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(第一編)

       第十九章 (寮から家へ)   第二十章 (家を出されて)


     第十九章 寮から家へ

 

  昭和45年(1970年)

        3月29日 日曜日 晴

またこの部屋へ舞い戻って来た。  
 弟と一緒に過ごした部屋、  
 荘介さんと一緒に絵を描いたこの部屋。
 だが今は、
 弟もいない、荘介さんもいない。
 何よりも自分自身が変わった。
 それにしても寂しい。

 

        4月1日 水曜日 晴

覚悟はしていたが、こんなにひどいとは思ってもいなかった。
 昨日から、この三畳間の小さな部屋へ移り、ここで寝て、ここで勉強している。気持がずっと落ち着く。
 今晩、岩間正男さん(私の町の画家)の家を、私の絵を持って訪ねた。この辺だろうと、ある店でたずねたら、駅の近くへ移ったという。
 帰り、姉の家へ寄った。寄るんではなかった。

 

寮を出て家へ帰った後も、私の退職願はまだ受理されていなかった。叔父が何度も交渉に来た。私に、退職願を取り下げる意志が全くないことを知ると、会社はずいぶんひどいことを叔父を通して家族へ伝えてきたようだ。私に対する家族の態度が急激に悪化した。「あたまがおかしいようだ」ということを聞かされたのだろう。私の頭を試そうとするようになった。
 (私に対する家族の態度が悪化したのは、会社からの力によるものではなく、他のあるところからの力によるものであったのかもしれない)。

 

        4月8日 水曜日 晴

家庭も職場の延長。耐えきれなくなって逃げ出した、あの会社の空気がそのまま家へ持ち込まれた。醜いほど全く同じ。
 今日、会社へ行って退職願を最終的に通させた。帰って来て、兄にそのことを告げた。
 「だぁ、よがった、よがった」
 兄はうつろな声で、私の方は見ないで言った。一体私は幼稚園の子供だろうか? それとも相手にされないほどの無能力者だろうか。彼らには、私がそのようにしか映らない。
 叔父、兄、姉らの態度も変わった。会社のやつらは、自分らを正当づけるために、彼らの描く私の虚像を家族に伝えた。家族はそれを信じた。


 こうなることは予想していた。
 これがあたりまえなのだ。
 それを不思議に思い、醜いと感ずるのは、私がいけないのだ。
 社会の、人間の、醜さが見え過ぎる私がいけないのだ。
 これからどうしよう。
 家族の態度は、これからますます悪化する。
 それは、会社での経験でいやというほど知っている。
 彼らには、私の言うこと為すこと、何から何まで異常に映る。
 それを変えることは不可能だ。
 じっとこらえるか?  
 わかってもらおうと努力しても、黙っていても結果に変わりはない。
 彼らと私の距離は離れるばかり。
 私はこれからの人生に希望を持っている。
 それは大きな苦しみを伴ったものであろうが。
 希望を持っているからこそ、今日、平気で会社へ行けたのだ。
 私は卒業めざして夢中で勉強している。
 だが彼らにはわからない。
 大勢の人間の中で生活していて、
 心の通い合う人間が一人もいないことが、どんなに恐ろしいか、
 経験したことのない人間には想像もできないだろう。
 職場でも、家庭でも、まともな人間として扱われない。
 その苦しみ、孤立感。
 しかも私には、彼らが、醜い、無知の子供のように見えてくる。
  (次は今日会社へ行った帰り、釜石のある喫茶店でメモ用紙に記したものである)  
 いま午後4時、喫茶店にて。
 退職の手続きは完全に済んだ。
 今日の午後、会社へ行った。
 課長はあまり話さなかった。顔は真剣だった。
 退寮届を持って寮へ行った。
 懐かしかった。
 かつての私の部屋を外から見上げた。
 カーテンを外された窓が寒そうだった。
 レースのカーテンだけは残しておこうとしたのに、
 引越の時、兄が取り外した。かわいそうに。
 私の心は彼らには通じない。
 退寮届を提出し、寮を出た。
 グラウンドの向こうの川原へ行ってみようかと思った。
 去年の春、見つけた水仙が芽を出しているかもしれない。
 だが行きはしなかった。
 グラウンドの縁の丘に立ち、その方を見やった。
 それから南高校の校舎を見た。
 手紙を渡した少女の顔が頭をよぎった。
 私の大きな思い出となる寮、
 私を内面的に変えてくれた寮。
 暖かい春の日差しをいっぱいに浴びて、白く輝いていた。
 さようなら、さようなら。
 窓にカーテンを残しておきたかった。

 

4月10日の朝、10時35分の列車で花巻へ発った。母は盛岡から花巻の労災病院へ移っていた。労災病院には、スモン病に効果のある治療設備があるとかで。
 私は母のところへ出かけることを、家族の誰にも言わなかった。言う気になれなかった。
 病院で私は、母と心の通いあった会話をし、楽しかった。夜になって、私が旅館に泊まろうとすると、母はこの病室で寝ろと言った。私は独りになりたかった。しかし、母のすすめを断ることができなかった。
 母は私に大きな期待を寄せているようだ。これから絵に専念しようとする私に。
 私は母に、兄や姉の変化を話す気になれなかった。ただ、楽しい話だけしていたかった。
 翌日、家へ帰ったのは午後1時頃だった。家へ入ると、兄が金魚鉢の掃除をしていた。
 「どこへ行っていた? 探したぞ」
 兄は私を見て言った。私は何も答えなかった。でも申しわけなく思った。二階の自分の部屋へ入り、音楽を聴き、コーヒーを飲んだ。

通信教育生の名簿から、鹿児島の女の子を選び、文通していたが、次は彼女からの二度目の手紙である。三月半ば、退職願を提出後、まだ寮にいたとき受け取ったもの。

 

久し振りの初夏を想わせる様な暖かい日。
 練習(と云っても職業柄、仕事)の合間、埋立地へ出かけ、堤防の上に腰を据えて雄大な桜島を眺め、大きな溜息ひとつ。一昔前、ここは海水浴場であり、ボートやヨットがさかんに見られたのに、工場の汚水や汚物でそのかげも失って、ただわずかばかりの砂地へ波打っている錦江湾の海。それでも潮風が快く、わびしさを紛らわしてくれる。
 毎日毎日観光客相手の仕事。駅、空港、各地の観光地へ出かけ、愛情のかけらもなく吹き散らす。それでも好きなトランペットだから食いついてゆく。私だってニニ・ロッソのようにうまくなりたい。行進曲ばかりではばからしくなります。序曲やポピュラーもやりたい。
 堤防をずっと素足で歩きながら考える。
 チビたパステルをつかんで、行き来するフェリーと桜島の無造作に怒った姿を描く。出来上がりのさえなさにうんざり。ラファエル・コランの婦人像が何とうらやましいことか。(三・九)

手紙、有難う。来ないものとあきらめていましたが、私の様な変り者で良かったらどうぞ宜しく。
 もっか、学費も満足に払えない状態ですので、なるべく参考書などは店頭で暗記に忙しいもんです。図書館へ行ったり、友人から教えてもらったり。一時はやめて美術館のデッサン室か、二科展の会員にでもなって自由に自然を追って行こうかと思ったりもしましたが、やはり、人間死ぬまで勉強です。そして私にはこれだけしか生きる糧がない様です。貧しくても美を愛する強さは誰にも負けません。頑張ります。
 貴方も一生懸命頑張っていらっしゃる様ですね。私のほう、今年の夏期スクーリングはとても受けられそうにありません。ハワイアン団体の迎えや万博旅行、それに現在検討中ですが、ハワイへ宣伝に社長等と出かけるかもしれません。でも卒業はしたいと願っています。あせらず、じっくりゆきたいと思っています。しかしなかなか大変です。私にとっては何しろレポートを書くのは大変な仕事で、広範囲の中からどこをどうまとめて作成していいか、心配やら不安やら。人名や地名、作品名等大体知っているつもりでも、はじめて聞くものなどには、とまどい、字が違ったり意味がわからなかったりです。
 練習の合間に、高校時代に読まなかった本を今になってガリガリおもしろく読みついています。今は「赤と黒」を読んでいます。

時々、こんな苦しい想いをするよりは死んでしまったほうが楽なのにとイヤ気をおこしてしまったり。
 時々、人生に憤りを感じ、どうして人間は生きているのか、生きていかなきゃならないのか、思案にくれるばかりです。貴方は人生観どうお思いですか?
 自分自身が全くイヤになってしまう時があります。その時、自分自身を馬鹿に例えて詩を作ってみました。

 (
詩は彼女の作品で、ここに引用しては支障があるのではないかと考え、引用しない)。
 あんなに晴れていたのに、シトシト降る雨。
 「春雨じゃー、ムニャムニャ」(タクシーでとばしました)。
 それでは。
  S44・3・10
 恥かしい事に貴方の姓名が分かりません。

 

次は私の返事。(寮にて)

 

3月14日(土曜日)  
 東北の山々はまだ雪で白くおおわれています。町の建物の陰にもまだ溶けきらない雪が残っています。
 風はまだ冷たいですが、お日さまの光はもう冬のそれではありません。残った雪を一生懸命溶かしています。

3月15日(日曜日)  
 朝の8時過ぎ。さっき目が覚め、顔を洗って、今、コーヒーを飲み終わったところです。
 今日は暖かそうです。ベランダの戸をいっぱい開けておいても、あまり寒く感じません。すずめのさえずりも暖かみをおびて聞こえてきます。

3月17日(火曜日)、朝10時半。
 外は吹雪です。毎朝ベランダへ来てさえずるすずめも今朝は姿が見えません。
 降ってくる雪と、地面から吹き上げられた雪が一緒になり、けむりのように吹き飛んでいきます。かと思うと、吹雪が一瞬やみ、暖かそうな春の日差しがみなぎり、さっきまで見えなかった向かいの山が、くっきりと姿を現します。山肌の雪が霧のように舞い上がり、日光に輝いています。
 山々のうなりは、遠くで聞く大きな滝の響き、建物を吹き過ぎる風は、巨大な笛の音です。
 降った雪は日陰を除き、すぐ溶かされてしまいます。春と冬のたたかい。
 自分は何のために生きているか?
 快なる感情を求めて。
 あまり簡単すぎますか?
 私が死を考えたとき、私を引き止めたのは、絵であり、音楽であり、文学でした。もっと良い絵を描きたい、美しい音楽を聴きたい、もっと多くの小説を読み、自分の視野を広めたい。すなわち芸術であり、それによって自分を高めることでした。
 芸術は快なる生活感情を表現したものであり、それらの作品に接したときの快感、自分で表現しえたときの喜び、それは何物にも換えられない孤高の喜びです。

たしかに生きること、生活は苦しい。偽善の仮面で表面をつくろった人間、人間。化けの皮を一枚はがすと、醜い顔、丸出し。動物、いや、それはわずかばかりの知恵を身につけている故に、ますます醜い。その偽善の仮面をつけなければ通りにくい世の中。多くの「人間」はその仮面を本来の自分の顔だと思いこんでいる。だから、その仮面をはがされようとする時、また、はがされた時の彼らの狼狽ぶりは見ていられない。

自己の世界と社会 
 彼が絵を描くとき、芸術に接するとき、あるいは物思いにふけるとき、すなわち自己の世界において、彼は最高の芸術家であろうとする。しかし、現実の社会に生活し、生きていくためには、自己の世界と社会とは、どこかで接触しなければならない。だがその二つの世界はあまりにも違い過ぎる。自己の世界での規範は、社会では通用しない。それどころか「いけない」のである。
 自己の世界においては、彼はより人間的で、より個性的でなければならない。しかし、社会、ある集団に入ると、彼は人間であることをやめ、その集団内部で、自分に課せられた役割を精密にはたす機械とならなければならない。個性的であることはその集団の機能を低下させる。
 彼がより個性的で人間的であり、さらに社会において妥協することを知らないばあい、彼の内部での葛藤は激しいものになる。

私のなまえが読めないんですって? そのほうがありがたいんだけどな。
 沢舘衛(さわだてまもる)。戸籍上は衛(えい)なのですが、みんな衛(まもる)と読むので、それに従っています。でも親しい仲では「エイ君」と呼ばれています。

「赤と黒」のジュリアン・ソレルは、かつて私を最も魅了した青年の一人です。
 追伸(3月19日)  
 私は今月いっぱいでこの寮を出、私の実家へ移ります。
 私の出生地は大槌町といって、釜石市から車で20分位北へ行ったところにあります。
 これからの手紙は次の住所へお願いします。
 岩手県上閉伊郡大槌町大町○−○○

 

数週間たった四月半ば、彼女から便りがあった。

 

先だって都城(宮崎県)の母智丘(もちお)という所へ桜まつり(花見)に行きました。勿論、会社の御用で、バンド演奏の催しを兼ねてですが。桜の並木道は大変きれいで、夢心地でくぐり抜けました。花ふぶきの中でニコッと笑って写真をとってもらうと、仲間のヒヤカシに頭にカチンと来たり、コーラの早飲み競争で、ビリなのに図々しく、最後までジュージュー飲んでいたり、 本当に楽しい一日でした。
 東北の方は、桜の開花はこちらより少し遅れるでしょうね。

前置き長くなりましたけど、手紙遅くなってすみません。私のほうも先月末、急に引っ越したものですから。何やかやと整理がつかず、おまけに会社が忙しかったものですから。
 四月に入って、学校から英語のテキストが送られて来ました。ラジオがないんです。テレビはあるけど。肝心のものが。のんびりと構え過ぎて、自分ながらはがゆくなります。西洋美術史の第一回目のレポートを書き終え、さてさてと云う所へ、こんなありさま。一年も学生時代から遠ざかって勉強していないと、まるで頭はダメ。
 英語など特に単語がわからない。無知と無能さに泣けてくる。でも是が非でも夏期スクーリングへ出席しなければと頑張っているつもりです。

現在、午前3時過ぎ、もう夜もそろそろ明けたらいいのにと考えている所です。持前の不眠症で、なかなか大変な事です。秋の夜長とは云うけど、今は初夏の夜長で明け方迄、部屋の中を、ジュグリジュグリ、少しもじっとしている事なく、絶えず寂しさを紛らわす。我ながらたあいなく思えてきます。電車の線路添いで、朝から晩までまことに騒音にうなされます。カーテンを三枚位はらないといけないかな。この調子じゃ部屋代は安くて済むかもしれませんが、早くどこかいい所さがさなくてはなりません。
 それに気の合わない友人とうまくやってゆくのも大変。毎日毎日が気がめいってノイローゼ気味かな。でも結構どこそこと、天気のいい日はスケッチに行きます。
 桜島は男性的過ぎ、全然手をつけられないみたい。やはり花とか少女がいいです。
 今月に入ってから、市内のデパートで、イヴェと立木義治展が開かれて、写真のデッカイのにびっくり、きれいなヌードで気に入り、早速写真きちがいの標本みたいな友達から一枚五百円也のポスターをねだり方でした。部屋へ帰ってはると、ちっさく見える。いえ、部屋のほうが、それほどデカイの。青木エミの可愛いほくろと、うぶ毛が魅力です。
 それでは、うたうたとして来た所で。
          また手紙を書くことにします。

 

Nice day isn't it?
 窓の外の電話線にツバメが一羽、夢中になってさえずっています。友達を呼んでいるらしいです。
 東北の方も、このごろ大分暖かくなってきましたが、桜の花などまだまだです。梅はもう咲いているかもしれません。
 私が寮を出て家へ戻るとき、あなたが家を出るなんて、少しおもしろいですね。あなたの新しい部屋、ずいぶん大きいらしいけど、私の部屋は反対に小さいです。三畳間。そこへ机、テレビ、さらにふとんを敷くと、畳の面がほとんど見えなくなります。もちろんここでは絵は描けませんよ。絵を描くときは別の部屋を使います。

 今、自画像F二〇号を、通信の実技課題をそっちのけで描いています。
 実技課題はあと四つ残っています。静物、花、それに自由課題二つ。これが終ればあとは卒業制作です。
 英語の放送は、朝早くと、夜遅くでしょう。私も朝早く起きて、雑音の多いラジオで学習した、最初の一年を思い出します。一度聞いただけではわからないので、テープに録音し、あとでくりかえし聞きました。あなたのように、高校を出てすぐならいいでしょうが、私の場合、五、六年の空白期間があったのです。それに苦手ときているのですから、その苦しさはなおさらです。
 英語の学習は今でも少しずつやっています。英語の単位はまだ取っていませんから。レポートは出し終ったんですが、二年次のスクーリングで英語を受講し終らないと、終末試験がうけられないのです。
 この四月からNHK教育テレビの高校講座の英語A1〜A3をやっています。英語だけでなく、数学も始めました。
 私もいま、日本東洋美術史を終り、西洋美術史をやっています。私、西洋美術史のとても良い参考書を見つけました。「西洋美術史要説」(嘉門安雄編、吉川弘文館、千八百円)という本です。とても読みやすく、レポート作成者には都合よくまとめられています。私はこの参考書で主に学習し、テキストは後で「参考ていどに」ちょっとのぞいてみるだけです。

現在二十七歳五か月、男、失業中、これが私です。驚いたでしょう。

 

彼女からの便りはこの後しばらくなかった。もうこないだろうと思っていると、二か月たった6月20日頃、手紙がきた。彼女の写真も入っていたが、人物が小さく写っていて、よくわからなかった。

 

手紙を書くことを思い留まって何十日たったかな。時々気にしながら‥‥でも手紙を書くのが何となくイヤで‥‥ゴメンナサイネ。実は通信のほう、どうしても受けられない立場があって退学したんです。何度書いて出そうかと思ったのですけど悲しくてね。除籍されるのがつらくて、それ以上にせっかく通信のたった一人得た仲間にわずかの時間で別れるなんて、でも勇気を出して書きました。理由は色々ですけど、今の所書きたくありません。貴方がうらやましいです。頑張って下さい。現在、市立美術館のデッサン教室へ通って勉強しています。今のところ、これだけで精一杯の様です。
 時たま定期観光で、佐多岬、開聞岳、池田湖、(地図を広げてみて下さい)等にスケッチに行きます。同封した写真も開聞岳の中腹のレストハウスの下にあるパークから指宿(いぶすき)の海岸線を臨して写してもらったものです。南国的な香りがする風景ですし、貴方もそんな地方に興味を持っていらっしゃるので同封して置きます。

二、三日前から大変な雨続きです。私の実家も大変な田植えの忙しさだろうと思います。もう二、三ケ月帰らず、ただ一人でのんびりと暮らしています。大分一人暮しも慣れました。以前は、灯のないだだっぴろい部屋に帰るのが寂しくて、友人の家を知っている限り泊まって遊んだもんです。

今週土曜日、市中パレードが行なわれる為に、連日、歩き方の練習でクタクタ、何時も寝る時は足を高くして、それでも痛くて冷やしたり、本当につらいです。でも好きなものは好きで、トランペットを吹かないと物足りなくてネ。マーチよりムードミュージックをやりたいです。来月からヤマハ管楽器教室へ通って本格的な練習にとり組むつもりです。

今日は3時で仕事があがって、書店でPHPを買い、二時間以上も喫茶店で読み、帰ったのが6時前、それから主婦業。ちょっとおもしろくないことがあったせいか、女性専用の感じのいいスタンドバーへ。十月で二十歳なんだけれど、ごまかしちゃってギョニクロを二杯飲んで陽気になりました。それから病気見舞い、と云っても、食べに行くようなもの。ついでに患者と一緒に寝ることになりました。もう帰るのがめんどうだし、そこからだと会社に近いし、それに患者も元気で話がはずむし、気まぐれな私です。
 それでは、久しく手紙を書かなかった事を詫びて‥‥
 お元気で
                      さようなら
6月17日(水) 11時30分

 

これは最後の手紙だなと思った。彼女が通信教育をやめたのは、スクーリングで私と会いたくないからではないかと考えてみたりした。

 

ピアノソナタが静かに流れています。(FM放送)。窓からは夕日が斜めにさしこんでいます。
 あなたが学校をやめたのは私が原因しているのではないですか? そうでしたら大変悪いことをしたことになりますね。
 美術学校は絵を描く技術を身につけるところですから、通信ではあまり期待できませんね。卒業資格を取るのでなかったら、デッサン教室などで、あなたのように直接、実技指導を受けたほうが効果があるでしょう。
 さっきから流れていたピアノ曲が今終りました。アナウンサーの解説でシューベルトのものとわかりました。
 トランペットと本格的にとり組んでいるようですね。がんばってください。音楽のない生活ってつまらないですよね。私にとっても音楽は最大の友です。
 苦しいとき、心から話し合える友のいない私をはげまし、勇気づけてくれるのは音楽です。(絵ではありません)。ときにはジャズであり、ときにはベートーヴェンの雄大な交響曲です。
 写真ありがとう。人物が小さ過ぎましたね。

 Be good and true all in your life.  
                     Good-bye.  

 6月22日 夕刻

 

お元気ですか。
 お便りあって本当に嬉しかったです。別にあなたのために学校をやめたのではないですから安心を。元気にデッサン教室へ通っています。ここは、石膏と人体デッサンだけ。二科会員のほうの教室もありますが、もっと実力が出来てからと思って。先日は県美術展が美術館で開かれ、沢山の作品を見て感動し、めまいがしそうになりました。ま、しっかり頑張りたいと思います。あなたのほうはあと一息ですし、絶対に最後までやりとげて下さい。
 今朝、断続的に雨が降って、昼過ぎやっとあがったみたい。雨あがりって緑がきれいですね。それに紫陽花は勿論。
 一昨日、二ケ月ぶりに田舎へ帰ってみると、こんもり繁った緑の野山が素晴らしい。何か平和って、幸せって感じ。家へ帰っても落ち着かず、何となくソワソワして、早く自分の部屋へ帰りたくなった程。今朝こちらへ帰ってみて、ああやっぱり「我が城」は安息の場所、とばかりに寝ころんじゃったわ。

あなたが二十七才と知ってびっくりしたわ。まるで少年みたいな感情の手紙で、せいぜい二十二才位と思ったけど意外でした。色々な感情に溺れず、何時迄も純粋な感じのあなたがうらやましいです。私などは少々すれきって、この一年間余りで、五つも六つもひどく年をとったみたいです。

もっぱら遊んでいます。勉強と遊びと、交互にやって来るみたい。仕事も指宿観光ホテルの本場フラダンス娘と共に宣伝パレード、その他はなし。シーズン中はハワイアンの迎えだけ。コルネットを買ってやりたいし、精一杯吹けたら最高。
 それでは
                      さようなら
 6月29日 月曜日

 

これで文通は途絶えた。

 

        4月20日 月曜日

私は今、夢中で勉強している。勉強している間は、本当に幸福な気持になれる。何もかも明るく見えてくる。教職課程を受けるのに必要な数学にも力を入れている。今日から西洋美術史の第三回のレポート作成にかかった。明日には完成させたい。この分で進んでいくと、秋には苦手な数学を残し、すべて終了するかもしれない。そうすれば、何か仕事につけるだろう。
 母が退院し、父と一緒に帰って来た。私は複雑な気持でそれを迎えた。
 4月23日(木)、会社へ行ってきた。退職金25万円、住宅預金73万円を受け取ってきた。手持ちの10万円を加えると、全部で108万円になった。

 

        4月27日 月曜日 小雨

自分の描く絵に行きづまりを感じ、数日前から、画集「巨匠の世界・セザンヌ」を開いて見ている。夕べ、セザンヌの生涯を2時まで読みふけった。
 彼の性格はあまりにも私とよく似ている。私はこれまで、『おれはみんなとは違った人間だ』と感じ、そしてそれは、いつかは何かの形で表現されなければならぬものだと感じていた。セザンヌを読んで、絵に対する激しい情熱が湧いた。
 彼ら巨匠の生涯を知ることは、彼らの絵を見ること以上に私を勇気づけてくれるかもしれない。読もう、読もう。今のこの時間を最大限に使おう。まわりの者どもは笑う。仕事をしないで部屋に閉じこもっている私を。だが、私は彼らが見ている私とは全く別の人間。
 私はもっと成長したい。
 これは私のルネサンスだ!

いなかの小さな町では、どんなに小さなことでも、すぐに町中に知れた。私が一歩外へ出ると、好奇の目と薄笑いが私につきまとった。
 私は、中傷をふりまいている会社に対抗するためにも、公民館の小さなホールで個展を開いた。ポスターはほとんど貼らなかった。案内も出さなかった。ただ私がちゃんとやっていて、個展も開いたことが会社に伝わりさえすればよかった。
 この頃、私は絵において過度期にきているのを感じていた。たくさん描いて、それまでの泥くさい、くすぶった絵から脱皮したら、道が開けるような気がした。

5月11日、西洋美術史のレポートを、第二回から第四回までの三通をまとめて受け取った。第二回と第三回はどちらも「A」、第四回は「B」だった。うれしかった。いま経済学をやっているが、はかどらない。

 

        5月18日 月曜日 晴

午後1時過ぎ、物干場にて。暖かい。半袖シャツ一枚。山々は新緑に覆われた。空気は湿気を十分に含み、乳白色。
 生まれ変わったような感じ。
 以前、職場から発生し、私を悩ませた、あの暗く重苦しいものは取り除かれた。
 その職場も遠い昔のことのように思え、今では、単なるしみていどにしか残っていない。
 これからは違った苦しみが始まる。
 しかしそれは、以前のような、無益で空転する苦しみではないだろう。
 私はそれに全力をぶつけていく。

 

私が個展を開いたためかどうかはわからないが、会社の中傷はさらに激しさを増したようだった。
 初めのうちは中傷は、「盗み癖」、「勤務成績が悪い」、「仕事ができない」、「頭がおかしい」といったものだったが、後には、もう耳を覆いたくなるようなものにまで至った。
 兄は私を見ると顔を赤らめ、あきれたように、また非難するように鼻を鳴らした。夜遅く、私が階下へ下りて行くと、それまで起きていた両親があわてて寝室へ逃げて行った。
 とうとう彼らは、私が兄の小さな女の子にいたずらしはしまいかと、気を使うようになった。

 

        5月27日 水曜日 晴

なんという侮辱、
 なんという下劣さ、
 それは書く気にもなれない。
 考えただけで吐き気がし、何もする気がなくなる。
 食欲さえなくなった。
 四日間ほど学習も絵もやめた。
 この家を出てしまおうか、
 まったく、くだらない人間は、くだらないことしか考えない。
 よくも恥かしくなくてそんなことを考えるものだ。
 もしおれが、他人にそのようなことを考えたら、
 そんなことを考える自分が恥かしくなり、息も止まってしまうだろう。
 ところが、おれの上にそのような汚物がぶっかけられたのだ。
 ずっと耐えてきたが、とうとう爆発した。
 これ以上がまんできなかった。
 彼らの汚らわしい考えはますます助長するだけだった。
 彼らの前に姿を現すのはひどい苦痛だ。
 彼らの濁った目は容赦なく私の心を汚す。
 私は部屋に鍵をかけ、閉じこもってしまった。
 どうしようもないくやし涙があふれた。
 ジャズであれ、クラシックであれ、がんがん鳴らした。
 涙と音だけが私の汚された心を洗い清めてくれるように感じた。
 だが、立ち直ろう。
 ここ数日、私は立ち直るための足場を見つけることができなかった。
 しかし、いつかは私をわかってくれるひとが現われるだろう。そのひとのために、自分をもっと立派にしておこう。
 家族とはできるだけ顔を合わせないようにしよう。誤解をいだかせるような言動は一切やめよう。
 だが、それがよりいっそう大きな誤解を生むことになるのだが。
 少しでも早く、家族から離れることを考えよう。

 

        5月31日 日曜日 晴

5月最後の日。
 私くらい親不孝なやつがいるだろうか。
 ここ数日のトラブルで、どんなに母を心配させ、悲しませたろう。涙さえ流させたのだ。
 私は自分の親不孝を恐ろしいものに感じながらも、どうすることもできなかった。
 私の心はそれほど傷ついていた。
 夜、数本のビールを飲み、翌朝、早く目が覚め、下へ降りて冷蔵庫から、またビールを持ってきて飲んだ。それを黙って見ていた母。
 モンペ姿で、不確かな足どりで畑を見に行く母を見るとき、私の胸はいっぱいになる。そんな母に私はとんでもない心配をかけ、悲しませているのだ。
 本来なら、そのような母のめんどうを見、安心させ、楽しませてやらねばならないのに。
 きのうの朝、5時ごろ起きて裏庭の水道の蛇口から水を飲んでいると、モンペ姿の母がいつのまにか後ろに立っていた。手には花束を持っていた。とっくに起きて畑へ行ってきたのだ。
 「朝の空気はとってもいいぞ、州崎(すざき・海岸)の方さ行って来う」
 母はそう言って、その花束を私にくれた。あまり多くを語らないのに、私たちの心は一つになっていた。私は喜びで胸がいっぱいになった。

 

こうしたある夜、母がふとんの中から、まだ起きている父を、非難し、責めるようなまなざしで、じっと睨んでいるのを私は見た。
 母は私を信じたいのだ。だが、父はさんざん私をこき下ろす。母は父の言葉を信じ、私におかしな態度をとる。が、すぐにその間違いに気がつき、父を責めるような目で見る。しかし、結局は父のほうを信じていく。
 この父は、私がまだ子供の頃から、私に対してねたみに似た感情を抱いていた。私はそれを子供心に感じていた。私が成長するにつれ、父のその感情も成長していった。

 

 

     第二十章 家を出されて

 

   昭和45年(1970年)

   6月12日 金曜日 薄曇

体裁よく家を出された。
 ここはタイル屋の倉庫の二階。
 数日前、突然、母から、ある家に部屋を見つけたから、そこへ移れと言われた。
 全く恐ろしいことだ、これが親子愛なんだ。
 あれほど信頼していた母さえも。
 一体どうしたことだろう?
  恐ろしい。悲しい。
 会社のやつらの、吐き気のするようなでたらめを信じたのだろうか。
 もしそうであったら、これからも、ずっと信じてほしい。
 自分の過ちに気がついたら悲しむだろうから。

 

   6月14日 日曜日

夕べ、ふとんに入って、自分のこうした性格、運命についていろいろ考えた。考えているうちに夜が明けた。悲しく、寂しくはあったが、絶望的ではなかった。
 どんな苦しみにも耐えてみせる。

 

   6月21日 日曜日

一体、私はどういう人間なのだろう。
 私がこれまでに接した人々のなかで、人格の面で私より上位にあると感じられた人は一人もいなかった。

 

   7月1日 水曜日

どうして私はこんなに誤解されるのだろう。
 私には、彼らの考えることが手に取るようにわかる。
 私くらい美しい心を持った人間がいるか!

 

   7月7日 火曜日

父が今朝、ここへ食べものを持って来た。奇妙な笑いを浮かべていた。その笑いは、これまでに見たことのないものだった。このときの彼の心は私には読み取れなかった。
 (
いや読み取れた。しかし信じたくなかった。曲がりなりにも実の父親である、まさかそこまで行っていようとは、考えたくなかった)。

 

失業の経験をしたことのない私は、失業保険の給付にも無関心だった。やっと手続きをしたのは、失業してから数か月後のことだった。
 釜石の職業安定所から給付を受けるようになった。二度、三度行くうちに、全くひどい扱いをうけるようになった。私の人格も何もあったものではなかった。自尊心がチクチク痛んだ。職業安定所へ行った後、数日間はそのことで憂うつになった。会社からの中傷のためだろう。

私を落伍者、無能力者としか見ない家族、世間の人々の目をよそに、私は夏期スクーリングに出席するために上京した。
 そしてスクーリング中に、東京周辺で仕事を探し、あんな町からは出てしまおうと考えた。私は釜石公共職業安定所に求職を断る旨の乱暴な手紙を書き送った。

 

   7月18日 土曜日

今、ちょうど夜10時。寝台特急「北星号」の中。やっと荷物を整理し終ったところ。電車に乗るまえに買ったウィスキーのポケットびんを少し飲んだら、いい気持になった。
 午後、出発するまえに家へ行った。父はテレビを見ていた。相撲に夢中になっていた。彼は私を見てもよそよそしかった。母はいなかった。わざといなくなったのだろうと思った。寂しい気持で部屋へ帰った。雨が降っていた。階段の下に傘があり、母のズック靴があった。母だ!
 母は夕食を持って来ていた。母は畳の上に腹這いになっていた。時間がないと思い、急いで来たそうだ。スモン病で足が不自由なのに。容器にいっぱい持って来たみそ汁が、こぼれてしまったと母は言いわけをした。
 弁当箱につめたご飯、刺身、それにきゅうりのなます。私は感謝の気持でいっぱいになった。私は少しまえに、自分でご飯を煮て食べたばかりで、腹は空いていなかったが食べた。あわただしく部屋を出た。母が雨の中を途中まで来て、心配そうにいつまでも私を見送っていた。

スクーリングが始まった。ところがなんということだろう。校内の画材店へ行くと、まるで泥棒を迎えるように迎えられた。また教師、事務員らの様子から、会社の中傷が大学にまで伝えられているのを感じた。
 裸婦のモデルは私にひどく気を使うし、宿舎での仲間たちの私に対する態度もひどかった。大学の近くの食堂に入っても様子が変だった。何でこういうことになるのだろう? このことがずっと私の上に重くのしかかった。こんな状態の中で私は満足な絵を描けなかった。しまいには『おれには絵を描く才能はないんではないか?』とまで考えた。
 この地で仕事を探すつもりであったが、それはとりやめた。今年いっぱい仕事につかず、学習一本で行くことにした。教職課目その他をやってしまおう。

彫塑をやっていたとき、私のクラスの中に、仕事がはかどらず、みんなが帰りかけても、まだ一生懸命やっている女性がいた。私は彼女を手伝ってやった。それから彼女と親しくなり、登校、下校を共にするようになった。7時過ぎまで教室に残って彫塑をやり、真っ暗な武蔵野の林の中を二人で帰ったこともあった。彼女は正木さんといって京都から来ていた。

 

   8月17日 月曜日

今日は、私が受講する課目はなかった。しかし宿舎(吉祥寺校)に閉じこもっていても気持が暗くなるばかりなので、駅の向こうの井ノ頭公園へ出かけた。
 池のほとりのベンチに腰かけ、池の上を漕ぎまわっているボートの群を眺めていたら、暗い気持もいくらか紛れた。
 一時間ほどぼんやり眺めていただろう。そのうち、私のベンチへ一人の老人がやって来て座った。長いこと座っていた。そのうち、小びんの清酒を取り出し、人目を気にするようにして、びんを直接口へ持っていって飲み始めた。何か食べているのか、口をもぐもぐ動かしていた。服装はさっぱりしていて、親しみを覚えた。

そのうち、隣のベンチへ、見るからに田舎っぽいおばあさんが一人やって来て腰を下ろした。よれよれのスカート、そのスカートの下から、下ズボンはいたすねが出ていた。足には、親指のところが分かれた灰色の靴下を履いていた。母を思い出した。そのおばあさんは度の強い老眼鏡をかけていた。
 私はテキストを出して読み始めた。三時間ほどそこにいたろうか。疲れて、そろそろ帰る準備をしていると、おばあさんがやって来て、紙包みを私に差し出した。
 「食べてください、重いから」
 おばあさんが立ち去った後、包みを開けてみると、バナナが二本入っていた。私はすぐに一本食べた。まだ昼飯を食べていなかった。
 ふと、おばあさんは、ボートに乗せてもらいたくて私にバナナをくれたのではないだろうかと思った。私はおばあさんの立ち去った方を振り向いた。おばあさんはずっと向こうで立ち止まり、私の方を見ていた。私が一緒に立ち上がると思っていたのだろうか?
 バナナの皮を屑かごへ捨て、おばあさんが立っていた方へ行った。が、そこにはもう彼女の姿はなかった。不思議に思って見まわすと、すぐ横の、また池のほとりのベンチに腰を下ろしていた。私はしばらく迷ったあげく、近寄って話しかけた。
 「ボートに乗りませんか」
 ところがおばあさんは警戒するような表情をした。私はそのままおばあさんと並んで座った。
 おばあさんは七十歳で、実家は山形だという。四十年(?)に主人が亡くなって、三鷹の息子夫婦のところへ来た。しかし、とても居づらい、ひどい扱いを受けるという。主人さえ生きていたら、戦争さえなかったら、そう言って彼女は涙を浮かべた。おばあさんは十代の頃、中国へ渡り、終戦で引きあげて来たのだそうだ。戦争のおかげで、何もかもメチャクチャになったという。
 おばあさんの話を聞いて、おばあさんが寂しそうにしていたわけがわかった。この公園に来たのは初めてだという。家に居づらくて、こうして出歩いているのだろう。
 また、おばあさんはこんな話もしてくれた。
 ある晩、おじいさんの夢を見た。おじいさんの乗った汽車におばあさんが乗り遅れ、さあどうしようとその汽車を見送った。そうしたら、おじいさんが後で迎えに来た。「おまえ独りでいるのは寂しいだろう」と。だが不思議なことに、体の大きいはずのおじいさんが、このときひどく小さくなっていたという。話しながらおばあさんは、彼女自身の体を縮めた。
 ずいぶん長く話しこんだ後、私はこのままこのおばあさんと別れるのは気の毒だった。せめてボートに乗せるか、何か食べさせたかった。だがおばあさんは、私の申し出を警戒するように立ち去った。
 どうしてあのおばあさんは私にバナナをくれたのだろう? 子に邪魔者扱いされる親と、親に見放された私との間に、何か引かれるものでもあったのだろうか?

 

   8月22日 土曜日

明日は課目終末試験。文学、経済学、日本東洋美術史、それに西洋美術史の四課目。
 来年の夏、教員採用試験を受けよう。それまでみっちり勉強しよう。そう決心すると、これまでの、袋小路に追い込まれたような、嫌な気持から開放された。

私は社会的不能者か?
 私は自己を信じているが、社会が受け入れてくれない。
 真実の社会に住みたい。

 

   8月23日 日曜日

課目終末試験。日本東洋美術史は全然書けなかった。

あれは彼女だったろうか? よく似ていた。最初のスクーリングで心をひかれた女性。
 それは一時間目であった。私は遅れて教室へ入った。空いている席に座り、まわりを見まわした。窓側に座って答案用紙に顔を落としている女性の横顔を見たとき、きれいだなと思った。しかし私は、彼女の上にそれ以上、視線をとめなかった。しかし不思議に心をひかれた。その時間の半ば過ぎ、顔を上げている彼女を見てはっとした。『彼女ではないか!』。ずいぶん落ち着いていた。しっとりとした目をしていた。人違いだろうか? 指輪をはめていた。結婚したのだろうか?
 二時間目も会えるものと、気軽に教室を出た。しかし、それきり姿を見かけなかった。

 

私たちは、授業を小平市にある鷹の台校で受け、宿舎には吉祥寺校を当てられていた。
 スクーリングが始まったばかりの、彫塑のとき知り合った正木さんとの交友は、スクーリングの間中続いた。話をすればするほど、彼女は非凡な人間であることがわかった。本もびっくりするほど多く読んでいた。私は人に負けないくらい本を読んでいるつもりだったが、彼女は私より多く読んでいるようだった。
 彼女と親しくなり始めた頃、私は、例によって彼女に妨害が入るだろうと考えた。そう思っていた矢先、彼女は大学の宿舎を出、鷹の台校のすぐ近くのアパートに引っ越した。そして、彼女の隣の部屋には池田さんという、大阪から来ている三十代半ばの男性が入っていた。
 彼女の話によると、池田さんが大学の宿舎はうるさいので、彼が先にアパートに移り、その隣の部屋が空いていたので彼女を誘ったのだという。
 この池田さんが、一時、私をうさんくさそうに見ていた。彼が手先になって、彼女と私を引き離そうとしているのか? が、すぐに彼の態度は改まった。彼は善良な人間だった。
 彼女は一週間ほど私から遠ざかっていたことがあった。私は彼女のなすままにしていた。すると彼女のほうから近づいて来た。

スクーリング最後の週、正木さんと私はクラスが別々になった。彼女は彫塑(レリーフ)、私は教職課程に必要な「デザインT」を受けた。彼女は私に、彼女の彫塑を見に来るように言っていたが、一日目は忙しくて行けなかった。二日目、やっと見に行った。
 この日の帰り、私たちは玉川上水路わきの林の中の道を一緒に帰った。帰ったといっても、彼女は大学の近くのアパートに入っていたので、彼女は私につきあって鷹の台駅まで散歩といったところ。
 鷹の台の町へ入って、駅の近くの喫茶店に入った。入ったのは夕刻だったが、10時近くまで話した。話していて、彼女と私の間には、驚くほど性格の一致が見出された。私は彼女を「普通の女」と見ることをやめねばならなかった。それは少し面白かったが、反面、少しばかり憎くもあった。
 私は人と話をしていて、これほど楽しく、愉快になったのは、生まれて初めてだった。
 喫茶店を出たとき、夜も遅かったので、私は彼女を送って、また大学の近くまで戻った。真っ暗な林の中の小道は、ところどころ、木の根が道に露出しているところもあったので注意して歩いた。彼女をアパートまで送り、また駅へ引き返そうとすると、彼女と同じアパートに入っている池田さんと出会った。彼は少しためらった後、
 「ぼくのところに泊まらない?」
と言ってくれた。
 翌朝、廊下で彼女に出会ったとき、私は言った。
 「おはよう、夕べはここに泊まったの。夕べ飲んだコーヒーのせいか、よく眠れなかった」
 三人で大学へ向かった。

スクーリング最後の日、私は彼女と朝食を共にした。昼休み時間も、芝生の中の木陰で彼女と一緒に過ごした。それまで私は、昼休み時間はいつも独りだった。
 彼女は、私にたたかいをいどむように、高度で、広範囲に及ぶ話題を次々にぶつけてきた。私は知識の面で、彼女に圧倒された。私より若い彼女に。くやしかった。
 この日の帰り際、私は課題説明を聞くため、講義室に入った。終って出て来ると、彼女が待っていた。レリーフが重いから手伝ってほしいという。レリーフはまだ水分を含んでい重かった。それを彼女のアパートまで運び、それから二人でバスに乗で国分寺まで出た。彼女は荷造り用のロープを買った。そこで私たちは別れた。昼休み時間、彼女に圧倒された私には敗北感のようなものがずっと尾を引いてつきまとっていた。別れ際、彼女の顔に動揺の色がチラと浮かんだ。

スクーリングが終ってみると、物足りなさと寂しさが残った。でも正木さんとの交友は、とても良い思い出となるだろう。

私はスクーリング期間中、他人から私の職業を聞かれたとき、何のためらいもなく「失業中」と答えた。それは、前の会社にいたときより心安かった。
 私の特殊な個人的条件における、今回のスクーリングは、いろいろな意味で勉強になった。
 スクーリングが始まった頃、私に対するまわりの者たちの態度はひどかったが、終り頃になると、事務員の何人かは私を見る目を改め、部屋の仲間たちも私に好意をもって接するようになっていた。
 絵の面では一時、ショックを受け、パレットを持つのも嫌になったが、別の面では自信(まだ弱くはあるが)を得た。社会に対し、人間に対し。
 行く手に栄光あれ。

 

   8月30日 日曜日

朝、宿舎で目が覚めたとき、私は言いようのないほど寂しかった。ある者は昨日の夕方帰り、残っている者も、荷物は送ってしまい、部屋は殺風景だった。うつろな空気が漂っていた。部屋を出るとき、西野入さんが「さようなら」と、ふとんの中から声をかけてくれた。いい人だった。
 車中、以前の生活に戻ることを考えると心は重く、列車の行く手を大きな扉でふさいでしまいたかった。
 大槌へ着いた。家へは寄らず、まっすぐ、倉庫の二階のこの部屋へ来た。まずレコードを聴きたかった。しかし、東京で仕事を探し、ここは引き払うつもりだったので、レコードは全部、家の方へ運んであった。母の顔も見たいが、家へは行きにくい。
 スクーリングで製作してきた石膏像(女の首)が、部屋の角で、私のことなど全然気にする風もなく、まっすぐ前方を見つめている。

 

翌朝7時に目が覚めた。ぐっすり眠れた。天井が目に入った。それからドア、ふすま、ぐるりと見まわした。黄色い光で満たされていた。時代をさかのぼり、古い時代へ引き戻された自分を見出した。だがそうであってはならないのだ。やろう! だがテキスト類は手荷物として送り、まだ着いていない。どうして、すぐ使うテキストは持って帰らなかったのだろう。
 午後、家へ行ったが誰もいなかった。レコード等を持って来た。夜、父が来たが、ほとんど口をきかなかった。
 数日後、テープレコーダーを取りに家へ行くと、母が独りでいた。
 「(家を出されたことを)まだ怒っているか?」
 母は私にたずねた。私は何とも答えなかった。暖かい言葉をかけてやりたかったが、できなかった。
 それから何日かして、母が私のところへ食べ物を持って来た。私はFM放送を小さく鳴らしながら、果物ナイフを研いでいた。母は畳の上に横になった。私はしばらく黙っていたが、たった一言、部屋にあったバナナを食べるよう母にすすめ、またナイフを研いだ。母は黙って立ち上がって部屋を出、廊下に置いてあったふとん袋を窓にかけ、埃を払ったりしていたが、そのまま行ってしまった。

日がたてば忘れるものと思っていた職場のこと、工長の山崎、それに川崎のことなど、次々に思い起こされた。彼らの卑劣さ、醜さが、ますます鮮やかによみがえってくる。だが憎む気にはなれない。軽蔑と哀れみの交じった感情である。
 九月九日、正木さんから手紙がきた。彼女の文章は素晴らしい。そこに書かれている内容も、本当にうれしいものだった。

 

無事に帰郷されたことと存じます。お別れしてから29日は夜12時頃までかかってやっと荷物をダンボール箱に詰め込むことが出来ました。キャンヴァスのタックスを抜いたり枠をはずしたりに大層手間どって、池田さんからは「何してんねん、まだそんなことしてんの?」と絶えず叱咤激励されながら手荷物を一個作り、自動車便のほうは翌朝ひもをかけてもらって何とか荷造りを終えました。
 30日、池田さんの荷札が足りなくて鷹の台まで買いに行ったりしましたので一列車遅れて、帰宅したのは夜の10時頃でした。私の家では毎年、今頃咲く筈の唐桑の花が風情なく刈り込まれていて影もなく、がっかりして家に入ると、他人の家の様に掃除が行き届いていて、名古屋に嫁いでいる一番年長の姉が迎えてくれました。私はこの姉が大のにが手なので、留守中世話になったお礼を何とかうまく言おうとして懸命になったりして、31日の午後、姉が帰るまでリラックスすることが出来ませんでした。今日はやっと少し落ち着いてあなたにお礼の手紙を書こうと筆をとった次第です。
 でも型通りに厚くお礼申し上げるだけではすまない程の親切と友情をあなたから受けてしまった様な気がします。

あなたをまだ知らなかった時、私のボールが結晶した石膏ですっかり固まってしまって困っている私に、みんなが「そうなったらもう駄目だ、使えないだろう」と言いました。そんな人達をしりめに黙ってしゃがんだあなたがボールを逆さにして、トンと地面に縁を打ちつけると見事に石膏がボールから滑り落ちたのです。その時私を含めてあなた以外の回りの人達がとても間ぬけて見えたことを思い出します。それがあなたに助けられた最初です。本当に有難うございました。其の後、私は何回となくあなたに助けて頂いたけれども、私があなたにして差し上げられることは何もありませんでした。でも若しあなたが誰かの助けが必要な時、私のことを思い出して下さったらどんなに嬉しいでしょう。

こちらは東京よりは幾分涼しく、朝晩は過ごしいいのですが日中はまだかなりの暑さです。
 あなたの地方は如何ですか。初秋の冷やかさを一杯にはらんだ風が防潮林を吹き渡っていることでしょう。そして何物をもってしても癒されようのない寂廖をかかえているかに見えるあなたのことを思うと、私自身とても切ない気がします。その上、あなたの町と私の町を隔てる大きな空間、私は日本の国土をこれ程巨大な空間として知覚したことが今までになかった様な気がします。
 時々、初秋の風の吹く街角で偶然にあなたに会えるというような奇蹟は起こらないものだろうかと考えます。そうしたらどんなことを話そうかとなどと空想します。

長い間、生まれてからずっと、私は心を開いて語り合う友を持ちませんでした。たとえ話したとしても、私の考えることや行動は他の人達には奇異にうつるより外なく、私は自分自身を偽ろうとする努力をしばしば続けて来たと思います。そうしてそれらの虚しい努力の一切を排除しようと希っている今でも、過ぎ去った時間が私の内在に働きかけ、あなたの明晰さにくらべて私の内部はひどい自己矛盾を起こしている様に思います。このことは、あなたが鏡のように私の前に立つことによって明瞭になったことなので私自身はそれ程確かな認識を持てずにいたことなのです。
 これは告白体私小説ではありませんが、書くほうよりも読まされるほうがたまらないでしょうからこれで止めます。

スクーリング中の収穫は何? と、も一度あなたに聞かれたら今はためらわずにあなたと河口先生に出会ったこと、と答えます。少しお話したと思いますが、先生が私の彫塑をみて下さった時、こんな注意をして下さいました。
 「あなたが物を面で見るのは構わないが、一つの面を造れば、もう一つの面がそれを支えているということ、つまり各面が互いに引き合い支え合っている力の関係を無視しては面の構成は成り立たない」という意味のことを言われ、また先生が玉の汗を流してへらを使っておられるのを傍らで見ながら対象を丁寧に見、それを丁寧に表現するとはどういうことなのかを身をもって教えられた 様な気がしました。
 私は先生から叱責されることなく、懇切な指導を受けることが出来ましたが。現に教職にあって授業を受けていた人達の中には先生から「あなた方は人を律することばかり知っておって、自らを律することを知らない」と言って叱られた人もいました。何か儒教の思想が先生の血の中に流れている様に感じられました。もしかしたら幼少の時をそんな環境ですごされたのかもしれません。 私たちが帰ったあとも先生は7時過ぎまで居残った人達の彫塑を指導され、例のおひげの先生は態度が悪いといって先生から大変面罵されたそうで翌日はその話で持ち切りだったのですが、自らを厳しく律することの出来る人は他を律することも許されるのではないかと私は思いました。怒るということではなく叱るということは教育者としての信念と情熱がなければ出来ないことでしょ う。多分、私は二度と川口先生にお目にかかることはないと思いますが、先生から受けた剛直な精神への感銘、あなたから受けた静かな知性と誠実さへの感銘、この二つはスクーリング最大の収穫だったと思います。
 長い手紙になってしまってごめんなさい。手紙はこだまと話してるみたいで少しむなしい感じがします。
 勉強、絵はもう始められましたか? 私は帰ると早速おさんどんや買い物の仕事が待っていて、しばらくは落ち着けないと思います。
 お元気でお励み下さい。そしてお暇な時お便り下さい。

                    正木より
 沢舘 衛 様

  9月3日

 

お手紙ありがとう。返事が大変遅れてすみません。
 スクーリングから帰ってみると、町の通りには小旗がはりめぐされ、お祭り騒ぎのようでした。なんでも、岩手国体の水泳競技が隣の釜石市であるということです。それに出席する皇太子夫妻が、途中、当町に立ち寄るということでした。町中の塀からは貼紙がきれいに剥がされ、「貼紙厳禁」の札が立てられました。町中磨きたてられました。それを見て私は、前の会社で、所長などの巡回があるというと、半日がかりで職場の掃除をやらされたのを思いだしました。こんなことをするのを見ると、私はいつもアホらしくなります。なんでありのままの姿を見せてやらないのだろう。

このいなかの眠ったような空気の中で、私の精神まで眠ってしまいそうです。失業生活も飽きあきしてきました。思いきり働いてみたくなりました。
 何よりも孤独感が私を苦しめます。この六畳の部屋にいて、誰も訪ねて来る人もなく、またこちらから訪ねて行く人もなく、時には一日中部屋にいて一言も口をきかないで過ごすこともあります。あなたは孤独の恐ろしさを味わったことがありますか。「孤独を愛す」などという言葉は、本当の孤独を味わったことのない人間の言う言葉です。孤独な日が何日も続き、それが限界にくると学習も手につかなくなります。そんなとき私は何時間もぶっ続けに、ふだんあまり見ないテレビを見ます。どんなにつまらないドラマでも何でもいい、ただそこに人間の生活があればいいのです。そういう時、私は我を忘れてその中に入っています。そうした後で、いくぶん気持が楽になる自分を見出します。
 実生活において、人間的な心のふれあいを持つことができないとき、私の心はテレビに向かい、その中の登場人物を通して、いろいろな人物と人間関係を持ち、飢えた心を少しでも和らげようとします。でも恐ろしいほどの孤独感が無くなるかわり、後には、いいようのない寂しさが残ります。

一歩外へ出れば、無理解と憎しみが私につきまといます。特に私の家族の私に対する無理解は話になりません。彼らは、私をどの面から見ても異常にしか見えないらしいのです。もっとも私は彼らの前ではほとんど口をききませんが。それに私は他人に自分をわかってもらおうなどという努力は、とっくに捨ててしまっています。私が努力しなくても理解できる人は私をわかってくれるだろうと思っています。

今年のスクーリングで、正木さんという話し相手を持てたということは特記すべきことです。私はこれまでのスクーリングで、特別親しく話し合える人を持ちませんでした。自分から持とうとしませんでしたし、機会があっても避けていました。あなたが最初私を「人間嫌いかな」と思ったというのもそのためでしょう。私にとって、人間関係を結ぶというのはとてもわずらわしいことです。いろいろ神経を使ったあげく、失敗に終るのがわかっているのですから。それに私はみんなのように適当につきあうということはできません。

私がこれまでに会ってきたひとの中で、あなたほど私を理解した人はいませんでした。ですから内心、私はびっくりしていました。
 鷹の台の小さな喫茶店で遅くまで話し合った晩、一瞬私は不思議な気持を味わいました。話しているあなたの顔をふと見上げた時、あなたが私には全く見知らぬ一人の女性として映ったのです。異なった家庭に生まれ、異なった環境のもとで育ち、二十数年かかって独自の個性を築き上げた二人の間にはかなりの距離があるはずです。その二人が喫茶店の片隅で、腹の底から笑い合っていたのです。

ところで、彫塑を受けていたとき、固まった石膏をボールからとってやったのが、あなたのものだったと知り、思わず苦笑しました。
 いま、九月末日締め切りのレコードジャケットのデザインをやっています。いなかに来るとインスタントレタリングなどといった便利なものはなく、細かい英文字を一字一字、カラス口や面相筆で描きこんでいく作業には全く閉口させられます。
 スクーリング最後の日、私がポスターカラーを紛失したと言ったのを知っていますか? こちらへ着いた荷物を開いてみたら、ちゃんと中に入っていました。どうかしていますね。
                    沢 舘
  正 木 様

 

お手紙を読んで孤独ということについて数日の間すっかり考えこんでしまいました。私は今迄に孤独感に苦しんだことはあっても、現実の生活で全くのひとりぼっちになったことはありません。例えば一週間以上も人と口をきかなかったということもありません。おそらく人間はみな孤独の苦しみから逃れたがっていると思います。孤独を愛する人などいるのでしょうか。逆に孤独を恐れて、或いは安易な妥協をきらって一人になろうとするのではないでしょうか。人々の間にいて一層孤独感に苦しめられる時、やむなく人は自分自身と対決する苦しみのほうを選ぶのだと思います。

「人間は自分自身と向かい合っていることにそう長く耐えられるものではない。我を忘れるために人間はあらゆる娯楽を考え出したのだ」とパスカルは書いていました。

長時間、普通ならば見たくもないテレビを見続けるというあなたに私は恐ろしいものを感じますが、本当に孤独に苦しんだことのない私がどんなに想像をたくましくしても、それは傍観者の苦痛でしかありません。
 家の中でもひとりぼっち、一歩外へ出れば他人の白眼視に耐えねばならないといった精神の緊張状態の繰返しを長く続けているとノイローゼになったりしないでしょうか。私があなたのような立場に立たされたら、まず環境を変えようと思います。周囲の人達が私について特別の注意を払わない処に住んで憎悪や対立の感情から来る精神の緊張状態をなくしたいと思います。
 お手紙には働きたいと書いてありましたが実現可能な目処がおありなのでしょうか。もしあなたが京都大阪方面でも構わないのでしたら私の家を足がかりにして下宿とか職を捜してみませんか。その意志がおありでしたら少々風通しがよすぎて殺風景な家ですがいつでも利用して下さい。母にも話して了解を得ました。
 それから23日の朝日新聞に求人案内が出ていました。参考になればと思い同封しました。

ところでポスターカラーの紛失には大変責任を感じていました。あなたに割出しを手伝ってもらわねばあなたがポスターカラーを忘れなかったろうと思い、あの時は最大限の厚かましさで他人のペーパーバッグの中をのぞいたり屑かごをのぞいたりして捜したのですが見当らなくてとても残念に思っていました。
 あなたが時には物忘れをしたり、どうかしていたりする人であって私は少しほっとしています。
 無邪気なる人、悲哀を笑いに変え得る人に幸あれ。                  ではまた
                      正 木
  沢 舘 様

  9月23日

 

あなたの絶大な御好意、ほんとうにありがとう。あなたの手紙を読みつつ、「これ、現実のことだろうか」と思いました。現実のみにくい面を見せつけられてきた私にはちょっと信じられないことでした。
 私のあの暗い手紙を見たら、あなたはきっとびっくりし、不気味に感じたでしょう。もう返事をくれないだろうと思っていました。実際あの手紙を書いた頃、私は暗い気持で日々を送っていました。
 スクーリングから帰り、元の生活に戻ったとき、すぐさま感じたのは「このままではいけない」ということでした。あなたもいうように、まず環境を変えなければならないと考えました。
 どこへ飛び出すにも、その地での仕事が決まっていなければなりません。スクーリング行くまぎわ、職安に乱暴な手紙を書いたことが後悔されました。それで不本意ながら職安へいくぶんていねいな手紙を書き、求職を再び始めました
。とにかく県外へ出ようと思っています。
 あなたの親切な申出も考えてみました。実際、就職するならどこでもかまわないのです。でもあなたの申出を受けることは、あなた方にとんでもなく迷惑をかけることになりそうだし、それに私はそんなに心臓の強い人間でもないですから。
 大学にいる間もずいぶん考えました。元の生活に戻るのはいやでしたから。向こうで就職しようという気もありましたが、はっきり決心できなかったのです。新聞の広告もいろいろ見、履歴書用紙まで買いました。
 でも池田さんと会い、彼が仕事も持たず、教員採用試験をめざして一生懸命にやっているのを見て私はずいぶん力づけられました。何もあせって職につくことはないではないか。目的が決まっていたら、脇目をふらず、まっすぐそれに向かって行ったらいいではないかと。ただ彼の場合、彼の考えを支持してくれる奥さんがいるけど、私には敵意だけ。一流会社をやめてしまったということで、家の者にはあいそをつかされ、世間からは人生の落伍者とみなされ、またある者は私が悪事をはたらいて会社を「やめさせられた」と言う。会社でうまくやっていけない人間に何ができるか、といったぐあいです。
 私はそれらの非難をがまんし、来年、他県の教職試験を受けようと思いました。そして何より、親たちを安心させようと思いました。彼らが私をどう思おうと、私としては彼らを少しも憎んでいません。私には人を憎むということができないのです。(バカなのかもしれませんね)。
 しかし、人間社会に生活しながら、人間との交渉を欠いた状態を長く続けることはできないことだし、それに来年、採用試験に落ちたらさらに一年‥‥と考えると。それよりは今から気楽な仕事につき、機会を待とうと思いました。
 あなたは私が新しい職場でうまくやっていけるかどうか心配するでしょう。でも私には自信があります。前の会社をやめたのは人間関係がうまくいかなかったといっても、それは特殊な人間関係だったのですから。

ところで私は教師というタイプの人間ではないことは自分でもよく知っています。でも、子供たちに好かれることはまちがいないでしょう。私は大人とは心が通じ合わないかわり、子供たちとは不思議なほど心が通じ合うのです。(やっぱりバカなのかもしれませんね)。
 それから私はいつも緊張状態にばかりあるのではないですからご心配なく。これでなかなかのんびりしていますから。それに時々、どこから湧いてくるのかわからない幸福感で胸がいっぱいになることがあります。

あなたの御好意、本当にありがとう。お母さんにもよろしく。

                   沢 舘  衛
 正 木 様

 

ともすると気持が暗くなる。職業安定所のやつらが原因らしい。このまえは、あの若いのが私の家にまで調べに来たらしい。私に働く能力があるのか、働く意志はあるのかと。全くうんざりする。
 大槌の町の空気は、ひどさを増すばかりだった。一歩外へ出ると、まるで便壺の中を這いまわっているような思いをした。がまんできなくなり、職業安定所に県外への就職を希望した。

10月6日、日立製作所(千葉県茂原市)から求人に来ていた担当者と会い、適性検査を受けた。学科試験はなかった。適性検査はクレペリン検査で、となりあった数字を加算していくものであった。担当者は私の計算の速いのに舌を巻いていた。私はこの頃、数学の勉強に力を入れていたので、計算には慣れきっていた。
 わずか三日後の10月9日、日立製作所から、採用するという電報が届いた。
 パンフレットを見たら、まわりには田んぼがあったりしてなかなかいい。東京までは90分。
 ところが赴任は10月20日。あと十日ほどしかない。あまりにも簡単に一個の人間が動かされるのには情けなくなった。

採用通知を受けた翌日の朝、目が覚めたのは正午近くだった。枕許の腕時計を手に取って見てびっくりした。よくもこんなに眠ったものだと。だがまもなく、時計の秒針が異常に速く動いているのに気がついた。カチカチという音もせわしく、五秒の目盛りをあっという間に走っていく。正常なときの倍の速さだ。それで時計が正午近くまで進んだことがわかった。でもどうして急に時計が狂ったのだろう? 不思議でならなかった。もしかしたら私の気のせいだろうか。ふとんに腹這いになって自分の脈拍を計ってみた。五秒間に六回、正常だ。不安になってテレビをつけてみた。ちょうど番組の変り目で、画面の左下に11・40と言う数字が出た。時計を見ると11時40分、合っていた。私の感覚のほうが遅れていたのだ。
 どうしてこんな現象が起こるのだろう。ここ数日、私の神経は自分ではあまり意識していないが、疲れているようだ。夜、ふだんあまり見ないような、おかしな夢を多く見る。これから始まろうとしている新しい生活への不安だろうか? しかしそれは不安ばかりではない。本当に新しい生活が始まるかもしれない。期待を含んだ不安である。だから、これまでのように、どうしようもない孤独感に悩まされることはない。

10月12日、母が私のところへ来た。そのとき母は、他の家庭を例にとって、「気痛めな子ができては、えらい目をみる」とか「子供を一人育てるには金がかかる」と言った。本来の母はこんなことを言う人間ではない。人を信じやすい母が、まわりの人間に動かされたのか。

10月15日、正木さんから手紙がきた。

 

先日は突然の申し出にびっくりされたことと思います。
 最初のお手紙の印象では、あなたは四面楚歌の状態にいて就職が急を要することのように思われたものですから‥‥。私の欠点はせっかちで早とちりな点です。お礼を云われてはこちらが恐縮します。
 お手紙にも書かれていたように、出来れば近県で就職されるほうがあなたも都合がいいでしょうし、御両親も安心されることと思います。

あなたや池田さんは健康にも自信があり、まず現実的な生活上の目標を持っている点を私は羨ましく思っています。体が強健だと云うことは一方意志も強く持てるということですものね。私などは今のところ卒業さえも前途遼遠のことのように思われていささか気をくさらせています。特に最近は読書もおあずけにして絵も描かず、やかんの寸法を計ったり、デザイン分析とやらをしなければならなかったり、とにかく閉口しています。
 二週間程前、TVでロシヤ歌劇団の演じるエフゲニィ・オネーギンを観ました。オネーギンと決闘する前にレーンスキーが歌う「青春は遠く去りぬ」というアリアは美しいですね。哀切で心にしみました。いずれにしても青春は錯覚と幻影にみちている時期のように思われました。
 錯覚の積み重ねの終点に死がある。死があるということ自体は人間にとっては救いなのでしょうが、それにしても人生とは生きるに値するものなのでしょうか。此の悩みはイエスキリスト以前からのものと思われます。というのはキリスト教は自殺を禁じていますから。とはいうものの現に生きている私たちは現時点で精一杯生きるより仕方ないのでしょうけれども私の現在は当分家事とやかんのデザイン分析と室内設計でみたされているのですからうんざりです。
 このところ毎日、私の唯一の気ばらしはTVのネコジャラ市の十一人をみることです。日曜日はこの人形芝居のかわりに少年映画劇場の動物天国や、ピロネッピー絶体絶命(これ少し残酷すぎないかしら?)などをみています。日本史探訪は殆ど毎週。これだけの実績があれば、テレビっ子の悪口を言う資格はありませんね。

あなたを教師タイプでないといったのは私でしたっけ。
 いわゆる教師タイプでなくて、教えられる側からいって良い教師である資質を持った人はいると思います。子供たちへの愛情が豊かな知性で支えられていれば当然教師としての資格は充分だと思います。そういう意味で多分あなたはそういった数少ない先生になって下さると思います。
 あなたを待ちうけている未来の生徒達のために頑張って下さい。

昨日(九日)の午後、あなたに手伝って頂いたレリーフ届きました。画材屋さんが手間暇かけて丹念に荷造りしてくれて無事に着きました。あなたにいわれたようにやはり東京に捨てて来なくてよかったと思い、あなたに随分迷惑をかけたレリーフをつくづく眺めました。どうもありがとう。

今度のお手紙であなたの周囲の状況が少し分かりました。いくらか心配しすぎた様ですね。気分転換をしながらお励み下さい。
 就職の交渉うまくゆきますよう祈っています。

                    正 木
 沢舘 衛 様

 

夜10時過ぎ、今、テレビ、芸術劇場でゴーリキーの「小市民」をみて感動させられたところです。下手に感想を言うとボロが出ますからやめておきましょう。でも私はどうしてこんなにロシヤ的なものに心をひかれるのでしょう。異なった作家によって異なった性格を付された主人公たち。しかしそれでも彼らの間には、どこか共通したものがあります。それは「ロシヤ的」としか表現できないところのものです。それがひどく私の心をひきます。ロシヤ民謡が日本ほど親しみをもって迎えられる国はないというから、ロシヤ人と日本人というのは深いところで何か一致するものを持っているのでしょうね。そして私が特に強くそのような傾向を持っているのかもしれません。しまいには、どこかロシヤの片田舎でかわいい少女が私を待っているようにさえ思われることがあります。タチヤーナのような、いやもっと素朴な。こんなことを聞いたらあなたは笑うでしょうね。
 ところでタチヤーナといえば、私もテレビで一か月程前「オネーギン」をみました。ボリショイ歌劇団の歌はとてもすばらしかったのですが、歌手の演技、動作がひどく叙情性に欠けていたように感じました。これはたぶん、私がレコードを聴いているうちに築き上げた勝手なイメージのためでしょう。それにしても、もし私が演出者だったらと考えたりもします。
 これはレーンスキーが決闘の前に歌うアリアの冒頭の部分です。もちろん私、わからないんですが無理に写してみました。
 (省略 ─ ロシヤ語の原文を少し引用)  
 青春 ─ この言葉が私に与える響きは、普通の多くの人々に与えるそれとは、おおよそ違ったものでしょう。私は青春を知らなかったと言えばいえるでしょう。その頃、私の精神は泥沼の中ですっかりもみくちゃにされていました。泥沼から這い上がってみると、まわりでは同級生たちが恋愛をし、大人への道を順序よく踏んで進んでいました。私はみんなからはるか遠くに取り残されているのを感じました。年令だけは間違いなく、彼らと同じようにとりながら、心は少年の時のままなのです。
 とにかく、その泥沼から這い出た時、私は生きることに限りない喜びを感じました。恋愛をするとまわりの平凡なものまでが目新しく見えるということを小説で知りましたが、それと同じようなことが私にも起こったのです。そして現在でも、その時の余波のように、時々幸福感のようなものがこみ上げてきます。しかし、大人の体に少年の心、これがどんなに誤解を生む原因になることか。
 あなたがテレビの「ネコジャラ市」をみているのを知って思わずほほえみました。あなたらしくないと思ったものですから。

私の就職のことですが、21日、千葉県の日立茂原へ赴任することになりました。採用はとても簡単に決まりました。たぶんそれに相応した、簡単で単純な仕事が待っていることでしょう。そこの工場はテレビ、ステレオなど、いわゆる弱電関係の仕事で、私にとっては初めての分野です。
 そこから東京までは一時間半かかるということです。少し遠いですね。でもそれだけ空気は澄んでいるでしょう。
                   (18日夜)

ここからは19日の夜です。
 今朝この手紙を出すつもりだったのですが。夕べずいぶんくだらないことを長々と書いたような気がし、別に書き直すつもりでいたら、とうとう今日は出せなくなりました。それというのも、昼の間、忙しかったものですから。この部屋に置いてある、私の荷物を家の方へ運んだのです。明日の夕方出発します。でも今晩は家に泊まる気になれないので、ふとんは残し、この部屋で寝ます。夕べ書いた手紙はそのまま送ります。
 新しい住所が定まったらまたお便りします。会社の寮に入るつもりですが、個室はないということです。交渉してみて、どうしても私だけの部屋が持てない時は、近くにアパートを探そうと思います。一日のうち数時間は独りっきりになりたいですからね。
                      沢  舘
  正 木 様

 


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