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  第二編

     第十五章 昭和から平成へ

一節 (P.セイコー異変)   二節 (職場からの逃避)   三節 (整形外科入院)   四節 (退院、職場復帰) (退社)   五節   六節 (長崎、五島)   七節   八節   九節   十節 

 

              一 節

 平成1年(1989年)

 1989年1月8日。

 今日から「平成」という年号になった。
 「昭和」はきのうで終り。天皇がきのう(7日)の朝亡くなられた。朝起きてテレビをつけると様子が変だった。どこの局も同じ画面を流していた。天皇が亡くなられたことを知った。

 P.セイコーでは、私がそれまでに経験したことのないようなことが起きていた。これまでの経験からいくと、一か月もすると、そろそろ様子がおかしくなり始めるのに、この会社ではそれがなかった。それどころか、三か月の試用期間終了時、「開発部長付係長」という肩書をもらった。これには驚いた、というより、おそれおののいた。
 私は開発部に所属していたが、そこにはすでに機械屋の係長がいた。彼は三十歳を少し出たくらいの若さであった。他にもう一人、大学を出て間もない機械屋がいた。彼らにとって、ろくに学歴のない私と対当に立たされたり、上に立たれたりすることは、とても耐えられないことのようであった。だから私は彼らから冷たく迎えられた。朝、挨拶をかわすことも少なかった。私が挨拶すると彼らは顔を反らしたまま仕方なさそうに答えた。
 試用期間が終る少し前に、工場長が私を呼んで、開発部の課長になる気はないか、とたずねた。このとき私はびっくりした、というよりは不思議だった。自分に関係ないことを聞いているようだった。
 私は役職につきたいという欲はないこと、それに、現在の係長(機械屋)を追い越し、その上に立つのは気まずいことなどを話した。これでこの話は終ったものと思っていた。
 しかし会社は私を平社員のままにしておくわけにもいかず、「開発部長付係長」という肩書をつけてくれたようだった。開発部長は適任者がいないということで、工場長が兼任していた。

 私はP.セイコーへの入社が決まる以前に、3月にスキーに行く計画を立て、宿もすでに予約していた。3月21日の火曜日が祝日なので、月曜日、一日休みをとると、土、日、月、火と四連休になるのを利用した。蔵王温泉スキー場。しかし、P.セイコーは土曜日はすべて休みなのだが、祝日は休みではなかった。だからスキーに行くには、月、火と二日間欠勤しなければならなかった。
 私は入社したばかりで有給休暇はなかった。だからといって、スキーをとりやめることもむずかしかった。数人のグループで出かけるのなら、私一人が抜けても問題はない。だが、もともと私がスキーに行くとすると、自分一人か、あるいは川内との二人であった。一人では宿の予約はほとんど不可能、二人でもむずかしい。その二人で、やっと取れた宿であった。私が行くのをやめれば、川内も行くのをやめる。それでは彼女が気の毒だった。私は予定を一日だけ短縮することにした。そうすると、20日、月曜日、一日欠勤するだけで済む。それ以上は、たとえクビになることがあっても譲歩することはできなかった。3月に入ってすぐに、20日の欠勤届を出した。理由はそのまま「スキー」と書いた。それを工場長(開発部長)に提出した。すると、理由がスキーではまずいという。月給制で、私が会社を休んでも、会社は給料を払う。だからこういう理由で休まれては困る、どうしても休むなら、「私用のため」とするように言われ、書き直した。

 開発部の席は、事務室の奥の、社長、専務、工場長それに生産部長らの席の斜め前だった。私の席は彼らに背を向ける位置にあった。私の右側にはついたてがあり、社長と専務からは私の席は見えなかった。
 朝出勤して私が彼らに挨拶すると、みんな顔を上げて応えてくれた。しかし欠勤届を出した翌朝から様子が一変した。私が挨拶しても、生産部長だけが遠慮がちに応えるだけで、社長と専務は顔も上げなかった。工場長はその時刻には現場を見回っていて、席にいないことが多かった。
 私はすぐに、欠勤のせいだと感じた。数日したら元に戻るだろうと考え、挨拶していた。しかし二週間たっても変化はなかった。挨拶しても完全に無視されるのは、(慣れてはいるものの)本当に不愉快だった。しかし、私は彼らに挨拶するのをやめる勇気はまだなかった。私は彼らに挨拶しなくても済む時間帯に事務室に入るようにした。
 会社の始業時刻は8時30分であった。8時25分になると、課長以上の者たちが応接室で朝礼をする。だから、8時25分過ぎに行けば、彼らはいないので挨拶せずに済んだ。

 3月21日、火曜日。スキーのために欠勤した翌日の朝であった。早めに出勤し、彼らの前に行き 挨拶した。
「おはようございます。きのうはすみませんでした」
 しかしこれも無視された。
 社長らが私の挨拶を無視すると、そのへんの有象無象までが私の挨拶を無視するようになった。
 私は彼らに挨拶するのをやめた。私は「係長」の肩書のある、ばかでかい名札を外し、ロッカーの一番下の奥に放り込んだ。それ以来、一度もその名札をつけなかった。
 それにしても、私がスキーに行くために一日欠勤したことを社長がこんなに深く根にもつだろうか? いかに執拗な社長でも、そこまでするとは考えられない。何かある。

 年末だったか、年始だったか、健康保険組合主催のスキーツアーへの参加者募集があった。毎年恒例で蔵王へ行くのだという。数人申し込んだ。私も申し込んだ。有給休暇がなくても、会社が所属している健康保険組合の主催するスキーツアーである。一日休むことぐらい、大目に見てくれるのではないかと考えた。ところがそのスキーツアー間近になって、総務部から次のようなことを言ってきた。
 組合への申込みを郵送でしたところ、締め切りに間に合わず、今回は参加できないことになった、と。そして、前もって納めてあった旅行代金も返された。
 毎年やっていることなのに、何ともおかしなことだと思った。もしかすると、これは社長の指図によるものではないのかと考えた。私も申し込んだのを知った社長が、「有給休暇もないのに会社を休んであそびに行くとは何ごとか!」と憤慨したのではないか。そこで会社としてのスキーツアーへの参加を無効にさせた。ところがその後、私が個人で、欠勤してスキーに行くという。これでは社長の気持が納まるわけがない。
 しかも社長に「機関」の力が働いていて、どっちに倒れようかと迷っていたところだとしたら!

 

              二 節

 平成1年(1989年)

 入社してから数か月間、プログラムの理解にあたってきたが、どうしてもだめだった。ちょうどこの頃、「沢舘は何もできない無能力者だ」という中傷が会社に広まりだしたのを感じた。
 わけのわからないプログラムとにらめっこし、背中に冷たい視線を感じ、苦しい日々を送っていた。とうとう私はこれまでの報告をした。数か月間、プログラムの理解に努力してきたが、私には理解できない。自分で新しく作り直したほうが早い、と。しかし、もう彼らは、私にプログラムの設計などできるとは考えていなかった。数日後、生産部長が私に言った。
「作り直さなくていい」
 その顔には微かな嘲笑が浮かんでいた。
 前途に暗いものを感じた。この会社では新しいプログラムを、次から次へと作るということはない。すでにあるプログラムを変更するくらいである。しかし、そのプログラムを私は理解できない。こんな仕事はつまらない。この会社にずっといるのは退屈になるのではないかと考えた。

 3月25日、土曜日、横浜駅前の神奈川県政総合センターを、技能検定試験の件で訪ねた。前年、技能検定試験の電気機器組立(配電盤、制御盤組立)一級を受験したのだが、学科で落ちた。電気の学科試験なら改めて勉強することはないだろうと思い、勉強せずに受けた。ところが電気とは全く関係のない問題もたくさん出され、落ちた。そこで過去の問題集を買って勉強し、学科だけを受験する手続きに出かけた。
 この県政総合センターの二階には、人材銀行があった。受験手続が終わった後、私は人材銀行をのぞいてみる気になった。ところが人材銀行は閉まっていた。以前は土曜日もやっていたようだが。一階、玄関の受付に行って尋ねていると、私の背後から、腐ったような、男の大声がした。その男は、何か意味のないことをしゃべりながら、私を無視して受付の女に近づいた。『うじ虫だ!』と直感した。その男の顔は、『やった!』という喜びで満ちていた。私がP.セイコーをやめる気になったのを喜んでいるようだった。
 人材銀行は、土曜日は第一と第三だけ開いているということだった。

 月曜日、会社へ出て行くと、社長が打ちしおれた様子を呈していた。なぜだろう? 私が人材銀行へ行ったことを知ったのだろうか? 私がそこまで決断しようとは考えていなかったのか。その後、社長はしゅんとなったり、以前の土くさい威勢を盛り返したりしていた。
 入社後まもなく、私はこの社長の行為にびっくりした。不具合なことをした社員(社長自身とあまり年令の違わない)社員を自分の前に呼びつけて立たせ、広い事務室中に響き渡る大声でわめきちらす。それも同じことを繰り返し繰り返し、数時間にわたって続ける。始めは静かに切り出し、しだいに声に力が入ってきて、山場にくるとわめき声になる。声だけ聞くと、半分泣いているようだった。が、ついたての陰からのぞくと、べつに泣いてはいなかった。山場を過ぎると、次第に静かになっていく。これで終るかと思っていると、また振り出しから始める。そして山場に来るとまたわめきちらす。これを何度も何度も繰り返す。この社長の行為を終了させるのは、昼休み、または終業のチャイムだけだった。これが始まると私はうんざりして、耳栓をして仕事をした。しかし、いくら耳栓をしても、神経をつかう仕事はできなかった。面接のとき、私が社長から受けた第一印象に誤りはなかった。

 4月5日、土曜日、人材銀行に求職登録した。私には有給休暇がなかったが、他社へ面接に行くとき、平気で会社を休んだ。それらの会社との電話による交渉を、私はP.セイコーでの昼休み時間、食堂の公衆電話からした。まわりには休憩中の社員がいたが、私は少しも気にしなかった。

 この頃、私は会社で、フープ式射出成型機に付随した自動機の制御を受け持っていた。回路設計から、プログラム設計、及び制御盤の組立、配線まで一人でやった。その自動機が完成し、専務が写真に納めたりしていた。
 5月18日、木曜日、会社の雰囲気が変だった。しかもそれは、私に対してすごく良いものだった。
私が担当した仕事を無事やりとげたことへの評価だろうか。もっとも社長一人だけは別だったが。

 翌日の19日、金曜日、社長らの朝礼がいつもより長かった。その朝礼が終り、役付連中が応接室から出て来た。いつもは、がやがや話しながら出て来て、がたがた席につくのであるが、この朝はみんな静かに出て来た。やがて社長が口を開いた。声の調子がいつもと違う。明るい。まるでうきうきしている。しかし私にはそれがひどく不快に響いた。社長の調子はどんどんエスカレートし、まるで鬼の首でも取ったようなはしゃぎようになった。
 朝礼で何かあったのだ。私への評価が高くなるのを、この社長がこきおろし、叩き潰したのであろう。

 21日、日曜日、川内のところへ出かけ、P.セイコーをやめようと思っていることを告げた。彼女は悲しそうだった。いい会社へ就職できたといって、彼女も喜んでくれていた。この会社に入社するとき、彼女は私の保証人になってくれた。
 これからも同じことの繰り返しになることはわかりきっている。これまでの記録を集大成して出版し、うじ虫をやっつけるしかない。この仕事は、いつかは、死ぬまでの間にはやらねばならないと思っていたが、大仕事だし、それに就職してしまうと、なかなか手につかなかった。

 22日、月曜日、休んで人材銀行を訪ねた。会社へは電話で休むことを告げた。一社、面接に出かけた。
 翌日、P.セイコーへ出て、前日の欠勤届を出した。理由は「転職先探し」と書いた。それを、朝礼に行っている工場長の机の上に置いた。しばらくして工場長が私を会議室へ呼んだ。

 
「転職先探し」とあるが、何が原因か? と聞かれた。私は、社長や専務に挨拶しても無視される。挨拶して無視されると、「おめぇなんかいらねぇから、やめてけ」と言われているような気がしてならない、と答えた。すると工場長は、そんなことはありえない、挨拶するよう社員を教育する立場にある社長が、挨拶されて無視するはずはない、偶然だろうと言った。

「偶然が何週間も続きますか?」
 私は嘲笑った。それから、うじ虫についての話になった。社長にはそのうじ虫の手がまわっていることも話した。私はこれまで、うじ虫とのたたかいの過程で発行した資料の話をした。
「必要なら持って来ますか?」私はたずねた。工場長は持って来なさいと言った。私は以前から資料一式を、会社の私のロッカーに入れておいた。私はすぐに取って来て渡した。
 話が終った後、工場長はそれらの資料を自分の席へは持って行かず、社長専用の部屋になっている第四応接室へ持って行った。社長がその部屋にいたかどうかはわからない。社長がその後二度、事務室に出て来ているのを見かけた。一度目はあまり口を開かなかった。開いても、その声はうわずっていた。二度目に出て来たときは、腹の底から押し出すような声。

 翌日、社長は見えなかった。あの資料を、社長はじめ、他の役付連中が見たら、社長の立場はかなり苦しくなるのではないか? 会社へ出て来られなくなるのではないか? そう思うと社長がかわいそうになった。
 だがそんな心配は無用であった。しかし社長の声からは以前の毒気は感じられなくなった。
 資料を渡して数日後、工場長が私を会議室へ呼んだ。
「このまえ面接に行ったところは?」
「断られました」
「本は全部は読んでいない。あれはあまり人に見せないほうがよいと思う。見せてよい方向に向かったことはないだろ?」
「いいえ」
「両親は健在か?」
「たぶん」
 私は肉親らからも、さんざんな目にあって家を出た。というよりは追い出されたこと、また、兄が死ぬときも連絡はなく、死んだ後になって、仕方なさそうに連絡があったことなどを話した。それを聞いていた工場長が言った。
「日本自体、いなか社会‥‥、海に囲まれて‥‥、とくに地方では、何かあると世間に恥かしい。兄の件も、本当は来てほしくなかったのではないか

 この後、会社の空気は冷たく静まり返った。それは私にとって心地よいものではなかった。一日一日がつらかった。私に来てほしいと思っていない会社に出て時間を過ごしているようだった。やめようかと思ったが、自分からやめると、雇用保険の給付制限が三か月間ある。転職も思うようにいかない。私に来てほしくなかったら、いっそ解雇してくれないかなと願った。

 私の左足の甲に骨がこぶのように盛り上がっているところがあった。いつからそのようになったのかわからない。別に気にしていなかった。しかし、五年ほどまえからスキーをするようになり、その盛り上がりがスキー靴にあたって痛かった。痛い思いをするたびに考えた。今年こそ、スキーシーズンが終ったら治療しようと。
 ふと、今それを治療しようかと考えた。会社をやめてしまうと会社の健康保険が使えなくなる。何よりも、会社へ出て行くのが苦痛であった。

 6月10日、土曜日、大船中央病院の整形外科を訪ねた。治療は数日で済むだろうと私は考えていた。しかし10日間ほど入院する必要があると言われた。骨を削るという。次週の金曜日に手術を行うことにした。その前日から入院することになった。会社に提出する診断書を書いてもらって帰った。

 

    診 断 書

傷病名 足根骨骨棘

 右頭書疾病により平成1年6月15日より向后約10日間の入院加療を要するものと認める。

 

 X線写真で見ると、足の甲の真中あたりにも関節があった。目で見て動くところではないので、そんなところに関節があるとは思わなかった。
 その関節に大きな力が加わって、そこの軟骨が破壊され、その後、その関節が互いにくっつき合い、一体になろうとして骨が生長した。しかし関節は少しは動くので、成長した骨がくっつけず、その周りに盛り上がったのだという。治療方法は、その盛り上がった骨を削り取り、その関節を固定させるという。固定するには、腰の骨の中から海綿骨を削り出し、それで関節を埋めるという。
 関節が破壊されたとき、痛みが続いたはずだというが、私には思い当たらなかった。そこに大きな力が加わるようなスポーツをしていなかったか、と聞かれたが、それも思い当たらなかった。
 しかし入院中、ベッドに横たわり、いろいろ考えているうちに思い当たることがあった。釜石製鉄所の教習所で二年間、剣道をやった。そのせいではないかと考えた。剣道では、いつも左足を後ろへ引き、つま先で立ち、踏み込むとき、瞬間的に大きな力が足の甲に加わる。そういえば、足の甲に、つーんという痛みがしばらく続いた、その感覚が記憶の底からよみがえってきた。

 6月13日、火曜日、入院二日前になって、やっと欠勤届と診断書を工場長に提出した。彼は不機嫌な顔をした。
 入院前日の4時過ぎ、一緒に仕事をすることが多かった現場の設備係へ行き、明日から休むことを告げた。古谷係長はいなかった。谷貝氏に告げた。
「谷貝さん、私、明日から来週いっぱい休みますので」
「え? なーんで?」
「10日ほど精神病院へ入って、心を休めてくるので」
 彼は私の言うことを信用せず、どこかへ旅行に出かけるものと決めつけ、どこへ行くのかとしきりにたずねた。
 帰り、現場の喫煙所を通ると、菅原課長と古谷係長、それに谷貝氏が話をしていた。ちょうどよかったと思い、古谷係長にも、谷貝氏に話したのと同じことを告げた。菅原課長が、
「どうして?」と口をはさんだ。「そんなに考えることがあるのか? みんな期待しているんだから。下(現場)へ来ればみんないろいろ教えてくれるし‥‥、そんなに休んだら、もう来にくくなるぞ」
 すると古谷係長が顔を赤らめて言った。
「まだ、やめると決まったわけじゃないんだから」

 

              三 節

 平成1年(1989年)

 6月15日、木曜日、朝10時半に病院へ行った。看護婦が私を病室へ案内した。ベッドが三つあったが一人だけ入っていた。五十歳くらいのおじさん。
 病室の外はベランダになっていた。そこのガラス戸が開けてあり、そこから風が勢いよく吹き込んでいた。ベッドの上のおじさんが、
「寒かったら閉めようか」と言ったが、汗をかいていた私にはその風が気持よかった。彼は青森出身だという。

 私の手術は、翌日16日の午後4時からということになっていた。それまでに腹の中を空っぽにする処置がとられた。手術をすると一週間ほどトイレに行けないので。
 手術の当日、予定の4時になっても、なかなか連絡がなかった。私の前に手術をしている人に時間がかかっているらしい。私が病室から運び出されたのは5時過ぎだった。台車に乗せられ、六階の手術室へ運ばれた。テレビのシーンで見るような手術室の前をいくつか通り過ぎ、奥の手術室へ入った。
 手術台に移された。涼しい。常に空気が上から下に流れていた。裸に近い状態で、手術が終るまでに寒くならないだろうか? 医師たちの雑談のような会話のうちに準備が進められていった。私は手術そのものにまったく不安を感じなかった。内蔵をいじられるわけではない、骨を削るだけだ。ただ、麻酔の注射を背骨の中の神経に打たれるのは不安だった。
 エビのように、思いきり背中を丸めさせられ、背中の中ほどに針がさされた。でも心配していたほどの痛さではなかった。みるみる暖かい感触が左の腰、太もも、足先へと進んでいった。
 やがて手術が始められた。部屋の中は静かになった。まず、骨盤をハンマーとノミでガツンガツンやりだした。こんな感触は初めてだった。背骨を伝わって、ゴツンゴツンという衝撃が頭蓋骨に伝わってきた。足のほうでも二人で作業をやっているみたい。まもなく電動工具で骨を削り出した。腰のほうでは、骨盤の中から柔らかい骨をガリガリ掻き出しているのが感じられた。
 手術が始まってまもなく、腹の具合が悪いのが気になりだした。でも、麻酔をすれば誰でもこうなるのだろうと思った。しかしだんだん痛みは増していった。後半は手術そのものよりも、腹痛が気になった。やがて医師が、「終りましたよ」と声をかけてくれたが、私は何も答えなかった。気分を聞かれ、初めて、「腹が痛い」と答えた。へその下のあたりのよう。医師らは手で押してみ、「たまっていたのかなぁ」と言った。
 病室へ戻された。時計を見たら、ちょうど8時だった。
 病室に戻ってから、翌朝、医師が出てくる9時半までの12時間、魔の苦しみを味わった。
 病室へ戻っても腹の痛みはおさまらず、しだいに痛みを増していくばかりだった。痛みは鈍く、ときには鋭く、その痛む場所をどこと限定できなかった。最初、下腹部全体が痛み、その痛みがごくゆっくり、数時間かけて上のほうへ広がっていった。その痛みの感じは、これまでの経験からいくと、ガスがたまって苦しくて痛い、その痛みを強烈にしたようなものだった。
 枕元のコールボタンを最初に押したのは何時だかはわからないが、ずいぶんがまんしてからのことだった。看護婦が来て、痛み止めの注射をしてくれたがほとんど効かなかった。痛くて呼吸も思うようにできなくなり、これはただごとではないと思うようになった。
 何度、コールボタンを押したかわからない。私の世話をしてくれていた看護婦が一時、不機嫌になったほどであった。それでも彼女は一生懸命やってくれた。何回目かのコールのとき、彼女は聴診器を持って来て、腹に当てて聴いていたが、
「腸は動いていますよ」と言った。
 この場合、腸が動いていることが良いのか悪いのか私にはわからなかった。それから何度目かに彼女は肩に注射を二本打った。一本は痛み止め、もう一本は腸の動きを止めるものだという。その後、彼女は何度も痛み止めの注射をしに来た。おしりから座薬も入れてくれた。
 注射を打った後、二度眠りに落ちた。眠った時間は数十分なのか、数時間なのかわからない。でも、そのときはなぜか、二度とも二時間ずつ眠ったと考えていた。そんなに眠れたはずはないのに。
 とにかく時間のたつのが遅かった。早く朝になって何とかしてほしかった。看護婦は、
「朝、先生が来て調べないと、湿布も温めてよいのか冷やしてよいのかわからない」という。夜間は医師がいないのだろうか。
 意識がもうろうとするなかで、彼女が腹の上に湿布をしてくれたらしいのを感じた。湿布のにおいがしてきた。暖かいのか冷たいのかよくわからない。少しして、この湿布を自分の手で取り除いたような気がする。
 痛み止めの注射をしに来た看護婦が私に言った。
「これ以上痛み止めは打てないですよ。これはかなり強い注射ですから」

 大きな病院の中でこんな苦しみをしなければならないなんて考えてもみなかった。大病院の中の「無医村」にぽつんと残されたような感じだった。苦しみの中で時々『このまま死ぬのでは?』という考えが頭をかすめた。すると、身近に親しい人がいないことが心細かった。せめて川内がいてくれたら。
 明け方、救急車を呼んでもらおうかと真剣に考えた。もちろん言い出せなかった。自分が入院している身であることがうらめしかった。
 7時半、看護婦がやって来て言った。
「先生に電話してみます」
 このとき私は彼女に頼んだ。
「それから、私が(何かあった場合の)連絡先に指定しておいたところへ電話して、来てくれるよう伝えてほしい」
「今すぐにですか?」
「別に急がなくてもいいですけど」
 なぜか私は、心にもないことを言ってしまった。それから一時間たった。腹の痛みは上腹部までのぼりつめ、痛みはそれ以上増すようには思われなかった。
 看護婦がやって来て、私の顔をのぞきこむようにして言った。
「沢舘さん、電話しましたから。すぐ来てくれるそうです」
 私は彼女の顔、その黒い瞳孔を見つめていた。それは彼女の目に初めて見る表情だった。

 さらに一時間たった9時半頃、主治医がやって来た。私の腹を押してみていた。私の腹は異様に硬かった。患者運搬車が運ばれてきてその上に移された。みんなに持ち上げられ、ベッドから台車に移されるのは苦痛だった。腹痛に加え、腰の傷口、それになぜか腰痛まで伴っていた。レントゲン室へ運ばれた。廊下には外来患者が大勢いたろうが、目を開けてみる気力もなかった。
 レントゲン室へ運び込まれ、フィルムの入ったケースが腹の下に挿入された。激痛が走った。

 病室へ戻ると川内が来ていた。私は彼女に夕べからのことを説明した。彼女はそれを一応聞いてはいるものの、やはりかなりの距離を感じた。入院前の私の元気な姿を見ている彼女には、急激な変化は理解できないようだった。
 レントゲンをとってから一時間以上たってから、主治医と、もう一人、初めて見る医師がやって来た。主治医が言った。
「分野が違うので、外科の先生にも来てもらった」
 外科の医師は診察しながら、なぜか私の視線を避けていた。やがて主治医に言った。
「〇〇を診なければならないですね」

 私が着ていたものや、ベッドに敷いていたバスタオルは汗でびっしょり濡れていた。川内がそれらを取り替えてくれた。それから彼女は私のアパートへ行ってバスタオルを取ってきてくれたり、ゆかた状のねまきを買ってきてくれたりした。助かった。彼女以外にこのようなことを頼める人はいなかった。
 手術の傷口も痛んだが、それ以上に腰痛に苦しめられた。そのうえ、寝返りをうつことができなかった。手術した左足は台に乗せられ、その上に鉄製のやぐらを置き、その上に毛布がかけられていた。
 翌日、日曜日、川内が花を買ってきてくれた。私は腰や背中が痛くて体を思うように動かせないこともあって、彼女にあたったりした。彼女はあまり長居せず、傷ついた様子で帰って行った。彼女が気の毒でならなかった。

 手術後四日間は点滴だけで食事はなかった。小便は、容器をベッドから手の届くところに置いてもらい、寝たままでした。それを看護婦に捨ててもらう。情けなかった。
 手術から四日目、松葉杖を使って歩く練習を始めた。松葉杖は簡単に使えた。しかし、わずか10メートルほど歩いただけで、血が足へ下がり、手術した傷口から吹き出すのではないかと思われるほどの痛みだった。ベッドに転がるなり、左足を思いきり高く上げた。この痛みをがまんすれば、トイレに行くことができるようになった。

 入院するとき会社に提出した診断書は、10日間の入院加療というものであった。しかしこの状態では、たとえ退院しても会社へ行けるわけがない。会社をどれくらい休まなければならないのか、改めて診断書を書いてもらった。

 

     診 断 書

傷病名 左リスフラン関節変形性関節症
 頭書疾患にて6月16日手術施工、今後約一か月間の加療上休業を要す見込みである。
右の通り診断する。
 平成元年6月22日

 

 この診断書に私の手紙も同封して会社に郵送した。

 

 ご迷惑をおかけしております。
 先に提出しました診断書では「約10日間の入院加療」とありましたが、‥‥(中略)‥‥退院しても会社へ出られるのは手術から一か月後になります。
 入社半年間で、これまでのギクシャクした関係にもってきて、こんなに長い病欠をするのですから、「もう来なくてよい」とお考えでしたら、遠慮なくそうおっしゃってくださるようお願いします。退院して足が完全になってから、落ち着いて仕事を探します。P.セイコーさんの高給のおかげで、あわてて次の仕事を探さなくても済みますので。
 とりあえず、経過をご報告いたします。
 1989年6月23日
                    沢 舘 衛
  P.セイコー株式会社 殿

 

 6月23日、この手紙を出すと同時に会社に電話もした。
 工場長に出てもらった。
「はい○○です」
「あ、沢舘です。どうもご迷惑をかけております」
 私は説明した。前に出した診断書は10日間ということであったが、入院期間がかなり延びてしまった。新しく診断書を書いてもらい、今日郵送した、ということを。
「手術はいつやったの?」
「16日、入院した次の日」
 このまま会話がとだえた。私は仕方なく、
「じゃ、どうもすみません」
 と言った。工場長はただ、
「ああ」
 と煮えきらない返事をした。
 受話器を置き、『だめだ、こりゃ』と思った。もともと、出勤するのが苦しくなって休みだした会社である。望みを持つことのほうが間違っている。

 手紙を出して三日後の6月26日、月曜日、夕食を済ませ、ベッドの上に横になり、雑誌を見ていた。
「おお」
 誰かそう言って病室へ入って来た。工場長だった。『うへっ!』私は胸の中で叫んだ。
「手紙、今日もらった‥‥、あんなこと書くことはないよ」
 彼はかばんの中から、賞与及び給与の明細書、さらに見舞いだと言って、二つの袋を取り出した。一つは「精和会」、もう一つは社長からのものであった。さらに菓子一箱。
 精和会というのは、会社の役員で構成されている会のようだ。
 見舞いに来られるとは考えてもみなかった。面食らった。会社の考えが理解できかねた。工場長からは悪い感じを受けなかった。しかし自然な気持での会話はできなかった。私は彼に謝った。
「この病気は、治療するのはいつでもよかったんです。会社に相談してから決めるべきだったのですが、それを私のほうから急に一方的に休んでしまって、本当に申しわけありませんでした」
 彼は、仕事のほうは別に問題はないと言った。射出成型機を三台作るが、鋳造に時間がかかり、三か月位先になる。制御盤は社内で作るようになるかもしれない、と言った。
 彼は15分ほどいただけで帰った。一通り話したら、あと話すことがなかった。彼を玄関まで送った後、病室へ戻って、見舞いの袋を開いてた。手紙も入っていた。

 

心からお見舞い申し上げます。

 精和会 (社長、専務、工場長、他二名の記名)

※ 私達のささやかな気持ですから、お返し等のお気遣いはなさらなでください。

 

 どっちみち、やめるようになるだろうと思っていた会社からこのようなことをされ、考え込んでしまった。会社の行為は、やめていく人間に対して、形式上のことをしただけにしては真心が感じられた。給与も、月給制だということで全額支給された。もしかして、やめずに済むのではないか? すぐにこのことを川内に電話で知らせた。

 手術後ずっと、朝夕点滴を打っていた。点滴をセットしに来る看護婦の中に、20歳前後と思われる若い看護婦がいた。最初見たときから気になった。
 しばらく彼女を見ているうちに、ふと、15年ほどまえ、私が北鎌倉に住んでいたころ、よく私のところに遊びに来た、よう子ちゃんではないかと思うようになった。感じが似ている。彼女も大きくなったら看護婦さんになるんだと言っていた。いつか名前を聞いてみようと思っていた。もし彼女があのときのよう子ちゃんだったら、何という巡り合わせだろう。
 6月27日の朝、彼女が点滴を持ってやって来た。セットしながら彼女のほうから話しかけてきた。
「沢舘さん、きのう、陽に当たりました? 顔が赤いけど」
 前日、私は非常階段のおどり場へ出て陽に当たったが、顔が赤くなるほど当たってはいなかった。
「いいえ」
 そう答え、私は彼女の名前を聞くいいチャンスだと思った。彼女のほうも何かを期待しているようだった。彼女に話しかけようとすると、ふと彼女の姓を忘れてしまった。名札を見やったが、この日にかぎって彼女は名札を胸ではなく、腹のポケットのところにつけていた。その名札は下を向いていて見えなかった。姓を聞くわけにはいかない。姓を聞くことは、これまで私が彼女にまったく関心を持っていなかったことになる。あれよ、あれよと思っているうちに彼女はセットを終え、出て行ってしまった。
 点滴が終った後も、彼女が外しに来てくれたが、さっきとは違って固い表情をしていた。さっき私が何も話しかけなかったからだろう。私も彼女も黙っていた。この次、機会があったら、ぜひ聞いてみようと思った。

 6月29日、前日まで、梅雨の冷たい、じめじめした日が続いていたが、この日は朝から、からりと晴れ、暖かかった。午前の回診で、足の甲と腰の糸を抜いた。点滴もこの日で終った。翌日の30日、初めてギプスを巻いた。固定する関節がずれないように、ワイヤーを二本埋め込んでいたが、その先端が親指の上と、横に顔をのぞかせていた。その上にギプスを巻いたので、足を動かすと、ワイヤーがギプスに接触し、痛かった。

 7月1日、土曜日の朝、検温と脈拍を調べに、例の看護婦が来た。彼女は西山といった。彼女が私の腕をとり、脈拍を数えているとき、私は彼女にたずねた。
「西山さん、お名前、何ていいます?」
「え?」少し沈黙の後、彼女は「〇〇子‥‥、〇〇子といいます」
 そっけなく答えた。私は彼女のその調子と、また、彼女の名前が期待していたものとは違っていたことから、次の言葉が出ず、彼女から目をそらし、天井をながめた。
「どうして今頃わたしの名前なんか聞くんですか?」
 彼女はちょっぴりふてくされたように言った。とにかく、彼女が聞き返してくれたので助かった。
「私、むかし北鎌倉に住んでいた頃、近くに六歳になる女の子がいたんですけど、よく似ているんで‥‥」
「えーっ!」
 やっと彼女がふだんの調子に戻った。
「人違いでした。よう子ちゃんていっていましたから」
「かわいかったんですか」
 そう言いながら、彼女は自分の顔を手の平でなでまわすようなしぐさをした。

 10時ごろ、川内が来てくれた。イトーヨーカドーに寄って来たといって、重そうな袋を持って入って来た。りんご、桃、さくらんぼ、それから菓子などを買って来てくれた。

 7月5日、回診に来た医師が私にたずねた。
「どうします? このまま居ます?」
 ギプスを巻いてしまえば、病院にいても治療らしいものはない。もう退院してもいいのだ。
「これ(ギプス)を巻き直した時点で退院します」
 私は答えた。ギプスの巻き直しは、9日後の7月14日、金曜日である。土曜日に退院し、日曜日、一日家ですごし、月曜日から会社に出ようと思った。

 7月13日、木曜日。夜9時の消灯時、まわって来たのは、手術した夜、ずいぶん手こずらせた看護婦だった。彼女は笑みを浮かべながら入って来た。
「沢舘さん、どうですか、明日は巻き直しですね」
「ええ、そしてあさっては退院です」
「早くてよかったですね」
「手術した晩はすみませんでした」
「たいへんでしたね」
「本当に迷惑をかけました」
 彼女はそれまで私に見せたことのない笑みを浮かべていた。それで私の心まで暖かくなった。

 7月14日、金曜日、ギプスを巻き変えた。それまでは石膏を使っていたが、この日はプラスチックのような繊維で織られた包帯状のものが使われた。水で濡らして巻くと、まもなく硬化する。通気性はある。
 入院生活最後の夜、特別な感慨はなかった。私ぐらいの治療段階の人はまだ入院している。私もまだ入院していたほうがよいのでは、と考えたりもしたが、食事が心配だった。このことは入院する以前からずっと心配していた。病院で配られる食事は、患者の病状によって内容が異なり、誰の食事かわかるように名札がついている。
 うじ虫がこのチャンスを見逃すはずはない。病院が堅固な態度をとらないかぎり、すぐにも実行されたろう。いつも不安を感じながら食事をとっていたが、これまでのところ異常はなかった。退院できるなら、一日でも早いほうが安心だった。
 7月15日、土曜日。退院。川内が手伝ってくれた。

 

              四 節

 平成1年(1989年)

 7月17日、月曜日。退院後の初出勤は心が重かった。しかし、思いのほか、みんな無関心だった。こうしてギプスを巻き、松葉杖をついての通勤が一か月間続いた。
 会社の状況は入院する前と大きな差はなかった。私がどんなに立派な仕事をしてやっても、驚きの目で見られるのは数日間だけで、すぐに色あせていった。その中心になっておどっているのは社長であることは疑いようがなかった。

 自社製の射出成型機をさらに三台作ることになり、制御ボックスは私が組立配線をした。外部の電気屋は嫌がって引き受けたがらないという。その気持は私にはわかった。その制御ボックスは前任者が設計したものであった。また回路図は、パズルの迷路のようで、それを見ながら配線することは、とても私にはできなかった。私はまずその回路図を一般的な様式に書き直した。こうして三台の制御ボックスを次から次へと完成させた。配線ミスはほとんどなかった。
 しかし、社長とそのまわりの者たちは、「沢舘にできることなんだ、他の誰にもできるだろう」くらいにしか見なかった。

 前年度、電気機器組立の技能検定試験一級を受けたが、学科試験が落ち、この年の夏、学科だけを受験し、10月、合格通知があった。合格証書は神奈川県庁へ受け取りに行かねばならなかった。
 県庁へ出かける前日、私は会社に、翌朝の遅刻届を出しておいた。理由は「役所に寄るため」とした。
 合格証書とバッヂを受け取り、会社へ出た。しかし私はそのことを会社には報告しなかった。報告する気にもなれなかった。
 この年の冬、私がもらったボーナスでは、手取りで19万円だった。いくら一か月間休んだからといって、少なすぎると思った。

 平成2年(1990年)

 平成2年の年が明け、まもなくバレンタインデーがやってきた。P.セイコーには若い女が大勢働いていた。が、私は誰からかチョコレートをもらおうなどとは期待していなかった。ところが、総務の五十歳を過ぎているだろうと思われるおばさん(係長)が、私のところへ立派な箱に入ったチョコレートを持って来た。それは、いわゆる「義理チョコ」の領域を超えた品物であった。最初、私はそれが何なのかを理解できなかった。彼女はそれを、使用済みの大型封筒に入れて、就業時間内に私のところへ持って来た。仕事上の用件だとばかり思っていた。袋の中をのぞくと、きれいな包装紙にくるんだものが入っていた。理解できずに私はたずねた。
「何ですか?」
「わたしからです」
 しばらく考えて、やっとわかった。しかしこのおばさんは、社長に忠実な社員で、私に対しても日頃から好感をもっていなかった。そのおばさんがこんなことをするはずはない。私はすぐに、これは総務の若い女が、自分で持って来られずに、おばさんに頼んだのだと考えた。総務にはこの年、成人したばかりの若い女がいた。しかし、もしおばさんの部下が、私のような者にそのようなものを渡そうとしたなら、きっとやめさせるだろう。不思議なことだ。

 後で私は、上等のハンカチーフを買っておばさんに返した。それで総務の若い女の心が動いたのではないのか。そこでうじ虫の息のかかった者たちが彼女の心を私から引き離しにかかった。その作業が成功したのだろう、女の態度ががらりと変り、社長の顔に、このうえない幸福そうな表情が浮かんだ。さらにまわりの者たちの変化!
 こんなばかげたことで笑いものにされるなんて! やめよう、と思った。
 この頃、開発部の機械屋の係長が退職した。突然のことで私はびっくりした。私と個人的な話をしたことのない彼が、やめるとき私に親しそうにいろいろなことを話した。彼がやめて開発部は二人だけになった。

 3月17日、土曜日、人材銀行を訪ねた。すると、数日前に出されたばかりの求人カードが目に入った。職務の内容は「自動組立機等の制御設計(シーケンスプログラムの設計)、指導監督」とあった。会社名はSKN(仮名)。
 翌日、面接に行った。川崎駅から南武線に乗りかえ、四つめの平間駅の近くにあった。従業員は数十人の設計会社。事務室及び設計室の隣に小さな作業場かあり、小さなものはそこで組立までやっていた。
 面接は10時から午後1時まで、三時間にわたって行なわれた。面接が始まってまもなく、その席にいた総務部の伊藤次長(仮名)というのに電話だといって彼は出て行った。しばらくして帰って来た彼は、メモを社長に見せた。それからの彼らの調子はうって変った。良い方向へ。
 うじ虫が私を誉めたたえ、採用させようというのか? 比較的まともな会社、P.セイコーから私を追い出すために。
 私は給与は現在より減収にならないことを条件にした。
 面接した翌日から、この会社は二連休になるので、休みが明けたら私のほうから電話をして結果を聞くことになった。
 面接の本質的な話は30分で済んだ。社長と私を残してみんな立ち去った。その後社長は二時間半にわたってだらだらと話し続けた。ソファにそっくり返り、両方の手の平を上に向けてソファに投げ出した姿勢で。彼は完全に私を信じきったようだ。話していて、私はいらいらした。しまいには病的な精神状態におそわれた。

 3月23日、金曜日、P.セイコーでの10時の休み時間にSKNに電話した。予想通り、採用するという。給与も私の希望通りに払うという。そのとき電話の伊藤次長は、給与は希望通り払うが、残業を40時間位やってもらえるかとたずねた。私はおかしなことを聞くものだと思った。残業したら割増の残業手当を支払わねばならないだろうに。
 P.セイコーでの私の立場は、袋小路に追い込まれたような状態になっていた。電話を終えたとき、私の心は本当に軽かった。これでもう、社長に何の遠慮も感ずることなくふるまえる。
 事務室へ戻って来たとき、その部屋が、よその会社というほどではないが、ある距離を感じた。
 昼休み時間、すぐに退職願を書いた。それをコピーしに複写機のところへ行った。コピーしながら、ふと振り返ると、総務部長が私を見て、まるで赤子を笑うようにわらっていた。
 P.セイコーで、私は一年四か月もの間、働くことができた。

 

     退 職 願

 P.セイコー株式会社殿 
             1990年3月22日
             開発部  沢 舘 衛

1990年4月5日をもって退職します。

  理 由
一、会社の上部の人間(人格)のもとでは、これ以上やっていけないため。
二、仕事にやりがいを見出せないため。

 

 これを、3時の休み時間に工場長に渡した。初め、退職の日付は空白にしておいた。就業規則では二週間前に届け出ることになっていたが、交渉して一日でも早くやめたかった。
「工場長、ちょっと相談があるんですけど。規則では二週間前とありますけど、できれば早いほうがいいんですけど」
「え、なに?」
 そう言って彼は読み始めた。それから彼は席を立って、みんなから離れたところへ私を導き、
「会社の上部の人間て誰のこと? 人格ていうと穏やかじゃない‥‥、上部の人間て誰?」
「ひいて言えば社長です」
 彼は、すぐそこにあった会議室へ私を入れた。
「社長が沢舘さんに何か言ったの? 何かやったの?」
「なんにも言いません、何もしません」
「それじゃ、別に問題はないんじゃないの?」
「何も言われなくても、社長が陰でどういうことをやっているか、私にはわかりますので」
「社長が陰でどういうことをやっているというの?」
「いやー、それを言っても、そんなことはない、思い過ごしだと言われるだけですから言いません」
「では、社長が沢舘さんをやめさせようとしているということ?」
「そうです」
 彼はそれを打ち消さなかった。私は、もう次の会社を決めてあることを告げた。工場長は退職の届出用紙は所定のものがあるからといって、私の書いたものは受け取らなかった。そして届出用紙には、理由の一番目は書かないほうがいいと言った。やめるときくらい、きちんとして、と言う。
「でも、どうしても書きたいというんだったら、そりゃ書いたって‥‥」
 彼はそう付け加えた。一時間ほど話した。席に戻って仕事をしていると、工場長が用紙を机の向こう側から、ぞんざいに、「では、これ」と放ってよこした。私はすぐに記入して提出した。第一の理由は書かなかった。

 しばらくして、ふと総務部の方を振り返ると、係長のおばさんは奇妙な笑いを浮かべていた。若い女は固く無表情だった。
 それまで一緒に仕事をしてきた設備係の電気屋、古谷係長には、やめるということを言い出せなかった。でも、どこからか伝わったのだろう、寂しそうだった。他の者たちは予知していたのか、それとも無関心なのか、大きな変化はなかった。
 二週間後にはやめると決まったので、私は私がそれまでに書いた図面の整理にかかった。後を引き受ける人が戸惑わないようにしておかねばならなかった。
 図面を整理していると、営業の伊沢部長がやって来て私に話しかけた。私がやめることを知ってのことだろう。彼は役職の垣根を取り払った調子で言った。
「これまでどんな仕事をやってきたの?」
「電気工事など‥‥、年をとって体が動かなくなってきたら設計でもやろうと思って、設計を勉強して‥‥」
「そういう電気屋さんて、どこでも引っ張りだこでしょう」
「そういうはずなんですけど、どこへ行っても、ろくな扱いをされないんです」
 このせりふを言ってすぐだった。工場長が私の背後にやって来て、
「ちょっと」
 怒った口調で私を会議室へ招いた。伊沢部長は、『お、おれのせいか?』というような表情をしていた。
 工場長はめずらしく大きな声で話した。
「このまえはもう、よそを決めてきたというので、だめかと思い、すぐに用紙を渡したけど‥‥。沢舘さん、専務と話をしたの? 専務の話だと、沢舘さん、やめたくてやめるんじゃないということなので、それなら思いとどまれるものなら思いとどまってもらってはどうかと、専務からも話があった」
 長々と引き留められた。
「もう後戻りはできません。こんなに留めていただくのはうれしいんですけど」
 半年ほど前から、専務が私に対する態度を変え、正月には年賀状をくれたりするようになっていた。私が退職届を出した後、一度、流しのところで立ち話をしたことがあった。やめることについて、いろいろ話したとき、私は、
「私としても、やめたくてやめるんじゃないんです」
 と話したことがあった。そのとき専務は、
「これは無理なお願いかもしれないけど、よかったらまた来てくれないかな」
 と言ってくれた。この言葉は私には本当にうれしかった。
 工場長は、
「なんなら、あと一年でも、一年半でもいい、期限付きでもいいんだけど」
 そう言って私を留めた。
 こうした専務や工場長とは別に、社長一人だけは、『勝った!』という表情をしていた。

 自社製の射出成型機を以前三台製作し、さらに二台製作することになり、材料や部品を外部へ手配していた。こんどこそ私がプログラムを作り直すことにして作業を進めていた。新しいプログラムはすでに完成し、シーケンサに書き込み、そのプログラムをチェックするために、もう一台のシーケンサを持ってきて、そのシーケンサに、射出成形機のシリンダやセンサの役目をさせるようなプログラムを入れ、二台のシーケンサをつないでチェックをした。こうして後で実際に成形機をつないだとき、まず動くだろうと思えるところまでプログラムを完成させておいた。
 ただ、私がプログラムを作った
成型機の動きを見ないで会社をやめるのは心残りだった。また試運転の段階でプログラムを修正しなければならないところが必ず出てくるはずである。そのとき私がいなくても大丈夫だろうか? 小さな修正は古谷係長がやってくれるだろう。私は工場長に一筆書いた。
「私がやめた後でも、連絡してもらえれば、土、日に来社して、責任をもって動くようにします」

 P.セイコーでは、退職者の氏名が、退職の一週間ほど前から食堂の掲示板に掲示された。私の名前が表示されたとき、どうしてやめるのかとびっくりして私にたずねる者もいた。
 私は朝、首脳陣に挨拶しなくてもすむように、彼らが朝礼に行っている間に席に着くようにしていた。しかし、最後の日だけはそんなことはすまいと思い、早めに出社した。社長と生産部長が席にいた。
「おはようございます」
 私は挨拶した。しかし二人とも返事をしなかった。この生産部長が私の挨拶を無視したのはこれが初めてだった。社長に気をつかってのことだろう。
 少しして専務、工場長もやって来た。私は前日の作業日報を書いて工場長に渡した。そのとき、いつもはそんなことをしないのだが、机越しに渡した。そして彼らに、もう一度挨拶した。こんどは生産部長は応えた。専務は何かを恐れるように、身を引きながら答えた。社長は顔も上げなかった。
「社長、おはようございます」
 私は低い声で言った。社長は臆病そうな目を上げ、声だけは普通の調子で、
「あ、おはやうんす」
 と答えた。少しせいせいした。

 図面の整理もすでに終り、最後の日は何もやることがなかった。ふと、キーエンスの営業担当者に、そのうち機会があったらキーエンスのシーケンサを使うと約束していたことを思い出した。そして、その営業担当者から時々、まだか、まだか、と催促されていた。ここで私が彼に一言も言わずにP.セイコーをやめるのは、よくないことだと思った。電話しようか?
 どうも、まわりの者たちは、私が会社をやめることを、まるで私の悲劇のように考えているようだった。私にはそれがしゃくにさわってしょうがなかった。私にしてみれば、ただ、便壺から逃げ出すだけのことなのだ。
 事務室にはほとんどのメンバーが席にいた。ふと、このなかでキーエンスに電話してみようかという気になった。
 開発部には電話がないので、後ろの企画部の電話を使った。社長の正面であった。
「P.セイコーの沢舘ですけど、まえに、〇〇さんに、キーエンスのシーケンサを使うことを約束していたんですけど、私、明日でP.セイコーをやめることにしましたので‥‥、約束を果たせなくなって申しわけありません」
「まえに酒寄さんが‥‥」
「ええ、酒寄さんも一か月ほど前やめてしまって‥‥、私も、もうやる気しなくなったので‥‥」
 いつも電話に出るとき、おどおどしていた私が、このときはすっかり落ち着いていた。事務室の中はシーンと静まり返っていた。小気味よかった。

 4時から、QCサークルのグループ会議があるという連絡があった。助かった。最後の日の、最後の一時間は落ち着かないものであったろう。それを顔なじみの者たちとすごせる。四階の食堂の片隅でやった。私たちのグループは、開発部と設備係が一緒になったもので、五名であったが、一か月前に一人退職し、今日で私もやめる。すると三名だけになる。それで4月より成型課から何人か加わることになった。そして新しいサークル名を決めることになった。
「ばか殿様というのはどうですか」私は提案した。
 そのうち、5時15分の終業のチャイムが鳴った。同席していた内田部長がみんなに自動販売機からコーヒーを買ってくれた。部長が私にたずねた。
「挨拶するの?」
 私は何のことかわからなかった。彼はまたたずねた。
「社長に挨拶するの?」
 退職するにあたって、私が社長に挨拶するのか、とたずねたのだ。
「しませんよ」
 私は薄笑いを浮かべ、ゆっくり答えた。

 私は専務と工場長にだけは挨拶したかった。が、いま三階の事務室に降りて行くと、専務と工場長の横に社長もいる可能性が強い。私はQCが終った後、そのまま雑談に加わっていた。やがて、仕事を終えた者たちが、たばこを吸いに食堂に上って来た。社長も上って来た。社長はずっと離れたテーブルに、私の方を向いて座った。私は社長と目を合わさないようにしていたが、一度ちらと社長を盗み見た。社長は、それまで私が見たことのない表情 ─ 完全に毒気を抜かれたような表情で、私をまともに見ていた。この社長、これまでに私をまともに見たことがあったろうか。
 私は社長がそこにいることに気がついていないふりをして席を立ち、下へ降りた。たばこを吸わない専務と工場長は自分の席にいた。首脳部の席には彼ら二人だけだった。二人とも黙ったまま下を向いて何か見ていた。私は近づきながら声をかけた。
「工場長、専務、どうもお世話になりました」
 反応は鈍かった。やっと彼らの顔に笑みが浮かび、立ち上がって私の方へ歩み寄った。そしていくつか言葉を交わした。私はごく自然に、心から、
「どうもありがとうございました」と言った。「これから行くところも、同じことの繰り返しになると思いますけど」
 彼らは、
「どこかで区切りをつけなければならないんだ」とか、「もう、尻をはしょって、そこにいればいいんだ」などと言った。

 帰り、事務室で働いている二人の社員に誘われて飲みに行った。雨が強く降っていて、靴に雨がしみこみ、靴下まで濡れて気持悪かった。しかし、彼らの気持がうれしかった。この席で、彼らの話から、専務と工場長は兄弟だが、社長は血のつながりがないことを知った。私は冗談とも、本気ともつかない調子で言った。
「私、P.セイコーに、もう少しねばっていて、あの社長、会社に出て来られなくしてやるんだったな」
 すると彼らは、そんなことできっこないと笑った。社長が持っている株の数からいっても、そんなことは不可能だと言った。

 

              五 節

 平成2年(1990年)

 4月5日、木曜日は一日ゆっくり休み、6日から新しい会社SKNに出勤した。
 朝、東海道線上り列車のラッシュアワーにはうんざりした。人間性を全く無視した押し合い、へし合い。まるで下等動物にされたみたいで不快だった。これからずっとこんなことを続けなければならないのかと思うと、憂うつになった。(といっても、一年を超えることはないだろうが)。

 9時から始まる会社で、私は20分前に会社に着いた。ところが、出社しているのはわずか数人だけだった。9時前後になって、やっと事務所の中に人が増えてきた。この会社にはタイムカードはなかった。総務部の伊藤次長も出勤して来た。ところが、私とは顔を合わせないように、常に体を横に向けていた。面接してから出社するまで二週間あった。二週間あれば、「機関」は一通りの工作(マインド コントロール)できる。このおやじが、ばかおどりの中心になるのでは? 社長は、と見たら、陰はあるが根の深いものではなかった。
 朝礼でみんなに紹介された。以前、面接に来たとき、実際には会わなかったが、この会社には、すでに優秀な電気屋が一人いるということを聞かされていた。朝礼でみんなをながめまわしたとき、すぐにその人を識別できた。みんなとは異なった目で私を見つめていた。
 この会社の人々は私を暖かく迎えてくれた。これは、それまでのどこの会社でも経験したことのないものであった。
 だがそれは一ヵ月ほどしか続かなかった。社長は伊藤次長にじわじわ狂わされていった。私は社長に「資料」を渡した。しかし全く効果がなかった。

 この会社にすでにいた電気屋は高田氏(仮名)といって、私より若かった。彼は良い意味で変わった人間だった。彼は私をかなり正確に見ていた。
 彼にも「資料」を渡した。
「これと同じものを二ヵ月ほどまえ社長に渡してあります。薬になればと思って渡したんだけど、逆に毒になったみたい」
 そう言って私は笑った。
 翌日(8月1日)の朝、高田氏が私を作業場へ呼んだ。
「あれを半分ほど読んだ。あれはあまり人に見せないほうがいい」
「でもあれは、人に見せるために書いたものなんです」
「それはそうだけど、会社の中の人間に見せるのはまずい。あるていど距離のある人に見せる分はいいと思う」

 

              六 節

 平成2年(1990年)

 夏休みに、川内のふるさと、九州、長崎の五島列島へ出かけた。
 川内は、いなかへ帰ってみたいけど、まだ嫁に行っていない身では、世間がうるさくて帰れないと言っていた。そして私に一緒に行こうと誘っていた。私も彼女が生まれ育ったところを一度は見てみたいと思っていた。
 ただ、私が彼女の肉親らに、どのように迎えられるかが心配だった。歓迎されるものでないことは確かだ。救いは、彼女の両親とは何年かまえに会っていることだった。彼女がまだ私と同じアパートに住んでいた頃、彼女の両親が彼女のところを訪ねて来たとき紹介されている。

 夜行、寝台車で佐世保まで行き、そこからフェリーで彼女の島、小値賀へ向かった。大海原へ出、数時間すると、島々が点々と見えてきた。それらの島々の間を通って小値賀へ。船から見える島々の名前を彼女はいちいち私に教えてくれた。やがてフェリーは小さな港へ入った。彼女は懐かしそうだった。
 港から彼女の家まではタクシーを利用した。小さな島のことで、運転手と彼女は顔見知りだった。
 彼女の生家は、島の小高いところにあった。坂道を登って、彼女の家に着く少し手前の道端で、数人の婦人が立話をしていた。その中に彼女の母親もいた。タクシーを降りると彼女の母が近づいて来た。最初の試練の時がきたと思った。やっぱりどこか冷たく、他人のように迎えられた。目も合わせようとしなかった。家族の他の者たちは畑へ出ているという。
 彼女は家に着くなり、すぐに海へに泳ぎに行こうと言った。彼女の家から少し道を上ったところからわき道へ入り、林の中の急な細い道を降りて行くと、入江になった小さな砂浜があった。遠浅で、水は彼女から聞いていたとおり、きれいだった。長い船旅で暑い思いをしてきたので、海水は心地よかった。

 やがて、私にとって苦しい、第一日目の夕刻がやってきた。みんな畑から帰って来る。はたして彼らからどのように迎えられるのか。彼女の両親と、息子夫婦は、それぞれ独立した台所を持っていて、食事も別々にとっていた。
 夕食前、私が我が身をもてあましていると。彼女が、
「いま兄が帰って来ているから」
 そう言って、私を兄夫婦の台所へ連れて行った。
 兄夫婦と子供が二人、食事中だった。兄は黒く日焼けした裸の背中をこちらへ向け、ビールを飲んでいた。彼女が兄に向かって言った。
「ほら、こちらが沢舘さん」
 彼は私の顔をまともに見ずに、気むずかしそうに、
「うん」と低く答えた。
 私は彼女の両親と一緒に食事をした。父親は何かを考え込むように、あまり語らなかった。でも私にビールをすすめ、グラスが空になると、すぐに注いでくれた。
 実の親から見離された私が、遠く離れた南の島で、彼女の両親とテーブルを囲み、その父親からビールを注いでもらっている。不思議な気持だった。ビールを注いでもらいながら、『この両親を悲しませるようなことはできないな』と感じた。

 私がどこにいても、いつも私につきまとう、うじ虫のかげはここにはなかった。私は彼女と二人で近くの島を訪ねたり、彼女の母校を訪ねたり、また、島の一番高い山に登ったりした。そして日暮れまえに帰って来ては、きまって泳ぎに行った。またお盆でもあったので、墓参りにも行った。島の墓はどれも立派だった。
 私たちが小値賀に着いた翌日、福岡へ行っているという、彼女のすぐ上の兄が小さな女の子を二人を連れて帰って来た。
 この兄と、家にいる兄の二人に誘われて、ある朝、私は暗いうちに起きて船で釣りに出かけた。彼女と母親が弁当をつくってくれた。
 私は魚釣りをあまりしたことがなかった。それまで自由に水中を泳ぎまわっていた魚の命を奪うことに抵抗を感じてならなかった。
 エンジンのついた船で、島々を左右に見ながら漁場に着くと、空がうっすら明るくなってきた。竿は使わず、糸を直接海中へ垂らし、指に伝わってくる感触で釣り上げるのだった。糸を海中へ入れてまもなく、糸がググーと重くなった。だが、上げていいものかどうか私にはわからなかった。軽くなったところで引き上げてみると、エサがなくなっていた。それを見ていた彼女の兄らは、もっと早く引き上げなければだめだと言った。
 アジのほかに、名前も知らない、いろんな魚が釣れた。ふぐもよくかかった。ふぐは大きいのだけ残して、小さいのは海に返した。

 島では、8月なのにもう稲刈りをしていた。刈った稲を干す作業を手伝ったり、夕方、彼女と二人で畑へなすを採りに行ったりした。
 海水浴はいつも日暮れどき出かけ、誰もいなくなった海で泳いだ。でも、ある日、日中から子供たちを連れて泳ぎに行った。日中は島の子供たちがいっぱい来ていてにぎやかだった。
 島には、海に突き出した広い草原があった。刈った稲はこの草原に広げて乾燥させていた。ここの人たちは稲刈りが終ったお盆の頃を選び、その日の仕事を早めに切り上げて、ごちそうを持ってこの草原に出、各家ごと好きな場所を選んで、そこでごちそうを食べる慣わしがあった。
 私と彼女は、その場に少し遅れて行った。ちょうど夕日が水平線に沈むところだった。その夕日を背に彼女の写真を撮ってやった。みんなはもう始めていた。その場の雰囲気に私はあるものを感じた。これはそのとき私の頭に自然に浮かんできたものである。
 彼らの間で私のことが話題になっていたのではないのか? 彼女の両親は、彼女が30歳を過ぎて、まだ嫁に行っていないことをとても気にしていた。彼女の父親がこの席で、彼女と私の関係をはっきりさせようと言いだしたのではないか? だが息子らは、そんなことはここで持ち出すべきではないと反対したのでは?
 父親はずっと無言だった。そのうち、つと立ち上がり、何も言わずにその場を離れた。夕暮れの草原をとぼとぼ歩いて行くその後ろ姿は寂しそうだった。一人で先に帰るのだろうか? 父親が他のグループの輪のそばを通りかかったとき、その中の一人が父親に何か話しかけていた。父親はその人の運転する軽トラックに乗せてもらって行ってしまった。
 あたりが暗くなると、子供たちは持ってきた花火で遊び始めた。私は遊んでいる子供たちの自然な姿を写真に撮ってやった。

 この島では、いたるところで、五、六センチの赤いカニを見かけた。海辺はもとより、高台にある家のまわりにもいた。座敷の中にまで入り込み、畳の上を歩きまわっていた。追いかけると、タンスの後ろの隙間へ逃げ込んだ。
 一週間近く彼女の生家に滞在した。帰り、彼女の母が港まで送ってくれた。私は大きなバッグを持っていた。年老いた彼女の母親がそのバッグを持とうとするのには閉口した。
 乗船までの間、待合室にいたが暑かった。私は持っていた扇子で顔をあおいだ。彼女の母親は扇子を持っていなかった。私は自分の扇子を彼女にあげた。その扇子は私が会社(
SKN)の近くの道で拾った、女ものだった。
 やがて大きなフェリーが港に入って来た。乗船してから港を見下ろすと、彼女の母親が目で我々を探しているようだったが、とうとう見つけることはできなかった。彼女はそんな母親をあわれんでいるようだった。
 船内の客室よりは、甲板の日陰のほうが風もあって気持よかった。甲板の物入れからござを持ってきて広げ、その上で、缶ビールを買ってきて飲んだ。その後、横になって休んだ。一休みした後、船内を探索した。甲板の後尾から、自分の乗っているフェリーの航跡が、水平線のかなたから真っすぐ続いているのを見たとき、何か偉大なものを感じた。
 これまで彼女に誘われ、私もいつかは彼女が生まれ育ったところを見たいと思っていた。それを無事に実現できたことでほっとした。ただ、彼女と私が結婚していない状態で、しかも将来結婚するかどうかもわからない状態で訪ねた。そのことが彼女、及び彼女の肉親たちに微妙な影を落としたことだけが気になった。
 帰りは博多から飛行機を利用した。私は飛行機に乗るのが初めてだったので恐かった。
 飛行機の出発まで時間があったので、小値賀に帰っている彼女のすぐ上の兄の家に寄った。そこには婦人と、よちよち歩きの男の子がいた。

 

              七 節

 平成2年(1990年)

 SKNで、私はごく少数の人間にしか挨拶しなくなっていた。挨拶しても応えない者には、私も挨拶するのをやめた。社長にも挨拶しなくなっていた。
 私はよほど忙しい仕事がない限り、定時で帰っていた。残業は月十数時間しかしなかった。
 総務部の伊藤次長は、月40時間の残業を含めて、私の給与を決めたらしい。私のほうは、残業した場合は当然、時間外手当が支給されるものと思っていた。
 伊藤は、私が月40時間の残業を約束して入社したのに、残業しないといって私を非難した。伊藤を始め、誰も私に向かってそんなことを言わなかったが、私にはそれが伝わってきた。社長の態度はさらに悪化した。私に好意をもっていた技術部の増渕次長までがおかしくなった。こんなことで非難されてはたまらないと思った。言いたいことは私のほうにもあった。
 8月17日、会社に質問状を提出した。私がこの書類を、人に見られないように気を使いながら書き、印鑑を押すのを見ていた伊藤は、私が退職願を書いていると思ったのだろうか、目を輝かしていた。

 

 株式会社SKN殿
               1990年8月17日
                技術部 沢 舘 衛

   給与に関する質問

 入社時、給与に関しては、「今いる会社より減給にならなければ」と希望し、SKN側は「その条件を認める」ということで私は転職しました。
 残業に関しては、入社時、「月40時間位やってもらえるか?」と聞かれました。私は残業すれば割増しの時間外手当を支払わなければならないだろうに、おかしなことを聞くものだなと思いましたが、仕事が忙しければ、当然残業することになるだろうから、「いいです」と答えました。
  質問一、私の給与形態は「月給制」なのか、あるいは「日給月給制」なのか。
  質問二、月給制なら、どうして欠勤した分引かれるのか。
  質問三、日給月給制なら、どうして時間外手当が支払われないのか。
 労働基準法上は、月給制であっても、時間外手当は支払われることになっています。

 

 翌日、社長と伊藤に呼ばれ、応接室で話し合った。彼らの言うところによると、給与形態は日給月給制だという。だから休んだ分は引くという。三つ目の質問には、彼らは一切答えなかった。私もあえて言及しなかった。彼らを苦しめるのが目的ではなかったから。
 しかし、残業しても、休日出勤しても、それに対して一切賃金を支払わず、欠勤すると賃金を引くという彼らのやり方に腹が立ち、一度まくしたてた。彼らはさぞびっくりしたことだろう。彼らは検討して、後で返事すると言った。
 数日後、伊藤が私に、時間外手当を支払わないかわり、欠勤、遅刻しても引かない、と回答した。そして、これまで引いた分は次の給与で払い戻すと言った。
 しかし次の給与で、払い戻されないばかりか、その月に遅刻した分は引かれていた。私はうんざりして明細書を伊藤のところへ持って行った。すると彼はそのことは承知していたらしく、明細書を見ようとせず、手で払いのけて言った。
「いま社長がいないので、あとで社長と相談して返事をする」
 後日、まえの取り決めのとおりにするという通知があった。

 こうしたある日、高田氏と一緒に帰った。彼は私の渡した資料を途中まで読んだという。読んでまず感じたのは、私がこれまでにいろいろな人に会わなかったこと(出会いが少なかったこと)が、私の問題の始まりだ、と言った。うじ虫については一切ふれなかった。
 その後、高田氏が私から離れていくのを感じた。私は技術部の増渕次長にも「資料」を渡した。数日後、彼は、
「とても信じられないことだ」と言った。
 これから二か月ほどの間、社長の様子は少しばかりまともになった。

 10月19日、20日は会社の旅行だった。伊豆。私は迷ったが参加した。楽しいものでないことは初めからわかっていたが、私独りの世界で風景を楽しむだけでもいいと思った。しかしやっぱり後悔した。二度と会社の旅行には参加すまいと思った。
 宿に着くまえに、バスの中で部屋割が知らされた。私は入社したばかりとはいえ、高卒の新入社員らと一緒の大部屋だった。その部屋のベランダに出ると、いくつか離れた部屋のベランダに伊藤が出ていた。私を見た彼の顔に勝ち誇ったような表情が現れた。
 この伊藤は、よくもこれほど考えが湧くものだと感心するほど、次から次へといろんなことを考え出して、私に嫌がらせをした。

 10月29日、平塚の古河電工へ社長と一緒に出かけた。新しい仕事があるというので、その説明を聞きに行った。
 仕事というのは、電力基板の設計であった。その仕事を、私に古河電工へ出向してもらい、古河電工でやってほしいという。設計の仕事がないときは、書類の作成や整理をやってもらうということだった。私は気がすすまなかった。基板のパターン設計は、神経ばかり使って楽しい仕事ではない。それに電子回路は私より高田氏のほうが得意ではないのか。
「この仕事は私より高田さんのほうが向いているかも‥‥」
 私はそう言った。高田氏に話してみようということでこの日は帰った。
 そのことが社長の感情を害したのかどうか、翌日、社長から異様なものがびりびり伝わってきた。

 私は一か月ほどまえから、これも古河電工の仕事で、パソコンからキーボードを取り外し、パソコン基板と液晶のディスプレーをできるだけ小さく一体化するという仕事をしていた。それを納めるケースは機械屋が設計すべきものなのだが。それも私がやらされていた。
 電力基板のことで古河電工を訪ねた翌日の午後、社長はそのケースの図面を事務所の隅のテーブルへ持ってくるように私に指示した。図面を持って行って広げると、社長は私の設計をさんざんこき下ろし始めた。それはただもう、こき下ろしのためのこき下ろしだった。『これは、おれに会社をやめろということだな』と私は感じた。伊藤はむせぶような喜びを押し殺しているようだった。
 日頃から私は社長を、子供を見るような目で見ていた。その社長にさんざんこき下ろされたときはこたえた。その夜と、翌日11月1日の夜、深酒をしてしまった。2日の朝は具合が悪く、会社を休んだ。私の四十八歳の誕生日だった。朝、会社に電話した。私と同じ頃入社した男が出た。私は具合が悪いのを押し隠すように、明るい声で言った。
「今日、ずる休みするので、黒板(行動予定表)に、ずるやすみと書いてほしい」
 彼はげらげら笑った。

 前夜かなり飲み、酔っていたのに眠れず、いろいろなことを考えた。他の会社へ転職しても、うじ虫はばかおどりを続ける。
 これまで、手をつけかけては、ずるずる延ばしていた作業にとりかかるべきではないか? この誕生日を機に本気で始めよう。
 ずっとまえ、どっさり買っておいた原稿用紙をテーブルの上に広げ、日記の始めのほうの数冊を金庫の中から取り出した。
 とりかかると、どうしてこんな重要なことをこれまで放っておいたのだろうと、それまでの自分のいい加減さに驚かされた。あの社長がこのきっかけを作ってくれた。これは神様が作ってくれた状況かもしれないと考えた。
 翌日からの土、日、会社は休みだった。私は夢中で仕事を始めた。日記を多く引用し、分量が多くなるのを気にしないで原稿を書き始めた。

 土曜日、深夜までやったので、日曜日の朝、遅くまで寝ていた。8時頃ドアをノックされ、ノブをガチャガチャされる音で目を覚ました。飛び起きてドアを開けた。川内だった。雨がかなり強く降っていたので、彼女の衣服は濡れていた。ビニール袋いっぱいに食べ物を持って来ていた。
 赤飯の入った重箱もあった。まだ温かかった。私が朝食をとるまえにと思って早く出て来たという。おとといが私の誕生日だったのを忘れていなかったのだ。シャツなども買ってきてくれた。
 私は日曜日も仕事を続けたかったが、彼女は夕方までいた。夕方、雨がやんでから、二人で近くのニチイへ買物に出た。自転車に二人乗りして。買物がすんで彼女はそのまま駅へ向かった。彼女と別れた後、何か彼女に申しわけないような気持が残った。私は自分の仕事のことが気がかりで、彼女がいる間も心はうわの空だった。

 5日、月曜日、私は静かに澄んだ心で会社へ出て行った。一時間残業していると、朝からいなかった社長が、いつのまにか事務所にいた。彼は小さくなり、その声はひしゃげていた。自分のとった行為のばかさかげんに、彼自身気がついていたのか。本来なら、私のほうが打ちのめされ、会社に出て来れず、やめるしかないのだ。ある者はそういう私を驚きの目で見、またある者は、ああまで言われて、まだのこのこ出て来る私をさげすみの目で見ていた。
 私をこき下ろした後、小さくなっていた社長が、数日するとすっかり元に戻った。
 私が仕事上のことで電話する必要があり、「
SKNの沢舘ですけど‥‥」と言ったとき、社長の席のあたりで冷笑が起こるのが感じられた。

 このころ、古河電工の仕事で、光ケーブルのコネクタ組立機の製作があった。これは二台の装置から成るもので、一つは被覆剥ぎ取り装置、もう一つは接着剤吸入装置であった。制御は高田氏と私が手分けしてやることになった。高田氏は、機械組立が先行していた被覆剥ぎ取り装置を担当し、私はコネクタへの接着剤吸入装置を担当した。被覆剥ぎ取り装置のシーケンサの入出力は数十点で済んだが、私のほうは百点になった。しかも、ステッピングモーターを使い、そのパルス数設定のためのデジタルスイッチなどを使った、複雑なものだった。デジタルスイッチを使ったプログラムは、P.セイコーで習得した。それがここですぐに役に立った。
 
SKNに入社して、やっと仕事らしい仕事にありつけた。社長にこき下ろされたすぐ後で、このような仕事ができることをうれしく思った。これで、私の実力を示した上でやめていくことができる。

 11月23日、事務所の模様替えと席替えがあった。年に一回、このようなことをするという。ある人の言によると、これは社長の趣味だということであった。
 まえから、みんな何度も集まって話し合っていたが、私には一切連絡がなかった。伊藤が中心になってやっていた。どんなことになるか想像できた。できあがった配置図をのぞき込んでいた一人が、
「やめろって言っているようなもんだ」と笑った。私のことだろう。増渕次長がその配置図を私のところへ持って来て言った。
「沢舘さんの席は、おれが勝手に決めたけど」
 見ると予想通り、私の席は一番隅だった。私の向かいの席は予備で空席だった。さらに隣の席は離れていた。だから私は独りだけぽつんと部屋の隅へ追いやられたかたちだった。その離れた隣の席が増渕次長だった。彼は機械と電気の連絡をとりやすくするために私の隣に来たのだろう。さらに彼は、伊藤に交渉して、離れていた私たちの机をぴったりくっつけてしまった。
 社長の席は、私とは反対側の一番奥の隅だった。うれしかったのは、伊藤がずっと離れ、引出しの陰になって見えなくなったことだった。それまではいつも顔が見えて不快だった。
 この事務所内の配置を見て、私はあきれはてた。それまで壁際にあった本棚を窓側へ移し、窓をふさいでしまった。本棚のあった壁は寒々とむき出しになった。そこの隅が私の席だった。電灯を消すと、昼でも穴蔵みたい。一方、二面を窓に囲まれた明るいコーナーには、CADグループが陣取った。彼らは明るいと画面が見にくいので、窓にブラインドを下ろしてしまった。
 私はこのような配置を考えた人間の神経を理解できなかった。増渕次長も憤慨していた。彼はそのような配置に反対したが、聞き入れられなかったという。もしかするとこれは、伊藤が私を暗いところに押し込めるためにやったことかもしれない。

 

              八 節

 平成2年(1990年)

 この年の暮れ、いなかの姉から例年のように荷物が送られてきた。大槌川でとれた新巻鮭やりんごなど。姉の手紙も入っていた。

 

 しばらくです。
 元気でおりますか、大槌のほうは皆なんとか元気に暮らしていますのでご安心下さい。母もなんとか、這って歩くまでになりましたが立つことも出来ず、こたつに入って寝たり起きたりの生活です。月に二回役場からの入浴車の世話になっています。
 今年も押しせまり、あと半月を残すのみとなりました。こまごまと目についたものを送ります。はらんこ(イクラ)も私が塩をしたものですが暖かいため、すぐ悪くなってはと思い、少ししょっぱい位に塩をしましたので食べて下さい。

 我が家でも文彦もこの4月より岩手のほうに来て高校の教師をしています。学は釜石のほうで働いています。結婚してこの8月女の子が生まれました。〇〇といいます。五ケ月目に入り、だんだん人見知りを始めるようになりました。敬子は今年(来春)で大学を卒業して大学の工学部の助手として就職することに決めてあります。
 正彦さんは盛岡のほうへ単身赴任しています。年老いた両親をおいていくわけにもいかず、私が残りました。五人家族が皆それぞれ暮らしています。

 体には充分気をつけて暮らしてください。
                        宏 子より
  衛 様

 

 私はお茶だけを小さく荷造って送った。手紙も入れた。

 

 一週間近くまえ、荷物を受け取りました。ありがとうございました。
 でも、もうお送りするのはやめてくださるようお願いします。
 できれば忘れていただきたい。
 私もそのように努力していますので。
                     衛
  宏 子 様
  両 親 様

  1990・12・24

 

 翌年には何も送られてこなかった。父からだけは年賀状がきた。年をとり、年賀状を一枚一枚毛筆で書くのが大変になったのか、自筆を印刷したものだった。余白には次の一文が書き添えてあった。
「迎える年も達者で暮らしてくれ、良いことのみあるよう朝夕お祈りしている」

 平成3年(1991年)

 平成3年になった。年末年始は、志賀高原にスキーに行った。渋温泉というところにやっと宿がとれたのだが、そこからスキー場までバスで一時間以上かかった。
 私は川内に、
「今の会社は、春になったらやめる」
 と、ぽつんと言った。彼女の悲しむ気持が伝わってきた。
 1月19日から21日まで、二泊三日で天元台スキー場へ行った。あまり大きなスキー場ではなかったが気に入った。
 このスキー場で、前の会社、P.セイコーの社員と出会った。設計課長というだけで、名前はわからなかった。リフトを降りたところで、川内と写真をとりあっていると、向こうから話しかけてきた。彼のほうはいろいろ話したかったようだが、私はあまり話したくなかった。

 年賀状が数枚きた。その中に代々木総合法律事務所からのもあった。ここからは毎年きていたが、私は一度も出していなかった。
 この法律事務所へは何年も前に訪ねたことがあったが、応対に出た弁護士(?)にめちゃくちゃ突き放され、提出するために持って行った資料も突き返された。私はそのまま帰るのは気持が納まらなかったので、受付の若い女に、その資料をそっくり置いてきた。その後も「訴」を発行するたびに郵送してきた。その頃からずっと年賀状がきている。
 それに対し、返事を出さない自分に少しばかり良心の呵責を感じていた。この年の正月、初めて私も年賀状を書いて出した。

 

 あけましておめでとうございます。
 毎年、年賀状をいただきながら返事も出さないできましたこと申しわけありませんでした。
 みなさまのおかげで、だいぶしのぎやすく(生きやすく)なってきました。それでも就職は一、二年で転々としています。少し息がつけるようになると、たたかいもおろそかになり、「訴」も「訴その十六」を10年ほどまえに出したきりです。
 現在でも他に苦しみのどん底にいる人々がいること、また私がこれから年をとり、たたかいの力が衰えていくことを考えると、今のうちに何とかしておかなければと考えています。今後ともよろしくお願いします。
 1991年

 

              九 節

 平成3年(1991年)

 2月になり、私が担当していた仕事が二つとも完成した。どちらも古河電工、平塚工場の仕事で、一つはパソコンの改造、もう一つは光ケーブルコネクタ接着剤吸入装置。パソコン改造の設計は古河電工がやったので、私はそのとおりに、間違わずに配線すればよかった。
 接着剤吸入装置の制御盤は、かなり複雑なものになった。私はそれを丁寧に、きれいに仕上げた。これが後で私の実力を証明するものになる。それでも誰も関心を示す者はいなかった。社長はそんなものは目に入らない素振りをしていた。
 高田氏が先行して担当していた装置が私のより一足先に完成した。会社ではその装置の写真を撮り、どこかへ出品すると言って、伊藤がはりきって自ら持ち運んだりしていた。総務部の伊藤がこのようなことに手を出すなんて異例のことだった。
 高田氏が装置の不明な点を機械屋にたずねると、たずねられた機械屋は懇切丁寧に説明し、それでもわからないときは、彼らはよく古河電工へ打ち合わせに出かけた。しかし、私がたずねると、十分な説明が得られなかった。そんな機械屋を見て腹がたった。『おまえらのつくった機械を立派に動かすために努力しているのに、その態度はなんだ!』
 不明な点を古河電工の担当者に電話で直接たずねると、その担当者からは、連絡の窓口は一つにし、自分で勝手に電話するなと注意された。
 機械屋からぞんざいな説明を受け、私が理解した機械の動きと、実際の動きとは食い違っていた。何日もかけて設計したプログラムを、最初から作り直したこともあった。

 完成した制御盤を、私は自分のカメラを持っていって写真に納めた。それからプログラムの清書や、操作説明書の作成にかかった。
 プログラムと説明書で62ページになった。コピーを自分の分だけ一部とり、原本は他の者たちの目に触れないようにした。やめるとき、または装置を客先に納めるとき、製本して渡そうと思った。見る人が見れば、それがどの程度のものかわかるはずである。
 ある日、古河電工からその装置の担当者がやって来た。彼はどこから何を聞かされるのか、以前から私をうさんくさそうに見、挨拶するとそっぽを向くこともあった。この男が私に、装置の電気図面はできているか? とたずねた。その語調には、図面などまだできていないだろう、という非難が感じられた。私は、できてはいるが、まだ製本していないと答えた。彼はバラバラでもいいからほしいと言うので、一部コピーして渡した。

 一方、私は人材銀行を訪ね、転職先を探した。
 このころ、
SKNで私は、別の新しい仕事を担当することになっていた。三菱電機、鎌倉工場の仕事。機械を担当するのが増渕次長であったので、連絡は密にとることができた。客先との打合せにも出席し、回路設計、制御盤設計、それに制御盤製作に必要な機材の選定、注文も済み、ぼつぼつそれらが入荷し始めていた。制御ボックスも入ってきた。しかし私はその加工に手をつけなかった。やりかけたままやめたくなかったし、私の代りに途中から作業をする者も、嫌だろうから。
 この仕事は、ミサイルの性能をテストするもので、すでにパソコンを使って制御している装置があり、その一部を改造するものであった。風洞の中のミサイルの模型を、サーボモーターを使ってその回転や角度を精密に変えてやるものだった。シーケンサは使わず、ただ信号をパソコン側とやりとりするだけであった。
 このほかにも、いくつか大きな仕事があったようだが、このころには少し大きな仕事は外部の電気屋に出されるようになっていた。だが、私はそれを気にしなかった。どうせやめる会社だし、彼らからないがしろにされたところで、私の実力が低下するものでもなかった。

 3月11日、月曜日の朝、会社に出るまえに人材銀行に寄り、この前から目をつけていた会社をリクエストし、紹介してもらった。面接は二日後。
 人材銀行を出、
SKNに出社したのは正午を少し過ぎていた。この日の夕方、私が担当し、完成させておいたパソコン改造の仕事をチェックしに、古河電工からその改造の設計者がやって来た。私は配線を念入りにチェックしただけで、電源は入れてみていなかった。電源を入れるのは改造を設計した本人にまかせるのが無難だと考えた。
 彼が電源を入れ、持ってきたフロッピーディスクを入れ、操作すると画面が出、ちゃんと動作した。びっくりした。一度で動作するとは思っていなかった。それに、パソコンの基板をさんざんいじくりまわしたので、ICが人体の静電気で破壊されているのではないかと心配していた。
 数日前、社長がこのパソコンを見て、
「これは動くのかい」
 と、ばかにしたような口調で言った。

 3月13日、会社を休み、面接に出かけた。厚木市にあるKR(仮名)という会社。代表取締役だという、ひげを生やした男が面接をした。彼は昭和20年生まれだといって私より若かった。しっかりした人間のような感じを受けた。彼のほうも私を、自分らと同じレベルの世界の人間だと感じたようだった。その場で採用が決まった。そのとき彼は言った。
「ぼくは即決するようなことはめったにしないけど」
 ただ彼は面接中、一度、私を「きみ」呼ばわりした。そのとき私は、彼のよくない面、悪い種子を見たように感じた。うじ虫の作用に合ったら、この種子は急速に成長するだろうことが予測された。

 翌日、14日の朝、SKNに出社すると、私が担当した接着剤吸入装置が作業場から消えていた。前日運び出されたのだろう。それを私に報告する者は誰もいなかった。
 社長と増渕次長は居なかった。予定表を見たら、増渕次長は午後2時出社とあった。
 午後出社してきた増渕次長に「退職願」を渡した。彼は別に驚くふうもなく、にやりとした。

 

     退 職 願

 株式会社SKN殿
            1991年3月14日
               技術部 沢 舘 衛

 1991年3月20日付で退職させていただきます。

     理 由

一、会社の意向に添うため。
二、
SKNで、これ以上仕事を続けていく気になれないため。

 

 私がSKNに出社するのは、この日を入れて三日だけであった。技術部の佐藤部長と増渕次長に会議室へ呼び入れられ、引き留められた。古河電工に納めた装置がまともに評価され、それでSKNのほうでも目が覚めつつあるようだった。ただ、社長だけは、我関せずといったふうであった。増渕次長が会議室を出て行って、そんな社長にきびしいことを言ったらしく、途中から社長が入って来た。社長はそれまで私に見せたことのない表情をしていた。顔の皮膚がゆるみ、しわが増えたような感じだった。人間の顔がこんなにも変化するものかと驚いた。
 彼らは私の転職が急であることを責め、就業規則通り、14日後にやめろ、三菱の仕事もあるではないかと言った。それに対し私は反論した。やりかけの仕事は完了した。三菱の仕事は設計も終り、承認も済んでいる。あとは制御盤を組み立て、配線するばかりだ。私が退職を14日後に延ばして、その仕事に取りかかったところで完成しない。途中で誰かに引き継ぐようになる。他人が途中まで加工した制御盤を引き継ぐのは嫌なものである。だから制御盤は、材料が揃っているけど手をつけないでいる。それに以前、社長から「やめてくれ」と言わんばかりの仕打ちを受けたとき、私がその翌日から会社へ来るのをやめていたとしても、それはそれで納まっていたことなんだ。
 増渕次長は最後の日まで私を引き留めた。
 三菱の仕事は高田氏が引き継ぐことになった。応接室でその高田氏と話した。私がやめることについて彼は、
「おれは留めない」
 と言った。予想していた言葉だった。

 最後の日、荷物をまとめ、帰るばかりにしていると、伊藤が私の退職願を持って来て、「理由」の一番目を取り消せという。こんなことをした覚えはないし、こんな記録も残したくないという。
『社長や部長を通った書類に、なんでおまえがそんなことを言うんだ!』
 思わず怒鳴りつけたくなったが、押え、黙ってボールペンで二本線を引いて消した。この男とはどんなことであれ、口をききたくなかった。
 事務所を出るとき、社長とそのまわりの者たちに挨拶した。みな丁寧に応えたが、社長だけは、腹の底から「ああ」とも「おお」ともつかない声を押し出しただけであった。このとき社長は自分の誤りをやっと自覚していたようだ。
 伊藤には初めから挨拶する気はなかったが、私が他の人たちに挨拶している間に、彼はそそくさと姿を消した。

 5日間の休息をとり、新しい会社、KRには25日、月曜日から出社した。
 しかし、うじ虫が存在する以上、これからも同じことの繰り返しになる。そのたびに人材銀行の世話になる。体裁がわるい。そこで人材銀行に手紙を書いた。

 

 前 略
 登録番号2516の沢舘衛です。
 昭和63年11月、P.セイコー(株)を紹介していただき就職しましたが、そこを1年4か月でやめました。
 平成2年3月、次に(株)
SKNを紹介していただきましたが、そこは1年足らずでやめました。
 このまえ、3月11日、
KR(株)を紹介され、3月13日、面接に出かけ、即決で採用されました。25日から出勤しますが、ここも、最低一年間勤めることができればと希望しています。これまで、ある者たち(うじ虫)の妨害のため、就職が安定せず、転々としてきました。KRは22社目にあたります。
 技術には自信があり、私の技術を理解し、認めてくれる人は、私がその会社をやめるとき、引き留めてくれますが、大勢からいって、いられなくなってやめてきました。
 妨害は私が生きている限り続くでしょう。そして今後、一年周期ぐらいの間隔で人材銀行のお世話になることと思います。そのさい、私の技術の未熟さから長続きしないんじゃないかと思われるのもいやですので、ここにある資料(私を迫害している者たちの正体を明らかにするためのたたかいの中で発行してきた資料の一部)をお送りし、今後とも就職活動を助けていただきたいと望んでおります。
 同封の資料は、返却の必要はありません。

  神奈川人材銀行 御中
                    沢 舘 衛
  平成3年3月23日

 

 KRは、出勤10日目の4月5日にやめた。やめてから数日間は、この会社のことを思い出すたびに、病的な不快感におそわれた。しかし、一週間ほどすると、もう遠い過去のことのように思われ、病的な感情は消えていった。

 

              十 節

 平成3年(1991年)

  3月17日 日曜日

 今日は川内の引越だった。
 私は行かなかった。行ったが、引っ越してしまっていた。
 とてもさびしい。
 でもこれでよかったと思っている。
 今月は一度も電話していない。

 

 3月1日から3日まで、蔵王温泉スキー場へ行った。三日目、やっとロープウェイの整理券がとれ、山頂まで行った。もう昼だったので、山頂駅の食堂で昼飯にすることにした。
 そこで、大勢の客の中で、顔から火が出るような恥かしい思いをさせられた。彼女のこの気性には彼女とつきあい始めてからずっと面食らい、悩まされてきた。
 気に入らないことがあり、かっとなると、相手の立場も感情も考えず、子供をやっつけるように相手をやっつける。こちらはもう、あまりの恥しさにどうしていいかわからなくなる。
 本来の私なら、一度でもこんなことをされたら絶交しているはずであった。最初の頃、彼女との絶交を決意して、それらしい手紙を彼女のドアに入れておいたこともあった。
「‥‥いっぱい幸せになってください。さようなら」
 ところが、会社の方へ彼女から電話がかかってきて(私は電話を持っていなかった)。
「もう、あんたの部屋へ行ってはだめ?」と聞く。
「いや別に‥‥」
 そう答えるしかなかった。

 その後10年近く交際が続いているが、その間には何度も不快な思いをし、そのたびに電話もせず、距離をおいてきた。休日、彼女が私のところを訪ねて来る。そしてまた少しずつ元に戻る。これを繰り返してきた。
 彼女がそれまで住んでいた公団住宅が建て直されることになり、その間、別の住宅に移り住むことになっていた。引越には、鎌倉に住んでいる、彼女の姉の主人がトラックを持って来て運んでくれることになっていた。
 3月17日に引っ越すことは知っていたが、時間は聞いていなかった。その前日、やっと彼女に電話したが、出なかった。電話を外してしまったのか。直接出かけた。風邪気味なのか私は具合が悪かった。厚着をして出かけた。午後3時頃だったろう。行ってみると、階段の下の郵便受から名札が外されていた。ブザーを鳴らしても返事はなく、ドアには鍵がかかっていた。もしやと思い、ドアの郵便受口のふたを押し開けて指を入れ、以前私が針金で細工をしてやったかんぬきを引いてみた。ドアが開いた。内部には荷造りされた荷物が積み重ねてあった。彼女はいなかった。電話は外されていた。下の自転車置場には自転車がなかったので、引越し先へ行ったのだろう。天井のサーキュレーターを外してやり、メモに「明日、早めに来ます」と書いておいた。そこに置いてあった私のスキー板を持ち帰った。
 何時に引っ越すのかわからなかった。が、10時よりは早くないだろうから、10時までに向こうに着くつもりでいた。しかし着いたのは11時近かった。人影がなかった。ドアには鍵がかかっていて開かなかった。外から、窓を見上げた。内部は空っぽみたい。なんとも空虚な気持になった。引越先の団地へ行くか? しかしあまり話したこともない人たちがあわただしく働いているところへ途中から行くのは‥‥、いや、もしかすると、もう終っているかもしれない。そこへのこのこ出て行くのは体裁が悪い。それに川内との間もしっくりいっていない。帰ることにした。『これで終りだ』と感じた。
 帰るなりこたつに横になった。涙が出てきた。しばらくして、やりきれなくなり、ビールを買ってきて飲んだ。
 夕方、こたつに横になり、現実と夢の間を行きつ戻りつしていると、窓の下から大家さんが私を呼んだ。はっとして窓を開けると、
「〇〇さんという人から電話です」
 と言う。川内の姉さんからだ。何事だろうと思った。
「どうしたんですか? 早めに来ると言って来なかったので、どうかしたんじゃないかと妹が心配して、電話してくれというんで」
 川内は以前このアパートに住んでいたので、自分で大家さんのところに電話しにくいのだ。川内の姉の話によると、10時半には運び終ったという。運ぶだけ運んで、荷物を部屋の中に積み上げ、みんな帰ったという。
 川内は運んでもらった後、みんなを帰したみたい。あとは私に手伝ってもらって整理するつもりだったのだろう。ところが夕方になっても私が行かない。そこで彼女は私に何かあったのではないかと心配したのだろう。
 私は手伝いに行かなかったことを謝った。
 これから一週間ほどして、どうしても川内に連絡しなければならない用件があった。手紙でもいいのだが、住所も棟番号もわからなかった。でも場所は知っていた。引っ越すまえ、川内と二人で見に行ったから。出かけて行って彼女の郵便受けに手紙を入れた。
 下から彼女の部屋を見上げると、ベランダに、見覚えのある鉢が並べてあった。それらが寂しそうに見えた。あの部屋にはもう入ることはないだろうなと思った。彼女のほうからも、もう近づいてくることはないだろう。

 それから三週間ほどして彼女が訪ねて来た。気まずかった。彼女に誘われて電車でどこかへ(たぶん東京へ)出かけた。
「新しい会社へは行っている?」
 彼女が聞いた。
「いや、やめた」
 彼女はびっくりしてわけを聞こうとした。私は語りたくなかった。

 


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