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NEW!「中国夢回廊」 「道の駅 旅案内 中国版」に連載中 季刊 新着順
       
中国・四国地方の道の駅、サービスエリア等で配布中 発行部数十数万部
       
中国地方の寺社、宗教文化を中心に紹介します。『こころの回廊』の新版。
 
「中国夢回廊」は44回(2024年春号)から写真と地図入り記事の原版閲覧ができます。
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中国夢回廊・最新記事



中国夢回廊44  鶴山八幡宮(津山市) 2024年春号

 「鶴山八幡宮」の名は「鶴岡八幡宮」とよく似ている。「岡」と「山」を並べると「岡山」になるが、岡山県の人なら鶴山八幡宮の名がわかるだろう。ただし全国的には鎌倉の鶴岡八幡宮の方が圧倒的に有名だろう。

 源頼朝は鶴岡八幡宮を基点にして鎌倉の街を築き、鎌倉幕府滅亡後も鎌倉の街は鶴岡八幡宮の門前町のようにして残っている。源氏の守護神、さらに武家の守護神としての八幡神の本格的な全国展開はここから始まったと言えるだろう。

 会社の創業者なら会社を大きくして全国展開し各地に支社を持ちたいという願望をもつかもしれない。神社界も似たようなところがあり、本社がありそこから全国展開することがある。ただし会社の創業者のようにはじめからそのような意図があったかどうかというとそれは「神のみぞ知る」であってわからない。八幡神は全国展開に最もよく成功した例の一つだろう。

 会社の場合はどこに支社を置くかその配置は発展の鍵になるだろう。神社、あるいは寺院の場合はどうかというとその配置に大きく関係するものの一つに方位がある。北東の鬼門除けや反対側の南西の裏鬼門除けはよく知られている。

 京都では鬼門除けが比叡山、裏鬼門除けが石清水八幡宮になる。八幡宮の原点は九州の宇佐八幡宮だが、京の裏鬼門除けとして勧請されたことがその後の全国展開のきっかけになったと言っていいだろう。源義家が石清水八幡宮で元服し八幡太郎義家と名乗ったことが武神としての八幡神を有名にしたと言えるだろう。守護する視点では見通しのきく「岡」や「山」は重要な位置になるはずである。

 「岡山」の「鶴山八幡宮」は津山市にあり、津山の名は津山城のあった「鶴山」に由来すると言われる。現在も津山城は鶴山城とも言われる。鶴山八幡宮はもとはこの鶴山にあったと言われるので守護神としての役目が期待されたのだろう。

 津山城の築城に当たりその位置が変わり、変遷はあったものの現在の位置に落ち着いた。これを地図で見ると津山城の北西に当たる。さらにその線を延長するとこの連載でもとりあげた美作総社宮がある。総社の方が武士の時代になる前の古代律令制国家時代の名残として古いはずである。

 津山城は吉井川が城の南を流れ、東をその支流が流れるのでそれが実質的な堀の役目を果たしたと思われる。北西は「天門」と言われる方角で、京都では北野天満宮がその方角に当たる。鶴山八幡宮も同様の役目を期待されたのだろう。本殿はこの地方に多い中山造りで国の重要文化財である。古代からの美作国の夢を守り続ける社である。

  渡辺郁夫 広島経済大学教授



中国夢回廊43  清水寺(安来市) 2023年秋号

 清水寺の名の寺は全国に多く、「全国清水寺ネットワーク会議」の名簿には八十箇寺以上が登録されているが、まず思い浮かぶのは「清水の舞台」で有名な京都の清水寺だろう。長い清水坂を登ると苦しいながらも功徳を感じるのだろう。

 とは言え、京都の清水寺を見ても大寺院を造るのに適した場所かと言うとおそらくそうではあるまい。「清水の舞台」ができたのも斜面に伽藍を建立しようとした結果として生まれたものだろう。言わば苦肉の策のはずだが、それでかえって有名になるのだから何が幸いするかわからない。

 「清水の舞台」のような造りを懸造(かけづくり)というが、京都の清水寺や奈良の長谷寺が大規模な例になる。山陰ではこの連載にとりあげた鳥取県の三仏寺投入堂や、同じく鳥取県の不動院岩屋堂がある。

 同じく山陰の島根県にも安来市に清水寺がある。こちらには「清水の舞台」があるわけではないのだが、長い坂道の参道を登ってやっとたどりついたところで下から見上げた根本堂は、やはり舞台の上に建っているように見える。その舞台は木造の舞台ではなく、高い石垣で造られた境内地で「清水の石舞台」と言いたくなるほど見応えがある。

 この本堂に当たる根本堂は国の重要文化財で、桁行七間、梁間七間の入母屋造、?葺(こけらぶき)の大伽藍である。室町時代明徳四年(1393年)の建立で、石垣の上に建つので城のようにも見える。仏法を護る法城である。石垣を持つ城は戦国時代16世紀半ば頃からとされるが、清水寺のある安来市には難攻不落の山城として有名な月山富田城があり、合わせて巡るとそう見えるかもしれない。

 城の要素をもっていたかどうかは別にしても山間地に堂を建てるのは観音信仰との関係が考えられる。京都の清水寺や奈良の長谷寺は観音信仰の霊場として有名である。観音は補陀洛山に住むとされた。補陀洛山は南?中にあるとされたのでこの連載でもとりあげた福山市の阿伏兎岬にある磐台寺のように海にも関係する。安来の清水寺の本尊も観音で、京都の清水寺に繋がる要素をもっている。

 京都の清水寺に参詣すると本堂の手前に三重塔があるが、安来の清水寺にも三重塔がある。こちらは江戸時代のものだが、山陰では貴重な三重塔である。全国的には三重塔は天台宗に多く、安来の清水寺も天台宗である。比叡山のお膝元の滋賀県には有名な三重塔が幾つもあり、西明寺のように本堂と三重塔がともに国宝に指定されている寺もある。安来の清水寺は観音に託された大きな夢が地域の枠を越えて広がるのを感じさせてくれる寺である。

 渡辺郁夫
  広島経済大学教授



中国夢回廊42  古熊神社  2023年春号

 山口県で天神信仰と言えばほとんどの人が防府天満宮の名をあげるだろう。菅原道真を祀る天神信仰と天神社は歴史上の人物を神として祀る神道の一つの形として極めて重要である。

 神道は自然崇拝と祖霊崇拝が組み合わさりどちらが先か難しい。例えば天照信仰では太陽を祀る巫女的女性が後に神として祀られる、即ち祀る側も祀られる側になるとすると自然崇拝が先で祖霊崇拝が後になる。ただ両者は一体の天照信仰になり、信仰は時間の壁を越えるので前後関係は信仰上意味がなくなる。

 その後の展開では自然崇拝は新たに増えることはないが、祖霊崇拝は増補され歴史上の人物が神として崇拝される。皇室の場合は言うまでもないが、それ以外を仮に文人と武人に分けると、武人では平安時代に坂上田村麻呂の例があるが基本的には武家政権になる鎌倉時代以降が中心になる。

 文人の例では早くも聖徳太子の時代の遣隋使である小野妹子が一族の出身地とされる大津市で小野妹子神社に祀られる。聖徳太子は観音の化身として仏教での崇拝になるが、小野妹子は神道で祀られている。小野氏は優れた文人を輩出し小野篁や小野道風も神道の祭神として神社に祀られる。

 遣隋使は遣唐使に繋がるが、その遣唐使を廃止した菅原道真は文人として祀られた最も有名な例だろう。山口県では幕末維新の吉田松陰を祀る松陰神社と陸軍の乃木希典を祀る乃木神社があり、前者が文人、後者が武人の例になる。両社とも東京にもあり、乃木神社前の乃木坂も有名である。

 山口市の古熊神社は天神社で、距離的に近い防府天満宮が社伝では日本で最も古い天神社とされているのでそこからの勧請に思われるが、京都の北野天満宮からの勧請である。大内氏によるもので、山口市の八坂神社も京都からの勧請で、同様の例になる。京都の文化を移入しようとする大内氏の意思の表れだろう。大内氏の武人でありながらも文人的要素が強い面が表れている例と言えるだろう。

 現在地における社殿は創建された室町時代の社殿を、江戸時代に現在地へ解体移築したもので、国の重要文化財に指定されている。山口には楼門と拝殿が一体化した神社が幾つもあり、ここもそうだが、意外なのは背後にある本殿が入母屋造りになっている点である。そこだけを見ると仏殿風の造りに見える。

 北野天満宮は権現造りだが、これは入母屋造りを組み合わせた形とも言えるので関係があるのかもしれない。神となった文人の夢を感じさせる社殿である。

 渡辺郁夫 広島経済大学教授



中国夢回廊41  磐台寺 2022年秋号


 「平成」を冠した言葉の一つに「平成の大合併」がある。自治体の広域合併であり、地方自治の効率化を目指したものだろうが、一つの自治体名の範囲が広くなれば当然のことながらそれの指す位置がよくわからなくなってくる。場合によっては地名消失の危機もありえる。それは地名がもっていた歴史も消える可能性をもたらす事態でもある。

 この連載でもとりあげた国宝の寺である向上寺は現在では尾道市にある。しかし長らく瀬戸田という地名に親しんだ者からすると陸側の尾道と島側の瀬戸田は別のものに思える。尾道の千光寺と瀬戸田の向上寺は、それぞれ尾道港との関係、瀬戸田港との関係で捉えられるべきものだろう。

 福山市の沼隈半島を巡ると特に福山市の市街地から巡るとその大きさに驚かされる。沼隈半島の南西の先にあり海上で大きく弧を描く内海大橋は絶景スポットだろうが、橋を渡って別の世界に来たようでも今はやはりそこも福山市である。かつての沼隈郡は消え、どこまでも都市に追いかけられているようで解放感も打ち消されてしまいそうだ。

 イメージとしては沼隈半島は紀伊半島を縮小したもののように思える。陸と海の出会う場所としての一つの世界を形作っているイメージである。鞆の浦はかつては鉄道もあり福山の市街地との結び付きが強いが、本来は海との関係の深い場所である。鞆幕府が置かれたのも独立した地形のように見なされたからだろう。

 海上交通との関係で言えば沼隈半島の先端の磐台寺は規模は大きいとは言えないが意味としては大きいものがある。陸と海が出会う場所としての沼隈半島の一つのシンボルのように思える。毛利輝元により建てられた阿伏兎岬の岩場にある観音堂は阿伏兎観音と呼ばれ国の重要文化財である。

 観音信仰は日本で広く読まれた『法華経』に始まると思われ、その一部が独立して読まれるのが『観音経』である。その経文に「念彼観音力 波浪不能没」という海難から守られるという内容がある。そのため海難除けが観音信仰の一つの要素になったと思われる。

 また観音は南?中の補陀落山に住むとされたため海と山の両方に関係する。日光は補陀落山の「ふたら」が「二荒」に、その音読みの「にこう」が「日光」に転じたとも言われる。熊野信仰とも関係が深く、熊野三山のある紀伊半島の先端には補陀洛山寺がある。

 陸と海の出会う所は海難の起こりやすい場所でもある。海を渡る人々の夢を守り続ける観音堂である。

 渡辺郁夫  広島経済大学教授



中国夢回廊40 総社宮 (美作総社宮 津山市) 2022年春号

 岡山県の「総社」と言えば、かなりの人がまず地名としての岡山県総社市を思い浮かべるだろう。この連載でとりあげた国の重要文化財の備中国分寺と宝福寺はいずれも総社市にある。

 岡山県総社市の名前の由来は総社市に総社宮があることによる。総社市は吉備国が分割された備中国にある。備中国としての総社宮が総社市にあったことが市の名の由来になっている。

 津山市の総社宮は吉備国が分割された美作国にある総社宮の方である。こちらも同様に所在地の名としては津山市総社になるので混同されるかもしれない。

 このような古代の行政や信仰の名残はいたるところにあり、それぞれ由来があり、歴史や宗教の重層性を示すもので重要である。

 地学で言えば、その土地の地層を調べれば過去にあったことがわかる。災害の頻発する現代ではその土地で何があったかを示す地層の重要性は増している。

 仮に宗教の世界で地層に当たるものを述べると、神道では各国に一宮があり、さらに国司が国内の全ての神社の祭神を一カ所で祀る総社がある。武士の世になると武士の守護神としての神が祀られる。八幡神が多い。江戸時代には徳川家の東照宮が各地に建てられる。明治以降になると各地に護国神社が設けられる。

 仏教では奈良時代に各国に国分寺が建立される。室町時代には安国寺が建てられ、江戸時代になると藩主の菩提寺が設けられる。

 この神道と仏教の各系列が一つの地で重なりあっていく。この連載でとりあげた寺社はかなりのものが今述べた神道と仏教の重なりあいの中に含まれている。

 先に述べた総社市周辺にある寺社は備中国での神道と仏教の重なりあいがよくわかるものが多い。同様のことが津山市周辺にも言える。津山は美作国の中心として神道と仏教の重なりあいがよくわかる地域と言えるだろう。それぞれの地域での言わば「信仰の地層」を表すものが残っている。

 すでに美作国一宮の中山神社をこの連載でとりあげた。その中山神社とともに津山市の総社宮も本殿が国の重要文化財に指定されている。この地方での中山神社の重要性は中山造りという形式があることからもわかる。入母屋造りの妻入りで唐破風の向拝が付く。

 津山市で中山神社から総社宮に回ると本殿の形の類似がよくわかる。ただし総社宮の主祭神は「大己貴命」即ち出雲の大国主であり、中山神社の祭神とは異なる。この総社宮には美作国の陰陽にまたがる夢が託されているのかもしれない。

 渡辺郁夫 広島経済大学教授



中国夢回廊39 美保神社 2021年秋号

 宝船に乗った七福神の姿は日本人にとっての幸せの一つのイメージだろう。いわゆる縁起物の一つとして絵に描かれたり、置物にされたりと、実際にそれで幸せになれるかどうかは別にして心理的に明るくなれば本当に福が来るかもしれない。お守りもそうだが、自分を守ってくれるものがあると思うか、ないと思うかでは心理的に違うだろう。

 その七福神が宝船に乗っているというのはどういうことだろう。四方を海に囲まれている日本にとって外来のものとは船に乗ってやって来るのが基本だった。「舶来」が「外来」や「輸入」と同じような意味で使われていた時代が長かった。では七福神もそうなのか。七福神の由来は複雑でそう簡単に答えは出ないが、かなりの部分がそうであると言えるだろう。

 ほとんどがインド、中国由来で確かにその点では船に乗ってやって来た神であると言えるが、七福神の中でほぼ日本の神と言えるのが恵比寿である。この恵比寿については二系統あり、その内の事代主神は『古事記』に見える大国主の子で、大国主が国譲りを迫られた時に、「魚」取りに「御大(みほ)の前(さき)」に行っていることが記されている。「船」に乗っていたことも書かれているので釣り竿を持って鯛を抱いているイメージに重なる。

 従って「船」には乗っていても外来の船ではなく、日本の船になる。日本由来の七福神として事代主神を祀る「えびす」社の総本社が美保関の美保神社になる。なお「えびす」にはこれも同じく『古事記』にイザナギとイザナミの間に生まれた「蛭子」があり、この系統の総本社は西宮神社になる。「船」に乗って釣り竿を持っているイメージとしてはどちらかというと事代主神の方だろうか。

 もう一つ事代主神と関係の深い七福神の神に大黒天がある。これは仏教の守護神で、インド由来の神だが、日本では大国主神と習合した。これは「ダイコク」の読みが「大国」の音読みに通じることから生まれたものと考えられる。事代主神が大国主神の子であることを考えると、親子二代で七福神に入り、宝船に乗っているのは確かに縁起がいい。代々栄えたい人々の願望の反映かもしれない。

 この事代主神を祀る美保神社は島根半島の東の端にある。出雲大社が西の端にあるので親子で島根半島を守る形になる。本殿は重要文化財で、「美保造」あるいは「比翼大社造」といわれる「大社造」を左右に二つ並べた形である。重ね重ねありがたい造りである。

 渡辺郁夫  広島経済大学教授



中国夢回廊38 平清水八幡宮 2021年春号

 山口市の中心部は寺社が多く、大内氏の居館跡の周辺では大内氏との関係が深い。大内氏の築いた遺産の上に次の支配者である毛利氏の遺産が重なったものが多い。寺社を支えるにはそれなりの財力が必要で、氏神や氏寺という形が長く続いた日本では、氏の盛衰が寺社の盛衰につながことはよくあることである。

 とは言うものの、村の鎮守社のように近在の住民が本来の意味からは離れた形での氏子として共同体の守護神となる社を守り続ける場合もある。ふだんはお参りの少ないひっそりとたたずむ神社という形である。

 山口市吉田にある平清水八幡宮は、その名からするとかなり由緒のありそうな名前である。この名を聞いて京都の石清水八幡宮の名が思い浮かび、そこから山口に勧請されたのではないかと思うかもしれない。

 山口市中心部を先に巡り、八坂神社が大内氏により京都の八坂神社から勧請されたものであることを知ると、同様に京都の石清水八幡宮から勧請されたのが山口の平清水八幡宮ではないかと想像する人は多いだろう。京都の石清水八幡宮は男山の山上にあるが、山口の平清水八幡宮は山裾のそれほど高い位置にあるわけではないので立地条件としても社名に合いそうだ。

 山口市の中心部から平清水八幡宮に向かうと途中に山口大学の広大な本部キャンパスがあるので、その向こうに本当に国の重要文化財に指定される社殿があるのか不安に思われるかもしれない。しかしその先の山裾に社殿はある。山口市吉田という地名も、京都の吉田神社を思わせる地名で何か由緒がありそうである。

 そして神社の説明を読むと、大同四年(809年)宇佐神宮からの勧請とあるのに驚かされる。宇佐八幡宮から石清水八幡宮への勧請はそれから五十年以上後のことである。石清水八幡宮よりもこちらが古いことになる。社殿近くに涸れない清水が湧いていたことによる命名と言われている。石清水八幡宮も男山にある涸れない清水がその名の由来とされている。そうだとすれば八幡宮と水を結び付けたのは山口の方が古いことになる。山口人のプライドをくすぐる神社である。

 現在の三間社流れ造りの本殿は室町時代前期のものとのことなので大内氏との関係はあったのかもしれない。しかしその後は村の鎮守的な存在だったのだろう。その維持に際して水の神を思わせる社名は大いに力を発揮したはずである。目に見えない世界への人々の涸れない夢がこの社殿を守り続けてきたのだろう。

 渡辺郁夫  日本宗教学会会員



中国夢回廊37 安国寺 2020年春号

 現在の福山市の中心部は新幹線と山陽本線の福山駅のあるあたりというのがほぼ常識だろう。新幹線の福山駅のホームからは福山城が見える。これほど駅と城が近いのは珍しいだろう。

 福山で観光するとするとまず福山城周辺になるはずである。ここには福山城だけでなく美術館や博物館がある。中でも広島県立歴史博物館は草戸千軒町遺跡の発掘品の展示で有名である。水没した中世の街並みが発掘され、中世の人々の生活を知るための貴重な資料が展示されている。

 この展示を見た人は草戸千軒町遺跡を訪れたくなるはずである。そうして実際に芦田川の河口付近にある草戸千軒町遺跡を訪れると、現在は川と中州があるだけだが、幸いにその前に国宝の本堂と五重塔のある明王院がある。それを通してその堂宇を建てさせた町の往時の姿を偲ぶだろう。

 そしてこの草戸千軒町遺跡のさらに先、沼隈半島を海に向かって進むとそこが鞆の浦である。海上交通が交通の中心だった時代に鞆の浦が港としていかに重要だったかがわかる。足利幕府最後の将軍である足利義昭が鞆の浦に滞在し、鞆幕府と呼ばれる時代があったことも港としての鞆の浦の重要性をよく示している。

 この室町幕府との関係で重要なのが鞆の浦の安国寺である。安国寺は室町幕府を開いた足利尊氏が全国に建てさせたものである。奈良時代に聖武天皇が仏教による鎮護国家を目指して全国に国分寺を建てさせたことに倣ったものと考えられる。鎌倉幕府の滅亡から室町幕府の成立までの戦乱によって亡くなった人々の慰霊と戦後の人心の収攬のためであった。こうして全国に安国寺が置かれることになり、幾つか現存している。

 広島県では安芸安国寺が現在の広島市の不動院である。不動院はその名からわかるように真言宗だが、そうなったのは江戸時代からである。現在の国宝の金堂は禅宗様式の本格的な仏殿であり、禅宗時代の安芸安国寺を偲ばせてくれる。

 一方備後安国寺が鞆の浦の安国寺である。安国寺は室町幕府の公認宗教が臨済宗だったことから当初は臨済宗だった。それがそのまま残った場合と不動院のように改宗したところがある。備後安国寺は前者で、その点でも本来の安国寺を知る貴重な存在である。

 現在釈迦堂が国の重要文化財に指定されている。本瓦葺き三間四方の一重入母屋造りの禅宗様の堂で、その姿はどこか鞆幕府を思わせる。室町幕府の初代から最後まで将軍の夢の名残を感じさせる堂である。

 渡辺郁夫  日本宗教学会会員



中国夢回廊36 中山神社 2019年秋号

 現在の津山の街並みの中心は津山城周辺の地域である。森氏が津山城を築き松平氏がそれを引き継いだ津山の街の重要性は誰の目にも明かだろう。地理的には岡山県北に位置し、県北第一の都市である。また出雲街道が通り、陰陽の交通の要衝である。城東地区の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)は津山城が築かれてからの街並みのあり方を今によく伝えている。

 これらのことからすれば美作地方の中心である津山は津山城を中心に発展した城下町であると考えるのが普通であるし、間違いではないだろう。広島も毛利氏により広島城が築かれてから城下町として発展した。それまでは太田川河口にデルタがあっただけである。

 ただし津山の場合は広島と違い、城が築かれる前の段階があった。古社の中山神社はそれを感じさせる。中山神社を訪れるとその位置が津山城からかなり北にずれていることに気付く。

 中山と言えば吉備の中山が有名である。備中一宮の吉備津神社や、備前一宮の吉備津彦神社がその麓にある。美作は古代吉備国が分割されてできた国なので、その古代吉備国の中心であった吉備の中山の名を引き継いだのではないかと考えてもおかしくないだろう。

 津山盆地に国府が置かれ、吉備の中山から勧請された中山神社が建てられ門前町もできる。室町時代には城が必要になり鶴山に城が築かれる。やがて森氏が新たに津山城を築き、そこから城下町として津山が発展したという流れだろう。

 鶴山に城が築かれる以前の津山を知る上で参考となるのが、鎌倉時代に全国を遊行した一遍を描く『一遍聖絵』である。ここに「美作一宮」として中山神社が登場する。本文には現在はない「楼門」があったと書かれ、絵にも描かれている。

 一遍は山陰の因幡と伯耆を回っており、そこから出雲街道を通って美作に入ったものと思われる。美作は専修念仏を開いた法然の出身地で、一遍の念頭にはそのこともあったのだろう。

 この『一遍聖絵』に描かれている社殿は入母屋造りという点では現在と同じだが、向きや細部が異なる。おそらくその後の尼子氏の侵攻によって消失した旧社殿を描いたものだろう。

 その尼子氏が16世紀に現在の社殿を再建した。入母屋造りの向きを変えて妻入りにし、唐破風の向拝を付けた中山造りと言われるもので、国の重要文化財である。出雲の大社造りの変形版に見える。古代吉備国の夢と一遍の浄土への夢、そして山陰の覇者の夢が重なって見える社殿である。

 渡辺郁夫  日本宗教学会会員



中国夢回廊35 不動院岩屋堂 2019年夏号

 鳥取県で修験道に関係の深い建造物といえば、まず三徳山三仏寺が思い浮かぶだろう。国宝の投入堂は急峻な岩肌に張り付くようにして建つ。三仏寺は役行者が慶雲三年(706年)に開いたとされ、投入堂の本尊は役行者が感得したと言われる蔵王権現である。

 この慶雲三年(706年)からちょうど百年後の大同元年(806年)に開創されたとされるのが鳥取県若桜町にある不動院岩屋堂である。大同元年は空海が唐から密教を学んで帰朝した年である。そのためだろうが、この年に開創したとする密教寺院は多い。ただし空海は数年間太宰府に留め置かれたので大同元年に空海が宗教活動を始めるのは無理がある。しかし少しでも寺院の開創を遡らせたい心情からすれば大同元年はぎりぎりの線なのだろう。

 この「806」という数字を目にすると広島の人なら「8月6日」の「806」と重なって見えるのではあるまいか。このことを知ってか知らずか、被爆者で画家である平山郁夫に「広島生変図」という広島の原爆をテーマにした絵がある。

 燃えさかる広島の街と原爆ドームを描き、その紅蓮の炎の中に不動明王を浮かび上がらせた作品である。普通の仏像は光背を持つが不動明王はそれが火焔になる。火を焚きあげる護摩供養で浮かび上がる仏の姿を写したものなのだろう。平山郁夫は原爆の火を不動明王の火焔に見立てた。

 奈良時代までの温和な仏像のイメージと大きく異なる忿怒の相貌の明王像が人々に受け入れられたのは不思議だが、それをもたらした空海にとっては自分の経験から受け入れ易かったのではないかと思われる。

 唐に渡る前の空海は山岳修行をし、洞窟で火を焚くことがあっただろう。悟りを開いたと言われる室戸岬の修行場も洞窟である。不動院岩屋堂の岩屋も天然の洞窟である。三徳山の投入堂はその傾斜した地形からそこでの修行は考えにくいが、不動院岩屋堂の岩屋はそれが想定できる地形である。修験道の修行場としてこの洞窟で護摩供養が行われた可能性はあるだろう。

 その護摩供養の炎が洞窟の壁に揺らめけばそこに不動明王の姿を思い浮かべるのは難しくなく、その姿を仏像として安置したくなるだろう。不動院岩屋堂はそのような密教と不動明王の起源を思わせる堂である。懸け造りの現在の堂は南北朝時代のもので国の重要文化財に指定されている。広島には原爆を免れた国宝の不動院があるが、縁を感じる。人々の平和への夢を護り続けてほしい堂である。

 渡辺郁夫  日本宗教学会会員



中国夢回廊34 今八幡宮 2019年3月号(春号)

 八幡信仰に基づく八幡社は、稲荷社とともに数が多いと言われる。中国地方でも八幡社で国の重要文化財に指定された神社が多い。

 稲荷神が元来農耕神であることはその名からすぐにわかることで稲作をしてきた日本各地で信仰されてきたことは容易に理解できるが、八幡神となるとその内実はかなり複雑である。

 八幡社の総本社は大分の宇佐神宮である。ここでは応神天皇とその母の神功皇后、そして比売神と言われる女神が祀られている。それから言えば皇祖神としての性格が強い。この宇佐から初めに勧請されたのが東大寺の鎮守社である手向山八幡宮と言われ、このことから仏教の守護神となり、八幡大菩薩とも呼ばれる。『平家物語』の「扇の的」では那須与一が「南無八幡大菩薩」と祈る。またこのことからわかるように武家の守護神でもあり、源義家が「八幡太郎義家」と名乗ったのは有名である。

 こうなると、朝廷、武家、仏教と、日本で力を持ったもの全ての守護神になる。また奈良の東大寺への勧請だけでなく、王城守護のために京都の石清水八幡宮、鎌倉幕府守護のために鶴岡八幡宮と勧請され、東西ネットワークが出来上がったことも全国展開に拍車をかけることになっただろう。

 山口市では三社の八幡宮が国の重要文化財である。山口は大分と近く、山口を支配した大内氏は一時期九州北部まで支配し、また山口は西の京とも呼ばれ、京都とのつながりも深いので八幡宮の多さがわかる。

 この内、今八幡宮の位置は大内氏居館の北東に当たり、鬼門除けの役割を担ったとされている。大内氏の娘に「今八幡殿」という名があり、大内氏との関係が深かったことがわかる。

 大分の宇佐神宮は前面に楼門があり、その背後に八幡造りと言われる特有の社殿がある。京都の石清水八幡宮も同様で、楼門とその奥の八幡造りから成る。通常楼門から先は見えないので、実質的には楼門を通して八幡神を拝んでいる。

 それと関係するのか今八幡宮の社殿も石段を登って正面に見える楼門が印象的で圧倒的な存在感がある。横に回ると楼門、拝殿、本殿が直線に繋がっている。

 八幡神は応神天皇を中心にした神の総称だろうが、「八百万の神」の八百万を縮めれば八万になり、ハチマンと読めるので八幡神には「八百万の神」の多様性と統一性が宿っているのかもしれない。その一体性を感じさせる社殿である。全国を席巻する八幡神の力が宿っているようだ。八幡神の夢を感じさせてくれる。

 渡辺郁夫 日本宗教学会会員



中国夢回廊33 天寧寺 2018年12月冬号(新春号)

 尾道観光の中心を千光寺とすると、千光寺山に登るロープウェイを使う人が多いだろう。尾道駅からロープウェイ乗り場に向かうと、手前に三重塔が見える。

 先にここに参ると、塔の横に道があり、それを登るにつれて塔を横から、さらに上から見ることができ、塔の先に尾道水道や尾道大橋が見え、さらに上に登りたくなるかもしれない。そしてそのまま千光寺山に登ってしまうかもしれない。

 この塔が天寧寺塔婆と呼ばれる三重塔で国の重要文化財である。塔婆と呼ばれるのは実は創建時には五重塔だったものが後に三重塔に改修されたからである。和様に禅宗様が加わった大規模な塔である。もし五重塔のままで残っていれば今でも千光寺山で目立っているのがさらに目立つはずで、先にこちらに参ってそのまま五重塔の高さにつれて山を登る人が多くなるに違いない。この塔のように仏塔を下から、横から、上からと全ての角度で見ることができるのは珍しい。

 尾道市では生口島の向上寺三重塔が国宝で、この塔も裏山に登って塔を見下ろすことができるのでよく似た形になっている。塔とともに海が見えるのも似ている。向上寺三重塔が瀬戸田港のシンボルタワーになっているように天寧寺塔婆も尾道港のシンボルタワーと言っていいだろう。天寧寺塔婆と町並み、尾道水道、尾道大橋を入れた写真はこの街のあり方をよく表している。その場に立ってみたくなる魅力と引力がある。

 天寧寺の山号は海雲山で、そのため天寧寺塔婆は海雲塔とも呼ばれる。そう言われてみると三層の塔の屋根は重なる雲のようにも見える。寺に山号があるのは高野山や比叡山のように山に寺があった名残で、本山という呼び方も本来は同様である。奈良仏教の寺では薬師寺のように本山であっても山号がないことがある。山号は寺に必須ではなかった。天寧寺の場合は実際に山にあるので山号があってもおかしくないが、その山号に「海雲」という一見山と関係ないような名が付けられるのは面白い。しかもそれが尾道の風土にふさわしい名になっている。

 天寧寺という名は天龍寺がそうであるように足利幕府や臨済宗を連想させる名だが、この塔は足利義詮によって建てられた。当初は臨済宗で天龍寺末寺だったが、足利幕府が滅びた後に曹洞宗となった。その意味では名残だが、むしろ五重塔に向かってのびつつある三重塔だと思ってもいいかもしれない。建設中の塔を見上げていた尾道の人々の夢を感じさせる塔である。

 渡辺郁夫 日本宗教学会会員



中国夢回廊32 本源寺 2018年9月秋号

 津山藩の霊廟が美作の本山寺にあることをこの連載に書いた。津山藩の藩主は当初は森家で四代続いた後、松平家が九代続いた。そのため本山寺の霊廟も松平家の霊廟になったが、森家の霊廟も津山に残る。

 津山市の本源寺の霊屋が森家の霊廟で、国の重要文化財に指定されている。本源寺は本堂、庫裏、中門、霊屋、霊屋表門と五件が重要文化財に指定されており、津山におけるこの寺の位置づけがよくわかる。

 津山の森家の初代当主は森忠政で、本能寺の変で織田信長と運命をともにした森蘭丸の実弟である。森蘭丸が三男で、この時に四男坊丸、五男力丸も戦死している。そのために六男の忠政が家督を継いだ。戦国時代ならではの過酷な家督相続である。森家霊屋には森蘭丸も祀られている。

 津山の中心は街を訪れれば誰でもわかるように津山城である。本丸、二の丸、三の丸の跡が残る壮大な造りである。現在備中櫓が再建されており、そこをもとにして全体像を想像することができるが、天守が残っていれば、日本有数の城であったことは間違いない。

 本丸、二の丸、三の丸の跡に立つと、各丸が森忠政の兄だった蘭丸、坊丸、力丸と重なっているように思えてくる。森家は美濃が本拠地だったが、忠政は兄達を偲びながら新天地津山に森家が存続する姿を示したのかもしれない。そしてまた城の守護を祈ったはずだ。津山城と菩提寺本源寺とは一体の関係に思える。

 津山の町並みは城東と城西に広がり、城東が重伝建(重要伝統的建造物群保存地区)に指定されているために観光は城東に偏りがちだが、本源寺は城西にある。十八世紀には城西に二十四寺、城東に十寺あったと言われ、両地区とも城の周辺にあって守りを固める重要な役目を担っていたことがわかる。周到な配慮のもとに町作りが行われている。

 本源寺は足利尊氏が諸国に置いた安国寺の内の美作安国寺を源流にしており、その後、龍雲寺となり、さらに本源寺となった。本源寺の名は森忠政の戒名の本源院に因むとされている。忠政が津山の本源に当たることを表すかのようだ。

 足利幕府は臨済宗を公認したので安国寺以来宗派は臨済宗である。本堂は入母屋造りで花頭窓が印象的な禅宗様である。東には切り妻造りの庫裏が建つ。本堂の西に霊屋があり、さらに森家墓所がある。ここに忠政を祀る五輪塔が建つ。その堂々とした姿は津山の礎がここにあり、忠政が新天地にかけた夢が幻でなかったことを示すかのようだ。

渡辺郁夫 日本宗教学会会員



中国夢回廊31 日御碕神社 2018年6月夏号

 日本での社寺などの配置を見ると、この国を守ろうとする存在の意思が感じられるように思える。天津神の伊勢神宮と国津神の出雲大社とでは、伊勢神宮は日の出る東海に、出雲大社は日の沈む日本海に面し、両者は大和盆地を挟む。出雲大社は「天日隅宮」とも呼ばれ、両者の配置は古代から意識されていたようだ。

 また大和盆地の東の端の三輪山にある大神神社の大物主神は、出雲大社の大国主神の和魂とされ、両者は一体の関係にある。天照大神ももとは三輪山で祀られていたと言われ、そこからさらに東の伊勢の地に移り、伊勢神宮と大神神社は東西関係にある。三輪山に向かって日の出の太陽を拝めば、大物主神とともに天照大神を拝むことになる。

 古代に限らず現代でもこのような配置があり、広島では出雲大社広島分祠と三輪明神広島分祠が原爆ドームを挟んで東西にあり、さらに両者の中間にはカトリックの世界平和記念聖堂がある。日本のみならず世界の神が力を合わせて被爆地広島を守るかのようだ。

 このような聖なるものの配置の意識は当然古代の方が強かったはずで、出雲では出雲大社が「天日隅宮」としてあるが、さらに日御碕に「日?宮」として天照大神の和魂を祀る日御碕神社がある。「ひすみのみや」と「ひしずみのみや」とがあり、それにより大国主神と天照大神との協調関係を表しているように見える。

島根半島の成立を考えるとひょっとして古代の祭祀の場としては「ひすみのみや」より「ひしずみのみや」が先かもしれない。大山から見ると分かるが、島根半島はもとは島で土砂の堆積により陸と繋がった。「国引き神話」の背景である。弓ヶ浜の先端は境港で切れているが、放っておけばいつか繋がるかもしれない。西側が先に陸続きになったが、出雲大社のある場所は太古には海か低湿地のはずだ。島根半島の両端には西に日御碕神社、東に美保神社があり、島としての祭祀を思わせる配置である。

 日?宮はもとは沖にある経島にあった。九州の宗像大社の神域である沖ノ島と同様の存在だろう。経島は日置島とも呼ばれる巨岩の島で、沈む夕日への太陽信仰と磐座信仰を兼ねた場に見える。また「日の沈み」と「霊(ひ)の鎮め」が重なった黄泉国に通じる鎮魂の場だったかもしれない。

 現在の本殿は陸側にあり、江戸時代に造営された権現造りで重要文化財である。印象的なのは入り口に建つ楼門だろう。その鮮やかな朱を見るだけで夕日を拝むような気持ちになる。

渡辺郁夫 日本宗教学会会員



中国夢回廊30 八坂神社 2018年3月春号

 大内文化の特徴は国内外の最先端の文化をとりいれて融合させた点にあるだろう。仏教では禅宗が中心だが、仏教自体がインド起源の外来文化だった上に禅宗では日本から大陸に渡るとともに大陸からも僧が来日して積極的に交流がはかられた。同時に大陸の最新文化も入ってくるわけで、その魅力は外来文化の流入に慣れた現代人には想像の及ばないものがあるだろう。

 このインド起源の仏教で日本人に親しまれてきた名の一つが「祇園」だろう。『平家物語』の冒頭「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。」で有名な「祇園精舎」の「祇園」で、正式名は「祇樹給孤独園精舎」である。釈尊の時代に実際にあった修行道場である。

 この祇園精舎の守護神が「牛頭天王」と言われ、日本に入り京都の祇園社に祀られた。護符や起請文に使われた「牛王宝印」も牛頭天王に由来するという説があり祇園社も発行した。牛頭天王は素戔嗚尊と習合し祇園社は神仏習合だった。

 さらに全国各地に勧請されるが、明治の神仏分離に伴い、京都の祇園社が山城国愛宕郡八坂郷の地名から八坂神社と改称され、各地の祇園社も八坂神社になった。この八坂を同音の弥栄と表すこともあり、祇園、八坂、弥栄が同系統になる。

 山口の八坂神社は大内氏によって京都から勧請された。県は異なるが鉄道の山口線で結ばれて山口と近い関係にある島根県の津和野の弥栄神社も同系統の神社である。山口が「西の京」、津和野が「山陰の小京都」と呼ばれることを思うと、京都につながろうとする心情と祇園社の勧請とが重なっているのが見えてくる。

 この系統の神社の一つの特徴として夏祭りがある。そもそもインドの祇園精舎は僧が雨期に遊行をやめて集う「夏安居」の場だった。京都の祇園祭りの起源は疫病を鎮める「祇園御霊会」に由来すると言われる。衛生設備の貧弱な時代は夏に疫病がはやりやすかった。

 この祭りの神事で舞われたのが「鷺舞」で、祇園社の系統の神社に伝わっている。これは中国の七夕伝説で天の川に橋を渡す鵲を鷺で表現したものである。こうしてインド、中国、日本の文化が重なった。この流れは大内文化の流れとも重なる。山口の八坂神社の祇園祭りで舞われる「鷺の舞」は津和野にも伝わった。

 八坂神社では大内氏建立の檜皮葺で三間社流れ造りの本殿が重要文化財である。一方「鷺の舞」は県の無形文化財に指定されている。その純白の翼は大陸の彼方まで飛翔した大内氏の夢を現代に伝えるようだ。

 渡辺郁夫  日本宗教学会会員



中国夢回廊29  西郷寺  2017年12月冬号

 坂を登ると寺があるのが尾道らしい街の魅力だが、一方で地元の人以外にはわかりにくさにもなる。地図を片手に歩きながら見つけることになる。車にカーナビがついていても尾道では道が狭く、車種により入れるかどうか問題になる。

 西郷寺はその点では典型的な尾道の寺かもしれない。地図を片手にたどり着く寺である。近くに久保小学校があり、少し離れるが尾道市立図書館も近い。また国宝の浄土寺や重要文化財の西國寺と合わせて回るなら、ほぼ両者の中間点に位置すると言ってよい。

 西郷寺は本堂と山門が重要文化財で、浄土教の一派である時宗の寺である。尾道では常称寺が同じく時宗で重要文化財の寺である。常称寺の方が中心部から近いが、環境は大きく異なる。常称寺は元の境内の中を国道と鉄道が走る。境内が分断された形で、静けさを望むのは難しい。西郷寺は常称寺に比べれば市街地のはずれに近く、境内は広いとは言えないもののそれなりの閑静さがある。坂を登ってきただけの功徳を感じさせてくれる寺である。

 中国地方では他に島根県益田市の萬福寺が時宗で重要文化財の寺である。いずれも中世の本堂が重要文化財に指定されているが、その様式は萬福寺と西郷寺が寄せ棟造りで、常称寺は入母屋造りである。そのため萬福寺を見たことのある人なら西郷寺を見てその雰囲気の近さを感じるだろう。

 寄せ棟造りは威圧感が少なく穏やかな感じがするので、阿弥陀仏を本尊とする浄土教の宗派の雰囲気とよく合うように思う。尾道では宗派は異なるが浄土寺の阿弥陀堂が寄せ棟造りであり、そこからも本尊と堂宇との相性が感じられる。

 さらに西郷寺の寄せ棟造りの軒下は舟肘木になっている。文字通りに舟の形をした部材を角柱の上に載せており、その広がりで屋根を受ける形になっている。

 一般に舟肘木は比較的屋根が軽い檜皮葺などに多く、寺院の堂宇では組み物が入るのが普通である。寺院では屋根に瓦を使うことが多く屋根が重くなるので、その対策として組み物を入れる。しかし西郷寺は瓦屋根なのに舟肘木が使われている。益田の萬福寺も瓦屋根なのに同じく舟肘木が使われている。何らかの関係があるのだろうか。

 西郷寺は元の名が西江寺で、かつて川に面していたという。萬福寺の前も川がある。浄土教では業の重い我々を「弥陀の願船」に乗せて西方浄土に渡すという。尾道水道も川に見える。人々の浄土への夢を舟に載せて渡す堂なのだろう。

 渡辺郁夫  日本宗教学会会員



中国夢回廊28 本山寺  2017年9月秋号

 浄土宗を開いた法然は美作出身でそれを記念して建てられたのが誕生寺である。当然のことながら法然が生まれた時にはこの寺はまだない。では法然の父母が帰依していた寺はどこだったのだろうか。それが本山寺だったと言われる。

 法然の父である漆間時国は押領使という領主と警察官を兼ねたような役目をしていた豪族だった。その時国夫妻が本山寺に祈願して生まれたのが法然だったと言われている。本山寺は天台宗で、浄土宗を開いて独立するまで法然は天台宗の僧だったので、生まれる前から法然は天台宗との縁が深かったと言える。

 ただし時国夫妻は僧になる子が生まれるようにと願ったわけではないだろう。むしろ武士として跡取りが生まれるようにと願ったはずである。このような経緯は先に誕生寺に参るとよくわかり、この順で参ると本山寺が不思議に法然や浄土宗と重なって見えてくる。

 本山寺に参って驚くのは見事な石垣と寺侍長屋である。ほとんど城である。浄土宗の総本山が京都の知恩院だが、ここも見事な石垣があり、知恩院は二条城の出城だったと言われている。徳川家の宗旨が浄土宗で、徳川家の支援のもとに知恩院が建てられたことを思えば、その可能性は高い。

 同じく京都で浄土宗の本山の金戒光明寺にも同様の役目があり、実際に幕末には会津藩が京都守護職としてここに陣取った。金戒光明寺には江戸時代の重要文化財の三重塔があるが、本山寺にも江戸時代の重要文化財の三重塔がある。

 本山寺が要塞のような構えなのはここに津山藩の霊廟があり、藩によって厳重に守られたからだが、藩にとっても津山城で何かあったときのための備えという意味があったと思われる。

 その点はこの地の領主だった漆間時国にとっても同様だったはずで、実際に時国は対立する武士の夜襲を受けた。逃げる間もなく自邸で亡くなったのでこの寺が非常時の役目を果たすことはなかったが、非常時への備えという役目は続いたようだ。災害の多い現代でも非常時の避難所としての役目が続くかもしれない。

 本山寺では三重塔が重要文化財だが、中世の本堂も重要文化財である。寄せ棟造りで正面の唐破風が印象的である。この両者に見守られるように常行堂がある。常行三昧という念仏をする堂で比叡山にもある。天台宗で念仏僧になった法然の原点を思わせる。城のような構えが守り続けているのは法然が生まれる前から続く心の拠り所としての浄土への夢かもしれない。

 渡辺郁夫 日本宗教学会会員



中国夢回廊27 大神山神社奥宮 2017年6月夏号

 日本の山岳信仰は自然崇拝の神道と仏教が融合した神仏習合の修験道として知られてきた。元々あった自然崇拝としての山への信仰の上に、仏教の、特に密教の教理と厳しい修行を重ねたものである。日本人の自然観と宗教観を代表する。

 西日本では大山と九州の英彦山が有名だが、明治維新の神仏分離を境に大きな差が生まれた。英彦山は英彦山神宮として神道になり、仏教寺院の痕跡はほとんど消されてしまった。

 大山はこの点、破壊的な変化を被らずに済んでおり、大山寺と大神山神社奥宮は大山の山腹で共存する形になっている。大山寺については密教としての天台宗寺院の大山寺と、沢を隔てた反対側に浄土教信仰の阿弥陀堂が残っている。この阿弥陀堂が重要文化財に指定されており、すでにこの連載でとりあげた。

 大神山神社奥宮への参道は途中まで大山寺と同じで、そこから二つに参道が分かれる。鳥居がある方が大神山神社奥宮に向かう参道になる。この参道は自然石を敷き詰めており、非常に長い。山岳宗教が難儀さを味わうことによって有り難さを味わう宗教であることをある程度体験できる。

 この長い石段がきついという人にとっては実は別の参り方がある。それは米子市尾高にある大神山神社本社に参るという方法である。日本の神社によくある二社制の形だが、これは奥宮が高い場所にあって行きにくいということより、奥宮が冬期は積雪のために参拝できなくなるためである。そのため本社の方を冬宮、奥宮を夏宮とも言っている。奥宮を五月の連休に訪れたことがあるが、その時期でも奥宮の境内にはまだかなり雪が残っていた。

 奥宮に続く自然石の長い参道を登りきると、突然山中に現れる壮大な社殿に驚かされる。よくこの山中に資材を運び、これだけの社殿を建てたものだ。まさに信仰心のたまものである。

 重要文化財でこけら葺きの社殿は権現造りと言われる。本殿、幣殿、拝殿を一体に組み合わせた社殿だが、一般的な権現造りのイメージからずれると思う。拝殿の両翼があまりに長いせいで、何と五十メートルある。日本最大級の権現造りと言われている。

 祭神は出雲大社の大国主命の別名である大己貴命である。出雲大社の社殿は高さで有名だが、こちらは幅があり、両手で山陰を包み込むかのようだ。大山は伯耆国だが、大神山神社奥宮は出雲国神仏霊場に組み込まれている。大国主命に託された古代出雲王国の夢が今も残る社殿である。

 渡辺郁夫  日本宗教学会会員



中国夢回廊26 龍福寺  2017年3月春号

 
 大名と町の関係を表す典型的な言葉は城下町だろう。山口県で城下町と言えば、まず長州藩の毛利氏の本拠地である萩があがる。萩では城は取り壊されて城跡しかないが、藩政時代の町並みは残っていて重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に指定されている。

 それでは山口市の場合はどうだろう。幕末に長州藩の藩庁は山口に移され、毛利家墓所があるが、山口が毛利氏の城下町というのは無理だろう。では毛利氏が入る前の防長の統治者だった大内氏の城下町だったと言えるだろうか。やはり目に見える城か城跡がないと城下町とは言いにくい。

 しかしまた山口ほどかつての統治者の痕跡が残る地も珍しいのではないだろうか。大内氏の館跡は市内中心部の大殿大路に残っていて、大内氏の遺産はさらに周辺の多くの寺社として残っている。ザビエル記念聖堂もそこに含めることができるだろう。後世に大内文化と言われる精神的な遺産を数多く残した点が大内氏の特徴と言えるだろう。

 その大内氏の館跡に建つのが龍福寺である。武家の館跡に建つ寺として全国的に有名なものには、足利氏の館跡に建つ国宝の鑁阿寺がある。鑁阿寺の周囲には堀が巡らされ、また鑁阿寺に隣接して同様に堀を巡らした足利学校がある。政治的な中心だけでなく、精神的な中心でもある。軍事や権力だけで人心を収攬したのではなく文化があった。大内文化の根底に流れているのもこの精神だろう。

 大内氏が滅びたために龍福寺の歴史は極めて複雑である。十三世紀に大内氏の寺として建てられたが、陶晴賢の謀反により焼失した。その後山口に入った毛利氏により、陶晴賢に滅ぼされた大内義隆の菩提寺として再建された。しかし明治時代に再び焼失し、その際に大内氏の氏寺だった興骼宸フ釈迦堂を移して本堂とした。宗旨は創建時が臨済宗で、その後曹洞宗に変わった。ただし興骼宸ェ天台宗だったので本堂の様式はその和様を引き継ぐ。

 通常禅寺の様式は禅宗様(唐様)であり、山口県では下関の功山寺がその典型である。花頭窓や軒下に組み物が並ぶ詰め組み、放射状の扇垂木などが特徴だが、龍福寺にはそれはない。

 山門を潜り目に入るのは檜皮葺の大屋根である。正面からはわかりにくいが側面に回ると五間四方の入母屋造りとわかる。和様の簡素さを感じさせる。大内文化の根底にはまず和様があったのだろう。そこから内外のあらゆる文化をとりこんで膨らんでいった大内氏の夢の原点がここにある。

 渡辺郁夫  日本宗教学会会員




中国夢回廊25 竹林寺 2016年12月冬号

 
 岡山県の誕生寺が法然の生誕地に建てられた寺であることを前回書いた。法然は一宗を開いた高僧なので寺が建てられたのは当然と言える。僧でない人に縁の深い寺で生誕地に建つという寺が広島県にある。広島県東広島市にある篁山竹林寺である。わざわざ山号を付けたのはその人物名が入っているからである。

 その人の名とは官僚としてまた文人として有名な小野篁である。中国地方で小野篁に縁が深いのは何と言っても島根県の隠岐島である。遣唐使副使に任じられた小野篁が遣唐大使と争って乗船を拒否し、隠岐島に流された話は有名である。

 その時に詠んだのが「百人一首」に収められた「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣舟」という歌である。暗誦している人は多いだろう。しかし「百人一首」の解説書を読んでも島流しになったいきさつは書かれていても、その篁が広島県出身とは書かれていない。

 小野篁は言うまでもなく小野氏の出身で、遣唐使の副使に任じられたことに関係していると思われるのがかつて遣隋使をつとめた小野妹子の存在である。小野篁はその子孫で、先祖以来の名誉ある任命だった。

 ただし問題は、遣隋使も遣唐使も現在とは比較にならないくらい航海の成功率が低く命懸けの渡海だったことだ。現代の宇宙飛行の方がよほど安全だろう。

 中国地方の出身者で遣唐使として中国に渡った有名人に吉備真備がいる。その名の通り備中出身である。小野篁の出身地伝説はそれによる連想なのだろうか。

 寺のある山の名も篁山で標高が500メートルほどある。車道があり参道の近くまで車で登ることができる。参道に「小野篁生誕之地」と書かれた石碑があり、ここでこの伝説を知らされる。母の名を八千代といい、彼女がこの寺に願をかけて生まれたのが篁だという。

 ということは願をかけた時点で寺があったことになるが、その寺は奈良時代に行基によって開かれたものだという。現在は真言宗御室派の寺である。真言宗の寺としての立地条件にこの山はよく合っている。

 仁王門をくぐると境内が広がる。手前が池で橋を渡ると本堂を中央に左右に護摩堂と十王堂が並んでいる。本堂が重要文化財である。永正八年(1511年)の建立。一重の堂で正面(桁行)三間、側面(梁間)三間、寄せ棟造り、?(こけら)葺きである。屋根の両端がやや反っていてラインが美しい。いつの世も我が子の出世を願う母の夢が託された堂なのだろう。

 渡辺郁夫 日本宗教学会会員



中国夢回廊24 誕生寺 2016年9月秋号
 
 誕生寺の名で有名なのは岡山県の誕生寺と千葉県の誕生寺だろう。美作誕生寺、安房誕生寺と地名を冠する方が間違いがない。おそらく西日本で誕生寺と言えば美作誕生寺、東日本で誕生寺と言えば安房誕生寺を指すのが普通だろう。美作誕生寺が浄土宗を開いた法然の生誕地に、安房誕生寺が日蓮宗を開いた日蓮の生誕地に建てられた。

 同様の経緯で建てられた寺としては空海の生誕地に建てられた香川県の善通寺がある。岡山県では臨済宗の栄西が備中の吉備津神社の神職の家に生まれているが、これは神社だった関係からか誕生寺に相当するものはない。法然と栄西は美作と備中だが距離的には近い地に生まれている。

 法然の父は漆間時国という武士である。その父のもとに長承二年(1133年)に法然が生まれた。漆間時国は美作の久米の押領使だった。押領使とは地方で警察機能と軍事機能を兼ねた職で、その地方の豪族が任命された。当時は荘園があった時代なので、押領使と荘園の管理者との関係は難しいものがあったようだ。漆間時国は対立する武士の夜襲を受ける。この時にわずか九歳の法然も戦ったという。しかし父は深手を負い、臨終の際には、法然に敵討ちをするのではなく、僧となって父の菩提を弔うようにとの遺言を残す。

 やがて法然は叔父の住む岡山県北にあった那岐山菩提寺で仏門に入る。その後比叡山で正式に受戒得度し、「智慧第一の法然坊」とまで言われた。しかしその思想は天台宗の枠を越える。比叡山を下りた法然は専修念仏という称名念仏だけで浄土に往生できるという教えを説き、鎌倉新仏教のトップランナーとなる。

 「南無阿弥陀仏」と称えるだけの法然の念仏は「南無妙法蓮華経」と唱える日蓮の題目の思想に影響を与えたと思われる。東西二つの誕生寺はそれぞれ念仏の誕生寺と題目の誕生寺と言っていいだろう。

 その法然の生誕地に誕生寺を建てたのは法然の弟子で鎌倉武士だった熊谷直実と言われる。直実は『平家物語』では平敦盛の首をとった後に無常を感じて出家したと言われている。武士出身で戦いが出家の縁になった点で法然と共通する。

 誕生寺は山門と本堂の御影堂が重要文化財。山門は正徳六年(1716年)再建の切り妻造り、本瓦葺きの薬医門。本堂は元禄八年(1695年)再建で入母屋造りの二重仏殿。本瓦葺きの禅宗様式で正面の唐破風が目を引く。内部の荘厳は争いのない世界を願った法然の夢を感じさせる。

 渡辺郁夫 日本宗教学会会員



中国夢回廊23 松江城 2016年6月夏号
 
 2015年に松江城が国宝に指定された。2011年に「松江開府400年祭」が行われ、それに合わせて松江城国宝指定運動が行われたが、建築年代を特定できる新資料の発見もあって国宝指定となった。待望久しい国宝指定だった。

 江戸時代までの天守が残る城は十二あり、国宝指定の城は長らく「国宝四城」と言われた姫路城、松本城、彦根城、犬山城だった。二条城も国宝だが、天守が現存しないために、通常は国宝指定の城には入れない。

 これまでの「国宝四城」の内、姫路城と松本城は誰しもが納得するとして、後の二城は他の城のある地域から異論が出てもおかしくはないと思われた。松江城は宍道湖の湖畔にある城として、琵琶湖の湖畔にある彦根城と立地条件が似ており、また天守の規模としては彦根城よりも大きいくらいなので、国宝に指定されてもおかしくなかった。

 松江と言えば親藩の松平氏の時代が長く、特に松平氏第七代の松平治郷が松平不昧公として茶人で有名である。松平不昧公の建てた茶室の菅田庵は国の重要文化財に指定されている。また松江が金沢と並ぶ和菓子処として有名なのも不昧公の影響と言われている。

 松江城を建てたのも松平氏かと思ってしまうが、そうではない。松江の藩主は松平氏の前に京極氏、京極氏の前が堀尾氏だった。関ヶ原の戦いで戦功をたてた堀尾氏が、はじめ入城したのは尼子氏の城として知られ、山中鹿介で有名な月山富田城だった。しかし城下町の建設に不利な土地で、宍道湖の湖畔の松江に新たな城を築くことになった。

 当時の藩主は堀尾吉晴の子の忠氏だったが、忠氏の急死によって実質的な建設者は吉晴になる。その吉晴も完成直前に亡くなる。堀尾氏は忠氏の子の忠晴に跡継ぎがなく、改易となった。

 湖畔に城下町を作るとなると低湿地との戦いが予想される。藩主の死と改易を巡っては城の建設時に立てられた人柱のせいであるかのような伝説が残る。しかし本当の人柱は城と城下町の建設に苦労した堀尾氏だったのではなかろうか。

 城は外観は五層だが、地階があり六階となる。正面に付櫓がある複合式天守で、湖畔の亀田山にたつ平山城である。別名は千鳥城。破風の形による命名だろうが、最上階の望楼からは宍道湖が見渡せ、千鳥となって湖上を飛び回るような錯覚に襲われる。「立つ鳥跡を濁さず」というが、その通りに新天地松江で城と町作りに情熱を傾けて飛び立っていった堀尾氏の夢を感じさせてくれる城である。

 渡辺郁夫 日本ペンクラブ会員


中国夢回廊22 洞春寺 2016年3月春号

 山口県の文化財は中世に山口を治めた大内氏と、大内氏に代わった毛利氏に関係するものが多い。萩は毛利氏関係が基本だが、山口市周辺になると大内氏の本拠地だったことから大内氏に関係するものが多く、大内氏の遺産の上に毛利氏が乗るという形も多い。

 山口市で最も有名な寺は国宝の五重塔がある瑠璃光寺だろうが、この塔は大内氏の建てた香積寺の塔で、毛利氏が香積寺を萩に移転する際に住民の嘆願で塔だけ残されたと言う。毛利氏が萩に藩庁を置いたのは大内氏の影響の強く残る山口を避けたのかもしれない。

 毛利氏の菩提寺は萩にある東光寺が奇数代、大照院が初代と偶数代に当てられている。幕末に長州藩の藩庁は萩から山口に移り、最後の藩主である毛利敬親から三代の墓地は瑠璃光寺の西側の香山墓所にある。

 毛利氏と言えば藩祖の毛利元就の菩提寺がどこか気になるが、これは萩にはなく山口の瑠璃光寺に隣接する臨済宗の洞春寺である。香山墓所をはさみ東に瑠璃光寺、西に洞春寺と並ぶ。

 瑠璃光寺は香山公園としてどこからが境内かよくわからないが、洞春寺は山門があり、入り口としてわかりやすい。寺の要素として山門と堂と塔を三大要素として数えることがあるが、やはり山門は重要だろう。

 この山門は重要文化財である。四脚門で檜皮葺の切り妻造りである。軒下を見ると大きな蟇股が目につく。彫刻のない質朴な板蟇股で、これがこの門の特徴である。この山門は大内盛見が建てた国清寺の山門だったと言われる。ここでも大内氏の遺産の上に毛利氏が乗る形になっている。

 山門を入り参道を進むと中門に至る。ここからが本格的な禅寺の雰囲気で正面に本堂がある。左手を見るとここに裳階の付いた禅宗様(唐様)の堂がある。

 これが洞春寺のもう一つの重要文化財である観音堂である。通常の禅寺では仏殿とする堂である。観音堂と呼ばれるのは本尊が聖観音菩薩だからだが、またこの堂がやはり大内氏の建てた観音寺からの移築であることも関係するのだろう。

 堂は一重裳階付きの入母屋造りで、現在は銅板葺きだが、その前はこけら葺きだったと言われる。桟唐戸と花頭窓は通常の禅宗様だが、裳階の軒下が垂木を使わない板軒である。これがこの堂の特徴である。

 洞春寺の山門と堂が重要文化財で、これに国宝の瑠璃光寺五重塔を合わせると寺の三大要素が揃う。西国の覇者としての大内氏の夢が毛利氏に引き継がれたのを感じさせる寺である。

 渡辺郁夫 日本宗教学会会員




中国夢回廊21 西國寺 2015年12月冬号
 
 尾道市には尾道水道に面した市街地に国宝の浄土寺、生口島に国宝の向上寺がある。さらに市街地にある二十五の寺の内、西國寺、西郷寺、常称寺、天寧寺が重要文化財の寺である。

 尾道駅を起点とする古寺巡りのコースをたどるとほとんどの寺に歩いて行くことができる。尾道水道に面する山も西から千光寺山、西國寺山、浄土寺山と、寺の名が付けられている。街と寺が一体化していると言ってもいいだろう。これほど短い距離に国宝や重要文化財の寺が幾つもあるのは近畿地方以外では珍しい。

 この古寺巡りのコースで最も北側に位置するのが西國寺である。西國寺山の麓から中腹にかけて展開する大規模な寺で、境内が何段階かに分かれている。

 初めに目に入る山門は楼門形式の仁王門である。西國寺は健脚祈願で知られ、大わらじが目を引く。ここが一段階目の境内で、ここから百八の石段を登る。煩悩の数と同じ段数である。

 この石段を登ったところの二段階目の境内の中央に鎮まるのが重要文化財の金堂である。西國寺は奈良時代に行基によって開創されたと言われる真言宗の古寺である。このような古寺によくあることだが、何度か火災に遭い、現在の金堂は南北朝時代至徳三年(1386年)に守護の山名氏により再建された。本堂を金堂と呼ぶのは奈良の古寺に多いが、その雰囲気が漂う。

 正面桁行きが五間、側面梁間が五間、朱塗りで本瓦葺きの入母屋造りである。五間四方の堂は寺の堂としては中規模と言えるが、大きすぎず小さすぎずほどよい大きさと言えるだろう。折衷様と言われているが一見するとほぼ和様である。再建に際して元の様式を踏襲し、一部に当時の様式を取り入れたのだろう。市街地の喧噪はここまでは届かず、静かな古寺の趣である。

 金堂のある段の次の三段階目の境内が四段階ある境内の中で最も広く、本坊、持仏堂、不動堂、毘沙門堂、大師堂と続く。真言宗らしい加持祈祷の場である。

 注意しないとここで終わりと思ってしまうが、さらに登った四段階目の境内に三重塔がある。この境内は狭い。塔をできるだけ高く見せたいという思いがこの位置を選ばせたのだろう。

 この三重塔も重要文化財である。永享元年(1429年)の建立で、室町幕府六代将軍足利義教の寄進である。朱塗りの本瓦葺き和様の塔で、いかにも古寺らしい。寺の名は「西国一」を意味するそうだが、確かに「西国一」を目指した尾道の人々の夢が受け継がれるのを感じる寺である。

 渡辺郁夫 日本宗教学会会員


中国夢回廊20 宝福寺 2015年9月夏号
 
 鎌倉新仏教の浄土宗を開いた法然と臨済宗を開いた栄西は生年も生誕地も近い。法然が1133年に美作に生まれ、生誕地には重要文化財の誕生寺がある。

 栄西は1141年に吉備津神社の社家に生まれた。吉備津神社は国宝である。栄西は1215年に亡くなったので、今年2015年が没後800年、前年が八百回大遠忌の年だった。

 吉備の産んだ偉人としてこの二人に続くのが1420年生まれの雪舟だろう。まもなく生誕600年を迎える。雪舟は画聖として知られるが、何よりも臨済宗の禅僧である。栄西は郷里の誇る憧れの先達だった。

 その栄西の跡を慕うように雪舟は日本国内のみならず中国にまで渡り、禅と水墨画の修行を続ける。禅では中国の天童山景徳寺で第一座の位を与えられている。絵画の修行のためだけに中国に渡ったのではない。彼の水墨画は禅で得た精神的境地の表現として描かれたものである。もし人が彼を絵師と呼ぶなら彼は即座に否定するだろう。

 その雪舟の修行の出発点にあったのが、生誕地総社の宝福寺である。小僧の雪舟が柱にくくられて涙と足で鼠の絵を描いたと言われる伝説の残る寺である。

 この寺は三重塔が重要文化財になっている。本堂に当たる仏殿(法堂)の奥にあり、朱塗りの鮮やかな塔である。この塔で重要なのはその建立年代である。永和二年(1376年)の建立である。即ち雪舟が生まれた時にはすでに建立されていた。雪舟の見た三重塔を今も見ることができる。

 この雪舟と宝福寺三重塔との関係と似た関係にあるのが、平山郁夫と彼の生誕地広島県生口島にある国宝向上寺三重塔との関係だろう。平山郁夫も「仏教伝来」などを描き、仏教との結び付きの強い画家である。現代の絵仏師と言えるだろう。幼いころから見続けた国宝の塔は彼の仏教絵画の原点だったと思われる。

 宝福寺は戦乱によりほとんどの伽藍を消失したが、奇蹟的に三重塔が残った。江戸時代に復興が進み、現在は七堂伽藍を備える本格的禅宗寺院となっている。

 禅宗寺院の造作は栄西が中国からもたらした禅宗様が基本で、宝福寺では復興された仏殿が禅宗様である。三重塔も栄西の生誕地に近いので禅宗様かと思うが意外にも和様である。

 他の伽藍も元は和様だったのだろう。一見すると中国風の雪舟の絵も原点はやはり日本にあり、そこから夢見たものが彼を飛躍させたのだろう。少年時代の雪舟が見た夢、それはまた栄西の夢でもあったはずだ。

 渡辺郁夫 日本宗教学会会員



中国夢回廊19 萬福寺 2015年6月夏号
 
 中国地方には雪舟ゆかりの寺が幾つかある。生誕地の備中の総社には宝福寺がある。大内氏に招かれた山口には雪舟庭で知られる常栄寺、晩年を過ごしたと言われる益田には同じく雪舟庭で知られる萬福寺と医光寺がある。また益田には雪舟の郷記念館がある。

 これらの寺の内、本堂が重要文化財になっているのが益田の萬福寺、三重塔が重要文化財になっているのが総社の宝福寺である。萬福寺は本堂が重要文化財でしかも雪舟作の庭がある。また他には重要文化財の「二河白道図」がある。

 益田に雪舟を招いたのは益田七尾城の城主益田氏で、萬福寺は益田氏の菩提寺だった。大内氏にしても益田氏にしても雪舟を招くだけの力があり、雪舟も菩提寺の作庭まで引き受けることで腕をふるい、その期待に応えたのだろう。

 重要文化財の本堂は十四世紀の建造で寄せ棟造りである。一口に寄せ棟造りと言っても、屋根を正面から見て台形の上辺に当たる大棟の長さにより印象は変わる。大棟が長くなると切り妻造りに近くなり、短くなると宝形造りに近くなる。

 萬福寺は正面の柱間が七間あるが、大棟は中央部の一間よりやや長い程度であり、二間には届かない。寄せ棟造りの大棟としては短い方である。おそらくそのせいだろうが、大棟から左右に下る隅棟のラインが長く、全体として柔らかく優美に感じられる。萬福寺は浄土教の一派である時宗の寺だが、浄土教は日本仏教の中では慈悲を中心とした宗教なので、本堂の優美さと宗旨とがよく合う。

 七間の大堂だと写真を撮るのに全景を入れるのが難しいのが普通だが、萬福寺の本堂前の境内は広く、写真撮影に不自由はない。また側面から見ると寄せ棟造りの屋根は三角形に見えるが、この眺めも楽しめる。

 雪舟の庭はこの本堂の背後にある。本堂の幅が広いので当然のこと背後の庭も横幅が長くなる。中央に須弥山石を置き、なだらかな築山が広がる。その前景に心字池を配する。石が中心だが緑と水も豊かである。

 一つひとつの石を見るとごつごつしているがそれほど大きくはないので、全体としては厳しさよりも優しさを感じる。本堂との調和を考えたのかもしれない。

 雪舟の代表作に毛利博物館所蔵の幅十六メートルの大作「四季山水図」、通称「山水長巻」がある。横長の構図や手前の水は、この庭に表されるものとよく似ているように思う。この庭も四季折々の姿を見せる。画聖雪舟の夢見た世界、雪舟の浄土がここに広がる。

 渡辺郁夫 日本宗教学会会員


中国夢回廊18 東光寺 2015年3月春号
 
 2015年のNHK大河ドラマは吉田松陰の妹の杉文を描く「花燃ゆ」。城下町萩は明治維新胎動の地。志士達の駆けた町並みが今も残る。重要文化財の建造物が多く、町並みが保存される重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)もある。

 松陰生誕地にある松陰神社には松陰の純粋な魂が宿る。境内に残る松下村塾はあまりに小さく、建物の小ささと志の大きさが対照的だ。やはり教育は人なのだ。

 その松蔭神社のすぐ近くに東光寺がある。東光寺は直接明治維新には関係ないが、重要文化財の堂宇と毛利家墓所で有名である。
 重要文化財で弁柄塗りが鮮やかな総門は松陰や志士達も見たはずの「護国山」の額を掲げる。切り妻屋根の中央が一段高くなる段違いの門である。どこか日本の寺と違うものを感じる。

 実はこの寺は江戸時代に成立した最も新しい仏教の宗派である黄檗宗の寺で、京都宇治の萬福寺が本山である。黄檗宗の国宝の寺では長崎の崇福寺がある。東光寺の規模は本山の萬福寺に匹敵すると言われ、日本有数の黄檗宗寺院である。

 重要文化財の大雄宝殿は入母屋造り一重裳階付きで黄檗様式の大建築。総門より大きい二重門の三門と鐘楼も重要文化財である。
 黄檗宗は中国から来日した隠元禅師を祖とする。隠元は長崎に上陸し黄檗宗は長崎から始まる。この時期は明末清初で漢民族の明は満州族の清に征服された。鎌倉時代にも中国の禅僧が多く来日したが、この時期も中国が蒙古の元によって征服された時期だった。

 鎖国した日本は明の文化人の来日で最新の文化に触れた。黄檗版一切経の明朝体は日本の漢字の標準字体となった。水戸徳川家では光圀に明朝遺臣の朱舜水が招かれ水戸学に影響を与えた。水戸学は明治維新の思想的背景で松陰も影響を受けた。東の端の水戸と西の端の長州が呼応して明治維新が始まるが、その種は早くも江戸初期にまかれた。

 毛利家墓所には東光寺開基の三代吉就とそれ以降の奇数代の藩主の墓が並ぶ。初代と二代以降の偶数代の墓は臨済宗大照院にある。父祖の寺があるのになぜ黄檗宗の寺を建てたのか。

 「護国山」の額を見ると最新の文化を摂取することで国を護ろうとしたかのように見える。本山級の伽藍といい、萩にあっての護国といい、吉就は毛利家再興どころか藩の枠を越えた大きな夢を抱いていたのだろうか。吉就は志半ば二十代で斃れた。松陰は長崎をはじめ全国を行脚した。松陰や志士達は吉就の夢を引き継いだのかもしれない。

 渡辺郁夫  日本宗教学会会員



中国夢回廊17國前寺 2014年12月冬号

 
 JR広島駅で降りた観光客はほとんどの人が表玄関に当たる南口に向かうだろう。南口から広島電鉄の市内電車に乗ると広島市内のデルタ地帯のほぼ全域に行くことができる。広電西広島駅を経れば宮島まで足をのばせる。原爆ドームと宮島という二つの世界遺産を結ぶルートでもある。

 ただこちら側は原爆ドームに向かうルートであることからわかるように爆心地に近い側である。広島駅からは北西に当たる牛田の不動院金堂が広島市に残る唯一の国宝建造物である。不動院では他に山門と鐘楼が重要文化財となっている。さらに梵鐘と薬師如来坐像も重要文化財である。牛田山の陰になり原爆の被害が少なかったことによる。

 不動院より爆心地に近い場所にあり重要文化財となっているのが広島駅の北にある國前寺の本堂と庫裏である。ここは牛田山山系に連なる二葉山の南麓に当たり爆風の直撃を受けた。

 広島駅の北、二葉山から牛田山の山麓にかけて古寺社が多い。太田川の運ぶ土砂による広島デルタの形成前の陸地であることと、広島城の北東に当たり、鬼門封じの役割によるようだ。

 近年、この一帯にある七つの寺社による広島七福神が初詣客を多く集めるようになった。広島駅より南に向いていた足が北にも向かうようになったようだ。

 広島七福神を東から回ると、まず布袋尊を祀る曹洞宗聖福寺。次に大黒天を祀る日蓮宗國前寺。続いて寿老人の尾長天満宮、福禄寿の広島東照宮、弁財天の鶴羽根神社、毘沙門天の真言宗明星院、恵比寿の饒津神社。以上の三寺四社である。

 大黒天、弁財天、毘沙門天がインド起源の仏教の護法神。布袋尊が中国の禅僧。寿老人と福禄寿が中国の道教の神。恵比寿が日本の神。国際色豊かで宗教の幅も広く国際平和文化都市広島にふさわしいかもしれない。

 國前寺はこれらの中でも比較的広島駅に近い。二重門となっている山門は江戸時代のものである。爆心地からの距離は2.6キロ。よく爆風に耐えたものだ。

 この門をくぐると本堂と庫裏が目の前に迫る。いずれも江戸時代の建立で重要文化財。庫裏は切り妻造りで禅宗の本山を思わせる。
 本堂は寄せ棟造りの二層の屋根で、その二層目の軒に驚かされる。一面鮮やかな白の漆喰に覆われ木部が見えない。何と城に使う塗り籠めである。降りかかる火の粉を払うまさに護法の城。日蓮の唱えた「立正安国」を掲げる平和の砦でもある。原爆に耐えてこれからも平和という正夢を守り続けてくれるに違いない。

 渡辺郁夫 日本宗教学会会員


中国夢回廊16備中国分寺
 2014年9月秋号
 
 吉備路の魅力は、まず巨大な古墳があることからわかるように、ここに確かに古代吉備国があったことを感じさせることだろう。

 桃太郎伝説は「犬猿の仲」のような対立する氏族を統合した名君がいたことを思わせる。この地の出身で首相となった犬養毅の祖先の犬飼氏は桃太郎の家来の「犬」に当たるというのだから驚かされる。犬養毅は「五・一五」事件で斃れたが、「話せばわかる」という彼の言葉は桃太郎の統治原理かもしれない。「問答無用」ではなかったはずだ。

 この地は古代のロマンをかき立てるだけでなく古代が現代に続いていることを感じさせる。吉備津神社、吉備津彦神社、総社宮、最上稲荷、宝福寺、備中国分寺と幾つもの古寺社がある。最上稲荷は名を聞くと神社に聞こえるだろうが、日蓮宗の寺院である。神社と寺院のバランスもとれている。奈良を凝縮したような感じがする地域である。

 奈良になぞらえれば、奈良の東大寺に当たるのがここでは備中国分寺だろう。東大寺が全国の総国分寺だった。東大寺には失われたまま、なぜか再建されなかった仏塔が二基あった。礎石によりその位置が確認されている。大仏殿の焼失という一大事があり、そちらを優先させたために、おそらくは仏塔の再建にまで手が回らなかったのだろう。

 しかし仏教の流れから言えば仏舎利を納めた仏塔は信仰の中心だった。中国地方の国分寺で仏塔が今もあるのは備中国分寺で、全国的にも貴重な存在だ。もちろん創建時のものではなく江戸時代の再建で、現在は真言宗御室派の寺である。

 周囲が田園地帯のせいで五重塔は遠くからよく見える。吉備路のシンボルタワーとして、季節により菜の花、蓮華草、コスモスと咲き乱れ、花越しに見る塔は人々を古代へとタイムスリップさせる。それとともに慌ただしい日常を離れた別世界へと誘ってくれる。吉備津神社の延々と続く回廊も別の世界に誘う装置だが、こちらの方は開けていて気持ちがのびのびする。


 近づくにつれ見上げる角度がどんどんきつくなる。総高が約34メートルある。塔は重要文化財だが、実は中国地方の国宝五重塔である福山の明王院五重塔や山口の瑠璃光寺五重塔よりもこちらの方が高い。

 高さを感じさせるのは総高のせいだけではなく各層の軒が短いことも影響しているようだ。本瓦葺きで和様を基調とする。塔を見上げていると、塔の再建にかけた人々の思いが空の彼方で吉備国再興の夢とつながっているように思える。

 渡辺郁夫 日本宗教学会会員



中国夢回廊15 大山寺 2014年6月夏号
 
 中国地方一の高さを誇る大山は伯耆富士の名を持ち、円錐形の山容が慕わしい。その山容に惹かれて近寄り周囲を巡ると、山は次々と姿を変える。むき出しの岩肌が屏風のようにそそり立つ姿は峻厳でもある。

 見方によって変わる大山の姿は山岳信仰に依る大山寺のあり方をよく表している。元来は神仏習合で大山寺と大神山神社は一体の関係だった。明治の神仏分離によって大山寺は寺号が廃されるという目にあうが、やがて寺号は復活し、天台宗の別格本山として千三百年の法灯を今に伝える。

 大山の厳しさと結び付いた天台宗の信仰としては密教がある。大山寺の起源は八世紀に金蓮上人が結んだ草庵に遡るとされる。これは九世紀に最澄が天台宗を開く前のことである。その後、天台宗に組み込まれて修験道の霊場になったと思われる。現在の大山寺の本堂である大日堂は天台宗の密教面をよく表している。

 大日堂に向かう参道は途中で大神山神社奥宮に向かう参道と分かれる。大神山神社に向かう参道の方が長い。初夏でも雪が残っていることがあり、この山の厳しい自然がよくわかる。大神山神社奥宮は冬期の参拝が難しく麓の米子市尾高に大神山神社本社がある。

 大山寺にはもう一つ重要な堂がある。それは佐陀川にかかる大山寺橋を渡って登山道の途中から右に入ったところにある阿弥陀堂である。大山寺の本堂の大日堂は昭和の再建で、阿弥陀堂も再建だが十六世紀の再建である。現在の大山寺の堂宇では最古の建物で、国の重要文化財。大神山神社奥宮も国の重要文化財だが十八世紀の建立なので建物としては阿弥陀堂が古い。

 最澄が天台宗を開いた時には法華経信仰を中心に密教を合わせたものだった。その後、天台宗は密教化が進むが、阿弥陀仏の浄土信仰も盛んになる。この密教と浄土教の両者を併せて伝えたのが最澄の弟子で入唐した慈覚大師円仁だった。

 円仁は師が登った天台山を目指すが、許されず五台山に学ぶ。そこで浄土教を承けた。円仁以降天台宗では阿弥陀堂が盛んに建てられた。常行三昧という念仏行をするので常行堂ともいう。九州の富貴寺阿弥陀堂(大堂)から東北の中尊寺金色堂まで阿弥陀堂は全国に及ぶ。

 その一つが大山寺阿弥陀堂で平安時代の創建とされる。現在の堂は方五間宝形造り?葺きで本尊は阿弥陀三尊。厳しい自然に耐え抜き西に面を向けるその穏やかな表情は人々を西方浄土に誘う。大山の慕わしい姿に重なって見える。古人の浄土への夢の結晶である。

 渡辺郁夫 日本宗教学会会員


     

中国夢回廊14 周防国分寺 2014年3月春号
 
 聖徳太子の『十七条憲法』に「篤く三宝(仏・法・僧)を敬え。」と説かれてから日本における仏教国教化の流れが始まった。飛鳥時代の推古天皇十二年(604年)のことである。

 それから百年以上経ち、聖徳太子の理想を具現化しようとしたのが奈良時代の聖武天皇だった。天平十三年(741年)に「国分寺建立の詔」が出された。国ごとに国分寺と国分尼寺を建てよという詔勅である。

 奈良の東大寺が総国分寺、法華寺が総国分尼寺とされた。正式名は国分寺が金光明四天王護国之寺。聖徳太子が最初に建立した寺が四天王寺だった。国分尼寺は法華滅罪之寺である。

 「護国之寺」とあるように「鎮護国家」が国分寺建立の大きな目的だった。また国分尼寺も同時に建立されたことも見逃せない。聖武天皇と光明皇后が一体となってこの計画を推進しようとしたことが伺われる。

 同様の発想は形を変えて受け継がれ、室町時代には各国に安国寺が置かれた。明治以降は護国の中心は神道になり、各地に建てられた招魂社が昭和になって護国神社に改称された。

 各地の国分寺は地名として残る所は多いが、遺構が大規模に残る所は少ない。中国地方では周防国分寺と備中国分寺が有名で、重要文化財となっている。周防国分寺は周防国の国府だった防府にあり、防府天満宮や毛利氏庭園と近い。

 境内でまず迎えてくれるのは仁王門である。本瓦葺き入母屋造り三間一戸の楼門で、軒下が放射状に垂木が広がる扇垂木になっており禅宗様とわかる。山口は大内氏が禅宗を取り入れたのでその影響かとも思われるが、江戸時代になって毛利輝元により再建された。

 楼門をくぐると正面に重要文化財の巨大な金堂が鎮座する。本瓦葺きで一層目が桁行き七間、梁間四間、二層目が入母屋造りで五間、三間となる。軒下は一層目が和様の組み物で、二層目が扇垂木に詰め組の禅宗様である。十八世紀に毛利氏により再建された。

 平成に入り解体修理が行われ、創建時の規模は七間と四間だが、現在よりも一回り大きかったことが確認された。また国分寺は七重塔を備えることになっていたが、周防国分寺にも七重塔があり、塔跡が確認されている。創建時の国分寺の規模の大きさがわかる。現在は高野山真言宗である。

 創建時の本尊は釈迦如来だが、後に薬師如来となった。金堂内では本尊の薬師三尊像を四天王が護る。全国に「金光明四天王護国之寺」を建てた聖武天皇の壮大な夢を今に伝えている。

 渡辺郁夫 日本宗教学会会員


中国夢回廊13 明王院 2013年12月冬号
 
 広島県東部の三原市、尾道市、福山市はそれぞれの特色がある。三原市は小早川氏の城下町で安芸と備後にまたがる。尾道市は備後の尾道水道に沿って開けた港町で商人の町である。福山市は備後の中心地で、江戸時代には水野氏阿部氏と続く譜代大名の城下町だった。福山城は空襲で焼けたため復元天守閣で内部は福山城博物館になっている。

 その福山城のそばに広島県立歴史博物館があり、二つの博物館が並立する。展示を見るとその理由がわかる。県立歴史博物館は「東洋のポンペイ」と呼ばれた芦田川河口の「草戸千軒町遺跡」の発掘により開設され、主に中世までの福山の歴史を知ることができる。

 江戸時代に城下町になる前は、内陸部の山陽道沿いの神辺周辺が陸上交通と陸運の中心で、瀬戸内海に突き出す沼隈半島の鞆の浦とその付け根にある草戸千軒町が水運の中心だった。

 伝説では草戸千軒町は大洪水で一夜にして水没したとされているが、実際は何度かの洪水で徐々に衰退したらしい。水没した関係で保存状態がよく中世の暮らしを知ることができる。

 芦田川河口の明王院を訪れるとそれと並んで草戸稲荷の大きな社が目に入る。一見もの寂しいような場所に二つの寺社が並んでいるのが不思議だが、その前に草戸千軒町があったと知ると、理由がわかり感慨深い。

 明王院は寺伝では大同二年(807年)開創という古刹である。この年は空海が唐から帰朝した翌年で寺伝通りなら真言宗では最古の寺になる。真言宗に大同二年開創という寺は多い。真言宗大覚寺派に属する。

 本堂と五重塔が国宝で、明王院の堂塔は草戸千軒町の繁栄と財力を背景に成立したと思われる。草戸千軒町が明王院の門前町だった。町の水没後、江戸時代は福山藩の崇敬を受けた。

 本堂は正面(桁行き)五間、側面(梁間)五間、本瓦葺き入母屋造りで、地理的に近く同じく真言宗の尾道浄土寺本堂と似ている。ともに瀬戸内での中世折衷様の代表とされる。明王院本堂が元応三年(1321年)建立で、浄土寺本堂が嘉暦二年(1327年)。

 五重塔は和様の塔で貞和四年(1348年)。浄土寺多宝塔は嘉暦三年(1328年)。草戸千軒と尾道が競い合って堂塔を建立したのが目に浮かぶようだ。

 しかし「ゆく河の流れは絶えずして」草戸千軒は無常の流れに消えた。水運によって栄えた町が水によって滅びた。塔はその夢の跡なのか。あるいは塔には今も町と塔を見上げる人が見えているのかもしれない。

 渡辺郁夫 日本宗教学会会員



中国夢回廊12 向上寺 2013年9月秋号
 
 尾道市の生口島に渡るには今では車でしまなみ海道を通るのが普通かもしれない。しまなみ海道を本土側から四国側に向かうと、向島、因島を経て生口島に至る。このルートで行くと、耕三寺と平山郁夫美術館が観光の中心になるだろう。

 耕三寺は「西日光」の名で知られ、生口島出身の実業家である金本福松(耕三)が建てた浄土真宗の寺である。日光東照宮の陽明門を模した孝養門や宇治の平等院鳳凰堂を模した本堂など、日本の国宝建築を模した堂塔がずらりと並ぶ。国の登録有形文化財が十五棟あり、国宝建築を知る上では非常に参考になる。

 平山郁夫美術館は、生口島出身の日本画家で、仏教伝来のルートであるシルクロードを題材にした作品で知られる平山郁夫の作品を所蔵する。耕三寺と平山郁夫美術館を巡れば、シルクロードの彼方から伝わった国際色豊かな仏教美術の世界を堪能できるだろう。

 もう一つ忘れてほしくないのが瀬戸田港の近くの潮音山に建つ国宝の向上寺三重塔である。かつては三原や尾道から船で瀬戸田港に渡った。生口島の海の玄関瀬戸田港のシンボルタワーが向上寺三重塔だった。今も船便はあり、航海の安全を祈る気持ちがここに仏塔を建てさせたのだろう。

 船では三原港からの方が近く、向上寺も三原との関係が深かった。向上寺は生口島の地頭だった生口氏により、三原の仏通寺の開山でもある愚中周及を迎えて応永十年(1403年)に創建された。塔は永享四年(1432年)の建立。仏通寺は臨済宗の本山の一つで向上寺はその末寺だった。江戸時代になって同じく禅宗の曹洞宗となった。

 禅宗寺院の仏塔という点で、また臨済宗から曹洞宗になった点でも瑠璃光寺五重塔と似た立場にある。瑠璃光寺五重塔は和様が基調で、一部に禅宗様が入っているが目立たない。向上寺三重塔は和様と禅宗様の折衷だが、瑠璃光寺五重塔よりも禅宗様の印象が強い。

 塔は石段の上に建つので高く見える。登るにつれ花頭窓や桟唐戸から禅宗様が入っているのがわかる。一層目の軒裏は放射状になる扇垂木で、これも禅宗様の特色である。朱が鮮やかで組み物にも装飾が入り、全体的に明るく華やかである。瀬戸内海の明るい陽光を受ける塔として自ずからそうなったのだろうか。

 塔の裏山の潮音山に登ると塔と海が見える。ここからの風景を描いた平山郁夫の陶板画が置かれている。平山郁夫のシルクロードへのはてしない夢はここから始まったのかもしれない。

 渡辺郁夫 日本宗教学会会員



中国夢回廊11 瑠璃光寺 2013年6月夏号

 屋外にある五重塔のうち国宝になっている塔は九基ある。京都の醍醐寺、海住山寺、東寺、奈良の法隆寺、室生寺、興福寺、山形の羽黒山、山口の瑠璃光寺、広島の明王院である。中国地方に九基のうち二基がある。広島には国宝の浄土寺多宝塔と向上寺三重塔もあるので中国地方には三種類の国宝仏塔が揃っている。

 浄土寺の多宝塔が多宝塔の日本三名塔の一つと称されるが、瑠璃光寺の五重塔も五重塔の日本三名塔の一つと称されている。残りの二つは奈良の法隆寺と京都の醍醐寺の五重塔である。

 この名塔の基準は特にあるわけではないので、人によっては五重塔の三名塔に興福寺五重塔や東寺五重塔を入れたくなるのではあるまいか。高さとしては東寺五重塔が最も高く、次が興福寺五重塔でいずれも五十メートルを超える。

 瑠璃光寺を見ない人が興福寺五重塔や東寺五重塔を三名塔に入れたくなるのはもっともだが、実物を見れば沈黙してしまうのではあるまいか。背景の豊かな緑、前景の池に囲まれて檜皮葺の五層の屋根が軽やかに重なる様は、自然の美と人工の美の調和として四季折々にこれ以上は望めないほどの景観を醸し出している。

 この塔は元来は香積寺の塔だった。大内義弘が建立した臨済宗の寺であり、義弘の戦死後、弟の大内盛見が兄を弔うためにこの塔を建立した。仏塔だが義弘の墓とも言える塔である。嘉吉二年(1442年)のことで、五百年の風雪に耐えた大内文化の遺産である。

 大内氏は家臣の陶氏に滅ぼされ、さらに毛利氏の広島からの移転により山口の主は次々と代わった。毛利氏は香積寺を萩に移転するが、塔は地元民の嘆願によりこの地に残された。大内氏の栄華への郷愁と誇り、山口のシンボルタワーとしての存在感が人々を動かしたのだろう。山口人がこの塔を愛する気持ちはそれ自体が一つの宗教と言える。

 香積寺自体は萩に移転したのだが、その後に入ってのは何と大内氏を滅ぼした陶氏の寺であった曹洞宗の瑠璃光寺だった。山口市の仁保からの移転である。瑠璃光寺を訪れると、回廊で囲まれた三門の外に五重塔と庭園が広がるので寺の塔の位置として不思議な感じがするが、これは以上のような複雑な理由による。

 臨済宗も曹洞宗も禅宗なので塔も禅宗様かと思うが意外にも和様である。一部、二層目の縁に逆蓮頭という禅宗様が採り入れられている。自然への同化の仕方はいかにも和様である。山口人に愛され、その夢とともに生き続けた名塔である。

 渡辺郁夫 日本宗教学会会員



中国夢回廊10 浄土寺 2013年3月春号
 
 浄土寺の名を持つ寺は全国にある。国宝の寺である尾道市の浄土寺は真言宗泉涌寺派の寺である。同じく国宝の寺の浄土寺は兵庫県小野市にもあり、こちらは高野山真言宗である。

 尾道は坂の街として知られ、対岸の向島との間の尾道水道に開けた港町である。坂を登れば海が見える。古寺も多く、名刹千光寺には麓からロープウェイが通じている。千光寺も真言宗の寺である。浄土寺は市街地の最も東に位置する。その境内からは尾道水道が眼下に見え、海と山と堂塔の取り合わせが見事である。

 国宝となっているのは本堂と多宝塔である。特に浄土寺の多宝塔は石山寺多宝塔、高野山金剛三昧院多宝塔とともに日本三大多宝塔と呼ばれる。塔自体の美しさもさることながら、海の見える多宝塔としての取り合わせの見事さだろう。尾道市では生口島の向上寺三重塔も国宝で、これも港と海の見える塔である。瀬戸内海周辺の寺社は海との関係が深いのだろう。

 日本三大多宝塔の寺はいずれも真言宗だが、多宝塔は真言宗で好まれた。二重塔に見えるが正式には単層の塔に裳階が付いたものである。しかし裳階の軒の下が方形でその上が円形となり二重に見える。二層目の屋根は宝形造りと同様でそれぞれの面が三角形に見える。さらにその上に立つ相輪は直線的である。塔全体としては四角形、円形、三角形、直線と幾何学的な構成で変化に富んでいる。幾何学的な構成は曼荼羅に通じる。多宝塔は立体曼荼羅なのだろう。また裳階の上の亀腹が白く、塔の朱色や連子窓の緑と呼応し合って色の変化にも富んでいる。

 国宝の本堂は桁行き五間、梁間五間で入母屋造りである。和様を基調としているが東大寺の再建に使われた大仏様(天竺様)を取り入れた折衷様である。地理的に近い福山市の明王院本堂とよく似ている。

 東から多宝塔、重要文化財の阿弥陀堂、本堂と並ぶと、境内の広さからちょうどよい組み合わせとなる。阿弥陀堂が寄せ棟造りで、三者三様で変化に富んでいる。本尊は多宝塔が大日如来、阿弥陀堂が阿弥陀仏、本堂が十一面観音である。

 これらの堂塔を寄進したのは尾道商人と言われ、その財力と信仰心の賜物である。港町尾道に往来した様々な文物や文化から、宗教も含めて最も好ましいものを選んで組み合わせたように見える。それが彼らにとっての「浄土」だったのだろう。その洗練された多様性、折衷性は瀬戸内文化の特色だろう。浄土寺は尾道商人の夢の結実である。

 渡辺郁夫 日本宗教学会会員



中国夢回廊9 住吉神社 2012年12月冬号
 
 瀬戸内海とその周辺には幾つかの海の神を祀った神社がある。海上神殿をもつ厳島神社が最も海の神らしいだろうか。厳島の神は九州の宗像大社の宗像三神を勧請したもので女神である。それに対して大阪の住吉大社と下関の住吉神社に祀られる底筒男命、中筒男命、表筒男命の住吉三神は男神である。厳島神社、住吉大社、下関の住吉神社はいずれも国宝である。

 他に愛媛県の大三島に祀られる大山祇神社は元は山の神だったものが海に進出して海の神にもなったものである。ここは軍事の神としても有名で多くの国宝の甲冑を所蔵している。

 また香川県の金刀比羅宮は金毘羅さんとして親しまれるが、インドのガンジス河の鰐が仏教の守護神となったクンビーラを音写したものだ。海や川、湖沼など水辺に祀られる弁才天も元はインドの水の女神であるサラスヴァティーである。

 このように由来もまちまちで国際色が豊かなのが海の神の特徴と言えるだろう。下関も古来朝鮮半島や大陸との出入り口として栄え、今もその性格は変っていない。そのためか壇ノ浦の戦いや下関戦争と歴史の転換点になってきた。

 その転変する歴史を見続けてきたのが長門一宮である住吉神社である。大阪の住吉大社が瀬戸内海の始まり、下関の住吉神社がその終わりと大海の始まりを表すのだろう。関門海峡との関係ではワカメを刈る和布刈神事が有名である。

 もう一つ重要な役割分担として大阪の住吉大社が住吉三神の和魂を祀るのに対して下関の住吉神社はその荒魂を祀る。これは三韓征伐に向かう神功皇后に住吉の神が我が荒魂を祀れという託宣を下したことに由来し、軍事の神としても信仰された。住吉大社が和魂との関係からか和歌の神でもあるのと対照的だ。軍事の神として大山祇神社と似た点がある。長門の国を支配した大内氏も毛利氏も住吉神社を崇敬し、大内氏が国宝の本殿を、毛利氏が重要文化財の拝殿を寄進した。

 国宝の本殿は住吉大社の住吉造りとは全く別の造りで、五つの社殿を四つの合いの間でつないだ九間社流れ造りという珍しいものだ。社殿の幅の広さは海の広がりを表すかのようだ。あるいは九間は九州を暗示し、大内氏は九州平定を夢見ていたのかもしれない。

 大内氏の建てた本殿の前に毛利氏が置いた拝殿は本殿全体の焦点のようになっていて、ここから広がるようだ。それは関門海峡とその先に広がる世界の関係のようで、海峡の彼方を夢見た古人の心を感じさせる。

 渡辺郁夫 日本宗教学会会員



中国夢回廊8 不動院金堂2012年9月秋号

 
 広島県には世界遺産が二つある。厳島神社と原爆ドームである。厳島神社は宗教施設で、原爆ドームは歴史的遺跡だが見方によれば宗教的な意味を帯びる。

 原爆ドームに隣接する平和公園の原爆慰霊碑は家の埴輪型になっていて、その埴輪のアーチの中に川の対岸にある原爆ドームが浮かびあがる。平和公園と厳島神社の両方を見た方なら、この関係が厳島神社の大鳥居から社殿を拝むのと同じような関係になっているのに気付くだろう。人々は慰霊碑の前で手を合わせ、原爆ドームを仰ぎながら犠牲者を悼み、平和を祈る。

 実はその先にさらに広島市で最も古い慰霊の施設がある。しかしそう言われても原爆ドームの向こうは市街地だし、さらにその先には牛田山があるので何も見えない。この爆心地から直接見えない場所にあることでその慰霊の施設は原爆の被害をかろうじて免れた。

 原爆ドームから近い県庁前駅からアストラムラインに乗り数分で不動院前駅に着く。山裾に大きな堂が見える。それが国宝の不動院の金堂である。アストラムラインに乗って来ると原爆の被害を免れたのが紙一重の差だったことがわかる。爆心地と牛田山と堂の位置関係が実に微妙なのだ。実際には堂は爆風を受けたが、山が堂を庇う形になり、一部の柱は折れたものの、かろうじて倒壊を免れた。

 そのため被爆建物としても、また原爆投下直後に避難した被爆者が亡くなった場所としても、さらに境内の墓地に葬られた被爆者との関係からも、不動院金堂は慰霊碑的な意味をもつ。

 そしてそれは原爆との関係だけでなく、そのはるか前、室町時代から元々ここは慰霊の寺だった。というのは室町幕府は鎌倉幕府倒幕時からの戦乱で命を落とした人々の慰霊のために全国に安国寺を建てたが、ここはその一つ安芸安国寺だった。真言宗の不動院となったのは江戸時代からだ。

 安芸安国寺時代の宗派は臨済宗で、金堂を建てたのは毛利氏の外交僧だった安国寺恵瓊だった。正確には山口からの移築とされる。禅宗様式の仏殿の見事な例で、柿葺きの入母屋造りに裳階を巡らし、下関の功山寺仏殿を拡大したように見える。現存する中世禅宗仏殿では最大規模とされる。

 恵瓊は毛利に滅ぼされた広島の武田氏の遺児だったと言われる。武田氏の復興を夢見たのだろうか。政僧として出世し大名にまでなるが、最後は斬首された。ここに彼の夢は潰えたかに見える。しかし彼の遺産は原爆に耐えて生き残り、被爆地唯一の国宝となった。

 渡辺郁夫 日本宗教学会会員



中国夢回廊7 閑谷学校 2012年6月夏号

 日本の学校制度は全国的には明治時代になって始まるが、それに先立つものとして江戸時代には幕府に昌平黌があり、また各地に藩校があった。さらに庶民には私塾や寺子屋があった。

 これらの各種の学校があり教育程度が高かったことが、日本が欧米の植民地とならず明治維新を迎えて文明開化を行う下地になったと思われる。江戸時代の日本の識字率は世界的にトップクラスで、ある推計では18世紀のロンドンが20%程度、パリが10%程度だったのに対し江戸は70%以上だったと言われる。

 各地における学校の中心は各藩の藩校だったが、そこでは当然藩士の教育が優先された。またその教育は儒教だが、同じ儒教でも幕府の官学が朱子学だったので、各藩もそれに倣うのは当然だった。幕府に睨まれればお国替えやお家断絶が当たり前の時代である。

 その中で岡山藩は別の道を歩んだ。藩士だけでなく庶民の教育も藩が直接行い、またその儒教は熊沢蕃山を登用し陽明学だった。陽明学は「知行合一」を説き、幕府に反乱を起こした大塩平八郎や維新の志士の行動原理として知られる。

 この幕府とは別の道を主導したのが岡山藩主池田光政だった。光政が庶民の学校として建てたのが備前の閑谷学校である。福沢諭吉が「学問のすすめ」を説く二百年前のことだ。国宝建造物中唯一の学校である。

 岡山藩には花畠教場という藩校があったが、光政はさらに庶民と藩士が身分の差なく学ぶ学校として閑谷学校を建てた。江戸時代の藩校は明治以後ほとんどが公立学校となった。花畠教場もそうだったが、閑谷学校は私立学校として存続し大正時代になって経営上の問題から公立に移管した。

 閑谷学校を訪れると光政の抱いた途方もない夢が情熱と周到な配慮をもって実現されているのに驚かされる。その夢を引き継いだ人々に心から敬意を表したくなる。ここには孔子が祀られているが、孔子もこの学校を喜んだに違いない。

 閑谷学校の中心は国宝の講堂である。何よりも瓦に驚かされる。全てが備前焼という豪華さだ。屋根は入母屋造りで途中で角度を変える錣(しころ)葺き。一枚一枚の瓦の色が微妙に違うのでこの屋根だけでも見飽きない。

 窓は禅宗様の花頭窓。障子の白が美しい。室内は板敷きで円柱に囲まれて神殿のようだ。磨き上げられた床が鏡のように光る。そこに花頭窓が映り陶然とする。見上げると壁には「克明徳」の額。この床がまさに「明徳」であり光政の精神を今も映し出している。

 渡辺郁夫 日本宗教学会会員



中国夢回廊6 吉備津神社 2012年3月春号

 
 日本で宗教的偉人を多く生み出してきた国に吉備国がある。古代の吉備国は山陽側の大国で山陰の出雲と表裏する関係にあったようだ。国が大きくなり過ぎたのか、吉備は備前、備中、備後、美作の四国に分割された。勢力を削ごうとしたかのような印象を受ける。

 この吉備国の一宮が吉備津神社で、その神職の子として生まれたのが禅僧の栄西である。美作からは念仏僧の法然が生まれている。さらに江戸時代には備前から黒住教の黒住宗忠、備中からは金光教の川手文治郎が生まれている。また江戸時代には備中玉島の円通寺で良寛が修行している。

 この吉備国の中心と見なされてきたのが神体山として知られる「吉備の中山」である。吉備津神社はその麓にある。吉備国が分割された際には備前一宮として吉備津彦神社が建立されたが、吉備津神社とは国境を接して至近距離にあり、同じ吉備の中山の麓にある。吉備の中山を離れ難かったようで、この山が信仰の中心だったようだ。ここが不思議の国「吉備」の中心であり、また入り口である。

 国宝となっているのは備中の吉備津神社である。山の麓にあるので参道から短い坂の石段を登ると神門を経てすぐに拝殿と本殿がある。拝殿には「吉備津宮」という大きな扁額がかかる。その奥に朱塗りの本殿が見え、黒ずんだ太い柱と対照的である。ここからは本殿の形はよくわからないので左手の境内に回る。

 そこでそれまで窮屈だった宮の印象が一変する。見事な社殿である。高さより広がりがあり、拝殿と一体になった社殿の面積は日本有数だろう。切り妻造りの拝殿と直交する形で入母屋造りの本殿が二つ並んでいる。比翼入母屋造りと言われ、別名吉備津造りでここにしかない社殿である。
 分厚い檜皮葺きの大屋根を組み物が支えているが、これが挿し肘木という東大寺大仏殿の再建に用いられた様式である。床下には寺でよく見る白い亀腹が美しい。千木と鰹木が無ければ寺院建築に見えるかもしれない。足利義満の造営と言われる独創的なものだ。

 この本殿とともに印象に残るのが本殿の右手に延々と続く回廊である。約400メートルあり、不思議の国に迷い込む感じがする。その途中を折れると御釜殿がある。ここで「鳴る釜神事」が行われる。『雨月物語』の「吉備津の釜」で知られる神事である。釜から吉備津彦に退治された鬼の唸り声が聞こえるという。この鬼退治が桃太郎伝説の由来という。不思議の国「吉備」は今も健在である。   

渡辺郁夫 日本宗教学会会員




中国夢回廊5 厳島神社 2011年12月冬号
 
 「ハクライ」という言葉が頭の中ですぐに漢字に置き換わる世代はどの世代までだろう。「舶来品」という言葉が高級品を意味していた時代が二十世紀の後半、「戦後」という言葉が活きていた時代まで確かにあった。海が最新の文化や文明と結び付いていた時代は日本の歴史の中でおそらく卑弥呼の時代から二十世紀までと非常に長かった。

 かと言って日本は海洋国家だったかというとそうは言えない。海辺国家だったとも言われる。日本三景はいずれも海辺にあり日本人と海の関係をよく表しているかのようだ。その日本三景の中で最も人工美の比重が大きいのが厳島だろう。

 海上の神殿という発想は平清盛が厳島神社において実現した。国宝で世界遺産。海が最新の文化をもたらし海を支配する者が陸も支配するという卓見をもっていたのが清盛だった。西国を支配し瀬戸内海を経ての日宋貿易が平家の富の源泉だったと言われる。その富と海の支配者としての信仰、そして平清盛ならではの大胆な発想が海上の神殿を造り上げた。誰もが感嘆しながら後に続く者がいない。

 瀬戸内海航路の重要性は彼以前から認識されており、それに伴って瀬戸内海の東から西まで幾つかの重要な神社がある。有名なのは難波の浦に面した国宝の住吉大社だろう。住吉の神は海の底から上までを三段階に分けて支配する男神であり、これは海の深さを受け持つ。瀬戸内海の出口に当たる下関の住吉神社も国宝で大内氏が崇敬した。

 これに対して海の遠近を支配したのが九州の宗像大社に祀られた女神である宗像三神であり、海の広がりを受け持つ。陸から沖まで三社があり玄海灘に浮かぶ沖ノ島は海の正倉院と呼ばれている。厳島神社に勧請されたのはこの宗像三神である。厳島の名との関連から有名なのは市杵嶋姫命だろう。弁才天と習合し日本三弁才天の一つとなった。

 仏教の弁才天も女神なので鮮やかな朱の社殿は女神にふさわしい。海上の社殿という大胆な発想は平清盛らしいが、実はこの海を池に置き換えると日本人のよく知っているある建築と似ているのに気付く。それは平安貴族の住んだ寝殿造りである。左右対称の建物を廻廊で結び、池に臨む。この形は浄土式庭園と阿弥陀堂の組み合わせにも取り入れられ、平等院鳳凰堂もよく似た構成である。

 厳島神社はこうして女神の住まいにふさわしい優美な社殿となった。貴族化した平家の雅やかな感性と武士としての大胆さがこの海上神殿を今も支えている。

 渡辺郁夫 
 日本宗教学会会員


中国夢回廊4 出雲大社 2011年9月秋号

 
 『古事記』に描かれた神話の中で出雲神話は約三分の一の分量を占めている。大和政権が成立してからは出雲は言わば辺境の地であるはずなのにどうしてこれだけの記述が出雲にさかれているのか、誰しもが不思議に思うはずである。

 分量だけではない。内容的にも我々が知っている神話の内で有名なものが出雲神話に多い。中でも最も有名なのは素盞嗚尊による八岐大蛇退治の神話だろう。それに因む神社が八重垣神社であり、神魂神社のところでも触れた。この神話は神楽の演目の中でもとりわけ人気がある。素盞嗚尊が八体の大蛇と舞台狭しと戦う場面は一度見たら忘れられない。私なども子どものころに鎮守の森の社で見て以来目に焼きついている。

 この神話にあるように出雲を治めた一族の祖先は素盞嗚尊とされている。素盞嗚尊は天照大神の弟だから出雲族は高天原の天孫族の分家という形になる。素盞嗚尊の子孫に当たるのが大国主神である。その大国主神にあらためて高天原が国譲りを迫る。分家の力が強くなりすぎては本家が統治に困るということだろう。

 この国譲りの条件の一つが、天に届くほどの大社を築くということだった。その約束が果たされて築かれたのが杵築大社と言われている。現在の出雲大社の前身である。この古代の大社がどれほどの規模だったかについては諸説あるが、東大寺の大仏殿よりも高かったという伝承がある。

 このロマンを見せてくれるのが出雲大社に隣接する古代出雲歴史博物館である。境内から出土した古代の大社の柱が展示されており、さらにそれを基にした復元模型が展示されている。それを見ると大社がいかに壮大なものだったかがわかる。また博物館には加茂岩倉遺跡と神庭荒神谷遺跡から出土した夥しい数の銅鐸、銅剣が展示されている。全て国宝である。古代出雲の力が神話の域を越えて現実のものとして迫る。
 大社造りで国宝の現在の本殿は太古の本殿の約半分の高さと言われている。その本殿は神魂神社の本殿よりは新しいが現在修復中で姿が見えない。平成二十五年には完了しその壮大な社を再び見せてくれる。現代の岩戸開きになるはずだ。

 天の岩戸開き神話は言うまでもなく高天原神話で最も有名な神話である。闇から光への展開は多くの宗教に、また個人にも歴史にも共通するテーマだろう。東日本大震災で沈みかかった日本の夜明けはいつか。現代の岩戸開きを分家が本家に代わって見せてくれるのを楽しみに待ちたい。

 渡辺郁夫 
 日本宗教学会会員




中国夢回廊3 神魂神社 2011年6月夏号

 
 島根県は東部の出雲と西部の石見からなり、東西に長い。東の端の美保関から西の端の津和野までを一日で巡るのはまず無理である。島根県は人口が多いとは言えない県だが、社寺を中心とする文化財の面では全国でも有数の県だろう。

 社寺の多さの理由の一つは言うまでもなく国津神を代表する神社の出雲大社があるからだろう。天津神を代表する伊勢神宮と並ぶ日本有数の神社である。しかも伊勢神宮は国宝ではないが出雲大社は国宝である。

 旧暦十月が神無月と呼ばれるのは全国の神が出雲に集まるからで、出雲では神在月と呼ばれる。俗説と片付ければそれまでだが、出雲を巡っていると本当にそうだろうと思えてくる。

 古代出雲の中心は現在の出雲大社がある島根半島西部だったかというとそうではない。松江市の大庭がかつての出雲の中心だったと言われている。そのことを示すのが一つは「八雲立つ風土記の丘」である。集中する古墳を見ると大きな勢力があったことがわかる。

 政治が「まつりごと」と言われるように政治と祭祀は不可分だった。その大庭での祭祀を示すのが大庭大宮と言われる国宝の神魂神社である。また素盞嗚尊と櫛稲田姫の結婚から縁結びの神社として有名な八重垣神社もここから近い。

 神魂神社は風土記の丘のすぐ近くの丘にある。周囲に宅地は迫ってきているがまだ閑静な地である。参道の石段を登るとすぐに拝殿がある。亀甲に有の字の神紋が目に入る。これが神在月を示すという。その奥に国宝の本殿がある。ありがたいことに拝殿の横に回るとこの国宝の本殿を心ゆくまで拝することができる。

 出雲大社では本殿を巡る垣の中に入れないのでこのように間近に本殿を拝することはできない。なおかつ出雲大社は平成二十五年まで修復中のため、国宝の大社造りの本殿を拝めるのは神魂神社の方である。しかも神魂神社の本殿の方が出雲大社よりも古く、現存する最古の大社造りである。

 出雲大社と地位が逆転しそうだが、神魂神社が出雲大社に奉祀する出雲国造家の神社で、大社に対し大宮と言われたと聞くと納得いく。今でもここで出雲国造家が代替わりする時の神事が行われる。大庭は出雲の心のふるさとなのである。

 社殿の高い床の奥に見える心柱はまさに「奥床し」を思わせる。祭神は伊弉冊神とされるが、『出雲風土記』では造化三神の中で出雲に縁の深い神皇産霊神を神魂と記す。いずれにせよ神の魂が宿っていることを感じさせる古社である。

 渡辺郁夫
中国新聞文化センター講師



中国夢回廊2 三仏寺 2011年3月春号

 日本仏教の一つの特徴として山岳仏教がある。日本で仏教の受容が始まった飛鳥時代から奈良時代には都の近辺に寺がある都市仏教だった。奈良仏教を代表する南都六宗は都にあり、文化の頂点に立っていた。寺は最高学府であり、経典の研究と講義が行われた。

 それがまたたく間に都市を離れ、山に籠もるようになる。最澄の比叡山、空海の高野山がその代表である。都市仏教から山岳仏教、学問仏教から実践仏教である。最澄や空海のように山に籠もり修行する形をとった先駆者が伝説の役行者だろう。七世紀から八世紀にかけて葛城山で修行し、修験道の開祖とされた。修験道は山岳宗教で天台宗や真言宗の密教と結び付いた。

 中国地方にもこの役行者と天台宗の結び付きは及び、影響力の強さに驚かされる。何も無い険しい山の中に最高の技術を使った堂舎が建てられるのだから不思議という他はない。鳥取県の三徳山三仏寺の奥の院である「投入堂」の名はその驚きをよく表している。

 三仏寺は慶雲三年(706年)に役行者が開き、さらに天台宗の慈覚大師円仁が嘉祥二年(849年)に釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来の三仏を安置したという。この伝承通りならまさに日本の山岳仏教の歴史を代表する。円仁は最澄の弟子で、天台宗の中で大日如来を本尊とする密教を推進した人である。また天台宗に阿弥陀仏信仰の浄土教を入れたのも円仁である。三仏寺の本尊はそのことをよく表していて興味深い。

 もう一つ隠れた本尊がある。投入堂の本尊である蔵王権現である。役行者が感得したと言われる本尊で、片足を踏みしめて立ち、もう一方の足をあげ、忿怒の表情をとる。その印象は強烈である。現在は投入堂から宝物殿に移されている。

 この蔵王権現の姿が投入堂の印象によく合う。崖に蔵王権現の姿を重ねた堂なのだろう。投入堂はその名の通りに崖の窪みに投げ入れたような形をしている。どうやって建てたのかわからず、役行者が法力で投げ入れたと言われている。

 堂が片足を踏みしめた蔵王権現の姿に似ていると言ったが、崖に支柱を建て本屋を載せるのを懸け造りという。ここが日本で最も困難な場所に建てられた懸け造りだろう。平安時代後期の建築で国宝である。

 芭蕉は慈覚大師開基という山形県の立石寺を訪れているが、中国路に来たならここを訪れたに違いない。立石寺も三仏寺もそのあり方は厳しい求道の姿と重なる。人はどこかで厳しさへの憧れがあるのだろう。

 渡辺郁夫 (中国新聞文化センター講師)


中国夢回廊1 功山寺 2010年12月冬号

 
 「旅に病んで夢は枯野をかけ廻(めぐ)る」芭蕉の辞世の句である。伊賀上野に生まれ江戸に住んだ芭蕉は中国路に足を踏み入れることはなかったが、旅先の大阪で亡くなった時にひょっとしてその夢はまだ見ぬ中国路を駆け巡っていたかもしれない。芭蕉が現代に蘇って中国路を巡るならどこを目指すだろう。その見果てぬ夢を追って旅を始めよう。

 長府は長門国の国府があった地で、江戸時代には長州藩の支藩の長府藩が置かれた。功山寺は長府毛利家の菩提寺だった曹洞宗の名刹で、春は桜、秋は紅葉の名所である。その仏殿は国宝、また高杉晋作が挙兵した地としても知られる。

 国宝の仏殿は入母屋造り。檜皮葺きの屋根は二層あるが、二階建てではなく、一重裳階付きである。鎌倉時代の元応二年(1320年)の建立で禅宗様の典型。檜皮葺きの屋根は軽やかでラインが美しい。反り返った軒端が重なって鳥が羽を広げているように見える。この世の重力に縛られず今にも飛び立つかのようで、憂き世の夢から醒めた軽やかな雲水の心を感じる。

 その軽やかな姿にもかかわらず、仏殿はこの世の悲劇を見ている。弘治三年(1557年)大内家最後の当主大内義長がここで自刃した。境内にその墓がある。幾度も歴史の転換点を演じた下関の一こまである。

 それ以上に有名なのは幕末の高杉晋作の挙兵だろう。藩内の俗論党という保守派に対して反旗をひるがえした決起の地である。この寺には禁門の変で都落ちした七卿のうち五人が潜伏していた。今も潜居の間が残る。晋作は五卿に挨拶することで私兵ではない証をして挙兵した。境内には颯爽と馬にまたがる晋作の「回天義挙」の像が建つ。

 その晋作も病のために短い命を終えた。時代を駆け抜けた晋作の心酔者は多い。その夢は今もどこかを駆け巡っているのだろうか。しかし現代は閉塞感がありながらも晋作の時代と違って倒すべきものが見えにくい。核の世界支配か国際金融資本の経済支配か、あるいは文明そのものか。それに代るものは何か。現代のモンスターはとてつもなく大きいが、膨らみきった夢だからかもしれない。

 仏殿の隣は長府博物館。ここに明治天皇に殉死した乃木希典の展示がある。「地霊人傑これ神州」と詩に詠んだ彼の精神は人を浮き世の夢から醒ます力がある。

 世の無常を見続けた仏殿だが、この世から羽ばたこうとするかのような姿が伝えるのは夢から醒めて見るまことの夢かもしれない。

 
渡辺郁夫(中国新聞文化センター講師)


「光のうつしえ」書評 渡辺郁夫(中国新聞 2013年11月24日 読書欄)


『光のうつしえ』朽木祥・著  講談社2013年10月刊
 
 原爆ドーム前の川面を埋める灯籠流し。色鮮やかな安芸門徒の盆灯籠。「阿弥陀経」に説く「青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光」。灯籠の色は彼岸から「うつし世」への「うつしえ」なのか。それぞれの色にそれぞれの物語がある。

 作品の冒頭は被爆後25年の灯籠流し。「もはや戦後ではない」と言われ十数年。復興という名の忘却の時代。一方で戦争と死者の記憶を残している人達がいた。死者は生者の中で生きていた。

 忘却と記憶がせめぎあう中、中学生の希未と同級生は自分達の知らない戦前、戦中、戦後の広島を知っていく。1958年生まれの作者と同世代。「戦争を知らない子供たち」が残った人を通して逝った人と出会う。

 帰ってきた人を送るという灯籠。その数に応えるかのように登場人物は多彩。表紙絵に浮かぶ青、黄、赤の灯籠。さらに希未の母が流す死者の名が無い謎の白い灯籠。いったい誰の魂を宿すのか。

 それを知る希未たち。翌年、三世代の有縁の人と自分達だけの灯籠流しをする。小一の男子のための灯籠は青。教え子をかばうように亡くなった女の先生は黄色。母は白い灯籠に初めて死者の名を記す。意外にも被爆者ではなく「同じくらいむごい死に方」をした人の名を。「灯籠は、命があるかのように内から輝きはじめた」「いっしょに旅していく魂のように」。

 本作はレクイエムに終わらない。現代の課題を暗示する。ヒロシマとフクシマの「ヒバク」。復興という名の忘却。時代区分の「戦後」は消えつつあるが、では今は何なのか。ひょっとして次の戦争の「戦前」なのか。

 灯籠に灯をともすとき「戦争を知らない子供たち」の胸にも灯がともる。読者の胸にも。人を焼き尽くす火ではなく人を思う火が。作者はその点灯者になる。今が後に「戦前」と呼ばれないために。希未たちの灯籠は未来に向かって流れ続ける。

 
  渡辺郁夫(日本ペンクラブ会員)




生誕百年 中村元と現代日本 渡辺郁夫(中国新聞 2012年8月6日)

 中村元の名は大正元年生まれに因むという。中村元は僧ではないが「ゲン先生」と呼ばれた。「元」の字は道元と同じで、また中村元が力を入れた原始仏教の「原」にも通じる。

 仏教はアジアに広まったが、その内容は複雑多岐である。そもそも仏典の数が膨大で何が釈尊の言葉か分らない。ここに原始仏教が求められるが、それを日本仏教の宗派に求めるのは難しい。日本仏教はほぼ大乗仏教の系統で、大乗仏教は原始仏典に依らないからだ。

中村元が『スッタニパータ』をはじめとする原始仏典の翻訳を次々と刊行し、他の著書でも重ねて原始仏教を語ったことで、多くの日本人ははじめて原始仏教を知ることになった。その意味で「元始仏教」と言ってもいいかもしれない。その没後、次第に初期仏教と言われるようになったが、かえって原始仏教と中村元の結び付きは強くなったようだ。

 しかし中村元を原始仏教だけで語ることはできない。驚異的な語学力を駆使してインドから日本までの東洋思想、東西の比較思想を通して世界思想全般と、インドと仏教を原点としつつその広がりはとどまるところを知らない。後世の人が見ればとても一人の業績には思えないかもしれない。中村元の大学での卒論は「八宗の祖」と呼ばれる「龍樹」だった。龍樹は有と無の対立を超えた「空」の哲学の大成者で大乗仏教の基礎を確立した。著作が膨大なことから龍樹複数説があるほどだ。中村元は現代の龍樹を目指したのだろう。

 とは言え、それだけでこのような業績が可能だろうか。中村元がインド哲学を専攻したのは自然の流れだったようだが、徴兵と戦火を経た後の研究の底には「人はなぜ争うのか」という大きな疑問と悲しみがあったように思える。その「悲の心」は著作『慈悲』を生み、また東西の比較思想を通して相互理解に取り組んだ『世界思想史』を生んだ。さらに東洋の心を世界に伝える東方学院の創設となった。そこに人類和合の道への使命が感じられる。

昨年の東日本大震災はこの世界に何一つ確かなものはないことを見せつけた。まさに無常である。この世界の中で満たされない心は何かを求めしばしば対極へと走る。戦後の日本ではその受け皿はコミュニズムや新宗教だった。インドもその一つで、物質中心の現代文明への幻滅からインドとその精神文化に関心を持つ人は多い。しかし地図も案内者もなく未知の世界に入るのは危険を伴う。幻滅は幻想へ転化しやすい。宗教のからむ誇大妄想的な事件はそうして起きるのだろう。インドを知るにはまず中村元から入るべきだろう。

また震災後の日本は「絆」の合唱である。しかし絆は「ほだし」とも読み、仏教的文脈では束縛を意味した。ほだしを断つのが出家だった。同じくほだしを断つのでも出家して真実を求めるためではなく、ひたすら個人の自由を求めて無縁社会を招いた日本人が元に戻れるのだろうか。「きずな」と「ほだし」の間で揺れ動いているだけではないのか。そこに真実はあるのか。心の震災は続いている。この内なる無常をどうするのか。この秋には中村元記念館が開設されるという。そこでは無常を超えたものが見えるかもしれない。  



「法然と現代社会 一枚の処方箋 」渡辺郁夫 (中国新聞2010年10月4日)

 2011年に浄土宗では法然八百回大遠忌、浄土真宗では親鸞七百五十回大遠忌を迎える。師弟関係にあった二人の没年が五十年離れているために五十年ごとの二人の大遠忌は重なる。宗門にとっては浄土教への関心を高め宗門を興隆させるまたとない好機であり、一般の信徒にとっても大遠忌との巡り合わせは一生に一度か二度の貴重な機会である。
 前回の大遠忌は1961年のことで、まだ日本が敗戦の痛手から立ち直りきっていない時代だった。それでも本山のある京都は全国から押し寄せる参拝者で埋まり、念仏の地響きが聞こえたという。それから五十年。五十年経てば時代が変わり、人も変わる。前回に比べて日本ははるかに豊かになったが、今回はたして念仏の地響きが聞こえるだろうか。

 念仏とまではいわなくても、現代の日本人は合掌することが一日に何度あるだろうか。ひょっとすると一日どころか週や月に一度もなく、盆や正月だけという人もあるかもしれない。多くの日本人はある時期まで朝晩のお参りと三度の食事の前後とで一日に何度も合掌していたはずだ。聖徳太子は『十七条憲法』を定めて「篤く三宝を敬え」とした。三宝は「仏、法、僧」で、それに帰依することが「念仏、念法、念僧」。その意味での念仏は仏教徒に共通のもので、そこには合掌があった。その精神は今も生きているだろうか。

 法然の念仏は「南無阿弥陀仏」と仏の名を唱える「称名念仏」で、またそれだけでいいという「専修念仏」だった。このことを端的に表すのが法然が世を去る二日前に書かれたという『一枚起請文』である。そこにはたとえ学問をしたとしても「一文不知の愚鈍の身」となって「智者のふるまひをせずしてただ一向に念仏すべし」と、愚者の念仏が説かれる。

 日本人が合掌することが少なくなり、信徒でも念仏することが少なくなったのは、みな智者になってしまい、愚者になれなくなったからだろう。それが不幸の始まりである。知性の発達と不幸を認識する度合は比例する。比叡山で「智慧第一の法然坊」と言われた法然はそのことを身にしみて知っていた。「智慧第一」とは実は「不幸第一」のことだった。

 学問し努力して伸ばせるような知性を仏教では分別知と言う。知性が発達し人との違いを意識するほど自我意識が強まり苦しみが増す。我執の牢獄である。法然はそれを経験し、そこに愚者となって阿弥陀仏の本願を信じて念仏する専修念仏への転換が起きた。牢獄からの解放である。法然はそれを伝えた。この信は分別知では決して得られない。分別知は疑いを深めるだけだ。一方で信には分別知を超えた無分別智という真の智慧が自ずと宿る。

 近代人の不幸が知性と自我の発達にあることをいち早く指摘したのは夏目漱石だった。それは明治時代には一部の知識人の問題だったが、現代ではそれが蔓延し、蔓延したがゆえに見えなくなった。果てしない競争と自立という名の孤立。それが人々の心をむしばみ、心の病とさらには自ら命を絶つという悲劇をもたらす。『一枚起請文』は知性の発達がもたらす病に対して法然が生涯をかけて示した一枚の処方箋であり、現代人への遺言だった。



五木寛之『親鸞』に寄せて(中国新聞2010年1月24日)  渡辺郁夫

 本願寺三世覚如の『御伝抄』以来、真宗教団では多くの親鸞伝が作られた。近代以降、親鸞への関心は『歎異抄』とともに教団の枠を越えて広がり、作家が親鸞を描いた。吉川英治、丹羽文雄、津本陽、今回の五木寛之によるものなどである。親鸞が長寿を得たこともあり、いずれも長編である。

 津本陽は二回書き、『無量の光 親鸞聖人の生涯』は五木寛之と競作するかのように同時期に刊行された。新刊の津本作は歴史小説の王道を行き、史実と原典に極力忠実に、浄土真宗の宗祖としての「親鸞聖人」の全生涯を復元しようとする。また『歎異抄』を口語訳して多用し、「歎異抄物語」の一面をもつ。『御伝抄』以来の親鸞伝の集大成として堅実で安心して読める、宗門の内外で通用する半ば公的な「新御伝抄」と言えよう。

 五木作は青年期を中心に「聖人」としてよりも「人間」親鸞を描き、「青春の門 親鸞編」の趣をもつ。また先に『私訳歎異抄』を書いてように、「私訳親鸞」とも言える私的な親鸞である。親鸞は経典を読み替えたが、歴史の読み替えさえしかねない極めて危ない、それ故に極めて魅力的な親鸞である。「私」のために復活する親鸞である。

 そこに「虚実」の間に引かれた小説という一本の道を歩む作家の「二河白道」が見えてくる。
 「実」として光るのは親鸞の改名。俗名から天台僧範宴を経て法然門下での浄土僧綽空。ここで終わるはずなのにさらに善信、親鸞。五木寛之はこれを生まれ変わりと捉える。ここに人間の成長を描く「ビルドゥングス・ロマン」がある。そのテーマは「悪人成仏」。

 「虚」として光るのは親鸞を取り巻く無頼の徒。エンターテイメントの要素を兼ねながらも印地打ちの首領「ツブテの弥七」は出色だ。親鸞の言葉「いし・かはら・つぶてのごとくなるわれらなり」が命を得て弥七となり、「同朋同行」として活躍する。

 言葉には命がある。命は躍動する。そこに虚実を越えた真実がある。

 本作は親鸞の越後流罪で終わる。親鸞の新たな旅立ちを弥七らの架けるツブテのアーチが祝福する。その道は果てしない。

 *五木寛之『親鸞』(講談社)刊行に寄せて  渡辺郁夫



本願寺展に寄せて(中国新聞2008年4月10日読書欄)      渡辺郁夫

 仏教に三尊像と呼ばれる仏像がある。釈迦三尊は釈迦仏に文殊菩薩と普賢菩薩、阿弥陀三尊は阿弥陀仏に観音菩薩と勢至菩薩を配する。親鸞の妻、恵信尼は親鸞が観音菩薩、法然が勢至菩薩だと告げられる夢を見ている。

 この夢は恵信尼筆の「恵信尼消息」に書かれ、一九二一年に本願寺で発見された。今回この書状と恵信尼像が出展される。親鸞は妻帯を公言した初めての僧だが、その夫婦の姿がこの手紙に明かされる。親鸞没後に書かれたこの手紙は亡き夫へあてた恋文に見える。

 いつの時代でも女性の心をつかんだ宗教は発展する。真宗の出発点にそれがあった。念珠を繰る恵信尼像の朱に染まる口元に上るのは、亡き夫への尽きせぬ思いと称名念仏だ。

 恵信尼が見た夢と呼応するような夢が親鸞にもある。比叡山で行き詰まった親鸞が一二○一年に京都の六角堂にこもり、そこで聖徳太子から受けた、「観音があなたの妻になる」という夢告である。その経緯も「恵信尼消息」に書かれている。それにより親鸞は法然に帰し、妻帯した。この夢告を右上に記した親鸞像が今回出展される「熊皮御影」である。

 この親鸞像も念珠を繰る。その前には念仏聖が用いた途中が二股になった鹿杖が置かれている。本願念仏を伝える人生の出発点にあったのがこの夢告である。それはまた恵信尼とともに歩んだ旅路だった。二股が一本となる鹿杖は二人の旅を象徴するかのようだ。

 恵信尼像を左に、親鸞像を右に、中央に「名号本尊」を置くと私の三尊像が完成する。こう並べれば、二人が向き合ってともに念仏しているように見える。

 親鸞が書いた名号は「南無阿弥陀仏」の六字名号の他に「南無不可思議光仏」の八字名号や、「帰命尽十方無碍光如来」の十字名号がある。名号を本尊とするのは親鸞から始まると言われる。

 親鸞が名号を本尊としたのは彼にとっての念仏が偶像崇拝ではなかったことをよく示している。しばしば宗教は偶像崇拝に過ぎないと批判される。しかし親鸞にとっての念仏は「本願」という世界の根本精神による「真実」の救いの表れだった。「本願と名号」という御心と御名の、世界に通じる普遍的宗教がここにある。「四海のうちみな兄弟」、「四海同胞」の宗教である。

 その親鸞の言葉は悩める青年唯円の心を捕えた。唯円がその感動を記した『歎異抄』の蓮如本が出展される。

 いつの時代でも若者の心をつかんだ宗教は発展する。『歎異抄』が若者を中心に一般に読まれ始めたのは二十世紀になってからだ。新たな種はまかれたばかりである。

         

『スウェーデンボルグを読み解く』を読んで(中国新聞2007年12月2日読書欄)     渡辺郁夫
   『スウェーデンボルグを読み解く』日本スウェーデンボルグ協会編 春風社

 スウェーデンボルグの名を聞いて懐かしく思った。私が大学の仏教青年会で参加した会に源信の『往生要集』を読む会があった。『往生要集』は日本浄土教の出発点に位置し、その地獄と極楽の描写が末法思想を背景に人々をとりこにした。
 そのころ比較して読んだのがスウェーデンボルグの一連の霊界探訪記だった。ダンテの『神曲』と並んで西洋人の他界観を知る上で参考になる。スウェーデンボルグは十八世紀スウェーデンの神秘的宗教家で、彼から始まるキリスト教の一派がある。その信者ではヘレン・ケラーが有名だ。
 『往生要集』とスウェーデンボルグの書を比べると、背景の宗教が仏教とキリスト教なので表現は異なるが、他界が善悪に応じて何層もの階層構造をもつ点は共通する。
 このような他界の認識と宗教はどう関係するのだろう。仏教では、浄土教は浄土という他界の存在を前提にするが、禅は必ずしもそうではない。禅家に聞けば、「そんなの関係ない」と一喝されるかもしれない。例えば国際的な禅家だった鈴木大拙の著作を読んでもそういう印象を受ける。
 ところが日本におけるスウェーデンボルグの最初の紹介者は鈴木大拙なのである。本書にはこのことが詳しく書かれている。彼が好んで用いた「霊性」という語はスウェーデンボルグの著作の翻訳に用いた語である。
 スウェーデンボルグは神の愛と知恵を重視したが、大拙は仏教の智慧と慈悲を重視し、智慧が禅、慈悲が浄土教の中心にあると考えた。智慧と慈愛は霊性の属性である。
 彼の『日本的霊性』は浄土教の妙好人を紹介した名著だ。この霊性は仏教的には仏性の言い換えに見えるが、それにとどまらないようだ。彼はスウェーデンボルグを介し「霊性」を用いることで、仏教とキリスト教を統一的に捉えた普遍的宗教を表そうとしたのだろう。
 こうして彼は霊的存在を認めた上で、霊性の発露として悟りや救いを説く。ただしそれを得るのに霊能力は必要ないというのが彼の立場だろう。確かに真実の認識に特殊な能力は必要ない。真実は眼前にあるからだ。

       

五木寛之『私訳歎異抄』を読んで(中国新聞2007.10.8洗心欄 書評)              渡辺郁夫

 本書は「私訳」であり「私釈」ではない。『歎異抄』について書かれたものは通常は原文と口語訳と解説からなり、解説が中心である。また原文には語注が付くのが普通である。『歎異抄』は仏教語を用いて、特に浄土教や親鸞特有の語を多用して語られるので、語注がないとわかりにくい。ところがこの書には語注さえない。原文と口語訳のみ。巻末には歴史家による親鸞の人生とその時代についての解説があるが、これは親鸞思想の解説ではない。この書は言葉を命とする作家として、口語訳だけで親鸞の人と思想を現代人に伝えることができるかどうかの一本勝負である。「構想25年」というのがうなずける。
 古典の世界では口語訳自体が一つの作品として成立する。現代の名だたる文学者が挑み続ける『源氏物語』がその好例だろう。原作に対して口語訳が新たな文学の創造となる。芸術では音楽の演奏や演劇の上演も同様で、単になぞるのではなく原作の再創造となる。
 そこに優れた作品や舞台が生まれるとき、作者や演者はあたかも原作の精神や原作者が自分に乗り移ったかのように感じるのではあるまいか。あるいは自分ではない何かが語り、演じたのだと。言わばそれは一種の「他力」体験なのである。物語の語り部とは元来それができる人のことである。そして今、五木寛之は『歎異抄』の新たな語り部になろうとする。彼にそれを語らせる何かを感じているからだろう。それだけが本当の拠り所である。
 この訳でも「他力」はもちろん使われる。『他力』の著者だから当然だろう。それと並んでこの新訳で目に付くのは「約束」である。確かに親鸞はある法語で「本願はもとより仏の御約束」と述べている。『歎異抄』では著者の唯円が一度だけこの言葉を使っている。五木訳ではこれが要所要所に用いられ、阿弥陀仏の「本願」は「阿弥陀仏の深い約束」と表される。「他力」も「仏の約束のちから、すなわち他力」と説かれる。印象深い言葉である。読み進むうちにこの「新訳」の『歎異抄』が、新たな「約束」として「新約」の『歎異抄』のように思えてくる。五木寛之にとって『歎異抄』は「約束の書」なのである。
 「新約」とは言うまでもなくキリスト教の言葉である。モーセによる「十戒」を中心とした神と人の契約が表されたのが『旧約聖書』。それに対してイエス・キリストによる新たな契約を語るのが『新約聖書』。そこで新たに神と人を結ぶのは戒ではなく信愛である。
 それに倣って、戒律を守り修行すれば悟るという聖道門の釈迦仏教を「旧約」とすれば、本願を信じる者は救われるという阿弥陀仏と人との約束を新たに説く法然、親鸞の浄土教は「新約」と言えるだろう。当時の旧仏教を代表する高僧である華厳宗の明恵は「我、戒ヲ護ル中ヨリ来ル」と言う。対する親鸞は「ただ信心を要とす」と言う。こうして親鸞の語る「新約」は本願という約束を信じる「信約」となる。『歎異抄』はその福音書である。
 本願の福音書としての『歎異抄』は今も新しい。我々が変わらないからである。救いが今も働いているからである。「信約」を説く親鸞の「新約」。新たにそれを語る五木寛之の「新訳」。「世界の約束」という終わりのない物語は常に新たな語り部を求めている。

『たそかれ』書評 (中国新聞2006年12月10日読書欄)
 
                                                                
  (『たそかれ』朽木祥・著 福音館書店2006年11月30日刊 児童文学書です。)
                                評者  渡辺郁夫     

 六十は不思議な数字だ。五十や百は人間の頭が作った数字だろうが、六十はもっと深いところにある命の刻むリズムのようだ。六十年経つと何かがきっと帰ってくる。
 作者は私と同世代、同じく広島生まれの被爆二世。ここにも六十に何かを感じた人がいる。
 舞台は鎌倉にある学校の古いプール。私の母校にも改修されたが戦前からのプールがある。一九四五年八月六日、そのプールは水を求める人達であふれたという。物語の中で空襲の日のプールのことを語る先生の話は私が母校で語ってきたことでもあり、作者も広島で聞いた話に違いない。舞台は鎌倉、心は広島だ。
 このような共通点だけが私を作品に引きつけるのではない。空襲で燃える校舎の下敷きになって死んだ人間の友人・司の「プールで待て」という言葉を信じて六十年待ち続けた河童の不知。そしてその思いをかなえるために音楽を奏でる河井少年と少女・麻、河童の八寸と犬のチェスタトンという類を越えた友情の輪。それらが重奏して心の底に眠っている何かを密やかに静かにそっとそっと呼び覚ましていく。
 家族を失い孤児となった河童・不知と見えないはずのその姿が見えた音楽を愛する少年・司のふれ合い信じ合う日々。それが司を信じて待ち続ける不知の原動力だ。
 もう一つ、目の前で校舎の下敷きになった友を助けられなかった負い目も不知をプールに留まらせた理由だろう。被爆地や震災の地で今も同様の思いを抱き続けている人がいるかもしれない。
 そして六十年。司は自分を信じて待ち続ける不知に呼び戻されるようにして救われ、不知もまた負い目から救われる。
 再会をもたらすのは二人の信だけではない。再会を信じて「耳に聞こえない音楽」を不知とともに聞き合う仲間達。類を越えた命と命。浄土教で言う「同朋」が奏でる「倶会一処」の音楽だ。
 この夏、私は偶然にも物語の舞台鎌倉と隣の藤沢を訪れていた。藤沢の時宗本山遊行寺に一遍上人像がある。その念仏の声は阿弥陀仏である鎌倉大仏の「正覚大音」と響き合う。ここでは今も「耳に聞こえない音楽」が流れている。

*「SCL便り」のページ(2006.12.3)の記事の終わりに『たそかれ』の補足を書いています。         

『こころの回廊』(中国新聞掲載記事 洗心欄) 

2005年11月から2006年12月まで毎週 月曜日連載。 

2006年12月25日付け50回をもって終了しました。御愛読ありがとうございました。

『こころの回廊』単行本を書籍のページに紹介しています。
   
新着順に並んでいます。(新聞掲載記事の元原稿です。掲載の文と若干異なります。 文=渡辺郁夫 挿絵=桧垣光一)
 

こころの回廊50回 新千年期 (2006年12月25日)
 
 法然と親鸞の結び付きは今後も続く。五十年毎の遠忌が重なり、二○一一年が法然八百回、親鸞七百五十回。この年は一九八一年と二○四一年の辛酉の中間。本願寺は御影堂を修復中だが新しくなるのは伽藍だけではない。本願力廻向は革命の力。その廻転の力が人に回心を起こし世を廻らす。
 先に四十八願の願数と、平安鎌倉の浄土門と聖道門の相関を述べた。「本願史観」はそれで終わるのか。存在の根本願としての本願は宗教も時も場も超えて遍く働き続ける。
 四十八願の願数とともに今後も本願が歴史に展開するなら次に名号の願が出るのは第二群が34願から、第三群が41願から。この二つの数字をy=60x+1の辛酉の年を求める式に入れる。
 まず34の時が二○四一年。この年は還相廻向を説き、親鸞がその思想を重んじ名を一字もらったという曇鸞の千五百回忌。今世紀から本格的に還相廻向の時代に入ることを暗示するかのようだ。
 次に41の時が二四六一年。この年は辛酉と遠忌が重なり、法然千二百五十回、親鸞千二百回遠忌。ここからの五百年が浄土の完成期だろう。
 今、新たな本願の興隆期、リバイバルが始まる。それを可能にするのが還相廻向。浄土に集った人々が続々と最後の法蔵菩薩として還ってくる。そうして末代の意味が変わる。末法としての末代から還相廻向の末代へ。二つの末代が今、交差する。
 この世界が本願の目当て。「現生不退」は我等ここから退かず。本願退かざる故に。それが同朋、友である。本願力は止まらない。『無量寿経』は終わらない。そこから時間が出る故に。我等書き続ける故に。
 

(挿絵 左=大谷本廟の覚信尼公碑 右=西本願寺阿弥陀堂)

 

 


こころの回廊49回 口伝 (2006年12月18日)
 
 

 法然は一宇の精舎も建立しなかった。臨終に当たり、「予が遺跡は諸州に遍満すべし」と語り、

念仏する処は海人の苫屋まで我が遺跡と説いた。立ち姿の本願は隅々へ進む。人はその後ろ姿に随うばかり。それが流罪後の親鸞の歩みだ。
 帰京後の親鸞は末娘の覚信尼と暮らした。彼女宛の恵信尼の手紙が一九二一年の辛酉に発見された。恵信尼は三善氏出身。三善氏は浄土信仰を持ち、往生伝を著した三善為康も同族と言われる。また辛酉の知識を広めたのは平安初期の三善清行だ。
 同じ頃、浄土宗では源智の醍醐本『法然上人伝記』が発見された。ここに法然の口伝として「善人尚以て往生す、況や悪人をや」と記されていた。『歎異抄』に同様の言葉があるが、他の親鸞語録では法然の口伝とされる。悪人が先で善人が後という「悪人正機」の言葉だ。
 一方、法然は「罪人猶生る、況や善人をや」とも言う。こちらは善人が先で悪人が後。いったい悪人は先なのか後なのか。
 仏法は私の問題だ。人を裁くのは仏法ではない。後生の一大事は今ここにある。今、ここ、私、が仏法だ。本願は「親鸞一人がため」。この悪人の私のためにあると知って初めて本願は本願となる。そのとき本願が私となる。
 今がわかればどこから来てどこへ行くのかわかる。いかに迷おうとも人は業生ではなく本願によって生まれ本願を生きる。此土も浄土も本願の願生。本願に生が定まるのが正定聚。そして「設我得仏、不取正覚」の誓い通り最後の法蔵菩薩として浄仏国土を続けここに留まる。ここ本願に。悪人こそ最初に救われ最後に渡る。 因幡の源左の言う「一番真先に助」けられ、「一番あとから参らしてもらう」ということだ。
 地獄の真ん中に席がある。信心を得る最良の席だ。本願しか私を救えないと知る席だ。浄土の真ん中にも席がある。そこはいまだ空席だ。

こころの回廊48回 改名 (2006年12月4日)
 
 知恩院の御影堂は法然像を奉祀するが、法然在世中からすでに法然の絵は描かれて崇拝の対象になっていた。親鸞も『選択集』の書写を許された時に、同時に法然像を図画することを許されたことを感激をもって記している。これが法然門下での師資相承だった。
 これほど法然を尊崇した親鸞だが不可解なことがある。書写の時の親鸞の名は綽空だった。この名は入門時に法然から与えられたもので浄土教の祖師である道綽と法然房源空から採られたと考えられる。師の名を一字いただいた光栄な名である。
ところがまもなく「夢の告げ」によって改名し法然にその名を書いてもらったことを親鸞は記す。その名が善信である。法然からいただいた名を改めるほどのお告げとして考えられるのは聖徳太子からのお告げである。親鸞が十九歳の時の太子からのお告げにもすでに善信の名があったと言われる。その由来として浄土の祖師の善導と源信から採ったという考え方がある。他にはないだろうか。
 太子との関係で思い当たるものがある。太子と同時代を生きた日本初の出家者の名である。その人は物部守屋の破仏に遭い法衣を奪われた日本初の法難の受難者である。しかし法を捨てず志願して百済に留学した日本初の留学僧でもある。太子は自分ととともに苦難の道を歩んだこの人の名を親鸞に与えたのではないか。実はこの人は尼僧である。日本仏教は太子と善信が切り開いた。
その名を与えた意味は女人成仏に寄せる太子の思いとともに、彼女が経験したような法難がこれから起こるがそれを乗り越えて進めというメッセージだったのではないか。


(挿絵  左=知恩院三門   右=知恩院御影堂)

こころの回廊47回 無名の人 (2006年11月27日)
 
 法然のいた吉水の草庵は知恩院の南の安養寺がその跡と言われる。知恩院は法然が流罪後に帰京して住んだ大谷の禅坊を拡張したもので、壮麗な三門は見る者を圧倒する。
 親鸞が法然に入門した時は、法然が比叡山を下りて専修念仏を説いてからすでに二十六年が経っていた。浄土宗西山派の祖の証空が入門してからでも十一年経っている。
 天台浄土教から見れば法然浄土教は異端だった。臨終近くに法然が源智に授けた『一枚起請文』で「観念の念」、「念の心を悟りて申す念仏」として否定しているのが比叡山の浄土教である。臨終の時でもまだ大きかったその力を押し切って法然は専修念仏の道を開いた。
 本当に念仏で救われるのか。念仏すれば本願が私をとらえて離さない。本願にとらわれれば全てが本願だ。そこで一切が生起する。ただ本願が生きている。信心は仏性であり無窮の本願を行じ続ける。全ての衆生が彼岸に渡るまで最後の一人として。「不取正覚」を誓う最後の法蔵菩薩として。
 入門から四年後の元久二(一二○五)年に親鸞は法然から『選択本願念仏集』を付属された。親鸞は『教行信証』にそのことを記す。『選択集』は法然在世中は門外不出の書で、『私聚百因縁集』によれば、その付属を受けたのは幸西、聖光、隆寛、証空、長西、他一人の六人。聖光の鎮西派が現在の浄土宗である。
 他一人が親鸞だろうが、他の資料にも名前がない。親鸞は無名だった。本当に親鸞を知っていたのは本願だけだ。親鸞とは固有名詞ではない。よく親鸞に帰れというが、親鸞に帰るのではない。親鸞が還るのだ。あなたとして私として。信心として。
 

こころの回廊46回 六角堂 (2006年11月20日)

 
 親鸞は九歳で善導没後五百年の年に出家し比叡山で修行に励んだが、二十年間の修行は迷いを晴らさなかった。法然は九歳で曇鸞六百回忌の年に仏門に入ったが、四十三歳まで迷いの中だった。
 法然は一切経を五回読み、ようやく善導の『観経疏』の「一心専念弥陀名号」で始まる一節に出会った。一切経は約五千巻、また仏教には八万四千の法門がある言われる。法然はその中から四十八願を、さらに南無阿弥陀仏の六字名号を選び取った。なぜ五千巻が、八万四千の法門が、六字に窮まるのか。それは念仏すれば往生し成仏するからだ。法然はその確信を得た。迷える親鸞はその法然のかつての姿だった。
 行き詰まった二十九歳の親鸞は京都の六角堂に参籠する。そこで九十五日目の暁に聖徳太子の示現を得て法然に帰す。そこからまた百日間法然の下に通い続けどこまでも法然について行くという決意を固める。六角堂に親鸞が籠もったのはここが聖徳太子創建と伝えられていたからだろう。親鸞が太子に救いを求めたということは太子信仰が先にあったことになる。
 六角堂は頂法寺の本堂で本尊は如意輪観音。その印象は四天王寺の男性的な救世観音と違い女性的である。ここでのお告げは一つは法然への帰依の勧めである。他にもう一つ、観音があなたの妻になるという妻帯の勧めがあったと思われる。如意輪観音の印象は妻帯のお告げに重なる。
 この年、法然は式子内親王の死を経験した。法然が親鸞から妻帯のお告げのことを聞いたとしたら、その言葉が内親王からの言葉のように聞こえなかっただろうか。法然は僧の妻帯を認めた。
 

(挿絵  左=四天王寺極楽門   右=六角堂の大提灯)

こころの回廊45回 本願関数(2006年11月6日)  
 
 大乗仏教の起こりは仏塔崇拝と言われている。仏舎利を納めた仏塔を通して永遠の仏を崇拝した。仏塔はインドでは円形で、中国では多角形になり、日本では四角形が多い。四天王寺にも五重塔がある。また御霊を祀る廟堂では法隆寺の夢殿のような多角形の円堂が多い。
 『無量寿経』では法蔵菩薩は四十八願を説く前に仏の周りを三回回る。四天王寺も三重構造だ。また比叡山の常行三昧は仏の周囲を巡り続ける。親鸞の仏土の表現も同心円的だ。それらと四十八願の構造は関係あるように見える。ただし『無量寿経』の現在残っている梵本は四十九願である。
 四十八願には他にも興味深いことがある。聖徳太子に縁が深い辛酉の年を求める式がある。y=60x+1という関数だ。この式には聖徳太子の時代の辛酉六○一年の数字がすでに入っている。この式と本願の関係である。
 日本で浄土教が盛んになるのは末法元年と言われた永承七(一○五二)年の前からだ。日本浄土教の基礎を築いた源信は一○一七年没だが、このころには浄土教熱はかなり高まっていた。一○五二年は一○二一年と一○八一年の辛酉のほぼ中間になる。この二つの年のxは17と18。次いで法然が仏門に入った一一四一年はxが19、親鸞が法然に帰した一二○一年はxが20になる。
 この17から20が名号と念仏の第一群の願数だ。四十八願には阿弥陀仏の「アミターバ・コード」が隠されているのか。また栄西、明恵、道元の聖道門も連動するかのようだ。601の式は聖徳太子の「プリンス・コード」であり、日本の宗教を動かす「和国の教主」の計画があるのだろうか。
 

(挿絵  左=四天王寺極楽門の法輪          右=四十八願図  )

こころの回廊44回 法輪と光輪 (2006年10月30日)
 
 恵信尼の夢では堂の前に鳥居のようなものがあり、仏像がかかっていた。四天王寺にも鳥居がある。親鸞と恵信尼が京で出会ったなら、二人が四天王寺に参詣してもおかしくない。新婚旅行だったと想像したくなる。四天王寺の鳥居は鎌倉時代の再建だが、「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」と書かれた額がかかる。ここが釈迦如来が法輪を回した処で極楽の東門の中心だという意味だ。極楽門には金の法輪がある。
 これは彼岸に阿弥陀仏が衆生を呼び、此岸に釈迦が送る「弥陀招喚、釈迦発遣」の彼此相関の構図だろう。釈尊が法輪を回すとき阿弥陀仏も法輪を回す。覚醒原理の宗教と救済原理の宗教は二つの歯車のように連動する。
 初めに光と命があった。その光と命に願いがあった。それが根本願としての本願だ。それを彼岸から四十八願として伝えるのが阿弥陀仏の法輪である。釈迦が此岸に出て衆生済度の法輪を回すのも根本願としての本願による。これが二つの法輪の原動力だ。 四十八願は一見思いつくままに説かれたように見えるが、その展開に何か規則性はないのだろうか。四十八願中最も多いのが阿弥陀仏の名号を伝える願だ。四十八願の直後の「重誓偈」でも「名声超十方」と誓われる。
 四十八願で名号を説く願は三群ある。その第三群が四十一から四十八の八願だ。この最後の八願を円の中心に置いて四十八願を法輪のように配列してみよう。図のように外側から三対二対一の円上に右回りに並べ、さらに方位図を重ねてみる。
 そうすると名号を説く第一群の十七から二十、第二群の三十四から三十七の願が西側に集まる。辛酉は方位では西になり、二つの群は辛酉ゾーンに集まる。さらに四十八願中「王本願」とも呼ばれる十八願は真西にくる。
 この円は如来の光輪でもあり、一切衆生が本願力によりその円光に吸い込まれていく姿や、太陽系と対応した阿弥陀系宇宙の姿を表すかのようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

(挿絵  左=四天王寺金堂 )

こころの回廊43回 救世観音 (2006年10月23日)
 
 恵信尼が夢に見た御堂はどんな堂で本尊は何だろう。それについては何も書かれていないが手がかりになりそうなものが手紙の前の部分にある。
 そこに親鸞が比叡山で堂僧をつとめていたことと、京都の六角堂に参籠したことが書かれている。堂僧をつとめた堂とは常行三昧堂だろうと考えられている。常行三昧は堂の中で阿弥陀仏の周りを回り続ける行である。六角堂もお参りする人は堂の周りを巡って願をかけるのが普通である。本尊は如意輪観音である。
 浄土にある堂の本尊としては阿弥陀仏が自然だが、親鸞は自分が六角堂でお告げを受けた聖徳太子を救世観音とし、阿弥陀仏の化身として両者を一体化していた。だから堂の本尊は阿弥陀仏でも救世観音でもいいだろう。
 四天王寺は聖徳太子創建の日本最古の寺の一つだが、戦災に遭い堂舎も像も新しい。その構造は回廊によって結ばれた同心円状になっている。回廊を巡り金堂に入る。金堂の本尊は四天王に囲まれた聖徳太子という救世観音である。その像は新しくまだ金色に輝いている。さらにその像の周りを巡るようになっている。まるで恵信尼の手紙に入り込み、夢の続きを見ているような感じである。
 ある時私はここを訪れ、救世観音を拝して視線が合った瞬間、何かに魅入られたようになってしまった。古仏でも秘仏でもないこの像にそんな力があるとは全く予想もしなかった。どれくらいの間そこにたたずんでいただろう。それから四天王に囲まれた像の周りを巡った。親鸞は『和讃』に救世観音像のことを歌っているが、私は初めて親鸞と聖徳太子の関係がわかったような気がした。
 

こころの回廊42回 四天王寺 (2006年10月16日)

 
 四天王寺は現在は大阪の街中にあるがかつては住吉大社と同様に難波の浦に臨んでいたと言われる。四天王寺に行くには地下鉄の夕陽ケ丘駅で降りて歩くのが近いが、その地名にあるように昔はここから海に沈む夕日が美しく見えたことだろう。
 この寺には南大門があるが、多くの参詣者は西から日本三鳥居の一つという大鳥居をくぐり、極楽門と呼ばれる西大門から入る。極楽門の横には親鸞聖人像と親鸞を記念する見真堂がある。知らない人が来れば真宗の寺かと思うだろう。ここは極楽浄土の東門と言われる浄土信仰の地である。おそらくこの地にはもともと夕日を拝む素朴な浄土信仰があり、それが浄土思想の普及により『観無量寿経』の「日想観」と結びついたのだろう。
 この寺の構造をちょうど東西に反転したような寺の話が親鸞の妻である恵信尼の手紙に出てくる。常陸の国で恵信尼が見た夢の話である。堂供養らしく東向きに御堂が建っていて、堂の前には鳥居のようなものがある。そこに二体の仏像が懸けてあり、一体は光の中に仏の頭光らしきものが見えるだけ。もう一体はまさしく仏の顔をしている。
 これは何かと問うと、どこからか声がして光だけの仏は勢至菩薩で法然、もう一体は観音菩薩で親鸞だと告げた。彼女は親鸞にこの夢の中の法然の話だけをして親鸞からそれは正夢に違いないと言われるが、親鸞のことは語らなかったという。
 東向きの堂とは此岸に向いて建つ浄土の寺かもしれない。四天王寺と浄土の寺は「二河白道図」のように此岸と彼岸で対称関係にある。いにしえより人々にとって四天王寺は彼此相関の寺である。

(挿絵 左=式子内親王の歌と平安女性 右=四天王寺大鳥居)

 

 

 

こころの回廊41回 女人説法 (2006年10月9日)
 
 建永(承元)の法難により法然は四国へ流罪となる。しかし法然はこれを田舎の人々に法を伝える機会と捉える。実際に播磨の高砂では法然は老漁師夫婦を導く。現在そこに浄土宗十輪寺が建つ。
 ついで室の泊に着く。現在の兵庫県たつの市御津町室津である。その時法然の船に一艘の小船が近づいてきた。乗っていたのは遊女である。遊女は罪業の重い自分がいかにして助かるかと問う。法然は「ふかく本願をたのみて、あへて卑下することなかれ」と念仏を勧める。二人の船はともに本願海に浮かんでいる。
 貴賤上下を問わずというが、法然はあらゆる階層の人々に救いを説いた。源頼朝の妻、北条政子もその一人である。彼女は源平の争乱による罪業の報いを恐れていたに違いない。無論、法然の説くところは遊女に説くのと何ら変わるところはない。
 しかしその法然にも時に何か違うものを感じさせることがある。臨終が迫り、今一度お会いしたいという尼の聖如房への返事は『法然上人絵伝』に延々と引用される。説くところの本旨は同じだが、同じ仏の国に参り蓮の上で語り合いましょうなどというのを読むと、これは説法付きの恋文ではないのかと思えてくる。二人の仲を推測する説が出てくる所以である。
 聖如房は出家し承如法と名乗った後白河法皇の皇女で歌人の式子内親王とされる。彼女はこの返事を胸に親鸞が法然に帰した辛酉の年一二○一年一月二十五日に遷化した。法然の命日も十一年後の一月二十五日である。彼女は藤原定家との恋も言われるが浄土で巡り合ったのはどちらだろう。
彼女は「忍ぶ恋」として「玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする」と詠んだ。もはやその「玉の緒」、即ち命が絶えることはない。
 

こころの回廊40  革命的仏教 (2006年10月2日)

 
 誕生寺は熊谷直実の創建という。直実は坂東武者で、『平家物語』では平敦盛を討ち取った際に世の無常を感じ、後に出家して法然の弟子となる。明恵は親鸞と同年に生まれ、栄西と親交があった。明恵も法然を尊敬していたが、法然没後『選択集』を読んで驚き、『摧邪輪』を著して批判した。
 法然は浄土の祖師・曇鸞六百回忌の一一四一年に仏門に入り、親鸞は一二○一年に法然に帰した。ともに辛酉革命の年で、ここに革命的仏教が始まる。一一四一年には栄西、一二○○年に道元が生まれ、聖道門も改革が始まる。遡れば中国では曇鸞、道綽と天台智がほぼ同時代で、聖徳太子も時代が重なる。浄土門と聖道門は並進するようだ。
 さらに親鸞の同朋同行思想は社会に影響を与えた。私はそれは太子の理念の反映だと思う。それは後継者のあり方も問う。最近では善導没後千三百年、親鸞出家八百年、日蓮七百回忌の辛酉の年一九八一年に真宗大谷派は新しい門首制を敷いた。
 これらは世の動きとしても理解できるが、明恵の言うこれが仏教かという問いは残る。明恵の聖道門仏教は覚醒原理による。人に内在する仏性を中心とし、それが芽を出す出発点として悟りを求める菩提心を重視する。
 浄土教は救済原理による。根源的な仏性である如来を中心とし、それが本願力という巨大な引力で人の仏性を自らのもとに引き寄せる。無限の光、永遠の命の本性による。親鸞の言う「法則」である。人はただひたすら惹かれていくだけでそれが信心だ。悟りも何も求めはしないがこれも仏性の表れだ。
いずれにせよ、そこにあるのは仏性の働きであり、結局帰するところは如来である。
この如来系宇宙と同じく現に我々は太陽に向かって落下している。

(挿絵  左=誕生寺の旅立ちの法然像   右=誕生寺の山門と熊谷直実像)

こころの回廊39 取捨選択 (2006年9月25日)
 
 誕生寺には旅立ちの法然像がある。法然の幼名を勢至丸とするが、これは阿弥陀仏の脇士の勢至菩薩の名による後世の付会だろう。勢至菩薩は阿弥陀仏の智慧を表すと言われる。法然は「智慧第一の法然房」と言われた。
 浄土宗の開宗宣言と言うべき『選択本願念仏集』を読むと、あの幼顔の残る少年が、あるいは晩年の温顔の僧が、このような大胆な書を書くのだろうかという思いにとらわれる。それは智慧第一と言われた人にしてはじめて可能な書である。 題名にある「選択」の主語は阿弥陀仏だが、読む側からすればこれは法然の選択ではないのかと思えてくる。「選択」とは「取捨の義」だと法然は述べるが、目に入るのは徹底した「捨」の方だ。その智慧はひたすら自分にとっての真実を追究し、不要なものを容赦なく切り捨てていく。ここに法然の求道がある。捨てて捨てて最後に残ったものが真実だ。それが法然にとっては念仏だった。
 『選択本願念仏集』の冒頭「南無阿弥陀仏 往生の業には念仏を先と為す」。法然の自筆はここだけだが、この書はこの一行目で実質的に終わる。後は智慧の利剣が振るわれるのを唖然として見守るばかりだ。ある者はそれを讃嘆し、ある者は投げ出し、ある者は反感を抱くだろう。讃嘆する人は如来の選択と法然の選択とが重なって感じられる人である。反感を抱く人は結論に至るまでに切り捨てられる側である。
 法然は悟りを求める菩提心さえ不要としたが、明恵は『摧邪輪』を著し菩提心の無いのは仏教ではないと批判した。全くもっともである。法然はついに仏教さえも切り捨ててしまったのだろうか。
 

こころの回廊38  美作国 (2006年9月18日)

 
 その名を聞いただけで惹かれる国がある。私の場合、日向、常陸、信濃、美作などだ。日向と常陸は太陽信仰を感じさせる名だ。常陸は親鸞が布教した地で、ここが常世の国だという伝説があった。信濃は浄土信仰の聖地である善光寺のお膝元。美作は吉備が、備前、備中、備後、美作に分割されて生まれたが、美作国という名には国作りへの思いが感じられる。
 浄土教は救済原理が中心の宗教だが、多くの宗教がもつ創世神話や建国神話に当たるものがある。ただしそれはこの世界のことではない。阿弥陀仏の浄土がその本願によって創られたというものだ。その点で浄土教にも創造原理が含まれる。また信心は仏性であり、浄土往生した人は空の悟りを開くから覚醒原理も含まれる。本願力は救済力が中心だが、創造力でも覚醒力でもある。いずれも仏性の表れだ。浄土教は大乗菩薩道の本願思想を中心に、そこに大乗仏教の如来藏思想も空思想も含んでいる。
 そもそも浄土には二つの意味がある。一つは普通に使う他界としての浄土。もう一つは菩薩行としての「浄仏国土」。この世界は釈迦仏が生まれた仏国土の一つであり、仏弟子はここを仏国土にふさわしいように浄め続けるという考え方だ。これは一種の国作りであり、また救世思想でもある。
 美作国は浄仏国土を思わせる名だ。そしてそれに応じるかのように浄土宗の開祖法然が生まれた。それを記念した誕生寺がここにある。しかしその生い立ちは美しい国の名に反してあまりに悲劇的だった。少年時代に押領使の父が突如夜襲を受けたのである。最期の息の下で父は子に報復を戒め、父の菩提を弔い自ら解脱を求めよと遺言した。
 後に美作は剣豪武蔵を生むが、法然は武士の子に生まれながら武士になることを禁じられた子だった。しかし幼時から親しんだ剣は形を変えてもう一つの美しき国を作る。


(挿絵 左=円通寺の良寛像と良寛堂 右=誕生寺の御影堂)

 

 


37  良寛の国 (2006年9月4日)

 
 良寛は円通寺の風光を愛した。「円通に攀登すれば夏木清し」とか、「長夏の円通諸品清く」と詩に歌う。瀬戸の海は彼の故郷越後の「有磯海」とは対照的な海だった。十八年間を過ごした玉島は良寛の第二の故郷である。現在円通寺一帯は公園となり、国民宿舎良寛荘は瀬戸の風光と豊富な瀬戸の幸で、良寛を慕う遠来の客をもてなす。
 しかし印可を受けた良寛は「生死の苦海」を思わせる荒海の越後に帰った。越後は親鸞の流罪地であり、また親鸞の妻・恵信尼が晩年を過ごした地である。そして真宗が根付いた越後門徒の土地柄だった。草庵に住み檀家もなく、托鉢と禅に生きた良寛を支えたのは彼らだった。最晩年の良寛が身を寄せた木村家も真宗門徒だった。越後の良寛は詩に自らを「非俗非沙門」と称するが、これは僧籍を奪われて越後に流された親鸞が「非僧非俗」と名乗ったのが念頭にあったのだろう。
 ここで良寛は荒海の向こうに佐渡を望んで過ごす。佐渡は彼の母の生国だった。諸国を行脚した良寛だが、なぜか目の前の佐渡には渡った形跡がない。そこは童心に返った良寛が「母の国」として慕い続ける永遠の聖なる世界だったのだろうか。
 その母の国はいつしか彼岸として極楽浄土になり常世にもなる。「御仏のまことの誓ひの弘からばいざなひ給へ常世の国に」その心はすでに浄土に渡っていた。「度(わた)しにし身にありせば今よりはかにもかくにも弥陀のまにまに」さらに歌う。「良寛に辞世あるかと人問はば南無阿弥陀仏といふと答へよ」彼は最後に彼の真の故郷に還り着いた。常春の国から良寛の手毬歌が聞こえる。

 

こころの回廊36 道心と童心 (2006年8月28日)
 
 備中玉島の曹洞宗円通寺は良寛修行の寺として知られる。良寛は越後の出雲崎に生まれたが、名主見習い中の十八歳の時に突如出家し、越後を巡錫中の国仙和尚についてはるばる円通寺に赴いた。ここで十八年間修行し国仙和尚から印可を受けた。その後、諸国行脚を経て越後に帰り、出雲崎に近い国上山に庵を結んだ。
 越後の山中に草庵を結び檀家を持たず托鉢と禅に過ごした良寛の姿は、名利を厭い越前の山中に只管打坐の生涯を送った道元の姿を範としていることは明らかだろう。しかし道元と良寛ではその印象はかなり違うはずだ。
 日本の禅僧で子どもにもよく知られているのは一休と良寛だろう。一休の場合は親しまれている姿は小僧時代のもので実像と大きく異なる。一休の風狂を理解するのは大人でも難しい。しかし良寛の場合は子ども達の知る良寛は確かに良寛そのもので、むしろそこに彼の一つの本質がある。托鉢に出かけては良寛は子ども達と毬つきをして遊び、漢詩にも和歌にもそれを詠んだ。道心の人としては良寛は道元を範とし道元以上に厳しい生活を送ったが、一面で良寛は童心の人だった。これは道元には見られない。
 童心に返った良寛は特に晩年は子が親を慕うように念仏に親しんだ。また書も歌も漢詩もよくし、「我が詩はこれ詩に非ず」という本源から歌う芸術家だった。禅では覚醒原理を、念仏では救済原理を、芸術では創造原理を体現した、禅人を越えた全人だった。良寛はそんなそぶりはどこにも見せず春になれば里に出て子ども達と日がな一日遊んだ。その姿は円通寺が臨むのどかな瀬戸の海と島々を思わせる。 

(挿絵 左=ふくやま美術館  右=円通寺公園の「童と良寛」像)

こころの回廊35 還る人 (2006年8月21日)
 
 福山城の西にふくやま美術館がある。昨年ここで開かれた「オードリー・ヘップバーン展」は過去最高の人出を集めた。私が訪れた時、女性と若い人が多いのに驚いた。クリスマスには『ローマの休日』がゴールデンタイムに放映された。製作から半世紀以上経た白黒映画だが、彼女は今も人々を魅了し続けている。
 トルストイ原作の映画『戦争と平和』は二十代の彼女の魅力に支えられた作品だが、彼女の人生はもう一つの「戦争と平和」だった。展覧会はいきなり戦闘の場面で始まる。大戦中彼女はオランダのアルンヘムにいた。ここは映画『遠すぎた橋』に描かれたオランダで最も激しい戦闘が行われた場所である。彼女は親族を失いながら抵抗運動の伝令を務めた。食料は極度に不足し、彼女のスリムな体型はその飢餓体験の影響と言われる。
 戦争中彼女は抵抗運動の支援にバレリーナとして舞台に立った。戦後の女優としての活躍は平和からの彼女への贈り物だった。生き延びた「もう一人のアンネ」として彼女はそう感じたはずだ。
 彼女は自身の出演作品では『尼僧物語』が最も好きだと語っている。アフリカに派遣された尼僧の看護師シスター・ルークを描く、実話に基づく作品だ。献身的な活動を続けた彼女がついに本国に召還される時、「私は必ず帰ってくる」と言う。
 その言葉通りに後にオードリーはユニセフ大使として戦争と飢餓のアフリカに戻った。まるで浄土教の還相廻向のようだ。彼女が子どもに接する笑顔や、やせ衰えた子を抱く悲しみと憤りの眼差しは シスターを越えてもはやマザーのものだ。シスター・ルークは「マザー・オードリー」となった。


こころの回廊34  二人のバラ (2006年8月7日)
 
 福山市にホロコースト記念館がある。ユダヤ人大量虐殺の記念館がどうしてここにあるのだろうか。犠牲者六百万人の内、百五十万人が子どもだった。未来を奪われた子どもと未来を作る子どものためにこの館はある。
 その子どもの犠牲者の中で最もよく知られたのがアンネ・フランクだろう。この館は館長を務める福山御幸教会の大塚牧師とアンネの父オットーとの偶然の出会いから始まった。館を訪れる人を迎えてくれるのはアンネの笑顔と形見のバラである。私が訪れた日はそのオレンジを帯びた黄色い花が満開だった。
 その日私は先にふくやま美術館を訪れ、「オードリー・ヘップバーン展」で彼女の名を冠したバラを見たばかりだった。白い花弁の縁に薄紅のさしたバラである。
 戦後オランダでオードリーは偶然出版前に『アンネの日記』の校正刷りを読んだ。二人は同じ年に生まれ大戦中わずか数十キロの距離にいた。餓死寸前で救出されたオードリーは自分とあまりにも似た境遇にいたアンネの手記に涙が止まらなかったという。後に彼女は『アンネの日記』の朗読会を開いた。また晩年のユニセフでの活動を見ると、生き延びたら世界と人類のために働くと誓ったアンネの言葉が蘇る。
 記念館の展示は深刻だが、アンネの展示やユダヤ人に命のビザを発給した杉原千畝の展示を見ると救われた気持ちになる。最後には希望さえ感じる。闇から光へ、罪から信・望・愛への道が見えてくる。館を後にする時アンネのバラは一層輝きを増して見えた。アンネのバラとオードリーのバラ。花の命は短いが命の花は散ることはない。  

(挿絵 左=原爆慰霊碑   右=ホロコースト記念館)

こころの回廊33 太子のメッセージ  (2006年7月31日)

 聖徳太子の『十七条憲法』の第一条が「和を以て貴しと為す」、第二条が「篤く三宝を敬え」。三宝とは仏法僧で仏教崇拝の勧め。太子は「和国の教主」と讃えられる。また独断せず人々と論議せよという第十七条は民主主義的発想だ。平和主義とともにその心は今も現行憲法に生きている。
 少年時代の太子は物部守屋の排仏派と蘇我馬子の崇仏派の争いに巻き込まれた。崇仏派が勝って仏教は日本に定着したがこのことは太子には苦い思いとなっただろう。二度とこういう争いがないようにという思いが、仏教崇拝とともに平和主義や民主主義的発想を生んだ面があるだろう。
 太子の平和と宗教和合への思いは今も生きていると思う。前回述べた「八六」の符合もその一つだが、それだけではない。以前、太子にとって辛酉の年が特別の意味を持つことを述べた。神道紀元と言える神武紀元の元年・紀元前六六○年は辛酉の年である。これは太子自ら定めたのだと思う。そしてキリスト紀元の元年・西暦一年も辛酉の年である。太子自身は日本仏教の開祖と言うべき存在である。その在世中には辛酉六○一年に斑鳩宮の造営を始め、ここに後に法隆寺となる斑鳩寺が併設された。さらに太子の没年六二二年はイスラム暦であるヒジュラ暦の元年である。太子は各宗教の接点に立っている。
 直近の辛酉の年一九八一年にはローマ法王が初来日した。その日二月二十三日は太子の命日の翌日だった。法王は広島の平和公園で世界に向けて平和アピールを発した。「戦争は人間の仕業です」で始まる法王の言葉は太子からのメッセージでもあると思う。太子は今も我々を導き続けている。


こころの回廊32 二つの「八六」 (2006年7月24日)
 
 「八六」と聞けば何を連想するだろうか。普通は九九の八六=四十八だろう。広島の人ならそれに加えて八月六日の原爆記念日だろう。私の場合さらに阿弥陀仏の本願と聖徳太子を連想する。
 まず四十八は阿弥陀仏の本願の数である。また太子の没年から生年を引くと四十八になる。太子の享年は数えで四十九だが満では四十八の可能性がある。加えて、太子を写した救世観音を祀る法隆寺の夢殿が八角堂、親鸞が籠り太子のお告げを受けたのが太子創建という京都の六角堂である。ここにも八と六がある。
 広島に生きる念仏者としては八月六日の「八六」も浄土教としての「八六」も、ともに大きい意味をもつ。八月六日は私にとっては原爆記念日であるとともに、「四十八願の日」でもある。阿弥陀仏の四十八願は念仏者の常識なので私と同じように思う人もいるだろう。
 そもそも、醜い世界を厭い清らかな世界を求める浄土教の心と、この世に地獄をもたらす核兵器や戦争を厭い平和を希求するヒロシマの心とは極めて近い。言わば「厭離戦土、欣求和土」である。現に、法然や親鸞が生きた末法さながらの平安末の戦乱や、蓮如が生きた戦国の世は多くの人々を浄土教に向かわせた。
 四十八願の第一願は「国に地獄・餓鬼・畜生」が無いことを願う「無三悪趣の願」である。これをこの世界で言えば、この世の地獄である戦争を無くし平和を求める願いとも言えるだろう。第一願にヒロシマの願いが入っている。さらに『無量寿経』は「兵戈無用」を説く。仏法が広まれば兵も武器も要らなくなるということだ。合掌する手に武器はない。また平和を希求する心は「和を以て貴しと為す」という太子の和の心でもある。平和の鐘が鳴るとき私の中で二つの「八六」が共鳴する。


(挿絵 左=厳島神社舞楽  右=平和の鐘)

 

 

こころの回廊31  踊る島 (2006年7月17日)

 
 浄土教の祖師の一人である一遍は遊行の人だった。全国の神社仏閣に詣でて念仏し、念仏札を賦算した「渡る神」だった。また踊り念仏を奉納する「踊る神」でもあった。踊り念仏は信心を得た「歓喜踊躍」の心が自ずと現れたものだ。後にそれが芸能化し巫女出身という出雲の阿国は念仏踊りを演じたと言われる。
 踊り念仏の発生を思わせる話がある。妙好人・有福の善太郎が懇意にしていた同行の磯七を訪ねた際に二人は夜を徹して法味を味わい互いに踊って喜んだ。ところが善太郎は自分が踊ったことは覚えておらず、自分は踊らなかったが磯七が踊って喜ばれたのが何とも有り難かったと言う。磯七も自分が踊ったことは忘れ、善太郎の踊りが有り難かったと喜んだ。
 神楽があるように宗教と舞楽や舞踊の関係は深い。オードリー・ヘップバーン主演のミュージカル映画『マイ・フェア・レディ』で、苦労の末にやっと正しい英語の発音をマスターしたオードリー演じる花売り娘のイライザが、喜びのあまり歌って踊り始める。名曲「踊り明かそう」に乗ってオドーリーが軽やかに舞いながら、目には見えない翼を広げ階段を駆け昇る。「何が私の心を舞い上がらせたのか知らないが彼が私と踊り始めたの」この心は踊り念仏だ。
 一遍も厳島に渡った。『一遍聖絵』には回廊の舞台で演じられる巫女舞いを見物する一遍が描かれる。一遍の踊り念仏は描かれていないが、美作一の宮の中山神社では踊っているので、安芸一の宮の厳島の舞台でも踊る姿を想像してしまう。そのミュージカルには思わず女神も加わりともに踊り明かしたに違いない。
 

こころの回廊30 渡る島 (2006年7月3日)

 
 厳島神社の主祭神・市杵島姫は宗像三神の一人だが、自ら求めて海を渡り、厳島に鎮座したという伝説がある。これは天照大神が伊勢に遷座した話に似ている。宗像三神は天照大神の息から生まれた。日本の海には東の海に伊勢神宮、西の海に宗像大社、内海に厳島神社が臨んでいる。母なる海は女神と縁が深い。
 市杵島姫が渡る神であることはその神事にも反映していると思う。対岸の地御前神社との間で行われる渡りの神事である管絃祭である。厳島神社は二社制ではないが、渡りの神事は二社制をとる神社によく見られる。 
 この祭りは地御前が此岸の世界、厳島が彼岸の世界であることを感じさせる。海上にそそり立つ厳島の弥山は仏教の世界観にある須弥山と見なされ海上に独立した聖なる世界を形成した。地御前で待ち受ける人の前に夕闇から御座船が現れ浜に寄せるとき人はそこに何かをかいま見るだろう。
 「渡り」は世界の基本構造と結びついた宗教の基本要素の一つである。浄土教の来迎思想や往相・還相、横超の思想もそれと結びついた「渡り」の変奏と言えるだろう。
 厳島は権力者も引きつけた島だった。内海交通の要衝を押さえるという面があるが、この世界を押さえた者が最後にもう一つの世界に手を伸ばそうとしたように見える。 平清盛は現在の社殿の基礎を築いたがまもなく平家は滅びた。また豊臣秀吉は千畳閣造営中に未完のまま亡くなった。
 厳島の海上の大鳥居は遠く人を招きつつも容易には人をくぐらせない。渡ることを拒む狭き門でもある。この島は富も権力も届かない世界があることを示し続けている。

(挿絵 左=厳島神社社殿  右=厳島神社大鳥居)

こころの回廊29  海の宗教 (2006年6月26日)
 
 海とのつながりを感じさせる神社が日本には多い。伊勢神宮は天照大神が自らこの地を選んだと言われている。天照大神は伊勢を「常世の浪の重浪帰する国」と呼んでいる。出雲大社も海辺にあり、稲佐の浜と一体の関係にある。住吉大社は今は大阪の街中にあるが、かつてそこは難波の海辺だった。大山祇神社、厳島神社は瀬戸内海の島にある。宗像大社は玄界灘に浮かぶ沖ノ島が古来からの祭祀の場だった。
 海上交通や漁の安全を祈るために海辺に神社が多くあるのはすぐにわかるが、それだけだろうか。天照大神の言葉にあるように常世の国との関連が大きいのだと思う。常世は常なる世界だがそれは海の彼方にある永遠の楽土と考えられた。また海中の世界もあり、後にそれは竜宮と見なされた。
 そういう世界を常と見るということはこの世界が常ではない、即ち無常だということだ。古代人はすでに常と無常とを意識し、無常のこの世界に対し常なる世界があると考えていた。これが仏教の無常観を受け入れさらに常なる世界として極楽浄土を受け入れる下地になったのだろうと思う。
 そもそも仏教は此岸から彼岸に渡る宗教だが、浄土教では本願海、大信海など海の比喩が多い。また聖道門の難行に対して浄土門の易行を説くのに陸路を行くより船で海を渡る方が楽だという比喩を用いた。『正信偈』の「顕示難行陸路苦、信楽易行水道楽」は有名だ。
 厳島神社の祭神・市杵島姫は海の神であり、渡る神である。私が子どもの頃には島に渡る龍の船があった。海上に浮かぶ大鳥居やその鮮やかな朱の社殿は常世の国や竜宮を思わせるものがある。
 

こころの回廊28  無為の懐 (2006年6月19日)

 
 伊福部隆彦の老子道では「道」は観念的なものではなく、世界の根源として自ら体験されたものだった。そこから直に覚醒原理が禅として、救済原理が浄土教として、また創造原理が現れた。
 その著書『老子眼蔵』に禅の大家久松真一が序文を寄せ、『老子』が「極めて稀に主体知的に真実参究さて」いると評している。伊福部隆彦は道元禅を高く評価し、『正法眼蔵』の解説書を書いて永平寺から表彰された。
 伊福部隆彦の老子道の特徴は無為の解釈にある。普通は無為は「為す無し」と読み、人為の否定と解釈する。伊福部隆彦はそれを認めつつさらに「無の為(はたら)き」と読む。これにより無為は人に内在する無の働きとして覚醒原理に、無から人への働きかけとして救済原理に、根源から展開する無自体の働きとして創造原理になる。
 この解釈により無為は浄土教の他力の要素をもつ。他力は如来からの働きかけだからだ。「為す無し」が自力の否定、「無の為(はたら)き」が他力と考えれば浄土教と同じ発想になる。彼の体得した人為を捨て道の働きのままに生きる「無為自然」は、はからいを捨て本願の働きのままに生きる「自然法爾」と同等だ。本願は浄土教の言葉だが、存在の根本願としての本願は宗教の枠を越えて遍く働く。それが本願海という横超の本願の本質だ。浄土教は『無量寿経』が漢訳された時に老荘の道家思想を取り込んだが、今度は老子が浄土教を取り込んでいる。無為の懐は彼の故郷の山のように深い。
 創造原理を体得した彼は芸術家でもあった。その詩には故郷が歌われる。また書家でもあり、書画集も出されているが口絵に智頭町南方の風景が使われている。彼は故郷を離れたが故郷は彼を離さなかった。むしろ『老子』に親しむほどに彼を懐深く引き込んだ。三輪神社の近く、山の懐に抱かれるようにして「無為真人崑崙隆彦」と刻まれた墓が建っている。
 

(挿絵 左=伊福部隆彦と生家  右=三輪神社と墓石の文字)
 

こころの回廊27 無為礼拝門 (2006年6月12日)
 
 今年二月に音楽家の伊福部昭が亡くなった。伊福部昭の本籍は鳥取県で、伊福部隆彦と同じく伊福部一族に連なるそうである。私が智頭の石谷家を訪れた日にそこで因幡の伊福部家の展示が開かれていた。またその日が伊福部家が祭祀した三輪神社の大祭の日でもあった。三輪神社は伊福部隆彦が神社を継がなかったために今は親戚にあたる虫井神社の小坂宮司が祭祀をされている。
 伊福部隆彦が三輪神社を継がなかった理由は定かではない。後に人生道場無為修道会を主宰する宗教家になったことからすれば神職を継いでもおかしくはなかったと思う。そうすれば伊福部流神道が生まれただろう。しかしその教えは神道の範囲を大きく越えていた。伊福部隆彦の教えの中心は老子道だったが禅も浄土も含まれていた。
 奇縁にも私が大学に入り東京で住んだ場所が石神井の伊福部邸の近所だった。すでに伊福部隆彦は故人だったがご子息の高史氏から著作を分けていただいた。その一つ『無為修道会経典』を読んだ時の驚きを今も忘れることができない。そこに「無為体究門」と「無為礼拝門」が開かれていた。内容的には「無為体究門」が禅門、「無為礼拝門」が浄土門にあたる。
 「無為礼拝門」の『尽礼拝経』に言う。「わがこの誓願は一切智慮を要せず、〜唯要す、偏にわが名を称ふることを。〜さらばわれ直に爾の上に現じ、爾をわが慈悲誓願のうちに摂取せん。〜われは爾等の親なり。」それはまるで私のために書かれたような生まれたての浄土教だった。浄土教は世界に内在する救済原理の表れなのだ。故に常に新たに現れ続ける。


こころの回廊26 智頭 (2006年6月5日)
 
 鳥取県の南、中国山地の懐に智頭町がある。現在は智頭急行が通じ関西との距離が縮まった。ここは江戸時代の宿場で、源左の若い頃は上京するのに智頭宿を通って中国山地を越えた。安心を得てからも源左は智頭や周辺の用瀬や若桜によく通った。紙問屋の安岡家や「源左の草鞋なら私がぬがせて足を洗ってもよいと思ふほど源左を敬いました。」と述懐した辛川忠雄師の正覚寺があった。また源左語録を収集した俳人の田中寒楼も智頭で小学校長を務めた。
 大正時代に智頭で京都の修養団体・一燈園の西田天香の講演があった。源左もその席に招かれたが遅れてしまい、滞在先で二人は会った。源左は人の肩を揉みながら法話をするのが好きで天香の肩を揉み始めた。天香が「ならぬ堪忍するが堪忍」と話したと聞いた源左は「おらにや、堪忍して下さるお方があるで、する堪忍がないだがや。」と答えた。天香は「私が肩をもんでもらうような爺ではない。」と言ったという。道徳と宗教の違いがよくわかる話だ。
 現在も智頭には旧家が残り、昔日の智頭宿の面影を偲ばせる。智頭宿の中心部の石谷家には名園がある。その裏手が信州の諏訪大社の分祀である諏訪神社である。立派な御柱が社を囲み、歴史と風格が漂う。諏訪大社同様に国津神を代表する大和の大神神社の分祀も智頭にある。智頭町南方の三輪神社である。
 ここの祭祀を司ったのは鳥取の古代氏族である伊福部家だった。明治時代にここに伊福部隆彦が生まれた。伊福部隆彦は老子道の大家だったが、源左の遺風を継ぐかのようにその教えには浄土教が含まれていた。
 

 (左=源左生家看板と願正寺の源左碑 右=智頭の石谷家)

 

 

こころの回廊25「自信教人信」 (2006年5月29日)

 
 「自信教人信」という言葉がある。また教化者を能化とも呼んだ。源左は僧ではないがこれらの言葉が思い浮かぶ人だ。真宗では親鸞が流罪に遭い還俗させられ「非僧非俗」の立場をとってから本来は僧俗の区別はない。「同朋同行」で誰もが「自信教人信」だった。源左はこの「非僧非俗」「同朋同行」の体現者だった。源左は見知らぬ同行でも「兄弟」と呼び、呼ばれればどこへでも出向いて法話をした。
 その言行には『歎異抄』を思わせるものがあり、時にはそれ以上とも思える言葉がある。「おらは時々お慈悲話させられっだが、おらの親様が、おらの口から出て下さるだで、ちょっとも心配せんだいなあ。」とか「おらが言うのとは違いますけえなあ。親さんですけえなあ。」などという言葉が自然に出てくる。
 源左に接した人々から「きっと済度に出てこられたみ仏様だ」とか「私一人の為に、出てくだされたような心になりました。」という言葉が聞かれるのがよくわかる。
 その源左もそうなるまでに苦しい道のりがあった。源左の聞法は十八の時に父親が急死し、その際「おらが死んだら親様をたのめ」と言い残したことから始まった。その「親様」を求めて上京し、西本願寺の原口針水師に教えを仰いだ。しかしお慈悲は聞こえなかった。
 ところがある朝、草刈りに行き自分の負っていた草を牛に背負わせて楽になった瞬間「ふいっと」聞こえたという。三十頃のことである。以来八十九で亡くなるまで、いただき続け、分け続けた人生だった。その期間は親鸞が二十九で法然に帰して九十で亡くなるまでの期間とほぼ同じである。源左は自分は「一番あとから参らしてもらう」と言うが、最後まで本願のままに生きたその姿は一切衆生が救われるまで成仏しないと誓う法蔵菩薩そのままである。




「こころの回廊−出雲路をゆく」講演予告(2006年5月29日)

  中国新聞洗心面で「こころの回廊」を連載している修道中・高の教諭の渡辺郁夫さんが6月17日午後5時から、広島市中区立町のひろしま国際ホテルで「こころの回廊−出雲路をゆく」と題して講演する。
 渡辺さんは島根県出雲地方を何度も旅行。連載では出雲大社、日御碕神社、猪目洞窟、小泉八雲などをモチーフにし、「母の国」としての出雲について考察している。
  旧平田市(現出雲市)出身者の会である広島平田会(池尻稔会長)の主催。入場無料。終了後、渡辺さんを囲む交流会がある。事務局は同ホテル渉外部の山口さん。

 

こころの回廊24 柿の木 (2006年5月22日)
 
 山根の里で願正寺の裏手の路地を登ると、その突き当たりが源左の家である。その家にも和紙作りに使う大釜がある。現在は使われていないようだが、紙作りをした源左を偲ぶよすがとなる。
 家の周囲に柿の木がある。源左の柿の木の話を思い出して近づくと、何と木の下にその話を刻んだ石碑がある。しかも真新しい。後で願正寺で聞いたところ、源左の遺徳を偲ぶ源左講という門徒の集まりがあり、その方々を中心に最近建立されたとのことだった。今も源左は山根の人々の中に生きているのである。
 この木の回りには何本か柿の木があり、熟れきった実が今にも落ちそうに実っている。ちょうどこういう時期の話だったのだろう。柿の木の回りに茨がくくりつけてあるので誰がしたのか源左が不審に思った。村の若い者が柿の実を取るのでそれを防ぐために源左の息子がしたのだった。源左はけがをさせてはいけないと茨をはずして梯子をかけたという。しばらくして息子が梯子をはずそうと言うと、まあ置いておけ、「人が取っても、やっぽり家の者が余計食うわいや。」と言ったという。里の人にとって源左はそういう人だった。
 同様の話が有福の善太郎にもある。およそ彼らには取るという発想がないのだろう。何よりも自分が身に余るほどいただいているからだ。それは無尽蔵なのでいただいたものを分けてもお返ししてもいっこうに減りはしない。これが浄土の経済学だ。「御法(みのり)」が「実り」になる。
 源左のかけた柿の木の梯子は今も浄土に通じている。振り返ると日を受けた寺の大屋根が柿の実と同じ色に輝いて見えた。

(挿絵 左=願正寺  右=柿の木の碑)

こころの回廊23  和紙の里 (2006年5月8日)

 
 伯耆から因幡の日本海沿いを行くと、青谷という町がある。大国主が因幡の白兎に出会ったという白兎海岸はもう少し先だが、このあたりも古代出雲王国圏内だった。
 それどころか北陸から越の国までもその勢力圏は及び、日本海側がほぼそこに収まる。そしてなぜかまたそこが真宗の盛んな土地なのである。「母(妣)の国」は形を変えて真宗に引き継がれたのだろうか。あるいは大国主は本当は阿弥陀仏に国譲りをしたのだろうか。
 この青谷から数キロほど入ったところに和紙の里として知られる山根という集落がある。ここが因幡の源左の故郷である。集落の中心に石州瓦の赤い大屋根がそびえる。それが源左の通った願正寺である。この寺のすぐ裏手に源左が住んだ家があり、現在も源左の子孫が住んでおられる。
 山根では今も和紙作りが盛んである。私が訪れたとき寺の近所では大釜で楮の皮を煮ていた。紙漉を見たことはあるが、釜ゆでは初めて見た。鼻を突く臭いとぐらぐらと煮立つ釜を見ていると地獄の釜ゆでを想像する。
 「聞かにゃ落ちるでのう。」で源左の法話は始まったそうだ。おどしではない。幼いころからこの釜ゆでを見て育ち、自らもそれを続けた源左にとって地獄の釜のふたはいつも開いて自分を待つものだったのだろう。
 もちろんそれで終わらない。「われが落ちようと思っても、親が先手をかけて、落とされんだけのう。」紙漉は釜ゆでを経て初めて純白の和紙が漉き上がるが、念仏者は落ちると知るだけで済むから幸いだ。しかし落ちると知るこの自覚までが何と遠いことか。近くて遠い「母の国」である。
 
          
こころの回廊22 一文不知 (2006年5月1日)
 
 仏教が日本に入って間もない奈良時代の識字率はどれくらいだっただろう。山上憶良は若いときは経典を書き写す写経生だったという推測がある。憶良は字の読み書きをし、仏教を理解できたごく少数の一人だった。やがて彼は赴任した国で読み書きができない人々の思いを代弁した。
 仏教が広まるには憶良のように読み書きができる人が必要なら、途方もない時間がかかるはずだった。にもかかわらず仏教は鎌倉時代には民衆に浸透し始めた。それを受け入れたのは親鸞も接した「一文不知」の人々だった。読み書きができる人よりむしろできない人の方が仏教をより熱心に受け入れたのではないかとさえ思える。この逆転現象は実は今も続いているように見える。知識がある人ほど概して宗教に無関心なのではないか。
 妙好人・因幡の源左は幕末から昭和にかけて生きた人だが、読み書きができなかった。彼は農業の傍ら一生和紙作りを生業としたが、紙を漉きながらもついにそこに書かれる字は読めなかった。それを苦に思ったことはなかったのだろうか。
 しかし彼は言う、「おらは字を知らんのが何んぼかよかったか分からんがや」と。自分は根が悪人なので子どもが母親の懐に抱かれて過ちのないように、親様におすがりして今日まで過ごさせてもらった。なまじっか字が読めたりしたらとっくの昔に間違いを起こしていたかも分からないと。 様々な情報に惑わされる現代人には源左の純な姿はますます尊い。やっかいなことに正しい知識ほど人を惑わす。「不立文字」は禅だけではない。源左と同じく、念仏者は皆「一文不知」になる。

(挿絵  左=願正寺の源左木像 右=伯耆大山)

 

 

こころの回廊21  山上憶良 (2006年4月24日)
 
 山陰は和歌に縁が深い。石見には万葉最大の歌人、柿本人麿の足跡が残る。出雲はスサノオが我が国初の和歌を詠んだ地。伯耆には万葉異色の歌人、山上憶良が国司として赴任した。因幡は『万葉集』の編者の一人と言われる大伴家持が、国司として『万葉集』最後の歌を詠んだ地である。
 伯耆大山の東のすそ野に広がる倉吉平野に伯耆国庁があった。ここに山上憶良が国司として赴任した。伯耆時代に詠んだ歌は伝わっていないが、「貧窮問答歌」に「雨雑じり雪降る夜は術もなく寒くしあれば」と歌われる情景には山陰での冬の経験が含まれているかもしれない。また「世間を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」には山陰で渡り鳥を見送った経験が反映していないだろうか。
 そしてその思いは時を隔てて、越後時代の親鸞の思いに重なるように思える。渡唐の経験があり、帰化人説もある憶良の教養は多岐に渡るが、万葉の歌人の中では最も仏教に造詣が深く仏教に独自の解釈をもつ。何よりも彼は「本願をもちて生を彼の浄刹(浄土)に託せむ」と述べる浄土願生者だった。憶良には「竊以(ひそかにおもんみれば)」で始まる仏教思想を含んだ二種の漢文があるが、この書き出しは親鸞の『教行信証』の書き出しと同じである。
 また「貧窮問答歌」は聖徳太子の「片岡山の飢え人」を思いやる歌と通じるものがある。親鸞同様憶良も聖徳太子を尊敬したのではないか。憶良の歌が光るのは共感能力の高さのせいである。彼ほど人の苦しみを我がものとした歌人はいない。それが親鸞と通じるものを感じさせるのだろう。


こころの回廊20 ミオヤとムスヒ (2006年4月17日)
 
 「母(妣)の国」としての出雲を語るのに欠かせないのが神産巣日神である。出雲の神の系譜ではカムムスヒ、スサノオ、大国主が主要な三神である。カムムスヒは御祖(ミオヤ)とも呼ばれる祖神である。「ミオヤ」は主に母神を表す言葉だ。
 またこの神名に含まれる「ムスヒ」は「産霊」とも書かれる。命を生み出す霊力を表し、男女の「結び」にも通じる。創造原理を表す古代信仰の理念だ。弥生人のみならず、女性を象った土偶があるように縄文人もこの信仰をもっていたようだ。
 真宗では如来を親様と呼ぶ。教派神道の一つである天理教でも女性教祖をオヤサマと呼ぶ。母性信仰は根強いものがある。カトリックの聖母信仰や仏教の観音信仰にもその要素がある。心情的には、深層にある古代から続く母性への信仰が、様々に形を変えて表層に現れてくるのだろう。
 「風土記の丘」の近くに神魂神社がある。現在の主祭神はイザナミだが、『出雲国風土記』ではカムムスヒを神魂と表すので、これが本来の祭神だろう。小さな社だが、観光地化していないせいか、何とも言えない落ち着きがある。「神さぶ」という言葉が思わず浮かぶ古社である。元来はここにあった出雲国造家の館の邸内社として始められたと考えられている。
 出雲国造家は壮大な大社を営みながらもこの小さな社を守り続けた。カムムスヒもイザナミもミオヤとして心密かに慕い続けるものだった。人の心から母なるものが消えれば、神も仏も消え、そして人も消えるのではないか。少子化が進む現代をミオヤは憂えているに違いない。出雲はミオヤの心に返る国である。

 (挿絵 左=ハーン像 右=神魂神社)

 

こころの回廊19 スサノオとハーン (2006年4月3日)
 
 アマテラスとスサノオは本来は高天原で弟が姉を補佐する関係だったのだろう。スサノオの乱暴によりこの関係は崩れるが、スサノオが退治したオロチから出た剣をアマテラスに献上したことにより、両者の関係は修復する。出雲はそのスサノオと子孫の大国主の国だから、元来は高天原と補い合う関係なのだろう。
 スサノオは亡くなった母のイザナミがいる「母(妣)の国」を求めて出雲に下った。スサノオは「荒ぶる神」だが「慕う神」でもある。スサノオがオロチを退治後、クシナダ姫と結婚する際に詠んだ歌、「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣作るその八重垣を」が、我が国最初の和歌であると言われる。スサノオは愛の神でもあり歌の神でもある。これが「母の国」出雲で見るスサノオのもう一つの顔である。
 この「母の国」出雲に魅せられたのがラフカディオ・ハーン(小泉八雲)である。ハーンはその日本名をスサノオの歌から採ったが両者は通じるものがある。幼い時に母と別れたハーンが諸国放浪の後にたどり着いたのが日本であり出雲だった。スサノオが戦ったオロチに当たるのはハーンにとっては日本を飲み込もうとしていた西洋文明だった。クシナダ姫に当たるのが妻の小泉セツ、歌に当たるのが物語だった。
 セツの語る日本の不思議な話はハーンの心を深く捉えた。「怪談」として知られるそれらの物語には西洋文明に侵される前の日本があった。ハーンの幽霊は人の心の闇に棲むのではなく、優しさの中に棲んでいた。そのことを女神セツの語りに見出したとき、ハーンもまた出雲の神々の仲間入りをしたのだった。


こころの回廊18 譲りと補い(2006年3月27日)
 
 国譲り神話とは、高天原という太陽王国をもつ外来の勢力と、黄泉の国というもう一つの太陽王国をもつ在来勢力の交渉だったのではないか。しかし両者は結局は補い合う関係にあった。
 このことは大和においても同様で、出雲の大国主神と一体とされる大和の大物主神は、太陽祭祀の場であった三輪山で祀られていた。高天原の天照大神も一時期ともに三輪山で祀られたが、やがて両者は東西に分かれ、天照大神は東の伊勢で祀られることになった。
 東西軸をもつ者同士は対立するより補い合う方が似合うのだろう。浄土教も無量光である阿弥陀仏の西方浄土という太陽王国と東西軸をもつ。
 出雲における東西軸は、揖屋の黄泉比良坂と、黄泉の穴と呼ばれる猪目洞窟を結ぶ線だけではない。出雲大社と熊野大社も東西軸上にある。この両大社はいずれも出雲国造家が祭祀する。東の熊野大社が西遷して出雲大社が造営されたのだと思うが、東西軸をもつために両社が必要だったのだろう。
 この東西軸に対して南西から北東に三十度の角度で交わる線がある。須佐神社、須賀神社、熊野大社、揖屋の黄泉比良坂を結ぶ線である。この角度は出雲で冬至の時に太陽の沈む方角に一致する。衰えた太陽をもう一度東西軸上に呼び戻そうとする一陽来復の線に見える。
 これらの神社の中で須佐神社、須賀神社はスサノオを主神とする神社であり、熊野の神もスサノオと一体とされる。スサノオは大国主の父とも祖先とも言われる。そして何よりもオロチ退治のヒーローである。その霊力が太陽王国を守り、また太陽の力を補う力と見なされたのではあるまいか。

(挿絵  左=日御碕神社・楼門   右=出雲大社・大しめ縄)

こころの回廊17 黄泉の国 (2006年3月20日)

 
 古代日本人は多くの他界をもっていた。高天原、常世、黄泉の国、根の国、母(妣)の国。仏教が伝来すると六道輪廻の世界とそれを越えた極楽浄土が加わる。そして明治以降はキリスト教の天国が加わり、実に多彩な他界観が形成された。新しい他界が入れば古いものが消えるとは限らない。神代からむしろ複数の他界がある方が自然だった。
 これらの他界で出雲と関係が深いのが黄泉の国である。出雲に黄泉の国の入り口があるとされ、また出雲の神である大国主神は国譲りの後、幽界を司る神になったとされている。「ヨミ」に当てた漢語の黄泉は黄が五行思想の土で地下の泉を表す。このことや墳墓のイメージから黄泉は地下の他界と考えられ、そのため薄暗い世界と思ってしまうがそうだろうか。
 出雲を何度も訪れるうちに私は別のイメージを抱くようになった。山陰を「SUNIN」と表すことがあるが、実はこれこそが黄泉の国の本当の姿なのではないのか。東から昇った太陽は西に沈む。夜の間太陽は地下を通って、現代ならそれは地球の裏側だが、再び東から昇る。地上が夜の間、太陽がいる世界が黄泉の国なのではあるまいか。
 黄泉の国の入り口とされる二つの場所、揖屋の黄泉比良坂と、日御碕に近い黄泉の穴と呼ばれる猪目洞窟はほぼ東西軸上にある。黄泉の国とは地下のもう一つの太陽王国ではないのか。地下からくる熱や光、玉造の温泉や玉、また金属類はその存在の証だった。荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡から出土した大量の銅剣、銅矛、銅鐸はその文脈に置けないか。黄泉の国がその祭祀とともに再び「ヨミガエル」かのようだ。
 

(挿絵 左=温泉津・安楽寺の才市詩碑  右=安楽寺の鏝絵)



こころの回廊16 「口あい」 (2006年3月13日)

 
 浅原才市の詩に打ち寄せる波を感じるのは数の多さや内容にもよるが、その詩が平仮名で書かれていることによる視覚的効果もある。六連島のおかるは字が書けなかったので寺で代筆してもらった。そのことが彼女の歌が知られるきっかけになったが、漢字仮名交じりではこうはいかない。
 才市の場合は自分で字を書くことができた。ただしそれは平仮名と一部の易しい漢字だけだった。それが海の波や砂浜のように見える。またそれが子どもが書いたようにも見え、その海の中で才市が子どもとなって親と遊び戯れているように見える。読んでいると自分もその終わりのない喜びの海に引きずり込まれていくように感じる。
 彼はそれを「口あい」と呼んだ。そこには親子が口を合わせて歌うイメージがある。彼はそれを書きためて自分で楽しんだ。発表する意図はなかったが、その作品が知られるようになったのは鈴木大拙の力が大きい。
 鈴木大拙の本を読むと才市の詩を読んだときの驚きが伝わってくる。鈴木大拙は自分の本領である禅の世界と、念仏の世界とが、禅のことをほとんど知らないはずの一念仏者の中で見事に融合しているのに目を見張った。「ええな せかいこくう(虚空)が みなほとけ わしもそのなか なむあみだぶつ」
 さらに禅にはない相思相愛の喜びの世界がある。もう一つの石見相聞歌である。真宗が歌う宗教になるのはこれがあるからだ。こうなるとうらやましさを感じたのではあるまいか。「よろこびわ わしをあなたがたのしんで わしもあなたをたのしむよ なむあみだぶつ なむあみだぶつ」


こころの回廊15 打ち寄せるもの(2006年3月6日)
 
 妙好人と一口に言っても様々である。真宗という共通の宗風の中に各人の個性がある。それが教えの光に照らされて輝き始める。そうすると何気ないものまで魅力になる。おそらく才市は職人気質の持ち主で、その一徹さは求道の中に活きていただろうが、安心を得てからの生活は下駄作りに明け暮れる一見平凡な生活の繰り返しだった。それでも見る人には何か人と違うものが見えた。
 才市の絵を描いた若林画伯もそれが見えたのだろう。しかし角を描いてくれと言われたとき、才市が奇をてらう人でないだけに驚いただろう。こうなるともう余人には立ち入り難い世界である。
 この世界が育くまれたのは主に船大工として出稼ぎに行っていた博多でのことではなかったかと思われる。才市はそこで明治の法然と呼ばれた萬行寺の七里恒順師に出会った。七里師は僧侶向けの私塾と門徒向けの法座を開き、そこには全国から人が押し寄せた。
 その門下で有名なのが僧では伊勢の村田静照師、門徒では才市である。村田師は真宗高田派の人で、伊勢神宮の近くで法を説いた。宗派を越えて人々が集まり、駅に降りる人のうち、神宮に行く人より村田師のもとに行く人の方が多かったという逸話が伝わっている。
 この三人に三様の個性がある。面白いことに七里師と村田師は講話だけが残るのに対し、詩という形だが著作があるのは才市だけである。しかもその量は残っているものだけでも六千という膨大な数である。創作意欲などという言葉では説明できない何かが働いていた。それは休むことなく打ち寄せる本願海の波の姿そのままだった。
 

(挿絵 左=温泉津の浅原才市像  右=温泉津・才市の家)

 


こころの回廊14 鬼の像(2006年2月27日)

 
 漫画家水木しげるの出身地境港に水木しげるロードがある。百体以上の妖怪像があるこの道にこの像を置いても誰もそれと気付かないかもしれない。頭に角が生えているから鬼太郎の御先祖と言えば通用しそうだ。しかしよく見れば鬼にしてはおかしい。確かに頭に二本立派な角が生えているが顔が柔和でしかも正座して合掌している。こんな鬼がいるのだろうか。
 何かと言えば石見の妙好人として知られる浅原才市の像である。どこにあるのかと言えば境港ではなく、同じく山陰の港町温泉津である。温泉津はかつて石見銀山から産出される銀の積み出し港として栄えた町である。銀山街道の白い道がここから海へと続いていた。また温泉の湧く出湯の町でもあった。その元湯の前にその像はある。由来を知らない人はその角を見て驚くに違いない。
 才市は元は船大工だったが、晩年はこの町で下駄職人として生きた。その家が保存され、また才市の通った安楽寺の境内には才市の詩碑が立ち、本堂の一角は才市の資料館となっている。温泉津は湯の町だが、どちらかと言えば湯治場的な静かな町である。才市の楽しみはその湯につかることとと、寺で聴聞しお念仏することだった。身も心も癒された町だった。
 その静かに生きる姿に惹かれたのが若林春暁画伯である。しかし完成した絵に才市は注文を付けた。それが頭の角である。悪人正機の自覚を表す角の絵を見てこれこそ自分だと喜んだという。その絵が元湯の像となった。その姿は決して涸れない命の泉と衰えることのない白い道、そしてそこに続くもう一つの海を今も静かに示し続けている。


こころの回廊13 相聞と挽歌(2006年2月20日)
 
 我が国最古の歌集『万葉集』には部立と呼ばれる三つのジャンルがある。相聞、挽歌、雜歌である。相聞は男女間の恋愛歌を中心とするが、男女関係以外の歌もあり、総じて言えば愛の歌である。挽歌は棺を引くときの歌で、死を悼む歌。雑歌がそれ以外の歌。相聞と挽歌は愛と死という今も変わらない文学のテーマを早くも表している。
 このテーマは浄土教のテーマでもある。死は宗教と結びつくのは当然として愛の方はどうなのか。恩愛は執着として悟りの妨げとなるという考え方がある。しかし浄土教でめざすのは人間関係を越えた普遍的な愛である。そちらから見れば様々な愛の形は普遍的な愛の断片であり、入り口と見える。そこから永遠の愛を求める旅が始まる。
 夫の浮気に苦しんだ六連島のおかるはやがて自らを「浄土の花嫁」と呼んだ。おかるは純情だったそうだが、真実の愛を求めたからこそ普遍的な愛に目覚めたのだろう。
 石見には相聞と挽歌を詠んだ万葉最大の歌人、柿本人麿の足跡が残る。石見では人麿は人丸と呼ばれる歌の神である。その石見相聞歌は人麿が石見の国から妻と別れて都に上るときの歌。石見挽歌は妻を思いつつ、そこにたどりつけないまま亡くなることを詠んだ歌。この別れと回帰もまた浄土教のテーマである。
 この背景には「石見の海 角の浦廻を 浦なしと 人こそ見らめ」と歌われる、東西に延々として続く石見の海がある。島さえない。この果てしなさを目にし、潮鳴りを聞けば、誰しもが旅人となり、自分がどこから来てどこに行くのか、自分を待つ人はいるのかと考えざるをえないだろう。
 

(挿絵  左=乙女峠のマリア像  右=石見の海・江津市波子)

 

 



こころの回廊12 備えと供え (2006年2月6日)

 
 乙女峠の切支丹灯籠を永井隆が見たとしたら、殉教事件に備えていたかのようなその存在に自らの人生と重なるものを感じたのではあるまいか。永井隆は島根県で医者の家に生まれ、長崎医大に入学した。そのことがカトリック入信のきっかけになった。下宿先が浦上のカトリックの家だった。浦上では切支丹流刑を「旅」と呼んでいた。
 島根時代から永井隆は短歌を詠んだが、長崎医大にはかつて斎藤茂吉がいたことによりアララギ支社があり、作歌に拍車がかかった。永井隆の文学は歌から始まった。茂吉は柿本人麿の研究からその終焉の地と言われる石見に足を運んだ。また茂吉は鴎外主催の観潮楼歌会に参加し、鴎外と親交があった。鴎外の文学も津和野時代の和歌から始まっている。森鴎外、斎藤茂吉、永井隆はいずれも医者でかつ文学をよくし、三人とも島根県内に個人記念館が建つ。
 カトリックと文学と並んで永井隆にとって重要だったのは、長崎医大で放射線医学の専門家だったことだ。長崎での被爆前にすでに自身が放射線被曝により白血病にかかっていた。そして自ら原爆に遭いながら被爆者の治療に当たり、自身の白血病の悪化により、ついに病床の人となった。
 ところがわずか一坪の如己堂に病臥しながら、奇蹟とも言うべき作品が生まれる。信仰、文学、放射線医学、全てがその日のために備えられていたかのようだった。それを自覚したように彼の命が供えられた。そして『乙女峠』を書き終えて、また一人「最後の殉教者」が峠を越えて旅立った。「白ばらの花よりかおりたつごとく この身を離れのぼりゆくらむ 隆」


ころの回廊11 津和野巡礼(2006年1月30日)
 
 津和野での切支丹殉教が鴎外に影響を与えたと考える人の一人に鴎外の娘の小堀杏奴がいる。鴎外は神父にフランス語を習ったが、杏奴は幼時から鴎外にフランス語を習い、後にカトリックに帰依した。鴎外は口には出さなかったが、カトリック信者に深い友情を抱き続けたと杏奴は言う。
 鴎外は帰郷しなかったが、杏奴は津和野を訪れ、教会のミサに参列している。「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」という鴎外の遺言は有名だが、杏奴は巡礼者となって、父の無言の遺言に応えたのだと思う。
 杏奴に限らず、津和野を訪れる人は巡礼者となる。そして図らずも奇蹟の目撃者となる。迫害中に聖母が現れたと言われ、乙女峠は殉教とともに聖母出現の聖地にもなった。乙女峠の名はそれに因むのかと思ってしまうが、以前からここは乙女山と呼ばれていた。
 不思議なのはそれだけではない。ここにあった光琳寺という廃寺に切支丹が収容された。その跡地に今はマリア聖堂が建ち、奥に寺の墓地が残る。そこに歴代住職の墓に囲まれて奇妙な形の石柱が立つ。切支丹灯籠である。隠れ切支丹によって作られたと言われ、突起を抑えた石の十字に聖母らしきものが彫られた灯籠である。聖堂で見たように石の聖母も合掌する。
 それを見ると一瞬時間が逆流したような錯覚に陥る。いったい誰が建てたのか。それと知って建てたのか。切支丹が来る前から聖母は現れていたのだ。そのすり減った手を指先でなぞると、降り注ぐ日の温もりが伝わる。まるで血が通っているように温かい。歴史には時として見えざる手が働いているのだろうか。
 

(挿絵  左=森鴎外と旧宅   右=津和野乙女峠のマリア聖堂)

こころの回廊10 殉教と殉死 (2006年1月23日)

 
 津和野に切支丹がいたのは明治元(一八六八)年から明治六年までである。鴎外は文久二(一八六二)年に津和野に生まれ、明治五年まで津和野にいた。鴎外の少年時代の五年間、切支丹は乙女峠にいた。出郷後鴎外は一度も郷里に帰らなかった。殉教事件のことを鴎外は語っていないが、帰郷しなかったのはこの事件のせいではないか、またこの事件が鴎外に影響を与えたのではないかと推測する説がある。
 彼らは取り調べのために役所や城に呼び出されることがあったそうだが、ほとんど乙女峠にいたから鴎外がその姿を直接見ることはなかっただろう。永井隆の『乙女峠』では信者を責める時には医者が立ち会ったという。鴎外の家も西周の家も医者だった。鴎外の耳に噂は入るはずである。
 鴎外がドイツ留学中にバイエルン王とその侍医の水死事件が起きた。これを題材としたのが『うたかたの記』である。侍医の死は一種の殉死とも言える。後に明治天皇崩御の際の乃木大将殉死事件に衝撃を受けた鴎外は殉死物を書く。殉死は儒教倫理による殉教とも言えるだろう。切支丹を支えたのも「主」に殉じるという一種の儒教倫理だったのかもしれない。
 『最後の一句』では死罪になる父の身代わりになることを少女が奉行に願い出る。この少女に殉教者を見る見方もある。また、少女は「お上の事には間違いはございますまいから」と言う。心に突き刺さる言葉である。この言葉の源は津和野時代に抱いた少年鴎外の疑問にあるのではないか。鴎外はその疑問を解くことができたのだろうか。人には答えを得なければ帰れないところがある。


こころの回廊9 津和野 (2006年1月16日)

 
 山口市から山口線に乗り、県境を越えるとすぐに島根県津和野町に入る。山陰の小京都と呼ばれる静かな山間の町である。ここは江戸時代、亀井氏の治める城下町だった。今も城跡が残り、藩校養老館が残っている。あまたの秀才を輩出したこの藩校の出身者で有名なのが森鴎外や西周であろう。両家とも医者だったが、旧居が残っている。
 この城下町としてのたたずまいの中に、今は特に違和感もなく立っているのが、津和野カトリック教会であり、また乙女峠のマリア聖堂である。もちろん両者とも藩政時代にはないが、その由来には、この美しい町からは想像しがたい、藩政時代末期に起こったある事件が関係している。
 幕末に長崎にキリスト教会ができたことをきっかけに、その存在が明るみに出た隠れ切支丹が多数捕まった。新政府ができてもキリスト教禁制は続き、切支丹配流地の一つが津和野だった。乙女峠にあった収容所で改宗が強要され、拒んだ者の中に命を落とす者がいた。禁教が解かれるまで三十六人がここで殉教した。津和野の哀史である。
 この事件は永井隆の絶筆『乙女峠』や、遠藤周作の切支丹小説第一作『最後の殉教者』に描かれた。永井隆は島根県出身で、長崎でキリスト教に入信した。この事件で生き延びた体験者を直接知り、その手記を読んだ者としては二つの郷里を結ぶこの事件は避けて通れない問題だったに違いない。切支丹小説を書こうとする遠藤周作にとっても避けられないものだった。では津和野にいた少年鴎外はこの事件を知っていたのだろうか。もし知っていればどう受け止めたのだろうか。 

(挿絵  左=芳一像   右=津和野カトリック教会)

こころの回廊8 壇ノ浦 (2006年1月9日)

 
 その日、壇ノ浦に臨む火の山に立てば源平の合戦は手に取るように見えただろう。正午に始まった合戦は、はじめは西から東への潮流に乗る平家が有利に戦い、やがて潮流が東から西へと変わるとともに源氏が優勢となり、ついに平家は滅びた。潮の変わり目が時代の変わり目だった。数十年に及ぶ源平の争いを凝縮して見せた一日だった。
 このとき身を沈めた安徳天皇を祀る赤間神宮に竜宮の門という朱塗の水天門が立つ。門から海を振り返ると、「浪の下にも都のさぶらふぞ」と二位の尼が幼帝に語るのが聞こえてきそうだ。尼は東の伊勢神宮にいとまを申し、西には西方浄土に迎えられるよう念仏せよとも勧めた。当時の宗教意識が表れる。海に沈んだ人々は西方浄土に迎えられたのか、あるいは竜宮に迎えられたのか。
 拝殿を左に進むと小さな堂がある。そこに琵琶を抱え今も何かを語り続ける耳無し芳一の像がある。小泉八雲が語る芳一の物語と芳一の語る『平家物語』が一つになる。ここから雰囲気が変わる。その先に平家一族の七盛塚、さらに安徳天皇阿弥陀寺陵がある。赤間神宮の前身、阿弥陀寺の姿をここにとどめる。
 『平家物語』は時代をそのまま閉じ込めたような複雑な作品だが、仏教の無常観、因果思想と並び浄土思想が色濃くにじむ。『徒然草』に作者と伝える信濃前司行長は親鸞もその下で出家した慈円に仕えたという。親鸞が『平家物語』を読めばどう感じただろうか。その筆致には共感しつつも平家一族の浄土思想には未完のものを感じたのではあるまいか。芳一像は潮騒の中で今も未完の浄土教を語り続けている。


こころの回廊7 土井ケ浜 (2005年12月26日)
 
 角島は今は下関市に属し、山口県の西岸はすべて下関市になった。瀬戸内海側の長府も下関市なので、下関市の海岸線は大変な距離になる。これほど長い海岸線をもち、しかも趣の異なる海をもつ市は珍しいだろう。この日本海側の海岸線の北側に、土井ケ浜と人類学ミュージアムがある。
 ここで弥生時代の人骨が大量に発掘された。その数三百。海辺の小高い丘に埋葬された人骨にはある特徴があり、しかもその顔はそろって海側、すなわち西側を向いていた。現在遺跡はドームで覆われている。中に入ると砂の上に人骨が横たわっている。白い砂の上にさらに白い人骨。どきっとさせられるが、これはレプリカである。そうとわかっても素人の目には本物との区別はつかない。その数から何代にもわたり同じ埋葬が続けられていたことがわかる。
 この人骨は縄文人とは異なる特徴がある。背が高く顔が長い。現在では土井ケ浜遺跡の人々は大陸からの渡来人と、その渡来人の特徴を受け継いだ混血の人々と考えられている。すなわち渡来系弥生人である。
 彼らのルーツと埋葬の仕方は無関係ではあるまい。故郷に向かって葬られたのだろう。そして故郷が海の彼方にあるという伝承は幾世代も語り継がれた。彼らは海に沈む夕日を見つめながら源郷を夢見たのだろう。もはやそこに行けるのはこの世を去った後だった。六連島からの帰りに私は夕日が海を染める黄金の道を見た。おかるもそれを見て西方浄土へ思いをはせたのだろうと思った。この地には遙か昔から素朴な浄土教があったのだと思う。土井ケ浜は浄土ケ浜でもあったのだ。


こころの回廊6 西長門の海(2005年12月19日)
 
 親鸞の和讃は今様という歌謡形式で歌われ、約五百四十首ある。真宗は歌う宗教でもある。金子みすゞの作品が五百十二編で、ほぼ同数である。北原白秋に「桐の花事件」の絶望を経て歌われた和讃と言うべき歌がある。『白金の独楽』や『雲母集』の作品である。彼女もまた現代の讃歌を詠むことのできた人だった。
 みすゞは下関と仙崎の間を船で往復したそうだが、西長門の海は美しい。青海島は遊覧船が島を巡るが、そこに限らず美しい海岸が続く。コバルトブルーに輝く海は日本海のイメージを変える。海の底に別の世界があるのかと思う。そこに日が沈む。石見の歌う妙好人、浅原才市も博多の七里恒順師のもとに通うのにこの海を渡った。おかるもみすゞも才市も、同じ海を見ていた。この海は宗教詩人を生む海だった。
 西長門の角島に今は角島大橋がかかる。コバルトブルーの海を渡る橋はまっすぐ延びた滑走路のようだ。仙崎の金子みすゞ記念館に純白のみすゞ像があるが、この西に渡る白い道の向こうにお伽の国があり、彼女が待っていそうな気がする。
 下関出身の佐々部清監督は映画『四日間の奇蹟』の舞台に角島を選び、海辺に教会のセットを建てた。そこに聖母子像を置いたが、その姿は我が子を守ろうとしたみすゞの姿に重なる。みすゞの時代からある灯台の光が星空に向かって放たれ、教会のステンドグラスを通るとき奇蹟は起こる。そしてピアノがひそやかに歌い始める。六連島にも灯台がある。おかるの歌もみすゞの歌もこの灯台の光のように十方世界を巡り、光を見失った心に新たな奇蹟を呼び起こしていくことだろう。  
 

(挿絵  左=角島大橋  右=土井ケ浜人類学ミュージアム)

こころの回廊5 夢の城 (2005年12月5日)

 
 金子みすゞは青海島の対岸の仙崎で生まれ、母親の再婚に伴い、二十歳で下関に移った。仙崎の家も下関の家も書店を営んだ。下関では商品館にあった書店の支店を任されていた。ここが彼女の夢の城だった。下関にはみすゞに縁のある場所が幾つかある。中には悲しい場所もあるが、商品館は違う。みすゞがその夢をつづった場所がどこなのか訪れてみたかった。
 下関の唐戸地区はかつては街の中心だったが、現在は観光の中心である。唐戸市場、商業施設「カモンワーフ」、下関水族館「海響館」が並ぶ。唐戸桟橋からは海峡に浮かぶ巌流島への船も出る。近年、NHK大河ドラマで武蔵、義経が取り上げられ、観光客で賑わう。
 ここは海外との接点でもあった。港にはフランシスコ・ザビエルの上陸記念碑が立ち、唐戸には旧英国領事館など幾つかレンガ造りの洋館が残る。商品館の跡は港からやや陸側に入ったところにある。商品館は多くの店が入るテナント施設だったようだが、そこにみすゞの勤めた書店があった。「金子みすゞ詩の小道」の案内図を手に歩くと、ある銀行の下関支店があり、目を移すと歩道に記念碑が建っていた。そこが商品館跡だった。
 当時の下関は九州と大陸への玄関口として西日本有数のモダンでエキゾチックな街だった。その街で書店に本を並べながら、自分の作品が本に載るのを心待ちにしている若い女性がいた。大正のロマンティシズムと少女のロマンティシズム、そして童女時代に育んだ信仰のロマンティシズムが融合し、一つの希有な優しい花を咲かせた。しかしその花はあまりにも早く散ってしまった。


こころの回廊4 おかるとみすゞ (2005年11月28日)
 
 おかるに「鮎は瀬に住む小鳥は森にわたしゃ六字の内にすむ」という歌がある。念仏は歌となり、歌は念仏となった。小鳥が歌うのも自分が歌うのも同じ。子どもに返ったようなこの歌は金子みすゞの童謡を思わせる。
 おかるは時に自分で舟を漕いで下関に聴聞にでかけた。大正時代にその下関でみすゞが童謡を歌う。みすゞが山口県仙崎で生まれたのが一九○三年、下関に移ったのが一九二三年、亡くなったのが一九三○年。二○○五年はおかるの百五十回忌だったが、二人は生年で百年ほど、没年で七十数年隔たる。みすゞは下関でおかるの話を聞くことがあっただろうか。あるいはおかるの歌を読むことがあっただろうか。それが可能な環境だった。
 みすゞの作品の多くは長らく所在が不明だった。彼女の作品を長年探し続けていた矢崎節夫氏によってその作品が発見されたのは一九八二年だった。みすゞが亡くなって半世紀以上過ぎていた。この発見は一九二一年の恵信尼の手紙の発見を思わせる。一九二一年が辛酉の年だったので次の辛酉は一九八一年である。その翌年のことだった。なお一九八一年はローマ法王初来日の年であり、また真宗大谷派では宗憲が変更されて新門首制となった年である。
 金子みすゞがその作品に「見えぬけれどもあるんだよ」と歌ったように、おかるとみすゞの間には本当は目に見えないつながりがあったような気がする。みすゞはおかるの後継者として生まれた人だったのだと思う。もし金子みすゞがおかるの歌を知り、その自覚をもったならば、彼女の人生にまた別の展開があったのではなかろうか。

(挿絵 左=下関旧英国領事館  右=仙崎・金子みすゞ記念館)

ころの回廊3 六連島(2005年11月21日)

 大病を機に慈悲にめざめた六連島のおかるは、救われた喜びを歌に詠んだ。信心歓喜の歌である。幕末に発行された『妙好人伝』にその歌が紹介され、彼女の名は真宗門徒の間に広まった。夫の心もいつしか改まり、夫婦仲睦まじく聴聞に励むようになったという。

 島には下関から連絡船がある。港で聞いたところ、島の人以外で島に渡るのは西教寺に行く人、花を買いに行く人、そして釣り人だそうだ。港から島の台地までは急坂である。「重荷せおうて山坂すれど御恩思えば苦にならず」とおかるが詠んだ坂である。この坂を幾度彼女は登ったことだろう。夫の浮気が始まり三十五歳までこの坂は人生の坂道として彼女の前に立ちはだかった。港で夫と争った後、どれほど重い気持ちで泣く泣くこの坂を登ったことだろう。
 西教寺の境内には立派な「於軽同行の碑」が建つ。ここから下関も北九州もよく見える。海一つ隔てただけなのに別の国に来たようだ。さらに坂を登ると、ビニールハウスが並ぶ一面の花畑に出る。私が訪れた五月は花盛りだった。西に開けた海からの風が心地よい。「ああうれしみのりの風にみをまかせいつもやよいのここちこそすれ」彼女の心も花畑だった。
 島の真ん中で珍しいものを見つけた。庭石を大きくしたほどの岩で、説明によれば世界に三箇所しかなく、国の天然記念物になっている雲母玄武岩だそうだ。これこそおかるの記念碑にふさわしい。花の香りに包まれてここで青空を見上げていると、おかるととともに世界の中心にいるような気がする。南無阿弥陀仏を唱えればそこは世界の中心となる。
 

こころの回廊2  おかると辛酉 (2005年11月14日)

 
 おかるが生まれた一八○一年と親鸞が法然に帰した一二○一年の干支は辛酉である。親鸞は聖徳太子のお告げにより法然に帰したと言われるが、太子は六○一年辛酉の年に斑鳩宮の造営に着手、次いで六○四年甲子の年に「十七条憲法」を制定された。中国の讖緯説では辛酉は革命の年、甲子は革令の年である。『日本書紀』は神武紀元を紀元前六六○年の辛酉とするが、これは太子編纂という『天皇記』や『国記』を受けた可能性がある。
 私は太子が辛酉に寄せたメッセージを送られていると思う。その一つが女人成仏である。太子が推古女帝に講説された『勝鬘経』は勝鬘夫人が法を説く。また太子は親鸞にお告げで妻帯を勧めたというが、親鸞の妻、恵信尼の手紙は一九二一年の辛酉に発見された。
 私はおかるは女人成仏を伝えるために生まれたと思う。辛酉の酉は方位では西に、辛は五行の金で方位としては西に当たる。おかるは辛酉の年に西の西にある六連島に生まれた。島の名は六字名号を連想させるが、西教寺を中心とする真宗信仰に篤い土地柄だった。
 しかしおかるが妙好人と呼ばれるには苦難の道のりがあった。彼女は婿養子を迎えたが、夫が北九州の戸畑に愛人をつくったため、嫉妬に狂う。島の港はたまに戻る夫とおかるの争う修羅場となった。女の戦いではおかるに勝ち目はなかった。この苦しさからやがて彼女は信仰に救いを求める。しかし彼女にはこれもまた救われないという新たな苦しみとなる。三十五歳の時彼女は重体となる。その病の床で聞いた法話から回心が起こる。女人往生を説く本願は第三十五願である。

(挿絵=桧垣光一  左=関門海峡   右=おかる同行碑)

こころの回廊1  関門海峡 (2005年11月7日)

 
 宗教的思想は禅や念仏といった冥想から生まれる。一方元来仏教では修行者は一所不住であり、遊行の旅に一生を過ごした。定住による執着を避け、無常の風に身をまかせた。一所懸命とは逆の発想である。この遊行もまた一種の冥想である。そこから生まれる旅想というべきものが思想に融合する。西行、一遍、芭蕉の旅がそうである。
 浄土教では人生は浄土への旅である。西方十万億土と言われる遙かなる仏土にはたしてたどりつくことができるのか。無常に身をさらしながら永遠を求める。それは浄土教のみならず多くの人間を動かしている根本的衝動である。旅に身をおくときそのことはより強く自覚される。旅そのものが一つの宗教である。東西に延びる日本列島はそのまま浄土の回廊となる。永遠への入り口を求めてこの旅を始めよう。
 下関は本州の西端に当たる。ここは東西を軸として動いてきた日本の歴史の中でしばしば節目に当たる重要な役割を演じてきた。下関の対岸、門司にある海峡ドラマシップに関門海峡の歴史を映し出す立体スクリーンがある。そこに巨大な龍が跳ねるのを見た。関門海峡を上から見ると龍のうねる姿に見えるのである。海峡には龍が棲む。
 ここで源平の合戦、巌流島の戦い、下関戦争などが繰り広げられたが、もう一つ人知れず下関と北九州の間で女の戦いがあった。幕末一八○一年に下関の西、六連島に後に妙好人として知られるおかるという女性が生まれた。親鸞が法然上人に帰したのが建仁元年一二○一年、それからちょうど六百年、彼女はあるメッセージを携えて生まれたのだと私は思う。

     
「今、顕信を考える」(2006年5月15日  中国新聞掲載記事 洗心欄) 

岡山の自由律俳人で真宗僧侶の住宅顕信(すみたく・けんしん)の特集記事に寄稿

 病気と戦争。それは半世紀前まで多くの若者の命を奪うものの代表だった。住宅顕信は白血病で早世した

が、広島、長崎の被爆者の多くがそれにより命を奪われた。彼のことを知ったとき彼と同様に母のない幼子を

残して白血病で逝った永井隆を思い起こした。顕信は永井隆の歌を読んだことがあるだろうか。また呉に歌碑

の建つ、戦場に散った夭折の歌人渡辺直己の歌「細々と虧けたる月に対ひつつ戦は竟に寂しきものか」を思

い出した。


 顕信の句には月を詠んだものが多い。その中の一つ、「月明り、青い咳する」は心に残る。彼が私淑した尾

崎放哉の「咳をしても一人」を越える句だと思う。「青い咳」に作者の年代も、孤独も、病気も全てが込められて

いる。それが月の青白い光とともに、深い海の底にいるような静寂と透明感を漂わせる。

 しかしその海は真宗僧侶の彼にとって生死の苦海だった。彼には早くから欠如感があったのだろう。この欠

如感は自立した自己という幻想を抱く現代人の心に潜んでいる。この自覚が彼の「青」であり彼を真宗に向か

わせた。比叡山時代の親鸞も彼と同じ月を見ていたに違いない。それは浄土教では光の欠如による自己の闇

を深く自覚する「機の深心」当たる。それが彼の悪人や凡夫の自覚を詠んだ句になる。

 そしてそこから闇に光をもたらす「法の深信(心)」が生まれる。彼の句「念仏の白い息している」はいい句だ。

永井隆の辞世の「白バラの歌」や妙好人才市の「念仏のせき」の詩と同等のものを思わせる。「白」は二河白

道の比喩にあるように信心の色だろう。顕信は孤独の「青」と信心の「白」の間に生きていた。

 しかし総じて言えば「青」の印象が強い。「ふと父の真似を子が爪をかむ」などの父と子の句もそうだが、多く

の句に不在感がある。彼が求めたのはその不在を満たして有り余るものだった。永井隆ではそれは神であり

聖母だった。顕信にとっては如来であり親様だった。念仏するとき何かに満たされる予感が彼にはあった。

 「未完成」という題は「完成」への予感を秘めたものなのだろう。生きながらえればそれは可能だったかもしれ

ない。しかし顕信は「青白い炎」として美しく燃え尽きた。



     

『心の国語 中学編』紹介記事 (中国新聞洗心欄 2004年11月30日)

中学生向け「心の国語」浄土教研究者が出版

 広島市の修道中高教諭で「歎異抄を読む」などの著書がある浄土教研究者、渡辺郁夫さん(安佐南区)が

中学生向けに書いたコラムをまとめ、「心の国語 中学編」と題して出版した。

 執筆したのは中学一年を担任した1990年から93年までで、毎週一回のペース。「教科書や問題集だけでは

ない授業、自分の考えを伝える授業をしてみたい」と思い立ち、一本約千六百字、約百本のコラムは小泉八雲、

草野心平、黒澤明、手塚治虫をはじめ自らが関心を寄せてきた人々の世界を分かりやすくつづっている。

 渡辺さんは「社会や教育の行き詰まりは、人間固有の宗教心を無視したところにあると思う。国語を通して

どれだけ宗教心を刺激できるか、という試み」と話している。258ページ、1365円(税込み)


     

『日と霊(ひ)と火』紹介記事

古代信仰の地を考察する評論集  広島の渡辺さん出版
 

                                    (中国新聞 2002年5月12日 読書欄)
 
 在野の宗教研究者で修道中・高校教員の渡辺郁夫さん(四四)が、古代信仰の旅を通してまとめた評論集

「日と霊と火」を洛西書院から出版した。「意識の宗教」浄土教に関心を持ち、三年前に「歎異抄を読む」を出版。

同時に「無意識の宗教」神道についても熊野や出雲など古代信仰の地を十年かけて巡り、「森の国から」「火の国

から」「木の国へ」「水の国へ」の四章で構成する新著に仕上げた。


 発想は多岐にわたる。「木の国へ」では岡本太郎の「太陽の塔」(大阪府吹田市)が紀伊半島の入り口に当たっ

て伊勢神宮や熊野本宮と結界を形づくり、拝む揚と拝む対象を兼ね備えている古代への回路だと解釈。岡本の

思想家としての一面に思いをはせる。


 また、出雲を巡る「水の国へ」では、「神道とは何かと聞かれたら、感受性だと答えたい」と断言。「自然破壊は

現代の強制的な国譲り」「神の住めない国は人も住めなくなる」と結んでいる。二三八ページ、一八O0円。


     

中国新聞掲載記事   「光る海」1〜8  文化欄 緑地帯  2001年5月1日〜5月10日 

(新聞掲載の元の原稿です。掲載の文と若干異なります。)

光る海1 空との間の私  

 正月明けに元宇品にあるホテルに行った。このホテルの上階からは瀬戸内海がよく見える。左手には江田島、正面に似島、右手に厳島、その他の名もない小島を含め、大小様々の多島美が展開する。
 ちょうどお昼時で海面には柔らかな日差しがきらめき、海はプラチナ色に染まっている。時折その中をゆっくりと小船が進み、白金の帯を揺らす。停泊したままの船のシルエットも浮かぶ。船が通らなければ、時が止まってしまったかのような錯覚に陥る。
 その眺望を楽しみながら食卓に並ぶ海の幸を味わう。瀬戸内に生まれてよかったと思う。
 ここからの眺めを楽しむのは初めてではないが、その日はこの海を「事々無礙」の海だと思った。ちょうど年末から年始にかけて、私は自分の開いているホームページに「事々無礙」のことを書いたところだった。
 「事々無礙」とは華厳教学の言葉で、あらゆる事象が対立も妨げもなく交流し融合することであり、大調和を意味する。 我々は自分中心の見方から離れられず、対立の中に生きがちである。それに対して最近は「共生」をよく耳にするようになったが、世界が一つの命であるとわかって活きてくる言葉だろう。
 「事々無礙」は宗教だけではなく、芸術にも言える。芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」の「しみ入る」に「事々無礙」がよく現れている。
 太陽の輝きも、そこに浮かぶ島も船も、一切を飲み込んで一つに融け合わせている海の姿は、個々のものがありながら、一つの命となっている。
 空と海の間に浮かびながら私が恍惚としてきたのは光る海のせいなのか、それとも食事とともに進んだ飲み物のせいなのか、定かではなかった。

光る海2  童謡の「うみ」  

 宗教学者の山折哲雄氏の講演を聞いた。夕日と日本人とでもいうべき内容であった。その中で童謡の「夕焼け小焼けで日が暮れて山のお寺の鐘が鳴る‥」に日本人の無意識の仏教が現れていることを韓国の仏教学者に指摘された話があった。
 また古来日本人が夕日の沈む彼方に「常世(とこよ)の国」を夢見、仏教伝来後、やがてそれが浄土信仰に発展したのだろうと示唆された。阿弥陀仏は無量光仏であり、太陽神の性格をもつ。
 私も浄土信仰を生み出し、またそれが浸透し定着する母体や基盤は何かと考えてきた。普遍的な人間存在の在り方とともに、この国の自然風土とそこで育まれる感受性についても考えざるをえない。法然、親鸞、一遍といった浄土教の祖師達はそこから宗教心を汲み出して、火をつけたのだろうと思う。
 『記紀』の他界には地下の黄泉(よみ)、海の彼方の常世、天上の高天原があるが、高天原は常世を天上に投影して成立したようで、高天原は常世に含まれるように思う。仏教の極楽浄土は日本古来のイメージでは常世に近く、浄土は言わば西の常世として人々に受容されたのだろう。
 山折氏の講演を聞いて思い浮かんだ童謡がある。「うみはひろいな大きいな月がのぼるし日がしずむ」「うみにおふねをうかばしていってみたいなよそのくに」童謡『うみ』の一番と三番だが、私は子どものころこの歌が好きでよく歌った。
 ここでも日は夕日である。夕日が沈むとき、海の彼方へのあこがれはいっそう高まる。浄土教では「弥陀の願船」に乗って浄土に往生すると言う。
 あこがれが信仰の母体にあるならば、ここにも隠れた浄土教がある。

光る海3 流れ寄るもの  

 童謡の『うみ』で歌われる「よそのくに」はまだ見ぬ国だが、そこに夕日が沈むとき、海の彼方に帰るべきところを感じる人も多いだろう。
 夕日はそれだけでも望郷の思いをかきたてるが、そこに海があると、海は今いるところと帰るべきところとを隔てるものであると同時に、両者を結ぶものにもなっている。浜辺にたたずむとき、我々はそこに押しとどめられるとともに、打ち寄せる波にふるさとからの訪れを感じるのである。隔てられた悲しみと結ばれている慰めとがそこには同時にある。
 親鸞の浄土教は海の浄土教と言ってもいいほど海の比喩を多用するが、その海は大きく二つに分かれる。「生死の苦海」や「難度海」という隔てる海と、「本願海」や「大信海」という結ぶ海である。また浄土門の悟りを「横超」と呼んだが、それは海を渡るイメージである。
 この島国で古来日本人が海辺にたたずんで感じてきたものがその宗教哲学のベースにあるように思う。
 隔てる海と結ぶ海を歌ったものに、島崎藤村作詞の『椰子の実』がある。流れ着いた椰子の実に望郷の思いを重ねた歌である。
 この歌は「海の日の沈むを見ればたぎり落つ異郷の涙 思いやる八重の潮々いずれの日にか国に帰らん」と結ばれる。夕日の沈む海の彼方に帰るべき国を夢見ているのである。
 この歌は柳田国男が伊勢湾の入り口の伊良湖岬で椰子の実を見つけた経験を島崎藤村に語ったことから生まれた。柳田国男はこの経験をもとに『海上の道』を書いた。
 海が運んだのは椰子の実だけではない。それとともに人の心もまた流れ着き、帰るところを求め続けてきたのである。

光る海4 日が昇る国   

 親鸞の見た海はどんな海だろうか。親鸞は京に生まれ、比叡山で修行し、二十代の終わりに比叡山を下りて、法然の弟子となった。その間は 琵琶湖は見ているし、瀬戸内海は見たことがあったかもしれないが、おそらく大海を見ることはなかっただろう。
 親鸞が初めて海原を見たのは、三十代の半ばに流罪となって越後に下った時だろう。日本海の荒波とそこに沈んでゆく夕日を見たに違いない。故なくして罪人におとしめられた者の目にその海はどう映っただろうか。
 「生死の苦海」や「難度海」という時の海は荒波の日本海のイメージである。後に芭蕉が「荒海や佐渡によこたふ天の河」と詠んだ海である。佐渡の罪人は天の川を見上げて自らを慰めるしかなかったろう。しかし親鸞にはこの荒海を渡る船があった。弥陀の願船である。そのとき荒海は本願海に変わった。
 四十代になって親鸞は常陸の国に移った。法然が果たせなかった東国布教を志したのだろうと言われる。常陸は日の昇る国である。
 ここで親鸞が見た海は朝日の昇る東海である。芭蕉の「明けぼのやしら魚しろきこと一寸」は伊勢湾で東海の夜明けを詠んだ句だが、この句は私には信心の輝きに映る。この東海が親鸞にもたらしたものは何だろう。
 親鸞浄土教のキーワードの一つに「還相」がある。仏教は元来この世を捨てるものだった。出家して修行し、生死輪廻からの解脱をめざした。浄土教では「往相」と呼び、浄土に往生することが目的だった。それに対して親鸞は再び還って来る「還相」を重視した。
 沈むゆく夕日の海のイメージは往相と重なるが、朝日の海は還相と重なる。死の浄土教に対してここに生の浄土教が生まれた。私はそう想像してみる。

光る海5 航海者  

 松任谷由実に『ボイジャー』というアルバムがある。ボイジャーは宇宙船の名前にも使われたが、航海者のことである。このアルバムの曲には恋の歌のように見えて、どこか親鸞の人生やその浄土教と重なるものがある。
 『トロピック オブ カプリコーン』という曲がある。題名は南回帰線を意味する。太陽がこの線まできたときが北半球では冬至である。ここを折り返すと春に近づく一陽来復の線である。
 その南回帰線に向かってヨットを進める。太陽を追いかけて、常世の波をさかのぼり、魂のふるさとを求める旅である。
 「ああもうすぐ空は燃えて 短すぎる命は 短すぎる命は 愛のためだけにあるの」ここでも夕日が登場する。夕日が燃えるとき愛が燃える。この愛は私には夕日に象徴される如来やまだ見ぬ浄土へのあこがれに重なる。
 そして太陽はその愛に応えるかのように返ってくる。「太陽も折り返す遠い海…もどれない情熱に身を委せて」この返ってくる太陽に「還相回向」を感じる。
 「こころから望むならただひとつそれが真実」これは親鸞が求めた「本願一実」に聞こえてくる。
 さらに二番では「ああ月日は去るのではなく ああとこしえにやって来る」と歌われる。循環思想だが、逃れるべき受動の輪廻ではなく、これも、能動の輪廻というべき親鸞の還相を感じさせる。
 そして最後に「太陽も折り返す遠い海…人は皆海流の中の島々」と結ばれる。私にはこれは浄土から流れてくる本願の海流に浮かぶ我々を歌っているように感じられる。常世からの海流でもかまわない。
 あこがれ、なつかしさ、安らぎ、愛。浄土教は宗教界の浪漫派である。

光る海6 「曲解」  

 ある雪の降る夕方、ラジオを聞いていると松任谷由美の『春よ、来い』がかかった。私の好きな曲だが、この曲にも私は浄土教を感じる。「それはそれは空を越えて やがてやがて迎えに来る」
 春が私を迎えに来るのだが、私には常春の浄土からの、如来の来迎を歌うかのように聞こえる。来迎は法然浄土教で往生の証として重視された。
 親鸞の『教行信証』は正式には『顕浄土真実教行証文類』というが、それにならって『顕浄土真実歌曲類』が作れるのではないかと思う。松任谷由実(荒井由実)の曲からそれに入りそうなものをあげて、私の「曲解」を付けてみよう。
 『空と海の輝きに向けて』はそのまま海の浄土教のテーマソングになりそうだ。その二番。「果てない旅路にやすらぎを求めて いつしか かの胸にいかりをおろす 呼び合う世界で空と海が出会う おまえは歌になり流れていく 遠い波の彼方に金色の光がある 永遠の輝きに命のかじをとろう」彼女が十八歳の時の曲である。宗教的感受性の持ち主なのだと思う。
 『瞳を閉じて』は「遠いところへ行った友達に潮騒の音がもう一度届くように」手紙を入れたガラスびんを流す。『椰子の実』の逆になるのだが、親鸞の著作は、「同朋」という友へ届ける浄土からの手紙だと思う。
 『ボイジャー』からは『不思議な体験』を追加したい。「眩むような白い光」を見た体験を歌う。「遠くであなたが見つめてる いつでも心を送ってる」「遠くであなたが呼んでいる 両手を広げて立っている」「今 全てが生まれ変わるとき」
 親鸞はよく経文を読みかえたが、真実は時として「曲解」を許すのではなかろうか。

光る海7  日本人の自然観  

 日本人が自然について具体的なイメージを浮かべるときは、どのような風景が目の前に現れるのだろう。ふるさとの風景は当然候補だろう。
 しかし必ずしもそうとは限らない。最近は違うかもしれないが、私の世代は子どもの頃に、実景を見たこともないのによく富士山を描いたものだ。描いていたのはいつのまにか得ていた富士山のイメージだったのだろう。
 戦争に負けた日本が唯一世界に誇れるのが富士山だという時代が戦後しばらくあったと思う。失いかけたプライドを保つのに富士山が果たした役割は大きいだろう。
 国技と言われる相撲のしこ名には日本人の自然観がよく現れていると思う。富士の名をもつ力士もいる。それを含めて「山」の名をもつ力士がどれくらいいるかと思ってこの春場所の番付表を見ると幕内に七人だった。
 これに対して「海」あるいは「洋」、「浪」の名をもつ力士は八人である。この勝負、がっぷり四つに組んでいる。
 味方になりそうなものを探すと「島(嶋)」の名がつく力士が四人いるが、島は海と山のどちらに属するのだろう。広島では似島は安芸の小富士でもあり、厳島は弥山でもある。安芸乃島あたりは海の味方をしてくれそうな力士だが、部屋が二子山だから微妙だ。
 目を転じて野球界を見ると、以前はチーム名は動物の名が普通だったが、最近はマリーンズ、ブルーウェーブ、ベイスターズと海に関する名をもつ球団が三つある。野球もすでに国技になってきた証拠かもしれない。
 山が海に迫る日本の地形では山と海が日本の風景の代表なのだろう。我々の感受性はそこで養われ、宗教もまたその感受性を抜きには語れまい。

光る海8 包容力  

 各地の寺社を巡っているうちに宗教と自然の結びつきを意識するようになった。いわば「山の宗教」と「海の宗教」があるように思える。宗教のもつ高さと広さを表すと言ってもよい。親鸞の「竪超」と「横超」はこの要素を含むと思う。
 神道はもともと自然崇拝の宗教だから、自然との結びつきが強い。山にも多いが、有名な神社は海辺や水辺に多い。仏教は高野山や比叡山に代表されるようにどちらかというと山である。『夕焼小焼』も山のお寺である。どの寺も山号をもつし、教団の中心を本山と呼ぶ。
 親鸞があれほど海の比喩を多用したのだから真宗の寺は「海号」をもってもよさそうなものだ。海は結局は一つにつながるから区別しても意味がないかもしれない。それがまた海のよさである。
 親鸞の妻の恵信尼が書いた手紙に親鸞が「山を出(い)でて」京の六角堂にこもり、その示現で法然に帰したことが書かれている。山を出たことは天台宗を離れただけでなく、「竪超」という「山の宗教」を離れたことを意味すると思う。
 出家仏教が人里離れた山を修行場とするのは当然だろう。山の頂上にはわずかの人しか立てないように山の悟りには孤高がある。他の人はその「竪超」を仰ぎ見るだけである。それもまたいい。
 それに対して海はすべての人を容れることができる。この包容力が海の魅力だろう。「横超」の海である。親鸞の浄土教にも高さがあるが、心理的には親鸞はすべてを容れるものを求めた。そうでなければ自分が救われなかったからである。 
 山は全容が見えるが、海は見えない。私はその果てしなさを喜びつつ、彼方から寄せ来る波と戯れよう。

     


鬼束ちひろ「月光」ブームの意味探る  中国新聞記事の全文(洗心欄 2001.2.6)

  鬼束ちひろという二十 歳の女性が作詞作曲し、 自ら歌うバラード曲「月光」が、静かな
ブームを呼んでいる。「I am GOD'S CHILD( 私は神の子供)/この腐敗した世界に堕とされた・・・」と
歌い出す歌詞はヒット曲としては異色。救いのない言葉ばかりの中に何か強い意志が読み取れる
のだろうか。                                  (佐田尾信作)

  「歎異抄を読む」などの 著書がある広島市安佐南区 の教員渡辺郁夫さん(四二)は 「月光」を聴き、「人間を 超えた存在を感じた人の表 現」と解釈した。「心を開 け渡したままで…」という 独特の言葉は信仰を意味 し、今は神や仏の沈黙に苦 しんで「貴方なら救い出し て/私を/静寂から」と求 めている、とみる。
 「月光」には「この鎖が 許さない」「不愉快に冷た い壁」などの言葉があり、 「楽園」「天国」などの言 葉はない。しかし、「この 世の中で『鎖』や『壁』を 感じることは大切だ」と渡 辺さん。「月光」の世界は まだ道半ばだが、「効か ない薬ばかり転がってる けど」と安易な逃避を疑 う強い意志を感じたとい う。

 ゴスペルソングに詳しい 同市安佐北区の牧師北野献 慈さん(三三)には「a child of God」ではなく、 「GOD'S CHILD」 の響きがまず強烈だった。 聖書をデータベース検索し た結果、極めてまれな表現 として実在した。
 歌詞の世界では最後まで 光が見えず、「神を賛美す るゴスペルソングとは言え ない」と言う。しかし、「神 の子」=「クリスチャン」が現 世での苦難に直面し、「天 国ではなくこの世で救われ たい」と願う歌ではない か、と解釈した。「神の子はキリストという太陽に照らされる月のような存在。『月光』という曲名はぴったりくる」と驚く。
 ヒット曲の歌詞を礼拝で 引用する同市中区の牧師立 野泰博さん(四十)は「モーニ ング娘。の根拠のないイケ イケ路線」と対照的だと思 った。自らの礼拝で高齢者 なら「次の世界」を信じる が、若者は「だから何?」 とそっけない。「ここで生 きるしかない。でも何を信 じていいいのか」という若者 の閉塞感が共感を呼んだ、 とみる。
 しかし、神の子が「こん なもののために生まれたん じゃない」と歌う歌詞につ いては、「復活後のキリス トなら『こんなもののため だからこそ生まれてきた』 と言っただろう」と考えて みた。
  もちろん、「月光」に衝 撃を受けな がらも、宗 教的心情と は別の心情 ととらえる 見方もあ る。
 音楽に詳しい女性たちに 聞くと、「世に訴えかける ように思わせるが、実は打 ちひしがれた彼女の悲恋 歌」(広島市南区のフリー ライター藤本仁美さん) 「もしかして死の直前の感 情?」(同市東区のフリー アナウンサー小田けいこ こん)「今の自分は本当 の自分ではなく、ほかに 人生があるという感覚」 (徳山市の同北川加寿美 さん)などの感想が寄せ られた。
 また、大田市の医師でミ ュージシャン長坂行博さん (四六)は「悲しいことに焦り がある。『時問は痛みを加 遍させてゆく』という歌詞 が最後にあるからだ」とみ る。
  インターネツトの中には 「月光」の意味を解釈する ホームページが存在し、渡 辺さんの見方では宗教性を 感じた人は掲示板書き込み者の半数。しかし、「書き込み者がみな真剣にメッセージを受け止めようとしている印象は受けた」 と言う。
  「月光」は苦難の現世に 浄土や天国を見いだそうと 歌うメツセージソングなの だろうか。それとも、宗教 的世界という演出で自分の 居場所を求めて歌うラブソ ングなのだろうか。それと も…。
 
<メモ> 公式ホームページによると、鬼束ちひろは 昨年二月に「シャイン」でデビュー。八月発売の「月 光」は二枚目のシングルで、テレビ朝日系ドラマ「ト リツク」の主題歌。三月に初アルバムが出る。四月に 広島市内でライブがある。「月光」は一月下旬のオリ コン週間ランキングでも、二十位以内に食い込む息の 長いヒツト曲。


     


「春奈ちゃん事件に見る現代と宗教」 
(中国新聞2000年4月25日洗心欄掲載)

     修道中高教諭・浄土教研究者渡辺郁夫さん

 初公判の報道によると、被告は「救い」を求めるサインを夫に出していたと考えられる。同じ家族の中でもそれを

見落とすことば、現代では多いのだろう。
 
衆生(しゅじょう)の声を聞く仏と仏の呼びかけを聞く衆生。浄土教は聴聞を重視するが、いわばセルフ・カウン

セリングであり、「聞き合う宗教」の一面がある。万葉集で恋愛歌を相聞と言うが、相聞の精神は浄土教の根底に
流れ、人聞関係の基本かもしれない。家庭には本来、カウンセリングの機能、つまり観音の心」があったはずだ。

 被告の「内向的な性格」(検察側冒頭陳述)は都市の孤独の中でゆがむ。数少ない友人だった春奈ちゃんの

母親への執着が憎悪感に変わり、仏教で言う八苦の一つ、「怨憎会苦(おんぞうえく:いやな人間に会う苦しみ)

に変わる。知らないうちに巻き込まれ、人を巻き込む。被告がこのことを自覚していれば、結果は違ったかもしれな

い。被告は犯行後、春奈ちゃんの遺体を自分の実家の庭に埋め、実母に打ち明けたが、通常の犯罪容疑者が

とる行動ではない。被告にとって母性的な救いが必要だったことを感じさせる。追いつめられた人間は本能的に

母性的な救いを求めるのだろう。逃亡しなかったことに救いの芽を感じる。

 父王を殺害して王位に就いた後、釈尊に説かれて罪を悔いた「観無量寿経」のアジャセのように私たちは今、

お経の途中までを読んでいるのだと思いたい。

 被告の夫は誠実な宗教人だと思われるので、被告は立ち直ることができると思う。それを支援できるのが本当の

宗教だろう。また、被害者家族、特に春奈ちゃんの母親の心のケアも宗教本来の役割であり、仏教が現代に果た

せる役割を示す機会ではないだろうか。

 事件は当初、「お受験殺人」とさわがれた。被告の供述通りなら誤解だったようだが、「お受験」を勝ち抜い

た子が憎いという心情を共有する人も多いのか。

 親子関係、特に母子関係は競争原理の外にあるはずだ。家族や共同体を支える信愛の原理が根底にあっての

競争なら社会は発展するだろうが、今は競争原理の肥大化が家族や共同体すら崩していないか。末法の世は

修行僧同士が相争う「闘じょう堅固」から始まるとされている。


     


  「心が浄土に遊ぶ時」  (中国新聞2000年3月14日洗心欄掲載)
 
 広島市内であった「山種美術館名品展」に出かけた。山種美術館は東京にいた時、よく出かけた。都心の

ビルにありながらいつ行っても清澄な空気の漂う別世界。私は奥村土牛の絵が好きだった。

 もう一つこの美術館で好きだったものがある。出口近くにあった石像だ。空を見上げ、にこにこしながらすわって

いる人のように見えた。作品名も作者名もなく、日なたぼっこしていた路傍の石が、そのまま石像になったようだ。

ある時、友人に尋ねたら、「猿じゃないか」と答えたので、がっかりした。私は心ひそかに妙好人(真宗篤信者)

の像だと思っていた。

 会場では期待した土牛の絵がない代わりに心ひかれたのが、速水御舟の絵。光輪に向かって何匹もの蛾(が)

が飛び、光輪は渦巻き状になっている。蝶(ちょう)な、らいいとも思ったが、蛾でいいのだろう。我(が)を持つわ

れわれには、ふさわしい。光の仏に吸い込まれていく衆生のように思えた。

 また、金地の屏風の緑の上に猫とウサギのいる絵があった。金地の輝きが奥深く、単なる装飾でぼない。

仏身や仏土をおごそかに飾る「荘厳」という言葉が浮かぶ。世俗の中にありながら、心が浄土に遊ぶ時もある

のだろう。  会場にあの石像はなかった。今も山種美術館の出口でほほえんでいるのだろうか。


     

 「歎異抄を読む」紹介記事(中国新聞99年3月16日)
   
 修道中・高教員の傍ら、在野の東洋哲学者として研究活動を続ける渡辺郁夫さん(広島市安佐南区)が、

「歎異抄(たんにしょう)を読むー悪人正機の時代を生きる」(洛西書院)を出版した。「神仏との見えない

糸を断った現代人はさ迷っている」と考え、「信仰の復権」を唱えた警世の一冊だ。

 「歎異抄」は、親鸞の晩年の弟子・唯円が親鸞の存命中の教説の真意を没後にあらためて説いた書。

渡辺さんは、核問題や環境問題などをたとえに引き、「歎異抄」を「序文」「後序」と十三の章ごとに現代社会

に即して読み解く形を取った。

 例えば、「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや…」と「悪人正機説」が説かれた第三

章では「(原爆など)核兵器の出現によって近代合理主義の黒魔術的性格ははっきりと現れた」と断言。「人類は

(正しい信仰に入る)回心、を迫られている」「現代は人類史的意味での悪人正機の時代」だと考える。
 
 渡辺さんは僧りょではないが、高校時代から仏教の本に親しみ、早稲田大学では第一文学部・大学院を通じて

東洋哲学を専攻。その一方で聖書や神道などにも関心を寄せ、幅広い宗教観で「アジア・太平洋戦争を考える

視点(修道中・高研究紀要十一号)などの論文をまとめ、「日本山岳ルーツ大辞典」(竹書房)の執筆にも参加して

いる。

 渡辺さんは「歎異抄を読む」について、「神仏との見えない糸を断った現代人にとって、宗教は先祖拝などの

習俗にとどまってしまっている」と指摘。「日本人の宗教的感受性は本来豊かなものであり、『世界宗教として

二十一世紀に通用する浄土教』の復権、広く信仰の復権を願ってまとめた」と話している。A5判、百六十五ペ

ージ。定価干三百円(税別)。

新聞掲載記事等