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   第三編 たたかいの成就へ向けて

            第一章 (日記の集大成)    第二章 (あきらめないうじ虫)

 

     第一章 日記の集大成

       一節   二節   三節 (ソビエト連邦消滅)

 

              一 節

 平成3年(1991年)

 前の年の11月から、日記の集大成にかかっていたが、その仕事ははかどっていなかった。平日はなかなかそれに取り組むことはできなかった。会社から帰り、夕食の支度をし、食べ、後片づけをし、風呂に行って帰って来ると、もう9時を過ぎる。残業するともっと遅くなった。土、日の休日しかなかった。しかし、土曜日は一週間分の洗濯や掃除、それに数日分の食料の買い出し、調理、貯蔵といった作業に費やされる。日曜日には川内が彼女のところへ遊びに来るようにと誘う。私が仕事をしなければならないからと言っても、「ふだんの日にやればいいでしょう」と言い、仕事の重要性をなかなか理解してくれない。

 日頃から私は自分の時間をほんとうにほしかった。KRをやめたとき、私はもう次の仕事をあわてて探そうとは思わなかった。就職したところで同じことの繰り返しになる。それなら雇用保険をもらいながら、うじ虫をやっつけるための仕事をすすめたかった。
 しかし、
KRでの離職理由は自己都合だったので、雇用保険の給付には三か月間の給付制限があり、その間は保険が給付されない。さらに失業の認定期間が一か月間あるので、実際に保険金が手に入るのは失業してから四か月後からであった。この間は大変だった。しかも、この四か月間に市県民税や国民健康保険料として18万円も納めなければならなかった。定期預金を解約してなんとかきりぬけた。その後、雇用保険が給付されても全く余裕はなかった。生活して、高額の税金や保険料を納めると不足になる月もあった。
 失業して、仕事に専念できるようになり、私は昼夜の区別なく、夢中で取り組んだ。万年筆を持つ指が痛くなると、その部分に救急バンドを巻いて痛みを和らげた。こうして仕事は着々と進められていった。だがそれでも、下書きとなる原稿を完成させるのに、一年はかかるだろうと予想された。

 月日はどんどん過ぎていった。この間、失業という状態にありながら、私は精神的にそれまでに経験したことがないほど充実していた。
 失業して九か月が過ぎた平成3年の暮れ、やっと下書きの原稿を書き終えた。下書きにはノートを使った。薄いノートで30冊を超えた。一行おきに書いていって、文章の訂正には空白の行を使った。
 失業している間、就職活動をせずに、この仕事にばかり専念していたわけではない。かなりの数の会社に面接に行った。私はそこで、どうして他社での就職期間が短いのかと聞かれたとき、言葉を濁したり、嘘を言ったりせず、うじ虫についてすすんで説明した。もう同じことを繰り返したくなかった。同じことを繰り返すくらいなら、自分の仕事を続けていたかった。うじ虫の話をすると、決まって不採用となった。

 8月30日、金曜日、人材銀行の紹介で、鶴見駅の近くにある、AHRという会社に面接に行った。人材派遣の会社であった。「シニアコンサルタント」の肩書を持つ萩原氏が面接にあたった。
 萩原氏は、前の会社はどうしてやめた? と聞いた。私はいよいよ来たかと思った。この会社は人材派遣の会社なので、自分に最適の仕事につけるかもしれない。そんな考えが、採用されたいという気持を起こさせたのかもしれない。私は前の会社は特殊な理由でやめたと答えた。しかし、その理由を追求され、「訴」と「判決」を取り出し、説明した。
 私の説明を聞き終ると、萩原氏は、そんなものは存在しない。それらはみな自分で作りだしたものだ。自分の中の、もう一人の自分がそうさせているんだ。そんなものは始めからないんだから、「そんなことはないんだ」と、自分の頭にインプットすれば、それで簡単に解決するんだ。
「そう、今、インプットしてみてごらん‥‥、そら、もう楽になったでしょう」さらに彼は、「あんたが、そんなものはないんだと自分の頭にインプットし、忘れることができるなら、私は引き受ける」と言った。
 私はそんなことはとうていできないと答えた。萩原氏は、来週の月曜日、また電話をくれと言った。それまで三日あるから忘れてみなさいと言った。

 私は、彼が頭からうじ虫の存在を否定するのを見て、彼はすでにその存在を知っていたのではないかと考えた。そして、その者たちにどんなに刃向かってみたところで、どうにもならないことも。
 月曜日、萩原氏に電話した。私は忘れることは不可能なことを告げた。彼は忘れることができない限り、引き受けられないと答えた。でも彼は、「一度会って話したい。あんたの問題も一緒になんとかしたい」と漏らした。何日後でもいいから、忘れるという決心ができたら、そのとき、また電話をくれと言われた。私はそのまま一週間放っておいた。

 9月11日、再び会った。彼は私からうじ虫の存在をおおい隠そうとした。そして、新潟か四国へ行って電気工事をしないか? 地方へ行ったら、うじ虫はついて行かないだろうと言った。うじ虫は存在しないと言っておきながら。
 私は、採用、不採用をはっきりさせず、このままにしておくと、次の仕事を紹介してもらえないので、その日のうちに手紙を書いた。

 

 人材銀行の紹介で貴社を訪ねた沢舘です。
 応募は取り消させていただきます。

   理 由

一、「うじ虫」が存在しないと思い込むことは私には不可能なため。
二、作業内容に満足できないため。
三、現在、この地を離れることができないため。

 

 これから一週間後の9月18日、これも鶴見駅近くのIRIエンジニアリングという会社に面接に行った。両社とも駅をはさんで近くにあり、社名のつけ方からいって、何か関係があるのではないかと思った。AHR社に比べると、このIRI社はずっと小さな会社だった。社長の浜地氏と面接した。簡単に採用と決まった。来週の月曜日(24日)から出社することになった。

 9月24日、朝、出勤すると、浜地氏はすぐに私を外へ連れ出し、喫茶店に入った。
 彼は私のことをソーケンに問い合わせたという。ソーケンでは私のことを、技術的には何も言うことはないけど、みんなと交わりたがらなかった、と言ったという。またどういうルートでか、
AHR社とも連絡をとったという。やはり密接な関係にある会社だった。
 喫茶店で浜地氏は、これまでに彼の会社に入社して問題になった人間を例にあげて、くどくど話しだした。やることもやらないで、会社を裁判に訴えた、等々。そして、今のところ私にやってもらう仕事はないから、数日間、自宅待機してくれ、その間、給与の六割は支給すると言った。

 一週間後の9月30日、午後4時に再び会った。また喫茶店へ連れて行かれた。そしてまた、問題者の話を前回以上にくどくど聞かされた。私は本当に不快になり、彼の顔は見ずに、窓の外をながめていた。
「職安も人材銀行も、その人がどんな人間か、ろくに調べもしないで、次から次へ紹介してくる」
 そこまで言われては、私のほうから引き下がるしかなかった。

 

              二 節

 平成3年(1991年)

 10月16日、水曜日。体の調子が悪い。こんどは本物みたい。左首にしこりができて押すと痛い。首のほぼ真横。
 翌日(17日)の朝、大船中央病院へ行った。医師もさわってみてしこりを認めた。それから裸にされ、全身のリンパ腺を調べた。他には異常はなかった。
「結核をしたことは?」とか「大きな病気をしたことは?」と聞かれた。
「ありません」私は答えた。
 胸と首のレントゲン写真をとり、血液を採り、それからツベリクリン検査もした。
 医師は、何が原因でリンパ腺が腫れたのかを調べ、他に原因が認められないときは、しこりの組織を取って調べると言った。カルテを書いている医師に私は言った。
「がんではないかと心配して、すぐに来たんです」
 医師はにこりともせず、次のように説明した。リンパ腺は他に原因がなくても腫れることはある。その場合、悪性のものと良性のものがあるが、良性のものが多い。もし胃がんがあってリンパ腺が腫れるときは、もう少し中央寄りの、首の付け根の奥のほうから出てくる。
 それから医師は私に、胃がんの検査は受けているかとたずねた。私は検査を年一回受けていた。

 この翌日(10月18日)の朝、起きるとき、腰の左側だけが痛かった。頭も左半分だけボーとし、時々鈍く痛む。頭部の左側にできていた湿疹が治りにくく、こぶのように腫れ上がっていた。左目の奥も痛い。リンパ腺も左側だけ腫れている。これらはすべて関連して起こっているように思われる。
 これらがどうも命取りになるような気がする。これまで、あちこちで密かに投与されてきた毒物の結果か?
 私はこれまで、毒物は、体の抵抗力をなくさせるか、あるいは発がん性物質ではないかと考えていた。うじ虫に狂わされた者たちが、そのうち私ががんで倒れるものと思い込んでいるようだから。
 それで、がん検診は年一回、市民病院のがん検診センターで受けてきた。胃、肝臓、胆のう、それにすい臓について。しかし、いくら検診を受けても、そこにうじ虫が介入したら‥‥、という不安はいつもつきまとっていた。

 日記の集大成にかかったとき、この仕事をやり終えるまえに私の命が絶えてしまうのではないかと考えた。それで夢中で書き続けた。この仕事を完成させることなく私が倒れたらどうなるだろう。私が死んだら、真っ先に私の日記、原稿が処分されてしまうだろう。それを防ぐにはどうしたらいいか。川内に頼むか。だがそんなことをしたら、今度は川内の身が危うくなる。やっぱりこの仕事は日の目を見ることはないのか。
 病院へ行ってから二日後、10月19日、土曜日の朝、ひたいの左半分に赤い斑点がでていた。さわると、ビリビリした感じ。すぐに病院へ行った。「帯状疱疹」だという。神経にウイルスがとりつく病気でやっかいなものらしい。目にかかると視力が衰えるという。すぐに点滴が行なわれた。夕方にもやるという。朝夕の点滴を五日間続けることになった。
 この帯状疱疹は、体の抵抗力が弱くなったときにかかるものだという。左のひたいが赤く腫れ、左目も腫れた。日曜日(10月20日)は一日中、39度の熱が続いた。夕方の点滴の時、看護婦に熱のことを話したが、そのとき急患が二件もあってあわただしく、熱のことは忘れられたみたいだった。そのうえ、底冷えのする待合室で一時間も待たされ、さらに冷たいベッドの上で40分間の点滴。体の芯まで冷えた。アパートへ帰り、ストーブをつけ、ふとんに入ったが、12時過ぎまで悪寒は消えなかった。
 月曜日の朝、熱のことを医師に話すと、医師はあわてて解熱の点滴も打った。熱はそれですぐに下がった。
 左目の角膜もウイルスにやられたという。しかし、瞳孔から少しずれたので視力に影響がなかった。
 左のひたいのビリビリするような感触はその後、一年ほど残った。

 11月18日は失業認定日になっていた。求人票をめくって見ていると、一社いいところがあり紹介してもらい、その日のうちに面接に行った。茅ヶ崎市にある東邦チタニウムという会社。しかし全く相手にされなかった。社長室に通されたまではよかったが、面接者は現れなかった。私を案内した総務の若い男が私の履歴書を持ってどこかへ消えた。再び戻って来ると彼は、結果は職安のほうにするので今日はこれで帰っていいと言った。

 

              三 節

 平成3年(1991年)

 この年の暮れ、ソビエト連邦が消滅した。そのわずか二年前にはベルリンの壁が撤去された。どちらも全く予想できなかったことだ。
 ベルリンの壁が市民の手で壊されるのを見たとき、私は人間という生き物に希望がもてるように感じた。
 私が社会主義思想に目覚めたころ造られた壁(柵)。それを超えて逃げようとする人間を社会主義国側が射殺していた。社会主義の素晴らしさを説かれる一方でこの殺人行為を見、大いに疑問を感じていた。
 その後、社会主義思想を学習し、社会主義を支持するようになっていった。しかし、学習による社会主義の素晴らしさと、現実の社会主義国の経済的な問題を見るにつけ、『なにかおかしい』と感じていた。しかし一方では、『今ある社会主義は発展段階の途中にあるんだ、そのうち素晴らしい社会が生まれるのだ』と自分に言い聞かさせていた。
 ところが、ベルリンの壁崩壊からわずか二年後、今度はソビエト連邦が消滅し、レーニン像が撤去された。それを見て『やっぱり!』と思った。同時に、『では、これまでのは一体何だったのだろう?』と思った。

 

 

     第二章 あきらめないうじ虫

             一節   二節 (ドアの錠 壊される-2回目)   三節   四節  ( 「マルコムX」 )

              一 節

 平成4年(1992年)

 年が明けた平成4年1月の半ば、人材銀行を訪ねてみた。新しい求人カードが目についた。綾瀬市にあるDBL技研(仮名)という会社が電気設計技術者を募集していた。職務内容は、「当社製の自動化機械装置の電気制御設計及び配線工事等」とあった。社員は15人。
 その会社を紹介してもらった。雇用保険はあと3週間で切れるので少しばかりあせっていた。
 1月23日、木曜日、面接に出かけた。私はそれまでに他社でやった代表的な仕事(シーケンスプログラム)も持って行って見せた。問題はどうしてこんなに転職したかを聞かれることであった。ここでもやっぱり聞かれた。私は自分としては、ずっとそこで働いていたかったけど、どうもいづらくなった。誰かが妨害しているんではないか、と言った。社長は「考え過ぎだろう」と言って笑い、それ以上追求しなかった。助かった。
 30分ほど話した頃、社長は「採用します」と言った。給与は32万円、手当が3万円で合計35万円だった。あとはいつから出勤するかの話になった。私は二週間後の2月5日からということにした。

 私には原稿作成の仕事があった。それには時間がいくらあっても足りなかった。一日でも、一時間でも時間がほしかった。それに、「はい採用します」、「明日から出ます」と言って働きだし、一週間か、そこらでやめるようになってしまうのは嫌だった。二週間もあれば、うじ虫はやるべきことをやり、会社の態度も大体決まるだろう。それで先へ延ばした。雇用保険の給付日数をわずか五日残しただけだった。
 出勤日の前日の2月4日、会社に電話してみた。採用取消しの可能性は十分考えられた。
「何も問題がなければ、明日から出勤させていただきますけど」
 そう言うと、相手は暖みのない声で、
「問題はありません。8時半からですから」と答えた。

 出勤して、ふと目についたメモから、私が出勤し始めるまでの間に、私を設計課所属にするのか、現場の所属にするのかが話し合われたことを知った。
 働き始めて何日かした頃、事務所で社長が、みんなに聞こえるように私のことを、
「あまり頼りにはならんと思うけどね」
 と、いとも軽く、さらりと言うのを二度聞いた。しかし私は何とも感じなかった。

 この社長はまだ若く(四十歳前後?)、かなり柔軟性のある人間で、私がこれまでに見てきた人間の中では、まともなほうであった。しかし、もともとこの程度の人間が、うじ虫のもとで持つとはとうてい考えられなかった。だから彼がどんなことを言っても、どんなことをやっても、それはただ、起こるべきことが起きただけのことだった。

 私と前後して、私のほかに三人の新人が入社した。その歓迎会が行なわれた。新人が一人ずつ挨拶させられた。最初に挨拶したのは、私より少しまえに入社した男性で、年令は私より上だった。独身だという。彼は挨拶で、車庫付の自宅を持っていて悠々と暮らしているといったことを話していた。次が私の番だった。
「出身は岩手県。釜石製鉄所に十年いたけど、そこを上司にいじめられてやめて‥‥」
 ここで会場から笑いが起こった。しかし、その笑いは私の期待していた明るいものではなかった。それで調子が少し狂った。笑いが納まるのを待って続けた。
「それから家を追い出され、それからはもう各地を転々として、就職も思うようにできず、この会社は23社目です‥‥、特殊な理由があって‥‥、それで生活が安定しないもんで、四畳半一部屋借りて細々やっています」
 この歓迎会の中ほど、そろそろ席がくずれてきたとき、私は社長のところへ行ってビールを注ごうとした。すると社長は、さっと自分でビールのびんを取り、少し離れた私の席から私のグラスを取り寄せ、私に注いだ。次に私が彼に注いでやろうとすると、社長は私に注いだそのびんを、さっと自分のグラスへ持っていって自分で注いだ。私ははっとした。社長のその行為の中に、私に対する彼の感情をかいま見ることができた。
「私のことでどこからか何か言ってきませんでしたか」
 私はたずねた。
「どこからも来ていない、警察からも何も言って来てないよ」
 私は『おや?』と思った。これまで私はこの社長に、警察のことなど一言も話したことはなかった。
「警察よりも上の組織が動いていますからね」
 そう言って私は笑った。
 しかし、もしかすると、うじ虫のほかに、警察も来たのではないか? 警察はうじ虫とは反対の力で。

 この社長は、まるで幼稚園の子供がやるような嫌がらせをして私を唖然とさせることが度々あった。例えば、他の設計課員全員(三人)に、小さいおもちゃのようなテンプレート(図形定規)を買い与えるとき、私を完全に無視してやる。それは、みんながその定規を必要とするから買い与えたのではなく、ただ、私一人をないがしろにするという、幼稚な快感を味わうためにやったことだった。また、設計課の打合せ会議だといって、私一人を残して他の者たちを集めてみたり、週一回(月曜日の朝)の全体の朝礼で、「うちの設計は三人だ」と言ったりした。しかしこの社長、私と話すときは猫なで声だった。
 一方、川田(仮名)という60歳過ぎの設計課長は、たちまちガキみたいになっていった。この課長と社長の二人にうじ虫の力が働いているのを感じた。
 やがて、うじ虫にとって、私に打撃を与えるためには、なくてはならないボーナスの時期がやってきた。しかし私にとってそんなことは、蚊が刺しもせずに、耳元を飛び過ぎただけのことでしかなかった。だが、社長にしてみれば、絶大な打撃を私に与えたつもりだったろう。数日後、私が作業していると、
「沢舘さん、元気?」
 奇妙な表情を浮かべて電気の作業室へ入って来た。
「ええ」
 そう返事をしたきり、私は社長を無視して作業を続けた。
 ボーナス近くになったとき、機械屋の一人が私に言った。「ぼくが入社したとき、まだ半年未満だったけど、ボーナスを50万円ほどもらった」と。私はちょうど半年だったが、15万円だった。
 私は自分の工具箱に「たよりにならない電気屋沢舘君専用」と書き入れた。


 私はこれまで他社で、会社から不当な扱いをされると、それに対抗して、まわりの身近な人たちに資料を配り、会社の不当性を証明しようとした。しかしこの
DBL技研では、どんなことをされても、そんなことはすまいと思った。
 以前P.セイコーにいた頃、私が会社をやめないで、社長のばかおどりをどこまでもエスカレートさせていたなら、しまいには、ばかおどりをしている社長自身が恥かしくなり、会社に出て来られなくさせるだけの力を、私は自分の内部に感じていた。
 
DBL技研でそれを実行してみようと思った。どんなことをされても仕事はちゃんとし、解雇されるまでは、自分からは決してやめない。そして社長を刺激することはあっても、そのばかおどりを押えるようなことは決してしない。

 

              二 節

 平成4年(1992年)

  8月31日 月曜日

 二時間残業をし、9時頃帰宅した。鍵穴に鍵が入らない。ふと、上方の、もう一つの錠を見たら、それは取付け金具ごと、バールのようなもので引っこ抜かれていた。ドアのノブを引くとドアは開いた。『またか!』と思った。
 部屋の中に入ってながめまわしたところ、前回と同様、荒らされてもいないし、盗まれたものもない。原稿もそのままだ。金庫の中も異常ない。うじ虫どものただの嫌がらせか? それとも原稿の中身を見て行ったのか? あるいは盗聴器をどこかへ取り付けて行ったのか? 冷蔵庫の中を見た。別に変ったところはなかった。しかし、食料と調味料は捨てるしかなかった。前日の日曜日、一週間分の食料を買いだめしたばかりだった。それに、前日、川内がつくってくれたカレーその他を捨てるときは心が痛んだ。

 私はドアにマイクロスイッチを取り付け、ドアを開けると、そのスイッチが作動し、カウンタの数字を加算させる装置を自分で作って取り付けていた。カウンタはリセット機構のないものであった。また、元の数字に戻そうとしてマイクロスイッチをカチャカチャ動かしても、それは受け付けないように電子回路を組んでおいた。またその回路は充電式の電池で動くようにしてあったので、部屋の外で電源を切ってからドアを開けても動作するようになっていた。
 そのカウンタの数字が、朝出るときは
10842だった。それが10847に変化していた。私が帰ってきて開ければ、10843になるはずであった。うじ虫は少なくとも4回はドアを開閉したことになる。
 ドアの錠をもう一度調べた。鍵穴に鍵が入らないのは、錠が合鍵で開けられたのではなく、バールでむりやりこじ開けられ、錠が破壊されていたためだった。
 夜9時を過ぎていた。月曜日で近くの銭湯は休みだった。遠くの銭湯まで行かなくてはならない。そこは10時までであった。ぐずぐずしていられなかった。ちょうどその銭湯の前に交番があるので、風呂へ行ったついでに届け出ようと思った。
 自転車で出かけた。風呂に入るまえに交番に寄った。若い警官が独りでいた。状況を説明したが、盗まれたものがないなら、どうでもいいではないか、といった調子だった。それでも、奥の部屋へ入って行って誰かに相談していた。やがて利口そうな若い警官が出て来て、現場を見に行こうと言った。私はこれから風呂に行くと言うと、彼は笑って、では帰りに寄れという。風呂から上がって寄ると、自転車で来ているのなら、先に帰っていろという。私は急いで帰って部屋を片づけた。警官は、あまり動かさないようにと注意したが、みっともないほど散らかっていた。風呂上がりなので、汗がたらたら流れた。

 しばらくして警官がパトカーでやってきた。二人の警官が上がって来た。利口そうな警官が部屋の中に入り、内部をながめまわし、そしてたずねた。
「このようなことをされる心当たりはある?」
「国ですよ」
 私は答えた。この一言で彼の表情がこわばった。
 いろいろ話しているうちに和らいできた。そして、「被害届を出すか?」と聞いた。そう聞いたときの彼の表情から、『出されるとやっかいだな』といった心が読めた。私は出すと答えた。少し話していて、彼はまた「被害届を出すか」と念を押した。
 私は届けを出したところで、犯人が捕まらないことは知っていた。もし犯人がわかったとしても、警察にはどうにもできないこともわかっていた。そこで私は、
「とにかく、私のところの鍵が、今日、壊されたという記録が残ればいい」
 と答えた。すると彼は、
引継ぎということにしても、ずっと記録は残る」
 そう言い、それでいいか、と念を押した。私は何かごまかされているような感じを受けたが、それでもいいと答えた。私は彼に最高裁の判決のコピーを一部渡した。

 ふとこの日、会社を出るとき、社長と工場長が意味ありげに私を見ていたのが思い出された。もしかすると彼らは、私の部屋の錠が壊されていることをすでに知っていたのでないのか。
 翌日、9月1日は会社を休んだ。新しい錠を買ってきて取り替えた。4,000円もした。以前、付いていたものとは形が違うので、ドアの内部をノミでかなり彫り込まなければならなかった。
 その翌日、会社へ出、前日の欠勤届を出した。欠勤事由には、「ドアの錠を(うじ虫どもに)壊され、その取替作業のため」と書いた。それを、課長の机の上に置いた。課長は席を離れて居なかった。後でその届けは社長まで行ったと思うが、社長は何も言わなかった。
 次の日、やっと社長がそのことにふれた。私の後方の社長席から彼は言った。
「沢舘さん、これはどういうこと? うじ虫がどうのこうのというのは?」
「そこに書いてあるとおりですよ」
 私は振り返りながら言った。
「なに、鍵穴に虫がいっぱい詰まっていたの?」
 私はむっとなった。
「人のかたちをしたうじ虫ですよ」
 低い声で答えた。社長はそれきり何も言わなかった。

 数日後、社長は私を応接室へ呼び、そこで私をこき下ろした。これまで私がやった仕事はすべて時間がかかり過ぎだと言った。
 さらに社長は私の転職の多さにまで言及した。私は反論した。
「それは、うじ虫が陰でばかおどりしているからですよ!」
「うじ虫って何? このまえも、鍵をうじ虫にどうかされたとか‥‥」
 私はかっとなった。
「社長、どこからも私のことで何も言ってきていないと言うけど、社長にはそのうじ虫の力がかなり働いているのを私は感じていますよ!」
 私は社長が怒るのではないかと思った。しかし社長は怒りもせず、また、私の言うことを否定することもしなかった。

 社長は私をないがしろにしながらも、私が必要なものを申し出ると、たいてい買ってくれた。たぶん、私がいなくなっても、自社で電気をやっていこうという考えがあったからであろう。
 これまで私は、小さな会社を転々とする中で、シーケンサへのプログラム書込みには、小さなハンディタイプのプログラミングコンソール、あるいは
GPC程度のものしか使ったことがなく、回路そのものを画面で見られる大型、多機能のGPPPHPまたはFITなど、ほとんど使ったことがなかった。だからフロッピーディスクの利用方法もわからなかった。
 
DBL技研で私はこれらを購入してもらい、学習し、使いこなせるようになった。三菱のA6PHP、それに私が入社してまもなく発売されたオムロンのFIT20、さらにプリンタなど。購入価格で150万円ほどになったろう。これらを駆使して自動機のプログラムを作成できるようになった。これは私にとって大きな収穫であった。
 大きな仕事もいくつかやった。それらを客先に納め、正当に評価され、社内にも正常な空気が流れようとする。だが、社長がすぐに私の仕事をこき下ろし、その正常な空気を追い払う。この繰り返しであった。
 社長にとり、私をこき下ろす手間をはぶくには、私に仕事をさせないことが一番であった。そのうち、この社長が私に電気の仕事をさせず、機械の組立作業を手伝わせようと考えているのを私は感じとった。社長がその考えを実行に移したときのために、私は申入書を作成しておいた。

 

  DBL技研株式会社
       代表取締役 社 長  殿

          作成 1992年 7月 9日
          提出 1992年 月 日
           電気担当 沢 舘 衛

    残業について

 私、残業するほど暇ではありませんので、電気以外の手伝いの作業に関しては、残業を拒否します。
                           以上

 

 私は社長の心をすでに読み取っていたことを証明したかったので、作成年月日まで入れておいた。でもこの申入書は、この年には使わずに済んだ。

 平成4年の秋から冬にかけて、日立、横浜工場(戸塚)の大きな仕事を与えられた。テレビのブラウン管の調整ラインであった。打合せのため、横浜工場を訪ねてみると、以前、私が関東電子精機で働いていた頃、出入りしたことのある職場であった。そのとき、千葉氏に連れられて事務室へ行き、何人かに紹介されたので、まだ私のことを知っている人がいるかもしれないと思った。

 電気は、設計から配線まで私一人でやることになった。ハードの設計が終り、必要な機材を注文し、そのまえに手がけた他社向けの仕事の細かいめんどうをみたりしているうちに、日にちがどんどん過ぎ、制御盤を製作したり、機内配線をしていると、プログラムを設計する時間がなくなることがわかった。それでプログラム設計以外は外注に出すことにした。
 その後も、細々した他の作業や調べものに追われていた。電気屋が一人しかいないこの会社では、電気のわからないことは全部私に持ってこられた。そのたびに資料やカタログを調べ、回答しなければならなかった。こうして、プログラム設計にあてられる日数は一週間を残すだけになった。さっそく設計にとりかかった。しかし、どうみても一週間ではできそうもなかった。少なくとも十日間は必要だ。私はこのことを会社に申し出た。しかし、客先への納期から逆算して、一週間しかあてられないという。そうなるとこれは、一週間で設計できる能力のある人に頼むしかなかった。そこで社長は、プログラムの設計にかけては神様のように思っている、他社のK氏に頼むことにした。すぐに来てもらった。私はK氏とは初対面であった。その夜、11時頃までかかって装置の動きと、制御方法を説明した。

 この仕事に関して、私の面目は丸つぶれであった。しかし一生懸命やっても、それしかできなかったのだから、いたしかたない。
 K氏がやっても一週間では完全なものができなかった。日立へ納めた後の不具合は、私が何度も日立へ足を運び、プログラムを訂正した。K氏のプログラムは応用命令をふんだんに使ったもので、最初面食らったが、落ち着いて見ていくと理解できた。彼のプログラムを理解し、訂正する作業は、私にとって大変よい勉強になった。しかし、基本となるべきラダー回路には感心できない部分があった。もしかしてK氏は、ラダー回路が不得意で、応用命令に走ったのではないかとさえ思った。

 日立(戸塚)へ出かける日、私は綾瀬市にあるDBL技研には出社せず、日立へ直行した。大船、戸塚は一駅区間であった。夜かなり遅くまでやることもあった。一度、深夜の2時までやったこともあった。そんなとき私は川内のところに泊めてもらった。彼女の住まいは日立の近くだった。

 社長は初めのうち、表面には出ず、私に気づかれないように陰でのみおどっていたが、その体勢が崩れてくると、そろそろ自分が表面に出て、私に向かって歯をむくようになった。私を呼び捨てにし、打合せの席上で私をやっつけるために、まくしたてることもあった。
 一方、私が入社してまもなく、たちまちガキのようになっていった設計課長は、社長とは反比例して静かになっていった。彼は技術屋であり、私のやる仕事を見ていて、私の技術を認めているようであった。うじ虫は、私がどんなことをやっても、決してプラス側には取らないのであるが、課長は、私がちゃんとした仕事をしたときは、それをちゃんと評価し、正常に戻りかけることがあった。このようなことから見て、課長に働いていたのは、うじ虫ではなく、社長のようであった。

 平成4年も12月に入り、4日にボーナスが支給された。社長はみんなを食堂に集め、渡すまえに、例年は二か月分くらい出せたけど、今年は不景気で、そんなには出せなかったと説明した。そして社長は何かを恐れるように、「受け取ったらすぐ解散にする」と言った。私は受け取ったらすぐ、みんなの前で開けてみるつもりでいた。しかし私に渡されたのは、最後のほうだった。私が自分の席に戻って開き終るまえに、社長はみんなを追い立てるように、
「解散!」
 と言った。事務所の出口のところでやっと開き終えた。24万円だった。
「お、20万ももらっちゃった」
 私がそう言うと、私の手元をのぞきこんでいたおやじさんが「うへっ!」と声を上げた。
 ボーナスが支給されたのは、午後の作業が始まるまえだった。この日の午後、私は課長と二人で日立へ出かけることになっていた。私はボーナスの明細書の余白に、赤いボールペンで、
「おら たいした たまげだ」
 と書き込み、自分のロッカーの扉にビニールテープでとめてから出た 作業が夜まで続いたばあい、会社に戻らなくてもいいように、着替えの服を持って出かけた。

 翌朝、出勤すると、ロッカーの扉の明細書はなくなっていた。ロッカー室の上の電気作業室へ行ってみたら、その明細書が机の上に置いてあった。誰が持って来たのだろう? 私はそれを机の脇の棚の側面に貼っておいた。
 私にこのようなことをされ、社長はもしかすると、理性を失った行為にでるかもしれないと私は考えた。この日、私は作業衣のポケットにナイフを入れておいた。
 ボーナスの後、私をやっつけたはずの社長のほうが小さくなっていた。

 日立の仕事の後には、私には何の仕事の話もなかった。いくつか大きな仕事があったようだが、すべて外注に出され、材料の注文も、外注の電気屋と社長とでやっていた。日立の仕事での私の失態が、日頃から私に電気の仕事をさせたくなかった社長には、絶好の口実になったろう。私から電気の仕事を取り上げ、現場の機械組立作業を手伝わせるつもりであろう。

 この会社には、社長の弟で、工場長だという若い男がいた。彼はかなり社長の影響を受けているようだった。
 入社してまもない頃から、電気の作業室の中にある電話機のマイク機能がオンになっていることが時々あった。初めのうちは、誰かがこの部屋からマイクで誰かを呼び出し、そのまま、マイクをオフにするのを忘れたのだろうと思った。しかしその後もよくそんなことがあるので、ふと誰かのいたずらではないか、と考えた。私が電話で話すことが会社中に流れるように。こんなことをしたのは社長だろうと思った。ところがその後、社長が出社していないときにもそういうことが何度かあり、工場長か? と疑うようになった。しかし、いたずらする現場を見たわけではないし、もしかしてこれは電話機の故障で、何かのはずみでひとりでマイクがオンになったのかもしれない。私はオンになっているのに気がついたときはオフにしていた。
 12月25日の朝、またマイクがオンになっていた。私は白いビニールテープに、
「せこい いたずら やめなさい」
 と書いて電話機の前に貼って、マイクはオンになったままにしておいた。
 午後、社長に電話だという構内放送があった。その後、誰か電気作業室への階段を上って来る音がした。おそらくこの作業室の近くにいた社長が、この部屋の電話に出るために上って来たのだろう。私はドアに背を向けて仕事をしていた。私は振り向かなかった。
「お?」という社長の声が後ろでした。マイクがオンになっているのに気がついたのだろう。電話機の前には、「せこい いたずら やめなさい」と書かれたテープが貼ってあり、電話機の横には、「おら たいした たまげだ」と書き込まれたボーナスの明細書が貼ってあった。社長は力ない返事を電話に向かってしていたが、そそくさと部屋を出て行った。私はくすぐったくなった。

 翌日の12月26日、土曜日は仕事納めで、大掃除があった。朝、通常の作業をしていると工場長がやって来て、私の掃除範囲を指示した。この電気作業室とロッカー室、それに工場の外回りを一人でやれという。そのかわり、朝から清掃にかかっていいという。
 清掃は3時には終った。その後、私は電気作業室で細かい材料の整理をしていた。すると工場長がやって来て言った。
「ロッカー室を掃除してください」
「終った」私は答えた。
「どこを掃除したの?」
「‥‥」
「外も掃除して」
「外も終った」
「あれで終ったの? まだごみが落ちているよ」
「あと何を拾います?」
「じゃ、いい! ぼくが見て歩いて、これとこれと言うから!」

 20年間、独りで炊事、洗濯、掃除をやってきて、今になって若い者から、掃除の仕方が悪いと文句を言われるのは、片腹痛かった。
 材料を整理している私を見て彼は言った。
「いま何しているの? それは仕事をしているの?」
 さらに彼は、私が外で拾い集めたごみを、どうして工場の中へ入れた、と言って私を責めた。この工場では、ごみを作業場の片隅、シャッターのわきに集めて置いて、時々、車でどこかへ運んでいた。私は外で拾い集めたごみを段ボール箱に入れ、その場所に置いた。
 がみがみ言っている工場長の顔を見ると、彼は社長と同じ表情を浮かべていた。『みにくい!』と思った。
「でも、あのごみをいつも置く場所に置かないで、外に置いたままにしたら、今度は、どうしてごみをいつも置く場所に置かないで、外に置きっ放しにした、と言いますよ。そう言われますよ」
 彼は言葉につまり、そのことについてそれ以上言わなかった。そして、言いつけた場所の清掃が終ったなら、あそこもしろ、ここもしろと言って、さらに二か所、掃除区域を指示して出て行った。

 

              三 節

 平成5年(1993年)

 平成5年の年が明けた。
 会社は5日から仕事であったが、私はその日休んだ。スキーに行っていた。スキーへは年末年始にかけて行きたかったが、宿がとれず、年が明けて、2日の日から三泊四日で出かけた。
 ちょうどよかった。この会社での、年の初めの挨拶など、まっぴらごめんだった。6日の日、出勤したが、新年の挨拶など誰にもしなかった。昼近く、注文書をファックスしに事務所へ行った。社長はいなかった。工場長と事務員がいたが、私は彼らを完全に無視し、用件を済ませて出た。

 1月11日(月曜日)の午前、作業していると、内線電話が鳴った。
「ちょっと事務所へ来てくれますか」
 社長だった。応接室で社長と向かい合ってソファに腰を下ろした。背の低い社長は背筋をピンと伸ばし、あごを引いて後ろへそり返り、目をいくぶん細め、少しでも上から私を見下ろすようにして口をきった。
 これまで沢舘に電気の仕事をやってもらってきたけど、一人でやれる仕事の量は知れている。だからもう、電気係はなくす。
 このとき私は、解雇されるのかな、と考えた。しかしそうではなかった。私を現場の機械組立の所属にするというのだった。
 それから社長は私をこき下ろし始めた。日立の仕事にしても自分でやると言っておきながら、どたん場になって、できないと言って放り出した、などと。
 このとき社長に電話だといって、彼は応接室から出て行った。それまで早鐘のようだった私の心臓もおさまり、私はソファにふんぞり返り、足を高々と組んで社長を待った。このままの姿勢で話をしようと思った。
 帰って来た社長は、今度は、最近どうして残業をしない、と言って私を責めた。
 日立の仕事が終った後、社長は電気の仕事を外注に出し、外注でやりきれない部分を私が手伝うかたちになっていた。残業をしなくても期日に十分まにあうので残業しなかっただけのことである。
「忙しければ、おれやったじゃねぇか! 深夜までやったこともあるじゃねぇかよう!」
 私は怒鳴り返した。思わず社長は、そういう私を非難した。
「ねぇかよう?‥‥ねぇかよう? 誰に向かって言っているの? なに、その姿勢は?」
 だが、うじ虫に狂わされた人間は、私から見ると、うじ虫同然であった。
「社長には、もう何を言っても無駄ですね」
 私は静かに言った。社長は軽くうなずいた。
「社長の好きなように、気の済むようにしてください。‥‥社長、おれに電気の仕事をやらせたくないんです。はじめ、おれのことをたよりにならないと言いふらしたんで、おれにちゃんとした仕事をされたんでは、めんつが立たないんです」
「めんつが立たない? 誰に対してめんつが立たないの?」
 社長はいかにも、それは違うよ、というように言った。本当のところは、社長はいつまでも私を無能力者だと思い込みたかったのだろう。
 話していて社長は、ふいに次のように言った。
「たとえば、沢舘電気なら沢舘電気という会社を作って、自分でやったらいいじゃないか!」
 私は笑って答えた。
「いや、そんなことをしたって客が全然来ませんよ。すぐにつぶされますよ。なにしろうじ虫が動いているんですから」
「うじ虫って何?」
「社長がよく知っているでしょう。うじ虫というのは日本国ですよ。そのうじ虫をいつかはやっつけたい。生きているうちにやっつけてやりたいんだけど」
 私が、うじ虫、うじ虫という言葉を使っていると、社長が私にたずねた。
「そういうあんたは何なの?」
「おれ? おれは人間です。うじ虫じゃないですよ」
「それから給与のことだけどね」
 社長は言いかけた。私はすぐに、
「現場の所属にして、おれの給与を下げようというのでしょう? 社長の心、それくらい読めますよ」
 そう言って私は、高く組んだ左の足越しに社長を見まもった。社長は言葉につまり、しばらく無言だった。やがて口を開いた。
「いや、しばらく組立の仕事をやってもらってから考える。あまり仕事ができないようだったら、4月の昇給のとき、どうにかする。今すぐということではない」
「まあ、社長の好きなように‥‥、うじ虫に狂わされた人間には、何を言っても、どんなに立派な仕事をやってみせても無駄なのを知っていますから」
 不思議なことに、社長はこのとき少しも怒らなかった。少しでもプライドのある人間なら怒るはずなのに。それとも社長は、うじ虫を神聖視しているのか?
「おれ、どんなことをされても、びくともしませんよ」
 私は低い声で言った。応接室を出るとき、私は社長に、
「どうも、ごくろうさま!」
 吐き捨てるように言い、私のすぐ後から社長も出てくるのを知りながら、ドアを後ろへ押しやった。『社長のばかおどりも、そろそろ完成されてきたな』と感じた。
 どっちみち私はこれから忙しくなり、休むことも多くなるだろう。責任のある仕事から外されたことは喜ばねばならない。

 上記のことがあった翌日の平成5年1月12日、やっとここまでの原稿を書き終えた。原稿は会社での昼休み時間はもとより、通勤の揺れる電車やバスの中でも書き続けた。

 

              四 節

 平成5年(1993年)

 私が現場へ下ろされたことを、社員のある者は哀れんでいるようだった。しかし私はいつもと変りなく明るくやっていた。社長はこれまで、今度こそ私がやめるだろう、今度こそやめるだろうと、さまざまなことを私に対してやってきた。しかし私はそれらを屁とも思わないでやってきた。そんな社長に残された道は、社長が会社へ出て来るのをやめるか、あるいは私を解雇するかのどちらかだけだった。
 定期券は1月20日で切れる。あと一か月分、購入していいものかどうか迷った。私はこのことを現場の一人の男に話した。
「あと一か月はクビになりそうがないから、定期券を買おうかな」
 この男に話したことは、社長に筒抜けであることを知っていた。社長は、クビにしないかぎり、私が自分からやめる気がないことをわかったろう。それならクビにするしかない。いつクビにするか? 早いほうがいい。あと一か月は持つだろうと考えた直後に解雇するのが効果的である。
 1月22日の午後、社長に呼ばれて応接室へ行った。テーブルの上に書類が乗っていた。社長が入って来るまえに、私はその書類を開いて見た。解雇通知書だった。社長は設計課長を連れて入って来た。

 

     通 告
             平成5年1月22日

  沢舘 衛 殿

 当社において、電気セクションの廃止に伴い、1月23日より解雇する。
 尚、労働基準法の規定により、平均賃金(11、12、1月給与総額/92日)の30日分を予告手当として、下記項目を確認した上で支給(2月26日振込)する。
 1月21日、20日の二日分も上記計算により支給(1月28日振込)する。
 身分としては、1月22日を以て
DBL技研(株)を退職したものとする。したがって出来得る限り早く、会社より貸与された物品(健康保険証、作業服、帽子、名刺、就業規則、技術資料等)を返還するものとする。
                         以上
               
DBL技研株式会社

 

 明日から出て来なくていいということだ。私は顔色も変えずに言った。
「こんなことになることは、もうわかっていましたよ」
「お互いに立場も苦しいので‥‥」
 社長は言いにくそうに言った。
「おれは少しも苦しくねぇよ」
「残念だけど‥‥」
「本当に残念ですね。自分で言うのもなんだけど、立派な技術者を‥‥」
 社長との話は簡単に終った。社長のわきに黙って座っていた課長に私は、
「課長! 何か一言!」
 と言った。課長は困ったように、ぶつぶつ口を動かしていた。
「ごくろうさまでした」
 社長はやや人間らしい調子で言った。
「どういたしまして」
 私は軽い調子で答え、応接室を出た。

 

 それにしても、この急な解雇は何によるものか? 社長の立場が苦しいものになっていたことはわかるが‥‥。
 朝の通勤電車で、よく私と同じところに乗る、20歳前後と思われる女性が私に心をひかれているのを感じていた。私も彼女の人間に本物を感じ、電車に乗ると彼女の存在が気になるようになっていた。うじ虫がこれを見逃すはずはない。
 彼女のほかにも、私に心を寄せている女性がもう一人(または二人)いた。だから私が特定の一人に近づくと、他の女性を傷つけることになる。どうしようと思っていたところであった。だから解雇は、彼女に会えなくなるという心残りはあったが、同時にほっとした。
 解雇通知書には、「電気セクションの廃止に伴い」解雇するとあるが、解雇された後、人材銀行へ行き、求人カードを見ていると、
DBL技研は、私を解雇する一か月近くまえの12月25日、電気技術者を募集する手続きをとっていた。

 失業してまもなく、映画「マルコムX」を見た。マルコムの不屈の精神に感銘を受けた。
 この映画から二年ほどして、「マルコムX自伝」(浜本武雄訳、発行所 アップリンク、発売元 河出書房新社)を読んだ。その中でマルコムは、彼自身に備わっていた、ある特殊な感覚を「心のレーダー」という言葉で表現していた。
 マルコムは、彼に対してねたみをいだいていた者たちと、それを利用した権力によって殺されたのだ。

 

 


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