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  第二編

     第三章 たたかいの開始

一節 (鎌倉市人権擁護委員会) (鎌倉市人権擁護委員会-2回目)   二節 (よう子ちゃん)   三節 (大船へ)   四節   五節 (横浜弁護士会)   六節 (大船警察署)  (鎌倉市人権擁護委員会を名誉毀損で告訴)   

 

         一 節

  昭和46年(1971年)

  5月15日 土曜日
 スケッチブックを持って鎌倉市役所の前を通ったとき、玄関に「人権相談」の大きな看板が立てかけてあるのに気がついた。「人権」の二文字が私の目に飛び込んできた。
 鎌倉市人権擁護委員会が主催するもので、「毎月第三土曜日 午後1時〜4時」とあった。時計を見ると、正午を過ぎたばかりだった。図書館へ入り、少し考えた。来月のこの日まで待とうか? だが、その一か月はあまりにも長い。今日行こうと決心し、いったん住まいへ戻り、着替えをして出かけ直した。

 人権擁護委員は私の言うことを全く信じなかった。
「警察がそんなことをしていたら、今の倍あっても間に合わない」
 と言い、私が共産党のことを話したときも、
「今の世の中に、共産党員だからといって、そんなにひどい迫害を受けるなんて信じられない」と言った。
「党員だったからひどい目にあっているのではない。そのことから発生した、上司、会社との感情のもつれだ」
 私は繰り返し説明したが、彼らはもうそのことは決してわかろうとはしなかった。
 彼らは私が被害妄想におちいっていると考えたらしい。彼らの一人は、まるで精神科医が患者を観察するときのようなまなざしで私を見つめた。そのあげく私にたずねた。
「では、私たちにどうしてほしいの?」
 私の言うことを全然信じない彼らに、私は現在も劇団に手紙を二度も書き、中傷のあった事実を確かめようとしているが返事をくれない。人権擁護委員会のほうで確かめてほしいと頼んだ。
「自分で行ってみたらどうだ」と言っていたが、とにかく確かめてくれるということだった。一か月後の相談日にまた来るように言われた。

 人権相談へ行った翌々日、劇団から、乱暴な字で書かれた手紙が届いた。

 

 毎日お元気でいらっしゃいますか。さて御手紙拝見いたしましたが、あなたのおっしゃるような中傷などというものは全くございませんでした。どうぞ御心配なく。
 貴方様あての御手紙が来ていますので同封します。
                           伊 東

一ヵ月後の人権相談

 人権擁護委員会を訪ねた次の日の夜、近所に泥棒が入ったといって大騒ぎがあった。
 外で大声や、走りまわる音がするので窓を開けて見た。石階段の上から、警官の持つライトが私の顔を照らした。その警官は私から顔をそむけ、いやな笑い方をした。そのわきで、隣の旅館の、威勢のいいおばさんが歯をむき出し、私に向かって何かわめいていた。やがて若い警官がやって来た。
「怪しい男を見かけなかったか? 長い髪をしていたとか、白いシャツを着ていたとか」
 それは私の身なりと同じではないか。
「さっき部屋の外で、ガサガサ音がしていたが、ネコかもしれない」
 私はそう答えた。が、すぐに『デッチあげではないだろうか?』と考えた。そのうち出頭を命ぜられるかもしれない。
 (この後、何年かして、私を迫害している者たちの性格・手口が見えてきたとき、これは、私が人権擁護委員会を訪ねたことに対する、彼らの報復だったのだと理解できた)。

 泥棒騒ぎが起こるまえから、近所の人たちの一部や、同じ家に住む者たちは、私をひどい目で見ていた。私の上の部屋に住む若い男などは、夜、二階の窓からおしっこをすることもあった。二階の窓が開く音がし、少し間があり、やがてバチバチと、窓の下に液体が落ちてはねる音がする。時々それが窓のひさしにひっかかり、パラパラと音に変化を与えた。聞くところのよると、彼は小学校の先生なそうだ。
 泥棒事件から一週間ほどたったある日(5月23日)、私がゴミを捨てに外へ出ると、五十歳位の警官が一人、部屋の前の石階段の上でうろうろしていた。私の部屋を覗いていたのか? 警官は私をじっと見つめた。私も睨み返した。警官は何も言わず、私の目の前を帰って行った。遊んでいた子供たちが、
「おまわりさんだっ!」
「手を上げろ!」
「拳銃だ」
 そう叫びながら彼にまつわりついたが、彼はそれには目もくれずに立ち去った。警官が行ってしまうと、すぐ隣の旅館のおばさんが、そーっと出て来て、
「こーんにちはー」
 気持の悪い笑いを浮かべて私の顔を覗き込んだ。ぞっとした。

 私の部屋の隣には、丹羽という新婚夫婦が入っていた。ある夜、私が部屋にいると、丹羽夫人が、うわずった声で私を呼んだ。
「沢舘さーん、沢舘さーん」
 何事かと部屋を出ると、彼女はもう自分の部屋へ隠れていて、そのドアの陰から彼女の声が聞こえてきた。
「駐在さんが、駐在さんが」
 玄関を見ると、なるほど少し太った中年の警官がどっかり腰を下ろしていた。玄関の上には丹羽君がしゃがんでいた。
 警官は私の本籍、職業を調べに来たらしい。私が「無職だ」と答えると警官は、
「それじゃ困るだろう。生活費は‥‥」
 そう言って丹羽君と顔を見合わせ、にやにや笑った。しゃくにさわった。
「無職だというのがカッコ悪かったら、絵かきということにしていいです」
 だが、そう言ってしまってから、このことが、これから私の行く先々へ、私が絵かきになったといって得意になっているといって言いふらされることを考えると情けなくなった。
 部屋へ帰ろうとして立ち上がると、その警官は私の性器のあたりをじっと見つめていた。
 警官はその後も何度かやって来た。「電報」という小さな声がするので出て行くと、警官が立っており、私を見ると、「タハッ」と笑い、顔をそむけた。そしてたずねた。
「この家に住んでいる人員に変りはないか」

 私がここに移って数日すると、トイレの紙が四角のチリ紙から、ロールのトイレットペーパーに一時変った。ここに移ったとき、家主が、
「うちではトイレに紙を置きますから」
 と意味ありげに言ったのを思い出した。
 釜石製鉄所にいた頃、私は先輩を見習って、トイレットペーパーを作業場へ持って来て、いろいろなことに使っていた。もちろんトイレの中からではないが。
 その後、この部屋を追われ、大船へ引っ越したときも、もしやと思っていると同じことが起こった。
 日本国の警察が、国民から徴集した税金でおマンマ食いながら、こんなことを言いふらして歩いているのかと思うと、おかしくなった。

 5月11日、新宿の厚生年金会館へ、レニングラードバレーの公演「白鳥の湖」を観に行った。その一か月ほどまえ、前売り券を新宿駅ビルのプレイガイドで買っておいた。
 開幕時間に少し遅れた。会館前でタクシーを降りた。左右どちらから入るのかわからなかった。右側のガラスの内側に、紳士が五、六人、じーっと私を見つめて立っていた。私はなぜか、その方に吸い付けられるように歩みだした。そこが入口だと思ったのだろうか? 依然として紳士たちの視線は私に注がれたままだった。私は冷凍室へ入っていくような心地がした。扉の近くまで来たとき、紳士の一人が、冷たい視線を私に注いだまま、反対側へ行けというように片手を上げて合図した。彼らから浴びせられた視線を拭い去るような思いでそこを離れた。
 入口には、普通の劇場のように、券を受け取る小さなカウンターがあった。若い女が座っていた。その後ろやわきには男女数人が立っていた。座っていた女が、私の差し出した券の半分を切り取り、私の顔を穴のあくほど見つめながら言った。
「もう始まっていますから、席を探すようなことはしないように」
 その語気の冷たさと、そのときの女の表情は、私にはとうてい書き表すことはできない。この晩、私はバレーを全然楽しめなかった。新宿駅ビルのプレイガイドには、その後も何度か行った。しかし、最初にこのバレーの券を買うとき、そこの若い女たちが、「この席がいい」、「いや、こっちがいい」と言って、席を選ぶのを助けてくれたのだが、二度目からは様子がすっかり変った。私が行くと彼女らはカウンターからずっと後方へ離れ、そこから私を凝視した。そしていつのまにか姿を消すのだった。男が相手をしてくれたが、それも胸をかきむしりたくなるような応対だった。

 

  5月29日 土曜日
 浦賀造船所へ、クレーンの運転工として応募し、面接に行った。
 頭の禿げかかった人事係のおやじさんが、私と長いこと話した末、
「はっきり言うけど、あんたはこういうところで汗水流して働く人間ではない。でも、どうしてもと言うなら」
 そう言って適性検査を受けさせてくれた。
 適性検査が終ったところへ、女の事務員が紙とボールペンを持って来て、私にもう一度、本籍地を書けという。私は履歴書に本籍地を俗称で書いておいたのである。『もうケイサツが来ているのか!』私はあきれながら、本籍地を俗称と正式の二通り書き、
「この二つの番地は、同じ場所を表わすから」
 と言って渡した。検査が終って事務所へ戻って来ると、さっき面接をしたおやじさんが、心配そうに私を見つめていた。
 数日後、不採用の通知があった。

 最初に人権擁護委員会を訪ねてから一か月たち、また人権相談日がやってきた。再び訪ねるとき、私の心は重かった。
 まったく予想していたとおりだった。私が部屋に入ると、わきで控えていた市役所の女だろう、大げさな身振りで私の座る椅子を整えて引き下がった。最初と同じ男二人が私の相手をしてくれた。一人は六十歳位の老人で、もう一人は五十歳近い男。
 彼らの前に座ったが、彼らは私に何も話しかけなかった。まるで恐ろしいものを目の前にしたかのように、頭を後ろへのけぞらせ、目を細めて私を睨んでいた。やがて、
悪いことをしていれば、こんなところへ来るはずはないのだが」とか、
「自分以外の人間は、みなばかに見えるのかもしれない」
 などとささやきあった。わきで控えている者たちの視線も私に注がれていた。ゴヤが生きていたら、喜んで絵にするような場景であった。一人がやっと私に向かって口を開いた。
「おまえの来るのが遅いから、おれたちはみな、もう早退しようとしていたところだ」
 それからはもう、
「ノイローゼだ」
「憂うつ症だ」
いなかへ帰って、ぶらぶらしていたほうがいいんだ」
「絵を描くのをやめろ。恋人はいるのか? ううん? それでもつくることを考えたほうがいいんだ」
「何か趣味はないのか? 何か見つけてやれ」
「人と話をしなければだめだ」
「北鎌倉にいるなら、近くにお寺があるだろう? 行って座禅でも組んでみたらどうだ」
 さらに例えばということで、「人を殺した」という言葉まで飛び出した。
 彼らの一人は、震える指でたばこを持っていたが、とうとう最後まで火をつけなかった。
「おまえ、風呂へ行けば、にやにや笑われると言ったな?」
 そう言い、「あたりまえじゃないか!」といった顔つきで私を見た。
 こんなことを言っておきながら、私の言うことはすべて思い過ごしだと言った。私は例をあげ、劇団では女たちにひどい目にあった、と言った。すると若いほうの男が低い声で言った。
「ああ、おまえに何されるかわからねぇからな」
 『この野郎!』と思ったが、私は何も言えずうつむいてしまった。
おめぇ、一生、棒に振ってしまうようになるかもわかんねぇぞ
 彼は何度もそう言った。

「言葉」集 へ戻る

 こうなるともう、人権擁護委員会ではなく、犯罪擁護委員会である。こんな委員会だったら解散してしまったほうがいいだろうと思いながらそこを出た。
 市役所を出ると、見るからに心の汚さそうな男が、残念そうなしかめ面をして、私の斜め後ろから近づいて来た。私はそんなのは気にしないで歩いて行った。
 私は鉄井堂という画材店に入り、画材を少し買った。店の主人とその夫人がいろいろ私に話しかけた。不思議なことに、彼らは私のことをあるていど知っているようだった。彼らは私に、画材関係の仕事を紹介してくれるからといって、私の名前や住所を書かせた。しかしその後、店に行くと、彼らはもうその話に触れるのを避けた。私はその店へ行くのをやめた。その後、道で彼らに出会うことがあった。そんなとき彼らは、いかにも心配そうに私を見ていた。

 

  6月25日 金曜日
 ある会社(東京)で臨時社員を募集しているのを見て出かけた。しかし、間に合いそうもなかったので、その会社は訪ねなかった。映画でも見て帰ろうと思い、有楽町の映画館街へ行った。ひどく気持が滅入っていた。
 日生劇場で「オンディーヌ」という演劇を上演しているのに気がついた。6時の開演まで、二時間ほどあった。日比谷公園へ行ってハトの群を見て時間を過ごした。やっぱり気持は暗い。持っていた小さいスケッチブックを取り出して、女の子たちをスケッチしていたら、いくらか楽になった。
 食堂で夕食をすませ、劇場へ入った。1800円の席。劇の内容はとても良かった。救われたように感じた。これこそカタルシスだ。水の精オンディーヌ、私と同じ性格の持主。私はとても勇気づけられた。
 私の席の両隣は若い女だった。右側は、母親と一緒の十代半ばの少女。セーターを着ていた。胸のふくらみがとてもかわいかった。

  7月17日 土曜日
 仕事を持たない日が一年以上も続くと、人間の考えも変るものだ。これは私の貴重な経験である。何が人間の生きがいか? 
 これまでの私の半生を、文章にまとめようという気持が、ずっと以前から続いている。

  7月21日 水曜日
 夜中、目が覚めたとき、恐ろしいほど孤独だった。
 遠い先祖から、お互いの生涯のある時間を共に生きながら、次々と生命が受け継がれ、存在してきた家族。私が知っているのは私の親だけ。それ以前の者は知らない。その未知なる線上のある一部に、今、私がいる。このことが、私にはどうということなく、ただ恐ろしかった。この恐ろしさに包まれ、朝までうつら、うつらしていた。

 

              二 節

  昭和46年(1971年)

 近所に住む、六歳になるよう子ちゃんという子が、よく私のところへ遊びに来た。窓から顔をのぞかせ、「おじさん、あそんで」と言って来る。ときにはクボタくんという彼女の友達を連れて来ることもあった。
 汚れのない子供の心だけが、私をありのままの姿で受け入れてくれる。汚れのない子供の心と私の心が響きあう。
 よう子ちゃんは毎日のようにやって来た。カセットレコーダーに向かって歌をうたったり、絵を描いたり、ときには友達を数人連れて来て大暴れして行くこともあった。私は彼女に質の良さを感じた。将来、頭の良い女の子になるだろうと思った。彼女はまだ六歳だというのに、ずいぶんませたことを言った。
「おじさん、誰かに聞かれたら、わたしおじさんの子供だってことにしようか」
「いやだよ、ぼくの子供はもっとかわいいよ」
 私はそう言ってしまってから、相手がいくら子供でも、よくないことを言ったかなと後悔した。
 またある日、私の部屋へ入って来るなり彼女は言った。
「おじさん、キスしたことある? わたしおじさん大好き。優しくてハンサムで、おまわりさんみたい」
「よう子ちゃん、おまわりさん好き?」
「うん」
「ぼくは大嫌い」
「あらどうして? おまわりさんは泥棒をつかまえて‥‥」
「だっておまわりさんは、悪いことをしない、いい人もいじめるよ」
 そう言うと彼女は少し考えた後、おまわりを取り消し、パイロットにした。
 彼女は私をお婿さんにするんだと言ってがんばっていた。彼女はそのことを彼女の母親にも話したという。
「よう子がお嫁に行く頃には、あのおじさん、おじいさんになっているよ」
 と言われたという

 8月に入ってから、姿を見せていなかったよう子ちゃんが、3日の日、窓から顔をのぞかせた。
「あら、よう子ちゃん、しばらく。どこかへお嫁さんに行ってしまったのではないかと思ってたよ」
「ちがうの」
 彼女は恥かしそうにわきを向き、小さな声で答えた。この幼い女の子が、私を異性として見ているのを感じ、おかしくなった。
 以前は無邪気そうに、私をお婿さんにするんだと言っていたが、しだいにそれを口にしなくなった。自分がまだ子供なのを残念に思っているようだった。私の部屋へ入って来た彼女が、まじめな顔で言った。
「わたし、おとなよ」
「ほんと? だってオッパイないんじゃない、どれ‥‥、そらやっぱりない」
 私はよう子ちゃんの胸をなでながら言った。彼女は寂しそうに笑った。

 彼女はよく私を蝉とりに引っぱり出した。ある日、彼女とクボタくんを連れて山道を歩いていると、道端の藪の中から、「チーッ、チーッ」という鋭い鳴き声が聞こえてきた。不思議に思って藪の中を見透かすと、地上一メートル位の高さの、こみ入った枝の中に、びっくりするほど太い蛇の胴体が見えた。蛇がネズミを飲み込もうとしているところだった。ネズミは後ろから体のほとんどを飲み込まれ、頭だけ蛇の口からだし、叫んでいた。気持悪さや、蛇への憎しみ、ネズミへの同情といったことよりも、その自然の成りゆきのものすごさに心を打たれた。
 ところが、後からそこを通りかかった男が、棒でその蛇を道へ放り出し、叩き殺してしまった。ネズミは蛇の口から吐き出され。首のあたりから血を流してのたうちまわった。蛇は頭を打ち砕かれ、そのばかでかい胴体をあっけなく横たえてしまった。よう子ちゃん、私の手にしがみついてきた。
 観察しようともせず、またたくうちに蛇を打ち殺してしまったその男を憎く思った。(もしかすると、この男、私を尾行していたのではないのか)。

 このよう子ちゃんが突然姿を見せなくなった。私が彼女の家の門の前を通ろうとすると、彼女の母親が私をじっと見つめ、私が近づくとあわてて門の中へ姿を消した。
 8月15日、日曜日、よう子ちゃんが父親と一緒に歩いているのに出会った。いつもなら、「おじさんどこへ行くの」と言って走り寄って来るはずの彼女が、父親の陰にこそこそ隠れた。異様な空気が漂った。
「子供がいつもお世話になって」
 彼女の父親が笑いながら言った。
「どういたしまして」
 私も笑いながら答えた。

 9月に入り、家主から部屋を出るようにせまられた。家主の顔を見ると、私についてどんなに下劣なことを聞かされているか、容易に想像できた。部屋を出てもらう理由は、この家を人に売り渡す。そして、私のいる部屋を最初に空けなければならないということだった。
 家主に追い立てられるまでもなく、こんな穴倉のような部屋は一日も早く出たいと思っていた。私は家主にケイサツのことを話し、家主がケイサツから聞かされたことを、私に教えてくれるよう頼んだ。すると彼は顔を赤らめて下を向き、手の平を額へ持っていき、私から顔を隠した。そして、聞かれもしないのに、私に弁解した。
「私があんたを追い立てるのは、何もそのためではない」
 その後も彼は、何度か私を追い立てにやって来た。でも時には私に同情を示すこともあった。
「行く先々へそうされたんでは、かわいそうだね。もっと悪いことをしていても、そんなにはひどくされないのに」
 だが一体、私は何をしたというのだろう。
「引越するのにお金が入り用だったら、敷金のほかにいくらか出してやってもいいですよ‥‥、そう、一万円出しますよ」
 私はそれには答えず、うす汚れた畳の面を見つめていた。どうして私は行く先々で、こう人間の醜い面ばかり見せつけられるのだろう。
「すぐに出るなら二万円だしますよ。でも‥‥今月中に出るなら一万円出しますよ」
「お金は困らないくらいありますよ!」
 私は吐き捨てるように言った。
「い、いや、そんなことじゃなく‥‥」
 しかし、どうせここを出るなら、9月中に出て、家主の言う一万円が欲しくなった。
 不動産屋をあちこち訪ねたが、すでにどこにも手がまわっているのを感じた。やっと部屋が見つかったのは、翌月の2日だった。夕方、横浜にいる家主に電話した。
 その翌日(3日)の夜、家主が私のところへやって来た。その夜、私は部屋のドアを開け放していた。すると、ドアの外の暗闇で何かが動く気配がした。はっとしてその方を見ると、人影がドアの陰に隠れた。ぞっとして恐る恐る首を伸ばすと、家主が卑屈な笑いを浮かべながら現れた。部屋に入り、ドアのすぐ近くに座った。ねちねちと言い訳をしたあげく、
「じゃ、これほんの少しですが」
 そう言って畳の上に千円札を何枚か置いた。私は手には取らず、目で数えた。三枚であった。笑いがこみ上げてくるのをどうすることもできなかった。

 

              三 節

  昭和46年(1971年)

 新しく借りた部屋は、大船駅から歩いて10分位のところで、普通の民家で、階下には家主が住んでいた。その二階には二部屋あり、私が借りたのはその一室であった。もう一室には学生らしい若い男が入っていた。ここへは10月4日、タクシーで引っ越した。
 この家に引っ越したとき、家主のおばさんに話した。
「そのうちこちらへ私のことでケイサツから来ますから、その時は伝えられたことを残らず教えてくれませんか」
 家主はびっくりして、
「あんた、何かしたの‥‥、ゲバ棒?」
 いろいろ話した末、家主は、
「悪いようにはしない」と言ってくれた。
 この家の部屋を最初に見たとき、私は、部屋は明るいし、まわりは静かで、これ以上は望めないと思った。
 ところが引っ越してから、すぐ隣の三菱電機の騒音にびっくりした。私がこの部屋を見に来た日は土曜日で、工場は休んでいたのだ。家の前にあまり広くない道と川があり、その向こうに三菱電機の塀があった。その塀の上から、直径が一メートル近い太いパイプが外に向けて出ていて、そのパイプから空気がすごい勢いで吐き出されていた。空気を揺るがすような低周波の騒音。昼も夜もぶっ続けに鳴る。夜眠って起きても頭の疲れはとれず、重かった。
 数週間すると頭痛がするようになった。その音から逃れ、外へ出ても、近くを車が通ると、その音が脳に響き、頭痛がした。天気のいい日は外へ出、騒音のない山の中へ入って過ごした。山の中でも場所によっては、町の騒音が一塊になって伝わってき、神経が休まらなかった。

 一日も早くここを出なければと思いながら、そこを追い出されるまで、一年間もいた。今考えても、よくがまんしたものだと感心する。まわりの人たちはどうかと見ると、誰も苦情を言わない。私の神経だけが騒音に弱いのだろうか。鎌倉市役所へ行って相談した。受付の坊主頭の若い男が、ニタニタしながら私の話を聞いた。
 係員がやって来て騒音を測定したが、「規定内だからがまんしろ」ということだった。
 土、日、工場が止まると、泣きだしたいほどうれしかった。

 私は何とかして、会社がケイサツを通して、ばかげた中傷をふりまいている事実をつかみたかった。私は家へ手紙を書き、会社から聞かされたことを残らず教えてくれるよう頼んだ。そして、現状を説明してやった。びっくりして父が岩手から飛んでやって来た。
 10月8日の午後、東京駅へ父を迎えに行った。ホームで、降りてくる人たちを見ていると、五十メートル位先で父が誰かと話しているのを見つけた。家にいた頃と少しも変っていなかった。私は近寄って肩を叩いた。父は振り返ったが、私のひげ面を見て、一瞬『これがそうだろうか?』と思ったようだった。
 私は一か月以上まえから、全然ひげを剃っていなかった。世の中のものすべてがばかばかしく見えてきて、自分のひげも剃る気がなくなっていた。

 翌日、10月9日、午前中、落ち着いて話をした。父と話をすればするほど、父や家族が、私を全くの無能力者と見なしていることがわかった。驚き、そして、家にいたときと同じ、激しい葛藤を感じた。家の者たちは口々に、
「何がなんでもいいから、あれを連れて帰って」とか、
「家へ連れ戻して、どこかにあまり立派でなくてもいいから、小さな小屋っこを建て、そこへあれを入れよう。食べる分は何とかなるだろう」と話しているという。
 私が初めて本心をぶちまけて書き送った手紙を見て、兄らが「どんな気持でこんなことを書いたのだろう」と話したとのこと。もう話にならない。
 私が彼らを、ずっと低いところに見ているのに、その彼らが私をさらに、はるか下方に見下ろしている。私の心の葛藤は手に負えないものになる。もし彼らの言うように家へ帰ったら、私の精神は破滅してしまう。「生ける屍」。しかし、彼らから見れば、それが最も私らしい像なのだ。

 私は家への手紙の中で次のようなことを書いておいた。
「私が会社にいた頃、会社は私に対してひどく悪らつなことをしているのです。しかも会社には何の関係もない私個人のことで。会社はそのことがバレないようにするためにも、私に悪人になってもらわねば困るのです」
 父は、これはどういうことかとただした。私は会社をやめて一年もした頃、あることに気がついていた。私が会社にいた頃、私が近づいた女たちが途中から急に態度を変え、離れていった。あれは間違いなく会社のしわざだと考えるようになっていた。「会社には何の関係もない私個人のことで」というのは、このことを指して書いたことであった。私はこのことを父に話した。だが父は、私が女に近づくこと自体、異常であると見なしているのを知り、もう二度とその話はしなかった。
 父はなんと低い次元から私を見ているのだろう。父だけでなく、多くの人間がそのような世界で生きているらしいことを考え、恐ろしくなった。
 父をはじめ家族は、私について会社からは何一つ聞かされていないと言った。父とこれ以上話しても無駄なことを知り、次の日は鎌倉をあちこち案内したが、別に楽しそうではなかった。
 父は、むかし私が家にいたときと同じように、私のことに異常なほどおせっかいをやいた。バスから降りるとき、先に降りる父が私の分まで料金を払う。私は知らないから自分の分を入れる。すると父が入れたと言う。そこで運転手といざこざが起こる。運転手は、「子供でないんだから、自分で入れればいいんだ」と怒る。食堂に入っても、買物をするにしても‥‥。私はもう泣き出したくなった。

 11日の早朝、父は帰った。私は上野駅まで送って行った。まる二日間、父と接した。父は私がふさぎこんで病人のようになっている姿を想像して出て来たらしかった。二日間私に接した父がぽつりと言った。
「きみは強くなった」
 発車五分前まで私は車内にいた。父は少し汚れた手拭いを取り出して涙を拭いた。私は、もしかすると、父と会うのはこれが最後になるかもしれないと考えると、少し寂しくなった。でも私はずっと明るい顔をしていた。車内を出るとき私は父の手を握った。
 ホームに私がいる間、父は座ろうとはしなかった。私は父と目を合わせないようにしていた。電車が動きだし、手を振った。このとき父も笑いながら手を振っていた。父は私がいらないと言うのも聞かず、四万円置いて行った。

 

  10月13日 水曜日
 以前、通信教育を受けていた武蔵野美術短期大学を訪ねた。一か月ほどまえ手紙を書き、ケイサツあるいは会社から私について伝えられた中傷について教えてくれるよう頼んであった。返事がないので直接訪ねた。結果は予想通りだった。
 事務室へ通された。仕事をしていた若い女が「クックッ」と笑った。通信教育部長が応対に出た。彼は言った。
「手紙に書いてあるようなことは何も聞いていない」
「もし聞いていたとしても、聞いていると言うはずはありませんからね」
 私がそう言うと、彼はさっと表情を変えた。彼は話を変えた。
「一体、スクーリングで、ケイサツから大学へ何か伝えられているということを、どういうところから感じたか?」
 このことが彼の好奇心をそそっているようだった。私はそれを説明したところで、否定されることはわかっていた。
 以前から私は、自分には普通の人間にはない、ある特殊な感覚が備わっているのを感じていた。直感的に人の心が見え透いてくるというような。そしてこの感覚は、私の意識とは関係なく、必要なときに勝手に作動し、私にいろんなことを知らせた。そして、この不思議な感覚で捕えられたものには、ほとんど間違いがないらしいことも、経験で知っていた。私はこの感覚を「心のレーダー」と呼んでいた。しかしこの感覚で捕えられたことを相手にぶつけても通用しないことも知っていた。相手にすれば、そこまで深く見透かされていたことに恐れを感ずるのだろう。たいていの場合、思い過ごしだといって片づけられる。だがその後に深い怒りがくることもある。
 だから、ここで彼にたずねられても、それには答えたくなかった。
「それを話したところで、否定するのは簡単ですよ」
 そう言ったが、彼はなおも聞くので説明してやった。ところが彼は否定しなかった。
 彼は初めのうち私を「きみ」呼ばわりしていたが、途中から「あなた」になった。彼は、
「社会はきびしいよ」とか、
「あなたは弱い人間だ。あなたが正しいという確信があったら、どうして会社の社長にでも誰にでもいいから、そのことを主張しなかったのだ。自分が正しいという確信があれば、それくらいはできるはずだ」
 そう言いながら彼は熱気を帯びてきた。
正しいことが通らないことはない!
 何度も同じ言葉を繰り返した。
「通らないこともありますよ」
 私は静かに答えた。
「自分が正当だという気があったら、会社やケイサツを気にしないでやっていけばいいんだ。もっと強くなって、会社だろうがケイサツだろうが恐れないで取り組んでいけばいいんだ」
「取り組みたくても、取り組むための理由がなかなかつかめないんです。今それを探しているんです。こちらへ手紙を書いたのもその現れの一つですし‥‥」
 彼は黙ってしまった。底に穴のあいたようなことを言う。
 以前、鎌倉市人権擁護委員会を訪ね、妨害のために就職できないといって相談したら、
「働かなければいけない。働かないでいるのが一番よくない」
 と言われたのを思い出し、おかしくなった。

 彼は、さっき私から、「(中傷を)聞いていたとしても、聞いていると言うはずはありませんからね」と言われたことがひどく気にさわっていたらしい。またそのことにふれた。彼は本気で怒っていた。
「教えてもらえないのがわかっていたら、どうして手紙を書いた?」
「全然期待していなかったわけではありません。もしかしたら教えてもらえるかもしれないという気持もありました。教えてもらえないことがはっきりわかっているところへは手紙など書きませんよ」
 私は、話の進展はこれ以上望めないと考えたとき、
「これ以上話しても、もう同じですね‥‥、どうもおじゃましました」
 そう言い、静まり返っていた部屋を、靴の音をこつこつさせながらドアに向かった。彼らの視線を感じながら、私は落ち着いた態度でそこを出た。

 私は話をしていて、不思議なほど落ち着いていた。相手の目を見つめて話すことができた。これは相手がかなり正常な態度で私に接してくれたからであろう。
 ただ一つ不思議だったのは、私が以前、島崎敏樹氏に書き送った手紙の中の一文がほとんどそのまま彼の口から発せられたことだった。
「就業時間内でも、余分な時間は有効に使い、本でも読めば、それだけ社員の質も向上し、会社のためになるんだ」

 

              四 節 

  昭和46年(1971年)

 私はいつまでも預金にばかり頼って生活していられないと考え、仕事を探すことにした。就職は困難だが、アルバイト向けの仕事ぐらいなら何とかなるだろうと考えた。
 10月15日、川崎のある会社へ面接に行った。会社の門を入るときは何とも感じなかったが、受付へ行ったときから、私の心のレーダーがひとりでに作動し、異常なものを捕え始めた。
 受付で必要事項を記入させられた。それを見ていた係員が事務室へ引っ込み、しばらく出て来なかった。再び出て来たときは、もう様子が変っていた。どこか、だらりと溶けたような感じ。彼は私のひげに言及した。ずっとまえから伸ばしているのか、それとも最近かと。そこに配られてあった私の写真には、ひげがなかったのではないのか。この頃、私は頬の部分のひげは剃ったが、鼻の下からあごにかけてのひげはそのまま生やしていた。
 私が応募しそうな仕事には、その会社が求人広告を出した時点で、手が打たれるのではないかと感じた。
 面接を受けたが、だめだなと感じ、その場で応募を取り消して帰ることにした。門に近づくと、さっきとは別の守衛が目ざとく私を見つけ、詰所の中であわただしく動き始めるのが見えた。『やれやれ』と思った。守衛は名簿を取り出し、構えるように座って私を待っていた。まだ、五、六歩も間があったのに、彼は窓を開き、
「さわだてさんですね」
 そう言って名簿の中から何の苦もなく私の名前を見つけ出し、せきこむようにたずねた。
「いつから、いつから来ることになったの?」
「取り消してきました」
「ああ、そうそう、はいはい」
 彼は安心したように、上半身をおじぎするように上下に振った。

 翌日(10月16日)、品川にある東光電気へ面接に行った。手はまわっていなかった。しかし、私のほうから、前の会社のこと、ケイサツのことをすべて話した。
 仕事の内容は、一般家庭、工場から使用期限が切れて回収されてきた積算電力計の仕分け、オーバーホール、誤差の修正などであった。
 面接で私は、釜石製鉄所で電気の仕事をしていたことを話し、積算電力計の試験項目や、標準器と虚負荷試験器を使用しての誤差試験の方法などを説明した。彼らはびっくりしていた。彼らは大きな期待を私に寄せたようだった。私も、私の技術を生かせる職場にまわされるだろうと期待した。
 二日後の月曜日から働いた。もうケイサツが作業しているのが感じられた。仕事も、アルバイトとして、馬のやるようなこと(仕分け)をやらされた。重労働に加え、一年半も仕事をしていなかったので、数日働くと体中痛く、また重い物を運ぶので、足の裏まで痛くなった。長く続けられる仕事ではないと思った。
 もしそこに藤本という青年がいなかったら、私はすぐにやめていたかもしれない。彼は二十歳位で、かなり善良な人間だった。夜は専門学校へ通っていた。仕事はひどかったが思いきり働いた。藤本とは仕事をしながらふざけあったりして楽しくやった。帰りも一緒に帰り、食事を共にすることもあった。
 だが数日すると、彼の様子もだらけてきた。彼は仕事を度々休んだり、午後から出て来たり、また午前中で帰ったりすることが多くなった。そして、そういうことがあった度ごとに、私を見る彼の目はだらしなくなっていった。午後から帰るときなど、彼はうきうきしていた。その様子を見て私は、『会社の仕事をするより、金になるらしいな』と感じた。
 彼はばかみたいに単純な作業をしながら、私が間違いやしないかと、いちいちのぞきこんだ。計器を型別に棚にしまいこむとき、彼はいちいち「これはここ、これはこっち」と私に指図した。私はとうとうがまんできなくなって言った。
「いやー、わかりますよ! 正常な目と正常な神経を持っていますから」
 彼はやにわに顔を赤くした。
 彼は私にいろいろなさぐりを入れてきた。彼の話すのを聞き、様子を見ているうちに、私について、ただもう想像もできなかったようなことが言いふらされていることを知った。彼の口からは「色魔」とか「性欲が貪欲だ」といった言葉が飛び出すようになった。私が女に目をとめたり、女のことを口に出しかけたりすると、彼は侮蔑で顔をゆがめた。どうも私という人間は「性欲のためにしか生きていない人間」のように言いふらされているらしい。
 しかし、二か月近く一緒に働いているうちに、彼は私を見直したようだった。
「タハッ、社会における個人の信用なんて、タハッ、そのことについて書いたら本が一冊書ける」
 帰り、一緒に並んで歩きながら、彼はあきれかえっていることもあった。しかし、私が何か間違いでもしようものなら、彼は手を叩かんばかりに喜んだ。そんな彼を見ていると、釜石製鉄所での職場の同僚や、川崎を思い出した。
 藤本が私に対して持っている感情の底には、私に対するねたみが感じられた。そしてその感情は、彼に入れ知恵している者たちの感情でもあるだろう。

 

  11月14日 日曜日
 夜、テレビで9時から二時間、イプセンの「人形の家」を見た。ノルウェーの劇団で字幕付き。
 ノラが終りのほうで、真の人間として目覚めるところ、その彼女の中に、私自身の姿を見出した。ノラが目覚めて、真に人間的で感動的な言葉を述べるのを聞いた夫が、
「病気で熱があるのではないか?」と聞くあたり、真の人間が気違い扱いされる人間社会をよく映し出している。

 

 12月9日、東光電気のアルバイトをやめた。それは私の住んでいる町の郵便局、大船郵便局の年末年始のアルバイトをするためだった。
 11月初め、大船郵便局前のアルバイト募集の看板を見、面接に行った。彼らはとても親切だった。それはちょうど、何かの犠牲になり、傷ついた人間をいたわってくれようとしているようだった。私が失業中だと知ると、彼らは私に正職員になるようにすすめ、履歴書を持って来るように言った。
 しかし、働き始める数日前、履歴書を持って行くと、彼らの様子はどことなく陰気だった。
 12月10日、郵便局のアルバイト初出勤。ところがその朝、郵便課長が私を彼の前に座らせ、やおら説教じみたことを始めた。
「郵便物は生き物だ。ただの紙切れだけども、そこに書かれた文字、印刷されてあるものは重要なのである。それが期日中に届かなかったために起こる事故、会議の知らせだとか、いついつまでに入学してくださいなどといった通知。それらは金では計ることができないものである。また中身を見たということになると、それは通信の秘密を犯したことになり、ケイサツの問題になる。それから金銭の問題。客から我々に預けられた金は、これは公金と見なされる。それを盗めば公金横領ということになり、ケイサツに行くことになり、刑務所送りになる。アルバイトは臨時職員、すなわち、一応、職員になる。だから問題が起こると職員としていろいろな規則が適用になり、ケイサツということになる。ケイサツでは、いったん記録したことは絶対取り消すことはしないから。(部下に向かって)〇〇君、ぼくは午後から〇〇会議に出かけるから。(それから独り言のように)そこへはケイサツも来るから」
 私は、『もう許せない』と感じた。彼の、ケイサツ、ケイサツという話が途切れるのを待って、私は低い声でたずねた。
「失礼ですが、今、私に話したようなことを、アルバイトの方、全員に話すんですか?」
「うん話す。後でケイサツの問題になったりしたとき、知らなかったということでは済まされないから、こういうことは前もってみんなに話す」
 さらに同じようなことを繰り返し話していた彼の顔に、不意に笑いが浮かんだ。それは、つい私もつり込まれて笑いだしたくなるような、心の底から直接湧いた笑いであった。『今頃になって私の質問の意味がわかったのだ』、私は笑いをやっと押しこらえた。
 その日一日私は何事もなかったように働いた。そして手紙を書いた。

 

 前 略
 まことに恐れいりますが、アルバイトを昨日(12月10日)一日間だけでやめさせていただきます。
 それから、職員への本採用をお願いしておりましたが、それもお取り消ししてくださいますようお願いします。
 昭和46年12月11日
                      沢 舘 
  郵便課長 様

 

  12月20日 月曜日
 夜、六年前の日記をずっと読んだ。あの苦しかった頃の。読み返すたびに、日記の持つ不思議な力に打たれる。すごい迫力がある。苦しみ、本物の苦しみをぶちまけているからである。
 最近の日記は表面的なものしか扱っていない。心に感じたものは胸の奥にしまったままにしてある。書くにはまだ熟していないといった感じで。
 だが、その時、その時、丁寧すぎるくらい詳しく書いておくべきである。後日のために。心の中に残したものは、いつかは記憶の底に沈んでしまう。再び呼び戻すことが不可能になるものもあろう。書いておくべきである。
 同盟や党をやめようとしていた頃の自分に、すでに現在の自分の姿が芽生えているのを見ることができる。
 今読み返してみると、その頃の日記は立派だ。今の私には書けそうもない。

  12月30日 木曜日
 きのうの昼、眠くなって横になっていた。うとうとしたとき、『一体どうするんだ! いつまで放っておくのだ。おまえの手に負えないなら、弁護士を頼んで証拠集めをし、会社、ケイサツを裁判にかけてやったらいいではないか!』私はすっかり目が覚めてしまった。そうだ、いつまでぐずぐずしているんだ。取り返しのつかない時間はどんどん過ぎていく。
 弁護士を頼むにはどうしたらいいんだろう? どこへ行けばいいんだろう? 金はいくら位かかるんだろう?
 それにしても、こんなばかげた問題で、ばかみたいな連中を相手に争うのは、あまりにも大人げなく情けない。だからといって放っておくと、私が生きていけなくなる。私へのばかげた中傷が日本中に広がっているではないか。また、私の頭上からかぶせられた汚物のついたボロ布はどうなるのだ。汚物の下から、いくら私が「おれは真珠だ!」と叫んでも、誰にも通じないではないか。
 だが、弁護士を頼んだところで、私をわかってもらうことは困難な仕事である。やっぱり、私がやらねばならないことは、これまでの半生を文章でまとめ上げることである。どうしておまえはその仕事に真剣に取り組まないのだ。
 数日前、ひげを全部剃った。髪も長く伸びていたのを切った。

 

              五 節

  昭和47年(1972年)

 昭和47年の正月がやってきた。二十九歳。
 年の暮れには、いなかから鮭が送られてきた。私のいなかの大槌川には毎年、初冬になると、たくさんの鮭がのぼってくる。
 年が明けると、餅などが送られてきた。中に手紙も入っていた。父は手紙の中で、「これまでのことは過ぎ去ったこととし、一日も早く良い仕事を見つけるように」と言ってきた。
 次はそれへの私の返事。

 

 父は私の「問題」を過ぎ去ったこととしていますが、私にとってはそれは過ぎ去ったことではありません。会社のイヌであるケイサツによって、聞いただけでも吐き気のするようなことが、これでもか、これでもかといった調子で言いふらされているのです。しかし、もしかすると、家では私がケイサツと言うのを私の妄想だと考えているのではないでしょうか。もしそうだとしたら、この問題について、これ以上話し合うことはありません。
 一度罪を犯した人間が立ち直ることができず、次々に犯罪を重ねていく過程が私にはよくわかります。その大きな責任は社会、特にケイサツにあります。
 世の中を見ていると、不思議な気持になります。これが万物の霊長たる人間のつくっている社会かと思うと、あまりにも情けなく、涙が出てきます。

 

 1月の中頃、新聞広告を頼りに、アルバイト向けの仕事を探しに出かけた。小さな電気メーカーを訪ねた。面接を受けていて、すでに手がまわっているのを感じた。
 とにかく私はそこで働くことになった。だが五日間働いただけで行くのをやめた。『こうなると、ケイサツのやっていることも、ただの悪ふざけにすぎない』
 こうしたある日、書店で「刑事訴訟法」という本を買った。この問題はいつまでも放っておけないと考えた。
 会社がケイサツを通して私を挫折させようとしていることが疑いのないものになるにつれ、私はただ唖然とするだけだった。会社はそれを暴露されることなく、押し通すことができると考えたのだろうか? とても大人の考えたこととは信じがたい。
 会社が私に対して持っていた考え、感情は、全く目も当てられないほど下劣なものであった。そのことに彼ら自身気がついたら? そのときの彼らの心境は? 彼らが私を亡きものにしようとする気持がわかるような気がする。

 「私の半生」の原稿の作成に力を入れた。隣の工場の騒音から逃れ、鎌倉図書館に通い、仕事をした。以前のように私を見てニタニタ笑うばか学生はいなくなった。
 「私の半生」の原稿は、釜石製鉄所教習所時代から、東光電気をやめたところまでで、原稿用紙300枚になった。日記をそのまま引用することは極力避け、省略に省略を重ね、内容はかなり濃縮されたものになった。初恋の女性「彼女」についても一言もふれなかった。いつか改めて書くようになるだろうという予感があった。

 

  2月18日 金曜日
 ずいぶん長い間、日記を書かなかった。それでも密度の高い日々を送った。毎日のように図書館に通った。
 夕べ、8時20分、原稿がやっと完成した。そのときの気持、誰にわかってもらえよう。
 仕事をしている間に、自分が大きく成長したのを感ずる。今はこの仕事、たたかいを通して自分の力を試すことができるのを生きがいに感じている。
 午後、鎌倉市役所へ行き、裁判所の所在地を聞いた。私の応対をするとき、いつもニタニタ笑う彼らであったが、そのときの彼らの様子!
 由比ヶ浜の簡易裁判所へ行き、弁護士を紹介してくれるよう頼んだ。しかし、裁判所はそのようなことをできないといって断られた。でもいくつか助言してくれた。横浜に横浜弁護士会というのがあるから、そこへ行って紹介してもらえばいいだろう。また、鎌倉市でも週二回、火曜日と金曜日に市役所と県税事務所で、弁護士が無料で相談にのってくれるとのこと。
 だが市役所に行って、この問題を解決しようとは思わない。むかついてくる。有料だっていい。金どころの問題ではない。
 簡易裁判所を出たのは午後4時頃だった。横浜へは翌日行くしかないと思った。が、その間に何者かに先回りされるような気がしてならなかった。
 翌日、横浜弁護士会を訪ねたが。土曜日の午後のせいか閉まっていた。

 

  2月21日 月曜日
 午前11時半、横浜弁護士会を訪ねた。受付の若い女に、
「弁護士を紹介してほしいんですけど」
 そう言うと、その女はきっと私を睨み、
「ここではそんなことはしていません! それは県庁市役所へ行かねばなりません!」
 つっけんどんに答え、さらに、
「これまでにどこかへ相談に行ったんですか?」と聞く。
「人権擁護委員会へ行ったけど、全然相手にされませんでしたから」
 そこへ五十歳くらいの男がやって来た。
「なに? 人権擁護? 何だ」
 と聞く。私が説明すると、
「弁護士は相談にのって金をもらい、それで生活しているんだ。その用意はしてきたのか? ううん? 金だっ! 早く言えばマネーだっ!」
 なんという言い方だろう。私に金の用意があることを知ると、男は急に静かになり、女に弁護士を紹介するよう指示した。さっき、「ここでは紹介していない」と言った女が、ちゃんと「弁護士斡旋‥‥」と言う用紙を取り出し、私に記入させた。どこかへ姿を消していたさっきの男が、あわただしく二階へ駆け上がって行った。

 紹介された弁護士は鈴木茂といった。その事務所はそこから歩いて行けるところにあった。このとき初めて「〇〇法律事務所」というのは弁護士の事務所であることを知った。
 弁護士はまだ若く頼りなさそうだった。私はこれまでのあらましを説明し、持って行った「私の半生」の原稿を渡した。もうすでに手がまわっているのを感じた。彼は私の言うことを信じなかった。そして私を、どこか赤ん坊扱いするところがあった。持っていった原稿も、半分ちゃかすように見ていた。
 今、私が心配しているのは、弁護士が会社に買収されはしないかということだけ。
 彼はその原稿を読むために、二、三日の期間をくれと言ったが、私が帰る頃には、その期間が十日間になった。3月1日に再び会うことにしてそこを出た。

  3月1日 水曜日
 再び弁護士を訪ねた。
 この世には、正義も糞もあったものではないと思った。
 最初から彼は、
「これはみんなあんたの思い過ごしですよ」
 と言った。だがそう言うとき、彼は決して私の顔を見なかった。
「このようなことは、とても信じられないことですよ」
「ええ、私にも信じられませんよ。でも信じなければ、これまでのことがどうしても説明できないんです」
 彼は私がそのようなものの考え方をするのは、私の感覚がずれているためだと言った。私はテーブルの上の私の原稿を示し、
「これを読んで、中傷なんかなかったと言うほうが、よっぽど異常ですよ」
 そう言うと、彼はまぶしそうな顔をした。
「あんたは精神病というのではないでしょう」彼は言った。「ただ‥‥神経症というのかなぁ、例えば、密閉した電話ボックスに入るのが
怖いとか、広いところへ出るのが怖いとか‥‥」
 私はそんな症状は経験したことはなかったが、
「そんな症状は、とっくの昔に卒業しましたよ」
 と答えた。すると彼は、
「ああ、今はもういいんですね、今はいいんですね」
 すまなさそうに答えた。さらに、
「これからどこかへ就職してみなさいよ。中傷なんか、もうありませんよ
「ええ、これからはもう無いかもしれません。でも、これまでのことがこのままになってしまったのでは、私の気持がおさまりませんからね」
「これまでのことは無かったものと思い、忘れてしまえばいいんですよ」
「私が忘れてしまったとしても、これまでに社会にふりまかれた中傷は無くなりませんからね。それが嘘であったということが公表されないかぎり」
 弁護士は、中傷は無かったと言いながら、私が中傷はあったという前提で話を進めると、彼もそのつもりで話すのだった。彼は言った。
「なんなら、他の弁護士のところへも行ってみたほうがいいですよ。きっと中傷は無かったと言いますよ。何人かの人に同じように言われたら、やっぱり中傷は無かったと考えるほうがいいんじゃないですか」
 彼に言われるまでもなく、彼がだめなら、他の弁護士を訪ねるつもりでいた。しかし、彼が落ち着いてそれをすすめるのを見て、『これはどこへ行っても同じだな』と思った。
 弁護士は、私がこれまでに就職した会社や劇団へは何の照会もしなかったという。すると彼は私の原稿を読んだだけで、「中傷はない、思い過ごしだ」と判定を下したことになる。

 弁護士という仕事もいいものだ。
「夕日は赤いですね」
 と聞かれ、
「いやぁ、そんなことはありませんよ」
 と答えて金をもらうのである。

 弁護士は私に、相談料として五千円請求した。預金を少しずつ下ろして生活している私には、これは大きかった。彼は私に相談料を請求するとき、良心にとがめられているようだった。金を請求したのは、事務所の奥に来ている何者かの指図によるものらしかった。弁護士は私と話している間も、よく席を立って奥へ行った。

 弁護士に突き放されてから一週間ほどしたある日、『新日鉄を告訴しよう』と考えた。どうしてこのことをこれまで考えなかったのだろう。証拠がないからか? だが考えてみれば、証拠は警察、検察庁が握っているではないか。こんな簡単なことに、これまで気がつかなかった自分がおかしくなった。

 

 

告 訴 状

鎌倉市大船五丁目〇−〇〇
          告 訴 人 沢 舘 衛
岩手県釜石市鈴子町
          被告訴人 新日本製鉄株式会社
                          釜石製鉄所

一、告訴事実
 被告訴人は、告訴人の潔白を知りながら故意に告訴人を告訴した。(告訴した年月日は明らかではない)。
 捜査の名を借りて、被告訴人が告訴した告訴内容が、告訴人の行く先々、全国に言い伝えられ、不当に告訴人の人権を侵害している。よって告訴人は被告訴人の処罰を求めるため告訴する。

二、立証方法
  別紙による。
 昭和47年3月8日
                告訴人 沢 舘 衛
  横浜地方検察庁 殿

 別紙はここでは省略。(釜石製鉄所をやめるまでのいきさつ、及び、やめた後の状況を説明したもの)。

 

 3月8日、この告訴状を持って横浜地方検察庁を訪ねた。刑事事務課長が相手をしてくれた。これは告訴事実が不十分だといって受け付けられなかった。だが、事実は検察庁内部を調べればわかることではないか。
「もし告訴されていれば、それは検察庁内部のことですから、調べてみればわかるんじゃないですか?」
「調べるといっても、それは岩手の盛岡の検察庁だろう? わざわざそこへ人間を一人やって調べてなんかいられない」
「でも私がこっちへ来てからもひどい目にあいますから、こちらへも来ているかもしれませんよ。調べてくれませんか」
「うーん、これはまず、人権擁護委員会へ行ったほうがいいな。ここから少し行ったところに法務局があるから」
「人権擁護委員会へ行っても、これまでと同じですよ」
「いやぁ、人が代れば、また違うこともあるだろう」
 さらに彼は続けた。
「もし会社が告訴していれば、警察はあんたを一年も二年も放っておくようなことはしないよ。呼び出すか、逮捕するかするよ」
「ええ、ですから、もしかすると、会社のやっているのは告訴ではなく、私が会社にいた頃のちょっとしたことを例に上げて、私が犯罪を犯す恐れがあると、警察へ訴えているかもしれないんです」
「だってそんなことでは、いくら警察だって動かないよ。はっきりした事実がなければ」
「でも、会社が大きいですからね」
「いくら大きいといったって」
 彼は笑った。

 私は、訴えられている事実を、検察庁内部を調べ、確かめてもらいたかった。しかしこのような調査は請求できるものかどうかわからなかったし、最初の日でもあったので、あまり無理なことは言いたくなかった。そのうち、なにもかも、わかってくることである。
 横浜地方法務局の人権擁護課を訪ねた。鎌倉市人権擁護委員会は、この横浜地方法務局の管轄になっているらしい。
 検察庁で受け付けられなかった告訴状を見せ、いろいろ話をしているうちに、職員は私の直感力(心のレーダー)を目の仇にして攻撃しだした。それはまるで「おまえさえそんなことに感づかなければ、おれたちもこんなに煩わされずにすむのに!」と言っているようであった。
 劇団ちろりんの名前が出ると、わきで聞いていたもう一人の職員が口をはさんだ。
「あんたのことは前に聞いたことがある。ちろりんでは、何もなかったと言ったそうですよ」
 私がこの問題で、初めて人権擁護委員会を訪ねたのは、一年近くまえであった。一年もまえのことを覚えているところを見ると、私のことが特殊な話題になったのではないか。
 告訴状はそこに置いて帰ることにした。職員は、
「今月の18日、鎌倉市の人権相談に行くから、そのとき来なさい」と言った。
 私がその部屋を出るとき、横の机に座っていた、その部屋の長らしい人に頭を下げた。が、彼は書類に目を落としたままだった。
 真実を押し隠すことは苦しいことだ。上からはもみ消すように言われ、私からは突っつかれる。
 人権擁護委員会へ行っても解決するとは思えない。別の道を用意しておかねばならない。原稿をもう少し肉付けし、出版できる状態にしよう。原稿用紙をさらに250枚買って帰った。

 

  3月18日 土曜日
 鎌倉市の人権相談に行った。先日会った横浜地方法務局の職員も来ていた。昨年、私にひどいことを言った人権擁護委員のうち老人のほうもいた。
 彼らは私の言うことを、すべて「思い過ごしだ」、「警察ノイローゼだ」と決めつけた。私に具体的な例をあげさせ、それらを次々に叩き潰していった。しかし「思い過ごし」と決めつけられない事実を私があげると、彼らはぐっと息をのみ、黙り込むだけだった。
 私はこの日、「私の半生」の原稿を持参していた。法務局の職員はその原稿を途中から読み始めた。読み終ると彼は、私をしみじみ見つめ、そして言った。
「あんたはなかなか正確につかんでいますね」
 老人のほうは、私の原稿を昨年の人権相談に関したあたりから読みだした。初めのうち、にやにや笑っていたが、次第に深刻な顔つきになっていった。読み終ると、
「いやー、ぼくこんなこと言ったかなぁ」と力なく言い、「いや、ぼくは劇団へは行ってないんだよ、行かなかったんだよ」と言いだした。
 私は驚いて彼の顔を見守った。彼は昨年の人権相談で、劇団へ「行った」と言い、「名前はわかんないが、眼鏡をかけた若い女の人が君のことを心配していて、何なら話し合ってみたいと言っているよ」と、私に伝えたのである。
 あまりにも見え透いた嘘であることに彼自身気がついたのか、口をつぐんでしまった。
 私が職員と、決してかみ合うことのない会話を続けていると、老人が口を入れた。見ると彼は怒りでむらむらしていた。
この辺でいつまでもうろうろしていないで、いなかへ帰ればいいんだ! 君、病院へ行ってみてもらったほうがいいんじゃないの!」
「ああ、行ってみてもらってもいいですよ」

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 私は軽く答え、また職員と話を続けた
「会社は白鳥をカラスだと言いふらしたんです。だから私が会社をやめた後も、会社は白鳥にカラスになってもらわねば困るんです。気持がおさまらないんです」
 私は熱した口調で言った。職員のほうが押され気味になると、老人は今度は、私には何の関係もない、別の話題を職員にもちかけた。そしてその話はもう終りそうがなかった。私はあきれて二人を見守った。
「帰りますから」
 そう言って私は立ち上がった。職員は敬意と哀れみの交じった表情で私を見上げ、
「あ、ご苦労さんでやした」
 と答えた。老人のほうは顔も上げなかった。
 人権相談から帰った私は、やり場のない怒りで震えていた。老人が劇団へ「行った」と言ったり「行かなった」と言ったりするのをみて、何かあるなと感じた。それで、劇団の団長あてに手紙を書いた。

 

 私、昭和46年3月、そちらをやめた沢舘です。以前、私に関した中傷の有無を問い合わせましたところ、伊東さんの署名で、
「あなたのおっしゃるような中傷などというものはまったくございません。どうぞ御心配なく」という返事をもらいました。
 本当に私への中傷はなかったのでしょうか。警察が私のことで貴劇団へ行くか、あるいは何かの手段で伝えるかしなかったでしょうか。または釜石製鉄所から私に関した何かを伝えられはしなかったでしょうか。伊東さんの署名ではなく、小沢さんの署名でこれらのことを証明してくださいますようお願いします。小沢さんがそれらを知っていて、伊東さんが知らなかったということも考えられますので。
 小沢さんと直接会って話し合うことができれば幸いに思います。日時、場所を指定してくだされば、私のほうはいつでもかまいません。
  47・3・19
                    沢 舘 衛
  小沢 鉄造 様

 

 一週間たっても返事がないので、3月27日、今度ははがきを書いた。

 

 前 略
 御返事がもらえないようなので、再びお便りいたします。
 4月4日、午後2時、そちらへうかがいたいと思いますが、御都合はいかがでしょうか。支障がありましたらお知らせください。御返事がなければ、上記の日時にそちらへ参ります。

 

 二日後の29日の朝10時頃、ラジオを鳴らしながら、まだふとんの中でうとうとしていると、家主が「電話ですよ」と言ってきた。私は不審に思った。私はこの家の電話番号を知らなかったし、誰にも教えていなかった。
「はい沢舘です」
「沢舘か? 小沢だ」
「ああ、ちろりん」
「ちろりんではないっ! オザワだ。なんだ何度も手紙をよこして。何が言いたいんだ、ううん? 言ってみいっ!」
「だから手紙にも書いてあるように‥‥」
「いいから言ってみいっ! ばかっ!」
 寝ぼけ頭にこんなことを言われ、私は呆然としてしまった。彼はまだ何かわめいていたが私は電話を切った。
 家主が意味ありげに私を見ていた。『このことに家主も関係しているな』と感じた。

 

              六 節

  昭和47年(1972年)

 話は少し戻るが、3月24日、「調査依頼状」を書いて大船警察署へ持って行った。

 

     調査依頼状

 昭和45年4月、新日本製鉄株式会社釜石製鉄所をやめた私は、その後どこへ行っても人間扱いされず、就職もできませんでした。
 釜石製鉄所をやめるまでのいきさつから、釜石製鉄所が私を告訴しているらしいのを感じました。でも、もしかするとそれは告訴と言い得るほどのものではないかもしれません。会社をやめて二年近くになるのに、出頭を求められたこともありませんでしたから。
 しかし、私の行く先々、全国へ、とても恥かしくてここへは書けないような内容のものが迅速に言い伝えられていることは間違いありません。
 会社はすでに告訴(あるいはこれに準じたもの)を取り消しているかもしれませんが、これらの事実の有無を確かめてくださいますようお願いいたします。
  昭和47年3月24日
                  依頼人 沢 舘 衛
  大船警察署長 殿

 

 三ツ星の襟章をつけ、頑丈そうな体つきをし、手の甲には傷跡がいっぱいある、恐そうな警官が出て来て私の話を聞いた。そして言った。
 「取り調べを受けていないっていうことは、告訴されていないということなんだ。自分一人でそう思い込んでいるんだ。まじめにやっていればそういうことにはならないんだ。警察で受け付けるのは告訴だけだ。調査なんていうのは受け付けない。それに私事の調査なんていうのもやらない。それは人権擁護委員会でやることだ。‥‥行ってみた?‥‥弁護士へも行った?‥‥弁護士に相手にされねぇようでは、もう望みねぇんだ。おめぇノイローゼでねぇのか、悪いけど。‥‥なに? 普通の人より正常? じゃ、なにか、普通の人はみんなノイローゼか」
 そんな調査はできないと言う彼に私は、
「もし、こういうことが実際になされているとすると、私の一生を左右するような重大な問題ですよ。できない、という一言じゃすまされないんじゃないですか!」
 一気にそう言ってのけた。言い終ってから私は、彼が怒るんじゃないかと恐れ、そっと彼を見やった。が、彼は良心に満ちた表情でじっと聞いていた。だが、劇団ちろりんの名が出ると、彼の様子が変った。
「臭い匂いを放っていれば、誰も近寄らないんだ」
 などと言って私をボロ屑扱いするかに見えた。しかしそれもすぐに改まり、驚いたように私を見ていた。彼がなかなか私の調査依頼状を受け取ろうとしないので、私はあきらめ、それをしまい込んだ。私がしまい込むのを見ると、彼の顔に安堵の表情が現れた。彼が何か言うのに対し、
「はぁ、よくわかりました」
 そう答え、大船警察署を出た。

 3月28日、鎌倉市にある県税事務所の「法律相談」に出かけた。大船警察署で断られた「調査依頼状」と、以前、会社を告訴しようとした「告訴状」を持って行った。それらが本当に受け付けられないものかどうか確かめたかった。
 私の番がきた。相談員の弁護士は私を見ると、「フギャン」と笑い、立ち上がって後ろの小窓を開けにかかった。だがなかなか開かない。女の事務員が来て開けてくれた。
「息‥‥息苦しくなってきたから」と弁護士が言った。
 私の持って行った書類を手に取ると、彼は、『こんなものをまじめに読まされたんではたまらない』といったように顔をゆがめた。
 彼は椅子を九十度回転させ、横を向いた。それから、どんな格好でそれを読んだら、その書類を侮辱できるか、というように、足を組んでみたり、肩を上げたり下げたり、尻を椅子の先端へずらしたり、頭を椅子の背もたれに埋めたりしていた。とにかく、思いきりだらりとした姿勢をとったのである。彼は読み始めた。次第に真剣な顔つきになっていった。怖いほどになった。私が壁のカレンダーを見ていると、彼は一瞬鋭い目で私をじっと睨んだ。だが、読み終ると、彼は柔らかい調子に変り、
「これはひどく抽象的なんですなぁ。これを読んでみて先ず思うのは、あんたが被害妄想にかかっているのではないか、ということなんだなぁ」
 調査依頼状については、
「調査というのは、犯罪があってからやるもので、あんたのこれを読んだだけでは、犯罪の事実などというものは見当たらない」
 私は反論を始めた。
「でも、ある家で誰かがいなくなれば捜索願を出すでしょう?」
「いやそれは違うんだ。いなくなったということは、殺されているかもしれないんだ。その陰には犯罪の可能性もあるんだ」
「私がどこへ行っても人間扱いされないということは、陰で何かやられているということが考えられるんじゃないですか。それだって犯罪‥‥」
「考えられるう、う、う‥‥」
 彼はそう言ったきり、つまってしまった。やがて、
「何しろ、事実がはっきりしないからねえ。これじゃどこへ行っても受け付けられんよ」
 私を近づけまいとする彼の態度に接しているうちに、怒りがこみ上げてきた。
「じゃ、何ですか、事実をつかまない限り、どんなことをされても泣き寝入りしなければならないということですか」
「いやー、いやー」
 彼は急にそわそわしだし、何か関係のない書類に目を通し始めた。が、それもすぐにやめ、今度は机の上を片づけ始めた。それまで開いてあった厚い本を閉じて机の隅へ寄せ、時計をチラリ、チラリ見上げては、今にも帰りそうな様子をした。

 翌日、3月29日、横浜市庁舎の「法律相談」に行った。相談には次のことを書いた書類を持って行った。

一、ある人に、「法人を告訴することはできない」と言われたが、本当か。

二、別紙の「調査依頼状」を大船警察署へ持って行ったところ、「警察は私事の調査はしない」と言って断られたが、警察の言い分には法的な裏づけがあるのか。

三、昭和46年5月、人権擁護委員会へ人権相談に行き、新日鉄釜石製鉄所が発していると思われる中傷で、どこへ行っても人間扱いされないことを話し、調べてくれるよう頼んだ。同年六月、再び人権擁護委員会へ行った。そしたらさんざんひどいことを言われた。
  (省略 ─ 人権擁護委員とのやりとり)
 人権擁護委員会を名誉毀損で告訴できるか。

 

 人権擁護委員会を告訴し、その背後でうごめいている大きなものを表面に引き出したかった。
 眠ったような感じの相談員が、私の番がくるまえから、私をじろり、じろりと見ていた。私の番が来ると、彼は眠りから覚めたようにいきり立った。
「この会社と、君が人間扱いされないのと、どんな関係がある! 会社が告訴したと、どうして言える!」
 彼はもう私に口を開かせなかった。そして「県警へ行け」の一点張りだった。
 私は持って行った書類の一部を示してたずねた。
「でもこの二番目の項目については答えられるでしょう?」
「いや、答えられない。県警へ行くんだ」
 私はあきれて、彼と、彼のテーブルの上に立てられてあるカードを代る代る見くらべた。そのカードには「法律相談 佐藤相談員」と書かれてあった。
「ここは法律相談でしょう? 私はこれが法的に正しいかどうかを聞いているんですよ」
「いや、それは前提がわからないから答えられない。それは県警へ行かねばならない」
「はぁ、するとこれは、前提がわからないから答えられないというんですね」
「うん」
 私は彼の目の前で、彼の言葉をメモに書き取った。彼はあわてて頭を後ろへのけぞらせ、後ろに控えていた女の方を見やった。さっきから私をびっくりしたように見ていた女は、私がまだ席にいるにもかかわらず、次の人を呼んだ。
 相談員がそこまで言うなら、神奈川県警へ行ってやれと思った。
 県警の四十歳位のかなり話のわかる職員が私の話を聴いてくれた。人権擁護委員や弁護士たちのように、頭からはねつけるようなことはしなかった。私の持って行った書類を見ると、
「これは何かあるね。調べてみる必要がありそうだね。釜石警察署へ電話してみよう」
 静かにそう言った。
 私がこれまでの経過を説明していると、彼に電話がかかってきた。彼は私の後方にある電話へ出た。私はしばらくぼんやりしていた。不意に私の心のレーダーが震えた。そういえば、さっきから電話に出ている職員が、わずか数歩しか離れていないにもかかわらず、私にはほとんど聞き取れないほどの小声で話している。私は耳をすました。
「今もそのことで‥‥」
 という言葉をやっと聞きとることができた。
 電話が終るとまもなく、開け放されたドアから黒っぽい背広を着た三十五、六歳の男が、ぶらり、ぶらりと入って来た。まともそうな人間に見えた。ネクタイはしていなかったようだ。男は、電話が終ったばかりの職員と私を代る代る見くらべた。私を見るときの男の目は鋭かった。職員は入って来た男に近づいた。男は「おー」とも「ほー」ともつかぬ声を喉の奥から発し、目は職員の方に向けたまま、あごで微かに私の方を示した。彼らは向き合ったが言葉は交さなかった。男は私を睨んでいたが、やがてまた、ぶらり、ぶらりと出て行った。
 電話の後、職員の様子が変化した。私に対して保護者的な態度をとるようになった。
「そんなことに、いちいち気を使っていたら、からだの調子が変にならない? 夜はよく眠れるの? これまでのことはすっかり忘れて、どこかいいところへ就職してみなさいよ」
 彼は釜石警察署へ電話するのをなぜか避けているようだった。私に催促されてやっと電話した。
 釜石では、「今までのところ、そんなことはなかったようだが、念のため会社と盛岡地検のほうを調べてみて、後で返事をする」と言ったそうだ。
 彼は二、三日のうちに、大船警察署を通して私に返事をすると言った。しかし予想通り、一週間たっても連絡はなかった。私は大船警察署へ出かけた。警察官になったばかりのような若い男が、私の住所、氏名、職業などを問いただし、「どうして仕事をしない」などと、私が質問していることとは関係のないことを尋問し始めた。私に催促されて彼はやっと別の部屋へ入って行った。十分ほどして彼は戻って来た。まえとは様子ががらりと変っていた。驚いたように私を見つめながら近づいて来た。それまでの、人を見下すような態度がすっかり改まっていた。そして言った。
「何の連絡もきていない」
「電話で問い合わせてくれませんか」
「誰にかけたらいいかわからない。行ってみたほうがいいんじゃないの?」
 私は県警の職員の名前を聞いていなかった。私が帰りかけると彼は言った。
「何かあったら相談に来いよ。こじれないうちに‥‥。そんな相談を受けるのが警察の本来の仕事ではないけど」
 私は県警へ出かけた。机に深く顔を伏せている、先日会った職員の前に行った。
「こんにちは」
 私は声をかけた。彼の表情は、押し殺された苦痛でこわばっていた。彼は部屋の隅から折りたたみ椅子を持って来て、私を彼の隣に座らせた。それから近くの戸棚から書類を持ちだして来て、私からは見えないように開いた。そして、依然こわばった調子で、
「会社では告訴なんかしていないと言っていますよ。あんたは釜石製鉄所の動力課というところに勤めていたんですね。仕事はよくまじめにやってくれるし‥‥、何か会社に入るまえ、二年間教育‥‥」「ええ、会社の教習所で二年間」
「せっかく教育したのに‥‥」
「ええ、金をかけて教育しますからね」
「それでやめられると‥‥」
 彼の持っていた書類が、わずかに私の方に傾いたとき、「ノイローゼ」という文字が見えたが、彼の口からはそんな言葉は出なかった。彼は時々、弱々しく笑いながら言った。
「そんなことはすっかり忘れてしまって仕事をしてみなさいよ。そういうことがあるものと、初めから思い込んでいるからいけないんですよ」
「会社は本当に訴えをしていないんですか」
「ええ、告訴なんかしていないと言っていますよ。会社ではそんなこと初めて聞いたといって笑っていましたよ」
「告訴以外の訴えもしていないんですか」
「うん、していないよ」
 私は椅子を片づけ、そこを出た。彼はすぐに書類を元の戸棚に戻した。

 県警を出て、私はすぐ隣の横浜地方検察庁行った。県警で事実を否定された場合の用意に、鎌倉市人権擁護委員会を名誉毀損で告訴する告訴状を持って来ていた。人権擁護委員会を告訴することによって、なんらかの事実が出てくるのではないかと考えた。
 刑事事務課の職員に告訴状を手渡した。彼がそれを読んでいるところへ、以前、会社を告訴しようとしたとき、話をした課長がやって来た。
「課長、これ」
 職員は私の書類を課長に手渡した。課長は私を見るとうんざりしたように、
「うー、座れ」
 そう言ってソファを示した。課長は書類を自分の机で読み始めた。私は時々彼を盗み見ながら、正面の大きな窓から見える、隣のビルの壁をながめていた。読み終ると課長は立ち上がりながら、
「うーん、沢舘さん」
 と力なく言い、私の向かい側へやって来た。
「でもこれ、名誉毀損にはならないかもしれないよ、調べてみなければ」
 彼はこの告訴の件はそれまでにし、話を釜石製鉄所のほうへ持っていった。さんざん堂々巡りをしたあげく、激しい口調で言った。
「第一、そんな大きな会社が何のために、ただ一人の人間にわざわざそんなことをする必要がある! そんなことをするのがどこにいる!」
「早く言えば、会社は全くばかげたことから私にひどく当たり、私を会社にいられないような状態に追い込んだんです。会社はそのことに気がついたんです。会社は私に対して罪の意識を‥‥」
 彼は何か大きな声を出して私の言葉をさえぎった。そしてまた言った。
「会社がそんなことをするなんて信じられない」
 それに対し、私は静かに答えた。
「私の言ったこと、行なったことは、会社の人間の相当深いところへ触れていましたからね」
「それじゃ、あんた、どんなことを言われているか、わかる?」
 彼は緊張の解けたような調子でたずねた。
「ええ、わかります」
「どんなこと?」
 私の後方で仕事をしていた若い女があわてて席を立ち、部屋を出て行こうとする気配がした。しかし、そのまえに私は指を折りながらゆっくり、そしてはっきり数え上げた。
「盗み、女たらし、変質者、精神異常者‥‥、大きいところはこれくらいです」
 彼は一瞬黙り込んでしまった。
「あんた、ほんとうに‥‥なにか、心にあるような‥‥悪いことをしなかったのぉ?」
 彼は私の胸の内を覗き込むような調子でたずねた。私は心に汚物を塗りつけられるような不快を感じた。
「していません」
 課長は告訴状を持ってどこかへ消えた。帰って来ると、
「委員会を告訴することはできない。これはが言ったことで、委員会が言ったのじゃないだろう? 具体的に人権擁護委員会の誰々と書いてきなさい」
 私は検察庁を出た。もう5時を過ぎていたようだが、法務局の人権擁護課を訪ねた。そこでは、このまえ会った職員が一人残って仕事をしていた。人権擁護委員の名前を聞いた。老人のほうは和田金五郎、若いほうは山ノ井秀雄と知った。

告訴状郵送

 大船へ帰って来たが、どうも気持が納まらなかった。もう夜だったが劇団へ出かけた。出てきた若い男に、小沢に会わせてくれるよう頼んだ。すると男は言った。
「小沢は病気だ。つい最近、別の家へ引っ越して、ここにはもう住んでいない」
 新しい住所を聞くと、「知らない」と言う。
「じゃ、私の手紙に数日中に答えてくれるよう、小沢さんに伝えてくれませんか」
 私が頼むと彼は、私に直接劇団へ出て来いと言い、
「そうすれば、ぼくたちもみんないるからそのほうがいい」と言うのだった。そして、彼のほうから、三日後の8日、午後3時過ぎに来いと指定した。

 当日、雨の中を出て行くと、
「小沢は病気だ」といっていなかった。稽古場では劇団員が人形劇の練習をしていた。二階の事務室へ通された。そこには伊東と、若い男が二人いた。小沢に会わせてくれるよう頼んだが、熱を上げて寝ているといって会わせてくれなかった。彼女は、
「本当に何もなかったのよ。どうしてわたしの言うことを信じてくれないの。わたし、劇団員一人一人から確かめたのよ‥‥。はっきりした事実をあげてもらわねば」
 そう言って彼女は涼しそうな顔をしていた。事務室にいた男は良心をくすぐられたような表情をしていた。
 だが驚いたことに、私が人権擁護委員のことを話すと彼女は、
「人権擁護委員なんて、劇団へは来なかった」
 と言った。人権擁護委員の和田氏は、劇団へ行って所長さん(小沢)と眼鏡をかけた若い女に会ったと言い、その女が私のことをずいぶん心配し、何なら会って話し合いたいと言っていた、と私に告げたのだ。劇団で眼鏡をかけた女は伊東一人だけだ。
 その夜、小沢に手紙を書いた。

 

 小沢さん、どうして私に答えてくださらないのでしょうか。8日の午後、小沢さんと会えるように劇団の方と約束していたのにどうして会ってくださらないのでしょうか。御病気だと劇団の方に伺いましたが、私には御病気を理由に私を避けているように思えてなりません。
 その御病身の小沢さんを、さらに私のことで苛立たせねばならないことを本当に禍と考えます。
 先日、御病身の方からとは思えないようなお電話をいただき、少なからず驚かされました。でも、御病気からくる心の苛立ちと受けとりました。
 それにいたしましても、どうしてあのように激しくお怒りになるのでしょうか。御体のためにも決して良いことだとは思いませんが。
 小沢さん、私たちはいがみ合う必要は少しもないのです。私はただ小沢さんに、私に関した中傷をどこからか伝えられていた事実を教えてほしいのです。それは誰でも自分の過ちを認めることは感じのいいものではありません。でも、それらの事実を教えてもらえるかどうかが私の一生を左右するのです。
 小沢さんに良心がおありでしたら、本当のことをお答えしてくださいますようお願いいたします。
  47・4・9
                    沢 舘 衛
  小沢 鉄造 様

 

 劇団へ行った翌々日、私は和田氏の自宅を訪ねた。和田氏と劇団の伊東の言っていることの食い違いが私には納得できなった。どうして和田氏はそんな嘘を言ったのだろう。何かある。このまえの人権相談の席で、私が法務局の職員と話をしていると、和田氏がわきから、
「どうしてそんなに、ちろりんのことにこだわるの?」
 と、いかにも面白くなさそうに言ったのを思い出した。
 和田氏の自宅へ電話すると、女の声で、本人は今、近くの寺へ花を見に行って居ないが、30分ほどすれば帰って来るだろうという。
 私が訪ねて行くと、和田氏は和服姿で独り、庭の見える広い部屋の真中に置かれたこたつを前にして坐っていた。外の陽気とは別に、部屋の空気はひんやりしていた。
 私は持って行ったカセットレコーダーをこたつの陰に置き、会話を録音した。
「おととい劇団へ行ってきたんです。そしたら、劇団では人権擁護委員なんて来なかったと言っているんです。それで不思議に思ってやって来たんですけど」
 すると彼は、確かに行ったと言い、団長はいなかったが、その奥さんと、もう一人の女に会い、名刺も交換してきたという。さらに奥さんはべっぴんだったとも言った。
「だけど君は、今頃そんなことを言って何になるんだ。いい若い者がそんなことを気にして追っかけまわして。そんなことを気にすること自体すでに普通じゃないよ。直ってないよ! 昔の仙人じゃないが、君は雑音のないところで、しばらく生活してこなければだめだ。そして今までのいろんな考えを全部捨てるんだ。そうびくびくしていたんではだめだ。太っ腹にならなければ」
「私、太っ腹ですよ」
「太っ腹じゃないよ! そんなちっちゃなことを気にして」
「小さなことじゃないですよ! 前の会社がやっていることが本当なら、許せない犯罪行為ですよ。それを隠そうとするあんた方の行為も犯罪ですよ」
「えっへっへ、だったら告発でもなんでもしてみるがいい」
「でも、警察も人権擁護委員会も弁護士も、みんな言い合わせたように‥‥」
「取り上げないだろう。取り上げられないよそんな病的なもの」
 電話がかかってきて、彼は立って行った。私はカセットレコーダーを一時停止させた。帰って来ると、彼は余裕のある態度で、
「ようは何を言いたいのか知らんけど‥‥、なんかぼくがちろりんへ行ったか、行かなかったかが問題になっているようだが、ぼくは行ったんだ。そのことは認めるだろう?」
「でも眼鏡をかけた女の人は会っていないと言うんです」
「ぼくの名刺もやってあるよ。それで奥さんにも会った?」
「いいえ」
 彼はなぜか「それみろ」というように笑い、
「だがそんなことを詮索してどうするの? 攻めて攻めていって、何の結論が出るんだ
 彼は伊東に会ったかどうかについてはなかなか答えようとはしなかった。
「君はまるで昔の特高だ」と言ってみたり、「ぼくが会ったかどうかは、直接劇団へ行ってみればわかる」と言いだし、しまいには、明日、二人で出かけようということになった。しかしとうとう、
「会ったよ!」と、目をつり上げて断言した。
 彼が劇団を訪ねたら、二階から伊東らしい女が降りて来て、その女に私のことを聞いたそうだ。和田氏が、
「本人はここにいられなくなったんだ、みんなが相手にしてくれなくなったんだ、と言っているが、そういう事実はあったのか」
 そうたずねると、女は、
「そんなことはない。わたしはこの人とは、まぁ、いちばん話をしていたけれども、だんだんわたしたちの話に交わりたがらなくなり、そのうち来なくなった‥‥。今日、小沢はいないが、奥さんがいるから」
 そう言って和田氏を小沢の住まいの方へ案内し、初めの間、その女も夫人と一緒に和田氏と話をしたそうだ。彼が帰り際、またその女に稽古場のほうで会い、
「今でも本人は劇団へ来ることがあるか」と聞いたら、
「時々来る」と答えたという。
 私がこのことにこれほどこだわったのは、和田氏は劇団へは行ってはおらず、何者かが間に入って、和田氏がいかにも劇団へ行ったように見せかけているように感じられたためである。私は、何者が動いていたかを知りたかった。
 和田氏と私の会話はこれで終ったようにみえた。が、何かが私の胸にしこりになって残っていた。広い部屋の真中で向かい合って坐っていながら、彼と私とは、まるで別世界にいるようだった。
 私は前の会社でのこと、これまでに遭ってきたことをさらけ出した。最後までほとんど私一人でしゃべり続けた。その間、彼は静かに、じっと聞いていた。ただ一言、
「君、何も悪いことをしていなければ、どこへ出ても正々堂々としていればいいんだ」
 と言いはさんだだけだった。私が言い終ると、彼は静かに言った。
「事実をつかみなさいよ。事実をつかんで弁護士のところへ持って行きなさいよ。でも、そんなことよりは、これまでのことはすっかり忘れてしまって、心機一転したほうがあんたのためにもいいよ。そんなことでいつまでも揉めているうちに時効になってしまうよ。時効、わかる? 君、会社をやめたのはいつ?」
「二年前です」
「じゃ、まだ大丈夫だな。でも心機一転してやったほうがいいよ。君は書くことはできるようだから、そのほうでやってみたら? 新聞社なんかいいんじゃない? 君のように本質を掘り下げようとする質には」
「これまでのことを忘れろと言ったってねぇ‥‥。私の一生がすっかり狂わされてしまったんです」
「いなかへしばらく帰ってみたら?」
「それはできませんよ」
 いなかへ帰れというのは便壺に身を沈めろというのと同じである。
「君、あまり神経質にならず、少し普通の人のように、ボーとしていたほうが幸せになれるよ。何も悪いことをしていないんなら、みんながどう見ようと気にしなければいいんだ」
 彼はもう初めの頃のように、いきり立ったりはしなかった。その表情からは微かな同情すら感じられた。帰るとき彼は玄関まで出て来て、
「すぐそこの寺の花がきれいだから見ていったら」
 とすすめた。
「花を見ても問題は解決しませんから」
 私は靴を履きながら答えた。
「問題は解決しなくても、心の問題が‥‥」
 彼は私の方は見ずに、鴨居の上の何かをいじっていた。
 和田氏のところから帰ってきて、劇団をこれ以上責めるのは大人げなく思われたので、手紙を書いた。

 

 前 略
 これまでの御無礼を心からお詫びいたします。これまで私の書き送りました手紙を全部取り消します。私のとっている行動が御病身の小沢さんと貴劇団を傷つけているらしいのを知り、私自身恐ろしくなりました。
 これまで私は、就職活動をする中で、履歴書に、貴劇団を「人間扱いされないため」やめたと書きしるしてきました。でも、今後はそのようなことは決してしないでしょう。
 貴劇団の御繁栄をお祈りいたします。
 さようなら。
                          沢 舘 衛
  小沢 鉄造 様
      他劇団員一同様
 47・4・11

 

 4月17日、劇団から手紙が届いた。

 

 御手紙拝見いたしました。
 私達とあなた様との間の誤解は解けたものと信じ、心から嬉しく思います。
 私たちはあなたの真面目な性格や、電熱器を直して下さったりした優しい心とすばらしい技術をいつまでも忘れません。どうぞ心を広く御持ち下さいまして、つまらぬことにくよくよせず、自信を持ってたくましく就職活動なさいますように。
 あなたの御幸せを心からお祈りしております。
 劇団員一同を代りまして。
                    伊東 万里子

 

 私はどうしようかと迷ったが、とうとう返事を書いてしまった。

 

 別に誤解が解けたわけではありません。ただ、これ以上劇団を責めるのは大人げないと感じただけです。
「つまらぬことにくよくよせず」とは、いったい何のことでしょう。本当に「つまらぬこと」でしょうか。

 


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