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 (第一

      第十五章 (母の病気)  第十六章 (すれちがい)  第十七章 (愚劣さを増す職場)  第十八章 (退職)

 


     
第十五章 母の病気

 

昭和44年(1969年)

6月2日、月曜日、午前、義兄から電話があり、今日、家へ帰って来いと言われた。母が夕べ熱を上げて往診を頼んだという。ただそれだけのことで帰れというのは変だ。何かあるなと感じた。
 家へ帰ると母はいなかった。兄夫婦がいた。母はさっき入院したという。兄が私に、母は大腸がんだと告げた。兄と二人で病院へ行った。母は力なさそうに、半分閉じたような目で私を観察していた。
 姉に聞いたが、母は入院するとき、私がこの夏、スクーリングに持って行くものについてあれこれ心配していたという。
 二日後の水曜日も母のところへ行った。甥(姉の子)を連れて行った。母は元気を装っていたが、一度、甥の手をとって自分の方へ引き寄せ、寂しそうな笑いを浮かべた。甥は戸惑ったように顔をそむけた。
 母は私に、今度の日曜日、帰って来てイチゴ摘みをしろと言った。本当は自分でやりたいのだろう。私は土曜日の夜、帰って来ることにした。
 しかし土曜日は帰れず、日曜日の朝出かけた。母は夕べ私が帰らなかったことを気にしていたようだ。畑へは姉やその子供たちも一緒に行った。しばらくすると弟も車でやって来た。
 4時ごろ家へ帰った。弟と二人で、摘んだばかりのイチゴを持って母のところへ行った。母は病気が治った後のことを話していた。早く治って畑仕事をしたいのだろう。本当に治ってほしい。
 弟は車で、私を釜石の寮まで送り、コーヒーを飲んで盛岡へ帰って行った。

母の手術は6月16日に行なわれた。結果はとても良かった。第一、がんと見られていた病気は、手術してみて別のものとわかった。腸が癒着していたのだという。

6月頃から、職場の雰囲気、それに寮での川崎君の態度が異様なものになってきていた。ベッドに入った後、その日のちょっとしたことが次から次へと浮かんできて、2時、3時まで眠れないことがあった。職場でのAの態度、Bの言葉、Cの目つき‥‥、そしてそれらが有機的につながりあった。
 山崎工長に抗議すると、それらは全て、私の気のせい、考え過ぎだといった。

6月25日、川崎と衝突した。いつかはこうなると思っていた。最近の彼の態度は軽蔑に値するものだった。あんな友達は、いないほうがいい。精神衛生の面からもよくない。こんなことは考えたくないが、彼からは、私に対する妬みのようなものが感じられた。
 私が寮に入って以来、私に対する川崎の態度は奇妙なものになっていった。彼は何か異常な軌道に乗ってしまい、私の周りをまわり始めたようであった。その軌道を私はどうすることもできなかった。回転はだんだん速度を増し、何かにぶつかりでもしなければ、止まることを知らないかに見えた。
 彼は他の大人と同じように、彼自身の心を硬い甲羅で覆ってしまい、めったにそれを覗かせることはなかった。なぜかそれを恐れているようだった。ただ、酒を飲んだときだけ、おずおずと甲羅の下から顔を覗かせることがあった。
 一方、私は自分の心を偽ることはしなかった。私は常に赤裸々な姿をさらけ出してきた。だが誰もそれを信じなかった。彼らは一見美しい私の装いの陰に、彼らには想像もできない、何かグロテスクなものがうごめいているとしか考なかった。
 ある夜、廊下で川崎に会った。
 「お茶でも飲みに来い」
 彼は私に言った。少しして私は彼の部屋へ行った。そこには川崎のほかにもう一人の男がいた。彼は党員でもあり、先輩でもあった。彼は川崎のベッドの隅にうずくまっていた。私は彼らに挨拶した。しかし彼らは応えなかった。しばらく沈黙が続いた。やがてその男が誰に言うともなく言った。
 「変人は、どこの職場でも使い用がないそうだ」
 それから、「精神病」「異常者」といった言葉がその男の口から次々に飛び出した。私は川崎を見た。彼は困惑しながらも、ニタニタ笑っていた。私はその部屋を出た。私の部屋へ戻ってまもなく、川崎が入って来た。彼はベッドに腰を下ろした。私は彼を無視した。
 「何か、おれに話すごどあるべ?」
 彼は言った。私は何も答えず、机に向かっていた。彼はもぞもぞしていた。
 「少し口をつつしめや」
 やがて、私はそう言った。彼は困惑し、ベッドの上をごろり、ごろりと転がり、関係のないことを言った。が、すぐに姿を消した。

ずっと以前から、川崎がどうにかして私を精神異常者に見なそうと努力しているのを感じていた。精神異常者扱いされて、同盟も党もやめた私が、その後、立ち直り、立派にやっていることが、彼ら党員には面白くなかったのだろう。私を「ちゃんとした人間」と認めることは、彼らは彼らの犯した誤りを認めることになるのだ。しかも彼らが一時、私を党に戻そうとした時、私は断った。

職場でもたたかいの連続だ。私はずいぶん疲れる。私を変な目で見るやつは徹底して軽蔑してやった。彼らにはもう挨拶もしない。あんなばかたちと、これからも顔を合わせなければならないかと思うと、うんざりする。だが、今では彼らに負けない自信がある。
 しかしどうしたことだろう、デッサンしていても、学習していても、いつのまにか頭は別なことの上を漂っている。注意力を集中できない。職場の、あの愚劣なやつらのどこに、私をこれほどまで苦しめる力があるのだろう?

7月15日、大学から手紙が来た。「大学立法」の問題で大学が荒れ、鷹の台校はバリケードで封鎖されているという。スクーリングは吉祥寺校でやるという。しかし、私は今年のスクーリングには出席しないことにした。

7月16日、母の病気が悪化した。独りで歩けなくなった。「スモン病」だという。聞いたこともない病名だった。大槌病院に入院していたが、岩手医大病院に転院することになった。
 スモン病については、その後、テレビなどの報道で知ったが、下痢止めの薬の副作用で治療法はまだわからないという。
 大腸がんと診断されて手術したら、がんでないことがわかり、ほっとしていると、今度はスモン病だという。これまでの症状は、スモン病の初期症状だったのかもしれない。この病気は足が痛み、しびれて歩けなくなり、失明することもあるという。

8月24日、注文していたキャンヴァスが一巻届いた。寮の事務員はびっくりしていた。こんなものが8,500円もするなんて。包装を開き、中からキャンヴァスの、甘ずっぱい匂いがしてきたとき、私の胸は喜びに満たされた。
 翌日、会社から帰るとすぐに屋上へ上がり、二十号のキャンバスを二枚張った。夕日の中でキャンヴァスを張る自分の姿に私は満足した。
 私はとても絵が描きたい。会社で時間を費やしているのがとてもくやしい。

職場の者たちの低俗さには、目を見張るものがある。こんなにまでくだらない人間の集団とは思っていなかった。見ろ、これがおまえの同僚というやつらだ! これがおまえの社会的地位を代表する典型的なやつらだ。私は恥かしさで息もできなくなる。その彼らが、私を彼ら以下に人間に見ているのだ。
 むかしと同じ目で私を見る者達を、私は徹底して軽蔑してやった。私の態度ががらり変ったので、彼らはますます変な目で私を見た。しかし私は一貫した態度をとった。彼らは私を見る目を変えた。私に遠慮がちになり、丁寧な言葉を使う者もいた。
 『おれのほうが勝った』そう思ったとき、あることが起こった。
 職場で使うウエス(ボロ布)の中に、女のパンティが入っていた。それが作業場に無造作に放り出されてあった。もしかするとそれは意図的にそこに置かれたものかもしれない。みんなは長椅子で休んでいた。そこにはなぜか、他の班の小川や岩渕(以前、私が日記を見せた党員)も来ていた。私は自分の仕事が一段落したので、休憩しようと彼らのところへ行った。私はそこに落ちていたパンティを拾い上げ、椅子の埃を払った。そのまま放り出そうとしたが、ふといたずらっ気が起こり、
 「おっ、なんだ」
 そう言って、そのパンティを広げて見た。ところがどうだろう、四十をはるかに超えた小川は恥かしそうに笑い、顔をそらした。岩渕は目を輝かせて私を指さし、
 「好きだぁから、好きだぁから」
 とはやしたてた。佐々木も顔を赤らめて笑っていた。私は予想もしなかった彼らの反応に面食らい、赤面した。なんて情けないやつらだろう。
 岩渕はその後も、ニタニタしながらそのことにふれた。私はむかつき、吐き気がした。
 翌日、同期生の田中(私を党に推薦した男)が、得意満面で飛んで来て言った。
 「エイ君、カァちゃんもらいたぐなったんでねぇが? おら、もうガキ二人だぞ」
 パンティのことがあってから二日ほどして、工長の山崎がニタニタしながら私に仕事を言いつけた。その笑いは、彼がたとえ上司でも許せないものだった。私は工具を荒々しく取り扱った。山崎は顔色を変えていたが何も言わなかった。だが、このときから、山崎とのたたかいが始まった。

線材工場の大修繕が始まった日、私はわざと休んだ。その翌日の8月30日(土)、出て行くと、彼は私一人を仕上班へ手伝いに出した。試験班の人間が、他の班へ手伝いに出されるというのを、私はそれまでに見たことも聞いたこともなかった。
 モーターや発電機の取り外しや据え付け作業だった。汗まみれ、埃まみれになった。作業している自分がとてもみじめになった。さらに休憩時にする彼らの会話はがまんできないものだった。エロ話をするにも、もっとセンスとユーモアをもってできないものだろうか。彼らはものをしゃべる動物でしかない。彼らは汚いエロ話をしながら、その話に私がどれだけ感激しているかを確かめようとするように、じろり、じろりと私を観察した。
 翌日の日曜日、寮にいると、会社(課の事務所)から電話で呼び出され、会社に出た。独りでモーターのテストをした。
 9月1日、月曜日、上司の山崎は、昨日、私が呼び出されて仕事をしたことを知っていたであろうが、それには一言もふれず、また私を仕上班へ追いやった。さらにその翌日も。
 私は抗議の意味を含め、9月3日(水)、4日(木)と二日続けて休んだ。

9月5日、このまえボーリングをして遊び、水沢へ行ってしまった小島さんから手紙が届いた。

 

長い間の御無沙汰お許し下さい。突然ですが、私の現在の心境を恥を忍んで、又あるいは沢舘さんが遠く去ってしまうかもしれません。でもこれだけは、はっきりしたいのです。
 忘れもしない4月20日、尚ちゃんの紹介により沢舘さんにお逢いしたその日、私の心が動揺した事を。そしてあの時、どうしてもこのままお別れする事が惜しまれ、どうにか縁の糸を切らない方法はないものかと考えた末、文通が浮かび、それに同意して下さった時、とても嬉しく、はっきり言ってあの時このまま一生共に歩み、二人で歴史を作れたらどんなに素晴らしいだろうなぁと一人夢に溺れたのは事実でした。
 一時的に夢中なのだ! そうなのだ! 軽い気持で文通すればいいではないかと自分にいやがおうでも言い聞かせて吉里吉里をあとにしたものの、日がたつにつれ益々思いが募るばかりで四ケ月間悩み迷いました。私だって適齢期です。近所の同級生が皆嫁ぎ始めましたので父母があせり、いくつかの見合いをすすめてくれますが、どうしても沢舘さんの事が忘れる事が出来なく思い切って私の本心を打ち明けた次第です。軽率だと思うかも知れません、でも私は違います。あくまでも真剣です。

只一度しかお逢いしていませんが、あの日は私たち二人のお見合いだったように思われてなりません。余り難しい事はわかりませんが、これから二人で学び二人一対になり前進したいと思います。もし御迷惑でなかったら今後結婚前提とした交際をしたいと思って居ますが、余りにも一方的過ぎたかも知れません。私何もいらない沢舘さんと御一緒でしたらと言う考えは全然変りません。 私自身何も障害等有りません。今直ぐと言うなら直ぐ行きます。五年六年、いいえそれ以上でも待ってくれと言うなら待ちます。
 きっと沢舘さん困惑していらっしゃるでしょうね、無理も有りません突然ですもの、しかも予期なく。
どうぞゆっくり考慮して下さい、そしてはっきり御返事聞かせて下さい。いつまでもお待ちして居ます。

なお、9月1日尚ちゃんのところへ行って来ました。そして沢舘さんのところへ行って打ち明けようと思いましたが、釜石発6時38分の為時間がなく涙を呑んで帰って来ました。電話でもと思いましたが電話帳には載っていませんでしたものね。結局駄目でした。月曜日行くのですから休日が合わないものね、ガッカリ。
その日一日、尚ちゃんとお互いの将来を語り合って終りでした。
御免なさいね、余り突然で、でもいつか必ず言おうと思っていた事です。
それでは今日はこの辺でペンを置かせて戴きます。
                      かしこ
                        よし子より

   沢舘 衛 様へ

駄目でも一応御返事頂けたら幸いに思います。

 

これは予想していなかったものであった。手紙を持つ手が微かに震えた。どうしよう? 二日間考えた末、返事を書いた。

 

お手紙ありがとう。あなたの見せてくれた愛情を大変うれしく思います。それは私の心を波うたせました。私も自分の気持をうちあけて、それに応えましょう。でもそれはあなたの期待に添えないものになるかもしれません。
 あの日、一日お会いし、その後文通するなかであなたは私の中に何を見たのでしょう? おとなしさですか、無邪気さですか、あるいはまじめさですか? 私たちは、心をひかれたひと、とくにそれが異性であるばあい、その良い面だけが見え、欠点に対しては盲目的になりがちです。あなたは私を理想化しているのです。あなたは私がどんな人間か、どんな性格の持ち主かわかっていないのです。あなたが理解したと思っている私のかげには、よし子さんが想像できない「私」がひそんでいるのです。
 私という人間は、ただの友達としてつきあうにはとてもいい人間かもしれません。しかし、結婚して一生、生活を共にするには適さない人間です。こんなことをいうとあなたは私を幼稚だとわらうかもしれません。しかし、まえにも言ったようにそれは、あなたには想像もつかないものなのです。どんなに私が病的なほど神経質で、もろい面をもち、気むずかしい人間であるか。それは、とても言葉では表わせません。表わせたとしても、それをあなたのまえに示して見せることは私にはとても苦しいのです。とにかく私は、普通の人間ではないのです。私が寮に入ったのも、このような性格をもった「私」が、家族と一緒にやっていけなくなったからなのです。

私と結婚したら、あなたが不幸になるのは目に見えています。よし子さんがいくらそれをがまんするといっても、私にはがまんできないのです。
 私は、これまで私にもってこられた縁談も全部ことわってあるのです。
 私のこういった気持は、そうとう固いものです。よし子さん、私の気持を変えようなどと努力しないでください。私のためにあなたの縁談を台なしにしないでください。あなたは大きな幸福をとりにがしているかもしれないのです。
 よし子さんさえことわるようなことをしないなら、私はこれまで以上の友情でもって交際したいと思っています。
                     沢 舘 
 
よし子さんへ

1969・9・7

 

        9月8日 月曜日

会社を休んだ。外は秋晴れで涼しい。しばらくぶりに家へ帰ってみた。家の空気は活気がなかった。兄はゆかた姿で、父からの手紙を読んでいた。医大病院に入院している母の具合はかなりいいらしい。
 私がしばらくぶりで帰ったら、兄の子供たちが大喜びしていた。
 姉の家へも行った。母が、私が分家するときのために何かの組織に入り、月々金をかけ、たんすを用意しているという話を姉から聞いた。そして、母が病気になったとき姉に言ったという。もし病気が悪化して死ぬようなことがあったら、そのたんすを私にやってくれと。

 

        9月9日 火曜日

労演が主催する宮沢賢治の「グスコー・ブドリの伝記」を見た。あまり期待していなかったが、その良さにびっくりし、感激した。
 9時半のバスで帰った。入口の近くに川崎が乗っていた。川崎とは寮での衝突以来、挨拶も交していなかった。彼が知らん顔をしていたので私も黙っていた。私は彼と視線を合わせないようにしていた。
 私の隣に立っていた女性、髪を長く伸ばした20歳ぐらいの女性が、私に心を引かれたようだ。そこへ川崎がやって来て言った。
 「まっすぐ帰るか? 中妻で降りないか」
 私は同意した。私が降りるとき、彼女は動揺していたようだ。
 川崎と仲直りができた。しばらくぶりに飲み屋で酒を飲んだ。やっぱり飲み屋の空気にはなじめなかった。

劇場に入るまえ、大槌の佐々さんに出会った。喫茶店に入って話した。彼は私に言った。
 「好きな人がいたら、積極的に話しかけたほうがいい。でないと、後に悔いを残すから」
 もしかすると、彼はあの初恋の「彼女」のことを言っているのではないかと考えた。彼と二人で、よく彼女の近くに乗ったものだ。

 

        9月11日 木曜日

胸は切なさでいっぱい。勉強にも全然身が入らない。今晩、よし子さんに書いた手紙を読み返してみた。その冷たさに私自身驚いた。彼女はきっと苦しんでいるにちがいない。私が普通の人間だったら、彼女のような人から結婚を申し込まれたら喜んで受け入れたにちがいない。あのきれいな顔、よく均整のとれた身体。
 ああ、どうしたらいいんだろう。このもだえ、いっそ結婚したら? 涙だけが後から後からこみ上げる。よし子さんに直接会ってみたい。だが踏み切ることはできなかった。
 前の手紙から一週間後、彼女に手紙を書いた。

 

よし子さん、私を悪く思っているのではないでしょうか。(七日付けの手紙は受け取ったことと思います)。
 よし子さんに書いた手紙の下書きをあとで読み返してみ、よし子さんをキズつけることになったのではないかとおそれました。そうでしたら私を許してください。でもあの手紙に書かれたことは、私の本当の心なのです。
 私はよし子さんからのお手紙を読んだとき、胸がいっぱいになり、涙ぐみました。私を信じてくれたあなたの真心がとてもうれしかったのです。
 いつかは結婚しなければならないだろうとは考えていましたが、それほど身近な問題とは感じていませんでした。私の歳をして変だと思うでしょう。でもそのような問題に対しては、私は子供同然なのです。
 それにはそれなりの原因があるのでしょう。まず、私のわがままな性格から、家庭といった、ひとつの枠の中に限られてしまうのががまんできないのです。自分一人のように勝手な行動がとれなくなるでしょう? それから、これまでこのことについてはふれませんでしたが、私はいま美術学校の通信教育をうけています。以前の手紙で、「この夏、放浪の旅に出る」などと書いたでしょう。あれはうそです。私はそんなロマンチックな人間ではないです。通信教育のスクーリングだったのです。

やりたいことがいっぱいあるのに、時間はどんどん過ぎていきます。そのあせり、苦しみをよし子さんわかってくれるでしょうか。結婚すれば、ふだんでものろい私の歩みにブレーキがかけられます。それを考えると結婚になかなかふみきれないのです。
 私だって、よし子さんがあの日、とつぜん私のところをたずねて来たとき、動揺しました。よし子さんのかわいさ、声のすばらしさ、女性にしてはめずらしい低めの声。そしてまた、私がブラームスのレコードをかけていると、「作曲者は誰ですか」とたずね、私をびっくりさせましたね。ボーリング場での楽しさ、喫茶店での楽しい会話、暗くなった街角で別れるときのなごりおしさ‥‥、それらが生き生きと思い出されます。
 こうして手紙を書いている間にも、涙がにじんできます。
 でもよし子さん、私を責めないでください。
                      沢舘 衛より
 よし子さんへ
   1969.9.13

追伸
 よし子さん、これからも、いままでのようにおたよりくださいね。                 おやすみなさい。

 

 

     第十六章 すれちがい

 

昭和44年(1969年)

職場で愚劣な連中の中にあり、しかも、その愚劣な者たちから、彼らよりさらに愚劣な人間に見られ、精神的に窒息しそうになっていた私は、たった一人でいいから、私を本当に理解し、信じてくれる女がほしかった。私の真の姿をぶっつけ、それを受けとめられるだけの容量をもった女がほしかった。
 数年前から、朝、釜石駅付近ですれちがう女の中に、二十二、三歳の、ずいぶんまじめそうな女がいた。彼女は化粧もせず、またミニスカートをはいたり、体の線が見える服装をしたりすることもなかった。またどんなに暑い夏でも、ブラウスの上からブラジャーが透けて見えるような服装もしなかった。
 その彼女が数か月前から私に心を動かしているのを私は感じていた。私も彼女の高貴さに少なからず心を動かされた。彼女の勤め先は、駅を少し行ったところにある事務所らしかった。私は駅の近くでバスを降り、駅前を通り過ぎ、会社の東門へ向かった。だから駅前でよくすれちがった。
 夕方は出会うことは少なかった。私の会社は4時で終り、彼女の会社は5時までらしかった。だから私が会社の帰り、町へ下りて行って買物などして帰って来ると、勤め帰りの彼女に出会うことがあった。彼女を意識するようになってから、私は何か理由を見つけては町へ出かけ、その帰り、彼女と出会うのを楽しみにした。日の短い秋は5時にはもう薄暗くなった。私とすれちがった後、彼女はよく駆けだした。私は夕闇の中を駆けて行く彼女の後ろ姿を見送った。ある時は橋の上であり、ある時は明るい商店街であり、またある時は駅前の広場であった。
 半年ほどまえから、時々、私は駅前で彼女の帰りを待った。しかし彼女の姿が見えると、私はたちまち駅の待合室へ身を隠した。話しかけようとして彼女の後から歩きだしたこともあった。しかし、どうしても話しかけることができず、引き返した。

次の日記は、小島さんに最後の手紙を書いた前日のものである。この原稿作成にあたり、日記に目を通していて私は驚いた。小島さんにあのような手紙を書きながら、一方で、それと平行して、私はこのようなことをしていたのだ。これが私のやったことか!

 

        9月12日 金曜日

釜石駅で、彼女が帰って来るのを待っていた。どんなことがあっても話しかける決心をして。
 待合室の窓から、彼女が来る方を見守っていた。5時15分頃、彼女の姿がチラと見えた。私は待合室を出、売店の陰で待った。しばらくして、彼女がその売店の角から姿を現した。彼女はすぐに私に気がついた。視線が合ったとたん、私は目を落とし、彼女に向かって歩きだした。近づきながら目を上げると、彼女は当惑してうつむき、立ち止まっていた。
 「こんにちは」
 そう言ったつもりだが、それは彼女には言葉としては聞き取れなかったろう。喉の奥がごろごろ鳴っただけだった。
 「少しお話したいんですけど」
 私は小さな声で言った。
 「えっ」
 彼女は私を見上げた。
 「少しお話したいんですけど」
 彼女はしばらく当惑してうつむいていたが、
 「わたし、あなたを全然存じませんけど」
 小さな声でそう答えた。
 「え?」
 私は機械的に聞き返した。
 「わたし、あなたを全然存じませんけど」
 「私もあなたを全然知りませんよ」
 困ったあげく私はそう言った。
 「でも忙しかったらいいんですけど」
 「忙しいんです」
 彼女は微かに笑いながら答えた。私はそばに止まっていたタクシーの運転手の視線を、ずっと感じていたので、彼女をうながして歩きだした。
 「いつもこの道ですれちがっているうちに、いつかお話してみたいと思っていたんです」
 そう言って私は彼女を見た。彼女は明るく笑っていた。彼女に話しかけるまでの胸の動悸はどこへ行ったのか、とても楽しく話ができた。
 彼女に話しかけたとき、彼女の顔が、なぜかとても小さく感じられた。私たちは、私たちの間をひと一人、楽に通り抜けられるくらい離れて歩いた。
 五分ほど歩き、大渡橋を渡り、商店街に入った。そこで彼女は急に立ち止まり、険しい顔をした。
 「今日は忙しいですから、これで帰ります!」
 そう言うなり、彼女は私から飛び退き、私に背を向けて歩きだした。屈辱が私を襲った。私は彼女の後姿をじっと見守った。数歩行ったところで彼女は立ち止まり、くるりと私の方へ体を向けた。真剣な顔で私を睨んでいた。それはまるで、だまされかけていた女が、そのことに気がつき、怒っているようだった。私はゆっくり彼女に歩み寄った。
 「会う時間がないんでしたら、手紙をくれませんか」
 私はぎこちなく、つぶやくように言った。彼女は表情を変えなかった。私は気まずくなり、
 「手紙をくれませんか」と繰り返した。
 「わたし手紙なんて書けませんよ」
 私が本当に困っているのを見ると、彼女はやっと表情を和らげ、そう言った。
 「私だって同じですよ‥‥。明日会えませんか」
 「ええ、忙しいですから」
 「じゃ、この次、都合のいい日は?」
 「来週の水曜日」
 私たちは来週の水曜日、午後5時、釜石駅前で会うことを約束して別れた。

私は彼女の突然の変化が何によるものか全くわからなかった。そのことについていろいろ考えた。
 彼女と歩いていた道の反対側にはバス停留所があった。もしかすると、そこに私の職場の者たちがいたのではないのか? 私が若い女と歩いているのを見たら、彼らは私を指さし、素晴らしい笑い方をしたにちがいない。うすのろが女の子と歩いていたのである。
 さらに数年して、もう一つのことが考えられた。何かの理由で私を尾行したり、要所、要所で見張ったりしていた者たちが、彼女に何らかのしぐさをするか、あるいは合図するかしたのではないのか?

 

        9月14日 日曜日

私は恋しているのだろうか。これが恋する者の心だろうか。しっとりしていて、深く落ち着いている。心はいつも彼女のことを考えている。それなのに胸には言い表しようのない空虚感がある。
 昼、スケッチブックとクレパスを持って近くの山に入った。山道を歩き、沢のせせらぎを聞いていると、空虚感はいっそうつのった。涙がにじんだ。スケッチブックを胸に抱くと空虚感はいくらか和らいだ。

 

        9月16日 火曜日

いよいよ明日だ。彼女は本当に会ってくれるだろうか? そうでない気がする。そんなにうまくいくはずがない。だが彼女が私の本当の友達、恋人になってくれたらどんなに素晴らしいだろう。
 このまえ彼女に話しかけてから、これまでの四日間、一度も彼女を見かけなかった。

 

        9月17日 水曜日

約束の日。
 駅前で待っていると、彼女はかっちり5時にやって来た。だが様子が変だ。事務服姿のままで、ハンドバッグも持っていなかった。私が近づくと、彼女は私から体をそむけた。
 「今日は忙しいですから」
 彼女は怒った口調で言った。私は彼女を見守った。
 「では、この次、都合のいい日は?」
 彼女は顔をゆがめていたが、
 「忙しいですから」と答えた。
 私は彼女の言おうとしていることがわかった。私は彼女の白い事務服の、少し汚れた襟や、あまり目立たない胸のふくらみを見つめていた。そして言った。
 「迷惑でしたらいいんですけど」
 「迷惑というわけではありません!」
 腹立たしそうに彼女は答えた。沈黙が続いた。
 「ではさようなら」
 あっさり言うなり、彼女はくるりと私に背を向け、去って行った。私はしばらくその場に立ちつくした。絶望というよりは、すごいほどの快感を味わった。
 私は彼女が去って行ったのとは反対の方向へ足を向けた。なぜだろう? 最初話しかけたとき、あんなに喜んでいた彼女が、なぜだろう?
 おれはただの労働者だ。そのうえ会社では異常者ということになっている。誰からかそのことを聞かされたら、彼女がそのような態度をとるのも無理はないだろう。

寮に帰って泣いた。レコードをがんがん鳴らして。
 夜遅く、机に向かってぼんやりしていると、川崎が妙な顔をして入って来た。
 「何だ、浮かない顔して、何かあったのか」
 彼は入って来るなりそう言った。私は黙っていた。
 「女の子にでも振られたのか」
 「うん」
 「おまえみたいなのを振る女もいるんだから、女の目なんて節穴同然だ」
 彼はそう言ったが、その顔には少しの同情も見られなかった。
 彼が私の部屋に入って来るなり、「女に振られたのか」と言ったとき、私は『こいつ、知っているのか?』と思った。知っているとしたなら、どこからそれを知りえたのか?
 彼はテーブル上の洋酒のびんを見つけ、
 「おっ、何だ」と、それを目の高さに持ち上げ、ながめまわした。
 「ブランデー、一級‥‥ふん、おれなら振られれば焼酎飲むんだども、おめぇやっぱり違うな」

翌日、職場で田中が私を見るなり、
 「おお、エイ君、ブランデー、一級、飲んでるが?」
 ばかにした口調で言った。

三日後の9月20日、小島さんより手紙が届いた。

 

御返事有難うございました。一枚一枚拝見しているうちただ涙が頬を伝うばかりで、どうしてもお手紙書けませんでした。沢舘さんに打ち明ける前に親友である尚ちゃんにすべてを打ち明けました。尚ちゃんも自分の事のように心配して下さいました。取りあえず電話しましたが、冷静に冷静にと心に言い聞かせれば言い聞かせる程、言葉がつまり面食らいました。でも今は違います、沢舘さんのお手紙を何度も読み返しているうちに、確かに沢舘さんを自ら勝手に理想化したという事は少なからず事実です。でもね、これだけは言わせて下さい。好きでした、大好きでした。
 沢舘さんは自分がどんな人間か、どんな性格の持ち主か、私には想像もつかない『沢舘さん』が潜んでいるとか。これを言われると、無鉄砲に引き金を引いたみたいで‥‥。何も言えません。でも沢舘さんの意外な一面を聞き(大槌に行った時ですが)まさかと思い、問題にしませんでした。そしていくつかの縁談があった事も知っていました。

お手紙に依りますと、友情でもって交際したいとか、本当に有難うございます。この言葉とても嬉しかったわ。沢舘さんに断られはしましたが最後の暖かい言葉、有難くちょうだい致したいと思います。でも一度結婚を深く考えてから今度は友情の交際、他の女性には簡単に出来るかも知れませんが、私っていう人間はどうしても駄目なんです。お許し下さい。今は過去のすべてを忘れ、第一歩から人生を歩みたいです。と同時に結婚は考えたくなくなっちゃった。水沢の青年学級にでも入会し没頭しようかと考え始めました。二度とない貴重な青春ですもの一つの良い経験と思って居ります。

いずれかは沢舘さんだって御結婚なさるでしょう。余り自らのカラにとじこもる事なく、たまには他人を入れ、暖かくそして悩み等、気軽に話し合えるもてなし等して明るい自分をとり戻して下さいね。俺はこれでいいんだじゃなくね。
 本当に色々有難うございました。どうぞお元気でお仕事に美術にお励み下さいませ。なお川崎さんにも宜しくお伝え下さいましたら幸いに思います。
                  さようなら
                    よし子より
    沢舘 衛 様

 

9月23日、大槌の秋祭り。前の晩に家へ帰って泊まり、朝早めに盛岡へ発った。祭りのごちそうを持って母のところを訪ねた。祭りの当日、私が来るとは思っていなかったのだろう。母は表情には出さないようにしていたが、うれしそうだった。電話して弟も呼んだ。
 母の病室の廊下側にいたおばあさんが、おととい亡くなったという。そしてすぐ別の人が入ったという。その人は二十歳前後の女性だった。女生徒そのままの純真さが感じられた。
 私が帰ろうとしたとき、彼女は廊下側へ寝返った。挨拶するのが恥かしかったのか。病室を出るとき、彼女をチラと見ると、彼女も、その少女のような瞳で私を見ていた。若いのに病気で寝ている彼女がかわいそうになった。
 盛岡駅まで、弟が車で送ってくれた。

 

        9月24日 水曜日

彼女に振られてから一週間目だ。
 私は彼女が私を振ったことを、あとで後悔するようになるだろうことを確信していた。だが、それがこんなに早く来ようとは意外であった。
 今朝、駅前の横断歩道を渡り、少し行くと、それまで姿を見せていなかった彼女が、反対側の歩道を向こうから人混みの間を小走りにやって来るのが見えた。私は心の動揺を押え、顔をまっすぐ上げて歩いた。彼女がちょうど反対側の歩道に来たとき、彼女が歩く速度を落としたのが視界の隅で感じられた。
 このことが彼女の後悔と結びつくかどうかはわからない。私のほうからは、もう彼女に近づかないし、彼女のほうから来ても断る決心だ。
 私が彼女に近づいたとき、そのことがすぐに私の職場に知れていた。ぞっとした。私の選んだ女が彼らの目にさらされるのはがまんできなかった。私が二度と彼女に近づくまいと思ったのには、このことが大きく作用している。

 

        9月25日 木曜日

朝夕冷え、秋らしくなってきた。
 今朝も彼女と車道を隔てて出会った。道の端を向こう斜めにうつむいて歩いて行った。その顔は苦しそうにゆがんでいた。私もうつむいてしまった。かわいそうに思った。同時にそう思う自分の心の弱さを叱った。
 これからも彼女は私と出会う時刻に出て来るのだろうか。私は会いたくない。会って、彼女のそういう姿を見せつけられると、私の決心もぐらつく。

 

        9月26日 金曜日

今朝も彼女とすれちがった。私はうつむいて歩いて行った。すれちがうとき、チラと見ると、彼女は顔をまっすぐ上げて歩いていた。

 

職場のくだらない連中、醜い組織の中にあって、こんな生活から逃げ出そうと考えた。
 通信教育を終えたら教員になろう。私が教員になるなんて、今の私には考えられない。しかも資格が取れるのは三十歳近くになる。その年令で教員になるのは恥かしくないか。だがそれは一時的なものではないか。今の地位で五十五歳の定年までいるか? 屈辱に耐えて。そして、顔にはいかにもそれを思わせるしわが刻み込まれていく。いやだ! いやだ!

職場の連中には私が理解できない。上を仰いでも、彼らには私が見えなかった。下を見下ろしてもそこにも見えなかった。そこで彼らは考えた。私が彼らに見えないほど、はるか下方にいるのだと。

 

        9月27日 土曜日

彼女、ひどく悲しそうな顔をしてすれちがった。それも、私を避けるようにずっと離れたところを。ずいぶん苦しんでいるようだ。顔がみにくいほどゆがんでいた。
 私のとっている態度は、本当の男らしさだろうか。彼女を許してやるのが真の男らしさではないのか。
 だが、彼女の態度がこのように変化するのは何によるものなのか。

 

        9月29日 月曜日

わらび座の公演を見に行った。そこからの帰りのバスで、お互いに意識しあっていた、北高校の女生徒と乗り合わせた。彼女は私服を着ていた。彼女は私から少し離れて右側に座った。バスは空いていた。途中から彼女と私の二人だけになった。彼女はいつも降りる松倉社宅で降りなかった。次は終点だった。私と話をするつもりだろうか。私は覚悟した。最初に話しかける言葉まで用意した。あとは自然に出るだろう。いよいよ終点というとき、彼女が襟元を手でかき合わせるの感じられた。私は寒さと興奮で、ひざが小刻みに震えた。終点近くには民家も街灯もほとんどなかった。彼女が先に降りた。ところが彼女はいきなり駆けだした。数十メートル先へ。私には彼女の行動が理解できなかった。私はわざとゆっくり歩いた。暗闇の中を急ぎ足に去って行く彼女の後ろ姿を見ながら。

 

5日後の朝、バスで彼女が私のすぐ隣に座ったが言葉を交わさなかった。

友人で、先輩でもある佐々さんが結婚することになった。その披露宴の幹事に私も加わることになった。10月6日の夕方、佐々さんと二人で、招待状に使う用紙を選んだり、印刷所を訪ねたりした。用紙を選びに太田文房堂に入ると、例の女生徒が店員姿で働いていた。アルバイトをしているのか。
 翌日、帰りのバスで彼女と一緒になった。私の向かいに座って、頬をうっすら赤らめていた。彼女も終点で降りた。彼女は私のすぐ前を歩いた。まだ明るかった。話しかけようかと思ったが、南高校の生徒が反対側から来るので話しかけなかった。南高校の女生徒の中には、私の前を歩いている彼女を見つめ、それから私を見つめて行く者もいた。

この翌日、10月8日の朝、彼女に挨拶した。
 朝、駅前でバスを降りると、彼女はいつも道の端をゆっくり歩いた。私は毎朝のように彼女を追い越した。
 この朝、彼女に近づいて行くと、彼女はすぐに私の方を振り向いた。
 「おはよう」
 私は声をかけた。彼女は黙って頭を下げた。ずいぶん緊張していたようで、私より数歩遅れて歩いた。話はできなかった。駅の入口で別れるとき、私たちは軽く頭を下げあった。

 

        10月9日 木曜日

朝、バスで彼女は私のすぐ前の席に座った。駅へ着き、彼女は私に挨拶して先に降りた。また私から離れて歩こうとする彼女に私は話しかけた。
 「明日(祝日)は休み?」
 「アルバイト」
 彼女は答えた。
 「明日、天気がよければ、洞泉(どうせん)の方へスケッチに行くけど、一緒に行かない? 気が向いたら来て。松倉を9時2分」
 彼女ははっきりした返事をしなかった。この会話で彼女は気持が楽になったようだ。私と並んで歩いた。
 私は彼女とは比較的楽に話せた。女に振られた後だけに、腹がすわっていたのか。

 

        10月10日 金曜日

「体育の日」で休み。
 今日は洞泉へスケッチに行ってきた。
 松倉駅へ早めに行った。彼女は来なかった。少し寂しかった。でも誘われても来ないところが、いかにも女生徒らしく思えた。
 山へ登った。ずいぶん高く登った。もう少しで頂上だった。大橋(鉱山)も見えたし、太平洋も見えた。水平線が意外に高いところに見えた。風が冷たかった。山ぶどうがいっぱいなっていた。ここまでは誰も採りに来ないのか、実がそのまま残っていた。ナップザックに半分ほど採った。少し食べたら舌の先がひりひりしてきた。昼飯を持ってこなかったので腹がへった。
 山を歩きながら、初恋の「彼女」のこと、手紙を渡した高校生のこと、食堂の女性のこと、よし子のこと、このまえ振られた女のこと、それから、今日誘っても来なかった高校生のことなどを考えた。
 彼女が今日来ていたら、こんなには自由に歩けなかったろう。

 

        10月11日 土曜日

朝、彼女と話をした。彼女は昨日、私の誘いにこたえて出かけたという。だが、私が「9時2分」と言ったのを、汽車の時刻ではなく、バスの時刻と受けとり、バスで平倉まで行ってきたという。申しわけないことをした。それで明日の日曜日、改めてどこかへ出かけようと約束した。

 

        10月12日 日曜日

彼女と二人で上有住(かみありす)へ出かけた。この日一日、私には夢のようだった。私と十歳も違う、知り合ったばかりの少女が、一緒に絵を描きに出かけたのだ。私には信じられないことだった。
 松倉駅前の小さな広場の片隅で、スケッチ道具を持った二人が佇んでいると、まわりの人たちは興味深そうに私たちをながめた。兄妹でもない。そこには恋人同士の間に存在する空気が漂っていた。しかも彼女は十四、五歳の少女のように見えた。まわりから注がれる視線は、それ自体、私には快かった。しかしその有頂天のさなかでさえ、私は何か不吉な予感がしてならなかった。大人の濁った目はこれをありのままには受け取らないだろうから。
 列車に乗り込むと、デッキで職場の党のリーダー、正幸さんに会った。挨拶は交したものの、私が少女と一緒なのを見ると、彼は非難するように咳払いした。

私たちは上有住駅で降りた。農村である。山の中に入った。空気はひんやりしていて、木々の葉は色づき始めていた。沢の流れは心地よかった。私は沢に降りてスケッチをした。彼女は絵を描こうとはせず、一人であちこち歩きまわり、細くて白い手首を何かで引っかいて血をにじませたりしていた。
 彼女が用意してきてくれた昼飯を食べた。彼女は意識的に会話をの方へ持っていこうとした。私はわざとそれを受け流した。彼女の期待に添うことはできなかった。自分を偽ることはできなかった。彼女には退屈な一日だったかもしれない。
 帰り道、にわか雨にあった。彼女が持ってきていた傘を盾のように構え、その陰に彼女と私が一塊になって風に向かって進んだ。畑で仕事をしていたおやじさんがその手を休め、背を伸ばして私たちをながめていた。
 彼女の名前は美知子といった。

 

翌朝、バスで彼女に会ったとき、私は彼女に対し、実の妹に対するような親しみを感じた。釜石駅前で降り、彼女と並んで歩いていると、前方から正幸さんがやって来た。彼は、彼女と私を代る代る見くらべ、変な笑い方をした。
 数日後、彼は寮の私の部屋へやって来た。明らかに高校生のことで文句を言いに来たのだった。しかしその夜、私の弟が一緒なのを見ると、彼はそのことについては遠まわしにしかふれなかった。

毎朝、私が女生徒と一緒なのは、職場の者どもの興味をそそっていたことは間違いなかった。しかし、奇妙なほど、誰もそのことにふれなかった。誰もかも、すわったような目で私を見ていた。同期生の田中君だけが私のところへ駆け込んできた。
 「エイ君、だめだ、だめだ、カァちゃんもらえ!」
 だが私は、彼らがどう見ようと、そんなことはもうどうでもよかった。

 

        10月15日 水曜日

朝、美知子がもう一人の女生徒と一緒に乗った。その女生徒は特殊な目で私を見ていた。その目には非難の色も見えた。バスから降りた。私は後から来る彼女らを待った。連れの女生徒は顔を真っ赤にして、
 「ミー、先に行っているから!」
 そう言って逃げて行った。彼女は美知子の親友で、私のことを話すと、どんな人か見たいというので、同じバスに乗ったという。

 

        10月16日 木曜日(スケッチブックより写す)

起業記念日で休み。
 ここは戸外。線路を隔てて寮の向かい側にある山の中腹。杉林の中にぽっかり開いた、円形の小さな草原。宮沢賢治の童話に出てきそうな場所だ。
 いつのまにか美知子のことを考え、それから他の女性について考えていた。美知子と今ここに一緒にいたら、どうするだろう? 美知子はすべてを私に許そうとしている。だが私はそれに飛び込んで行けない。
 夢中で愛せる女が欲しい。美知子は違う。かわいいことはとてもかわいい。私を心から信じているのを見るといじらしくなる。しかし、我を忘れて愛することはむずかしい。彼女はそれを私に求めている。結末がわかっているのに、それへの途中で、別の結末を期待させるような行為は私にはとれない。

 

        10月17日 金曜日

今朝、美知子はバスに乗らなかった。松倉社宅近くにバスがさしかかったとき、橋のたもとで、北高校の制服を着た女生徒が二人、バスを見て笑っていた。美知子とその友達だろう。

帰り、釜石駅の売店によって新聞(the Student Times)を買った。そのとき、八か月ほどまえ、寮の食堂から姿を消した、あの彼女と出会った。彼女は改札口を通って地下道の方へ曲がって行こうとしていた。視線が合った。その目はまだ私に心を寄せていることを語っていた。彼女は男性と一緒だった。その男性は三十歳過ぎに見えた。地下道の突き当たりで、左へ曲がるとき、彼女は私の方を振り返った。男性は彼女をせかせて角を曲がった。
 彼女が寮から姿を消したのは、彼女の意志によるものではなく、何者かの力で私から引き離されたのではないかと感じた。

 

        10月18日 土曜日

美知子がバスに乗った。しかし、いつもとは少し様子が違った。影のようなものを感じた。このまま、ずるずるつきあっていると、やっかいなことになりそうに感じた。
 彼女と別れた後、彼女と私の関係をはっきりさせておく必要を感じた。今晩、彼女がアルバイトで働いている店へ行き、彼女が終るのを待って話そうと思った。
 しかし考えてみれば、明日は釜石祭りで、今夜は前夜祭だ。彼女は店に出ていないかもしれない。しかし実行しなければ私の良心が許さないので出かけた。
 寮を出、バスに乗った。彼女の店の近くまでバスで行こうかと思ったが、駅前で降り、歩いて行った。するとまもなく、向こうから美知子とその友人の少女が連れ立って来るのに出会った。二人とも手に綿菓子と風車を持っていた。高校生がそんな子供みたいなものを持っているのが奇妙だった。三人で町へ引き返した。歩道には夜店が建ち並んでいた。綿菓子と風車を持った二人の少女を連れて歩くのは目立ったかもしれない。喫茶店に入ったが、彼女らはほとんど話さなかった。美知子と二人だけだったらなぁと思った。
 バスで帰った。バスから降り、二人だけになったとき、私はやっと本題に入った。今後は「ただの友達」あるいは「兄妹」としてやっていきたいと話した。彼女も賛成してくれた。
 「風変りな妹ができたと思ってくれればうれしいです」
 彼女の社宅の前まで来た。
 「ここでいいです」
 彼女はそう言って私からスッと離れ、ちょっとの間私を見つめた。
 「さようなら」
 彼女はそう言って入口へ向かった。

 

10月20日、月曜日、上司の山崎と衝突した。思う存分に言い合った。というよりは、言ってやった。後味がいい。
 この山崎というのは、私が党をやめた頃、入党した党員であった。彼はもともと柔和でまじめな人だった。彼が急激に変化していくのを見て、私はただただ驚かされた。というよりはあきれはてた。こんなことが起こりうるものだろうか? 私は自分の目、耳を疑った。その底を知らぬ悪意はイヤーゴを思わせた。数え上げればきりがない。
 私には残業も日曜出勤もさせないでおいて、上部には、「沢舘は残業も日曜出勤もしない」と伝える。臨時工に仕事を頼むことがあっても私には頼まない。その臨時工が失敗すると私が怒られる。たまに仕事を頼むかと思うと、正午に五分位まえ。みんなはもう休んでいる。私は当然午後からの仕事だと思い、本を読んでいる。すると彼が怒って自分でやる。そして言う。「あいつに仕事を言いつけても、本ばかり読んでいて仕事をしない」
 このころ、私は仕事の少しの合間にも本を読んでいた。それは、私の頭がおかしいといって騒いでいる彼らへの反抗でもあった。私はよく英語の本を読んでいた。
 私は、仕事は同僚よりもでき、仕事の種類によっては上司に負けなかった。それにもかかわらず、作業遂行上、無能力者に見られるのには驚かされた。
 私がささいな失敗でもしようものなら、それはもう、私の頭がおかしくなっていることを証明する材料になるのだった。
 山崎は私の失敗を見出そうと汲々としていた。見ている私のほうで憐れみを覚えるほどだった。私のあらさがしをするのに気をとられるあまり、彼はよく失敗した。しかし彼の失敗は、「あれ、違ったな」と一言いえばそれですむのだった。

山崎との口論は日増しに多くなっていった。あげくのはて彼は、
 「沢舘君一人で職場の空気を壊している」と逆に私を非難した。
 次は、そう言われた翌日の口論である。このとき正午になったばかりで、その場にはまだ数人残っていた。私は山崎に言った。
 「山康(山崎)さんに、きのう、おれ一人で職場の空気を壊していると言われだども、それは誤解だから。おれはみんなと仲良く仕事をやっていきたいと思っているから」
 途端に彼は真っ青になった。そしてまたいつもと同じことを言いだした。私が「疑い深い」というのである。
 彼自身、悪いことだと知りながら、ある異常な軌道に乗りつつあったのだろう。彼はそれを私に探られるのを恐れたのかもしれない。
 15分ほど口論した。私は口論では彼に負けなかった。口論しているときの彼は、私には子供のように思えたから。窮地におちいった彼は言った。
 「ああ、どうせ、おれぁ、アダマが少しおがすぃからな」
 彼は勝ち誇ったような笑いを浮かべた。彼にすれば、私の最も痛いところを突いたつもりだったろう。
 「いや、おれのほうがずっとおがすぃ‥‥、まあ、アダマのおがすぃのは、おめぇさんとおれ、いい勝負だべ」
 そう私は言った。すると彼は急に話を変えた。が、ひどく怒っていた。
 「なんでそんなに怒っているの」
 軽くあびせてやった。彼は不意を突かれたようだった。
 「いや、怒ってねぇ」
 そう言って、それまで吊り上げていた目を急に元に戻した。
 「まあ、おれぁ、腹へったがら」
 そう言って私は弁当を食べようとした。だが彼はまだ話していた。私は話に終止符を打つためにも、彼の方を振り向き、彼にたずねた。
 「それではねぇ、山康さん、山康さんはおれの扱い方で、自分の良心にとがめられねぇんか?」
 相当効き目があったようだ。少しつまった後、彼は
 「いや、とがめられねぇ」
 と答えた。しかしその言葉には以前のような力はなかった。
 それきり私は弁当を食べ始めた。(私は作業場の机で食べ、彼は食堂で食べていた)。しばらくしても彼は立つ気配がなかった。微かに振り向くと、彼はまだそこにいた。しばらくして彼は、
 「まぁ、今は飯の時間だし、また話すごどがあったら後ですっぺす」
 そう言って立ち上がった。私は飯を口にいっぱい入れたまま、
 「はーい」と答え、行こうとする彼に「どーも」と言ってやった。冷たい快感を覚えた。

この山崎と口論すればするほど、山崎が私に対して持っている感情が、子供じみているのを知って驚かされた。だから、彼と口論するとき、私の心にはいつも、彼の反省を求める気持が働いていた。あるとき、私はそれまでのことをすべて謝ってみたこともあった。

 

        10月22日 水曜日

朝、バスに乗り込んできた美知子が、私の前に来て、いかにも女生徒らしく挨拶した。そして私と並んで座った。私はうれしかった。それまで私たちは、バスの中では離れた席に座っていた。だがすぐに、彼女が妙に緊張しているのが感じられた。私は戸惑った。一体何だろう? バスから降り、私は彼女に、今晩、話したいことがあるから会ってくれるよう頼んだ。彼女はそれを受け入れた。
 彼女が私から離れて行くのなら、それでもいい。だが私のほうから彼女を拒絶することはできない。彼女がかわいそうだ。こうなったら徹底的につきあい、彼女を人間的に少しでも高めてやろうかと思った。そのためには誰からも後ろ指をさされないようにしておく必要がある。彼女の親の承諾をとっておけば、誰も何とも言えないはずだ。

夜、雨が降っていた。でも約束は守らねばと、7時過ぎてから寮を出た。彼女がアルバイトをしている店へ出かけた。店は8時までと聞いていたが、まだ8時前なのに閉まっていた。嫌な予感がした。
 私は店のまわりをうろうろした。しかしみっともないので、バス停留所に行ってバスを待つふりをしたりした。店の二階では、電灯がついたり消えたり、人影が動いたりしていたが、彼女はなかなか出て来なかった。恥かしさと屈辱で胸がチクチク痛んだ。同じ場所に居たたまれず、あちこち場所を変えた。やっと彼女が出て来た。私は彼女に近寄った。声をかけたが彼女は振り向きもせず、私から逃げるように先を急いだ。店の斜め向かいのバス停留所でやっと立ち止まった。何か話しかけても、まるで初めて会った男に対するような警戒ぶりであった。
 止んでいた雨がまた降ってきた。私は傘を開いた。彼女は開かなかった。私は彼女の上にもさしかけてやった。それさえも彼女は顔をゆがめて嘲笑した。
 彼女は、他の店でアルバイトをしている友達とここで会う約束をしているからといって、そこを動こうとしなかった。バスが来ても乗らなかった。私は喫茶店に入って話をしたかった。彼女の友達なるものが来ると、話はできなくなる。私はその場で彼女に話した。
 私がこうして彼女とつきあっていると、そのうち彼女の家族にも知れる。その時になって、私は不良青年のように思われたくない。今のうちに話しておきたい。今晩でよかったら、これから行って両親と話してもいい、と。彼女は、それはもう少し待ってほしいと答えた。
 彼女の言うところの友達は来なかった。私たちはバスに乗った。私は彼女を送るために、終点の一つ手前の松倉社宅で彼女と一緒に降りた。右側を川が流れ、左側には社宅が並んでいた。人影のない道を私たちは無言のまま歩いた。彼女は私から身を守るように、襟元を手で押え、胸を腕で覆っていた。
 彼女の家に近づいたとき、前方に佇んでいる一つの人影があった。しかし私はあまり気にしなかった。近づいてみると、それは四十歳位と思われる婦人だった。首を前方へ突き出し、近づく私をじっと見つめていた。すると、一緒に歩いていた彼女が、つかつかとその婦人の前に歩み寄った。彼女らは無言のまま見つめ合った。
 「あんまり遅いから」
 婦人は彼女を責めるように言った。そして、
 「やいで(おいで)!」
 と言って先に歩きだした。残った彼女に、
 「お母さん?」
 とたずねた。
 「うん」
 私が婦人に話しかけようとすると彼女は、
 「後でわたしから話しておきますから」
 そう言って私を引き止めた。私たちは「ふふっ」と笑いあい、別れた。

私に関したことで、どこからか彼女にかなり下劣で悪質な力が働いているのを感じた。

 

翌日、私は人前に姿をさらすのがなぜか恥かしかった。彼女はバスに乗らなかった。
 この日の帰り、終点で降りて南高校の生徒とすれちがうのが恥かしかったので、一つ手前の社宅前で降りた。社宅の間を通って帰った。途中、露天が出ていた。電球をつけて野菜や果物を売っていた。主婦らが数人集まっていた。そのそばを通り過ぎようとすると、買物客の中から一人の少女が笑いながら私におじぎをし、そのまま腰をかがめて笑っていた。美知子だった。私は表情も変えないで、ちょっと頭を下げ、通り過ぎた。

 

        10月27日 月曜日

数日間、私はいつものバスに乗らなかった。彼女とのことは、これでおしまいにするつもりだった。が、今朝、ふと彼女がかわいそうになり、いつものバスに乗った。社宅前で彼女は乗った。挨拶してやろうとしたが、彼女は私と顔を合わせようとしなかった。私には彼女がひどく後悔しているように見えた。これなら許してやってもいいだろうと思った。
 バスから降りて話しかけたが彼女は答えなかった。ひどく硬い表情をしていた。彼女は私から数歩遅れて歩いた。
 駅の入口で私は彼女を振り返った。彼女は一通の白い封筒を、ぎこちなさそうに私に差し出した。彼女の顔は微かにゆがんでいた。詫びているようにも見えた。
 「家へ帰ってから読んでください」
 この少女が私に言いにくいことがあるのだろうか?
 彼女が「家へ帰ってから‥‥」と言ったのを忠実に守り、私はその日の仕事が終り、寮に帰ってから読んだ。私は読むまえから、その内容について察しがついていた。このまえの晩、彼女が私を疑ったことに対する詫びだろうと思った。

 

 前 略

突然のお手紙にさぞ驚かれた事と思います。どうかこのような御無礼をお許し下さい。私は貴方様に今日まで嘘をついて参りました。
 これ以上貴方様を傷つけないためにも、私の恥を申し上げなければと思い、思い切って筆を取らせていただきました。
 実は、貴方様が「おはよう」とお声を掛けて下さるまで貴方様の事は、全くと言ってよいほど予期しておりませんでした。ただ(この人とはよく会うなぁ、それにしても何て目のきれいな人だこと)位にしか思っておりませんでした。スケッチに一緒に行こうと思ったのも、はっきりその事を言おうという決心があったからなのです。でも貴方様の事を色々伺っているうちにどうしてもその事を告げる言葉を言う事ができませんでした。それどころか、単なる絵の好きな友と割り切ればよいのではないかと浅はかな事を考えた自分でした。貴方様は私との事を真剣に考えて下さっているというのに‥‥。
 そんな貴方様に接している事により、私は自分の軽薄さ、無能さをつくづく知らされました。
 又、貴方様と接しているとき、ふと見せる貴方様の大人の顔を怖いものに思え、そして余りにも幼稚すぎる自分にどうすることも出来ない腹立たしさを覚えた事もありました。やはり私は貴方様について行けないのだということを悟らされたような気がしてなりません。このままで行ったのでは、お互いに気まずい思いをするだけです。それを防ぐためにもここで早目に終止符を打つべきと思い、このような手段を取りました。貴方様が本当に良い人だからこそこれ以上傷つけてはいけないと思ったのです。
 私は本当に悪い女です。このような私のために貴方様のプライドを傷つけてしまった事、どのようにお詫びすればよいのかそのすべを知らない私をさぞ勝手な奴とお思いになっている事と思います。どうか私の事はおかしな夢とお思いになって忘れて下さい。
 この手紙を最後として、一日も早く貴方様の幸せをつかんで下さい。それが私のせめてもの願いと思っております。
 今後の貴方様の御健康を心から祈っております。
 乱筆乱文にて(さようなら)
                      美知子
    昭和44年10月22日

 

翌日から私は、それまでより遅いバスを利用するようになった。そのため会社を一、二分遅刻することがあった。しかし私の遅刻は遅刻にならずにすむものだった。なぜなら、私より後に来た者でさえ遅刻にならずにすんだから。私たちは作業衣に着替えてからタイムカードを押さなければならなかった。しかし、始業時刻間際に来てそれを守る者はいなかった。みな着替える前に押した。でも私はそうしなかった。もし私がそうしたなら、間違いなく犯罪者扱いされ、大騒ぎされることを知っていたから。三回遅刻すると一日の欠勤とみなされた。

美知子とは、帰りのバスで一緒になることがあった。そんなとき彼女は、私をばかにしたように、にやりと笑うことがあった。

 

        11月14日 日曜日

佐々さんの結婚披露宴が、大槌の公民館のホールで行なわれた。
 舞台(幕)の装飾はすべて私にまかされたので、好きなようにやった。それは大らかで天真爛漫なものだった。幕面の右上には幼稚園の子供が描くようなお日さまが照っていた。お日さまの下にはお花が。
 頭のコチコチした人間は、「人をばかにしている」と思うかもしれない。私自身、そのお日さまをつけるときは、かなりの勇気がいった。『みんなに笑われることがあっても自分の感覚を信じよう』そう自分に言い聞かせた。わかってくれる人もいるだろう。
 成功した。「クイーン」のマスターの佐々木さんが舞台の幕を見て、誰がやったのかと聞いたそうだ。私が受付で、集まった会費を数えていると、その佐々木さんが酒びんを下げ、赤い顔をして出て来た。うれしかった。

中学での同期生、金崎さんも来ていた。後で彼女のところへ行き、しばらく話をした。彼女はとてもうれしいことを言ってくれた。まず中学二年のとき、私たちはクラスが同じだったということから始まり、理科の時間、カメラ(暗箱)を作ったとき、彼女がうまく作れなかったので私が作ってやったのだという。後で彼女が職員室へ行くと、伊藤昭三先生が生徒の作品を見ていくうちに彼女のものを手に取り、「うん、これはよく映るわ」と言ったそうだ。彼女にはそんな思い出があったのだ。
 「忘れてしまったなぁ」
 私がそう言うと、彼女は、
 「忘れてしまった?」
 と、寂しそうに言った。
 中学生の頃、私は彼女を好きだった。中学を卒業すると彼女は商業高校へ、私は釜鉄教習所へ進んだ。汽車で時々彼女を見かけ、切ない思いをした。今、その彼女と、自然な気持で話せる機会を持てたことをうれしく思った。

 

 

     第十七章 愚劣さを増す職場

 

昭和44年(1969年)

12月5日、一時金が支給された。掛長の荒川が、それを私に渡すとき、なぜか私から顔をそむけた。その顔は良心にとがめられているようだった。嫌な予感がした。
 それはひどいものだった。前の年まで、ほとんど同じだった同期生の太田より一万円以上少なく、さらに、共産党員として会社から睨まれ、いつも一時金が少ない田中よりも、さらに少なかった。
 (一万円といっても、総額で六、七万円の時代である。その割合は大きかった)。
 とっさに高校生のことが頭に浮かんだ。私は作業長の千葉に抗議した。それは金額の多少よりも、私の人間に関する根本問題であった。
 「評価の対象になったのは、おれの会社内における行動だけですか?」
 「うん」
 「会社の外における、おれの行動は対象にならなかったんですね?」
 私は念を押した。すると作業長は勝ち誇ったように、
 「何だその会社の外でっていうのは、ううん? たとえばどんな?」
 「いや、それならいいです」
 やがて彼は、
 「ここは学校じゃないんだ。会社は学校じゃないんだ!」
 そう言ってテーブルを叩き、太った体を上下に揺さぶった。
 私は彼が何のことを言っているのかわからなかった。が、すぐに、私が就業時間内でも、仕事がないとき、本を読んでいることを非難しているのだなと知った。
 「みんながスケベ話しているとき、おれが本を読んで何が悪い!それはおれに対するねたみだ!」
 私はそう言った。しかし最後の一言は、後で私自身、少し恥かしく感じた。
 さんざん言い合った、というよりは、やっつけてやった。作業長はずいぶん驚いたようだ。なにしろ、うすのろにさんざんやっつけられたのだから。

職場の者どもは、今度の一時金のことで私が精神的に参ってしまうのを期待しているようだった。私が出勤すると、わざわざ作業場から飛び出して来て、腕を組み、奇妙な笑いを浮かべて、私を見守る者もいた。
 私はもう誰にも挨拶しなくなっていた。上司の山崎は、私から挨拶されないのがこたえるらしく、私が職場(試験班)に近づくと、こそこそとどこかへ姿を消した。

一方、私が以前、日記を見せた岩渕という党員が、ある晩、私を喫茶店に誘った。
 「党に復帰する気はないか?」
 彼は言った。彼ら党員は、私が党を裏切っているのではないかと恐れていたようだが、私の一時金が少ないのを見、またそのことで私が一人でたたかっているのを見、私を見直したようであった。
 岩渕は、他の党員らと同じように私を嘲笑していたものの、山崎が私をひどく言うのは、もう中傷だと感じていたようだ。
 「あの人があんなごどするなんて、おれにも信じられねぇ。サワちゃんが党に復帰すれば、山康さんも安心するぞ。あの人ぁ、おめぇんどご、たいした恐れでっから」
 彼にはまだ良心が残っていたようだ。
 最後に彼は、高校生のことにふれるのを忘れなかった。

会社で最低の人間に見られていた私に、寮の管理人の八幡さんが縁談を持ってきた。彼は相手の女性のことをただ「いい娘だ」と言うだけで、誰なのか説明しなかった。
 「ここ数年のうちに会社をやめてしまうから」
 私はそう言って断った。
 その後、彼はもう一度この話にふれた。そして相手の女性は釜石市長の娘だと明かした。私はびっくりした。管理人は市長と同郷の仲で、寮に誰かいいのがいないかと言われていたらしい。しかし、会社で、みそ糞にやっつけられていた私にどうしてそんなことを?
 以前、私のところに、モデルになってくれた田口さんや佐々木さんが訪ねて来たとき、彼は受付でよく彼女らと談笑していた。彼は私を信じてくれていたようだ。
 会社での私の状態を知っていた彼は、私を救うにはちゃんとした娘と結婚させ、会社における私への評価を変えさせ、私が会社をやめるのを食い止めることだと考えたのだろう。私は言葉には出さなかったが、彼に深く感謝した。
 しかし私は会社の汚れた目の届くところでは結婚する気になれなくなっていた。

それにしても、会社で人間の屑のように見られていた私に、市長の娘を持ち出すのはかなり勇気のいることであろう。彼があえてそういうことをした裏には、何か特殊なことがあったのではないのか。
 寮の部屋に置いてあった私の日記が、このころには何者かによって読まれ、実際の私と、彼らの考えている私とは全く別人であることに気がついていたためのように思えてならない。
 私はこのころ、一日の仕事を終え、寮の自分の部屋に戻ったとき、部屋から何か異質なものを感ずるようになっていた。以前のようにほっとし、リラックスすることができなかった。まるで他人の部屋に入ったときのように感じた。誰かが私の部屋に入って室内のものに触れたような形跡はなかった。煙草の匂いも残っていなかった。それでも私は異質なものを感じた。

私に縁談を持ちかけた管理人は、私を見ると顔を赤らめ、寮を出るよう、しきりに私にすすめた。私は不審に思った。その後、職場の者どもの話の内容から、私の部屋がかなり詳しく調べられていることを知った。

寮での川崎の態度は、もう話にならないほどになっていた。何とかして私に異常なところを見出し、安心しようと一生懸命だった。無理に見出された異常は党に報告され、私の職場中に広まるらしかった。彼は私の部屋に飛び込んで来て、
 「おい、どごがその辺に精神安定剤ねぇが?」
 そう言ってあちこちをながめまわし、飛び出して行くこともあった。
 職場でくだらないやつらに負けまいと神経を緊張させ、疲れて帰って来る私に、彼の態度がひどくこたえた。
 12月末のある朝、私は彼の部屋に絶交状を放り込んだ。それは鉛筆で乱暴に書きなぐったものだった。

 

これで川崎君と私の、これまでの交友を絶ちます。
 私はすでに川崎君を友達とは考えていませんでした。それなのに、川崎君が私の部屋に来て友達だといったように大きな顔をするのを見て、私はいつもむかむかしていました。
 今後私の部屋のドアをノックするようなことは絶対やめてほしい。私から借りているものは返さなくていい。
                     沢 舘
 川崎君へ

 

私は彼が怒って、私の部屋へ怒鳴り込んで来るのではないかと恐れた。同時にそれを期待した。もし彼がそうしたなら、それは彼がまだ男らしさを失っていないことを証明したから。しかし彼はそうはしなかった。その朝、部屋を出たとき廊下で彼に出会った。彼はおじけついたように私にひょこんと頭を下げた。それ以来、彼はほとんど寮に姿を見せなくなった。

 

 

     第十八章 退 職

 

 昭和45年(1970年)

        昭和45年1月1日 木曜日 晴

元旦。
 今年はどんなことが私を待っているだろう。
 それはなまやさしいものでないことはわかる。
 でも、恐れることなくそれに立ち向かうだろう。

 

これからどのように生きるべきか。年が明けてから一週間ほど、考えに考え抜いた。それは私を絶望的にはしなかった。逆に勇気が湧いてくるのを感じた。
 このころ、私が何かの本を読んでいて、とても感銘を受けた文章があり、それを原稿用紙に写して壁に貼っておいたのだが、それがこのころの日記帳にはさんであった。

 

真の芸術家はほとんど一様に非常に孤独な人であり、すべての孤独な人々と同様に(その精神的孤独を守るだけの力をもっている限り)彼自身の全体をもっとも貴重なものとして守り続けるであろう。

 

1月24日、土曜日、山崎が党員であることがバレた様子だ。午後、山崎の様子が変化した。まず動揺、それから腹を決めたような。
 山崎は、私が裏切ったとしか思えないだろう。日頃からそれを恐れていたようだから。
 職場で党員らがしつこく私に話しかけてきた。ヤスさんはクレーンの運転室から私を非難するように見ていた。後で運転を交替した小川は、ブレーキをガタンガタン踏み鳴らして私を威嚇した。党員でもない小川がどうして? 私は不思議に思った。いま起こっていることを理解し、私を非難するということは、彼はすでに入党しているのか?

山崎がどうしてバレたのか、私には察しがついていた。日頃から党員らは、職場で不用意な行動をとっていた。観察力の鋭い人間から見たら、「おれたちは党員だ」と言わんばかりの行動を平気でとっていた。ある観察力の鋭い人が、山崎が激しく私をこき下ろすのを見て不審に思い、また、党員と思われる者たちが異常なほど私に干渉し、さらにその党員らと山崎が何か関係があるらしいことに感づき、山崎も党員ではないか、という結論に達したのではないか? その人が、山崎がバレる数日前から、奇妙な笑いを浮かべるのに私は気がついていた。
 一方私は、山崎がバレたのは、寮に置いてある私の日記からではないかとも疑った。手遅れとは思いながらも、二晩がかりで、日記の中の党員の名前を塗りつぶした。
 バレた後の山崎は、見ているのも気の毒なくらいだった。作業長も彼に対する態度を一変させた。さらに作業長は、一時金のことで私にやっつけられていたにもかかわらず、私に会うと、彼のほうから「おはよう」と改まった挨拶をすることもあった。
 山崎がバレてから三日後、私の同期生で、事務所で働いていた太田という隠れた党員が、作業場へ降りて来て、動揺を隠そうともせず、山崎とひそひそ話していた。それを見て私は何てばかなことをするんだろうとあきれた。太田まで感づかれたらしい。太田の名前は私の日記にはないはずだ。

 

        1月26日 月曜日

夕方6時頃、モデルになってくれた佐々木さんから電話があった。今、釜石に来ているけど、これから訪ねて行っていいですかという。私は喜んで承知した。30分ほどして彼女が訪ねて来た。一人だった。私たちはいろんなことについて話した。彼女は青いワンピースを着ていた。裾は短かった。彼女が私のベッドに腰かけると、彼女の太ももがあらわになった。でも彼女はそれを隠そうとしなかった。

 

        2月14日 土曜日

一級社員への昇格試験(面接)があった。
 会社は平社員をさらに一級、二級、三級の三段階に分けていた。だが、よほど成績の悪い人間か、あるいは共産党員でないかぎり、勤続年数によって昇格するようになっていた。私は勤続十年目になっていたので、一級社員への試験通知がきた。
 試験当日、みんなは整髪し、洗濯した作業服を着て来た。汚れた作業服のまま、首にタオルを巻き、耳が隠れるほど髪を伸ばし、名札もつけないで行ったのは私だけだった。
 会場には部課長クラスが五、六人並んでいた。私の課の整理掛長も同席していた。私が入って行くと、彼は観念したように目を閉じた。子供のままごと遊びの相手をしているようだった。
 私は一級社員になりたくて行ったのではない。職場のばかたちをからかってやりたかったのだ。彼らは、私にそのようなことができようとは思っていないのだ。

 

こうしたある日、ヤスさんが、作業している私のところへやって来て、党に関した何かのカンパを頼んだ。
 「100円でも200円でもいい」
 彼はいかにも親しそうに言った。私は、彼らがこれまでの態度を反省し、改めるつもりだろうかと思うとうれしくなり、300円やった。彼はそれを数えながら、すぐに帰って行った。彼らの態度はその後も全く変らなかった。何のことはない、試されたのだ。
 「エイ君、やるごどが巧妙だものなぁ」
 太田は私を見ると、よくそう言った。

大学から新入生の名簿、住所録が送られてきた。それを見ていて、ふと誰かに手紙を出してみようかと思った。心を開いて話し合える人がほしかった。
 2月17日、岩手から最も遠い鹿児島の未知の女性に手紙を書いた。

 

知らない人間からの突然の手紙でびっくりなさることと思います。
 先日配布になった44年10月生の住所録を見ていくうちに、誰かに手紙を出してみようかなという気になったのです。私のように、東北のいなかにいると、遠く離れた南の地方にあこがれのような感情を抱くのです。明るい太陽、明るい人たち。
 私は名簿の中からあなたを選んでみました。おそらく返事はもらえないだろうと予想しながら。
 私は42年の4月生です。それでまだ卒業の見通しもつかずあくせくしている滑稽な人間です。
 本当をいうと、私は話し合える相手がほしかったのです。私のまわりの人間は誰も私をわかってくれません。私自身、自分はすごく単純で自然な人間だと思っているのですが、彼らにはそれがわからないらしいのです。
 もしあなたに、文通してみようという心が少しでも動いたならご返事ください。決して迷惑になるようなことはしません。

 

一週間ほどして返事がきた。

 

お手紙どうも有難う。
 私も通信教育生の中で話合える友達が欲しいと考えていたところです。タイミング良く来て少々おかしくなりました。
 私のほう、つくづく通信教育って難し過ぎる。解からないことだらけで全然手をつけていません。時々、イカン! と思って夜中にゴソゴソ起きだし、あせってやっている様な状態。もうやめちゃえ、と投げやりになったり、様々。こんなはずじゃなかったとは後の祭りです。も少し、学習意欲を高めて行く為にも、貴方の良きアドバイスを下されば幸いです。
 ところで、今日は土曜日、7時半に目が開いて、太陽が桜島の背中の横チョで笑っておりました。テレビをつけるとヤング720をやっている。ふとんをパッパッとあげて、さぁ大変、洗濯、洗濯。香りのいい洗剤がプーンとゆかいな気持。空は青空、いい天気。本当にいい天気です。ああ、私やるんだ、生きるんだ、負けるもんかと幅をきかして階下の二歳になるボーズをつかまえて鬼ごっこ。二歳になるというのに「カッコイイ」と「マンマ」しかしゃべらない。頭に来てゴロッと横になって、みかんをふくんでいる時に、貴方の手紙が届きました。
 よっぽど今日はサイクリングか登山をしようと思っていました。鹿児島市内へ移って、もうわずかで一ヶ年が過ぎます。私の田舎は市内からバスで二時間北薩地方にあります。メルヘンに出て来るような小さき頃の思い出が一杯の所。私は世界中のどこよりも愛している街です。きっと今頃、石垣の間から萌芽を出しているふきのとうが一杯咲いていることでしょう。梅の花ももうすぐ咲き終る頃です。そして近い頃桜が花開くと思います。

私の紹介遅れましたけど、美術志望ですが、今考えるとデザインのほうの勉強が良かったかなと思ったり。ま、絵を描く事で満足しています。一時阿修羅像が好きで何枚も描いてみたり。主に少女、花ですが、風景はちょっと苦手です。その他に何を紹介すればいいかな? あ、職業と年令も必要かな。
 サービス業、と云っても観光社のブラスバンド部につとめています。各地へ宣伝に行ってパレードや演奏会を開いています。時間が不規則ですが、毎日同じことの繰り返しの事務よりも好きだったし、時間的に余裕があり、夏期スクーリングへ出してくれるという条件の上、事務員をやめてブラスバンドへはいりトランペットを吹いているわけです。何しろ女子ばかりのブラスバンド、人数もたったの十名ちょっと。思う存分レパートリーがないのが残念。ちょくちょく、市内の高校の部活動へ行って練習自らしないと効果がありません。やりがいのある職業です。トランペットが好きだからこそ苦しくても頑張るというシステムか。(妙な表現)
 年は十九歳です。でも、この一年、初めて社会へ出て何かエライ年をとったような気がします。もう二十四か五か、そして何とかしなくてはとあせるばかりで、友人に云うと馬鹿馬鹿しくも笑われてしまいます。
 性格がおもしろいのです。これは母親似。ま、朗らかですが、チョコチョコして小っさいのでヒトビトは十八歳にしか見てくれません。でも私も一人前に働いて生活しているんですもん、いばって歩いたっていいはずよ。とにかく空想することと、珍妙な詩を書く事が好きなんです。人間としてどう生きるべきか、考えれば考える程、ああ、やっぱり勉強だ、死ぬまで勉強だと思うことのみ。

‥‥ちょっと、しゃべりすぎたかな? ごめんなさい。陽気のせいかもしれないけど、部屋を通り抜けていく風がとても快い、ああ、空気がおいしい。私はこんな所へいて幸せ者。年休とれるようになったら、島へ渡りずっと一人旅して感ずるままになりたいです。
 それでは今から天文館(鹿児島市内で一番の繁華街)へ行って親友と話したり飲んだり食べたりするつもりです。
 一人舞台になったけど、貴方も色々書いて下さい、とにかくゆかいにやって行きましょ。
                     かしこ

 

ご返事ありがとう。あなたの手紙を読んで少々びっくりしました。絵を描く少女とブラスバンドのメンバー。私は絵を描く女の人というと、明るい中にも、どこか沈んだような感情を有しているものと想像しがちなのです。あなたも空想することが好きなようですが、私自身、すごい空想家なのです。その点ではあなたに負けません。空想家だからこそ、見ず知らずのあなたに手紙を書く気になったのです。
 私はあなたが十九歳の少女と知ってホッと安心しました。私は手紙を書くとき、これを受け取る人が、もしかすると人妻かも知れないと心配しました。もしそうなら、ご主人からお叱りを受けかねませんからね。

ところで私はまだ自己紹介らしいものをしていませんでしたね。でも私、何よりも自己紹介が苦手なのです。それで前の手紙でもわざと避けたのです。最初にことわっておきますが、私の年令と職業は問わないでください。でもいえることは、年令はあなたより少しばかり、あるいはずっと年上ですし、職業はただの労働者です。
 さて、そのほかに自己紹介というと何があるかな。そう、趣味、趣味は絵を描くことはもちろん、レコードもよく聴きます。音楽なら何でもいいです。ジャズからクラシックまで。それから本もよく読みます。というよりは、読みました。過去形にしたのは、現在あまり読んでいないからです。読んでいても、小説を読む時間があったら、学校のテキストを読まねばならないのではないか と、自分自身に言いきかされるのです。ロシヤ文学なら文句なしに好きですが、中でも特に好きなのはチェーホフです。チェーホフが彼の作品で表現したようなものを、私は絵で表わしてみたいと思っているのですが‥‥。

あなたの通信教育のほうは軌道に乗っていないようですけど、初めのうちは誰でもそうでしょう。特に通教生の先輩が身近なところにいない場合は。私も初めの頃は、一つの科目のレポートを書き上げるのに何か月もかかり、我ながらあきれはてたこともあります。何度も計画を立ててみては、うまく行かなく、破り捨てました。そうしているうちにレポートを書くことにも慣れ、計画も自分に合ったものが作れるようになりました。
 今、日本・東洋美術史をやっています。それの四回目のレポートを作成しています。先日、今年の初めに提出しておいた、二回目のレポートが返ってきました。開いてみると「C」。落胆と腹立ちから、思わずそのレポートを机の上に叩きつけました。本当のこと言って、レポートで「C」をもらったの、これがはじめてなのです。私は自分の力なさは返りみず、「先生のバカヤロー!」と心の中で叫びました。
 不得意科目は数学、その次が英語。
 スクーリングのほうは、一年次の分は受講し、二年次の分が残っています。昨年の夏受ける予定だったのですが、学内紛争でとりやめ、それで今年の夏受けるつもりです。

あなたは、美術科とデザイン科のどちらか、と迷ったようですが、私はあなたが美術科を選んだことをうれしく思います。真に芸術的なものを追求するのだったら、美術、絵画のほうが上だと思います。

私の住んでいる寮は、五階建ての大きな建物です。私の部屋は一番上の五階です。もともとこの部屋は二人用の部屋なのですが、私一人で住んでいます。ですから部屋のスペースが自由に使え、ステレオ、テレビなども置けます。でも絵を描くにはせまく、窮屈な思いをしています。

 3月1日
                     沢 舘
  千賀子 様

 

私に対する山崎の行為が、不当なこき下ろしであることが明らかになった後、職場の空気は、どっちつかずの煮えきらない状態が続いていた。しかし、私が昇格試験に合格した頃から、今度はもう、手のつけようのない状態になった。もう、何がなんでも私を気違いにしてしまわなければ気がすまないといった具合だった。そのあさましさは、見ている私のほうで恥かしくなるくらいだった。私はもう、彼らと話すとき、どうでもいいことにはどうでもいい返事をした。ときにはばかげた冗談を飛ばすこともあった。ところが、どうでも私をこき下ろしたい彼らには、それは私の頭がおかしくなっていることを証明する格好の材料であった。たとえそれが冗談であることを知っていたとしても。あるおじいさんは、その辺で拾ってきた二、三の英単語で私の頭を試そうとした。まさかこの人までが、と思うような立派な人まで醜いまねをした。
 他の誰がやっても、何とも思われないことでも、私がやると異常に見られた。私には何もやることが許されていないかに見えた。彼らから見て、私にふさわしいのは、ノイローゼになり、精神病院へ入院するか、あるいは自殺するか、そのどちらかだけであった。それ以外のことはすべて異常であった。あるとき彼らの一人は、私の鼻毛が伸びたのまで騒ぎたてようとした。しかしこれは、騒ぎたてようとした本人自身、あまりにもばかげていると思ったのだろう、途中で口をつぐんでしまった。

彼らを軽蔑し、笑っていても、彼らの力は強かった。愚劣な連中でも、数が集まるとかなりの力を発揮した。彼らは私が精神的にかなり参っていると考えていたようだ。だから、私が少しでも体の動きを静止させると、もう獲物を狙うオオカミのように目を輝かせた。事実、私は相当参っていた。その異様な雰囲気の中で、今にも気が狂ってしまいそうになり、『帰りまで持つだろうか?』と不安になることもあった。
 精神病院とは二年前から縁を切っていた。薬はもう私には必要なかった。私が薬を飲んだところで、会社の異常な空気が改まるわけのものでもなかった。

最初に私の虚像を描いて騒ぎだしたのは、同盟の仲間たちであった。それが党になり、職場になり、このころにはもう、会社がそうであるように感じられた。このまま発展していったら、しまいには一体どんなことになるのだろうと考えると、空恐ろしくなった。

私が会社に入った頃から、ずっと十年近く、私の絵の指導をしてくれていた村井さんは、私より十歳ほど年上だった。彼は並外れて真摯な心の持ち主で、みんなが私を笑うときも、彼だけは例外であった。
 昼休み時間、私が描いた絵を持って行くと、それまで長椅子に横になって休んでいた彼が、がばと体を起こし、喜んで私を迎えてくれた。そして私の下手な絵を見てはしきりに誉め、力づけてくれた。私にとり、釜石製鉄所で彼一人だけが「人間」であった。
 2月19日、その村井さんとも衝突した。こうなることは予想していた。それは職場の風呂場でであった。
 「エイ君、最近変ったごどぁねぇが?」
 彼は私にたずねた。私はそれまでに何度も同じことを彼から聞かれており、その質問の意味はわかっていた。
 「なぁして(どうして)?」
 私は聞き返した。
 「何が変ったごどぁねぇが?」
 「んだから、なぁして?」
 「何もながったのが?」
 「ああ」
 彼はいったん首を元に戻した。が、そのままでは腹の虫が納まらないというように、再び私の方を向いた。
 「精神的によ」
 彼はゆっくり、力をこめて言った。その目は憎悪に満ちていた。
 「最近、暖かくなってきたからな」
 彼はそう付け加えた。
 このごろ沈みがちだった私の気持が、彼との衝突で軽くなった。いじめられてスカッとするのだから自分でも不思議だ。でも胸のどこかでは『勝った』と感じていた。

どんなに彼らが私をこき下ろし、私を悪者にし、攻撃しようとも、私は自分の正当性を確信していた。だからそれらをはね返してきた。だが攻撃の手段は次第に露骨になり、醜さを増し、気違いじみてきた。「正義」を最も大きな看板としてきた党までが、ばかたちと一緒になって私を攻撃した。会社、党、その他のばかたちの統一戦線といったところだ。
 このような職場で、私はまったく無駄に力を浪費している。このまま会社にいるか? それともやめるか? もうやめたい。日雇いをしてもいい、こんなところにはもういたくない。
 だが一方で、やめることは敗北ではないか、逃避ではないか、と考えた。やめないで、最後の勝利まで持っていくべきではないのか? しかし、それは恐ろしい苦しみだ。それに私の味方になってくれる者は、ただの一人もいない。
 いま会社をやめても、預金が少しあるからそんなに心配することはない。問題は「家」。どこに住むか? あの家には戻りたくない。まわりの習慣のかたまりが、好奇の目で私を見るだろう。いっそ、他の土地へ行って暮らすか? とにかく、今の会社にいるかぎり発展はない。あるのは後退のみ。

 

        3月4日 水曜日 雪

今日、帰ってから退職願を書いた。明日出そう。
 これ以上、今の会社にいたら、本物の気違いにされてしまう。
 いったいこれはどうしたことだろう?
 どうしても信じられない。
 私が彼らに何をしたというのだろう?

 

        3月5日 木曜日 晴

午前11時半、寮の部屋にて。
 今朝、退職願を出した。早退。
 心は異常なほど澄みきっている。
 自由だ、
 重荷がなくなった、
 鎖が解かれた、
 喜び、悲しみ、
 心は暗く、そして深く澄んでいる。

 

        3月6日 金曜日 曇

今朝、早く目が覚めた。
 自分が誰で、どこに、何のために眠っていたのか忘れていた。
 野の中で、過去を持たない人間が目を覚ましたように。
 私の心は、それほど自由に解き放されていたのだ。
 これまで私に、重く、黒く押しかぶさっていたものが取り除かれた。
 新しい生活が始まる。
 それは苦しいだろうが、私は負けない。

 

5日の朝、退職願を持って事務所へ行った。掛長も課長も出張中でいなかった。どうしようかと迷ったが、作業長のところへ持って行った。
 「掛長が帰ったら、これを渡してほしい」
 そう言って手渡した。その退職願は、一枚の紙に、乱暴な字で書きなぐったものであった。
 私が帰り支度をしていると、作業長があわてて飛んで来た。封をしていなかったので、中身を見たのだろう。労務担当者の荒木田もやって来た。
 私は作業長と労務担当者に、私がやめる理由をありのまま説明した。驚いたことに彼らは、私のことを「あたまがおかしい、おかしい」といって、さんざん騒いでおきながら、そのことを私に気付かれていようとは夢にも思っていなかったのである。
 私はこれらのことを、山崎を無視して行なった。後で知った山崎が、かんかんに怒って私に突っかかってきた。

退職願を出した日の夜、家へ帰った。両親はいなかった。母は入院し、父はその付添いに行っていた。驚く兄や姉に、私はそのうち通信教育を終え、教員の資格を取るからと説得し、一応安心させた。それから会社の状態を精一杯説明した。しかしどのていどわかってもらえたかわからなかった。会社の状態は、私自身信じられないほどなのだから。
 みんなに裏切られてきた私は、肉親をも、どこまで信じていいのかわからない。だが信じよう。

 

        3月10日 火曜日 晴

敗北だろうか? 
 苦しい、
 みじめだ。
 一個の人間て、なんて弱いんだろう。
 午後、家へ行ってきた。
 私が退職願を出した翌日、同じ会社に勤める叔父が、私の職場へ呼ばれたという。
 このまえ私は、その叔父から思いとどまるよう説得された。兄からも。それで私は、課を変えてもらえるならという条件を出した。叔父が会社へ行って交渉すると、会社はそれをすぐに承諾したという。不思議なことだ。
 暗い気持で、家から寮へ戻って来た。
 あいつらにあやまれだって! ばかなっ!
 そんなことをしたら、私は一生、自分を軽蔑して苦しむだろう。
 絶対、会社なんかへは戻らない。
 家族の者たちの心配する気持もわかるが、私は二十七歳の一個の人間だ。
 自分の生き方ぐらい、自分で決する。
 私はあんたたちの考えているような人間ではないんです。

 

        3月23日 月曜日 雪

朝9時半、寮の部屋にて。
 三日前の20日、給料を受け取りに会社へ行き、私物をまとめて帰って来た。そのことがずっと以前のことのように思える。これは心理的に、私が会社から少しでも遠くへ逃げよう、これまでのことを忘れようとしていることの現れであろうか。
 今、夢中で勉強している。疲れれば眠り、目が覚めれば机に向かった。昼夜の区別はなかった。机に向かっているうちに夜が明けたこともあった。心は充実し、飽和状態だった。

 

退職願を出し、会社へ行くのをやめてから二十日ほどした頃、課長に呼び出され、会社へ行った。課長は本当に私のことを心配しているようだった。退職願はまだ彼の手中にあり、破り捨てるから、取り消せと言った。釜石製鉄所に居づらいなら、東海製鉄でも、どこへでもまわしてやる。さらに課長は言った。
 「きみにやめられては、ぼくの良心が許さない。‥‥‥きみのほうが人間的なのかもしれない」
 ずいぶん長く話した。外は薄暗くなっていた。課長は私を外へ連れ出した。門を出てすぐのところにある橋上マーケットの中にある小さな飲み屋に入った。課長はめかぶを好きだといって、それを肴に酒を少し飲んだ。私は彼から、本当に人間的なものを感じた。

富士製鉄は、八幡製鉄と合併し、4月から「新日本製鉄」という名称になることになった。

 

        3月27日、金曜日。

今日は暖かかった。午後、川原を散歩した。土手に仰向けになり、これから芽をふこうとしている木々、青い空、白い雲をながめていると、いかにも平和だった。人間社会のいざこざで悩んだり、苦しんだりしていることが、とんでもなく間違っていて、ばかばかしいことのように思えた。

 

私が退職願を出したのを、党員らはどのように受けとったのだろう?
 私が退職願を出してから数日後の夜、家へ帰ったとき、大槌駅のトイレに立ち寄った。するとまもなく、誰か入って来て私の隣に並んで立った。トイレの中は照明がなく、街灯の明かりでわずかに足下が見えるくらいで、お互いの顔もよく見えなかった。
 「エイ君、元気だが?」
 隣の男が低い声で言った。その声から大槌の党の幹部、鈴木とわかった。
 「ああ、おがげさまで」
 私も低い声で答えた。すると彼は、せっかく出しかけたチンポコをあわてて引っ込め、暗闇の中へ姿を消した。

課長が止めるのを聞かないでいると、今度は寮長が私を引き止めにかかった。
 ある日、手紙を出しに寮を出ようとすると、寮長が私を呼び止めた。そのとき彼はひどく丁寧だった。話したいことがあるから来てくれという。私が手紙を出しに行くところだと言うと、
 「じゃ、帰って来たらお願いします」
 そう言って頭を下げた。後で行くと彼は、
 「このような大きな会社をやめた人間は、もうどこでも相手にしてくれない
 だから、やめるのを思いとどまれと言った。

私がどこへも出かけず、寮の部屋にいると、職場の労務担当者の荒木田が一人でやって来た。彼は形式的に私を引き止め、すぐに帰った。帰るとき、彼はドアのところで立ち止まり、私の方を振り返った。
 「こうして、動かないでいるんだったら、もう死んでしまったほうがいいんだ」
 冷たく言い残して出て行った。

 

        3月28日 土曜日 晴

寮のこの部屋で書く最後の日記。
 零時少しまえ。ロシヤ民謡が静かに流れている。
 荷物は大体整理した。本棚は空っぽ。ステレオと机の上はまだそのまま。積み重ねた段ボール箱がなければいつもと変らない。
 何だか変な感じ。これから、上りにかかるのか、下りにかかるのかわからない。外力は下へと作用し、自分の力は上へと働く。

 


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