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  第二編

     第十四章 訓練校 失業 訓練校


一   二節 (ドアの錠 壊される-1回目)   三節 薬物検査依頼   四節   五節 (出会い)   六節   七節   八節   九節 (P.セイコー入社)

 

          一 節

 昭和56年(1981年)

 昭和56年2月、根岸駅から本牧埠頭への通勤バスの中で、職業訓練生を募集しているポスターを見かけた。横浜市中央専修職業訓練校。その中に電子機器科というのがあった。テレビの修理技術を一年間受けられる。光を見出したような感じだった。
 私はこれまで、電気は強電系で、電子回路は理解できなかった。そのことに私はいつも、ひけめを感じていた。訓練校は授業料が無料で、しかも雇用保険受給者には、訓練校を修了するまで支給が延長されるという。胸がおどった。今の職場が耐えられないものになってきていて、よそに仕事を探していたところであった。

 2月21日、土曜日、会社を休んで職業安定所へ出かけ、訓練校の説明書をもらった。それを見ると定員はわずか15名だった。しかも試験があった。さらに現在私が在職中であるのに入校できるのかどうか? とにかく在職のまま試験を受けることにした。合格したら会社をやめ、雇用保険をもらおうと考えた。
 3月23日と24日の二日間にわたって試験が行われた。一日目は学科試験、二日目は面接。学科試験は国語、数学それに作文だった。数学には参った。基本的なことも忘れていた。だめかもしれない。しかも15名の定員のところに25名も応募した。望みは作文。どうして訓練校への入校を希望したかを論じた。
 応募者の中には、中学校を出たばかりの少年から、40過ぎの中年までいた。このとき私は38歳だった。
 3月27日、金曜日、合格発表の日だった。私は午前中で仕事をやめ、発表を見に行った。私の番号があった。合格したのだ。夢のようだった。もし試験に合格していても、うじ虫の妨害が入り、不合格になるかもしれないと、会場へ来る道々不安だった。

 合格したとたん、急に忙しくなった。雇用保険の給付を受けながら訓練校へ行くには、4月4日までに離職票を職業安定所に提出しなければならなかった。一週間しかなかった。私はすぐに会社へ電話し、会社をやめることを告げ、離職票を至急つくってくれるよう頼んだ。
 3月31日、入校式。その盛大さにびっくりした。会場は横浜開港記念会館で、各科合同で行われた。
 訓練校は横浜駅からバスで10分ほどの浅間町というところにあった。


 ところで、3月16日、日弁連から手紙が届いた。何だろうと思って開けてみると、昭和55年8月26日に申し立てた人権侵犯救済を不採用にしたという通知であった。私はそんな申立てをしたおぼえはない。思いあたることといえば、「訴その十六」を半年ほどまえに送った。そのとき「まえがき」の冒頭に、「日本弁護士連合会人権擁護委員会御中」と書いたので、その「まえがき」を申立書と受け取ったのだろう。不採用であれ、わざわざ返事をくれたのだ。さすが日弁連だと思った。
 でもどうして、返事をくれたのだろう?
 このころ私は、私の住んでいるアパートの住人との間に、愚劣なデッチ上げがなされたことを感じていた。


 4月6日から訓練校が始まった。初日は、訓練校に提出すべき書類、「身上調書」「履歴書」「契約書」を渡され、それから通学定期乗車券の申込をしただけで、朝10時半には帰された。職業安定所へ出かけ、最後の手続を済ませた。この先、一年間は失業の認定の手続は訓練校のほうでやってくれるので、職業安定所へ出頭する必要はない。

 二日目、校長の挨拶があった。その後、物品貸与、健康診断があり、それからクラス委員が決められた。最初の数か月間は年長者がなることになっているといって、私が指名された。びっくりすると同時にショックを受けた。クラスの中には、頭の禿げ上がった、どう見ても私より年上に見える男もいたから。
 この日、校長の挨拶を聞いていて、「機関」がもう動いているのが感じられた。挨拶は、他の科と合同で行われた。私個人に関したことはもちろん話されなかった。しかし私はそれを感じとった。

 四日目には、担任の教師からも感じられるようになった。私はクラスを見まわし、この中の誰がうじ虫の手先になってばかおどりをするのだろうと思った。
 三か月ほどして膿が吹き出した。うじ虫の手先になったのは井出という、私よりいくつか年下の男だった。彼の席は私のすぐ前だったし、年も近かったので、それまでは親しく話をしていた。
 狂った輪は彼を中心にクラスの中に広がっていった。だが、上原という、私より年上に見える男だけはなかなか狂わされなかった。彼は独身者で非凡な男だった。

 

             二 節

 昭和56年(1981年)

 8月27日、木曜日、アパートへ帰ってくると、ドアの錠が二つとも壊されていた。ドアに元から付いている錠の合鍵は家主も持っていて不安だったので、もう一つ自分で取り付けた。元から付いている錠は合鍵かなにかであけられ、私の付けた錠は、取り付け金具ごと、こじ開けられていた。もしやと思って廊下の物入れのドアを見ると、こちらも壊されていた。部屋の中を調べたが、盗まれたものはなかった。荒らされてもいなかった。廊下の物入れの中も異常はなかった。ほっとすると、今度は食物に毒を入れられたのではないかと考えた。部屋に置いてあった食料、調味料は捨てるしかなかった。

 階下の家主に知らせた。家主は交番に知らせようかと言った。私は知らせてもどうにもならないと思ったが、後でなにか異常が出たときのために知らせておこうと思った。交番へは家主のほうから、二日後、土曜日の午後に知らせることになった。土曜日、訓練校は午前中だけで、午後には私が帰ってきているから。
 土曜日、私は午後1時頃帰って来た。しかしすぐに買物に出かけた。4時過ぎは風呂へ出かけた。
 夕方、家主が来て、1時過ぎと4時過ぎに来てみたけど、私がいなかったので。警察へは知らせなかったという。そして翌日の日曜日に知らせた。警官が二人やって来た。警官の一人が私にたずねた。
「このようなことをする者に心当たりはないか?」
「ないことはないけど‥‥」
 私はそう答え、うじ虫について説明しようかと思ったが、そばにいる家主の存在が気になってできなかった。


 9月に入ってまもなく、頭がひどくかゆくなった。毎晩風呂に入り、洗髪しているのに、翌朝には、もう何日も洗髪しなかったようにかゆく、湿疹ができて、変なにおいがした。また、目がとても疲れやすくなり、本を読もうとしても、一分ほどしか焦点が合わなかった。
 いろいろ原因を考えた。8月末から、近くの医院からもらった粉薬を飲んでいた。微熱で医院を訪ねたら、胃の検査をされ、その医院で調合した胃の薬をもらっていた。最初不安を感じたが、数回服用して異常はなかったので、そのままずっと服用していた。心当たりはその薬だけだった。その薬をやめる一方、念のため、シャンプーや、ヘヤートニックも捨て、新しく買ったものを使った。でも症状は変らなかった。

 皮膚科医院を訪ねたところ、ビタミン不足からくる湿疹だろうという。外用薬とビタミン剤をくれた。翌朝、かゆみはすっかりおさまった。皮膚科でくれた薬の効果に驚かされた。目のかすみもなくなった。数日後、試しに例の薬を飲んでみた。夜と、翌朝の二回。すると、昼には目がかすみだした。原因はこの胃の薬に違いないと確信した。

 そういえば、一年ほど前にも同じ症状が現れたことがあった。日記を調べてみると、その時も、同じ医院で調合した胃の薬を飲んでいた。その時はリンパ腺もはれた。目も同じように疲れやすくなり、眼鏡はそのとき初めてつくった。
 その薬を処方した医師に尋ねたが、そんな症状が出る成分は含まれていないという。薬剤師を疑うしかなかった。医師は粉薬をやめ、錠剤に変更した。

 不審な粉薬は、いつか折を見て調べてもらうようになるかもしれないと思い、捨てずにとっておいた。
 この症状が出た後、毎日洗髪してもかゆみが残るようになった。


 訓練校も後半、12月に入ると、いろいろな会社から求人票がまわってきた。12月3日と4日の二日間、一人ずつ別室の担任のところへ呼ばれ、求人票を見せられ、どこか希望する会社はないかと聞かれた。私は川崎市にある多摩川電機という会社を希望した。すると担任はその場でその会社に電話した。そしてこれからすぐ面接に行けという。それで、ふだん着のまま、履歴書も持たずに出かけた。

 技術部長の川上氏と面接した。彼は私に大変好感を持ったようだった。面接ではかなり高度なことを聞かれた。オシロスコープとシンクロスコープとはどう違うか? ラジオのスーパーヘテロダインの特徴は? 中間周波数はどうやってつくるか? なぜ中間周波数におとす必要があるのか? チューナーに要求される性能は? それから回路図を見せられ、ゲイン(利得)が下がったばあい、どの部品の故障が考えられるか? など。これらは訓練校で勉強していたことなので、なんとか答えることができた。
 この会社は、自社独自の無線電話をつくっていた。
 最後に給与の希望額を聞かれたので、20万円と答えた。その時の部長の様子から、その希望は問題なく通りそうだった。

 面接から帰って来ると、担任が私に給与のことをたずねた。私は「20万円希望してきた」と答えた。すると担任は、
「そんなに貰うのは不当だ!」とか「おれが経営者だったら、その給料ではきみを採用しない」
 と言った。そうかと思うと、
「きみのような人だったら、どこでも欲しいだろうな」
 と、独り言のように言った。

 この会社へは面接の二日後、履歴書を送ったが、何の返事もなかった。私のほうから何度か電話で問い合わせたが、そのたびに部長は明るく丁寧な調子で、社長と相談して早急に返事をすると答えるだけであった。

 電子機器科には二人の教師がいた。担任は50歳位。もう一人は訓練大学を出たばかりの若者。この若い男もかなり狂わされた。私は彼と何度か衝突した。衝突した後、私は彼に文書で抗議したこともあった。その抗議文の最後に「そういうあなたの人格を、私はこのうえなくさげすむ」とまで書いた。
 クラスの者とも衝突した。しかしこれらは私にはあまり気にならなかった。住む世界が全く異なる生物が騒いでいるようであった。

 

             三 節

 昭和57年(1982年)

 昭和57年1月1日

 元日。暖かい一日だった。午後、窓を開けて西日を入れた。室温が17度もあった。
 いなかから送られてきていた鮭を焼いて、酒を飲みながら食べた。いなかの家での食卓が思い出された。
 毎年、初冬になると、いなかの大槌川に大量の鮭が上ってくる。もう一度あの光景を見たいと思った。


 訓練校は3月18日で終った。私は修了式に出る気がしなかった。修了時、就職先が決まっていなかったのは私一人だけだった。
 一年間の訓練校生活は、人間関係からみると糞同然であったが、私は新しい知識を夢中になって吸収した。面白かった。テレビも一台自分で組み立てた。

 
「カラーテレビ修理技術者試験」を受験しようと思い、過去に出題された問題集を買ってきて猛勉強した。この試験は、私たちが訓練校に入った年に「家庭用電子機器修理技術者試験」と改名され、テレビのほかに、テープデッキ、ビデオデッキなども含まれるようになった。

 訓練生の中の非凡な上原が、秋に、改名後の「第一回」の試験を受け、何とか合格した。訓練校在学中にこの試験に合格したのは彼が初めてだという。私は受験しなかった。必ず合格できるという自信がないのに、受験料5千円を費やす気になれなかった。私はさらに半年後、翌年の春「第二回」を受験した。その試験は訓練校修了式の二日後であった。
 うれしいほどよくできた。答案用紙だけ提出し、問題集は持ち帰ることができたので、後でチェックしてみると、基礎学理は88点、修理技術は98点であった。間違いなく合格だと思った。だが、うじ虫が介入すればどうなるかわからない。合格発表は二か月後の5月1日であった。
 5月初め、郵便で合格の通知があった。うれしかった。これは私が取得した、資格らしい資格の最初のものであった。この年の秋には「家庭用電気機器修理技術者」の資格も取った。これは少し勉強しただけで合格することができた。

 訓練校に通っていた一年間は雇用保険が支給されたが、修了後も、就職先が決まっていない者には、さらに一か月間、支給が延長された。本当に助かった。
 浅間町にある横浜市中央専修職業訓練校に通うのは、私たちが最後であった。私たちの後から入ってくる訓練生は、石川町に新しく完成した訓練校でやることになった。そして「電子機器科」は「家電サービス科」と改名され、訓練期間は一年から六か月に短縮されることになった。一年課程で、基礎理論から、みっちり教育されたのは私たちが最後であった。何と幸運なことだったろう。

 4月2日、職業安定所の紹介で、中田電子という会社へ面接に行った。すぐに採用が決まり、週明けの月曜日から出ることになった。給与は18万円。
 仕事の内容は期待外れだった。といっても簡単すぎるというわけではない。それどころか理解できない。
IC回路から成っていて、その内部はわからない。回路図もない。
 それはパイオニアの製品で、輸出品であった。視聴者が有線放送のテレビのコマーシャルを見ていて、欲しい品物があったとき、視聴者がテレビの有線の回線を利用して、信号をテレビ局へ送り、その商品を予約するというシステムがあり、中田電子では、その信号を送るためのリモートコントロールユニットを組み立てていた。私の仕事は、その製品の検査と、不良品の修理であった。
 修理屋はすでに若い男が一人いたが、彼は理論はあまりわからないようだった。
 理解できない回路を、ただ現象を見て修理するのはつまらなかった。せっかく一年間、猛勉強して得た知識はここでは役に立たず、頭の中でどんどん薄れていくような気がした。

 会社の帰りは、よく若い修理屋と一緒に帰った。彼は私に、会社及び社長に対する不満をぶちまけた。私もそれに調子を合わせ、言いたいことを言った。そのうち、私が彼に話したことはすべて社長に筒抜けであることを感じた。たぶん第三者を通してであろう。それでも私は自分を押えることはしなかった。
 入社して二か月たった6月のある日、いつものように一時間残業して帰ろうとすると、社長が私を事務室へ呼んだ。何だろうと、軽い気持で行った。
「あしたから、もう来なくていい」
 と言われた。


 中田電子を解雇され、うじ虫に対する怒りがこみあげてきた。それへのはけ口として、私は、ずっと気になっていた不審な胃の薬を警察へ申し出て検査してもらう決心をした。

 

    薬物検査依頼書

  昭和57年6月11日
            横浜市戸塚区笠間町七一九
              依頼人 沢 舘 衛

  戸塚南警察署 御中

 この書面と共に提出します薬の中に、本来の治療には不必要な薬物(毒物)が入っていないかどうか検査してくださるようお願いします。
 添付の「訴その十六」をお読みになればわかっていただけると思いますが、私はこれまでの20年間にわたり、国のある機関によって迫害されてきました。
 その者たちの工作によって、食事に毒を入れられるのを警戒し、飲食店に入るのも避けてきました。病院にかかっても薬の中に毒物を入れられるのを警戒し、特にその病院で調剤、包装された粉薬については、少し服用しては様子をみるといったことをしてきました。
 ところが昨年、ある病院から出された薬を服用したところ、不審な症状が出ましたので、その薬の中に他の薬物が入っていないかどうか検査をお願いします。
 国の「機関」による迫害を、これまで、人権擁護委員会や警察へ訴えても、確かな証拠がないといって取り上げてもらえませんでした。
 検査依頼の薬に異常が認められましたら、それを一つの証拠として、「機関」による私への迫害の件をも調査してくださるようお願いします。

  検査依頼の薬を出した病院  ××医院
  その薬が出された年月  昭和56年8月末
  薬の種類  胃の薬(医師の話)

 薬を服用した年月及び症状は次の通りです。

一、昭和53年、半年以上にわたって服用したが異常はなかった。

二、昭和55年夏、再び服用。以前、同じような薬を長期間服用して異常がなかったので、安心して服用したが、まもなく不審な症状が出た。
  症状は、目が疲れやすく、頭皮に湿疹。本を読んでいても、焦点が合わなくなり、文字がぼやける。遠くのものに目を移し、それから本を見ると、はっきり見えるが、それは一分間と続かず、すぐにぼやける。
  △△病院の眼科で診察してもらったが、目には異常はないと言われた。念のため眼鏡をつくったが、少し楽になっただけで症状は変らなかった。
  頭皮の湿疹は毎日洗髪しても、かゆみと異臭、それに多数の吹き出もの。

三、薬の服用をやめた後、症状は少し軽くなったが、消えずに残る。

四、昭和56年8月6日から一か月間ほど服用。症状は前回よりひどかった。初めてその薬を疑うようになり、服用するのをやめた。しかし変化はなかった。
  皮膚科医院(〇〇医院)で湿疹の治療を受けた。ビタミンB2の不足による湿疹と言われた。皮膚科医院でくれたビタミン剤その他を服用し、湿疹が治るまでには一か月以上かかったが、目の疲れやすい症状は数日で消えた。
  この状態で、××医院でくれた例の胃の薬を服用してみた。二回(夕と翌朝)服用して、すぐに目に症状が出た。(皮膚科医院でくれたビタミン剤を服用していても)。これを何度か繰り返し、胃の薬が原因であることを確信。医師にたずねると、そんな症状を起こす成分は含まれていないと言われた。

五、湿疹も良くなり、皮膚科医院の治療は終り、ビタミン剤の服用をやめた。数日後、目の疲れやすい症状が出、あとは自分で市販のビタミンB複合剤「チョコラBBゴルデン」(エーザイ)を買って服用。「チョコラBB」の説明書には、「通常一日一〜二錠服用」とあったが、六錠以上服用しないと、目の疲れやすい症状は消えなかった。

六、昭和57年3月31日、△△病院の内科で、ビタミンB2欠乏症状について、原因を調べてもらおうとしたが、よくわからなかった。欠乏していないのではないかということだった。
  5月、同病院の眼科で検査。成分はわからないが、注射を一日おきに二週間続けて打ち、かなり良くなった。
  その後、ビタミン剤の服用をやめているが、注射をする以前、ビタミン剤を服用していた頃より調子が良い。

以上のような経過を経て、かなり良くなった現在、試しに××医院でくれた例の薬を服用してみる勇気はありません。その薬に何か良くない成分が含まれているように思えてなりません。検査してくださるようお願いします。

 

 6月14日(1982)、これを戸塚南警察署に提出した。不審な薬数袋と、「訴その十六」も一緒に提出した。
 その後、手紙や電話で問い合わせたが、四か月たっても返事はもらえなかった。そこで10月12日、改めて文書で問い合わせた。
 それから何日かして、若い警察官が私のところへ訪ねて来た。彼はこの件にまじめに取り組んでいるようだった。彼は薬を出した病院も訪ね、事情を聞いたという。しかし、「お決まりの返事しか返ってこなかった」と言った。薬の検査については、はっきりした事件が起きたわけではないので、警察としては検査するわけにはいかないと言った。それでも、「神奈川県衛生研究所」というところを教えてくれ、そこへ持っていけば検査してもらえるかもしれないと言ってくれた。

 昭和58年1月11日(1983)、神奈川県衛生研究所を訪ね、薬の分析を依頼した。しかし、分析するには、持って行った薬の分量が少なすぎるといって断られた。


 オーストラリアへ帰った英会話の教師ムーア氏から、私を採用してくれそうな人がいるから、履歴書(英文)を送れという便りが前年の秋にあった。ムーア氏はオーストラリアの電気工業会の有力な重役(ディレクター)を知っているので、その人に私のことを話したところ、その人は私がオーストラリアで仕事につくために喜んで力を貸してくれようとしているという。それで履歴書にはこれまでのことを詳しく書いてくれという。資格、技術、強電関係の経験、その仕事にたずさわった年数など。それを見て、その人は私を適当な電気会社に斡旋してくれるという。
 さらにムーア氏は、私が彼のいるオーストラリアで働くようになったら、どんなに素晴らしいだろうと言い、もし私が永久に日本を去るのが不安だったら、旅行ビザで来て様子をみなさい。費用は飛行機代だけもってくれれば、あとはすべて彼のところでめんどうをみてくれる、好きなだけ滞在していい、とまで言ってくれた。
 私はすぐに履歴書を送った。しかし私の履歴書など、吹けば飛ぶような内容のものでしかなかった。ムーア氏から、「年が明けてから当たってみる」という返事があった。

 半年ほどして彼から便りがあった。それを読んだとき、私は屈辱を感じた。そして、彼との交友はこれでおしまいだなと感じた。そして、絶交状ともとれる返事を書き、彼との交友はとだえた。
 この原稿を書くにあたり、そのとき受け取った彼からの手紙を読み返してみた。すると、彼は彼なりに一生懸命やってくれていたことがわかった。どうしてこの手紙に対して、絶交状など書いたのだろうと不思議になった。極限状態に追い込まれていた私が、ちょっとしたことにも敏感に反応したのかもしれない。


 中田電子を解雇されてから、一か月半ほど、いくつもの会社に面接に行ったがだめだった。電子関係の仕事にはつけそうもなかった。うじ虫が、私がこれまで猛勉強して身につけた技術を使わせまいと、やっきになっているのを感じた。

 それでまた、クレーンの運転で数社を訪ねた。そのうちの一社で採用が決まった。関東富士重機という会社。その会社から、日本冶金という会社に出向することになった。
 7月30日(1982)、日本冶金に出勤。様子が変だった。作業衣に着替え、朝礼に出たが紹介もされない。朝礼が終り、私は休憩室へ呼び戻された。関東富士重機から出向しているグループのリーダーをしている鈴木という男がすっかり狂わされていた。彼は私を採用するのを見合わせると言い出した。私は本社で採用されてここへ来たのだと主張したが、鈴木は、誰が採用しようが、ここで働いてもらうかどうかはおれが決めると言う。彼の顔を見、これはもう何を話しても無駄だなと思った。
 しかし私はこのまま黙って引き下がるわけにはいかなかった。とにかく私はいったん採用されたのだ。それを解雇するというのなら解雇予告手当を支払ってもらうと主張した。すると鈴木は、
「それが目的でここに入ったんだろう!」
 と言った。私はあきれて言い返した。
「そんなことを言うんだったら、私をここでずっと雇ってみたらいいでしょう!」
 鈴木は何も言えなかった。本社から服部さんという人がやって来て、その人と車で本社へ向かった。社長と会った。社長は「10万円でどうだ」と言った。私は内心驚いた。いくらなんでも、それだけの金を簡単に払ってもらえるとは思ってもいなかった。私は了承した。

 

             四 節

 昭和57年(1982年)

 8月4日、水曜日、ACE技研(仮名)という会社に面接に行き、採用された。川崎駅で南部線に乗り換え、25分位乗り、久地駅で降り、そこから10分ほど歩いたところにあった。川崎にこんなところがあるのかと思うほど、田舎の風景があった。山、畑、果樹園など。
 その会社は無線電話を作っていた。私は以前、同じようなものを作っている多摩川電機という会社へ面接に行ったことがあると話すと、面接者(専務と技術者)はその会社のことをよく知っていた。

 二日後の8月6日、金曜日から出勤した。回路図の説明をしてもらったが、結構むずかしい。まず回路図の書き直しから始めた。なにしろ原図がない。すべてコピーである。何度もコピーを重ねたためだろう、細かい文字が判読できなくなってきていた。この図面はどこから出たものなのか、社名も、書いた人のサインもない。変だなと思った。

 一か月が無事に過ぎた。会社の雰囲気はこれまでになかったほどよい。入社してまもなく、山田という技術屋に「訴」のいくつかを渡しておいたのがよかったのかもしれない。
 専務だという男が少しあぶなっかしいが、社長の姿勢がしっかりしているので、何とかおさまっているようだった。
 社長は社員にあまり話しかけることはしなかった。だから私は入社して数日間、その人が社長だということを知らなかった。社長は少し恥かしがり屋みたいであった。

 私は事務室の中の、ロッカーで区切られた一角で図面を書いていたので事務室での電話のやりとりがよく聞こえた。会社が何か困難な状況に局面しているようだった。
 私は社員の一人から、これまでの状況を聞くことができた。この会社は以前、多摩川電機の無線電話を作っていたが、そのうち、
ACE技研でも独自に無線電話を作って売り出した。それで多摩川電機が怒ったという。でも両者の話し合いで、その問題は解決したという。ところが私が入社してまもなく、またその問題がぶり返されたのだ。何という偶然だろう、私が前に面接に行った会社とこんなことになっているなんて。

 社長が自宅に泥棒に入られたり、錠が壊されたりして困っていると言ってぼやいていた。
 私が
ACE技研に入社した。そこの社長の姿勢がしっかりしている。うじ虫にとってそれは面白くない。多摩川電機との問題が再発したり、社長の自宅の錠が壊されたりするのも、背後でうじ虫がおどっているのではないかと考えた。

 入社して二か月ほどすると、それまで感じの良かった技術屋の山田が完全にうじ虫の手先になりさがっているのが感じられた。山田が陰でさんざん私をこき下ろしているようだ。そして、年上の私に対して、まるで子供に言いつけるような口調で仕事を言いつけた。
 一日の仕事が終り、事務室を出ようとすると、いつも決まって山田が、誰にも聞き取れない小声でどこかへ電話するようになっていた。彼は「機関」へ、私のその日の様子を報告し、私がいま会社を出るところだと報告しているように思えた。そして会社を出ればうじ虫がつきまとう。

 昭和58年(1983年)

 入社して八か月ほどした、昭和58年4月7日、専務が私に、明日から新日本電気の治具作りの仕事をしてくれと言った。治具作りなんて機械屋の仕事ではないか! いやな予感がした。しかし、山田の下で不快な思いをしながら仕事をしているよりはいいだろうと思い、引き受けた。
 翌日、社長と「武蔵溝ノ口駅」の近くにある新日本電気へ行き、担当者に会った。テレビの基板をテストする治具を作るのだという。テレビの回路の知識もかなり必要なことがわかった。しかも同じものを量産するのではない。新しいテレビの基板ができるたびに、その基板専用のテスト治具を数台ずつ作るのだ。さっそく五台口を渡された。
 この仕事をするための部屋を
ACE技研内に一室用意してもらい、人員も一人与えられた。しかしこの男、私より若く、私の後から入ってきて、給料は私よりずっとよかった。そのうえ、私はこの男のやる仕事によく泣かされた。
 初めの間、ACE
技研内で組立、配線していたが、細かい変更や指示が電話だけでは困難なことから、新日本電気へ出向して、そこで作業することになった。実験室と呼ばれる部屋で仕事をすることになった。そこでは新日本電気の社員数人と、他の協力会社の社員数人が治具作りとそのテスト、実験をやっていた。そこへACE技研からも入った。ACE技研からは初め三人で入ったが、そのうち二人ともやめ、私一人になった。

 一年以上この治具作りの仕事をした。これはとてもよい勉強になった。治具の電子回路の設計もやらされた。しかし勉強できたのも初めの八か月ほどだけだった。それまで懇切丁寧に指導してくれていた永井主任という社員が、途中から私とほとんど口をきかなくなった。永井主任は事務室、私は実験室と離れていた。永井主任は実験室へ来ることが少なくなり、実験室では、横田という社員が私に仕事を与えるようになっていた。だがこの男には、私はただのばかにしか見えないらしく、どうでもいいような仕事しか与えられなかった。
 一方
ACE技研のほうは、多摩川電機との間が泥沼状態におちいっているようだった。裁判ざたにまでなっているらしい。こんな中で社長が姿をくらましてしまった。

 昭和59年(1984年)

 私は日頃から、この社長がこの会社からいなくなったら、私はすぐさま解雇されるだろうと思っていた。しかし、社長の年令からいって十年間は大丈夫だろうと考えた。
 社長がいなくなって間もない5月8日、会社へ呼びつけられ、解雇を言い渡された。5月15日付だという。
 経営が破綻し、事実上倒産だという。事業を縮小するので新日本電気からも手を引く、それで私にもやめてもらうことになったという。しかし専務の川辺は、私に少し同情を見せ、新日本電気のほうで私を引き取ってくれるなら、そのように話をつけてやろうと言った。そして永井主任に連絡を取ってくれた。
 翌日、永井主任が私に、同じ実験室で働いている、もう一つの協力会社に入らないか、と言った。そちらへは話をつけてあるので、その意志があるなら、履歴書を持って来いという。しかし、同室で働いているその協力会社の者たちと私との間はうまくいっていなかった。嫌だなと思っているうちに14日になった。15日は解雇期日である。

 14日、履歴書を持って行って、その協力会社の責任者と会った。不快な思いをした。男は、永井主任から持ってこられた話なので、仕方なく私を使ってやろうと言わんばかりだった。給与も16万円でどうだという。今よりも2万円も少ない。でも私は受け入れた。
 その日の帰り、心は暗かった。こんな屈辱を耐えねばならないのだろうか。あの実験室でこれからも屈辱は続く。断ろうと決心した。翌日、その協力会社への入社を断った。するとそこの責任者は「うちでも、あなたに来てもらわねば困るということはありません」と答えた。
 私はこのことを会社に手紙で報告し、離職票と解雇予告手当を請求した。10日ほどして会社から、「大事なものを渡すから来い」と言う電話があった。翌日の5月25日、会社へ出かけた。専務の川辺と少し話したが、もうこれはどうにもならないなと思った。解雇しておきながら、解雇予告手当を支払う意志は全くないらしい。そのうえ、離職票の「離職理由」の欄に、「自己の都合により」と記入していた。
 私は川辺に、「このことをここでこれ以上話してもどうにもならないので、これから監督署へ行ってみます。そこでらちがあかなかったら、あとは裁判ですね」と言った。
「うん」彼は私と視線を合わせずに答えた。
 私はせめてその場で、離職理由を「自己の都合」ではなく、「解雇」にしてくれるよう頼んだ。その理由の違いによって、雇用保険の支給が開始される時期が異なってくることを説明した。失業とは縁のない川辺はそのようなことを知らなかったろう。彼はそれくらいのことはしてやってもいいという気持になったのだろう。職業安定所に、離職理由を訂正するために電話をしようとした。すると、そばにいた女事務員の鈴木が叫ぶように言った。
「解雇にしたら解雇手当を支払わねばならないでしょ!」
 なんという破廉恥さ。ちょうどこのとき川辺に電話がかかってきて、彼は事務室を出て行った。出るとき彼は鈴木に、とにかく職業安定所に電話で問い合わせてみるように言いつけた。
 鈴木が職業安定所に電話した。が、会社に都合のいいことばかり言って、私の言い分を間違ったものにしようとしていた。このとき、うじ虫の手先、山田が入って来た。彼はなぜか動揺していた。鈴木が私に電話に出ろという。職業安定所の職員は鈴木の説明を信じ、私をならず者扱いした。私は言った。
「会社が離職理由を解雇ではなく、自己都合にしたのは、会社が解雇予告手当を払いたくないからだと思います」
 すると鈴木が、塩を振りかけられた野菜みたいに、机の上にグタッとなった。職業安定所の職員は、異議があるなら、私の住んでいるところを管轄する職業安定所に申立をするようにと言った。

 翌日、5月26日、戸塚公共職業安定所を訪ねた。解雇されるまでのいきさつを詳しく文書にして持って行った。職業安定所の職員には、もう手がまわっているのを感じた。そして、うじ虫らしい中年の女が二人、うろうろしていた。
 6月21日、最初の失業認定日。会社が私を解雇したことを認めたという。あとは会社に解雇予告手当を支払わせるだけだ。
 監督署に申立をした。それに対し、会社は答えた。解雇予告手当を支払うけど、五回に分割して支払う。給与支払い日のたびに、会社へ取りに来い。
 そんなばかな! と思った。しかも支払額もおかしかった。
 私は川崎簡易裁判所に「支払い命令」の申立てをし、会社に全額、まとめて支払わせた。

 こんなことをしながら就職先を探したが、例によって困難であった。秋になり、雇用保険をもらえるのもあと一か月というとき、職業訓練校のことを考えた。妨害されながら仕事を探すよりは、訓練校へ入校して新しい技術、資格を得ようか? 今、訓練校へ入校すれば、修了するまで雇用保険は延長してもらえる。
 職業安定所で訓練校の案内書を見ると、10月生を募集している訓練校があった。神奈川総合高等職業訓練校。相鉄線の「希望ヶ丘駅」から10分ほど歩いたところにある。いろいろな科があったが、その中から私は電気工事科を選んだ。
 電気工事は、釜石製鉄所時代からやっているが、私は電気工事士の免許を持っていなかった。その後、転々とし、就職しようとしても免許を持っていないために不具合を感ずることがあった。学科は独学でもできるが、実技は個人での練習はむずかしい。それに私は工場内の電気工事が主で、一般家屋の配線工事の経験は少ない。私は職業安定所に訓練校入校を申し込んだ。訓練校で試験や面接があり、入校を許可された。

 この訓練校には翌年(1985)の9月までの一年間通った。楽しく過ごせた。入校当初、一緒に入校した、私よりずっと年上のおやじがうじ虫の手先になっておどりだしたのを感じたが、まもなく彼は、いい会社に就職できたといってやめていった。その後、怪しげな空気が漂うこともあったが、大事には至らずに済んだ。
 入校当初、実技があまりにも幼稚なことからやらされたのには閉口した。ペンチの握り方から、電線の接続方法など。これらは釜石製鉄所教習所の電気班の実習で叩き込まれたことばかりだった。しかし後半は実技も学科もむずかしくなった。また、この訓練校では大きな発見、習得があった。それはシーケンサというものがあるということだった。

 20年ほどまえ、製鉄所で制御回路にたずさわっていた頃、制御回路はすべて、無数のリレーやタイマーを使い、その間を配線していた。6年ほどまえ、KB電機というところで制御盤の組立配線をしたが。そこでもシーケンサというものは見かけなかった。
 シーケンサというのは、片手でも軽々と持てるほどの小型のコンピューターで、大きな制御盤数面分の回路を、その中でプログラムすることができるというものであった。
 制御回路を、定められた言語に直し、キーで打ち込んでいくと、シーケンサ内部に、その制御回路に相当したプログラムが書き込まれる。最初戸惑ったが、便利なものだと思った。このシーケンサを実習に取り入れたのが、私たち10月生が最初だという。これも幸運なことだった。

 

             五 節

 昭和57年(1982年)

 私が住んでいるアパートの別棟に、二十代後半の女性が住んでいた。朝、彼女と会えば挨拶を交し、駅への道を一緒に歩くこともあった。それは私がACE技研に入社してまもない10月の頃だった。その時私は39歳の終りであった。
 彼女は川内といった。私が女に近づくと、うじ虫がばかおどりをして引き離すのに、彼女にはばかおどりの手を伸ばさないようだった。
 日曜日は、彼女の部屋、あるいは私の部屋で食事をし、それぞれの生い立ちを語り合った。彼女はスキーが趣味で、この冬、彼女は私をスキーに誘ったが私は行かなかった。私はスキーを少年の頃、一度経験した。釜鉄教習所でスキー教室というのがあった。そのとき私はよじれたスキー板を与えられ、えらい目にあった。

 私は個人では旅行することは全くなかったが、彼女と知り合ってからは彼女に誘われて、あちこち旅行するようになった。
 こうして一年ほど過ぎ、私の住んでいる町の秋祭りがやってきた。だがそれは子供向けのたわいのない祭りだった。私は彼女に、私のいなかの祭りはこんなものではない、と話した。すると彼女は、ぜひ私のいなかの祭りを見たいと言い出した。私は戸惑った。あの便壺のようないなかに帰りたくなかった。もし帰っても、家に寄らず、誰とも会わず、知らないところに泊まりたかった。

 ところで神奈川には、私のいなかから、「生まれたときからの親友」といっていいほどの友人が出て来ていた。四郎君(仮名)といって、以前、私に長い手紙をくれた栄光さんの分家にあたる間柄だった。しかし、私がこの地へ出てきたとき、彼がどこに住んでいるかわからなかった。ところがある日突然、彼が私のところを訪ねて来た。20年ぶりだったろう。彼は茅ヶ崎に住んでいた。結婚して子供もいて、あるデパートの寮の管理人をしていた。それから私は時々彼のところを訪ねるようになった。
 
川内に彼のことを話すと、会ってみたいというので一緒に連れて行った。いなかの祭りに私たちが帰るかもしれないと彼に話すと、彼も帰るという。私はいなかへ帰っても、親たちと顔を合わせたくないから旅館に泊まると言った。すると彼は、つい最近いなかに建てた家があるから、そこへ泊まるようにとすすめてくれた。
 こうして大槌祭りに出かけた。大槌へ着き、まず四郎君の実家(私の生家のすぐ近く)へ行った。そこでいろいろごちそうになった。日本酒を飲みながらの、新鮮なホヤは格別だった。四郎君は私に、ここまで来て家の人に連絡しないのはおかしい、親に会いたくなかったら、せめて姉にだけでも知らせろ、と言って自分で私の姉に電話した。こうして姉の家へ行くことになった。
 行ってみると、姉の家の斜め前、むかし叔母を住まわせるための、小さな粗末な家があったところに、ちゃんとした家が建っていた。そしてそこには年老いた両親が住んでいた。兄が死んでから、もとの家に居づらくなって出たという。

 両親からはむかしのような狂いは感じられなかった。いくらか人間らしくなっていた。
 6年ほどまえ、「訴その十六」をこの町のあちこちに送ったのがかなり効いたようだ。「訴その十六」がかなりの力を発揮するだろうことは、それを発行したときから確信していた。
 今回私は、むかしの知人、友人には一切会わなかった。会う必要を感じなかった。「訴その十六」を送った以上、さらに会って訴えたり、お願いしたりすることは何もなかった。

 四郎君の家に寄ったとき、その斜め向かいの縁側に、栄光さんの姿がチラと見えたが、私は訪ねて行かなかった。
 私たちは姉の家に一泊して帰った。


 彼女と知り合って二度目の冬がやってきた。彼女はまた私をスキーに誘った。しきりに誘われ、出かけることにした。
 この冬、水上、妙高、草津、湯沢へ出かけた。すっかりスキーの魅力のとりこになった。最初に出かけのは、水上温泉の大穴スキー場という小さなところだった。しかし私はリフトのあるスキー場は初めてだった。スキー場の民宿に泊まるのも初めてだった。
 私はスキーウェアがなかったので、作業用の防寒服を着て滑った。スキー板と靴は宿から借りた。子供の頃、スケートや、手作りの竹スキーで遊んでいたので、まっすぐ滑ることはすぐにできたが、曲がることができなかった。うまく曲がれたと思っても、曲がりきったところで必ず転んだ。転ぶたびに防寒服の背中に雪が入った。

 二回目は妙高高原へ行った。このときは本を買って滑り方を勉強し、スキーウェアも買って出かけた。かなり滑れるようになった。川内に待ってもらわずに、ほとんど一緒に滑れた。しかし曲がるのはまだ不安だった。とくに急斜面をジグザグに降りて行くことができず、曲がるたびに転んだ。私、40歳の冬であった。ACE技研を解雇されそうになっていた頃で、本来なら暗い気持に陥っているはずであったが、白銀の世界ではそんなものは吹っ飛んでしまって頭にはなかった。
 スキーの帰り、川内は私に明るく言った。
「今度は夏、九州(彼女のいなか)へ行こうな」
 その後、機会あるたびに彼女は私にたずねた。
「夏、九州へ行くだろう?」
 私は答えを渋った。二人で彼女の両親のもとを訪ねるということは、「私たちは結婚します」と言いに行くようなものだ。

 彼女は、私がこれまでに書いたものを、めんどうくさがって読もうとしない。うじ虫についてもわからない。私がうじ虫について話すと、「そのうじ虫を本当に自分の目で見たの?」と反対に私を責める。うじ虫は、彼女が考えているような生やさしいものではない。私は結婚とか、家庭といったものは眼中にない。まずうじ虫を退治することだ。すべてはそれからである。現在の私は、うじ虫のばかおどりから自分の身ひとつを守るので精一杯である。家庭など持てるはずがない。またこれまでは、会社が便壺と化せばそこから飛び出してきたが、それも私が自分の身ひとつだからであった。だが、守るべき家庭を持ったならそうはいかない。便壺のような職場で、言語に絶する屈辱を受け、精神的苦痛に耐えねばならない。私にはそんなことはできない。
 それにまた、私は自分独りの世界を他人におかされたくないという気持も強く働いていた。
 ある日彼女は、いつも以上にきつい調子でたずねた。
「今度の夏、九州へ行くだろう?」
 私は答えを渋った。
ぜったいにだめなの?」
 彼女は絶対という言葉に力をこめて言った。私は彼女に申しわけなかった。彼女がかわいそうだった。彼女が、誰か本当にいい人と結婚でき、幸福になってくれたら私はうれしい。が、もし彼女が不幸になるようなことがあったら、私は私にできるどんな援助も惜しまないつもりである。

 むかし、私がうじ虫のばかおどりにさらされ、私の立場があやしくなったとたん、私の友人、知人、さらに肉親たちも私から離れていった。だが彼女は全くそんなことはなかった。私が失業し、これから就職できるあてがなくても、私に対する態度を変えず、就職情報誌などを買ってきてくれたり、話し相手になってくれたりして、失業中の孤独から私を救ってくれた。
 そんな彼女に、時々見合の話があった。彼女はそのことを私に話し、相手の男性の写真を見せ、私の意見を求めたりした。彼女が見合のために出かけて行くのを、私はアパートの窓からそっと見送ったこともあった。

 彼女は二年ほどして、隣の町(戸塚)にある公団住宅に入居できた。彼女は私も一緒に、と誘ったが、私にはできなかった。彼女とはこの二年間にいろいろな思い出があった。一年目の夏、私も彼女も失業したとき、二人で合宿による車の免許を取りに千葉まで出かけた。九十九里浜の近くだった。二年目の夏は旅行に出かけた。秋吉台、萩などをまわった。秋吉台ではレンタカーを借りて、広大な大地を走りまわった。サファリパークにもレンタカーで入った。
 彼女は引っ越した後も、休日には私のところを訪ねて来た。私も訓練校からの帰り、戸塚駅で降り、彼女のところに寄ることもあった。

 ある日曜日の朝、遅い朝食をとろうとしていると、彼女が訪ねて来た。団地のまわりで工事をしていてうるさいので出て来たという。そして私の隣に座り、「私も持ってきた」と言って、一つの容器を取り出した。ご飯が入っていた。そのときの彼女のしぐさは、小さな子供のようであった。テーブルの上のおかずは、前日の土曜日、彼女のところに寄ったとき、彼女からもらって来たものがほとんどだった。彼女もそれを知っていて、ご飯だけ持って来たのだろう。二人で同じおかずを突っついて食べた。私まで小さな子供に戻ったみたいだった。


 スキーを始めてからは、次のスキーシーズンが来るのが待ち遠しかった。
 何度かスキーに出かけるなかで、おかしな現象に出くわすようになった。混み合ったゲレンデでの接触や衝突ならまだしも、人影がほとんどないゲレンデで、まるで迎撃ミサイルのように、私めがけて体当たりしてくる若い男がいた。
 こんなことがあってから、私はスキーのために会社を休むとき、職場の者たちから、「どこのスキー場へ行く?」と聞かれても、全く異なるスキー場の名前を答えるようにした。
 民宿やホテルでの食事に毒物を入れられはしないかといつも心配したが、異常は感じられなかった。

 

             六 節

 昭和60年(1985年)

 前年10月から通っていた訓練校の修了式は9月25日だった。例によって私はなかなか仕事が決まらなかった。電気工事の仕事なら決まったかもしれない。しかし電気工事科で一年間訓練を受け、電気工事士の免許が取れても、それですぐに電気工事の仕事につく気になれなかった。若いうちだったら、さらに電気工事の技術をみがくために飛び込んで行ったかもしれない。だが私の場合、免許を取るまえに電気工事の作業に従事して苦労している。できれば制御関係の仕事につきたかった。

 職業安定所に何度も足を運んだ。修了式の一週間ほどまえ、ある会社から出されたばかりの求人票が目についた。関東電子精機という、磯子区にある会社だった。
 9月19日の午後、面接に出かけた。根岸駅から歩いて10分ほどのところにあった。総務の60歳位のおとなしそうなおじさんが面接した。とても感じがよかった。さらに電気の作業室へ行き、電気の担当者だという千葉氏に会った。こちらもとても感じがよかった。
 22日、その会社から通知があった。試用期間の一か月間、一日一万円で働いてみないかという内容だった。四日後、私は承諾の電話をした。そのとき、総務のおじさんの調子が暗かった。10月1日から出勤した。

 この会社は、パーツフィーダーという、部品整列供給装置を作っていた。私はその制御装置の組立、配線、修理をすることになった。制御はマイコンによるもので、千葉氏の設計によるものであった。この回路の故障箇所の発見や修理をするなかで、私はIC回路にかなり慣れることができた。

 またこの会社では、パーツフィーダーだけではなく、客からの注文で、パーツフィーダーを用いた自動機や、あるいはパーツフィーダーには関係のない自動機の設計制作もやっていた。これらの自動機の制御には、シーケンサを用いていた。このシーケンサについては訓練校で学習したばかりであった。訓練校でシーケンサの基礎を学び、すぐに実務で応用する機会が与えられた。しかも、千葉氏は私にプログラムの設計をやらせてくれた。
 初め、かなり手こずったが、何回か経験するなかで、どんどん慣れていった。シーケンサのプログラムといっても、その考え方はむかしからあるリレー制御回路と同じであった。制御回路は20年ほどまえ、釜石製鉄所で苦労して勉強した。15年もの間、制御回路から離れていたが、すぐに勘は戻った。そして思った、若いとき苦労して身につけたものは消えにくいものだなと。
 制御回路の設計は極度に神経をつかい、苦しくはあったが、楽しかった。制御盤も自分で設計した。これは初めての経験であった。

 訓練校を修了した後、私は取れる資格はどんどん取ろうと思った。訓練校修了後一年間に二つの資格を取った。一つは消防設備士(甲種四類・火災報知器関係)。これは電気工事士の免許を持っていれば受験資格が与えられた。もう一つは高圧電気工事技術者。これは猛勉強した。かなり高度な数学が必要だった。
 若い頃、電気の勉強をしようとしても、数学が理解できず、壁に突き当たっていた私が、40歳を過ぎて、勉強すればその数学が面白いように理解できた。

 昭和61年夏、会社が三菱電機大船工場の仕事をすることになった。制御関係は私が受けもった。自動機なのだが、すでに稼動している自動機の一部であり、しかもかなり大がかりなものだった。そのため、機構部の組立は客先の現場で行なった。制御回路もまえもって自社で試運転することはできなかった。
 
三菱電機の大船工場は、私の住まいから歩いて十数分のところにあった。だから私はその仕事をしている間、会社へは行かず、住まいから自転車で直接三菱電機へ出かけ、一人で仕事をした。伸びのびした気持で仕事ができた。しかし現場はガラス管(蛍光管の一部)をガスの炎で溶かして加工しているところだったので、すごく暑かった。しかも真夏であった。

 ちょうどその頃、川内がこの三菱電機で準社員として働いていた。それも私が仕事をしている現場のすぐ隣の棟の工場で。だから昼休みに会ったり、私が仕事をしているところへ彼女が訪ねて来たりした。


 関東電子精機に入社して数か月後、そろそろ会社の雰囲気がおかしくなりかけたとき、会社に資料一式を提出した。これで悪化は防げた。上司の千葉氏にも渡した。それを読んだ千葉氏は感激してくれた。もともと彼は狂わされなかった。彼はどんなことを聞かされても、根底では私を信じていた。それに加え、会社の姿勢もよかったのか、私はこの会社で三年近く働くことができた。もちろん社内には、うじ虫の手先が二人ほど育成されていった。

 関東電子精機では、双葉電子という会社の仕事が大きな割合を占めていた。双葉電子は千葉県茂原市にあった。関東電子精機もそのうち茂原市の近くに移転し、横浜工場は閉鎖されるという噂が流れた。社員には、はっきりした説明もなされないまま、その計画は進められているようだった。それで横浜工場はいつ閉鎖されるかと、みんな不安がっていた。やがて、茂原市の隣の長南町というところに新しい工場が完成した。それ以来、大きな仕事はそこでやるようになった。横浜工場から出張する者も多くなった。私も時々出張した。工場は想像していた以上に立派なものだった。出張者用の宿泊室はホテルのようだった。
 電車で行くと茂原駅で降りなければならない。茂原にはいい思い出はなかった。釜石製鉄所をやめ、日立製作所の茂原工場に入社できたものの、わずか一週間で解雇され、途方にくれていた頃の暗い思い出ばかりがよみがえってくる。横浜工場が閉鎖されることがあっても、この茂原の近くに引っ越すことには抵抗を感じた。

 

             七 節

 昭和62年(1987年)

 関東電子精機に通うようになり、根岸駅から会社までの道で、反対方向から来る20歳位の色の白い、目の大きな女性に出会うようになった。
 そのうち彼女が私に関心を持っているのが感じられるようになった。私も意識するようになってからは、すれちがうとき、私たちの間隔は自然に広がっていった。
 ある朝、横断歩道で向こう側とこちら側で私たちは向き合った。横断するとき彼女は、ずんずん私の方に近づいて来た。そして私とすれすれの近さを通って行った。
 彼女は、私の会社のすぐ近くにある、新しいアパートに独りで住んでいるようだった。私がこの会社に通い初めて一年以上たった、ある春の朝、会社に近づくと、彼女がそのアパートから出て来た。
「おはよう」
 私はごく自然に挨拶した。彼女は応えなかった。
 その後数回、彼女に挨拶した。いずれも彼女は応えなかった。それでも彼女は私とすれちがうとき、いつも歩く速度を落とした。挨拶以外に何か話しかけられることを期待しているのか。私としては、彼女が私の挨拶に応えるようになってからでなければ、それ以上のことは話しかけられなかった。

 私が挨拶するようになって一か月ほどした5月末から、彼女の姿が見えなくなった。どこかへ引っ越したのかと考えた。その後、ごくたまに反対側の歩道を歩いていく彼女の姿を見かけることがあった。
 そのうち、会社である者たちに微かな変化、不自然さを感ずるようになった。それはある種のわらいをともなっていた。この現象には、かなり根の深いものが感じられた。
 彼らの笑いの輪はだんだん広がっていった。すると、うじ虫の手先が、私に感づかれるから、あからさまに笑うなと、彼らを戒めにかかったのも感じられた。このような変化を私は誰とも口をきかず、独りで仕事をしていても、手に取るように感じとることができた。この笑いは社内だけではなく、一部の市民にまで広がっていった。

 こうしたある日、私は自分のアパートの廊下で、端の部屋から出て来た住人とばったり会った。そのとき、その住人の顔に、人をばかにしたような笑いがふわーっと浮かんだ。
 その夜、ふとんに入って眠ろうとしていたとき、ぱっと、あることがひらめいた。すべてが明らかになった。うじ虫は何者かをそそのかして、彼女の処女を奪わせたのである。そうして私を笑いものにしていたのだ。
 翌朝、私の心は深く澄んだ湖のようだった。うじ虫のやり口を見破ることができたこと、そこから、うじ虫に対する自信が湧いた。同時に彼女を気の毒に思った。私と出会わなければ、そんな目にあわずにすんだものを。
 私はアパートを出、会社へ向かう道すがら、私の心の変化を表面に出さないように気をつかった。うじ虫はいつもどこからか観察しているだろうから。私は何にも気がついていないふりをして、うじ虫のばかおどりをこれからも見ていたかった。

 私がうじ虫のやり口を見破ったことはすぐに職場の者たちに知れた。うじ虫からの知らせによるものだろう。全く大したやつらである。私が面に出さないようにしていたのに、それを見てとったのである。「機関」の下っ端でおどっているうじ虫みたいなやつらに、それほどの能力があるとはとても思えない。かなりの心理学者も関与しているように思えてならない。

 うじ虫のやり口を見破ってから数日後の朝、通勤客で混みあう大船駅の階段を上って行った。すると、心のレーダーが作動した。階段の中央にはパイプの手すりがあった。その上端のところに一人の男が立っていて、上ってくる人々の方を見ているようだった。心のレーダーはその男に反応した。見るとその男は50歳過ぎの、身なりも容貌もかなりの品格をもった紳士だった。学識もあり、立派な人格の持主のようだった。私はそのわきを通り抜けた。私は心のレーダーの反応に確か手応えを感じたので、歩きながら、堂々とゆっくり体を反転させ、その紳士の方を見やった。紳士は他人の陰に隠れるようにしてその場を離れた。

 職場の者たちは、私の感覚に舌を巻いたようだった。ある者は私が仕事をしているところへやって来て、いきなり、「超能力だ!」と言った。

 以前、桃川制作所という会社から君津鋼板加工という会社に出向していた頃、そこでの責任者だった笠原という男に、根岸駅の近くで時々出会うことがあった。最初に出会ったとき、ぞっとした。私は不愉快だったが彼は私に話しかけてきた。彼も、彼女のことをすでに知っているようだった。

 6月18日、木曜日の帰り際、機械のリーダー、稲葉氏(仮名)が、私たち電気の部屋へやって来た。彼の様子は普通ではなかった。私が帰った後、電気のリーダー、千葉氏と話をするつもりらしい。私に関したことであることは直感できた。
 翌日、その話がどういう内容のものであったかが、千葉氏の表情から理解できた。彼らは、うじ虫の今度のばかおどりを見て、「これはひどい!」と思ったのであろう。うじ虫の正体を私に教えてやろう、ということになったらしい。私はうれしく思う反面、困惑した。このような形で協力してもらっても、うじ虫の行為の一部に対してのみ責めることになり、うじ虫の存在をくつがえすところまでは発展しないのではないか? 私は私のやり方でうじ虫と対決したい。
 だがいずれにせよ、うじ虫はどんなことをしてでも彼らを押え込むであろう。6月23日、24日の二日間、千葉氏と稲葉氏は二人でどこかへ出張した。その間に押え込みは完了したようだった。稲葉氏は、私という人間は協力してやるには値しない、ただの色気違いだと思い込まされたようだ。千葉氏は仕方なく協力するのをあきらめたようだった。

 6月21日、日曜日、明け方の4時まで一睡もできなかった。眠ろうとも努力しなかった。ずっと音楽を静かに流していた。ロシヤ民謡。
 ずっと前から、「私の半生」、「訴」及び日記に詳しく目を通し、これまでの記録を集大成させようと思っていた。

 この日(日曜日)の昼、「訴」や日記を引っぱり出してみた。「訴第一部」(訴その一〜訴その七)を見てびっくりした。これまで「訴」の初めのほうのシリーズは、開いてみる気になれなかった。あまりにも赤裸々な姿をさらけ出したという思いがあったから。しかし読み返してみてびっくりした。これが私の書いたものだろうか。これを書いた頃の私に比べたら、今の私はすっかり心がゆるんでしまっている。
 段ボール箱に入れて押入れの中に置いてあった過去の日記も出してみた。「訴」と日記帳の山を目の前にして、これらを整理するには、どんなに時間があっても足りないだろうと思った。どうしてこれまで放っておいたのだろう? 不思議であった。
 日記を読み返してみて、その重要性をひしひしと感じた。どんなことがあってもこの日記を消失することはできない。少なくともうじ虫を退治するまでは。もし火事にあって燃えてしまったらどうしよう。耐火金庫が欲しい。

 日曜日、一日、「訴」や日記と向かい合っていたら頭がいっぱいになり、ふとんに入っても眠れなく、夜明けを迎えてしまった。月曜日は会社を休んだ。何がどうなっているのか、もう少し調べたかった。

 金庫を注文した。縦長の少し大きめのもの。大型の厚いノートを30冊以上納めるので。
 7月4日、金庫が届いた。その重さにびっくりした。日記帳を入れるとほぼいっぱいになった。これで一安心できた。

 

             八 節

 昭和62年(1987年)

 7月3日、私は自分の仕事は時間内に終ったが、千葉氏と斎藤氏(電気班の仲間)がやっていた仕事が忙しそうだったのでそれを手伝い、7時半まで残業した。湿度が高く、気持悪かった。はやく風呂に入りたかった。

 私がこの会社に入社してまもなく、会社の前に銭湯ができた。それからというもの、私はこの風呂に洗面道具を置いて、会社が終るとすぐ風呂に入った。下着の着替えは毎日かばんに入れて持って行った。
 この日、風呂からあがったのは8時過ぎだった。銭湯を出て少し行ったところの交差点で、赤信号で立ち止まった。道巾4メートル位の細い車道の向こう側に若い女が立っていた。彼女だった。他には誰もいなかった。これまで会社の帰り、彼女と出会ったのは、わずか数回しかない。そして、それは今日のように遅い時刻だった。いつもこんなに遅くまで働いているのだろうか。信号が青になった。私は後方から左折して来る車がないかを確認してから歩き出した。彼女も私も横断歩道のそれぞれの端を歩いた。私は彼女を見やった。彼女も私を見ていた。その目は力なく、あきらめの色に満ちていた。思わず私はうつむいてしまった。

 会社のほうは、今年いっぱいで横浜工場は閉鎖されるという噂が流れた。会社をやめようかと考えた。彼女とも会わずにすむように。しかし、そのまま年を越し、7月まで働いた。会社の電子部門は横浜工場から長南工場へ移されたが、自動機部門の一部は年を越しても細々と横浜工場でやっていた。
 社員がぽつぽつやめていっても、その穴埋めのための新人を採用することはしなかった。

 昭和63年(1988年)

 6月、金沢区の工業団地の中にある、K産業(仮名)という会社が、制御回路を理解できる電気技術者を募集していた。面接に行った。
 この会社には電気屋がいないために、不自由しているという。私のように設計から制作まで一貫してできる電気屋に来てもらうと本当に助かる、そう言って私にかなり期待しているようだった。私も希望に胸がふくらんだ。採用が内定して帰った。数日後、その会社から、もう一度来社してくれという連絡があった。給与の話だった。
 月額23万円でどうかという。少ない。5万円近い減収になる。私に対する大きな期待と、この賃金の低さのアンバランスは何だろうと考えた。しかし、入社して仕事を立派にやりとげたならば見直してもらえるだろうし、私のほうからも言い出すことができるだろうと考えた。
 面接したのは専務だった。彼は、もし技術者として私に入社してもらう場合は、さらに2万円の技術手当がつくと言った。私はびっくりした。当然、電気技術者として採用されるものとばかり思っていたから。彼は私を普通の工員として採用するのか、技術者として採用するのか、まだ決めかねているようだった。2万円の手当がつけば、合計で25万円になる。ほっとした。だが、面接の終り頃になって彼は、技術者として入ってもらう場合は2万円の手当がつき、その合計が23万円になるのだと言い直した。この子供をだますようなやり方にうんざりした。この段階ですべてを見抜くべきであった。しかし私の立場は弱かった。うじ虫の妨害にあう私は、就職すること自体がむずかしいのだ。私は認めてしまった。採否の最終的な返事は後でするということだった。私は暗い気持で帰った。


 6月末、長南工場でフライス盤が動かなくなったので見に来てくれと言ってきた。私一人で電車で出かけた。茂原駅に着くと、長南工場のおやじさんが車で迎えに来てくれていた。茂原の町を走りながら私は彼に話した。17年ほど前、この茂原の日立に就職したことがある。そこを一週間で解雇された。私たちは笑いあった。

 フライス盤の故障は、原因を見つけるまで少し時間がかかったが、簡単な故障だった。鉄の切り屑が制御盤内に入り込み、回路がアースしていただけだった。終ったのは3時過ぎだった。
 工場長(社長の息子)に、誰か茂原駅まで送ってくれるよう頼んだ。しばらく待っていると、事務の若い女が、彼女の車で送ってくれるという。私はどきっとした。彼女はこの年、成人式を迎えたばかりの感じのいい女性だった。彼女とは、長南工場へ出張したとき顔を合わせ、事務的な話はしても、個人的な話をしたことがなかった。彼女が送ってくれることを知って私が緊張しているのに、彼女のほうはにこにこしていた。彼女に私を送らせることにしたのは工場長だろう。

 彼女の車の内部は心地よい香りで満たされていた。車の中で二人だけになったとき、私は何を話していいかわからなかった。会社を出、田舎道を少し走ったところで、彼女はガソリンスタンドに車を入れた。ガソリンを入れ、スタンドを出るとき、少しバックする必要があった。彼女はドアを開け、そこから上半身を乗り出し、体をよじって後方を見やった。そのとき彼女のスカートが太ももの中ほどまでずり上がり、黒いスカートの下から真っ白い下着がのぞいた。私にはそれがまぶしかった。私はすぐ視線をそらし、前方をながめた。やがて彼女はそれに気がついたのだろう、はっとしたように両手でスカートの裾を、ひざの下まで引き下げ、体を固くした。私はそ知らぬ顔で外をながめていた。
 そこから茂原駅までの20分ほどは楽しく話ができた。横浜工場は閉鎖されそうなので、私も他に仕事を探していることを話した。
「初めて女の人に車に乗せてもらったけど、いいものですね」
 私はそう言って笑った。

 茂原市内に入ったとき私は考えた。転職はもう決まりかけている。今日、彼女と別れたら、もう二度と会うことはないだろう。名残惜しかった。私が会社をやめないでいたら、この後、彼女と私の間が親しいものになっていくだろうことが予感された。私が会社をやめようとしていなかったら、別れるまえに駅前の喫茶店に入って、もう少し話をしたかもしれない。彼女と別れ、人影のないホームで電車を待っている間、寂しさと切なさにおそわれた。

 翌日、K産業から、採用するという最終的な返事があった。すぐに関東電子精機に退職願を提出した。退職できるのは二週間後であった。

 

      退 職 願

  関東電子精機株式会社社長 殿

 私、一身上の都合により、昭和63年7月14日をもちまして退職させていただきます。
 入社以前、設計の経験のなかった私に、当社で設計の経験をさせていただいたことを深く感謝いたしております。
 ありがとうございました。
 昭和63年7月1日
                    沢 舘 衛

 

 誰も引き留めなかった。千葉氏と外注の電気屋が二人で送別会をしてくれた。

 

             九 節

 昭和63年(1988年)

 転職した会社、K産業には四か月しかいなかった。賃金は低いが、将来に希望を持って入社した。しかし、その希望も打ち砕かれた。するとその賃金の低さが身にこたえた。
 この会社では、大学を卒業して入社した人間は大事にされるが、途中から入社した人間は適当にしか扱われないことを自分の目で見、また、そこの社員からも聞いた。
 私は一日も早くこの会社をやめることを考えた。ちょうどこの頃、この会社の機械の設計屋から、人材銀行というものを教えられた。そこへ行けば中年の技術者向けの仕事がいっぱいあるという。人材銀行という名称は聞いたことはあったが、それは私などには関係のない、高いところにあるもののように考えていた。それからというもの、神奈川人材銀行に時々出かけるようになった。

 このころ、会社でトラブルが発生した。帝国ピストンリングという会社に納める自動工作機械二台の制御盤が使用できないことがわかった。この制御盤は、私が入社する以前に外部の制御盤屋に発注しておいたものだという。工作機械を組み立て、その制御盤を機械に組み込もうとしたら、まえもって用意されていたスペースにその制御盤が入らなかった。調べてみると、制御ボックスは客が指定したものより大きかった。客は市販のボックスを指定したのだが、市販のボックスには客が指定したサイズはなかった。制御盤屋は勝手に一回り大きなボックスを使用したのだ。機械の納期はせまっていた。制御盤屋に交渉しようにも、その会社は倒産したという。制御盤を組み立てた個人に交渉しても、製作費が安くてやっていられないといって断られたという。
 それで私が作り直すことにした。ボックスを買い直し、機械屋もびっくりするほどの速さで制御盤二面を製作し、機械に納め、機内配線をした。制御盤はシーケンサや、モーターの速度制御用のインバーターが入った、少し複雑なものであった。シーケンサのプログラムは客先から提出されていた。客先に同じような工作機械があるからであろうが、プログラムはほとんど完全なものだった。そのうえ、びっくりするほど理解しやすいものだった。そのプログラムをシーケンサに書き込み、試運転。プログラムはほんの一部を訂正しただけで動くようになった。そして立会。それも一度で簡単に済み、無事納入できた。

 このころ、私は人材銀行で、P.セイコー(仮名)という会社が、制御回路の設計ができる開発部長または課長を募集しているのを見た。このような役職を私は望んでいなかった。望むこともできなかった。しかしその会社が望んでいる仕事はできる。だめでもともと、応募してみた。会社は大和市にあった。面接には私がこれまでに設計した制御回路(プログラム)のいくつかを持参した。
 数人で面接がされた。私がどうしてこれまで仕事を転々としてきたかを、彼らは一言も聞かなかった。聞かれるのを私は何よりも恐れていた。彼らが私の履歴書を見ているとき、私は役職など全く考えていないことを告げた。
 数日後、その会社から手紙が届いた。当然不採用の通知だろうと思った。開いてみると、社長も面接したいので、もう一度来社してくれということだった。驚いた。見込みがあるのでは?

 再びその会社を訪ねた。また数人で面接した。今度は社長だという人間も加わった。が、その人は、目の前にいる人々の中で、最も社長らしくない容貌の持主だった。何かの間違いではないだろうか、とさえ思った。面接の中で、この社長が私に一言、乱暴な言葉を吐いた。良くない徴候だなと思った。
 その社長も採用を認めたようだ。あとは総務部長が一人残って具体的な説明に入った。給与も決められた。希望額を聞かれたら、総額で30万円を希望しようと思っていた。すると彼のほうから言った。
「40万円でどうですか?」
 私はびっくりした。夢のようだった。だが彼のほうは、私の年令、技術からいくと、それでも少ないと思っているようであった。彼は私から、少ないと苦情を言われはしないかと心配しているようだった。
「十分です。このうえなく満足です」
 私は答えた。まさか採用されるとは思わず、軽い気持で応募したのに採用された。しかも40万円という、それまでは考えられなかった高額で。

 給与は、休日日数を考慮して計算すると、在職中のK産業のほぼ二倍であった。私はすぐにK産業に退職願を出した。専務はあわてて引き留めにかかった。給与を23万円から27万円に引き上げるからとも言った。私が引き留めに応じないでいると、専務はこんどは工場長を使って私を引き留めさせようとした。この工場長はうじ虫の手先となっておどっていたが、心の中では私を信じているようだった。
 工場長は私に、専務は引き留めるように言っているが、「わたしは留めようとは思わない」と言った。


 昭和63年11月28日から
.セイコーに通い始めた。

 この会社は何十台もの射出成形機を使って、プラスチックの製品を作っているところだった。それもルーペで見なければわからないような、小さくて精密な部品を作っていた。社員は百人ていど。通い始めてすぐに、ここはしっかりした会社だなと感じた。そしてそういうところで働いている自分が信じられないくらいだった。しかも給与は40万円。こんな額はこれまで、給与としてはもとより、ボーナスとしてももらったことがなかった。だから毎月の給与が私にはボーナスのようだった。

 だが、仕事の内容には閉口させられた。ここでは射出成形機も自社で作っていたが、そのプログラムは、すでに退職してしまった前任の電気屋が設計したものだという。私の仕事は、まずそのプログラムを理解し、変更することから始まった。しかしそれは理解できるものではなかった。前任者はもともとマイコンの技術者であったようだ。.セイコーに入社して初めてシーケンサのプログラムをつくったのだという。そして数年かかってそのプログラムを完成させたという。初めて設計して、これだけの自動機を動くようにしたということには驚かされたが、そのプログラムは理解できなかった。何度も何度も挑戦したが、そのたびに頭はへとへとに疲れ、袋小路に入り込んでしまった。

 


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