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  第二編

     第十三章 「訴」への初めての反応

 昭和55年(1980年)

 私は「訴」のシリーズを、私のいなかの生家から、一軒、間をおいた隣の沢舘栄一さん(仮名)という人にも送り続けていた。
 
(私のいなかには沢舘という姓が多い)。

 これまで「訴」をどこへ送っても、一切返事はなかった。ところがこの「訴その十六」を送った後、しばらくして、栄一さんから手紙が届いた。それはおそろしく長いものだった。便箋28枚であった。手紙のほかに、彼の編集した「大槌漁業史年表」という本も同封されていた。

 次は栄一さんからの手紙である。

 

 今年は異常気象で、東北もここ三ヶ月ほど全く憂うつな天候が続き、お盆中も雨降り続きで、せっかく子供たちが楽しみに待った、夜の盆踊りもつい駄目になった。カラッ!とした日は数えるほどしかなかった。
 衛君に便りするのは今回が初めてだろうか。毎年のように「訴」を送ってくれたが、無関心でいたわけではない。
 健康を害したり、精神的に苦しんだり、就職先を転々して、あてとてないような中に書き続けている。それも人生だと思う。この手紙は長くなりそうなので最初から丁寧には書けない。乱筆だが許して貰いたい。
 
君は私のことを第三者でこの人間には何を訴えても空気のように返事すら‥‥また応援すら寄せない人間らしいと考えたかもしれない。何かを言ってやる時期ではないだろうか? 静観しているときではない‥‥ような気持にかられている。
 第一、君とは無関係であり得ない。まず近い親戚でしかも近所で育った。或る時は君の父親として責められた。

 52年7月、釜鉄に28年3ヶ月御世話になって退職した。工長5年位、作業長4年位を経験した。僕は漁師の生まれで元々勤め人も嫌いで、学問もなかった。それでも28年間、定年までなんとか勤めて退職できた。嫌いであった会社にいたのは、やはり喰うためであった。資金のない吾々には事業と思っても中々手が出しかねた。安易な勤め人(実は決して安易でなかった)をしながら趣味の勉強を続けた。学ぶために釜鉄にいたとも言えるかも知れない。何度か課長、工場長の注意も受けた。会社一本に仕事をしないと利益会社では何にもなれないぞ、と叱責された。
 会社にいながら「大槌町史」上巻1,400頁を完成発行したのは41年で、その頃年休ぎりぎりで橋野鉱炉の県の調査に参加したり、平泉の岩手大学の発掘調査に参加した。やがて岩手県文化財保護指導員になって、公用を申し入れた頃で、休暇の残る筈がなく、欠勤も幾つか取った経験者で、営利会社とすれば、とんでもない者を雇ったとでも思ったのだろう。公用も認めなくなった。本事務所の庶務課に出頭して公用承認も申し入れた。駄目だった。現場の長が認めないものを庶務では許可する手段がないと云うのだ。副所長に逢った。尾崎副所長は地域の為になることを会社が許可しない筈はない、部長に電話すると云ってくれた。しかしその頃はあきらめムードで中止した。現場の長(工場長、掛長)に睨まれるだけだったからである。

  (中略)

 工長になった。車のアンテナはもぎ取られ、車輪のキャップは二ツもなくなる。タイヤの空気は抜かれる。
 作業長の面接、統轄主事の面接があった。誰が陰口をきくのか、沢舘は借金だらけで首が廻らない。女を囲っているらしい。ひどい噂が質問になって返ってくる。一ツ一ツ解説だ。君ならそれを「或る機関」とか「ウジ虫」と云うだろう。仲間の皮を被った奴にそれが現実にいるのだ。一動作、一行動が誰かの目に監視されている気がしたものだ。しかしそれは企業でなく同僚であり、世間である。もっと小さく云えば隣近所である。一見平和に見える交友は、ある所で落とし穴を造っている場合がある。偏見と叛逆と欲望の中に俺達は住んでいる。悲しいことだ。
 僕は、そんな中で汚濁を合わせ呑むことを考えたが、聖者でも偉人でもなかった。宗教に救いを求め経文も暗記、本も読んだが、帰するところ自分自身に頼る以外になかったのが現実であった。
 部下の中にも十人十色である。付いてくる者、反感を持つ者、自分の兄弟ですら、子供ですら‥‥。自分に頼る、それは何か? 人間は本来孤独である。友人朋友、そして親兄弟、妻ですら、時と場合によっては敵ともなり、反対者ともなる。自分が自分を考えるより、自分以外の人間が、果して自分のことを考えてくれるだろうか? 否である。物的か精神的なにか不利があれば、さっと身をかわして敵にもなる。信頼していた者に逃げられ、憎まれる事位悲惨なものはない。人間の信頼にも実は限度がある。生死を共にといった者さえ別離の悲しみに追い込まれることもある。
 自分以外に実は友人もなければ親戚もないかも知れない。仏教で云う無情とは、それのことではないだろうか? と気がついた。自分の何に頼れば良いのだろう。理性か、あこがれか、理想か、信念の中だろうか? 或いは真理かもわからない。それは哲学に属し吾々凡人には不可解である。自分の中にある「善」に頼り、「善]を行う。これだって簡単には行かない。善と思ったことを実行したら恨みの種になる時もあった。しかし僕は人に接するに善に近い善意で当たる、をモットーにどれだけ生涯をかけられるか、少しでもそれに近い処世で終りたいと思うようになった。

 作業長の何かの会合であった。「君はなんで衛をやめさせた。どうして会社を去らせた!」君も教習所時代に教わった先生からであった。豆鉄砲を喰ったように、俺は唖然とした。小柄の平顔の先生である。「衛は君の息子だろう、どうして会社をやめさせたんだ!」と酒宴も盛んの時、またも怒ったように云う。「いや待って下さい。沢舘は沢舘でも、私にはあんな大きな息子はいませんよ。まだ高校生ですよ」と云ったら先生のほうがびっくりしていた。君の父親幸三さんが製銑課にいたことがあるので、僕を父親と勘違いしたのだった。
 衛君、君を追っているのは「或る機関」だけではないのだよ。彼の先生(名前は忘れた)は、君の将来を心配していたんだよ‥‥其処には少なくも無念、残念と君を思う「善意」が存在していた。
 製銑課の沼崎君が確か君と教習所が同期だったよね。沼崎に君が会社を退職した動機は、いったい何だ、と訊ね、教習所時代の先生にハッパを喰った事を話したが、彼は良くは知らないと答えていた。
 何千人の中の一人でも良いではないか、教え子の未来を心配し、父親にかぶりついた一人がいたんだ。

  (中略)

 憲法ができ、法律ができた。福祉社会だなんてそれは権力者のものであって、それ以前の「心」は何も変らず、君の云う通り邪悪に満ちた地獄の中に俺達はいる。
 君を追いかけているものも、実は社会でもなく機関でもなく、罪悪の塊が余りにも身辺にまとまり付くだけで、おそらく今の世で払い尽くせることなく一生付いて廻るだろうと思われる。君に限らず俺の身辺にも今だって、明日だって絶えることのないものだと考える。
 要するに人間社会は無情だと知る外ない。然らばそれは自然現象だとあきらめていいだろうか? そうは行かない。少しずつでもいい。近くからでもいい、対するものは善行である。自分の身の廻り、職場、対人関係に、自身から罪を造っていまいか? 環境の改善に努力しているだろうか、しかも善意でね。これもまた努力がいるし、一生かかっても成し遂げる事はできないだろう。
 しいたげられたしこりが、善意を動かしてくれないからだ。一度手痛い苦汁を呑まされた感情が凝り固まって理性を励まして勇気づけることは簡単ではないからね。しかし怨むより、施さない限り法律を踏み越えた善意の社会は生まれようがない。法律や規則はなぜ必要か、それがなければ、もっと社会悪が生まれるからだと思う。
 僕に云わせれば法律があるほど、現代が悪化していると云いたいところだ。俺達の生きている社会は極楽ではない、だからと云ってその改善を怠ったら地獄である。発想の転換が必要になってくる。

 人類の歴史は闘争の世の中であった。弱肉強食は対外国的にも、小さな近所交合にもまだ生々と存在している。宗教が、哲学がこれを解決できたであろうか? できない。人類の滅亡まで続くかも知れない。

 君の「訴」も法律は決して解決してくれないだろうと断言して良い。法律や規則は、律することで、現実には幸福を与えるものではない。君が「訴」に勝ったとしても、空しいものを感ずるだけだ。

 君の経験したものを僕は軍隊で、もっときつく終えてきた。死を目前にしてまでも人間の「いやらしさ」をこの目で見てきた。誰が国の為に、天皇の為に戦死して行ったろう。僕は英霊をけなす気はない。当時の教育がそれを強い、国民もまたその気になっただけである。彼らは自分の死により、家族がそして国が安泰であればと死んでいった犠牲者である。政治家が私腹をこやし、権力者が横行する世の中を建設するための犠牲ではなかった。まるで封建社会の再来である。
 条件は良くなっても労働者は権力の下敷きである。平等も幸せも此の世にはあまりなさそうだ。それでもせめて小さな廻りの者が善意で集まり、お互いに理解し合えるグループ造りの輪を広げることは最小限でも必要だ。幸福らしいものを味わえる程度もなかったら生きる望みは失われるだろう。

 吾々の人生は、永い人間の歴史から見れば、一瞬の虫けらの如き生涯である。一人の生命が何を成し遂げ得るかを顧みれば、風前の灯でしかない。それでも生きなければならない。人間の生活とはいったい何だろう? 生物の一種で多少利口になったために地球を支配した。宇宙の中に存在する生物、他から見れば全くカビみたいなものである。その生命も瞬間である。
 それなのにひしめき合い、憎む、怨むで生活している。瞬時の命に過ぎないのにそれだ。瞬間の命ならそんなことをしている暇はない。種族保存でも良い、社会浄化でも良い。次のこれも一瞬の子孫のために何かを遺産として残してやりたい。でなかったら今をもっと大切に平和に和気のある、生きて良かった仲間と過ごしたいものだ、と思う。

 君にも僕にも、真に頼れる仲間は少ない。心を許せる親友といった者は同級生にも仕事の上でも余り見当たらない。孤独だ、しかし信頼に足るに近い仲間はある。そういう人たちとの交合は、融和がいくらかでも保たれる。真の朋友があったらそれは珍しく貴重な宝物である。せめて打ちとけて語り合い、力になれる人物を得たい。そうするためには自らの努力も必要なことだ。

  (中略)

 仕事だ、釜鉄マンだった技能を生かせば、お手のものだ。それに創意と工夫があれば、君を会社は手放す筈がない。人生観の百八十度の転換である。一念発起すれば、生もまた楽しからずやであるまいか。君は確か絵に趣味があったと思うが、ただ、職業の転々は感心しない。誰にも合った仕事とどうしても合わない仕事があるが、喰える条件は第一だ。動は静と裏腹だ。動いている所に安らぎは求められない。がっちりした職業、気に合った仕事はそうざらにはない。多少の不満があっても変らない所に安定すべきではないだろうか。それでも「心」のやり場がないなら趣味に生きる。僕も一日だって釜鉄でこの職業は自分に合うなぁ‥‥と思ったことがなかった。それを逃れる道が趣味(いや職業になった)に夢中で走ることだった。
 あるかも知れない、いや、ないかも知れないで、雲をつかむ想いで大槌城主の墓碑を訪ね廻った一年、それは何も得られなかった。次は寺子屋師匠の碑を訪ねて二年、また旧家や歌碑を訪ねて三年、金沢(かねざわ)、船越、橋野あたりまで、朝な夕なに寺の墓地をさまよう‥‥あれもとうとうまっきった(巻っ切った;狂った)‥‥狂人との「噂」が例によって流れ、家の者たちにも注意された。それが岩手国体に「大槌案内」100頁の本1,000部となってあらわれた。四、五年はヨボヨボの老人が相手であった。彼らの経験や聞き伝えは「大槌の民話」として再版まで出された。町が認めて印刷しくれたのである。有り難いことである。
 吉里吉里善兵衛(豪商)の古文書を探して13年間、自費で下田(伊豆)を訪ねること三回、水産庁の資料館通い八年(年二度)茨城の水戸、那河湊を訪ねること四回、その間向こうからも何度か調査にくる。県庁や大学を訪ねること数限りなく、岩手大を初め東北大、日大、慶応、法政の先生方にも御世話になった。十数カ所の遺跡も調査、中でも吉里吉里崎山遺跡の如きは岩大の教授(今人文科学部長)と学生十名の応援を得て数十日の発掘を行い成果を得た。自分でも数ケ所の試掘を行った。それが「大槌町史」上巻にすべて資料となり、原稿5,000枚を書いた。「人」の信頼を得るまで長い道中であった。金を使い少ない財産まで売り払ったと騒がれた。骨を使い、時間を惜しんだ。妻には‥‥父さん釜返し(家をつぶすこと)だ、やめてくれ‥‥と懇願された。

 退職の時、君も知っているだろう関連会社の鉄源に作業長として勤める事を九分通り決めたが、それもオジャンだ。公民館勤務をやりながら「大槌町史」下巻(明治から昭和30年まで)編集のほうを選んだ。とたんに30数万円の給料が6万円に変化した。
 それぞれ生き抜くためには大変だね。でも溜め込んで退職した人がぶらぶらして魚釣等に興じている姿を見ると、あれも人生だと、アクセクしている自分が不思議な気さえする。どちらが本当の人生だろうとね。

  (中略)

 早くこの仕事とも手を切って、生きているうちに書きたいと思う「大槌城物語」「大槌代官所物語」「豪商前川善兵衛」等公的ではなく、自分の主観を十分に入れた自由な立場での発刊をね。公的な本は客観的で面白くない。自分の所感を入れたら公的でないからね。できるかできないかは、金をどうする、命があるかで決まりそうだ。
 さて、色々のことを書いて君の心や感情を傷つけたかも知れない。追求が奉仕に代ったらと思う。奉仕生活があれば何時かは信頼される日がくる。生涯かけるに足る仕事、趣味を見つけて貰いたいと思う。

  (中略)

 今日は久し振りの日曜日で、仕事も家に持ってこなかったので午前中、この手紙を書いている。それにしてもくだらないことを長々と書いたね。
 一丸君も惜しいことに、これからと云うのに、不幸なことになった。仕事の上では同じ屋根の下だったからね。幸三さんたちが別居したことも、なにか僕には割り切れない、やるせないものを感ずる。

 

 以上栄一さんからの長い手紙(かなり省略した)。次は私の返事。

 

 手紙と本、ありがとうございました。返事を書こう書こうと思っているうちに、一か月以上たってしまいました。その間、栄一さんからの手紙を何度か読み返してみました。

 栄一さんからの郵便物が届いているのを見たときはびっくりしました。いったい何を言ってきているのだろうと。それにこれまで、どこに「訴」を送っても、誰からも何の反応もありませんでしたから。封を開け、手紙というにはあまりにも分量の多い便箋を見てびっくりしました。いったい何が書かれているのだろうと思うと、読むのが恐くさえなりました。一度読んでみて、私は栄一さんが私に何を言おうとしているのか、わかりませんでした。というよりは協力者なのか、非協力者なのかをつかみかねた、といったほうが適切でしょう。私はこれまでの習慣で、人と接するとき、その人が私の味方なのか、あるいは私と「機関」の間の、どの辺に位置しているかを測ろうとします。ほとんど無意識のうちに。

 栄一さんは手紙で世間、それに肉親の冷たさをいって私に同情しているかと思うと、私を追いかけているのは「機関」ではないとか、私のたたかいは決して解決しないだろうと言うのを聞くと、わからなくなってしまいました。なにしろ私のこのたたかいは、私の一生と生命をかけてやっていることですから。それを否定されるとどうも‥‥。もちろん私はこのたたかいで「機関」の存在を明るみに引き出し、叩きつぶすところまで行けようとなどとは思っていません。しかし、たとえそこまで行けなくても、そこへ向かって突き進まねばなりません。そして「機関」の動き、ばかおどりを少しでも後退させなければなりません。それが私と同じ目に合って苦しんでいる人々や、これからそういう目に合わされるであろう人々に対する少しばかりの救いになるかもしれません。

 栄一さんからの手紙をこれまでに何度か読み返し、栄一さんの言っていることもわかってきました。そして、根本のいくつかの部分で、栄一さんと私の考えが食い違っていることもわかりました。
 栄一さんは「追求が奉仕に代ったら」と言っていますが、私にとっては、追求することが社会への奉仕です。私はいくつかの会社で、いくぶん安定して働くことができました。そんなとき私はほっと一息いれて、「訴」を作成することもやめ、人権擁護機関や報道機関を歩きまわることもやめ、会社から帰ると好きな音楽を聴いて時間を過ごしました。しかし、一か月、二か月すると、自分で自分を責めるようになりました。『おまえは何をしているのだ! これまでのたたかいはどうしたんだ、おまえの苦しみが軽くなり、仕事が安定しているからといって、そうしていていいのか、おまえがそうしてのんきにしている間にも、多くの人が恐ろしい苦しみを負わされ、この時点で発狂していっている人もいるかもしれないんだぞ』
 一方、別の私が反論します。『やるだけのことはやってきたじゃないか、これ以上おれ独りの力でどうしろというのだ! 苦しめられている人々に救いの手をさしのべたくても、その人々がどこにいるかもわからないじゃないか! その人々に呼びかけようと思っても報道機関が取り上げてくれないではないか。』
 そうこうしているうちに、「機関」の工作が功を奏して、私という人間がさまざまなデッチあげやこき下ろしで、ずるずる深みへ落とし込まれていきます。それを私は職場及び町で、ひしひしと感じます。そしてそれは止まるところを知りません。その毒された空気が精神に与える圧迫は大きく、放っておくと精神衛生のうえからもよくありません。それに打ち勝つには、そんなことをしている者たちの頭の上から、糞をぶっかけてやるくらいの気迫をもって「訴」を作成し、ばらまくことでした。

 栄一さんの言っていることで、理解できないことが一つありました。それは、「君が『訴』に勝ったとしても、むなしいものを感ずるだけだ」と言っていることです。なぜでしょう? もちろん私が個人的な恨みや、復讐心にこりかたまり、「機関」とたたかい、やがて、それまで生命をかけて追い続けた「機関」が目の前で崩れ去ったなら、喜びよりも空しさを感ずるでしょう。しかし、私のたたかいはそれほど視野の狭いものではありません。なぜなら、私のたたかいは私独りのためばかりのものではありませんから。私がたたかいに勝つということは、私と同じ目に合っている人々を「機関」の迫害から開放してやることであり、私たちのこれまでの悪夢のような生活から開放され、人間らしい生活が始まるということです。そこには空しい感情など入り込むすきはありません。

 私の頭の中にある栄一さんは、十年も前、製鉄所へ行っていた頃の栄一さんです。定年退職したと言われてもピンときません。歴史に対する栄一さんの情熱、ほんとに素晴らしいと思います。もっとも、そういう世界に入ったことのない私には、歴史の何がそれほどまで栄一さんを引きつけるのか、理解できないところもありますが。

 私が教習所にいた頃の「小柄の平顔の先生」というのは、大藪所長でしょう。「小柄の平顔の先生」というのはうまい表現ですね、すぐに大藪所長とわかりました。

 私を苦しめてきた者たちは、もう私には関知していない、などと言って世間の人々の目をわきへそらせたとしても、その実、私に対する卑劣な工作を私が生きているかぎり続けるでしょう。そして、それに対する私のたたかいも、私の生命があるかぎり続くでしょう。それが私にとって幸福なのかどうかはわかりませんが、とにかく生きていたかったら、たたかわねばなりません。

 ご返事がすっかり遅くなりましたが、栄一さんから手紙をもらったときはとてもうれしく思いました。なにしろ、どこへ送っても何の手ごたえもなく、届いているのかどうかさえわからない状態でしたから。今後も私のたたかいに対する批判、意見がありましたら、ぜひ聞かせてください。いろいろ参考になります。

 数週間まえ、突然、四郎君(仮名)が私のところへ訪ねてきました。20年ぶりでしょう。きのう(10月26日)四郎君のところを訪ね、いろいろごちそうになり、昔の話をしました。邦男君(仮名)も来ていました。邦男君とは17年ぶりで、すっかり変っていました。顔が、彼のお父さんそっくりに思われました。

 

 栄一さんへの手紙の写しはここで終っている。この手紙は10月27日に書かれ、その写しを日記にとっている時間がなく、テープに読み上げて録音した。12月7日(日)そのテープを日記に書きとった。この日の日記に次のように記してある。「上記の部分で切れているが、これでおしまいなのか、それとも、手違いで録音されなかったのか?」

 


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