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                 第一章 (日立茂原へ―解雇)   第二章  悪魔の台頭

 

     第一章 日立茂原へ ─ 解雇

 

   昭和45年(1970年)

  10月20日 火曜日
 夕方家を出た。母と姉がそれぞれ二千円、兄が千円くれた。
 大槌から釜石まではバスで、釜石から花巻までは「はやちね号」で、そして花巻から上野までは「八甲田52号」(寝台車)。上野から茂原までは電車を乗り継いで来た。

 これまでの束縛から解き放たれる思いで出て来た。
 日立の茂原工場へ着いたのは21日の朝8時半だった。会社の通用門へ行き、黙って「採用通知書」を出した。門のすぐ裏の小さな部屋で待たされた。しばらくして若い女がやって来て、また適性検査やら何やらをやり、この日は終った。
 門を出てすぐのところにある、仮の宿舎のようなところに入った。

  22日 木曜日
 翌朝、初めて出勤すると、さっそく門で呼び止められた。職場を聞かれたり、あげくのはては髪が長いと注意された。
 午前中は会社についての説明、健康診断などがあり、午後から作業についた。帰ってから床屋へ行こうかと思ったが自分でやった。

  23日 金曜日
 配属が決まった。「カラー・ブラウン管第一製作課第三塗布組」。作業内容は、ブラウン管への黒鉛の塗布。深い知識も技術も必要としない。私はこの会社で仕事をしたら、テレビやステレオの修理ができるようになるのではないかと考えていたが大間違い。ここでは人間は生きた機械。
 仕事は途切れ、途切れにしか与えられず、気持が疲れた。

 24日(土曜日)と25日(日曜日)は休み。
 土曜日も休みなんて、製鉄所では考えられなかったことだ。
 二日間の休日であったが、あまり学習できなかった。「哲学史」をやっている。
 いなかにいた頃のような、心の曇りはすっかり拭われた。このことだけでもどんなにいいか。

 26日(月)から、29日(木)までの四日間は、若い女のもとで黒鉛作りの作業。仕事の内容には全く興味が湧かなかった。いっそ、電力係へまわしてもらおうかと考えた。若い男の工員は私を見ると、無遠慮に「ワッハッハ!」と笑った。

  30日 金曜日
 勤労課へ呼び出され、会社をやめるよう言われた。理由は健康診断の結果で、不整脈だという。しかし、彼らの様子から、理由は全く別のところにあることを知った。彼らは言った。
「君に一生、うちの会社にいてもらおうとは思っていない。たとえば、前科のあるような人間は、うちでは必要としない」
 釜石製鉄所へ問い合わせ、さんざんひどいことを聞かされたのではないのか?
 私の上司は私に言った。
「やめてくれ、やめてくれ、ぼくは本当に君のことを心配しているんだよ。君は本当にかわいそうな人なんだ。なんかあったら相談に来いよ。僕の親戚には校長をやっているのもいるから」
 彼は、私に少しでも早く退職願を書くようせまった。
 私はもう、どんなにもがいても、彼らが私を見る目を変えさせることは不可能なことを知っていたのでやめることにした。入社十日目であった。

  10月31日 土曜日
 退職願を提出。

 

 解雇されたのだから、退職願を提出する必要はないのだが、このような経験のない私にはわからなかった。
 これから失業保険を継続してもらいながら仕事を探そう。東京都内は嫌だし、千葉市内にでも探そうか。そして、心臓の精密検査を受けよう、不整脈は私自身、まえから気になっていた。
 初めて不整脈に気がついたのは、数年前、最初のスクーリングに出席して一週間ほどしたときであった。胸のあたりに心臓が空回りするような不快感を感じ、脈を触ってみると不規則だった。この症状は、精神的にかなり疲れたときに起こるようだった。

 以前から、釜石製鉄所でのことが、どこまでもつきまとうであろうことは予想していた。日本中どこへ行っても同じだろう。そのときから、国外へ出ることを考えていた。今またその考えを新たにした。どっちみち、英会話は完全なものにしておこう。

  11月2日 月曜日
 私の誕生日、二十八歳。
 しかしなんと嫌な日だったろう。この町の職業安定所へ行ってきた。職業安定所の人間はどこでも同じものらしい。もし私が彼らだったら、あのような仕事は二日と続けられないだろう。人を疑うのを職業としているのだ。人を疑っての生活なんて、生きているだけの価値があるだろうか。もしかすると彼らは、彼らのところへ来る人間を、人間とは思っていないのかもしれない。
 就職支度金は支給されないという。すぐにやめたのだから。しかし私からすすんでやめたのではないから支給されるべきだ。職業安定所の職員は私を納得させるのに、まるで知能の低い人間に話して聞かせるような口調で言った。私は口論したくなかったのでそのまま帰った。しかし当然受け取る権利のある金を流してしまうのはあまりにもばかげている。第一そんなことは私の自尊心が許さない。職業安定所からの帰り、審査請求を決意した。ここの職業安定所では胸にしこりを残さないよう、何でもずけずけ言ってやろう。結果はどうなるかわからない。とにかくあんなやつらに侮辱されるのはもうたくさんだ。
 それにしても何という生活だろう。これから一体どうなるのだろう?

  11月4日 水曜日
 昼過ぎ、上司から宿舎に電話があった。書類に私の印鑑を押すから持って来いという。
 上司は退職願の訂正箇所に訂正印を押しながら言った。
 「沢舘君は本当に気の毒な人なんだ。僕は君のためを思ってこんなことをしているんだよ。会社もそうなんだよ」
 勤労課へ行った。ウサギを蛇のウロコでくるんだような感じの顔をした老女が、私に旅費や就職支度金をもらえるようにするのが、とても悔しいようだった。おかげで支度金はもらえなくなりそうだ。しかし会社のほうからやめてくれと言ったのだから、支払われるべきだ。彼女は私がこのことを職業安定所で主張するのではないかと恐れているようだった。私が職業安定所へ行く日に彼女も行くという。

  11月6日 金曜日
 職業安定所へ行った。行く前に会社へ電話した。すると離職票は、先に車で持って行くという。私も一緒に乗せて行ってもいいではないか。私が職業安定所に着くと、老女はすぐに帰った。
 就職支度金のことで、職員とずいぶんもめた。職員が変なことを言うので突っ込むと、彼はとうとう答えられなくなった。彼は会社へ電話して担当者に来所を求めた。会社から来たのは、勤労課の、私に最初に会社をやめろと言った、あの嫌なやつだった。彼は狼狽していた。私を見るとぺこぺこ頭を下げた。
 話していくうちに、会社のやり方のボロが出てきた。私の勝利が明らかになったとき、私は身を退いた。そんな金をもらったところで後味の悪い思いをするだけだ。私はただ、何もわからない人間としてごまかされたくなかっただけだ。

  11月7日 土曜日
 午前10時20分、この部屋ともこれでお別れ。千葉市内に部屋を見つけた。
 夕べ、タクシー会社へ行って、正午に宿舎まで迎えに来てもらうことにしてある。荷造りは終った。部屋の掃除もすんだ。
 この地から一刻も早く立ち去りたい。

 

 

     第二章 悪魔の台頭

一節 (千葉市内へ)   二節 (指名手配?!)   三節   四節 (鎌倉市へ-人形劇団ちろりん)   五節 (劇団-急変)   六節 (劇団を5日間で去る)   七節   八節 (北鎌倉へ)

 

             一 節

  昭和45年(1970年)

  11月9日 月曜日
 このアパート(松波荘)で迎える二度目の朝。ここは二階。静かだ。西千葉駅の近く。
 窓の下には小さいが、感じのいい庭がある。もう一つの窓からは、いちょうの梢が見える。この窓からは日が差し込むことはない。近くの家で勇ましい格好をした鶏を数羽、道端で籠をかぶせて飼っている。明け方、威勢のいい鳴き声が聞こえてくる。
 今、朝の10時。気持のいい朝日が部屋に差し込んでいる。幸福か? わからない。だが、誰も私のことを気にしないのがうれしい。とにかく自由であることだけは間違いない。
 夜は寒くてよく眠れない。ふとんがない。三日前、ふとんを送ってくれるよう家へ手紙を書いた。ふとんが届くまでは一週間近くかかるだろう。
 安いマットレスを買い、その上に、着られるだけのものを着て横になり、バスタオルをかぶる。それでも寒くて新聞紙やビニールをかける。ビニールは空気を通さないので温まるが、ビニールの内側に水滴がついた。安い毛布でも買おうか。
 またこの部屋には机がない。テレビの入った箱を机の代りにしているが、ひざがつかえて体が疲れる。そのうちベニヤ板を買ってきて、その両端をダンボール箱に渡して机がわりにしよう。
 部屋の隅には小さな流しがある。ガスも使える、壁は油で汚れている。
 おととい、引越の日は一食しか食べていなかった。きのうの朝ひどく腹が空いていた。体に力が入らず、手も震えた。午前11時頃、近くの食堂でかつ丼を食べ、やっと落ち着いた。食堂へ行く途中、魚屋の店頭で見た魚がひどく私の食欲をそそった。あれをジュウジュウ焼いて食べたら、どんなにおいしいだろう。

  11月10日 火曜日
 今、朝8時半。30分ほどまえに目が覚めた。何かに感謝したいほどよく眠れた。それは夕べ買った毛布のおかげである。二晩、バスタオルでがまんしたが、夕べ、とうとう安い毛布(1600円)を買って来た。マットレスの上にその毛布を広げて見たときのうれしさは何とも言えなかった。子供のように喜んだ。「これで今晩からみじめな思いをしなくてもすむ」毛布はピンク色。一人で知らない土地にいると、身のまわりのものは、つい暖色系を選んでしまう。

 

 この地で、私は本当に貧しい暮しをしていた。これからどうなるかわからないのに、金を思うように使うことはできなかった。食器などほとんどなかった。豆腐の入ってきた容器を利用していた。しかし豆腐の容器は、使っているうちに、底の角の部分にすぐに亀裂が入った。
 ある日、大衆食堂で使うような、乳白色のプラスチックのどんぶりを一個買ったとき、私は自分が裕福になったみたいで誇らしかった。

 

 11月13日、正木さんに手紙を書いた。

 私がしばらく手紙を書かなかったからといって怒っていないでしょうね。その間にずいぶんいろいろなことがありました。第一に就職したばかりの日立をやめました。というよりは、やめさせられました。
 (中略 ─ 適性検査の結果が良かったせいか、当初、大学卒向けの寮に入ることになっていたことなど)。
 会社の自然環境がとてもよく、空気は澄んでいて、構内には広い芝生があり、樹木もたくさんありました。
 昼時間になると、男女の工員がいっせいに道にあふれ、ある者は食堂へ、ある者は芝生の上へと散って行きました。この工場は男より女の数のほうが多いように見えました。私は食堂でそまつな食事をすますと、いつも芝生の上に転がっていました。秋の日ざしは時には快く、時には暑くもありました。まわりを見まわすと、女工さんたちが数人づつグループになって芝生の上で楽しそうに話したり食べたりしていました。それらの光景は私を楽しませてくれました。
 こうした変哲のない生活が続くかに見えたある日、会社へ呼び出されました。

 
(中略
解雇の説明、及び釜石製鉄所でのこと)。

 現在、千葉市内のアパートに住んでいます。ずっと東京に近くなりました。電車で一時間もあれば行けます。
 絵の道具は全部、家へ残してきました。絵から遠く離れてしまったような感じがし、寂しくなることがあります。近いうちに美術館へ出かけようと思います。
 私のことばかり書き続けてごめんなさいね。あなたも元気に過ごされていることと思います。

  1970・11・11
   正 木 様

 

  11月16日 月曜日
 昼過ぎから茂原へ行ってきた。つくづく嫌な町だなと思った。市役所へ転出証明書をもらいに行った。初めのうち丁寧な調子で話をしていた若い男が、いきなり、
 「あはー、あの例の日立の、ワッハッハッハ!」
 と、私に背を向け、大声で笑い出した。まわりで仕事をしていた若い女たちは、私を気味悪そうに見、顔を赤らめ、にやにや笑い合った。

 便壺のような市役所を出、職業安定所へ行った。こちらは感じがよかった。就職支度金ももらえるようにしたという。ただ、釜石の職業安定所から、まだ台帳が来ていないという。
 日立からの賃金明細書を見ると、健康保険料が千円以上引かれていた。それなのに、彼らは私に会社の健康保険を使わせなかった。臨時社員は使えないと言った。だが彼らは私を正社員として採用したのである。

 毎晩のように母や父の夢を見る。しかも楽しい夢ではなく、いつも無理解から生ずる断絶を伴っている。

  11月17日 火曜日
 家からふとんが届いた。今、そのふとんに入って書いている。服を脱いで寝るのは十日ぶりだろう。今晩からはもう寒い思いをしなくてもすむ。寒さなんか恐くない。ふとんをこれほどありがたいと思ったことはない。
 荷物の中に手紙が入っていた。驚き、心配した様子が書いてあった。

  11月20日 金曜日
 ほとんど一日中、雨が降り、時々傘をさせないほど強い風が吹いた。
 忙しい一日だった。茂原の職業安定所へ行って、移転費、就職支度金、保険金を受け取った。全部で11万円になった。就職支度金の額の多さには本当に驚いた。
 茂原に来ると本当に嫌なことに出くわす。今日は傘の軸が折れた。その傘にはいろいろな思い出があった。母が千円だったかで買ってくれたもので、釜石の寮でも使っていたし、スクーリングにも持って行った。
 千葉へ帰って来たのは1時頃だった。すぐにアパートへ帰った。ズボンが濡れて気持悪かった。少し休んで、また出かけた。
 銀行に10万円預金してから市役所へ行き、転入届、国民健康保険への加入手続きをした。保険証もできたので、明日は病院へ行こう。

  11月21日 土曜日
 国立千葉病院へ。
「不整脈だといって会社をやめさせられた」と言って検査を受けた。心電図、レントゲンをとった。医者は笑いながら、大したことはないだろう言った。

  11月23日 月曜日
 夕べは3時頃までかかって、一か月ほどまえから読み始めていた「白痴」を読み終えた。ムイシュキン公爵の中に、私と共通したものを見出し、うれしく思っていたのだが、その結末にはびっくりさせられた。そのような終らせ方をしたドストェフスキーを憎く思ったほどである。私は精神的に少なからずショックを受けた。おかげで今朝、目が覚めたとき、本当に嫌な気持だった。

  11月27日 金曜日
 病院へ行ってきた。心配することはないという。私の場合、心臓を動かす信号を伝える神経の道に故障があるのだろうという。しかし、そのために心臓が止まったりすることはないという。
 病院の帰り、ラジオを買った。FM放送を聴きたかった。(ステレオは家へ置いてきた)。ソニーの音楽用の少し大きめのラジオ
を買った。急いで部屋へ持ち帰り、鳴らしてみた。音質の素晴らしさに小躍りした。音は乾いた心をうるおした。「エグモント序曲」が流れ出てきたときは、涙がこみ上げた。どうしてもっと早く買わなかったのだろう。

 

 11月28日、正木さんから手紙が届いた。

 お手紙読んでびっくりしました。私にはあなたが退職を強制されるなどとは、それこそ九九パーセント予想出来なかったことですから。それにしても無力な一個人に対する企業の欺瞞と横暴は何とも許しがたくまたとても残念な気がします。
 あなたにとっては生涯をかける職場ではないし、無駄な争いをしたくないという真意は理解できますが、私にはあなたが少し寛大すぎるように思えます。でもあなたの手紙は大変冷静且つ客観的に書かれていますし、多分あなたの心中ではもうこのことにはピリオドが打たれてしまっているのだと思います。

 お手紙を読みながら、しきりと以前読んだカフカの小説「城」が思い出されました。

 主人公のKはある地域を測量するために派遣された技師です。任地に着くとKは活動を開始しますが、それはことごとく何者かの手によって妨害され、Kは任務を遂行することが出来ません。しばらくしてKはその妨害の指令がその地域のあらゆる人事、行政、風紀に至るまで絶大な権力を持っている城と呼ばれる館から出ていることを知ります。その地域に住む村人達の城の主への反逆的行為は生活権を奪われたり、時には生命まで奪われるというむくいを受けます。一方、Kはその城の主に会って話し合うためあらゆる手段を講じて城に入ろうとするのですが、全ては徒労に終ります。城との陰湿な闘争に疲労こんぱいし、この土地でのKの任務はついに挫折を余儀なくされるのです。

 カフカが「城」によって何を象徴しようとしたか、それは今もって研究者の間では謎だそうですが、彼がユダヤ民族であったことから、「城」はドイツナチズムの官僚機構を意味するのだとも云われています。

 私はあなたの場合、人間の集団社会をカフカの城に置き換えて考えられるような気がします。
 人間社会に役立つあなたの優れた能力は同時に一個人であるあなたの持つ人間性のために企業によって拒否されるのです。この不合理そして人間の作り出した組織のもつ非人間性は告発されねばならぬものと考えます。

 今思いついたことなのですが、求職について、美大のほうへ依頼してみてはどうでしょうか。美術、デザイン関係に職場がないものでしょうか。
 まだ書きたいことはあるのですが(それはあなたのこの前のお手紙のロシヤ文学に関連した主観的真実について)この次にします。最近少し疲れやすくて困っています。生来の脊髄過敏症、疲労の蓄積から背中が痛くなります。怠けて暢気にしていればよくなるという怠け病の一種だと思って下さい。

 あなたも全く初めての土地で解放感はあっても何かと不便が多いでしょうね。
 それに絵を描かないでいるのはつらいことですね。
 出来るだけ早く絵を始めることができるよう念じています。

                    正 木
  沢舘 衛 様
    11月21日

 

 二日後の11月30日、姉からも手紙が来た。

 11月も半ばを過ぎ、日増しに寒くなり、どこの家でも冬支度やら、漬物にとあわただしい毎日です。
 千葉の方へ行って早くも一ケ月過ぎましたがどうですか。日立をやめてアパートを借りたそうですね。
  (中略)
 お前からの手紙によると、自分の歩んだ道に後悔しないといいますが、それほどの自信があるのなら、人が何と言おうと目的をめざしてまっすぐ進む事です。私もかげながら声援を送りたい気持です。
 どんな暮し方であろうと、その生活に満足していて前途に目的をもって生きている人間は、前途に目的のない人間よりどんなにすばらしいかと思います。
 ただそれには第一に健康がものをいうのです。体を悪くしては、いくら目的をめざしたところで、どうにもなりません。そのために栄養に気をつけて下さい。
  (中略)
 母さんは別にめだって変った様子は見えないけど、足のしびれは病院にいたときよりひどいようです。でも私にはそんな様子もみせず、畑に大根抜きに、いも掘りに行ったり、又、私の家の前の畑をもう少し広げたいなどと言っています。気持だけは大した意気ごみです。私も少しは手伝いたいと思っても、自分の体がおもわしくないので見て見ぬふりです。母が、こんなとき衛がいたら手伝ったろうにと思ったかもしれません。母さんが「このやわらかい大根をなますにすれば衛がすきだがな‥‥」と一言いっていました。
 お前が千葉へ行ったばかりの頃、母さんは毎日郵便箱をのぞいていました。たぶんお前からの手紙を待っていたのかもしれません。
 強いことをいっても六十をこえた父母です。ときどき簡単な手紙でもよこして下さい。昨日届いた手紙を見て、母は泣きそうな笑いをうかべて、読み終ったあとに、何かしら安心した様子でした。
  (中略)
 くだらないことばかり長々と書きましたが、いつもの愚痴と思って読んでください。

                 又後で
                    宏 子
  衛 様

 

  12月4日 金曜日
 千葉駅ビルの中の書店へ行った。リンガフォン・コーナーの若い女店員が、私に異常なほど関心を持ったらしい。それは以前、私がその書店で立ち読みしていた頃からかもしれない。私が彼女のコーナーで、語学練習用のカセットレコーダーを見ていると、彼女が話しかけてきた。彼女は私に彼女自身の名前を教え、私の名前もたずねた。彼女は中国からやって来たという。
「でも日本人でしょ?」
 そうたずねると、彼女は、
「半分ずつ」
 と答えた。彼女の制服の襟は、ずっと下の方まで開いていた。話をしていて、私の目が自然にそこへ注がれるのを、どうすることもできなかった。彼女もそれを感じているにちがいないが、気にするふうはなかった。彼女は私を誘惑しているのだろうか。
「年はわたしと同じくらいかしら。二十三?」
「二十八ですよ」
 そう答えると彼女はびっくりした。
「髪を長くしているせいかしら」
 あげくのはて彼女は私の髪型にまで文句をつけだした。耳の上のところを切りなさいと言った。
 私がリンガフォンの米語コースをやっていると言うと、彼女はいきなり英語で話しかけてきた。彼女は、彼女の英語を私に誉めてもらいたかったらしい。しきりに「どうですか」とたずねた。だが私にはお世辞など言えるわけがないではないか。私は困って下を向いた。
「だめじゃないの、照れて、うつむいてばかりいては!」
 いやはや。

 

              二 節


 しかし、こんな楽しいことばかりではなかった。買物に出かけ、店に入ると、むかつくほど疑い深い目で監視された。ある本屋では、私が買おうと思った本を、会計のところへ持って行こうとすると、それまでじっと私を見守っていた店員が、あわてて私の持っているその本に飛びついてきた。風呂へ行けば番台の人に気持の悪い薄笑いで迎えられた。女子高校生は道で私に会うと、「このひとだね」とささやきあい、私を避けた。

 私は何者かが私の写真を使って、私を手配しているのを感じた。このような現象は、初めのうち、私の住んでいるアパートのすぐ近くで起こったが、その異様な輪はしだいに広がっていった。
 駅ビルのリンガフォン・コーナーの彼女を、その後私は避けた。彼女が私にあんなに親しくしたからには、彼女にも手がまわり、今度会うときは、とんでもなく不快な思いをするだろうことが予想されたから。

 12月21日の夜、学習しても身が入らず。そんな自分に腹を立て、ウィスキーをずいぶん飲んだ。翌日はすごく寂しく、みじめな思いをした。自分がだめになるのを感じた。部屋に一人でいるのが恐ろしくなり、外へ出た。何かに夢中になり、自分を忘れたかった。映画を見ようと映画館まで行ったが、見たいと思う作品はなかった。こんな映画では我を忘れることができないばかりでなく、終了して出て来たときは、もっと寂しい思いをするにちがいない。
 図書館の近くの公園風のところでしばらく休んだ。それから図書館に入り、本を読んだ。しばらくすると気持が落ち着いた。
 帰り道考えた。みんなと同じ格好をしよう。せめて仕事が決まるまでは。どんなに型にはまった格好(整髪し、白いワイシャツにネクタイ、背広)をしたって、気持さえ独自性を保っていればそれでいいではないか。そうだ、ネクタイを買おう。恥かしいが、ついでに店員からネクタイの結び方を教えてもらおう。しかし床屋へ行くのだけはがまんできそうにない。

 数日前、新聞から切り抜いておいた求人広告がある。応募してみることを決心した。「杉の子」という人形劇団で、「美術、演技、幼児教育に関心あり、旅行好きな方」とある。広告は小さなますの中に三行だけというみすぼらしいものであった。が、何か心をひかれた。第一にありふれたサラリーマンとは違う。自由な格好で美術の仕事、人形劇の演技、あちこち旅しては子供らに夢を与える。電気関係の仕事は私が引き受ける。若い自由な青年、女子たち。仕事、旅、共同生活、本当に人間らしい仕事がそこにあるように感じられた。
 しかしそれは甘い夢であることも知っていた。その仕事にはその仕事なりのきびしさがあるだろう。もし劇団に入り、旅、旅‥‥となったら、おまえ学習できるか? みんなの前でやってみろ、どんなことになるかは知っているだろう。

 12月25日、ネクタイ、ワイシャツ、それにコートを買った。背広だけは、いなかにいたとき、いとこに作ってもらったのを一着持っていた。
 人形劇団に電話した。日曜日もやっているという。日曜日に行くことにした。面接にはちゃんとした格好をして行こう。

 

  12月27日 日曜日
 夕方、ひどく切ない気持で帰り、部屋へ入るなり、もだえ泣いた。
 劇団へ面接に行っての帰りの電車の中で、向かい側に座っていた若い女性がその原因。学生らしかった。
 私が秋葉原から電車に乗ったとき、向かい側の席に若い女が座っているのが感じられた。少し混んでいたので、私は入口のところに立っていた。やがて私のそばの席が空いたので座った。ちょうど彼女の向かい側。彼女はうつむいて目を閉じていた。
 彼女が顔を上げたとき、私は何を感じたろう? 強い印象はなかった。ただ、山奥を流れる清水が、さらさらっと私の胸の中を流れるのを感じた。
 顔の彫りは浅く、目は大きくてどこか力なく、それでいて美しかった。特に白目の部分が美しく、清らかさを引き立てていた。化粧していない肌は美しく、鼻も口もこれといった特徴はなく、ただかわいく、そっと付いていた。私は彼女の顔を何の抵抗もなしに見ていられた。ということは、彼女は私の理想にぴったりだということではないのか。全然飾り気のないコートを着、子供のようなマフラーを無造作に首に巻いていた。その端は垂れ流したりせず、コートの中へ入れていた。
 いったん私は視線を落とし、少しして、そっと顔を上げていくと、彼女はひざをピタッとくっつけ、体を固くした。彼女は初め私の視線を避けるようにうつむいていたが、そのうち、私の繊細で子供のような神経が伝わったのだろうか、彼女は顔をまっすぐ上げるようになった。わざとらしいところがなく、その様は私と全く同じであった。
 私は胸の中で何かが、押えても、押えても盛り上がってくるのを感じた。私がこんなに苦しい思いをするのはめずらしい。
 私はこれまで、女の顔を見、その口元を見、口づけを思うと、多くの場合、嫌な感じがした。しかし彼女は全然違った。彼女の口元を見たとき、私は力いっぱい接吻してやりたい衝動にかられた。
 彼女が降りる駅で私も降りようか。そのような行動をとっても、彼女は私を軽蔑したりしないのはよく知っている。
 だが、いま私はどんな服装をしている? 背広にネクタイ。彼女には、私が立派な職業を持った人間に見えたにちがいない。これは私の本当の姿ではない。彼女は、まさか私が仕事を持っていない風来坊だとは思っていない。おまえは行動に出てはいけない。彼女の心を乱してはいけない。しかし、この体の底から力強く押し上げてくる感情は一体どうしたものだろう。
 私は自分の社会的地位のみすぼらしさが、今さらのようにくやしくなった。彼女を失望させないだけの社会的地位があったら、きっと彼女にこたえたにちがいない。
 彼女は私が降りる駅のいくつか手前で降りた。彼女は電車が駅に近づきつつあったとき、席を立ち、私の前に来て立った。私は祈るような気持で彼女を見上げた。彼女の瞳が微かに震えた。思ったよりずっと小柄な身体。抱けばすっぽり私に腕の中に隠れてしまいそうだった。かばんにはテキスト類が入っていた。その中の一冊の背文字に「高」という一字が見えた。まさか高校生ではないだろう。
 私は理性でもって自分を押えた。事態をさとったのか、彼女はさっと私の前から離れ、ドアの前に立っている人々の陰に隠れた。彼女の心情は容易に察せられた。『私を恨まないでくれ、あなたより私のほうがずっと苦しいかもしれない』
 私と彼女が、ずっと関心を示しあっていたのを、彼女の隣に座っていた行商人風の、感じのいいおばさんが感づいていたようだ。彼女が降りても、私が降りないのを残念がっているようだった。
 その後の私の気持はとても書き表せない。大きな損失をしたような。私の行動は間違っていたろうか? これから同じことがあったらどうすればいいのだ。

 

 劇団のほうは全く意外であった。飾り気のない、人間らしい若者たちの集団だった。私が彫塑をやったことがあると言うと、粘土いじりを試され、人形の首を造った。次はそれを五分間でスケッチ。その次はマンガの一コマを写した。私はこれらを、彼らが思いもよらないほどの速さでやってのけた。
 それが済んで二階へ上がり、この劇団の代表者と会った。大体採用と決まったが、明日改めて電話をくれという。話が済んで階下へ降りて来たとき、私はその場の雰囲気にギョッとした。みんなの目がじっと私に注がれていた。女たちは顔を赤らめ、興奮した目つきをしていた。それは先刻、私が粘土いじりをした後、水道の水で手を洗おうとしたら、やかんの湯を持って来てくれた彼女たちとはうって変った様子だった。私は要らぬ口をきかず帰ることにした。靴を履いていると、若い男が私のそばへやって来て、
「よくある話だっ!」
 と吐き捨てるように叫んだ。
 私が二階で話している間に、どこかへ私のことを照会したのだと私は考えた。(このころ、私は自分が徹底して尾行されているなどとは夢にも思わなかった)。
 私は劇団へ美術志望で応募していた。それで彼らは私の履歴書から、私が本当に武蔵野美術短期大学の通信教育部に在籍しているかどうか確かめたのだろう。大学では、ついでに釜石製鉄所から聞かされた中傷を伝えたのではないのか。

 翌日、12月28日、すごく寂しい一日だった。程度の差こそあれ、ずっとこんな日が続いている。神経がいつも張りつめている。孤独感からか、学習も手につかない。気持を紛らわすためにも映画を見に行った。「シェーン」と「雪割草」。「雪割草」の看板には「涙を流したら、あなたはやさしい人だ」と書いてあった。私は涙を流さなかった。私は彼らの生涯に涙を流すことができないほど、私自身すごい立場にあるのだ。
 映画に入るまえ、劇団へ電話をすると、採用するから来月の5日から出て来なさいと言う。しかし電話の調子は冷たかった。どんな状態で迎えられるかは容易に想像できる。きのうの一件だって、ひどい侮辱だった。断るか?
 面接から三日後の12月30日、劇団へ手紙を書き、中傷がどこから伝えられたのか、そしてその内容はどのようなものかをたずねた。
 
年が明けた昭和46年1月4日、劇団から電話があり、私の言っていることは何のことだかさっぱりわからないと言った。そして、いかにも深刻な調子で、
「あんまりそんなことに気を使わないほうがいいんじゃないですか?」
 と忠告してくれた。
 翌日、1月5日、電話で入団を断った。電話に出た女は、私の名前を聞くとおじけついていた。

 

 私を手配する可能性のあるのは、釜石製鉄所と、工長の山崎が考えられた。しかし山崎が個人でこんなに迅速にやれるはずはない。彼が共産党の組織を通してやっているとはとても考えられないことだった。会社はといえば、私がやめるときには、彼らは彼らの過ちに気がついていたのである。私がいなかにいたとき、会社が町中に私のことを激しく中傷したのは、彼らが自分たちを正当づけるためにやったことで、私がいなかを離れてしまったら、もうそんなにひどく干渉しないだろうと考えていた。
 私は信ずるには無理があるのを感じながら、大学を疑った。『通信教育をやめようか』そう考えたとたん、胸がすーっと軽くなるのを感じた。あの腐敗しきった会社をやめようと思ったときと同じように。たぶん、汚染された大学に籍をおき、これからも関係を持たなければならないということが、無意識のうちに心の負担になっていたのだろう。
 1月4日、退学届を郵送した。退学届には、「長い間お世話になりました。特に昨年の夏期スクーリング中、及びその後は必要以上に私のことに気を使っていただき、本当にありがとうございました」と書き添えた。
 1月8日、大学から、3月31日付で私の退学を認めるという通知があった。寂しかった。

  昭和46年(1971年)

   1月1日 金曜日
 月日がたつのは何と速いのだろう。会社をやめてからもう九か月になるのに、寮で年賀状を書いたのは、ほんの数か月前のことのように思えてならない。
 昭和45年(昨年)は、これまでで最も波乱に満ちた年であった。そして私は何と成長したことだろう。
 これからは波乱の連続だろう。
 勝てるか?

  1月4日 月曜日
 正月休みで店が閉まってしまい、食料を買うことができなかった。そのためこの数日間、ろくなものを食べていない。身体の調子が変だ。何個かあったインスタントラーメンを食べ終ってからは、いなかから送ってきてあった、するめとリンゴばかり食べていた。眠れば餅を食べている夢を見るといったありさまだった。
 今日から店が開いたので、パンでも買おうかと思って出かけたが、パンはまだ店に出ていなかった。みかん、バナナ、ピーナッツそれにウィスキーを買って帰った。それらを食べているうちに、やっと自分の体が自分のものらしく感じられてきた。ウィスキーをほんの少し飲んだ。
 食べ終ったらこれまでの疲労が一時に出、たちまち深い眠りに落ちた。夢など一つも見なかった。やっと目が覚めたのは暗くなってからだった。窓から、庭の冷たい電灯の光が差し込んでいた。時計を見るとちょうど7時だった。服を着たままふとんに入っていて、ずいぶん寝汗をかいていた。裸になり、脱いだシャツで体を拭き、新しいシャツに着替えた。それから風呂へ。やっと潤いのある姿にかえった。

 時々激しい怒りに襲われ、体中ぶるぶる震える。会社に対し、党に対し、家族に対し、そして大学に対して。
 人間て、なんて醜く、くだらなくできているのだろう。

 

             三 節


 年が明けてまもなく、正木さんから手紙が速達で届いた。それは暮れの12月30日に出した私の手紙への返事であった。まず私の手紙から。

 

 前 略
 今日はお願いがあって手紙を書きます。
 私は今年のスクーリングに出席して、大学の様子から、以前私がいた会社から、ばかげたデマが大学に告げられているのを感じました。私がそれにどんなに苦しめられたか、わからないでしょう。それは同じ宿舎で、みんなが私に対する態度、先生の態度、さらには正木さん、あなたからも感じられました。もちろんあなたの場合は一時的なもので、あとは私を理解したようですが。
 私は現在ここにいて、就職しようと活動する中で、私に関する聞いていられないような中傷が、以前の会社のみでなく、大学からも出ているように感じられます。しかも大学は問い合わされたことばかりでなく、問われもしないことまでふれているように思われます。それは私の心身を通して感じられます。これらは私の思い過ごしかもしれませんが、もし事実だとしたら何という人権蹂躙でしょう。それで正木さんが、大学が私についてスクーリング中及びその後にとった行動について知っていることがあったら、できるだけ詳しく教えてくださるようお願いします。
 正木さんが私への最初の手紙で、「あなたが誰かの助けが必要な時、私のことを思い出して下さったらどんなに嬉しいでしょう」と言ってくれたことを思い出し、お願いします。もしその気持が今でも変っていませんでしたら、本当のことを話してください。

                     沢 舘 
  正 木 様

 

 どのようにお正月をお過ごしかしらと気にかかりながら年末の雑用に追われて少しご無沙汰をしました。
  (中略)
 さて、今日受取ったあなたのお手紙を私は少し奇異な気持で読みました。私が先の手紙でカフカの城のことを持ち出したりしたので、神経質になっているあなたを不用意に刺激することになったのでしたらあやまります。
 私はスクーリングで滞在中、あなたについてどんな噂も聞きませんでした。元来私は人付き合いの悪いほうだし、他人の虚々実々な噂話等、全く興味がありません。たとえあなたについての噂話なら或いは興味を持ったかもしれないのですが、あいにくあなたについて学校内、校舎内でどんなデマが伝えられていたのか私は全く知りません。私にはあなたの思いすごし、つまり誇大妄想としか思えないのですが‥‥。
 まず私に疑問に思われる点は何故、あなたは美大があなたに関しての何を知っていると思うのですか。しかも美大があなたについて問われもしないことまで触れて話したとあなたが推量する根拠は何ですか。
 私はあなたについてどんなデマが伝えられているのか知る由もありませんが、あなた程の知性を持ちながら何故他人の中傷やデマの泥寧の中にのめりこんでしまわなければならないのか悲しく思い、あなたのために残念に思います。
  (中略)
 今日はこれで。御健闘を祈ります。
                    正 木
  沢舘 衛 様
   1月6日

 

 

             四 節

 昭和46年(1971年)

 1月9日、土曜日、新聞広告を見て、人形劇団「ガイ氏即興人形劇場」へ面接に行った。
「入るか入らないかは自分で決めなさい。ここは普通の会社ではないんだから」
 そう言われ、明後日の月曜日から出ることにした。
 月曜日、出て行ったがあまり変ったところはなかった。二日目にはもう様子が変ってきた。私と一緒に入った男は、私を見るとすぐに、
「ネコかぶりだ」と言った。
「ゆんべはよく眠れたか?」マネージャーが私にたずねた。
「ウソをついて、ケロッとしているのがいるからなぁ」団長が誰に言うともなく言った。
 ビデオテープで人形劇のラブシーンを見せながら、マネージャーは私を凝視し、
「今に発情してグワーッと鼻血出すんだから!」
 吐き捨てるように言って部屋を出て行った。隣にいたかわいい女の子が、じーっと私を見つめていた。
 私はマネージャーに話した。
「何か問題があるなら黙っていないで、ざっくばらんに話してほしいですね。私のことを前の会社へ問い合わせれば、ずいぶんひどいことを言われますよ。それらを黙っていないで話してください。そしたら私もみんなの納得いくように説明しますから。そのうえで納得できないというなら、いつでも追い出してください」
 それまで私を軽蔑しきっていた彼は、顔まで赤らめてあわて、黙り込んでしまった。
 三日目には、私たちの演技を指導していた団長が、私を無視するようになった。一人一人順番に演技させるときも、私を飛ばしていった。
 四日目は職業安定所に出頭するために休んだ。
 五日目、出て行ったが、もうだめだなと感じ、午前中で帰った。マネージャーにやめることを告げた。
「うん、そうだな」
 彼は私の顔を見ずに答えた。

 それまでは、まさかと思い、とても信じられなかったが、こうなるともう、釜石製鉄所が警察を通して、密かに私の行く手をふさごうとしているのを信じなければならなかった。私があちこちへ面接に行ったとき、また採用後、彼らの様子が急変したのは、私をつけていた刑事のしわざではなかったのか。
 あちこちの人形劇団の空気をのぞいて歩いているうちに、もし彼らが私を受け入れてくれたなら、その仕事に喜びを見出すことができるのを感じていた。

 1月19日の新聞に、鎌倉市にある「ちろりん」という劇団が募集広告を出しているのを見て応募した。しかし今度は、これまでと同じことの繰り返しになるのを避けるため、応募書類と一緒に、手紙で前の会社をやめるまでの経過を簡単に説明した。さらにその会社から発せられていると思われる中傷で、どこでも人間扱いされなかったことなど。最後に、「とにかく私は子供に負けないほど純真な心の持主です」と書き添えた。十日ほどして返事がきた。

 

 前 略
 御手紙拝見いたしました。私共劇団は、創造団体でして、ことに児童対象の専門劇場ですので、ただ単に芝居をつくり観せるという事だけでなく、児童文化のあり方、一つの文化運動として創造活動を続けております。それ故に、社会悪、社会の矛盾、人間の尊厳を侵すような問題には真剣に立ちむかっております。
 御手紙にあるような事は芝居の素材になっても、決して私共劇団がそれによってひきまわされる事はございません。どうぞ御安心下さいませ。後ほど募集要綱等をお送りいたしますが、面接日は2月21日(日曜日)午前11時より劇団スタジオにて行なわれます。お越しをお待ちしております。
                    早々

 

 胸が高鳴った。生まれて初めて私の心が社会とかみ合ったように感じた。
 面接日は後で変更になり、2月7日に行なわれた。試験は朗読、体操、そして面接だった。
 広い稽古場にはストーブがあり、そばには、これも面接を受けに来たらしいかわいい女の子が一人いた。
 試験には伊東さんという、まだ若い眼鏡をかけた女性があたった。私に返事の手紙を書いたのは彼女本人のようであった。
 朗読させられたとき、私はひどくひっかかった。それに訛もでるらしい。体操においては、彼女は私の体が柔らかいのにびっくりしていた。彼女は初めのうち私を信じかねるような目で見ていたが、体操しているうちに私を信ずるようになったらしい。私が岩手出身だと言うと、彼女は「うちのだんなも岩手だ」と言った。
 面接には彼女のほかに、さらに男女一名ずつが加わった。男はベレー帽をかぶっていて、この劇団の団長らしかった。彼は四十歳位で、善良そうな顔をしていた。彼は私に少しばかり疑いを持っているようだった。面接の間、私が飾り気のない態度(それが時には無作法に映るらしい)をとると、彼は、母親に救いを求める子供のように伊東さんの方を見た。彼女は明るく笑っていた。そして、
「一緒にやっていきましょう」
 と言ってくれた。団長は彼女の勢いを得、
「前の会社の人間共を芝居に書いて笑い飛ばしてやりたいね」
 と言った。
 3月1日から出ることになった。住む部屋は、劇団の稽古場の二階を無料で貸してくれるという。

 千葉市にいた間、少しばかりの金を近くの銀行に預けておいたので、それを解約しに行った。冷たい目で私を見ていた男の銀行員が金を私に払い戻した。内訳を見ると、一円の利息も付けていなかった。私は表情も変えずにそこを出た。
 2月28日の夕方、タクシーにふとんと少しばかりの荷物を積んで千葉から鎌倉へ向かった。引越はタクシー一台で十分だった。タクシー会社へは前日のうちに予約しておいた。
 そのタクシーの運転手には全くあきれた。
「鎌倉までどれくらいかかりますか?」
 千葉を出るとき、私は運転手にたずねた。しかし彼は言葉を濁し、なかなか答えなかった。
「七千円ぐらいですか?」
 さらに私はたずねた。彼は少し間をおき、
「よしっ、それで手を打つか!」
 そう言って、しきりに私の同意を求めた。私は彼の意図を理解できなかった。鎌倉までは七千円以上かかるので、運転手が途中でメーターの計量を止め、七千円を超えないようにし、彼も私も損をしないように取り計らってくれようとしているのだと思い、私は同意した。ところが目的地に着いた時、メーターの計量はわずか四千五百円だった。運転手は指を折って何かを数えていたが、
「やっぱり最初話した額になるねぇ、七千円‥‥、これから夕飯食って、帰りの分をみると」
 私は何も言わないで、一万円札を彼に渡した。おつりがきた。
「それだけでいいですか?」
 私はたずねた。
「それだけって‥‥、ああチップのごどが?」
「ええ」
「チップはいらねぇよ、そっちもそれだけ、もう使ってんだから」
 だが彼は、帰ってから、同僚や、もしかするとケイサツの旦那までも喜ばしてやろうと思ったのかもしれない。
「でも、くれるって言うんなら、もらってもいいけどよう」
 私は思わず彼から目をそらした。
「いくらやりますか?」
「うん、あんまりいらねぇよ。じゃ五百円でいいべぇ」
 私は百円玉を五枚、伸ばしてよこした彼の手の平に乗せてやった。この生き物も私と同じように、人間という名称を共有しているのだと思うと、体がぞくぞくしてきた。一刻も早くこの男と別れたかった。
 運転している間も彼は、
「これから熱海へ行って、女でも買って遊ぶかな」
 と言ってみたり、私の性器のあたりをじーっと凝視したりして不愉快だった。
 千葉を出るとき、私がNタクシーを頼んだことを知ったアパートの家主が、「個人タクシーのほうが信頼できるよ」と忠告してくれたのを思い出した。

 

              五 節

  昭和46年(1971年)

 劇団へ着いたのは夜7時頃だった。劇団の前庭にタクシーを乗りつけると、若い女性が四、五人、好奇に満ちた様子でぞろぞろ現われた。ある者は窓越しにながめていた。
 長髪の若い男が一人、稽古場でテープレコーダーやアンプを広げて何か仕事をしていた。
 私が荷物を二階へ運び上げていると、彼女らの一人が私に話しかけた。
「夕食はまだでしょう? 私たちもこれから行くところですから、一緒に行きましょう」
 荷物を整理し終り、稽古場へ降りて行くと、彼女らの姿はなく、依然として若い男が黙々と仕事をしていた。私がうろうろしていると、
「彼、食事に行くんでしょう?」
 男は顔も上げずに、第三人称で私に問いかけた。さらに、
「彼女たち、先に行ったから‥‥、今、迎えに来ます」
 私は意味がよくわからなかった。私は彼のそばにしゃがんで彼の仕事をながめた。テープレコーダーのレバーをガチャンガチャン動かしていた。『電気屋だろうか?』。私自身、以前、電気の仕事をしていたので、先輩格の電気屋を見ると、何よりもまず敬服の念が先に立つ。しかし彼の操作は何の意味もなく、ただガチャガチャやっているように見えた。
 やがて車の音がし、男みたいな感じの女が稽古場へ顔をのぞかせた。迎えに来たのだ。その女の運転する車で私と電気屋は、どこか明るく、にぎやかなところへ連れて行かれた。
「ここが大船で一番にぎやかなところです」
 車から降りた電気屋が、通りを見渡しながら教えてくれた。
 階段を登り、レストラン風の食堂へ案内された。彼女らはテーブルを一つ陣取っていた。みなそれぞれ注文した。私は親子丼を注文した。小さな皿についてきたたくあんをガリガリ音をたてて食べると、彼女らの一人が「ふふふ」と笑った。私はもう一切れは食べなかった。
 食堂を出てから喫茶店に入った。改めて自己紹介がやられた。電気屋は加藤君といって私より一つ若かった。みんないい人間だった。普通の会社に勤めている人たちのように型にはまったところがなく、人間的なみずみずしさにあふれていた。『この人たちとならうまくやっていける』そう感じた。
 この劇団はほとんどが女性で、男性は私を入れて三人だけだという。一人は今、地方公演に出かけているという。
 楽しい晩だった。ただ一度だけ、加藤君が蒸したような笑い方をし、
「おれはふのうなんだ」と独りごちたときは不愉快だった。

 劇団の二階には事務室のほかに部屋がいくつかあり、劇団員が宿泊していた。しかし常時そこを自分の住処とするのは、私と、寺田という、私と一緒に入団した十九歳になる女だけだった。彼女は大阪から出て来たという。
 各部屋へは事務室から入るようになっていた。だから、部屋へ行くには、まず事務室のドアを開けねばならなかった。でも部屋の入口には本棚などが置かれ、仕切りの役をしていた。私の部屋は六畳間で、ドアを開けて入ると、すぐ目の前に二段ベッドが頭をこちらへ向けて壁に沿って置かれていた。部屋のもう一方の側には、タンスと机がそれぞれ両隅を占めていた。その真中には窓があったが眺めはよくなかった。二段ベッドの上段が私に与えられた。下段は加藤君が時々使うらしい。

 翌日3月1日は入団式。私と一緒に入った新人は四、五人いた。私の他はみな女であった。
 
入団式だというのに団長は姿を見せなかった。劇団員の一人が、
「団長は風邪をひいて咳きこんでいるといって出て来ない」
 そう言って、不審そうにすぐ隣の住まいを見やった。私は事態を察知した。この劇団も長くは続かないことを知った。私がいるかぎり、団長は決して劇団へ姿を見せることはないだろう。
 幹部クラスの女性劇団員から人形劇や劇団についての説明があった。その女が不意に説明をやめ、
「今のうちは立派にやっていても、そのうちボロを出すんだからっ!」
 と、吐き捨てるように言った。この一言は、彼女が話している内容には何の関係もなく、どうしても結びつけることができなかった。
 入団式は数時間で終り、その後は劇団の仕事を手伝った。私は廃物同然になっていたテープレコーダー(オープンリール式)二台を修理してやることにした。どのような使い方をしたのか、ひどい壊れようだった。二台とも完全な形にするのは不可能だった。一台を犠牲にし、使える部品を取り外し、やっと一台を使えるようにした。
 また稽古場の隅には、スライダック(電圧調整器)が何個も捨てられた状態で積み重ねてあった。おそらく一次側と二次側を間違えてつなぎ、コイルの一部を焼損させたものだろう。あとで修理してやろうと思った。
 この晩、部屋で、私は加藤君と酒を飲みながら少し話をした。一見、友好的に話をしていていながら、私は何かすっきりしないものを彼に感じた。
「劇団ていうところは、社会からはみ出した人間の来るところなんだ。ごみ捨て場なんだ」
 彼はそう言って笑った。やがて彼は、
「女の子たちに加わりませんか」
 と私を誘った。彼女たちは事務室で、ストーブを囲んで何か陽気に語り合っているらしい。私は恥かしかった。
「行きましょう」
 彼にうながされ、やっと行く決心をした。彼はウィスキー、私はブランデーのびんを持って立ち上がった。私はふと思いつき、彼女たちにと思い、夏みかん二個と、果物ナイフを抱えて部屋を出た。私たちを見ると彼女たちは、顔を輝かせて喜んだ。私の持って行った夏みかんを、加藤君が彼女たちに食べるようにすすめた。だが私のだと知ると、誰も手を出そうとしなかった。彼がもう一度すすめると、彼女らの一人が言った。
「でも彼に、食べてって言われないうちは‥‥」
 みんなどっと笑った。
「どうぞ」
 私はやっとそう言った。私はあまり話さず、彼らの話を聞いていた。加藤君が主導権を握り、面白おかしく話を進めていた。
 彼のグラスが空になれば、私は自分のブランデーを彼に注いでやった。しかし彼は決して私に注ごうとしなかった。

 劇団での二日目、もうおかしくなった。
 午前のうちから、一部の劇団員が異様な雰囲気をかもし出していた。私は例の、いくら避けようとしても、後から後から冷たいものが、胸に、べたり、べたりと貼り付いてくるのを感じた。
 劇団の空気も毒されてしまった。会社、家と全く同じ。こんなことになるのを恐れ、まえもって手紙を書いたのに、書かなかったも同然。この空気はこれから面白いように悪化する。早いところ他に部屋を探さねばなるまい。
 昼、事務室のわきにある台所のようなところで、数人で昼食をとった。朝から様子が変だった女が、テーブルからずっと離れ、顔を赤らめ、気味悪そうに私を睨んでいた。他の女たちも私の近くに寄ろうとしなかった。
 午後、私が自分の部屋にいると、ドアがノックされた。ドアを開けて見ると誰もいなかった。首を伸ばして見ると、一人の女が事務室へ帰って行くのが見えた。不快な気持で私は事務室へ行ってみた。ドアをノックしたと思われる女は事務室の奥へ引っ込んでいた。入口近くには朝から様子がおかしかった女が仕事をしていた。さらにもう一人、劇団に宿泊している寺田もいた。
「なにか?」
 誰にともなく私はたずねた。誰も私を見ようとしなかった。仕事をしていた女が机から半分だけ顔を上げ、
「あれ食べて」
 そう言って、少し離れた机の上を示した。そこには串だんごが、大きな皿に山と積まれてあった。まだ誰も手をつけていないようだった。『なんてことをするんだろう』私はその場に佇んでいた。すると女は、
「そのテープレコーダー、調子が悪いようよ」
 前日私が修理したテープレコーダーを示した。そんなはずはない。故障の状態を聞くと、
「時々止まってしまう」と言う。
 操作してみると彼女の言うとおりだった。録音、再生では異常ないのだが、早送り、巻戻しにすると、途中でリールの回転がのろくなり、止まってしまう。巻取り側のリールにテープの量が多くなるにつれ、巻取りの径が大きくなり、巻取りの力が不足するのだった。「油をやれば直りますよ」
「あぶら?」
「ええ、何か油はありませんか」
 すると女はやけ気味に、
「油なら何でもいいんでしょう? 食用のでも髪につけるのでも」
 そう言って、後ろの引出しの中をかきまわし始めた。やがて髪油か何かの入った小びんを取り出し、私の前に突き出した。私は何も言えずうつむいてしまった。そばで寺田がこのやりとりを、困惑したような表情で見ていた。私は別の油を買ってくれるよう頼んだ。機械油とグリース。
「それからアルコールもあったほうがいいですね」
 私は付け加えた。
「アルコール? アルコール何にするんですか!」
 彼女は私に詰め寄らんばかりであった。
「テープレコーダーのヘッドを掃除するとき使いますから」
 私は静かに答えた。
 だんごはその後どうなったのか、私には一切わからなかった。

 夕食から帰って来たとき、私の心は昼間の虐待で少し荒れていた。事務室のドアをどんと押し開け、それを後ろ手で押しやり、事務室に誰がいるかも見ないで自分の部屋に入った。事務室には一人だけいたようだ。青い服を着て、腕を頭の後ろに組んで、椅子に反り返っていた。他の者たちはどうしたのだろう? 事務室にいたのは団長ではなかったろうか。だが、これまで全然姿を見せていなかった団長がどうして? 私はちょうど手を洗いたかったので、事務室の隅にある流しへ出て行った。事務室に残っていたのは寺田だった。私が出て行くと、彼女はストーブの前でぎこちなさそうにしていた。私は何も話しかけないで帰った。それからしばらくして、もうそろそろ寝ようと思い、歯ブラシを口へ突っ込み、もう一度出て行った。彼女はまだ事務室に残っていた。彼女は一度私を見上げ、それからまたうつむいた。歯を磨き終り、そのまま帰って来ようとすると、彼女のほうから話しかけてきた。
「顔を洗うなら、お湯が少しある」
 と言ったのだが、初め、大阪弁で言われたので聞きとれなかった。
「みんなはどうしたの?」
「みんなは今晩泊まらないらしい‥‥、ひっそりしてしまって」
 彼女は少し顔を赤らめていたようである。だがそれはストーブのせいだったかもしれない。
 ベッドに入り、いまの女の子のことや、昼間、私にえらい待遇をしてくれた女たちのことを考えているうちに眠ってしまった。

 翌朝、目が覚めてまもなく、ドアがノックされた。ドアを開けてみると寺田だった。
「何か食べるなら、パンを焼いたのがあります」
 私は不思議な気持になり、
「いや、いいです」と答えた。
 前日のことが重々しく思い起こされた。新しく入った劇団員の日課は、午前は体操、午後は人形操作ということになっていた。しかし、前日のことを考えると、このまま何事もなかったように稽古場へ降りて行く気にはなれなかった。
「団長さんは今いますか? 少し話したいことがあるんですけど」
 私は体操を指導することになっていた女に取次ぎを頼んだ。が、女はまともな返事をしなかった。女の心の中で、何か異様なものが渦巻いているのが、女の顔からはっきり読みとれた。
 しばらくして、取り次いでくれたかどうかを確かめるため、稽古場へ降りて行った。彼女は新人の二人を前にして体操を始めようとしていた。新しく入った女たちはなぜかやめていき、二人だけになっていた。
「今すぐ会えないんですか?」
 私は鉛の中を進むような思いで、その女に近づきながらたずねた。女は私と正面から向き合うのを避け、言葉を濁し、会えないようなことを言った。そして、「伊東さんがまもなく帰って来るから」と言った。伊東さんというのは、面接に立ち会い、私を信じてくれた女性だった。
 私は自分の部屋へ戻った。窓辺に立ち、外を見つめていた。雨が冷たく降っていた。ドアがノックされた。伊東さんだった。心配そうな顔をして立っていた。劇団へ引っ越してから、それまで一度も彼女に会っていなかった。彼女は私の部屋へは入らず、隣の寺田の部屋へ私を通した。部屋の真中にある小さなこたつをはさんで座った。私は昨日のひどかったことを話した。彼女は変な顔をして聞いていた。私の言うことを信じなかった。
「この劇団に限ってそんなことはない。具体的な例を上げてほしい」
私は説明した。しかし、
「それはあんたの思い過ごしだ」
 と片づけられてしまった。こんな話のいつもの決りで、結びようがない。苦情を述べただけで終ってしまった。

 午後からの人形操作の稽古には加わった。伊東さんが指導にあたった。気まずかった。人形をあやつりながら、私の心は全然別なところをさまよっていた。
 昨日ひどく振舞った女たちの態度は妙に改まった。改まったといっても、心からではなく、鼻の先を少しばかりへし折られただけで、今にも爆発しそうな力を内にひめていた。伊東さんの心も不安定だった。私と接していると晴れるかに見えたが、離れるとたちまち陰気なものになっていった。
 夜8時頃だったろう、部屋にいると、一人の女がやって来て、ドアからおどけたように首を突き出し、
これこれやりに行かない?」
 そう言って酒を飲む格好をした。みんな一緒に出かけるらしい。私は断った。女は隣の寺田も誘っていた。寺田は行くことにしたらしい。女は再び私の部屋へ首を突っ込み、私を誘った。私は断った。
「宿題も出されていますから」
 私たちは明日までに物語を一つ書くよう課せられていた。すでに廊下に出ていた寺田が、
「じゃ、がんばってね」
 と言い残し、みんなと出て行った。寺田の言葉にだけは真心が感じられた。

 3月4日、木曜日、指導なしで日課の体操をした。十八、九の娘二人と、「イチ、ニィ、サン、シー」と手足を動かしている自分がおかしくなった。でもやっているうちに、お互いの心が少しばかり解け合った。
 午後、宿題の物語の発表をやらされた。私が最初だった。みんな心から笑ってくれた。それまで私を見るとき、伊東さんの顔にいつもつきまとっていた陰のようなものが消えた。
 ほとんどの劇団員が私をひどい目で見、気味悪がる中で、彼女だけはなんとかして私を信じようと努力していた。稽古が終り、階段を上がって行く彼女の後ろ姿を見送りながら、『前の会社にいた頃の日記を見せ、何もかも話してしまおうか』と考えることもあった。
 夕方、風呂へ行こうとして劇団を出、少し行ったところで、明日は千葉の職業安定所に出頭することになっていたのを思い出した。私はそのことをまだ告げていなかった。風呂から帰ってからでは、もう伊東さんは帰ってしまっているだろう。私は引き返した。
「伊東さん、明日、千葉の職安に行ってきますから」
 私は四、五メートル離れたところから、ぎこちなくそう言った。彼女は眼鏡の奥から冷たい視線を私に注ぎ、
「千葉? 千葉といっても、いっぱい駅があるでしょう? どこで降りるのか知っているんですか?」
「千葉駅です」
「ああ、知っているのね」
 このようなことを言う彼女を私は気の毒に思った。

 3月5日、金曜日、少し早めに起き、千葉市へ出かけた。劇団のどす黒く濁ってしまった空気から逃れ、新鮮な気持になった。わずかばかりの保険金を手にして帰った。それが最後のものであった。
 午後、劇団へ帰って来た。広い稽古場で寺田がたった独り、人形を頭の上に持ち上げて動かしていた。彼女は私を見るなり、ニタッと笑った。『留守中に何かあったな』と直感した。団長が出て来て何か話したのか。
 この夜、劇団には私と寺田の二人だけだった。彼女はかわいそうなほど緊張していた。私は夜遅くまで、先日の物語の書き直しをしていた。物語の中に遊びをどうしても二つ書き並べろというのだった。私は書いているうちに急にばかばかしくなり、それまで書きあげた原稿をガサガサかき集め、紙袋に押し込んだ。
「やめよう! 劇団をやめよう」
 胸がすーっと澄んでいった。こんなになるまでへばりついていた自分がおかしくなった。入団五日目であった。

 翌朝、劇団へみんなより早く出て来ていた幹部クラスの女(テープレコーダーに髪油をつけさせようとした女)に、
「私、やめさせていただきますから」
 と告げた。
「む」
 女はうなずいた。
「十日までに出ますから、それまでこちらの部屋をこのまま貸してくれませんか」
 女は肩の荷を下ろしたような軽い調子で私にたずねた。
「いつ決めたんですか、やめるのを」
「夕べ、いろいろ考えて」
 女は、『この人、本気あるかしら』というように私を見つめていた。
 この日一日、私は誰にも気を使わず、部屋でFM放送を聴きながら手紙を書いたり、荷物を整理したりしていた。私の心には、劇団員はみな、私から遠く離れた別世界の人間のように映った。
 この夜、食事に出ようとすると、事務室に残っていた女に呼び止められた。事務室には髪油の女と、伊東の二人が残っていた。髪油の女が私にたずねた。
「テープレコーダーを直してもらったけど、お金はかからなかったんですか」
「いえ、かかりませんでした」

 とても長くは耐えられない彼女らの視線にさらされ、私はぎこちなくそう答え、事務室のドアを閉めた。閉めぎわ、彼女らは顔を見合わせ、「うふっ」と笑った。
 暗い気持で食堂を探して、人通りの少ない暗い道を行くと、工場にしては小さい建物の外壁に「従業員急募」の粗末な看板が外灯の光でぼんやり見えた。SK電器製作所(仮名)といって、劇団からわずか数分のところであった。

 

              六 節

  昭和46年(1971年)

 翌日の3月7日、日曜日、さっそくそのSK電器製作所へ出かけた。日曜日なので、会社には社長だという背の高い、眼鏡をかけた五十歳位の男性と、もう一人若い男がいるだけだった。話は簡単にすみ、明日の月曜日から働くことになった。社長という人は、がらがらした声で、話すとき、口を少しとがらせる癖があった。彼は心に感じたことを胸にそっとしまっておくということができない種類の人間のようだった。しかし私にはそのほうがありがたかった。私は彼に、釜石製鉄所をやめるまでのいきさつを話した。
 作業場の二階に、空いている部屋があるから、そこを使うように言われた。そして、その日のうちに引っ越すことになった。荷物は会社の車で運んでくれるという。部屋を見に二階へ上がった。二階へは外の階段から上がるようになっていた。二階の入口は素通しのガラス戸だった。内側から鍵がかかっていた。社長はガラス戸を叩きながら誰かの名を呼んだ。そして笑いながら私に言った。
「女の子が独りでいるもんだから鍵をかけているんだ」
 廊下の奥の部屋から若い女が姿を現わし、近づいて来て戸を開けてくれた。
 六畳の清潔な部屋が三つあり、真中が私に当てられた。両隣には女の子が入っているという。一人は、いま戸を開けてくれた女。もう一人は現在、指を怪我して家へ帰っているという。
 私はその部屋が気にいった。部屋の入口の戸は二枚から成った引き戸で、戸には一枚物の厚いガラスがはまっていた。ガラスは下の方が磨りガラスになっていて、上にいくにつれ、しだいに透明になっていた。だからカーテンをかけないと部屋の中が丸見えだった。廊下の幅は一間もあり、それが心にゆとりを与えてくれた。廊下には流しが二つあり、その間には冷蔵庫が置いてあった。流しは明るく清潔で、その前の窓からは畑が見渡せた。
 劇団のすぐ近くに仕事が見つかったのはうれしかった。近くにいて、彼らに無言の抗議をしたかった。
 部屋を見た後、劇団へ戻った。日曜日なので三人しかいなかった。加藤君、寺田、それから名前も知らない女が一人。
 部屋に入ると、加藤君が部屋の真中で着替えをしていた。
「今日、部屋を出ますから」
 私は部屋へ入るなりそう告げた。
「そうでしたね」
 彼は口元を少しゆがめ、私を見ないでそう答えた。そして、
「また千葉の方へ帰るんですか?」と聞いた。
「いや‥‥、短い間いろいろお世話になりました」
 そう言って私は「ハッハッハ」と笑った。彼も笑った。私はずっとそれまで、彼の顔に仮面のような固いものを感じていたが、そのときの彼の笑いは、心の底から湧いたもののようだった。彼はすぐに部屋を出て行った。

 荷物を運んで降りて行くと、稽古場のストーブの前に彼ともう一人の女がいた。彼らは心の激しい動揺をありありと表情に表わしていた。二度目に私が降りて行くと男の姿はなく、女だけが残っていた。階段を降りて行く私に、彼女は歩み寄りながら問いかけた。
「今日すぐ出て行くんじゃないですよ、ねぇ」
「今日出ますよ」
 私はほほえみながら答えた。それきり彼女は二階へ上がり、部屋へ引っ込んでしまった。私が荷物を運び出すのを事務室から見守っていた寺田の姿も見えなくなった。
 私は荷物を運び終え、誰もいない事務室へ行き、今後の連絡先を紙片に書き残した。車を頼みにSK電器へ行った。社長の運転する車を劇団の前に横付けにし、荷物を積み込んだ。積み終ると社長は、
「何か言わなくていいのか?」
 そう言って劇団の方を見た。
「日曜日で誰もいませんから」
 そう答えながら私は、団長が隣の住まいからこっそりのぞいているのではないかと想像した。私が劇団にいた間、団長はとうとう一度も私の前に姿を現わさなかった。

 SK電器に着くと、私が「自分でやりますから」と言うのも聞かず、社長は私の荷物を運び上げるのを手伝ってくれた。
 運び上げた荷物を広い廊下で開き、整理していると、隣の女の子が、
「手伝ってやりますか」
 と言ってくれた。
「いや、いいです」
 段ボールの中に、ごちゃごちゃ詰め込まれたものは、格好のいいものばかりではなかった。
 彼女はほっそりした体つきで、よく均整がとれていた。化粧していない顔は知的なものを感じさせた。肌の色は白く透明感があった。
「隣にも女の子が入っていますの。まだ十九歳位ですよ。明日から帰って来ると言っていませんでした?」
 彼女は何かを気遣うようにたずねた。
「いえ、何も聞いていませんけど」
「わたし、もうすぐ出ますの。家へ帰るんです」
「結婚のため? 家へ帰るのは」
「いいえ、父が健康を害したんです。脳卒中、倒れたんですよ」
 私は他人の病気や不幸を聞かされても、同情や哀れみを言葉で言い表せない質である。
「二十三、四? 年令」
「わたし?」
「ええ」
「二十二です。もう少しで二十三になりますけど」
 彼女は年令を少し多く見られ、面白くなさそうだった。
「私十七年生まれ」
「十七年? じゃ二十九?」
「いや、二十八と少しです。私、少し変っているから若く見えるんです」
「そうね」
 彼女は私を見つめながらそう答えた。
「私、今日まですぐそこの人形劇団にいたんです。知っていますか、ちろりんていう劇団なんです」
「さぁ、わたし向こうの方へは出かけたことがありませんから。わたしここへ来て二年ほどになりますけど、あまり歩かないからこのあたりもよくわからないんです」
「劇団は続けていたかったんですけど、ひどい目にあってやめてきたんです。ここもいつまで続くかわかりませんよ」
「ひどい目にあって?」
「ええ、前の会社をけんかしてやめているので、その会社がずいぶんひどいことを言いふらしているらしいんです」
「けんかするんですか? ずいぶんおとなしそうに見えますけど」
 彼女はまじまじと私を見つめた。
「ふだんはおとなしいんですけど、やりだすと徹底的にやってしまいますから」
 こう言いながら、私は自分の言葉に少し恥かしさを感じた。
 彼女はここの部屋に住んでいるけど、勤め先はここではないという。化学会社で技術屋として働いているという。彼女が部屋へ戻ろうとしたとき、私は彼女の名前をまだ聞いていなかったことに気がついた。
「あの、お名前はなんていうんですか?」
「わたし? 荒井といいます」
「アライさん? 私、サワダテといいます」
「どうぞよろしく」
「よろしく」
 夕方、この近くに風呂はないかとたずねると、彼女は便箋と鉛筆を持ち出して来て、地図を書いて説明してくれた。彼女から教えてもらった風呂は私の気にいらなかった。狭くて暗い感じを受けた。この風呂は一度行っただけでやめ、その後は、少し遠いが、劇団にいた頃行っていた風呂へ行くことにした。そのためには劇団の前を通らねばならなかった。
 この晩、風呂から帰って来ると、荒井さんが部屋から出て来た。
「わかりました?」
「ええ、でも変な感じの風呂だったね。木の桶があったりして」
「あら、今でも普通、お風呂は木の桶を使っているんじゃないかしら」
 私たちは広い廊下の裸電球の下で、しばらく立ち話をした。
 この夜、この建物の中には、彼女と私の二人だけだった。それにもかかわらず、私たちはまるで、何か月もまえからの友達のように話をした。劇団でひどい目にあってきただけに、そこに話し合える人間がいたということは本当に救いであった。この晩、もし私独りだけだったら、どんなに恐ろしい孤独感を味わわねばならなかったろう。彼女は私がヘヤートニックを振りかけ、ごしごしやるのを興味深そうにながめていた。私は彼女の襟元からのぞいている彼女の胸の肌にどきっとした。

 二日目からは十九歳の娘も帰って来た。立派な体格をした娘さんだった。SK電器で一緒に働いている。
 三日目の晩がきた。それまでの荒井さんの様子から彼女の心はわかっていた。8時頃、廊下へ出ると、彼女は流しに向かって何か洗っていた。
「荒井さん、今晩部屋へ遊びに行っていい?」
 私はごく普通の調子で聞いた。
「え?」
 彼女は不審そうに私の方を振り向いた。
「今晩部屋へ行っていい?」
 私は彼女の部屋をあごでしゃくりながら言った。彼女はぶるぶるっと首を横に振り、
「会社の仕事が忙しくて頭が痛いですから」
 口早にそう答え、ちょうどそのとき他の部屋から出て来た十九歳の娘のほうへ、
「三田さん!」
 と呼びかけながら近づいて行った。そのとき彼女の白い頬が、ぽっと赤くなっていた。彼女は十九歳の娘に向かって、何か声高に話しかけていたが、私は聞いていなかった。断られたのがとても恥かしかった。急いで歯を磨き、部屋へ隠れた。ラジオの音量を大きくし、ふとんの上に転がった。私は、彼女が恥じらいながらうなずくものとばかり思っていたのである。
 しばらくの間、彼女は興奮した調子で十九歳の娘を相手に、何かどうでもいいようなことを話していた。
 彼女たちがそれぞれの部屋へ戻ってから、私は廊下へ出てみた。すると、私が部屋の前にぬいでおいた私のスリッパが履きやすいように揃えてあった。流しに放り出しておいた私のものがきれいに整えてあった。私はそれらをじっと見つめた。『荒井さんだな。口では否定したけど‥‥』しかし断られたことは事実であった。私は自分の部屋へ戻った。

 彼女は私にからかわれたと思ったのだろうか、翌朝、きげんが悪かった。出かけるとき、下駄箱をガタン、ガタンさせ、荒々しく出て行った。夕方、帰って来た彼女に、
「お帰りなさい」
 と声をかけたが、返事をしなかった。
 その翌日になって彼女のきげんが直った。夜10時頃、彼女は外へ出て行った。『こんなに遅くどこへ行ったのだろう? 風呂だろうか?』
 私は自分の部屋の戸を、隣の娘に気づかれないように静かに開けておいた。体がやっと通れるくらいの幅に。やがて荒井さんが外から帰って来て、私の部屋の前を通り過ぎた。私はすっと廊下へ出た。スリッパも履かずに。彼女は洗面道具を片づけていた。風呂へ行ってきたのだ。
「荒井さん、今晩いいでしょう?」
 私は数歩離れたところから、何か頼みごとでもするように話しかけた。彼女は一瞬、手の動きを止め、真剣な顔で私を睨んだ。が、やがて固くはあるが普通の調子で言った。
「何か話があるならここでしてください」
 私は視線を落とした。彼女は続けた。
「わたし、会社にいても、みんなとあまり話をしませんから」
「それじゃ私と同じじゃないですか」
 私は苦笑した。私たちはその場に立ちつくしていた。
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「どうも失礼しました」
 私は視線を彼女の顔まで上げることができず、途中で止め、そう言った。
「そんなことはかまいませんけど!」
 彼女は私の言葉におっかぶせるように答えた。私は屈辱に顔をゆがめ、戸の隙間から自分の部屋へすべり込んだ。彼女も部屋へ入り、シャッと勢いよくカーテンを引く音がした。
 こうして彼女と私は、ろくに口をきかなくなった。でも彼女がいくら怒っても、私にはそれが、まるで小さな女の子がぷりぷりしているようでおかしかった。ときにはかわいくさえあった。

 

                                            七 節

  昭和46年(1971年)

 SK電器は従業員二十人位で、ほとんどが近くに住む主婦たちであった。社長夫妻もみんなと一緒に働いていた。仕事はテレビやラジオの基板組立だった。基板に部品を差し込み、半田付けするのだった。私は流れ作業の終端で、部品が差し込まれた基板を半田槽で半田上げする作業をしていた。単調な作業をしながら、頭はいろいろなことを考えていた。これまでのこと、これからのこと。
 初めのうち、社長はとても丁寧だった。しかし、私はそれが途中でひっくり返るのを知っていたので、静かに見守っていた。それでも一週間ほどは何事もなかった。ただ社長は、どんなばかにでもできるような仕事を与えておいて、間違いやしまいかとびくびくして私の手元をのぞき込んだ。社長夫人がそばから、「大丈夫よ」と口をはさむほどだった。
 一週間を過ぎた頃から、社長の様子が変化しだした。ずいぶん下劣なことを頭に吹き込まれるらしく、彼の表情はしだいにだらけていった。
「おまえ、夜遅くまでごそごそしていたらだめだぞ」
 私は何のことかわからなかった。
「部屋で、ですか?」
「いや、外で、女‥‥」
 するとわきで聞いていた夫人が口をはさんだ。
「まだ、どこへ行ったらいいかもわかんないでしょう」
 あるおばさんは、私から劇団のことを聞き、
「女の子が多いと問題が起こりやすいでしょう」
 と、さも「よくあることだ」といわんばかりに言った。

 SK電器へ来て五日ほどすると、劇団から手紙が届いた。

 

  前略

 はがきが来ておりましたので、ここに同封いたします。そちらも近いようですので、又いつでも劇団のほうへ遊びにいらしてください。
 電気器具など、修理たくさんしていただきましたが、今度そちらへお願いする時もあるかもしれませんが、その節は又、よろしくお願いいたします。先ずは御連絡まで。
               鎌倉市岩瀬〇〇〇
                   劇団 ちろりん
3月10日

 

 同封されてきたはがきは、岩波書店からのものだった。何日かまえ、島崎敏樹氏の住所を教えてくれるようお願いしていたのである。

 劇団から手紙がきてから数日後の夜、風呂からの帰り、劇団近くにさしかかったとき、女か男かわからない人影が脇道からひょいと現われ、私の十歩ほど先を歩きだした。劇団の前まで来たとき、その影は歩みを止め、くるりと私の方へ向き直った。そして私が誰であるかを確かめようともせず、
「サワダテさん」
 と、優しい女の声で呼びかけた。劇団の「髪油の女」だった。私が近づくと彼女は数歩後ずさった。信頼と警戒が激しく彼女の顔を行き交った。彼女はいかにも女らしく、しとやかな声で言った。
「手紙がきています」
「はぁ、そうですか」
 私は狐につままれたような気持でそう答えた。彼女は稽古場の入口の方へ歩きだした。私は後について行った。
「ここで待っていてください」
 彼女は稽古場へ足を上げながらそう言い残し、二階へ上がって行った。ややしばらくして彼女は手紙を手にして降りて来た。タイム・ライフ社からのものだった。
「寄っていきませんか、みんなもそう言っていますから」
「いえ、いいです」
 小さく答え、私はそこを立ち去った。

 社長が私を呼ぶとき、初めのうちは「沢舘さん」だった。それが「沢舘くん」になり、「おまえ」になり、とうとう「おめぇ」になった。これはわずか二週間ばかりの間に起こった変化であった。
 社長は、私に会社の物品を持って夜逃げされるのではないかと恐れ、そのことをそれとなく私に注意することもあった。作業場の入口の戸は、木製から金属製に変えられた。
 社長は私につきまとっている、めでたい中傷を荒井さんに伝え、荒井さんからも私のことを聞き出したらしい。(だがこれは、ケイサツがさぐり、社長はそれを聞かされたものかもしれない)。
 社長は作業場で、物々しい調子で私を呼びつけた。
「おまえ、二階の女の子に何か言ったそうじゃないかっ! 男らしくないじゃないかっ!」
 みんなの前でまくしたてた。私は何も言わなかった。
 作業していると、社長が私のところへやって来た。
「おめぇ、興奮型だな」
 彼はそう言って、ひどい笑い方をした。
 朝、彼の面前へ行って挨拶しても、全く応えないこともあった。
 私につきまとっている中傷の最もめでたい部分が、一緒に働いているおばさん連中にも伝えられたらしい。彼女らの話はそのことで持ち切りになった。
「春‥‥頭がおかしくなる‥‥洗濯物‥‥パンティ‥‥盗み‥‥痴漢‥‥ヌード‥‥兄嫁を追いまわす‥‥ノイローゼ‥‥精神病院‥‥精神安定剤‥‥」

 荒井さんは私への中傷を聞かされたとき、びっくりしたのだろう、部屋へ帰らない夜もあった。帰って来ても私を避け、めったに顔を合わせようとしなかった。たとえ出会っても、彼女も私も何も言わなかった。
 しかし、このような状態は長くは続かなかった。十日ほどした頃から、彼女が私を避けることはなくなった。朝会えば挨拶を交すようになった。しかし彼女の心は依然として安定しないようであった。
 彼女がここを出る一週間位前から、彼女が私の心を引こうとしているのではないかと思われることがあった。しかし、私はもう心を動かされなくなっていた。一時的であれ、前の会社の振りまく病原菌におかされた人間には、もう用はなかった。ただ私は、彼女が私にからかわれたと考えているのではないかと心配した。
 彼女はここを3月28日に出ることになっていた。その前夜、私は彼女を喫茶店に誘い、ゆっくり話すつもりでいた。ところがその夜、7時頃から再び作業を手伝ってくれるよう頼まれた。昼の作業は5時に終った。夕食に出、買物をして帰って来ると、もう7時近かった。階段を上がり、廊下に入るなり、私はびっくりして立ち止まった。彼女が流しの前で、タオルで顔を覆い、泣きじゃくっていた。『私のせいだ!』私は直感した。彼女はすぐに部屋へ入った。どうしよう。何か言葉をかけてやりたかったが、時間はなかった。彼女の部屋の戸をノックする勇気はなかった。
 働いていても私は気が気でなかった。仕事が一刻も早く終ってくれることを願った。廊下ででもいいから言葉を交したかった。
 やっと仕事が終り、二階へ上がって顔を洗ったりしていたが彼女は出て来なかった。
 3月28日、彼女の引越の日であった。しかし午後になってもその様子がなかった。仕事が終って二階へ上がると、廊下で彼女と会った。「引越は今日じゃなかったんですか?」
「三十日に延ばしました」
 彼女はけろりとしていた。
「今晩、忙しくなかったら、お茶飲みに出かけない?」
 彼女を誘ったが、頭から断られた。しかし彼女はうれしそうだった。

 翌朝(29日)、3時頃目が覚めた。また眠ろうとしたが頭が冴えていた。夕べ早めに寝たせいだろう。起きてコーヒーを飲み、机に向かった。英会話の勉強をしているうちに夜が明けてきた。黄金色の朝日が大きな窓から部屋いっぱいに差し込んだ。窓に腰かけ、二度目のコーヒーを飲んでいると、かわいい小犬を連れた男の子が窓の下を通った。
 廊下へ出、顔を洗っていると、彼女の部屋の戸が開いた。出かけるのだ。私は黙っていた。彼女も何も言わず、私の背後を通り過ぎた。が、そのまま行ってしまわず、また引き返し、自分の部屋の前まで行き、戸に手をかけ、鍵が間違いなくかかっているかどうか確かめていた。
 顔を洗い終り、部屋へ戻ろうとすると、私の部屋の戸が少し開いていた。英語の辞書などが開かれたまま乱雑に置かれている机がのぞかれた。彼女はそれを見たろうか?
 その夜は、彼女の最後の晩だった。私たちは一度も顔を合わせなかった。夜遅く、ブランデーを飲みながら日記を書いていると、彼女が風呂から帰って来た音がした。テープレコーダーから、シューベルトの「ます」が静かに流れていた。
 30日、彼女の出発の日。昼休み時間、いつものように私は弁当を持って自分の部屋へ上がり、FM放送を聴きながら食べた。
 二階へ上がって来たとき、彼女は流しの前から私を睨むように見た。廊下には荷造りされた彼女の荷物が積まれてあった。彼女一人でやったのだろうか。かわいそうに思った。
 作業場へ降りるとき、彼女の部屋の前へ行き、彼女の名を呼んだ。
「荒井さん」
「なんですか」
 力のこもった声が返ってきた。やがて戸が少しだけ開けられ、そこから警戒するように彼女は顔だけ出した。だがそのことよりも、その時の彼女の表情がひどく私の自尊心を傷つけた。私は自分の名前と本籍地を書いた紙片を手にして言った。
「気が向いたら手紙書いてくれない?」
 私は彼女と後味の悪いまま別れるのは嫌だった。彼女は私の持っていた紙片に目を落とした。
「わたし手紙はめったに書きませんから」
「でもたまにはいいでしょう」
 そう言って私は笑った。彼女も笑った。警戒心でこわばっていた彼女の顔がさっと明るくなり、うれしそうな笑みが浮かんだ。私は無理には押しつけなかった。
「すみません」彼女は頭を下げた。
 午後、作業していると、彼女の荷物が運び出されるのが窓から見えた。仕事が終って、もう彼女はいないだろうと思いながら上がって行くと、流しで何かを洗っている彼女を見出した。
「今晩発つの?」
「はい」
 彼女は固い調子で、私の方は見ずに答えた。
「じゃ、お元気で」
 私はそう言った。私は彼女もこちらを向いて挨拶することを期待した。しかし彼女は、前と同じ調子、姿勢のまま、
「はい」
 と答えた。彼女は自分の部屋へ入った。私も自分の部屋へ入り、ラジオの音を大きくし、部屋の真中に仰向けに寝ころんだ。
 薄暗くなってきて電灯をつけた。私は風呂へ行くことに決めた。廊下へ出てみると、彼女は部屋のあかりもつけず、ひっそりしていた。私は自分の部屋のあかりはつけたままにして外へ出た。
 風呂から帰って来ると、もう彼女はいなかった。彼女の部屋のガラス戸からはカーテンが取り除かれていた。私は初めて彼女の部屋をガラス越しにながめた。廊下の電灯の加減で、奥の方は暗くてよく見えなかった。中へ入ってみようとしたが、戸には鍵がかかっていた。

 こんな生活をしていながら、私の心は何とうるおいに満ちていることだろう。(4月1日の日記)

 私のまわりの人間は、いったい何のために生きているのだろう。こんな生活のどこに生きがいを見出しているのだろう。食べているから生きているとしかみられない。(4月5日の日記)

 彼女が出た後の部屋には、翌々日、すぐに若い女が二人で入った。姉妹で、姉は大学を卒業したばかりで、小学校の先生としてこの地へ来、妹のほうはこの地の女子大に入学するという。これらは作業場でおばさんたちが話しているのを聞いて知ったことで、私はこの姉妹とはほとんど話をしなかった。朝、廊下で出会っても、彼女たちのほうから挨拶しないかぎり、私も黙っていた。妹のほうとは一度も挨拶も言葉も交さずに終った。
 荒井さんが使っていたカーテンが、またその部屋のガラス戸にかけられた。荒井さんはここを出るとき、カーテンやスリッパを隣の娘にくれて行ったらしい。娘はそれを新しく入った姉妹に、
「買うまでの間、貸してあげます」
 そう言って渡していた。
 姉妹のぞんざいさ(特に姉のほう)を見るにつけ、しとやかだった荒井さんが懐かしかった。しかも荒井さんが使っていたカーテンやスリッパを姉妹が使っているのを見ると、しゃくにさわった。それらは私の心の中では荒井さんのものなのだ。
 姉妹がここへ来て五日目の晩、私が大きな紙袋を抱えて買物から帰って来ると、彼女らが流しの上に何か取り付けていた。このとき初めて彼女らとまともに顔を合わせた。私が近づくと妹は姉の陰に隠れた。姉が私に挨拶した。
「ここに住むことになりましたからよろしく」
「あ、よろしく」
 私はちょっと笑って答えた。
 彼女らのすぐわきにある冷蔵庫の上に袋を置き、冷蔵庫に入れるものと、そうでないものとに分け、部屋に戻った。

 この姉妹はここに入った当初から様子が変だった。日曜日の朝など、彼女らは正午近くまで雨戸を閉めきり、物音ひとつさせないで静まり返っていることがあった。私が物音をたてないかぎり、まわりはシーンと静まり返っていた。これでも隣の閉めきった暗い部屋には、若い姉妹がいるのだと思うと気味悪くさえなった。いったい何をしているのだろう。全身を耳にしてこちらをうかがっているのだろうか。こんなとき私は、ラジオをがんがん鳴らすか、外へ出るかのどちらかだった。
 ある日曜日の朝も、しばらくの間物音がしなかった。私が廊下へ出ようとすると、ちょうど隣の部屋の戸も開き、妹のほうが廊下へ片足を踏み出したところだった。私と同時に部屋を出たのを知ると、彼女はあわてて部屋の中へ引っ込んだ。私はおかしくなって流しの前で声をたてずに笑っていた。彼女はすぐに出て来た。笑っている私を見ていたようだ。
 一方、別の部屋の娘の部屋に、時々若い男が来て泊まっていくようになった。初めびっくりしたが、彼女の様子から、すぐにそれは、ケイサツ、社長らが私を刺激し、反応を見るために行なった芝居であることを知った。

 SK電器で働き始めて一ヵ月ほどした頃、これ以上ここにいるのは精神衛生上よくないのを感じた。4月9日、やめることにした。仕事が終ったとき、社長がいなかったので夫人に、近いうちにやめることを告げた。夫人は「うん」とうなずいただけであった。
 翌日、社長と顔を合わせても、私は彼にはそのことを話さなかった。仕事が終り、上がろうとする私を社長が呼び止めた。
「そう簡単にやめてもらっては、うちとしても困るんだ。おまえが一生懸命やるというから‥‥」
 激しい怒りがこみ上げた。私は彼に最後まで言わせなかった。
「私一生懸命やりましたよ!」
 私は軽蔑の色を隠そうともせず、彼を睨みつけた。彼は急におとなしくなった。気がつくと彼は、私の目をまともに見ることができず、私の胸のあたりを見つめていた。
 4月12日、月曜日、社長夫妻と、もうこれ以上顔を合わせたくなかったので、他に部屋が見つかるまで仕事を休むことにした。直接社長に告げるべきであったが、もう口もききたくなかったので隣の娘に伝言を頼んだ。
 また仕事を失った。仕事を失うたびに、裸の真の人間に立ち戻るように感じた。

 SK電器での私の給与は全くひどいものだった。社長夫妻の態度は悪化するばかりであったが、おばさんたちのある者は私に好意さえ示すようになっていた。選挙が近づいたとき、おばさんの一人が私にたずねた。
「選挙権はあるの?」
「ない。まだ住民登録していないから。今は住所不定」
「住所不定だと、前科者と間違えられるよ。でも、ちゃんとしていれば、そのうちには‥‥」
 おばさんはそう言って言葉を切った。
 4月15日、風呂へ行こうとして作業場の前を通ると、社長に呼び止められた。
「おい、おまえいつ出るんだ。うちをやめてしまったからにはもう他人なんだ。早く出てくれよ。家賃をちゃんと払っているなら別だが」
「じゃ、やめた後の家賃は払いますから」
「いや、それでもだめだ、すぐ出てくれ」
「そんなこと人道的にいっても‥‥」
「何が人道的だ、ふざけんじゃねぇ!」
 私はしゃくにさわった。
「私がやめると言ったのは、社長さんの意志に従ったまでですよ」
 社長はさっと顔色を変え、じっと私を見据えていたが、突然、
「出て行けーっ!」と叫んだ。「今日すぐ出て行けーっ、とっとっと出て行けーっ!」

 

  4月17日 土曜日
 時々小雨が降ったが、昼近くから部屋探しに出かけた。
 この町にも嫌気がさしてきたので、電車に乗り、北鎌倉、鎌倉へ行ってみた。北鎌倉では部屋探しよりも、古いまちを詩的気分にしたって散歩した。
 細い坂道を登り、切通しを抜けて行くと、そこには心がおどるような風景があった。畑、花、木立、わらぶきの家、そして映画や、まんがに出てくるようなお堂。
 木々は若々しい緑を彷佛とさせている。雨がまた、しっとりとした気分にさせてくれる。すべてのものが緑がかって見えてくる。人通りの少ない道で出会う女生徒の顔も美しい。中学生ぐらいの女の子も、会うと目を伏せて行く。
 北鎌倉で、中学の修学旅行らしいバスが何台も連ねて通った。そのほとりを歩きながら見上げていると、一人の女の子が窓の内側から私に手を振った。私もあごをしゃくって応えた。なんてませた子だろう。

 部屋は北鎌倉駅のすぐ近くに見つかった。それから鎌倉まで歩いた。歩いて行くうちに海岸に出た。由比ヶ浜というらしい。しばらくぶりで見る海は懐かしかった。砂浜、打ち寄せる波‥‥。長靴を履いていたので、波打ちぎわへ行って水にさわってみた。
 しばらく海を眺めていた。さっきから波打ちぎわを走りまわっていた乗用車が、タイヤを砂にめり込ませ、動けなくなった。乗っていたのは若い男女だった。手伝いを求められた。こちらが、これから先、どうして生活していいかもわからないでいるのに、遊びに来ている二人の手伝いをさせられるのは面白くなかった。
 二人ともおとなしい、素直そうな若者だった。女のほうとも少し話をした。
感じがよかった。彼女は、彼を前にしながら、私に心を動かしたようだった。

 

              八 節


  昭和46年(1971年)

 4月19日、北鎌倉に引っ越した。SK電器を追い立てられていた私は、部屋を選択している余裕はなかった。
 山のすそを削り取って、そこに建てられた家で、私の部屋は一階の奥で、じめじめして穴倉のように暗かった。昼でも電灯をつけないと本が読めなかった。窓は一つあったが、そのすぐ前には石塀が立ち、その向こうには山の上の神社に通じる急な石階段があった。階段のわきには大きな桜の木が立っていて、空はほとんど見ることはできなかった。
 手の平ほどもある大きなクモが、ガサガサ音をたてて壁紙の上を這い、ゴキブリは今にもかびが生えてきそうな畳の上を走った。私はこの大きなクモを見ると、輪ゴムを飛ばして殺していた。後で、このクモはゴキブリを退治する、良いクモだと知り、殺したことを後悔した。ゲジゲジに首をかじられたこともあった。
 この部屋のよかったことといえば、ばかみたいに静かなことと、部屋の前の急な石階段を、ミニスカートをはいた女の子が上って行くのを、窓からこっそりながめることができることだけだった。

 北鎌倉に住んでいた六か月ほどの間、私は就職活動をほとんどしなかった。やっても無駄なことを知っていたから。失業保険は切れていた。あとは預金を少しずつ下ろして生活するだけだった。
 私は身体にべっとりつきまとう汚物を払い落とす思いで、岩手から出て来た。だが汚物は迅速に私についてまわった。私の行く手は片っぱしからふさがれた。
「おれはそんな人間ではないっ!」そう叫んでも誰も信じてくれなかった。私を信じてくれのは自分自身だけだった。私がこれから生きていくためには、誰かに私を信じてもらい、それを足場に私を信じてくれる人の輪を少しずつ広げていくしかないと考えた。そして、就職した先に汚物が流れ込むのを防いでもらいたかった。もしこれができなかったら、国外へ逃れるしか生きる道はないと感じた。
 私を信じてもらう人間は、あるていど力を持っていなければならなかった。しかも、私の「頭がおかしい」という中傷を聞かされても、それに惑わされることなく、自分の目で私を見ることができる人でなければならなかった。そうなると、その人は精神科医でなければならなかった。私は島崎敏樹氏を選んだ。

 岩手にいた頃、私はよく彼の著書を読み、彼の人柄に心をひかれていた。釜石製鉄所にいて、最も苦しかったとき、ベートーヴェンの交響曲(特に第七番)が私に勇気を与え、彼の著書が私に安らぎを与えていた。彼になら私をわかってもらえると感じていた。
 北鎌倉へ移ってからは、彼への手紙の作成にかかった。一日も早く完成させたかった。日中、陰気な部屋にはいたくなかったので、鎌倉の図書館へ出かけて、そこで仕事をした。それは困難な仕事だった。会ったこともない人に、突然手紙を書いて、私を信じてもらうのだから。
 北鎌倉から鎌倉までは電車で一区間だが、私は運動をかねて歩いて通った。十日ほどで手紙は完成した。便箋に小さな文字で、47枚になった。
 手紙が完成に近づいた頃、私は自分がこれからとろうとしている行為が滑稽なもののように思えてくることがあった。彼にもそのように受け取られそうな気がした。私は暗い気持に落ち込んだ。しかし、とにかく完成させておこうと書き続けた。
 この問題は別の方法で解決すべきではないのか。私が彼を頼るのは、鷹に追われた小鳥が小さな穴に逃げ込むのと同じではないか。鷹は外で見張っている。

 5月4日、手紙を郵送した。
 次はその手紙の一部である。

 

 私がこのようなことを話せば、先生はきっと私が被害妄想におちいっているものとお考えになるかもしれません。私もそのほうがありがたいくらいです。しかし、病的な思いすごしを経験している私には、正常な推測と病的な妄想の区別がつくように感じています。
 現在また失業の状態にあります。それだけでも苦しいことですが、もし私がどこかへ出かけて行ったとしても、どこでも相手にしてくれないことを考えると恐ろしくなります。社会から断絶された状態で、独りで部屋にいると、いまにも気が狂ってしまいそうになり、外へ飛び出すこともあります。
 このような状態から一日も早く抜け出したいと思います。どうか先生のお力をお貸ししてくださるようお願い致します。
 これは余計なことかもしれませんが、経済的な面では絶対に御迷惑をおかけするようなことは致しません。

 

 四日後の5月8日、彼からの返事を受け取った。

 

 御返事
 お届けの書類拝見させていただきました。長い年月にわたってさまざま苦労されておいでの由大変な御心労だったことと思います。私の感ずるところでは、しかしその心労の最深の理由は、やはり御自分の性分にあると思われます。世間というものは何ほどか残酷で何ほどか冷たいものですが、ある特定の人を名ざして、その人だけを射るという機能はそなえていないのです。その世間の中で御自分だけが特にマークされていると感じられている以上、御自分の性分にまわりへの非常につよい期待と傷つきやすさとがあるせいではあるまいかと愚考します。私自身は何年も以前、精神科の臨床を去って、現場の仕事をもうしていないので、前にかかられた病院の先生のような役はできかねますが、どこか病院を訪ねてごらんになるのも一法かもしれません。
 このような次第で、私自身はお役に立つ身ではないため、失礼させていただきますがよろしく御理解ください。
 お送りの書類、同封してお返し申しあげます。
 右取急ぎ御返事まで。
                    早々
 もっとおおらかに世の人々とつきあわれるよう切望いたします。

 

 私はこの返事を読んで、おや?と思った。私の意図が先生に伝わらなかったのだ。私は彼に診察、治療をお願いしたのではなかった。しかし私の手紙を読み返してみると、中傷を絶ち切ってほしいとか、就職を斡旋してほしい、といったことは書かれていなかった。彼がこのような返事をくれたのも無理はない。『失敗したな』と思った。
 私はすぐに返事を書いた。

 

 書類をお返ししてくださりありがとうございました。
 私、先生を医師として御助力をお願いするつもりはありませんでした。先生が私の手紙をお読みし、私を信用していただけたら、どこか先生のお知りのところへ就職させていただき、そして、前の会社から中傷が伝えられても、新しい就職先がそれらに振りまわされないように、先生のお力であらかじめとりはからっていただきたかったのです。(でも、それらの中傷も私の感じの上だけのことで、事実としてはつかんでいませんので、ただの妄想にすぎないかもしれませんが)。
 私のために先生にご迷惑をおかけし、不愉快なお思いをお与えしましたことを深くお詫び致します。

 

 鎌倉の図書館に通っていたある日、鎌倉駅のすぐ近くで、中年のがっちりした男に呼び止められた。私はその男の瞳の奥に激しい怒りがチロチロ燃えているのを感じとった。
「八幡宮はどっち?」
 男はどもりがちの低い声でたずねた。
「鶴ケ岡ですか?」
「うー」
「それは駅の向こう側ですよ。そこを左へ入れば地下道があり、そこを通れば駅の向こう側へ出られます、そしたら、ずっと左へ行けばいいです」
 男は、そんなことはわかっている、といった表情で、私の言うことには注意していなかった。
「おいっ!」
 彼は、さっきから怯えたように少し離れたところに佇んでいた婦人に呼びかけた。婦人は私の前を首をすくめ、すり抜けるようにして彼の後に従った。
 私は嫌なものを見たような気持になった。それはまるで、私が何も悪いことをしないのを怒った刑事が、妻を同伴して私を見に来たかのようだった。
 図書館では、学生らしい男が私を見てはよくニタニタ笑った。ぶんなぐってやりたくなることもあった。

 4月30日、劇団ちろりんに手紙を書いた。

 

 前 略
 もうお忘れになったかもしれませんが、私、昭和46年3月6日、貴劇団をやめさせていただいた沢舘衛という者です。「やめさせていただいた」というよりは、貴劇団において、先輩の方々の、私に対する態度に耐え切れず、逃げ出したといったほうが真実に近いようですが。
 私はこれまで、私が以前勤めていた会社の「人間」たちが発する、ばかげた中傷によって就職を妨げられ、またもし就職できても、そこで人間扱いされず、どこも一週間位で飛び出してきました。これからも同じことでしょう。しかし私は、これからまた同じことを繰り返すには少々疲れてしまいました。それにいつまでもこんなばかみたいなことを続けていたいとも思いません。このへんで中傷を絶ち切りたいと思います。
 私に関する中傷が、貴劇団に伝えられていたことは、皆さんの当時の様子から間違いないことです。そこで、もし今後の私のためを思ってくださるのなら、次の二つのことがらについてお答えくださるようお願いいたします。

 一、貴劇団に伝えられた、私に関する中傷の内容。
 二、その中傷が貴劇団に伝えられた経路。

 私には中傷の内容も、それらが伝わった経路も想像できますが、事実として知りたいので、できるだけ詳しく教えてください。
                       沢 舘 

 
  劇団ちろりん様

 

 私はこれからの見通しが全くつかなかったが、それでも悲観的にはならなかった。私は自分自身を信じていたから。
 スケッチブックとクレパスを持って、毎日のようにスケッチに出かけていた。部屋へ帰ってからは英会話の学習をしていた。
 この頃の私のスケッチは、どんどん省略されていき、これまでに経験したことのない境地に入っていくのを感じた。

 


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