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  第二編

     第十二章 「訴その十六」最終号

 昭和55年(1980年)

 昭和55年8月、「訴その十六」を発行した。そのまえの「訴その十五」を発行してから一年半近くたっていた。36ページの長いもので、「訴その八」「訴その一」に次いで三番目に長いものだった。作成にも長い期間がかかった。前の年の初冬から始め、十か月もかかった。この「訴その十六」には前書きもつけた。

「前書き」  「一」  「二」(足の痛み−毒物? 病院)  「三」〜「四」(病院)  「五」〜「六」  「七」(面接で出された飲み物)  「八」〜「九」  「十」(生活保護申請)  「十一」〜「十三」  「十四」〜「二十三」  「二十四」〜「二十六」  「二十七」(「日本における不思議な現象」)  「二十八」(共産党中央委員会への手紙)  「二十九」  「三十」〜「三十二」 

 

     前書き

 前号の「訴その十五」を発行してから、これまで一年半もありました。
 この「訴」はいろいろな人々、事務所、役所へ送られますが、この一年半の間には、そこで働く方の交替などもあり、このようなものを送られても、なんなのかをご理解していただけないこともあるかと思います。私自身、送るたびに、ある戸惑いを感じます。
 私のよく知っている知人に送るのならともかく、一度も会ったことのない人々や、何年も前、二、三度訪ねただけの事務所、その他へ送って、はたして迷惑ではないだろうか? どうしてこんなことをしなければならないのか?
 でも一方で私は考えます。現に、国のある機関と思われるものによって私は心身ともに苦しめられています。話にならないほど汚い手段によって。しかも、私と同じ迫害を受けている人々が他にもかなりいるようです。

 私はこの国の人権侵害行為を訴えていろいろなところを訪ねました。しかしどこでもほとんどとりあってもらえませんでした。そして国の機関による迫害は休みなく続けられます。
 この種の迫害が長く続けば、被迫害者がどのようになるかは、迫害されている者と、迫害している者たち(それに精神科医)しか知らないでしょう。どちらも経験によって。私はこれまでに何度もこの危機を乗り越えてきました。私の精神をこれまで支えてきたのは、この「訴」を使っての彼らとのたたかいでした。このたたかいがなければ、私は間違いなく、とっくに精神的に参っていたでしょう。そして、彼らとたたかう武器を持てずに始末されていった人々がこれまでにたくさんいたことでしょう。発狂、自殺、あるいは、どうにもならないことへの怒りの爆発による犯罪行為。

 どこへ訴えても扱ってもらえず、新聞にも私の意見(同じ迫害を受けている人々への呼びかけ)をのせてもらえないとなると、ごくわずかでもこのようなものを自分で印刷、発行して、すこしぐらい迷惑に思われることがあっても、心あたりのあるところへ送るしかありません。
 どうか目を通していただき、ご協力してくださいますようお願いいたします。

 

         「一」

 私は健康に恵まれて生まれてきた人間のようである。しかし、その健康も徐々に奪われつつあるようである。
 私が生まれ育った岩手の小さな町から逃げ出し、各地を転々とするなかで、私は飲食店で異様な雰囲気に接するようになった。また、何のためかわからないが、徹底して私をつけまわしている者たちの情け容赦のないやり方を見、私は飲食店で、私に持ってこられる食事に不安を感ずるようになった。
 初めのうち、私は不安を感じつつも飲食店を利用していた。同じ店に何度も続けて入らないように心がけながら。
 私は酒類を好きであるが酔っぱらうほど飲むことはない。酒場で飲むこともない。洋酒(たまには日本酒)を自分の部屋で静かに味わうだけである。それでもこれを数か月続けていると、かぜに似た症状がでるようになった。でもかぜとは違う。まず微熱が続き、のどが痛み、咳がでるようになる。ちょっと寒い思いをすると、すぐに熱が38,9度に上る。かぜ薬を飲んでもほとんどきかない。

 この症状で最初に病院を訪ねたのは、私がまだ千葉市にいた頃だった。検査の結果、肝臓が悪いようだと言われたが、治療はなかった。医師は、「ではこれで」と私に丁寧におじぎをして診察室を出て行き、それっきりだった。
 アルコール分をとるのをやめると、この症状は数か月かかって少しずつよくなる。具合が悪いときは、もう決してアルコール分はとるまいと思う。しかし、異常で孤独な状態が長く続くと、ついアルコールに救いを求める。
 この症状を何度も繰り返すうちに、アルコール分を断っても微熱はなくならず、そのまま続くようになった。そして、少しの間でも水に手を入れていると悪寒がし、熱が急上昇する。また、食事と食事の間の時間が長びくと(別に空腹感はなくとも)ひどく悪寒がしてくる。こんなとき食事をすると、それまでの悪寒がうそのように消える、という症状も加わった。

 神奈川県へ移転してきてからも、この症状でいくつもの病院を訪ねた。そのほとんどの病院で、「異常はない」といって帰された。ある病院では、「かぜだろう」と言われた。私が「これはかぜの熱とは少し違うようだ」と言うと、年老いた立派な内科医が、「熱があるならかぜだろう! 熱のでる病気で、かぜ以外に何がある!」そう言って私を叱ったこともある。

 いつの頃からか、この症状で病院を訪ねると、すぐに精神科、あるいは精神病院へまわされるようになった。

 

         「二」

 また5年ほどまえから、別の新たな症状が加わった。手足の痛みである。この症状は毒物によるものであることを私はかなり確信を持っている。この症状は不意に出、そして消えるまでに数か月かかる。また良くなりかけている途中で再び痛みが増し、さらに数か月続くことがある。痛みがなくなった後も、以前の健康なときとは少し具合が違う。そしてこの症状を何度か繰り返すうちに、その痛み方も少しずつ変ってきた。

 この症状が初めて出たのは、昭和50年の春、ヤマナカという会社に入ったときだった。階段を上るとき、ひざに、つーんという鋭い痛みを感ずるようになった。でも別に気にしなかった。何かの拍子で痛んだのだろう、そのうち直るだろうと思った。しかし痛みは続き、日がたつにつれて少しずつ増した。原因は何だろうと考えた。
 
この会社に入り、新しい仕事についてから、ひざに無理な力がかかるような動作があったろうか? しかし思いあたらなかった。この会社での私の仕事はクレーンの運転で、椅子に腰かけての作業なので、足に無理な力がかかるはずはなかった。ただ、地上20メートルの高さにあるクレーンに乗るには、かなり長い階段を上らねばならなかった。しかし、それくらいのことでひざが痛みだすとは考えられなかった。
 この会社に最初に出社した日、昼飯は会社の近くで何か買って食べるつもりで何も持って行かなかった。しかしこの会社は埋立地の先端にあり、まわりには店などなかった。
 午前中の仕事が終り、食事はどうしようかと思いながらクレーンから降りて行くと、事務員の一人が、「弁当持ってきていないだろう? これ食べて」と言って、給食会社からとった弁当を私に差し出した。とっさに私は警戒した。しかし、彼の様子から、これは単なる好意だろうと判断し、食べた。翌日からは簡単な昼食を自分で用意して行った。
 ひざが痛みだし、しかも長く続くので、やっと毒物によるものではないかと疑うようになった。そして、初日の弁当のことが思いあたり、そのせいだろうと思った。

 しかし、これを書くにあたって、当時の日記を開いて見た。すると、弁当だけでなかった。この会社の事務員(杉江)に、気がすすまないまま、レストランへ二度連れていかれ、そこのウエイトレスの様子に不審を感じている。またある法律事務所(藤沢市)を訪ねたとき、コーヒーをすすめられ、それを断ると、今度は日本茶をすすめられた。そのとき、茶を運んできた事務員に、相手の弁護士が「フギャ」と笑ってみせたことがあった。この茶は半分ほど飲んだかもしれない。私は疑いながらも、すすめられると飲んでしまうお人好しなのである。さらに、映画を見に日比谷まで出かけたとき、レストランに入っている。
 もちろん私は、レストランの食事や、法律事務所での茶に何か工作されていたかどうかはわからない。弁護士が事務員に笑ってみせたのは、私の「事件」のばかばかしさを笑ったのかもしれない。

 あちこちの会社を転々とするなかで、私は何度もこの症状に苦しめられた。この症状は、失業して自分の部屋にいることが多い期間は軽減した。
 この症状が現れると、私のまわりのある者たち(私が日頃から、機関に工作されたイヌだなと目をつけていた者たち)が私のところへやって来て、「あ、今日はひざが痛いな。ああひざが痛い」とか、「ああ、足が痛いなぁ」などとわざとらしく言った。

 この症状を簡単に述べると、ひざに鋭い痛みを感じ、それがすねの骨(そのように感じられる)や筋肉の断続的な痛みに変り、足が疲れやすくなる。十数分歩いただけで一時間も歩いたような疲れを感ずる。ひざは曲げ伸ばしするとき、ギクッとか、コキッと音をたて、なめらかさを欠く。また、朝起きて歩き始めの二、三歩に足首に痛みを感ずる。ひざの痛みは一時期だけだった。
 足の鈍い痛み、しびれは、歩いているときより、じっとしているときのほうがよけいに感ずる。座っているときとか、寝ているときに。しかし、症状がひどくなると、歩いているときのほうが苦痛になる。地面に触れる足の裏が痛み、正常に歩けなくなったことが一度ある。足の裏だけでなく、手足の一部が他の物に触れると、その触れた部分に病的な痛みを感ずる。また、皮膚にむずがゆさを感ずる。このとき皮膚に赤い斑点が出ることがある。また、足がとても冷える。

 最初にこの症状が現れてから、四か月たっても痛みは依然として続くので病院へ行くことにした。しかし不安はあった。私が病院にかかるとき、いつも感ずる不安である。何をされるかわからない。

 次は昭和50年9月8日の日記から。

 

 午後、〇〇病院へ。
 注射をするという。医師が処方箋を書いてから、
な、これでいいだろう?」
 と、一人の看護婦に向かってぞんざいに言い、その処方箋を放り出した。私はその看護婦の動きに注意した。彼女は同じようなアンプルがいっぱい並んでいる戸棚から一本を取り出した。この分なら疑わしいところはないと思った。ところが、注射器へその液を吸い取った後、今度は、すでに口を切ってあったアンプルをその棚の端から取り、その液も吸い取った。そのアンプルには液が三分の一ほど残っていた。あれは何か? 看護婦の様子には不審なところも、動揺もほとんど感じられなかった。それどころか、彼女は私に妙な親しさを見せた。
 注射しようとする彼女に私は尋ねた。
「それは何の注射ですか?」
「痛いんでしょう?」
 彼女は軽く答えた。痛み止めか? 看護婦は注射しながら医師たちの方を見て「ふふふ」と笑った。私が医師らの方を振り向こうとすると、女はすぐに弁解するように何か私に話しかけた。女は不思議なほどの親しさで私に話しかけた。まるで看護婦仲間に話しかけるように。
 その部屋の若い医師は、なぜか小さくなっていた。他の看護婦たちも同じ。処方箋を書いた医師はどこか捨てばちな調子。堂々とふるまっているのは、私に注射した女だけ。

 

 この日、注射のほかに、手足のレントゲン写真をとった
 この病院では、薬局でも様子がおかしかった。薬局の窓口の女が私の薬をそろえるのを、他の女たちが立ち上がり、顔をこわばらせて見守っていた。注目されている女はうつむき、その手元はのろく、何か戸惑っているようだった。

 翌日、再び病院を訪ねた。レントゲン写真からは異常は認められないという。そして、痛むようだったら、塗り薬をあげるから、痛むところに塗るようにと言われた。こうしてこの病院は初診から二日目で打切られた。医師は私がこの病院にこれ以上来るのをやめさせようとしているようだった。
 
「機関」はこれまで私に
毒物を投与してきた。彼らは、そのうち私がその毒物による症状を治療してもらいに、この病院を訪ねるだろうことを予想して、すでに手を打っていたのではないのか?

 次は「訴その九」(昭和50年7月発行)からの引用です。

 

 病院にかかるたびに私は病院の雰囲気に不審を感じた。具合が悪いのに治療しようとしないこともあった。それを見て私は初め、これは医師のところへ、私をつけまわしている者たちがやって来て、さんざんばかげたことを言い聞かせ、医師に私を治療する意志をなくさせたのではないかと考えた。
 しかし、何度か病院へ行くなかで、医師はそればかりでなく、私という人間はそのうち、この世から抹殺されてしまう人間だから、治療してもむだだと思い込まされたのではないか、と考えた。
 しかし「機関」の性格が明らかになってくるにつれ、その考えもしっくりしなくなってきた。病院は「機関」から、私を治療するかわりに、廃人にしてやるようにと持ちかけられたのではないか。しかし、良心ある正常な医師にはそんなことはできない。だが「機関」は例の執拗さで食い下がる。そこで医師は治療もそこそこに私を病院から締め出すのではないか?
 さらに病院にかかるなかで、別のことが見えてきた。(これは機関の動きの変化によるものでもあろう)。
 病院内に「機関」に工作された看護婦がいるのではないのか? あるいは「機関」から派遣された看護婦がいて、医師がいくらちゃんとした処方を指示しても、その看護婦が、処方とは全然別の治療をするのではないのか。医師以上の「力」をもって。
 私の感じたところでは、医師はそのことを知っているようである。しかし医師はそれをどうすることもできないようである。

 

         「三」

 初めの痛みは、会社を解雇され、失業生活を送るなかで、しだいに消えていった。
 二度目は約一年後、竹内電設という会社に入ってから数か月たった頃からだった。会社の近くには生協やスーパーマーケットがあり、昼食はそこで自分の手で選んで買ったものばかりを食べるようにしていた。(給食弁当を何度かとったことはあるが)。だから、何者かに毒物を投与されるすきはなかった。しかしそれでも痛みだした。そして私の隣で図面を書いている男が言った。
「食わねば死ぬし、食えばあぶないし、困ったものだ」
 考えられるのは、アパートの自分の部屋に置いてある食品であった。これまでに何度、部屋に置いてあった食品を捨てたろう。しかし、この症状はいったん出ると、消えるまでにかなりの日数がかかるので、原因が部屋に置いてあった食品によるものかどうかを限定することができなかった。部屋のドアには、前から付いていた錠のほかに、自分でも別に取り付けた。しかし私がどんな錠を付けたとしても、それを開けるのは「彼ら」にとってはなんでもないだろう。
 いつの頃からか、私は足がとても冷えやすくなったが、考えてみると、これは足が痛むようになってからのことのようである。

 

         「四」

 一年ほどまえから私は現在の桃川制作所というところへ入り、そこから君津鋼板加工という会社へ出向し、そこでクレーンを動かしている。
 かなり良くなりつつあった足の痛みは、今の会社に入ると同時に痛みだした。その症状はこれまでにないほどひどい。
 病院を訪ねても治療してもらえないことを知っていたので、私はここ数年、病院を訪ねることをしていなかった。

 最近、他の町の、ある整形外科医院を訪ねた。私が住んでいる町の整形外科のほとんどへはこれまでに訪ね、どこでも異常ないと言われている。
 私は医師に症状を詳しく説明した。
「これまでに大きな病気をしたことは?」
 医師が私にたずねた。
「ありません」
「頭が痛むことは?」
「ありません」
「仕事は何をしていますか?」
「クレーンの運転です」
「じゃ、薬物は使わないね」

 このとき私は、ある者たちから密かに与えられる毒物について話そうかと思った。しかし信じてもらうのは一苦労だ。そのうえ、私の精神状態まで疑われかねない。迷っていると医師が言った。
「薬物のせいでないとすると、単に血液の循環が悪いということかな‥‥、血液の循環をよくする薬をあげますから飲んでみてください」
 それから血液も検査してみるといって採血された。

 一週間、その薬を服用したが、変りはなかった。再び病院を訪ねた。血液検査の結果には何ら異常はないという。若い医師は首をかしげて弱った様子。薬をもう少し続けてみる以外に方法はないといって、さらに一週間分くれた。
 症状に変化はなかった。医師は本当に困りきった様子で、これ以上どうしようもないと言った。医師は機嫌が悪かった。私の病気(?)を治すことができないことを腹立たしく思っているようだった。
 最後に私は、医師に毒物のことを話し、「訴」のいくつかを置いて帰った。

 
 続けて私は他の病院を訪ねた。本郷台駅の近くにある大きな病院の整形外科。だがこちらはもう、めちゃくちゃ。まえもって手がまわっていたのか?(前に一度、私はこの病院へ午後やって来て、受付は午前11時までだといって断られたことがあった)。
 私を見た医師の顔に、動揺と警戒の表情が浮かんだ。
 私が医師に症状を説明し始めてまもなく、彼に電話だといって、カーテンの向こう側へ出て行った。私は電話のやりとりを聞いていた。医師はただ相槌を打ち、時々、「ええ、そうですね」と言うだけだった。
 電話から帰って来ると、彼は私を突き放しにかかった。
「そのような症状はこれまでに聞いたことがない。医者は全部の病気を知っているわけではないんだ。これはぼくの知らない病気だから調べようがない。これは神経科へ行ったほうがいいよ。神経科‥‥、精神科と言っているんじゃないよ。神経科と精神科の区別、わかるね?」さらに「あんたは胃を調べても肝臓を調べても、異常ないと言われているんだろう?」
 いったい彼は、このようなことをどこから知りえたのだろう?
 私は「受付」に寄り、さっき納めた初診料を返してもらうつもりだったが、うっかり、そのまま帰ってしまった。

 

         「五」

 この密かに与えられる毒物には本当に神経を使う。将来に対する第一の不安は、この毒物によって健康を奪われることである。しかも病院でそれを治療してもらえないとなると、この不安は救われないものになる。
 
「機関」がどんなにばかおどりをしても、私は精神的には参らないだけの自信がある。なにしろ相手はうじ虫である。

 何年か前、私は原因不明の激しい腹痛で数日間、入院したことがある。数日間、何も食べず、点滴が行なわれた。その後やっと食事が与えられた。最初は米粒がほとんど入っていないかゆだった。何日間かかけて普通の食事にしてから退院するはずであった。しかし私はそのまえに、そそくさと退院させられた。
 入院中、院長その他の医師がまわって来たが、私は彼らの動揺を感じとった。

 

         「六」

 ある者が、他の者に、こっそり毒物を与えたとする。この犯人はまわりの者たちに、「おれはあいつに毒を盛るのに成功したぞ」と言いふらすであろうか? そんなことは決してしないであろう。それどころか、ひた隠しに隠そうとするだろう。ところが「彼ら」はそれをある者たちに言いふらし、その者たちと喜びを共にするのである。
 しかもそれを聞かされてよろこぶ者たちは、別にこれまでに何人か人を殺してきているというような悪人ではない。ごく普通の家庭の主たちなのである。いったい何をどうしたら、このような現象が起こるのであろうか。

 

         「七」

 これは私がある小さな会社に面接に行ったときのことです。

 新聞の求人広告を見て私は電話した。すると明日の夕方来るようにと言われた。翌日私は出かけた。応接室へ通され、テーブルをはさんで社長と向かい合った。女の人が私たちに飲物を運んで来た。水みたい。しばらく話をしていて、ふと二つのグラスの様子が違うことに気がついた。社長の前のグラスは外側に細かい水滴がついていた。中の液体が冷たいためだろう。ところが私の前のグラスは乾いていた。また、向こうのグラスの中では時々小さな泡が立ち上った。炭酸飲料か? 私のは、ただの水みたい。しばらくして女の人がやって来て、それを飲むようにすすめた。それまで私は口をつけていなかった。そのまましばらく話が続いた。私は両手をテーブルの上、グラスの前に、指を組み合わせて乗せていた。ふと、社長が私のその手を暗いまなざしで見つめた。なぜだろう? 何か無作法なことでもあったのだろうか。社長は私に、グラスの中のものを飲むようにすすめた。社長は私の手ではなく、グラスを見ていたのだろう。私はすすめられるまま一口飲んだ。サイダーみたい。少ししてまた一口。頭がふわーとしてきた。変だ。私はいくぶんボーとした頭で話を聞いていた。
 そこへ男の客がやって来た。社長の知っている人で、来ることが予想されていたみたい。私はそそくさと帰された。入口でその男と出くわした。うじ虫ではないかと疑って見た。目が合った。チラとそれらしい表情が浮かんだ。

 変な気持で駅まで歩いた。不審を感じながら飲んだ自分を責めながら。
 夜、足首に痛みを感じた。また例の痛みか。これが何か月も続くのか。
 翌朝、起きて歩きだすとき、例の痛みを感ずるだろうと思った。しかしその痛みはなかった。ただ、ひざから下の皮膚がむずがゆく、だるい感じ。そして時々鈍い痛み。この症状はやっぱり何か月も続いた。
 私がこの会社を訪ねたのは、この時が初めてであった。しかも、訪ねる前日、公衆電話から電話しただけである。このことだけで「機関」は、これだけのことをする用意ができたであろうか?
 私はこれまでにも、公衆電話から電話しただけで、その相手に手がまわるのを感ずることが何度かあった。大事な電話をしている最中、おかしな切れ方をし、再びかけ直すと相手は話し中。何度かかけ直してやっとつながってみると、もう相手の調子が変っている。

 

         「八」

 訪ねる先々の病院で「異常がない」と言われるなかで、私は自分で自分を診察、治療できないものかと考えた。医者も人間である。私だって医学書で学んだなら、医師の技術を身につけられないこともないだろう。
 以前私は、どこの法律事務所を訪ねても相手にされないことを知り、自分で法律書を買ってきて学び、訴訟を最高裁まですすめたことがあった。医学もやってできないことはないだろう。私はまず手始めに「血液検査の基礎知識」という本を取り寄せた。(高価なものであった)。それまでは顕微鏡と注射器、それに薬品があればなんとかなるだろうと考えていた。しかし、この本を読んでみて、それは甘い考えであることがわかった。検査に必要な機器を全部そろえたら、小さな医院が一つできてしまうほど金がかかるかもしれない。それに独りでの習得は困難な経験が必要だ。

 

         「九」

機関が私を迫害する」
機関が私に密かに毒物を与える」
 これらはまるで精神分裂病者のたわごとである。しかし、このような機関が実際に存在し、このような行為をしていたとしたら? そして陰でおどって、私にこういった精神分裂病者のようなたわごとを言わせている者たちと、私を精神分裂病だと言ってさわいでいる者たちとが同一の者だとしたら!

 

         「十」

 私は数年前から、市民税、県民税を納めていない。現在、それらを納められるていどの収入はあるが、それでも納めていない。それは以前、私が本当に困っていた頃 ─ 就職もできず、また就職できてもすぐに解雇される、といったことを繰り返していた頃、私はとうとう生活保護を申請しに、横浜市戸塚区役所・福祉事務所を訪ねた。ところが、精神病院へ入れられそうになり、申請を断念して帰ってきたことがあったからである。困ったときに救ってもらえないなら、何のために金を納めるのか?
 しかし、市、県民税はわずかな額である。もっともばかばかしいのは所得税である。ばかにできない額を、少ない給料から天引きされるのは、涙が出るほどくやしい。うじ虫に金を奪われるような気がしてならない。

 私が生活保護を申請しに戸塚区役所を訪ねたとき、まだ二、三か月暮らせるだけの金はあった。しかし、完全に身動きができなくなってから出かけるのは、あまりにも能がない。
 それに、ある一つの疑問がいつも私にあった。私を迫害している者たちの行為は、その手口からみて、私が生きていけなくなるところまで追いつめるはずである。
 だが福祉国家日本には生活保護の制度がある。これはどうか? 保護を受ければ、生きているとはいえないまでも、死なずにいられるていどの支給がある。はたして彼らは私にそのような道を残しておくであろうか? もし残しておいたなら、彼らがどんなにばかおどりをしたところで、私に逃げきられるではないか。そんなはずはない! そこにどんな手が隠されているのか、私には想像できなかった。そこで私は文無しになるまえに申請してみた。

 申請は文書でもってした。その中で私は「迫害」についてもふれておいた。それを一人の職員に手渡した。私は待たされた。すると、その部屋の中ほどで、こっちに背を向けて仕事をしていた若い女が、上半身を私の方へねじ向け、「フガーッ」と、ものすごい笑い方をした。その笑いを見たとき、私は、それは私を迫害している組織の、かなり中心近くにいる者の笑いであることを直感した。
 男の職員がやって来ていろいろ話をした。彼は私のことをまえもってよく知っているようであった。話していて、私は病的な不快感を味わった。そこへ、もう一人、立派な男がやって来て、職員をどこかへ引っ張って行こうとした。そのただごとならぬ様子を見て、私は『何かあるな!』と感じた。
「何ですか! 何か話があるならここでしてくださいよ!」
 彼らは私から数歩離れたところで立ち止まった。やがて、立派な男は腹を決めたように、
「よし、ではここで」
 そう言って、そこに立ったまま職員に何かささやいた。私は耳をすました。
「‥‥まず、医療保護ということで‥‥、それからあとは自宅療養ということで‥‥」
 私はそれが何なのかを問いただした。すると、生活保護としてではなく、私を病院へ入れ、医療保護として支給しようというのだった。もちろん、入院させるかどうかは医師の診断によるというのであった。しかし、彼らの指定する医師にかかったなら、私は、「疑いのない精神分裂病である」と診断されるのである。もっとも彼ら機関は、気にくわない人間を見ると、すぐに「精神分裂病だ」といって、さわぎをおっ始めるようであるが。
 私は申請を断念した。帰りぎわ、彼らの名前をたずねた。職員は大北、立派な男は保護課長と名のった。課長の姓名は聞き出せなかった。
「ここへ来ればいつでもいる」というのだった。

 

         「十一」

 「正義の味方」、「何ものをも恐れずに悪とたたかう」革新的な弁護士たちも私を相手にしてくれない。ということは、「機関」の存在及びその行為は悪ではないのかもしれない。しかし、それならどうしてこれらの弁護士たちは次のように私に言ってくれないのだろう。
「彼ら機関の名称は〇〇で、次の理由でおまえを迫害している。彼らの存在及び行為は、〇〇法、第〇〇条によるもので合法である。だから、おまえがいくらたたかっても無駄なんだ。やめたほうがいい。彼らの思い通りに始末されるんだな」と。
 しかし誰もそんなことは言わない。

 

        「十二」

 なかには、私に対する「機関」の行為は間違っていると思っている人もいるかもしれない。しかし、たとえそういう人がいたとしても、私に協力することは困難でしょう。それは私にも理解できる。私に協力しようとするなら、それはその人の破滅につながるかもしれない。
 現に、私に協力的な人たちの何人かが不自然な倒れ方をしていった。

 また、私のためにたたかったとしても、どんな利益があるか?裁判で「彼ら」に勝って、損害を賠償させることができればいいが‥‥。しかし、「彼ら」は、あんなにも立派な根拠をかかげておどっているではないか。へたをすると、自分まで笑いものになる。かりに裁判で勝ったとしても、後でどんな復讐をされるかわかったものではない。
 しかし私は、「彼ら」がどんなに立派な根拠を私にあびせかけたとしても、私はそれらのすべてを笑い、はね返してみせる。

 彼等に対抗する者は、たぶん破滅させられるだろう。一方、彼らに協力すれば、何もかも具合よく運ぶ。会社を経営している人は商売が繁盛する。会社、役所勤めの人は出世、昇格する。オンボロ長屋に住んでいる人は高級マンションへ、あるいは家が建つ。

 

        「十三」

 私が初めて就職したのは、岩手県にある釜石製鉄所というところだった。私はこの会社に10年間いたが、初めの間、私はまだ、ある奇怪な機関が私のことで動いていようなどとは思ってもいなかった。
 ただ、時がたつにつれ、何かしら自然でないものを感ずるようになった。職場での人間関係に手ごたえを感ずることができなかった。赤ん坊扱いされているような‥‥。それが八年ほど続いた。「機関」はこの間、職場の者たちを通して私を観察していたようである。少しばかりばかげた話をふりまきながら。
 この観察をしている間に、「彼ら」の胸の中に醜い感情 ─ 私に対するねたみともいうべき、醜い感情が芽生えていったろうことを私は確信できる。
 その醜い感情が高じて、とうとう彼らはちゃんとした行政上の手続きを経て私を彼らのリストにのせ、ばかおどりを始めた。

 職場の空気は急激に異様さと悪質さを増した。その手先となって最初におどりだしたのが、当時の私の上司、山崎工長だった。彼は柔和で、まじめな人だった。私は彼の急激で異様な変化を見て驚いた。それはとても起こりえないものだった。まるで夢でも見ているようだった。(その後、行く先々で同じ現象をうんざりするほど見てきた今では、そういう人たちを見ても、ただ、「うじ虫に狂わされたな」ぐらいにしか思わないが)。
 この工長が、狂わされ始めた頃、まるで私に弁解するように、「誰だって自分はかわいいんだ」と言ったことがあった。なんでこの人は私にこんなことを言うのだろうと、そのとき私は不審に思った。
 かなり後になって、私はこれを私なりに理解した。工長は、彼が「機関」の言う通りに動かないと、彼自身の身が危うくなることを「機関」から直接的、ああるいは間接的に知らされたのだろう。彼は動揺していたのだろう。
 私はこの種の動揺をこれまでいくつか見てきた。特に人並以上に善良な人が狂わされていく初期の段階でよくみせた。しかしそれはほんのつかの間のことで、あとはもう立派なものであった。
 工長の場合も、この動揺はちらっと見せただけで、あとはもう気違いじみたばかおどりであった。そしてそれは職場全体へと広がっていった。

 私はこの会社にこれ以上いたら、あまり長くない間に私の精神に破綻をきたすのを感じ、この会社から逃げ出した。しかし、行く先々で同じことの繰り返し。しかも、もう初めから少しの手加減もない。

 

         「十四」

 人間は悪の方向へなびきやすくできているようである。私が接した人々のほとんどが「機関」と調子を合わせた。ある者は喜んで、またある者は良心の呵責を感じながら。
 私の側に立ってくれた人はごくわずかしかいなかった。私の知っているかぎり、10本の指があれば十分に数えられる。そして、それらの人々の何人かは不自然な倒れ方をしていった。
 私がこのように言うと、ある人は次のように考えるかもしれません。
「彼らが、彼らにとって都合の悪い人を、そのように簡単に倒すことができるのなら、どうしておまえを直ちに始末しないのか?」と。しかし、すでに私から毒物云々と指摘されている以上、誰の目にも不自然にうつる方法で私を始末することはできないでしょう。それに、「彼ら」がそういうことをするのではないかと、注意して見守っている正しい目もあるでしょうから。彼らは、外観上は何の異常も認められない方法で、私の健康を奪っていくしかないでしょう。
 ただ、私にも不思議なのは、彼らが私を悪い人間だと判断した時点で、どうして私をひと思いに始末してしまわなかったのかということである。ばかおどりする以前に。
 彼らが私をばかおどりに持ち込んだのは、楽しみのためとしか思えない。猫が捕えたねずみをすぐに食い殺さず、しばらくもてあそぶように。

 

         「十五」

 私が彼らの思い通りに始末され、この世から姿を消したとしても、誰もなんとも思わないだろう。彼らと歩調を合わせているものたちは喜ぶであろう。
 民主国家だの、法治国家だのといわれている日本で、このようなことが野放しになっているのを見ると、「タハッ!」となる。
 このような、恐ろしく、またばかげきったことが許されている社会では、どんなに立派な人、組織、政党が、どんなに立派なことを言っても、私にはそれらは何の意味もない、うつろなものにしか響いてこない。

 

         「十六」

 就職を妨害され、就職できても賃金を最低に押えられ、それより昇給することもなく、ボーナスなどほとんどもらえない。一緒に働く者たちは毒され、私のまわりには嘲笑いと、ののしりが渦巻く。そしてその者たちによる気違いじみたあらさがし、こき下ろし、デッチあげ。人間らしい会話のない日々が何年、何十年と続く。そして恐ろしい孤独の限界。友人、恋人はできない。できそうになると、全く卑劣な方法でその間を引き裂かれる。また、密かに与えられる毒物に神経を使い、不審な症状がでても、それを病院で治療してもらうこともできない。
 このような人生、普通の人に耐えられますか? 休まずに会社へ行けるかどうかというより、まず生きていられますか? 発狂せずに、犯罪行為に走らずに。
 私はいったい何のために生きているのでしょう。不思議に思う人もいるのではないでしょうか。死ぬのが嫌だから、仕方なく生きているのでしょうか。しかし、そんな無気力さでは、とうてい「彼ら」のばかおどりには耐えられないでしょう。
 私はこれまでに何度か力尽き、『これでおしまいか』と思ったことがあった。しかし、それを私に乗り越えさせ、私をこれまで支えてきたのは、「彼ら−悪」に対する怒りとたたかいであり、また、この「悪」を許している社会に対する怒りであった。

 (「訴その十六」にこう書いたとき、私は内心、『いや、それは少し違う』と感じた。しかし、流れでこう書いてしまった。私を本当に支えてきたのは、「おれは立派な人間で、彼らはうじ虫だ」という確信であった。)

 

         「十七」

 彼らの行為は遅かれ早かれ、いつかはきっと暴露されるであろう。正義感が強く、勇気ある人々によって。
 彼ら機関もそのことは感じているであろう。そして、その時がきても、あまり困らないように、彼らは彼らの行為を正当づけるための証拠書類を用意し、蓄えているであろう。金、その他の汚い手段を用いて狂わせ、彼らと足並をそろえた者たちに証言させた糞臭い書類をどっさりと。

 

         「十八」

 私の問題が明るみに出、解決したときの私の立場はどうだろう。
 
「民主国家ジャパン」の中で、このような非人間的な、恐るべき人権侵害行為が長年にわたり、かなりの数の人々に対してなされ、それらの人々を葬り去っていたことが明らかになったら
‥‥。しかも、人権を守るはずの人権擁護機関、及び、犯罪を取り締まるはずの警察の見守るなかで。
 彼ら機関=国に対する、良識ある国民の批判。迫害されてきた人々による国への損害賠償の請求。これまでの立場は逆転し、「うじ虫」は文字通りのうじ虫になる。迫害されてきた人々の勝利。
 平凡に暮らしている人々にとって、これはうらやましくもあろう。そしてこの感情が人々に、私の問題が解決に向かうのを喜ばなくさせるのではないのか? もしかすると、この感情は、血のつながりのある肉親たちの心までも変えてしまうほどの力を持っているのかもしれない。

 

         「十九」

 私は、私が生まれ育った岩手のいなかへ帰ることはめったにない。帰りたくない。思い出すのも嫌である。「ふるさと」などとはとても呼べない。それほどいたたまれなくなって飛び出した町である。しかし、その町へどうしても帰らねばならないことがたまにある。
 そんなとき、私はある不思議な現象に出くわすようになった。私の生家の近所のある者たちが、私を見ると、こそこそと姿を隠すようになった。なぜだろう? いったい彼らは、私とまともに顔を合わすことができないようなことを私に対してしているのだろうか?
 もちろん私には、それがどういう内容のものかを容易に想像することができる。そしてそこには、例によってうじ虫どもがおどっているのである。糞のにおいのするところには、たいていうじ虫が這いずりまわっている。そしてこのうじ虫どもが、現在私に対してなされている、ばかおどりの発端をつくった者たちであろう。

 

         「二十」

 彼ら機関は証拠さえつかまえられなければ、どんなに破廉恥なことでもする。たとえ、彼らがそういうことをしていることを相手に悟られていると知っていても。(場合によっては、わざと悟らせることもある。相手をいらいらさせるために)。
 私には彼らの精神が理解できない。最初、彼らのそういう精神に接したとき、私はひどく面くらった。そのような精神が人間に備わっていようとは思ってもいなかった。
 私にはそんな破廉恥なことはできない。どんなにうまく相手をだましたとしても、自分自身をだますことはできない。もし私がそんなことをしたなら、それはもう、私が人間として生きている価値を失うことになる。
 だから、彼らの性格を知ったとき、ひどく驚き、そのことを考えると思考が空回りした。現在では、「彼らはうじ虫だ」と自分自身に言い聞かせ、やっと納得できているが。

 

         「二十一」

 私が彼らの破廉恥な行為を、ある人に訴えると、彼らのある人はむきになって私に反論する。
「証拠があるのか? ないだろう? あんたの言っていることは、みなあんたの主観に過ぎない。情況証拠にすぎない。妄想だ。また、そんな機関はありえない。あんたにそんなことをして何の得がある?」
 こんなことを言うとき、その人は私に対する憎悪をむき出しにする。そして「機関」の存在を私の目から覆い隠そうとする。
 私はテレビで「刑事コロンボ」を好きでよく見た。コロンボが、犯人とにらんだ人物に執拗に食い下がり、追求していき、ついにその者を降参させる。物語の進行はいつも同じだったが、それでも面白かった。
 追いつめられた被疑者が、コロンボに向かって決って言うせりふがある。
「だけど、おれが犯人だという確かな証拠はあるかね? おまえさんの言っていることは情況証拠にすぎない。それだけではどうにもならないね」
 これは、どたん場に追いつめられた犯罪者のせりふである。正しいことをしている人間がこのようなせりふを言うのを私は聞いたことがない。これと似たようなせりふを、自分たちでも言い、他の者にも言わせている「機関」は、私にはどうしても、正しいことをしている者たちとは思えない。

 

         「二十二」

 以前、私がまだ「人権擁護委員会」とはどういうところかを知らず、単純に、『人権を侵害されたんだから、人権擁護委員会へ行って救ってもらおう』と考えていたころ、よく彼らから言われた。
「人権を侵害されたというのなら、具体的な事実を持って来なさい。いつ、どこで、誰が、何を、あなたにしたのか」
 私が膨大な記録、資料を持参しても、
「具体的な事実がどこにも見当たらない。せめて人権侵犯があったのかなと、うかがわせるだけの、ささいなことでもあればいいのだが、それすら見当たらない」
 とくに鎌倉市人権擁護委員会会長の常盤温也氏から、これをうんざりするほど言われた。しかし、再三にわたる私の訴えに対し、とうとう彼は書面で次の返事をくれた。(昭和49年10月23日)


 貴方をつけまわしている者や、あなたを中傷している者がいるのではないかというお申し出により、当委員会は調査いたしましたが、そのような事実は全くありませんでした。


 この後、私がやっと就職できた会社(ヤマナカ)をわずか四か月で、精神分裂病らしいといって解雇を通告された。その件で会社に行くことになっていたその当日、大船駅の改札口を通り、すぐに右に曲がると、改札出口側の手すりに両手をつき、上半身を思いきり前方へ突き出して私の方を見ている者がいるのを感じた。見ると、常盤氏だった。彼の表情を見るなり私は直感した。彼は今度のことで私がどれだけ精神的に参っているかを見物に来ているのだと。目が合うと彼は、「あっ!」と言って頭を下げた。私は思わず「トホー」と笑い、顔をそむけてしまった。

 

         「二十三」

 私は現在、M製作所という小さな会社から、K株式会社というところへ出向し、クレーンを動かしている。
 このM製作所に入るとき、社長と面接した。賃金を決めるとき、私は少しでも高く決めたかった。入社してしまえば、決して昇給しないことはわかっていたから。しかし社長は、まず最初の一か月間は〇〇円で働いてもらいたい。その一か月間、あまり休まず、残業もあるていどしてくれたなら、〇〇円まで上げてやろうと言った。私は休まず、残業もした。一か月ほどして会社へ電話をした。すると社長は言った。「今、きみは残業しているかもしれないけど、きみには残業できない理由があるそうだから昇給できない」
 私はこれは話にならないなと思い、これから先が思いやられたので、すぐにやめようと思った。

 ある会社へ面接に出かける。私には自分をより良く見せようという芸当はできない。ありのままの姿で接するだけである。しかし相手は私に好感を示し、そのうちどこそこに新しく工場をつくる予定だから、ゆくゆくはそこを私にまかせたい、といったことまで言いだす。しかし数日後、約束の日にこちらから電話すると、ぞっとするほど冷たい調子で断られる。

 入社数か月後のボーナスは3千円、さらに半年後の冬が、わずか1万円であった。これは全然出さないわけにはいかなだろうからといって、仕方なく出した額である。
 私をさんざんこき下ろし、会社にこのようなことをさせ、ゲラゲラ、ニタニタ笑って喜んでいるまわりの者たち。
 そのような者たちを見ると、私はほっと安堵し、何かに感謝したい気持になる。私はそのような種類の人間に生まれてこなかったことを。

 

         「二十四」

 恥かしくないほど年をとり、妻も子もあり、家もあり、会社では立派な地位にあり、収入もあり余るほどある人々 ─ こういう人々にとって、何の地位もなく、妻も子もなく、どこへ行ってもろくな扱いをされず、収入もろくになく、四畳半ひと部屋を借りて、やっと食って生きている私など、眼中にないはずである。ところが、こうした立派な人々が、どうしてこんなにまで、と不思議に思うほど私をこき下ろし、デッチあげ、私の足をすくうようなまねをする。醜い表情を浮かべながら。そういうときの彼らは、私にはただのガキのように見えてくる。

 

         「二十五」

 どこかで「機関」によって、私に不利な工作が成功したとする。私は職場で仕事をしていて、それを感知することができる。職場にいる「機関」の同調者、手先たちの様子から。こうした者たちの中には、その会社の重役たちも含まれている。彼ら同調者には、情勢の変化が刻々と伝わってくるようである。仕事中の彼らに。

 

         「二十六」

 「彼ら」は、桁外れにばかげたことを言いふらし、私を笑いものにし、発狂させようとする。私はそれに耐え、乗り越えてきた。
 ばかげきった中傷が通用しなくなると、今度は、「なに、そのうち気が狂ってしまうさ、もう長いことはないよ」と言いふらす。
 彼らの破廉恥さを知らない人がこのようなことを、もっともらしく聞かされたら、私を特殊な目で見、近寄ろうとしないだろう。また、私と接する態度も変ってくるであろう。「彼ら」は、このような状態が長く続けば、それが人間の精神にどのような作用を及ぼすかを、ちゃんと見通しているのである。
「気が狂うぞ、気が狂うぞ」と言いふらし、私とまわりの人々との間に冷たい溝をつくり、そうすることによって発狂させようとする。なんてばかげていて、ナンセンスなことだろう。

 「彼ら」は、誰をも納得させることのできる確かな根拠を表にかかげて、堂々と行動するようなことは決してしない。そんなものは彼らにはないからであろう。彼らは陰でのみおどり、エサを与えて彼らに同調させた者たちを私のまわりでおどらせ、私が精神的に参ってしまうのをただ待つだけである。私が発狂しなければ、彼らは同じことを何十年でも続けるであろう。彼らにはそれ以上のことは何もできない。全く能のないことである。彼らはすでにこれを20年以上も続けてきたのである。

 

         「二十七」

 次は私が最近まで通っていた英会話の学校(夜間)でやらされた私のスピーチです。(日本語訳)

  「日本における不思議な現象」 (1979・12・3)

 私は旅行がとても好きです。知らない土地を独りで旅し、知らない人々に出会うのは楽しいことです。
 しかし私はめったに旅行することはありません。私は何者かによって、旅行を楽しめないようにされています。

 ずっと以前、私がまだ本当に若かった頃、花巻温泉を友人とおとずれたことがありました。私たちはまえもって旅館(会社の保養所)を予約しました。その旅館に滞在しながら、私たちはその近辺の史跡を訪ねました。
 旅館での一日目はそれほど変ったことはありませんでした。しかし、二日、三日とたつうちに様子が変ってきました。まずそれはウエイトレスの態度に現れました。
 旅館には大きな食堂があり、客はそこで食事をとることになっていました。ウエイトレスの一人が、私の食事を運んで来たとき、私を気味悪そうにながめました、このように。(身振り ─ 彼女がどのように私をながめ、どのように食事を私の前に置いたか)。彼女らの態度は日ごとに悪化していきました。でも一度、彼女らの一人が私を見て考え込んでいるようでした。『でもこの人はそんなに気味悪い人には見えないけどなぁ』というように。

 私たちが旅行するときは、たいてい列車を利用します。そして、時には何時間も乗ることがあります。列車での長旅の間には、トイレに行ったり、食堂車へ行ったりします。あるいは、ただ席を立ってデッキへ行き、窓の外を眺めたりします。座ってばかりいるのも疲れますから。
 しかし後で‥‥、皆さんに想像できますか? 私が自分の席に戻って来たとき、そこで何を見出すかを。私の席のまわりの人々の様子がすっかり変っています。彼らは私を見て、ばかにしきった笑い方をします。婦人は私を気味悪そうに見ます。少女は親の陰に隠れます。

 みなさんはこのような状況で長い時間旅行できますか? 私は我慢できます。慣れていますから。私はこのような愚かな表情をうんざりするほど見てきています。

 私が予約なしで旅館に入った場合、私は普通の調子で迎え入れられます。皆さんと同じように。このようなことは誰にとってもあたりまえのことなのですが、私にはそれがとても心地よく感じられます。
 女中さんが私を部屋へ案内し、「ごゆっくり」と言って立ち去ります。しばらくして彼女、または別の女中さんが宿帳などを持って来ます。そして、例によって彼女の様子が変ってしまっています。その旅館は、まるで指名手配中の男が舞い込んだかのようにふるまう。
 どうしてこのようなおかしな現象が私のまわりで起こるのでしょうか? みなさんは私が病気で、実在しないものを見ていると思いますか? しかし、そのような行為をしている機関は実在します。それは日本国そのものです。

 あるジャーナリストは、国は一人の人間をつけまわし、このようなばかなことをするのに、年六億円使っていると私に言いました。しかしそれはいったい何のためでしょう? 国がどうして私にそのようなことをするのでしょう? 私はその理由を知りたい。数年前、私は国に質問しました。どうして国が私に対してそのようなことをするのかを。しかし国は答えませんでした。それで裁判に持ち込みました。最高裁までいったのですが、判決は、国は私の質問に回答すべき法的義務はないし、私には国にそのような回答を求める法的根拠はないということでした。その判決はあとでお見せします。

 もし彼ら ─ 国がそのような行為をするための正しい理由があるなら、彼らはそれを私に告げ、法によって私を罰するでしょう。しかし彼らは決してそれを私に告げず、陰でおどるだけです。汚い方法で。
 私は彼らを「日本のうじ虫」と呼んでいます。彼らは私が接する人々のすべてに近づき、それらの人々を私から引き離そうとします。彼らは、私と、私のまわりの人々との間に正常で暖かい人間関係が決して生まれないようにします。

 彼らはきっとみなさんにも何らかの方法で接しているでしょう。どうかそれを私に教えてくれませんか。それから私を笑ってください。私を笑うのは、それらを私に告げてからでも遅くはないでしょう。でも、もちろん私はそれをみなさんに強要はしません。私の両親でさえ、「さぁ、おらぁそんなごどについては何も知らねぇぞ。おまえは病気かもしれない。一緒に病院へ行って診てもらおう」と言いました。

 ではここである毒物について話させてください。
 私はめったに飲食店で食事をすることありません。そして、自分の手で選んで買ったものばかり食べるようにしています。それは飲食店で、食事の中に何かの毒物を入れられるのを避けるためです。また病院にかかった場合は、そこで与えられる薬にまで気を使わねばなりません。
 これらの飲食店や病院は「機関」によって工作されているのでしょう。そして「機関」は、その毒物によって私の健康を奪おうとします。私はその毒物を与えられないよう、かなり注意をしているのですが、たまに失敗することがあります。
 この毒物によって引き起こされる症状はいくつかあるようですが、なかでもはっきりした症状の一つに、手足の痛みがあります。そしてこの痛みは半年ほど続きます。痛みを少しずつ失いながら。一度私はこの痛みのために正常に歩けなくなったことがあります。この症状が出ると、私は身体的にとても疲れやすくなります。私はこの症状を病院で治療してもらうこともできません。
 十日ほどまえ、私はひどいのに見まわれました。(しかも、この英会話の学校で)。その夜、私は足の痛みで目が覚め、そのまま眠れませんでした。

 私はこの毒物を与えられないように気を使っていますので、もしこの症状が現れると、私はその毒物が、いつ、どこで、誰によって私に与えられたかを限定することができます。しかし私は、誰がその毒物を与えたかを推定できても、私はその人に怒りを感ずることはありません。私はそのようなことをする人たちに、あわれみと同情を感じます。

 この毒物がただ痛みを起こすだけのものなのかどうか、私にはわからない。しかし、たぶんそれは内臓のあるものを損ねているのではないかと思います。

 みなさんは、人間が、非人間的で残忍な行為を見ることに喜びを感ずると思いますか? 私はこれまでに、そういう人々をたくさん、私のまわりに見てきました。彼らは一人の人間が悪質な「機関」によって、その一生を台なしにされ、破滅させられていくのを見て喜びます。喜びを感ずるだけでなく、彼らは「機関」に手を貸すことさえします。こうした人たちの何人かは、昆虫さえ殺すことができません。またある人は敬虔なクリスチャンです。彼らは善良でまじめな人たちです。そのうえ、善悪の区別をつけられる人たちなのです。
 たぶんその人たちは「機関」の行為が非人間的なもので、悪であることを知っているでしょう。
 悪いと知りながら、悪事をはたらくというのは、人間の特質ではありません。しかしそういう人々が実際にいます。なぜでしょう? それには二つの理由が考えられます。
 第一に悪いことをすることが彼らの利益になるからです。しかしどんな利益でしょう? もし彼らが私を葬ったとしても、私からは何も奪い去ることはできないでしょう。私が持っているもので、金目のものといえば、ステレオセットぐらいなものです。彼らは「機関」に買収されているに違いありません。
 第二の理由はねたみです。彼らは私の純粋さと強さにねたみを感じているのでしょう。


         「二十八」

 私は「訴その十四」に、新聞にのせようとして作成した原稿「えたいの知れない機関につけまわされ、苦しめられているみなさんへ」をのせました。私はそれを持って、読売、毎日、朝日の各新聞社を訪ねましたが、実は、共産党の中央委員会あてにも送り、党の機関紙「赤旗」で取り上げてくれるようお願いしていました。次は、そのことで二度目に書いた手紙です。

 

 1978年9月18日
  日本共産党中央委員会 御中

 私は8月27日、そちらへ私の原稿(「えたいの知れない機関につけまわされ、苦しめられているみなさんへ」)と、いくつかの資料(最高裁の判決と、「訴その十一〜十三」)をお送りし、党の機関紙「赤旗」で取り扱っていただきたい旨、お願いしました。
 三週間たった現在、連絡がありませんので、もしかしたら無事に届かなかったのではないかと心配し、このような手紙を書きました。
 現在、私は「赤旗」は日曜版しか購読しておりませんので、取り扱っていただいたかどうか知る由はありませんが、たぶん取り扱っていただいていないものと考えております。
 私がそちらへお送りしました原稿その他はお返しする必要はありませんが、その取り扱いがどのようになったかは、お手数でもお知らせしていただきたく思います。

 私は以前(1965年)、一時、共産党員であったことがあります。しかし、八か月間ほどでやめてしまいました。今になってみますと、私を迫害し続けている者たちが、仲間の党員たちから私を引き離し、私を孤立させるために陰で工作したためだと思います。
 私が所属していたのは、岩手県東部地区委員会釜鉄支部でした。
 私が党をやめるにいたった経過は、当時の仲間たちがよく知っていることと思います。そして、当時の仲間たちと私の間を、誰が、どんな形で引き裂いたかも当時の仲間たちがよく知っていることと思います。

 かなり後で私は、私のこれまでの記録、「私の半生」の中で、誤って当時の仲間たちを非難しました。しかし、その過ちに気がついてから、私は岩手県東部地区委員会を訪ね、詫びました。そして、陰で動いている者たちについて知っていることがあったら協力してほしいとお願いしました。しかし断られました。
 
「私の半生」が同地区委員会に大きな打撃を与えたことは、私自身容易に想像できます。

 私に会ってくれた同地区委員会の方は私に、
「あんたの来るのが、もう少し早ければよかったのになぁ」と妙なことを言いました。
 私の想像では、私が地区委員会を訪ねる前に、すでに私のことで話し合いがなされ、私に対する地区委員会の方向が決ってしまっていたものと思われます。
 同じ頃、私は直接党に関係のない、ある人から、かなり古い党員二人が党をやめたという話を聞きました。

 この問題で私は何年か前、党の本部を訪ね、ご協力をお願いしました。「私の半生」その他もお渡ししてあります。その後も「訴」の続きをお送りしましたが、受取人がいないということで返送されました。私はそちらを訪ねたとき、私に会ってくださった方が私に教えてくれた名あて(中野氏)に送ったのですが。

 どうか、「赤旗」で私の原稿を取り扱っていただくか、あるいは党としてこの問題を取り扱っていただけないでしょうか。
 私はこれまでにいろいろなもの(「訴」の続きもの)を印刷し、あちこちへ配り、訴えてきました。その中には党を非難していると受け取られる内容のものもありました。しかしそれは、共産党がどうしてこのような問題を放っておくのか、といういらだちから、つい出たものでした。お詫びいたします。

 (以下省略 体の調子が悪くて病院を訪ねても、精神病院へまわされるなどして治療してもらえない。外部からの力を受け付けないで治療してくれる病院を紹介してくれないか、といった内容)。

 

 このお願いに対し、返事はなかった。何度か手紙で問い合わせたが、それに対しても返事はなかった。

 

         「二十九」

 私は選挙権を得て以来、ずっと共産党だけに投票してきた。
 私はこの問題で、党の地方地区委員会を始め、本部、中央委員会へも足を運び、なんとかして力になってもらおうとした。その中で私は考えた。自民党を構成しているのも、共産党を構成しているのも人間である。そして人間と名のつく生き物なら、たいていのものを狂わせてしまう「機関」。私は選挙権を一切棄権するようになった。

 あるとき、選挙近くになったとき、党または民青(日本民主青年同盟)の活動員、男女数人が私が住んでいるアパートへやって来た。私は「アカハタ日曜版」を購読することにした。彼らは私を、ある定期的な集まりに出て来ないかと誘った。聞いてみると、どうも民青の主催している集まりで、集まる人々も十代、二十代の若者らしかった。私は、「民青の集まりに出るほど若くない」と言い、さらに、私は岩手にいた頃、民青に入っていたことがあることなども話した。
 こうして、毎週末になると「アカハタ日曜版」が私のところに配られるようになった。しかし「機関」の手口を知っている私は、「アカハタ」が私のところに配られるのは、二か月も続けばいいと考えた。私と党を近づけるのは「彼ら」にとって具合が悪いのである。
 ところが私の予想に反して、「アカハタ」は一年以上、あるいは二年近く私のところへ配られた。これは「アカハタ」を配っている若い女の努力によるものらしかった。彼女は私にある種の関心を持っていたのかもしれない。集金に来て顔を合わせたとき、彼女は何度か、若者の集いに私を誘った。私はそんなところへ出るほど若くないからと、同じことを言って断っていた。しかし多くの場合、戸口で金を渡すだけで、会話らしい会話をすることはなかった。それでも私は、いつか彼女と話し合う必要を感ずるようになっていた。
 その第一段階として私は、今、私のおかれている状況をわかってもらおうと思い、「訴」のシリーズから、その十一から十五までと最高裁の判決のコピー、それに以前、党の中央委員会へ送った手紙のコピーを各二部ずつ彼女に渡した。
「これを地区委員会へ渡してください」
「わたしも読ませていただいてもいいですか?」
 彼女はたずねた。もちろん私は、
「ああ、いいですよ」と答えた。

 この次、彼女が集金に来たら話をしようと思った。しかし、それから二か月間、私は彼女と顔を合わすことはなかった、彼女は集金にも来なかった。日曜版が配られない週もあった。
 このようなことから、私の頭の中には自然に次のようなことが浮かんだ。「機関」に工作された党員が、彼女が私のところへ「アカハタ」を配るのをやめさせようとする。でも、私をそんな人間とは思えない彼女は続けて配ろうとする。そうした彼女の複雑な気持が私には伝わってくるような気がした。
 このころ(昭和54年夏)選挙があった。それまで私は棄権していたが、このとき私は共産党の候補者に投票した。
 党の中央委員会や、県委員会などを訪ね、そこでどのようにあしらわれてきたかを考えると、党の候補者に入れるのはかなりの抵抗があった。しかし、彼女が私に示してくれた姿勢にこたえるつもりで、私はその日、雨の中を投票場へ出かけた。

 9月1日(土)、会社は休みで、私はアパートの自分の部屋で、ちょうどそのとき訪ねて来ていた英会話の学校の教師(米人)とレコードを聴いていた。
 そこへ彼女が訪ねて来た。「こんにちは」という声がし、開け放しておいたドアへ彼女が姿を現した。いつもはジーンズ姿だったが、このときはきれいな服装をしていた。
 しかし客がいるのを見ると、彼女は入口のところに日曜版を置き、すぐに帰って行った。私も、「どうも」と一言いっただけだった。客がいなかったら彼女に入ってもらい、話をしたろう。
 これを最後に、「アカハタ日曜版」の配達はとだえ、彼女も姿を見せることがなくなった。たまっていた数か月分の購読料も集金に来なかった。

 (それからどれくらいたったときか、一度、彼女と道ですれちがったことがあった。そのとき彼女は、私をまるで、連続婦女暴行魔を見るような目で見ていた)。

 

         「三十」

 うじ虫どもの手先になっておどり、悪事をはたらくには、たいていの人は、どこか不自然で、ぎこちなさを見せる。しかし、今、私のいる会社には、その仕事にうってつけの男がいる。まるで、それをするために生まれてきたかのようである。もしかすると、この男はそのうち「機関」から、うじ虫として本採用されるかもしれない。めでたいことである。

 ところでこのまえ、わが社のボーナスがあった。私がもらったのは、前回冬のなんと50パーセント増しの1万5千円であった。

 

        「三十一」

 つい最近、私はある会社へ面接に行った。ある月曜日、会社を休んでしまったのを利用し、職業安定所へ出かけた。求人案内を見ていて、興味ある仕事を見つけた。私はその会社への紹介状を書いてもらった。
 数日後、土曜日の午前、面接に出かけた。社員数十人の会社で、音響メーカーのアンプやプレーヤーの組立てをしているところだった。そこでの私の仕事は、流れ作業ででき上がった製品の検査と手直しであった。面接は社長が直接し、工場内も案内して見せてくれた。応接室へ戻り、労働条件や賃金などの具体的な話に入った。ところが途中でこの話は中断された。
今、粗末にできない客が来ているので、この話の続きは午後1時からにしてくれないか」
 という。そして、それまでに私の賃金がどれくらいになるか、事務員に計算させておくと言った。二時間もある。私はその辺を歩いて時間をつぶした。 

 会社のまわりには田んぼや林が多かった。歩いているうちに古い寺を見つけ、その境内に入り、木陰のベンチで、本を読んだ。
 午後1時過ぎ、再びその会社へ戻った。社長の様子がさっきとは違っていた。そして私の履歴書を見て、これまでどうしてこんなに仕事を変えたのか? とか、うちのような仕事が本当にできるのか? と疑い深そうにたずねた。
 仕事を何度も変えてきたことを説明するには、うじ虫にふれなければならなかった。しかし、そのようなことを言い出せば、採用してもらえない。でも嘘は言えない。私はうじ虫について話した。そして私は社長にたずねた。
「こちらへは(うじ虫が)来ませんでしたか?」
「来るわけないでしょう。わたしたちはこうして今日初めて会ったんだから」
 私は口頭でうじ虫について精一杯説明した。そして腹の中では、いくつかの資料を持って来るんだったなと後悔した。

 重苦しい気分でその会社を出た。出てから気がついた。私の賃金を計算しておくと言っていたが、賃金の話は全然出なかったことを。
 私はアパートへ帰ってからすぐに、その会社へいくつかの資料(「訴その十一〜十五」)を郵送した。しかし土曜日の午後であった。届くのは月曜日になるだろう。
 数日後、不採用の通知があった。消印を見ると月曜日であった。

 

         「三十二」

 私に心をひかれながらも、うじ虫どもに毒され、私から離れていく女‥‥。その女の脳みそにもあいそがつきるが、それにもましてうじ虫どもの素晴らしいまでのあくどさ!
 私がある女に心をひかれて近づこうとする。すると彼らは全力をあげてばかおどりをし、その女を、私がとても取りつくしまもないほどまでに毒してしまう。彼らは、私がその女と言葉を交す機会を与えまいとする。なぜなら、彼らは私がその女と一度でもじっくり話し合ったなら、もう私たちの間を引き裂くのはむずかしくなることを知っているからであろう。

 (以上「訴その十六」より ─ 昭和55年8月24日発行)

 

 


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