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  第二編

     第十一章 亡命の試み

一節 (亡命の試み-ソ連大使館)   二節 最高裁判決   三節 (ポーランド大使館)   四節 (戸塚診療所) (スイス大使館) 国連人権委員会への訴え   五節 (戸塚診療所二回目、精神科医を呼ぶ) (県立精神病院芹香院1回目)   六節 「訴その12」   七節 (県立精神病院芹香院2回目)    八節   九節 「訴その13」 (声明文「私を迫害し続けている者たちへ」)   十節 (えたいの知れない機関につけまわされ苦しめられているみなさんへ)  十一節   十二節 (兄の死)  十三節 訴その14」   十四節   十五節   十六節 (食事に毒物?2)

 

             一 節

 昭和51年(1976年)

 12月17日、やっと行動に出た。
 ソ連大使館を訪ねるつもりで東京へ出た。手持ちの地図が古いせいか、町名が違う。やっと探しあてた。その間、ずっと、カメラを持った若い男が私につきまとった。

 大使館の門はすべて閉ざされ、その前には数人の日本の警官が警備にあたっていた。近寄りがたい感じがした。大使館を探しあててから電話しようと思っていたので、公衆電話を探した。道をへだてた向こう側に電話ボックスが見えた。道を横切って行ってみると、郵便局の前だった。私は郵便局の中に入り、椅子に腰を下ろし、気持を落ち着けた。これから電話する要点をメモにまとめた。その間も、これから何かとんでもないことをやろうとしているようで、胸が高鳴った。
 椅子を立つとき、さっき入って来て私の隣に座った女の存在が、なぜか気になった。
 電話ボックスへ入った。ダイヤルを回しながら、ふとやめて受話器を置こうかと思った。しかし、もう全部番号を回し終っていた。凍るような思いで全神経を耳に集中させた。ところが幸いか、聞こえてきたのは話中の信号音だった。ほっとして受話器を置いた。同時に、どうしても避けることのできない瞬間がまたやってくるのだと思った。
 しばらくしてまた電話。つながった。出た。ロシヤ人らしい。日本語をよく理解できないらしい。それでも私の言うことは理解できたようだ。しかし彼は、よくわからないから広報課へ電話してくださいと言って、そこの電話番号を教えてくれた。
 広報課へ電話した。女が出た。日本人だ。私は説明を始めた。「迫害」という言葉を口にすると、女は微かに「うふ」と笑った。男に代った。明らかに手がまわっていた。
 だがこれは、後になって考えてみると、手がまわっていたのではなく、これまでに私と同じことを言ってくる人が多くいるので、そのからくりは「機関」から聞かされて知っていたのだろう。そして、そうやって訪ねて来る人間は、生きている価値のない屑だということも。
 その男は言った。
 「それは日本国内の問題だろ? それをソ連大使館に持ってきて解決してもらおうなどということはできない。ソ連にとって、それは日本への国内干渉になる。日本国内で解決しないものを外国に持ってきたって、どうしようもないだろう? ちゃんとした資料があるなら、日本国内で取り上げられるだろう」
 私が説明しかけると、男はいきなり電話を切った。

 私は最初に電話したところへもう一度かけ直した。すると、電話に出たロシヤ人らしい男が、広報課がここに電話するように言ったか? と私を非難するような口調で言った。私が説明していくと、相手は確かな口調で答えた。
 「あなたが、しっかりした資料を持っていれば、大使館に入ることはできます」
 土曜、日曜は休みだから、月曜日、午前9時から午後1時までの間に入りなさいと言った。
 「わたしはサーロフです」と彼は名のった。
 「今日(金曜日)はだめですか?」
 と聞くと、もう遅いという。午後4時頃のことであった。

 12月20日、月曜日、再び大使館を訪ねた。
 門の前で警備にあたっていた警官に、
 「サーロフさんという方に会うことにしているんですけど」
 と言うと、すぐに通してくれた。閉めきってある大きな門のわきの小さな通用口の扉を開けて入ると、すぐ右に守衛所があり、ロシヤ人らしい男性がいた。
 「サーロフさんにお会いしたいんですけど」
 そう言うと、彼はやさしい表情を浮かべ、黙って庭の向こうの大きな建物を示した。
 庭をわたり、その建物に入った。「受付」という札のあるカウンタ−があったが誰もいなかった。しばらく待っていると婦人が出て来た。とても感じのよさそうな太ったロシヤの婦人。サーロフ氏の名を告げると、どこかへ電話していたが、つかまらないらしい。今探しているから、少し待つように言われた。
 しばらくして、サーロフなる人がやって来た。しかし、どうも話がかみ合わない。私のことは知らないという。先週の金曜日、電話で話した人はサーロフと名のった、と言っても、それは自分ではないという。
 用件は何かと問われた。私はまごついた。さっきの婦人が、そばで興味ありげに私を見守っていた。私はかばんから資料を取り出そうとした。すると彼は、
 「まあ、こちらへ」
 そう言って、右側の大きな広間へ私を通した。舞踏会も開けるような大きな広間。入ったすぐのところに小さなテーブルとソファがぽつんと置かれていた。ソファに腰を下ろした。婦人もついて来てそばで見ていた。私がまごついていると、婦人は察したのか去って行った。私はほっとして説明した。

 日本国が私を迫害している。国外へ逃れたい。ソビエトへ。迫害の内容はここに詳しく書いてある。そう言って私は資料を出した。すると彼は、それじゃ別の人が話を聞くからといって、資料の入っている大きな紙袋にMr. Kuguchov」と書き、電話番号も書いて出て行った。
 しばらくして、また彼がやって来て、それとは別の人が来るからといって、さっき書いた人の名を消した。しかし、新しい名は書かなかった。

 待っていると、さっきの婦人が、広間の向こうの隅から盆を手に、ほほえみながらやって来た。紅茶を持って来てくれた。
 「ズドラーストヴィーチェ」
 彼女は私に近づきながら言った。彼女には、大使館といった物々しいところで働いているという感じは全くなかった。ロシヤの家庭的雰囲気が感じられた。
 私は紅茶には手をつけなかった。せっかく出してくれたので飲みたかった。しかし自分が歓迎されているのかどうかもわからない。これからどういうことになるのかもわからない。

 ややひとときして、一人の男性がやって来た。薄い感じを受けた。日本人の血も交じっているのではないかと思われるような顔だち、体つき。すーっとやって来て、私の右向こうへ座った。冷気がさーっと漂った。どういう用件で来たのか? と彼は冷気を含んだ言葉で私に尋ねた。私は説明に入った。冷気は依然として引かなかった。「KGB」という名称が私の頭をよぎった。
 私が国外に逃れるときは、第一にその国が社会主義の国であることが条件であった、と言うと、彼の表情に大きな変化が現れた。冷気はかなり薄らいだ。さらに私は、社会主義国の中からロシヤを選んだわけを話した。ロシヤの文学や音楽に心をひかれていたことなど。
 彼は、だいぶ人間的な暖かみをみせるようになった。紅茶を飲むようにもすすめた。でも私は飲まなかった。
 彼は私の提出した資料を見ていたが、私の希望を改めて文書で申し出なさい、と言った。私は数日中にその文書を作成し持参しますと告げ、そこを出た。彼はトトロフ氏と名のった。

 二日間かかって次の文書を作成し、12月23日、木曜日、大使館を訪ねた。

 

   帰化(亡命)許可のお願い

 私、沢舘衛は、ソビエト社会主義共和国連邦への帰化(または亡命)を志望し、それを許可していただきたく、ソビエト社会主義共和国連邦にお願い申し上げます。

   帰化(亡命)の理由

 私は、およそ20年以上におよぶ長い年月にわたって、日本国の国家機関によるものと思われる、私に対する人権侵害によって苦しめられてきました。それとのたたかいのなかで、現在の日本で、日本のある国家機関によって、彼らのリストにのせられた国民を、あらゆる手段を用いてこの世から抹殺してしまうという、恐ろしい「制度」が一般の日本国民に知られないままに存在することを私は感知しました。それ以来私は、彼らのこの攻撃から自分を守りながら、この「制度」を明るみに引き出し、国民の前に示し、この「制度」を廃止させるためにたたかってきました。
  (私が、日本のその国家機関のリストにのせられた最初の原因が何であったとしても、その後の彼らの行為の最大の原因は、私に対する彼らの妬みだと、私は固く確信しています)。
 この国家機関の行為に対しては、警察や検察、それに人権擁護機関や報道機関、及び弁護士も手出しはできないらしく、これらの協力が得られない私独りの力では、とうてい解決することはできませんでした。
 それに、日本において、私の生存権まで奪われかけている現在、国外へ逃れるほかに私の生きる道はなく、また、悪夢のようなこれまでの生活、社会から開放されたく、私はこのたび、ソビエト社会主義共和国連邦への帰化(亡命)を志望いたしました。

   帰化(亡命)する先の国として、
      ソビエト社会主義共和国を選んだ理由

 私が帰化(亡命)する先の国を選ぶにあたって、第一の条件になったのは、その国が社会主義の国であることでした。
 社会主義国の中でロシヤは、私がずっと以前からロシヤ文学、ソビエト文学、及び、ロシヤの音楽、民謡を通して、深く心をひかれていた国でした。
 私が日本において生存することがむずかしくなったときは、帰化(亡命)する先の国として、ソビエト・ロシヤを選ぶことは数年前から心に決めていました。

 1976年12月23日
                    沢 舘 衛
 ソビエト社会主義共和国連邦大使館 御中

 

 大使館の受付には婦人の他に数人いた。
 「今大使館に来ています!」
 近くで大声がした。見ると
薄汚れた感じの日本人の若い男が、受付の電話からどこかへ報告していた。
 私は婦人に、トトロフ氏に会いたいと告げた。婦人は時々、焦げついたような笑いを浮かべ、
 「トトロフさんはいない‥‥
He's out‥‥go out
 そう言って外を指さした。私は持って行った書類を、トトロフさんに渡してくれるようにと頼んで、すぐに帰った。そこを出て、はっきり感じた。『いまおれが通ったところは、ゴキブリやうじ虫に踏み荒らされたところだ』

 この後、大使館からは何の返事もなかった。年が開けた1977年(昭和52年)1月5日、直接訪ねるつもりで東京へ出かけた。正午過ぎ、有楽町駅で降りて電話した。電話に出た男性は、私の名前を聞くと、心得ていたように、
 おねがいについてですね」
 と、しっかりした発音で言った。感情がこもっていた。
 「どなたとお話したいんですか?」
 「このまえは、トトロフさんという方とお会いしましたけど」
 しばらくして、トトロフ氏はいないという。他の担当者もいないので、2時か3時にまた電話をしてくれという。

 私は皇居前をぶらぶら歩いた。砂利の広場を歩いて行くと、観光客が記念撮影をしていた。皇居前の風景を眺めて『気違い国家ではあるけど、きれいだな』と思った。そうしているうちに体が冷えてきた。銀座へ出、暖房のきいた本屋に入り、本を見ながら体を暖めた。ここで大きな発見をした。
 島崎敏樹氏の書いた本が目につき、手に取って見た。「人格の病」という大型の本で、精神分裂病に関したものであった。買おうかと思い、定価を見ると2,400円、手が出なかった。最後のページの、著者についての説明を読んでびっくりした。彼は前年(昭和51年)3月に死去したとのこと。一瞬、背筋が凍る思いがした。私はそれを知らずに、「訴」を発行するたびに彼宛に送り続けていた。病で亡くなったとあった。

 3時になり、再び大使館へ電話した。あっさりした調子で、トトロフ氏はまだ帰らない、何時になるか、全然わからないという。
 さらに5日後(1月10日)もう一度電話した。駄目ならだめで断ってほしかった。他をあたってみる都合もあるので。
 トトロフ氏はいないという。電話に出た男性は、予想に反して親身だった。私の申し出や、後から送った手紙についても知っていた。彼はトトロフ氏は一時間後には帰るだろうから、一時間後に電話してみてくれという。私が、トトロフ氏でなければわからないのか、と聞くと、トトロフ氏と話したほうがいいでしょうという。
 一時間後、また電話した。さっきと同じ男性が出た。トトロフ氏はいったん帰って来たが、また出かけたとのこと。トトロフ氏が帰ったとき、私のことを彼に告げておいたという。彼はこれらの言葉を力をこめて話した。その調子の中に、私は重大さと暗さを感じとった。トトロフ氏は、何か陰気なことを彼に話したのではないか? 彼は私をがっかりさせまいとするように、
 「今、検討中です」と言った。

 

              二 節

 昭和52年(1977年)

 この前年(昭和51年)の5月、代々木総合法律事務所を訪ね、資料を渡し、協力をお願いしておいた。さらに9月、「訴」の続きを送った。

 年が明けた1月19日(1977)、東京へ出たついでに、その法律事務所を訪ねてみた。
 
応対に出た弁護士(?)の態度が話しているうちに急変した。私の言うことにほとんど耳をかさず、私を追い返しにかかった。持っていった資料一式も受け取らず、まるでガキを追い返すような調子で追い立てられた。そのあまりの仕打ちに、私はそのままそこを出たのでは気持が納まらなかった。出るとき受付の女はびっくりしたように私を見ていた。私は、私の本当の姿をさらけ出した資料を、どうしてもここに残して帰りたかった。これまで送り続けたものは、ほとんど誰の目にもふれていないだろうから。私は受付の女に、
 「これをあげますから、よかったら読んでくれませんか」
 そう言って、資料一式を置いて出た。
 私がこの事務所で話していたとき、私の背後で何者かが、身ぶり手まねで、何かのしぐさをしていたのではないのか? それで相手の態度が急変したのではないか? また受付の女が何度か「ウヒヒヒ!」と笑った。

 1月24日、月曜日(1977)、最高裁から判決が送達されてきた。

 

 ( 裁判書類の原本はすべて縦書き。「右代表者」などの「右」は「上」、「左」は「下」と読み替えてください。)

  昭和51年(オ)第1025号

       判 決

            横浜市戸塚区笠間町七一九番地
               上 告 人      沢 舘 衛
               被上告人     国
               右代表者法務大臣 福 田 一

            横浜市中区日本大通一番地
               被上告人     神奈川県
               右代表者知事   長洲 一二

 右当事者間の東京高等裁判所昭和51年(ネ)第425号回答請求事件について、同裁判所が昭和51年6月29日言い渡した 判決に対し、上告人から全部破棄を求める旨の上告の申立があった。よって、当裁判所は次のとおり判決する。

     主 文

  本件上告を棄却する。
  上告費用は上告人の負担とする。

     理 由

 上告人の上告理由について

 本件につき、上告人がその主張の質問状及び督促状について被上告人らの回答を求めうる法的な根拠はなく、従って被上告人らが右質問状及び督促状に回答すべき法的義務を有しないとする原審の判断は、正当として是認するに足り、原判決にはなんらの違法はない。所論違憲の主張は、右の違法を理由とするものにほかならないから、前提を欠く。論旨は、採用することができない。
 よって、民訴法401条、95条、89条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

           最高裁判所第一小法廷
             裁判長裁判官 岸上 康夫
                裁判官 下田 武三
                裁判官 岸  盛一
                裁判官 団藤 重光

上告人の上告理由

  (すでに本書に「上告理由書」として掲載したので、ここでは省略)

は正本である。
    昭和52年1月20日
         最高裁判所第一小法廷
                  裁判所書記官 小林 壽

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  『 この判決は間違っている 』 私はそう感じた。

 

 1月27日、木曜日(1977)、姉から荷物が送られてきた。「チェーホフ全集」だった。送ってくれるよう頼んでから五か月近く過ぎていた。もうあきらめかけていたところだった。お礼の返事と一緒に、姉の子供たちへ文房具を買って送った。

 

 本を送ってくれてありがとうございました。27日受け取りました。送ってもらえないものとあきらめかけていたところでした。探すのに骨が折れたことと思います。すみませんでした。
 それから、送料と手数料は私が払うと約束していましたが、今、私は失業中で生活が苦しくなっていますので、これだけでかんべんしてください。昨年の9月から失業しています。もう、就職することは不可能なようです。
 信じてもらえないと思いますが、徹底した妨害がなされています。誰にでもできる仕事、それもアルバイト、臨時として応募して行っても一切だめです。とにかく私に金が入ることになるものは何でも絶たれます。
 私は日本にいては、これ以上生きていけないでしょう。まったく恐ろしいことをする者たちもいるものです。また、このようなことを許している日本という社会にも恐ろしさを感じます。このような者たちに私の肉親たちまでが‥‥。
 私が国外へ逃れるのを、私をこれまで苦しめてきた者たちが、これもまた妨害しているとしたら、これはどういうことになるのでしょう。彼らの言うように、私を生かしておいては日本の社会のために良くないというのでしたら、その私が日本から他の国へ逃れようとしたら、よろこんでそうさせるでしょう。しかしそれをも妨害しているとしたら、それは彼らの行為 ─ 私を苦しめてきた彼らの行為は、ただ、私に対するねたみと楽しみのためだけだったということを証明していることになるでしょう。彼らは私を国外へ逃さず、自分たちの手で、この楽しみ、よろこびを完成させたいのです。

 

              三 節

 昭和52年(1977年)

  2月7日 月曜日 (1977)

 ポーランド大使館を訪ねた。亡命したい旨を伝える文書は、和文と英文の両方を用意して行った。
 受付は日本人だったので助かった。が、あとでやって来たポーランド人は、私の英文の書類を見て、私が英語を話せると思ったのだろう。英語で話された。私は、自分の英語がまったくだめなのを知った。
 大使館員は、もう私の亡命を認めることを前提に話をすすめた。これはまったく意外なことだった。資料を一式渡して帰った。

 大船へ帰って来てすぐ、駅の近くにある英会話の学校「湘南イングリッシュ・カレッジ」へ行って案内書をもらった。入学金8千円、授業料は三か月で2万4千円だった。収入のない私には無理であった。
 雇用保険は一か月以上前に切れていた。「神奈川新聞」を買ってきて求人欄を見て仕事を探した。就職を妨害され、たとえ運よく就職できても、数か月でだめにされるのを知っていた。しかし、働かなければどこからも金が入ってこなかった。
 電気の仕事で適当なものはなかった。そこで機械製図の仕事を選んだ。機械製図の基礎は製鉄所の教習所で学んでいる。

 関内駅前のビルの何階かにある、太洋工業設計という会社へ面接に出かけた。そのとき、竹内電設で私が書いた図面を何枚か持参した。その場で採用が決定された。彼らは私がこれまで転々としてきたことについて全く言及しなかった。明日から出て来てくれと言われた。数か月間、川崎にある池貝鉄工へ出向することになった。
 翌日、8時半に会社へ出、そこから車で池貝鉄工へ連れて行かれた。気違いどもの動きはどうか? 初日の午前中は何も感じられなかった。が、午後には、まわりの者たちから例の気配が感じられた。
 就職できたので、その日の帰りに英会話の学校に寄り、入学手続をした。アメリカ人の男性から、簡単な質問をされ、それに答えるというテストがあった。私は一番下のクラス「基礎クラス」に入れられた。情けなかった。このまえ、入学案内をもらいに立ち寄ったので、もう手がまわっていたのだろう。嫌な思いをした。

 新しい会社(出向先)のほうは、不思議なほど穏やかな日々が続いた。一か月以上たった3月28日、給与を受け取りに本社に寄った。給与は一時間750円で計算してあった。入社時の話では、700円ということだった。
 本社では、専務に少し変化が感じられたが、一か月という期間からみれば、意外なほど正常だった。私は彼らに、この一か月間あまり残業ができなかったわけを説明した。夜、英会話の学校へ通っていること、ある事情から日本にはいられないこと。そのうち、外国へ行こうと思っていることなど。そして、資料一式を渡した。

 このすぐ後であった。池貝鉄工のほうで、係長の小川が急に狂い出した。これまでにもそのきざしはあった。彼は前田という社員を通して私に文句を言った。私は前田に反論し、それで何とか納まっていた。しかし今度は本物である。もうどんなことをしても正気に戻すことはできそうもない。竹内に似てきた。
 彼の急変から四日間、私はじっとがまんしていた。しかし、五日目からは、小川のばかぶりを、私という鏡に映して彼に返してやった。すると小川はさらに狂いたった。
 どうしてこんなにまで恥かしいことができるのだろう? いい年をしたおやじが、まるでガキのようなことをやりだす。いったい自分が何を演じているのかを知らないのだろうか? それとも、それに気がつかないほど狂っているのだろうか。
 それとも‥‥それとも(これは新しい発見というよりは、すでに竹内電設にいた頃から心にとまっていた)、ばかがどんなに醜悪なことを演じても、まわりの誰もそのばかを笑うことがないからだろうか? まわりの者すべてが狂わされ、特定の人間がばかぶりを発揮できる下地がつくられているのではないのか?

 4月28日、木曜日、本社から森氏という設計屋がやって来て、ここ(池貝鉄工)の仕事が、もうなくなるそうだから、定期券が切れしだい、やめてくれと言われた。
 私は真相をぶちまけた。気違いどもがこの職場の者たちを狂わせ、私をこき下ろさせたのだと。森氏は私を信じてくれているようだった。しかしどうなるものでもなかった。私と森氏が話していると、小川が私の顔をのぞきこんだ。おお、その愚かしい表情!

 5月6日、金曜日の朝、また森氏がやって来た。今度は若い男を一人連れて来ていた。森氏は小川らと話していた。それから私のところへやって来て、池貝では、もう今週いっぱいで私をいらないと言っている、と告げた。今週いっぱいといっても、明日一日だけではないか。
 森氏は今日連れてきた男は私の代りの人間だと言った。
 「ここで仕事をしているよりは、次の仕事を探したほうが利口なんだ」
 彼は私に言った。森氏が帰った後、私は図面を書きながら考えた。『もう、こんな仕事を、こんな便壺の中でやっていることはないんだ。帰ろう』
 やりかけの仕事は11時過ぎに終った。私はまわりの整理にかかった。昼休み時間、構内の小さな売店から紙袋を買ってきて、作業衣などを詰め込んだ。食事を済ませ、着替えをして帰るばかりにしてから、窓際で将棋をしている小川のところへ行った。
 「これからのことで忙しいので、これで帰ります」
 そう告げると、小川は顔を上げ、何か言おうとしたが、私の冷たい表情に出くわし、黙り込んだ。私は一言の礼も言わず、頭も下げずにそこを離れた。二か月しか働けなかった。

 働いているうちに「訴その十一」を発行した。内容は、最高裁の判決と、ソ連大使館へ、ロシヤへの帰化(亡命)を求めた文書をのせただけの短いものであった。用紙は、これまでのザラ紙ではなく、白い上質紙を使った。就職でき、金が入ったので、奮発したのだ。

 

              四 節

 昭和52年(1977年)

 半年ほど前から、37度前後の微熱が続いている。さらに数週間前から、また足の痛みが起こった。毒物を盛られるすきはなかったと思う。

 県庁の近くにある警友病院というところを訪ねてみた。警察関係の病院のようであったので、不正はしないだろう考えた。内科で診察を受けた。診察の後、私が、
 「外部から病院へ妨害が‥‥」
 と言いかけると、すぐに精神科へまわされた。精神科へは資料を一式置いて帰った。

 一週間後、再び訪ねた。まず内科へ行った。内科的にはなんら異常はないと言われた。次に精神科へ行った。資料は部長が読んだという。しかしその部長は私に会わなかった。精神科の診察は一切なかった。受付のおばさんと話しただけ。

 (1977)4月26日、共産党の神奈川県委員会を訪ね、身体の異常を、外部からの力に左右されない医療機関で調べてくれないか、と頼んだが断られた。しかし、戸塚診療所というところを教えてくれた。そこは国家機関に押え込まれるようなところではないという。

 4月30日、戸塚診療所を訪ねた。私は症状だけを説明し、その他のことは一切話さなかった。血液がとられた。
 一週間後の5月7日、再び訪ねた。医師の様子がすっかり変っていた。私を精神病者だと思い込まされているようだった。
 もとの病院へ行け!」
 彼は何度も言った。
 他の科のことは、他の科のある病院へ行ってみてもらえ」
 他の科とは何だろう。私がその医師に、内科以外のことを何か相談したとでもいうのか。

 

 ポーランド大使館を訪ねてから三か月になるが、返事はなかった。
 (1977)5月13日、スイス大使館を訪ねた。スイス大使館は、そこが外国大使館とはとても思えないところだった。苔の生えてくるような暗い木立の中の、木造の日本風の建物であった。
 大使館に入る少し手前に、古い二階建ての家があった。廃屋のようだった。その二階の窓(ガラス戸は外されて、無かったように思う)から、中年の男がじっと私を見下ろし、睨んでいた。「イヌだ」と直感した。
 持って行った書類を受付の女性に渡した。応接室で待っていると、若くて、やさしそうな日本人の男性が出て来た。
 私の申し出に対し、彼は自由主義国間の亡命は認められていないと答えた。亡命ではなく、帰化という形では? と聞くと、それでもむずかしいという。スイスに入るには、何かの資格を持って入らねばならないという。旅行とか、働くとか。
 彼は個人的には私に力を貸したいようであった。それで、スイス人に聞いてみると言って、二度も部屋を出て行って交渉してくれた。しかし、だめ、とのことだった。
 彼は、スイスへ亡命を求めて大使館を訪ねてくる人がたくさんいること、このまえは岐阜から女の人が来たということを話してくれた。そして、大使館に救いを求めて来る人々の中には、精神に異常をきたしている人もいるという。私はそれらの人々の名前と住所を教えてくれるよう頼んだ。しかし、彼はそれらを控えていないと答えた。

 5月19日、木曜日(1976)、東京へ出かけた。電話帳から、国連の東京広報部を探し、訪ねた。新大手町ビル。
 その部屋に入って、一番近くにいた女に説明した。国による個人への人権侵害を国連に訴えたい。書類をこちらへ提出できるか。
 「ここではそのような引き継ぎはしていない」
 女は答えた。私は国連の所在地を教えてくれるよう頼んだ。女は「はい」と答えて奥の方へ行った。しばらくすると別の女が出て来た。その女の目を見、話していて、私と同じ目にあっている人間がここを訪ねたのは、私が初めてではないことを知った。その女は言った。
 「国連はそのようなものを受け付けない。受け付ける部署がない」
 「人権委員会はあるでしょう?」
 「あるけど、それは個人の問題を取り上げるところではない。国連は国の集まりで、個人の問題を取り上げるところではない。そのようなことは、国の段階で解決すべきことだ。国連へ訴えるなら、外務省へ行って、そこから国連へ訴えてもらえばいい」
 「外務省は国家機関だ。国家機関はどうにもならない」
 「個人が手紙を書いたって、何の返事もない。わたしは嘘を言っているのではない。事実を言っているのよ」
 こんなやりとりをしているうちに、女の顔にこのうえない幸福そうな表情が浮かんだ。それは、私がどんなにもがいても、決して救われないことを確信し、喜んでいるようだった。それでも、国連の人権委員会の所在地を教えてくれた。人権委員会はスイスにあったのだ。

 

  5月24日 火曜日

 夕べ、明け方の4時過ぎまで、ふとんの中で考えた。これからどうするか?
 六法全書を開いてみたが、国外へ出るのは思っていたよりむずかしそうだ。法務大臣や外務大臣といった者の許可が必要である。また、相手国にもいろいろな制限があるだろう。
 それにしても、この人間の社会で、こんな恐ろしい悪がこれからも栄えていくのだろうか? 警察、人権擁護機関、弁護士らはいったい何のためにあるのだろう? 小さな悪に対抗するためにか。

 

 6月5日、日曜日、国連の人権委員会へ訴文と資料を一式送った。訴文は英語で作成されたが、ここには日本語訳を引用する。

 

 国際連合人権委員会御中

 私は国連に、日本国の国民に対する人権侵害行為を訴え、国連が日本国のこの行為を世界に明らかにしてくれることを望みます。
 日本国は組織的に日本国民の人権、さらには生存権までも不法に侵害しています。しかも、かなりの数の国民がこの方法で迫害されているにもかかわらず、国のこの迫害行為は、ごくわずかの人々にしか知られていません。
 日本国のこの行為は疑いなく違法行為であり、また、世界人権宣言にも違反したものです。しかもその行為は、ねたみとか、悪意といった、醜い感情に基づいたものでしかありません。
 私はこれまでの20年間、日本国のこの機関によって苦しめられてきました。この機関は何らかの理由で犠牲者を選び、リストにのせ、そうして、その者をあらゆる手段を用いてこの世から抹殺しようとします。必要なら毒物までも用いて。その理由は犠牲者自身には一切知らされません。
 一方私はこの迫害から自分自身を守りながら、この制度を明るみに引き出し、廃止させるためにたたかってきました。
 しかし、この機関の行為に対しては、警察、人権擁護機関、報道機関及び弁護士も手出しはできないようです。1974年7月、法務省人権擁護局の加藤氏は、「あんたの問題を取り上げたために、うち(人権擁護局)がつぶされるようなことがあっては困る」と言い、また、東京合同法律事務所所属の田中富男弁護士は、「どこへ行っても、これを取り上げてもらえないということは、今の制度ではこの問題は無理だということなんですね」と言い(1973年4月18日)、それから鎌倉市役所の法律相談で、末岡弁護士は、私のおかれている状況について、「君、悪が栄えることもあるんだよ」と言いました。(1974年8月2日)。

 これらの協力が得られず、私は私のたたかいを完遂させることができませんでした。そのうえ私は、現在日本において、私の生存権まで奪われかけています。国による妨害のために就職することもできず、また、国が密かに投与しようとする毒物に私はいつも気をつかわなければなりません。
 もし私が不審な症状を感じても、それを病院で治療してもらうこともできません。
 国外へ逃れる以外に、私がこれから生きていく道はありません。私はこれまでに、ソビエト・ロシヤとポーランドに、私がそれぞれの国に逃れることを認めてくれるようお願いしました。ソビエト・ロシヤへは昨年12月、ポーランドへは今年の2月。しかし、そのどちらからも返事をもらうことはできませんでした。

 二年ほどまえ、私は日本国に対して、私を迫害してきたのは国なのか? もしそうなら、どうしてそんなことをするのかと質問しました。しかし国は答えませんでした。それで私は裁判にもちこみ、国が私の質問に答えるようせまりました。
 しかし判決は、国は私の質問に回答する法的義務はなく、また私には、国から回答を求める法的根拠はないということで、私の請求は棄却されました。最高裁判所もこれと同じ判決をしました。

 私に関していえば、私はこれまでに人を傷つけたことはなく、また、公共の福祉に反する行為もしたことはありません。
 国が私を彼らのリストにのせた最初の理由が何であったとしても、私に対する彼らの行為の最大の理由は、私に対するねたみであると、私は固く確信しています。
 だが彼らは、私が精神異常者、性格異常者だから私を迫害していると主張しているようです。このことについては、日本国の介入なしで行なわれる、どのような診断、検査をも私は喜んで受けます。

 私は次の(日本語による)いくつかの記録、資料を提出します。これらの記録、資料は迫害がどのようなものであったかを証明することと思います。
 皆さんがこの手紙を読んだとき、きっと私の精神状態を疑いになることと思います。しかし、これらの記録、資料がその疑いを晴らしてくれるものと私は信じています。

「私の半生」--- 1960年から1973年までの私に日記。
「女」
--- 私の女性観を書きあらわしたもので、変質者という、私への中傷、非難に対抗するものです。
「訴第一部」--- この中で私は、その機関が何なのかを追求し、この制度の正体を暴露しようとしました。
「訴第二部」--- 第一部の続きですが、この中には裁判の記録も含まれています。

 魔の手から私を救ってくださいますようお願いします。

  1977年6月3日
                    沢 舘 衛

 

  (2009年11月26日 追加)

最近私は、日本は国連の人権条約の中の「人権侵害個人通報制度」の受け入れを拒否し続けているということを知った。
 「人権侵害個人通報制度」とは、人権侵害を受けている者が国内であらゆる手段を講じても救われなかった場合、国際人権機関に直接訴えを起こし、救済してもらうことができるという制度。
 主要8か国の中でこの個人通報制度を受け入れていないのは日本だけだという。だから私が個人で直接、国連の人権委員会に訴えてもどうにもならなかったことがわかった。
 日本が個人通報制度を拒否しているのは、それを受け入れたなら「機関」が作業しづらくなるからではないのか?
 今年、民主党に政権交代が行われた。民主党は「人権侵害個人通報制度」を受け入れる方針だという。

 

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              五 節

 昭和52年(1977年)

 身体の調子は依然としてよくなかった。戸塚診療所にすべてを話し、もう一度みてもらおうかと考えた。
 5月27日、身体の症状を書いた手紙と、資料一式を持って出かけた。
 三階の相談室へ直接行った。若い女が独りでいた。長いこと話した。彼女は、どこからか何か言ってきたら必ず教えると言った。今度の火曜日に来院することにして帰った。

 5月31日、火曜日、再び訪ねた。彼女は、
 「どこからも何も言ってきていない」と言った。さらに、
 「もう一度、(精神)病院へ行ってみてもらっては?」
 と言った。内科的に異常がないとすると、神経だと思う。なんなら神経科の医師を紹介するから、みてもらう気はないかと言った。
 院長が海外から帰って来ているから、院長が診察するというので、階下の診察室へ行った。
 院長と話したが、どうも話がかみ合わなかった。私が数日前、院長あてに提出しておいた書類のことも知らなかった。彼女がやっとそれらの書類を持って来て院長に渡した。それでやっと会話がかみ合った。もう一度採血された。
 「食べるほうはどうしている?」
 院長が心配そうにたずねた。
 診察が終り、会計で金を払おうとすると、
 「いりません」
 と言う。院長が「いらない」と言ったという。
 靴をはいていると、例の女がやって来て言った。
 「今、話してみてどう感じました? やっぱり手がまわっていると感ずる?」
 私は否定した。だが、もし力が働いているとすれば、それは彼女自身へなのだ。

 6月7日、火曜日の午前、病院から電話があった。女の声だった。たぶんあの相談室の女だろう。結果を知らせるから、明日の午後5時頃来てくれという。どんな結果が出たのかと聞くと、彼女は、「詳しいことは聞いていない」と答えた。
 翌日病院へ。相談室の女が降りて来た。そして言った。
 「6時頃、神経科の医師が来ることになっているけど、それまで待ってもらえる?」
 私の了解も得ないで、神経科の医師を呼んだのだろうか?
 一時間近く廊下で待たされた。その間、彼女は私と一緒にいた。話していて、私はむかついてきた。この病院で、一番狂わされているのは彼女なのだ。その彼女が、心の中をきれいに私に見透かされているとも知らず、
 「この病院で、何か不審を感ずる?」などと聞いた。彼女は、「私の半生」には目を通したものの、「訴」は読んでいない様子。途中で読む気をなくさせられたのだろう。
 私は、国連へ送った訴文のコピーを見せた。すると彼女は、
 「国連へ、どんなことをどうしてほしいと訴えたの?」
 さも不審そうに尋ねた。『訴えることなど何もないはずなのに』という彼女の心が私に伝わってきた。

 やがて院長がやって来た。彼は私に対して、気持悪いほど親しい笑い方をした。内科的には異常はないとのこと。それで、神経科の医師に会ってみないかという。
 やがて、他の病院からやって来たという若い医師に紹介された。彼は遊びに来たついでだと言った。
 神経科の医師を呼んだのは、院長の意志によるものか、それとも気違いどものさしずによるものか? 院長自身は狂わされていない。彼は、私が提出しておいた資料に目を通したという。彼は話している合間に、はっとするような笑いを見せた。それは本当の人間、正常なおやじさんが見せるような笑いであった。狂わされた人間からはそのような笑いは出てこない。
 紹介された神経科の医師も狂わされていない。彼は私の言うことが事実だったら、私に協力できるかもしれないと、意気込んだ。彼は私に、資料をありったけ持って彼の病院を訪ねて来ないかと言った。県立の病院だという。彼は、自分は国や県のまわし者ではない、と何度も念を押した。とうとう私は、
 「まわし者でないことはわかりますよ、こうして話していれば」と答えた。
 彼の病院を、来週の月曜日に訪ねることにした。病院名は「芹香院」(精神病院)。彼の名は岩成秀夫医師。

 6月13日、月曜日、病院(芹香院)を訪ねた。私は医師に曇りを感じた。
 私は資料一式を彼に渡した。彼は、裁判記録の相手方の答弁書を読んでいて、『うん、もっともだ』というようにうなずいた。
 私は彼に、「機関」がある人を押え込むときのテクニックを説明した。私と直接会った人は、私から受けた(正常な)印象を持つ。だからその人に、私のことを、あいつはどうのこうのと、こき下ろしても通用しないことがある。特にその人が人を見る確かな目を持っている場合は。そこで「機関」は、その人に対して大きな力を持つ第三者を工作し、その人を通してその人を押え込む(狂わせる)。いわゆる二段階方式で。その人が結婚している場合、夫を押え込むにはその妻を工作し、妻を押え込むにはその夫を工作する。
 私がなぜ医師にこんなことを力説したのか自分にもわからない。たぶん、心のどこかでその必要を感じたのだろう。
 次週の火曜日(21日)にまた会うことにした。医師はそれまでに資料に目を通しておくと言った。

芹香院 2回目

 

              六 節

 昭和52年(1977年)

 6月19日(1977)、「訴その十二」を発行した。原紙2枚、わずか4ぺージのもの。国連の人権委員会へ送った訴文と、社会党に送った手紙、その他をのせた。国連への訴文以外のものを次に引用する。

 

  日本社会党国民運動局 御中

 これまで資料を提出したり、手紙を書いたりしてきましたが。直接お話することはありませんでした。そちらの近くまで出かけたとき寄ってみましたが、みなさん不在でした。
 私のおかれている立場が、せっぱつまってきていて、お願いしたいことがいくつかありますが、会ってお願いすることはむずかしそうですので、とりあえず手紙でお願いします。
 今年の2月に就職できた会社も、わずか二か月で解雇されました。
 第一のお願いは、「機関」に工作されずに、私を採用、雇用してくれる職場を紹介していただけないでしょうか。(党の仕事をさせていただければ、それにこしたことはないのですが)。
 第二のお願いは、(これが一番大きなお願いなのですが)「恐ろしい制度」を国会、党で取り上げ、公にし、この「制度」を廃止するために働いていただけないでしょうか。
 第三に、これらの御協力ができない場合は、私が国外へ逃れるのにお力を貸していただけないでしょうか。
  (中略)
 私が救いを求めて訪ねるところへは、必ずといっていいほど、私と同じ境遇にある、かなりの人々が、すでにそこを訪ねています。おそらくこのことで社会党を訪ね、救いを求めた人間は、私が初めてではないことと思います。それらの人々は、「機関」の非人間的な工作のために、醜悪の色一色で塗りつぶされた人々でしょう。
 私が個人の力で亡命・帰化を望んで外国大使館を訪ねても、それを妨害し、押え込む力は巨大です。
 もし社会党が私を信じてくださり、それでも、いろいろな事情からこの問題を公にできないようでしたら、私が国外へ逃れるのを、外国大使館に働きかけ、助けていただけないでしょうか。
 国外へ逃れたからといって、私はこれまでのたたかいを放棄するものではありません。私と同じ苦しみを負わされている人々のためにも。ただ、日本にいては、私はこれ以上生きていけそうにありませんから。
 以上、お願い申し上げます。
  昭和52年6月4日
                    沢 舘 衛

 

 (社会党へは直接出かけたり、手紙を書いたり、「訴」を送り続けたが、何の反応もなかった。)
 
(次も「訴その十二」からの引用。姉への手紙の一部。)

 

 いまでは、町を歩いていて、まわりの者たちに、どんなにあざけり笑われても、少しも気にならなくなりました。以前はそれがひどくこたえたものですが。
 道や商店で、若い女どもが私を見て、その顔にこのうえない愚かな表情を浮かべて笑うとき、その笑いが浮かんだとたんに、私にはその者がゴミくずのように思われます。そして、人間という生き物の愚かさ、はかなさといったものを考えさせられます。

 

 もし彼らが、私の前に堂々と姿を現し、私と真っ向から渡り合い、私をこれほどまでに窮地に追い込んだなら、私は彼らを非難するかわりに、彼らを賞賛し、尊敬すらしたであろう。

 日本のあらゆる機関、組織も、私に救いの手を差し伸べないということは、私を苦しめている者たちの行為は、どんな人間をも説得してしまうほどの確固たる理由、根拠に基づいたものであろう。だが、それならどうしてそれを私に秘密にするのだろう? どうして彼らの行為を公にされるのを恐れ、報道機関や人権擁護機関、それに弁護士らを押え込むのだろう。誰をも説得してしまうほどの立派な理由、根拠があるなら、どうしてそれを公にし、私にも告げ、私を懲役なり、死刑になりしてしまわないのだろう?

   (以上「訴その十二」より ─ 昭和52年6月19日発行)

 

 この「訴その十二」をあちこちへ発送した。釜石製鉄所時代の同志、岩渕さんには次の手紙を添えた。

 

 奇跡は起こらないもののようですね。
 最近(先月)、党の神奈川県委員会を訪ねてお願いしてみました。
 人権問題を担当している伊藤さんという人が会ってくれました。彼は私の問題を取り上げようにも、証拠がないということでした。私は彼に、妨害を受け付けないで私を雇ってくれるところを紹介してくれないかと頼みました。すると彼は、
 「あとで大きな力が働いてくることを知っていて採用するところはないだろう」と言いました。
 「私のために、そこへ力が働いたら、そこから証拠がつかめるんじゃないですか?」
 私がそう言うと彼は、
 「証拠をつかむために採用するなんて、そんなばかな!」
 と言いました。そして彼は、「これは自分の意見でもあるし、党としての意見でもある」と付け加えました。

 最近、スイス大使館を訪ねてみました。スイス大使館には、私と同じことを言って救いを求めて来る人がかなりいるということでした。
 こんな恐ろしいことが、今の日本で秘密のうちに公然とやられているのに、どうして共産党が放置しておくのでしょう。本当に不思議でなりません。
 これから生きていけるかどうかもわからないところまで追い込まれている今、不思議なほど私の心は平静で澄んでいます。釜鉄にいた頃の泥沼とは全く別世界のものです。
 昭和52年6月24日
                    沢 舘 衛
  岩 渕 様

 

              七 節

 昭和52年(1977年)

  6月21日 火曜日 (1977)

 県立の精神病院、芹香院を訪ねた。
 医師は私の書いたものについて言った。
 「骨格はこれで正しいだろう」
 ふいに医師は、
 どうしてこれまで持ちこたえられたんだ! 何があんたをこれまで支えてきたんだ!
 と言った。そして、
 「あんたは正義感が強いでしょう」と言った。

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 私は「機関」から密かに投与される毒物について話した。身体に異常を感じ、病院へ行っても治療してもらえないことを話すと、医師は言った。
 「彼らは、今の医学の検査では、検知できない毒物を使っているかもしれない」
 しかし私は具合が悪くて病院を訪ねると、その病院に手がまわるのを感じてきた。どんなに検査をしても検知されないなら手をまわすはずがない。しかし「機関」がそれでも手をまわすのは、病院で、医師や看護婦らと、私の間に、人間らしい普通の会話がなされるのを妨げるためかもしれない。私の精神に少しでも安らぎを与えるようなことがあってはならないのだ。
 「国外へ逃れる以外に、私が救われる道はない」
 そう私が言うと彼は、
 「世界中のほとんどの国には、日本大使館がある。彼らはその大使館を通して、どうにもできるだろう」
 と言い、その手で強制送還されたらしい青年を治療した話もしてくれた。

 話しているうちに医師は、私を入院させたいという考えを少しずつ出してきた。私は内心びっくりして医師の変化に注意した。
 何のために私が入院しなければならないのかを、私は彼にたずねた。彼は次のように答えた。
 私の書いたものを読んでみて、病的な部分を感じた。その部分を治療してみたい。病的な部分というのは、私がある場面に出くわしたとき、本来なら幾通りもの受け取り方があるのに、私は一つの方向、片寄った見方ばかりしているという。
 医師の言う「片寄った見方」は、気違いどものばかおどりがなくなれば、自然に消滅するものなのであるが、医師は、ばかおどりは放っておいて、私の片寄った見方ばかりを問題にした。
 また医師は、私がこれまで、行く先々で、会う人々からうんざりするほど言われてきた、そのこと以上にうまいことを言えないと言った。これで医師の正体はほぼ判明した。

 彼は私のいなかの家にも電話をしたという。家では誰が電話に出たかわからないが、家族が総がかりで私をやっつけようとしていると、私が思い込んでいるようだと話したという。それ以上のことを医師は言わなかったし、私も聞かなかった。聞きたくなかった。
(私の肉親たちは、私を入院させ治療してくれるよう、医師に頼んだのではないか?)
 医師はなおも入院をすすめた。その執拗さは異常とも思えるほどだった。
 「おれに下駄をあずけてみろ!」とまで言った。私が拒絶し続けていると彼は、
 「あんたはブラックリストにのせられていることは間違いないんだ!」
 なかば叫ぶように言った。
 彼は私に薬をくれた。何の薬かと聞くと、精神分裂病の薬だという。
 この次は7月1日に来るように言われた。しかし私はもう二度と彼の病院を訪ねなかった。手紙で通院を断った。

 

 前 略
 指示通り薬を続けてみましたが、何の変化もありませんでした。外界に対する考え方、感じ方も同じですし、「機関」に対する考えも変りません。
 状況証拠がこれほど揃っているのに、「機関」の存在を私の妄想だとするのは無理のようです。もちろん先生はそれをすべて妄想だと言っているわけではありませんが。
 治療を打ち切るかどうかは医師が決めるものでしょうが、私としては、これ以上薬を続ける必要を認めることはできませんので、治療を打ち切ってくださいますようお願いします。
 長く続いている微熱が神経性のものかどうか調べてもらうためにそちらへ通いだしたのですが、いつのまにかそのことは忘れられてしまったようです。
 先生は私がすべての人を疑い、信じないというように考えているようですが、決してそんなことはありません。私が信じないのは「機関」と足並みをそろえた人々だけです。残念なことに、ほとんどの人が「機関」と足並みをそろえますが。
 先生自身言いましたが、県立の病院にかかることに、私は少なからず危険を感じました。しかし、会って話し合ううちに歩み寄ることができるのではないかという希望をもって、これまで数回そちらを訪ねました。でもそれは望めないもののようであることがわかりました。
 しかしこれは、先生が私の味方になってくれなかったなどという、自己本位的な安易な気持で言っているのではありません。
 直接病院を訪ねるべきでしょうが、書面で失礼させていただきます。
 昭和52年7月
                    沢 舘 衛
  岩成 秀夫 様

 

 身体の調子が悪くて病院にかかろうとすると、その門は私に閉ざされ、かわりに精神病院の門が広く開かれる。私を精神病院へ入れて一体何をしようというのだろう。

 

              八 節

 昭和52年(1977年)

 まえの会社(太陽工業設計)を解雇されてから三か月ほどして、NT電業という会社に就職できた。新聞広告に小さく、「電動機修理・電工」を募集していた。面接に出かけ、その場で採用が決まった。
 モーター修理というのは嫌な仕事であった。釜石製鉄所で最初の数年間経験してうんざりしている。

 NT電業は、一般の電気工事や、家電製品の販売、取付けのほか、日東化学という大きな会社の中でモーターの修理その他の電気工事もやっていた。私は日東化学の中で働くことになった。
 しかし、内容は私が想像していたものとは全く違っていた。私の頭の中には、製鉄所での光景があった。修理工場があって、頭上には天上走行クレーンが走っていて、重いものはクレーンを使って作業する。汚れた部品は、軽油の入った大きな油槽の中で洗う。冬は蒸気でその油槽を暖める。
 だが日東化学では、そのような設備らしいものは何もなく、かついだり、引きずったりであった。そんな作業をしていて、私は恐ろしいほどみじめな気持になった。長く続けられる仕事ではないと思った。それでも私は、この会社で働きだしてから、それまでになかったほど安らいだ気持になった。給料もそれまでの会社に比べるとよかった。

 NT電業の社長は、「機関」の言いなりにならなかったようである。しかし、社長が「機関」を相手にしないからといって、「機関」が放っておくわけがない。岩沢という上司がどんどん毒されていった。
 作業をしていて、どちらが正しいかもわからないような作業手順の違いから、私をまるでガキをどなりつけるような調子でどなりつけることがあった。その日の仕事が終って帰っても、そのときのことを思い出すと、あまりの不快さから頭がグラグラし、具合が悪くなった。翌日、どうしても会社へ出て行けず、本社(NT電業)へ事情を書き添えた欠勤届を郵送して休んだこともあった。

 出向先の日東化学の佐々木という社員が「機関」に工作され、岩沢に対しては指導的な立場をとっておどっていた。この佐々木があるとき不意に口走った。
「若いうちは抵抗力があるからいいんだ!」

 この後も彼らとの間に、いざこざが起こることがあった。そんなとき彼らは、そのことがNT電業の社長に知れることをとても恐れていた。「それを知ったら社長、また怒るぞ」という。社長は「機関」の工作で、私たちの間にいざこざが起こることをひどく嫌っていたようだ。
 これは「機関」にとってみれば面白くなかったろう。どうすればよいか? 答えは簡単である。そんな会社はつぶしてしまえばいいのだ。
 工事をしても金が入ってこない。それに加え、社長の弟が会社の金を持って姿をくらました。(これも「機関」の工作によるものではないのか?)社員に給与が払えなくなる。

 私はこの会社は居心地よかったが、仕事の内容がどうしても好きになれなかったので、給与の未払いをきっかけに転職してしまった。
 このころ、私は会社が苦しい状態に追い込まれたのは、私が原因になっていたかもしれないとは夢にも思っていなかった。だから、手紙や電話で何度も給与を請求した。
 しかしその後、いくつかのことから、会社が倒産したのは、どうも私と無関係でないらしいと感ずるようになった。といっても、はっきりした証拠があるわけではなかった。大部分は私の心のレーダーによって感じとられたものであった。
 私は良心にとがめられた。『もしそうなら、給与をもらえなくても、最後までいるべきではなかったのか』。私を守り、そのために会社が苦境に追い込まれ、そのうえ私にやめられたとしたら、そのときの社長の心境はどんなだったろう。
 私は社長とは、ごくたまにしか顔を合わすことがなかった。やめるときも直接会わなかった。岩沢が報告に行ったのだが、後で岩沢がちらと漏らした、そのときの社長の反応というのが私の心に引っかかった。

 この社長は、ある者たちからは「遊び人」と言われ、彼の個人支出が多いとかで、私たちはボーナスらしいものをもらったことがなかった。しかし私から見て彼は「人間」であった。
 私はこの会社に入り、これまでになかったほど安らいだ気持になったとき考えた。私をこれまで苦しめてきた「悪の力」は「正の力」によって押えられ、これからは私がどこの会社に行っても、同じように安定して働けるのではないか? しかしその後、他社へ行き、すぐにわかった。私が安定した気持で働けたのは、NT電業の社長のおかげだったのだと。

 

              九 節

 昭和52年(1977年)

 NT電業で安らかに過ごしていた間、日記もなまけがちになり、数か月間、書かなかった。でも、その間に「訴その十三」を発行した。これには、「私を迫害している者たちへ」の声明文も載せた。全部で4ページの短いものだった。次はその全文である。

 

 昨年(1977)6月、私は警察庁長官に次の文書を送った。

 「訴その十二」をお送りします。

 昭和49年11月26日「調査申立書」なるものを、警察庁長官宛てに提出し、ある機関(国)による私への人権侵害事件を調査してくださるようお願いしました。その後、二年半ほどたった現在まで、何の通知もありませんでした。一度手紙で問い合わせましたが、それに対しても返事はありませんでした。
 一方私は、国によるものと思われる、私への侵害行為によって、これ以上生きていけないところまで追い込まれています。
 これから先も、そちらから調査の結果の通知がなければ、「不作為の違法確認の訴え」を起こすことも考えています。もちろんそんなことはしたくありません。どんなに費用をかけて争ったところで、私に有利な判決が出てこないことは知っていますから。

 私を迫害してきた者たちの行為は、素人の私から見ても、明らかに違法行為であり、犯罪行為です。この事件の調査結果を一日も早くお知らせしてくださいますようお願いします。
 現在また失業中です。就職できませんし、就職できても、すぐに解雇になります。解雇の理由は、事業主がどのようにつけようとも、そこの職場の者たちの変化からみて、私を迫害してきた者たちの工作によるものであることは間違いありません。

 先日(6月27日)、生活保護を申請しに、横浜市戸塚区役所を訪ねました。ところが、職員二人(保護課長と大北)が、私から少し離れたところで、私を精神病院へ入れる相談をしていました。それを聞きつけ、抗議したのですが、どうも、生活保護を申請すると、強制的に入院させられそうでしたので、申請を断念しました。一体どうしたことでしょう。私が社会で生活していると困る人がいるのでしょうか。いるとすれば、それは私を迫害している者たちでしょう。

 以前、私を迫害しているのは警察だと思いこみ、「私の半生」その他で警察を非難、非謗したあやまちは深くお詫びいたします。

 国連の人権委員会へ送った訴え文のコピーを参考までに同封します。

 侵害から、私と、私と同じ目にあっている人々を救済してくださいますようお願いいたします。

 昭和52年6月30日
                    沢 舘 衛
  警察庁長官 殿


 国連の人権委員会へ送った訴えに対し、何の返事もなかったことは、ここで言及するまでもないことと思います。私自身、返事を期待して送ったものではありません。ただ私に直接返事がなくても、何らかの形で、迫害者たちの行為を押える力となって、はね返ってきてくれるのではないかと望んで訴えたものでした。

 
次は、英会話の学校で私がやらされたスピーチの一部です。(原文は英語)。

 以前、私は「機関」に工作され、私の生活を破壊するために動きだす人々を見ると、それらの人々に対して激しい怒り、嫌悪、軽蔑を感じた。しかし今では彼らに対し、そのような激しい感情を感じなくなった。そして、私は自分自身に向かって言う。「これはごく自然なことなんだ。彼らは人間なんだ」と。
 さらに一方で私は、「機関」の工作によって起こる、さまざまな現象を見ることに楽しみさえおぼえるようになった。「人間はどこまで醜くなりうるか」
 愚劣さもここまでくると素晴らしい。「機関」の工作によって生ずるさまざまの現象は、すでに一つの素晴らしい作品じゃないですか!
 しかし‥‥信じていた人が「機関」と足並みを揃えて歩みだすのを見るのは本当に悲しい。

 昭和53年(1978年)

   声明文

   私を迫害し続けている者たちへ


 私のこれまでの生涯は、きみたちの非人間的な攻撃に対する苦しいたたかいでぬりつぶされています。この苦しみがどんなものか、攻撃しているきみたちにはよくわかるでしょう。そしてきみたちは、きみたちの手にかかった人間は、みな、数年で発狂してしまうこともよく知っているはずです。

 昨年6月、私のこれまでの記録を読んだ精神科医、岩成秀夫氏は、「どうしてこれまで持ちこたえられたんだ! 何があんたをこれまで支えてきたんだ!」と驚いていました。
 私が生きているかぎり、きみたちの攻撃は続くでしょうし、それに対する私のたたかいも続くでしょう。しかしそれは一体何のためでしょう? 同じ人間どうしがどうしてこんなことをしなければならないのでしょう?

 大宇宙から見たら地球など、チリくずのようなものです。その上に人類が生きていられる時間は、ほんの一瞬にすぎないのです。さらに一個の人間の一生などといったら。
 ところが、ほんの一瞬の間しか生きていられない人間どうしが、どうしてこんなにまで苦しめたり、苦しめられたりしなくてはならないのでしょう? いったい私が何をしたというのです? 私のきんたまがどうしたというのです?

 きみたちに対する私のたたかいを評して、末岡弁護士は「いつまでやっても同じことの繰り返しになるからやめたほうがいい。きみ、悪が栄えることもあるんだよ」と言いました。
 きみたちに対するたたかいをやめるということは、きみたちの思いどおりに始末されることであり、それは私の死を意味しました。私はたたかいました。
 そして今では、かなりの人々が、きみたちの行為は、けたはずれにばかげきったものであることを知りつつあるのです。現在、きみたちの号令に合わせてばかおどりをしているのは、きみたちが金で狂わせた者たちだけなのです。そしてきみたちのばかおどりを見てよろこんでいるのは、きわめて次元の低い者たちだけなのです。

 一人の人間をつけまわし、中傷し、孤立させ、発狂してしまうほどの苦しみを与え、その人間をどたん場へ追い込み、破滅させるというきみたちの仕事。そして、そのことによろこびを感じているというきみたちの精神とは? はたしてこれが人間のよろこびといえるでしょうか? それは、うじ虫のよろこびでしかないのです。

 いったいきみたちには、人を苦しめる楽しみと、交尾する楽しみしかないのですか? それでは人間とはいえないでしょう。

 日本のすべての人々を押え込んで、このようなことをしているきみたちとは、いったい何なのですか? きみたちの組織とは? え? 日本国そのものですって? だが、もしそうだとしたら、それはあまりにもこっけいじゃないですか。うじ虫が日本国そのものだなんて。またそれは、まともな日本人民をばかにしきった話ではありませんか!

 ところできみたちは、私に女を近づけず、また、近づきそうなときは切り離し、こうすることによって、私が性欲のはけ口を求めて何かやりだすことを期待しているようですね。強姦ですか? 買春ですか? しかし、きみたちには気の毒ですが、これはあまり期待できないでしょう。
 幸いに私は、女に対して魅力を感ずることはめったにない。女に対してというよりは、人間そのものに対して。これまでに私は、人間のみにくさというものを、きみたちのおかげで吐き気がするほど見せつけられてきていますから。

 それにしてもきみたちは、自分たちのやっていることを汚いと思いませんか?
 私からこのようなことを言われて、いきどおりをおぼえるほど、きみたちがまだ人間らしい感情を残しているのなら、堂々と私の前に姿を現してきたまえ。
 だがきみたちは決して私の前に姿を現すことはしない。そしてこのはらいせを、例の陰でのばかおどりに向けるのです。
 まあ、いくらでもばかおどりをするがいい。きみたちの行為のばかさかげんを、少しでも多くの人々に知らせたいのなら。時間がたてばたつほど、きみたちの行為がどんなにばかげたものだったかが明らかになるだけなのです。

 きみたちに残された道は、きみたちのこれまでのばかおどりを、さらにエスカレートさせ、毒物をも用いて、一刻も早く私をこの世から消すか、あるいは、私にあやまるかのどちらかだけなのです。

 1978年1月16日

 (以上「訴その十三」より ─ 昭和53年1月21日発行)

 

 この声明文、「私を迫害し続けている者たちへ」は、うじ虫どもにとって、手痛い打撃になるだろう。そしてそれが、彼らのこれまでの恥も外聞もない行為を、さらに何乗かした勢いで私にはね返ってくるだろうことを私は覚悟した。

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              十 節

 昭和53年(1978年)

 私の住んでいるアパートには、うじ虫の息のかかった人間が入り込むことが多かったが、昭和53年の春、私の部屋の隣に、普通の若い女が入ったことがあった。20歳を少し出たくらい。彼女はあまり長くはいなかった。彼女が出て行くとき、私に手紙と赤いバラ二輪を渡して行った。

 

 お兄ちゃんへ

 短い間でしたが実家の都合でここをひきはらう事になりました。ガスや水道の件、ありがとう。何も知らない世間しらずで迷惑をかけました。
 ここの人達皆静かに暮らしているのに、いつも私んとこ人が出入りして、お兄ちゃん頭にきていたでしょう。
 この間、お兄ちゃんの部屋に誰かが来ていたでしょ、話し声よおく聞こえたもん。本当にゴメンネ。
 それに、まずいお料理いつもつき合ってくれてありがとう。もっとここにいれば上手になれたかもしれないけど、家に帰ってお母ちゃんにおそわるわ。帰る家があるって、ありがたい事ですネ。ここにいたのは、一番いい季節だったけど、他のシーズンはどんなかしら。今、花が咲いているけど、草いきれ、なつかしいにおいです。
 朝起きて、晴れだと、ほっとします。
 お兄ちゃんいい人なんですネ、だって、日曜日、おふとん干していたもの。そんな理由でなんて思うかもしれないけど、そんなものじゃないかと思いますヨ。早くいい人来ますように。体には気をつけて、元気でネ。
 お金無くて、花かざれなかったあたしの部屋。お兄ちゃん、代わりに受け取ってください。
 ここに来て、初めて、花買いました。
 本当にありがとう。
                 さようなら
                     〇〇

 

 昭和53年から働いているKB電機工業(仮名)というところは、社員十人足らずの会社で、制御盤及び配電盤の製作だった。
 私は、制御盤や配電盤のテスト、修理は釜石製鉄所で経験しているが。新しい盤を最初から自分の手で組立、配線するのは初めてだった。これはその後の私にとって、重要な経験となった。

 8月12日(土)から15日(火)までの四日間、この会社は夏休みであった。その間に私は大きな仕事をする計画を立てていた。私と同じ目にあって苦しんでいる人々への呼びかけを新聞に載せようと思った。広告として載せてもらうつもりであるが、料金はかなりのものになるだろう。原稿用紙十数枚になった。しかし、内容を理解してもらい、安くしてもらおうと思った。だが、そのまえに断られるだろう。

 この呼びかけは、半年以上まえから私の胸の中で形成されてきた。生活がいくらか安定し、日記からも遠ざかり、惰性のような生活を送っていた間も、私の胸をチクチク刺激するものがあった。『おまえは、こうしていていいのか? おまえは何とか生活が安定してそうやっているが、おまえがこうしている間にも、同じ目にあっている人々がその苦しみに耐えきれずに、おしまいになっていっているのだ。それらの人々を放っておいていいのか!』
『いや、そのうちやる』そう私は答え、呼びかけの断片を頭の中で練っていた。
 それは大きな仕事であった。原稿にするのが怖いようでもあり、おっくうでもあった。しかし、少しずつ断片をメモし始めていた。

 会社で面白くないことがあり、その翌日休んだのを利用して、これらの断片をまとめあげた。やはり大仕事であった。短い原稿であるが、かなり神経が疲れた。

 

  えたいの知れない機関につけまわされ、
        苦しめられているみなさんへ

 私は長い年月にわたり、決して私の前に姿を現すことをしない、えたいの知れない機関によってつけまわされ、その卑劣な手段、工作のために人権を侵害され、生存権までも奪われかけるという苦しみを負わされてきました。
 私はこの機関の正体をつきとめるためにたたかってきました。あらゆる人権擁護機関も訪ね、訴えました。しかし、どこでも相手にされませんでした。私は、私をつけまわしている者たちは、日本の、他のどのような機関、人々をも簡単に押え込んでしまうほど大きな力を持った、国家的な組織体であることを知りました。(大きな力といっても、それは、デッチあげ、誇張、買収といった汚い力ですが)。
 このたたかいを通して私は、私と同じ境遇にある人々が、ほかにもかなりいることを知りました。私がその機関の恐ろしい行為を訴え、救いを求めて訪ねるところへは、必ずといっていいほど、すでに私と同じ境遇にある、かなりの人々が訪ねていました。人権擁護機関、報道機関などへ。

 このたたかいを通して私は次のようなことを知りえました。この日本に、国家的なある機関が存在していて、この機関が、何らかの理由で、国民の中からある者たちを選び出し、彼らのリストにのせ、そして、(直接、暴行を加えること以外の)あらゆる手段を用いて、その者をこの世から抹殺してしまう。これがほとんどひとつの制度として、一般の日本国民に知られないまま存在する。彼ら機関が使用する手段は、中傷と毒物である。彼らはリストにのせられた者の私生活を徹底して調べあげ、それを誇張し、デッチあげまでおりまぜてふりまき、その者を市民に恐れさせ、あるいは笑いものにし、その者がどこへ行っても、まともな扱いを受けないようにし、孤立させる。また就職を妨害し、就職したら、そこの職場の者たちを工作し、毒し、その者がとうていその職場にいたたまれないような状態をつくりだす。あるいは解雇させる。
 こうして、その者を社会から(その肉親たちからをも)孤立させ、生きる道を奪い、その者をノイローゼ、発狂、自殺あるいは犯罪行為へとかりたてる。一方、こういった彼らの工作が思いどおりに運ばない者には毒物を投与し、その者の健康をしだいに奪っていく。投与する方法は、その者が利用する飲食店や、その者の知人、家族などをつかい、食物を通してやるようである。また、体の具合が悪くて病院にかかった場合は、その病院での注射や薬も警戒しなくてはならない。

 このような迫害を受けて苦しんでいるみなさん、みなさんは機関の正体について、いろいろなことを考えているようです。外国の情報機関だとか、有名人が人を動かしてやっていることだとか。私もこれまでにいろいろなことを考えました。しかし現在では、機関の正体は日本国そのものだと確信するようになりました。(一般にその存在が知られている国の機関がその仕事の一環としてこのようなことをしているのか、それとも、別に秘密の機関が存在してこのようなことをしているのかはわかりませんが)。私が、日本国そのものだと確信するまでにいたった経過をここで述べている余裕はありませんが、その二、三をあげますと、法務省人権擁護局の加藤氏は私に、「あんたの問題を取り上げたために、うち(人権擁護局)がつぶされるようなことがあっては困る」と言って私の訴えをしりぞけました。また、自由法曹団所属の一弁護士は、「どこへ行ってもこれを取り上げてもらえないということは、今の制度ではこの問題は無理だということなんですね」と言い、また、あるカウンセラーは、「あんたの問題は国へ行かなければどうにもならない」と言いました。

 私を迫害しているのは国、あるいは国の一機関だと確信するようになり、私は国に対して質問状を送り、国がこのようなことをしているのかどうか、しているのなら、その行為の原因、理由、目的は何なのかを明らかにするよう求めました。国は答えませんでした。裁判に持ち込み、回答するようせまりました。しかしその判決は、国は私の質問に回答すべき法的義務はないし、また私には、国にそれを求める法的権利もないということで私の請求は棄却されました。最高裁判所までいきましたが同じ判決でした。
 この裁判を通して私は、機関の正体は国であるという、それまでの確信をさらに深めました。
 私はこの裁判を弁護士なしで争いました。私と同じ境遇にある人なら、弁護士や人権擁護機関が私たちを相手にしてくれないことをよく知っているでしょう。

 私を迫害しているのは国で、日本国にいては救われないことを知り、私は国外へ逃れようと、いくつかの外国大使館を訪ね、亡命、帰化をお願いしました。しかし返事がもらえなかったり、断られたりしました。ある国の大使館員は、私と同じようなことを言って、大使館に救いを求めてくる人がかなりいると言いました。そうした人々の中には、迫害によってか、すでに精神に異常をきたしている人もいるということでした。
 国連の人権委員会へも手紙で訴えましたが返事はもらえませんでした。こちらへ訴えたのも、私が初めてではないでしょう。

 このような迫害を受けて苦しんでいるみなさん、彼ら機関の非人間的な工作、攻撃のために発狂しそうになっているみなさん、健康を奪われつつあるみなさん、ノイローゼの状態におちいって苦しんでいるみなさん、あるいはすでに精神に異常をきたしてしまった方でも、私のこの呼びかけを理解できましたら、ぜひ私に連絡してください。あるいは直接、私のもとを訪ねて来てください。

 彼ら機関が、私たちのことで、こんなにもばかおどりするのには、それなりの理由があるからなのでしょう。たぶん、私たちの過去に、彼らにばかおどりをさせるための何かがあったからなのでしょう。しかし、みなさんの過去(及び現在)にどんなことがあってもかまいません。今、何者からもなんらの理由、目的も告げられずに、不法に迫害されている人がいましたら、連絡してください。一つにまとまり、助けあい、共にたたかおうではありませんか。迫害者が同一でなくてもかまいません。私たちが孤立したままでは、彼ら機関の思いどおりに始末されるのを待つだけです。
 何ものをも恐れることなく彼らとたたかいうるのは、実際に迫害を受けている私たちだけなのです。私たちのたたかいは、殺し屋どもの手から自分自身の生命を守るためのたたかいなのですから。

 私のところに電話はありません。手紙で私に連絡したばあいは、その手紙を私が受け取りしだい、すぐに私のほうからも返事をいたします。私からの返事が適当な時期にそちらに届かなかったばあいは、どちらかの手紙が無事届かなかったことになりますから、その時は再び手紙を出してみるか、あるいは直接私を訪ねて来てください。

 迫害されているみなさん、一緒にたたかおうではありませんか。日本からこのような恐ろしい、そしてばかげきった制度をなくすためにも。

 1978年8月
                  
                         横浜市戸塚区笠間町七一九
                     
沢 舘 衛 

 

 8月14日、月曜日、この原稿を持って新聞社を訪ねた。読売、毎日、朝日。

 読売新聞社を最初に訪ねた。それは、何年かまえ、「私の半生」の原稿を持って訪ねたとき、他の新聞社が相手にしてくれないなか、読売だけが、警視庁内の記者クラブを訪ねてみるようにと言ってくれたことがあるから。
 しかし、今回は反対だった。受付で断られた。広告をお願いしたいと言うと、どんなものかと、受付の女が聞く。内容によって係が違うからという。私は呼びかけの原稿を出して見せた。女はそれには触りもせずにながめていたが、このようなものは受け付けていないといって断った。私は直接担当者に会わせてくれるよう頼んだがだめだった。

 毎日新聞社へ向かった。受付の若い女が、無邪気に、二階の広告局へ行くようにと言った。
 広告局の職員はそれを見て、これは社会局で取り扱う内容のものだという。受付から出直すように言われた。
 社会局へ行くには、面会票を書かねばならなかった。面会票を持って四階へ。廊下の椅子に、受付というよりは、守衛のような人が座っていた。廊下を歩きまわっている守衛もいた。
 私が面会票を守衛に渡そうとすると、廊下の奥の方から出て来た男性が、「あ、いいから」と言い、「今、何か話のあった人だね?」と言って、守衛のすぐ後ろのガラス張りの部屋へ私を通した。彼は私の原稿をものすごいスピードで読んでいった。そして言った。
「具体的な事実がない。これでは扱いかねる。何かもっと具体的な事実はありませんか? ‥‥では、これから先、具体的な事実が出たら、そのとき改めて相談しましょう」

 最後に朝日新聞社へ。こちらも受付を簡単に通ることができた。広告部へ。応対に出た若い男が原稿を読み始めたが、すぐにそれをその部屋の奥のデスクの、年配の男性のところへ持って行った。やがて戻って来て言った。
「現在までのところ、うちの社では、個人の意見広告は広告として扱っていないから、これは扱いかねる。部長にも見せてそういうことでしたから、それでいいですね」
 そう言って彼は私を心配そうに見た。さらに彼は、これを記事として扱ってもらいたかったら、記者と知り合いになり、その記者に働きかけて扱ってもらうのがいいだろう。しかしそのばあいは、この原稿をそのままのせてもらうことはできないかもしれないし、記者の意見もかなり入るだろう、と言ってくれた。
 私は受付へ戻り、社会部への取次を頼んだ。受付の職員が社会部へ電話。それから私に直接出るようにと言う。私は電話の相手に説明した。すると、いま会っていられないので、原稿を後で送ってくれという。
 一週間ほどして郵送した。数日後、簡単な返事があった。

 前略
郵送いただいた原稿は
当社では扱うことができませんので、
ご返送いたします。

 

 読売新聞社で、受付の段階で断られ、内部の担当者と直接会っていないことが心残りだった。それで、同社の社会部あてに原稿を送った。しかし今度は原稿だけではなく、「訴その十二」と「訴その十三」それに、最高裁の判決のコピーも同封した。
 しかし、どうなるものでもなかった。

 

             十 一 節

 昭和53年(1978年)

 春から働いている会社、KB電機は、三か月もすると、もうがまんできない状態になった。社長の言うこと、やることを見ていると吐き気がした。
 社長はなにかににつけ、私をこき下ろした。まわりの者と同じスピードで仕事をしていても、しきりに私の仕事が「遅い」と言って非難した。さらに、手袋をしてはだめだ、椅子に腰を下ろして仕事をしてはだめだと言う。また、赤木(仮名)という、私より若い男がいたが、私はこの男に、社長以上に根の深いものを感じた。
 社長のあまりの執拗さに私はかっとなり、彼に食ってかかったこともあった。
「なんで私一人だけを目の仇にするんですか!」

 私がどんなに立派に仕事をしても、社長は決して誉めなかった。私が自動溶接機の制御ボックスを独りで完成させたとき、社長はびっくりした表情で見ていたが、一言もいわなかった。

 私は体の調子はよくなかった。二年ほどまえから微熱が続き、さらに足の痛み、だるさも続いていた。だから一か所で集中的に盤の配線作業をするときは、丸椅子を持ってきてそれに座ってやっていた。すると、「立ってやれ」と言う。私は立ってやっても座ってやっても作業の速度に変りはない。むしろ、座ってやったほうが疲労感を感ずることなく、快適に仕事ができ、能率も上る、と反論した。だが、座っていると、次の動作に移るとき、動作が一呼吸遅れるというのだった。

 私はまた次の仕事を探し始めた。
 体の調子は悪く、会社も苦痛だったので、私は病院で診断書を書いてもらい、会社を三週間ほど休んだ(診断書は二週間だったが)。こうして、再び会社へ出て行くと、会社はもう便壺のようになっていた。受け取る給与にも不審なところがあり、会社に文書で問いただしたりしていた。


 英会話の学校には、二年近く通っている。途中、一緒に学んでいる者たちが狂わされ、おかしくなったこともあったが、「訴」を発行するたびに、みんなに配り、何とか手のつけられない状態になるのだけは防いできた。週二回であるが、私はそれを楽しんでいる。クラスも基礎クラスから、初級、中級、上級と進み、10月からは自由会話クラスに進む。

 英会話の学校の教師の中に、若いオーストラリア人がいた。オーストラリアの大学を休学して、日本に留学に来ているという。私は彼と心がよく通じあい、個人的なつきあいも続けた。住んでいるところも、私のところから歩いて五、六分のところで、しかも学校からの帰り道、私の住んでいるアパートの前を通るので、彼はよく私のところに寄って、遅くまで話したり食べたり、日本酒を温めて飲んだりした。彼も私もクラシック音楽が好きで、よく私の部屋で電灯を消して一緒に聴いた。曲や作曲家の好みも、私と驚くほどよく似ていた。
 私は日本人とは心が通い合わず、友達もいなかった。だから彼の存在は驚きであった。

 

             十 二 節

 昭和53年(1978年)

 10月3日(1978)、夕方アパートに帰って来ると、ドアの隙間に紙片が差し込んであった。電報だった。『両親のどちらかが死んだのか?』すぐに開いてみる気にはなれなかった。それを持って部屋へ入り、いつもと同じように、かばんを置くべきところに置き、それからやっと開いて見た。
 「イチマルシス一〇ツキ五ヒゴゴ一ジソウギスグカエレ」
 イチマル(一丸)というのは私の兄である。どうして? なんで年寄りの両親ではなく兄が? とにかく事態はさとった。もう兄は死んでしまったのだ。この世にはいないのだ。もう会うことはないのだ。
 でも、なんで死んだのだろう? 病気? しかし数年まえ帰ったときは元気で、病気で死ぬなんてことは考えられなかった。交通事故か? 釣りに行っての事故か? 悲しみの感情は湧かなかった。ただ驚きだけが‥‥。

 翌日(10月4日)の朝、大船を発ち、その日の夕方7時頃、いなかの町、大槌に着いた。家への道を急ぐ気にはなれなかった。
 家の中へ入った。大勢の人間がいた。好奇の目、目。それらが私に注がれた。私はみすぼらしい格好をしていた。私がとまどっていると、姉がやって来て救ってくれた。仏壇の前へ。兄の写真があった。後ろで、「これが二番目の息子だ」とささやく婦人の声がした。

 姉が泣きながら兄の死を説明してくれた。舌にがんができたという。入院、手術を繰り返し、とうとう亡くなったという。

 私はすぐに二階へ上った。この新しい家の二階へ上るのは初めてだった。部屋では、父、弟、それに義兄が仕事をしていた。私を見ると、父が無理に立ちかけて、
「よぐ来た、よぐ来た」
 と言った。私が家にいた間、父が私に声をかけたのは、この一言だけだった。私のほうからは一言も声をかけなかった。

 義兄がいろいろ説明してくれた。兄は舌を切り取り、話すことはできなかった。東京まで出かけたが、手遅れだと言われ、とんぼ返りしたという。死に間際、兄の顔はかなり変形していたという。兄自身、死ぬ前に言ったという、「死んでも、誰にもおれの顔は見せるな」と。死ぬときそこにいあわせたのは、両親と兄嫁、それに私の姉だけだったという。
 事故で急死したのではないと知ったとき、私は不審に思った。どうしてまえもって私に知らせなかったのだろう? 兄の意志か? もしかすると、兄の死後も、それを私に知らせるべきかどうか、彼らは迷ったのではないのか?

 義兄が持っていた長い紙に、人名がいっぱい書きつらねてあった。葬儀に参列する人の名前らしい。見ると私の名前もあった。
 私は電車の中で考えてきた。葬儀の列には加わるまいと。恥をさらすようなものだ。私は義兄に参列を断った。彼は、
「それはないんだ」と言い、出るようにすすめた。
 私が出ないと言ったとき、父がそっぽを向き、何かぶつぶつ言っていた。やっぱり狂わされたままだ。

 私はありのままの気持を述べた。私はこの町でどんなふうに言いふらされているかを知っている。私は自分を、この家の一員とは思っていない。これまで、家族や、この家を忘れようと独りでがんばってきた。私のことを、なんのかんのと聞かされている親戚一同及び、近所の人々が集まる場に姿を現すのはとてもつらい。兄貴も口がきけたら、私が出るのは「やめでけろ」と言うに決まっている。

 その部屋には、大きくなった、兄の子供たちがいた。私は階下で2時まで起きていたが、あとは二階に上って寝た。よその人々が起きているのに、と思ったが、体の調子がよくないし、何よりも私には睡眠不足がこたえる、それは精神衛生上よくない。なにしろ、私を発狂させるために、日本国が国をあげてばかおどりをしているのだから。
 私が二階へ上るとき、母が私に、弟を起こすようにと言ったが、私は起こさずにおいた。

 翌朝、私はかなり遅くまで寝ていた。階下でみんなが忙しそうに働いていたが、私の出る幕ではなかった。式に出る人々が着替えをし、家を出始めた。私は階下へ降りて行った。母が泣いていた。私はその後姿を見守った。弟が心配そうに母のそばに立っていた。
 みんなが出てしまった後、私は二階へ上った。墓に誰もいなくなってから独りで行くつもりであった。いろいろ、兄に言いたいこともあった。

 3時までFM放送でクラシック音楽を聴いていた。部屋には兄の長男のものらしいステレオセットがあった。聴き終る頃には、葬儀に出た人たちがぼつぼつ帰って来た。私は家を出た。しかしまだ少し早いような気がした。墓で誰かと会うことだけは避けたかった。
 海の方へ出かけた。小槌川の河口から、川伝いに堤防を歩いた。「私の半生」の中に出てくる一場面 ─ 夜、泣きながら歩き、堤防を降りようとして足を滑らせて転んだところ、寝ころんで夜の空を見上げた場所を探した。そのあたりは、家が建ったり、製材所ができたりして、すっかり様子が変っていた。田んぼの中の道を通り、町を通り抜け、山あいの墓地へ。

 墓の前にしばらく立ちつくし、それから、墓地の仕切りのブロックの上に腰を下ろした。墓の前には火の消えた煙草、線香があった。私がマッチもライターも持っていないことが残念だった。ご飯の入っていた茶碗は、カラスが突っついたのだろう、転がり、はしも散らばっていた。
 それらをながめていたら急に涙がこみあげた。ここへ来るまでは、墓の前に立っても涙は流さないだろうと思っていたのに、あとから、あとからあふれた。このように心から涙があふれたのは何年ぶりのことだろう。釜鉄の寮にいたころ、なぜか切なくて涙があふれたが、それ以来のことであった。
 兄は一体、私に対してどんな感情を持って死んでいったのだろう。

 夕暮れがあたりを包み始めた。まわりは灰色、湿っぽい林の匂いがただよい、カラスや小鳥の鳴き声、遠くからは町のざわめきの中に、宣伝カーの女の声、犬の鳴き声などが聞こえてきていた。
「まっこ(兄の愛称)さえなら」
 そう声をかけ、私は墓の前を離れた。

 風呂に入りたい。だが、以前帰ったときもそうであったが、家でも、姉のところでも、私に風呂を使わせたがらない。うじ虫どもから、私が悪い病気でも持っているように聞かされているのだろう。私は途中でタオルとせっけんを買い、銭湯に入った。

 家へ帰ると、親戚の和田信吉氏と、父、母の三人がテーブルを囲んで話していた。和田氏には数年前に帰ったとき会って話し合い、その後「訴」を送り続けていた。その場の雰囲気は異様で、近寄りがたいものであった。私は黙って階段を上った。すると母が私の名を呼んだ。ぞっとした。その声の調子で、すべてがわかった。私は返事もしないで、そのまま二階へ上った。そんなときの母は、私にとり、おぞましい存在である。
 むかし、こんな状態の中で生活していたのだ。神経が変にならないほうがおかしい。

 この夜、どうしても家に泊まる気になれなかった。この夜のうちに帰ればよかったと思った。指定券は翌朝のものだった。姉の家はいっぱいだろう。弟夫婦と、その子供が泊まるので。
 弟に、姉の家のほうはいっぱいかと聞くと、弟は私も泊まれるという。それで私は荷物を持ち、弟と二人で下へ降りて行った。姉が階段の近くに座っていた。私を見ると姉は、先に降りて行った弟に、
「エイ坊も連れて行ぐ?」
 笑ってたずねた。それから姉は立ち上がって私に近づき、何か話しかけた。そのとき姉の顔に浮かんだ笑いは、明るく、軽いものであったが、私には不快なものであった。
 姉の家へ行った。しかし後で、弟が家のほうへ泊まることになった。両親二人だけでは寂しいだろうからといって。

 翌朝、7時5分の列車で大槌を発った。弟が車で駅まで送ってくれた。
 その朝、私が目覚めて、階下のトイレに降りて行ったとき、姉が部屋から少しあわてたように出て来た。なんだろうと不審に思った。私は「いま何時?」と聞いてトイレに入り、それからまた二階へ上った。着替えて下へ降りた。部屋へ入ると弟がこたつに入っていた。弟は私の方を振り向かなかった。さっきから来ていたのだろう。二人で私のことを話していたのだろう。それで、さっき私が降りて来たとき、姉があわてたのではないか。その話の内容が暗いものであったろうことは、二人の様子からわかった。弟が家のほうで私のことを両親と話し、そこで両親から何かきついことを言われ、それを朝、姉に伝えていたのだろう。姉と弟が私に対し、少し変った同情を示しているのを感じた。

 駅まで送ってくれた弟が、私に封筒を渡そうとした。中身は金であることは知っていたので私は「いらない」と言って断った。が、弟はそれを私のかばんの中に入れた。別れるとき、弟は暗い顔をしていた。姉の家を出るとき、涙もろい姉は泣いていた。
 列車に乗り、封筒を開けてみると、現金二万円と、「体に気をつけて元気で暮らしてください。優、宏子」と書かれたメモが入っていた。

 夕方5時過ぎ、大船に着いた。すぐに銭湯に行った。また、これまでと同じ生活が始まる。

 

             十 三 節

 昭和53年(1978年)

 いなかへ帰った日の夜、家の二階で、父の紙つづりに私の名があるのが目につき、何だろうと思って見ると、私が釜鉄にいた頃購入した土地を、父の名義で本登記したということが書いてあった。
 この土地は、私が自分の住む家を建てたとき、本登記するという条件で、会社から非常に安い価格で購入したものであった。

 次は父の紙つづりからの写しである。

 

 昭和52年10月6日、製鉄所より土地登記済権利書をうけた。事情により、この好機を逸してはなかなか登記はむずかしくなるので、臨機応変のつもりで、幸三に登記した。又、製鉄所でも、是非、衛でなくても幸三名義に登録してもよいというのである。それでも後日、衛が自分に登録するというのであれば、幸三より衛に名義変更すればよい。

 買った価格   45万6千円
 現在価格    4百50万円
 登録免許税 2万2千8百円

 不動産の表示
  上閉伊郡大槌町桜木町〇〇番
  宅地 231.99平方メートル

 

 いなかから帰って来て、すぐに父に手紙を書いた。

 

 とり急ぎ用件に入ります。
 先日そちらへ帰ったとき、二階の部屋に置いてあった紙つづりから、私の名が目につき、何だろうと思って開いて見ました。
 祝田の土地のことが記されていました。それを見て、初めて私の土地が本登記されたことを知りました。しかしあなたの名義で。

 私自身、これまでずっと気にしていました。あの土地は一体どうなるのだろうと。
 私には家を建てるなどという金はありません。自分一人が生活するのと、うじ虫どもとのたたかいで精一杯です。
 その紙つづりを見て、そこにいた弟に聞いたのですが。ずいぶん釜鉄のほうからうるさく言われて、あなたも苦労したようです。申しわけありませんでした。
 苦労して登記してくださったあなたに、このようなことをお願いするのはなんですが、今すぐに私の名義に変更していただけないでしょうか。
 あなたのメモによりますと、「‥‥それでも後日衛が自分に登記するというのであれば、幸三より衛に名義変更すればよい」とあります。
 しかし、不動産登記法の第28条により、登記名義人の変更を申請できるのはあなただけなのです。もしあなたが亡くなれば、私がどうのこうのと言っても始まらないのです。あの土地は、別の法律で、私の手に戻らなくなることもあります。
 弟から聞いたところによりますと、あなたは遺言で、あの土地は私のものになるようにしておいてあるそうですが、私はその遺言を見ていませんし、まして、公証人を通して私が認めたものでもありません。

 本登記するとき、私に一切連絡がなかったことや、私が帰ったとき、あなたの口からその件のことが一切私に話されなかったことから、私にはいくらか不安が残ります。(売買契約人の名義人である私の了解なしで、どうして本登記の手続がとれたのか、少し不思議です)。
 あの土地を本登記するとき、後で私が望んだら、私の名義に変更するということで本登記したといいます。遺言にも、あの土地は私のものになると記してあるそうですので、いま私がその土地を私名義に変更してくれとお願いしたら、あなたは、その土地を私名義に変更することに何ら異存はないはずです。
 これまでにかかった手数料、これからかかる手数料は私が負担します。
 御了解をお願いします。

  1978年10月7日
                    衛
  幸 三 様

 

 一方私は、父から私の土地を取り返すにはどうすればいいかを調べた。司法書士や登記所などを訪ねて相談した。自分の土地を父から取り返すために、会社を休み、あちこち歩きまわっていることを考えると情けなくなった。
 姉や弟にも手紙を書き、父の不正を訴えた。二週間ほどしてやっと父から、はがきが届いた。

 

 14日着の手紙のおもむき、一切承知した。衛の住民票を送ってくれ。親子の名義変更は贈与の形式をとるという。間違いなく権利書を送るから安心して待ってくれ。

 

 私も手紙を書いた。

 

 そちらからのはがきを受け取って、私もいろいろ調べてみました。はがきによりますと、「親子の名義変更は贈与の形式をとる」とありますが、贈与となると、地価の半分ほどを贈与税としてとられるといいます。この場合は贈与ではなく、「真正な登記名義の回復」になるということです。これですと、登録税のほかに取得税がいくらかかかるだけで済みます。(もしかすると取得税は全然かからないかもしれません)。
 申請書の書式を同封しました。これで問題なく受理されると思います。(清書してください)。

 昭和53年10月19日

 

 11月初め、「登記済権利書」が送られてきた。

 いなかから帰って来ても、すぐには会社へ出ず、さらに一週間ほど休んだ。
 会社を休むとき、兄が死んだので、いなかへ帰ると告げてあった。しかしその後、会社へ出て行っても、社長はそのことには一言もふれなかった。就業規則には、肉親が死んだときは、いくらかの弔慰金を出し、何日間かの休みを与えるとあったが、私は一切請求しなかったし、社長も何も言わなかった。

 会社を休んでいた間に、土地の問題であちこち訪ねたほか、「訴その十四」を発行した。
 
「訴その十四」には、新聞にのせようとして作成した呼びかけ、「えたいの知れない機関につけまわされ、苦しめられているみなさんへ」と、それを持って訪ねた新聞社の様子をのせた。それから、ずっと微熱が続いていること、病院へ行くと、異常がないと言われ、精神科あるいは精神病院へまわされること、県立の精神病院の医師とのやりとりものせた。

 おしまいに、次の短文も。

 私はこの「訴」の続きを、私がこれまでに訪ねたことのある法律事務所や人権擁護機関、その他に送り続けてきた。しかし、もちろんどこからも何の反応もなかった。
 「訴その十二」を発行したときだったと思うが、私は東京へ出かけたついでに、日本弁護士連合会の人権擁護委員会を訪ね、直接手渡した。(それまでは郵送することが多かったが)。ところが、そこの職員が私に、「このようなものを送るのは、もうやめてくださいよ!」と言ったことさえある。しかしその後も送り続けている。別に受取拒否で返送されてくるわけでもないので。

 非人間的な、そして、恐るべき犯罪行為を続けている「機関」。
 その、うじ虫のような機関に毒され、その顔に愚かな表情を浮かべて彼らと歩調を合わせる、善良でまじめな市民、市民、市民‥‥ニーンゲーン!

(以上「訴その十四」より ─ 昭和53年11月5日発行)

 

             十 四 節

 昭和54年(1979年)

 昭和54年が明けた。

 会社は苦痛だった。朝、会社へ出勤しても、誰も私に挨拶しないし、私も挨拶しなくなっていた。
 一方、会社の一部の者や、取引先の会社(そこで私も作業することが多かった)の部長だか課長だかが、土地を買ったの、家を建てたのという話がさかんになされていた。

 私は用事があれば遠慮なく会社を休み、また夜、寝つきが悪く、このままでは寝不足になると思うと、目覚まし時計を切って、自然に目が覚めるまで眠った。そして会社を休んだ。会社へ電話をし、休むことを告げかけると、社長はいきなり電話を切ることもあった。こうして電話連絡もしないで休むことが多くなった。
 1月29日(月)、30日(火)も二日続けて休んだ。こうして会社へ出ていくのは気持が重かった。ふと無断欠勤について文書で申し入れようと考え、すぐに作成にかかった。レポート用紙5枚になった。

 

  KB電機工業株式会社 殿

    私の無断欠勤について

 私が時々無断欠勤することを社長も嫌い、私も苦しく思っていました。
 休まれる社長よりも、苦情を言われることを知っていて休む私のほうが、どんなにつらいかしれません。
 社長は一度も私に、どうして無断欠勤するのかを聞いたことはありません。それで私もただ「具合が悪かったから」ぐらいのことしか言いませんでした。
 社長は私が休むのを、ズル休みだとか、働くのが嫌だからなどと考えているかもしれません。しかし原因は別なところにあります。
 私としても、休むことなく、みんなと楽しく働くことができたらどんなにうれしいでしょう。
 社長も知っているように、私は何かしら、ブラックリストのようなものにのせられ、さわがれているという、特殊な状態におかれている人間であることを知っているでしょう。
 私をリストにのせてさわいでいる者たちは、細かい計算によって私を発狂へと導こうとします。(彼らにはこのような卑劣なことしかできません。出るところへ出て、堂々と決着をつけるなどという正しさと勇気は彼らにはないのでしょう)。

 彼らはまず私を孤立させようとします。心の底から話し合える人間が絶対に現れないようにします。私が就職した職場のすべての者に何らかの方法で、私という人間を歪曲して植えつけます。そして職場には、常にその作業(機関の工作)を助長するための工作員が一人か二人育成されます。そうして、育成された工作員は、職場で私がいないと見てとると、すぐに私のばか話をします。また私の一挙一動を「機関」に報告し、さらに新しい指示を受けて職場でばらまきます。
 私は行く先々の会社で、このような役割をする人々を見てきました。そして、こうした者たちが、どういうわけか間違いなく必ず土地を買ったり、家を建てたり、高級マンションに移り住んだりするのを見てきました。

 ところで、私の無断欠勤ですが、私と同じ状態におかれたら、たいていの人は簡単に気が狂ってしまうでしょう。(県立の精神病院の医師岩成秀夫医師は、私がこれまで、どうして発狂せずにやってこられたのかと、びっくりし、不思議がっていました)。
 幸いに私は、私のことでばかおどりをしている者たちの手口をほとんど完全に見抜くことできましたので、彼らの思い通りにならずにこれまで生きてくることができました。
 私は職場その他で、どんな目にあっても、そのからくりを知っていますから、たいして気にもとめず、受け流してきました。しかし私もデリケートな感情を持った人間の一人です。受け流していると思っていても、知らず知らずのうちに、精神にストレスが蓄積されてきます。それを感ずると私は、次の朝、目覚ましもかけずに、自然に目が覚めるまで眠ります。10時、11時、あるいは正午近くまで。その時刻になって会社へ電話し、「今日は休みますからよろしく」と言ったところで、どうにもならないでしょう。

 ストレスを解消するには、十分に眠り、休むことも大事ですが、一番いいのは、「機関」によって汚染されていない人々の中で心を開いて話し合ったり、働いたりすることです。
 残念ですが、現在の会社は、私にとってそのような場所とはいえません。逆にストレスが蓄積される場所になっています。ということは、これからも私の無断欠勤はなくならないでしょうし、会社の期待にもそえないでしょう。
 このような勤務状態の私を雇っていることができないというのでしたら、私は会社をやめます。しかし、よほど苦しくならないかぎり、私からすすんでやめることはないでしょう。どこへ行っても同じことの繰り返しですから。といっても、もちろん多少の差はあります。今になって、前の会社をやめたことを少しばかり後悔しています。

 無断欠勤について書こうとして、関係のないことまで長々と書いてしまったようです。

 

  1月31日 水曜日(1979)

 出勤し、作業衣に着替えるまえに、私は手紙と「訴その十四」を入れた大型封筒を社長の机の上に置いた。封筒の表には、「私の無断欠勤について」と書いておいた。

 やがて社長がやって来た。
「書類を提出します」
 私はそう言って社長の机の上を示した。彼はそれを手に取らず、じっとながめていたが、
「なによ! なんだよ! 君、無断欠勤、遅刻だろ!」
 彼は指を折って数えながら言った。
「こんな能書きばかり書いて出して。おれんとこは福祉事業やってんじゃねえんだ! 会社の仕事より優先するものを持ってんのかよ。なら、それに向かって邁進すべきだよ、男だったら」
 そのときの社長の顔! しかし私は静かに言った。
「いや、そういうわけじゃない‥‥、まぁ、読んでいただければその食い違いがわかりますから」
「能書きばかり‥‥」
 社長はぶつぶつ言いながらも、それを読み始めた。私は作業にとりかかった。

 読み終ったとき、社長はすっかり静かになり、私には一言も言わなかった。
 その翌日、会社へ行くと、最近、土地を買った、家を建てるといって話題になっていた男がすっかりおとなしくなり、別人のようになっていた。
 午後4時半頃、私が作業していると、社長が私を呼んだ。それも「さん」付けで丁寧に。私は社長が丁寧に私を解雇するのでは? と思った。しかし彼のねらいは、彼らに対する私の疑いを晴らすことにあった。
 社長は私の文書の分析にかかった。聞いていて私はうんざりし、うずうずしてきた。数行読んでは、これはどうのこうのと、空白に意見を書き込んでいく。
「こうした者たちが、どういうわけか、間違いなく必ず、土地を買ったり、家を建てたり‥‥」と言う箇所に、彼は少しも表情を変えず、「あずかり知らぬこと」と書き込んだ。

 6時まで話した。みんなも残業して私たちの話に聞きいっていた。社長は「機関」など存在しない。存在していれば、うちの会社にも来ているはずだ。自分で存在するものだと思い込んでいるんだと言った。また彼は、私という人間は「自己本位で、わがまま勝手のかたまりだ」とも言った。
 
「機関」など存在しないという彼に、私は文芸春秋社(週刊文春)を訪ねたときの様子を話した。国は私のような人間一人に、年六億円かけておどっていること、また文芸春秋社で私に会ってくれた人が、私が帰るとき、玄関まで出て来て、私が渡した資料を、誰もいない外に向かって振ってみせたことなど。

 それを聞いていた社長は、すごく真剣な、そして深い確信に満ちた調子で言った。
その機関というのは決して現れることはないぞ。一生かかって追求したって何も出てこないぞ

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 私は、社長が私の言うところの精神のストレス、孤独の限界の恐ろしさといったものを理解できないのではないかと思い、説明しようとした。すると社長は言った。
「おれは八時間の孤独に耐えたことがある!」
 これを聞いて私は、話を続けるのをやめた。
 こんなことがあってから、それまで高じつつあった職場の病的な雰囲気はかなり薄らいだ。
 しかし、うじ虫は決してばかおどりの手をゆるめることはしない。それから三か月もすると、もう耐えられない状態になった。一緒に働いている者たちの中には、目つきまでおかしくなっている者もいた。

 3月、「訴その十五」を発行した。それにはKB電機でのやりとりをのせた。その他の内容はここに引用するほどのものではない。

 

             十 五 節

 昭和54年(1979年)

 3月19日(1979)、月曜日、夕方帰って来ると、父から手紙が届いていた。開いてみて「またか!」と思った。
 私が「機関」云々というのは、私の頭の中に巣くった妄想のなせるわざであり、そういう私の頭を心配しているというものだった。
 私はこの本の原稿を書くにあたって、その手紙を探したが、どこにも見当たらなかった。捨てたのか。

 次はその手紙に対する私の返事。

 

 夕方帰って来て、父からの手紙がきているのを見て不思議に思いました。『父が今ごろ私に何を言うことがあるのだろう?』と。
 開いて見て、その予期しない内容に唖然としました。『どうしてこのようなことを今言わなければならないのだろう?』
 このようなことは、もう何年もまえに論じつくしたではありませんか。なぜだろうと、いろいろ考えました。その考えがどんなところへ行きついたかは、ここでは言わないことにします。それは私の想像にすぎませんから。

 私は一週間ほどまえ、あなた方両親に手紙(下書き)を書きました。しかしそれはバスの中で、メモ帳に走り書きしただけのもので、そのうち清書して送ろうと思っていました。
 今晩、出かけるところがあったのですが、それをとりやめ、返事を書くことにしました。
 次は、私が父からの手紙を受け取る一週間ほどまえに書いた手紙です。ここに清書して送ります。あなたからの手紙を受け取る以前に書かれたものであることをお忘れになりませんように。


 両親のあなた方が、現在私をどのように思っているか知りませんが、私は、あなた方が以前考えていたような人間ではありません。あなた方は、ある者たちに毒されて私を間違った見方をしたのでしょうが、その者たちは、うじ虫みたいなやつらです。
 これから言うことは、つい最近まで、あなた方に話すつもりはありませんでした。

 
『親たちがおれをどのように思って死んでいったって、おれには関係のないことだ。どうだっていい。どうせ、話したってわかるものでもない』と考えていました。しかし最近、話せばわかるのではないか、と考えるようになりました。

 私はこれまで、苦しい、長いたたかいを独りで続けてきました。私のそのたたかいを見ていて、あなた方の私を見る目が少しでも変ってきているのではないか? 話せばわかる状態にまできているのではないか? という気がしてきました。話してわかってもらえるなら話しておこうと思い、このような手紙を書きました。

 うじ虫のような者たちに毒され、自分の子を間違った見方をしたまま死んでいってほしくなかったのです。もしあなた方が、私を間違った見方をしたまま死んでいったなら、あなた方を思い出すたびに、私は重苦しい気分におそわれるでしょう。(もっとも、私が先に死ぬこともありえますが)。
 また、なによりも、あなた方が私を間違った見方をしたまま死んでいくようなことがあると、私はあなた方が気の毒でなりません。大きな間違いをしたまま死んでいくなんて。

 私は決して、私のことでばかおどりをしている者たちが言っているような人間ではありません。彼らがどんなに、あらさがしやデッチあげで私をこき下ろしたところで、私は正しい人間です。私をこの世に送り出したあなたがた両親に誓って言うことができます。
 私に非難されるところがあるとするなら、それはほとんど、彼らの工作によって生じたものです。

 私は以前、あなた方が、あなた方のまちがいを認めないかぎり、どんなことがあってもあなた方を許すまいと考えていました。たとえあなた方が死んだ後でも。
 しかし今では、あなた方を責める気持はありません。たとえあなた方が私をどのように思い、どのようなことをしたとしても。私はこれまでのたたかいの中で、彼らの手にかかった人々のほとんどが、彼らの思い通りに変えられるのを見てきていますから。
 私はこれだけのことを言って、あなた方が私を信ずるか、彼らを信ずるかは、あなた方の判断にまかせます。

 最後に病身の母に一言。
 スモン病という、治療法もわからない病気にかかり、苦しんでいる母に、私はこれまで一言も同情の言葉をかけたことはありませんでした。しかし、心の中では深く同情していました。明けても暮れても、どこにいても、何をしていても、いつもある一つの苦しみにつきまとわれるということは、とても苦しいものです。肉体的なものにしろ、精神的なものにしろ。私にはその苦しみが実感としてよくわかります。
 それに母の苦しみは、訴訟に勝って賠償金を手にしたところで、痛みから開放されるわけではありません。生きているかぎり、この苦しみが続くのだと考えたら、狂おしくなることもあるのではないでしょうか。
 治療法が一日も早く見つかることをねがっています。

 昭和54年3月上旬に記す。
                     衛
  両 親へ


 この手紙をお読みになったら、(これはまだ父への手紙の続きです)私が今夕受け取った父からの手紙を見て、どんなに唖然としたかおわかりになると思います。
 次に私が最近気になっていることを述べておしまいにします。

 私が「訴」でどんなことを言ってみたところで、それらは彼ら機関によって、ことごとく、くつがえされるでしょう。私が、誰それがこんなことを言った、といえば、当のその人は、そんなことは言わなかったというでしょう。私が会社でこんなことがあったと言うと、会社の者たちはみな口をそろえて、そんなことはなかった、と言うでしょう。
 こうして、私の言うことはすべて私の妄想ということになり、それは、「あいつはどうも病気ではないか」というところへ導かれていくでしょう。そして行き着くところは、またしても精神病院です。もちろんこれらは例の機関によって、ちゃんと計算され、工作されたものです。
 それなりの医師が、私を病気だと判断すれば(たぶん私に直接会うことなしに)、私を強制的に入院させることができるでしょう。もちろん私の同意など必要ないでしょう。私は病人だということにされてしまうのですから。必要なのは「責任者」の同意です。独り者の私にとって、責任者は親のあなた方でしょう。それに対してあなた方がどのような態度をとるかは知りませんが。私がどうこう言ってみても始まらないでしょう。あなた方の気の済むようにしたらいいでしょう。

 ではこれで失礼します。

 昭和54年3月19日
                     衛
  両 親へ

 

 この手紙を送った後、私は予想した。七、八年前、うんざりするほど繰り返した、あの空回りするような内容の返事がくるだろうと。しかし、この年の暮れまでの十か月間、何の音さたもなかった。12月末に受け取った手紙には、母の病状や、身のまわりのできごと、それに、母と姉が私に鮭やりんごを送ったということが書いてあるだけで、私の妄想については全くふれられていなかった。

 

             十 六 節

 昭和54年(1979年)

 4月24日、火曜日、新聞の求人広告を見て面接に行った。桃川制作所というところだった。クレーンの運転工として。採用され、5月から他社で働くことになった。出向先は、横浜港の本牧埠頭にある君津鋼板加工という会社だった。新日本製鉄君津製鉄所の子会社で、製鉄所で生産された鋼板を、船で東京湾を横断して本牧埠頭へ運び、製品に加工する会社だった。

 私が、新日鉄釜石に10年間いたということもあってか、私はこの会社のクレーン運転士の仲間から歓迎され、かわいがられた。安定して働けそうな気がした。

 そうなると、満足できる音の出るオーディオセットが欲しくなった。いつかは揃えようとは思っていたが、これまでは、まずうじ虫をやっつけ、生活が安定し、人並みの住居に入ってからと思っていた。しかしそれはいつのことかわからない。限りある時間はどんどん過ぎていく。少しでも早く、心をうるおすためのオーディオセットを揃えなければ大きな損をするように感じた。
 オーディオ雑誌やカタログを集めて勉強したが、機種の選定には自信がなかった。そこでオーディオ雑誌に投稿し、プロに選んでもらった。アンプ、スピーカー、チューナー、それにレコードプレーヤー。その後、自分でテープデッキやオーディオタイマーを加え、60万円ほどのオーディオセットになった。

 これらを、近くの西友ストアを通して購入した。物が手に届くまでは心配だった。間違いなく、うじ虫が介入して欠陥品を持って来させるか、あるいは途中でいたずらすることが予想されたから。
 メーカーから西友に製品が届くのが予定より一日遅れた。横浜で一晩過ごすという。そこで何かがやられるのを確信した。
 翌日届いた製品を開いてみると、アンプとスピーカーに不審な点があった。(アンプの異常の詳細は、当時の日記に記されていないのでわからない)。二つのスピーカーのうち、一個が中古品のようだった。長い期間、店頭に陳列されていたように、埃がたまっていた。前面のネットを外し、内部を見ても、バスレフの穴の中にまで白く埃がたまっていた。もう一方のスピーカーと製造番号を比べてみたら、全くかけ離れた番号がついていた。

 西友ストアに事情を説明した。西友ストアからメーカー(コーラル)へ苦情を言った。メーカーではそんなはずはないという。数日後、メーカーから社員がやって来て実物を見、不思議がった。こんなにロット番号の違うものが混じるはずはない。

 こうしてスピーカーと、それからアンプ(テクニクス)を交換してもらった。

 

 会社のほうは、半年ほど何事もなく過ぎた。だがその間に、表面に出ないところで、ずっと会社中が毒されてきていたのだろう、一度に膿が吹き出した。会社中が異様で、病的な雰囲気で満たされた。
 私と同じ桃川制作所から出向している男で笠原(仮名)という男がいた。彼は出向社員の責任者になっていた。この男がうじ虫と一体になって動きだしていた。ある時この男が独り言のように言った。
「あと一年だ」
 その調子からいって、私がまともに生きていられる時間を言ったようであった。

 君津鋼板加工の社員で、クレーン運転士のリーダー、佐藤さんという人に、私は「私の半生」と「訴その十一」から「訴その十五」までを渡した。やはり効果があったようだ。膿の吹き出すのが一時おさまった。

 

 12月22日、英会話の学校で、英会話を教えていたオーストラリア人のムーア氏が本国へ帰った。日本人には友人のできなかった私には、彼との楽しい思い出がいっぱいあった。
 彼が帰るとき、私は彼からいろんなものをもらった。ふとん、茶だんす、炊飯器、食器など。貧乏人の私には助かった。それまでパンばかり食べていた私が、自分で米を煮て食べるようになった。
 彼が帰国して数か月して、彼から手紙がきた。住みにくい日本を離れ、オーストラリアに移住しないか、そのためにはできるかぎりの援助をする、といってきた。ありがたく思った。『もしかすると実現可能なことかもしれない』と考えた。しかし、親日的なオーストラリアへ逃れても、すぐにうじ虫の手が伸びそうな気がしてならなかった。

 

 君津鋼板加工では、一年十か月働いた。ここで働くようになってから、足の痛みはそれまでになかったほどひどくなった。足首から先のしびれるような痛み、なめらかさを失うひざの関節、足全体の皮膚のむずがゆさとだるさ。足首から先の痛みは、靴下のゴムで足首を押えられるだけで、痛みは倍加した。だから靴下のゴムは全部引き抜いた。
 この会社での昼食は、会社の食堂でとっていた。食堂のメニューは決まっていて、食堂のおばさんがどんどん盛りつけて出すのを受け取るのである。私の食事に毒物を入れるのはむずかしいだろうと思われたし、食堂のおばさんの様子にも不審なところはなかった。それなのに痛みは増すばかりだった。
 夜勤をするようになって、その痛みはさらに増した。夜勤の時は、夜食に出前をとっていたが、私は数回とっただけでやめた。

 4月22日、午前の仕事が終り、クレーンから降りて行くと、一人の男が私に、昼休み時間、別のマグネットクレーンに乗ってくれと言った。昼休みのうちにトレーラーから鋼板を降ろしたいという。それを聞いたとき、私はすぐに、みんながいなくなった食堂で、私のために用意された食事をとることに危険を感じた。しかも私にこの仕事を頼んできたのは、他の協力会社の男で、うじ虫の徹底した手先であった。この男の名前はここに書くのさえ不快で汚らわしい。
 この作業は昼休み時間いっぱいかかった。食堂へ行った。うじ虫の手先がいた。この時間に食事をするのは、私のほかにもう一人いた。親会社の社員だった。その社員が、すでに用意されていた一人分の食事をカウンターから持ち去ろうとしていた。すると、うじ虫がその社員に、
「あ、それは桃川さん(私のこと ─ 桃川制作所)に食べてもらうから」
 と言った。社員はむっとした顔をしたが黙ってそれを私によこした。
 私の席の前方から、うじ虫がじっと私を見守っていた。私が食事を一口ほうばると、うじ虫はほっとしたように肩をおろした。
 私はその食事に、間違いなく何かが入れられていることを確信した。だがそれでも食べた。明らかに不審を感じながらも食べた自分にあいそがつきた。食べなければうじ虫にわるいとでもいうのか。食べた後、軽いめまいがしたが、それ以上の症状は出なかった。今後もこのうじ虫は同じ手を使ってくるだろうと私は予想した。
 翌日の23日、予想通り同じことを言ってきた。私は断った。そこでしばらく言い争った。私は毒物云々といったことは一言も言わなかった。が、うじ虫はそれを察したように、にやりと笑った。

 食事に気をつけても症状は軽くならなかった。ふと私は、うじ虫どもは私がみんなと同じ食事をしても、私にだけ症状が出るような工夫をしているのではないかと考えた。
 彼らは二種類の毒物を用意しておいて、第一薬を私一人に的をしぼって投与する。第二薬は、第一薬を以前どこかで投与された人間だけに作用するようにする。こうすれば、どの食事が誰に渡るかわからない会社の食堂でも、私に毒物を投与することができる。
 うじ虫どもがその第二薬を誰かに頼んで私に投与させるとき、それは毒物ではないといって、自ら飲んでみせ、相手にも飲ませてみる。頼まれた人間は、それは毒物ではないことを確信する。だから、私の前では少しの動揺も不自然さも示さない。そのため心のレーダーにもひっかからない。
 毒物を投与されたことが確信できても、あまり症状が出ないときが、この第一薬を投与されたときではないのか。この時の症状は、軽いめまいのほかに、網膜の隅の方に、歯車の一部のようなぎざぎざが、10分から20分間にわたってチカチカ光って現れることがある。

 私は食べ物のほかに、洗濯物も疑ってみた。この頃、私は洗濯機を持っていなかったので、近くのコインランドリーを利用していた。初めの頃、洗濯機の中に毒物を投入されるのを警戒して、終るまでそこを離れなかったが、そのうち気がゆるみ、その場を離れ、買物に行ったり、アパートへ帰ったりした。
 太ももから、すねにかけて、むずがゆさが強くなったとき、肌につけているものを変えたら、症状が軽くなったこともあった。

 かなり後になって経験したが、「機関」は、まだ封を切っていない缶コーヒー、その他(乳酸飲料)にも、毒入りのものを用意することができることを知った。

 


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