死体が一つ転がっており、それにうじ虫が真っ白にたかっていた。

18日の朝、釜石駅のホームをあの女子高校生が歩いて行くのが見えた。なぜか彼女がとても小さく見えた。美しいものを遠くに見るような気がした。彼女を美しい感情をもってながめたのは、ずっと以前のことのように思われた。
 この日、会社を正午で早退して病院へ行った。最近眠れないことを医師に話した。それに写真のことも話した。私が写真のことを話すと医師は笑い、
 「あんたっていう人は! あんたも見たことがあるでしょう、トンボが二匹つながって飛んでいるのを。動物にはオスとメスがあって‥‥」
 私は体から力が抜けるのを感じた。しかし考えてみれば、これは医師にはどうしようもない問題であった。これは時間の経過と、私の心の成長だけが解決してくれる問題であった。

4月に入ると、高校の春休みが終ったらしく、高校生の姿が目についた。鵜住居の駅のホームにも彼女の姿があった。三年生になったのだ。彼女は前年の10月、私が初めて手紙を渡したころに比べると、かなり大人っぽくなった。彼女の様子から、まだ私に心を惹かれているのが分かった。私がこんな人間でなかったらとくやしかった。
 私は彼女と同じところに乗るのをやめ、一つ前の車両に乗っていた。だから汽車が隣駅に入ったとき、私は車窓から、ホームで汽車を待っている彼女の姿を見ることができた。

4月10日、会社の帰り、門を出て駅へ向かっていると、車道で隔てられた反対側の歩道を、彼女が同じ方向に歩いているのに気がついた。彼女が私を意識しているのは分かった。私は横断歩道を渡った。私の前を歩いている彼女が、わずかに振り返った。彼女は頬を赤らめていた。彼女は私から話しかけられることを確信していたようだ。ホームでも彼女は私を待つようにゆっくり歩いた。追いついて挨拶し、鵜住居まで話をしながら帰れば、それできっかけはできるのだ。やがて、いつも私が乗る乗車口まで来た。彼女は先へ歩いて行った。私は彼女と同じところに乗ろうかと思った。しかし、とうとう私は彼女をそのまま見送ってしまった。
 翌朝、彼女の冷たく澄んだ顔をホームに見たとき、昨日の自分を反省させられた。こんど機会があったら必ず話しかけようと決心した。

数日後の4月16日の朝、釜石駅のホームで、先を歩いている彼女に追いつき、挨拶した。
 「おはよう」
 彼女は私を見上げ、口元をちょっと動かしたが言葉としては聞きとれなかった。彼女はすぐに視線を落とした。並んで歩くうちに私は気持が落ち着いた。
 「バスは何時?」
 私は彼女に高校行きのバスの時刻を尋ねた。どうしてこんなことを尋ねたのか私にも分からなかった。
 「最初? ‥‥7時半です」
 彼女は意外にも怒った調子で答え、私から離れて行った。何が彼女を怒らせたのか分からなかった。それでも、彼女に話しかけることができ、気持はいくらか軽くなった。
 翌朝、彼女に会わないように早めに降りた。

この日の帰り、私は親友の川崎君のオートバイに乗せてもらって病院へ薬をもらいに行った。彼も一緒に医師に会った。川崎君が寮に入っていることを知ると、医師は私にも寮に入るようにすすめた。私は会社から帰った後も、会社の施設で暮らすのは嫌だなと思った。しかし、一方、私は息のつまりそうな家から逃げ出したくもあった。
 病院を出てから川崎君と二人で少し飲んだ。夜、彼の部屋に泊まった。

5月9日(木)、私は会社を休んだ。5日の「子供の日」に出勤したので、その代休をとった。二十号を持って写生に出かけた。船越の国民宿舎「たぶの木荘」へ。
 描いていると、カメラを持った四十五歳位の男性が私の描くのを見ていた。そして、
 「このへんは描くところがいっぱいありますねぇ」
 と話しかけた。
 「そうですね」
 私はそう答えて描き続けた。
 「私も絵を描きます」彼は言った。
 私はぎくっとした。
 「それでは恥かしいなぁ」
 「そんなことはないですよ」
 「何年ぐらい描いているんですか」
 「二十三年ぐらい‥‥、ヒシウチといいます」
 「ああ、それでは釜石で個展をしたことがありますね」
 「ええ、二、三年前」
 こんな調子で会話が進み、私は自分の絵の一部を指して言った。
 「ここのところで手こずっています」
 そう言って私は前景の山を指した。すると彼は、そこは省略したほうがよいこと、海と山の境は海を明るくして、山の向こう側(実際には見えないが)を描くような気持ちで描くとよいと注意してくれた。
 私は彼の見ている前で筆をとるのが恐くなった。彼は私の気持ちを察したらしく、
 「失敬しました」
 と言って立ち去った。
 思いきって前景を省略した。木々の説明は一切しない。それがこの絵をいかにも絵らしく見せる結果となった。彼に出会ったことをうれしく思った。彼は私に名刺をくれてた。

彼女とのことは、どのようになるのか、またどうすればいいのか分からなかった。とにかく何とかしなければと思い、私はもう一度手紙を書いた。

 

昨年、あの変った手紙を受け取ったあなたは本当に当惑したことと思います。私もあとになって、あの手紙があまりにも抽象的で、あれを読んだあなたには、「私」という人間がどんな人間なのか分からなかったろうと思いました。私はあの手紙であなたを当惑させたことをあやまらなければなりません。
 あれ以後も、あなたに心を惹かれながら、どうしてよいか私自身分からなったのです。それでこの手紙で「私」という人間を現実的な面からあなたに示し、さらに私の、あなたに対する考えを伝えたいと思います。


 こう前おきして、私の年令、職業、趣味を述べ、私が心を惹かれた女性に話しかけたり、手紙を書いたりするのは彼女が初めてであることなどを伝えた。そして、彼女と話し合う時間をもつのはむずかしいので、できれば手紙を書いてほしいと頼んだ。
 この手紙を5月11日(土)の朝、彼女に渡した。改札口でやっと彼女に追いつき、
 「おはよう、これ読んでみない?」
 そう言って差し出した。彼女は私の顔は見ず、困惑したように頬を赤らめ、すぐに受け取った。渡した後、私は思わずほほえんだ。これが成功したら、どんなに美しく、ロマンチックなものになるだろう。
 しかしこの後、数日間、彼女はいつものところに乗らなくなった。おそらく返事もこないだろう。
 「入寮申込書」を書いた。寮に入ることは、以前から、医師からも川崎君からも勧められていた。しかし、彼女とのことがどのように進展するのか分からなかったので、思いきって手続きをとれないでいた。しかしもう迷うことはなかった。それに彼女と私のことは、他の高校生らも感づいていたようで、私は彼女らから好奇の目で見られていた。また病的なまで私にかまう父から逃れ、独りで暮らしたかった。
 ところが、彼女に手紙を渡してから五日後の5月15日、彼女が私と同じところに乗った。彼女に気がついたのは両石(りょういし)を過ぎてからだった。すこし離れたところに彼女は立っていた。
 釜石へ着き、先にホームに降りた彼女はそこで待っていた。だが、私と視線が合うと、彼女は逃げるように歩きだした。彼女をそこに見出したとき、私は予期せぬ事態に、緊張した表情になったのだろう。それで彼女は逃げ出した。私はやっと彼女に追いついた。
 「おはよう」
 私は彼女に声をかけた。しかし、彼女は私から離れて行った。やっぱり私は普通の人間ではないんだと、つくづく思い知らされた。
 これらのことを私は弟に話した。弟はあきれていた。明日、どこかへ彼女を誘って話をしろと言った。
 この後二度、彼女に近づこうとしたが、やっぱりだめであった。彼女はこんな私に愛想をつかしているようだった。

シャープに入社した弟は、それまで釜石営業所に勤務していたが、6月から本社(岩手シャープ本社・盛岡)へ行くことになった。
 6月4日、早朝、弟が服を着ている音で目が覚めた。眠かった。弟も眠そうだった。
 「んでは‥‥」
 弟は私に声をかけ、私のふとんの上をまたいで行った。
 「元気でな」私は言った。
 いったん下へ降りた弟が、忘れ物でもしたのか、またすぐに上がって来た。私は黙っていた。弟も黙っていた。

 

 

     第十三章 モデル

 

 昭和43年(1968年)

実技課題に人物デッサンが課せられた。弟を描くつもりでいたが、弟はいなくなってしまった。いろいろ考えた末、三浦さんに誰かを探してくれるよう頼んだ。彼はいろいろなサークルに顔を突っ込んでいるので、すぐ見つけてくれるかもしれない。もしかしたら若い女性を。
 6月8日(土)の朝、彼に頼んだら、その夜には見つかったと言ってきた。二十歳になったばかりの女性だという。月曜日の夜、私の家へ連れて来るという。
 女性と口をきけない私が、若い女にモデルになってもらう? 信じられないことだ。もしうまくやっていけなかったら、私は全く正常な人間ではない。
 月曜日の夜、三浦さんがその女性を連れてやって来た。まず階下で彼女を私の家族に紹介し、それから二階へ上がって来た。三浦さんはほんの少し話をしただけで帰って行った。
 彼女と二人だけになった。初めのうち気まずかった。しかし、慣れるのにそんなに時間はかからなかった。目的がはっきりしていたからであろうか。相手が女性だという意識はあまりなかった。彼女は田口さんといって、理容師だという。
 女性とこのように自由に話ができるのに、あの女子高校生と会うと私は緊張する。
 デッサンを一時間ほどで切り上げ、あとは話をした。彼女は気さくだったので私は気が楽だった。

数日すると、荘介さんも時々来て一緒に描くようになった。最初、彼が加わることを私は望まなかった。それまでの雰囲気が壊されるような気がした。それに、彼がモデルに、私が精神病院にかかったことのある人間だと話すかもしれない。
 彼女を紹介してくれた三浦さんが時々様子を見に来てくれた。
 二週間たち、彼女のデッサンが完成に近づいた頃、私はデッサンを早めにやめ、彼女とハニーワインを飲みながらいろいろ話した。私が女の人と二人だけで話をするのは、彼女が初めてだということも話した。一方、彼女はモデルとして私のところへ来て、勉強になったと言った。『こんな人もいるのか』と思ったという。
 私は人物デッサンを二枚提出しなければならなかった。それを知った彼女は、二枚目を描くときは、彼女の友人を紹介してくれると言った。二十一歳の女性だという。
 一度、彼女は彼女の家でとれた鶏卵をたくさん持って来てくれた。お礼は私のほうでしなければならないのに。

6月30日、彼女は、以前話していた彼女の友人を連れて来た。佐々木さんといった。
  二人目のデッサンに入った。しかし、うまく描けなかった。
 「うまく描けないなぁ、あまりきれいなので見とれてしまうのかな」
  私がそう言うと彼女は笑った。
 ある晩、訪ねて来た荘介さんが私のデッサンを見て言った。
 「かわいく描けたね」
 「もともとかわいいんだもの」
  私がそう言うと、彼女はうつむいた。

7月14日、日曜日の夜、モデルは来ないことになっていた。ところが8時過ぎ、新しいモデルの佐々木さんと、まえのモデルの田口さんが二人連れでやって来た。
 9時半までデッサンをした。それから彼女らと一緒に喫茶店「麦」へ出かけた。荘介さんが伊藤先生、小林先生(中学及び高校の先生)と共にその喫茶店で三人展を開いていた。彼らは居た。
私たちのグループと、彼らのグループが一緒になり、楽しく過ごした。
 喫茶店を出、私は彼女らを送って行った。歩きながら彼女らは海水浴の話をしていた。私に海水浴に誘ってもらいたがっているようだった。ちょうど私は、来週の日曜日、川崎君と海水浴(浪板海岸)へ行くことにしていたので彼女らを誘った。若い女性を海水浴に誘うのは少し勇気がいった。

7月16日、火曜日、デッサンを終え、私は佐々木さんを送って出た。荘介さんも一緒だった。途中、彼に誘われて喫茶店「クイーン」に入った。しばらくすると、一人の男が入って来た。チラと見ると、感じのよくない男だった。ふと誰かに似ていると思った。その後、気になったので、もう一度その男を見た。すると彼は私をじっと見つめていた。ぞっとするような冷たい目で。中学時代の同期生に似ていた。しかしどこか違う。私はそのまま視線を戻そうとした。しかし、口が勝手に動いた。
 「しばらく」
 私はつぶやくように言った。彼は頭を下げたが、かなり当惑していた。『人違いかな?』私は思った。するととても嫌な気持になった。その不快な気持はずっと続いた。また何か嫌な予感がした。
 その男は、どんな残酷なことでも平気でやってのけるような冷たさを持っていた。その男が、ある目的をもって私を尾行していたのではないかと感じた。底のない不安。

 

        7月21日 日曜日

浪板海岸へ海水浴に行った。モデル二人と、私、荘介さんの四人で。川崎君も来ることになっていたが来なかった。
 川崎君は臨時列車で来ることになっていた。ところが、その列車は浪板駅には停車しないことが分かった。彼はその列車で来るかもしれない。そのため私たちはその列車に乗り、車内を探した。しかし彼は居なかった。私たちは浪板駅の一つ手前、吉里吉里(きりきり)駅で降りた。
 私は責任を感じ、タクシーで行くことにした。ところがタクシーを探すのに時間がかかり、そのうち次の列車が来る時刻になった。駅へ引き返した。私は面目まるつぶれだった。約束を破った川崎君に腹が立った。

次の列車に乗り込み、車内に入ろうとした。ところが、すぐ近くにあの女子高校生がこちらを向いて座っていた。彼女はすでに私に気がついていたようだ。彼女はじっと前方を見つめていた。私は車内に入るのをやめた。私達はデッキに留まった。私が他の女性と海水浴に行くのを見たら彼女はどう思うだろう?
 浪板駅で彼女も降りた。無人駅で改札口はなかった。ホームは先端で折り返しになり、そこから五、六段、階段を降りて道路に出るようになっていた。私たちは折り返しのところへ来た。後から来る人たちが前方に見られた。そのとき、私はすぐ目の前に彼女の姿を見出した。彼女は手に持っていた麦わら帽子で、スーッと胸を覆った。彼女は制服ではなく、ワンピースを着ていた。
 私は荘介さんと二人で、段ボール箱をさげていた。その中には、佐々木さんのところでもらった果物などが入っていた。荘介さんはいつものとおり無精髭を生やし、絵具のついたズボンをはき、靴下を片方の足にだけ履いた下駄ばき姿。彼女から見れば、ずいぶんおかしな人と一緒だと思ったにちがいない。海岸でも彼はステテコ姿で泳いだ。
 砂浜に着いた私たちは、波打ぎわまで行って一休みした。後ろを振り向くと、高校生の彼女は立ち止まって、後から来る子供を手招いていた。
 私たちは砂浜の中心部を避け、海水浴客の少ないところで遊んだ。佐々木さんの泳ぎの達者なのにはびっくりした。水が冷たく、手足がしびれてくるのに、彼女は私より沖へ沖へと泳いで行った。一方、田口さんは泳がず、着替えもしなかった。私は彼女に泳ぐようにしきりにすすめた。彼女がなぜ水着に着替えないのか、私には理解できなかった。

翌朝、列車が隣の駅に入ったとき、私は彼女がいつも立っているあたりを見やった。彼女はうつむき、その視線をどこに据えていいか迷っているようだった。かわいそうに思った。
 デッサンが完成近くなっていたある晩、佐々木さんの車で私たちはドライブした。荘介さんも一緒だった。鵜住居の根浜海岸から両石の方までドライブした。暗い砂浜に立っているときとか、暗い車の中で、私は血が不思議に、熱く騒ぐのを感じた。私はこのような感情を初めて経験した。

スクーリングに出発する前日までデッサンを続けた。デッサン最後の日、彼女と二人だけでいると気まずかった。どうしてだろう? これまではそんなことはなかったのに。彼女は何も言わないし、私も黙っていた。ポーズとポーズの間の休み時間、彼女が新聞を読みだすと私もそうするといった具合。
 「あさっての朝は、もう学校にいることを思うと、変な感じがする」
 私がそう言うと、
 「そんなことはないですよ」
 と、彼女が答え、話がとだえた。
 「二人だけでいるとなんだか気まずいね」
 私がそう言うと、彼女は顔をクシャクシャさせて笑った。頬が少し赤くなった。
 描いていると、階下で荘介さんが訪ねて来た音がした。
 「ああ、助かった」
 私はそう言った。彼女はポーズを崩して笑った。しかし寂しそうだった。
 彼女を家まで送って行った。帰ってきて、この日の日記を書いた。書きながら、このまえの海水浴の写真を出して見た。彼女の水着姿を見た。よく私がこのようなことをできるところまできたものだ。彼女らのデッサンをするまでは、私が女性とこれほど親しくなれるとは夢にも思ってもいなかった。
 どちらのモデルもデッサンに一か月位ずつかかった。彼女らと今後もつきあうようになるかどうか分からない。いずれにしても、いい思い出になるだろう。

スクーリングに行く数日前、病院を訪ね、薬をもらった。先生は他の患者と話し中だった。私は薬を受け取り、先生のところへ挨拶しに行った。彼は私に言った。
 「今年こそは向こうで(スクーリングで)友達を見つけてね。それも女の子の‥‥、別に天才を、とは言わないけど」

ところでスクーリングであるが、前回、私はその半分を受けたので、今回は後半の半分を受ければいいはずであった。ところがカリキュラムを見ると、昨年と今年とでは、科目の配列が異なっていた。そのため、三週間で済むところを、一か月以上出席しなければならなかった。しかも、半日だけ受講したり、全く受講しない日が何日も続いたりした。これにはうんざりした。
 8月3日、土曜日の朝、宿舎(吉祥寺校)に着いた。みな登校した後を見はからって宿舎に入った。部屋には一人だけいた。彼も来週から受講するという。
 宿舎は広い教室に畳を敷きつめただけのものだった。頭上には物干し用のロープが張りめぐされていた。
 私の部屋の人たちはみな東北、北海道の人間ばかりなので気持が楽だった。それでもなかなか溶け込むことはできなかった。が、別に気にしないでやった。
 余った時間をどう過ごそうかと思っていたが、英語が始まると、その予習、復習でいっぱいだった。また、通信教育の実技課題も数枚デッサンして提出した。
 家で描いてきたデッサン二枚も提出した。デッサン室で田口さん、佐々木さんを描いたデッサンを出した。彼女らがそこにいるようで妙な気持がした。その場にいた学生がそのデッサンを見て感心していた。
 しかし、スクーリングでのデッサンも油絵も私にはショックだった。思うように描けなかった。デッサンは昨年より上達していると思うのだが、評価が良くなかった。

今年こそは女友達をつくる決心で来たが、煩わしくてその気になれなかった。かわいい女の子もいたし、彼女が私に特別な関心をもっているのも感じられた。しかし、異性関係で神経を使うのがとてもおっくうだった。そのくせ、他人が仲良くやっているのを見るとうらやましかった。
 次は8月14日の出費。
 朝食140円、昼食75円、夕食120円、画材240円、ぶどう35円、風呂32円、合計642円。

8月18日、日曜日、日中は宿舎で過ごし、午後、夕食に外へ出た。食事をすませ、吉祥寺駅前の本屋に入った。やるせないほど寂しかった。本屋の中ではいろいろな女性が目についた。私のそばに若い女性が立っていた。彼女が手に持っていた定期券から二十三歳と分かった。彼女が本を探すために上半身をかがめた。すると胸の中が見えるではないか。ブラジャーがゆるいのか、乳首のすぐ近くまで見えた。私はじっと、切ない思いでそれに見入った。彼女が出て行ったとき、私はひどい空虚感に襲われた。自分の身を持て余した。

ある日の昼、キャンパス内の食堂から出ようとしたとき、昨年のスクーリングで心を惹かれた女性を見かけた。私は胸を締め付けられた。彼女は校舎(棟)が私と同じらしく、私がデッサン室を出たとき、そこを通りかかった彼女に出くわすことがあった。そんなとき、彼女は何か理由を見つけて立ち止まるようだった。あるときは落ち葉を拾うしぐさし、またあるときは、持っていた大きなキャンヴァスをその場に置き、別の手に持ち替えた。また、私がデッサン室の外で靴を履き替えていると、誰かがそばを通るので顔を上げると、微かな笑みを浮かべた彼女の顔がそこにあった。

9月5日が私にとってスクーリング最後の日だった。絵の具箱と、二十号のキャンヴァスを持ってキャンパスを出た。鷹の台駅への玉川上水ぞいの林の中の道を行くと、前方を彼女が男三人と歩いていた。彼らの中には彼女が昨年知り合った男も含まれていた。彼らはゆっくり歩いていた。私は彼らを追い越さざるを得なかった。私はできるだけ平静を装って彼らを追い越した。そのとき私は妙な満足感を味わった。敗北の英雄といったような。

6日の早朝、宿舎を出た。同室の仲間はみな眠っていたが、たった一人、七十いくつかになる通信生のおじいさんが目を覚ましていた。彼にそっと別れの挨拶をした。親しい友達もできなかった宿舎であったが、ひどく心が残った。宿舎の玄関では、ちょうどパン屋がパンを運び込んでいた。
 帰りの車内で、私の心は虚ろで何もできなかった。

家へ帰り、また こせこせした生活が始まった。父の異常なほどのおせっかい。その父から母が何を聞かされるのか知らないが、彼女が私を見るときの、暗い、探るような目。『もうたくさんだ!』と叫びだしたくなった。早く寮に入りたいが、11月にならないと入れない。
 数日後、荘介さんが訪ねて来た。彼は今月末上京し、向こうで絵を描くという。スクーリングで満足できる成果を得られなかった私は、自分だけ取り残されるような気がした。二人でブランデーを飲んでいると、佐々木さんが訪ねて来た。モデルになってもらってから、一か月ぶりに会ってみると、何か恥かしかった。
 この翌日には、田口さんが荘介さんとやって来た。彼女が来てくれたのは本当にうれしかった。彼女は美容院に行ってきたらしく、きれいな髪をしていた。彼女をこのときほど美しいと思ったことはなかった。沈みがちだった気分が一時晴れた。
 9月24日の夜、田口さんと佐々木さんが二人連れでやって来た。彼女らは荘介さんと、今晩、私の家へ来ることにしていたらしい。まもなく荘介さんも来た。彼が上京するので、その送別会だった。といっても何もなかった。ただお話するだけ。

スクーリングから帰って、会社へ出る最初の朝、列車が隣の駅に入った。彼女はいつもの場所でいつものように列車を待っていた。彼女は減速されていく列車の、いつも私が乗っているあたりを注意しているようだった。彼女が動揺するのが感じられた。
 数日後の朝、釜石駅のホームで彼女が私のすぐ後ろを歩いた。それからだんだん私に近づいて来た。彼女は私と並んで歩いていた。「おはよう」と容易に声をかけられる位置にいた。しかし私は、彼女の後方にもう一人、私に心を惹かれているらしい女生徒が歩いているのを知っていた。並んで歩いている彼女に声をかければ、もう一人を悲しませることになる。だが黙っていれば、隣を歩いている彼女を傷つけることになる。また他の女生徒らも私たちに注目しているように感じられた。もうこれ以上、私は喜劇を演じたくなかった。そうしているうちに彼女は私からスーッと離れて行った。彼女は深刻な顔をしてホームの端を歩いた。私は声をかけなかったことをひどく後悔した。

10月14日の帰り、私は車両の中ほどに座っていた。するとセーラー服の二人の女子高校生が入って来て私の脇で立ち止まった。初めのうち、彼女らは私に背を向けていたが、すぐに私の方へ向き直った。彼女らのうち、やせて背の高いほうの高校生は私が初めて見る顔だった。もう一人は大槌から通っている高校生で、このまえ、今にも泣きだしそうな顔をして私を見ていた高校生であった。
 背の高い高校生は、初めから私を冷たいまなざしで見つめていた。鵜住居で窓側の席が二つとも空いた。私の向かいに座っていた婦人が窓側に移り、立っていた高校生に座るようにすすめた。彼女らは迷っていた。それで私も窓側に移った。顔見知りの高校生が私の隣に座った。もう一人は向かい側に座り、私を見据えていた。私が隣の高校生にどのような態度をとるのか監視しているようだった。私は暗くなった窓の外をながめていた。しばらくすると、隣ですすり泣く音がした。私はひやっとした。すすり泣きはなかなか止まなかった。私は思いきって彼女を見た。彼女はうつむいていて涙は見えなかった。彼女は時々指で目を押えた。私は困ったことになったと思いながら、目を窓の外に移した。私の一挙一動を向かいの高校生が観察していた。隣の高校生は私が話しかけないので悲しんでいるのだろうか? 私はすっかり面食らった。もう一度、私は彼女を見た。彼女はすすり泣きをやめ、指で目を押えていた。私は視線を静かに正面に移していった。するとそれまで私を注視していた高校生があわてたように視線をそらし、目を閉じた。小気味よかった。それまで私を、大人が子供を睨むように睨んでいた彼女を心憎く思っていた。
 帰り道、すっかり考え込んでしまった。私にとり、近寄りがたいほど清らかな存在だった女子高校生がこのようなことになろうとは。寮には11月から入れる。あと数日しかない。待ち遠しいようで、寂しくもあった。あの高校生は、寂しそうにホームで列車を待っていた。

10月29日の朝、母が私を起こしに来た。その時彼女は私宛の一通の手紙を持っていた。その手紙は昨日のうちに届いたのだろう。どうして今持って来たのだろう? 差出人は女性で、その住所は東京都であった。スクーリングで私を知った女性からかなと思った。封を開いてみると、やはりそうであった。しかし学生ではなく、スクーリングで指導してもらった大学の助手であった。川端ミエさんといった。彼女が釜石で開く個展への案内状だった。スクーリングで指導を受けていたとき、私は彼女が釜石の人だとは夢にも思わなかった。
 個展は11月1日から3日までであった。もし会場に彼女がいたら、私は彼女と話をすることができるだろうか?
 初日の1日の午後、見に行った。会場に彼女は黒い服を着て立っていた。会場に入ろうとしたとたん、彼女と視線が合った。彼女は私を知っているだろうか? 頭を下げるべきだろうか? でもあまりにも離れ過ぎていた。彼女はこわい顔で私を見ていた。他人を見るような、さりげない目ではなかった。私は作品に目をそらした。作品を見ながら、彼女のいるあたりを通過した。すると会社の美術部員の一人と出会った。私は彼としばらく話をした。それからチラと彼女を見た。彼女は横を向いていた。私が顔を元に戻そうとすると、彼女が私の視線を感じてか、私の方を向こうとしたようだった。それで私もまたすぐ彼女の方を見た。視線が合った。同時に私は彼女に歩み寄った。
 「この夏はどうも」
 私は口をもぐもぐさせた。
 「どこかでお会いしたことがありますね」
 「沢舘です‥‥、スクーリングで教わったんです」
 「私のクラスに‥‥?」
 「ええ、最初の週、大谷石を‥‥」
 やっと思い出してくれた。これは彼女にとっても意外だったらしい。そしてこのことは、その場に居合わせた彼女の母や姉にも喜びだったようだ。彼女の姉という人が、私をずいぶん暖かい目で見ていた。川端さんは、私が作品を見ていると、お茶やチョコレートを持って来てくれた。そして私が大槌だと知ると、汽車の時刻を調べてきて、
 「6時までは、まだありますから、ゆっくり見ていってください」
 と言ってくれた。私は少し疲れて椅子に腰を下ろしていると、彼女はまた私のところへ来ていろいろ話してくれた。
 彼女がこのように私を迎えてくれようとは思いもよらなかった。まるで夢のようだった。私は、こちらから挨拶しようものなら、彼女に冷たくあしらわれるのではないかと思っていたのだ。少々気をよくした私は、サイン帳にサインまでした。
 帰りぎわ、彼女は私にパンフレットをくれ、そして彼女の姉を紹介してくれた。その人は釜石製鉄所の用品課で働いているということだった。
 彼女は私の名前を大学の名簿からではなく、前田瑞光堂(釜石の画材店)から知って案内状を出したと言った。
 「その中に入っていてよかったですね」
 彼女は言った。

 

 

     第十四章 家から寮へ

 

 昭和43年(1968年)

11月3日、日曜日、寮に引っ越した。私の誕生日の翌日だった。二十六歳になった。
 盛岡へ行っていた弟が彼の会社の釜石営業所の車を借りてきてくれた。母と義兄が手伝ってくれた。職場からは根口さんと臨時工の高橋君が来てくれた。
 私の部屋は最上階の五階だった。川崎君は一部屋置いて隣に住んでいた。引越当日、彼は居なかった。当然手伝ってくれるものとばかり思っていたのに‥‥。これから始まる寮生活に何か嫌な予感がした。

寮は町から山と山の間をバスで25分くらい奥に入った、松倉というところにあった。民家は少なかった。寮の斜め向こうには、あの高校生が通っている釜石南高校が、寮のグラウンドと高校のグラウンドを間にはさんで見ることができた。寮から少し下がったところに、会社の社宅が団地のように建ち並んでいた。
 私の部屋は二人用であったが、一人で入ることができた。余分なベッドを外へ出し、そこにステレオを置いた。十分ではないがデッサンできる空間もとれた。勉強机は備わっていたし、何よりもありがたいのは、暖房用のスチームが通っていたことだった。

寮に入って数日後、私は以前いつも利用していた4時45分の汽車で家へ帰り、下着などを持って来た。家からの帰り、汽車が釜石近くになったとき、後ろのボックスに北高校の制服を着たかわいい女生徒が座っているのに気がついた。鵜住居から乗ったのだろう。北高校は鵜住居にある。
 彼女とは、バスも一緒だった。彼女は終点の一つ手前の「松倉社宅」で降りた。私は終点の「松倉」。バスの中で彼女が私に関心を示しているのが感じられた。

寮に入って十日ほどたち、寮生活に慣れてきた11月13日、モデルになってくれた佐々木さんから電話があった。彼女は15日の夜、私のところを訪ねたいと言った。何か頼みたいことがあるらしい。
 15日、彼女が訪ねて来た。私が近くの酒屋へウィスキーを買いに出かけ、帰って来たとき、玄関で彼女に会った。私は事務のおばさんから彼女のためにスリッパを借りた。少し恥かしかった。彼女を私の部屋へ案内した。部屋に入ったとき私は平静だったが、彼女はしばらくのあいだ動揺していた。ベッドが目の前にあろうとは考えていなかったようだ。
 私は彼女が一人で来るとは思っていなかった。彼女は、私が彼女のために用意しておいたお菓子など、全然食べなかった。そのことを除けばずいぶん楽しかった。彼女は、彼女が属しているサークルで使う絵看板を頼みに来たのだ。

寮の食堂は二階にあった。食堂で我々はカウンターからご飯とおかずをもらい、熱い味噌汁を注いでもらって席についた。食べ終ったら食器を洗い場へ返し、カウンター横の一段低い台の上から、自分の弁当を取って食堂を出た。それらの弁当箱のふたには番号が打ってあった。いっぱいある弁当箱の中から、自分の番号を探し出して持って出た。
 寮に入って数日後、私は弁当を取りに行った。台の上の弁当箱に目を走らせようとすると、台のわきに立っていた食堂の若い女が、彼女の手に持っていた弁当を、黙って私に差し出した。「76」の番号が打ってあった。私のだ。私は彼女を見た。彼女はうつむいた。目が大きく、瞳が深い湖のように澄んでいた。『こんな女性が寮にいたろうか?』私はそれまで食堂の女たちを特に物色するようなことはしなかったが、彼女には見覚えがなかった。その後も彼女は私に弁当を手渡してくれたり、私が探していると、そばから黙って指さして教えてくれたりした。
 食堂で働いている女たちは、寮に入っている男たちと、よくへらず口をたたいていた。しかし彼女はほとんど口をきかなかった。私は少なからず彼女に心を動かされた。

ところが、16日の朝、彼女の態度が一変した。この朝、私はカウンターへ食事をもらいに行った。彼女が味噌汁を注いでくれた。私はぼそぼそと挨拶した。しかし、彼女は挨拶もせず、味噌汁を私の前に置くなり数歩後ずさった。彼女はそこから私を気味悪そうに、また非難するように見つめた。私は恥かしさから体が熱くなった。何があったんだろう? 恥かしさは怒りに変った。
 彼女がどうしてそのような態度をとったのだろう? 思いあたるのは、その前日、モデルの佐々木さんが私を訪ねて来たことだった。それが彼女に知れたのではないか?
 女の子をベッドのある部屋へ入れて‥‥と想像した気持は理解できた。それにしてもどうしてあんなに露骨に人を侮辱するような態度をとったのだろう。
 彼女のその態度は数日間続いた。私は少しばかり幻滅を感じた。私は彼女をもっと深みのある人間だと思っていた。

19日になって、佐々木さんが私に頼んであった仕事を取りに来た。私が部屋にいると、寮内放送で私の名が呼び出された。玄関へ降りて行くと彼女だった。
 「ひとり?」
 私は尋ねた。
 「ううん、ほかに男の子二人」
 「どこにいるの?」
 「トラックの中で待っていると言って、来ない」
 「いいから連れてきて入れて」
 彼女は小型トラックで来たらしい。玄関から外に向かって彼女は声をかけた。
 「ねぇ、知らない人ではないから来てよ」
 やがて、二十歳位の青年が二人、恥かしそうにやって来た。私の町の青年で見覚えがあった。私は受付からさらに二足のスリッパを借りた。こうした様子を受付のおばさんが見守っていた。

翌朝、食堂の彼女の態度が元に戻った。私が弁当を取りに行くと、彼女が指さして教えてくれた。しかし私にあのような態度をとった彼女を、私は簡単には許せなかった。彼女が私に好意を示してくれても、しばらくの間は知らないふりをしていようと思った。それで彼女が私から離れていくなら、それは、それくらいのことでしかなかったのだ。
 この後、彼女の姿が食堂に見えない日が何日か続いた。私のことで、他の寮へ移ったのだろうかと考えた。少し寂しかった。その彼女が25日の朝、しばらくぶりに食堂に出ていた。私はほっとしたが、何事にも関心がないように振舞った。この日の夕食は、みんなから離れたところで、彼女に背を向けるようにしてとった。食事を終え、洗い場へ持って行くと彼女がいた。私は食器を返し、彼女を見もしないでそこを去った。自分の部屋へ戻り、ベッドに横になると涙がこみ上げた。

あの高校生のことが時々気になった。私を汽車で見かけなくなったことが、彼女にどのような作用を及ぼしたろうか? もしかすると傷ついているのではないだろうか?

 

        12月7日 土曜日

この日は一生、思い出に残る日となった。
  会社の門を出てから、ふと、家へ行って来ようかと思った。実技課題の静物デッサンに、すり鉢を寮から借りて描いた。二枚目の「器物と果物」に、また同じすり鉢を描くのは面白くなかった。家からかめを持って来ようと思った。
 以前、利用していた車両に乗った。ほとんど満席だった。やっと空席を見つけて座った。しばらくして通路を隔てた隣の席へ目をやった。窓側に若い女が座っていた。彼女は外を見ていて顔は見えなかった。なぜか私は心を惹かれ、彼女をしばらく見つめた。高校生らしくもあった。私服のコートを着ていたので、制服は見えなかった。そのコートを見、彼女の黒い手袋を見ているうちに、あの高校生のことを思い出した。彼女が微かに横顔を見せた。彼女だ! 私は体がジーンと熱くなった。どうしよう!どうしよう? 私は鵜住居で彼女の後から降りることを決心した。私にできるだろうか? 実現するだろうか? 少しのあいだ見ないうちに彼女は大人らしくなった。
 彼女が降りるとき、視線が合った。彼女は顔を赤らめ、その目は私を責めているようだった。もう迷っている場合ではなかった。私は彼女と話すのを義務のように感じた。私は彼女の後から降りた。ホームで私は彼女に追いついた。
 「こんばんは」
 私は声をかけ、彼女と並んで歩いた。
 冬の夜の町を歩きながらいろいろ話した。このように自由に話せるのなら、どうしてもっとまえに実行しなかったのだろう? 彼女に手紙を書いてから十四か月目のことであった。
 しかし、彼女はこの次私に会うことも、文通することも避けた。彼女はもう卒業間近で、登校する日数も残り少ないこと、進学すること、上京することなどを話した。彼女の名前も知った。歩いているうちに、町外れまで来た。行く手には暗い夜道が続いていた。彼女は躊躇するふうはなかった。私は彼女をうながして引き返した。
 彼女が私に心を惹かれていながら、どうして今後、私と会おうとしないのか理解できなかった。彼女から見れば、私など結局、一人の労働者でしかなかったのか。
 彼女と別れた後、彼女とやっと話すことができたことへの満足感と、去って行く彼女を考え、ものすごい切なさを感じた。私は本当に彼女を愛していたのだろうか?

家へ帰ってからも心はうわの空だった。母がけげんそうに私を見ていた。寮に戻った後も、切なさはどうしようもなかった。
 彼女の名前を忘れないように紙片に書きとめた。その紙片を見ると、今晩、彼女と話したのが夢ではなく、現実だったのだと改めて思った。
 日記を書いていると2時半を過ぎた。眠れるだろうか? 眠れなくてもいい、明日は日曜日だ。
 それにしても、今晩どうして彼女を暖かい喫茶店に誘って話をしなかったのだろう。

昭和44年(1969年)

昭和44年、正月、彼女に年賀状を出した。水彩で絵を描き入れた。
 5日、日曜日の午前、カーテンを作りに家へ帰った。「松倉」からバスに乗った。すると次の「松倉社宅」で、彼女がバスに乗り込んで来た。彼女は妹らしい女の子を連れていた。私は彼女に会釈した。彼女は動揺していた。彼女は私から視線をそらし、頭を下げた。そして通路をはさんで、隣の席に妹と並んで座った。妹は中学生ぐらいだった。私たちが挨拶を交したのを不審に思っているようだった。
 彼女は顔を赤らめ、斜め向こうへ顔を落としたまま、私の方を見ようとしなかった。そのうち車内が混んできて、彼女の姿は見えなくなった。終点の釜石駅で私が先に降りた。彼女が降りて来るのをちょっと待ったが、なかなか降りて来なかった。私は歩きだした。駅の入口まで来て振り返ると、向こうから来る彼女と視線が合った。彼女が近づいて来るのを、その場でじっと待っていることができず、私は待合室に入って乗車券を買った。それから入口の方を振り返った。彼女は入口のところに立ち止まっていた。私はこれ以上避けることはできないと覚悟し、彼女につかつかと歩み寄った。手が届くところまで近づいたとき、彼女はうつむき、妹を手招きして外へ出てしまった。私はかなり緊張していたので、彼女まで固くなったのだろうか。とうとう話をできずに終った。私は彼女も同じ汽車に乗るものと思っていたが、外を見ると、彼女らは中年の男性と大渡町の方へ歩いて行くのが見えた。父親か?

1月19日、日曜日の夜、映画「アンナ・カレーニナ」を見に行った。期待していたほどではなかったが、素晴らしかった。物語の芸術性と同じくらい、スクリーンのロシヤの自然、風景に感動した。特にレーヴィンの農場での朝の場面、朝もや、木立、草刈‥‥、涙がこみ上げた。
 ところで私はこの映画の前売券を、何日もまえに二枚買っておいた。食堂の彼女を誘うつもりだった。
 私は寮に入って三か月近くになるのに、まだ一度も彼女に話しかけていなかった。ただ一度、前年の暮れ、「おはようございます」と、はっきり挨拶した。そのとき彼女は、キョトンとして、どこかあらぬ方を見た。顔には微笑みが浮かんでいた。彼女は二十歳ぐらいだった。年上の男から丁寧に挨拶されてびっくりしたのだろう。
 その後、彼女が私に深く心を惹かれているのを感じ、彼女と言葉を交わす必要を感じていた。しかし何を話せばいいのか?
 「アンナ・カレーニナ」が釜石に来ることを知ったとき、私は彼女を映画に誘うことを思いついた。
 夕方、いつもより遅く食堂に行くと、人影の少なくなった食堂で、当番なのか、彼女が一人で働いていることがあった。食堂へ降りて行くとき、私はその券を胸のポケットに入れて行った。食べ終り、食器を洗い場へ持って行く。反対側に彼女がいる。「ごちそうさま」と言うつもりで近づくが、それができない。食器を一つずつ静かに水槽に入れる。それから券を取り出そうと、右手を胸のポケットへ持っていく。が、その手はそのまま頭へ上り、髪の毛をいじっていた。

彼女のために買った券は、完全な形で残った。私の券と二枚、日記帳にはさんでおいた。
  食堂のこのかわいい女の子は、その後、数か月して食堂に姿を見せなくなった。

2月に入ると、日が長くなった。帰り、バスから降りると、日没後の明るさがまだ残っていた。すれちがう南高校の女生徒たちは、気のせいか、私を興味深そうに見ているようだ。私が一高校生に手紙を書いたことが彼女らに知れていたのだろうか? 私は恥かしかった。その後、私は明るくなった道で彼女らと会わなければならなかった。

2月中旬、寝つきが悪くなった。今年もまたかと思うと暗澹たる気持になった。
  2月28日、金曜日。なんてばかで、無能なやつらだろう。私の職場には、時々精神病院に入院するTさんという人がいた。そのTさんが最近調子が悪いらしい。彼らは、Tさんに向けた目を、私に向けてきた。私はこのころ、寝つきが悪いことを除けば、調子は悪くなかった。きのう、Tさんと同じ班のやつらが来て、私の前でわざとらしく精神病の話をしたときも、私は平気で聞き流していた。
 私は以前、このTさんは「頭がおかしい」ということで、私も彼を避けていた。しかし、私も精神病院へかかるようになり、病院で彼とばったり出くわすことがあった。そんなとき私と彼は、言葉は交さなかったが、笑みを交した。
 その日の帰りぎわ、私をとりまく情勢が一変した。他の班の前川工長が、物々しい顔つきでやって来て、私の班の山崎工長に、これから工長会議をするから集まれと告げた。私は『おれのことでだな』と直感した。

翌日から職場の空気が一変した。みんな私を変な目で見だした。しかし、私がそれに負けないでがんばっているので、状況はそれほどひどくはならない。
 それにしてもどうしてだろう? 以前の私だったら、悩みに打ちひしがれ、沈み込んでいて、おかしく見られても不思議はなかった。しかし、今の私にはそんなことは全くない。仕事も立派にやっている。
 数日後、私は山崎工長と千葉作業長に抗議した。ところが彼らは私をそんな目で見ていないと言った。それらは全て私の考え過ぎだと言った。だが彼らは狼狽していた。
 言うだけ言ったら気持が軽くなった。それ以来、職場の空気は改まった。もちろん全部ではないが。

3月1日、県下で多くの高校が卒業式を行なった。南高校も今日だろう。さようなら。私が初めて手紙を渡したとき、私を見上げた彼女のおずおずとした目、そしてその目をすぐに伏せてしまった彼女。彼女のことは美しい思い出として私の心に残るだろう。彼女にはどうだろう? 私という人間が彼女の心にどのように残るだろう? しかし、いつか私を理解する時が来るかもしれない。何年後か、あるいは何十年後かに。

4月1日。前の晩、早く寝たので、朝4時に目が覚めた。起きて「法学」のレポート作成にかかった。白んできた外をながめているとツバメが飛んでいた。もう4月なのだ。今、ベートーヴェンの「月光」が静かに流れている。とても充実した感情だ。
 今年の春は、気候の変化に私の神経が打ち勝った。寝つきが悪くなりかけたが、それもすぐにおさまった。何とうれしいことだろう。この感謝に似た気持は何に対して向けたらいいだろう。
 4月9日。調子はとてもいい。気候が暖かくなるにつれ、私の体内の血潮は燃えるようだ。とても異性が恋しい。恐ろしいほど。
 部屋に入ると、あまりの切なさにベッドに泣き伏してしまう。思う存分泣くと、すごく寂しいながら、心は静まり、透きとおってくる。

 

        4月13日 日曜日

今日はろくに学習しなかった。でも有意義に過ごした感じがある。
 風は強いが、二十度を越す暖かさだった。朝食をすませ、ベッドの上に転がって、さて、今日一日どう過ごそうかと考えていると、川崎君が来た。私の部屋で紅茶を飲み、長いこと話した。二時間近くいたろう。正午近くになって彼はやっと腰を上げそうになった。ところが、今度は二人で出かけようと言った。
 南高校のそばの川原を散歩した。途中、グラウンドの縁で女の子が日なたぼっこをしていた。スカートがとても短かった。私は彼女を振り向き、振り向き歩いて行った。すると向こうから高校生が二人やって来た。コートを脱いで、セーラー服姿だった。すれちがうとき、彼女らの一人がかすかな微笑を浮かべて私を見た。とても美しかった。

3時ごろまで川原に寝ころんでいた。柳の林の中に、黄色い水仙がたった一輪咲いていた。その可憐さに私はひどく心を打たれた。
 「このような彼女がほしいな」
 この水仙は、こうして毎年ここで、誰にも気づかれずに、季節が来れば咲くのだろうか。これから毎年見に来ようと思った。
 向こう岸で、小学生の女の子が三人、発育のよい、すらりとした足をまくって、ぬるんできた川に入って遊んでいた。ただ浅瀬から浅瀬へ、石から石へと渡って歩くだけなのだが、彼女らにはそれがとても楽しいらしい。キャッ、キャッとはしゃいでいた。彼女らを見ていると私は飽きることを知らなかった。あのような時代にもう一度戻り、やり直してみたいと思った。川崎君は持って来た詩集に読み入っていた。

それから松倉クラブ(社宅の中にある会社の施設)へ行った。クラブは角張った白い建物で、まわりには白い柵がめぐらしてあった。
 「病院みたいだな」と私が言った。
 「うん、そうだな」彼は答えた。
 客は誰もいなかった。なにしろ外はお日さまが照っているのだ。若い女が数人、テレビの前のソファで編み物をしていた。清潔さはあまり感じられなかったが、かわいい女もいた。しばらくすると彼女らはそこから姿を消した。その時、私は彼女らから、微かではあるが何か異様なものを感じとった。そしてなぜか『手がまわっている』と感じた。

昼間から酒を飲んだ私は、寮に帰ってからも学習などできなかった。夕食をすませ、風呂に入り、冷たい水を浴びて、やっと正常に戻った。
机に向かい、今日一日を有意義に過ごしたのかどうかを考えた。充実感と不足感が入り交じった感じ。でも、お日さまにあたり、春風を感じ、川のせせらぎを聞き、水仙を見、さらに美しい高校生とすれちがった、という普通の日ではできないことができたのは満足だった。

 

        4月20日 日曜日

昼、部屋を掃除した。ちょうど掃除が終ったところで、ドアをノックされた。川崎君だろうと思ってドアを開けた。一瞬、面食らった。そこには男子寮には不似合いな、花のような若い女性が二人、笑って立っていた。モデルになってくれた田口さんと、もう一人、初対面の女性だった。きれいな人で小島さんといった。吉里吉里(きりきり)の床屋さんで働いているが、今度、独り立ちして水沢市へ移るという。
 これは後で田口さんから聞いたのだが、私たちが海水浴に行ったときの写真を小島さんが見て、私に会ってみたいというので連れて来たという。彼女らが訪ねて来たとき、私はブラームスの交響曲を朗々と響かせていた。
 「作曲者は誰ですか?」
 部屋に入って来た小島さんが尋ねた。私はおやと思った。
 「ブラームス、ブラームスの交響曲第一番」
 そう答えて、私はそのレコードジャケットを彼女に渡した。彼女は顔もきれいだったが、声がよかった。女性にしては低めの落ち着きのある声。
 彼女たちはボーリングをやりたいと言い、私にも一緒に行かないかという。私は川崎君も誘い、四人でボーリングをした。本当に楽しかった。汗をかき、みんな満足そうだった。私はこんなきれいな女性と遊ぶのは初めてだった。ボーリング場を出、ラーメンを食べ、それから喫茶店に入った。小島さんは、今後、私と文通したいと言って私の住所、名前を書きとめ、彼女のも私に教えてくれた。
 別れるとき、名残惜しかった。私は彼女に女を感じた。女性に対してこのような感情を抱いたのは初めてだった。

 

数日後、彼女から手紙が届いた。

 

前 略
先日、突然お伺いし、大切な休日をただお相手させてしまってどうもすみませんでした。私達にとっては、とても楽しい一日でした。

 4月20日、この日を良き思い出として心の中にしまって置きたいと思います。
 川崎さん口では強い事おっしゃってましたが、大分お身体に堪えたみたいでしたね。疲れちゃったでしょうね。ごめんなさい。
 ボーリングをした次の日、手足が痛いぞって忠告されましたが、全然感じませんでした。きっと私って鈍いのでしょう。
 ただ残念に思っている事は、ビゼーの「アルルの女」やドボルザークの「新世界」等々聞けなかった事が心残りです。
 お話する時間も足りなかったんですものね。身上がり後、時々釜石に来ますので、その節はこれにこりず、又宜しくお願い致します。
 簡単ですが、とりあえずお礼の文に変えさせていただきます。

                                         かしこ
                                             小島より
 沢舘・川崎 様

 

私は返事を書いたのだが、写しはとらなかったのか、見当たらない。しばらくして二通目の手紙が届いた。

 

ご返事遅れて申し訳ございません。一旦吉里吉里に届いてから更に和賀仙人(地名)に配達されたものですから大分日数がかかっていました。それに5月1日から六日間留守にしていたので遅くなりました、ごめんなさい。
 早く整理して新店舗に行きたいと思ってますが、未だ吉里吉里のほうから荷物が届いていませんので途方にくれています。

沢舘さんって本当に無口なかたね。私は余りにもおしゃべりな為むしろ無口であり口先の思いやりより行動的な思いやりのある人に惹かれるのも事実です。
 自分でも自覚していらっしゃるようですが、それが沢舘さんの長所でもあり短所でもあると思います。誰に迷惑するわけでもなし、それがその人自身の個性の一つですもの、それに満足するなら、他人が何を言おうと、自分に対して裏腹な態度をとらなくてもいいと思います。
   (中略)
 釜石のほうにも時々遊びに行きたいと思っています。その節は宜しくお願い致します。又、たまには水沢のほうにもおいで下さいね。その日を楽しみに待っています。

                   かしこ
                     よし子より
 沢舘 衛 様

 

寮に入り、朝、松倉から釜石駅までバスで通うようになったが、そのバスでよく顔を合わせる北高校のかわいい女生徒がいた。彼女は、私が昨年11月7日の夜、家から寮に帰る汽車の中で見かけた女性徒と同一人物であるようだ。
 互いに強く意識するようになった頃、彼女はバスを利用するのをやめ、列車で通うようになったらしい。松倉駅へ行くためか、寮のわきの道を通る彼女の姿を何度か見かけたことがある。その彼女と、5月7日、帰りのバスで一緒になった。空席がなかったので私は入り口の近くに立っていた。乗り込んできた客が私の後ろを通り過ぎようとした。ふと見ると彼女だった。視線が合った。その目は私を責め、怒っているようだった。その瞳の底に激しいものを感じた。
車内はだんだん空いてきた。彼女と私の間に立っていた客も降りた。彼女は時々私の方を見た。私は彼女を見ることはできなかった。彼女は座った。しばらくして彼女の隣が空き、私も座った。並んで座っている彼女が、心もち私の方に体を向けた。
 彼女は「松倉社宅」で降りた。彼女は私もそこで降りることを期待したにちがいない。私もそれを考えた。しかし何を話していいか分からなかった。

 


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