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川内が住んでいた公団住宅が1994年(平成6年)に高層住宅に建て替えされた。それを機に私はその新しい住宅に彼女と一緒に住むことになった。家賃は月10万円ほどだった。
彼女が世帯主で、私は同居人というかたちだった。籍は入れていない。彼女は働いている間は姓を変えたくないと言った。私も「機関」とのたたかいがもつれたとき、彼女にまでわざわいが及ぶことを恐れた。
2002年6月、父が死んだという電報があった。私は帰らなかった。連絡もしなかった。
後になって知ったが、川内がこの時「御仏前」を私に内緒で送っていた。
数ヵ月後の9月、母の容態が良くないという手紙が姉からあった。会いに来ないかという。私は、母が私に会いたいというのなら帰る、と伝えた。「会いたいようだ」という返事があった。
私は帰った。病室のベッドに横たわっている母を見て私はびっくりした。それが母だと言われなければ分からないほど容貌が変わっていた。痩せたうえに、入れ歯を外していたので顔が小さく見えた。
意思の疎通は出来なかった。スモン病で寝たきりの母の体の関節は動かなくなっていた。私は母の耳元で私の名前を大きな声で言った。母はじっと私を見つめた。しかし表情に変化は見えなかった。感情を表情に表す力も無いようであった。それから母は周りを目だけを動かして眺め回した。誰かを探しているような、あるいはこのことを誰かに確認しようとするかのように。
どうせ会うのなら、もっと前、意思の疎通が出来るうちに会いたかった。
いなかに帰ったのは、前回、秋祭りに帰ってから19年ぶりであった。町はすっかり変わっていた。よその町みたい。むかし会っていたろう人たちもすっかり変わり、分からなかった。彼らも私に注意を払わなかった。むかしのように便壺の中を歩き回るような思いはしなかった。
私がいなかの駅に着いたとき、姉が迎えに来ていた。声をかけられなければそれが姉だと判別出来なかったろう。姉も私がこの列車で来ることを知っていなければ、見過ごしたろうと言った。
姉の家へ行った。義兄に会った。びっくりした。彼はすっかり痩せ、声にも張りがなかった。難病にかかっているという。
翌日、弟が花巻からやって来た。弟と会うのは27年ぶりだった。こちらもすっかり変わっていた。
私が家を出されてから、ずっと気になっていたことを姉に尋ねた。私の生家に置いたままになっている、私がむかし描いた絵はどうなっているかと。
すべて捨てられ、何一つ残っていなかった。それを知ったとき、私はもうそのことについては何も考えまいと思った。
ただどうしても悔やまれてならないことがあった。通信教育の実技課題で人物デッサンを課せられ、田口さんと佐々木さんにモデルになってもらったことがあった。彼女らはそのデッサンを欲しいと言った。私はそのうち彼女らにそれをあげようと思った。それは彼女らにとって、写真からは得られない価値あるものだった。描きあげたとき、すぐにあげておけばよかった。
母の死後、姉や弟と便りを交わすようになった。
姉が言った。このような状況は川内と義兄の努力によるものだと。川内が私のいなかに金を送ったりして糸口をつくり、義兄は私を母に会わせることを望んだという。
その義兄も昨年(2004年)10月に亡くなった。
私は60歳になったとき、年金をもらえるようになった。しかしこれまでの人生の三分の一ほどの期間を失業し、厚生年金を納めた期間も額も少なかった。私が受け取る額は通常の人の半分ほどである。月12万円。これでは生活できない。そのため働くと、年金は数万円に減額された。
家賃10万円をずっと払い続けても、後に何も残らない。小さくても自分の家を持つべきだとずっと考えていた。しかし、「機関」の妨害が入り、まともな家は出来ないだろうと考えた。「機関」のばかげた工作が通用できなくなるところまで作業を続ける必要があった。
「うじ虫のよろこび」を発行して配り、インターネットにも公開した。この本は、総理大臣(橋本総理)、警察、人権擁護機関、いくつかの法律事務所、および各テレビ局あてに送られた。
どこからも何の反応も無かった。
(2006.8.25 追加更新)
しかし、一つのテレビ局が興味ある異色の番組を放映した。それは現場からの生中継のかたちだった。一人の青年(容疑者)の行動がリアルタイムで報道されていた。「今、少女を部屋に監禁しました!」といった具合に。
青年の純粋で無垢な心から出た行動全てが、全く正反対の恐ろしい行為として報道されていた。それを見て私は『おれと同じ目にあっている』と思った。
どうしてこんな番組を流すのだろうと不思議に感じた。ふと、これは私がテレビ局に送ったあの本がもとになっているのではないかと思った。テレビ局が私の問題を正面から取り上げることが出来ず、このようなかたちで報道したのではないか。
2004年初めから、そろそろ家を持つことを真剣に考えた。もちろん私一人にそんな大金はなかった。安定して働けなかったし、退職金などどこからももらえなかった。貧しい暮らしをしながら少しずつ金を貯めた。
川内も同様に貧しい暮らしをしながらこつこつ貯めていた。
二人で半分ずつ金を出しあって、どこか、引っ込んだところに家を造ろうということになった。私は手持ちの金が少なかった。しかし幸いなことに、私は帰る気になれないいなかに70坪の土地を持っていた。その土地を売り、やっと彼女と同額を用意できた。
津久井のいなかに比較的安い土地を見つけ、小さな家を建てた。「機関」の介入は当然あったろうが予想したほどひどい状態にはならなかった。しかし、数年住んでみて、いい加減さが見えてきた。
当初、第三者の建築士に依頼し、設計段階からチェックしてもらおうかとも考えた。しかし「機関」はその建築士をも放っておかないだろうと考えた。
2004年秋、家が完成して11月半ば引越した。
川内はそれまで横浜で働いていた。津久井へ引越したら、今得ている給料と同じほどもらえるところはないだろうといって横浜に残って働いている。家賃の高い公団住宅を出、ワンルームマンションに移り住んだ。新築した家に引越せず、安いマンションに入るとき、「金さえあればねぇ」と彼女が寂しそうにつぶやいた。
私は彼女をかわいそうに思った。しかし私の力ではどうすることも出来なかった。
彼女は月数回、新築の家に来てすごしていく。
私たちが子供がいないのに、こんな「大きな」家を造ったことを不思議がる人がいる。
しかし、私はみすぼらしい四畳半暮らしを転々としてきた。いつかは人並みな暮らしがしたいと切望していた。高層の公団住宅に入ってやっと息がつけた。だが庭は無かった。川内が芝生を直径1メートルほど掘り起こし、花を植えた。
彼女が芝生の侵入を必死に食い止め、しゃがんで土をいじっているのを、私は4階のベランダからよく見下ろした。いつかは庭のある家を持ち、堂々と耕し、花や野菜をつくりたいものだと夢見た。彼女のためにも、私のためにも。
新築した家を譲る子供がいようがいまいが、その夢の実現は切実なものであった。その家で暮らせる時間や年数はその次の問題であった。
むかし私が描いた油絵で、新築の家を飾りたかった。
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