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このページの掲載記事 『発掘歎異抄』
『発掘歎異抄』 は200回をもって完結しました。
101回から200回が『歓喜光 発掘歎異抄二』として単行本になりました。
書籍の紹介のページ
100回までが『発掘歎異抄 親鸞を読み解く百話』として単行本になりました。
書籍の紹介のページ
2016年
6月号 (200)自然と業
5月号 (199)死者の生存
4月号 (198)「しかるに」
3月号 (197)寂光院
2月号 (196)大原
1月号 (195)震災後
2015年
12月号(194)「平和の軸線」
11月号(193)サイン
10月号(192)人類和合
9月号 (191)普遍的信仰
8月号 (190)「非戦論」
7月号 (189)みなしご
6月号 (188)宇宙との交信
5月号 (187)仏陀を呼び戻す
4月号 (186)宇宙が歌う
3月号 (185)コスモポリタンの本願
2月号 (184)あなたが全て
1月号 (183)注ぎきれないもの
2014年
12月号(182)「歓喜の歌」
11月号(181)「往還廻向」ゲーム
10月号(180)常行の道
9月号 (179)矛盾
8月号 (178)常土
7月号 (177)要石
6月号 (176)辛酉の社
5月号 (175)東から西へ
4月号 (174)土地の引力
3月号 (173)「門」
2月号 (172)「中」
1月号 (171)足利学校
2013年
12月号(170)「蛇足」
11月号(169)命令と本願
10月号(168)菩提樹の木陰
9月号 (167)法名と誓願
8月号 (166)「慈しみ」
7月号 (165)二人のナカムラ
6月号 (164)『仏教語大辞典』
5月号 (163)中村元記念館
4月号 (162)中村元と浄土教
3月号 (161)「ナカムラ・ミッション」
2月号 (160)比較思想
1月号 (159)「元始仏教」
2012年
12月号(158)「元点」
11月号(157)中村元生誕百年
10月号(156)左手の葡萄
9月号 (155)「八月の光」
8月号 (154)清盛像と空也像
7月号 (153)平重衡像
6月号 (152)歌声の翼
5月号 (151)無常と永遠
4月号 (150)「母と子の絆」
3月号 (149)「絆」
2月号 (148)「口伝」
1月号 (147)「予はその一なり」
2011年
12月号(146)二人の廟
11月号(145)鬱の時代の親鸞
10月号(144)大遠忌法要
9月号 (143)「野十郎三昧
8月号 (142)楽園回帰のりんご
7月号 (141)「キングズ・スピーチ」
6月号 (140)大震災その後
5月号 (139)二つの大震災
4月号 (138)雪道
3月号 (137)「ただ一向に念仏すべし」
2月号 (136)光る文字
1月号 (135)一念一生
2010年
12月号(134)終わりの一枚
11月号(133)一枚の処方箋
10月号(132)分別と分裂を超えて
9月号 (131)戦争と豪雨
8月号 (130)梅雨明け前
7月号 (129)朽ち木に花を
6月号 (128)炎再び
5月号 (127)一本のろうそく
4月号 (126)「アジャセの物語」
3月号 (125)二祖対面
2月号 (124)燃え続けるもの
1月号 (123)人吉の「火焔浄土」
2009年
12月号(122)二つの光
11月号(121)「お迎え」
10月号(120)「亀鉦」伝説
9月号 (119)「万部おねり」
8月号 (118)常行堂
7月号 (117)二つの法灯
6月号 (116)不滅の法灯
5月号 (115)証言者
4月号 (114)『天草四郎』
3月号 (113)「驕慢至極」
2月号 (112)指差しと眼差し
1月号 (111)「無二」と「如己」
2008年
12月号(110)「一者」と「無二」
11月号(109)宇宙からきた光
10月号(108)睡蓮の庭
9月号 (107)「睡蓮」
8月号 (106)法の城
7月号 (105)天草
6月号 (104)二人の伝助
5月号 (103)一本の歯
4月号 (102)魔法の解けるとき
3月号 (101)「氷点」
100回までが『発掘歎異抄 親鸞を読み解く百話』として単行本になりました。
書籍の紹介のページをご覧下さい。
2008年
2月号 (100) 方向転換
1月号 (99) 浄土の続編
2007年
12月号(98)一切経の本願
11月号(97)やって来るもの
10月号(96)ナミダの中のアミダ様
9月号 (95)「浄土のALWAYS」
8月号 (94)「ヒロシマのALWAYS」
7月号 (93)「非行非善」
6月号 (92)隠れの中に
5月号 (91)礎と道
4月号 (90)無礙の信心
3月号 (89)大宇宙の中の仏達
2月号 (88)無礙の一道
1月号 (87)最後の仏弟子
「発掘歎異抄」は2006年12月号86回まで
月刊誌『タクティクス』に連載されました。
『タクティクス』の発行形態の変更により
同誌での連載は終了しましたが、
今後もこのページで連載の予定です。
今後ともよろしくお願いします。
2006年
12月号 (86)二人の仏弟子
11月号 (85)大仏
10月号 (84)二つの太陽
9月号 (83)施餓鬼にて
8月号 (82)神話のふるさと
7月号 (81)白骨の太陽
6月号 (80)浄土の感謝
5月号 (79)「すゑとをりたる」もの
4月号 (78) 憶良の「ALWAYS」
3月号 (77)二つの少子化
1月2月号(76)ALWAYS
2005年
12月号 (75)切り妻から
11月号 (74)合掌の里
10月号 (73)名に隠されたもの
9月号 (72)本願円成
8月号 (71)本願関数
7月号 (70)辛酉の温故知新
6月号 (69)辛酉と女性
5月号 (68)辛酉続続
4月号 (67)辛酉縁起
3月号 (66)酉は酉でも
1月2月号(65)眼差しと夕日
2004年
12月号 (64)蘇る眼差し
11月号 (63)浄土の招き猫
10月号 (62)穴
9月号 (61)遊園地の浄土教
8月号 (60)水車と観覧車
7月号 (59)空中ブランコ
6月号 (58)嬉し悲しの・・・
5月号 (57)黒い壺
4月号 (56)どちらが先か
3月号 (55)思い出と希望
1月2月号(54)もう一つの「メモリー」
2003年
12月号 (53)私にさわって
11月号 (52)名前のない猫
10月号 (51)浄土にいちばん近い岸
9月号 (50)おかる岩
8月号 (49)浄土にいちばん近い島
7月号 (48)剣と櫛
6月号
(47)『最後の三人』
5月号 (46)『ヒロシマ・キャッツ』
4月号 (45)愛の子として
3月号 (44)かぐや猫
2月号 (43)猫の思い出
1月号 (42)ジェリクルキャッツ
2002年
12月号 (41)猫の浄土
11月号 (40)魂願
10月号 (39)みどり
9月号 (38)バウムクーヘン
8月号 (37)命の株
7月号 (36)根の力
6月号 (35)球根の春
5月号 (34)手と角
4月号 (33)
飛び込む者、落ちる者
3月号 (32)ゴホンと言えば
2月号 (31)もう一つの不思議
1月号 (30)不思議から不思議へ
2001年
12月号 (29)ショーの結末
11月号 (28)怪人正機
10月号 (27)浄土の電信
9月号 (26)俗より俗
8月号 (25)沈まぬ船
7月号 (24)阿弥陀仏の御客
6月号 (23)罪のせんさく
5月号 (22)念仏の鬼ごっこ
4月号 (21)信心の角
3月号 (20)角(つの)のある人
2月号 (19)悪人正機と回心
1月号 (18)プラグマティストの見たもの
2000年
12月号 (17)浄土の法蔵
11月号 (16)流行を越えて
10月号 (15)塵労の中で
9月号 (14)時空の囚人
8月号 (13)失われた光を求めて
7月号 (12)スサノオと悪人正機
6月号 (11)悪人正機の塔
5月号 (10)悪人正機の成就
4月号 (9)悪人正機の舞台
3月号 (8)座ることを拒否する書
(
2月号は発行月の変更により3月号になります。)
1月号 (7)いはんや悪人をや
1999年
12月号 (6)面々の御はからひなり
11月号 (5)地獄は一定すみかぞかし
10月号 (4)別の子細なきなり
9月号 (3)摂取不捨
8月号 (2)誓願不思議
7月号 (1)耳の底
・・・二人三脚・・・
ここ数年、月に一度の歎異抄講座と国宝の旅の講座、そして「発掘歎異抄」の連載をしてきた。歎異抄講座と「発掘歎異抄」はまさに二人三脚で、さらに幅広く日本人の信仰について考える国宝の旅の講座を合わせると三人四脚のような状態だった。歎異抄講座と国宝の旅の講座が一回目のサイクルを終え、二サイクル目に入るに当たり、この「発掘歎異抄」の連載もひとまず終えたい。考えながら語り、また語りながら書くという形をとってきたので、今後も形を変えていきたいと思う。
もともとこの連載は『歎異抄を読む』という本を出したときにある月刊誌に頼まれて始めたものである。その月刊誌の形態の変更に際して月刊誌での連載は終わり、舞台を私のホームページに移して連載を続けた。『歎異抄を読む』はその後、増補版として『歎異抄を歩む』という本になった。その発行の後から歎異抄講座が始まり、この連載もその講座とともに進むという形をとってきた。
・・・「広島から語る歎異抄」・・・
この歎異抄講座のあり方として、「普遍的信仰」を語るともに、戦争と平和について考える「ヒロシマから語る歎異抄」と、2011年の法然、親鸞大遠忌の年に起きた東日本大震災の衝撃から「無常から語る歎異抄」という面も強くなったということを書いた。
実はさらに「ヒロシマから語る歎異抄」と「無常から語る歎異抄」を合わせた「広島から語る歎異抄」という面も合わせることになった。カタカナの「ヒロシマ」は世界的、人類的な意味をもつ人類史上初の原爆投下の地という意味だが、今回の「広島」とは2014年8月20日未明に起きた広島土砂災害の地という意味である。全国に大きく報道された。土砂災害ということなら、東日本大震災と同じく自然災害として「無常」の一部と言えるかもしれないが、私にはそうとだけ言えない気がしている。「ヒロシマ」は戦災である原爆という人為的災害の最たるものを表しているが、2014年8月20日に起きた土砂災害は自然災害と人為的災害の複合したものとして私には感じられるのである。
・・・雷雨と爆撃・・・
経験した立場から言うと8月19日の夜からの雷雨は尋常ではなかった。艦砲射撃や爆撃を受け続けているような感じだった。実はその夜に私はお盆に放送されたある戦争映画を録画で見ていて、戦争の中の場面と外で起きていることが重なったように感じられた。しかし録画が終わっても外の爆撃音のような雷雨の音は終わらない。その内に停電となり、不気味な稲妻が光り続けた。これは洪水が起こるかもしれないと寝付けなかった。
しかしいつのまにか寝たらしく朝起きたときにとんでもないことが起きたらしいとわかった。家の上空を何機ものヘリコプターが飛んでいた。停電が続いていてテレビがつかず、ラジオを付けたが、マスコミもまだ全貌はつかめていなかったようだ。ある程度の状況がつかめたのは電気が復旧したお昼ごろのことである。我が家は床下浸水で、家の周囲は泥が堆積し、人家の壊れた破片らしいものが周囲に散乱していた。近所で何人もの人が亡くなったらしいということがわかってきた。
・・・複合災害の時代に・・・
その後の片付けは大変で、ほぼ一年近くかかった。この連載に書かなかったのは自分自身のショックと一年近く片付けにかかったことによる。その片付けよりも自分の中の整理はそう簡単につくものではない。8月6日の原爆の日から二週間後というのは何を意味するのだろう。私なりに考えたのは、自然災害と人災とが合わさった複合災害が人類にのしかかっている時代になったということだ。
実はこのことは広島ではこれまでも言われてきたことである。厳島神社の海上神殿が千年近く建ってきたのに被害を受けることが多くなった。大気と水の循環系に異変が生じていることを表している。人間の業が自然災害を増幅しているのである。人間の業による人災と自然災害の複合する時代、無明と無常が複合し、無明が無常を増幅する時代に『歎異抄』はどう答えるのか。これからも考え続けたい。
・・・「国宝の旅」・・・
歎異抄講座と同じ時期に始まり、歎異抄講座より一年早く五年六ヶ月で満了し、現在二サイクル目に入った講座に「国宝の旅」の講座がある。全国の国宝指定の寺社を中心に巡り、その美と宗教文化を語るという講座である。仏教も神道もある幅の広い講座である。またスライドで使う写真を撮り直す必要もあった。近畿地方までなら毎年のように行くが、それより先となると取材が大変である。
特に遠いのが東北地方である。最も北にあるのが岩手県の中尊寺である。この講座が始まる前に二度行ったことがあり、もう行くことはないだろうと思っていた。しかしこれまでの写真ではもの足らず、結局もう一度行くことにした。実はその予定をしていたのが2011年の春のことだった。先に述べたように2011年は法然と親鸞の大遠忌の年で予定が多く、春が比較的時間がとれたのである。
・・・「しかるに」・・・
「しかるに」、3月11日の東日本大震災でそれどころではなくなってしまった。講座で東北地方を扱うまでには時間的余裕はあったが、はたしていつ行くべきか考えた。結局その夏に大遠忌に合わせて行くのを考えていた親鸞旧蹟巡りと重ねて東北に行くことにした。越後の親鸞旧蹟巡りをして、新潟経由で福島県を経て東北に入るという形をとった。
福島県に近づくにつれて、高速道路で災害復旧の車両に会うことが多くなり、また高速道路にも震災で生じた亀裂や段差を修理した後が目につくようになった。覚悟をしてきたものの正直先に進むのが気が重くなった。宮城県に入ると、それとわかる震災の爪痕がいたるところにあった。仙台の中心部ではそれはあまり感じなかったが、周辺部に行くとすぐに目に付く。瑞巌寺にも寄った。ここも三度目の訪問でもう来ることはないだろうと思っていたが、どうなったのか気になった。
・・・松島・・・
震災から初めての夏で、それまで二回の訪問も同じ夏のことだったが、瑞巌寺周辺は観光どころではないという感じだった。松島遊覧の船着き場は閑散として、すぐ前の商店街は大きな窓が壊れて営業していないところがあった。有名な五大堂が壊れたのではないかと心配していたが、それほど被害はなかったようだった。しかし何とも寂しい松島だった。
震災の被害の大きい場所を見ようとすればさらに先の三陸海岸に行けばいいのだが、とてもその気にならなかった。瑞巌寺の参道には岩窟があり、もともと霊場の一種だったと言われている。参拝者の多いときでも一種の霊気が漂っているような場所だが、その夏にはひときわそれを感じ、私としてはそろそろ限界かなという感じで、先に行けなかった。
・・・平泉・・・
それでも平泉は訪れた。私にとって平泉が救いの地になるのはそこが浄土信仰の地だからである。京都に始まった天台浄土教がまさに「みちのく」まで達したことは有り難いことだ。南では九州の国東半島の富貴寺にも国宝の阿弥陀堂が残っている。富貴寺の阿弥陀堂は比叡山と同様の常行堂の形の阿弥陀堂で、ある時期まではその修行が行われていたはずだ。ただし同じ天台浄土教の寺と言っても、平泉の中尊寺の阿弥陀堂である金色堂はそれとは少し意味合いが違う。それは壇の下に藤原三代の遺体がミイラとなって納められているからである。墓への納骨と同じと考えればいいのだろうが、そうは思っても何か違うのを感じる。きらびやかな浄土の荘厳とミイラの組み合わせは別の文化を感じる。
東日本震災後に私は、この震災をきっかけに生まれた文学作品を、好んで読んだわけではないが幾つか読んだ。この衝撃をどのようにして人は乗り越えるのか、自分自身の問題でもあったからだ。結論から言えば、死者の生存を必要とするということだった。ただし東北の場合、いきなり遙か彼方の世界に行くのではなく、より身近に感じているということだろうか。いつでもお盆を続けているような感じである。宗教の必要性とともにその様々なあり方を考えさせられ、今も考えている。
・・・歎異抄講座・・・
この三月で2009年の十月から月に一度語ってきた歎異抄講座が七十八回に達した。六年六ヶ月の期間になる。六字名号一つで救われることを語ってきたのだから「六・六」というのも因縁を感じる。この講座は私の書いた『歎異抄を歩む』をテキストにして『歎異抄』を読む講座である。内村鑑三がパウロの「ローマ書」の講義を1921年の辛酉の年の一月から翌年十月まで六十回に渡って講義し、これを『ローマ書の研究』として出版したことをこの連載に書いた。「ローマ書」は数十ページのものなのでよくあれだけのものから六十回も話せたものだと思うが、結果的に同じようなことをしたことになる。
『歎異抄』と「ローマ書」は信仰の書として東西を代表するものだと思う。それらを通して「普遍的信仰」を語るという点では同様のことだと思う。回数が多くなるのは原本の分量は少なくてもそこに無量のものが含まれているからである。浄土教的に言えば「無量寿」という命の泉が涌いているからである。汲めども尽きないものがあるからである。それは念仏がいくらしても止まらないのと同じことである。永遠の命が念仏を続けさせているからである。決して私がしたことではない。
・・・「ヒロシマから語る歎異抄」・・・
もう一つ内村鑑三との共通点を言えば、「戦争と平和」というテーマが通底していることである。私の歎異抄は「ヒロシマから語る歎異抄」だった。そこに私が生まれた意味を感じたからである。「大河の一滴」に過ぎないかもしれないが、そこにはヒロシマを流れ続ける川の水が常に入っている。講座の場所も原爆ドームに近い広島市の中心部、紙屋町交差点に面しているビルだった。
途中から同じく原爆ドームの近くでも少し北側に移ったが、そこからは広島市中央公園が見えた。私が加藤友三郎の話をするのにその像の位置を知らない方に、あの公園の一角ですよとお伝えすることができた。「平和の軸線」について語ったが、私も「平和の軸線」の上に立って語ったつもりである。
・・・「世のなか安穏なれ」・・・
それは聖徳太子の『十七条憲法』の第一条「和を以て貴と為す」と第二条「篤く三宝を敬へ。三宝とは仏法僧なり」という精神とも共通している。和の心と宗教心である。親鸞の「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」の言葉もこの『十七条憲法』の第一条と第二条に対応している。私としては聖徳太子と親鸞の導きのもとに語ってきたつもりだった。
そしてもう一つ講座を始めた時期は2011年の法然八百回大遠忌、親鸞七百五十回大遠忌の前で、大遠忌に向けて浄土教への関心を高めたいという思いがあった。浄土真宗本願寺派の大遠忌のテーマが「世のなか安穏なれ」であり、先に述べた「ヒロシマから語る歎異抄」の精神とも一致していた。この五十年に一回の大遠忌は実質的に私にとって一生に一回のことであり、そこに向けて私としてできる限りのことをしてきたつもりだった。大遠忌を前によく聞いた言葉に「この勝縁」という言葉があり、私自身そのつもりだった。
・・・「無常から語る歎異抄」・・・
「しかるに」、親鸞の使う言葉の通りに、2011年の3月に東日本大震災が起きた。おそらく自分の中で阪神大震災が起きたことでもうこれ以上のことはないのではないかという気持ちがあったのだろう。また地理的に本願寺に近い地域で起きたこともあり、法座等で阪神大震災に関することをずいぶんと聞き、本願寺の対応も聞いていたからだろう。新世紀になったこともあり、震災を乗り越えたような気持ちがあったのだろう。東日本大震災が起きたことで阪神大震災は実は始まりだったのではないかと思わせられた。
「勝縁」とは言いつつも、どこかお祭り気分もあったのだろう。自分の立てていた人生プランは吹き飛んでしまった。この震災との関係は内村鑑三とは違う点である。関東大震災は内村鑑三が「ローマ書」講義を終えた翌年の1923年に起きている。こうして「無常から語る歎異抄」にもなったのである。
・・・焼失・・・
勝林院で蓮を見たことで旅の目的をほぼ達したように思った。私が義父から蓮の実をもらったことを親鸞に当てはめると、父と慕う法然から蓮の実をもらったようなものだと思った。勝林院を後にしながらこの印象を大切にしたくてそのままでもいいと思った。予定では寂光院にも行くつもりだったが、ここはややためらうものがあった。というのは以前大原を訪れた時も寂光院に行っているのだが、現在の寂光院はその時と違うのである。
というのは大変残念なことだが、寂光院の本堂は火事で焼けてしまったのである。2000年のことである。失火ではなく放火とされている。お寺は木造が基本の上に、蝋燭や油、宗派によっては護摩木などを焚くので、火事の危険性はもともと高い。失火による消失は幾つも例がある。しかし放火となるとそれほど多いわけではなく、有名なところでは金閣寺の放火だろう。私などは再建後の金閣寺しか見たことがない。寂光院は以前の落ち着いたたたずまいを知っているだけに新しい堂を見るのにためらうものがあった。
・・・守るべきもの・・・
それにしてもどうして寂光院に放火しようなどと思うのだろう。すでに述べたように寂光院は壇ノ浦で入水したものの、引き上げられて生き延び、その後落飾した建礼門院の住んだ寺である。「諸行無常」を語る『平家物語』でもこの建礼門院の話はとても現実とは思えないほどで、悲劇のヒロインの寺なのである。この寺に参る人は自分もまた現代の「大原御幸」をするつもりで訪れる人のはずである。平清盛に対しては反感を感じる人でもその娘の徳子に反感をもつ人はいないはずだ。
私は広島にいるので平清盛が平家一門の繁栄を願って厳島神社に奉納した『平家納経』を何度か見る機会があった。そこに描かれる有名な「龍女成仏」を見ると、龍女と徳子が重なって見えるのである。また『平家納経』の願文を読むと浄土信仰もそこに見えるのである。堂の大きさにしても反感を買うような大きなものや豪華なものではなく、皆で守り続けたいと思わせるような小さな堂である。
・・・遷宮?・・・
山門受付を入り、石段を登るまでは雰囲気は昔と同じ山里の寺だった。境内は決して広いとは言えず、石段を上がってすぐ目の前が本堂である。確かに新しい。ただ少し見方を変えれば神社で行われる遷宮の後と思えばいいのではないかという気もした。堂内も当然のことながら新しい。本尊も建礼門院の像も全て作り変えられた。再興に当たっての寺の関係者の御苦労はいかばかりかと思う。狭い堂内でこのたびの焼失後の苦労を聞いていると震災を経験した日本にとってはこれも仏縁を結ぶ逆縁の一つだったのかと思えてくる。
この真新しいものの中で奇蹟的に残ったものがある。本尊の地蔵菩薩は黒こげになったのだが、その胎内仏がそっくり残ったのである。その数約三千。ここにも三千院があるのである。どうしてかというと、天台宗では「一念三千」というキーワードがあり、一念が三千世界に通じるという。この考え方は念仏にもあてはまり融通念仏という発想になる。この胎内仏の存在もあってか、通常火災に遭うと取り消される重要文化財の指定はそのまま残り、黒こげの仏像も保存されている。
・・・三千世界に・・・
大原は浄土信仰の地で、寂光院も「常寂光土」という言葉があるように基本的には浄土信仰の寺のはずだが、本尊の地蔵菩薩はより庶民的な信仰の対象である。六道の辻で迷う者のところまで自ら出かけて救うと言われる。地蔵菩薩は阿弥陀仏とともに平家一門の者も、また名のない者にまで手をさしのべてくださる身近な存在だったのかもしれない。
私には原爆や、先の戦争の戦死者、あるいは震災の死没者の姿と、黒こげの地蔵菩薩の姿が重なって見えた。その黒こげの姿の中に尊い願いが宿っているはずなのである。寂光院の地蔵菩薩の三千の胎内仏は三千世界に出かけていって人々を救うとともに、またそこに蓮の実のような信仰の種をまくのだろう。
発掘歎異抄196回 大原 2016年2月号
・・・盆の後で・・・
2015年の8月1日に本願寺広島別院での真宗と平和についての講演を終え、8月6日に自分の勤める学校での被爆70周年式典も終えて、私の被爆70周年の8月の主な行事が終わった。そのお盆の後は京都に行くつもりだった。京都にはほぼ毎年のように行っているが、例年私の卒業した大学の仏教関係者の集まりがあり、それへの参加を兼ねて行くことが多い。僧侶の方が多いので真宗ではあまり言わないが葬式が少ないという友引の日が会になることが多い。カレンダーを見てある程度予想するのだが、昨年は予想がはずれてすでに予定があり、日程が合わなかった。
その代わりに8月の盆明けに行くつもりだった。以前に五山送り火の日に行ったことがあり、秋ほどはないが、この時期の京都はそれなりに訪れる人が多い。その旅行の前日の夜明け前のことだと思うが、不思議な夢を見た。実はその少し前にも不思議な夢を見ていて、そのことが印象に残っていた。いずれも夢の中で私が念仏しているものである。法然は実際に就寝中もいつも念仏していて、弟子達がその声を聞いていたという逸話があるが、私のはただ自分が念仏している夢である。
・・・納骨の後で・・・
座敷に座って私が念仏していると、ふすまが開いて人が入ってきた。誰かと思うと、すでに亡くなった妻の父だった。8月に納骨したばかりのことで、その墓に参って二日後のことである。その父が私に蓮の実を渡してくれた。白い実で私がそれを見ているとこれはピンクの蓮だと教えてくれた。目が覚めてからもそのことをよく覚えていて、京都に行く前で私なりにこれはいい夢だと思った。
京都でどこに行くつもりだったかというと、大原である。三千院を訪れた後、勝林院や寂光院を回るつもりだった。三千院に行く前に恩師のおられる妙法院にご挨拶に伺う予定だったので、食事時間や移動時間を考えると、ほぼそれでいっぱいの時間だろうと思った。大原は京都でも中心部から最も北にある。本来は隠棲の地である。壇ノ浦の戦いの後、落飾した建礼門院が大原に住んだのが、大原という地をよく表していると言えるだろう。
・・・三千院・・・
大原に行くのは久しぶりである。以前行ったのは秋だったので、当然のことながら蓮は咲いていない。三千院は妙法院と同様に天台宗の門跡寺院として有名で梶井門跡とも呼ばれるが、この梶は加持祈祷の加持を表すと言われる。三千院の中心は往生極楽院で、ここの阿弥陀三尊像は国宝である。私の予想では三千院に蓮が咲いているだろうと思った。
往生極楽院は本堂ではなく、境内の中にある堂の一つである。往生極楽院の周囲は見事な苔の庭である。往生極楽院の堂の中心に阿弥陀三尊像が鎮座し、本来はこの阿弥陀三尊像の周囲を巡ることができるようになっている。つまり常行三昧を行う常行堂の形である。親鸞が比叡山で堂僧をしていたと言われる常行堂である。残念ながらほとんどの常行堂は現在では本尊の周囲を巡るようになっておらず、参拝者は前から拝むしかない。ここの三尊像の特徴は脇士の観音菩薩と勢至菩薩が正座していることで、参拝者も正座すると菩薩と同じ形になることができる像である。
・・・勝林院・・・
ひとしきり念仏して庭に出てあらためて見回してみたが、蓮は咲いていなかった。この旅行は家族と行ったのだが、家族は三千院の門を出たところの茶店で休むというので、その間に私ひとりで次の勝林院に回った。勝林院は法然が世に出るきっかけとなった大原問答の行われたところとして有名である。
三千院からしばらく奥に行くと突き当たりが勝林院である。参道がまっすぐ勝林院に向かって進んでいて拝観受付からそのまま本堂に進む。参拝者はなく私ひとりになっていた。その阿弥陀仏を拝む前にあっと思った。本堂の両脇に鉢があり、そこにピンクの蓮が一輪咲いていた。その横には花が散った後の実がまだ白い状態であった。ああこれだったのだと思った。不思議な縁を感じた一瞬だった。
・・・応接室・・・
加藤友三郎の知名度は地元の広島でも高いとは言えない。私の勤めている学校が広島藩の藩校の後身で、加藤友三郎が広島藩の藩校に学んだことから、校内では大先輩の扱いである。学校の応接室には日本海海戦時の旗艦三笠の絵の複製がある。東郷平八郎の横に参謀長加藤友三郎が立っていて、絵の横にその説明が書かれている。その絵の上には東郷平八郎の自筆の書が架けられている。加藤友三郎が海軍内部の反対を押し切ってワシントン海軍軍縮条約を結ぶことができたのは、この経歴が大きくものを言っているはずだ。
しかしこの旗艦三笠は日本に凱旋し、加藤友三郎と東郷平八郎が艦を降りた後に、爆発事故を起こして沈没している。戦争には勝者も敗者もないことを示すような出来事である。加藤友三郎は胃腸に持病があり、日本海海戦時にもワシントン軍縮会議への出席時にも胃腸の状態は相当悪かったらしい。
・・・日米対立・・・
このワシントン軍縮会議での対立事項の一つがアメリカとの軍艦の比率である。十対七が日本の主張であり、十対六がアメリカの主張である。アメリカを仮想敵国として軍備を進めていた日本にとって対米七割という線は譲れないものだったと言われている。しかしアメリカからすれば、太平洋と大西洋の両洋に艦隊を展開しなければならない立場として日本がアメリカの六割とすることで、太平洋地域での戦力の優位をかろうじて保てるかどうかというぎりぎりの線だったと言われる。
もう一つが建造中の艦を含めて廃棄する取り決めで、日本では当時最大の軍艦でほぼ完成していた「陸奥」の廃棄を迫られたことだった。日本としては戦艦陸奥の廃棄は何としても避けたいところだった。結局軍艦比率は日本がアメリカの六割、陸奥は廃棄しないという線で決着する。ところが加藤友三郎の没後のことだが、あれだけ日本が固執した戦艦陸奥は太平洋戦争中に瀬戸内海で爆発事故を起こして沈んでしまった。この陸奥の名はなぜか平仮名の「むつ」になって戦後日本初の原子力船に引き継がれる。しかし原子力船「むつ」は初航海で放射能漏れ事故を起こし、原子力船としては廃船となり、原子炉をはずしてディーゼル機関を積んだ別の船になった。
・・・八月六日の朝に・・・
昨年の八月六日の朝、この日に私の学校で行われる被爆七十年の式典の来客を迎えるために私は応接室にいた。その方の目の前に三笠の絵と東郷平八郎の書があり、私は少し説明をした。そこで私が8月1日に本願寺広島別院で真宗と平和について語り、その講演の中で加藤友三郎の話をしたことを語った。
三笠と陸奥の運命を考えると軍備の虚しさを感じるとともに、もう一つ原子力との関係も感じざるをえない。原子力船は原子力潜水艦も含めて軍事用が常識だろう。それをなぜ日本は造ろうとしたのだろう。建造能力を示すことで防衛力の一部にしようとしたのか。
・・・さまよえる日本・・・
2011年に東日本大震災が起き、それとともに福島原発の事故が起きた。それからすでに五年が経とうとしている。原発事故は未だに終息が見通せない状態が続いている。初航海で放射能漏れを起こし、さまよえる原子力船となった「むつ」と重なって見える。
加藤友三郎は地震とも無縁ではない。加藤友三郎は胃腸病のため在任期間が短かったが、その間に海軍軍縮とシベリア撤兵を実現した。日本のシベリア出兵は戦後に報復としてシベリア抑留を招いたと思われる政策である。よく陸軍を押さえて撤兵したものだ。確かに加藤友三郎が長生きしていれば歴史は変わったかもしれない。ところが没後一週間ほどで関東大震災が起きた。近年出版された工藤美知尋・著『海軍大将加藤友三郎と軍縮時代』は加藤友三郎を紹介する好著である。この本は後書きが2011年1月に書かれ3月11日の震災後3月20日に出版された。関東大震災後の日本を考えると、東日本大震災後のさまよえる日本を憂う加藤友三郎がこの本を出版させたかのように見えるのである。
・・・辛酉の塔・・・
2014年末から2015年初めにかけて授業した教科書教材に1945年を中心に、1921年と1981年の辛酉の年が関係していることに不思議な縁を感じた。この中で最も不思議だったのが『プロセスの建築』にある辛酉の年1921年から建て始められたアメリカのワッツ・タワーのことだった。「状況の中で」という単元名で、他の教材がいずれも戦争という状況を語っている中で、ワッツ・タワーは直接戦争とは関係なさそうだ。
私は気になっていろいろ調べてみたがよくわからなかった。ワッツ・タワーは十四本の塔の集合体だが、拡大した写真を見ると、十字架やハートのマークが装飾として入っていて、私には宗教的作品に思えた。これを建てたサイモン・ロディアは芸術家や建築家ではなく一介の職人だったそうである。材料には廃棄物や廃材が利用されているとのことだ。私には彼が何かインスピレーションを感じてこの塔を建て始めたように思えた。イタリア移民ということからイタリアで見たカトリック教会の尖塔を拡大したようにも思えた。
・・・戦争中の記念碑・・・
1920年には国際連盟が発足し、1921年にはアメリカで史上初の軍縮会議であるワシントン会議が始まった。ロディアがこれらのことを知っていれば、平和の記念碑、あるいは祈念碑として建てたとしてもおかしくない。しかも彼は33年間にわたりこの塔を建てたので、第二次大戦中も建て続けたことになる。戦争中も継続したとするとその持続力は恐るべきものがある。日本での戦時中のことを考えるとまずこうはいかないだろう。
戦争中の日本は金属が不足したため、金属供出が強制的に行なわれ、記念碑や銅像、梵鐘までが鋳つぶされた。広島ではワシントン条約を結んだ加藤友三郎の像が比治山公園にあったが、やはり供出させられ、今はその台座しか残っていない。台座だけでも巨大なものである。台座の脇には説明板があったと思われる石の枠が残っているが、大きな窓のようでそこを覗くと何か別の世界が見えるような気がする。これはこれで一つの作品である。
・・加藤友三郎像の復元・・・
軍縮に尽力した加藤友三郎の像を復元する話が広島で起こったときに、その候補地は当然元の像の位置だったはずだが、検討の結果広島城の西にある広島市中央公園の一角になった。像も戦前のものとは違い、平和への貢献を前面に出すためワシントン会議に出席した時のフロックコート姿でのものとなった。この像が建てられてから、その位置が偶然にも平和資料館と原爆慰霊碑と原爆ドームを結ぶ線上にあることがわかった。この三者を結ぶ線は平和公園を設計するときに丹下健三が軸線として設定したものである。この三者に加えて加藤友三郎像を結ぶ線を「平和の軸線」と呼んでいる。加藤友三郎の平和への思いがここを選ばせたように感じられたそうだ。
この像に添えられた説明板に加藤友三郎が1861年2月22日に広島で生まれ、1921年にワシントン会議に出席したことが書かれている。この軸線でもう一つ別の場所に1981年の数字を刻んだ碑がある。平和資料館にあるローマ法王ヨハネ・パウロ二世の「ヒロシマ平和アピール」を刻んだ碑である。こうして当初の1945年を中心にした平和の軸線に、辛酉の年である1861年、1921年、1981年が加わったのである。
・・・世界と未来に向けて・・・
私が教材の配列に不思議な縁を感じたのはそこに1945年を中心に1921年と1981年の数字が入っていたからである。作品の舞台も広島、長崎、アメリカ、中国と世界に広がっている。歴史上の線とともに東西に渡る空間の線もそこに見えるのである。
広島で言う「平和の軸線」は平和公園を中心にした空間上の線だが、時間上の線も兼ねている。加藤友三郎像を起点にすると1861年、1921年、1945年、1981年と並ぶ。ここで終わるはずはない。人類を導くものの働きをそこに感じる。ヒロシマを貫くこの線を世界と人類の未来に延ばしたい。
・・・被爆70周年・・・
被爆70周年の今年、夏休み前の最後の教材は吉野弘の「奈々子に」という詩だった。生まれたばかりの我が子にあげたいものは「自分を愛する心」だと語りかける詩である。ここでの愛は自己中心的な我執としての愛ではなく、『聖書』に「隣人を自分のように愛せよ」という隣人愛の前提としての自分を愛する心である。吉野弘は2014年に87歳の長寿を全うして亡くなっている。
いつものように生徒にページを指定するのにふと見ると、それが86ページだった。この詩は4ページに渡る長い詩で、最後のページを見ると89ページだった。私は8月1日に本願寺広島別院で「世のなか安穏なれ」という題で講演することになっていた。被爆70周年に当たり真宗と平和について語るつもりだった。親鸞の語った「世のなか安穏なれ」は2011年の親鸞聖人七百五十回大遠忌での西本願寺のテーマになった言葉である。
・・・「86」と「89」・・・
その講演の準備をしていたころなので、不思議な縁を感じた。86ページと89ページが8月6日の広島原爆記念日と8月9日の長崎原爆記念日に当たるように見えたのだ。ちょうどこのころ原爆の日に地元で行なわれる広島カープの試合で選手全員が「86」の背番号を付けることが報道されていた。教科書にも「86」と「89」があったのだと感慨深く思った。「愛」を語る詩の内容も平和の原点として「86」と「89」にふさわしいと思った。吉野弘の遺言のように見えた。
ここでの86と89は全くの偶然なのだろう。しかし私にとっては一つのサインに見えた。野球でサインを見落とせば命取りになる。我々の人生にも幾つものサインが出されているのだが、残念ながら我々はそれをたいていの場合は見落としている。はなはだしい場合は無視している。しかも意図的に。それが自由だと思っている。それは正しいのだろうか。
・・・もう一つのサイン・・・
今回の一致をサインと感じた以上に私にとって重要な教科書でのサインがあった。2014年の末から2015年の初めにかけてのことである。年末の授業をアメリカ軍の元従軍カメラマンであるジョー・オダネルが長崎の原爆について書いた『目撃者の眼』という随筆と、石垣りんが広島の原爆について書いた『挨拶』という詩で終えた。このころ私は年が明けると被爆70周年の年になるということで、これまでに文学と平和について書いたものを『和の光』という書籍にまとめるつもりで準備をしていた。二つの教材は被爆70周年をあらためて意識させるものだった。
年が明けて初めの授業は建築家の安藤忠雄が書いた『プロセスの建築』という随筆だった。ここで紹介されているのが、ロサンゼルスのワッツ地区にあるワッツ・タワーである。この塔はイタリア移民のサイモン・ロディアが1921年から33年かけて建てた十四本の塔の集合体である。ロディアはこれを「われらの町」と呼んだそうだが、建て終わった後、ロディアは姿を消した。いったい何のために建てたのか不思議な塔である。
・・・1945・辛酉・広島・・・
次の教材は宮本研の『花いちもんめ』という戯曲だった。これは1981年に始まった中国残留孤児の親探しの訪日に取材した作品である。1945年に満州で二人の子の内、一人を病気で失い、もう一人の子を中国人に預けた女性の話である。親探しに訪日した我が子に会うことができずに四国の遍路に出た女性のひとり語りで進む舞台作品である。
これらの教材はいずれも「状況の中で」という同じ単元にあり、三作品は戦争を背景にしているので「状況」が戦争のことだと分かるのだが、『プロセスの建築』だけは普通に見て戦争と関係があるとは思えない。私にこれが一つのサインに見えたのは、これまで私が終戦の年である1945年のことと、辛酉の年である1921年と1981年のことを書いたからだ。そしてそれが広島に関係しているからである。私にはこれが聖徳太子からの隠されたサインに見えたのである。
・・・ワシントン会議・・・
「ローマ書」の60回に及ぶ連続講演で内村鑑三は信仰の問題を中心にしていて政治や社会の問題にはほとんど言及していない。時代を越えた問題を語っている。しかしやむにやまれず言及しているものがある。「非戦論」を唱えた内村鑑三としてこれだけは語らずにはおれなかったのだろう。それが辛酉の年1921年の11月からワシントンで始まったワシントン会議についてである。「ローマ書」の連続講演中にこの会議が始まり、翌年2月にワシントン海軍軍縮条約が締結された。
「ワシントン会議が今の世界人類の第一問題であるのは、つまり聖書の問題が世界人類の第一問題であるのである。この意味において、聖書は依然として人類を支配しているといい得る。」と言い、世界平和の問題と『聖書』の問題が並行していることを述べている。人種や民族、宗派を越えた普遍的信仰の域に達していた内村鑑三にとって信仰の何たるかが理解されれば人類の和合は自明のことであった。『聖書』が語られて二千年近くたっても未だに人類の和合が実現していないのはその精神が正しく理解されていないからであり、内村鑑三としては会議の成功を祈るとともに自分の役割としては信仰を語ることだとあらためて意識させられたのだろう。
・・・和合と宗教心・・・
和合と信仰についてはすでに日本で聖徳太子の『十七条憲法』において語られていることである。『十七条憲法』の第一条が「和を以て貴しと為す(以和為貴)。」で和合を説き、第二条が「篤く三宝を敬へ(篤敬三宝)。三宝とは仏・法・僧なり。」で信仰を語る。人間同士の関係と、人間と人間を越えたものとの関係が合わせて説かれているのである。第二条の「篤く三宝を敬へ(篤敬三宝)」という「三宝帰依」を言い換えれば「念仏、念法、念僧」となり、「念仏」の勧めとも言える。この第一条と第二条、平和と宗教心は人類にとって車の両輪に当たる。日本のみならず人類史の本道はここにあるのである。
・・・聖徳太子とマホメット・・・
また聖徳太子とマホメット(ムハンマド)は時代が重なっている。先にあげた『コーラン』の一節は信仰に始まり、「平安あれ」で終わっている。イスラム教については近年日本人も巻き込まれた相次ぐ出来事から戦闘的なイメージが強くなっているが、必ずしもそうではない。「平安あれ」と聞いて親鸞の「世のなか安穏なれ」を思い起こす人も多いだろう。また聖徳太子の没年西暦622年はイスラム暦であるヒジュラ暦の元年である。そしてワシントン会議が開かれた1921年は聖徳太子の1300回忌の年だった。
このワシントン会議に日本の全権として出席していたのが、広島生まれの加藤友三郎である。内村鑑三と加藤友三郎は同じ1861年に生まれ、内村鑑三が2月13日、加藤友三郎が2月22日生まれである。そして加藤友三郎の生まれた2月22日は聖徳太子の命日である。聖徳太子の1300回忌の年に、聖徳太子の命日に生まれた加藤友三郎が日本の全権として出席していたのである。
・・・海の内と外で・・・
内村鑑三は「ローマ書」の連続講演でこの会議に期待しているが、自分と加藤友三郎を結ぶものがあるのを知っていただろうか。内村鑑三としては東京で精一杯加藤友三郎の援護をしていたのだろう。この会議の成功がいかに難しかったかは、加藤友三郎を全権として任命し送り出した首相の原敬が東京で暗殺されたことからも充分わかる。ワシントン会議は成功したが、これ以降の日本は五一五事件、二二六事件と暗殺の時代に入る。
加藤友三郎も命がけだっただろう。暗殺されることも覚悟していたかもしれない。援護する内村鑑三も講演とは言え、原敬の暗殺された東京で不特定多数の聴衆を相手に講演しているのだからやはり命がけだったのだろう。この時の講演は教会で行なわれたのではなく、東京の都心、内務省前にあった大日本私立衛生会の講堂で行なわれている。平和に命を捧げた人が海の内と外にいたのである。
・・・「ローマ書」講演・・・
キリスト者としての内村鑑三の一つの頂点と言えるのが、辛酉の年1921年1月から翌年1922年10月まで、東京で60回連続して行なわれた「ローマ書」の講演だろう。この講演は『ロマ書の研究』として出版された。一般向けの本ではないが、クリスチャンのみならず、信仰とは何かと考える人にとっては、宗派を越えて読める本である。またその解答を与えてくれる本である。キリスト教という枠を越え、また西洋と東洋の枠を越えて、全人類に語りかける信仰の書である。
「ローマ書」は『新約聖書』に収められ、ローマの信徒にあてたパウロの手紙である。真宗では親鸞や蓮如の手紙が日本での文書伝道の走りになっているが、「ローマ書」はそれよりも千年以上早い。「ローマ書」による伝道はおそらく世界的に見ても最も早い時期になされた文書伝道と言えるだろう。イスラエルで始まったキリスト教が中東地域を越えて西洋に進出し始めたことを示しており、福音の信仰がユダヤ人だけのものではなく、全人類の信仰であることを語った書である。民族宗教ではなく世界宗教としてのキリスト教を語る基本の書と言ってもいいだろう。
・・・キリスト教と浄土教・・・
「ローマ書」の講演は中東から始まったキリスト教が東の端、極東の日本まで達し、しかもその理解において極めて高いレベルに達していることを示している。日本でのキリスト教には1パーセントの壁があると言われ、その信者数が人口の1パーセントを越えることができないと言われているが、数の上ではともかく、その理解のレベルの高さは世界に誇ることができると思う。聴衆や読者の数がどうこうよりも、全人類に向けて語るという内村鑑三の姿勢が全くパウロと同じである。
西洋人によって西洋で語られる「ローマ書」ともし違いがあるとすれば、内村鑑三が日本の浄土教について語っていることである。源信の『往生要集』や法然の『選択本願集』を内村鑑三は読んでいて、法然、親鸞の浄土教と「ローマ書」との一致点を語っている。
・・・「二つのJ」の一致・・・
日本の浄土教の存在はキリスト教が日本に達する前にすでに同様の信仰が日本においても興っていたことを意味し、内村鑑三は日本人として誇りをもって語っている。内村鑑三の「二つのJ(ジーザスとジャパン)」はここでは矛盾するどころかむしろ一致するのである。そもそも信仰の福音は全人類に向けて発信し続けられており、それを受信する人がいればいつでもどこでも語ることができる。
その全人類の向けての信仰の福音として内村鑑三は次のように語る。「信仰の道は簡単である。同時にまた普遍的である。これにユダヤ人またはギリシャ人というがごとき区別はない。これに遺伝もなければ系統もない。『すべて主の名を呼び求むる者は救わるべし』である。浄土門の仏教にいうところの称名である。もちろん機械的の百万遍ではない。口にいいあらわし心に信ずる意味においての称名である。」宗派を超えた普遍的信仰である。
・・・信仰と称名・・・
内村鑑三が普遍的信仰として引用している「すべて主の名を呼び求むる者は救わるべし」はパウロが「ローマ書」に引用した『旧約聖書』の「ヨエル書」の言葉である。これによって『旧約聖書』に立脚するユダヤ教と、新たに起こったキリスト教に共通する信仰が語られる。ユダヤ教、キリスト教、浄土仏教の共通点を信仰と称名に見いだしている。
では同じく世界宗教のイスラム教ではどうだろう。内村鑑三は語っていないが、『コーラン』には「おお、信仰する者よ。常に神の御名を唱えよ。朝に夕に、神を讃美したてまつれ。神は、おまえたちを暗闇から光明へ連れ出すために、祝福を与えたもう。神の天使も同じこと。神は、信仰する者には慈愛あつきお方である。神が彼らに対面する日の挨拶のことばは、『平安あれ』である。神は彼らに寛大な報酬を準備したもう。」(藤本勝次・編)とある。ここでも信仰と称名が語られる。受信者は異なるが発信元は同じである。
・・・「ヤソの子」として・・・
日本でコスモポリタンとして本願を生きた人として内村鑑三をあげた。内村鑑三は幕末の1861年旧暦2月13日に江戸で上州高崎藩士内村宜之の長男として生まれた。その九日後2月22日には広島で加藤友三郎が生まれている。内村鑑三の母の名は「ヤソ」という。明治時代にキリスト教が耶蘇教と言われていたことを思うと不思議な縁である。1861年は辛酉の年だが、キリスト紀元の西暦元年も辛酉の年だった。内村鑑三のキリスト者としての生涯を思うと、まさに彼は「ヤソの子」として生まれたと言えるだろう。
内村鑑三がキリスト教に入信したのは札幌農学校時代のことである。札幌農学校にクリスチャンが生まれたのは内村鑑三が札幌農学校に入学する前に教頭だったクラークの感化が大きい。その後アメリカに留学し、米国滞在中の新島襄の勧めでアマースト大学で学び卒業している。アマースト大学は新島襄の学んだ大学で、新島襄の恩師のジュリアス・ホーリー・シーリーは内村鑑三の恩師でもある。またクラークもアマースト大学の出身だった。新島襄は上州安中藩士の子として江戸に生まれており、上州人の先輩に当たる。
・・・「不敬事件」・・・
帰国後は新潟、東京、大阪、熊本、名古屋など各地で教師を歴任しているが、三十代から四十代にかけての内村鑑三の特筆すべき出来事は東京時代の第一高等中学校の教師としての「一高不敬事件」と、言論人として万朝報での日露戦争開戦時の「非戦論」だろう。
「一高不敬事件」は第一高等中学校で行なわれた教育勅語奉読式で、内村鑑三が天皇の署名に敬礼はしたものの、その敬礼が最敬礼ではなかったとして非難され、ついに辞職を余儀なくされたものである。現代にもつながる教員の「日の丸・君が代」問題のはしりと言っていい事件である。この事件以来、信仰と国家との関係が彼の問題となる。いわゆる「二つのJ(ジーザスとジャパン)」の問題である。このことはその信仰により国家権力から弾圧された法然、親鸞とも重なる問題である。この事件は1891年内村鑑三が数え年で三十一歳の時のことである。
・・・「義戦」から「非戦」へ・・・
戦争の問題もこの「二つのJ」に関係する。信仰の立場からは罪悪である殺人を集団的に犯す戦争はとうてい容認できない。他の国が起こす戦争なら当然反対だが、一方で自分の属する国が戦争をする場合はどうするか。愛国的立場からはこれに反対しにくい。反対すれば「非国民」とののしられることになる。
1894年の日清戦争時には内村鑑三はこれを義戦として戦争を支持した。しかし戦後に「猛省」し、1904年の日露戦争の前にはこれに反対する。いわゆる内村鑑三の「非戦論」である。これにより万朝報社を退社することになる。1903年数え年で四十三歳の時のことである。教師であるとともに長らく言論人としても活躍してきた内村鑑三だが、これにより直接世論に訴える場を失った。
・・・ヒロシマの「非戦」の碑・・・
明治30年1897年に万朝報に英文で掲載された『猛省』は内村鑑三が自らの判断の誤りを率直に認め、「非戦」への転換のきっかけとなった文章である。ここで内村鑑三は「かつて『日清戦争の義』を書いたことをみずから極度に恥じている」と述べている。この「義戦」から「非戦」への転換は、『聖書』との関係で言えば『旧約』から『新約』への転換と言ってもいいだろう。力から愛へである。『旧約』では是認される可能性があったものが『新約』では全面的に否定される。
「非戦論」は内村鑑三が非戦を説いた一連の論のことだが、その精神を日本で受け継ぐことは極めて難しかった。しかし結局その正しかったことは太平洋戦争の敗戦によって明らかになった。広島の平和公園には1981年これも辛酉の年、来日したローマ法王ヨハネ・パウロ二世が平和公園で発した「ヒロシマ平和アピール」の碑がある。それはわたしには内村鑑三の「非戦」の碑に見える。この夏ヒロシマは70年目の8月6日を迎える。
・・・大乗仏典の作者・・・
古代インド人の奔放な想像力は星の彼方まで飛んでいた。『阿弥陀経』や『無量寿経』の西方十万億土にあるという極楽浄土は夜空の星を見上げながら想像されたものという見方は充分可能だろう。もちろんただの空想ではなく、遙か彼方にある懐かしい場所、愛と美のある世界となると、空想を越えた真実が宿っている。この世で星空を見上げながらもの悲しさと懐かしを感じるのは、それ自体が宗教心の芽生えと言っていいだろう。
タゴールの奔放な想像力は類い希な創造力となって多くの文学作品を生み出した。しかもその出発点には若い時のあの神秘体験があった。宗教文学としておびただしい数の大乗仏典を生み出したのはきっとタゴールのような人物だったのだろうと思う。彼がその時代に生まれていたら大乗仏典の作者になったのではないだろうか。仏陀に思いを寄せる思いを読むと、仏陀の時代に生まれることができなかった仏陀を慕う人々が大乗仏典を生み出したのだと思う。そしてそこで彼らは仏陀に出会ったのである。タゴールも自分をその一人のように考えていたのではあるまいか。
・・・みなしご親鸞・・・
タゴールの膨大な作品を前にして私はそのような想像をしてみる。大乗仏典には本文ととともに「偈」が入っている。歌である。『無量寿経』なら「讃仏偈」や「重誓偈」である。哲学だけで大乗仏典は書かれたわけではない。大乗仏教は歌う宗教でもある。タゴールも親鸞もともにその精神を汲んでいる。
仏陀のいない時代に生まれた悲しみはどこかみなしごの思いに重なる。親鸞は幼くして父母に別れているが、比叡山での孤独はほとんどみなしごと言っていいものだったのではなかろうか。法然との出会いは本当の父との出会いのように感じただろう。このみなしごの感覚は浄土教においては阿弥陀仏に会いたいという心情に重なる。当初はそれが瞑想して姿を見ようとする観想念仏という形になったのだろう。しかし大事なのは形での出会いではなく、心と心での出会いである。
・・・タゴールのみなしご・・・
タゴールの作品でこのみなしごの心情を描いている作品として、とりわけ私が気になる作品がある。『郵便局長』という短編小説である。故郷を離れて小さな村の郵便局に赴任した郵便局長の話である。局長と言っても局員は彼一人しかいない。村には誰も知り合いはいない。その彼の仕事を手伝ってくれるのは「ロトン」という名の孤児の少女だった。家で彼はこの少女と食事をともにしていた。
ロトンはふだん外にいて、夕方になると局長は「ロトン」と呼びかける。彼女はいつもその呼び声を待っている。そして呼ばれると中へ入って世間話をする。ロトンは今はいなくなった家族の話、かわいがってくれた父の話や弟と池で釣りをして遊んだ思い出を語る。郵便局長もまた故郷の母や妹のことを思う。郵便局長はまたロトンに文字を教える。郵便局長を慕うロトンの気持ちはほとんど父を慕う気持ちと同じなのだろう。郵便局長が病気になるとロトンは一生懸命看護する。
・・・永遠の旅・・・
その二人に別れがやってくる。病の癒えた局長は辞職して故郷に帰ることにする。ロトンを心配した彼は後任に彼女を頼むことにし、また彼の給料を彼女に渡そうとする。しかし彼女が望んでいたのは彼に連れて行ってもらうことだった。それがかなわないと知ると泣きながら走り去る。村を去る川船の上で局長は引き返して彼女を連れ戻そうという衝動にかられるが、船は遠ざかっていく。局長は人生という旅の出会いと別れを思いつつ、二度と帰らない死という永遠の別れを思う。
ロトンもみなしごだが、孤独な局長もまた同じなのである。この村はかりそめの住まいであるこの世のようなもので、病を得て彼は故郷に帰ることを思う。自分は先に帰るが、ロトンもいずれはまたここに別れる。ロトンは今それがわからないだけである。このみなしごの思いは心を打つ。この世では人は皆みなしごなのだ。まことの親に出会うまでは。
・・・辛酉の教育者・・・
タゴールとルドルフ・シュタイナーと内村鑑三が1861の辛酉の年に生まれたことを書いた。いずれもコスモポリタンの自覚をもって生きた。また宗教家としての面をもつとともに教育家であったことも共通している。教育家としては日本ではルドルフ・シュタイナーがシュタイナー教育で有名で、その教育は革命的教育と言える。タゴールの開いた大学はインドにあるので日本では教育家としての面はあまり注目されることはないようだ。
タゴールの開いた大学は通称「タゴール国際大学」と呼ばれている。西ベンガルのシャンティニケトンという土地にある。シャンティニケトンとは静かな住まいという意味である。タゴールは1901年にわずか五人の生徒を集めてここに学校を開いた。その後1921年つまりこれも辛酉の年に、この学校は大学となった。ビッショ・バロティ大学である。その後インドの国立大学となっている。
・・・ブラフマンの瞑想・・・
中村元はこの大学を何度も訪れたそうだ。日本人が国立大学と聞くと、まず宗教とは無縁の学校というイメージを抱くが、大学の正門には次のように刻まれているという。「この静かなる住居(シャンティニケトン)においては、あらゆる人がブラフマンの瞑想に努める義務がある。実にここでは無相にして唯一なるブラフマンをこそ瞑想すべし。(中略)ブラフマンを念ずるヨーガ、慈悲(友情)、沈静などをよく熟考して顕示せよ。そうして恥ずかしい思いをさせる歓楽を捨てよかし」
日本の仏教系の大学でもまずここまで書かれることはないだろう。教育の根幹に宗教精神をおいていることは明らかだ。「静かなる住居(シャンティニケトン)」という場所も瞑想することを前提に選ばれた場所のようだ。そしてその瞑想は「ブラフマンの瞑想」なのである。ここでタゴールが仏陀の『スッタニパータ』から「慈しみ」の言葉を引用する際に「梵住」という「ブラフマンに住する」という意味の言葉を入れた理由がわかる。
・・・森の木陰で・・・
『ギーターンジャリ』はシャンティニケトンで編集された。大学内にタゴールの住まいがあるそうだ。瞑想する創立者が住んでいると聞くと僧院であるような印象を受けるが、そうでもないようだ。小学校からの一貫教育で小学校の教育はしばしば戸外の森の木陰で鳥の声を聞きながら行われるそうである。
『ギーターンジャリ』の随所に示される自然との一体感は、タゴールの生き方から生まれたものだろうし、それをタゴールは子供の時から自然の中で感受性を育むことによって次の世代に伝えようとしたのだろう。中村元は「砂地であるために、はだしでもまことに快く感ぜられるのである。」と書いている。
・・・星の彼方まで・・・
「国際大学」と聞くと、国際的に通用するインド人を養成しようとしたように聞こえる。タゴール自身がベンガル語の詩を英語に訳してイギリスに伝えたように、またヴィヴェーカーナンダのラーマクリシュナ・ミッションのようにインドの精神を海外に伝える人材の養成という役目も確かにあるだろう。しかしそれだけではないようで、むしろ海外からインドについて学んでもらうために外国の学生を受け入れて教育するという面が強いようである。中村元によれば、アメリカや日本、アフリカからも留学生がいるそうである。中村元の開いた東方学院の発想はナカムラ・ミッションだと書いたが、一つの発想の源はタゴール国際大学にあるのかもしれない。
タゴールは自ら絵に親しみ、大学には美術学部がある。瞑想と詩作、そして絵を描くことがタゴールの日課だった。その絵を写真で見たが、これが何とも不思議な絵なのだ。あれだけ詩で光を描く人なら印象派のような絵を想像するが、むしろシュールレアリズムのような画風である。言葉にできないものを描いたのだろう。宇宙人の書いた謎の記号のように見える。コスモポリタンとしてのタゴールの宇宙人的発想なのだろう。この大学から宇宙と交信する人が生まれるかもしれない。
・・・星空を見上げて・・・
コスモポリタンと言うといかにも近現代の発想に思えるが、そうではないだろう。宇宙の中の自分を意識し、さらに宇宙とつながった自分を意識したところに自ずと生まれる意識だろう。古くは星空を見上げながらそこに物語をつむいだ神話の時代から始まっていると言っていいと思う。素朴な形ながら自分と宇宙が結びついている。インドではヴェーダの時代からだろう。民族宗教にはその胚胎が見られ、太陽神や宇宙神が語られる。日本の天照大神や天之御中主もそうだろう。宇宙時代になっても通用する神格と言えるだろう。
インドでは神話的世界観から一歩抜け出した形で仏教が始まった。インドの宗教では国外に広まらなかったものが、国境を越えて東アジア全域に広がった。仏陀の意識はインド人という意識をとうに越えていた。そのためインド社会を規制していたカーストからも自由だった。出家者の集団は、家を出ただけではなく、国境も民族からも出ていたのである。浄土教の「四海同胞」も同様で、親鸞の「同朋同行」もコスモポリタンの発想である。
・・・「慈しみ」・・・
若い時代から神秘的体験を経て「ユニティー」の自覚に達していたタゴールが、コスモポリタンの自覚を持つのは当然だった。またその認識を語る『ギーターンジャリ』がインドを越えて西洋の人々にまで認められたのも当然だったのだろう。そのタゴールがインドの宗教家としてまず誰よりも仏陀を敬愛するのは当然だったと言える。仏陀以降で国境を越えた人としてはラーマクリシュナだろう。
仏陀への思いを語るに当たってタゴールがしばしば言及しているのが、これまでもこの連載で取り上げてきたあの言葉である。中村元が愛し、松江の中村元記念館の石碑に刻まれた「慈しみ」である。「一切の生きとし生けるものは幸福であれ安穏であれ安楽であれ 一切の生きとし生けるものは幸であれ 何びとも他人を欺いてはならない たといどこにあっても他人を軽んじてはならない 互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない この慈しみの心づかいをしっかりとたもて」『スッタニパータ』の一節である。
・・・「梵住」・・・
今引用したのは中村元が抄訳したものである。タゴールは『人間の宗教』で仏陀の精神を表すものとしてこれを引用しているが、もう少し広い範囲で引用している。同じくタゴールの書いた『仏陀』ではもう少し範囲を絞って引用している。いずれも仏陀の愛があらゆるもの、全世界に及ぶものとして語られているのは同じである。ただし中村元の訳にない言葉が添えられている。「梵住」である。
「梵住」が出てくるのは 『仏陀』の方の日本語訳で、『人間の宗教』では「ブラフマの中で生きるという」と訳されている。「梵住」は漢訳の言葉である。『スッタニパータ』の中村元訳ではこの部分は「崇高な境地」と訳されているが、この部分は中村元記念館の石碑にはない。「この慈しみの心づかいをしっかりとたもて」の後に「この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。」と続く。
・・・タゴールと中村元・・・
「梵住」と「ブラフマの中で生きるという」と「崇高な境地」がすぐにつながる人はインド学や仏教学を学んだ人だけだろう。原語は同じであり、『スッタニパータ』の中村元の訳註には漢訳で「梵住」とすると書かれている。中村元はタゴールがこの言葉を何度も引用しているのを知っていたはずだ。タゴールについて書いているからである。ただし「梵住」に当たる部分は引用しなかった。
普通の仏教ではインドの古代信仰の「ブラフマン(梵)」を仏陀は越えたと考えるからだろう。タゴールはむしろそこをつなげて考えている。タゴールの時代には仏教はインドから消滅したに近かった。その一つの理由が仏教がブラフマンを否定したかのように思われていたことにあると思ったようである。もう一度仏陀をインドに呼び戻し、その精神をあらためて世界に向けて語りたいと思ったのだろう。「崇高な境地」からの言葉である。
発掘歎異抄186回 宇宙が歌う 2015年4月号
・・・海外へ・・・
『ギーターンジャリ』に代表されるタゴールの宗教的作品が宗教の枠を越え、国境も越えて読めるのはどうしてだろう。普遍的信仰、普遍的宗教がそこにある。仮に私はそれをヨーガのバクティ・ヨーガの精神に一致しているとした。信愛のヨーガであるバクティ・ヨーガはキリスト教にも浄土教にも共通するもので、インドでは国民的古典である『ヴァガヴァッド・ギーター』に描かれ、タゴールの時代ではその精神を蘇らせたラーマクリシュナと弟子のヴィヴェーカーナンダがいた。
ラーマクリシュナが1836年生まれ、ヴィヴェーカーナンダが1863年生まれである。ヴィヴェーカーナンダはタゴールとほぼ同世代である。海外への進出はヴィヴェーカーナンダの方が早かった。1893年にシカゴで開かれた第一回世界宗教会議での演説は普遍宗教について語ったもので大きな評判となった。しかし残念ながら1902年に三十九歳の若さで亡くなってしまった。
・・・目覚め・・・
タゴールの作品に見られる普遍的信仰、普遍的宗教も大きな流れで言えばラーマクリシュナやヴィヴェーカーナンダと同様のものと言えるだろうが、タゴールはラーマクリシュナの教えに学んだのではなく、全く独自で同じ境地に達したと言っていい。タゴールには『わが回想』という自伝があり、また『人間の宗教』という論文がある。そこに『ギーターンジャリ』に表されているような宗教世界に達した経緯が書かれており、そこに書かれている彼自身の経験から『ギーターンジャリ』の世界が生まれたのがよくわかる。
『人間の宗教』には十八歳の時とあるが、実際には二十一歳の頃のことであるようだ。『わが回想』によればそれは街中の家のベランダに立って向かいの敷地の木々を見ていた時に突然起きたという。「太陽がちょうどそれらの木々の葉の茂った梢をぬけて昇りつつあった。私が見つめ続けている間に、突然に私の眼から覆いが落ちたらしく、私は美の波と喜びを四方にあふれさせて、世界が不思議な光輝を浴びているのを見出したのだった。この光輝は一瞬にして私の心の上に積み重なっていた悲哀と意気消沈の壁をつき破って、それをこの普遍的な光で満たしたのである。」
・・・光明・・・
この状態は四日間続いたという。それが過ぎ去った後、街中ではなくヒマラヤに行けばまた経験できるのではないかと考えてヒマラヤに行ったが、もはや同じ状態にはならなかったという。しかしその後も突然同様の意識状態に入ることがあったと書かれている。
この最初の経験によって生まれたのが「滝の目覚め」と題された詩であるという。この詩は長編なので、その代わりに『ギーターンジャリ』の中の詩をあげたい。「(第一連)光明のうちに 光明与へて 来ぬ 光明の光明 わが眼より 黒闇 消えぬ 消えぬ 天の涯 地の極 歓喜と笑に満ちぬ 見渡す限り 押しなべて 善し みな善し (第二連)君が光明 樹の葉に映え 生命を踊らす 君が光明 鳥の巣に照り 歌を醒ます 君が光明 われを愛で この身に来ましぬ この心臓を 浄き御手にて 撫でたまひぬ」(渡辺照宏・訳 ベンガル語版「四十五」)
・・・ユニティー・・・
宗教的経験でもあり、同時に芸術的な根源の美の体験でもある。真実は同時に美なのだということがよくわかる。光一元、善一元、愛一元、美一元の世界である。『人間の宗教』では別の時の同様の体験について「ばらばらで漠然としていた諸事実が、ある意味をもつ一つの大きなユニティーを見いだしたのである。」と述べている。「一如」の世界である。
これらを読めばタゴールの経験していたものが普遍的宗教として表されたことがよくわかる。その彼がコスモポリタンであったのは当然だろう。「一つの大きなユニティー」は存在の真実であり、どこにも切れ目はない。コスモポリタンは世界市民と訳されることが多いが、コスモスは宇宙なので本来は宇宙市民だろう。タゴールの中で宇宙が歌っていた。
・・・一心に帰命・・・
渡辺照宏訳の英語版『ギーターンジャリ』は次の一節で終わる。「故郷を慕い、山間の古巣をめざして夜も昼も飛び続ける鶴の群れのように、ただ一心にあなたに帰命して、私の生命のすべてを挙げて、永遠の故郷に向かって旅立ちたい。」(「百三」)「ただ一心にあなたに帰命して」は四回繰り返される。親鸞の「正信偈」の「帰命無量寿如来」と、「永遠の故郷」への旅立ちという「往生」で終わっている。タゴールの浄土教がここにある。
イギリスからサッカーが日本に伝わり、西の端と東の端の島国が「往還廻向ゲーム」でつながったと書いたが、『ギーターンジャリ』でも東の端と西の端がつながったのを感じる。もちろん親鸞の歓喜の歌が直接イギリスに伝わったのではない。親鸞の歓喜の歌と同じ精神をもった『ギーターンジャリ』が著者自身によって英訳され、イギリスに持ち込まれて高い評価を得たことである。しかもノーベル文学賞受賞という殊勲のゴールを得た。
・・・隠されたメッセージ・・・
親鸞とタゴールがつながるのは何よりもその精神においてだが、実はまた隠されたつながりがある。タゴールはその隠されたメッセージも携えて生まれたのだと思う。タゴールは1861年に生まれ1941年に亡くなった。八十歳の長寿を得た。タゴールが敬愛した釈尊や日本の法然と同じ年齢である。タゴールの生まれた1861年は親鸞六百回忌、法然六百五十回忌の年である。しかも親鸞が1201年に聖徳太子からの夢告を受けて法然に帰依したのと同じ辛酉の年である。
聖徳太子が辛酉のメッセージを用いているのではないかということをこれまで何度も書いた。太子在世中の601年の辛酉の年から1260年遡った紀元前660年が神武紀元の年とされた。1260年は一蔀と言われとりわけ大きな革命の年とされている。1861年は601年から1260年後に当たる。また西暦1201年は神武紀元1861年だった。ここからも1201年と西暦1861年がつながるように見える。私にはこの数字は「十八願は六字(名号)一つ」に見える。
・・・農奴解放・奴隷解放・軍縮平和・・・
1861年には日本では内村鑑三、ヨーロッパではルドルフ・シュタイナーが生まれている。ロシアでは農奴解放令が出され、アメリカでは奴隷解放を目指すリンカーンが大統領に就任した年である。それに反発した南部によって南北戦争が起きた。広島では広島出身の総理大臣でこの次に述べるワシントン軍縮条約を結んだ加藤友三郎が生まれた。
次の辛酉の年が1921年で聖徳太子の千三百年回忌、最澄の千百回忌の年。西本願寺で親鸞の妻の恵信尼の手紙が発見された。史上初の軍縮会議ワシントン会議が開かれ、翌年にワシントン軍縮条約が締結された。次の辛酉の年である1981年は日蓮の七百回忌、明恵の七百五十回忌で、親鸞出家八百年の年だった。タゴールの大規模な著作集が日本で発行され、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世が広島を訪れて「平和アピール」を発した。
・・・人類和合・・・
この巡り合わせを見るとタゴールが親鸞と同様の歌を詠むのは、ある一貫したものを伝えようとしたからだと思える。本願の歌人、詩人である。内村鑑三もルドルフ・シュタイナーも、新たな時代の宗教精神を伝えようとして生まれたかに見える。しかし二十世紀の人類史は彼らの心に背くように進んだ。タゴールはコスモポリタンとしての自覚を強くもっていたので戦争、帝国主義、国家主義に当然反対し、「ナショナリズム」という論文を書いている。今日でも通用する平和論である。
内村鑑三は「非戦論」を書いた。シュタイナーは日本ではシュタイナー教育で有名だが、ゲーテ研究から出発した哲学者、宗教家である。彼もまたコスモポリタンの自覚が強く、当然ながらヒトラーのナチスドイツから敵視された。タゴールはイギリスの帝国主義と、内村鑑三は日本の帝国主義と、シュタイナーはドイツの帝国主義と対峙した。人類和合の本願、天命を全うしようとしたのである。
・・・相聞歌・・・
『ギーターンジャリ』の喜びの歌は「あなた」との「相聞」歌である。ヨーガでのバクティ・ヨーガの世界である。渡辺照宏は訳語に「相聞」を用いている。「わが名残の歌に 相聞みな収めむ― わが歓喜をみな 調べに合はさむ」(ベンガル語版一五七編の内の「一三四」より冒頭部分)「合掌の歌」という題名の意味からして「あなた」は特定の人物ではないのは明らかだが、永遠の愛を歌う詩は恋愛詩としても読むことが可能である。
「君を われ慕いて やまじ わが生命 果つるときまで 新しき生命の世に逝き 新しくわが眼に見む 新しく光明新たに 君との新たの契り 結ばむ 君を われ慕いて やまじ」(ベンガル語版の「一三三」より前半部分)この詩での「君」は愛する人ともとれようし、愛を捧げる命の主である聖なる方ともとれるだろう。「新しき生命の世に逝き」という表現からは浄土や天上界を詠んでいるように思える。浄土教でいう「倶会一処」のように愛する人との再会にも読めるし、聖なる方との「値遇」とも読めるだろう。人との愛でも無常を越えることができるならそれは聖なる愛である。本来は宗教詩で、宗派を越えて読むことができるとともに、恋愛詩としても読めるのが『ギーターンジャリ』の魅力でヨーロッパで高く評価された理由だろう。
・・・障壁を破って・・・
基本的には「あなた」が聖なるものであることは明らかだ。「あなたの音楽の光は世界を照らす。あなたの音楽の命の息吹は空から空へ駆けめぐる。あなたの音楽の聖なる流れは岩の障壁をすべて破って突き進む。(中略)ああ、あなたの音楽の限りない網の目に、あなたは私の心を捕らえてしまった、お師匠さま。」(英語語版百三編の内の「三」より)
こうなるとこの「お師匠さま」はもはや人間ではなく、恋人では無理だろう。「障壁をすべて破って突き進む」という表現は浄土教で言う「無礙」のことだろう。「無礙光」や「正覚大音響流十方」と同様の表現である。
・・・もっとも貧しい者へ・・・
聖なるものの音や光は世界に充ち満ちているのだが、我々が自身を省みるときとてもそのような栄光を受けるに値しない者であることを感じる。またそれを感じれば感じるほど、かたじけなくもより強く確かな救いを実感する。すなわち「悪人正機」である。「あなたの足台はそこにある。もっとも貧しくもっとも卑しい破滅者の住む所、そこにあなたは足を休める。」(英語語版「十」より冒頭部分)
聖書の「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」(マタイ伝)や「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。」(同)に通じる。インドでは貧富の差が激しい。マザー・テレサがインドに向かったのもそのためだろう。晩年のタゴールは仏陀への共感を述べるようになるが、インドで公にカースト制を否定したのは仏教である。『無量寿経』の「重誓偈」では「普済諸貧苦」と誓われている。この「貧苦」は「こころの貧しさ」とともにインドの現実を直視した言葉だろうと思う。
・・・とらわれ人・・・
また次の詩はどうだろう。「『囚人よ、この頑丈な鎖をいったい誰がこしらえたのか』『私がこしらえた』と囚人は言った。『この鎖を念入りにこしらえた。誰にも負けない私の力で世界を奴隷にし、自分だけは勝手気儘でいられるつもりだった。そこで夜も昼もどんどん火をおこし、遠慮会釈なく鎖を鍛えた。ついに仕事が済んで鎖の環がぜんぶ頑丈に仕上がったとき、気がついて見ると縛られたのは私だった。』」(英語語版「三十一」より)
『観無量寿経』に説くイダイケ夫人と同じ「囚人」である。この囚われは自分自身で作りだした自縄自縛の世界である。「誰にも負けない私の力で」でとあるように「自力」の世界である。もちろんこれで終わりではない。「あなた」にとらわれることによって逆転する。自分にとらわれるとき囚人となり、あなたにとらわれるとき解放される。あなたが全てとなる。そこに「悪人正機」が成就する。
・・・詩聖タゴール・・・
「正信偈」は親鸞が阿弥陀仏によって救われた「歓喜の歌」だと書いた。「歓喜の歌」と言うとベートベンの第九交響曲に合唱として付けられたシラーの「歓喜に寄せて」が有名だが、私が「歓喜の歌」としてあげたいものが他にもある。タゴールの詩集『ギーターンジャリ』である。タゴールはインドの詩聖として知られ、ノーベル賞をアジア人で初めて受賞した。タゴールはノーベル文学賞を受賞したが、アジア人で彼の次にノーベル文学賞を受賞したのは日本人の川端康成である。この間、五十五年あいている。アジア人のノーベル文学賞受賞の難しさがよくわかる。
タゴールが活躍した十九世紀から二十世紀前半のインドはイギリスの植民地だった。植民地支配下のインドからの受賞という点でも画期的な出来事だった。タゴールはイギリスに留学しており、英語が堪能だったので、ベンガル語で書いた『ギーターンジャリ』を自ら英訳した。それがイギリスの知人の間で評判となり、詩人イェイツの推薦よって出版され、ノーベル文学賞の受賞となった。
・・・植民地で歌う・・・
タゴール自ら英訳し、英語で読むことができたという点がイギリスでの評価の上では有利だったことは間違いない。ただしその内容がどうしてそれだけ受け入れられたのか、不思議な気もする。『ギーターンジャリ』は「合掌の歌」と訳されるように内容的に宗教詩である。タゴールはインドのバラモンの家系に生まれており、父は宗教家だった。インドの宗教に基づいて歌われた宗教詩が、英語で書かれているとはいえ、すぐにイギリス人に理解され、評判となったのが不思議なのだ。
タゴールの著作は非常に多く、詩だけでなく、小説、戯曲、宗教、哲学、評論と精神文化のゼネラリストと言べき人である。文化系での万能の天才と言っていい。たとえばその小説を読むと、イギリス支配下のインドでのイギリス人の傲慢な振る舞いが多く書かれている。インドにいるほとんどのイギリス人はインドの宗教や文化を評価していたとは思えない。本国のイギリス人も同様だろう。世界宗教であるキリスト教があるからだろう。
・・・それぞれの信仰で・・・
そのような中で『ギーターンジャリ』が評価されたのは、キリスト教の信仰にも通用するものが描かれていたからだろうと思う。インド人がインドの宗教に基づく信仰で読めるのは当然だが、ヨーロッパ人がキリスト教の信仰に基づいて読んでも共感できる内容だったのだと思う。それと同様に浄土教的にも充分読める内容なのである。しかも親鸞の「正信偈」や『和讃』にあるような慚愧と歓喜がいたるところに書かれている。日本で発行されたタゴール生誕百周年記念誌に『ギーターンジャリ』に最も近いのは親鸞の『和讃』だと書かれているが、私も同感である。
『ギーターンジャリ』はまずベンガル語で書かれ、その後タゴール自身によって英訳された。日本ではベンガル語版から日本語に訳されたものと、英語版から日本語に訳されたものがある。岩波文庫での渡辺照宏・訳の『ギーターンジャリ』は両版を納めている。
・・・注ぎ続け、歌い続け・・・
ここでは英語版からの翻訳を少しあげてみよう。「あなたの手の不死の感触に、私の小さな心臓は喜びのあまりに限度を失い、言いようのない言葉を叫ぶ。あなたの限りない賜物を、私はこのちっぽけな自分の手で受けるほかはない。多くの世代が過ぎ去ったが、あなたはまだ注ぎつづけ、まだ注ぎきれないのだ。」(全百三編の内の「一」より部分)
「あなた」と訳されているものは各自の信仰に合わせて受け取ることができるはずである。インドの神々でも、キリスト教の神や救世主でも、あるいは阿弥陀仏でも、心情的に慕わしい尊格なら違和感はないはずである。他の言葉も浄土教で言えば 「不死」は「無量寿」、「いいようのない」は「不可称、不可説」だろう。「注ぎつづけ」られているものを受け取った人は同じように喜びの歌を歌い続ける。時代を越え、国境を越えて。
・・・本願の喜びの歌・・・
「正信偈」には喜びを表す言葉が多い。「清浄歓喜智慧光」、「能発一念喜愛心」、「獲信見敬慶喜」、「証歓喜地生安楽」、「慶喜一念相応後」などである。「正信偈」は「歓喜の歌」と言ってもいい。阿弥陀仏の本願によって救われた喜びの歌である。「正信偈」(「正信念仏偈」)は『教行信証』の「行巻」の最後に置かれていて、「行巻」の締めくくりのようになっているが、内容的には『教行信証』全体の要約と言ってもいいものである。
真宗の勤行で「正信偈」のお勤めがされるようになったのは蓮如からと言われている。蓮如が「正信偈」を開版し、真宗門徒に広まった。おそらく日本人が書いた仏教典籍としては「正信偈」がベストセラーだろうと思う。仏教典籍としては『般若心経』が最もよく読まれ普及したものだろうが、これは中国で漢訳されたものなので、日本人が書いたものではない。日本人が書いた仏教典籍としてはおそらく「正信偈」がこれまで最もよく読まれたものだろう。読まれたと言ったが、「偈」とは歌のことであり、「正信偈」は歌なのである。それも合唱を念頭に置いて書かれている。蓮如は親鸞のその意図を汲んでこれを真宗門徒の勤行にしたと思われる。
・・・合唱・・・
親鸞七百五十回忌の法要ではこの「正信偈」の合唱による音楽法要が行われた。これも「正信偈」が元来歌であり、合唱するものであるという意図を活かしたものである。『教行信証』は六巻からなるが、当初の構想ではおそらく「教」「行」「信」「証」の四巻から成るものだっと思われる。『教行信証』の略説版に『浄土文類聚鈔』があり、その構成は内容的に「教」「行」「信」「証」であり、そこに「正信念仏偈」と同じ分量で、ほぼ同内容の「念仏正信偈」が付いているからである。
『教行信証』の四巻に「正信偈」が合唱として付くという形は、ベートーベンの第九交響曲に合唱が付いているのとよく似ていると思う。その合唱は「歓喜の歌」と言われている。これはシラーの「歓喜に寄せて」という詩にベートーベンが曲を付けたものである。
・・・霊感・・・
シラーの詩は内容的にはキリスト教的世界観を背景にしていると言っていいだろうが、「歓喜よ、神々の麗しき霊感よ」と歌い始めており、基本的には彼の芸術家としての「霊感」(インスピレーション)に基づいて書かれたものだろう。そこに至るまでの流れを考えると、イタリアでルネサンスが起こりヨーロッパ全土に波及し、ドイツではルターの宗教改革が起こった。ルターが聖書のドイツ語訳をしたことにより、聖書は万民のものになった。シラーのような芸術家が神の愛と人類愛を歌い上げる下地ができたのである。
ベートーベンの音楽は構成ががっしりとしていてドイツの体系的な哲学の構成を思わせる。興味深いのはベートーベンと哲学者のヘーゲルが同じ年1770年に生まれていることである。ヘーゲルの「正・反・合」という三段階の弁証法は有名だが同様の発想は親鸞の『教行信証』において「三願転入」として表されている。「正信偈」という合唱付きの『教行信証』はヘーゲル哲学とベートーベンの「歓喜の歌」を内包して五百年以上も前に書かれた。シラーの言う「神々の霊感」の中に親鸞の霊感も入っていたように思われる。
・・・ヒロシマの第九・・・
ベートーベンが十二月生まれだったせいか第九交響曲は年末に演奏されることが多い。今年もその季節になった。私はある時ラジオドキュメント番組でこの曲にまつわる秘話を聞いたことがある。広島の原爆投下の翌年1946年の大晦日、広島のある音楽喫茶店で闇市で米と交換してやっとのことで手に入れた第九のレコードコンサートが催された。
噂を聞きつけた市民が店に押し寄せ、入りきれない客は外で耳を澄ませたという。いつしか雪が降り始めたが誰一人として立ち去る人はいなかった。そのレコードが流されたとき私は念仏が止まらなかった。その念仏も「歓喜の歌」だった。親鸞も一緒に歌っていた。
・・・カシマサッカースタジアム・・・
鹿島灘を左手に見ながら走る時間が続いた後、鹿島神宮に近づくと、その手前に巨大なスタジアムが現れる。私は鹿島を二度訪れているが、以前訪れた時にはまだこのスタジアムはなかった。鹿島アントラーズのホームグランドであるカシマサッカースタジアムである。県立のスタジアムだということだ。鹿島アントラーズの「アントラー」は英語で鹿の角を表すそうである。鹿島神宮の神使で、神苑に飼われている鹿に由来するようだ。
元来、鹿島の神は香取の神と並んで武道の神として知られ、柔道や剣道などの武道の道場で掛け軸として掛けられているのをよく見る。近代になって入ったサッカーの神まで引き受けてもらえるのかどうかわからない。しかし確かにサッカーのJリーグの発足以来、鹿島アントラーズは強い。三連覇を成し遂げているのは鹿島アントラーズだけである。広島のサンフレッチェ広島は2012年と2013年の二連覇を達成して広島県民を喜ばせたが、鹿島アントラーズは手強い相手である。
・・・タイムスリップ・・・
初めて見るカシマサッカースタジアムの偉容に圧倒されながら、時間があれば中を見学したかったが、鹿島神宮に向かった。親鸞の時代と鹿島灘沿いの道はそう変わっていないと思うが、当然このスタジアムは当時ない。もし親鸞が現代にタイムスリップしてこのスタジアムでサッカーの試合を見たらどうだろうか。もちろん地元の鹿島アントラーズを応援するだろう。サッカーのルールはゴールにボールを入れればよいという単純なものなのですぐに理解できるはずで問題ないだろう。
親鸞の当時に似たゲームとしては蹴鞠があった。ボールを蹴るという点では同じである。中国由来のものなので、サッカーの起源の一つとして蹴鞠を上げる場合がある。日本での蹴鞠はチームで行いどれだけ長く地面に落とさず続けられるかを競うのが普通で優雅な遊びだった。鞠は鹿の皮を用いたそうで、その点では鹿島に関係あるかもしれない。鹿島神宮でも蹴鞠は行われただろう。親鸞が出家前に蹴鞠をしたことがあるかどうかはわからないが蹴鞠のことを知ってはいただろう。
・・・世界の端と端・・・
サッカーの由来を親鸞が聞けば、インドのさらに西にヨーロッパがあり、その西の端の島国であるイギリスから渡来した競技だと聞いて驚くのではなかろうか。「正信偈」に「インド西天」とあるようにインドから西は未知の国だった。インドから東の端の島国である日本に仏教が伝来するだけでも大変なのに、さらに西の端の国から伝来し、しかも日本の東の端まで伝わり、しかもそのチームが強豪であると聞けば、胸躍るものがあるだろう。
東の端の鹿島に鹿島神宮、利根川の対岸に香取神宮があることは、これ自体注目すべきことである。日本の歴史の非常に早い段階からこの地域が注目されていたのである。親鸞は常陸に住んだが、後に日蓮は最晩年になり、なぜか甲斐の身延山から常陸を目指す。体調が悪化し、常陸の湯に湯治に向かったと言われている。この常陸の湯がどこなのか諸説ありよくわからない。そもそも常陸には温泉は少なく途中にいくらでも温泉がある。日蓮も常陸に引かれるものがあったのではないか。残念ながら願いはかなわず途中の武蔵の池上で亡くなった。池上本門寺のある地である。
・・・十一と二十二・・・
この競技により世界の西の端と東の端が結ばれたということとともに、一チームの人数が十一人で両チーム合わせて二十二人という数字にも驚くのではないかと思う。「正信偈」に言う「必至滅度願成就」の「必至滅度の願」は十一願である。この願により我々が浄土に往生して成仏する「往相廻向」が成就する。
往生すれば今度は浄土からの「還相廻向」がある。この「還相廻向の願」が二十二願である。「正信偈」の「往還廻向由他力」の 「往還廻向」の二つの願の数字である。競技は二つのゴールの間をボールが行き来する。まるで「往還廻向」ゲームである。親鸞にはゴールが門に見えたのではあるまいか。
・・・常の益・・・
『無量寿経』に説く阿弥陀仏の光明の性質を表す「十二光」の中に「不断光」があり、「正信偈」にも書かれている。たえない光である。「正信偈」には「常」を用いて「摂取心光常照護」(摂取の心光、常に照護したまふ)、「大悲無倦常照我」(大悲倦きことなくして常に我を照らしたまふといへり)と書かれている。さらにこれを受けていると思われるのが、『教行信証』「信巻」の「現生十益」の一つである「心光常護の益」である。
「現生十益」で「常」という字が入るのは他に「常行大悲の益」がある。しかし他の益もほとんどに「常」を入れようと思えば入れられそうである。というのは 「現生十益」の十番目が「正定聚に入る益」というこの世ですでに往生が定まる身になる益であり、これ以前の九の益は、「正定聚に入る益」の内容と言える。正しく定まっているのだから揺らぐことなく常に成り立つと言える。禅で言えば「不動心」の確立に当たるだろう。
・・・常に護られ称えられ・・・
「現生十益」で「常」を入れて考えるとわかりやすいのは「諸仏護念の益」と「冥衆護持の益」だろう。いずれも「心光常護の益」と同じ「護」が入っている。「心光常護の益」は阿弥陀仏の光に常に照らされ護られていることを表す。その周囲に諸仏の「護念」とさらに「冥衆」という諸天善神の「護持」がある。いずれも常に護っているという点は同じである。阿弥陀仏と諸仏と冥衆と並べばこの世から浄土まで当時の全宗教の神仏に護られていることになり、完璧な守護になるだろう。
「心光常護の益」の延長線上に「諸仏護念の益」と「冥衆護持の益」をおいてまとめて守護の益にできる。これは念仏者が受ける利益である。また念仏者が受ける利益としてはこれも「諸仏護念の益」の延長上に考えられる「諸仏称讃の益」がある。これも「常」を付けて常に諸仏に褒め称えられることとしてもいいはずである。念仏者は常に諸仏から褒め称えられつつ守護されていることになる。
・・・能所一体・・・
これに対し念仏者自身の行いとして「常」が入るものに「常行大悲の益」がある。無常の世界に生きる我々がはじめから常に大悲を行ずるのはとうてい不可能で、「摂取心光常照護」や「大悲無倦常照我」という常に如来の大悲の光に照らされているからこそ可能になることであろう。如来の「常行大悲」を我々が授かり、能動が受動に、受動が能動になる能所一体の「常行大悲」である。「正定聚」は弥勒菩薩と同じ位と言われる。我々にも浄土に向けての往相の菩薩行が可能になる。
親鸞が「常行大悲の益」を「現生十益」に入れるときに、脳裏に比叡山での「常行三昧」のことが浮かばなかっただろうか。天台の「四種三昧」に「常」の付く「常坐三昧」という坐禅をし続ける行と、「常行三昧」という阿弥陀仏の周りを念仏しながら巡り続けるという行がある。いずれも正式には九十日間続ける難行である。そうでもしなければ我々が無常の世界を越えて常住の世界を知ることはできないと考えられたのだろう。現在の比叡山にもこの「常行三昧」をする常行堂がある。
・・・「常照」「常称」「常行」・・・
親鸞は比叡山で「堂僧」をつとめていたと妻の恵信尼の手紙にある。常行堂の堂僧だろうと言われている。親鸞も「常行三昧」に挑戦したはずだが、おそらく結果は芳しいものではなかったはずである。期日を満たしたとしてもそこで阿弥陀仏の姿を間近に見なければ本当に満行したとはされないからだ。
これが比叡山を下りた一つのきっかけだったのかもしれない。しかし法然に出会ったことにより九十日どころか常に念仏する身となった。「正信偈」に言う「唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」(ただよく常に如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべしといへり)である。如来の「常照」が我々の「常称」となり「常行」となる。その姿はそのまま如来の大悲を伝える菩薩行である。鹿島灘に沿った道を念仏しながら進むとき菩薩行の果てしなさがよくわかる。親鸞も歩いた道である。
・・・二つの常・・・
「正信念仏偈」で「常」の字がキーワードの一つになっていることを述べた。「法性の常楽」、「摂取心光常照護(摂取の心光、常に照護したまふ)」、「大悲無倦常照我(大悲、倦きことなくして常に我を照らしたまふといへり)」では浄土と如来のあり方として「常」が使われる。これが本来の「常」であろう。これに対して人間とこの世は移り変わる世界であり、「無常」である。しかし別の言い方をすれば、「常」に「無常」であるとも言える。「無常」が法であるのはそれが常に成立するからである。常に「常」である浄土と如来に対して、常に「無常」である世界の二つとも含んで、仏法として常であることが成立している。両者に常を使うのは矛盾するようで紛らわしいと批判もあるだろう。
「矛盾」とは「何でも突き通すという矛」と「何も突き通さないという盾」とが同時には存在しないということで、これは同じ次元での話である。常識的に考えれば、「何も突き通さないという盾」の方が作り易いだろう。盾の厚みを増せばいいからである。ただし持ち運べなければならないから当然厚みの限界はある。「何でも突き通すという矛」は鋭さと強度の両立という問題があり、これ自体に矛盾が生じる。鋭くすれば強度が劣り、強くすれば鋭さが劣る。鋭い日本刀と強い青竜刀の違いとして見ればわかりやすいだろう。
・・・「歓喜」・・・
これをもう一度浄土教に戻って考えると、「摂取心光常照護」の如来の光明は「無礙光」とも言われる「何でも突き通す」光である。これが常の光である。一方我々は「貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天(貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆へり)」であり、常に煩悩にさいなまれる存在である。すなわち「何も突き通さない」煩悩に覆われている。これが「無明」である。同じ次元では二つの常は当然矛盾する。「何も突き通さない盾」の方が現実的であり、それが我々の現実に思える。親鸞も自分の現実をよく見ている。
その一方で浄土や如来から来る「何でも突き通す」光をも見ているのである。これは信心を得ての実感であり、そこに救いの世界がある。「正信念仏偈」は「歓喜の歌」と言ってもいいほど「歓喜」が歌われている。これは光が通っている証しと言っていいだろう。
・・「無辺と無辺」「海と海」・・・
こうした矛盾するような表現は「正信念仏偈」のいたるところにある。如来の「無辺光」と我々の「無辺極濁悪」、如来の「弥陀本願海」に対して我々の「五濁悪時群生海」である。如来と我々の双方に同じ言葉を使い最大限の表現をとるので最大限と最大限とがぶつかるようで矛盾するように見えてもしかたない。しかし如来の方が次元が上なので次元の下の方は必ず摂取される。たとえば一次元の線は長さにおいて無限だが、二次元の面は広がりにおいて無限であり、一次元は必ず二次元に含まれる。宗教的に言えばこれが救いである。勝負ははじめからついているのである。
越後の日本海や常陸の東海は親鸞が見た海として「本願海」や「群生海」という譬喩(比喩)のもとになったものだろう。夕日や朝日に光る海と荒れ狂う海。同じ海が時として全く違った表情を見せる。これは海に限らず日本の自然全体に言えることである。そしてどうあがいても人は自然にはかなわない。人間対自然の勝負ははじめからついている。
・・・一人相撲・・・
相撲は現在の興行としての相撲の前は神事だった。鹿島神宮でも奉納相撲が行われているそうである。神社によってはその神事としての相撲に一人相撲がある。人と神が相撲を取り人が最後に負けるという神事である。
現在でも関取の名に海がつくことがあるが、「本願海」と「群生海」の関係を相撲に喩えればどうなるだろう。両者がっぷり四つに組んでの接戦だろうか。人間の世界ではそうである。しかしこの勝負ははじめからついている。「本願海」は実は土俵であり、「群生海」はそこで一人相撲を取っている。これが自力の姿である。鹿島灘は果てしない。
発掘歎異抄178回 「常土」 2014年8月号
・・・越えた後に・・・
越後から常陸への親鸞の歩みは、この世を越えて常楽の国である浄土への歩みと重なって見える。越後時代の親鸞は、流罪にあった当初はその地を「越えた後」の世界とは思えなかっただろう。冬の厳しい自然や流罪者としての生活を思えば当然のことだろう。しかしこの地で結ばれたかどうかはわからないが、恵信尼との結婚生活を営みながら「非僧非俗」の身として新たな生き方を始め、さらに法然の『選択本願念仏集』の研鑽を進めるうちに、自らを突き動かす本願の働きの自覚がよりいっそう深まっていったのだろう。
その時に越後の地にとどまって布教するという道もあったに違いないが、本願を、さらに東の果てである常陸を中心にした東国に伝えたいという思いが募ったのだろう。それ自体が親鸞を動かす本願の働きだったはずだ。
・・・「常陸」・・・
その時に「常陸」という地名はここも浄土、仏国土として響いたのではあるまいか。後に常陸で『教行信証』の撰述を始めた時に「常陸」にいて「常」の世界を語るという思いがあったのだろうと思う。『教行信証』の「行巻」のしめくくりとなっている「正信念仏偈」のキーワードの一つが「常」の字である。
「常陸」の地名は日本の古代信仰で語る常楽の世界である「常世」を連想させる。「常世」は高天原と並んで古代日本人の一種の浄土だったと言えるだろう。高天原がどちらかというと神々の世界で一般人には遠い世界であったのに対し、「常世」は誰でもが行くことのできる理想郷だったようだ。この世と隔絶した世界ではなくこの世とつながった世界として海の彼方にある世界と考えられていたようだ。常世は神々にとっても重要な世界であり、日本の重要な神社は海辺にあるものが多い。伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮、宇佐神宮、出雲大社、住吉大社などがそうである。
・・・「常世」・・・
実際に「常陸」の国が常世に近い国と考えられたのは、朝日の昇る東海に臨むという地形だけではなく、その国土の豊かさという点もあったようだ。『常陸国風土記』では、「水陸の府蔵(くら)」と呼ばれ、「物産(くにつもの)」が豊かなので、「古の人、常世の国といへるは、蓋し疑ふらくは此の地(くに)ならむか」と述べている。これより前には労力を尽くす者にとっては「たちどころに富豊(とみ)を取るべく、自然(おのづから)に貧窮(まづしき)を免るべし」とも述べる。
親鸞がいた時代に常陸がどれほど豊かだったかはわからないが、京都に帰った親鸞の生活を支えたのは東国の人々の懇志だった。越後に帰った恵信の手紙に越後での生活の厳しさが語られているのとは対照的だろう。
・・・「常の世」と「世の常」・・・
「正信念仏偈」で「常」の字が浄土につながるものとして使われているのは「法性の常楽」の部分だろう。浄土が「常楽」の世界であることをよく表している。また阿弥陀仏の光明が常に我々を照らしている「常照」は「摂取心光常照護(摂取の心光、常に照護したまふ)」と「大悲無倦常照我(大悲、倦きことなくして常に我を照らしたまふといへり)」の部分に語られている。浄土の光はこうして常に我々のところに届いているのである。
親鸞がこれらの「常」の字を使うとき、自分もまた「常陸」という仏国土にいるという気持ちで書いていたと言えないだろうか。浄土が「常土」としてその光を常に我々に与え、さらにその光を常に浴びる者は「唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩(ただよく常に如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべしといへり)」となる。これは太陽を浴び、天地の恵みに感謝して生きる人々の姿に重なる。豊かな恵みと感謝という発想を受け入れやすい土地柄だったと言えるだろう。ただし雲や霧が出る日も当然ながらある。「貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天(貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆へり)」。それが人の常であり、世の常でもある。しかし同じ「常」でも次元が違う。「常照」の無礙光に照らされていれば、そこはすでに「常土」である。
・・・鹿島神宮・・・
古来常陸国で最も有力な神社は鹿島神宮だった。鹿島神宮は利根川をはさんで対岸にある香取神宮とともに東国の要とも言える神社だった。鹿島神宮が常陸国一宮、香取神宮が上総国一宮である。利根川をはさむ関係で必ずしも国の中心にあるとは言えない。茨城県では初詣の人数では笠間稲荷が最も多いそうである。これは社格の関係よりも多分に所在地の位置が関係していると思われる。水戸市から太平洋の鹿島灘を眺めながら鹿島に向かうとその延々と続く海岸と道を経験する。
親鸞ははたして鹿島まで行ったのだろうかという疑問が湧くが、鹿島門徒がいるので間違いなく鹿島までは行ったはずである。さらに対岸の上総まではどうだったかというと、行った可能性は高いだろう。鹿島灘を車で走ると、この延々と続く海岸線は越後の日本海の海岸線とよく似ていると感じる。また利根川をはさんで向かい合っている二つの古社の存在が「二河白道」の比喩の西岸の阿弥陀如来と東岸の釈迦如来の関係とよく似ている。
・・・二社一具・・・
親鸞の当時は渡るとすれば舟しかなかっただろうが、現在では長い橋がかかっていて、ますます「二河白道」の比喩の構図とよく似ているのを感じる。この二社はいろいろな意味で相関があり二社一具と言ってもいい関係にある。ともに藤原氏の氏神として奈良の春日大社に勧請され、春日大社では第一殿に鹿島神、第二殿に香取神が祀られている。
おもしろいのは地震に関しても両社が協力関係にあることだ。地震を抑える要石と言われるものが両社にある。鹿島神宮は凹型で香取神宮は凸型で、対照的である。あるいは鹿島神宮の石は地震を引き起こす大鯰の頭を押さえているといい、香取神宮の石は尾を押さえていると言われる。また両者は両岸の地下でつながっているとも言われている。両社の重要性と関係の深さを示す逸話だろう。
・・・中臣氏・・・
春日大社に鹿島神と香取神を勧請したのは藤原氏の祖である中臣鎌足の子の藤原不比等である。和銅三年(710年)のことで、おもしろいことに翌年和銅四年が伏見稲荷鎮座の年である。中臣鎌足の出身は大和国とするのが普通だが、鹿島神宮の出身だとする説もある。鹿島神宮の祭祀を司っていたのは中臣氏である。中臣鎌足を主神とする奈良の多武峰にある談山神社にもその伝説が残っているので、何らかの根拠があるのかもしれない。
この中臣氏の古さと関係すると思われるのが、鹿島神宮がその創建を神武天皇元年としていることだ。紀元前660年のことである。この年も辛酉の年である。これは聖徳太子の時代の推古天皇九年(601年)の辛酉の年から1260年さかのぼった年である。辛酉革命では干支一巡の60年を一元として、それを21倍した一蔀1260年にさらに大きな革命があるとする。それに基づき神武紀元が定められたとする説がある。さらにそれに基づいて中臣氏の祭祀する鹿島神宮の創建年も定められたのだろう。笠間稲荷が辛酉の年に創建されたとするのも常陸で最古の鹿島神宮の創建と関係しているのだろうと思われる。
・・・『御伝抄』・・・
真宗門徒は報恩講で親鸞の伝記『御伝抄』の冒頭「それ聖人(親鸞)の俗姓は藤原氏、天児屋根尊二十一世の苗裔、大織冠[鎌子内大臣]の玄孫、〜」で始まる一節を何度も聞いているだろう。「鎌子内大臣」が中臣鎌足である。神代の「天児屋根尊」が中臣氏の祖である。藤原氏の一族である親鸞にとって鹿島神宮は神代からつながりがある。
『御伝抄』を書いた覚如がこの冒頭を書いたのは多分に権威付けの意図があったと思われるが、鹿島神宮に参った親鸞の頭に祖先のことが全くなかっとも言えないだろう。始祖の地に導かれさらにそこから新たな教えを説く不思議である。鹿島神宮の鹿園のそばに旧蹟を示す碑がある。ここの神宮寺で一切経を読んだと言われている。この東国の果てから親鸞の西に向かう新たな歩みが始まった。信心が此岸と彼岸の両岸に通じる要石だった。
・・・笠間稲荷・・・
笠間市稲田の稲田神社は親鸞が稲田草庵にいた鎌倉時代には稲田草庵を含むほど境内も広く、この土地の最も有力な神社だったと思われる。また笠間市で有名な神社には笠間稲荷神社がある。江戸時代には笠間藩の帰依を受けて栄えていた。笠間稲荷神社の創建は社伝では白雉二年(661年)とされている。661年は聖徳太子の時代の少し後で、聖徳太子の時代の辛酉の年である推古天皇九年(601年)からちょうど六十年後に当たる。
推古天皇九年の(601年)は斑鳩宮の創建の年に当たり、聖徳太子にとっては記念すべき年だったはずだ。親鸞が聖徳太子から夢告を受けて法然の弟子となった建仁元年(1201年)も辛酉の年である。古来東洋で言われる辛酉革命の年で、聖徳太子はこの年を選んで親鸞にメッセージを与えたのだろうと私は思っている。そのことはこの連載でこれまでに何度かふれきた。笠間稲荷神社も同じく辛酉の年に創建されたという。
・・・三大稲荷・・・
笠間稲荷神社は日本三大稲荷の一つとされている。日本三大稲荷は神社によってその説が違うが、有力なのは「伏見稲荷、笠間稲荷、祐徳稲荷」の三社か、「伏見稲荷、豊川稲荷、最上稲荷」の三者だろう。「伏見稲荷、笠間稲荷、祐徳稲荷」を三社としたのは言うまでもなくいずれも神社だからだが、「伏見稲荷、豊川稲荷、最上稲荷」を三者としたのは、伏見稲荷が神社で、豊川稲荷と最上稲荷は仏教寺院だからである。豊川稲荷は曹洞宗、最上稲荷は日蓮宗である。すなわち鎌倉仏教の寺院である。神社とは比較的縁が薄いと思われる鎌倉仏教の寺院が三大稲荷の内の二つになっているという興味深い組み合わせである。これは仏教の守護神である荼枳尼天(だきにてん)が稲荷神と習合したものと言われている。荼枳尼天は白狐に乗った姿で描かれることから、同じく狐を神使とする稲荷神との関連が生じて習合したのだろうと言われる。
「伏見稲荷、笠間稲荷、祐徳稲荷」の三社の場合は、比較的わかりやすい。京都の伏見稲荷を中心に東の端の笠間稲荷と西の端と言っていい佐賀県の祐徳稲荷の組合わせである。これは多分に東西軸を意識して、稲荷神の徳が日本全土に及んでいることを表そうとしたのだろう。普通に考えれば稲荷神社の総本社は京都の伏見稲荷なので、東西の各稲荷も京都からの勧請と考えられそうだ。
・・・秦氏の寺社・・・
ところが笠間稲荷神社の創建が白雉二年(661年)であるなら、京都の伏見稲荷よりもこちらの方が古いのである。伏見稲荷の社伝によれば伏見稲荷は秦氏によって和銅四年(711年)に鎮座したと言われている。秦氏と言えば聖徳太子に協力した渡来系の氏族として有名である。弥勒菩薩半跏思惟像で有名な太秦の広隆寺がその氏寺である。
広隆寺の前身は蜂岡寺と言われ、推古天皇十一年(603年)に秦河勝が聖徳太子からいただいた仏像を拝むために建てたという寺である。渡来系の氏族としては先に海外から来た仏像を祀るための寺を建て、それから約一世紀たって土地の神である稲荷神を祀ったというのはわかりやすい話である。氏寺と氏神のような関係にあったことになる。普通は氏神が先で氏寺が後になるが、渡来系ではこの順序が逆になってもおかしくないだろう。
・・・本家はどこ・・・
八世紀の和銅年間の創建の伏見稲荷から各地に勧請されて伏見稲荷は全国約三万社あると言われる稲荷神社の本社とされている。三万社と言うが屋敷の中の祠のような稲荷まで含めると無数と言っていいほどである。渡来系の氏族である秦氏の隠れた功績だろう。
常陸の笠間稲荷が京都の伏見稲荷よりも古いとすればひょっとしてこちらが本社なのだろうか。それはよくわからないが常陸の鹿島神が奈良の春日大社に勧請されたことを思えば可能性は皆無ではない。笠間稲荷の白雉二年(661年)創建伝承は聖徳太子の重視した辛酉と関係あるのだろう。親鸞の東国行きにも聖徳太子の導きがあったように思える。
・・・浄土の東西軸・・・
出雲大社常陸分社で出雲、諏訪、常陸を結ぶ線がこの分社が建てられた縁起と聞いてその構想の壮大さに驚くとともに、ここにも東西軸が活きているのを知って感心した。浄土教はそもそも西方浄土というように東西軸をもった宗教である。親鸞が京都から越後に流され、流罪が解けた後に常陸に赴いた理由の一つに、西方浄土から日本の東端である常陸までの東西を一つに結ぶことで、全世界に本願を伝えようとしたことがあるように思う。
稲田での稲田神社と西念寺との関係によく似たものに、博多の櫛田神社と万行寺の関係がある。櫛田神社は全国にあるが、クシナダヒメを祀るのが普通である。出雲神話の八岐大蛇退治の話では、スサノオはクシナダヒメを櫛の姿に変えて頭にさして大蛇と戦ったとされている。ここから「櫛」の名が出る。これと「奇し(くし)」が合わさった神名である。『古事記』では「櫛名田比売」、『日本書紀』では「奇稲田姫」と記している。
・・・銀杏も縁・・・
博多の櫛田神社では拝殿の正面に「櫛田神社」の額を掲げ、向かって左に「須賀大神」、右に「天照大神」の額を掲げる。「須賀大神」はスサノオのことである。これはスサノオが大蛇を退治してクシナダヒメを娶り、出雲国の須賀の地で「吾此地に来て、我が御心すがすがし」と言ったことに由来する。この配列からすれば博多の櫛田神社の祭神にクシナダヒメが入っていると考えるのがふさわしいと思う。神社では伊勢松坂の櫛田神社から櫛田大神を勧請したとしているが、私のようにクシナダヒメを祭神と考える説もあるようだ。
博多の櫛田神社と万行寺は非常に近く、万行寺の正面の道を少し行くと櫛田神社になる。境内は墓地を含めれば万行寺の方がはるかに広い。櫛田神社のシンボルが通りに面している樹齢千年と言われる大銀杏だが、万行寺にも大銀杏がある。西本願寺の境内にも大銀杏があり、銀杏の葉が本願寺出版社のマークとして使われている。稲田の西念寺にも親鸞聖人お手植えと言われる大銀杏がある。
・・・ヒメとヒコ・・・
出雲大社常陸分社の縁起で出雲から諏訪を結ぶ東西軸の話を聞いて頭に浮かんだのが、常陸の稲田、京都、筑前博多の万行寺を結ぶ線である。日本列島を東から西まで貫いている。親鸞の人生としては常陸の稲田を立教開宗の地とすれば、稲田から京都までの線になるが、これがさらに後世の伝道により九州まで延長されることになる。クシナダヒメはその名の通り農耕神なので農耕社会においては寺とともにあってもおかしくない。真宗の守護神の役目を果たしてもらってきたようだ。
妻のクシナダヒメと夫のスサノオの関係は、親鸞の妻である恵信尼と親鸞との関係と似ていると言えるだろう。また銀杏は雌雄異株の植物であり、夫婦そろって一対になる植物として妻帯した親鸞にふさわしい植物と言えるだろう。この男女一対の関係は日本古来の「ヒメ・ヒコ」制が形を変えて受け継がれたものと言えるだろう。「ヒメ」は「日女」、「ヒコ」は「日子」に由来すると言われる。「ミコト(命)」と「マコト(真)」も大和言葉としてつながっているのだろうと思う。
・・・稲田から博多へ・・・
博多の万行寺での教化で有名なのは七里恒順師である。万行寺の境内に入り、本堂の前に立つと「お念仏しなされや」と刻まれた大きな石碑がある。七里恒順師は新潟の出身で大分に赴いた後、博多の万行寺に招かれた。新潟は言うまでもなく親鸞の流罪地である。万行寺での七里恒順師の前の住職が広島の曇龍師だった。私の家の近所に専蔵坊という寺があり、万行寺の前には専蔵坊におられた。
万行寺にお参りすると、まず本堂前の「お念仏しなされや」の碑の前で念仏し、本堂に入り念仏し、それから曇龍師と恒順師の墓に参るのを何度もした。はじめは広島と博多の縁が頭にあったのだが、それがさらに常陸からの縁に拡大された。万行寺の門前にはわらじをはき笠をかぶり杖をつく親鸞像が立っている。それが稲田からの巡錫の姿に見える。
・・・出雲大社常陸分社・・・
足利学校と鑁阿寺のある足利市から東へ北関東自動車道を進むと一時間もかからずに笠間市に着く。笠間市の稲田が親鸞が関東在住中に最も長く住んだ地で、その稲田草庵跡が現在西念寺になっている。この連載でも2011年に書いた。今回も近いので西念寺にまで足を延ばした。車で行くとわかるのだが、自動車用の地図で笠間市にあるものとして大きく表示されているのは西念寺ではなく、出雲大社常陸分社と笠間稲荷である。
出雲大社常陸分社の社殿は道路からよく見える高台にあり、目立つ。真宗の親鸞聖人旧跡巡りではまずここを訪れることはないだろう。出雲大社がどうしてここに勧請されたのか不思議で今回訪れた。社務所で縁起をもらって読むと、平成四年(1992年)の鎮座で神社としては非常に新しい。なぜはるばる出雲の地から常陸にまで勧請されたのか不思議だが、神社の説明としては、「日隅宮(ひすみのみや)」とも称される島根の出雲大社から、大国主大神の子である建御名方大神(たけみなかたのおおかみ)が鎮まる長野の諏訪大社を通り、日が上る国である常陸国へと直線で結ばれるという縁によるそうだ。
・・・常陸の神・・・
何とも壮大な構想で感心してしまった。私自身太陽の通り道と日本の古代信仰のあり方には深い相関を感じていたが、それは古代の話であって、現代でも同様の発想で神社が造られるというのには驚いた。日が昇る国としての常陸の地名は古代人が意識していたに違いない。そこにおける神社として最も有名なのは鹿島神宮だろう。また香取神宮も国境を越えるが利根川をはさんで近い距離にある。
神社の配列としてはこれで充分だったのではないかと思われる。鹿島神宮のあたりまでが親鸞の活動地域だったと考えられる。他に有名な神社としては先に述べた笠間稲荷がある。稲荷神社は京都の伏見稲荷が総本社になるが、日本三大稲荷という際には京都の伏見稲荷を中央にして、東に笠間稲荷、西に佐賀県の祐徳稲荷を言う場合が多い。これも日本での東西関係を意識したものだろう。
・・・出雲の神・・・
私は島根の出雲大社は何度も訪れているし、出雲とは深い縁を感じているので笠間に出雲大社の分社が勧請されたことも一つの縁だと思った。神社では聞かなかったのが、一つ不思議なのは、笠間にはすでに出雲の神がはるばる来られていて、出雲大社がさらに勧請されるとこの地で二重になることである。
何かというと稲田の地名と関係すると思われる稲田神社のことである。位置関係としては西から東へ出雲大社常陸分社、西念寺、稲田神社と並ぶ。稲田草庵はそもそも稲田神社の境内にあったと考えられる。稲田神社の祭神は奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)である。神楽の出し物として最も有名なのが八岐大蛇の話だろう。高天原から出雲に降り立ったスサノオが大蛇の生け贄になろうとしていたクシナダヒメを大蛇を退治して助け、二人は神婚をあげたという物語である。出雲神話の原点ともいうべき物語である。
・・・土徳・・・
この物語からわかるように普通はクシナダヒメはスサノオとともに祀られることが多い。しかしなぜか常陸の稲田神社ではクシナダヒメが単独で祀られている。ただし摂社ではスサノオも祀られている。親鸞の時代には稲田神社はこの地域の最も有力な神社だったと思われる。親鸞がその境内に草庵を結んだのは阿弥陀仏一仏への帰依という立場と矛盾するように思われるかもしれないが、親鸞としては和讃に述べているように念仏者として神に守護されている意識だったのだろう。
稲田神社は延喜式の神名帳に載る古社である。出雲の神であるクシナダヒメがはるばるここに勧請された由来はわからない。しかしさらにそこに越後から親鸞が訪れ、現代でも出雲大社が勧請されることを思うと、この地には何か引きつけるものがあるのではないかと思える。かく言う私もその引力に引かれる一人である。これも一つの土徳なのだろう。
・・・鑁阿寺・・・
足利学校の奥にある庠主の墓のさらに先に鑁阿寺がある。今は足利学校の出入り口は南に一つしかないので、裏からは出られないが足利学校と鑁阿寺が隣接していたことがよくわかる。ともに堀と土塁をもち、一種の城である。足利氏の周到な配慮がこの二つに働いていたことを感じさせる。足利学校の創建説の一つに足利氏第二代の足利義兼によるものがある。義兼は鑁阿寺の創建者でもある。建久七年(1196年)のことである。親鸞がまだ二十代で比叡山にいた時代のことだ。
鑁阿寺の「鑁阿」は義兼の法名である法華坊鑁阿から名付けられたと言われている。現在の本堂はその後、足利氏第七代の貞氏の時代に建立されている。これは親鸞の没後のことだが、親鸞が関東に来た時代には義兼の建てた鑁阿寺があり、足利学校もあったことになる。足利学校の書籍を親鸞が見ることはなかったのだろうか。少なくともその存在は知っていたに違いない。義兼は高野山で出家し、鑁阿寺は真言宗の寺なので、義兼の念頭には空海の建てた東寺と綜芸種智院の関係があって、鑁阿寺と足利学校の組み合わせになったのかもしれない。理想があったのだろう。
・・・金剛界と胎蔵界・・・
鑁阿寺の「鑁阿」は義兼の法名だが、これは真言宗の教義からすると「鑁」が金剛界の大日如来を表し、「阿」が胎蔵界の大日如来を表すので、実に素晴らしい法名と言えるだろう。鑁阿寺は高野山真言宗から始まり、その後、新義真言宗を経て戦後には独立して真言宗大日派の本山となっている。境内の広さや格式からして本山級の寺だったのだろう。
「鑁」が金剛界で「阿」が胎蔵界と知るとこの二重性が鑁阿寺と足利学校の関係にも見えてくる。両者とも堀と土塁で囲まれた四角形なので金胎両部の曼荼羅が並んでいるように見えるのである。鑁阿寺は中心に本堂がある。足利学校は中心よりやや左に寄ったところに孔子廟の大成殿があるが、それが敷地全体の本尊として置かれているように見える。
・・・原始仏教から密教へ・・・
中村元は原始仏教の研究で有名だが、密教についても詳しかった。原始仏教と密教ではインド仏教史の始めと終わりに位置するのでかなり違うのだが、中村元の場合は、古代のバラモン教からインド思想を研究しているので密教の背景がよくわかっている。バラモン教の神格が豊富に取り入れられて密教が成立しているので密教の尊格の由来がよくわかるのである。我々が見ても不動明王のような明王は原始仏教ではありえないのがわかる。
中村元が鑁阿寺に参ったことは間違いないだろうが、具体的に言及した文章があるのかどうかわからなかった。金胎両部の真言宗の曼荼羅世界と、鑁阿寺と足利学校との関係が私のように重なって見えたかどうか聞きたいものだ。空海が高野山と東寺の二つの寺の体制をとったのは金胎両部の関係が反映しているのだろうと思う。鑁阿寺と足利学校を見て育った足利氏第八代の足利尊氏が南朝に対して北朝を立てたのも二つのものの並立に違和感を感じなかったからではなかろうか。
・・・「四門出遊」の寺・・・
それともう一つ鑁阿寺の境内に入って驚くのは正面から入った楼門のある南門の他に三つの門があることだ。正面から参道を進んで本堂の前まで来るとそこから東門と西門が見える。本堂の裏に回ると北門がある。日本の寺でこのように完全に四つの門をもつのは珍しいのではなかろうか。足利氏の城跡にある寺だからこそこの構成になったのだろう。
この四つの門を見ると釈尊の出家の動機となったと言われる「四門出遊」の伝説を思い出す。出家前の釈尊が城の東門を出たところで老人を見て衝撃を受け、南門を出たところでは病人を見てまた衝撃を受け、さらに西門を出たところで死人を見て衝撃を受ける。しかし北門を出たところで出家した修行者の清らかな姿を見て感動し、自分も出家しようと決心したというものだ。中村元もこの寺を見ればそれを思ったに違いない。仏門というが門の存在をこれほど感じさせる寺は珍しい。
発掘歎異抄172回 「中」 2014年2月号
・・・旧遺跡図書館・・・
足利学校の敷地に旧遺跡図書館がある。大正時代に建てられたもので、明治時代になって足利学校が廃校になり、その貴重な書籍を引き継いだものだ。足利学校の書籍には国宝が四種類77冊、重要文化財が八種類98冊ある。図書館は足利学校の研究室を兼ねているようで学芸員の数が多い。館内では足利学校の歴史についての展示がされているが、壁際に中村元の書籍がまとまって置かれていた。そこの説明に中村元が足利学校復元後の初代の庠主だったことと、その縁で中村元から書籍の寄贈があったこと、またその関係の書籍を収集していることが書かれていた。
松江に中村元記念館が開館するまでこのように中村元の本がまとまって展示されていたのはここだったのだろう。もちろん量としては中村元記念館の方が圧倒的に多いが、足利学校を訪れた人がこの書籍を見て中村元に関心をもつとすれば貴重な縁だろう。またこの展示を見て中村元が足利学校の庠主だったことを知る人も多いだろうと思う。この図書館から奥に進むと孔子廟と塀を隔てて歴代の庠主の墓が並んでいる。十七基あるそうだが、さすがにそこには中村元の墓はなかった。
・・・仏教と儒教・・・
足利学校が仏教と縁の深い学校であることを述べたが、儒教と仏教の関係は中国でよりも日本での方が強かったのかもしれない。日本は常に中国の文化を輸入する立場にあったので、儒教であれ仏教であれ漢字文化として輸入された面がある。儒教を理解するのも仏教を理解するのも漢字の読み書きができる一部の人に限られていた。聖徳太子は日本仏教の実質的な開祖と言っていい人で、『十七条憲法』は「篤く三宝(仏・法・僧)を敬え」という形で仏教を国教化したと言えるが、『十七条憲法』全体では儒教色がかなり強い。
その点では仏教と儒教の折衷という形で日本のあり方を考えようとしたと言えるだろう。足利学校もこの聖徳太子の精神を引き継いでいると言えるだろう。足利学校自体のあり方もそうだが、隣接する鑁阿寺との一体の関係からもそれが言えるだろう。中村元も聖徳太子について本を書いており、そのあり方を高く評価していたようである。中村元が足利学校の庠主を引き受けたのは聖徳太子から日本仏教が始まって以来の仏教と儒教との調和的な関係が頭にあったのかもしれない。
・・・「宥座の器」・・・
この儒教と仏教の調和的な関係を示してくれる面白いものがある。それは古図を基に復元された「宥座の器」と呼ばれるものである。室内で用いることができる小型のものと、屋外で用いる大型のものとがあり、校舎に当たる方丈の内外に置かれていた。私は庫裏の外にあったもので体験することができた。
金属の壺の中央部分に両側から鎖が付けられていて吊されている。壺は上部が開いて下部より大きくなっている関係で、壺に何も入っていない状態では壺が傾いている。これに水を入れていくと次第に傾きが直り、壺は鎖に吊されたままで直立する。さらに水を入れると再び上部が重くなり壺は傾く。この時に一気に傾いて水はすべて放出されてしまう。
・・・「中庸」と「中道」・・・
こう書けば儒教の「中庸」を説こうとした器具だとわかるだろう。出典は『孔子家語』である。孔子が恒公の廟で見たというもので、孔子は「虚しきときは則ち欹(かたむ)き、中なるときは則ち正しく、満つるときは則ち覆る。」と述べたという。この言葉から「欹器」とも言う。この壺が人間の性を表しているようだ。ひっくり返るときは徐々にではなく一気にひっくり返るのもよくできている。
儒教の「中庸」に当たるのが仏教では「中道」である。釈尊の教えでは弦の喩えが有名である。弦は張りすぎても、緩すぎてもいい音は出ない。程よく締めていい音が出るというものだ。大乗仏教で「空」を説いたのが龍樹に始まる中観派だが、この中観の「中」も有無に偏らない中道の立場を表明したものである。中村元もこの「宥座の器」を体験したのだろうか。この壺が托鉢の器に見えてくる。
・・・「庠主」と「釈奠」・・・
「庠主」という言葉を聞いてその意味がわかる人は少ないだろう。また「釈奠」と聞いてわかる人も少ないだろう。「庠主」は「しょうしゅ」と読み、校長のことだが、具体的には足利学校の校長をこう呼ぶならわしとなっている。「釈奠」は字を見ると仏教と関係ありそうだが、「せきてん」と読んで儒教での孔子祭を指す。「釈奠」は足利学校でも行われたが、江戸時代の各地の藩校で同様のものが行われた。「釈奠」が現在も続いているところは、足利学校や備前の閑谷学校など、孔子廟をもつ幾つかところに限られている。
私が足利学校を初めて訪れたのは関東の親鸞旧蹟巡りをしていたころのことである。親鸞が長く居住した常陸の稲田草庵跡の西念寺を中心に近隣にあって関心のあるところを巡った。栃木県足利市にある足利学校が最も西で、栃木県真岡市の専修寺、常陸の南端にある鹿島神宮などだった。鹿島神宮には親鸞がここで一切経を読んだという旧蹟がある。
・・・「日本最古」の学校・・・
それは三十年以上の前のことで、そのころの足利学校は現在のように校舎に当たる方丈や庫裏が再建されておらず、例えば閑谷学校と比べると学校らしい感じはあまりしなかった。その後に方丈や庫裏が復元されて整備が進んだ。その再建後の初めての足利学校の「庠主」に選ばれたのが何と中村元だった。中村元の後は中村元が創設した東方学院で中村元の後を継いだ前田専学が務めている。
中村元が足利学校の庠主となったのは1994年のことで、記録の残っている十五世紀からの歴代の庠主の通算では第24代に当たるということだ。記録に残っている十五世紀以前にも足利学校は存在したと思われるので数としてはもっと多いはずである。足利学校では「日本最古」の学校と自称している。空海の創設した綜藝種智院が天長五年(828年)で、足利学校の創設の一つの説が小野篁により天長九年(832年)に創設されたというものだ。日本最古かどうか微妙なところだが、二つはほぼ同時期ということになる。
・・・仏教と儒教・・・
それにしても中村元と足利学校の関係はやや意外な感じがする。足利学校に孔子廟の大成殿が残り、孔子祭である釈奠が行われていたことからすれば、基本的には儒教中心の学校である。足利学校を再訪する前には私は『東洋人の思惟方法』に見られる東洋学全体にわたる幅広い学識から中村元が選ばれたのかと思っていた。儒学に全く関心がない人ではまずいだろう。『東洋人の思惟方法』が一つの根拠になっているのは間違いないだろう。
しかし再び訪れてみて足利学校や足利学校とほぼ隣接しているといっていい鑁阿寺を合わせて見て中村元が選ばれたのは当然かもしれないと思うようになった。孔子廟の大成殿は寺の形式であるし、校舎に当たる方丈や庫裏はその名からわかるように禅宗建築の形をとっている。また記録に残る歴代の庠主は禅僧が務めている。その出身地は全国にまたがり南は鹿児島出身者までいる。中国地方からも何人もいる。仏教が基本にあり、全国に知られた学校だった。学生は入学に当たりいったんは出家の形をとり、卒業時には還俗したと言われている。僧侶の修行と同じだった。
・・・仏の「空」間・・・
隣接する鑁阿寺は足利氏二代目の足利義兼によって建てられた真言宗の寺である。鑁阿寺は足利氏の居館跡と言われ、周囲に堀と土塁が巡らされている。城跡と言ってもいい造りである。そして足利学校も同様に堀と土塁を巡らしている。鎌倉時代には鑁阿寺と足利学校は一体の関係にあったと言っていいだろう。足利尊氏は足利氏の八代目に当たる。
空海の綜藝種智院は言うまでもなく仏教を基本にした学校だが、足利学校も同様だったと言える。再建された方丈に入ると中心には仏殿がある。ただし須弥壇だけで本尊は置かれていない。この造りからすれば仏像があったのだろう。しかし何もない仏壇もこれはこれで一つの意味を感じさせる。即ち「空」である。中村元もそう思ったのではあるまいか。
・・・「蛇の章」・・・
岩波文庫の中村元・訳『スッタニパータ』の「慈しみ」で中村元が採り上げた命令形で語られる「一切の生きとし生けるものは幸福であれ安穏であれ安楽であれ 一切の生きとし生けるものは幸であれ」を「仏陀の本願」と呼んでもよく、親鸞は仏心の直伝を受けたのだろうと思うと述べた。この「慈しみ」は『スッタニパータ』の第一章「蛇の章」の第八に当たる。しかし「蛇の章」という名と「慈しみ」とはイメージとしてはつながりにくい。
「蛇の章」と名付けられた所以はその一「蛇」を読むとよくわかる。一例をあげよう。「内に怒ることなく、世の栄枯盛衰を超越した修行者は、この世とかの世とをともに捨てる。あたかも蛇が旧い皮を脱皮して捨てるようなものである。」この「あたかも蛇が旧い皮を脱皮して捨てるようなものである。」が十七回繰り返される。これを読むと「蛇の章」の名の由来がわかる。「この世とかの世とをともに捨てる。」が生死輪廻からの解脱である。これが原始仏教の目指したものだった。
・・・彼岸に到る・・・
この原始仏教での生死輪廻からの解脱は「彼岸」に到るとも言われる。この「彼岸」が「浄土」として説かれ、そこに往生するのが浄土教である。『スッタニパータ』での「慈しみ」は「蛇の章」にあり、生死輪廻からの解脱を語る文脈の一環にある。そのためその最後は「諸々の邪まな見解にとらわれず、戒をたもち、知見を具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。」と結ばれる。
「決して再び母胎に宿ることがないであろう。」が「この世とかの世とをともに捨てる。」と対応する。彼岸に達した人はこの世界に戻ってくる必要はない。浄土教で言えば往生する「往相」に当たる。ある時代までの浄土教の標語「厭離穢土 欣求浄土」の考え方も原始仏教のこの考え方と同じで、この世は捨て去るべきもので還ることはない。
・・・「弥陀招喚 釈迦発遣」・・・
親鸞の「如来の勅命」は原文で「帰命と申すは如来の勅命にしたがふこころなり」(『尊号真像銘文』)というが、「帰命は本願招喚の勅命なり。」(『教行信証』)ともある。ここでの「本願招喚」は阿弥陀仏が衆生を浄土に喚ぶことであり、釈迦がこちらから浄土に往生させようとすることと合わせて「弥陀招喚 釈迦発遣」と言われる。往生中心の浄土教ならこの世に戻らない『スッタニパータ』の釈尊の言葉と一致していると言える。
この形を図画化したのが彼岸の浄土に阿弥陀仏があり此岸に釈迦仏がおり、その間を往生人が渡る「二河白道図」である。この図は此岸から彼岸への一方通行でしか表せないと言っていいだろう。この一方通行の形の原形がすでに『スッタニパータ』にあると言える。
・・・「唯除文」・・・
「帰命は本願招喚の勅命なり。」からすれば勅命は浄土からの阿弥陀仏の呼び声に従って往生することになるが、一方で「帰命と申すは如来の勅命にしたがふこころなり」になるとそれだけでは済まなくなる。如来の勅命が往生だけとは思えなくなるからである。
それは『スッタニパータ』を読んでも感じられることである。「あたかも、母が己が独り子を身命を賭しても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起こすべし」。「また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。上に下にまた横に、障礙なく怨恨なく敵意なき(慈しみを行うべし)」。これは仏陀なら可能として我々の一つの生だけで可能だろうか。救われるものは無数でそれはみな我が子、それも独り子に等しいなら。「願作仏心」という菩提心が「度衆生心」であり、それが「本願」なら終わりはない。こう読むには『スッタニパータ』に少し付け加えればいい。「決して再び母胎に宿ることがないであろう。(ただ自ら望む者を除く。)」この「唯除文」でこの世に還る「還相廻向」が可能になる。「蛇の章」の「蛇足」だろうか。念仏者としての中村元は微笑まれるだろう。
・・・「世のなか安穏なれ」・・・
中村元の「慈しみ」の碑「一切の生きとし生けるものは幸福であれ安穏であれ安楽であれ 一切の生きとし生けるものは幸であれ 何びとも他人を欺いてはならない たといどこにあっても他人を軽んじてはならない 互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない この慈しみの心づかいをしっかりとたもて」を読んで、西本願寺の親鸞聖人七百五十回大遠忌のテーマ「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」を思い起こす人は多いだろう。
多磨霊園の「慈しみ」の碑は中村元の生前に建てられたものなので、こちらの方が先で2011年の西本願寺の親鸞聖人七百五十回大遠忌のテーマが決まったのはその後である。一般から公募されて決まったとのことである。応募された人の念頭にこの中村元の言葉があったのかどうかはわからない。また西本願寺での選考過程で中村元の言葉が影響を与えたのかどうかもよくわからない。大谷光真門主は東京大学でインド哲学を学ばれた方なので影響はあったのかもしれない。
・・・仏陀と親鸞・・・
影響があったのか偶然の一致なのかはわからないが、そのこと以上に重要なのは、仏陀の言葉の中に「一切の生きとし生けるものは幸福であれ安穏であれ安楽であれ 一切の生きとし生けるものは幸であれ」という言葉があり、それを中村元が仏陀の言葉の中で最も重要な言葉として選んで自らの遺言のように碑に刻んだこと、また親鸞の述べた「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」という言葉もこの精神と一致していることである。
親鸞の言葉の原文は手紙の一部で、「往生を不定におぼしめさんひとは、まづわが身の往生をおぼしめして、御念仏候ふべし。わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために、御念仏こころにいれて申して、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼえ候ふ。よくよく御案候ふべし。このほかは、別の御はからひあるべしとはおぼえず候ふ。」というものである。往生が定まっていないと思う人は往生のために念仏し、往生が定まったと思う人は報恩の念仏をし、その報恩の念仏をするときの心を説いたものである。
・・・仏陀の本願・・・
仏陀の「一切の生きとし生けるものは幸福であれ安穏であれ安楽であれ 一切の生きとし生けるものは幸であれ」という言葉は如来の強い願いであり、浄土教で言えば如来の衆生への「本願」である。それが「安穏であれ安楽であれ」、「幸であれ」と命令形で語られている。命令形は本来は命令を表す形だが、場合によっては強い願望を表す。ここの場合は明らかに願望である。親鸞の「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」も強い願望である。
歴史的な順で言えば、原始仏教の仏陀の言葉に「本願」に当たる言葉が説かれ、さらに浄土教においてそれがより詳しく阿弥陀仏の「本願」として説かれ、さらにそれを受けて親鸞が「本願」を語った。その言葉の精神が原始仏典と一致していることである。また親鸞は「本願」を如来の「勅命」と呼ぶ。
・・・仏心の直伝・・・
「勅命」とは天子の命令を指し、最上の命令ということだろう。朝廷によって流罪になった親鸞がこの言葉を使うのは意外な気がする。親鸞はこの世の「勅命」の被害者なのである。あえてこれを使うのは法然や自分を流罪にした当時の朝廷の勅命は本当の勅命ではなく、本当の勅命は人間ではなく如来の発するものだという思いがあったのだろうか。
それを別にしても命令というと、人間の自由意志を否定するかのようで、本願を勅命と呼ぶことに抵抗を感じる人もいるだろう。命令されて否応なしにそれに従うのが念仏であり往生なのか。しかし命令形によって強い願望が表され、それがすでに仏陀の言葉として原始仏典に表されているのを知ると受け取り方が変わってくる。親鸞は「生きとし生けるものは安穏であれ安楽であれ幸であれ」という仏心を直に受けたのだろう。仏心の直伝である。そこに限りない喜びが湧き上がった。
・・・抄訳・・・
大根島の大塚山にある「慈しみ」の碑には中村元の翻訳とともに、『スッタニパータ』の原文が書かれている。各行の末尾に括弧付きで添えられている数字が飛び飛びになっている。長い章を抄訳したものだろうと思った。家に帰り、岩波文庫の中村元・訳『スッタニパータ』を見るとはたしてその通りで「慈しみ」は143から152の各部分から成り、文庫本でも一ページを少し越える量がある。
そこからの抄訳であり、碑文には当然のことながら主要な部分が採られている。この「慈しみ」の心を説明する比喩があり、抄訳ではその部分は入っていない。149に当たる部分で次のようにある。「あたかも、母が己が独り子を身命を賭しても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起こすべし」。この比喩に続いて次の150には「また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。上に下にまた横に、障礙なく怨恨なく敵意なき(慈しみを行うべし)」とある。
・・・命がけの愛・・・
母の独り子に対する愛が「慈しみ」の比喩になっているのは浄土教で語る慈悲の精神そのものと言っていい。出家主義をとった釈尊だが、母の愛を慈悲の比喩としている。在家のままでもその愛を育てればそれはこの慈悲を完成させることになる。もちろん我が子に対する執着故に「全世界に対して無量の慈しみの意を起こす」のが困難なのも確かだろう。この比喩には釈尊を命がけで産んで亡くなった母への思いも入っていたのだろうか。
ここに繰り返されている「無量の慈しみ」は「無量寿仏」「無量光仏」である阿弥陀仏の慈悲と同じだろう。また「上に下にまた横に、障礙なく」は「尽十方無礙光如来」である阿弥陀仏の「尽十方無礙」とも同じだろう。原始仏教から大乗仏教への展開は釈尊の言葉の中に用意されていたことがわかる。
・・・慈悲の菩提心・・・
この言葉を実行するのが菩薩道である。しかし釈尊がこの言葉通りだったのは確かだが、その通りに仏弟子が生きようとすれば「無量の慈しみ」がいかに難しいかわかるはずだ。親鸞は『歎異抄』第四章に「聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。」という。
これは助けたいという気持ちをもった者として初めて出てくる感慨だろう。「小慈小悲も無き身」というのも如来のような無量の大慈大悲を持ちたいと思いながら、それができないことの嘆きだろう。この助けたい救いたいという気持ちはそれがすぐに実現できないとしてもその気持ちが起こることはきわめて重要な出発点のはずだ。釈尊は出家前に小さな虫が鳥に食べられるのを見て悲しみ、それが出家の一つの機縁となったという。この悲しみが成仏しての大悲となる。それならこの悲しみが成仏しようとする菩提心になる。無明を晴らしたいというのは智慧の菩提心だが、一方で思うように救えない悲しみから、成仏して大慈悲心をもって苦しみ悩むものを救いたいという慈悲の菩提心があるはずだ。
・・・「横超の菩提樹」・・・
親鸞は「願作仏心」という菩提心は衆生を救いたいという「度衆生心」だと言う。これが浄土教の「横超の菩提心」だが、それは「慈悲の菩提心」とも言えるだろう。「慈しみの木」も「慈悲の菩提樹」と言えるだろう。まだ小さな木だがいずれ巨樹になるはずだ。菩提樹と呼ばれるものの一種にはバニヤン樹があり、横に広がる枝葉は数十メートルから数百メートルにもなるという。「横超の菩提樹」である。中村元もバニヤン樹に喩えられる。
親鸞もその木陰に人々が憩う巨樹となることを目指したのだろう。しかし巨樹でなくても木陰はできる。病人を救うのは医者だが、看護師でもある程度はできるだろう。あるいは病人を医者のもとに連れて行くことはできる。人を救いたいのは同じだ。「自信教人信」は如来でなくてもできる。「浄土真宗の生活信条」には「まことのみのりをひろめます」とある。「慈しみ」の碑もその実践だろう。
・・・真光寺・・・
中村元の墓は松江では中村家の菩提寺である浄土真宗本願寺派の真光寺にある。松江ではというのは東京の多磨霊園にもあるからである。多磨霊園の墓には松江の大根島にあった「慈しみ」の碑も合わせて建てられているそうだ。「慈しみ」の碑は中村元の遺言だったのだろう。真光寺は松江市の中心部の松江城の東北にある奥谷という地域にある。城の近くで奥谷とは不思議である。
堀端の道から入ると急に道幅が狭くなる。路地の突き当たりに大きな寺が見えるが万寿寺という寺だった。引き返して別の道に曲がり、しばらく行くと桐岳寺というこれも大きな寺がある。その向かいが真光寺だった。山門のところに中村家の墓の位置が書かれていて、それを頼りに墓地の中を進む。案内図がなければわかりにくい。墓石の表面を見て当てをつけるのだが、なかなかわからなかった。裏から見て中村元の法名が刻まれているのがわかり、ようやくたどりつくことができた。
・・・「向学院釈創元」・・・
墓石の裏には「向学院釈創元」と刻まれていた。その横に「中村元 平成十一年十月十日」と命日が刻まれている。この法名はいかにも中村元らしい。中村元の自伝に当たる本が『学問の開拓』だが、中村元はある恩師に言われた「学問は独創的でなくてはならない」ということを念頭に置いていたという。法名の「学」と「創」の二文字がここにある。
「創」の字は「はじめ」とも読めるので「元」とつながっているのだろう。「創元」は「はじめをつくる」とも読める。学問の「一番槍」を目指すということを中村元は述べているので、その意味もあるのだろう。また中村元が創設した東方学院の「学院」もこの法名には入っている。よくできた法名だと感心する。親鸞もそうだったが、「名乗り」には深い願いが込められているのだろう。後で御住職にお聞きしたところではこの法名は中村元と本願寺の話し合いで決められたとのことだった。いわゆる内願によるものだろう。
・・・「自誓院向学創元居士」・・・
一方、多磨霊園の墓には「自誓院向学創元居士」という法名が刻まれているということだ。これは中村元が自身で付けたものだということで、こちらの方が長い。「向学」と「創元」の前に「自誓」が入っている。菩薩は自ら誓願を立てて修行することが仏典に描かれているが、それに倣っているように見える。
菩薩に共通の誓願が「四弘誓願」だが、その一つが「法門無量誓願学」である。その精神がこもった法名に見える。多磨霊園にも「慈しみ」の碑があると言ったが、「慈しみ」の碑の慈悲の精神を「四弘誓願」に当てはめると「衆生無辺誓願度」になるだろう。あらゆる衆生を彼岸に渡したいという願いである。親鸞は仏になろうとする心である「願作仏心」は衆生を救いたいという「度衆生心」だという。「願作仏心」は菩提心と同じである。菩提樹が「慈しみの木」と名付けられたのがよくわかる。人が医者になるのは病に苦しむ人を救いたいからだろう。人が仏になろうとするのも苦しむ人を救いたいからであり、それが菩薩道である。「慈しみ」の碑は中村洛子夫人の書だが、夫人は女医だったそうだ。
・・・毎朝のお勤め・・・
墓参の後、本堂にお参りしたところ、寺報が置いてあり、その最新号の巻頭はこの「慈しみ」の碑の言葉とその解説だった。それによれば今年の一月に駐日インド大使が中村元記念館訪問のために松江に来られ、そのレセプションで「慈しみ」の碑の言葉が参加者全員で音読されたという。また本堂には「浄土真宗の生活信条」が大書して掲げられていた。
私が本堂にいたところ、たまたま吉田史章住職が来られ、いろいろ興味深い話を伺うことができた。「浄土真宗の生活信条」は毎朝中村家全員で音読されたそうだ。お手伝いさんまでも一緒だったという。「夫唱婦随」という言葉は現代では死語かもしれないが、このお勤めが中村元・訳、洛子夫人・書の「慈しみ」の碑につながったのだろう。親鸞の言葉を恵信尼が書き残したのを思い起こす。
・・・「八束」・・・
中村元記念館は松江市役所の八束支所の二階にある。中海に浮かぶ大根島は旧八束町で松江市と合併した。八束の名を聞くと『出雲国風土記』に書かれた国引き神話で有名な八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)を思い出す。日本周辺の各地から島根半島を引き寄せた国造りの神である。島根半島が陸続きになったのは斐伊川をはじめとする河川の堆積作用によるので、この神の水臣という名も水の神の要素をもっているのだろう。
大根島もその堆積作用でできたのかと思ってしまうが、島を少し歩くとわかるが、実は溶岩の島である。中村元記念館のある八束支所の裏手に山がある。これが溶岩の山なのである。ひょっとして噴火口があるのだろうかと思って登ってみると、頂上には花卉栽培の島を象徴するように大きな温室があり公開されている。あたりを見回しても噴火口らしきものはない。その代わりに温室の横の広場にこの山の新たな中心というべきものがある。
・・・「慈しみ」の碑・・・
それが中村元記念館の開館を記念して建てられた石碑である。「慈しみ」の碑というそうだ。それを見ると「慈しみ」と題して次の文が刻まれている。「一切の生きとし生けるものは幸福であれ安穏であれ安楽であれ 一切の生きとし生けるものは幸であれ 何びとも他人を欺いてはならない たといどこにあっても他人を軽んじてはならない 互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない この慈しみの心づかいをしっかりとたもて」
これは中村元の訳した『スッタニパータ』のブッダの言葉である。書は中村元夫人の中村洛子と刻まれている。この書の横には『スッタニパータ』の原文が刻まれている。原始仏教を学んだ外国の方が来られたらこちらの原文の方を見るだろう。生きとし生けるものの幸せを願う心が見事に表れている。「安穏」や「安楽」は浄土教になじみの深い重要な言葉であり、これは仏陀の語った「本願」の心と言っていいだろう。中村元が拝読した「浄土真宗の生活信条」とも重なってくる。
・・・「八宗を束ねる」・・・
「慈しみ」の一節、「たといどこにあっても他人を軽んじてはならない 互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない」は否定形で書かれているが、肯定形で書かれた「浄土真宗の生活信条」の「互いにうやまい助けあい」と表裏一体の関係にあると言えるだろう。また「他人を軽んじてはならない」は『法華経』の「常不軽菩薩」の心とも重なる。大乗仏教と原始仏教のつながりがよくわかる。
「八束」は国引き神話の神の名と同じだが、中村元記念館ができてみると「八を束ねる」という意味で「八宗を束ねる」という意味にも見えてくる。「八」はあらゆるものという意味で様々な宗派に分かれた大乗仏教のことをいうが、大乗仏教だけでなく、「愛」や「仁」などあらゆる宗教はこの「慈しみ」の心を育てようとしている。人の心からこの「慈しみ」が湧き上がることが仏陀の願いだろう。
・・・「いつくしむ島」・・・
「いつくしみ」と発音してみると不思議に「いつくしま」と似ているのに気付く。広島から来た私は「厳島」を連想する。「いつく」という古語は「神聖なものに仕える」という意味と「大切に育てる」という意味がある。これを仏教の文脈で言えば「仏陀に仕えつつ大切に育てる」ということになるだろう。「大根島」という名も不思議な名で、大きな根本の島とも見えるし、大乗の根本の島とも見える。またこの碑のある山は大塚山という。ここにも「大」がある。選び抜かれた言葉の中から根本にあるものが見える碑である。
この「慈しみ」の碑の横に「慈しみの木」という木が植えられていた。長い間仏教に関わってきたが、「慈しみの木」というのは聞いたことがない。まだ幼い木だが大きな葉がついている。何の木かわからなかったが、中村元記念館のパンフレットで仏陀がその下で悟りを開いたという菩提樹とわかった。慈しみの碑から慈しみが沸きだし、さらに慈しみの木が世界を覆うのが中村元の願いだろう。
・・・中村天風・・・
中村元記念館の図書室にある中村元の蔵書を見ているうちに興味深い一冊と出会った。それは中村天風について書かれた著作である。今では仏教とヨーガが深い関係にあるのは常識だが、戦前の日本ではヨーガへの認識はそれほど進んでいなかっただろう。そのヨーガをインドから直接日本に伝えたのが中村天風である。これは中村元も『中村元選集』の『ヨーガとサーンキヤの思想』に「日本へヨーガを導き入れた最初の人は、わたくしの知る限りでは、中村三郎(号、天風。1876―1968)である。」と書いている。
興味深いのは『ヨーガとサーンキヤの思想』に中村元が中村天風に直接会っていると書かれていることだ。1930年のころ中村元が18歳のころで、中村元はこのころ「虚弱な体質に悩んでいた」という。中村元は中村天風の自宅で開かれた健康法に関する講演会を聞きに行ったということだ。講演の後、次回からは会費が必要ということで「貧乏学生にとっては会費が高かったので、わたくしはそれっきり行かなかった。」と書かれている。
・・・ヨーガの導入者・・・
中村元のヨーガへの関心はこれで終わったわけではなく、大学の演習で『ヨーガ・スートラ』を読み、さらにその翻訳が『ヨーガとサーンキヤの思想』に収められている。中村元の翻訳とともに『ヨーガ・スートラ』の翻訳としてよく読まれたのは佐保田鶴治(1899年〜1986年)の訳だろうと思う。『ヨーガとサーンキヤの思想』にも佐保田鶴治のことが中村天風に続いて紹介されている。
佐保田鶴治は大阪大学のインド哲学の教授で翻訳だけではなく自らヨーガを実践し、関西を中心に活動し、それが「ヨーガ禅道友会」に発展した。佐保田鶴治に続いて紹介されているのは沖正弘(1921年〜1985年)である。これらのヨーガの紹介者、導入者に比べれば、中村元のヨーガへの関わりはそれほど認知されていないかもしれないが、中村天風に出会ったことを明かしているところを見ると何らかの縁を感じていたのだろう。
・・・「心と体」・・・
中村天風の影響力は非常に大きく、今でもその著書は書店で簡単に手に入る。有名人の帰依が多かったことも特色かもしれない。中村元は虚弱な体質に悩んでいて中村天風の講演を聞きに行ったということだが、中村天風はインドでの直伝のヨーガによって肺結核を克服したという人で、健康法としてのヨーガの要素は確かにあった。これは佐保田鶴治や沖正弘にも共通することで、戦後の日本では「心と体」を一体的に捉える健康法としてヨーガが認知されたという面があるだろう。
中村天風の教えは「心身統一法」と呼ばれ、「統一医学会」を創設している。その後、会は「天風会」と改称している。中村天風はヨーガに出会う前にアメリカで医学を学んでおり、そのような経歴が「心身統一法」や「統一医学会」の名に表れているようだ。
・・・「感謝と歓喜」・・・
しかし何よりも注目すべきは心と体を結ぶものとして「潜在意識」に着眼したことだろう。天風以降、潜在意識に着眼して心と体の健康、さらには運命の改善を説く教えは次々と現れ、宗教や自己啓発の分野では天風の教えを引き継いでいるか、影響を受けていると思われるものが非常に多い。「心の法則」とか「成功法則」と言われるものである。奇蹟と思えることも潜在意識の働きとして見れば奇蹟でも何でもないという考え方である。
天風はヨーガの冥想とともに言葉を繰り返し唱えて潜在意識に働きかける形をとった。一例をあげよう。「およそ宇宙の神霊は、人間の感謝と歓喜という感情で、その通路を開かれると同時に、人の生命の上に迸り出ようと待ち構えている。だから、平素出来るだけ何事に対しても、感謝と歓喜の感情をより多くもてば、宇宙霊の与えたもう最高のものを受けることが出来るのである。」(「運命の誦句」)「感謝と歓喜」は「浄土真宗の生活信条」にも説かれる。中村元は思いも寄らない形で中村天風と再会したのかもしれない。
・・・試練・・・
中村元の生涯は仏教研究者として順風満帆に見えても幾つかの試練と言っていいものがある。少年時代の病気による一年間の学校の休学、研究を続けるために松江の先祖伝来の土地を手放したこと、徴兵と戦争、東大紛争などがある。それらをさしおいて最もよく知られた事件は、1967年に独力で二十年の歳月をかけて完成させた三万枚に及ぶ『仏教語大辞典』の原稿を何らかの手違いにより出版社が紛失してしまったことだろう。
この辞典の編集に先立って中村元は1947年に謄写版刷りの『仏教語邦訳辞典』を刊行している。難解な仏教語をできるだけわかりやすくとう念願から生まれたものだった。しかし易行道の裏に難行苦行が隠されているように、この念願をさらにかなえるために取り組んだ『仏教語大辞典』が原稿紛失という考えられないような事態に至ったのである。出版社の移転に伴って起こったミスと言われる。この事件は大きく報じられ、八方手を尽くして探したがついに発見されず消失した。
・・・「消失」と「焼失」・・・
この事件を聞くと、東洋学を学んだ人には諸橋轍次の編集した『大漢和辞典』発行の経緯が思い起こされるのではあるまいか。世界最大の漢和辞典である『大漢和辞典』は編集から完結まで33年もの歳月を要している。この間に1945年の空襲により印刷用の版が焼失している。「消失」と「焼失」で経緯は異なるが失われたのは同じである。しかも出版社そのものが焼けてしまっており、出版社の再建がなければ再版は不可能だった。
『大漢和辞典』の場合は幸いに校正原稿が残されていたので、そこからの復元が可能だったが、原稿焼失の翌年1946年に諸橋轍次の失明という事態が起こる。『大漢和辞典』編集に伴う目の酷使が関係していたと言われる。手術により諸橋轍次の視力が回復するのは1955年のことだった。私のように『仏教語大辞典』と『大漢和辞典』の両方に世話になった人は非常に多いはずである。
・・・「易行」と「難行」・・・
私がこの『大漢和辞典』出版までの経緯との類似とともに思い起こすのは、『大無量寿経』に描かれる法蔵菩薩の「本願」と「兆載永劫」の修行である。若き中村元の抱いた仏教をわかりやすく平易にという「念願」が「本願」である。それを実現するための膨大な労力が「兆載永劫」の修行である。浄土教での易行への信心は法蔵菩薩の難行苦行へのありがたさと一体のものである。法蔵菩薩の難行苦行はキリスト教でのイエス・キリストの受難の物語と対応していると言えるだろう。「易行」の裏に「難行」ありで、それが得難き信心を得るという「難信」の法の一面である。
中村元の脳裏にこの法蔵菩薩の「兆載永劫」の修行が浮かばなかっただろうか。先に述べたように1962年に中村元はハワイで真宗門徒が「浄土真宗の生活信条」を唱えているのに感銘を受け、自身も帰国後にこれを毎日唱えるようになった。「一、み仏の誓いを信じ 尊いみ名をとなえつつ強く明るく生き抜きます」の「み仏の誓い」が法蔵菩薩の誓願である。これを唱えるとき必ず完成させるという誓いが自らのものだけではなく仏の願いとしても感じられたはずだ。中村元の菩薩道である。「易行」の裏に「偉業」ありである。
・・・「逆縁と順縁」・・・
この偉業を成し遂げるために中村元は若手の研究者を糾合しより大部の『仏教語大辞典』の完成を考える。これが東方研究会となり、さらにそれを母体に東方学院が開設された。「逆縁が転じて順縁となりました」と中村元は述べているが、確かに原稿紛失がなかったら東方学院は生まれなかったかもしれない。
1975年についに『仏教語大辞典』が刊行された。さらにその直後から増補版が計画され編集が始まる。1999年に中村元はこの世を去るが、2001年に『広説 仏教語大辞典』が刊行された。1947年の『仏教語邦訳辞典』から五十年以上経っていた。私には法難以来おそらく数十年かけて書かれた親鸞の『教行信証』の執筆と重なって見える。
発掘歎異抄163回 中村元記念館2013年5月
・・・松江自動車道開通・・・
2013年の春に松江自動車道が開通し、広島から松江までの所要時間が縮まった。松江に開館した中村元記念館に行こうと思っていたが、同じ行くなら松江自動車道が開通してからと思い、開通の翌日に出かけた。松江が近付くにつれて高速道路から川沿いの桜並木が遠目に見える。中村元記念館は松江市の中心部ではなく、中海の中に浮かぶ大根島にある松江市役所八束支所の二階に開館した。車で行けば大した距離ではないが、バスでは便数は多くないだろう。大根島は牡丹の栽培で有名で、私も牡丹を見に行ったことがある。
中村元記念館の構成は手前に中村元の蔵書を見せてくれる図書室があり、その奥に展示室がある。また講義室もあり、東方学院の松江教室として講座が開かれている。図書室に入ってすぐに目に入ったのは日本仏教の図書でそれも浄土真宗関係である。私は専門書が並んでいるとばかり思っていたが、そうでもなく一般向けの啓蒙書や丹羽文雄の小説『親鸞』もある。私の真宗関係の蔵書とも重なっていて親しみを感じた。仏教を易しく伝えようとする姿勢とこの蔵書は関係するようだ。
・・・紙片の花びら・・・
この真宗関係の蔵書のある棚は壁に沿ってあり、鍵がかけてあるので本を手に取ることはできない。奥の方にはインド仏教の蔵書が並ぶ。これらは中村元の蔵書の一部であるようだ。この図書室の中には中央部に開架で本を見ることができるものがあり、その中には大正新修大蔵経がある。近寄って見ると大蔵経から白い紙片が出ているのがわかる。ぶ厚い大蔵経のあちこちから白い紙片がのぞいている。白木蓮の花びらのように見える。
中村元のはさんだ紙片がそのまま残っているのだろうかと思って、大蔵経の一冊を手にとって見る。紙片の大きさはまちまちだが、どうも本人のはさんだもののように見える。ちょうど部屋に居合わせた研究員らしき人に尋ねると中村元のはさんだものだとの答えが返ってきた。この紙片の位置が変わったらまずいだろう。いつまでもこの展示の仕方が続くかどうか分からないが同じ本を手にしているという実感がわく貴重な体験だった。
・・・ハワイ別院で・・・
展示室は広いとは言えないが、その奥に中村元の書斎が復元されている。中村元の著書の写真で書斎で執筆する中村元の姿を写したものを見たことがあるが、そのままだった。その展示に行くまでに私にとってもし展示されていればと思っていたものがあった。それは「浄土真宗の生活信条(條)」である。手書きのものが展示されていて説明が書かれていた。
それによれば1962年に中村元はハワイ大学の招聘でハワイを訪れた時に西本願寺のハワイ別院を訪れた。その際に門信徒が「浄土真宗の生活信条」を読んでいるのを目にし、異国の地に生きる仏教徒の姿に感銘を受けた。帰国後中村元自身も「浄土真宗の生活信条」を毎日読むようになったという。ハワイには西日本からの移民が多く、特に広島からが多い。中村元の目にした浄土真宗門徒の中にも広島出身者は数多くいたに違いない。
・・・「浄土真宗の生活信条」・・・
「浄土真宗の生活信条」は1961年の親鸞聖人七百回大遠忌を記念して西本願寺で制定されたものである。正確に言えばそれに向けて1958年に制定された。1958年は私が生まれた年なので縁を感じる。1962年に中村元がハワイで見たのは「浄土真宗の生活信条」が普及し始めたころのことだろう。
「一、み仏の誓いを信じ 尊いみ名をとなえつつ強く明るく生き抜きます」「一、み仏の光りをあおぎ 常にわが身をかえりみて感謝のうちに励みます」「一、み仏の教えにしたがい 正しい道を聞きわけてまことのみのりをひろめます」「一、み仏の恵みを喜び互いにうやまい助けあい 社会のために尽します」信心の喜びを胸に報恩感謝に生きる念仏者の姿が示される。死後のことよりも今を生きる姿に重点がある。これを読む中村元の温和な笑顔が妙好人と重なって見えた。手書きの信条を読みながら念仏が止まらなかった。
・・・「十一月二十八日」・・・
中国新聞に「中村元と現代」という記事が掲載されてしばらくしてある真宗のお寺から講演の依頼をいただいた。記事を読んでの依頼のようだったので「中村元と浄土教」という題で話しをさせてもらう予定にした。十一月の講演で真宗の寺では報恩講の時期である。中村元の誕生日は十一月二十八日である。
十一月二十八日は旧暦での親鸞の命日である。本願寺派では新暦換算して一月十六日を御正忌とするが、真宗各派では今でも十一月二十八日の日付をそのまま用いているところが多い。「十一月二十八日」は真宗門徒にとってはなじみの深い日付である。しかも江戸時代から続く中村元の生家は松江の浄土真宗の檀家であった。母親は熱心な念仏者だったという。中村元も毎日仏壇でお経と浄土真宗の生活信条を唱えていたという。ある方から中村元記念館が開館した時に遺族の方が菩提寺の真光寺に墓参りされている写真の載った新聞をいただいたが、中村家と真宗のつながりは今も続いていることは確かだった。
・・・中村元の「易行道」・・・
中村元は自分の宗教的立場を「仏教徒」と明言しているが、浄土真宗の門徒という立場を出すことはほとんどなかったようだ。原始仏教に力を入れた立場からは後代の宗派仏教は直接関係なかったし、またその枠にとらわれたり、またそういう目で見られることはマイナスだったのだろう。しかし親鸞の命日が自分の誕生日というこの縁は偶然では済まされないものがあったのではなかろうか。
親鸞は浄土七高僧の第一に龍樹を置き、龍樹から「易行道」が始まるとしている。この「易行道」という考え方は中村元に一貫してある姿勢だったと思う。翻訳においてもできるだけわかりやすくという姿勢が常に見える。漢訳仏典は書き下し文にすると日本語に近くなるが、それでも仏教用語特有の難解さがつきまとう。「涅槃」のように音写された用語もあるのでそのままでは分からない。
・・・仏教用語の「易行道」・・・
語学の天才は自分の力をひけらかすよりもその力をできるだけわかりやすくすることに向けた。これが原始仏典を始めとする翻訳の基本姿勢だった。その姿勢は鎌倉新仏教の祖師の努力と共通するもので、「仮名法語」と呼ばれるものを生んだが、中村元もこの「仮名法語」が好きだと言い、高く評価している。
仏教語辞典を編纂したのもできるだけ仏教用語をわかりやすく伝えたいという願いを現実化したものだろう。しかし「易行」が実はそれを生み出す側にとっては非常な困難を伴うように一つ一つの仏教語を原典にあたりながら翻訳を考えるのは大変な「難行」である。さらにそうして努力した辞典の原稿が出版社の手違いにより紛失するという事態にも出会っている。全くの事故なのだが、一種の法難とも言っていいものだろう。この困難に出会った時に、中村元の脳裏には砂漠を越えて経典を伝えた訳経僧の姿や法難に遭いながら伝道を続けた祖師方の姿が浮かんだのではなかろうか。生活信条の「強く明るく生き抜きます」はこういうときに格段に響いてくる。
・・・浄土経典と『法華経』・・・
中村元と浄土教との直接の関連としては岩波文庫における『浄土三部経』の翻訳がある。サンスクリット原典からの日本語翻訳と漢訳とを並べたもので、それにより原典での意味を容易に知ることができる。四十八願も当然日本語訳され、十八願の解釈も信心を中心とする立場が原典に近いことを教えてくれる。
岩波文庫には『法華経』の訳もあるが、これは中村元の訳ではない。しかし晩年に『法華経』の抄訳に取り組んでいる。『法華経』の中で最も有名でよく読まれるのはいわゆる『観音経』の部分だが、漢訳では原典の最後の部分が省略されている。そこに観音菩薩が阿弥陀仏の脇侍であることが明かされ、西方極楽浄土の記述がある。『法華経』の中で阿弥陀仏信仰に言及している部分である。この点を中村元は強調しているように見える。『法華経』から浄土教へという道筋も原典には書かれていた。それは親鸞の歩んだ道だった。
・・・中村元のモデル・・・
中村元の活動を見ると、仏教との関係の深さとその広範さとから、一つは大学での卒論のテーマとなった龍樹がモデルとなっていたのだろうと思う。さらに仏教以外にまで及ぶ世界的な活動や東大退官後に始めた東方学院の活動を見ると、近現代におけるもう一つのモデルが浮かぶ。それは中村元の著作で何度も紹介されているラーマクリシュナとラーマクリシュナ・ミッションの活動である。
中村元はインド思想について古代から近現代まで幅広く網羅し、とりわけ近現代においてはラーマクリシュナとラーマクリシュナ・ミッションについては詳しく紹介している。インド思想に関心をもった人なら、ラーマクリシュナとその教えの基になっているインドの国民的古典である『バガヴァッド・ギーター』のことを知らない人はいないだろう。
・・・『バガヴァッド・ギーター』・・・
日本ではラーマクリシュナ・ミッション日本支部は日本ヴェーダーンタ協会の名で『バガヴァッド・ギーター』の翻訳と普及を行っている。『バガヴァッド・ギーター』は岩波文庫やその他にも日本語訳があり、インド思想の文献としては仏典以外のものとしてはよく知られているものだろう。私の友人でヨーガを始めた人がいて、ちょうど昨年私が中村元の著作を連続して読み始めたころに彼の作った『バガヴァッド・ギーター』の要約を見せてくれた。『バガヴァッド・ギーター』への関心はインドへの正統的な関心の持ち方で、最もインド的な文献と言われる。
中村元も『バガヴァッド・ギーター』について書いており、インド思想を代表する一冊の本があるとすればそれは『バガヴァッド・ギーター』だとインド人は答えるという。私も同感で、『バガヴァッド・ギーター』を読むとインド思想も仏教もあるいはキリスト教や儒教もみなわかるように思える。少なくとも東洋思想はここにあると思える。
・・・植民地下のインドで・・・
ラーマクリシュナは文献によってその教えを説いたと言うよりも、幼少期からの繰り返して体験した宗教的な体験によって自己形成をした人で、それが『バガヴァッド・ギーター』の教えと一致していたと言っていいだろう。宗教的な行としてはヨーガであり、『バガヴァッド・ギーター』とヨーガは不可分の関係にある。現在の形の『バガヴァッド・ギーター』の成立は紀元前二世紀頃と言われ、ちょうどインドでは原始仏教から大乗仏教の過渡期に当たる。大乗仏教の思想には『バガヴァッド・ギーター』の思想がかなり影響を与えているのではないかと思われる。
ラーマクリシュナの教えはインド思想において超宗派的なだけではなく、キリスト教をも取り込んだ世界的な規模での超宗派的なものだった。ラーマクリシュナの活動した十九世紀の近代インドはイギリスの植民地になっており、インドにとって西洋思想との対決が避けて通れない課題だった。ラーマクリシュナは相手方の宗教であるキリスト教をも自家薬籠中のものとして見事に語ったのである。
・・・ラーマクリシュナ・ミッション・・・
そうして西洋の植民地だったインドから世界に向かって発信するラーマクリシュナ・ミッションの活動が始まる。それを成し遂げたのはラーマクリシュナの弟子だったヴィヴェーカーナンダだった。彼は大学まで英語教育を受け、世界に向けてラーマクリシュナの教えを語ることができた。これはローマ支配下のイスラエルでキリスト教が起こり、パウロがローマに伝道したこととよく似ている。
中村元はアメリカに招請されたが、インドだけでなくアメリカでもラーマクリシュナ・ミッションの活動があることを非常に頼もしく思ったのではないかと思う。世界の最先端の文明国アメリカで、イギリスの支配下においてインド思想を基に超宗派的な教えを説いたラーマクリシュナと、敗戦国から来て東洋思想を語る日本人の自分とが重なったのだろう。「アジアの夜明け」が「世界の夜明け」になることをあらためて感じたに違いない。「ナカムラ・ミッション」の始まりだった。
・・・原始仏教と比較思想・・・
中村元の著作で最も量が多いのは原始仏教についてだろう。岩波文庫での原始仏典の翻訳の他に春秋社の『中村元選集』では原始仏教のシリーズが八巻あり、一つのテーマとしては最も量が多い。他に大乗仏教、インド思想、インド哲学、インド史と、インドについてはほぼ網羅されており、インド学の百科全書と言われる。インドを出発点としながら、非常に早い時期から比較思想に取り組み、インド、チベット、中国、韓国、日本と、仏教の受容の仕方を軸にして展開した『東洋人の思惟方法』とさらに『世界思想史』とがある。
梅原猛氏は中村元の業績として特筆すべきは「原始仏教」と『東洋人の思惟方法』だと述べているが、これは多くの人が賛同するところだろう。中村元の学問は文科系の学問としては当然のことながら文献学を基本とし、天才的な語学力を駆使して厳密に原典に当たりながら真意を探る方法をとっている。この方法は「原始仏教」のように一貫した一つの思想体系をもつものには非常に有効である。
・・・同じ言葉でも・・・
ところがインド思想や大乗仏教にまで広がると、同じ言葉を用いていても使い方が違うという問題が生じる。我々のような立場ではそこをほぼ直感によるのだが、厳密な文献学を用いる方法では立ち止まってしまうのではないかという疑問が生じる。中村元はインドに踏み込んだ時に、早い時期に語学の限界にぶつかったのではないかと思う。その壁を乗り越えるためには「比較思想」という発想がどうしても必要だったのではないかと思う。
中村元の比較思想を成り立たせているのは天才的な語学力とともに、言葉の壁を乗り越える直感力だったのだと思うが、後者の方は決して前面に出ることはなかった。あくまでも語学力を基礎にして、言い換えれば中村元の語学力に対する信頼を基礎にして、その人が言うのだから異なる思想の間に共通点があるのだろうと納得させる面があったと思う。
・・・ 「大東亜思想圏」?・・・
異なる思想の間では論争が起こるのが当然で、インド六派哲学の研究ではそれが詳細になされている。ところが『東洋人の思惟方法』になると、そのお互いに論争を繰り広げていた間に共通点を見出すようなことをしなければならない。原始仏教と大乗仏教の間も同様で、原始仏教の流れを引き継ぐ上座部仏教に対して大乗仏教は批判をした立場にある。
これが東洋諸国に渡って繰り広げられるわけで、戦前から始められたという『東洋人の思惟方法』の研究がいかに困難で先駆的なものだったかがわかる。非公式なものかもしれないが研究は当局の依頼によって始まったということなので、研究の開始に時局との関連がある程度あったことは否定できないかもしれない。「大東亜共栄圏」に対応するような「大東亜思想圏」の発想である。明治以来の「アジアは一つ」を発展させたものである。
・・・人類の夜明け・・・
しかし中村元は戦争が終わってもこの研究を続け、しかもそれがアメリカで評価され、アメリカに招請されることになる。敗戦国の日本にとってこれは輝かしい思想の金字塔を打ち立てたと言うべきだろう。「ブッダの光」が海を越えて渡ったのである。渡米の時の船から手を振る中村元の写真が残っているが、思想の輸出という快挙を成し遂げた喜びが伝わってくる。不安もあったかもしれないが世界に向かって発信する旅の始まりだった。
この渡米から『東洋人の思惟方法』を越えて『世界思想史』の歩みが始まったのだろう。それは言い換えれば「人類の思惟方法」と呼んでさしつかえないものである。「四海同胞」の思想的実践だったと言っていいだろう。人類を一つの生命体のように考えてその思想の歩みを語る。何度も言うが天才的な語学力を駆使しているが、それだけでは『世界思想史』に流れる統一感は決して生まれないはずだ。悪くすれば寄せ集めになってしまう。そこに流れるのはあの「黄金の光」である。ブッダの目覚めが人類の夜明けになっている。それは親鸞にとっては本願の目覚めである。
・・・中村元の著作・・・
中村元の業績は春秋社から発行されている『中村元選集』でほぼその全容を知ることができる。別巻を含めて四十巻あり、日本の仏教学者あるいは哲学者としては特筆すべき量だろう。「選集」となっていて「全集」ではないのは「全集」にするとさらに量が増えることになるからのようだ。論文と単行本を合わせると1500本という途方もない数になるそうだ。私の学校にある中村元の著作を検索したところ八十数冊あった。とても全部を読めないので主なものを選んで読んだがそれでも一応の目標まで半年くらいかかった。
それからしばらく時間が経ってから記憶に残っているものを思い出してみるとその本質が見えるように思う。中村元の業績で最も一般に知られているのは「原始仏教」に関するものだろう。岩波文庫に原始仏典の翻訳シリーズが何冊もあり、この翻訳を通して誰でも手軽に原始仏典を読めるようになった。またその翻訳の文章も読みやすくわかりやすい。
・・・「原始仏教」・・・
日本人はこの中村元の翻訳を通して初めて原始仏教を知ったと言えるだろう。その意味で「元始仏教」と言ってもいいかもしれない。そもそも「原始仏教」という言い方を普及させたのも中村元の力だろう。それまで「原始仏教」は多くの日本人には耳慣れなかったもののはずだ。どの宗教や教えにもこの「原始」が付くというとそうでもない。「原始キリスト教」とか「原始儒教」という言い方はあるかもしれないが一般的ではないだろう。
仏教で「原始仏教」という言い方が生まれたのは釈尊の教えがそもそもどういうものだったかがわからなくなったことが大きく影響している。特に大乗仏教が強い日本では、釈尊の教えとはかなり異なったものもみな仏教の名で語られてきた。一つの経典をとりあげてこれを読めば釈尊の教えがわかるというものがないのが実状だった。キリスト教なら『聖書』、儒教なら『論語』の一冊があればいいのと事情が異なる。その一冊を読めばいいのでわざわざ「原始キリスト教」とか「原始儒教」という言い方が特に必要ないのだろう。
・・・「原始仏典」と「仏伝」・・・
仏教の「その一冊」に中村元の翻訳した原始仏典が該当するかどうか今の時点では断言できないが、たとえば原始仏典の中でも最古層に当たると言われる『スッタニパータ』は「その一冊」になる可能性はあるだろう。そこから始まって岩波文庫の原始仏典シリーズに幅を広げ、さらに大乗仏教の仏典に目を通す順になるのではなかろうか。歴史的に展開する仏教を追うとこの順になるだろう。
このような原始仏典の翻訳は非常に厳密な学問的な作業を積み重ねて行われるものだが、それと並行して学問的には史実としていいかどうか疑問のある「仏伝」と呼ばれる仏陀の伝記も読みたいところだ。「仏伝」はあちこちに散在している仏陀の伝記の断片を総合して得られるもので、伝説として当初から神秘化されたものもかなりあるだろう。中村元もこの「仏伝」を語っており、中村元の目で見た仏陀の人生も読んでほしいものだ。
・・・仏陀の光・・・
私が中村元の著作を連続して読み、それから何ヶ月かして思い出してみて、最も印象に残っているのは実はこの「仏伝」の一場面である。それは『中村元選集』の「原始仏教」の中に描かれている釈尊が悟りを開く場面のことである。よく知られているように村娘のスジャータに乳粥を捧げられて釈尊が禅定に入り悟りを開いたと言われる場面である。仏教を学んだ人なら誰しも読んだことのある場面であり目新しいものは何もないはずだ。
ところが中村元の翻訳を通してその場面を読んでいる内に私の目にありありとその光景が浮かんできた。それは禅定に入っている釈尊の姿で、その姿が黄金に輝いていた。姿だけではない。あたり一面が黄金の光に満ち満ちていて禅定の姿はかすかにわかる程度である。仏陀の本質はまさにその黄金の光にあった。なぜ仏像が黄金なのか説明不要だった。中村元も親鸞もこの光を見たに違いない。
発掘歎異抄158回 「元点」 2012年12月号
・・・語学の天才・・・
中村元は語学の天才と言われた人で、仏教学者としてサンスクリット語をはじめ、初期仏教の言葉を記したパーリ語、またチベット語を習得している。さらに世界思想の比較思想をする前提となるヨーロッパの言語を習得している。中村元は比較思想の必要性を痛感し、自ら比較思想学会を立ち上げた。それは思想の優劣を付けるためではなく相互理解のためである。しかしその必要性を痛感してもその前提となる言語の習得が難関である。
中村元は戦前から『東洋人の思惟方法』でインド、チベット、中国、日本、韓国の思惟方法を比較検討し著作にした。さらにそれをベースに『世界思想史』に取組んだ。『東洋人の思惟方法』で一つの基準になっているのは各国に流布した仏教を比較するということである。仏教の受容の仕方によって自ずから各国人の思惟方法の違いがわかるという発想である。これはまだ仏教の範囲である。
・・・「八宗の祖」・・・
しかし『世界思想史』になると知らない人にはこの人の元の領域が何だったのかほとんどわからないのではないだろうか。東西の比較思想を通しての相互理解が一つの柱なのでキリスト教と仏教の占める割合が大きいがそれだけではない。また思想史と名付けているように各時代に渡っている。人類を一つの生命体のように見なしてその成長を追い、その行く末を見極めようとしているかのようだ。
選集で四十巻という膨大な著作と幅の広さを見るととても一人の業績とは思えない。中村元の大学での卒論テーマは「八宗の祖」と言われた龍樹の『中論』だった。龍樹は空(くう)の哲学を確立した人で空は大乗仏教の基礎理論となっている。浄土教は浄土という世界を建てるので空とは関係ないようだが曇鸞や親鸞の浄土教は空を基本にしている。
・・・空と慈悲・・・
この「空」と「慈悲」が結び付いているのが仏教の特色と言えるだろう。「空」の思想は「有」と「無」の対立を越えたところに生まれた思想なのでそれ自体が争いを越えている。「空」には対立するものが何もない。それ故に寛容も受容も「空」の精神と結び付いている。中村元は龍樹の「空」から出発し、また原始仏典を次々と翻訳した。それによって原始仏教から大乗仏教までインド仏教を原典から知り尽くしたのが中村元だった。
その中村元が仏教とは何かと言われたらおそらく「空」と「慈悲」と答えたのではなかろうか。「空」は「智慧」によって明らかになるので「智慧」と「慈悲」でもいいのだが、「慈悲」が原始仏教から説かれ、「空」が大乗仏教によって説かれたので、原始仏教と大乗仏教とを合わせると「空」と「慈悲」となるのではないかと思う。中村元は慎重な人なのでこういう大雑把な言い方をしないが、著作を読んでいると自ずと感じられることだ。
・・・原典と原点・・・
そしてそれはおそらく親鸞の結論と同じである。中村元は原始仏典の翻訳を多く手がけ、それが文庫本で発行されたことで、多くの人は原始仏教を知ることになった。また大乗仏典の翻訳もしている。文庫本では『浄土三部経』を翻訳している。私はこれにどれだけお世話になったかわからない。『観無量寿経』もこの 『浄土三部経』の一つである。
この文庫本の『浄土三部経』は『大無量寿経』と『阿弥陀経』にはサンスクリットの原典があり、サンスクリットからの翻訳が載っている。『観無量寿経』にはサンスクリットの原典がない。そうすると疑問に思うことがある。代表的著作の一つ『慈悲』やその他の著作で中村元は「慈悲」の説明に『観無量寿経』の「仏心とは大慈悲これなり」を繰り返し引用している。「慈悲」をインドに原典がない言葉を使って説明しているのである。中村元はそのことに全く触れていない。それは不誠実なのではなく原典の有無に関係なくこれこそ真実だと思ったからだろう。親鸞も同様だった。原典より自分に忠実であることが本当の誠実だろう。本当の「原典」は自分という「原点」にある。中村元にとってはそれが「元点」だった。
・・・哲学者・仏教学者の記念館・・・
今年は1912年大正元年生まれの仏教学者でインド哲学者である中村元の生誕百年の年になる。これを記念して命日の十月十日に郷里の松江市に中村元記念館が開館した。仏教に関係する哲学者や仏教学者の記念館としては石川県に西田幾多郎記念哲学館と鈴木大拙館がある。また島根県には山本空外記念館がある。それからすれば中村元の記念館があってもおかしくない。ただ文学者の記念館に比べて哲学者の記念館は多くないはずだ。というのは入館者の数は読者の数に関係するはずで、哲学や仏教学という難しい学問にはたしてどれだけの読者がいるのだろうか。
松江市には中村元も愛読したという小泉八雲の記念館がある。小泉八雲にも仏教関係の著作があり、仏教学も学んだようだが、基本的には小泉八雲は文学者だろう。中村元の著作が末永く読まれるかどうかは私にもよくわからないが生誕百年というのは一つの節目としてはいい時期だろう。島根県は神話の国で、小泉八雲が島根に来たのはそのためだが、仏教にもキリスト教にも関係があり、一つの霊的な聖地なのかもしれないと思えてくる。
・・・日本の聖地・・・
先に述べたように念仏者だった山本空外の記念館やカトリック信者で長崎で被爆した永井隆の記念館がある。いずれも松江市からは近い。また記念館はないが、私が敬愛する加藤辨三郎も現在の出雲市の出身である。加藤辨三郎は協和発酵を設立した化学者で実業家だったが、その一方で在家仏教協会を設立した人で熱心な念仏者だった。浄土教の著作も多く、在家の念仏者としては抜きんでている。
中村元は松江市に生まれたが、松江市で暮したのは幼児期で松江市の記憶はほとんどないようだが、松江市出身であることを誇りとしたのはここが日本の一つの霊的な中心地であることを感じていたからだろう。中村元はインド哲学者としてインドを何度も訪れ、また世界の比較思想を通して、世界各地の聖地を訪れているので、出雲がそれらに劣らない聖地であることを感じていたのだろう。
・・・平和への思い・・・
私は広島の中国新聞から中村元生誕百年記念の原稿を依頼され、それがちょうど広島の原爆記念日である八月六日に掲載された。記事の依頼を受けた時点では七月か八月にかけての掲載ということで、掲載の日ははっきりと決まっていなかったが、中村元の平和への思いを私なりに感じていたので、そのことを記事に書き、またそれなら八月六日がふさわしいだろうと思った。依頼した記者も同様の判断をしたようで、八月六日の掲載となった。
中村元の平和への思いは、中村元の著作を何冊か読むと誰しもが気付くことだろう。中村元はインド哲学を基にして比較思想に及んでいるが、これも思想の相互理解を通して世界平和への貢献をしたいという思いがあったことがわかる。仏教の特質として他の宗教への寛容ということをしばしばあげている。仏教の「慈悲」とキリスト教の「愛」とはよく似た思想であり、比較思想として見た場合は共通点の方が差異よりも多いだろう。
・・・「慈悲」・・・
しかし仏教の場合はその慈悲は寛容と結び付いていて母性的な受容する姿勢が強いが、キリスト教の愛は父なる神の愛として時には厳しく戦う。イスラム思想も同様の面があり、インドで長らく仏教が途絶えた一つの理由はイスラム教の進出によって仏教寺院が破壊されてしまったからだ。そこから二十世紀になって新たに仏教が再興するまで何百年もの歳月がかかった。釈尊の出身である釈迦族でさえもすでに釈尊在世中に滅ぼされている。
戦わない者が結局は滅ぼされることはこの世の常かもしれない。しかしでは戦えば滅ぼされないのか。日本の先の戦争はどうったのか。またイエスも「剣を取る者は剣で滅びる」と言っているではないか。中村元の著作は膨大だが、その代表的な著作『慈悲』で何度も引用されているのは『観無量寿経』の「仏心とは大慈悲これなり」である。中村元の温顔を思うと自然とこの言葉が浮かんでくる。
・・・薬師如来の左手・・・
山梨県で勝沼と言えば葡萄とワインの里として有名だろう。その勝沼に甲州葡萄発祥の地と言われる寺がある。真言宗の大善寺で本堂が国宝となっている。その本堂の本尊が薬師如来である。薬師如来と言えば左手に薬壺を持つ像が最も有名だろう。薬師の名の通りにその薬で病苦に苦しむ衆生を救う仏である。医王仏とも言われる薬師如来には病苦を救う本願があり、薬師如来の十二願として知られる。『薬師如来本願経』が有名である。奈良の古寺には薬師如来を祀る寺が多い。
しかし奈良の古寺で薬師如来像を見ると、例えば薬師寺が本家本元と言っていいだろうがあの有名な薬壺を手に持っていない。ひょっとして病気への験を期待した人によって持ち去られたのではないかと思ってしまうが、そうではないようで、当初は薬壺を持たない薬師如来が普通で、薬壺を持つ薬師如来像が一般化したのは平安時代からのようだ。ではどうやって病気を治すのかということになるが、それはまさに本願力によるのだろう。
・・・葡萄を持つ薬師如来・・・
勝沼の大善寺はどちらのタイプかということになるが、寺伝では開基は行基菩薩ということで、奈良時代の開創の寺なので、薬壺を持たない古いタイプの薬師如来かと思ってしまう。国宝の本堂はいつも開けられていて内部を拝観できるが、残念ながら本尊は秘仏で五年に一度の御開帳ということである。それで写真によって見ることになるのだが、何とその左手には葡萄を持っているのである。
薬師寺の有名な薬師如来は左手に薬壺を持っていないが、その台座には葡萄が刻まれている。また千手観音は様々な持ち物で衆生を救うがその持ち物の一つには葡萄がある。勝沼の大善寺の薬師如来はその葡萄を持っている像である。これは開基の行基菩薩が修行中に葡萄を持った薬師如来を感得し、それによってこの地に葡萄を広めたことによると言う。甲州葡萄発祥の由来と言われる伝説である。
・・・葡萄畑の被爆者・・・
私が大善寺を訪れたのは昨年の夏のことだった。それから一年して広島の中国新聞に私にとって忘れられない葡萄の話が載った。この話は何度か見聞きしたことがあり、それはつらい思い出でもあるので、読もうかどうか一瞬迷ったが、やはり読んでしまった。そして予想通りの話だった。それは広島出身の元プロ野球選手の張本勲氏の原爆体験談だった。張本氏は五歳の時に広島で被爆しており、おそらくこの年代の人が被爆体験を語ることができる最後の世代だろうと言われている。
原爆投下直後に張本少年は家の近くにあった葡萄畑に避難したという。そこには多くの被爆者が避難していた。張本少年には姉がいたが、原爆で顔が焼けただれ誰かわからないほどだった。張本少年は葡萄をつぶしてその姉の口に当てた。「ありがとう・・・」それが張本少年が聞いた最後の言葉だった。この話がひときわ身に沁みたのは我が家にも葡萄の木があったからだ。子どものころは袋をかけて葡萄が実るのが楽しみだった。それは私が戦争を知らない子どもだったからだろう。
・・・「てんし」の白球・・・
張本少年は泣きながら姉の口に葡萄を当てたに違いない。その姿が目に焼き付いてしまう。朽木祥の『八月の光』を読んで間もないころだったので、『八月の光』で建物の下敷きになった少女が少年に「逃げて」と言ったのと重なってしまった。「逃げて」と言った少女が少年にとって天使となったように、「ありがとう」と言った張本少年の姉も張本少年にとっては天使だったに違いない。その姉の名は「点子」という。「てんし」とも読める。
野球少年はやがて球界を代表する左打者となり三千本安打という金字塔を打ち立てた。今年八月五日広島のマツダスタジアムで開かれた「ピースナイター」の始球式を務めたのは張本氏だった。その左手から放たれた球はベースの前ではねた。その一球は薬師如来のもつ左手の葡萄の一粒かもしれない。そこには平和への願いが宿っていた。あるいは白球には白い羽も生えていたかもしれない。
発掘歎異抄155回 「八月の光」 2012年9月号
・・・広島?長崎?・・・
「八月の光」と聞くと人は何を連想するだろうか。北半球は夏なので夏のまぶしい光を連想するだろう。その夏の陽光と重なって別の連想をするのは広島と長崎の人かもしれない。そう言えば広島と長崎では「八月の光」に原爆の閃光が重なっているのだろうと想像がつくはずだ。七月になって刊行されたばかりの『八月の光』という本が届いた。著者は朽木祥。広島出身の被爆二世でこの人が題にしたのだからおそらく「八月の光」には原爆の閃光が重なっているのだろうと想像する。
ただ本を手にしたときにその題名と著者名の他に気になったものがあった。それは表紙の装丁である。彫刻の写真が使われていた。背中に羽がはえているので天使像だろう。白っぽい肌色の像で、少女像のようにも見える。気になるのが左手の付け根の近くで、意図的に付けられたのだろうが傷のようなものがある。そこから血がにじんでいるように見える。この像を見ながら私の好きな船越保武の像かと思った。顔立ちは意志の強そうな感じで長崎の平和公園にある北村西望の平和祈念像にも似ているように見える。しかしページをめるくと伊津野雄二という人の彫刻とあった。
・・・広島で読むヒロシマ・・・
私が天使像から船越保武や長崎の平和祈念像を連想したのは、原爆と天使像の結びつきからカトリックの多い長崎のことを思ったからだろう。しかし朽木祥が書くとすれば広島のことに違いない。「八月の光」はおそらく広島の原爆のことだろう。そう思いながら読み始めた。しかし天使像の残像は強くあった。
『八月の光』は三部作のようになっていて、三人の被爆者の話が三話組み合わされている。いきなり広島弁の会話が出てきて、やはり舞台は広島だったのだとなぜか少し安心するともに、一方では気が重くなる面がある。自分の足下に多くの人の骨がいまだに埋まっていてその人たちの思いはそう簡単には消えないだろうと思うからだ。折しも今年広島出身の映画監督で原爆を描いてきた新藤兼人が百歳の長寿で亡くなったばかりである。新藤兼人にはまだ映画化されていない広島の原爆をテーマにした映画の脚本があったそうだ。
・・・懐かしさと重苦しさ・・・
広島弁の懐かしい響きを味わいながら、一方では当地ならではの重苦しさに耐えながら読み進める。一話目に少女の被爆が描かれるので彼女が表紙の装丁の天使に当たるのかと思うが、そう単純ではない。第二話の主人公の名は「光子」で、彼女こそが「八月の光」に当たりそうだが、なかなそこにまで行き着かない。被爆という重苦しい話なので推理小説的な関心の持ち方で読者を引っ張る必要があるのかもしれないと思いながら読み進む。
第三話「水の緘黙」になると文体はそれまでの三人称から一人称に変り、作品はいっそう重苦しくなる。原爆の落ちた日に人々の助けを求める声に耳をふさいで逃げた少年は記憶を失い自分が誰かわからなくなってしまう。その少年の独白を聞くとこちらも耳をふさぎたくなる。多くの被爆者はそうだろう。
・・・劫火の中で・・・
その少年が心を開き始めるきっかけが教会から聞こえてくるオルガンの響きだった。やがてそれを弾いているのが第一話の主人公の少女とわかる。ああやはり彼女が天使となって少年の心を救うのかと思ってしまうがそうではない。教会に関係する内に少年は被爆によって「神の沈黙」という難問にぶつかった修道士と心を通わせ始め、被爆の日からそれまでふさがれていた耳に何かを聞き始める。
それは被爆の日に逃げようとする少年の耳に聞こえた一人の少女の声だった。建物の下敷きになり火はすぐそこに迫りながら、少女は少年に「逃げて」と言った。それが「助けて」なのか「逃げて」なのか、劫火の轟音の中で判然とはしない。しかし確かに「逃げて」と聞こえた。少年の自己正当化による幻聴なのか。しかし私の目には表紙にある天使像が焼けながらそう叫んでいたように思えた。その時少女の背中には羽が生えていたに違いない。「八月の光」は地獄の底で輝いていた。
・・・六波羅・・・
広島で平清盛展を見た翌月、京都で平清盛像を初めて見た。教科書に載っている像なので誰しもが脳裏に浮かぶだろう。私もいつか見ようと思いながらなぜかこれまで見る機会がなかった。この像が所蔵されているのは六波羅蜜寺である。平家の拠点だった六波羅にある古寺である。このあたり一帯に平家一族の家が甍を連ねて栄華を誇ったという。それが悉く滅びて今は六波羅蜜寺だけが残る。
六波羅というと多くの人にとっては平家の六波羅と、平家が滅びた後、鎌倉幕府がそこに置いた六波羅探題が連想されるだろう。日本史の授業で「六波羅」を覚えた人は多いと思う。しかしその前の段階があり、それは仏教用語としての六波羅だった。正しくは「六波羅蜜」である。六波羅が書けても、六波羅蜜の「蜜」は間違える人が多いだろう。「般若波羅蜜」の「蜜」と同じで仏教用語である。
・・・六波羅蜜寺・・・
六波羅蜜は大乗仏教で使われた言葉で「布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧」という大乗仏教で重視された六の徳目を表す。「禅定」があるので禅宗のことと思うかもしれないが、仏教にとって冥想は必須の実践行だった。浄土教ではこれが念仏に当たる。ただし法然からの浄土教では念仏は六波羅蜜の修行に堪えられない者のためのものになる。
このように大乗仏教にとって重要な実践徳目を名に持つ寺が六波羅蜜寺だが、この寺は市聖として有名な空也が十世紀に開いた西光寺が前身と言われる。それを弟子の中信が六波羅蜜寺と改めたという。西光寺とはいかにも西方極楽浄土を思わせる名だが、意外にも本尊は十一面観音である。この時代の浄土教の中心は、比叡山の源信が『往生要集』で説いた浄土教である。『往生要集』の浄土教は観想念仏が中心で、口称念仏はそれに堪えられない者の念仏だった。空也は口称念仏を唱えたので空也の方が後の法然に近い。
・・・鳥部野と六波羅・・・
しかし六波羅蜜寺の本尊が十一面観音であることからもわかるように法然と同じ専修念仏かというとそうは言えない。六波羅蜜寺は地蔵信仰ももっており、空也の念仏は死者の鎮魂に中心がある念仏だったようだ。というのは現地に行けばわかるが、東山の麓である鳥部(辺)野に近く、ここが鳥部野の入り口だったという。現在西本願寺の大谷本廟も鳥部野の一帯といっていい地にあり、鎮魂の場だった。
だから本来鎮魂の場所の入り口である六波羅に平家が本拠地を置いた方がむしろ不思議である。まるで『平家物語』に描かれる自らの滅亡を予見していたかのようだ。結局平家が滅び、六波羅探題を置いた鎌倉幕府も滅び、もともとこの地にあった六波羅蜜寺だけが残った。信仰の力は武力に優ると言っていいのだろうか。それを象徴するように寺の宝物館では平清盛像と空也像とが並んでいる。
・・・二つの空ろ・・・
この対比は意図的なものかどうかわからないが、どちらも教科書で見たことがある像である。平清盛像は剃髪した僧形で、経巻を手にして読誦しているように見える。空也像は鉦をたたきながら念仏し、口からは六体の小さな阿弥陀仏が出ている。これが口称念仏を表す。予備知識がなければどちらも僧の修行する姿に見えるだろう。しかし知っていて見るせいだろうが、平清盛像の経典を見る目はいかにも空ろに見える。手にしているのは『平家物語』に思え、一族の無常をかみしめているかのようだ。その意味では感慨深い。
空也の目も空ろと言えば空ろだが、それはこの世の無常を見つめるためではなく、それを越えて虚空に浮かぶ浄土を見つめて恍惚としているかのようだ。空也は踊り念仏を始めたと言われるがこの恍惚感からこの像が踊り始めたとしても少しも不思議ではない。平家は壇ノ浦に沈み、念仏は無常を越えて今も活きている。無常に沈んだものとそれを越えるものがここにある。清盛も浮かびたかったに違いない。しかし彼の願った繁栄の継続は無常を越えることではない。清盛は六波羅にいて空也のことを思ったことがあるだろうか。
・・・三大無常観の文・・・
今年の五月に講演を依頼されたので、ちょうど今年放映されているNHK大河ドラマ「平清盛」に関連して、『平家物語』、『方丈記』、蓮如上人の「白骨の御文章」の三者を関係づけて「無常と永遠」という題で話しをした。『平家物語』と『方丈記』の冒頭部分、そして「白骨の御文章」。この三者は日本人の「無常観」を代表するものと言っていいだろう。『平家物語』と『方丈記』の冒頭部分は中高の国語教科書に入っており、それを暗唱した人も多いだろう。歳を取るほどその意味は身に沁みてわかるはずだ。真宗門徒ならそれに「白骨の御文章」が加わだろう。
私が『平家物語』に感心するのは「沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。」と書いていることだ。「沙羅双樹」は言うまでもなく釈尊の入滅時に枯れたという木であり、それによれば「盛者」はここでは釈尊を表していることになる。「無常」の理を説いた釈尊自身も決して無常から逃れることはできなかったということであり、その厳然とした事実を真正面から見つめている。
・・・作品を貫くもの・・・
『平家物語』が全体として無常観を表す作品かというと議論の分かれるところだろう。『方丈記』の場合は分量の少ない作品なので無常観で統一されている作品と言ってかまわないはずだ。『平家物語』は膨大な作品で、一人の作者によって作られたかどうかわからないので全体を統一するものがあるのかどうか問題になるのは当然である。読み進む内に見せ場となる合戦の場面の臨場感に引き込まれると無常観など吹き飛ぶのも事実である。
私は授業で長年この作品とつきあってきたが、次第に無常観に貫かれていると感じるようになってきた。そしてもう一つは権力闘争と殺戮に明け暮れる武士達のもつ罪業観である。この無常観と罪業観は作品の底辺に流れ続けており、この時代の人々の共通認識だったように思う。無常観と罪業観を人々に与えたのはやはり仏教だろう。浄土教はその両方の認識の上に成り立っていると言っていい。
・・・「平家納経」と平重衡像・・・
五月の講演の前に広島県立美術館で、「平清盛展」が開かれていたので、五月の連休中にそれを見に行った。講演の依頼がなくても行くつもりだったが、講演がなければ五月の連休が過ぎてから行くつもりだった。混んでいるとじっくり説明を見ることができないからだ。朝一番で行ったせいかすいていてじっくりと見ることができた。私は一通り見た後でもう一度戻るのが普通で、そうすると何日か経つと記憶に戻るのは一つか二つになる。
今回の展示の目玉は何と言っても国宝の「平家納経」だった。平氏一門が現世の繁栄と来世の安穏を祈って厳島神社に奉納したものである。私はこれを何度か見ている。今回もじっくり見たが、なぜか印象に残ったのはそのような国宝級のものではなかった。江戸時代の作品で平重衡を描いたものだ。時代があまりに違うので文化財指定を受けるのはまず無理だろう。それにも関わらず華やかな「平家納経」よりも平重衡像の方が記憶に蘇る。
・・・永遠を見つめる目・・・
それはおそらく華やかな「平家納経」との対比のせいだろう。平重衡は南都焼き討ちという東大寺と興福寺を焼いた人であり、世間の非難を一身に浴びた人物である。最期は南都の裁断により打ち首となった。しかし彼は自らの罪業を自覚した上で法然に帰依し、法然は彼の犯した罪を重々承知の上で念仏と戒を授けている。展示されていた像は合掌する重衡像である。武将としての姿ではない。
そのあまりに素朴な合掌の姿は本当にそうだったのではないかと思わせるものがある。江戸時代の作品なので重衡の実像とはほとんど関係ないはずだ。ではどのようにして描かれたのかというと『平家物語』に描かれた重衡の法然帰依の場面による想像だろう。その心情への共感がこの作品となったのだろう。その帰依の思いは私と重なる。講演の終わりに私はこの図を示した。彼の目が無常の中から永遠を見つめているように見えたからだ。
・・・耳を澄ませば・・・
東日本大震災から一年経った頃のこと、ある家電量販店に用があってでかけた。平日の夕方で人はそれほど多くない。店内のエスカレーターに乗ると、どこからかよく聞いた曲が聞こえてきた。森山直太朗の「さくら」だと思った。耳を澄ますと森山直太朗以外の声がバックコーラスとして入っていて実に美しく聞こえる。用があったのがちょうどその曲の聞こえてきた階だった。エスカレーターを降りてすぐ目の前のテレビにその演奏が映し出されていた。何台ものテレビで同時にである。そこは卒業式や入学式を意識してか、新生活用の家電をそろえたコーナーだった。
コーラスの歌声があまりに澄んで清らかだったので誰が歌っているのだろうと見ていると、森山直太朗と向き合う形で女子高生の一群が歌っていた。音楽室らしい。カメラは女子高生の一人ひとりを映し出す。このように独唱とコーラスが向き合って歌うのはまずコンサートではないだろう。しかしこの場には実にそれがよく合っていて、本当に心と心が響き合っているのが女子高生の表情からもまた熱唱する森山直太朗の表情からもわかる。
・・・「偽りのない言葉」・・・
何度も聞いた歌だがこの時ほど歌詞が胸に迫ってきたことはなかった。その中の「偽りのない言葉 輝ける君の未来を願う本当の言葉」には心から感動した。「本願」の心がそのまま歌詞に乗り移っているかのようだった。続く「いつか生まれ変わる瞬間(とき)を信じ」「永遠(とわ)にさんざめく光を浴びて」は散りゆく桜のことを歌っているのだが我々のことを言っているように聞こえた。
この女子高生は誰なのだろう。東日本大震災から一年経った頃なのできっと東北の高校生だろうと思った。卒業式が近いのだろうか。映像は録画だったようで、繰り返し流された。いつまでも聞いていたい名演だった。電器店の人が東日本大震災から一年の節目に合わせてこの曲を鎮魂の思いを込めて流しているのではないかと思え、その思いに共感した。
・・・「さくら」再び・・・
その後、この演奏をもう一度度見たくてインターネット上にあるのではないかと思い検索した。ある動画サイトでそれを見ることができた。その他の情報を合わせると、この女子高生は宮城県第三女子高校の音楽部の生徒だとわかった。この高校は2010年に共学となり、宮城県仙台三桜高校と改称している。私は演奏は東日本大震災の後だと思ったのだが、そうではなく2008年の演奏だった。
2003年発売の森山直太朗の「さくら」にコーラス入りバージョンがあり、それを担当したのが第三女子高校の音楽部だったそうだ。森山直太朗が再び同校を訪れてCDで歌った部員の後輩に当たる現役部員とともに歌うという趣向の番組だったようだ。映像には現役女子高生と森山直太朗が歌うのを音楽室の中で聞き入っていた女性達が映っていたが、それはCD録音時のOGだったようだ。
・・・生きとし生ける物へ・・・
インターネット上には2011年の震災後に同校音楽部が仙台市の街頭で開いたチャリティコンサートの様子もあり、合わせて見ることができた。街頭で初めは人が少なかったのにしだいに人が増えていく。街角で決して音楽にいい状況ではない中で歌声に聞き入る人たちがいる。その曲の中に森山直太朗の「さくら」もあった。今度はバックコーラスではなく全てを彼女たちが歌っている。
私が電器店で聞いた演奏は音楽室の中での演奏で、スタジオほどではないだろうが音質はよかった。街頭の演奏はそれに比べれば決してよくない。しかし心を打たれるのは同じだった。歌声に翼があった。それは聞き入っている人の表情からもよくわかる。苦しい状況に置かれていた人が多かったに違いない。その聴衆の中に犬を連れた人が映っていた。犬がおとなしく聴いている。本当に曲がわかっているような聴き方だった。森山直太朗には「生きとし生ける物へ」という歌がある。仏教で言えば「衆生へ」である。本願の心は生きとし生ける物に必ず伝わるのだと思う。
・・・「安穏」最終号・・・
三月十一日に地元の中学校で卒業生に話しをしてしばらくして西本願寺から「安穏」の第十号が届いた。「安穏」は大遠忌記念誌だったので今回が最終号である。一面が「永遠」と題された高階杞一さんの詩で、写真には前面に一面の菜の花、背景に雪をいただいた高峰、その間に小さな子どもの手を引いた親子連れが写っている。高島野十郎の絵によく似た構図で「れんげ草」という作品があり、昨年この連載に書いた。そこでは雪をいただいた連山の前に菜の花畑とれんげ畑が広がっている。あの絵の題も「永遠」でいいのだろう。
花畑と雪をいただいた連山という組み合わせは、冬から春への季節の移り変わりの中での一瞬の出来事に過ぎない。雪と花、厳しさと暖かさと、積もっては融けるものと、開いては散るものと。しかし確かに私たちはその変化する一瞬の美の中に永遠への入り口を見出すのだろう。仏教はその二つの姿を無常と涅槃、此岸と彼岸として語ってきた。
・・・「親鸞聖人歴史紀行」最終回・・・
しばし写真に見とれ、詩を読み、中を開いていくと「親鸞聖人歴史紀行」の連載記事があった。これも今回が最終回である。今井雅晴氏の解説で親鸞聖人の最晩年と終焉が語られている。この連載でも書いた大谷本廟の奥の御荼毘所の写真も載っている。そこを訪れてからまだ半年ほどしか経っていないが、暑い日に墓地の中をくねくねと標識を頼りに歩いたのを思い出し、懐かしくなる。
この記事に八十三歳から終焉の九十歳までの親鸞聖人の生活が語られている。精力的な執筆の様子がよくわかる。記事によれば現在残っている親鸞聖人の真筆はこの時期のものが多く、八十三歳から八十五歳までの三年間で真筆の六割、前後の一年ずつを加えて八十二歳から八十六歳までの五年間では真筆の八割を越えるという。このエネルギーはいったいどこからくるのだろう。衰えゆく肉体の一方で変わらないものが働いていたのである。
・・・暁の寅・・・
その執筆と伝道の生活の中で今井氏が注目されているのが八十五歳の時の『正像末和讃』である。この「和讃」は冒頭に「夢告讃」が置かれていることで有名である。おそらくこの夢告を受けたことがこの「和讃」執筆の直接の動機となったと思われる。「康元二歳(1257年)丁巳二月九日夜寅時夢に告げていはく」の前書きの後、「弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな 摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり」と続く。
「寅時」は午前四時ころである。二十九歳の時に六角堂で夢告を受けたのも『恵信尼消息』によると「九十五日のあか月(暁)」とあるので、同じような時間帯だったのではないかと思う。同じ京都で五十年以上経ての夢告であるが、自分の半世紀以上に及ぶ、本願の念仏と伝道の生活が間違っていなかったことを証しされたものとしてひときわ感慨深いものがあったに違いない。記事には書かれていないが、前年の八十四歳の時には長男の善鸞の義絶という痛ましい事件が起きていた。
・・・揺るがない大地・・・
この「夢告讃」を読んだとたんにこみ上げてくるものがあり、止まらなくなった。これまで私自身が苦しい時に何度これを読み返して救われてきただろう。ただその感激はいつまでも続くわけではなくやがてまたもとの凡夫の生活に戻ってしまうのだが、それでも確かにその時には永遠の中に生かされていたのだと思う。この永遠に触れることがなければとてもこの世を生きていくことはできない。
私は昨年の夏に広島で今井氏の講演を聞いた。今井氏は茨城県にお住まいで東日本大震災の経験者である。宗教史の専門家なのでその時には教えの話しは特になかったが、今回の記事には感動した。あらためて思う。大遠忌の年は東日本大震災の年でもあった。それはこの世の無常をひときわ知らされた年だったのか、あるいはそれを通して永遠を見出した年だったのか。これからも大地は揺れるかもしれない。しかし信心の大地は揺るがない。そこは「弘誓の仏地」だからである。
・・・・三月十一日・・・
三月十一日、2011年の東日本大震災からちょうど一年の日に、地元の中学校で卒業生に話しをしてくれるように頼まれた。以前にも同じ依頼があり、その時は「母校」ということに関連して「母」なるものについて話した。同じような内容でかまわないということだったが、内容のことよりも、三月十一日という日のことが気になった。東日本大震災から一年の日で、日曜日だった。家で静かにして追悼式をテレビ中継で見ようと思っていた。しかし仲介者との縁もあり、断り難く引き受けることになった。これは「きずな」なのだろうか、「ほだし」なのだろうか。
講演用のメモを作っておいて当日の朝、中学校に行く前に時間があったので、NHKの教育テレビで「日曜美術館」を見ていた。その日はロートレックの美術館の紹介があり、その中で特に「母と子の絆」がクローズアップされていた。三月十一日の放送ということで、大震災をきっかけに見直された「絆」を意識したものだったようだ。これまでもこの番組でロートレックの特集はあったが、以前とは少し違う取り上げ方だった。
・・・ロートレックの最期の言葉・・・
ロートレックは貴族の家に生まれるが、骨の発育に問題があり、身長が低く、病弱だった。そのため父の望むような強い貴族の男性にはなることはできず、母の愛情のもとに育てられ、画家となるべくパリに出た。モンマルトルに住んで夜の世界に出入りし、ポスターの制作で名を上げる。しかし三十代で病が重くなり帰郷し、母に看取られて亡くなる。
ここまでのストリーはよく知られた話しであり、特に目新しいことはなかった。その最後に、彼が亡くなる時に母に語ったと言う言葉が紹介された。ロートレックは「お母さん、あなただけですよ。」と言ったという。この短い言葉に込められた思いが私の心を打った。解釈は不要だろう。ロートレックの最期の言葉がこの言葉だというのを私はこの時、初めて知った。モンマルトルの女性をあれだけ描いた彼が、「お母さん、あなただけですよ。」と言ったという。アナウンサーの言った「母と子の絆」とはこのことだったのだ。
・・・底冷えの中・・・
この番組を当日東北で見た人は多いに違いない。寒さの中でこの言葉をどのように聞いただろう。私は中学生に話しをするのにこの内容を入れようと思ったが、メモを書き直す時間はなく番組が終わって間もなく出かけた。案内された校長室は暖房が効いていたが、その後、卒業生が待つ体育館は何百人もの人がいるにも関わらず底冷えがして寒かった。
長い話しはできないので、母校という言葉にある母なるものの話しをするのに、今見てきたばかりのロートレックの最期の言葉を紹介した。それに続いて「母と子の絆」はどこから始まるのだろうと話した。おそらくそれは生まれる前の母の胎内での十ヶ月間からだろう。特にその間、母と子をつないでいる臍の緒はまさに「つな」である。生まれる時にこの「つな」は一時的に切れることになるが、形を変えて目に見えない「絆」となって生涯切れることはない。ロートレックの最期の言葉はそのことをよく表しているように思う。
・・・切っても切れないもの・・・
ロートレックの生涯を悲劇と言っていいのかどうかわからない。しかし少なくとも母親に看取られて亡くなるということは幸せだったのかもしれない。それは見方を変えれば親不孝ということにもなるが、ロートレックの最期の言葉はそれを補って余りあるだろう。
続いて私は「絆」という字は「ほだし」とも読み、そうなると意味が変わると話した。君たちはやがて「きずな」と「ほだし」の間で揺れ動くことになるだろう。戦後の日本社会はこれまで「切る」ことを優先してきたが、切っても「切れない」ものがあることに今回の大震災をきっかけに気付いたのだと思うと話した。「母と子の絆」はこの世でのものだが、如来という「親様」との仏縁という絆は永遠である。それが「摂取不捨」である。ここに「つなみ」でも切れない「つな」がある。
・・・震災前と震災後・・・
東日本大震災からまもなく一年になる。この一年の間に日本社会はどう変わったのだろうか。第二次大戦の時に戦前と戦後という時代区分が生じたように震災前と震災後という時代区分が生じたと言えるだろうか。被災地を見た人からは戦後の焦土のようだという言葉をよく聞いた。私も昨年の夏に東北を巡ったのである程度のことはわかる。時代が変わったかどうかはまだ判断が難しいが変化が何も起こらないということはないだろう。
震災後から頻繁にマスコミで使われた言葉が「絆」(きずな)だろう。2011年の年末には「今年の漢字」にも選ばれた。人と人との強い結びつきを表す言葉として使われた。命綱のイメージと重なっているように思う。「綱」が語源に入っているが、本来は動物をつなぎ止める綱だったがそれが人に転用されたものだという。そのことから人と人との断ちがたい恩愛の情をさすようになった。
・・・「きずな」と「ほだし」・・・
これまでマスコミでは専らプラスのイメージで使われてきたが、語源に遡ってみればわかるようにマイナスのイメージもある。動物をつなぎ止める綱だったということは動物から見れば自由を束縛されるものである。そのことから束縛や係累という意味もある。その意味で読むときは同じ字でも「絆」(ほだし)となる。仏教では捨て去るべきものとなる。
このマイナスのイメージで言われることはこの一年ほとんどなかっただろう。しかしよく考えてみると「きずな」と「ほだし」が表裏一体であることは、現代で「きずな」が薄れつつあったことの理由としてよくわかる。「きずな」は肉親の愛情がその始まりだろうが、愛情は執着となり子にとっては重荷となる。個人の自由を重んじれば「きずな」は「ほだし」としてそこから逃れたいものとなる。仏教でも出家者は恩愛は捨てるものだった。出家者は孤独は覚悟の上だが、個人の自由を求めると「無縁社会」が広がることが予想できる。東日本大震災の前後で「ほだし」から「きずな」への転換が起こったのだろうか。
・・・縁・・・
「絆」と似て「縁」も両面的な意味をもって使われてきたようだ。ただし扱う世界が拡大する。「十二因縁」は「無明」で始まり「生老死」で終わる流転の縁起でこれが輪廻の正体である。この因縁は滅すべきもので無明が滅すれば流転は消える。これを還滅縁起という。出家してまず人間世界の「ほだし」を断ち、さらに修行し無明という因縁を滅して智慧を得るのが仏教の基本のあり方だった。
しかし断つ縁がある一方で、仏縁という形で仏と人との間に結ばれる真の縁も表れた。真実の世界にも「縁起」があり、「法界縁起」として説かれるようになった。こうして捨てるはずの縁から大事な「御縁」として新たな縁が始まる。仏と人の縁だけでなく仏教徒同士の縁も仏縁として重視される。また縁は「縁結び」として結びを重んじる神道でも重視される。縁は今や日本宗教の大事な要素となっている。「縁」の不思議さを感じさせる。
・・・『徒然草』と『歎異抄』・・・
『徒然草』で吉田兼好はこの「絆」の両面性を見事に描いている。ある人が「子故にこそ、万のあはれは思ひ知らるれ」と語ったのに感心している。兼好は僧だが「世を捨て」た人が「ほだし多かる」人を見下すのは間違いで、「恩愛の道」を知ってこそ「慈悲」がわかるという。私は「ほだし」というとこの文章を思い出す。記憶のある方も多いだろう。
しかしこのような人の慈悲で本当に人が人を救えるのだろうか。『歎異抄』で親鸞は「今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべき」と言う。これは家族を持ち「絆」の両面を知ったうえでさらに仏と人の真のつながりである仏縁に目覚めた人の言葉だろう。我々は「きずな」と「ほだし」の間で揺れ動いている。その揺れを飛び越えたところに仏の御手はある。それを「横超」と言う。心の震災後には「安心」がある。
・・・来迎図・・・
「法然と親鸞ゆかりの名宝展」は国宝や重要文化財がずらりと並んでいた。前回に書いた国宝の坂東本『教行信証』はその一つである。他に図版で何度も見ながらまだ見ていない知恩院所蔵の「阿弥陀二十五菩薩来迎図」も展示されていた時期があった。私が行った日は残念ながらすでに展示が終わっていた。画面の左上から右下の念仏者に向かって雲に乗った聖衆が降りてくるもので、そのスピード感から通称「早来迎」と言われる。おそらく数ある来迎図の中で出色のものである。
この来迎は法然上人の生涯を描いた国宝「法然上人行状絵図」での法然上人の往生の場面にも描かれている。床で合掌する法然上人と来迎した阿弥陀仏が金色の光線で結ばれている。いわゆる紫雲たなびき音楽が鳴り響くという定型化された来迎と往生の場面である。これが当時の来迎と往生の理解で親鸞聖人筆の『西方指南抄』でもそのように描かれており、親鸞聖人も法然上人の往生をそのような奇瑞を伴うものとされていたのだろう。
・・・親鸞聖人の往生・・・
ところが同じく展示されている幾つかの親鸞聖人の絵伝にはこの来迎に当たるものが描かれていない。展示ではこの差が明らかで、あまたの来迎図を見ているとこれが親鸞聖人という念仏者として尊敬された人の往生の場面としてふさわしいのかという疑問が出てくるのは当然だろう。同様の疑問は親鸞聖人の往生に立ち会った人々の間にもあったようで、末娘の覚信尼は越後にいた恵信尼にこの質問をしたようだ。それに対して往生間違いないと答えたのが「恵信尼消息」である。
この手紙は大正時代に西本願寺で発見された。以前述べた新潟県上越市板倉近辺が晩年の恵信尼の所在地だったことは、この手紙によってわかったことだ。この手紙の発見者は鷲尾教導師で新潟県の僧侶だった。これも一つの縁だったと言えるだろう。この手紙も展示されていた。仮名文字が多い手紙なので素人には解説がないと読みづらいが、重要な場面は字を追いながら読むことができた。
・・・『法然上人伝記』・・・
この手紙が発見された大正時代に浄土宗でも重要な発見があった。京都の醍醐寺で発見された『法然上人伝記』である。法然上人のそばに晩年まで仕えていた源智によるもので、醍醐寺で発見されたのはその写本である。その中にいわゆる「悪人正機説」が法然上人から源智への「口伝」としてあったことが書かれていた。西本願寺での「恵信尼消息」の発見はそのまま受け入れられたのに比べて、この『法然上人伝記』の「口伝」は浄土宗にすんなりと受け入れられたとは言えない。
今回この醍醐本『法然上人伝記』が展示されていた。重要文化財や国宝ではないが、この本を展示した主催者には敬意を表したい。「悪人正機説」が法然上人から数限られた門弟への口伝であったことがこのことからわかる。『選択本願念仏集』が法然上人の主著で、数限られた門弟にだけ書写が許された。親鸞聖人もその一人である。さらにごく少数の人に「悪人正機説」の口伝があった。
・・・光る線・・・
浄土真宗では本願寺第三代覚如の書いた『口伝抄』にこの口伝があったことが述べられていてすでに明らかだった。『法然上人伝記』にも「口伝」と書かれ、やはり「口伝」だったことがわかる。写本には読みやすい字で「善人尚以往生況悪人乎事」(善人なほもって往生す、いはんや悪人をやの事)とあり、その下に「口伝有之」(口伝之有り)とある。
二人の師弟関係をよく示すのが法然上人から親鸞聖人への『選択本願念仏集』の付属とそれに伴っての法然上人の影像の付属で、これは『教行信証』に書かれている。しかし「悪人正機説」の口伝のことは『教行信証』には書かれていない。この口伝の重みがわかる。その口伝が公開されたのが覚如の『口伝抄』と唯円の『歎異抄』である。今回、蓮如による最古の『歎異抄』の写本も展示されていた。如来と念仏者を結ぶ線は来迎を待たなくてもすでにある。この口伝も一本の光る線である。
・・・「法然と親鸞」展・・・
2011年の法然上人八百回大遠忌と親鸞聖人七百五十回大遠忌を記念して、ここ何年か展覧会が開かれてきた。その最後を飾るのが東京国立博物館で2011年10月から12月にかけて開かれた「法然と親鸞ゆかりの名宝展」だった。NHKと朝日新聞他の主催で、「師弟800年ぶりの再会」が展覧会のキャッチ・フレーズである。会場に朝日新聞の号外があり、その一面には左に法然上人、右に親鸞聖人の影像が並べられ、二人が向かいあって念珠を繰りながら念仏しているように見える。ふくよかで穏やかな法然上人と眉が跳ね上がり老いても精悍な風貌の親鸞聖人とが向き合って対話するかのようだ。
私は11月の下旬に上京する予定があり、この展覧会を見ることができた。この年に親鸞聖人関係の展覧会を見るのはこれで四回目だった。6月と9月に京都の西本願寺前に開館した龍谷ミュージアムで見たのと、全国を巡回し広島でも開かれた親鸞展とで三回、今回の東京での展覧会で四回目である。重要文化財や国宝の数では今回が上回っている。また法然上人の展覧会は今回が初めてだった。
・・・年齢差・・・
広島での展覧会は文化財の数では劣るもののユニークな展覧会でこういう展覧会もあるのかと感心した。重要文化財や国宝の数で競うのではなく珍しいものを見せるという展覧会だった。例えば越後の居多神社に伝わる親鸞筆という夕陽の真ん中に南無阿弥陀仏の名号が書かれた日の丸名号、関東に伝わる有髪の親鸞聖人像、お姫様姿の恵信尼像などだ。
考えて見れば法然上人と親鸞聖人との別れに際して朝日新聞の号外に載せられているような姿で両者が別れたということはない。法然上人の姿は今回の展覧会に出ている影像のままだろうが、親鸞聖人は当時三十五歳である。老境の親鸞聖人像とは五十歳ほどの年齢差がある。その意味では広島で見た有髪の親鸞聖人像は中年期のもので年齢的にはこちらの方が近い。二人は四十歳の年齢差がある。
そうは思うものの、この年齢差を受けながら法然上人の跡をたどったのが親鸞聖人の歩みである。法難での別れの時に目に焼き付いた法然上人の姿を追いながらそこに近付いていった親鸞聖人の姿を思うと、中年期の姿も老年期の姿も両者ともに尊いものに思える。会場でとりわけ私の心を打ったのは、展示された『教行信証』の「後序」という後書きの部分だった。ここに法然上人と親鸞聖人とが別れるきかっけとなった法難の記述がある。
・・・『教行信証』坂東本・・・
今回私が見ることができたのは東本願寺が所有し国宝となっている『教行信証』の坂東本と言われるものである。この本を以前見たのは二十代の時でそれから三十年くらい経った。次に見るのはいつのことかわからないので人波に押されながらもできるだけ筆跡を追って読んだ。楷書で書かれているので古筆に慣れていなくても読むことができる。この法難で親鸞聖人は他の僧とともに僧籍を剥奪され流罪となった。後序に「予はその一なり」と書かれている。この「一なり」を見た時に何とも言えないありがたい気持ちになった。
・・・たった一人の宣言・・・
その前の文脈には自分達を流罪や死罪にしたことへの強い非難の言葉がある。それからすれば、この「一なり」には何の罪もないはずの自分がそれに連座させられたことへの抗議の気持ちが込められているとも読めるだろう。しかしその直後に「しかればすでに僧に非ず俗に非ず。この故に禿をもって姓となす。」と続く。「非僧非俗」の宣言である。逆境を逆手にとって「非僧非俗」「同朋同行」という新たな仏教の始まりの宣言である。
法難に遭った人でこの宣言をしたのは親鸞聖人ただ一人である。この「一なり」は連座者の立場を明らかに超えている。自分の道をここに発見した人の言葉である。会場には何点かの「二河白道図」があったが、その中の白い道を歩むのはただ一人である。法難をきっかけにあらためて一人の道が開かれた。この「一なり」が今も私の中で響き続けている。
・・・稲田草庵跡・・・
稲田の西念寺を訪れるのは二回目だった。山門は以前と同じ茅葺きで、いかにも稲田の草庵という趣だったが、本堂を見て驚いた。ずいぶんと大きく立派になっている。信濃の善光寺を小規模にした感じである。新しい堂の由来が書かれた碑があり、親鸞聖人七百五十回大遠忌を記念して浄財を募り建て替えられたものだそうだ。全国から団体で参拝に訪れる人のために広さが必要になったようだ。
この本堂の右手の山に聖徳太子を祀る太子堂と親鸞聖人御頂骨堂がある。西念寺は津に移転する前の高田派の本山だった専修寺と近いが高田派ではなく、また西本願寺や東本願寺からも独立した単立寺院という形になっている。これは真宗門徒が宗派を越えて参ることができるようにとの配慮のようだ。境内は狭いが、本堂と廟所と太子堂を備えているのは初期の真宗寺院のあり方に近いのだろう。
・・・御荼毘所・・・
京都で荼毘に付された親鸞の遺骨は関東の門弟によって持ち帰られた。その親鸞の荼毘所と伝わるのが大谷本廟から少し離れた場所にある御荼毘所である。大谷本廟からここに行くには途中に日蓮宗の寺の墓地を通らなければならない。私は西本願寺での大遠忌法要の後にここを訪れた。順序から言えば夏に先に西念寺を訪れて御頂骨堂に参り、後で御荼毘所を訪れるという時間の順序が逆転した形で訪れている。過去に戻るような感じである。
この日蓮宗の墓地を通るのは寺の好意によるということで確かにそうだろう。「南無妙法蓮華経」の題目が刻まれた墓や墓標が夥しくある。その中を進み、谷に下りた所に御荼毘所がぽつんとある。題目に囲まれた中での念仏者の御荼毘所というのは感慨を催させられる。親鸞在世中には題目の声は関東でも京都でも聞こえただろう。過去に戻るようだ。
・・・越後旧蹟・・・
私は西本願寺の大谷本廟や、東本願寺の大谷祖廟、高田派の専修寺の廟にも参っているので、ほぼ主な真宗の寺の親鸞聖人廟には参っているのだが、いつか参りたいと思いながら機会のなかったのが親鸞の妻だった恵信尼の廟である。今回越後の旧蹟巡りをする際に、最近新しくなったという恵信尼廟を訪れるつもりでいた。親鸞が越後流罪になり暮らした場所は越後国府があった上越市の直江津付近と言われている。ここには五智国分寺があり、草庵跡がある。またその後移転した草庵跡が西本願寺国府別院となっている。上陸した居多ヶ浜には記念の石碑や堂がある。私がこの周辺の旧蹟巡りをするのは二回目だった。
この直江津周辺からかなり内陸に入った上越市板倉近辺が晩年の恵信尼が暮らした場所と言われている。晩年の恵信尼が何人かの子どもを連れて越後に帰っていたことは残された手紙から明らかで、そこで出てくる地名に板倉付近の地名が多い。現在この地に残されたいた五輪塔を恵信尼の墓に比定している。
・・・「ゑしんの里」・・・
現在はその周囲が整備されて「ゑしんの里」という立派な施設があり、また隣接して西本願寺による恵信尼を記念する会館がある。直江津周辺の旧蹟に近付くような充実ぶりである。写真では五輪塔を何度も見ていたが、なかなか行く機会がなかった。私は直江津周辺の旧蹟巡りをして日を変えて板倉を訪れた。
周辺は田園地帯で、鎌倉時代はもっと人口は少なかったはずだ。その中に突如として近代的な「ゑしんの里」が現れる。上越市に合併する前の板倉町が同町出身の実業家の援助を受けて開設したという。ミュージアムがあり、見慣れた恵信尼の絵像が掛かりその手紙が解説されている。いったん外に出て池の中の道を通り、墓に向かう。ちょうど雲の切れ目から日が差し荘厳な雰囲気となった。五輪塔だからそれほど大きなものではない。手を合わせてお参りした後、近付いて手を触れた。何とも言えず暖かく血が通っているようだった。手を触れてその温もりを感じた瞬間に何とも言えない思いがこみ上げてきた。親鸞とともに同じ道を歩んだ人の温もりだった。離れていても二人の心は念仏で結ばれていた。
・・・小説『親鸞』・・・
九月の上旬に大遠忌の法要に参加し、その後、その法要の冒頭で読まれた和讃の「苦悩の有情をすてずして」という一節がとりわけ心に響いていたころ、新聞に連載中の五木寛之の小説『親鸞』に、同様のことが関東の稲田の草庵で親鸞の言葉として語られる部分があった。私は旧蹟巡りで関東で親鸞が布教した稲田の草庵跡と言われる西念寺に行ってきたばかりでもあり、見事なタイミングだった。
小説では親鸞が関東に赴いたのは宇都宮頼綱を筆頭とする宇都宮家の要請である。宇都宮頼綱は法然上人の門下だった人である。同じく坂東武者だった熊谷直実とよく比べられる。法名は同じく蓮生である。熊谷直実が無骨な武士だったのと比べると宇都宮頼綱は歌人であり、一級の文化人である。「百人一首」は宇都宮頼綱の要請で縁戚関係にあった藤原定家が撰んだものが原型と言われている。
・・・武士と念仏・・・
ただ主君がそうだからと言って家臣達が念仏の教えをそう簡単に受け入れるはずはない。源平の合戦から間もなく、戦功を立てることが武士の誉れだった時代に、悪人の自覚から救いを求める本願念仏の教えは、それまでの自分の人生を否定することになるのだから大転換である。熊谷直実は『平家物語』にあるように、我が子と同年齢の平敦盛を討ち取った時に武士であることの罪業と無常を感じて出家したと言われている。それだけに求める気持ちが強く、法然上人に信頼された。
求める気持ちのない者からよく出る質問は仏とはどのようなものかという質問である。仏像の知識くらいはあるが、本当にそんなものがあるのか、仏の教えを説くならば仏がわかって説くのでなければおかしいはずだ。これはもっともらしくて実は法然・親鸞の浄土教から最も遠い質問である。なぜなら法然も親鸞も比叡山で仏の姿を見る観相念仏に挫折した人だからだ。そこから仏の本願に基づく称名念仏を説くに至った。仏の姿を見る見ないのと救いが関係ないのが肝心な点である。
・・・心の闇を晴らすもの・・・
小説『親鸞』では比叡山での修行に挫折した親鸞が法然のもとに通い続けて法然に帰依した時のことを関東の人々に語る。心の闇を抱えていた自分が法然と出会い、ただ本願を信じて念仏する。その時に心の闇を照らす光があった。「その光は、とりわけ苦しみ多き人びと、嘆き悲しむ人びと、不安におびえる人びとに、つよく、あたたかくそそぐ。」
五木寛之は親鸞にそう語らせるが、親鸞の肉声として響いてくる。「苦悩の有情をすてずして」という和讃の心そのものだろう。苦諦から始まる仏教を、救いの法門として説くときに自ずから出てくる教えである。このような教えは苦悩を抱えない人に対してはどうにも響きようがないだろう。熊谷直実にしても平家と戦って戦功をあげることしか考えなかった時期にはわからないことだ。アシジのフランシスコにしても十字軍の一員として戦っていた時には神の愛はわからなかっただろう。傷つき倒れて初めて見えてくるものだ。
・・・鬱の時代・・・
小説がこの場面にかかる少し前に私は広島で五木寛之氏の講演を聴いた。仏教講演会とは違い、一般の人を相手とした講演会だが、始まりの部分はほぼ同様で現代が「鬱の時代」であるというものだった。東日本大震災が起きた今年の日本にはますますそのことは当てはまるだろう。私が稲田の西念寺を訪れた時も周囲に屋根が壊れた家をたくさん見た。
この「鬱の時代」という表現はその前の高度経済成長期の時代の「躁の時代」と対応している。好不況という経済の循環現象と対応しているとも見えるが根はもっと深い。ある成熟した文明社会に起こる現象と言えるだろう。今や鬱は国民病かもしれない。カウンセラーはいくらいても足りない。そのカウンセラーにもまたカウセラーがいる時代だろう。そうして最後にたどり着くのが阿弥陀仏という究極のカウンセラーである。五木寛之の『親鸞』は「鬱の時代」の親鸞である。親鸞を招いた宇都宮家の宇都宮が「鬱の宮」に見える。
・・・旧蹟巡りから大遠忌へ・・・
九月に西本願寺で行われた親鸞聖人七百五十回大遠忌の法要に参列した。大遠忌の法要は何期かに分かれて行われる。私は六月に京都に行く機会があり、法要のない時に西本願寺にお参りした。九月の法要で前の中央の席に座ることはまず望めないことなので、その時は御影堂の特等席に座り、一人静かに念仏した。こうして一人静かに宗祖と向き合うのもいい。その後、東本願寺にもお参りした。
七月の終わりから八月の初めにかけて、北陸から信濃、関東にかけて親鸞聖人の旧蹟巡りをし、合わせて東北にまで足を延ばした。その旅の最後は、三重県津市にある真宗高田派の本山である専修寺への参拝だった。関東の専修寺が移転したものだが、関東にも本専修寺が残っていて、今回合わせてお参りした。九月の西本願寺での大遠忌法要への参列はそのしめくくりとも言うべきものだった。
・・・モニターのない時代・・・
指定された席は法要の行われる内陣がかろうじて見える場所である。そのことは予想ずみで、それで六月にお参りしていたので、席のことでどうこう言うつもりはない。六月にお参りした時に御影堂内におられた案内の僧侶の方に、端の方だとよく見えないと思うが、どうなるのかと尋ねると、モニターを置いて見てもらうことになるということだった。
亡くなった私の祖母が私に残してくれた形見の一つが前回の親鸞聖人七百回忌に参加した時のパンフレットだった。昭和三十六年(1961年)私が三歳の時のことである。前回の大遠忌の時の西本願寺の繁昌ぶりは話しに聞いたことがある。今回は椅子席で指定席だったが、前回はそうではなかったはずだ。またモニターなどというものもなかった時代である。押し寄せる人々はどのような形で法要を見たのだろう。それを思えば内陣には遠いものの法要を見ることができ、また近くのモニターを見れば大写しで詳細に法要を見ることができるのは幸せという他はないだろう。
・・・和讃の法要・・・
今回の法要は和讃を中心にした法要と、『正信偈』を中心にした音楽法要の二種類があり、期間によってどちらかが行われる。私は昨年の十一月に広島で行われた法要で音楽法要を経験した。今回は和讃を中心にした法要だった。全員に配られた冊子にその和讃が載っており、内陣の声に合わせて全員で唱和する。
これは親鸞聖人の和讃を『正信偈』の内容に沿って配列し直したものである。その冒頭が「如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情をすてずして 廻向を首としたまひて 大悲心をば成就せり」という和讃である。『大無量寿経』での阿弥陀仏の本願を語る和讃が幾つかある中でこの和讃が最初に置かれている。これはいい選択である。如来の「センチャク」と言った方がいいかもしれない。この和讃を最初に読んでくれという親鸞聖人の声が聞こえてきそうな気がする。これほど多くの人と声を合わせて和讃を読むのは初めてである。
・・・「苦悩の有情をすてずして」・・・
私は法要に参加する前に今回の法要に用いる「宗祖讃仰作法」を手に入れていた。その和讃の見事な配列に感心し、これなら初めて親鸞聖人の教えに触れる人でもその教えがよくわかるはずだと思った。この法要の冒頭の和讃は法要全体を支配していたと言ってもよい。さらにその日だけでなく、それ以後もことある毎にこの和讃が思い出された。特に「苦悩の有情をすてずして」の部分が繰り返し心の中で響き続ける。まさにこれぞ本願である。
あらためて言うまでもなく「苦悩の有情をすてずして」とは「摂取不捨」の言い換えである。「有情」は「衆生」と同じ言葉の新訳だが、ここでは「有情」がよく合う。有情だから苦悩が必ずある。仏教の四諦は苦諦で始まる。その苦しみ悩む私達を救うのが本願である。それは何よりも私のためである。現代人なら悩みがあればカウンセラーのもとに行くかもしれない。そういうものが生まれるはるか前から苦悩する人を救う道が本願として開かれていた。阿弥陀様や親鸞聖人は私の専属のカウンセラーである。いつでもどこでも。
発掘歎異抄143回 「野十郎三昧」 2011年9月号
・・・自画像と蝋燭・・・
高島野十郎の絵は人物画がほとんどなく、静物画と風景画が多い。人物画としては自画像を描いているくらいである。風景の中に描かれる人物は水墨画のような点景である。人間は自然の一部に過ぎないという東洋的な自然観の反映だろう。自画像は強烈な自意識を感じさせるものが多く、この自意識の強さが、自分とは何かを探求し、また世界とは何かを探求する一つの力であったことを感じさせる。そういう人にして無我の世界は開かれる。
静物画には果物の絵が多いが、それ以上に多いのは蝋燭の絵で、三十枚ほど知られている。古今の画家でこれほど蝋燭の絵を描いたのは彼ぐらいだろうと言われている。私が初めて高島野十郎の絵を見たのはNHKテレビの日曜美術館だった。それ以来その炎は私の中で燃え続けている。今回は石橋美術館の別館の一部屋が蝋燭の絵に与えられていた。
・・・「胡蝶の夢」・・・
その別館に行く前、静物画の次に彼の風景画を見る。四季それぞれが描かれている。福岡県立美術館で見た有明海から雲仙を見た「春の海」にも再会できた。春だけではなく四季全てに渡り、また日本各地に出かけて風景が描かれている。一面の菜の花畑とそこに遊ぶ紋白蝶を描いた「菜の花」。紫の蓮花畑の彼方に残雪を抱いたアルプスの連峰を描いた「れんげ草」。ここにも紋白蝶が遊んでいる。荘子の「胡蝶の夢」の寓話を思い出す。
荘子は夢の中で胡蝶となって遊んで楽しむ。夢から覚めるとやはり人間である。荘子が夢の中で胡蝶となったのか、それとも胡蝶が夢の中で荘子となったのか、はたしてどちらが本当だろう。この変化を「物化」と荘子は言う。これは「万物斉同」という全てのものは斉しいという舞台の上で起こる変化のことである。仏教的に言えば無分別智の上に立った分別智のあり方である。無分別後得智とも言うが、無分別即得智という方がいいだろう。普通の分別知とは次元が異なるものだ。
・・・光る闇・・・
これらの風景画の後に、太陽と月の絵が何枚か並ぶ。高島野十郎は写実画が基本で、戦後の風潮だった抽象画には目もくれないが、写実を極めた結果、抽象画とも言える作品を残している。太陽を描いて風景や木も一緒に描かれた作品もあるが、「無題」という作品は太陽だけを描いたと思われ、中心に発光体があり、周囲に無数の光点が発散されている。宇宙空間での太陽を描いているかのようにも、あるいは星雲を描いているようにも見える。私には「尽十方無礙光如来」に見える。
続いて月の絵が何枚かある。太陽の絵と同様に月に照らされる風景、木の枝、雲などが月とともに描かれたものもあるが、闇の中に月だけが描かれたものがある。その中で特に心惹かれたのが、なぜがその一枚だけ静物画の並ぶ前の別の部屋に置かれていたものだった。特別扱いされているようだったが、それに値する作品だった。月とその周囲だけが明るく後は闇である。その闇は濃緑色に深まり、見れば見るほど月光が染み渡っている。光る闇である。そしてやがて自分にもその光が染み込んでくる。「月愛三昧」の絵である。
・・・「常不軽菩薩」・・・
もうこれだけあれば充分という気になってくる。その後に先に述べた蝋燭の絵の並ぶ別館に向かう。石橋美術館の周囲は見事な庭園になっていてそれだけでも絵になりそうな庭である。眩し過ぎるくらいの光で、印象派の絵にでてきそうな庭である。蝋燭の絵が別館に置かれたのはこの外光を見た後に蝋燭の光を見てほしいという配慮なのだろうか。
当然のことながら外から入ってきて蝋燭の絵を見ると暗く感じる。しかし何枚も見ている内に月の光と同様にこちらに光が染み込んでくる。画家の中にあったに違いない、そしてまた我々一人ひとりの中にもある不滅の法灯と響き合う。彼は蝋燭の絵を売るのではなく、自分の絵の愛好者に献呈したという。光の捧げ物である。それはあらゆる人の仏性を拝んで回ったという「常不軽菩薩」の礼拝行を思わせる。「野十郎三昧」はここに極まる。
・・・九州新幹線全通記念・・・
九州新幹線が福岡から鹿児島まで全線開通し、それを記念して久留米で高島野十カの里帰り展が開かれた。久留米は野十カの故郷であり、彼の絵には筑後を描いたものが何点かある。中でも「春の海」という作品は私の好きな作品で、福岡県立美術館で見た。有明海の干潟から遠く島原を遠望したもので、この風景そのものが好きな風景だ。手前には緑の草原があり、その先に干潟がある。干潟は手前が克明に描かれ、先にいくほどおぼろとなる。その先に有明海、さらにその彼方に島原半島の雲仙が見える。雲仙はその名の通りに仙人が住んでいそうな蓬莱山のように見える。私には浄土を遠望するように見える。彼の故郷はこの山の彼方にあるように思える。
久留米と言えば、坂本繁二郎の故郷でもあり、また青木繁の故郷でもある。それを収集しているのが石橋美術館で、以前私は坂本繁二郎の絵を見に行ったことがある。石橋美術館はこの二人のコレクションが中心と言っていい美術館で、また広い庭園には、坂本繁二郎のアトリエが移築されている。高島野十郎は兄が青木繁と親友で、彼が画家になるには青木繁の存在が影響を与えているようだ。
・・・「りんごを手にした自画像」・・・
しかし生き方は破滅的な生き方をした青木繁とは対照的で、求道者的な生き方はむしろ坂本繁二郎の方に近い。福岡県立美術館でも高島野十郎の絵と坂本繁二郎の絵を何度も見たが、画風は違うものの、目指すものが同じなのがよくわかる。福岡県立美術館で私が何度も見て強い印象に残っているのは「りんごを手にした自画像」である。青いりんごを一つ片手にもって鋭いまなざしをこちらに向けている。しかも着ているのは黒い袈裟である。
この袈裟を見ると彼の求道者としての姿勢がよくわかる。兄の宇朗は実家の酒屋を継がずに詩人で禅僧になった人だが、その兄と同様の傾向を野十郎はもっていたようだ。彼の本名は弥寿だが、この名は阿弥陀仏と無量寿から一字ずつ入っている。また高島野十郎の名には高野が入っている。今回の展示には書き込みの入った仏教書も展示されていた。美の求道者としての彼の全貌を展示している。
・・・「知恵の木の実」・・・
今回の展示で私の心を捉えたものが幾つかかあるが、その一つが「りんごを手にした自画像」に描かれているようにりんごを中心にした静物画である。これだけで一部屋が構成されていて一つのテーマだったことが分る。りんご以外にも桃、柿、葡萄と種類はあるがりんごが最も多い。アダムとイブの物語以来、人間と縁の深いりんごだが、知恵の木の実として楽園追放のきかっけとなったものが逆に楽園回帰のきっかけとなっているようだ。
聖書に言う知恵の木の実の知恵というのは分別知のことだろうが、この知恵のレベルが無分別智に達すれば楽園に回帰できるわけであり、ここに同じりんごが描き方によってどちらにでもなることがわかる。「りんごを手にした自画像」は仏教僧の姿をすることで、りんごを素材に分別知から無分別智へと向かうことを追求する決意を示しているようだ。
・・・「考えるりんご」と「歓びのりんご」・・・
この静物画の部屋のりんごはどれもいい。この部屋に来るまでに戦前の彼が描いたりんごの静物画も見たが、見比べると戦後に描かれたものの方が輝きを増して格段にいい。戦前のものは彼の苦悩を反映しているようで「考えるりんご」になっている。これは分別知の方だろう。戦後のものはりんごが描かれることを喜んでいるのが伝わってきて「歓びのりんご」になっている。浄土教で言えば自力の信ではなく、「信心歓喜」の絵である。
りんごの数は数個で、群像ではなく、それぞれに表情がある。向きも直立しているものも横を向いたものもある。中でも私が好きになったのは「春になる」という絵で、柔らかな日差しを浴びた窓辺で壺に活けた花を囲むようにして五つのりんごが置かれている。りんごの歓びも花の歓びも見事なハーモニーを奏でている。私は五つのりんごに「真実五願」が重なって見えた。楽園回帰のりんごである。
発掘歎異抄141回 「キングズ・スピーチ」 2011年7月号
・・・パニック映画さながら・・・
東日本大震災が起きる前から映画『英国王のスピーチ』が話題となり、見に行こうと思っていた。そこに東日本大震災が起こり、しばらくの間、テレビから目を離せなくなった。阪神大震災の時も同様だったが、今回のように原子力発電所の事故はなかったので災害は起こった時点から悪化するということはほとんどなかった。今回は被災地が広すぎて事態の把握に時間がかかり、さらに福島第一原子力発電所の事故が重なり、こちらの方はどんどんと事態が悪化し、進行していった。
一週間ほどはパニック映画を毎日見続けたようなものだった。被災地の人に比べれば程度は軽いものだが、精神状態はいいとは言えなかった。眠りが浅くなっているのがわかった。寝る直前までニュースを見ていても朝起きると新しい事態になっているのでゆっくり眠る気持ちにならなかったのだろう。
・・・『英国王のスピーチ』・・・
そうした日々の後、気分転換を兼ねて『英国王のスピーチ』を見に行った。気軽に見るようなタイプの映画ではないことはわかっていたが、被災地の映像に比べれば深刻ではないだろう。それでも見始めてしばらくすると映画の背景にある当時の重苦しさが伝わったきた。それはケインズが生きた時代と同じ時代だった。第一次大戦後にドイツに過大な賠償金を課したせいでドイツ経済が破綻し、ナチスが台頭する。イギリスも世界恐慌の波を受けて経済不振に陥り苦しむ。その時代にイギリス王室にあって、吃音を抱えるが故に自らは国王になることを拒みながらもそれを引き受けざるを得なかった王の物語である。
私はひょっとしてケインズが出てくるかと思ったがさすがに直接王室とは関係ないようで彼は登場しなかった。この映画の原題は『ザ・キングズ・スピーチ』である。ケインズはケンブリッジ大学の「キングズ・カレッジ」の出身である。ケインズの中には英国を立て直したいという気持ちは非常に強かった。また彼は政治家ではないが雄弁家であり、その演説は多くの人を引き付けたと言われる。
・・・ヒトラーとの対比・・・
そのケインズが警告した通り、破綻したドイツでは全体主義が台頭した。その先頭に立っていたのは希代の雄弁家とも言うべきヒトラーだった。映画では吃音に悩みそれを矯正しようと言語療法士と悪戦苦闘するジョージ6世と、それとは対照的に悪魔的な雄弁によってドイツ国民の心をつかみ大衆を戦争へと駆り立てていくヒトラーの姿が描かれる。
国王の吃音の原因は言語療法士によってその心理的要因が次第に明らかにされていく。彼は心理療法士と言っていい存在である。プライドの高さゆえに失敗を恐れる心情がその一つだろう。プライドの高さならドイツ国民も同じだろう。ヒトラーは傷つけられたドイツ国民のプライドをヨーロッパを制覇することによって回復させようとする。彼の雄弁は傷つけられた人々の憤懣に火をつけるアジテーションであり、扇動家の演説である。
・・・四海同胞に向けて・・・
ジョージ6世はそのプライドの高さ故にオーストラリア人の言語療法士と時には対立しながらも次第に友情を深めていく。それは同時に世界に広がる大英帝国の人々と心を通じ合わせて行く道だった。行きつ戻りつを繰り返しながら吃音が直っていくゆっくりとした足取りは人々との確かな信頼の歩みだった。
やがてドイツとの開戦を伝える演説の時が来る。それはBBCによって全世界に伝えられる。はじめは言語療法士が指揮をするようにして始まった演説はしだいに王そのものの心の声となっていき、四海同胞の心をつかんでいく。とりわけ胸を打たれたのは海外でラジオを通してこの演説に耳を傾ける人々の姿だった。遠く本国を離れている人々はどれほど心細かっただろう。その姿は被災地でラジオに耳を傾ける人々の姿にも重なった。またそれは本国を離れてこの世界で如来の呼び声に耳を傾ける我々の姿でもあった。本願の放送こそ真の「キングズ・スピーチ」である。受信する人にはいつもそれが聞こえている。
・・・原発事故・・・
今回の東日本大震災では地震と津波の被害に加え福島第一原子力発電所の事故が起こった。冷却電源喪失と放射能漏れ事故は日本における原発事故としては過去最大のもので、世界的にも旧ソ連のチェルノブイリ原発とアメリカのスリーマイル原発の事故との間に位置付けられるだろうと言われる。水素爆発により建屋が吹き飛ぶ様子は生々しかった。
私は以前に島根県にある島根原発の近くに行ったことがあり、その原発が県庁所在地の松江市の中心部からあまりに近いので驚いたことがある。もし事故が起こったら冬なら北風によってあっという間に松江市は放射能で汚染されることだろう。私の母は広島に原爆が落ちた時に広島市の北西部にいたが、爆風を受けキノコ雲を見て家に逃げ帰る途中に空からばらばらと降ってきた瓦礫の破片を浴び、さらに降ってきた黒い雨を浴びたという。あっというまのできごとだったという。
・・・空飛ぶ恐怖・・・
私が子どものころには中国で大気圏内の核実験が行われていた。西日本では中国から黄砂が飛んでくる。空が白くなり、車や洗濯物に黄砂は着く。京都くらいまでは黄砂が飛んでくるそうだ。だから西日本では中国の大気圏内核実験は人ごとではなかった。黄砂が発生するのと同じゴビ砂漠で実験は行われていたのである。中国や朝鮮半島で核事故が起きれば日本にも放射能汚染は及ぶのである。
この子どもの頃に感じた恐怖感は今でも残っていて、今回の大震災の後、私は中国で核爆発が起こるという恐い夢を見た。西は中国からの放射能汚染、東には福島原発での放射能汚染と狭い日本にはどこにも逃げようがない。ソ連のチェルノブイリ原発事故でヨーロッパの人々が感じた恐怖はよくわかる。地球温暖化の問題から原発やむなしと思っていた人達も考えを変えるかもしれない。今回の大震災が核のない時代への転換点となるなら亡くなった人も浮かばれるだろう。
・・・復興に向けて・・・
この原発の問題とともに今後の東日本の復興をどうするかというテーマも大きな問題である。それ以前から赤字国債を大量に発行して財政が行き詰まっていた日本は復興の資金をどう調達するのか。二十世紀の日本は関東大震災後にさらに世界恐慌を受けての昭和恐慌で疲弊し、ついに人のものを奪ってでも生き残ろうとする手段にうって出た。それが東アジアを巻き込んでの悲惨な結末となった。
歴史は繰り返すというがこの二十世紀の教訓はどう生かされるのだろうか。震災後には国債をさらに発行し日本銀行がそれを引き受けるという案がでた。国債を郵便貯金が引き受けるからルーズに国債を発行するので郵便貯金を民営化しようというのがついこのあいだまでの話だった。日本銀行が買えばそれどころではなくなる。国債分だけお札を刷るのか。お札がただの紙切れにならないのか。
・・・ケインズと雇用・・・
私はこの記事を読みながらケインズだったらどうするだろうと思った。ケインズは第一次大戦後のドイツの賠償問題で過大な賠償金がドイツを破綻させヨーロッパを危機に陥らせることを警告し、それは現実となった。その後の世界恐慌でのイギリス経済の不振と高い失業率を何とか解決しようとケインズ革命と言われる経済学を打ち立てた。アメリカのルーズベルト大統領のニューディール政策はケインズの考え方を実践したと言われる。
しかし戦後のアメリカの繁栄の中でケインズ派の経済学者達は次第に立場が弱くなっていく。雇用のための財政出動は財政を悪化させる元凶のようにも言われる。ケインズを批判する学者が、ケインズが解決しようとした働きたくても働けない「非自発的失業」などはないと発言したことにある老経済学者は言ったという。「君は若いから大恐慌の失業を見ていないのだ。私はその悲惨をこの目で見たのだ」と。全ての人に仕事をというケインズの思いは全ての人のために本願があるという私の思いと重なっている。もとより本願の世界には失業はない。それが本願の経済学だ。
・・・目撃者の負い目・・・
悪夢のような三月十一日の東日本大震災から一ヶ月が経とうとしている。震災から四週間目となる前日の四月七日の深夜には再び東北地方で震度六強という強い地震が起こった。ようやく立ち直りかけた被災地で、再び死者や負傷者が出た。一回目の震災を免れた家で二回目に焼けた家もあった。本震がマグニチュード9.0という巨大地震だったために余震はマグニチュード8以下の大地震が起きてもおかしくないそうである。
私は三月十一日には学校でこの地震が起きたのを知った。同僚がインターネットを見ていて地震が起きたらしいというので部屋にあるテレビをつけた。津波が沿岸部を襲う様子がヘリコプターから中継で映し出されていく。家が、車が、次々と津波に飲み込まれていく。車に逃げろと声をかけたくなるがどうしようもない。ヘリコプターから撮影していたカメラマンもさぞかしつらかっただろう。この画面を多くの人々が見て茫然としたに違いない。画面を通してとは言え、我々は目撃者であるとともにどうしようもできなかった負い目を背負い込んでしまったのだろう。
・・・阪神大震災、広島・・・
現地にいて逃げて助かった人はもっとつらかったに違いない。テレビで見た証言にも助けてという声が聞こえながら夢中で逃げたと涙ぐみながら話す被災者の姿があった。黙したまま何も語らない被災者はもっと多いだろう。この心の傷が癒えるには相当の時間がかかりそうだ。私の知り合いで阪神大震災を経験したある人は毎年一月十七日には神戸を離れるそうである。助かった自分が神戸にいてはいけないと思うそうだ。それ以上は聞けなかったが、この人の耳にも助けを求める声がこびりついているのではないかと思った。
その気持ちは私が広島の原爆記念日である八月六日に広島にいたくない気持ちともつながっているのだろうと思う。その日には私の耳にも助けを求める声が聞こえてきそうに思えるのだ。私はその声の中で耳を塞いで走って逃げている。それが自分の姿のように思えてしかたないのだ。きっと多くの被爆者の証言を聞いて育ったのでいつのまにか自分の経験のようにしみついてしまったのだろう。
・・・通じ合う言葉・・・
今回の東日本大震災の起こる前のこと、三月の上旬に、私は広島の新聞社が主催する文学賞の選考委員を依頼されていて、一次審査を経た作品の中から最終審査に残す作品を選ぶために作品を読んでいた。うまいと思う作品は多くあるのだが、感動とまで言える作品にはなかなか巡り会えなかった。その中で阪神大震災を描いた作品があった。神戸で阪神大震災を経験した女性と、その日に大阪から神戸に入った男性が、その後広島で出会い、付き合いを重ねていく話である。
その女性が震災後に自分の心境に起こった変化を語り、それに応えて男性も起こった変化を語る部分は創作とは思えないほどリアリティーを感じた。女性は男性に毎週手紙を書いているのだが、その手紙が好きだという男性の言葉には深く感動した。同じ経験をした二人だけに通じあう言葉がそこにあった。
・・・大地が裂けるとき・・・
結局三十作品ほど読んで感動したのはこの作品だけだった。全作品を読み終えた後、もう一度この作品を読み直してやはり感動した。その後、東日本大震災が起こった。数日後、もう一度この作品を読んだ。やはり感動は変わらなかった。三月の下旬にある社会福祉協議会に招かれて講演をした。そこで私は今回の大震災と私が読んだ阪神大震災を題材とした文学作品のことを、文学賞の発表前なので詳しいことは言えないが少し話した。
足下の大地が揺れて裂けてしまうということは、この世界が裂けてしまうのと同じことだろう。文学作品ではその感覚がリアルに描かれていた。親鸞は言う、「火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあるなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」と。この世界が裂けるとき闇だけが見えるのではない。光も見える。
発掘歎異抄138回 雪道 2011年4月号
・・・門前町の寺・・・
出雲市で講演させてもらったお寺は願立寺という真宗寺院で、出雲大社の門前町の中にあると聞いていた。出雲大社には何度か行ったことがあるが、寺を見た覚えがなかったので出雲大社の近くに寺があると聞いて意外だった。出雲市駅で出迎えを受け、昼食の後に寺に向かった。途中から何度か通った道になる。出雲平野の風景を彩る名物の築地松が見える。屋敷を囲む防風林だが、角刈りの頭のようで、よく手入れされていて美しい。
古代出雲歴史博物館の前を通り、出雲大社の前に出る。そこから少し町並みの中に入ったところに本当に寺があった。控え室に案内されて出番を待つ間に、風が強くなり、雪交じりとなった。それ自体は中国山地を越える道で経験してきたばかりだが、これで果たしてお参りがあるのか少し心配になる。しかしこの時期にこの天気は当たり前のようで、間もなく本堂から聞こえてきたお勤めの声を聞くとかなりの人がお参りに来られたようだ。
・・・熱気・・・
出番になり、初めて本堂に入り、その人の数というか密度に驚いた。広いとは言えない本堂だが、びっしりの人で、正面だけでなく、取り囲まれたような感じである。話し始めるとその聞き方に熱がこもっているのがわかる。仏法をよく聞いてきた人ばかりとは限らないとあらかじめ言われていたが、とてもそうは思えなかった。中国山地を越えてきた話を交え、出雲市駅に着いたところで寺の伝道掲示板にあった「ただ一向に念仏すべし」という法然上人の『一枚起請文』の言葉の出迎えを受けたという話をした。出雲市では有名な寺のようですぐに話は通じたようだった。
私の印象では私の話を聞いていただいた方々はすでに「ただ一向に念仏すべし」を実践しておられる方々に思えた。『歎異抄』を読んでいると、親鸞聖人が門弟に接していたそのあり方がよくわかるが、その態度の一つに敬語がよく使われていることがある。非常に強い敬意を払っておられたのがよくわかる。「同朋同行」の立場からはもっともなのだが、願立寺で話していて親鸞聖人が門弟に敬語を使われた意味がわかるような気がした。念仏者の有り難さが伝わってくるのだ。外の寒さとは対照的な熱気である。北陸の真宗地帯でもこうなのだろうかという気がしてくる。
・・・雪国・・・
会が終わった後、地元の新聞社の取材を受けたのでその話をした。会の後の懇親会でもその話をし、山陰には妙好人が多いが、その風土を感じると述べた。懇親会の会場は寺から少し離れた場所だったが、ガラス越しに外の風景が見え、風と雪はますますひどくなり見る間に雪国なっていく。次の日が心配だ。
翌日、目を覚まして外を見ると平野部も積雪で銀世界となっている。中国山地を越えるのは昨日以上に難儀が予想された。バス会社の支店に電話してみると、始発から予定通り動いているとのことだったので、予定の時間に駅に行き、バスに乗った。川沿いに進むと昨日との風景との違いがよくわかる。川面には水鳥の群れが羽を休めていて絵になる。
・・・同じ道?・・・
しばらくして平野部から山間部へと道は入っていく。そのあたりは昨日も雪だったので積雪量は増えているが同じような風景のはずだった。しかし何か違う。しばらくして気が付いた。太陽が出ていてしかも南に向けて走っているので、太陽に向かって走っている感じになるのだ。昨日は北に向かっていたのでその逆になる。こうなると目が眩惑され、目を閉じてしまう。運転手は慣れているようだ。
昨日はこの一面の銀世界を見ながら分別を消した無分別の世界だと思って感慨にふけったが、今日は無分別の中で分別を付ける必要を示しているようだ。その道を見失うと危ない。無分別智の上に立ってさらに分別する智慧を無分別後得智というが、今日の雪景色の中で道を進むのはそれと似ている。これもまた信心の智慧のあり方だろう。それがあれば目を閉じても道はわかる。自ずと道が見えてくる。一面の光の中で思わずまた目を閉じた。
・・・御正忌報恩講・・・
一月に出雲市の真宗寺院で御正忌報恩講の講演を依頼された。西本願寺では御正忌は旧暦の十一月二十八日を新暦換算した一月十六日である。秋に行われる報恩講に比べると新春というより真冬である。私は一月十六日に広島で別の会の予定があったので、前日の一月十五日という日程になった。打ち合わせをした十二月の時点で、広島から出雲市に行くのに中国山地を越えるので雪が心配だという話をした。これまでバスが止まることはめったにないということだったので、何とかなるだろうということで、この話を引き受けた。
この冬は全国的に積雪の多い年だった。島根県では正月に沿岸部に大雪が降り、海沿いで漁船が積雪により沈没したニュースが流れた。それから半月後、やはり雪が降り、広島から出雲市へ出発の当日となった。中国自動車道を経由して三次市から一般道となり、中国山地を越える道である。出発点の広島駅には定刻にバスが着き、問題なさそうだった。
・・・雪国へ・・・
しかし広島市北部から外は雪景色となり、三次市で高速道を降りたときにはあたり一面の雪だった。赤名峠が広島県と島根県との県境になるが、その手前では家が雪に埋もれていた。雪国での雪下ろしがよくニュースになるが、ここでもそれが必要になるくらいの雪だった。国道は除雪されているが、次から次に雪が降り、時々除雪車が走っているのに遭遇する。するとその後ろに車がつながる。はたしてこれで定刻に着くのか少し不安になる。午前中に広島を出て午後からの講演だが、食事のこともあり、ぎりぎりかもしれない。
その日の講演は前年の十月に新聞に法然上人の『一枚起請文』について書いた記事を基にしたもので、分別知と無分別智について述べる予定だった。分別を捨てて愚者となって念仏することが、求めずして無分別智を開くことになり、それは分別知のもたらす苦しみを味わっている現代人にとっての救いとなるという内容である。私の書いた記事を読んでの依頼であり、『歎異抄』第二章にある「詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし」についても話す予定だった。
・・・分別と無分別・・・
無分別智の前提となるのは分別知である。普通、教育では分別のない状態から分別の付くように知識を与え、知性を発達させる。無分別や愚者に返ってということを言うと、分別の付く前に返るのかと思われる。それも間違いとは言えないが、本当の無分別とは前に戻るのではなく、分別を越えた状態である。
一面の雪景色を眺めていると、雪が降った後の状態は、地上にある様々な分別を消し去った状態であり、分別から無分別へと向かうこととよく似ている。一面の雪景色は一面の白道であり、世界全体を浄めてくれる。それは無分別に達した信心の目で見た世界の見え方と似ている。そういう感慨が起こる。
・・・無量と有量・・・
しかしその一方で、ふと時計を見たくなる。時間の分別が入ってくるのだ。これで間に合うのか。無分別の世界を眺めながら感慨にふけったのはよかったが、会場に着いたらとんでもない遅刻だったというのでは、この世のあり方としてはまずいだろう。無分別と分別、無量と有量の世界の違いは、念仏者に限らず、宗教の課題だろう。生死を越えて無量寿を知り、なお生死の有量の世界に生きることは、生死を越えることと、さらにこの世界に生き続けるという二つの課題を含んでいる。
幸いに中国山地を過ぎるとしだいに雪が減り、平野部にかかるとほとんど無くなった。広島市北部の方が雪国らしく見えたという不思議な状態になった。雪国に来たつもりがかえって寂しい出迎えのように感じた。しかしおかげで遅れはかなり取り戻せたようだ。終点の出雲市駅に近付いた時にたまたまお寺の掲示板の言葉が目に入った。浄土宗の寺のようで「ただ一向に念仏すべし」という 『一枚起請文』の言葉だった。分別の世界からもう一度無分別の世界に戻してもらう言葉であり、私にとっては出迎え以上の来迎だった。
発掘歎異抄136回 光る文字 2011年2月号
・・・もう一人の老典座・・・
立松和平氏と五木寛之氏の対談集『親鸞と道元』では天童山で海藻を干していた老典座との問答の後に、もう一人、道元が中国で出会った老典座の話が述べられている。五木寛之氏が「老僧との有名な会話がありますね」と水を向けて話が始まっているので、お互い内容は承知の上でのことである。読者の多くもこの話は有名なのでほとんどの人が知っているはずの話である。道元を描いた映画『禅』でもいずれの話も取り入れられていた。しかし不思議に新鮮なのである。対談で省略された部分があるが、補うと次のような話である。
時間的な順序としては天童山での老典座との問答より前のことになる。道元は宋に着いたものの入国をすぐに認められなかった。その時に船に阿育王山の老典座が尋ねてくる。日本の船だと聞いたので椎茸を買いにきたという。道元は中国の禅僧と話ができるうれしさに話し込む。しかしやがて老典座は帰らなければいけないと言う。道元は食事を作るならあなたでなくても人はいるはずだと引き止めようとする。阿育王山の老典座は、「あなたは弁道ということがわかっていない。また文字というものもわかっていない。」と言う。
・・・文字と仏道・・・
代わりの人に任せればいいのではないかという件についての答えは天童山で老典座との件と同様である。誰も代わりはいない。そのことがわからなければ弁道すなわち仏道修行もわからない。続いて文字もわからないといのはどういうことだろう。宋についたばかりの道元が中国語を理解できなかったのではないかという疑問が生じそうだが、道元は京都で中国語を現地人に習って来たと言われているから語学力の問題ではないだろう。
後日、天童山で修行中の道元のもとを阿育王山の老典座が尋ねて来てくれる。船で言われたことがわからなかった道元は文字とは何か、弁道とは何かと質問する。老典座の答えは文字とは「一、二、三、四」。聞きようによっては子どもでもわかる。物事の違いを識別するものというのが一つの理解だろう。
・・・文字と不立文字・・・
しかしこの答えは弁道の答えと一組である。弁道とは何かの答えは「遍(正式には彳+扁)界曾て蔵(かく)さず。」。全世界に真理は隠されていないということである。この「遍界曾て蔵さず。」は『正法眼蔵』のいたるところに現れている精神である。『正法眼蔵』という大部の書物がなぜ書かれたか。それは文字を使って「遍界曾て蔵さず。」を表すことである。
ここに「不立文字」を旗印とする禅宗でありながら道元が飽くことなく書き続けた答えがある。文字の中に真理はないというのはもっともな考えである。比叡山で学問を修めた道元にとって、文字ではない真理そのものへの欲求はいやがうえにも高まっていたはずである。しかしまた文字を越えた世界から文字が現れてくることを道元は知った。それはこの老典座のおかげである。光る文字がある。
・・・有限と無限・・・
ここで言われていることは浄土教がそのまま取り入れていることである。浄土教の言うことは人によってはどうしようもない矛盾に見える。名号とは何ですか。「六字」である。仏とは何ですか。「無量」である。無限のものがどうして有限のわずか六字になるのですか。「あなたは念仏がわかっていない。」老法然あるいは老親鸞はそう答えるだろう。そうして法然は何万遍も念仏を唱え続け、親鸞は著作を書き続けた。決して無限を目指して唱え続け、書き続けたのではない。無限なるものが唱えさせ、書き続けさせたのである。
「光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨」に「遍界曾て蔵さず。」と「文字」の関係が表されている。「光明遍照十方世界」はその中に「遍界」が入っている。「念仏」が六字の光る文字。一見相反する「親鸞と道元」の関係に仏教がそのまま包含されている。言葉によって親鸞と道元を描く作家の対話は立松和平氏が亡くなっても続くだろう。終わりのない対話。そこに文字の力があり、念仏がある。あらためて「一、二、三、四、五、六字」。
・・・年の瀬の急逝・・・
2010年の年の瀬が押し迫ったある日、同僚の母堂が亡くなられた。通夜が散会して同僚から事情を聞いた。全くの急逝だったそうだ。母堂は最近足が弱ってきたので施設に入っておられたそうだ。同僚はその日にある食事会に参加していてその施設から突然訃報の連絡を受けたという。施設の中で急に気分が悪くなり、そのままあっという間に亡くなられたそうである。態勢の整っている施設でもどうしようもなかったということだった。
通夜の席での僧侶の方の話も同様だった。母堂は仏教婦人会の会員だったそうで、最近足が悪くなってお寺にはお参りできないのが残念だと言われていたという。年が明けると先立たれたご主人の七回忌を迎えるので僧侶の方とその打ち合わせをされていたそうだ。それを迎える前に亡くなられたという。ということはご主人の七回忌と親鸞聖人七百五十回忌とが同じ年だったということになる。
・・・2010年の訃報・・・
2010年の秋には私が親しくしていただいた僧侶の方が亡くなられた。大遠忌を前に亡くなられた方はどれくらいおられるのだろう。毎年亡くなられる方の数は確率的には同じだろうから大遠忌の有無とは関係ないだろう。全国で同じような真宗門徒の方がおられるのはまちがいないだろう。篤信の人でもそれは避けられまい。私は同僚宛の年賀状をすでに書いており、発送する前日だった。喪中の葉書を何枚かもらっていたが2010年の私の周辺での訃報はその方が最後だった。
年末には新聞にその年の訃報がまとめられる。2010年の訃報で私が最も驚いたのは作家の立松和平氏の訃報だった。私の知り合いのあるお寺で2009年に立松和平氏を呼ばれた寺があり、その時のことを聞いていたので突然のことに驚いた。『救世―聖徳太子御口伝』や『道元禅師』を書いた人であり、これからますます仏教への理解が深まるだろうと思えただけに本当に残念に思った。
・・・立松和平と道元・・・
その立松和平氏と五木寛之氏の対談集『親鸞と道元』が2010年11月に出版された。本来はもっと続く予定の対談だったそうだが、立松和平氏の急逝により終わってしまったというものである。私はテレビで何度か立松和平氏の話を聞いたことがあり、あの独特の素朴な語り口を思い出しながら読ませてもらった。読み進めると活字が生きて語っているような気がしてきて、一気に読んだ。
何カ所も感動する場面があり、語りの力というものをまざまざと感じさせられた。よく知っている話なのに改めて感動する場面があった。その一つが天童山での老典座との会話である。典座とは禅寺で食事を司る僧である。夏の暑い昼さがりに老典座が汗だくになって海藻を干しているのを見た道元が代わりにすることを申し出るが典座は断る。「他は是れ、吾にあらず。」と。それではもっと涼しくなってやったらどうですかと道元が言うと、「更に何れの時をか待たん。」と典座が答える。
・・・「今・ここ・私」・・・
仏道修行とは何かを見事に答えた問答である。このよく知られた話が目の前に展開し、私は道元と老典座が目の前にいるのを感じた。というより仏法が目の前にあるのを見せられた。仏法というものが常に「今・ここ・私」にあるということをこの問答はよく示している。そしてそれは仏教の各祖師が手を変え品を変えて語ってきたことである。
「他は是れ、吾にあらず。」を親鸞で言えば「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。」に当たるだろう。私一人が本願の焦点であるということである。誰も私の代わりはいない。それは「二河白道」でただ一人で道を行くのと同じである。誰も代わりに渡るわけにいかない。また「更に何れの時をか待たん。」ということがわかる人は常に死を目の前に見ている人だろう。かけがえのない自分とかけがえのない今。それが本願の世界である。そこにあるのはただ感謝である。一念一生。それを生きる人に急逝という言葉は当たらないだろう。
・・・「睡蓮」・・・
福岡を訪れる時に時間があれば福岡県立美術館を訪れて高島野十郎の絵を見ている。定期的に入れ替えがあるようで、見たかった作品でまだ見ていないものも見ることができた。絶筆と言われる「睡蓮」もその一つで、絵を眺めているとつぼみから開ききった睡蓮まで幾つかの睡蓮がそのまま高島野十郎の人生と重なって見える。野十郎は自分の人生を振り返りながらこの絵を描き、今自分の花は開いたのだと味わっていたような気がする。
しかし人生の終わりに自分の花が開いたと実感できる人がどれだけいるだろう。芸術家の場合はそこに至るまでの葛藤と苦しみはいかばかりだろう。日本の近代彫刻を切り開いたと言われる荻原守衛は「Love is art. Struggle is beuty.」という言葉を残している。「愛は芸術なり。相克は美なり。」で、この言葉に共感する芸術家は多いだろう。夏目漱石の作品もこの言葉をそのまま作品にしたようなものだろう。荻原守衛の場合は彼を支援し、お互いに心を惹かれ合ったという相馬黒光との複雑な関係が作品に反映していると言われる。「相克」は「相黒」を暗示しているのかもしれない。
・・・『門』・・・
漱石の場合はどこまで男女の愛を重視していたのかはっきりとしない。男女の相克の苦しみをいかに克服するかが一つのテーマだったことは確かだろう。男女の愛の問題を男女の愛自体で解決しようとしていたようには見えない。その点では男女の愛を愛欲として否定する出家仏教に近かったかもしれない。
その態度が表れているのが『門』だろう。主人公はいったん禅寺の門をたたくが、禅には挫折し、その門は彼にとって閉じられたままになってしまう。その門の前に佇み、門を見上げるだけで終わってしまう。「則天去私」はこの閉じられていた門が開かれた状態だろう。ただしそれは禅だけに限定されるわけではない。高島野十郎の「睡蓮」が開いているのは彼にとっての門、真実あるいは美の門が開かれていたことを示しているように思う。
・・・『山門』・・・
その高島野十郎に「山門」という作品がある。古寺の山門を描いたものだが、実はこの門は閉じられている。門の奥には伽藍の屋根がわずかに見えるだけで、上には空が広がっている。閉じられている門という点では漱石の『門』を思わせるが、それではさきほどの「睡蓮」に描かれているつぼみのようにこれから開くことを描こうとしているのだろうか。高島野十郎は一つの門を開いたと思ったら、またその奥に門があることに気づいたのだろうか。そう見えないこともない。わずかに見える伽藍の屋根やさらにその上に広がる空がそれを暗示しているようにも見える。
よくよく見ている内に門の横につながる古びた土塀もその前に広がる草の広場もみな含めて開かれた世界を描いているように見えてきた。その前でたたずむのもその奥に入るのももはや同じように見える。何とも味のある作品で人によって見方が変わるはずだ。
・・・絶筆・・・
法然の『一枚起請文』は何よりも開かれた世界を伝えようとしたことは間違いないだろうが、同時に閉じられた世界もそこに見える。「もろもろの智者達」と同じ道を歩もうとした時には開かなかった門が、「一文不知の愚鈍の身になして」「智者のふるまひをせずして」初めて開かれたことを語っている。また「うたがひなく往生する」と述べているが、疑いが門が閉じられた状態であり、疑いがなくなったことが信心が開かれたことである。親鸞は「疑蓋無雑」、「信心開発」と言う。
この疑いの蓋が除かれるまでの苦しみが「うたがひなく往生する」に込められている。疑いを経験していない人からこの言葉は出ないだろう。そう思うと高島野十郎の「睡蓮」のようにこの一枚の中に法然の人生がつまって見える。法然の絶筆と高島野十郎の絶筆が重なって見えてくる。法然が自身の人生を振り返った時に疑いの時期もまた限りなく懐かしく、その奥にある信心とさらに全体を包む摂取の光が見えたのではあるまいか。
・・・『歎異抄』と『一枚起請文』・・・
倉田百三の著作に『法然と親鸞の信仰』がある。晩年に書かれたもので『出家とその弟子』に比べれば浄土教に対する理解もよりいっそう進んだものを感じさせ、名著と言っていいものである。法然と親鸞の両方を知りたいという人に勧められるものだ。この中で法然の教えを語るのに最適のものとして用いられているのが『一枚起請文』であり、親鸞について用いられているのが『歎異抄』である。この両書をそれぞれ取り上げたのは適切なやり方で、納得する人は多いだろう。
親鸞の方で『歎異抄』を取り上げるのは『出家とその弟子』で『歎異抄』の言葉を用いたのだから当然だろうが、特に法然の方で法然の遺言と言われる『一枚起請文』を用いたのはいい着眼だろう。ただし『一枚起請文』はその名の通りわずか紙数一枚の極めて短いものである。『歎異抄』で言えば第一章に相当するぐらいの分量で、両者は分量的にはバランスがとれていないとも言える。別の言い方をすれば『一枚起請文』でどれだけ法然について語ることができるかだが、倉田百三はそれを充分に語っており、感心させられる。
・・・「智慧第一」と「愚者の救い」・・・
この秋に中国新聞から来年に迫った法然の八百回大遠忌に向けて法然について何か書いてほしいという依頼を受けた。そこで思い浮かんだのが『一枚起請文』だった。私もある時『一枚起請文』を読んで大変感動したことがあり、その記憶がまざまざと残っている。浄土宗の檀信徒のようにお勤めとして読んでいるわけではないが、何度も読んできている。その中でよくある解釈とは多少違うことを感じていたのでそのことを書こうと思った。
法然は比叡山で「智慧第一の法然坊」と呼ばれた。そんな偉い人がただ念仏すればいいというのだから経典を読めないような愚かな者もその言葉を信じて念仏すればいいという言い方がある。「智慧第一」の人が語る「愚者の救い」である。異論はないが、少しひっかかかるのは「智慧第一」の「智慧」の中味だ。比叡山にいた時点でのそれは学問として仏教を誰よりもよく修めた学力としての智慧で「分別知」だったはずだ。もし「無分別智」に達していれば天台宗で充分なはずで、法然は比叡山を下りる必要はなかったはずだ。
・・・「不幸第一」・・・
法然は「智慧第一」と呼ばれながらも苦しみの中にあった。分別知で起こるのは疑いばかりだ。本当は「不幸第一」だった。その苦しみの中で本願を信じて念仏するという大転換が起きた。知性が発達するほど苦しみを認識する度合いが増すのは教育が普及した近代以降の日本人が経験してきたことである。
自らもそれを経験し、いち早くそれを指摘したのは夏目漱石だった。この分別知が増すことによる苦しみと病は現代では一般化していてそれと気づかないほどだが、漱石を読むとあらためてそのことに気づかされる。最近では姜尚中の『悩む力』がマックス・ウエーバーと同世代の漱石を読みながらそのことを明らかにし、漱石論としても大変優れている。
・・・「智者」の救い・・・
漱石の作品は苦しみの解決そのものは示していない。作品を読むとここにも同じ苦しみを味わった人がいて、誠実にそのことに向き合っていることに友を得たようで勇気づけられる。しかしそれでは同病あい憐れむと大差なくその先はない。漱石が晩年に語った「則天去私」がその解決を暗示しているだけだ。
「則天去私」は浄土教では本願を信じて念仏することに当たる。『一枚起請文』では「念仏を信じぜん人は」「一文不知の愚鈍の身になして」「智者のふるまひをせずしてただ一向に念仏すべし」である。これは分別知に苦しむ「智者」が愚者の自覚を起こして初めて救われることを語っている。その信心の中には分別知を越えた無分別智が自ずと宿る。そのように受け取ると法然が救いを語った本当の相手は当時の人よりむしろ現代人のように知性がもたらす病に苦しむ人だったことになる。『一枚起請文』は現代人への遺言であり、現代人のための一枚の処方箋だったのだ。
・・・八月六日に・・・
広島の原爆記念日八月六日に高史明さんの講演を広島で聞いた。親鸞と『歎異抄』について語ってこられた方なので当然その話も出るだろうと思った。私はその一週間前にやはり高さんの講演を聞いた。講演会場は東京だが、私が聞いたのは福岡である。ある会社の主催で東京での講演を福岡にテレビ中継し、その後、私が福岡から感想を述べるというものだった。その時には私は高さんが一週間後に広島で講演されることを知らなかった。
福岡での公演は『歎異抄』第五章を中心としたものだった。当日会場で『歎異抄』第五章のプリントが口語訳付きで配られた。私は高さんの本を読んでいたので、だいたい察しがついた。高さんは在日朝鮮人として差別の中で育ち、日本人女性と結婚し、その間に生まれた一人息子をわずか十二歳、中学一年生で亡くされた方である。それも自ら命を絶つという当時としては衝撃的な事件だった。ご子息の残された詩集が編集されて『ぼくは12歳』として発表され、大きな反響をよんだ。
・・・慰めを超えて・・・
『歎異抄』第五章には父母の供養のための念仏を親鸞はしたことがないとして供養のための念仏を否定している。高さんは我が子の死の衝撃に打ちのめされた後、少しものが考えられるようになってから、せめて息子のために念仏しようと思ったという。ところがそれが否定されている『歎異抄』第五章の言葉にあらためて衝撃を受けた。安易な慰めの言葉よりもかえって真実を感じたのだった。
ここから『歎異抄』の探求が始まったのだった。もう一つ高さんの心を捕らえたに違いないのが『歎異抄』第四章の「今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲終始なし。」という言葉だっただろう。講演ではこのことはあまりふれられなかったが、本ではそのことが述べられている。人が人を助けることはできないということである。高さんはそれを骨身にしみて知った人だった。親鸞も長男が自分の教えに背き、義絶するという悲劇を経験している。深い実感がこもった言葉である。
・・・分別の行き着くところ・・・
もう一つ言葉がもたらす分別を超えることについて話された。仏教に言う「分別知」の否定である。この分別知が現代では合理主義と自然科学となって大きな地位を築き、ほとんど現代文明を決定づける大きな力をもっている。しかし仏教や親鸞の立場ではそれは仮のものである。そのことに気づいている現代人は少ない。分別知では読めないのが『歎異抄』である。それを捨てたところに信がある。
八月六日の講演は平和の集いということだったので、どこまで『歎異抄』の話が出るかと思ったのだが、大きな流れは福岡で聞いた内容とほぼ同じだった。違うのは後半の言葉によって起こる分別の否定の部分により重点が置かれていたことだった。その分別知の延長上に核兵器があるということを力説されたが、この点については私は二回目なのでわかったが、聴衆の多くはどうだっただろうか。
・・・引き離す力を超えるもの・・・
質問の時間がとられたが、司会者も必ずしも講演の内容が把握しきれなかったようで、質問が整理されることはなかった。講演に即した質問はなかったように思う。その中ではある医者の方の質問が印象に残っている。患者の自死にどう向き合ったらいいのかというものだった。これは高さんのご子息のことを念頭においての質問のようだった。
私には高さんの苦難の人生を理解する力はないが、分別という引き離す力のもたらす負の部分を誰よりも経験された方だろう。まず差別として、さらに愛息との別離として。広島ではそれが核分裂の力として現れたのだ。宮角孝雄さんの写真集『希望の神話』には原爆ドーム前で世界各国の人が写っている。分別と分裂を超える力があることを示そうとしているようだ。パレスチナ人とイスラエル人が原爆ドーム前で握手して瞑目している写真もある。この人たちは念仏しているのだ。高さんの姿もその中に入っているのだと思う。
・・・八月六日を前に・・・
倉田百三と彼の出身地庄原市の豪雨のことを書いて数日後あるコンサートに出かけた。広島のシンガーソングライター新屋まりさんのCD「広島の空に」の発表と、庄原市出身で被爆二世の宮角孝雄さんの写真集『希望の神話』の出版記念を兼ねたサロンコンサートだった。ともに広島と原爆をテーマとした作品で、八月六日を前に企画された会だった。
写真は広島市中心部の地下街でも展示された。有名人を含め、原爆ドームの前で瞑目する人の写真である。写真展の会場と原爆ドームは至近距離にあるのでドームを見てからこの写真展を見た人も多いと思う。CDと写真集はコンサート会場でも即売された。写真集はサイン入りで、私も買い求めて宮角さんとお話しした。今後ヨーロッパをはじめアメリカなど世界各地で写真展が開かれるそうだ。
・・・庄原から世界へ・・・
庄原からヨーロッパへというと倉田百三の活躍を思い出す。倉田百三の『出家とその弟子』は日本でベストセラーになり、グレン・ショウによって英訳された。それを読んだフランスの文豪ロマン・ロランが感動して倉田百三に手紙を宛て、その感動を述べてフランス語訳を出すなら仲介の労をとることを申し出た。この手紙の訳はその後、日本語版の『出家とその弟子』に添えられたので、『出家とその弟子』はロマン・ロランが感動した作品としてさらに評価を高めることになった。
ロマン・ロランが感動したのは、おそらく彼の求めていた文学的テーマと『出家とその弟子』のテーマが重なっていたことや、またをのテーマが親鸞というヨーロッパ人が知らない宗教家の人生と言動に基づいていることへの驚きなどが合わさっていたからだろうと思う。手紙の日本語訳を読んでも、その感動と驚きとが充分に伝わってくる。この手紙自体が文学的価値をもっていると言える。
・・・原爆と豪雨の惨状・・・
コンサートの中では今回のCDと写真集に関係した人が何人か紹介された。すでに高齢となった被爆者の生々しい被爆体験談もあった。紹介された人の中には広島のテレビ局の三次支局長がおられた。三次市は庄原市に隣接し、どこの局も広島県北部では三次支局で庄原をカバーするそうだ。その人はたまたま私の席の向かいにおられて話しを伺った。
私が話題にしたのは庄原豪雨のことで、私が見たニュースはその人の局のものだった。その日の夕方、三次市では雨は降らなかったそうだ。第一報が入って確認しようとして警察や消防に電話してもつながらず、経験から直感的にこれはおかしいと思ったという。広島の局と連絡をとりながら三次からは車で行けるところまで行く、広島からはヘリコプターを飛ばすことにして取材したのが私の見たニュースだった。取材を終えたところで取材規制が始まり、結果的にその局のスクープになったそうだ。私は豪雨の惨状を直接聞いた。
・・・倉田百三文学館・・・
倉田百三のように庄原から世界へと発信する写真家、庄原から日本中へ発信された豪雨災害の取材記者との縁と、不思議な縁を感じながら数日して私は庄原市を訪れた。支局長の話を聞いていたので予想はついていたが、広島市から一時間ほど高速道路を走り庄原に近付いて山を見ても、どこにもそれらしいような山崩れは見えなかった。庄原市に入っても街は以前来た時と変わらなかった。倉田百三文学館は備北丘陵公園に近い庄原市田園文化センターの一角にある。その展示の中にあのロマン・ロランの手紙があった。内容は知っているが肉筆の筆跡が目に焼き付いた。
展示の中には百三が晩年に国家主義者になったことがあった。あまりふれられないが事実である。ロマン・ロランがそのことを知ったらどう思っただろう。百三は終戦前に亡くなったが生きていて広島の原爆のことを知ったらどう思っただろう。戦争も豪雨も惨事だが日本人は同じように扱おうとする。戦争は自然災害なのか。もしそうなら豪雨が繰り返すように戦争も繰り返すのか。原爆慰霊碑で過ちは繰り返さないと誓ったのは誰だろう。
発掘歎異抄130回 梅雨明け前 2010年8月号
・・・豪雨・・・
何年かに一度、広島では梅雨の末期に豪雨となり水害が起きる。梅雨の末期は南の太平洋高気圧が強まり、それが山陰沖の冷たい北の空気とぶつかるので、大雨となるらしい。南から押し上げる力が強まるのでぶつかり方が激しくなるようだ。そうして押し上げきると梅雨明けになる。こういう形で梅雨明けする時には、その後は強い夏の日差しが照りつける。これが梅雨明けの一つの形である。
それはわかっているものの、やはり豪雨はいやだ。長雨が続くと早く梅雨明けしてほしいという気持ちと、豪雨にならなければいいがという気持ちが交錯する。これまで我が家では被害はなかったが、以前父の実家では朝起きて見ると法面の上に建っている家の前が崩れて玄関先が深くえぐれて驚いたそうだ。もう少しで家の土台までやられるというところだった。早朝実家からの連絡を受けて父が様子を見に行った。素人ではどうこうできる状態ではなく、とりあえずシートで覆い、梅雨明け後に復旧工事をしてもらうということになったそうだ。その間の不安は大変なものだ。
・・・親の心配・・・
今回の大雨の場合は九州から山口、広島と西日本全体が被害にあった。九州からこちらに向かってくるなという予想はあったが、予想しても対策がとれるわけでもない。数日間続き、交通は乱れ、テスト中だった学校はテストの日程を変更するなど対応に追われた。
鉄道が止まり子どもが家に帰れないからどうしたらよいかという電話を受けて対応に追われた日もあった。たまたまその電話を受けて生徒を呼びに行ったが親の心配をよそに生徒は楽観的だった。家で心配している親と違い他の生徒と一緒だと危機感がないようだ。
・・・庄原の豪雨・・・
その大雨が上がり、やっとこれで梅雨明けかと思ったころ、広島県北の庄原市で大規模な土石流が発生した。ちょうどその日の夕方に私はテレビを見ていた。その番組が突然ニュース速報に切り替わり、庄原市での水害の場面を映し出したので驚いた。庄原で水害というのはこれまで記憶になかった。
そのこともあるが、六月から七月にかけて私は庄原出身の倉田百三のことを調べていて、彼の本を何冊も読んでいた。八月にある講演の依頼を受け、そこで倉田百三のことを話すことにしていた。庄原は私も何度か行ったことがあるが、今回倉田百三のことを話すのを機会にそのうち訪れようかと思っていた。その庄原のことだったので驚いたのだ。
・・・倉田百三・・・
ちょうど梅雨時に倉田百三の本を読んでいたので、彼の思想の遍歴が梅雨のイメージと重なっていた。ある時期はすっきりと晴れて光が差したようでもなかなかそれが続かない。二十代で『出家その弟子』を書いてそれを岩波書店から出版し一躍脚光を浴びた倉田百三だが、そのはなばなしい活躍の陰には病気との戦いと、精神的な葛藤が常について回った。彼は宗教家的な部分と文学者的な部分と合わせもっていたが、文学者としては苦悩はそのまま作品になるが、宗教家としてはそれは迷いの中にすぎない。迷いを描きながらそれからの脱却を目指すのに、親鸞と弟子の唯円とを描く『出家その弟子』は彼にとっては自分を映し出す鏡のようなものだった。
唯円を主人公にしたのは『歎異抄』が親鸞と若い唯円との対話を載せ、その言葉を使いたかったからだろう。これは成功し、人々の『歎異抄』への関心は高まった。その関心は今日に続く。その点での倉田百三の功績は大きい。ただいくら脚光を浴びようと自分の問題が解決しなければ苦しみは続く。後年に書かれた『法然と親鸞の信仰』では悩みは晴れたように見えるが、成田山にこもったり、参禅したりとその宗教遍歴は念仏者としては異色だった。親鸞の比叡山時代が続いたような印象を受ける。この遍歴は梅雨明け前のような苦しみだったのだろうか。テレビに映し出された庄原の傷ついた山肌を見ながら、私にはそれが倉田百三の姿と重なって見えた。
・・・『彼岸花はきつねのかんざし』・・・
高島野十郎の「御苑の春」を見て、ある人の名を思い出した。朽木祥という児童文学の作家である。福岡に行く前にある雑誌の編集部とやりとりをしていた。戦争文学について寄稿を求められたので、朽木祥の『彼岸花はきつねのかんざし』という作品の紹介を書いた。この作品は広島市近郊での少女と子狐とのふれあいを描いたもので、子狐は少女に白い彼岸花を持ってきてあげると約束する。
この二人(一人と一匹)を原爆が襲う。少女はかろうじて生き延びて病床にあるが、やがて家の近くの地蔵石に白い彼岸花が供えてあったという話を聞いて、家を飛び出す。確かに約束の花はあった。しかしそこに子狐の姿はない。「彼岸花」というこの花の名が子狐のその後を暗示しているようだ。私ははなはだ感動し、あるお寺でこの話を「二河白道」と結び付けて話したことがある。約束の花である白い彼岸花を白道に見立てて話した。この作品は日本児童文芸家協会賞を受賞した。
・・・『引き出しの中の家』・・・
この人の最新作が『引き出しの中の家』という作品である。こちらは戦争とは関係ない。「花明かり」という日本風の花の妖精が登場する。花明かりはとても小さく、幼いうちはうれしいと花の香りを発し、成長すると喜ぶと内から輝く。花明かりはそれにふさわしい大きさのものを作るとそこにやってくる。引き出しの中に作った家に訪れた花明かりと少女の交流を二代にわたって描いたものだ。
この作品を読むと幸せな気持ちになり、花明かりが輝く場面では本当にこちらの心も輝くのがわかる。童心の輝きと「照于一隅」の精神を重ねたような作品だ。読み終えてそのことを書いて朽木氏に送ったところ、「照于一隅」が朽木氏の好きな言葉で、それを物語に込めたのだという返事をいただいた。さらに言えば私は高島野十郎のろうそくの絵や、彼の「境内の桜」という、寺に咲いたしだれ桜とそのそばに遊ぶ少女を描いた絵を思い出した。高島野十郎はこの少女は菩薩を描いたと語ったというが、その姿に「花明かり」を連想した。『引き出しの中の家』の最後の場面は小さなしだれ桜のもとでの花見である。
・・・「御苑の春」・・・
「御苑の春」を見て朽木祥氏の名を思い出したのは、『引き出しの中の家』に描かれた「花明かり」と高島野十郎の絵との関連による。この絵にも背景に小さく桜が描かれ、そのそばで花見をしている人が小さく描かれている。それを見ると人はみな「花明かり」なのだという気がする。日本特有というが、花見という習慣もそのことをよく表している。
それとともに以前から気になっていたペンネームのことがある。『引き出しの中の家』で「花明かり」が好んで出没するのが古木の洞(うろ)である。朽ち木にも見えるような古木に花が咲き、人々に祥(さち)をもたらすというのが朽木祥というペンネームの由来なのだろうか。『引き出しの中の家』に限らず、これまでの朽木氏の作品には人を幸せにする力があると思う。大人の文学がそれを失って久しいことを思えば貴重な存在だろう。
・・・エネルギー源・・・
「御苑の春」の中心に描かれた巨木は朽ち木と言ってもいいような姿である。しかしすでに述べたようにそこに実はこれから新芽が萌えたち葉を茂らせていくエネルギーが蓄えられている。その根幹が一見枯れているように見えるこの巨木の姿である。燃える前の巨大なろうそくのようだとも、宇宙樹のようだとも、千手観音のようだとも述べたが、大地から手が生えだして空に向かっているようにも見える。あるいは大地のエネルギーを空に向かって放射し、放電しようとしているようにも見える。いやすでに放電している姿がくねる枝振りに描かれているのかもしれない。
画家であれ小説家であれ、そのエネルギーの根源は同じだろう。それはまた宗教が語ってきた根源的存在でもあるだろう。その根源から生まれる多様な姿の一つ一つに本願が宿っている。存在の根本願、本源の願いとしての本願が。私たちは今その本願を生きている。
発掘歎異抄128回 炎再び 2010年6月号
・・・もう一本のろうそく・・・
五月に福岡に行った際に再び福岡県立美術館を訪れた。ここは常設展はないそうだが、コレクション展が開かれていて、その中に高島野十郎の絵が五作品展示されていた。高島野十郎が最も多く描いたのはろうそくの絵だと言われているが、これは所有者が自分の手元に置いておきたいということで、福岡県立美術館には長らく一点しかなかったそうだ。最近所有者の中に寄託してもよいという方が現れ、今回その一点を見ることができた。
前回見た絵に比べるとやや明るいという印象を受けた。よく見ると炎の中に絵の具が盛り上がって描かれている部分がある。高島野十郎の絵にはこういう描き方は珍しいのではないだろうか。そのせいか立体感があるようにも見えるし、作者の中で何かがより輝きを増したようにも見える。同じ素材を何十枚も描いてマンネリに陥らないのは至難のわざだろう。野十郎はろうそくの絵は同じようでも一枚一枚描いたときの心情を思い出すことができると語ったそうだが、このろうそくの絵のときはどういう心情だったのだろうか。
・・・もえる前・・・
ひとしきりそのろうそくの絵を見た後、「御苑の春」という絵と向き合った。新宿御苑を描いたと言われる。春の名が作品に入っているものの、背景に描かれた桜と地面の芝の青が春を示しているに過ぎない。画面の中央には太い幹と枝だけのまだ芽吹いていない巨木が描かれている。大地から吸い上げられてこの木の内に込められ今萌えたとうするエネルギーを描こうとしたかのようだ。作者自身の宿しているエネルギーのように見える。
まだ火のついていない巨大なろうそくと言ってもいいかもしれない。もうすぐ発火点に達して萌えて、一面に茂っていくのだろう。しかしそうすると幹と枝は葉によって隠れてしまう。人は花ばかり見るが本当のエネルギーは根幹にあるのだといいたいようだ。岡本太郎のオブジェにも似たものがありそうな生命の大樹である。宇宙樹と言ってもいいかもしれないし、千手観音と言ってもいいかもしれない。現象の背後にあるものを描きたいという作家の意志が伝わってくる力作である。
・・・消えて現れて・・・
この作品を見てからもう一度ろうそくの絵を見るとなぜかさきほどと違って見えるのに気付いた。さきほどはろうそくの炎の明るさに惹かれて炎を見ていたのだが、その炎の先端が消えていくその空間が描かれているような気がしたのだ。ろうから立ち上がった炎が上へと進み燃え尽きてすっと消えていく。その流れと空寂が見えてくるような気がした。
それを心の中で繰り返して見ると実に気持ちいい。これなら見飽きることはない。繰り返しのように見えて一つ一つが新しくしかも永遠がそこにある。往相と還相の炎であり、それを支えている空(くう)が見えてくる。現れては消えるものをただ無常と観じるのではなく、その背後にあるエネルギーを高島野十郎は感じていたのだろう。燃え続けて燃え尽きないものをこの人は見ていたのだろう。
・・・燃え尽きない絵・・・
炎を描いたこの人の絵に不思議なエピソードがある。「雨 法隆寺塔」という絵にまつわるものだ。私にはこれは雨に託してこの世界に降り注ぐものを描いたように見える。高島野十郎が有名になったせいかこの絵は盗まれてしまう。数年後所有者の家の床下に放置されていたのが発見されるが、そのときは湿気によってカビだらけのひどい状態だった。絵の堅牢さと高度な修復技術とによって蘇ったが、今度はその所有者の家が火事になり、絵は焼けてしまう。ところが半焼けになったはずの絵が今度も修復されて蘇ったのである。
こうなると水の難と火の難をくぐり抜け「二河白道」を渡った絵である。燃えて燃え尽きない絵なのである。このエピソードはNHKテレビの「日曜美術館」でも紹介されていた。この絵の修復を行ったのが渡辺郁夫氏である。実は私と同姓同名の人である。こうなると運命的なものを感じてしまう。宿縁とはこういうものを言うのだろうか。
その絵を初めて見たのはNHK教育テレビでのことだった。以来忘れられない絵となり、広島で実物も見ることができた。図録や絵葉書も買ったのでいつでも見ることができるようになった。たった一本のろうそくの絵だが、この一灯が燃え続けている。作者はこれを何十枚も描き自分の絵の愛好者に贈り物として渡したという。いらなかったら焚きつけにでもしてくださいと言ったそうだが、贈られた人はその絵を大事にし、多くは仏壇に飾られているという。私が初めて見たときに感じた宗教的なものを感じた人が多いからだろう。
この三月に福岡での講演があり、せっかく福岡に行くのだからと思い、福岡県立美術館に寄ってその絵を見た。その画家は福岡県出身である。ちょうど「2つの美術山脈 修猷館と明善に集った美術家たち」という展覧会が開かれていた。修猷館は福岡藩、明善は久留米藩の藩校で明治以降も後身が存続する。
・・・燃えはじめ・・・
その画家は久留米の明善の出身である。実家は造り酒屋で、東京帝国大学で水産学を学び卒業生中一番の成績を収めながら恩賜の銀時計を辞退し、画家になったという変わった経歴の持ち主である。絵は独学に近かったようだ。明善出身の画家で最も有名なのは青木繁だろう。その画家の兄が青木繁の親友で画家の心も青木繁によって火を付けられたのかもしれない。ただし両者の画風は全く違う。
その画家の名を高島野十郎という。野十郎は画号で本名は弥寿である。青木繁が有名画家であるのに比べると、高島野十郎は長らく一部のファンだけに知られた存在だったようだ。それが福岡県立美術館が福岡出身の画家の特別展を企画した際に学芸員の目にとまった。以来収集が続けられ、やがてNHK教育テレビの「日曜美術館」で紹介されるに及び、全国的に知られるようになった。私が初めて見たのはこの「日曜美術館」でのことだった。広島で見たのもこの「日曜美術館」の三十周年を記念した展覧会でのことだった。
・・・不滅の灯・・・
それ以来数年ぶりの対面だった。広島で図録と絵葉書を購入してから時々講演でこの絵のことを話した。それは私にとってこの絵が私の中に燃え続けるものを表すように見えたからである。高島野十郎にとっては美、あるいは自分自身の象徴だったのかもしれない。しかし贈られた多くの人がそれを仏壇に飾ったということからも宗教的なものが濃厚に漂っている。私の場合は信心であり、あるいは私の中に宿った真実と言ってもいいだろう。「如来より賜る信心」とはそういうものだ。
これが不滅の灯として描かれたのはろうが垂れていないことからも言えるのではないかと思う。福岡県立美術館で展示されていたろうそくの絵は一枚だけだが、画集には何枚も収録されている。中には皿に載せられたものもあるがやはりろうは垂れていない。ただし太いろうそくなのでこのようなろうそくではろうは垂れないのかもしれない。そうだとしてもやはり不滅のものを宿しているように見える。最澄の「照于一隅」(一隅に照る)を絵にしたと言ってもいいだろう。
・・・入滅の絵・・・
高島野十郎が宗教的画家だったことは確かで、大きな影響を受けたと言われる兄の宇朗は詩人で出家して禅僧になった人だ。野十郎自身は宗教家としては空海が好きだったという。高島野十郎という名は空海の高野山の高野と兄の宇朗の名を入れたのだろうと言われている。仏像の絵はないようだが、最も多く描いたろうそくの絵以外では、月、太陽、睡蓮の絵などが宗教性を濃厚に漂わせている。
月の絵は『涅槃経』の「アジャセの物語」の「月愛三昧」を思わせるし、太陽の絵は「尽十方無礙光如来」を思わせる。睡蓮の絵は浄土に咲いているように見える。福岡県立美術館の学芸員が初めに惹かれたのは「すいれんの池」という絵だそうだ。絶筆となった「睡蓮」は自らの入滅を描いたようだ。水面というより空(くう)の中に開いているように見える。そこに「無生の浄土」が見えてくる。
発掘歎異抄126回 「アジャセの物語」 2010年4月号
・・・五逆罪の救い・・・
二○○九年の二月に「吉本新喜劇とアジャセの物語」と題された演劇の公演が広島であった。『観無量寿経』や親鸞が『教行信証』に引用した『涅槃経』でよく知られているいわゆる「王舎城の悲劇」を素材としたものだ。父の王を殺して王位に即いたアジャセ王とアジャセによって幽閉された母を中心に描かれる。アジャセ王は釈尊在世時の実在の王で改心して仏教教団の庇護者となったとされる。
親殺しを仏教では五逆罪として最も重い罪とする。そのような者には報いはあっても救いはないのが因果の道理だ。ところがアジャセは改心して仏教に多大な貢献をした。アジャセの救いをどう考えるかは仏教にとっても大きな問題だった。教団としての利害で考えているわけではなく、親子の問題としても宗教における罪悪と救いの問題としても現代においても依然として大きな意味をもつ。
・・・「新悲劇?」・・・
ただしそれほど深刻な問題が「吉本新喜劇」という形でできるのか。大胆な発想に驚いたものだ。実はそれに至るいきさつがあり、当初は芹沢俊介の原案に基づいて別の劇団が演じることになっていた。芹沢俊介と劇団の主宰者とによる公開のトークも開かれ、その時は物語の要旨がスライドと朗読によって紹介された。トークの内容は真剣で、このテーマを現代に問いたいという意気込みが感じられた。ところが脚本化の課程で困難が生じ、その劇団がこの企画から降りてしまった。
その後、吉本新喜劇が公演を引き受けたと聞いた時は驚いた。「新悲劇」になるのかと思った。しかし舞台は吉本新喜劇の舞台の進行そのままで笑いと涙の物語になっていた。王宮を老舗の旅館に置き換え、父に代わって子が実権を握る。幽閉に相当するのは父を認知症になったとして無理矢理入院させてしまうことだ。これなど現代によくある話でこういう面でもこの物語は生きていると思った。
・・・帰ってきた「アジャセの物語」・・・
それから一年後の二○一○年三月に「善人なおもて往生をとぐ 親鸞わが心のアジャセ」と題して再び広島に「アジャセの物語」が帰ってきた。川崎麻世が親鸞とアジャセの二役を演じ、父王を中山仁、母を音無美紀子が演じる本格的な演劇である。感心したのは副題にあるように親鸞が自分とアジャセとを重ねていたと解釈して、それを舞台で親鸞とアジャセを一人二役にして演じたことだ。これは背景を知らない人にはわかりにくかったかもしれないが、『教行信証』に引用された『涅槃経』の「アジャセの物語」の部分を読むと確かにそう思わせるものがある。
舞台ではまず越後に流罪となった親鸞が登場し、流人として、また妻子連れの破戒僧として冷たい仕打ちを受ける場面から始まる。そこから親鸞の心の中でアジャセの物語が展開するという形をとる。エンディングはその逆で再び親鸞へと戻る。この早変わりは予想はしていたものの実に見事でどこでどう変わったのかわからなかった。いずれにせよ親鸞とアジャセが重なっていることがわかる。
・・・人の言葉、仏の言葉・・・
「善人なおもて往生をとぐ」は言うまでもなく『歎異抄』の言葉で「いはんや悪人をや」と続く「悪人正機」を表す言葉だ。親鸞の悪人の自覚が五逆罪を犯したアジャセと重なる。だとすると鍵となる言葉がある。それが『教行信証』に引用された「阿闍世王の為に涅槃に入らず。」という涅槃を間近にした釈尊の言葉である。しかも釈尊は阿闍世とは煩悩を具足する者のことだと言うのである。そうすると釈尊は一切衆生が救われるまで永久に涅槃に入れない。しかしここに真実がある。『無量寿経』の四十八願文に付く「不取正覚」の精神と同じであり、本願の言葉である。
予想通り舞台でもこの言葉が釈尊役の俳優によって語られた。ところがなぜかいつもの感動が起こらなかった。お経を読む時に感じる仏の言葉として聞こえなかった。これを役者のせいにするのは酷だろう。如来の言葉とは、人間の次元とは別の次元から聞こえてくるものなのだ。その言葉自体が「如より来たる」ものなのだ。
・・・法垂窟・・・
昨年の秋に二度知恩院を訪ね、その度に知恩院の隣の吉水草庵跡と言われる安養寺と近くにある法垂窟とを訪れた。いずれも知恩院の大鐘楼から近い。安養寺は大鐘楼のすぐ横にある。法垂窟は大鐘楼から少し谷を登るが、わずかな距離である。この法垂窟には窟の中に湧き水がある。吉水の名の由来の一つと言われる。もう一つは安養寺のすぐ下の吉水弁財天の湧き水である。これらは念仏が我々の中にとめどなく湧き出ることを思わせる。
この法垂窟の窟の上には青銅のレリーフがある。これが法然と、法然が「偏依善導」と言ってその教えに帰依した善導との出会いを描いた「二祖対面図」である。あるいはこの法垂窟のあたりが真葛が原とも言われたことから「真葛が原の出会い」とも言われている図である。空中に浮かんでいるのが善導で、それを拝んでいるのが法然である。
・・・「夢の善導」・・・
このことは『法然上人絵伝』(「四十八巻伝」)の第七巻に書かれている。法然が何歳の時とは書かれていないが、四十三歳で善導の教えに導かれて専修念仏を広め始めてから後のことであることは間違いない。法然はある夜、夢の中で紫雲を見る。その中から一人の僧が現れ、その姿は腰から下は金色で腰から上は墨染めである。法然が合掌して僧に名を尋ねると僧は善導だと答える。法然が何のために来られたのかと尋ねると、僧はあなたが専修念仏を広めるのが尊いから来たのだと答える。それを聞いて法然は夢から覚める。
この夢を画工に命じて描かせ、「夢の善導」として世間に流布したという。これが「二祖対面図」の原形である。浄土宗は法然によって開宗されたが師資相承がなかった。同じ新仏教でも禅にはそれがあり、この点が浄土宗の弱点とされた。この夢は善導が法然を印可するもので、浄土宗での師資相承に当たる。
・・・平山郁夫の「二祖対面図」・・・
私は窟のレリーフの前でこの話をした。それに続けて、この銅板には色が着いていないが、平山郁夫が描いた「二祖対面図」が知恩院に所蔵されており、浄土宗のお寺では複製が置いてあるので見られるといいと話した。平山郁夫の「二祖対面図」は正しくは「法然偏依善導図」と言う。これは法然の立場から述べた言い方だろう。別の言い方からすれば善導が法然に浄土の法脈を伝えた「善導法然相伝図」とも言っていいはずである。
実は『法然上人絵伝』では善導は腰から下が金で上が墨染めという「半金色」と書かれているが、平山郁夫の絵は下から上にいくほどにやや黒みを帯びる程度で顔も金でほぼ全身が金色である。ほとんど仏像に近く仏画と言っていい。私は「半金色」の方にかえってリアリティを感じていた。もしこの話が作り話ならわざわざ「半金色」という必要はないと思うからだ。平山郁夫が金色にしたのは善導を如来と同等に見なしたからだろう。
・・・取り残されて・・・
平山作品でこの絵と近い構図をもつ作品に「受胎霊夢」がある。摩耶夫人が白象の宿る夢を見て釈尊を産んだという仏伝に基づくもので、広島県立美術館に所蔵されている。私はこの絵を何度も見ていて、平山作品の中でとりわけ好きな作品である。それは我々の中に信心が宿ることを表しているように見えるからだ。この「受胎霊夢」の白金の象を善導に、摩耶夫人を法然に置き換えると「法然偏依善導図」になると言えよう。善導が金色になったのはこの絵との関係もあるのだろうか。
その後私は再び平山郁夫について語る機会があり、氏が子ども時代に親しみ、「瀬戸田曼荼羅」に描かれている尾道市瀬戸田の向上寺三重塔の話をした。生口島にある国宝の塔である。この塔は平山郁夫の仏教美術の原点だろうと話した。それから数日後十二月になって突然平山郁夫の訃報を聞いた。驚くどころではない。もう一人の郁夫は取り残されてしまった。こうして「法然偏依善導図」を見ると今までと違って見える。自分がその図の中に入るのだ。そうしてようやく法然が善導の夢を見た気持ちがわかったように思った。
・・・『火焔浄土』・・・
作家の津本陽の『火焔浄土 顕如上人伝』は一九八九年から一九九一年に本願寺新報に連載されたものを単行本化したものだ。顕如(一五四三〜一五九二)は本願寺十一世で、織田信長と石山本願寺の戦いを十年間にわたり戦った人である。一九九一年は顕如上人の四百回忌の年だった。「火焔浄土」とは石山本願寺の戦いのイメージから生まれた言葉だろうが、一向一揆までも含んでいると言えるだろう。さらに言えば戦争中の日本、就中、原爆の災禍を被った広島の安芸門徒についても言える言葉だろうと思う。私の祖母もその一人だったので、この言葉は人ごとではない。
信長の犠牲は本願寺だけではない。最も有名なのは全山焼き討ちを被った比叡山だろう。それ以外にも織田信長や豊臣秀吉らの戦国武将によって焼き討ちにされた寺は多い。寺が僧兵を抱えていて武装化していたのが大きな理由だろうが、地上の最高権力者として自分は神仏を畏れないという態度を人々に示したかった示威行動だろう。もっと言えば自分こそが神仏で崇拝の対象だと言いたかったのかもしれない。それが権力者の性だろう。
・・・雑賀門徒の血・・・
津本陽は和歌山県出身で、自分の家も熱心な門徒で「雑賀講」の一員だったそうだ。雑賀と聞けば雑賀の鉄砲衆で知られ、広島の毛利と並び石山本願寺の戦いで本願寺を支えた有力な勢力である。毛利の水軍と雑賀の鉄砲衆が十年の戦いを支えたと言っていいだろう。武家ではない本願寺が織田信長を相手に十年も耐えたのは常識ではありえない。津本陽はこの雑賀門徒の血を受け継いでいる。
津本陽はこの『火焔浄土』の後、約十年して読売新聞に親鸞伝を連載し、二○○一年に『弥陀の橋は 親鸞聖人伝』を出版した。これはその名の通り本格的な親鸞伝であり、日本有数の大新聞に連載されたものだから読者数も多いし、反響も大きかったに違いない。ところがそれから十年も経たない二○○九年末に津本陽の新たな親鸞伝が刊行された。
・・・『無量の光』・・・
今度のタイトルは『無量の光 親鸞聖人の生涯』。今回は新聞への連載をまとめたものではなく書き下ろしだそうだ。五年間かけた原稿用紙約千枚の大作である。津本陽は『弥陀の橋は 親鸞聖人伝』の出来ばえに満足できなかったのだろうか。読み比べて前作が今回の作にそれほど劣っていたとは思えない。新たな資料を用いたり、教義の解釈を多く入れたりと違いがあるのは当然だが、前作の不備を補うために書かれたものとは思えない。
むしろ前作を書いたときから新たなものが津本陽の中で始まり、それが十年間燃え続けて書かなければ収まりがつかなくなったのではあるまいか。それは『火焔浄土』で顕如が十年間戦い抜いたのと似たところがある。自分の中に流れる雑賀門徒の血が燃え上がったのだろう。このもう止まらなくなったものが新たな親鸞伝を書かせたのだと思う。それは我々が本願に目覚め念仏が止まらなくなるのと同じだ。親鸞が最晩年まで書き続け、甲斐和里子が往生直前まで信心の随筆を書き続けたのと同じだろう。信心相続の証しである。
・・・復活する親鸞・・・
津本陽はすでに八十歳である。今回の作品は決定版のつもりだろう。しかし終わりのない決定版であると思いたい。本願寺三世の覚如の『御伝鈔』以来、多くの親鸞伝が書かれた。中には創作と言っていいものも多々含まれている。さらに近代以降は作家によって親鸞が描かれてきた。中でも真宗僧侶だった丹羽文雄の『親鸞』は超大作で、当時としては決定版のつもりで書かれたものだろう。ライフワークと呼ぶにふさわしい作品である。
しかし今また我々は津本陽の二作品、さらに年が明けてすぐに五木寛之の『親鸞』を目にすることとなった。新たな資料の発見が難しい中で歴史上の親鸞を復元すのには限界があるだろう。しかし私の中に復活する親鸞は、今、常に私とともにあり新しい。この私のために復活する親鸞こそ我々が本当に語ることができるものである。親鸞伝は終わらない。
・・・人吉再訪・・・
青連院で国宝の「青不動」を見てしばらくして九州に行った。今回の旅の目的の一つが熊本の人吉を訪れることだった。以前人吉を訪れた時には、隠れ念仏の遺品を所蔵する楽行寺や西本願寺人吉別院、山江村歴史民俗資料館などを訪れた。その見聞を基に隠れ念仏者で殉教した「伝助」のことを書いた。以前訪れた時もその伝助の首塚を尋ねたかったのだが、時間の制約もあり、見付けることができなかった。今回そこを尋ねるつもりだった。
伝助の首塚は人吉の市街地からはずれた与内山という所にある。市街地から案内図を見ながら注意深く車を走らせて、何とか入り口を見付けることがことができた。注意していないと通り過ぎてしまう。山道に入ったのだが、どうもまたわからない。途中で迷ったらしいと引き返した。車数台を止めるスペースがあり、そこからまた山道に入り、折れ曲がり、今度は下り坂になる。江戸時代にどうだったのかはわからないが意外に人里に近い。
・・・「蜘蛛の糸」・・・
何とかたどり着いて喜んだところ、待ちかまえていたように蜘蛛の巣に引っかかってしまった。伝助もこのようにして役人に捕まったのだろう。これもいい経験である。しかしせっかくの「蜘蛛の糸」を切ってしまうのは惜しい気もする。敷地の中には屋根付きの小堂があり、中に石仏が二体並んでいる。一つは観音菩薩、もう一つは地蔵菩薩である。案内によれば、伝助の遺歯を納めた観音像の横に、地蔵菩薩を並べたのだそうだ。
観音も地蔵もありふれているのでとがめられることはないだろう。古老はここを「シンコバ」と呼んだという。「信仰場」の隠語だそうだ。この二体の仏像は二人の伝助を表すように見える。またそれを眺めていると、中央に阿弥陀仏が立ち、二人の伝助が脇侍になっているように思える。実際に命がけの伝道者だった伝助は阿弥陀仏の手足だった。
・・・仏具焼却地と花立・・・
ひとしきり拝んだ後、十島の仏具焼却地に向かった。ここは念仏者が発覚するとそこから取り上げた仏像や仏具を役人が焼却処分にしたという所で、球磨川の川べりにある。近くにはゴルフ場と十島菅原神社があり、ここは迷うことはない。ただ思っていたのよりは場所が狭かった。目の前に球磨川が流れているが、川沿いの道ばたに小さな祠があり、中に阿弥陀仏の絵像が祀られている。
球磨川は急流として有名だが、このあたりはそうでもない。深みのある青い川がゆったりと流れている。役人達は川原で仏具を焼いた。実はその対岸からこの光景を密かに眺めている老婆がいた。役人達はその視線には気付かなかったのだろう。老婆は対岸からこの燃やされる仏に花を供えて拝んでいたという。それが「花立」という地名になった。
・・・「火焔浄土」の仏・・・
橋を回って対岸に行き、駐車場から川に近付く。鬱蒼と木が茂った岩場があり、岩は水で濡れている。そこに苔むした石仏があり、花が供えられていた。岩に洪水時の水の高さを示す印が付けられていて、石仏の高さを超えている。水につかることが多いのだろう。ここから対岸の火を拝むとなると、これはまさに二河白道図である。老婆には火の向こうに浄土が見えたのだろう。作家の津本陽が織田信長に攻められた顕如上人の石山本願寺の戦いを描いた『火焔浄土』を思い出す。
苔むして木の暗がりにある石仏はガイドには観音像とあるが、青黒くまるで青不動である。火の中に見えたとしたら火焔を背負った不動明王でもいいのかもしれない。熊本は火の国である。写真に撮ろうと位置を変えてよく見ると、やはりどうも観音には見えない。これまで見て来た観音、地蔵、阿弥陀仏とは違う。そのうちに風化と苔のせいでよくわからなかった右手が剣を持っているように見えてきた。これは本当に不動明王なのか。あまりのことに唖然とした。老婆は燃えさかる炎の中に本当に不動明王を見たのかもしれない。親鸞の出家を見守った不動明王は頼まれなくても念仏者を守り続けていたのである。
・・・知恩院周辺・・・
浄土宗の本山・知恩院の北に天台宗の青蓮院がある。親鸞出家得度の師である慈円の寺である。親鸞の師である法然を祀る御影堂のある知恩院へのお参りを兼ねて訪れる人も多いだろう。また知恩院の大鐘楼の南には法然が専修念仏を説いた吉水の草庵跡と言われる安養寺がある。現在は時宗の寺になっているが、ここを訪れる人は浄土宗の人と浄土真宗の人がほとんどだろう。さらにその南には東大谷と言われる東本願寺の大谷祖廟がある。
知恩院の大鐘楼からは、少し山を登ると法垂窟(ほうたるくつ)と言われる岩屋にも行ける。中に水が湧いている。レリーフが置かれていて、法然が夢の中で善導に対面したと言われる「二祖対面」の図が描かれている。その夢の中での対面の場がこのあたりだったと言われている。また知恩院と青蓮院の間には本願寺の故地と言われる崇泰院という知恩院の塔頭がある。この一帯が法然から始まる浄土門の聖地と言っていい。このあたりを見て回るだけで一日かかるかもしれない。
・・・本尊・・・
このあたりの寺を見て回った人に崇拝の対象になっている本尊や仏像の印象を聞けば、青蓮院だけが違ったと答える人が多いだろう。青蓮院は天台宗だが、その他は浄土宗、時宗、浄土真宗で、いずれも浄土門の寺だから本尊は阿弥陀仏である。範囲を広げても目にするのは阿弥陀仏の脇侍としての観音菩薩や勢至菩薩までだろう。あるいは祖師像である。これらの宗派はいずれも天台宗からの分派である。またこのあたり一帯は慈円の所有した地で、安養寺の下に広がる円山公園は、慈円の所有地で慈円山が円山となったと言われている。慈円の懐の広さを感じさせる。
しかしその慈円の寺である青蓮院で目にするのは「青不動」である。青蓮院の本尊は正式には熾盛光如来だが、これは秘仏で拝むことはできない。その代わりに国宝の仏画「青不動」の複製が本堂にあり、これを拝む。またそれを仏像として模刻した像もあり、これも拝むことができる。実質的な本尊は「青不動」と言っていい。その像の恐ろしさは一目見ただけでわかる。誰が見ても浄土門の阿弥陀仏の世界とは異質な世界が描かれている。
・・・御開帳・・・
この「青不動」がこの九月から十二月まで公開されていた。その時期に京都に行く機会があれば一度見たいと思っていたところ、その機会を得た。知恩院から歩いて青蓮院に向かうと青蓮院から知恩院に向かう人もいる。道沿いに「青不動」御開帳のポスターが貼ってあり、その写真を撮っている人がいる。本物を撮れないからだろうと察しがついた。
境内は修学旅行シーズンということもあってか、大変な人出である。これまでは青蓮院というと山麓の静かな寺という印象があったが今回は違う。「青不動」は本堂ではなく、宸殿という宮中の紫宸殿を模した広い建物に安置されていた。これだけの人を容れるにはそうするしかないだろう。
・・・火炎と光背・・・
広い部屋の中で、明るみの中で見たせいか「青不動」ははっきりとしかも大きく見えた。これまでは目を凝らすようにして見たのが、そうしなくてもよく見える。平安時代のものとは思えないくらい保存状態がいい。これは公開してこなかったのが幸いしたに違いない。すすけていないのだろう。この大きさ迫力は大変なものだ。不動明王は恐ろしい形相と光背の代わりとなる火炎の力で人を威圧する。人々はその威力にあやかろうとするのだろうか。多くの人が祈願を依頼していた。
この世を生きていくには時にはこういう力を借りたいという気持ちはよくわかる。不動明王は太陽を神格化したと言われる大日如来の化身で力を象徴しているが、その燃やし尽くす働きを表しているのだろう。一方で太陽には包み込む柔らかな光もある。普通仏像が光背から放つ光はその摂取の光である。常に身を置きたくなるのはどちらだろう。宸殿を出たところの庭に親鸞の童形像があった。その合掌する手は何を拝んだのだろう。
・・・往生と来迎・・・
「万部おねり」は念仏者が往生する時に浄土から阿弥陀仏と菩薩の聖衆が来迎する様を表す儀式で、「迎え講」とも呼ばれるものである。このような講が催されたのはそれだけ人々の来迎に対する期待が大きかったからだろう。来迎思想の普及には源信の『往生要集』の影響も大きかったはずだ。「光の念仏」と「音の念仏」という言い方をしたが、視覚に訴えかけるものはわかりやすい。観想念仏はできなくても、絵画やこのような儀式を通せば経典は読めなくても誰でも目で見て理解できる。まさに「百聞は一見にしかず」である。
しかしまた一方で来迎に対する期待感が大きくなると、来迎そのものが目的のようになってしまう。また来迎は臨終時のことなので、来迎があって初めて往生ができるのなら、臨終時まで往生は定まらないことになる。それでは「安心」とは言えないだろう。親鸞は来迎そのものがないと言ったのではなく、来迎中心の往生思想を越えようとして、臨終時の来迎を待たなくても信心が定まる時に往生は定まるとした。それで信心は安心となる。
・・・法然の「お迎え」・・・
こうして真宗では教義上は来迎が重視されることはないが、人々の間では「お迎え」が来るという言い方で往生を表すことはごく普通のことであったように思える。むしろお浄土参りに「お迎え」が伴うのは当然だった。
来迎を説くのは四十八願の中の十九願なので、十八願を「王本願」として四十八願の中心とした法然も来迎を重視したわけではない。それでも法然の臨終時には来迎があったらしい。臨終が近付いた法然は「観音・勢至菩薩、聖衆現じてまします、おがみたてまつるや」と言い、また病床の傍らに仏像を置こうとする弟子に対して、空中を指差して、この仏の外に仏がおられるかと語ったという。もちろん弟子達の目には見えない。しかし法然はこのようなことで嘘を言うような人ではないので、法然には当然見えていたはずになる。こうして奇瑞として語られることになる。
・・・『HACHI 約束の犬』・・・
この法然の逸話や、「万部おねり」のような来迎そのものを表す行事だけが「お迎え」を表すわけではない。今年の夏に公開されたアメリカ映画『HACHI 約束の犬』でも全く思いがけず「お迎え」を見せられた。八月八日という「ハチ」の日に公開されたこの映画は、言うまでもなく日本の渋谷駅前に建つ「ハチ公像」の由来となった実話を、舞台をアメリカに置き換えて描いたものだ。誰でもが知っているストーリーである。予告編を見た時からそのことはわかっていた。
映画は日本のある山寺で僧侶が梵鐘をつく場面から始まる。この始まりは最後の部分に活きてくる。その僧が寺で生まれた子犬をアメリカに送り出す。子犬には「八」の札のついた首輪が付けられ、犬を入れた箱には宛先の荷札が付けられていたが、アメリカの駅でその荷札が半分切れ、箱も壊れて子犬は迷子になる。それを拾うのがリチャード・ギア演じる大学教授で、結局彼が子犬を飼うことになる。犬は成長して毎朝駅まで彼を見送り、夕方には出迎えに行く。ここまでは「お迎え」は犬の役目で、迎えられるのは人の方である。
・・・もう一つの「お迎え」・・・
ところが教授は授業中に突然倒れて帰らぬ人となる。日本のハチ公の実話でもハチ公を飼っていた東大の上野英三郎教授は大学で突然倒れたそうだ。それでもハチは毎日駅に通い続ける。家族は引っ越すのだが、ハチは引っ越し先から舞い戻り、駅前で主人の帰りを待ち続ける。アメリカ東部海岸の厳しい冬が何度も訪れてはまた去っていく。ハチはしだいに老いていき、毛並みのつやも消えていく。
この厳しくも美しい自然の中で老いゆく犬の姿を見ながらハチにも最期が迫っているのがわかる。ここでようやく私は今度は犬が迎えられるのだと気が付いた。待つことは信じることだった。ある夜ハチはついに約束通り自分を迎えに来た懐かしい主人の姿を見る。その時私たちの心もハチとともに浄土に遊ぶ。冒頭の梵鐘は始まりであり終わりだった。
・・・念仏勧進・・・
「万部おねり」での大和禅門講による鉦をたたきながらの念仏行道には深い感銘を受けた。その前があでやかな和服姿の女性達で、後がきらびやかな衣装と面をまとった浄土の聖衆だったので、質素な黒服の一団がよけいに目立ったのかもしれない。しかし一遍上人の念仏勧進を描いた『一遍聖絵』を見れば、念仏勧進の姿はあのようなものだった。さらにさかのぼれば市聖と言われた空也(九○三年〜九七二年)の姿も同様だったはずだ。
空也の少し後の人に比叡山の天台浄土教の大成者である源信(九四二年〜一○一七年)がいる。「万部おねり」に先立つ布教使による法話にもこの源信が出てきたし、親鸞も浄土七高僧の一人として源信を尊敬している。源信の念仏は基本的には浄土のイメージを思い浮かべる観想念仏で、それに堪えられない者には称名念仏を勧めるという教えだった。
・・・光から音へ・・・
二つの念仏の内、在家の者には観想念仏はまず不可能で、初めから称名念仏しかなかったと言っていい。観想念仏があるとすれば沈みゆく夕日を拝んで西方浄土を思う「日想観」ぐらいだろう。称名念仏は易行であるだけにもし優劣をつければ劣っている劣行であるという印象がつきまとった。念仏聖達はそれでも人々に称名念仏を伝え続けた。この二つの念仏は別の見方をすると、観想念仏という「光の念仏」と称名念仏という「音の念仏」という言い方ができるだろう。阿弥陀仏が「無量光仏」であることを思えば、「光の念仏」が大事なのはそれなりに説得力がある。
融通念仏にはこの光と音の関係として極めて興味深い伝説がある。それが『融通大念仏亀鉦縁起』で語られている。良忍が融通念仏を広めるにあたり、鳥羽上皇が愛用の手鏡を鉦に鋳直して良忍に授けたという伝説である。確かに鉦は浅い縁のついた金色の円盤状で、それ自体鏡に見えないことはない。黒服の一団が手に提げたこの鉦は光って見え、それを打って高い音が響くのである。鏡が鉦となったという伝説は光が音となるという関係を実にうまく表した伝説に思える。光の仏が音の仏になる。そこに称名念仏が成立する。
・・・山から海へ・・・
この鉦は融通念仏六世の良鎮まで伝えられた後いったん法脈が途絶え、鉦は他の宝物とともに男山の石清水八幡宮に保管された。ところが第七世となる摂津の法明(一二七九年〜一三四九年)が一三二一年の辛酉の年に宝物を受け取るようにという夢告を受ける。同時に石清水八幡宮の社人にも夢告があり、両者は相手方に向けて出発し、途中の交野郡茄子作村(現・枚方市)で出会い、宝物は渡されたという。
ところがこの鉦は法明が加古の教信寺に船で参詣する際に海が荒れ、鎮めるためやむなく海中に投じられるが、帰途の海路で再びこの鉦を海中から現れた亀から受け取る。これが「亀鉦」の伝説である。まず鏡が鉦になり、それが石清水八幡の男山に納まり、さらに海に入り再び戻る。この間、方角としては東から西に進んでいる。光と音へ、山から海へというこの流れは、親鸞の観想念仏から称名念仏へ、また比叡山という山を下りて本願海への帰入へという流れとも重なる。加古の教信沙弥は親鸞が模範としたことでも知られる。
・・・海と山の出会うところ・・・
私もこの流れに従い、京都から大阪に向かう途中、石清水八幡宮に立ち寄った。石清水八幡宮は淀川の上流に立つ男山にある。『徒然草』に、ある法師が石清水を拝もうと思い男山に行ったのだが、山上に社があるのを知らずふもとの寺社だけを拝んで帰ったという話がある。確かに知らなければそうだろう。
現在はケーブルで誰でも登れる。ケーブルから京の街並みが見渡せる。山上の社は朱塗りの鮮やかなもので竜宮を思わせる。その名の通り水の神を祀っていたところに大分の宇佐八幡を勧請したそうで八幡神は海を渡ってやってきた。ここの竹が海を渡りエジソンが電球のフィラメントを作ったことを顕彰する碑がある。ここにも新たな光がある。淀川の豊かな流れは音を立てながら光る海へと注いでいる。
発掘歎異抄119回 「万部おねり」 2009年9月号
・・・良忍・・・
比叡山の駐車場から根本中堂に至る道に、比叡山出身の各宗派の宗祖の伝記が絵入りで並んでいることを述べた。まるで「聖者の行進」である。その中の一人、良忍は親鸞に先立つことちょうど百年の一○七三年の生まれで、一一三二年に亡くなった。その没年の翌年には法然が生まれた。また法然の生まれた一一三三年に先立つことちょうど百年の一○三三年は浄土家の永観の生まれた年である。
これを生まれの順に言えば、永観(一○三三年〜一一一一年)、良忍(一○七三〜一一三二年)、法然(一一三三年〜一二一二年)、親鸞(一一七三年〜一二六二年)である。永観は南都東大寺の僧だったが、称名念仏を重視し、初めて自ら「念仏宗」を名乗った。良忍が「融通念仏宗」、法然が「浄土宗」、親鸞が「浄土真宗」のそれぞれの開祖となっている。いずれも念仏としては「南無阿弥陀仏」を唱える称名念仏の浄土教である。この生没年の符合は浄土教の歴史的展開に計画性があることを感じさせ、興味深いものがある。
・・・「融通念仏」・・・
良忍は比叡山の常行三昧堂の堂僧を務めていた。この常行三昧堂の堂僧という立場は親鸞と同じである。後に良忍は大原の来迎院に隠棲した。そして永久五年(一一一七年)念仏中に「一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行 十界一念 融通念仏 億百万遍 功徳円満」という偈文を感得した。この偈文中の「融通念仏」が宗名の由来である。
以来、融通念仏を唱えて諸国を教化し、摂津の修楽寺を根本道場とした。これが現在の融通念仏宗の本山である大阪市平野区の大念仏寺となった。この大念仏寺は毎年五月一日から五日にかけて「万部おねり」が行われることで知られている。これは浄土から聖衆が念仏者を迎えるために来迎する様を表す行事で、境内に設けられた回廊の上を、浄土の聖衆に扮した人々が練り歩くものである。
・・・法話・・・
私は融通念仏を本を通してしか知らなかったので、いつか「万部おねり」を見たいと思っていた。浄土教では一般に往生の証しとして臨終時の来迎が重視された。それが親鸞に至っては「平生業成」で、「臨終まつことなし、来迎たのむことなし。」(『親鸞聖人御消息』)となった。ただし来迎がないと言っているのではない。現在の融通念仏宗の教化の様子も知りたかったが、ちょうど「万部おねり」に先だって布教使による法話があった。
布教使の体験談で、病気の友人に後のことを頼まれていたのにその友人の幼い孫の方が突然先だち、その通夜の席のことが話された。「老少不定」、「無常迅速」で、そのような我々のためにいつでもどこでも誰でもできる易行の念仏があり、源信がそれを説いたことが語られた。その内容が普段真宗で聞く法話の内容とよく似ているのに驚かされた。『正信偈』の源信の章を聞いているようだった。
・・・「聖者の行進」・・・
その後、いよいよ「万部おねり」が始まった。しかしその聖衆に至る前座が長い。まずあでやかな和服姿の女性による先駆けがゆっくりと進む。その後には男性信者の「大和禅門講」の黒服姿の人々が鉦をたたいて、「南無阿弥陀仏 融通念仏」と唱えながら左右斜め前にゆっくり一歩ずつ歩を進める。境内にその声が響き渡る。その鉦をたたく様は「鉦たたき」と呼ばれた念仏勧進聖の姿だった。その一行は一遍の遊行の姿を思わせるものがあり、中には腰の曲がった老人もおられた。
その姿を見ている内に、私には突然この行列が人類史のように思え、感動とともに思わず念仏が口をついて出た。浄土教の歴史的展開と人類史が全く重なっていた。本願がこの世界に展開することと人類史は全く同じことだった。私もあの老人と同じだった。それが私の過去の姿でもあり、現在の姿でもあり、未来の姿でもあった。融通念仏とは阿弥陀仏から全人類に融通される念仏だった。その後にいよいよ聖衆が登場したが、私にはすでに前座からして「聖者の行進」だった。この流れはどこをとっても本願あるのみである。
発掘歎異抄118回 常行堂 2009年8月号
・・・そば喰い・・・
無動寺の大乗院で「親鸞聖人そば喰いの像」を拝観した後、根本中堂の方に戻った。明王堂からはまだ真言を唱える声が聞こえた。大乗院から明王堂へも上り坂だが、そこから坂本ケーブルの駅への道はもっときつかった。千日回峰行の行者はこんな坂などなんでもないだろう。一日回峰行のつもりだったが、早くも挫折寸前である。坂本ケーブルの駅では眺望が開け琵琶湖がよく見える。親鸞も琵琶湖を見ていたに違いない。夜にはそこに町の灯も見えただろう。不滅の法灯に生きるものでも、その灯は懐かしく見えたはずだ。
そこから根本中堂に戻る道は平坦で歩きやすい。昼食時を過ぎたので根本中堂の前にある休憩所にある食堂で食事をした。「そば喰いの像」を見てきたばかりなので、そばを食べた。山菜入りで精進料理のようだ。以前聞いた話では、千日回峰行の行者も精進料理で、ある人はふかしたジャガイモを食べるだけだという。肉気の入ったものはにおいだけでわかるそうで、鰹のだしでもだめだそうだ。それで栄養が足りるのが不思議だ。親鸞もそういう食事だっただろうが、飢饉が蔓延していた時代で、比叡山にいれば食事はできたのだから、まだ恵まれていたのかもしれない。
・・・担い堂・・・
午後からはまず東塔で阿弥陀堂や戒壇院を巡った。阿弥陀堂では間近に僧侶の念仏を聞くことができた。この比叡山で念仏を最も集中的に行うのが常行三昧であり、西塔にある常行堂で行われる。東塔から西塔は近い。西塔地区に入ってすぐにその常行堂がある。隣に法華堂があり、二つが廊下で結ばれている。この形が二つの荷物を担う形に見えるので両堂合わせて担い堂と呼ばれている。
法華堂で行われるのは常坐三昧で、これは座禅をし続ける行である。常行三昧は念仏しながら本尊の周りを巡り続けるもので、二つの行は対照的である。堂の名前の通りにこの二つの三昧が天台宗を担っているとも言える。正式には九十日間続ける大変な行である。
・・・堂僧・・・
親鸞は比叡山で「堂僧」を勤めていたと親鸞の妻だった『恵信尼消息』に書かれている。この堂僧は常行堂の堂僧だったと考えられている。親鸞も常行三昧を修めたに違いない。九十日巡るのが正式だが、七日間のものもある。少なくとも七日間修めたことは間違いないだろう。後に六角堂に九十五日間籠もったことからすれば九十日の参籠もあったかもしれない。その参籠の目的は行道中に阿弥陀仏の姿を目の当たりに拝むことにあった。
千日回峰行を二回も満行した酒井雄哉師は常行三昧も修めた人だが、酒井師は見仏を果たしたという。そのことを龍谷大学で学生に語られたそうである。浄土信仰においてその救い主である阿弥陀仏を拝むことは大きな意味があるはずだ。では親鸞は阿弥陀仏の姿を拝むことができたのだろうか。もし親鸞が見仏を果たしたなら、比叡山を出ることもなかっただろうし、またその浄土教は今我々が知るものとは違う形になっていただろう。
・・・真実の出会い・・・
親鸞が見仏できなかったとすれば、彼はそれを自分の罪業の深さのせいと考えただろう。今でも皆が酒井師のように見仏できるわけではないという。見仏できない人は自分の側に理由を見出すしかない。技術的なものでないとすれば、思い当たるのが自分の罪業の深さになるのだろう。親鸞の深刻な罪業観の理由の一つが見仏できなかったことにあると考える人は多い。もっともな説である。しかし親鸞が夢告を受けていることからすれば見仏できてもおかしくはなかった気がする。
本当の理由は、見仏以上のものが親鸞にもたらされるためだったのではないかと思う。それが親鸞が法然と出会い、「本願に帰す」と述べた本願との出会いである。姿形をもった仏より、本願という仏の精神そのものとの出会いの方がはるかに大きな意味をもっていた。それは人間同士でも同じだろう。本当の出会いとは姿形としての人との出会いではなく心の出会いである。真実は形を越えている。
根本中堂で不滅の法灯をひとしきり拝み、感慨にふけった後、堂を出た。外は明るい。しかし目には薄暗い内陣の中でほのかな光を放っていた不滅の法灯が焼き付いている。親鸞は比叡山を出たが、この不滅の法灯は終生彼の中で生き続けていたのではないかと思う。最澄作と言われる『末法灯明記』は、親鸞が好んだ著書だが、この末法の灯明と不滅の法灯は重なっていたはずだ。その灯明は親鸞にとっては阿弥陀仏の無礙光として、彼の心に不滅の灯を灯した。そうして念仏をすることが最澄の言う「照于一隅」の実践だった。
その親鸞の比叡山時代の修行の中心地の一つが無動寺の大乗院だったと言われる。無動寺は親鸞の出家時の師だった慈円の開いた寺で東塔には属するものの、根本中堂からはかなり離れている。根本中堂から坂本ケーブルの到着駅までゆるやかに下り、そこからさらに無動寺谷へと下っていく。無動寺は千日回峰行の拠点として知られるが、谷の奥深くへと進んでいく感じだ。帰りはかなりきつい山道になりそうだ。登山姿の人とすれ違う。
・・・明王堂・・・
たどり着いたところに明王堂があった。堂に入ろうとすると谷の下から白装束のきりりとした若い僧が登って来て私たちとほぼ同時に堂に入った。まもなくしてお勤めが始まった。密教の護摩供養が行われるようで、信者と思われる人たちが堂内に座っている。入ったばかりですぐに座を立つわけにもいかず、供養を見させていただくことにした。
明王堂の中に冊子があり、そこに「輪番 大乗院 圓道」と書かれていた。後で確かめたところ、やはりこの若い僧が大乗院の住職である星野圓道師のようだった。三十代前半の若さで、まもなく千日回峰行を満行すると言われている人である。多くの信者がその護摩供養に期待しているようだった。目の前で密教の作法が始まり、続いて護摩木が焚かれ始めた。火の勢いは強い。その火を見つめながら行者は不動明王と化すのだろう。
・・・顕教と密教・・・
この火もまた根本中堂の不滅の法灯に連なると考えていいのだろうか。おそらく行者や信者にとってはそうだろう。ただ最澄が比叡山を開いたころは必ずしもそうではなかったはずだ。最澄は顕教として『法華経』中心の天台宗を開いた。そこに密教が入ったのは真言宗への対抗策という面があり、最澄自身は空海のような密教家とは言い難い。加持祈祷は貴顕の帰依を受ける上で必要だった。需要があったのだ。比叡山の密教化が顕著になるのは円仁や円珍の時代になってからだ。
護摩木が焚かれるとともに真言が唱え始められた。堂内にその真言が書かれているので誰でも唱えることができる。当日集まっていた人たちはその真言をそらんじているようだった。独特のリズムがある。火を拝みながらこの真言を唱えればある心境に達するのだろう。親鸞もこのような天台密教を修めたのだろうか。ある程度は修めたのだろうと思う。もし親鸞が密教家としての素質をもっていたなら、彼は頭角を表し、回峰行にも挑んだかもしれない。しかしそうはならなかった。
・・・大乗院・・・
親鸞の師の慈円はこのような加持祈祷をかなり熱心にした人だ。加持祈祷の効験には自信をもっていたと思われる。慈円は摂関家出身にも関わらず、多くの荒行をこなし、高僧となった。出身だけによって天台座主となったのではないと言われている。そのような師のあり方は親鸞にも影響を与えただろう。
明王堂には三十分ほどいた。護摩供養は終わりそうになかったので途中で失礼させていただき、明王堂を下ったところにある大乗院を訪れた。明王堂と違いひっそりとしている。そこに「親鸞聖人そば喰いの像」がある。親鸞が京都の六角堂にこもって比叡山を空けているのが噂になり、あるとき急にそばが振る舞われた。その時いないはずの親鸞に代わってそばを食べたという像だ。大乗院には今、阿闍梨とこの像が同居している。里帰りした親鸞像もまた大乗の法灯を継いでいる。
久しぶりに比叡山を訪れた。以前訪れた時は根本中堂にお参りした後、法話を聞き、座禅をした。以来ふもとは何度も通ったが見上げるばかりで訪れてはいなかった。今回は一日かけて、巡れる所を巡るつもりだった。比叡山への登り方は幾つものルートがあるが、今回は大津から京都へ越える峠の方から車で入った。比叡山ドライブウェイの入り口には桜祭りの案内が大きく出ていた。山道を進むと道路沿いに八重桜が咲き、目を楽しませてくれる。一種類ではなく色の濃淡があり、中には薄緑の花もある。
比叡山は、東塔、西塔、横川と大きく三カ所に分かれて堂塔がある。中心は東塔で、ここに根本中堂がある。駐車場から根本中堂に向かう道の両側には、この山を開いた最澄の伝記とともに、比叡山で修行し後に各宗派の開祖となった人々の伝記も絵入りで並べられている。ちょっとした絵巻物だ。浄土教の祖師である法然も親鸞もここに紹介されている。比叡山の圧迫によって流罪になったことは水に流されて、今は比叡山出身の祖師として比叡山の偉大さを示しているようだ。
・・・根本中堂・・・
根本中堂に至る道にはシャクナゲも咲いて春とも初夏とも言える陽気を楽しんだ。連休中だったが、それほど人は多くはない。根本中堂に入ると厳粛な雰囲気が漂い、空気もひんやりとしている。内陣が薄暗く広い。しばらくして目が慣れてくると、本尊のある須弥壇と外陣の間に深い空間があり、その底から須弥壇が立ち上がっているのが分かる。その本尊の前には不滅の法灯が光を放っている。
この須弥壇と外陣の間の空間は何とも言えない深さをたたえている。我々のいる世界と仏の世界との間に横たわるこの空間は衆生には容易に渡れないものである。そこにあって不滅の法灯はこの海から見れば灯台のように見えるはずだ。親鸞の言う「無明長夜の灯炬なり」を思い出した。親鸞ほどこの隔たりを無限のものとして実感し、またそれを埋めようともがいた人は少ないかもしれない。
・・・「照于一隅」・・・
この不滅の法灯は希望の光でありながら、容易に人を近づけない光である。外陣に説明書きがあり、それによればこの光が決して絶えることがないように、常に油が注がれているという。比叡山は織田信長による焼き討ちにあったが、その際には山形の立石寺に分灯されていた法灯を再び迎えて今に継承しているという。真宗も信長によって追い詰められたが、信長との関係で言えば、比叡山の被った害の方がはるかに大きい。全山の焼き討ちだった。想像するのもおぞましい。
その害を乗り越えてこの法灯は灯され続けられた。最澄の理想としたのは「照于一隅」の精神だった。この比叡山に掲げられた法灯がさらに分かれて全国津々浦々に法灯が灯されるのが念願だった。天台宗の寺に行くとどこでもこの「照于一隅」の言葉を見ることができる。天台宗を支えている言葉と言ってもいいかもしれない。私も好きな言葉だ。
・・・自力から他力へ・・・
この「照于一隅」を普通は「一隅を照らす」と読む。照らすの主語を自分とすると自分が津々浦々に赴き、そこを照らす。即ち自分が教化することになる。これに対して大学時代に別の読み方を教えられた。それは「一隅に照る」という読み方だ。「于」を助字とし、「照」を他動詞ではなく自動詞とした読み方である。文法的にはこの方がしっくりする。
私のように浄土教に親しんできた者にはこの「一隅に照る」の方が心情的にはふさわしい。自分が照らすのではなく、自分は光をいただいているだけだ。そうして光っていることが結果的には周囲を照らしていることになる。それを自分が照らすと考えるときに転落が始まるように思う。仮に「一隅を照らす」と読むなら、主語は自分ではなく、連綿と続く法灯そのものと考えるべきだろう。自力的発想から他力的発想への転換である。信長の焼き討ちは悲劇だが、そのとき法灯が外からもたらされたことは暗示的な出来事である。
・・・本願宣言・・・
浄土教の「四郎」の系譜の中に「天草四郎」を置いていいのかどうかわからないが、なぜかそれが一つの役目に感じられる。吉川英治も五木寛之も「四郎」の系譜を感じているのだろう。吉川英治の「天城四郎」は知らない人が聞けば「天草四郎」の間違いではないかと思うだろうし、浄土教を知っている人は「天城四郎」が大盗賊ということから同じく盗賊だった「耳四郎」の名を思い出すだろう。
親鸞は『教行信証』の冒頭の「総序」で浄土教が王舎城の悲劇の物語を縁として始まり、そこでの登場人物は浄土教をこの世界に伝える役割を担った「権化の仁」だという解釈をする。浄土教が「本願」を表すための一つの物語であることを示している。浄土教は「本願」をテーマとする物語だというのが親鸞の立場なのである。その宣言が『教行信証』の冒頭の「総序」と言っていいだろう。
・・・「天種」・・・
わらび座の『天草四郎』では「四郎」の名に浄土教で言う「本願」を託しているようだった。『天草四郎』の副題が「四つの夢の物語」であり、テーマソングが「四つの夢」である。その「四つの夢」とは「自由、平和、平等、愛」である。そして人が人として生きるために求めるその四つの夢の数を名前にもったのが天草四郎だと歌われる。「天草」は「天種」でもあり、天からまかれた四つの種を表す名が「天草四郎」なのだろう。この名前に象徴性を読み取ったのは乱の裏に隠されたエネルギーを感じたことによるのだろう。
舞台は本当にそうだったのかもしれないという気にさせてくれる。碓井涼子の演じる天草四郎が、自分が創作上の人物であると知りながらもあえてそれに身をゆだねるのは、彼女自身がその「四つの夢」のエネルギーが自分を動かしていることを感じるからだろう。それを確かに感じるならもはや創作の域を越えている。そうなると人の描く「夢」ではなく実在としての「本願」である。これが「現実」のレベルを越えた存在の「真実」である。
・・・「願証寺」・・・
では「真実」は「現実」に勝てるのか。もちろんそうはいかない。乱が幕府の勝利に終わったのは歴史の「事実」である。しかしそれによって乱の裏にあったものが滅んだとは言えない。隠れ切支丹は続き、幕府は滅びた。本当に歴史を動かしているものは何なのか。私はそれは「本願」だと思う。人々はそれを様々な形で捉えてきた。この劇ではそれが「自由、平和、平等、愛」という「四つの夢」として語られている。その現実化は決して終わることはなく今も続いている。ある一時期この世界では敗れ去るように見えてもである。
そうは言うものの、舞台で四郎たちが幕府軍に敗れ去っていく姿を見るのはつらかった。城が幕府軍に蹂躙される場面を見ていた私の脳裏に突然「願証寺」という名が浮かんだ。思わずそれが口をついて出そうになり、自分でも驚いた。「願証寺」とは伊勢長島の一向一揆で織田信長軍によって壊滅させられた本願寺門徒の依った寺である。「願証寺」から「天草島原」までは一つの流れと言える。
・・・真実の砦・・・
私は時々自分は「願証寺」だと思うことがある。それが自分の役目だと思う。この「願証寺」という名は本願の証しを意味し、自分の信心も念仏も本願の証しだと思っているからだ。この世界から誰も本願を信じる人がいなくなったとしても自分だけは最後の一人としてこの真実の砦を守り続けようと思う。
この場面で「願証寺」の名が浮かんだのはふだんからそんなことを思っているからだろうが、あまりに唐突だったので自分でも驚いた。劇では乱のたった一人の生き残りとして「山田右衛門作(えもさく)」という人物が登場する。実は彼が一人の少女を「天草四郎」に仕立て上げた人物である。そして「天草四郎」が本当にいたことを証言する役目を負わされる。しかし彼に「天草四郎」を創作させたのが「四つの夢」という「真実」なら、彼の証言は嘘とは言えない。私の口をついて出そうになった「願証寺」もその証言者である。
・・・浄土の環・・・
昨年の春に天草を巡ってから一年近く経った日に広島でミュージカル『天草四郎』を観た。劇団わらび座による公演で、わらび座を観るのは三回目だ。初めて観たのは宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』で、この原作は私の好きな作品の一つである。本当の幸いを求めて、亡くなった友人とともに銀河鉄道に乗って宇宙を巡る話で、浄土教的な作品と言っていい。
その時に銀河鉄道をどうやって舞台の上で走らすのかと思ったのだが、何と本当に舞台の上に遊園地にあるような円環のレールが敷かれて、客車が回りながらストーリーが進行した。浄土教のもっている円環的な世界観と舞台の構造がよく合っていて感心した。
・・・『火の鳥』・・・
その次に観たのは昨年の夏に倉敷であった『火の鳥』の公演だった。手塚治虫の原作によるもので、ストーリーは『火の鳥』の「鳳凰編」をほとんど忠実に再現していた。そこで主役の「我王」の妻となるのが「速魚(はやめ)」という女性で、実は彼女は我王に助けられた天道虫の化身である。天道虫のような小さな虫でも「天道」という太陽の名をもっていて、そこに宇宙が宿っているのだと彼女は歌う。心に沁みる実にいい歌だった。大乗仏教で言う「悉有仏性」を歌っているように思えた。それを歌っていた女優が碓井涼子という、可憐で澄んだ声の持ち主だった。
ロビーで『火の鳥』のCDを買い求めたときに『天草四郎』のCDがあり、それも買った。劇団の人に『天草四郎』の公演予定を尋ねたところ、碓井涼子の主演で来年広島であるということだった。公演後にロビーで出演者による見送りがあり、その中に彼女もいた。私は今日の歌がとてもよかったと伝え、広島での『天草四郎』の公演を楽しみにしていると言った。彼女のうれしそうな表情が忘れられない。確かに天草四郎なら女性の彼女が演じてもおかしくはないだろうと思った。
・・・四郎の入れ子・・・
私は彼女が男性としての天草四郎を演じるのだと思ったのだが、CDを聞いてみると、わらび座の舞台では天草四郎は本当は女性だったのだが、それが男装して天草四郎を演じていたのだという設定だった。これは意外なことだった。史実として語られている天草四郎の物語そのものが実は一つの創り出された物語だったのだというのだ。それをまた舞台で演じるという二重の入れ子になっている。
天草四郎が実在の人物だったことはまず確かだろう。天草を巡ったときに何カ所かで天草四郎と天草島原の乱の展示を見た。そこに天草四郎の実在を疑ったものはなかった。ただし彼が「神の子」だというのは何らかのもとになる事実があったかもしれないが、人々の願望が生み出した創作だろうということは想像がつく。それをこの舞台は天草四郎自体が実は乱の首謀者によって創り出された創作だったとする大胆な発想に基づいている。
・・・四郎の系譜・・・
創作だったのはいいとしても、そこに私の疑問が湧く。それはなぜ「四郎」なのかということだ。浄土教の伝統の中でなぜか不思議に「四郎」という名が生きている。法然の法話を聞いて回心した「耳四郎」という盗賊がいる。創作の人物ではないかと思うのだが、法話の席ではよく聞く。吉川英治の『親鸞』では「天城四郎」という天草四郎によく似た名の大盗賊が登場し、親鸞の教化で回心する。五木寛之の『親鸞』でも「平四郎」という親鸞の敵役が登場する。なぜか「四郎」である。
わらび座の天草四郎はこれらの「四郎」に比べれば悪人ではないが、幕府から見れば反乱軍の頭という大悪人である。また彼女も内面的には自分が人々を欺いているという負い目をもつ。その負い目の自覚は彼女の信仰に必ずしもマイナスとはならない。自分がその役目を引き受けることで人々が救われるならそれでいいからだ。この役目という考え方は親鸞が王舎城の悲劇を演じた人々を「権化の仁」と呼んだのと同じ考え方である。こうして「演技」が「縁起」となり、「浄邦の縁熟して」浄土の縁がこの世界に表されていく。
発掘歎異抄113回 「驕慢至極」 2009年3月号
・・・非常時の法話会・・・
若い頃「驕慢至極」だったという加藤辨三郎の述懐は氏の本心だったことがその著作からわかる。若い頃というと二十代を思うが、氏の言う若い頃はもっと長く四十代半ばまでのことだ。当時の上司だった日本共商社長の野口喜一郎氏が熱心な仏教信者で、朝礼は念仏を唱えさせられ、また毎月仏教法話会が会社で開かれた。ちょうど戦争中で、「この非常時に説教など聞いてなんの役に立つかと腹立たしさを感じたことさえもあった」という。
ところが昭和十九年の秋、四十五歳の時に聞いた法話が転機をもたらす。「我」についての話で、それを聞いて「脚下が砂丘のようにくずれていくのを感じた」。加藤辨三郎は島根県の出身で少年時代に海岸の砂丘でよく遊んだ。その時の、足下から砂が崩れていく感覚が法話中に突然蘇ったという。それまで頑張って固めていた自我がついに崩れ去る時が来た。以来真剣に聴聞し仏教書を読み漁り、『歎異抄』と金子大栄の著書に出会って熱心な念仏者となる。自然に念仏が口をついて出るようになったのは五十歳の頃だという。
・・・「下品下生」・・・
実は金子大栄との出会いはこの時が初めてではない。加藤辨三郎の実家はもとは造り酒屋だったが、氏の少年時代には没落して醤油造りをしていた。その関係で三高から京都大学工学部に進み発酵学を学ぶ。三高時代には『歎異抄』を読み、京大では西田幾多郎の哲学の授業も受け、金子大栄の仏教書を買う。その縁で金子大栄の講演を聞きに行ったが、さっぱりその内容がわからず、金子大栄の熱心な話しぶりとともに、その時に聞いた「下品下生」という言葉だけが強く印象に残った。
自ら仏教に近付いたのはこの時だけだったが、不思議にも仏縁は続く。大学を出て就職したのが当時は四方合名会社といった現在の宝酒造だった。社長の四方氏は熱心な仏教信者で真宗僧侶を招いて会社で法話会が開かれた。さらに宝酒造からの出向で野口氏と出会い、金子大栄との出会いにつながる。この間二十数年が過ぎ、「空費された二十年」と呼んでいるが、「発酵」期間だったのだろう。
・・・「ミスプリント」?・・・
この、如来からの呼びかけにいっこうに耳を貸そうとしなかった自分を「驕慢至極」と述懐しているのである。だから加藤辨三郎の言葉には「驕慢」という言葉が実によく出る。『正信偈』には「邪見驕慢悪衆生」は本願念仏を信じることが難しいとあるが、まさにこの「邪見驕慢悪衆生」が自分のことだったと知らされたのである。これが『観無量寿経』の言葉では「下品下生」である。
しかしこの自覚をもつことの何と難しいことか。三高時代に初めて『歎異抄』を読んだ時には第三章の「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」を「ミスプリントでないかとさえ思った」という。本当に正直な感想だろう。発酵学を専攻した工学博士で協和発酵の前身である協和化学研究所を創設した、科学者でもあり実業家でもある人が、自分を「悪人」だと思えないのは当然だろう。世間的に見れば立派な善人であり成功者だ。
・・・「それは、……」・・・
ところがそれが蟻地獄のように、「足下の砂が、ザザザ……と崩れ」ると、見事に覆される。何も支えにならないと知ったとき奈落の底に突き落とされる。「下品下生」である。そうして本願によって蘇る。「それは、私の心を落ちつけるものであった。それは、私の心をうるおすものであった。それは、私の心をはげますものであった。それは、私の心を整えるものであった。それは、私の心を喜ばすものであった。それは私の心によりどころを与えるものであった。」もう何もいらない。
この心境を与えてくれた善知識・野口氏との別れは感動的だ。臨終に間に合った加藤氏に野口氏はかすかにうなずく。それでも野口氏は念仏を唱える。声にはならないが、あごの動きでそれがわかったという。加藤氏も念仏を唱えていたからだ。二人の「そのリズムがピタリと合っていた」。現代の往生伝である。その時往生したのは野口氏だけではない。
発掘歎異抄112回 指差しと眼差し 2009年2月号
・・・「フェルメール展」・・・
昨年の十一月のことだが、東京に行く用事があり、それに合わせて上野の東京都美術館で開かれていた「フェルメール展」に行くことにしていた。この展覧会に合わせて企画されたテレビの特別番組があり、ますます興味をそそられた。番組では二十世紀になって起きたフェルメールの贋作事件の顛末を詳しく紹介していた。ヒトラーが傾倒していたというフェルメール作品を集めていたナチス・ドイツを欺いた贋作者が、大戦後自ら作者であることを告白し、その男は同様の作品を描くことでそれを証明したという。一見痛快とも思え、しかしどこか悲しい話だった。
番組によれば贋作が通用した背景にフェルメールには風俗画が多く宗教画が少ないことがある。男はその点を研究し、どのような宗教画を描けば真作として認められるかを考えて宗教画の贋作を制作したという。もちろんフェルメールの画風と技術を習得していなければ描けるはずはないし専門家の目を欺くことはできない。世間的には無名の画家だったが、男の技量はその点では完璧だったという。
・・・信奉者・・・
芸術が人生を狂わすのはよくある話だ。フェルメールに傾倒したヒトラーは画家になることに挫折し、政治に身を投じた。その結果が多くの人々を巻き込んだ第二次世界大戦だった。その狂信的なゲルマン民族優位の主張はどこか宗教めいて、ナチスのシンボルは仏教の卍を反転させたような鍵十字だった。フェルメールの贋作を描いた男もフェルメールの信奉者だったのだろう。しかしその贋作を描くことが美の道を歩むことなのだろうか。道を踏み外した者の悲しさがそこにある。
予想した通り会場は大変な人出で入場まで一時間半かかるということだった。フェルメールの信奉者は日本にも多いのだ。紅葉も終わりに近付いた晩秋の上野公園で長蛇の列の最後尾に並び雑誌を読み始めた。その中に協和発酵の創業者で在家仏教協会の創立者でもあった加藤辨三郎についての記事があった。
・・・「お念仏ひとつ」・・・
加藤辨三郎は自宅で法話会を開いており、そこでは毎回「お念仏ひとつあればいいんですよ」と話したという。記事の筆者はある時もう少し現代人向けに自分達に分かる言葉で話してもらえないか尋ねたという。それに対して加藤辨三郎は「私も若い頃はそのように思っていましたけれども、考えてみれば驕慢至極なことでございました」と答えたという。
この言葉は甚だ私の心を打った。フェルメールを見に来たのかこの記事を読むために来たのかわからなくなった。お念仏一つが自分の救いになるのは決して模倣ではない。これほど模倣しやすく、しかも決して模倣できないものはない。一人ひとりに真実が宿るのだ。
・・・「よき方を選べり」・・・
ようやくフェルメールにたどり着いたのは列に並んでから二時間くらい経ったころだ。その最初にあったのが「マルタとマリアの家のキリスト」だった。フェルメールの数少ない宗教画である。この作品は当初はフェルメール作品と分からず、画面を洗浄した際にフェルメールのサインが現れて真作とされた。聖書の中の一場面を描いたものだ。キリストがやって来てそれをもてなそうとマルタは台所に立つ。しかし妹のマリアがキリストの言葉を聞くのに夢中で自分を手伝わないので、マルタはキリストに苦情を言う。するとキリストは「マリアはよき方を選べり」と答える。
マルタは籠に大きなパンを入れている。フェルメール得意のおいしそうなパンだ。しかしマリアもキリストもそれには目もくれない。言葉はパンではない。マリアはキリストを見つめキリストはマルタに対してマリアを指差す。選ぶことのおそろしさ、すばらしさがここにある。キリストはマリアが選んだと言うが画面ではキリストがマリアを選んでいるように見える。指差しと眼差しが二人の世界を示している。パンも肉親も入りこめない。誰もまねできない。お念仏一つとは法然の言う「選択」のことだ。この私に向けられた選びの指差しと受け取る眼差しに救いはある。
発掘歎異抄111回 「無二」と「如己」 2009年1月号
・・・「十二光」・・・
山本空外記念館には空外師の書を中心に山崎弁栄師の書画や、東洋の古美術が展示されている。すべて空外師が自分で集められたものだそうだ。空外師は書の他に茶道に造詣が深く自ら茶を点てられたそうだ。茶道具も自分で作られ、師と関係の深かった出西窯で焼いた茶碗も展示されている。また自作の茶杓もある。これが「十二光」と名付けられている。真宗門徒にはなじみが深いが、「十二光」は阿弥陀仏の光明に名付けられたもので、親鸞もこれを好み、『正信偈』にはこの「十二光」が全て取り入れられている。「無量光」、「無辺光」から始まり「超日月光」で終わる。
山崎弁栄師は「光明主義」を掲げられたが、やはりこの「十二光」を重視された。浄土宗では山崎弁栄師の「光明主義」が、真宗では清沢満之の「精神主義」が近代の浄土教を代表する思想だろう。現代の浄土教を考えるとき、これらの思想は看過できない。山本空外師は哲学者でもあったので、宗教哲学を取り入れて浄土教の近代化を図った清沢満之の思想にも通ずる面がある。四十歳近く離れているが二人とも東大で哲学を学んでいる。
・・・一本一本・・・
「十二光」の茶杓の元になったのは空外師の書である「十二光」だろう。この書の写真を見たことがあり、実にいい書だと思った。実物を見たかったが、残念ながら展示されていなかった。記念館の人に尋ねたところ大作なので、これを展示すると他の作品が展示できなくなるのだそうだ。空外師の書は膨大な数があるが、内容を含めて見ると「書一者」と「十二光」が代表作ではないかと思う。
「十二光」の茶杓は大きさでは書の「十二光」に遠く及ばないが、これはこれで味がある。その名の通りに十二本の茶杓で、一本一本に光明の名が書かれている。その茶杓が一本一本微妙に異なり、一本として同じものがない。如来の十二光が一人ひとりを照らし出し、茶杓で茶をすくうように一人ひとりを救い取ることを表すのだろう。千手観音の一本一本の手のようでも、キリストの十二使徒のようでもある。空外師の思想の一つの柱である「一一性」や「各各性」をよく表している。
・・・「一一性」、「各各性」・・・
空外師の思想の中心にあるのはすでに述べたように「一者」であり、これが「空」でも阿弥陀仏でもあり、神でもある。念仏によってそれを自ら体験するのがその宗教である。「空」はともすれば観念的なものになってしまうが、空外師にとっては生きて働くもので、その働きが「一一性」や「各各性」として我々一人ひとりに及んでいるものだった。頭で空を考えるだけの人にはこれはわからない。
親鸞では『歎異抄』の「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」という言葉が、空外師の「一一性」や「各各性」をよく表している。空外師の芸術作品はその一つ一つがこの「一一性」や「各各性」の表れであり、空外師はそれを楽しんでおられたのだろうと思う。念仏をしたことのない人が念仏者を見ると、よくも念仏を数多く続けられるものだと思えるだろうが、その一称一称が尊く、「一念一無上」である。ここにも「一一性」、「各各性」が表れている。これは頭では決してわからない。
・・・寺と聖堂・・・
記念館を出た後、コスモスの咲く坂道を登り隆法寺に参った。空外師の「専称山」という額が私を迎えてくれた。これもいい字だった。空外師は念仏の絶えない人だったそうだが、この「専称」という山号は空外師の人生そのものである。本堂は無人だった。その空の中で私もひとしきり念仏させてもらった。
帰りに永井隆記念館を訪れた。館の前に以前訪れた時になかったものがあった。もしやと思って近づくとやはりそうで、長崎の如己堂の再現だった。畳二畳の東屋で病床の永井隆が暮らした家であり、彼の聖堂だった。「如己愛人」から取った名だ。「己の如く人を愛す」。これが永井隆の「無二」であり、「一一性」であり、「各各性」だった。広島と長崎の被爆者の言葉が永遠の命を宿している。
発掘歎異抄110回 「一者」と「無二」 2008年12月号
・・・加茂の里・・・
島根県の雲南市に加茂というところがある。銅鐸が大量に発掘された加茂岩倉遺跡でよく知られる地である。近くには銅剣が大量に発掘された荒神谷遺跡があり、古代出雲を知る上で重要な地である。また三刀屋も近く、ここには長崎での被爆医師でカトリック信仰に生き、平和の使徒と呼ばれる永井隆の記念館がある。三刀屋は永井隆の生誕地である。
広島から国道五十四号線を行くと、先に三刀屋に永井隆記念館がある。続いて加茂に入ってまもなく、「山本空外記念館」の看板が国道沿いに立っているのが見える。この看板を以前から目にしていたが、なかなか寄る機会がなかった。というのはこの記念館は毎年十月の一ヶ月間しか開館しないので、その時期に合わせて行かなければ見ることができない。永井隆記念館は一年中開館しているが、今年二○○八年は永井隆の生誕百年に当たる記念の年なので、空外記念館と合わせて見るつもりで、この十月にでかけた。
・・・山本空外・・・
山本空外師は一九○二年に広島市で生まれ、二○○一年に京都の自坊の法蓮寺で満で九十八歳、数えで百歳の大往生を遂げられた念仏者である。長らく広島大学教授として哲学、倫理学の教鞭をとられたので、広島には空外師を知る人は多い。浄土宗の僧籍をもっておられ、寺の法座でその説教を聞いた人も多い。ただある人から聞いた話だが、いわゆる普通の浄土門の人の説教とはかなり異なり、難解だったそうである。その人が言うには何度聞いてもわからなかったそうだ。
確かに著作を読んでも西洋哲学から仏教まで、用語が幅広く用いられ、普通の浄土教の本に親しんできた人から見れば、なじみにくいのは確かだろう。「空外」というその名からもわかるように、大乗仏教で強調する「空」の教えが中心と言ってもよく、その念仏は禅とあまり変わらないのではないかという印象を受ける。空外師は『般若心経』を重んじられ、自ら『般若心経』を訳されるほどだった。
・・・辛酉の年に・・・
空外師は早熟の人で、旧制松山高校生だった十八歳の時に、周防大島の西蓮寺で念仏修行し、三日目に念仏三昧を発得した人である。浄土教に縁の深い一九二一年の辛酉の年のことである。そこで生死の問題は解決してしまった。さらに西洋哲学を学びヨーロッパに留学し、東西思想の融合をはかった人である。一世代前の人になるが、禅を実習した哲学者の西田幾多郎と比肩される人と言えよう。
その空外師に大きな転機をもたらしたのが、一九四五年八月六日の広島の原爆だった。大学生の学徒動員の引率をしていた師は被爆し、自身は助かったものの、多くの学生や同僚を亡くした。早くも九月には知恩院で出家し、当時無住だった島年県の加茂町にあった浄土宗隆法寺に入寺した。師としては念仏一筋の生活に入るためだったようだ。やがて強く請われて広島大学に復職するが、僧侶として念仏指導することの方が念願だったようである。空外師の念仏は山崎弁栄師の光明主義を受け継ぐもので、不断念仏を実習することで念仏三昧を発得するというものだった。
・・・「書一者」・・・
師にとって念仏を根底において、哲学と書道が三位一体となっていて、記念館の展示では師の書を見ることができる。私が訪れた日には「書一者」という作品が展示されていた。まさに絶品である。「一者」とは師が高く評価された新プラトン主義の哲学者プロティノスの思想を表すものだが、師にとってはこれが哲学も仏教もキリスト教も包含する存在だった。「空」も阿弥陀仏も神も同じである。
この書のある階には空外師の蔵書が棚に収められていたが、その書棚の上には中央にプラトンとアリストテレスの肖像画があり、両脇にはパウロとヨハネの肖像画が掲げられていた。被爆後の空外師は「無二」を強調し、あらゆるものが対立を越えて平和に生きることを説かれたが、それは「一者」の認識がもたらしたものだった。長崎で被爆した永井隆と同じく空外師もまた「平和の使徒」だった。
発掘歎異抄109回 宇宙からきた光 2008年11月号
・・・原爆記念日・・・
一九九六年から一九九七年にかけて『歎異抄を読む』という本を書いた。それを出版した後からこの連載を始めた。おかげで『歎異抄』を読み直しながらまた『歎異抄』について、あるいは浄土教について考え直すことができた。今年『発掘歎異抄』を、百回を記念して単行本としてまとめたので、『歎異抄を読む』の方も、この間に考えたことを入れて新版にするつもりで、読み直していた。
夏休みになってから本格的にとりかかった。ただ旧版はこれでなかなかおもしろく、書いたのは三十代の終わりなのだが、二十代から三十代の自分が何を考えていたかがよくわかる。旧版は夏休みに書いたせいで、戦争と平和の話が出てくる。旧版に手を入れながら最後の章まで進んだのが八月五日で、新版に寄せた後書きを書いたのが八月六日だった。八月六日は広島原爆記念日である。その日に合わせようとしていたわけではなかったので、書き終えて不思議な気持ちになった。
・・・前橋空襲・・・
その後、八月八日から群馬県に行く用事があったので、書き終えた原稿を持参して長い車中で校正をした。群馬県に行ったのは群馬県で開かれた全国高校文化祭に本校の生徒が参加したためで、私は参与としての参加だった。会場は伊勢崎市だったが、隣の前橋市にも寄るつもりだった。そこは萩原朔太郎の故郷で、彼を記念した前橋文学館がある。
先に伊勢崎に着いて会場の下見をした。全国高校文化祭には全国の高校生が参加し、文化の甲子園という感じである。群馬県下何カ所かに会場が分散する大がかりな大会である。全国紙が二紙、特別版を出していて会場で渡された。その一つの朝日新聞が、この文化祭で上演されるミュージカル「灰になった街」を取り上げていた。一九四五年の八月五日の夜に前橋空襲があり、五百人以上が犠牲となった。今回これをミュージカルとして前橋の女子高校生が上演するのだそうだ。新聞の日付を見るとそれも八月五日になっていた。広島の原爆記念日の前日である。私は群馬に来て前橋空襲のことを初めて知った。
・・・「地雷のあしあと」・・・
前橋文学館を訪れると、全国高校文化祭の参加者は無料の扱いで、全国から来た多くの高校生がいた。館に入ってすぐのギャラリーでは「地雷のあしあと」という特別展が開かれていた。その展覧会は八月五日の前橋空襲との関連で開かれたもので、ボスニア・ヘルツェゴビナの子どもたちが実際に体験したことを絵に描いていた。その原画が展示され、絵には子どものコメントが添えられていた。
その一つに、家のそばに人が二人立ち、太陽が照り、花が咲くという一見したところではごく平和な村の風景を描いたものがあった。よく見ると地面の中に黒いかたまりのようなものが描かれている。それが地雷だった。その絵に添えられたコメントは私の心を打った。「宇宙から地球にたどりついた光よ、みんなの未来をあたたかくつつんでくれますように」わずか六歳の子どもの名が書かれていた。絵の雰囲気からすると女の子だろうか。
・・・光と願い・・・
絵から受ける感じはまさに六歳の子どもの世界だと思う。しかしそのコメントは私にとっては驚きだった。本当にこれが六歳の子どものものなのか。「宇宙からたどりついた光」は画面からすれば太陽の光のことだろう。しかしそれが「みんなの未来をあたたかくつつんでくれる」とすれば、もう物理的な光の次元を越えている。このコメントは私にとっては詩であり、祈りであり、願いだった。
校正していた原稿に書いた「無量寿」という永遠の命である「無礙光如来」の「摂取不捨」の光の、全ての人々を救おうという「本願」が、わずか六歳の子どもに受け止められている。地球上全ての人に光とその願いは届いているのだ。ミュージカルは日程の都合で見られなかったが、文化祭の会場では大会のイメージソング「青空のキャンバス」が流されていた。その歌にも太陽が歌われる。胸に沁みる曲だった。大会の間この曲を聞くたびに私には六歳の少女の言葉が蘇るのだった。
発掘歎異抄108回 睡蓮の庭 2008年10月号
・・・中庭の睡蓮・・・
大原美術館の中庭にモネの「睡蓮」の池がある。これはモネの家の池にあった睡蓮を株分けして移植したものだそうだ。池は長方形に作ってあり、おそらく画面の形をそのまま実物として見ることができるようにという配慮のようだ。こういう配慮がなされているということは大原美術館でのモネの「睡蓮」が格別に人気があるということなのだと思う。展示としてはエル・グレコの「受胎告知」は一枚の絵画で一室を与えられて別格扱いだが、モネの「睡蓮」も別格なのだろう。
時間があったので、昼食のために美術館から倉敷の美観地区に出て、再び美術館に戻って全ての展示を見た。その時に中庭でこの睡蓮の池を見た。倉敷の美観地区の中心を流れている堀割もモネの「睡蓮」を見た後では、その色合いが重なって見える。逆に言えばモネの「睡蓮」の池がフランスの庭園にあるものというよりは日本庭園として見えてくる。
・・・日本の庭・・・
私の妻の実家の池に睡蓮があり、その応接室にはモネ展で買ったという睡蓮の絵の複製が掛けてあった。睡蓮は夜は花が閉じ、昼間にそれが再び開く。夜の間は眠っているように見えることと、蓮の花に似ているので睡蓮と名付けられたという。私もその様子を間近で見ていた。睡蓮は日本の池にはよく似合う。池は夏になるとどうしても透明度が落ちて緑がかってくるのだが、それもモネの絵と同じである。蓮の花は言うまでもなく仏教と縁が深く浄土の池に咲いていると言われる。蓮は葉が大きいので普通の家の池に咲かせるのは無理だが、睡蓮はこぶりなので可能である。
妻の家の池は最近なくなったので、大原美術館の池でじっくりと睡蓮を見ることができた。晴天で空も池に映り、花もひときわ鮮やかである。花を見ているといろいろな思いがよぎる。私の祖母もそうだったが、妻の祖母も熱心な念仏者だった。そういう人の家の池に睡蓮が咲いて、私も眺めさせてもらっていたのだ。何ともありがたい花である。その妻の祖母も今はもうこの世の人ではない。この池が別の世界に通じているように思える。
・・・「無生」の花・・・
この中庭の睡蓮を見た後、もう一度モネの「睡蓮」を見た。花として本物の睡蓮を見た後で絵の方を見ると、花を描いた作品としては物足りなく思う人がいるかもしれない。花弁を見分けるのはほとんど不可能だ。光の点が浮かんでいるように見える。この光の点と水面、あるいはそれを通して見る空の面との関係が絶妙なのである。東洋の水墨画や南画で、山水の中に点のように人物が描かれていることがある。人物の顔はわからないがかえって存在感がある。それと似たところがある。
この面が水面と空との二重になっていて、画面を見ていると水面を見ているのか、その奥にある空を見ているのかわからなくなる。そのままその中に吸い込まれていきそうだ。モネもそうだったのはなかろうか。この冥想的な雰囲気は東洋的なもので、ほとんど仏教の世界ではないかという気がする。浄土のことを通常の生の場ではないので「無生」の浄土と言うが、この絵を見ていると「無生」の世界に咲くものを描いているように見える。
・・・創造の光・・・
モネは見ることと描くことを通して、点と面の不思議な関係を会得したのだろうと思う。面が点となり、点が面となる世界である。印象派は光の芸術だと言われるが、それは光自体に同様の性質があり、点としても面としても表すことができる。親鸞は光の仏としての阿弥陀仏を「尽十方無礙光如来」として全面的な光として表し、この光が「十方微塵世界にみちみちたまへる」と言う。この全面的な光の点の一つが我々一人ひとりである。
モネの「睡蓮」と同じ部屋にはレオン・フレデリックの「万有は死に帰す、されど神の愛は万有をして蘇らしめん」という祭壇画の大作がある。おびただしい人間群像が描かれ、そしてまた神の光が描かれる。しかしそれは「想像」の産物のようだ。「創造」の光はモネの「睡蓮」に宿っているように見える。
発掘歎異抄107回 「睡蓮」 2008年9月号
・・・倉敷・・・
この夏に倉敷を訪れた。倉敷の美観地区は中央に堀割が走り両側に白壁の古い町並みが残っている。川端には柳が植えられ風に吹かれながら水面に姿を映す。堀割には観光用の川舟が浮かびいかにも涼しそうだ。とはいうものの私の訪れた日は猛暑となった一日で、川下から歩いていき、初めは涼しく思っていたのだが、歩く内にどんどん暑さを感じ始めた。休憩所で涼んだ後また歩き、もう歩くのはいいと思ったころ大原美術館に着いた。
大原美術館の建物は正面にギリシャ建築を思わせるエンタシスの柱がそびえ立つ。和風の家屋が並ぶ美観地区のなかでは異色である。それでも緑したたる蔦のからまるその建物は、長年の歳月の中で周囲の風景に融け込んでしまったかのようだ。ここのコレクションは西洋美術を中心に日本や東洋の作品も集められ、建物も増築されて幾つもあるが、柱となるのはやはり西洋美術である。中でも最も有名なのはエル・グレコの「受胎告知」だろう。他に印象派の作品も充実している。
・・・モネの「睡蓮」・・・
私が大原美術館を訪れるのはこれが初めてではない。いつ来てもそのコレクションに満足させられる。今回は時間があったのでじっくり見るつもりだった。初めて来た時に惹かれたのはモネの「睡蓮」だった。その複製を長く自分の机の前に置いて飽きることなく眺めたものだ。その後もモネの作品は他の美術館でも見たし、大規模なモネの展覧会にも行き、「睡蓮」の連作も見た。しかしなぜか大原美術館の「睡蓮」が自分には一番いいように思えた。題材は同じで同じ人が描き、まさに「同工異曲」なのだが、不思議である。
今回久しぶりに見るのでじっくり自分の目で確かめたかった。モネの「睡蓮」は本館の二階にある。いきなりそれを見るよりは展示の順に他の作家の作品を見ながら進んでいくのがいいだろう。古典的な作品を見たり、人物画や宗教絵画などの他の作家の作品も見てからモネにたどり着くのがよささうだ。その方がモネと他の作家との違いがよくわかる。
・・・再会・・・
ゆっくり見ていたので、モネにたどり着くのに時間がかかった。一階よりは二階の展示の方が見応えがあり、特に印象派の作品が並ぶとどれもそれなりに魅力的である。そうしてようやくモネの「睡蓮」にたどり着いた。まさしく再会だった。しばらく見つめ合っていた。お互い変わらないのだなとあらためて思った。昔から思っていた通りである。その横に同じくモネの「積み藁」もあった。これもいいのだが、やはり私は「睡蓮」である。
こうしてみると人間の感受性というのは変わらないものなのだなと思う。初めて見たときから三十年以上は経っていると思う。この変わらないことを喜んでいいのかどうか。まあまずはお互い元気でここまで生きてきたのだから、変わらず再会できたことを喜ぼう。いつ見ても思うのだが、題名は「睡蓮」だが、本当に描かれているのは何だろう。花の占める分量はわずかなものだ。それもモネの筆致は緻密ではないから、花の輪郭もぼんやりしている。中心部にあるのは花よりも水面であり、そこに映る空や雲らしきものである。
・・・描かれたもの・・・
モネが「睡蓮」の連作を飽きることなく描いたのは一日として同じ表情がなかったからだろう。それだけ変化に富んだものを描いているのだが、それにもかかわらず、むしろ変わらないものが描かれているように感じられる。水面とも空ともつかない空間は何かこの世を離れたものがあり、睡蓮もこの世のものではないような光を帯びている。
「睡蓮」に浸った後、エル・グレコの「受胎告知」を見た。聖母マリアが神の子を宿したことを告げられる場面である。神の光が厳かに描かれている。しかしこの作品を見ると、むしろモネの「睡蓮」の方が神の光を描いているように思える。池の水面がそのまま神の光を宿している。モネはそれを私たちに告知してくれている。本当の「受胎告知」はモネ「睡蓮」の方にあるのではなかろうか。
発掘歎異抄106回 法の城 2008年8月号
・・・富岡城・・・
天草下島の西北端に富岡というところがある。ここは元は小島だったが、砂の堆積により砂州が発達し天草下島と繋がり、半島のような陸繋島となった。福岡の志賀島にも海の中道という砂州があるが、それの小規模版と言っていいだろう。ここには東の海上に延びた砂嘴もある。それにより巴湾という小さな湾ができており、天橋立を思わせる。この風景ができるまでいったいどれほどの時間がかかったのだろう。見事な自然の造化である。
この半島の上に遠目にも鮮やかに輝く白壁と石垣の富岡城がある。長崎や島原がすぐ目の前でしかも外洋に面するという位置からここに城が築かれるのはもっともな気がする。現在の城は復元されたものだが、この風景と城、そして海中公園に指定された美しい海があれば、観光の名所となるには充分だろう。
・・・天草島原の乱・・・
この城が歴史の上で脚光を浴びたのは一六三七年に勃発した天草島原の乱の時である。天草四郎を総大将に担いで蜂起した天草の切支丹を中心とした一揆軍がこの城を攻めた。城は落城寸前までいきながらも何とか持ちこたえ、形勢の不利を感じた一揆軍は海を渡り島原に向かった。ここで島原の一揆軍と天草の一揆軍が合流し、島原半島の原城に立て籠もった。籠城した一揆軍が三万七千、攻める幕府と諸大名の連合軍が十二万余。籠城軍に勝ち目はなかった。一揆軍は全滅したという。
この乱をきっかけに切支丹の徹底した取り締まりと鎖国が行われ、幕藩体制は揺るぎないものになっていった。一つの時代の区切りだった。この一揆が切支丹を中心としていたことから、真宗門徒を中心とした一向一揆との関連を感じる人は多いだろう。本願寺も石山本願寺に籠城して織田信長との戦いを経験した。大阪城はその石山本願寺の跡に建てられたという。石山本願寺がどのようなものだったかはわからないが、私は大阪城を見ると秀吉の城というよりも法の城に見える。
・・・一揆・・・
一向一揆や天草島原の乱を宗教的な面からだけ見るのは適切ではないだろう。根本にあったのは戦国大名や幕府、領主の圧政だろう。それに苦しめられ追い詰められた農民の蜂起である。ただその農民が団結していくにあたって真宗やキリスト教の信仰がある役割を果たしたことは確かだろう。信者同士を結び付けるものが教えの中にあるからだ。真宗で言えば「同朋同行」、キリスト教では神の前の平等だろう。如来の慈悲や神の愛に目覚めた者にとってはこの世の権力は自分たちの前に立ちはだかる壁に見える。信者はそれを突き破ろうとする力が自分を動かしているのを感じ、やがてたまったエネルギーが噴出する。
薩摩や人吉の相良藩が真宗を禁制にしたのはおそらく一向一揆を恐れたからだろう。幕府がキリスト教を禁じたのも信者の団結を恐れ、さらにその背後にある外国勢力の進出を恐れたからだろう。いずれも支配や政治の論理である。では政治がうまくいき民が生活に満足すれば信仰は消えるのだろうか。
・・・仁政の中で・・・
天草の乱の原因の一つに天草の石高が実際の二倍として扱われたことがあるとされる。乱後に天領とされた天草の代官となった鈴木重成はこのことを見抜き幕府に石高半減を訴えたが幕府は拒否し、そのため重成は抗議の切腹をしたと言われる。それによってようやく幕府は石高を半減した。領民は重成の死に号泣し彼を祀る神社を建てたという。重成はまた自分の兄で禅僧として有名な鈴木正三を天草に招き、乱後の人々の心を仏教によって収攬しようともした。稀に見る仁政家だった。
このようにして天草は平穏を取り戻した。人々は以前より暮らしが楽になり、仏教と神道を信奉したはずだった。それにもかかわらず幕末には五千人余りの隠れ切支丹が露見した。彼らは決して心の中では領主に従ってはいなかった。復元された富岡城の中には切支丹の展示がある。白亜の大江天主堂を見てきた目にはこの城も法の城に見える。本当に落城しなかったのは人々の信仰の城である。
発掘歎異抄105回 天草 (2008年7月号)
・・・天草の海と「沈黙」・・・
熊本県の人吉で隠れ念仏ゆかりの地を訪ねた二日後、鹿児島の西海岸から天草下島の牛深港に渡った。快晴で船のデッキに春の海の風が心地よい。こんな美しく豊かな自然の中で天草島原の乱が起き、またその乱後は以前に増して厳しい切支丹への弾圧が続いた。まさに天国と地獄が同時にあった。この壮大な矛盾に人はどう答えるのだろう。この麗しい自然を創り出した造物主を信じた人々がこの疑問を抱いたとして何ら不思議はない。その中で生まれる疑問の一つが遠藤周作の描いた『沈黙』の主題である「神の沈黙」だろう。
同様のことをもし真宗に当てはめれば如来のお慈悲が「聞こえない」という問題だろう。しかし真宗では信心が得られるということとお慈悲が聞こえるということは同じことなので、信じたのに聞こえないということはない。如来の呼び声が聞こえるということが信心をいただくことであり、その呼び声がそのまま称名念仏になる。御心が届くことと御名を唱えることは全く一体である。隠れ念仏の信者にも多くの殉教者が出たが彼らには「沈黙」の問題はなかったはずだ。最後の一息まで念仏して彼らは如来の呼び声を伝えていった。
・・・隠れ切支丹の里・・・
隠れ切支丹の里である崎津や大江には今は美しい天主堂が建つ。崎津天主堂は尖塔をもつゴシック様式、大江天主堂はドームの上に十字架が立つロマネスク様式である。ゴシックは厳しさを、ロマネスクは優しさを感じさせ、それぞれキリスト教のもつ一面を象徴しているようだ。その隠れ切支丹の歴史は大江天主堂の建つ丘の麓にある「天草ロザリオ館」に展示され、その苦難の歩みを伝えている。
天草島原の乱で切支丹は殲滅されたはずにもかかわらず、江戸時代も終わりに近い一八○五年には天草で五千人余りの隠れ切支丹の存在が発覚している。余りの数の多さに切支丹として認めるわけにいかず、「宗門心得違いの者」として穏便に処置する方法がとられたという。人吉や薩摩でも徹底した弾圧にもかかわらず、実は住民の八割から九割が隠れ念仏の信者だったと言われている。
・・・「隠し部屋」・・・
この「天草ロザリオ館」の展示で興味深かったのが再現された信仰のための隠し部屋である。これが山江村歴史民俗資料館で見た隠れ念仏の隠し部屋とよく似ている。薩摩ではガマという洞窟で集会がもたれたというが、人吉ではそれはなく、隠し部屋で信仰がなされたという。薩摩より人吉の方がやや取り締まりが緩かったのではないかと言われる。
人吉も天草も今は同じ熊本県だが、まさか江戸時代に人吉の隠れ念仏と天草の隠れ切支丹の間に交流があったということはあるまい。あくまで自然発生的にそうなったのだろうが、知らずに両者を見ると同じ形態をもつ信仰に見えるだろう。実に興味深いことだ。
・・・切れないもの・・・
隠れ念仏と隠れ切支丹の違いとして言われるのは隠れ念仏が伝助の話にあったように本山とのつながりを保ち、教えとしては他の地方の真宗信者と変わらなかったのに対し、隠れ切支丹は教会との連絡が断ち切られた状態だったことだ。そのため一種の民俗宗教になっていったと言われる。ただし隠れ念仏でも神道を偽装した薩摩の「カヤカベ」が同様の経緯をたどっているので共通する面はある。
教会との連絡の途絶を表すのが隠れ切支丹が唱えた「オラショ」という祭文である。これが口伝で伝えられるうちに意味のとりにくい音中心の呪文のようになった。外国語と日本語のチャンポンである。しかしよく見ると肝心なところは押さえられているようだ。これも人吉で見た仮名書きの『正信偈』と重なって見える。例えば「三太丸や」は「サンタマリヤ」だろうし、「我があやまりなり。あんめんじんす。」は我が罪を自覚した上での「アーメン」だろう。後者は真宗の「機の深信」と「法の深信」に相応する。これさえわかれば救われる。切れたようでも本当は繋がっていたのだろう。全てを繋げ決して切れないものがあるからだ。そこに「沈黙」はない。
発掘歎異抄104回 二人の伝助 (2008年6月号)
・・・手書きの「正信偈」・・・
西本願寺人吉別院の隠れ念仏の展示はその歯が残されている「伝助」のことが中心だが、伝助も用いたかもしれない手書きの「正信偈」がある。そのコピーを買い求めた。これが仮名書きである。漢字で書かれた「正信偈」を見慣れた者の目からするとはたしてこれで意味が正しく伝わるのだろうかという気もするが、一つにはお経だということがわからないようにするカモフラージュだろうとも言われる。経文を読めるのはありがたいことだ。
伝助は念仏禁制の球磨、人吉地方で念仏を伝える役割をする者の名だったのだろうと言われている。伝助が固有名詞ではなく念仏を伝える者の名なら、我々念仏者はみな伝助である。伝助の墓と言われるものが現在三基確認されており、表記された没年が異なっている。少なくとも二人の伝助がいて、しかも親子だったのではないかと推測されている。
・・・伝説の伝助・・・
この伝助のことを伝える展示は人吉市に隣接する山江村の歴史民俗資料館にもある。ここには伝助の伝説を基にしたアニメーションがあり、その姿をわかりやすく伝えてくれる。このアニメに描かれる口伝の伝説では伝助の殉教のきっかけを作ったのは同じ村の無頼漢だった「富左衛門」と言われる人物である。
彼はある夜密かに伝助を訪れ、涙を流しながらこれまでの自分の悪行を懺悔して、念仏して往生したいと訴えたという。そうして伝助と一緒に本山に参拝する約束をしながら当日になってその約束を反故にし、約束の時間に現れなかった。そうとは知らず一人で参拝した伝助を密告したという。この富左衛門が実在の人物かどうかはわからない。そういう密告が奨励されていたのである。密告者には褒美があるからその誘惑に駆られる気持ちは誰の心にもあったのかもしれない。表向きはそれは「王法」を守る立派な行為である。
・・・別ルート・・・
この山江村の歴史民俗資料館の展示には他にも隠れ念仏の本尊や関連文書が展示されているが主なものは複製である。その実物を保存している寺の一つが人吉市の楽行寺である。楽行寺は真宗十派の一つである真宗仏光寺派の寺である。明治になって真宗が解禁になり、初代の住職が隠れ念仏の資料を集めて保存した。今でも御門徒の家から隠れ念仏の資料が発見されることがあるそうだ。
本来は団体参拝の予約があった場合に資料を見せるのだそうだが、特別にということで奥の部屋に案内され、資料を見せていただいた。大きな金庫に資料が詰まっていた。その中の一つに傘仏というものがある。傘の形に木をくり抜きその中に本尊を隠したものだ。本山の仏光寺から八代の正教寺を通して与えられたものだそうだ。八代は真宗禁制ではない細川領である。伝助の西本願寺とは別ルートだが、ここにも秘密ルートがあったのだ。
・・・もう一人の伝助・・・
「仏法」と「王法」の問題は難しい問題で蓮如も苦慮した問題である。この問題が一向一揆に表れたり、隠れ念仏に表れる。伝助の参拝は本尊を下賜してもらうためと同時に隠れ門徒から集めた献金を本山に上納するためだったと思われる。薩摩もそうだったが、真宗禁制の一つの理由が財政の厳しい藩から多額の献金が本山に渡ることだった。信者の献金と本尊等の下賜は信仰のない者から見れば商行為と変わらないだろうから「抜け荷」と変わらない大罪と言うこともできるだろう。
伝助を密告したという富左衛門もそう思ったのだろうか。自分を正当化する理屈はいくらでも見つかる。藩主のためにしたのだから儒教倫理にかなっている。そう思い込むこともできそうだ。しかしその彼が伝助のさらし首を見たとたん突如として打たれるものがあったのではなかろうか。伝助が自分のために死んでくれたのだと気付いたのだ。彼は深夜密かにその首を盗み出し、その歯を隠し持って「仏僧伝助師遺歯」として伝えたのではなかろうか。彼もまた伝助になったのだ。これがもう一人の伝助である。こう想像してみる。主君はこの世にあるとは限らない。
発掘歎異抄103回 一本の歯 (2008年5月号)
・・・ぐらつく歯・・・
昨年から一本の歯がぐらぐらし始めた。以前から通っていた歯医者に相談すると、できるだけもたして後は抜けるのを待つしかないとのこと。歯磨きはきちんとしてきたつもりだが今さらどうしようもない。何かいい方法はないかと聞いてみたが、ぐらついたものを元には戻せないということだった。年内いっぱいは何とかもったが、年が明けてからますますぐらつき始め、授業をするときにも気になり始めた。どうやら年貢の納め時らしいと観念し、予約の電話を入れて歯医者に行った。
そのままでも抜けそうなくらいぐらついていたが、診察して、念のために麻酔をかけて抜きましょうということになった。麻酔をしていざ抜こうとしたのだが、これが結構しぶとくてなかなか抜けない。抜こうとすると痛い。往生際の悪い歯だという気もするし、一方では頑張っている歯を応援したいような気もする。そもそも抜けてほしくなかったのだからやはり応援していたのかもしれない。
・・・歯石と業・・・
やっと抜けた歯を見せてほしいと歯医者に頼んだ。歯磨きはきちんとしてきたつもりなのにどうして抜けることになったのか、その手がかりが抜けた歯にあるかと思った。その歯を見たとたんに抜けた理由がよくわかった。歯の周囲にびっしりと固くこびりついたものがある。それが歯石だそうだ。これがじわじわと歯茎と歯を引き離したのだった。
歯石が歯周病の原因だということは知っているし、そのための予防もし、定期的に歯医者に通っていた。それなのにこの結果である。本当に見事なまでに歯石がこびりついている。おそらくは歯だけではなく、体中いたるところでこういう現象が進行しているのだろう。何年か前のある人の年賀状で「積年の業と胆石取りにけり」という句を見て感心したことがある。胆石に比べれば歯石はかわいいものだろう。しかし業の方はどうだろう。簡単にとれるのか。いやこびりついたままなのか。親鸞は「それほどの業をもちける身」という。
・・・人吉・・・
この歯の記憶が残っているこの春に南九州を旅行した。熊本県の南の人吉と鹿児島を訪れ、帰りには天草を回った。昨年も春に鹿児島を訪れて隠れ念仏関係の場所を回ったが、今回は同じく念仏禁制の地だった人吉と、隠れキリシタンの地である天草を回る予定だった。人吉はこれまで鹿児島に行くたびに通っていたのだが、なかなか寄る機会がなかった。
市の中心部に人吉城があり、ちょうど桜が咲き始めていた。五分咲きくらいだっただろうか。彼岸桜は満開だった。城跡には観光ボランティアの方がおられて丁寧に説明してもらった。人吉は相良氏の七百年の支配の歴史の重みを感じさせる城下町だが、また西南戦争の舞台でもある。人吉には西郷ゆかりの寺もある。そしてまた歴史の表には出なかったものもある。それが隠れ念仏である。ガイドの方によれば隠れ念仏の地として訪ねる人も多いそうで、資料をいただき教えてもらった。
・・・ぐらつかない歯・・・
人吉城は球磨川に臨むが、橋を渡った対岸に西本願寺人吉別院がある。明治になり真宗が解禁になってまもなく開設された説教所が昇格したもので、本堂の一角に隠れ念仏の資料を展示している。その展示のあるものに目を吸い寄せられた。象牙色をした一本の歯である。「仏僧伝助師遺歯」と書かれている。伝助は正式には僧ではなかったはずで、真宗禁制のこの地で伝道した門徒の一人である。
それが本山参拝中に密告され、帰ってきたところを捕まり打ち首になった。そのさらされた首を信者が盗みだし、大事に保管していたのがこの歯だという。命がけの念仏を唱えていた歯である。仏舎利と言ってもいい。業がこびりついたような私の歯とは何と違うことか。決してぐらつくことのなかった歯がここにある。見れば見るほど輝いて見える。思わず念仏が口をついて出た。伝助は本名ではないだろうと言われる。しかし実はそれこそ本願念仏を伝える私たちの隠された本名ではないのか。私たちの本当の姿がここにある。
・・・ロングラン公演・・・
劇団四季の『美女と野獣』広島公演が始まった。今回はロングラン公演となるそうで、始まってまもなく追加公演の日程が発表された。私は事前に四季の方からいろいろと舞台裏の話を聞くことができた。ロングラン公演と数日間の公演の差は舞台装置作りにあるそうで、ロングラン公演の場合は時間をかけて大がかりな舞台装置を作るそうだ。
今回の公演を見る前に私は昨年末に行われた四季の『エビータ』の広島公演を見たが、確かに舞台装置が全く違っている。『エビータ』も名作で歌だけでも聞かせるものがあり、シンプルな舞台もそれなりによかった。しかし『美女と野獣』を見ると、これは手間もお金も相当かかっているのがわかる。大げさに言えば遊園地がそのまま舞台の上に引っ越してきたような感じだ。これが四季の方が言われた舞台装置のことなのだなと納得した。
・・・物化される人間・・・
私はディズニーのアニメ版を見ていたが、いちばんの疑問は魔法によって物に変えられた召使い達をどうやって人間が舞台で演じるのだろうということだ。召使いが変えられてしまったものはお城にある、ありとあらゆるものだ。燭台、時計、タンス、ティーポット、ティーカップなどおよそ人間が演じることができそうにないものばかりだ。私はアニメ版でチップという男の子が変身させられたティーカップが好きだったが、あんな小さくて厚みのないものをどうやって演じるのだろう。
ところがこれが見事に解決されているのである。ティーカップなどはほとんど手品と言ってよい。これは見事な変身である。この舞台を見て人間が物になってしまうというこの設定が、アニメ版よりもはるかに痛切に我々の問題であることを感じた。現代の物質文明の中で物にされてしまっている現代人の姿そのままなのだ。しかも彼らは舞台の中で時とともにさらに物化が進行する。時計にされた召使いはある日突然背中にネジができる。これなど時間と数字に追われるうちに自ら時間と数字に化してしまった現代人そのままだ。
・・・人間に戻りたい・・・
だから彼らが人間に戻りたいと歌うのがよくわかる。これは物質文明という魔法によって物にされてしまった我々の叫びそのものではないか。自分が物にされてしまっていることに気付かない限りそれからの解放は求めないだろう。これが「悪人正機」と同じなのだ。「物人間正機」なのである。また魔法によって野獣に変えられた王子は、仏教の畜生道や修羅道の姿であり、現代人の心の姿である。
王子が真実の愛に目覚めて初めてこの魔法は解ける。それは信心という真実の愛に目覚めて初めて浄土往生できる我々と同じである。私たちは自らかかってしまったこの魔法を解くためにここにいる。この魔法を解くのが阿弥陀仏であり、念仏である。念仏をよく呪文と勘違いする人がいるが全く違う。呪文は今我々が見ているこの世界の方にある。
・・・復活・・・
『美女と野獣』ではこの魔法を解くのは王子に真実の愛をもたらすベルという女神である。それを阻もうとするのがこの女神を自分のものにしようとする自力万能的なガストンといううぬぼれやだ。彼はエルビス・プレスリーをモデルにしたそうだが、確かにプレスリーは時の女性達に恋の魔法をかけた男だろう。それを魔法と知ることもなく、自らも魔法にかかっていることを知ることもなく。
真実の愛は恋ではない。冷めることがないからだ。そして時を越える。『美女と野獣』では散りゆく一輪のバラの花が時の象徴として使われる。それはこの人生という無常の象徴だ。そして魔法が解けるとき、野獣は見事に光り輝く王子へと変身を遂げる。それは十字架のイエスの復活を思わせる。西洋人にとって本当の変身はイエスの復活なのだろうと思う。そしてそれが自らの救いとなる。それは阿弥陀仏という無碍光によって光の子に戻って往生する我々の救いと同じである。バラは散り続けている。しかし心配することは何もない。決して散らないものがあるからだ。
発掘歎異抄101回 「氷点」 (2008年3月号)
・・・厳冬・・・
今年の冬は寒さの厳しい日が続いた。昨年は暖冬で広島県の県北のスキー場は営業できない日が多かったが、今年は積雪量は充分である。私が家族とよく行っていたスキー場は昨年の暖冬の影響で今年は営業を中止した。そこが我が家から最も近いスキー場だった。そこが行けなくなったのでその代わりにその次に近いスキー場に一月の下旬に出かけた。
私はスキー歴だけは長いがいつまでたっても初心者コースと中級者コースを滑っている。雪の清冽な雰囲気を楽しんでいる面の方が大きい。それと子どもに経験させるためだ。その子どももずいぶんと大きくなってきて、もう親と行くこともそうはないだろう。スキー場に行くのに問題はその足だ。車にスタッドレスタイヤを付けて走るのだが、こちらはスキー以上に上達しない。いつもおっかなびっくりである。だから家からいちばん近いスキー場が営業しないのはそれだけ雪道を走る距離が長くなるわけで、これは大変な問題だ。
・・・分水嶺・・・
私の通る道は途中に山陽から山陰への分水嶺があり、ここからいつも雪の量が増え、そこまでは道に雪がなくてもそこから雪道になることが多い。陰陽の分水嶺と聞くと広島県と島根県の県境にあると思われるだろうがそうではなく、広島市から北上すると広島市をはずれてすぐ北にある。広島市でも北部の人は島根県の天気予報を見ると言うくらいで、気象はこの分水嶺の位置と関係あるようだ。
この分水嶺から私のように雪道に慣れていない者は要注意だ。気持ちを切り替える分水嶺でもある。これまでの経験からどこが危ないかはわかっているつもりだが時々滑る。以前のスキー場を過ぎたところからはさらに注意して進んだ。やっと目当てのスキー場に着いてほっとしたとたん、スキー場の入り口で見事に滑ってしまった。入り口の手前に橋がありその先がカーブしていたが、そこでスリップした。対向車がいなかったので事なきを得たが、危ないところだった。兼好法師が『徒然草』の「高名の木登り」という話に、失敗はあと一歩でもう大丈夫と思ったそのときに起こると書いているが全くその通りだ。
・・・ゲレンデのハイドン・・・
何とかスキー場に着いてスキーを借りに行ったところサイズの合うものがもうなかった。来る途中にレンタルスキー店があったが、車が滑ったばかりなのでとても戻る気にならない。子どものスキーは用意していたので、子どもだけ滑らせて、自分はゲレンデの見える位置に車を止めて雪見と読書で過ごすことにした。当日はほとんどの時間晴れており、車に陽が差すのでそれなりに暖かいし、車が凍結の恐れもない。スキー場に車を止めて帰ろうと思ったらブレーキが凍りついて動かないという話があるが、その心配はなさそうだ。
浄土教の本を読んでいたが、雪景色と浄土の荘厳はよく合う。「二河白道」という有名な比喩があるが、ここは見渡す限り白道だ。その世界に浸っていたら、ふとゲレンデに流れていた音楽が変わったのに気付いた。FMラジオの局を変えたようで、クラッシックのしかも宗教音楽である。これもまた雪景色によく合う。ハイドンの曲で荘厳そのものだ。
・・・氷と水・・・
本願の救いを説く本の内容と雪景色、ハイドンの曲とが一つの世界を造り出している。その時に思ったのは「氷点」のことだ。同名の三浦綾子の小説がよく知られる。人間の罪を問う作品だ。水が凍る零度が氷点だが、同じ零度はもう一つ名がある。氷が融ける融点である。この二つは同じものを別に見ているだけである。私たちの心が凍りつくその点は、同時にまた私たちの心が融ける点でもある。
私たちの心が凍りついたままであることは決してない。氷点はそのまま融点となる。凍り付いた心を融かすものがあるからだ。この転換が「悪人正機」の救いである。親鸞は言う、「罪障功徳の体となる こほりとみづのごとくにて こほりおほきにみづおほし さはりおほきに徳おほし」と。心の分水嶺はここにある。帰り道、もう雪は融けていた。
二○○七年は法然、親鸞が流罪に遭い、四人が死罪となった承元(建永)の法難から八百年の年だった。その関係でこ
のことについて話させていただく機会が多かった。それにつけても思われるのは、このようなひどい目にあった人が「還相」
というこの世界に再び還って来る浄土教を説くだろうかということだ。あるお寺でそのことを話していて、急に言葉に詰まって
しまった。
仏教は迷いの世界を離れて悟りの世界に往くことを此岸から彼岸への移行として表した。それをこの世界から死後の他
界への移行と重ねた浄土教は当然浄土往生が目的だった。「四十八願」の中心とされる「十八願」でも浄土往生だけが説
かれているように見える。逆に「十八願」が「王本願」と呼ばれて重視されたのは、それが浄土往生を最も端的に説いたか
らだと言える。しかし往生だけが目的でなければ、また別の見方が出てきてもおかしくはない。「四十八願」の見方は何を中
心とするか、どう組み合わさるかによって変わる。時代によっても人によっても。それは真実が不変でありながらも、時代と
人、時と機に応じて変わる即応性、展開性をもつからだ。
…人それぞれの本願…
親鸞は十八願を中心に、十一願、十二願、十三願、十七願の真実五願に加え二十二願も重視し、実質的に真実六願とし
て捉える。数学的に考えても四十八願の順列組み合わせは遺伝子のように膨大にある。そのように人それぞれの願があ
る。例えば柳宗悦は第四願の「無有好醜の願」を「美の法門」として重視した。好醜がないとはすべてのものは美しいという
ことだ。それが美の宗教だ。「選択本願」とは一人ひとりのために選ばれた本願である。「センチャク」とは自由選択ではな
い。かけがえのないものということだ。自分に合った宗教は一つしか無い。それが本願である。故に本願を宗とする。信心
は本願の働き場である。六十億の人にその人だけの本願がある。即ち六十億の本願がある。弟子などいない。そうであっ
てしかもそれはただ一つの本願である。
親鸞の二十二願は「還相廻向の願」と言われ、浄土往生しても再びこの世界に還って来るという願である。「往相」と「還
相」は同じく本願力廻向として対等である。こうして浄土教は浄土が終点ではなく、浄土を原点として浄土から展開する宗
教となる。この向きを廻らし続ける終わりのない浄土教は、回転運動として一見輪廻の中にあることと同じように見えるかも
しれない。
しかしそれは明らかに違う。輪廻は欲望の連続だが、往還相の連続は本願という真実の展開の連続だ。自分の欲生心に
よって念仏を積み重ねる多念と、本願信受の一念一念の念仏相続の違いと同様だ。時間の本源から時間の中に展開する
ものだ。無碍光を光源としてこの世界というスクリーンに本願の物語が展開する。この世界が『無量寿経』である。本願が時
間の中に展開するとき、自ずと物語りを紡ぎ出す。本願が完全に成就しているから安心であり、しかも本願を成就させるた
めに私がいる。本願を生きて初めて生きたと言える。ただしそれは人間にとっては必ずしもいいことだけとは限らない。それ
ごと引き受けるのが不退転の正定聚であり、還相廻向である。
この一線を越えられるかどうかは一つの試練である。親鸞が説く「無義」は人間の計らい心という好不都合を考える分別
知を越えた無分別智の世界だ。この「不可称、不可説、不可思議」の世界は人間苦からの解放である。それは輪廻からの
解脱と同じだが、同時に天界に代表される人間的幸福を求めることに別れを告げることでもある。このとき原動力が欲望か
ら本願へ転換する。
…向きを変えさせるもの…
この転換は一八○度の方向転換と言っていいほど劇的だ。反転する。ひとたび本願と出会えばそうせざるをえなくなる。
自ずから然らしむ。それが本願にとっての「自然」である。この向きを廻らすのが本願力廻向である。そうして欲望人間の目
にはありえないはずのことが起こる。
『ALWAYS 続・三丁目の夕日』でヒロミは一度は夕日の街を後にする。しかし自分への思いを綴った茶川の『踊り子』を
読んだ彼女はその感動の涙の中で向きを変える。自分を幸せにすると言う金持ちのいる大阪へ向かうのをやめ、夕日の街
へ引き返す。『踊り子』が芥川賞に落選したその日にである。ナミダの中にアミダ様が住んでいた。きっとそれはこの映画に
ナミダする人の心にも。真実はどこにでも宿る。劇場のスクリーンにも。この世界というスクリーンにも。
…予想外の反響…
『ALWAYS 三丁目の夕日』を見てから二○○七年の十一月で二年が過ぎた。この作品のことは映画を見てすぐにこの連
載に書いた。その時点ではこの映画がそれほど多くの人の心を捕えるとは予想できなかった。映画を見た時に館内に年輩
の人が多く、また私も自分が生まれた年が映画の中での年の設定になっていることが、作品に惹かれた理由の一つだった。
要するにノスタルジア、懐旧という若い人にはおよそ縁が無いものがこの映画を見た理由だった。
それが予想外の反響で続編が作られることになった。制作者側もそうだったようでストーリーは一話で完結しているし、昭
和三十三年の町並みを再現したセットはすべて解体されているしで、続編とは言え、実質的にはすべて一から作り直すこと
になったそうだ。しかも前作を見た人の期待を裏切らないようにするのは大変だろう。そのことは想像が付く。
…変わらないもの、変わるもの…
ただ期待できると思ったのは、前作に感動した人達は決してアクション映画やサスペンス映画にあるような刺激と興奮を求
める人達ではないはずだということだ。刺激や興奮はもっと上を求めるために次は少々のことでは満足しなくなる。それは実
は一方で感性を鈍磨させていくことになっている。そうして興奮を得てもすぐに冷めてしまう。興奮と感動は似て非なるものだ
。この映画にそれは必要ない。
また主演の吉岡秀隆は二十年以上も続いたドラマ『北の国から』の主役の一人であり、続き物に非常に強い人である。変
わらないものと成長し変化していくものとを演じるのが自然に身についた人だ。『北の国から』もこれほど長く作られるとは、制
作者も出演者も視聴者も誰も予想しなかっただろう。ひょっとしてこの映画もまだまだ続くのだろうか。
…予想外の展開…
この映画の予告編を何度も映画館で見たので、ある予想はついていた。それは鈴木オートに新しい住人として美しい少女
が現れること、そしておそらく少女は美しい思い出を少年達の心に残してやがて去っていくだろうということ。また吉岡秀隆が
演じる茶川竜之介が彼と同居する古行淳之介少年や三丁目の住人に励まされて芥川賞に再挑戦し、最終候補に残るもの
のやはり落選するだろうということ。それでも古行少年は彼のもとを去らず、父親の川渕康成の元には行かないだろうという
ことなどだ。
そして気になるのは茶川が心を寄せながらも去っていった、小雪が演じた踊り子ヒロミとの関係だ。予告編では彼女が自分
のような女が彼のもとにいてはいけないのだと言い聞かせながら泣く泣く夕日の中を去って行くように見えた。それでそこま
での展開に何があったのか知りたかった。夕日を浴びた彼女の涙がとても美しいものに見えたので、その涙の理由が一番
の関心の的だった。しかしヒロミとの関係については予想は見事にはずされた。
…「去り往く」の続き…
振り返って見れば、その伏線はあったのだ。堤真一が演じる鈴木は、死んだと思っていた戦友に再会した幻を見る。その時
間に家族はそのあたりには珍しい一匹の蛍が飛んで来たのを見る。これは特攻基地のあった知覧の富屋食堂でのエピソー
ドを踏まえたものだろう。また鈴木の妻になったトモエが日本橋に佇んでそこでかつて約束を交わした人を懐かしんでいると
、そこにその男が現れる。彼はシベリアに抑留されて何年も連絡が取れなかったのだが、ようやく日本に帰って来ていたの
だった。互いの思いを確かめ合いながらもトモエは我が家に帰って来る。
そして一度この街を去り、今回もまた泣く泣く去っていったヒロミも再び夕日の街に帰って来る。茶川にもらった空の指輪の
箱に「ありがとう」の書き置きを残して去ったはずの彼女が。彼女にそれをさせたのは芥川賞候補となった『踊り子』だった。
芥川賞落選の日、それを大阪に行く車中で読んだ彼女は茶川の自分への思いを知り、捨てたはずのこの街に帰って来る。「
もう一度三人で暮らそう」という古行少年の「願い」が現実となったのだ。見事にやられた。確かにそうだった。去り「往く」浄
土教の続編は「還る」浄土教である。
発掘歎異抄98回 一切経の本願(2007年12月号)
・・・発掘鴻臚館・・・
九州国立博物館で「本願寺展」を見る前日に私は福岡市にある福岡市博物館を訪れた。九州国立博物館は太宰府にあ
り、太宰府天満宮に隣接している。広島から行くと福岡市博物館の方が手前になる。ちょうど「鴻臚館とその時代」という特
別展が開かれていた。
鴻臚館は今で言う迎賓館のようなもので、海外からの賓客を一時的にここでもてなし、都に入るまで留めた所である。大
宰府政庁の一機関としてあった。その場所がどこにあったかが古来謎とされていたが、福岡城跡にあった平和台球場の外
野スタンドを改修した時にその跡が見つかった。今年がその発掘から二十周年の記念の年なのである。私は「発掘」と聞く
と心惹かれるものがある。西鉄ライオンズの本拠地だった平和台球場もすでになく、歳月の移り変わりを感じさせられる。
・・・「一筆一切経」・・・
この展示がおもしろく、特に最後の展示室で興味深いものを見た。それは宗像大社の社僧、色定法師(一一五九〜一二
四二)が一人で一切経を全巻書写したという「一筆一切経」である。日本の神社は神仏習合の所が多かったので神社にも
僧侶がいた。一切経は約五千巻。九八三年に入宋し、九八七年に帰国した東大寺の「然が将来し、広く流布した宋版の
一切経は四百八十一函五千四十八巻である。
一切経は読むだけでも大変である。浄土門では法然が比叡山で修行に行き詰まり、一切経を五回読み、ついに善導の
『観経疏』の一節に出会って専修念仏に開眼したという逸話がある。しかし一切経を何度も読んだ法然でもそれをすべて一
人で書写しようとは思わなかっただろう。自分にとっての真実を追求しようとする人にとっては何が書いてあるかが大事で
あり、それを写すことは時間がかかるばかりで意義を感じなかっただろう。
・・・同じ時代に生きて・・・
色定法師は一一八七年二十九歳の時から一二二八年七十歳まで四十二年かけて五千四十八巻全巻を一人で書写した。
二十九歳と言えば親鸞が法然に帰依した歳だ。法然が専修念仏に帰したのが一一七五年で色定法師が写経を始めた
時点ですでに法然は一切経が念仏一つに極まることを見極め伝道していた。また写経中の一一九七年には浄土宗鎮西派
の祖、筑前(福岡県)の聖光が法然に帰依している。色定法師は同じ時代に近くにいたのである。その耳に法然の名は届
かなかっただろうか。あるいは法然が一切経を五回読み専修念仏に開眼した話を聞かなかっただろうか。
では四十二年かけて書写していったい何を得たのだろう。写経の功徳があったのか。仏教の八万四千の法門をすべて
身につけたのか。それはいくら何でも無理だろう。すべてを書写した時の喜びはいったいどういう性質のものだろう。おそら
くは満願成就という喜びだろうが、同じ願でも親鸞が本願と出会った時のような「歓喜踊躍」はあっただろうか。
・・・偶然の必然・・・
宋版は国家事業として作られたが、なぜかこの一切経には隠された暗号があるような気がする。それは四百八十一函五
千四十八巻という数字である。これは五千巻が「四十八願」の本願一つに極まることを暗示するかのようだ。開版事業の
関係者に浄土願生者がいてこの数字を選んだのだろうか。この数字は全巻読み終えた人、あるいは書き終えた人のため
にご褒美として用意されていたかのように見える。ひょっとして法然は一切経を五回読み、五千四十八巻目を読み終えた
時に、五回目にしてこの数字に気付いたのかもしれない。今回もまた真実を見出させなかったと思ったその時にひらめくも
のがあったのではなかろうか。『観経疏』の一節というのはその後のことではなかろうか。こう想像したくなる。
この数字はただの偶然かもしれない。しかし求める人の目には偶然も必然となる。そもそも縁起の法に偶然などない。一
切経はすべて仏縁だがすべて読んだから自分の縁が見つかるわけではない。しかし「仏かねてしろしめして」。この数字は
求める者には自分のために最後に用意された仏縁に見えるだろう。
発掘歎異抄97回 やって来るもの(2007年11月号)
・・・「本願寺展」・・・
この秋に九州国立博物館で「本願寺展」が開かれている。2011年の親鸞聖人750回大遠忌を記念したもので、これか
ら全国何カ所かで開かれるということだ。九州ではこのような展覧会が開かれるのは初めてだそうだ。私は大学時代に親
鸞の真筆をある展覧会で見たことがあり、その力強い筆跡が印象に残っている。我が家には親鸞の筆跡の複製で「歓喜
光仏」と書かれた短冊があり、これが私が最も見慣れた親鸞の筆跡である。
今回また親鸞の筆跡を目にすることができた。初めに目にしたのは『観無量寿経註』である。『観無量寿経』の本文の周
囲にびっしりと書き込みをしたもので、おそらくは法然門下で修学中に書かれたものではないかと考えられている。昔の人
がどのように経典を学んだのかがよくわかる。狭い範囲に書き込まれた関係か、あるいはまだ修学中の関係か、私が見
知っている躍動感のある親鸞の筆跡に比べるとややおとなしい感じがする。
・・・踊躍の字・・・
我が家の「歓喜光仏」の字は跳ね上がるような感じがある。これは「歓喜踊躍」の心がその字体にも表れたものと言える
だろう。展覧会では『観無量寿経註』以外の真筆も出されていて、余白に余裕のあるものではこの跳ね上がる感じがよく
出ている。達筆とか能筆とか言えるものなのかどうかは私にはよくわからないが、一度見たらまず忘れることができない印
象深い字であることは確かである。
展覧会では親鸞の真筆以外に、親鸞の妻である恵信尼の手紙や本願寺第八世で中興の祖と言われる蓮如の真筆を見る
ことができる。恵信尼の手紙は私にはかなり力強く見えた。相当の高齢で書かれたものだが、年齢を感じさせないものが
ある。蓮如の筆跡は『歎異抄』を筆写したものがあるが、これは丁寧に写されたせいか個性的という感じではない。一方蓮
如自筆の六字名号「南無阿弥陀仏」は太い筆で一気に書かれ、さぞ信者を魅了したに違いないと思われる。こういうエネ
ルギーを与えてくれるものに人は惹かれるのだろう。
・・・「この不審」・・・
親鸞の跳ね上がるような字体も、蓮如のエネルギッシュな字体も、彼らを動かした「本願力」の表れだろうと思う。特に親
鸞においてはしばしば言及した本願との出会いによる「歓喜踊躍」の心の表れだろう。しかし親鸞がそれを語ると、一方で
は聞く人の中には、自分は念仏しても「歓喜踊躍」の心が得られないがなぜかという疑いや苦しみが起こることもあっただ
ろう。『歎異抄』第九章で唯円が親鸞に問うているのはこの点である。
それに対する親鸞の答えは耳を疑うようなものだ。「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。」これ
まで「歓喜踊躍」を親鸞が語っていたからこそ唯円の問いがあったはずなのに、実は親鸞もそうだったのだろうか。親鸞は
続ける。喜ぶべきべき心がそうならないのは煩悩のせいである。「しかるに仏かねてしろしめして」煩悩具足の凡夫のため
に立てられた本願だから「いよいよたのもしくおぼゆるなり。」こうして問いを逆手にとって見事に逆転してしまう。
・・・「仏かねてしろしめして」・・・
これを聞いて唯円はどう感じただろうか。きっとありがたく、喜んだに違いない。まさに「歓喜踊躍」の心がそこに起こるの
である。では親鸞はそれを目的としてこう述べたのだろうか。そういう人間的計らいを越えたところに親鸞は立っていたと
思う。「仏かねてしろしめして」に人知を越えたものを感じる。
「仏があらかじめわかっていて」ということは常識的にはありえない。頭で考えれば私が生まれる前から如来が私のこと
をご存じで私のために本願を立てたということはありえないことだ。それはキリスト教で私のためにイエスが十字架にかか
ったのだというのと同様だ。そのありえないことが「信」の世界では起こるのである。どんな過去であろうともこの時間を飛
び越して今ここに、本願が、十字架が私のところに来るからである。間もなく「本願寺展」があなたの所にもやって来る。
発掘歎異抄96回 ナミダの中のアミダ様(2007年10月号)
・・・涙の「非行非善」・・・
人は感動するときに涙を流す。涙を流すときに必ずしも感動があるとは限らないかもしれないが、感動のあるところな
ぜか涙が流れてくる。これは信心と名号の関係によく似ている。信心は必ず名号を伴うが、名号は必ずしも信心を伴うと
は限らない。信心が名号を伴うことを説明するのが難しいように、感動が涙を伴うことを説明することも難しい。それが人
間の本性だとしか言いようがない。
私は「ナミダ」の中に「アミダ」様がおられるとも、「アミダ」様が宿るとき「ナミダ」が溢れるのだとも思う。本願海の潮が
目に涙、口に名号となって溢れ出る。親鸞の言う「悲喜の涙」である。それは人がそうしようと思ってそうするのではない
。それは念仏が「非行非善」であるということと同じであると思う。それが人の計らいを越えた真実の働き、ありようという
ものを如実に示している。
・・・「感動、信心、涙」・・・
この「感動、信心、涙」の関係に着目した一人に宮沢賢治がいる。『銀河鉄道の夜』で「みんながめいめいじぶんの神さ
まがほんとうの神さまだというだろう。けれどもお互いほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。」
と言う。また「信仰も化学と同じようになる。」とも書いている。これは「感動、信心、涙」が同じく人間の本性に基づくことを
体験的に知っていたからだろう。賢治の文学にあるのはこの精神である。
賢治は家が熱心な真宗門徒の家であったために、ある時期までは真宗信仰の持ち主だった。しかし青年期に法華経
を知り、法華経を信奉する日蓮宗に帰依した。日蓮は「念仏無間」と説いた。では賢治も念仏者は無間地獄に落ちると
信じたのだろうか。確かに父に折伏を試みているが、自分の先祖がすべて無間地獄に落ちたとまでは思わなかっただ
ろう。むしろ信仰というものの共通性を考えざるをえなかったのではあるまいか。『銀河鉄道の夜』では仏教徒なのにあ
えて「神さま」を用いて特定の信仰ではない形にしている。
・・・海外での『夕凪の街 桜の国』・・・
この感動の涙の普遍性は芸術にとっては不可欠の要素だろう。芸術が国境を越え、民族、宗教を越えるのは、感動の
涙の普遍性があるからだと言ってもいいだろう。映画『夕凪の街 桜の国』では、原爆症で亡くなる平野皆実の髪留めが
弟の旭からその妻となる京花に渡されて京花が激しく泣く場面と、ラストシーンで七波が皆実の写真を見て涙ぐむ場面
がある。この二つの場面がいつまでたっても忘れられない。皆実、京花、七波、そして私がこの涙の中で一つながりにな
っているように思える。それが私にとっては「非行非善」の単伝、直伝の本願の念仏と重なるのである。
この作品はおそらく海外でも上映されるだろう。その時に海外の人はどのような反応を示すだろうか。海外には念仏者
は極めて少ないから、映画の精神と念仏とが重なる人はないだろうが、信仰のある人が見れば、それぞれの信仰と重
なることはないだろうか。例えば『銀河鉄道の夜』は我々は大乗仏教の精神を描いた作品と知っているが、それを知らな
い海外の人が見ればキリスト教を背景とする作品と見るかもしれない。賢治もそれをある程度意識していたのではない
かと思われる。
・・・単伝、直伝、涙、御名・・・
皆実の髪留めに私は念仏の伝授を感じたが、長崎で被爆した永井隆は焼け跡から妻のロザリオを掘り出し形見とした
。カトリックのロザリオは仏教徒の念珠に相当する。あるいは十字架。皆実の髪留めにロザリオや十字架の伝授を感じ
るクリスチャンはいないだろうか。第二次世界大戦で親族を亡くしたクリスチャンがいればそう感じるかもしれない。
さらに私が感じたように髪留めの伝授に本願の単伝、直伝を感じる人はいないだろうか。親鸞は五劫思惟の本願はひ
とえに親鸞一人がためと言う。同じようにイエスの十字架が私一人のためと感じないだろうか。それこそまことのクリスチ
ャンだろう。真実信心は単伝、直伝である。それが真実信心の常である。そしてなぜかそこに涙と御名が伴うことも。
発掘歎異抄95回「浄土のALWAYS」(2007年9月号)
・・・私も再び・・・
映画『夕凪の街 桜の国』のことは新聞での知識くらいで、こうの史代さんの原作を読まずに映画を見た。だから詳しい
内容は知らなかった。一度目を見てから次の日に原作を読み、その次の日にまたこの映画を見た。一度目に驚かされた
ストーリーの展開の意味がよくわかった。この作品は再びに意味がある。
石川七波が父と母の出会いの場面の回想シーンを見ているのが不思議だなと思うのだが、この二人を選んで自分は生
まれてきたのだと七波は気付く。生まれる前の自分がそこにいる。そして父はお前は死んだ自分の姉に似ていると言う。
ひょっとして七波は原爆症で亡くなった彼女の伯母である平野皆実なのか。きっとそうに違いないと思わせる。七波が父
から伯母の写真を見せられて涙ぐむ場面でこの映画は終わる。第一部と第二部がここで結び合わされ、この映画が実は
一人の女性の自己発見の物語であることを示している。
・・・受け継がれるもの・・・
しかしこんなことがありえるのか。自分自身が被爆者で原爆症で亡くなりながら、弟を父に自分と親しかった被爆者を母
として再び生まれようとする。母が自分のようにいつ原爆症を発症するかも知れず、また自分が被爆二世となることで何
が起きるかわからないのに。事実、母は七波の子供時代に突然血を吐いて死に、弟の凪生は喘息で長期の入院を強い
られる。七波が野球好きの男まさりの女子になるのは弟を守るためだ。東子が凪生との付き合いを反対されるのは両親
がこの広島から来た一家のことをよく知っていたからだ。
そのような可能性があることは充分予想できる。にもかかわらずである。父となる旭が母となる京花に皆実の形見の髪
留めを渡す場面は感動的である。それは自分達が姉の命を受け継ぐことを伝えることだ。受け取った京花は激しく泣く。彼
女もまた皆実に親しくしてもらった思い出をもつ。皆実の命は確かに二人に受け継がれた。そして七波が生まれる。
・・・伝授・・・
私はこの髪留めが渡される場面で思わず念仏が口をついて出た。そして親鸞の「弥陀の本願まことにおはしまさば釈尊
の説教虚言ならず」という『歎異抄』の一節がまざまざと蘇った。親鸞は本願の念仏が阿弥陀仏、釈尊、善導、法然、自分
と伝授されたのだと言う。
親鸞が法然から『選択本願念仏集』を付属されるのも同じである。こうして本願の念仏は今自分に伝えられ、さらにまた
いずれ自分はこの世に戻って来てまた本願の念仏を伝えるのだと言う。自分はそれによって迫害を受けたにもかかわら
ず、また還って来ても同じことが起こるかもわからないにもかかわらずである。それが「浄土のALWAYS」である。
この髪留めは物ではない。心であり、願いであり、命である。七波は母の形見としてそれを身に付けていたのだが、実は
それは自分の形見だったのである。自分はそれを再び受け取るために生まれたのだ。それは一つの願いを受け取りまた
伝え、またそれを受け取る念仏者の生の有りようと同じである。
・・・「センチャクの国」・・・
七波はこの二人を選んだのだと言う。この選ぶとは迷いと裏腹の選択ではない。字は同じ選択だが浄土教の「センチャ
ク」である。これしかないという決定、ケツジョウであり、迷いのない信であり真実である。「うちでええん?」という京花に
旭は髪留めを渡す時、「京ちゃんでないとだめなんじゃ」と言う。これがセンタクではないセンチャクである。
この作品は浄土教に縁が深い。バラックには粗末な阿弥陀仏の絵像の仏壇がある。人物名は安芸門徒の広島の地名
が散りばめられる。旭の疎開先は水戸、親鸞が布教した常陸であり、利根東子は東国の利根川を思わせる。石川七波は
蓮如が布教した加賀を思わせる。また常陸、東京という東と安芸の西が東西軸を持つ。旭が姉の五十回忌で訪れる広島
市寺町の真宗寺院では安芸門徒特有の色とりどりの盆灯籠が所狭しと墓地に花を咲かせ、境内には「正信偈」が流れる。
「夕凪の街」は広島だが「桜の国」は本当は浄土かも知れない。
・・・「ありがとう」・・・
佐々部清監督の『夕凪の街 桜の国』が広島で全国に先駆けて公開された。公開日には佐々部監督と二部構成の第一
部主演女優、麻生久美子さんと第二部の主演女優、田中麗奈さんの舞台挨拶があった。私は目の前でその挨拶を聞くこ
とができた。麻生さんの演じた原爆症で亡くなる女性の美しい広島弁に感心した。聞けば広島の友人に広島弁を録音して
もらい繰り返し聞いたのだという。
その中で特に広島弁の「ありがとう」が気に入ったそうだ。広島弁は語の中央部で音が高くなる中高というアクセントで
ある。劇中「ありがとう」はキーワードのように使われる。それを司会者の求めに応じて麻生さんは広島弁で見事に再現し
た。彼女にとってこの役はこれまでの役の中で初めてと言っていいほど自分からやりたいと思った役だそうだ。一つの出
会いだったのだろう。こちらこそ彼女に広島弁で「ありがとう」と言いたかった。
・・・「夕凪の街」・・・
第一部「夕凪の街」の舞台は昭和三十三年の広島。私が生まれた年であり、佐々部監督も同年生まれ。大ヒットした「A
LWAYS 三丁目の夕日」と同じ年の設定である。太田川の川沿いに原爆ドームがたたずみ、川岸には杭を打ち、はみ出
すようにバラックが建ち並ぶ。川では子供たちが水遊びに興じている。原爆ドーム以外は今は見られなくなった広島の光
景である。このバラック街の中で母と暮らす平野皆実が第一部の主人公となる。
会社で働く皆実が真夏なのに長袖を着ているのが気になるが、その意味がやがてわかる。そこには昭和二十年八月六
日の記憶が隠されていた。彼女が母と住むバラック街はその焼け跡に生まれた街だが、やがて再開発とともに消えた街
である。彼女もそうである、体にも心にも傷を負った人々が肩を寄せ合い暮らすこの幻の街がなぜか懐かしく美しい。これ
は「ヒロシマのALWAYS」なのだと思う。
・・・「お富さん」のはずが・・・
皆実には疎開したまま養子になった弟が水戸にいる。皆実が別れ際に弟を抱きしめる回想シーンは夢のように美しい。
その皆実の同僚で互いに惹かれ合う打越は被爆者ではない。その打越との仲が深まろうとする時に聞こえるのが、あの
日彼女の背中に負われて亡くなった妹の声。その声を聞いたとたん彼女は打越を拒絶してしまう。自分の住む世界はそち
らではないという声が聞こえるのだ。「うちはこの世におってもええんかね」と問う皆実に打越は「生きとってくれてありがと
う」と答える。二人の心が結ばれた瞬間である。
まるでその時を待っていたかのように病魔が彼女を襲う。元気な時の彼女は川岸の道を靴を脱いで裸足で歩いた。水
戸の弟に会いに行くため倹約しようと靴が減るのを防いだのだ。その時に歌うのが「お富さん」。死んだはずなのに生きて
いたお富さんとは自分のことだったのだろう。しかしやがて自分の髪留めを「もういらんけえ」と母に渡す彼女の枕には
脱けた髪がべっとり張り付いている。原爆症である。急を聞いて駆けつけた弟の旭と打越に見守られて彼女は息を引き取る。
・・・「桜の国」・・・
第二部「桜の国」は今年平成十九年の東京と広島が舞台。すでに還暦を過ぎた皆実の弟である旭と娘の七波を中心に
、その弟である医者の凪生、七波の幼なじみであり実は凪生の恋人である看護師の利根東子の物語が組み合わされて
いく。家族に黙って皆実の五十回忌に広島を訪れる父を娘が尾行し、そこに東子がついて来る。その中で回想シーンのよ
うに旭とその妻となる京花の物語が展開する。
皆実の死後、母のいる広島に戻った旭が親しくなるのが近所の京花。彼女も被爆者だった。その被爆者である京花との
結婚に初め母は反対するが、旭の東京転勤を機に二人は結ばれる。その時旭が京花に手渡すのが姉の形見の髪留め
である。回想シーンではなぜか七波が二人を見つめている。そしてついに七波は自分がこの二人を選んで生まれたのだ
と気付く。ラストシーン、父は娘に姉の写真を見せながらお前は姉さんに似ていると告げる。
・・・『マイ・フェア・レディ』・・・
『マイ・フェア・レディ』はもはや古典的とも言えるミュージカルである。オードリー・ヘップバーンが主演した映画版は今も
ファンの目を楽しませてくれる。オードリー・ヘップバーンの映画版は残念ながら声が吹き替えである。これはミュージカ
ルとしては致命的な問題なのだが、オードリーのファンとしてはそれでもオードリーが演じてくれただけでありがたい。バ
レリーナ出身の彼女でなければ演じられない場面があるからだ。
それが花売り娘のイライザが正しい英語の発音をマスターして喜びのあまり踊り始める場面である。ここでの歌『踊り
明かそう』は素晴らしい曲だが、それに彼女の踊りが加わってこそこの場面が活きてくる。オードリーが軽やかに舞いな
がら階段を駆け上る場面はいつ見ても感激させられる。天使の舞というのはああいうのを言うのだろう。彼女の軽やかさ
は彼女が痩身であるせいもあるが、それよりも彼女の心が軽やかだからだろう。
・・・「他力的」・・・
このミュージカルが広島でも見られるので楽しみにしていた。大地真央主演の東宝ミュージカルである。大地真央は
宝塚出身だから歌って踊ってというのはこの人のためにあるような言葉だ。問題は歌の歌詞である。特に『踊り明かそう
』はその内容が他力的で、そこが変わってしまうと困る。「何が私の心を舞い上がらせたのか知らないが、彼が私の手を
とって踊り始めたの。」という一節は彼女が正しい英語の発音をマスターした場面からの一連の流れで自然に心に入っ
てくる。
英語の発音をマスターするのも、踊り始めるのも普通に見れば、彼女の努力の成果であり、彼女の願望の表れである
。しかしそれが彼女のものではないように見えるところに真実が宿るのである。これが自力から他力に転換する浄土教
の心と重なるのである。
・・・英語の言霊・・・
映画版でもオードリーの演じるイライザは言語学者のヒギンズ教授の指導を受けて一生懸命励むのだが、いくら努力し
てもうまくいかない。それが絶望的になっていたある夜に突然思いがけなくも正しい発音ができるようになる。私にはそ
れは正しい英語の発音を司る「言霊」が彼女に宿ったように見えるのである。それが他力的という所以である。
舞台ではこれがどう演じられるのか楽しみにしていた。大地真央の演技でもなまりのある発音から正しい発音への切
り替わりは徐々にではなく、やはり突然と言ってもよいほど変わる。夜が明けるようなものと言えばいいかもしれない。ど
うして今までこんなことができなかったのだろうと思われるほどだ。これは劇的な変化を好む演出上の理由もあるだろう
。しかし根本にあるのは変化や成長というものは必ずしも段階的に滑らかに変化する曲線を描くとは限らないということ
だ。あるとき突然、飛躍的な変化が起こることがあり、その時に自分の力を越えたものとの出会いを感じるのである。こ
れは大きな喜びを伴う。それを自分がしたのではないので他力とも言い、またそれを「非行非善」とも言う。「非行非善」
は『歎異抄』第八章の言葉である。
・・・二人が一つに・・・
大地真央の演技にも彼女がそれを意図したのかどうかはわからないがそれを感じた。おそらくこれだけの大女優だか
ら自分の力だけではどうにもならないものを普段から感じているのだろう。その後の『踊り明かそう』の歌詞は残念なが
ら日本語版として私が感じたような他力的ニュアンスは消えていた。
しかしそれ以上に私の心をとらえたのは大地真央がオードリー・ヘップバーンに見えてきたことだった。いつのまにこの
変化が起こったのか定かではない。オードリーが大地真央に乗り移ったのか、オードリーが私の心に乗り移ったのか。
自分でそう思おうとしたわけではない。演出の意図か、大地真央の意図なのか。それもあるのかもしれないが、オードリ
ーの演技にも大地真央の演技にも何か不思議な力が働いていたに違いない。優れた芸術は人為を越えた「非行非善」
なのだろう。
発掘歎異抄92回 隠れの中に(2007年6月号)
・・・「三業惑乱」・・・
薩摩の隠れ念仏が弾圧された背景の一つには財政難に苦しんでいた薩摩藩が隠れ念仏の門徒が本山に莫大な献
金をすることを嫌ったことが理由の一つにあげられる。徹底的とも言える民衆搾取の上に藩の財政があったはずなの
に、民衆のどこに献金の余力があったのか不思議である。結局政治では人の心を縛ることはできないのである。薩摩
における真宗弾圧はそのことをよく示している。
しかしこの薩摩の隠れ念仏にはさらに隠れの要素が存在した。これは幕末に西本願寺で起きた「三業惑乱」という事
件が関係している。これは本山の学林の中で「身・口・意」の三業によって阿弥陀仏に帰命し、浄土に往生したいと願
う「欲生心」を重視する「三業帰命派」が台頭したことによって起こったものである。これに対して安芸を中心とする在野
の僧から「信楽」を中心とする親鸞の教えとは違うという反論が起こった。
・・・追放と潜入・・・
この論争は容易には決着がつかず、宗門内の内紛に発展し、ついには幕府の介入を招いてしまう。「三業帰命派」
に反論した「信楽帰命派」の安芸の大瀛が著した『横超直道金剛?』は学林からの申し立てにより発禁処分になる。も
ともと病弱だった大瀛は江戸での取り調べ中に亡くなった。こうしてこの事件は論難と法難の要素をもつ事件になった
。結局は幕府の裁定により、親鸞の教えに近い「信楽帰命派」の説が支持されることになり、「三業帰命派」はその多
くが処分された。しかし「信楽帰命派」にも処分された者が出た。
この事件で処分された「三業帰命派」の一人に大魯という僧がいる。本山から追放された大魯は真宗禁制の地であ
った薩摩に潜入するのである。つまり隠れ念仏の中にさらに隠れるのである。身の置き場がなくなった大魯としてはこ
こが最後の砦だったのかもしれない。もちろん前に書いたように薩摩の隠れ念仏の門徒は西本願寺との連携を持ち、
本山から本尊を受け、使僧も派遣されていた。
・・・大魯と千代女・・・
ここで大魯は岡大道と名を変える。彼の念頭には「無礙の一道」があったのだろう。そしてかつては本山の学林の主
流派で、今は追放の身となった自分の「三業帰命」の説を隠れ念仏の門徒に説いたという。その学識や説得力はかな
りのものがあったに違いない。細布講を組織し、さらに煙草講を組織する。煙草講からは何と毎年百両もの大金が本
山に献金されたという。その経緯は米村竜治氏の著作に詳しい。追放された本山への未練だったのか。本山に自分
の力を見せつけようとしたのだろうか。自力的要素が強い「三業帰命派」の説とその行動は結びついていたのか。
これもまた信仰のエネルギーと言ってよいのだろうか。『妙好人伝』に取り上げられた千代女の「自然法爾」の信心と
はどこかずれたものがあるような気がする。自分の力を見せつけようとしていたのではないかという疑念が払拭できな
いのである。それは大魯に限らず、弾圧の中で耐え抜いた人々を襲う一つの落とし穴であったに違いない。
・・・法難を越えて・・・
禁じられたものを信じるのは勇気のいることである。権力によって処分を受けながらもそれを守るのはさらに勇気を
要する。問題はそのエネルギーがどこから出てくるかである。自分の信念なのか、真宗の信心でいう「如来より賜る信
心」なのかである。千代女が言ったのはそれである。『妙好人伝』が彼女を取り上げたのもそこを見取ったからだろう。
そしてこの疑念を最初に抱いたのは鎌倉時代初めに弾圧を受けた法然門下の人々だったかもしれない。親鸞もその
一人である。犯罪人として流罪にならなければならないような信仰を自分達はもっているのだろうか。あるいは自分達
が信心だと思っているものはただ自分の抱いた信念への自己執着に過ぎないのか。親鸞の答えは「如来より賜る信
心」だった。今年2007年は親鸞が流罪にあった承元(建永)の法難から八百年である。「無礙の一道」はその流罪に
遭った人の言葉である。
・・・鹿児島別院・・・
鹿児島の花尾神社の近くにある念仏洞を訪れた翌日に、私は鹿児島市内中心部にある西本願寺鹿児島別院と、
東本願寺鹿児島別院を訪れた。鹿児島で真宗が解禁になったのは明治九年のことである。幕末の鹿児島は明治維
新に向けて変革のエネルギーが満ちあふれていた。その一方で真宗門徒への弾圧もこの時期が江戸時代の中で最
も激しかったと言われている。理由として財政の厳しい薩摩藩から門徒によって多額の献金が本願寺に送られるのを
藩が忌み嫌ったのだと言われる。また島津斉彬が神道を重んじたことも真宗弾圧に拍車をかけたのだとも言われる。
時代が変わって今は鹿児島市の中心部に東西本願寺の別院がある。特に西本願寺の鹿児島別院は巨大な伽藍
を誇り、本山級の規模である。本堂にお参りした後、寺務所で隠れ念仏のことを尋ねたところ、奥の方からそのことに
詳しい僧侶の方が出て来られて、いろいろ興味深い話を聞くことができた。
・・・涙石・・・
江戸時代の薩摩の真宗門徒は西本願寺の門徒がほとんどだったと言われている。連絡をとり、使僧を派遣していた
のは西本願寺だった。しかし意外にも西本願寺鹿児島別院には隠れ念仏の資料を展示する資料室のようなものは
なく、何冊かの隠れ念仏の図書を売っているだけである。隠れ念仏に直接つながるものとしてあるのは、境内の一角
にある「涙石」と呼ばれるものだけだ。
寺務所で説明を聞いてからその石を見た。これは真宗門徒を摘発したときに、拷問のために使ったと言われるもの
である。門徒達は講を結んでいたので、一人を摘発し、その口を割らせることができれば、講につながる者達を一網
打尽にすることができた。そのための拷問であり、この石が使われたという。庭石程度の大きさの石だが、これを正
座させた信者の足の上に置いて自白を強要し、それでも口を割らない信者の足は砕け、その涙がこの石にはしみこ
んでいるという。そこからこの石が「涙石」と呼ばれたのである。私が見た日は雨が降っていたせいで、本当にその石
が目の前で涙を流しているように見えた。これが薩摩の真宗の礎だった。
・・・隠し本尊・・・
この「涙石」がまだまぶたの裏に焼き付いている間に、東本願寺の鹿児島別院を訪れた。もともとこちらも訪れる予
定だったが、西本願寺の鹿児島別院で、東本願寺の鹿児島別院には隠れ念仏の資料の展示があると聞いていた。
隠れ念仏の資料展示で知られるのは知覧の博物館、ミュージアム知覧であり、私は以前そこを訪れていた。隠れ念
仏の資料を見るのはその時以来である。東本願寺の鹿児島別院は西本願のそれに比べればやや小ぶりだが、本堂
の横に会館があり、その一角が隠れ念仏資料の展示に当てられている。
箪笥の上部に仏壇を仕込んだ箪笥仏壇は見事なもので、これは工芸品と言ってもよいのではないかと思う。意味は
違うが現代でもこういうものを作ってもいいのではないかと思った。自分だけの秘仏をもつような感じである。また、まな
板の中に本尊を仕込んだものもあり、隠すことの具体的な例がよくわかる。
・・・「群賊悪獣」・・・
これらの隠された本尊と並んで目を引かれたのが門徒が所持していたという「二河白道図」である。この図には西の
岸に阿弥陀仏、東の岸に釈迦仏が描かれるが、東の岸には脇役として「群賊悪獣」が描かれる。そこで見た図には念
仏者を襲おうと刀を抜く武士の姿が描かれていた。他の地域ではこの武士の姿はそれほど目には入らない脇役だろう
が、薩摩の真宗門徒にとってはとりわけ真に迫るものだったのではなかろうか。
本尊よりもこの「二河白道図」の方が取り締まる武士の怒りを買うものだっただろう。江戸時代、薩摩の門徒ほど「二
河白道図」に「無礙の一道」を見た人々はいないだろう。それゆえにこそますます信心が燃え上がったのだろう。真宗が
解禁された時、何と鹿児島の人口の八割が真宗門徒だったという。
・・・妨げるもの・・・
「念仏者は無礙の一道なり」の「無礙」とは何者も妨げることはできないということだが、妨げるものは自己の内にも
外にもある。外にあるものとしては人の妨げがある。真宗の歴史上では早くも法然、親鸞が法難により流罪となった。
これは明らかに外部の力による妨げである。新しい宗教が起こる時にはこのようなことがよく起こる。聖徳太子の時代
の物部守屋による破仏がその始まりだった。
物部守屋の場合は仏教が入ってくるときのことであり、法然、親鸞の場合も天台浄土教とは違う新たな浄土教が起き
る時のことであり、そのような新しいものが理解されないということはある程度はわかる。しかし真宗の理解が進んでも
法難は続いた。それは封建領主にとっては危険な宗教であるという認識があったからだ。蓮如の時代に起こった一向
一揆がその認識をもたらした。多くの藩や幕府ではその団結力を恐れながらも、てなづけるという方向に進んだが、
切支丹同様に真宗を禁制にした藩があった。それが島津氏の薩摩と隣国である相良氏の人吉である。
・・・薩摩の千代女・・・
薩摩の禁制は江戸時代から明治の初めまで続いた。その実態がどの程度全国の真宗門徒に知られていたかは定
かではないが、江戸時代に刊行された『妙好人伝』には薩摩の千代女の殉教が記載されている。本願寺はもちろん
この禁制を知っており、表向きは国法を重んじよと言いながらも使僧を送り、薩摩の門徒を支援していた。薩摩では
門徒によって講が結ばれ、秘密裏に信仰が続けられていた。
九州には同じ時期に隠れ切支丹がいたが、彼らがキリスト教の本国と切り離された状態だったのに比べれば、本山
とのつながりを保っていた隠れ念仏の薩摩の門徒は信仰を維持しやすかったかもしれない。それでも取り締まりは厳
しかった。その理由として財政難の薩摩にあって門徒が多額の布施を本山に送るのが藩を刺激したのだという説も
ある。薩摩の千代女の殉教もその中で起こった。
・・・捨てられないもの・・・
彼女は武士の娘だったが、本来は取り締まる側の武士にもかなりの真宗門徒がいたと言われる。彼女が真宗に
帰依したのは真宗だけが女人成仏を説き、自分が救われるには真宗しかないと思ったからだという。そしてその信仰
心からついに本山に参るという挙に出る。それがいかに危険なことかは容易に想像がつく。帰郷後にそれが露見し、
彼女は他の上京した門徒とともに取り調べを受ける。
役人の、伊勢参りをしたことにすれば許してやろうとの温情に感謝しつつも彼女は本山に参ったと言う。信仰を捨て
れば許してやるとの言葉も彼女は受け付けない。自分の信心は如来から賜ったものなので、自分の意志で捨てるよう
なものではないと言う。この言葉を残して彼女は死罪につくのである。この言葉を聞くとまさに彼女の信仰が真宗の
本質を語り、何者も妨げることができない「無礙」の世界に生きていることを知らされる。これは流罪にあった親鸞も
同様であったはずだ。
・・・念仏洞・・・
薩摩の門徒は秘密の信仰を保つためにガマと呼ばれる自然の洞窟に本尊を隠したり、そこに集まって念仏を称えた
りしたという。そのような念仏洞が幾つか現在でも残っている。この春に私はその一つである鹿児島市郊外の花尾
神社の近くにある念仏洞を訪れた。花尾神社は薩摩日光とも言われる華麗な装飾で知られる神社である。その裏山
を登ると念仏洞がある。巨岩が二つ合掌したような形であり、その下部が洞になっている。横幅があり、十人程度は
入れそうだ。今でもお参りがあるようで、本尊が暗闇の中で輝いている。 千代女がそこに参ったかどうかはわから
ないが、彼女のような若い女性もここで念仏したに違いない。この岩には三百年間の念仏がしみこんでいるのである。
彼女らが『歎異抄』の言葉を知っていたかどうかはわからない。しかし「信心の行者には天神地祗も敬伏し、魔界外道
も障礙することなし」という言葉はまさにここに集う人々のことであった。
発掘歎異抄89回 大宇宙の中の仏達
(2007年3月号)
・・・錯覚・・・
年が明けてからまもなくのことだが、国立天文台台長の観山正見氏の講演を聴いた。「大宇宙の中の私たち」とい
う題である。広島市中心部の会場で行われたのだが、会場に着くと入り口に大きく演題を書いた看板が立っていた。
入場無料ということも書いてある。立て看板を見たときに、一瞬題があらかじめ案内をもらっていたのと違うように見え
た。「大宇宙の中の仏たち」と見えたのである。もちろん字体がよく似ているための錯覚である。
何でもないことだが、私にとっては錯覚した「大宇宙の中の仏たち」の方もいい題だなと思えた。観山正見氏は実家
が東広島市の真宗のお寺であり、観山氏自身も得度されている。僧侶にして天文学者という珍しい方である。講演
会も主な聴衆は広島の真宗門徒だった。宇宙の話が中心だが、観山氏も聴衆に合わせて仏教の話を織り込まれ
ていた。宇宙や星の話だけならおそらく数え切れないくらいこれまで話されたはずだが、仏教の話も含めての講演
というのはそれほどはないはずだ。
・・・ウルトラマン浄土教?・・・
私が観山氏の話におそらく出てくるだろうと思い、また期待したのは西方浄土のことである。『大無量寿経』には
西方浄土はここを去ること「十万億土」にあると書かれている。その書き方をそのまま受け取れば、この宇宙の彼
方に西方浄土はあることになる。もちろん現代ではその言葉通りに受け取る人は少ないだろう。この世界とは違う
存在であることを果てしない距離という形で表現したのだろうというのが一般的な受け取り方だろう。
しかし例えば人が死んだら星になるとか、どこか遠い星の世界に行ってしまうという素朴な考え方もある。またあ
るいは宇宙人がいて地球人よりはるかに進歩、あるいは進化していてやがて我々の前に現れて、環境問題やエネ
ルギー問題などで行き詰まった人類を導いてくれるのではないかといった期待をする人もいる。私が子どもの頃見
て、また私の子どもも見た「ウルトラマン」は星の彼方の光の国からやってきて、普段は地球人の生活をしている
が、非常時にはウルトラマンに変身して地球人を助けてくれる。ウルトラマンには一種の浄土教があるのかもしれ
ない。
・・・かけてかけてかけて・・・
観山氏の話には聴衆の期待に応えるかのように十万億土も、さらに宇宙人のことも登場した。十万億土の基に
なったと思われるのは仏教で言われる「三千大千世界」の考え方である。これは一つの世界が千集まって小千世
界を作り、それがさらに千集まって中千世界を作り、さらにそれが千集まって大千世界を作り、これが一仏の世界
であるいう考え方だ。これを計算すると、足すのではなく掛け合わせるので、三千ではなく十億世界になる。
この十億の世界がさらに一万集まった世界の彼方が十万億土となる。結局宇宙には数え切れない仏がいてその
世界があり、西方浄土はさらにその先にあることになる。『大無量寿経』の別の箇所では阿弥陀仏が法蔵菩薩の時
に「二百十億」の諸仏の国土を見たということも書かれている。どちらの数字にせよ、大宇宙の中に無数の仏達が
いるのは同じだ。
・・・星の彼方からやって来て・・・
もちろんこの大宇宙の仏達が宇宙人なのかと言うと、私はこの地球で生まれた仏達だけでも数としては可能だが、
さらに他の星の仏を含んでいてもいいと思っている。現在でも地球上には六十億の人がいてみな成仏の可能性が
あるのだから、仏の数はいくら多くてもかまわない。また観山氏の話では宇宙人のいる可能性のある星の探索は
本当に続けられていていつ見つかってもおかしくないそうだ。
私が「十万億土」がいい表現だと思うのは宇宙の話を聞くときと似た、憧れや無限感、どこか悲しさを秘めた独特
の感じをもたらすからだ。それでもそこに行こうと思うとき、そこに何かが起こる。「無礙の一道」はその果てしなさを
行こうとすることであり、またその距離が信心において一気に縮まることを表す。向こうからやってくる何かが私達が
大宇宙の中の仏達であることを教えてくれる。
発掘歎異抄88回 無礙の一道 (2007年2月号)
・・・東西軸と道・・・
昨年二○○六年末まで新聞に連載した「こころの回廊」が五十回で終了した。この旅のイメージの一つが浄土の
回廊である。この旅は下関から始まり、京都で終わるという東西軸をもっている。西方浄土と言われるように浄土は
西にあると言われるので、この旅はその東西軸の上を歩む形になっている。西から東へという向きは浄土からこの
世界へという向きになる。西方浄土という発想はどちらの向きにせよ、このようにある方向の上に一本の道を設定
したもので、浄土がどこにあるかということより、この道の発想が重要だ。
「道」という発想が東洋に特有のものかどうか知らないが、東洋で好まれたことは間違いないだろう。先にこの「道」
という発想があって、そこからこの世界でまず太陽の運行する東西が一つの軸として考えられたのだろう。これは日々
我々が経験しているものであるとともに、さらによく人生を一日に例えるように、人生全体を一つの軸を歩むものとして
もいい。人は常に一つの軸、即ち「道」の上を歩んでいるという感覚である。
・・・旅と道・・・
そしてさらに人はできるだけその「道」が真っ直ぐであるようにと思わないだろうか。あるいは「道」を踏み外したくない
という気持ちが起こるのではなかろうか。このようなことは誰に教えられたわけではなく、ほとんど先天的と言ってもよい
ほど、誰の心にも潜んでいるはずである。その道をはっきりと発見できた人は幸いである。私が連載において東西軸を
出したのもこの「道」の表れである。
その「道」を発見する一つの方法が旅に出ることである。それは日々出会いが起こることにより、何らかの発見がある
かもしれないからである。ともかくまず歩いてみるというのはいいことだ。古人が旅を好んだように、我々も旅に出よう。
あてどのない旅もいいが、もし見つけようとする「道」に何らかの目当てがあるなら、手引き書のようなものがあってもいい。
私の書いた「こころの回廊」は「本願」との出会いを念頭に置いている。
・・・どんでん返し・・・
ところが実はこの連載は全くそれとは逆のことも書いているのである。この旅をしても私の言う「本願」に出会えなかった
人のためになぜ出会えなかったかという理由を示している。それが「今、ここ、私」が仏法だということである。「いつか、どこ
かで、何か、あるいは誰か」と出会うという発想の全く逆がここにある。このどんでん返しに気付くのは探し求めた人である。
自ら探し求めることなくしてこれに気付くことは極めて難しい。
人生を一つの面に例えれば、この面上に無数の点があるように、どこでも出会いは可能である。しかしその一点が見つ
からないときには、そこに一本の線を引き、とりあえずその線の上をある方向に向かって不退転の決意をもって進むので
ある。これが「道」という発想である。その時その道のどこかで出会いは必ず起こる。しかもそれは逆説的で、まるで「道」の
プロセスを否定するかのように「今、ここ、私」という形で起こるのである。
・・・点、線、面・・・
そしてそれこそが、「いつでも、どこでも、誰でも」という普遍性をもつことを知る。はじめから「いつでも、どこでも、誰でも」
という普遍性を求めると、面上をあてどなくさ迷うようなもので出会うことが極めて難しい。学問を知ると学問が客観性を重
んじるためにすぐに普遍性に目がいく。そうすると最も大事な出発点である自分というものを抜かしてしまう。そうして頭
ではわかっているのに、いつまでたっても出会えないことになる。
点と線と面とからなるこの「道」の不思議な性質を知る人を師にもつことは実に幸いだ。『歎異抄』はそれを知る人の言葉
である。第七章の「念仏者は無礙の一道なり」は実にいい言葉だ。これは歩んだ人の言葉であり、そこに起こる困難も迷い
も知り尽くした人の言葉である。一体この道はどこに通じているのか。もしその出会いが全「面」的ならば、もはやどこにも
いく必要はないのである。
・・・釈由美子も?・・・
仏弟子としての自覚を述べてきたが、人が仏弟子の自覚をもつとしたらそれはいつだろう。真宗で言うなら真剣
に聞法を始めた時がそれに当たるだろうか。形の上では帰敬式というものがある。本山に参拝してお髪剃りとい
う頭に剃刀を当ててもらう仏門に入る儀式をし、法名をいただく。その法名は釈の下に二文字の漢字を並べる釈
何々というものだ。釈の字は釈尊の釈であり、法名は仏弟子であることを示す。タレントの釈由美子の名を初めて
聞いた時、素晴らしい名だと感心した。
ある住職から聞いた話だが、門徒の方達と本山に参詣して帰敬式を受けた時に門徒の方が「横超」という法名
をいただかれたそうだ。その名を聞いた住職が驚かれて、いかにそれが素晴らしい名かということを帰りの新幹
線の中で延々と説明したそうだ。私もこの話を聞いて驚いた。横超は真宗のキーワードの一つで、親鸞思想の根
幹をなすと言ってもよい。私が大学院時代に書いた論文のテーマの一つが横超だった。本願、真実、信楽、横
超、自然法爾、これらが真宗の核心にある。
・・・最初の仏弟子・・・
この話を聞いて、もし自分で法名を付けるならどういう名を付けるだろうかと考えた。実はそれに近いことをある
本には書いているが、あまり大きな声で言うのははばかられる。この名乗りに当たるものとして私が素晴らしいと
思うのは老子道の大家だった伊福部隆彦が使った「無為隆彦」である。この名乗りに伊福部隆彦の自覚がよく表
れている。
私にとって伊福部隆彦の「無為」に当たるのは「本願」である。その本願が真実、信楽、横超、自然法爾といった
表れ方をする。それで私は本願の使徒のつもりでこうして書き続けている。本願を説いたのは『無量寿経』だが、
本願が『無量寿経』で語られる時は阿弥陀仏は成仏する前の法蔵菩薩である。その法蔵菩薩の誓願が四十八願
として語られる。この時の法蔵菩薩は世自在王仏の弟子であり、四十八願は仏弟子の願いである。浄土教にとっ
て法蔵菩薩は最初の仏弟子である。では最後の仏弟子というものがあるだろうか。
・・・『異国の丘』・・・
二○○六年の秋に劇団四季の『異国の丘』を見た。この題名を聞いて年配の方ならすぐに『異国の丘』の歌のメ
ロディーが口をついて出るだろう。昭和史の暗部と言ってもよい「シベリア抑留」を題材にしたミュージカルである。
もちろん歌の『異国の丘』もその中で歌われる。主人公はシベリア抑留の最後の帰国者になるはずで、その帰国
の日に収容所で亡くなった近衛秀隆。第二次大戦時の首相だった近衛文麿の息子である近衛文隆がモデルで、
史実を基にしたフィクションである。
秀隆はアメリカ留学時代に蒋介石につながる愛齢という女性と恋に落ちる。二人はその後上海で再会し、泥沼
化した日中戦争の和平工作を担う。しかし愛齢は仲間の裏切りにより秀隆の胸に抱かれて亡くなる。軍部ににら
まれた秀隆は召集され、敗戦によりシベリアに送られる。舞台はそのシベリア時代と秀隆と愛齢の物語を交差さ
せながら進んでいく。
・・・留まる人・・・
敵国の国民同士でありながら愛し合い、和平のために命を投げ出した二人の願いと誓いがこの物語を支える。
秀隆は最後までこの願いを生きようとし、ソ連の要求を飲めば帰国させるという仕打ちに耐え続け、最後の一人と
して酷寒の地に果てる。またいったんはソ連の手先となる友人の神田も秀隆に殉じる。
秀隆と愛齢の願いと誓いは法蔵菩薩の誓願を思わせる。私にとって本願は経典に説かれる前からの存在の根
本願であり、そこには平和の願いが入っている。平和の使徒である二人は本願の使徒であり、仏弟子と言っても
いい。愛齢を失っても秀隆は愛齢との願いに生きていた。今度は自分が助かることよりも同胞を励まし希望を与
え、早く本国に帰すのが彼の願いだった。まるでそれは全ての人を彼岸に渡すまでこの世界に留まり続ける最後
の法蔵菩薩のようだ。法蔵菩薩こそ最初で最後の仏弟子である。そしてそれは私達である。
・・・同じ年に生まれ・・・
明恵は『摧邪輪』を書いて法然を批判した。親鸞はその弟子なので法然が批判されれば自分も批判されたのも
同然である。しかし親鸞と明恵を比較するとその歩みは浄土門と聖道門に分かれて相関し合っているように見え
る。明恵は法然のことは知っていても親鸞のことは知らなかっただろう。親鸞は当時はほとんど無名といってもよ
い存在で、法然門下の人々に知られているに過ぎなかったようだ。しかし明恵は誰もが知る高僧だった。
親鸞と明恵は承安三年(一一七三年)の同年生まれである。親鸞は京都で藤原氏の一族である日野家に生ま
れ、明恵は紀伊で平氏の一族の子として生まれた。明恵はそのまま育ててば武士になったはずである。しかし幼
児期より出家の志が堅く、九歳で京都の洛北の山中にある神護寺に入った。親鸞も九歳で出家している。二人は
同じ年に仏門に入った。
・・・南都と北嶺・・・
当時の仏教の中心は南都奈良の興福寺、東大寺と、北嶺の比叡山である。明恵の入った神護寺は真言密教
の寺だが、やがてその活動の中心は神護寺に近い栂尾の高山寺になる。明恵は密教も修めたが、中心としたの
は『華厳経』による華厳宗だった。その本山は東大寺であり、明恵は東大寺でも講義をしている。
親鸞は比叡山で天台教学と天台の浄土教を学び、天台の密教である台密も学んだはずだ。しかし親鸞は密教
には興味がなかっただろう。それは何よりも自分の救いが中心だったからだ。彼の救い主は阿弥陀仏であり、阿
弥陀仏と自分の関係が関心の的だったはずだ。
・・・釈尊と阿弥陀仏・・・
明恵の密教はかなりのレベルだったはずで、彼が貴顕の帰依を得たのは彼の法力を期待した部分が大きかっ
たと思われる。実際に明恵には超能力的な不思議な話が多い。しかし明恵自身はそこにほとんど重きを置かな
かった。彼の関心の中心はあくまで釈尊だった。釈尊に逢いたいという思いの強さはインド渡航を計画し実行寸
前までいったことによく表れている。それは親鸞が阿弥陀仏を慕い、西方浄土に往きたいと思ったこととよく似て
いる。釈尊の浄土は無勝国と呼ばれるが、明恵は死後にそこに往くよりまずこの世で少しでも釈尊の近くに行き
たいと思ったのである。
親鸞の行は念仏だが、それを支えていたのは阿弥陀仏を慕い、阿弥陀仏に逢いたいという思いだっただろう。
阿弥陀仏の仏弟子としての意識が「親鸞は弟子一人ももたず」という言葉によく表れている。明恵の行は座禅で
ある。釈尊もした座禅をすることが彼にとっては釈尊に近づく道だった。明恵を支えていたのも釈尊の仏弟子とし
ての自覚だった。明恵が浄土教を批判したのは基本的には浄土教が阿弥陀仏を救い主として仰ぎ、釈尊を従の
立場においたのが大きな理由だろう。ただし釈尊を従に置くのは密教も華厳宗も同じで、その中心は密教では大
日如来、華厳では毘廬遮那仏である。大日如来と毘廬遮那仏は原語が同じで、釈尊の悟りの本体と解釈された
ので明恵にとっては問題なかったのだろう。
・・・悟りと救い・・・
さらに浄土教の場合は基本にあるのが悟りを求める心情よりも阿弥陀仏を慕う心情であるために、悟りが仏教
の中心と考える人にとっては違和感があったのだろう。明恵は法然が悟りを求める菩提心を軽視したことを批判
している。そこには覚醒原理中心の仏教対救済原理中心の仏教という面がある。確かに仏教の出発点は釈尊の
悟りであり、覚醒原理が中心である。しかし大乗仏教になると仏の衆生への働きかけが重視され、救済原理が仏
教の中に含まれた。そこに浄土教が生まれた。
しかし明恵にも救済原理的な仏教がある。それは彼が釈尊とともに仏眼仏母という母性的な仏を慕い、これを
念じていたことだ。明恵は釈迦が父、仏眼仏母が母だと言っているが、仏母信仰は浄土教の母性的な阿弥陀仏
信仰とよく似ている。父性的なものと母性的なもののどちらを中心とするかの違いはあっても補い合う構造がそこ
にある。さらにその関係は明恵と親鸞の関係とよく対応している。
・・・大仏と磨崖仏・・・
大仏と聞いて誰もが思い浮かべるのは奈良の大仏と鎌倉の大仏だろう。これらは立体として鋳造された大仏だ
が、他にも磨崖仏と言われる天然の岩盤に刻み込まれた大仏がある。日本では大分県の国東半島や臼杵にあ
る磨崖仏が有名だが、京都の南、奈良との県境に近い笠置山の笠置寺にも磨崖仏がある。これらの磨崖仏はお
そらく古代信仰の岩盤(いわくら)の上に彫られたのだろうと思う。自然崇拝と仏教崇拝が一体化したものだ。
大分の磨崖仏も見たことがあるが、今年の春に私は笠置寺を訪れてその巨岩の上に彫られた磨崖仏を見た。
戦乱に巻き込まれて岩肌が焼けてしまい、不鮮明になったものもあるが、虚空蔵菩薩を彫ったものは比較的保存
状態がいい。しかしこの巨岩に仏像を彫るとなると、足場が必要である。この険しい山の中にどのようにして足場
を組み、磨崖仏を彫ったのか。大変な作業だったに違いない。
・・・貞慶と明恵・・・
笠置寺は平安末に笠置の貞慶がいたことで有名だ。貞慶は明恵と並ぶ、この時代の旧仏教の代表者の一人で
ある。明恵は法然の専修念仏を批判する『摧邪輪』を書いたことで知られるが、貞慶も同じく法然を批判する『興
福寺奏状』を書いたことで知られる。いずれにせよ、私のように浄土教に親しみ、法然、親鸞の跡を追おうとしてき
た者にとっては、反対陣営に当たるのだが、私は彼らにはあまり反発を感じない。明恵は親鸞と同年に生まれ二
人の歩みは聖道門と浄土門に分かれたが、補い合うようなところがあり、むしろそこに一つの計画があったように
感じられる。
明恵と貞慶は尊敬し合っていた。明恵のいた洛北山中の栂尾の高山寺には行ったことがあるが、貞慶がいた
笠置には行ったことがなかったので今年の春に訪れた。笠置山は天然の要害と呼ばれる険しい山である。ここに
こもって修行した人から見れば、確かに法然の説く専修念仏はあまりにたやす過ぎて、仏教として認め難かった
のも理解できる。
・・・奈良と鎌倉の大仏・・・
法然は比叡山を下り、親鸞もまた比叡山を下りた。ここに山に象徴される厳しい修行を積む仏教とは違う仏教
が開かれた。しかし民衆への布教という点ではすでに先駆者がいた。奈良時代の行基や平安時代の空也であ
る。行基は聖武天皇の依頼で東大寺の大仏造営の勧進を務めた。奈良の大仏は華厳経に説かれる毘廬遮那
(びるしゃな)仏である。明恵は華厳宗の僧で東大寺でも講義しているが、その教えを民衆に伝えるのは困難だっ
たはずだ。しかし大仏なら教義はわからなくても人々は仏とはこういうものかとわかるだろう。
鎌倉の大仏は阿弥陀仏であり、大仏のある高徳院は法然の開いた浄土宗の寺だ。この夏に久しぶりにその姿
を拝したが、その存在感は侮れないものがあると思った。奈良の大仏よりは鎌倉の大仏は少し小さいがここには
大仏を覆う建物がないので大仏の背景はそのまま空である。じっとその姿を見ていると時折青空を白雲がよぎ
り、すると大仏が動いてこちらに迫ってくるように見える。空は音読みすればクウであり、これが大乗仏教の根本
精神だ。阿弥陀仏は無礙光如来ともいう太陽神的な無限の光の仏である。この大仏にも元は大仏殿があったそ
うだが倒壊し、大仏だけが露天で残ったという。こうして自然崇拝と仏教崇拝が磨崖仏以上に期せずして融合し
た。
・・・向き合い見つめられ・・・
そして何よりもじっと仏を見ていると仏と自分が一対一で向き合っているように感じられてくる。どういう加減か、
大仏の前をいろいろ動いても、どこにいてもその眼差しはこちらを見つめ、自分だけを見つめているように見え
る。その眼差しから逃げられないのだ。
この大仏は不思議なことにいつ誰がどのようにして作ったのかわからないそうだ。奈良の大仏とはその点でも違
う。しかしそこにこそ浄土教の力があるのだろう。親鸞が「弟子一人ももたず」と言ったのは誰もが阿弥陀仏の弟
子だからだが、人々はこの大仏を見上げながらそのことを実感してきたに違いない。
発掘歎異抄84回 二つの太陽
(2006年10月号)
・・・今会いに行きます・・・
この夏に富士、箱根、鎌倉、横浜、東京と巡った。東京では汐留の日本テレビを訪れるのが一つの目的だっ
た。そこにこの夏、岡本太郎の壁画「明日の神話」の実物が展示されていた。この作品については先に広島で原
画と実物大の複製を見た。その体験が強烈だったので、そのことをこの連載に書いた。
さらにこの夏、「神話の回廊」という原稿にそのことをあらためて書いた。これは我々にとって神話がもつ意味を
述べたもので、古代インド、古代日本の神話と並んで、現代日本の神話の例として「明日の神話」をりあげた。神
話とは古代の、事実かどうかわからないことを語るものだというのが一般的なイメージだろう。しかしこの作品はそ
の通念をあざ笑うかのように、現代の事実を神話化する。
・・・夢で会いましょう・・・
作品を見る日の、おそらくは明け方だろうが、岡本太郎と会う夢を見た。自分から私に近づいてきて、岡本太郎
ですと挨拶された。意外というか謙虚な感じで、大芸術家という気負った感じは全くなかった。しかも自分の作品の
絵はがきを私に渡された。ありがたく頂戴し、ついでにサインをお願いしたところ、こころよくサインしてしてもらっ
た。それがあの見慣れたローマ字のサインだった。
そのサインに見とれたのはよく覚えているのだが、その絵はがきになっていた絵が何なのかどうも思い出せな
い。私が岡本太郎の夢を見たのは初めてだった。これまで何度も岡本太郎のことを書いてきたが、夢に見た記憶
はない。旅行前には「神話の回廊」を書き終え、壁画の実物を見る日だったので、その前にいい夢を見せてもらっ
たものだと思った。
・・・昼下がりの寵児・・・
会場には午後から行ったが、かなりの人出だった。故人にもかかわらず、岡本太郎の写真がいたるところにあ
り、まるで時代の寵児のようだ。ビルの前を掘り下げた地下に「明日の神話」が展示されていた。地下とはいえ、
風雨がかかる。壁画の上には雨よけのひさしがある。横三十メートル、縦五・五メートルの壁画が、一面に展開し
ている。しばらくその前に立ち、それから写真を撮った。美術館と違い写真が撮れる。「太陽の塔」も屋外に設置さ
れ写真は撮り放題だ。岡本太郎の作品には著作権はいらないと思う。彼の芸術はもはや個人のものとは言えな
い。この作品もホテルのロビーに置かれる予定だったので、そうなればその前でみんな写真をどんどん撮ったは
ずだ。これが本当の公開だと思った。
さて作品の印象だが、どいうわけか複製の時ほど感じるものがなかったのだ。岡本太郎と夢で会った印象の方
が強かったせいかもしれない。しばらくして印象の違いは作品が暗く見えるせいではないかと思った。当日は小雨
が降ったりやんだりの天気だった。さらに地下の屋外でひさしもあるため、作品が暗く見え、あの迫ってくる感じが
あまりないのだ。
・・・太陽の季節・・・
ビルを見学後、再び作品の前に戻り、椅子に座って三十分ほど見ていた。そうするとあの「白骨の太陽」の一部
が突然輝き始めた。一瞬目の錯覚かと思ったが、そうではなかった。絵の一角に地上から日光が差し込み始め、
その中で最も輝くのが白骨だったのだ。その輝きは自ら光を発する一つの生命体だった。『阿弥陀経』に浄土の
色の一つとして「白色白光」とあるが、まさにその色だった。作品はホテルのロビーに置かれる予定だったそうだ
が、彼の頭の中では「太陽の塔」と同じく、屋外でメキシコのまぶしい太陽の光を思う存分に浴びてこの白骨の太
陽が輝いていたに違いない。この作品をそういうふうに展示するのは不可能だろう。太陽の季節に二つの太陽が
出会う瞬間に立ち会えたことに感謝した。
岡本太郎は弟子をもたなかったそうだが、親鸞も『歎異抄』第六章で「親鸞は弟子一人ももたずさふらう」と言う。
彼らは自分の周りを回る月を求めてはいなかった。親鸞は「無礙光如来」という真実の太陽の光を、その永遠の
命を一人ひとりが直にいただき、自ら輝くことを求めた。人はみな地上の太陽なのだ。
・・・盂蘭盆会と施餓鬼・・・
この七月の中旬のある日曜日に広島の原爆ドーム前にある浄土宗の寺に招かれた。施餓鬼の日に話をして
ほしいとのことだった。施餓鬼と聞いて懐かしい思いがした。私が大学時代の友人に浄土宗の寺の長男がい
た。東京の中心部にある大きな寺で、父君が大正大学で仏教学の先生をされていた。大学が夏休みに入る前に
彼の寺では施餓鬼の法要をするので、とても忙しいと言っていた。施餓鬼とは普通には盂蘭盆会で行われるも
のである。
盂蘭盆会は釈尊の弟子である目蓮尊者が餓鬼道に落ちてしまった母親に食べ物を供養して苦しみから救った
という説話に基く、先祖供養の行事である。従って施餓鬼と盂蘭盆会は一体とも言える。実際に真宗以外ではそ
うである。私は浄土宗も真宗も同じ浄土教で、親鸞は法然の弟子だったので、盂蘭盆会も同じようなものだと思
っていた。真宗ではしない施餓鬼を浄土宗ではするのをその時に知った。それから広島ではお盆は旧盆の8月
15日ごろが普通なのだが、東京では7月15日ごろが普通なのだと知った。今回浄土宗のお寺からお招きいた
だき懐かしく思ったのはこの大学時代のことを思い出したからだ。
・・・卒塔婆の列・・・
話の題は「法然上人と親鸞」というもので、法然上人の仏道に入られたきっかけと、親鸞との出会い、そして二
人の結びつきを話す予定だった。寺に着いて本堂で見たものは仏像をぐるりと取り囲むおびただしい数の白木
の卒塔婆の列だった。その一本一本に供養者の名と施主の名が書かれている。これは書くだけでも大変だろう
と思った。実際一ヶ月近くかけて用意するそうである。法要の終わり近くで住職はその一本一本を供養をして回
る。
このおびただしい数の卒塔婆を見て思い出したのは、前回書いた高千穂で見た天の安河原での無名の石積
みの光景である。卒塔婆には名前は書かれているが、離れているとそれは判読できない。ただこの寺の檀家の
新旧の御先祖がずらりと並んでいる感じである。
・・・「耳の底」・・・
私はこの卒塔婆を見ると親鸞の言葉「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」を思い出すと述べた。
親鸞の文脈では先祖を救うのは自分の念仏ではなく如来であり、そのためにはまず自分が浄土に往生して如来
と同体の仏になることが必要である。その成仏のための念仏が「浄土の慈悲」につながる。成仏しようとする「願
作仏心」は衆生を救おうとする「度衆生心」である。まず自分が浄土往生することが念仏本来のあり方である。
それは法然の歩みと重なる。法然は美作の豪族の武士の子として生まれた。法然の幼名を勢至丸と言うが、
父は押領使という今で言えば警察署長のような立場にあった。ところがある日、対立していた武士から突如夜討
ちを受け、法然の目の前で息絶える。その時父は仇討ちを戒め、我が菩提を弔い、自らは解脱を求めよと遺言
した。この言葉が生涯法然の「耳の底」にとどまっていたという。わずか九歳の時のことである。そして美作で叔
父のいた菩提寺で仏門に入った。永治元年一一四一年のことである。奇しくもこれが古来革命が起きると言わ
れた辛酉の年なのである。
・・・五千巻を六字に・・・
やがて少年は故郷を離れ比叡山に登る。法然が求めたのは自らも解脱し、また父のような凡夫も解脱できる
道だった。法然はその凡夫成仏の道を求めて一切経を五返も読み返したという。一切経は五千余巻ある。一度
読むだけでも大変だ。比叡山でも五回も読んだのは法然ぐらいのものだろう。そしてついに『観無量寿経』の注
釈書である善導の『観経疏』の「一心専念弥陀名号」の一節と出会って専修念仏の道を開いた。四十三歳の時
である。
五千巻の一切経を、八万四千の法門を、「南無阿弥陀仏」のわずか六字の名号におさめとったのである。なぜ
それが可能なのか。それは念仏すれば往生し成仏するからである。法然はその確信を得た。これはまさに革命
的仏教の幕開けだった。そして次の辛酉、建永元年一二○一年に親鸞が法然に入門する。
・・・太陽神話・・・
岡本太郎は太陽神話をもっていた芸術家だと思う。その壁画『明日の神話』はメキシコのホテルに飾られる予
定だった。作品には日本や中南米の太陽神話が反映しているのかもしれない。壁画は完成したもののホテルが
完成せず、壁画は倉庫に保管されたままになっていた。それが最近発見され日本に里帰りした。ようやく「日の
目」を見ることになり、「白骨の太陽」は人々の前にその燃え上がる姿を現した。姿を隠していた太陽が、人々の
熱意により再び姿を現すその経緯は、日本の天の岩戸隠れの神話を思わせるものがある。
今年のゴールデンウィークに私は久しぶりに宮崎県高千穂町を訪れた。ここは出雲と並ぶ神話のふるさとであ
る。以前訪れた時とはルートを変えて、熊本市から阿蘇山の南を回って高千穂に行く道を通ったが、思いのほか
早く着いて駐車場に入ることができた。
・・・みそぎ・・・
高千穂峡は五ヶ瀬川が阿蘇の溶岩台地を浸食してできたものだそうで、細い川幅のまま断崖が深く切り込ま
れている。場所によっては飛び越えられそうなところがあるが、失敗したなら命の保障はない。柱状節理というの
だろうか、絶壁には一定の方向に線が走り、見事な造形をなしている。古代人はこういうところにも神の力を感じ
たのだろう。
新緑の峡谷は歩くだけでも心地よいが、ボートに乗って遊覧すると真名井の滝の真下まで行ける。連休中だっ
たが、ちょうど人の切れ目で待つことなく乗ることができた。子どもにボートを漕がせたのだがこれが怪しい。学
校のカッター研修で漕いだというが、カッターはオール一本、ボートは二本である。迷走しながら滝に近づいた
が、近づきすぎて水しぶきを浴びてしまった。とんだみそぎとなってしまったが、若葉を透かす日の輝きに見とれ
ているうちにいつしか服も乾いていた。
・・・岩戸と岩屋・・・
天の岩戸伝説の残る天岩戸神社は、高千穂峡と同じく高千穂町内だが、岩戸川に臨んでいる。神社の社殿が
あるのは川の西側でそちらから東の岸にあるアマテラスがこもったという岩戸を拝む形になっている。これがご
神だ。そこは禁足地で入ることはできないし、撮影禁止である。神社から対岸のさほど大きくはない洞窟の入り
口を拝する。この東西の設定は太陽神話の場にふさわしいと思う。
川をさかのぼったところに、世の中が暗闇になり、心配した神々が集って対策を練ったという天の安河原という
ところがある。こちらは河原の岩が川の流れによってえぐられたらしい岩屋で、わりと広く開けている。この岩屋
の中に小さな社があるのだが、目に入るのはそれよりもこの岩屋を埋め尽くす石積みである。いわゆる賽の河
原の状態である。数個の小石を積み上げただけのものだがそれが所狭しと並んでいる。ふと見ると周りの人た
ちが黙々と石を積んでいる。観光客のはずなのにそれを忘れたかのようだ。誰に教えられたわけでもなく、何百
年も、何千年もここでは同じことが繰り返されてきたに違いない。
・・・無名の石積み・・・
林立するこの無名の石積みは『歎異抄』第五章の「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」という言
葉を理屈抜きに教えてくれる。神社の境内に徴古館という考古学資料や民俗資料を展示した施設があるが、そ
れによれば石器時代からここには人が住んでいたそうだ。石器人が石積みをすることはないだろうが、彼らが使
った石もこの河原の石に混じっているかもしれない。またこの岩屋に彼らが住んでいたことがあるかもしれない。
旅行後に気づいたが、そこで撮った写真に岩屋の中空に割と大きな白い渦のような円光が写っていた。まるで
岡本太郎の「明日の神話」のようだ。ほぼ同じ角度で撮った次のコマにはそれは写っていないし逆光でもない。さ
らに、天岩戸神社の社殿の前で撮った写真では「天磐戸」の社額がすっぽりと薄く白い円光に包まれていた。こ
こには目には見えない何かがあり、古代人にはそれが見えたのだろうか。神話は過去のものとは限らない。
・・・「白骨の御文」・・・
真宗でよく読まれる「白骨の御文(御文章)」というものがある。本願寺第八世の蓮如が書いた『御文(御文章)』
の中でも特に有名なものである。「朝(あした)には紅顔あって夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり」という一節に
聞き覚えのある人は多いだろう。親族が亡くなり、火葬に付した経験のある人なら、さらに「さてしもあるべき事な
らねばとて、野外におくって、夜半のけむりとなしはてぬれば、たゞ白骨のみぞのこれり」という一節を身にしみて
実感するだろう。
私はこの冬に母方の伯母を亡くし蓮如の言う経験をした。伯母は広島での被爆者である。伯母の骨を見ると、
爆心地近くで亡くなったという伯母の姉のことも思う。私はその人とは面識はないが、話に何度も聞いた。その骨
はとうとう見つからなかったという。伯母の骨を見ると二人の被爆者の骨が並んでいるように見える。被爆者の骨
はぼろぼろになるという話を聞いたことがあるが、本当だろうか。彼らは身を燃やし骨を燃やしてまで訴えること
があるのではなかろうか。被爆者である私の母もいつかはこういう形になるのだろう。
・・・骨の表すもの・・・
骨を見ての感慨は人さまざまだろうが、まずは蓮如の言うように骨は「無常」の象徴だろう。「紅顔」が「白骨」と
なるのだから、この変化はあまりにも大きい。人間における変化では最大のものだろう。「白骨の御文」は自分の
親や親族だけではなくやがてその変化が自分自身に起きることを早く自覚し、仏法聴聞に励むことを勧めるもの
である。「白骨の御文」は「たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて念
仏もうすべきものなり」と結ばれる。
しかし「白骨」は無常を象徴するものであるとともに一方で永遠をも象徴している。その人に直接つながる唯一
のものとして残されるのである。これが最も極端に表れたのが仏教における「仏舎利」崇拝である。無常を説い
た釈尊の骨が、釈尊の教え、あるいはその仏性の永遠性を象徴するものとして崇拝される。広島にも白く輝く立
派な仏舎利塔がある。これは教理的には矛盾かもしれないが、骨が物体ではなく、神話的存在となっている。
・・・「明日の神話」・・・
この五月に私は岡本太郎の壁画「明日の神話」の展覧会を見た。メキシコにあった壁画の実物は現在修復中
なので、会場にあったのはその壁画を作るための規模を縮小した原画と、実物大の複製である。私はなぜか岡
本太郎に非常に触発されるものを感じるので、原画を見るだけでもいいと思い、出かけた。
原画は私の印象では平面から抜け出せていないようだった。岡本太郎の魅力は二次元では表現しきれず立体
作品の方がいいように思う。原画にはその限界を感じた。ところが部屋を代え壁画の複製を見たとたんに印象
は一変した。三次元どころか題名通り時間を含めた四次元、さらにそれを越えて向かってきた。
・・・「尽十方無碍光」・・・
横三十メートル、縦約六メートルの作品の中心にあるのは白骨の太陽だ。この作品は広島・長崎の被爆とビキ
ニ環礁での水爆実験で被爆した第五福竜丸をテーマとしたものだ。その被爆者が骸骨となり、火の海の上をこち
らに向かって飛び越えてくる。しかもその骸骨は赤い火を付けられたのを逆手にとり、自ら十本余りの白骨を光
芒として吹き出しながら燃える白い太陽となって輝く。その白い光はますます輝きを増し、過去から未来に向かっ
て飛翔する。被爆者は自らを燃やして「尽十方無碍光」となり、強烈な命のメッセージを発し我々を飲み込もうと
する。その骨はもはや仏舎利であり、永遠に輝く神話となる。
私は圧倒されて立ち尽くした。被爆者である伯母もその姉もそしてやがて私の母もこの白骨の太陽の中で輝く
のだ。被爆者は供養されるようなものではない。親鸞の『歎異抄』第五章の言い方に倣えば、一切の被爆者は我
等の父母兄弟である。いずれもこの「尽十方無碍光」に救い取られ自らも輝く。その輝きは核兵器などという偽
物の太陽を吹き飛ばす。
発掘歎異抄80 浄土の感謝 (2006年6月号)
・・・墓と宗教・・・
人はなぜ墓を建てるのか。これはなかなか難しい問いである。墓が宗教的なものであることは誰も疑わない
だろうが、しかし宗教そのものではない。おそらく宗教の発生に大きく関係しているが、宗教がはっきりと確立し
てくると次第に中心からはずれてきて周辺に位置付けられる。しかし完全にはずれてしまうことは少ない。周辺
にはあるのだが、教えそのものは難しくて近付き難いという人にとってはむしろ周辺にある墓の方が宗教と自
分の接点になる。葬儀や先祖供養も墓と結びついて同様の役割を果たしているのだろう。
以前に山口県の土井ケ浜遺跡について書いたことがある。弥生人の遺跡だが大量の人骨が浜辺の丘から
出土し、その頭がそろって海のある西に向かって葬られていた。それは夕日に向かって葬られているように
も、また渡来系弥生人と言われる彼らの故郷に向かって葬られているようにも見えた。私はそこに宗教的なも
のの発生を感じた。彼らの墓地のあり方が彼らの宗教を感じさせたのである。
・・・墓ない世の中・・・
この春も私はお彼岸に父母の実家の墓に参り、また妻の実家にも行き、その墓にも参った。お彼岸は元来
は春分と秋分という太陽の運行の節目と結びついた民俗的な行事だったと思われる。彼岸という言葉は仏教
では悟りの世界や浄土を意味する。春分と秋分には太陽が真西に沈むので西方浄土への浄土信仰と民俗行
事が結びついて平安時代に彼岸会になったと言われる。日本仏教特有の行事である。
墓は宗教の中心にはないが、宗教とのわずかな接点だった墓が、さらに宗教が全く意識されなくなると墓も
忘れられたり、墓も建てないということになる。さらには親の葬式もしない、親の骨さえも受け取らないという人
々が最近はいるそうである。老人ホームではそういうことが起こっているという。個人というものを突きつめてい
くとこういう意識を持つ人も出るのだろう。それを聞くと墓を建て故人を偲ぶ方がはるかにまともに思える。
・・・親とともに・・・
この春はお彼岸の後で私は両親とともに京都と奈良に旅行した。両親がそれぞれ喜寿と古希を迎え、その
祝いも兼ねての旅行である。また今年が父方の祖父の年忌法要の年なので、西本願寺と祖父の骨が納めら
れている東山の大谷本廟にもお参りした。本願寺は京都の駅前にあるので京都に行けば必ずといっていいほ
ど目に入る。その大伽藍のうち、御影堂は現在修復中だったが、親鸞の御影は阿弥陀堂に移され、そこで拝
することができた。
本願寺や大谷本廟にお参りする人の中には先祖供養を兼ねてお参りする人もいるだろう。しかしその人達
が如来ととともに拝する親鸞その人は『歎異抄』第五章に「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏ま
ふしたることいまだそふらはず。」と言う人である。それは「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟」だか
らである。父母は一切衆生の中に解消されている。これは第四章で述べた「浄土の慈悲」の立場から述べたも
のだ。
・・・育て・・・
親を特別扱いしない態度は親不孝のように見えるが、何よりも本当の親は如来である。このまことの親に尽
くすことこそが真の親孝行である。しかしまた、まことの親の育てにあずかってきたことを知れば知るほど、こ
の世で育てにあずかった仮の親である父母は如来の代理としてそのありがたさがしみじみと思い知られる。こ
れが真宗信者の実感だろう。
まことの親に向けられた感謝の念は一切のものにも向けられる。それはまことの感謝には指向性や辺際が
なくなるからである。これは無辺の大悲と言われる慈悲と同様である。「浄土の慈悲」とともに言わば「浄土の
感謝」があり、そこには自分をはぐくみ育てた一切のものへの感謝がある。先祖も宗祖も一切有情の先祖と言
うべき御親である如来の中に包摂されるものだろう。御影堂が修復中のために、阿弥陀堂で如来と宗祖を並
べ拝することになったが、一座にして「浄土の慈悲」と「浄土の感謝」を味わう一日だった。
発掘歎異抄79 「すゑとをりたる」もの(2006年5月号)
・・・雪の通夜・・・
『歎異抄』第四章の結びの言葉「念仏まふすのみぞ、すゑとをりたる大慈悲心にてさふらうべき」は深く心に残る
言葉だ。「すゑとをりたる」は終始一貫したということだろう。この「すゑとをりたる」ものは慈悲に限らず、宗教の
基本精神と言っていい。それは無常のこの世にあってそれを越えて一貫するものだからだ。この世の変化の中に
あると、どうしても目先のものに目が向いてしまう。そして少し先が見えるようになると、もうそれで物事がわかった
ような気になるが、それによりかえって最後にくるものが見えなくなる。しかし無常は手綱を緩めてはくれない。
この冬は寒さが厳しかったせいか私は周囲で実に多くの人の訃報に接した。気候のいい時の葬式は少ないも
のだというのがわかってくる歳なので覚悟はついているが、それでも寒いものは寒い。私の友人の母親が亡くなっ
た時、仕事を早めに終えて通夜に駆けつけたが、もうその時間には雪が降り始めていた。寺の境内に建てられた
テント席でストーブの近くにいたが、突然電源のブレーカーが落ちるというハプニングがあり、なかなか通夜が始
まらない。結局ストーブは切れたまままで通夜は始まった。私も『正信偈』に唱和したがその言葉が寒さとともに骨
身に徹った。
・・・「眞實」・・・
『正信偈』は元来は親鸞の『教行信証』の中にあった偈文を独立させたものだ。『教行信証』の正式名は『顕浄
土真実教行証文類』という。この題字はできれば旧字体で見るといい。旧字で「真実」は「眞實」となる。この「實」
の字は中に「貫」の字が入っている。親鸞は「眞實」を好んで使った人で、彼独特の真実観があった。その「眞實」
を理解できれば親鸞がわかると言ってもいいほどだ。
彼にとって真実とは一貫したものであったことは間違いない。それはこの世の無常を越えて世界を「貫く」ものな
のだ。骨身に徹る寒さの中でそれ以上の強さで突き徹すような真実の言葉が境内に響き渡っていた。降りしきる
雪は浄土の荘厳を表すかのようだった。
・・・最期の言葉・・・
通夜の席で初めて知ったのだが、友人のお母さんは十万人に数人しか罹らないという難病だったそうだ。入院
しても治療法がないので、ひすら家で痛みに耐えた療養生活だったという。私は子ども時代に友人のところに遊
びに行っていたので、そのお母さんをよく知っている。二三年前にも久しぶりに友人に会った際にお母さんとも懐
かしく昔話をさせてもらった。私は子どものころからそのお母さんを上品な美しい人だと思っていたが、その印象
は数十年たっても変わらなかった。
通夜の後、私は友人と話し込み、お母さんの顔を拝ませていただいた。それは思った通りの安らかな美しい姿
だった。とても難病に苦しんだ人には見えない。友人によると亡くなる前お母さんは「私は幸せだった」と言われた
という。私はそのお母さんが大変な苦労をした人だということを友人からも、またお母さん自身の口からも聞いて
いた。戦争中に満州にいて満州から最後に引き揚げた人なのだ。しかも戦後また海外で開拓者に交じり慣れな
い農作業をしながら布教するという苦労を重ねた人である。そして最後が難病である。
・・・骨身にしみて・・・
実は友人のお母さんはその寺の坊守を務められた方なのだ。だから「私は幸せだった」という言葉を聞いた時、
すぐに私は納得するものがあった。それは苦難の中で念仏し続けた人にして初めて言える言葉なのだ。「念仏ま
ふすのみぞ、すゑとをりたる幸いにてさふらうべき」と言い換えればいいだろう。この世界を越えて一貫したものを
もてたことが、死を越えさせ、またこの人生をすべてよきものとして受け取る心境を生んだのだと思う。
この「すゑとをりたる」ものが浄土教を生み、今も念仏者を動かし続けているものである。私が境内を去る時に
はあたりはすっかり雪景色になっていた。骨身に徹る寒さとともに、この身とこの世界に「すゑとをりたる」ものを
骨身にしみて実感した夜だった。
発掘歎異抄78 憶良の「ALWAYS」 (2006年4月号)
・・・歌のはじめに・・・
日本人が『万葉集』の歌人で初めに名前を知るのは山上憶良ではないかと思う。なぜなら国語の時間に『万葉
集』を習うより先に社会科や歴史の時間に憶良の歌を習うからである。「貧窮問答歌」や「子等を思う歌」をそのよ
うにして習ったという人は多いのではないだろうか。例えば「銀も金も玉も何せむに優れる宝子にしかめやも」とい
う歌。金銀財宝は子宝には及ばない、子宝が一番の宝だという歌だが、聞けば思い出されるはずだ。
この歌は名作というわけではないが、日本人の心にいつまでも残る歌だろう。しかし国語の時間に『万葉集』や
『古今集』、『新古今集』あるいは『百人一首』の歌を習うと、山上憶良の歌がそれらの歌と相当違ったものだとい
うことがわかるはずだ。憶良は『万葉集』の歌人の中でも異色の歌人と言われる。その理由の一つとして彼が帰
化人だったからだという説もある。山上憶良は遣唐使の一員として唐に渡っているが、確かに彼の教養は当時の
最先端をいくものだった。漢文が彼の教養の中心にあったことは間違いない。
・・・海を越えて・・・
その漢文の教養の中でも儒教と仏教をかなり深く自分のものとしており、さらに彼はそれを歌うことができた。彼
はその教養を自分の体験をふまえて彼なりのものにするという形をとっている。単なる知識や身を飾るものとして
満足しているのではない。この教養は彼が遣唐使に加わったり、役人として出世して国司になるのに役立ったこと
は間違いないが、彼にはそれを誇るそぶりはない。
むしろ儒教や仏教を知ることにより、人生を見つめる目がいっそう深いものになり、それによりむしろ彼の苦し
みは深まったのではないかと思えてくる。「貧窮問答歌」は当時の庶民の現実を知る資料として社会科や歴史の
時間に習うのだが、憶良以外の当時の国司は無視したはずのことである。しかし儒教の仁徳や徳治政治を知る
人間愛の人である憶良としてはその理想からかけ離れた現実の庶民の姿は決して無視できないものだった。
・・・我が子のように・・・
では仏教は彼の苦しみを救ってくれるかというと、それもそのまますぐにとはいかなかった。当時の学問仏教や
出家仏教にすぐに入れないものが彼の中にあったからである。それが儒教の仁愛と結びついた彼の人間愛であ
り、特に先の歌に見られるような家族や子どもへの愛である。一般に仏教ではそのような愛は執着として悟りの
妨げと考えるからだ。
彼にとって子への愛はどうしても捨てられないものだった。そこで彼は独自の折衷を考える。「子等を思う歌」の
序に言う。「釈迦如来、金口に正しく説きたまはく、衆生を等しく思ふこと、羅睺羅(らごら)のごとしと」釈迦如来が衆
生を我が子羅?羅のように等しく愛していることが自分が子を愛する根拠になっている。釈迦如来は自分の子をも
ったからこそ衆生を我が子と同じように愛せるのだということだろう。こういう形で子への愛と如来の慈悲を結びつ
けている。人間愛である仁愛と如来の愛である慈悲の一体化である。これが憶良の「ALWAYS」だった。
・・・憶良の浄土・・・
この如来の慈悲は親鸞が『歎異抄』第四章に言う「浄土の慈悲」と同じだろう。浄土教では如来が衆生を愛する
のを「一子地」という言葉で表現する。一人子のように愛すると言う。親鸞が本願は親鸞一人のためだと言うのに
はこの考え方が入っているだろう。信者が皆如来の一人子だというのは常識的にはおかしい。一対一ではなく一
対多の関係のはずである。しかし実感はまさに一人子である。 憶良は自分の体験から出発していつのまにか当
時の仏教よりも日本に移入されたばかりの浄土教に接近したようだ。そして実際に彼は「本願をもちて生を彼の
浄刹(浄土)に託せむ」と述べる浄土願生者になった。浄土教は人を愛し我が子を愛した憶良の当然の帰結だっ
たのだろう。このような在家的、体験的浄土教はその後何百年もして親鸞をはじめとする浄土家がさらに深め広
げた道だった。
発掘歎異抄77 二つの少子化(2006年3月号)
・・・進化?・・・
少子化の進行が止まらない。現代日本は人類史上極めてまれな実験をしているようだ。研究室の実験なら結果
を見てから対処できるが、この場合そうはいかない。現代の科学文明が実用の名の下でしていることも、実は実
験を大規模にしているようなものだから、これも驚くには当たらないのかもしれない。子を作るのは生物的本能だ
ろうから、それをしなくなった現代日本人は生物的次元を越えた存在に進化しているのだろうか。それとも映画「A
LWAYS」を見て、少しは親子はいいものだと考える人が増えるだろうか。
かつて仏教に対してなされた批判の一つが出家して社会を捨て、子孫を作らないことだった。その教えどおりに
皆がすれば、その国から子どもは消え、社会は衰退してしまうからだ。幸いかどうか、そこまで仏教の出家の教え
を忠実に守る人は多くなかったので、仏教国で人口が減って困るということは起きなかった。ところが結果だけ見
れば今その危惧と同様のことが起きようとしている。
・・・人の慈悲・・・
少子化対策を考えるのは専門家に任せるとして、親として子どもに愛情を注ぐという経験を持たない人が増える
ことが、人々の意識を変えていくことはないのだろうか。浄土教は如来と衆生の関係を親子関係として語るが、こ
の関係は子である経験だけを持つより、親となる経験がある方が理解しやすい。浄土教を支えてきた心理的な基
盤が崩れようとしているのではないかという危惧を抱く。
親鸞は『歎異抄』第四章で慈悲を聖道門の慈悲と浄土門の慈悲に分ける。聖道門の慈悲とは「ものをあはれ
み、かなしみ、はぐくむ」もので、それが非常に難しいと述べている。ここで言う慈悲は人の慈悲で、親が子に対し
て持つ心情に近い。親になることは対象はわが子に限られるだろうが、慈悲に近いもの、あるいはその入り口を
経験することである。
・・・浄土の慈悲・・・
親鸞が勧めるのは浄土の慈悲である。それは念仏して仏になり、大慈悲心で人々を救うことである。これは聖
道門の人の慈悲をさらに拡大して強力にした仏の慈悲である。親子間の愛情を全ての人々に対して拡大したよう
なもので、全ての衆生が我が子として感じられるものである。親子関係の次元が変わることである。つまり聖道門
の慈悲が人間の親子関係に、浄土門の慈悲が仏と人の親子関係に、それぞれ対応していると言えるだろう。
このような言葉が出るのは親鸞が妻帯し、子どもを持ったからだろう。その子に対する愛情の経験が聖道門の
慈悲の説明の中に反映しているように見える。そしてそうやって育てても親の心を子が必ずしもわかってくれるわ
けではないという経験もした。特に長男の善鸞が異端に走り、それを救えなかったことは、人間の慈悲の限界を
強く感じさせる出来事だった。そのことが人間の慈悲を越えた浄土の慈悲を強調することになったのだろう。
・・・浄土の少子化・・・
浄土教にとって親子関係は大事な入り口である。「子を持って知る親の恩」と言うが、「子を持って知る如来の
恩」である。子を持つことが神仏の心を知る入り口になる。妙好人の話には親子関係にまつわる話が多い。親を
失ったり、子を失うことが求道の発端になることが多いのである。赤尾の道宗は親を早く亡くし、親を求めた。因
幡の源左は父親が亡くなるとき、「親様をたのめ」と言われ、そのことが発端だった。石見の浅原才市も「親の遺
言、南無阿弥陀仏」と言っている。石見の有福の善太郎は幼い子どもをあいついで亡くし、そこから求道が始まっ
た。
この世に生まれて親子関係のない人はないが、それが見失われそうなのはどうしてなのだろう。親子の道が廃
れるのと、もう一つの親子関係である信仰が廃れるのは相関しているのではないか。どちらが先なのか。時代の
流れとしては信仰が廃れるのが先だったように見える。いわば浄土の少子化が先だったのだと思う。如来の子が
減れば人の子が減る。仏道が廃れれば人道も廃れるのである。
発掘歎異抄76 ALWAYS (2006年1月2月号)
・・・四十八年目の夕日・・・
映画『ALWAYS三丁目の夕日』を見た。原作は西岸良平の漫画で、高校生のころよく見たものだ。その懐かしさ
もあるが、昭和三十三(一九五八)年の東京が舞台ということが、もっと私の心を捕らえた。その年は私の生まれ
た年だからだ。また主演の吉岡秀隆は二十年以上続いたドラマ『北の国から』の子役時代からの付き合いであ
る。西岸良平という作者の名前も「三丁目の夕日」という題も浄土教的だが、二〇〇五年は一九五八年を一年目
として四十八年目である。四十八は阿弥陀仏の本願の数である。映画の製作者は、はたしてこのことを知ってい
たのだろうか。
この映画には多くの親子関係が描かれる。自動車修理工場を営む鈴木一家だけが最も幸せな、夫婦と子一人
の親密な親子である。しかしそれをとりまく人々はそうではない。集団就職で鈴木家に住み込む少女は自分は口
減らしに親から捨てられたと思い込んでいる。かかりつけの町医者は空襲で妻子を失った。鈴木家の向かい側
で駄菓子屋をしながら売れない小説を書いている吉岡扮する茶川竜之介は親から勘当されている。彼が心を寄
せる元踊り子の居酒屋のママは幸せな家庭を夢見ながら父親の病気のためにまた踊り子に戻る。
・・・赤の他人・・・
最も親から遠いところにいるのが、そのママのところに連れてこられる彼女の女友達の子である。ほとんど捨て
子と言っていい古行淳之介というその少年が、赤の他人の茶川竜之介と暮らすことになる。小説家志望の淳之
介は自分が愛読してきた少年小説の作者が竜之介と知り、二人の間にいつしか擬似親子関係とでも言うべきも
のが生まれる。そこに居酒屋のママも加わり、擬似家庭が生まれる。
やがて少年の母親の居場所がわかり、さらには少年を捜していた社長という父親が現れ、少年を引き取る。こ
うして二人は引き裂かれる。居酒屋のママも町を去り、竜之介はひとりになる。しかし少年と竜之介の鉾はすでに
実の親でも壊せないほどになっていた。
・・・親を求めて・・・
親子とは何なのだろう。吉岡秀隆は映|画『四日間の奇蹟」でも両親を失った女の子の親代わりをするピアニス
トを演じていた。子役時代から親子関係を演じ続けてきた彼の一つの到達点がこの映画に表れているように思
う。浄土教のテーマも親子関係だと言うことができる。如来は親様と呼ばれ、如来と衆生は親子関係として表され
る。これが比喩ではなく真実になるのが信心発得である。その例は多くの念仏者にあり、赤尾の道宗も同様だっ
た。
道宗の求道は実は親を求めるという形で始まった。もちろん彼には親がいた。しかし四つの時に母親を、十三
の時に父親を失った。そうして伯父に育てられたのだが、彼はどうしても親に会いたかった。その時道宗を慰め
るために伯父が語ったのが、九州の耶馬渓にある羅漢寺の話である。羅漢寺は菊池寛の『恩警の彼方に』で知
られる「青の洞門」ゆかりの寺である。この寺の羅漢像の中に親の顔があるといわれていると伯父は話した。
・・・念仏者の赤い道・・・
この時から道宗は、当時はまだ弥七の名だが、いつか耶馬渓に行くことを夢見て、ついに青年期のある日に旅
立った。親を求めて三千里だった。ところが越前まで来たときに夢を見る。信州更科の僧が現れ、まことの親に
会いたいのなら京都の蓮如上人のもとに行けと告げたのである。弥七にはその意味は分からなかっただろう。し
かし言われるままに蓮如上人を訪ねる。そして三日間席を立たず聴聞し続けたという。それが上人の目に止ま
り、対座する。こうして弥七改め、もう一つの赤い道を歩む赤尾の道宗が誕生したのである。 信州の僧とは善光
寺の阿弥陀仏だと言われる。蓮如上人に会っても、納得しなければ九州に向かっただろう。しかし道宗は蓮如上
人にまことの親を見た。人から見れば赤の他人である。親に会いたいという思いの中に求道心が潜んでいた。法
脈のことを真宗では血脈と呼ぶ。「恩愛の彼方に」まことの親がいる。その眼差しが本当の「ALWAYS」である。
発掘歎異抄75 切り妻から (2005年12月号)
・・・平村・・・
五箇山を訪れるのに、私は岐阜県側から入ったので、白川郷を先に訪れた。白川郷から五箇山にはすでに高速
道路が通じている。インターチェンジ一つの距離で近いのだが、幾つものトンネル続きだった。岐阜から高山へも
高速道路が通じているが、それほどトンネルが多いとは思わなかったので、このあたりの庄川沿いの山と谷の険
しさがよくわかる。
五箇山に真宗が伝わったのは赤尾の道宗の力による。十五世紀末のことだが、白川郷に真宗が伝わったの
は前回述べたように十三世紀のことである。国境をまたぐとは言え、似たような風土で近い距離にありながら、こ
の隔たりは不思議な気がする。一つは山や谷の険しさが関係しているのかもしれない。もう一つは五箇山は平村
と言い、平家の落ち武者が住んだと言われる村であることだ。おそらくは倶利伽羅峠での木曽義仲との戦いに破
れた平家の落ち武者が山奥深く逃れてできた村であろう。そのことが鎌倉時代に近在との交流を阻んだ一つの
理由ではあるまいか。ある閉ざされた世界として室町時代に至ったのではないかと思う。そしてそのことが赤尾の
道宗の事跡には大きく関係していると思う。
・・・武士の開く道・・・
道宗の父親は武士であったと言われる。道宗の言行を見ると、武士らしい気風、気質が強くうかがわれる。親
鸞は関東で布教したが、今日名が残る有力な門徒は武士だったのではないかと言われている。この時代の布教
は逆風を突いて進むような気概がなければできなかったのだろう。求道者にして開拓者という人々が親鸞の布教
を支えたのだと思う。それは蓮如の時代の布教も同様だっただろう。
また道宗は家の宗教として真宗に接したのではない。青年時代の求道の結果として真宗に出会い、蓮如上人
に出会った。もし白川郷から五箇山に早くから真宗が伝わっていれば、道宗の真宗との出会いは全く違ったもの
となり、今日我々が知るところの道宗の逸話の幾つかは生まれなかっただろう。鎌倉時代に初めて親鸞の教え
を聞いた武士達と同様の立場に期せずして道宗はいたのだと思う。
・・・合掌造りの庫裏・・・
五箇山のインターチェンジから道宗が開いた行徳寺は近い。寺に近づくとその手前に大きな合掌造りが目に入
る。実はこれは寺とは直接関係ない岩瀬家で、白川郷でも見なかったほどの大きさである。中が資料館になって
いるが、白川郷で入ったばかりなので私は入らなかった。見上げると切り妻の上階の窓から顔を出している人が
小さく見える。
寺のすぐ横にも寺とあまり大きさが変わらないほどの立派な合掌造りがあり、これが寺の庫裏だとわかる。岩
見師の本に宿泊したとあるのがこれだろう。そのすぐ横に新しい庫裏らしいものが建築中だった。現代人が合掌
造りで暮らすのは楽ではないらしい。古い庫裏を残しながらの決断だろうと思った。
・・・妻の求めで・・・
寺は道宗の寺ということが至るところからうかがえる。それはこの寺を訪れる門徒の要求から自ずからそうなっ
たのだと思う。そもそもはるばるここまで来たということが門徒にとっては道宗を偲ぶ上で欠かせないことだろう。
私もそう思って本堂に上がった。こうして靴を脱ぎ本堂に上がるときに多くの門徒の頭をよぎるに違いない逸話が
ある。
ある時道宗は京都の蓮如上人のもとに上ったが、妻から蓮如上人のお言葉をぜひいただきたいと頼まれてい
た。妻は蓮如上人の御文(御文章)をいただきたかったのだ。遠路はるばる帰ってきた道宗がわらじのひもを解
こうとすると、妻は早速そのことを尋ねた。道宗が取り出したのは蓮如上人の書かれた名号だった。がっかりす
る妻を見て、道宗は妻の止めるのも聞かず、再び妻のために京都の蓮如上人のもとに参じ、新たに御文をいた
だいたという。これを夫婦愛と言っていいのどうか。そんな言葉を使うのをためらうほどの求法の厳しさがここに
はある。霜雪に耐えてきた合掌造りの切り妻から、「それ一切の女人の身は」で始まるこの御文が聞こえるよう
だ。
発掘歎異抄74 合掌の里
(2005年11月号)
・・・白川郷と五箇山・・・
岐阜県の西北端の白川郷と富山県の西南端の五箇山とはともに合掌造りの集落として世界遺産に登録されて
いる。飛騨と越中と国境をまたいでいるが同じ風土から合掌造りが生まれたのだろうと推測がつく。富山県側か
らいえば富山湾に注ぐ庄川をさかのぼると五箇山を経て白川に到る。岐阜県の北部が飛騨で南部が美濃だが、
飛騨では川は日本海側に向かって流れ、美濃では太平洋側に流れる。この分水嶺が飛騨と美濃の境であるよう
だ。
一般にはおそらく白川郷の方が有名かもしれないが、真宗に縁のある者にはむしろ五箇山の方が有名だろう。
白川郷が合掌造りの里として知られるようになったのは昭和になってこの地を訪れたドイツ人の建築家ブルーノ・
タウトが絶賛してからのことだそうである。一方五箇山には室町時代に蓮如の弟子として有名な赤尾の道宗がい
た。道宗のことは『蓮如上人御一代記聞書』に取り上げられ、また彼自身が書いた『赤尾道宗心得二十一箇条』
が残っていて、真宗の門徒には彼の名と越中五箇山はよく知られている。
・・・赤尾の道宗・・・
道宗の逸話を通して知る五箇山のイメージは合掌造りの里ということよりも、山奥ということである。そこから道
中の危険をおかしてはるばる蓮如のもとに訪ねてくる命懸けの求道者というイメージである。真宗の篤信者を妙
好人と言う。道宗はたしかに妙好人だが、江戸時代の妙好人とは趣が異なる。江戸時代はすでに真宗教団が確
立した時代であり、すでに家の宗教として真宗が与えれていた。
しかし道宗の時代は蓮如によって教線が拡大しているさなかであり、道宗は家の宗教として真宗を与えられた
のではなく、自ら求めて真宗に入り、なおかつその教えを広めた人だった。求道者にして開拓者なのである。そ
の困難に負けない精神と、彼が生まれ、布教した五箇山の風土とが重なって見える。
・・・「赤尾詣で」・・・
昭和三十年代に発行された岩見護師の『赤尾の道宗』という本がある。そこに岩見師自身の「赤尾詣での記」
が書かれている。昭和二十九年の晩秋に岩見師は五箇山を訪れている。高岡から砺波平野の南端にある城端
まで鉄道で行き、そこからバスで赤尾に向かうのだが、これが大変な山道である。道中、谷に落ちた旅人が決し
て発見されることがなかったという「人喰い谷」とか、昔は籠の渡しがあったという「籠渡(かごと)」といった難所を
越えて五箇山にたどり着く。そこからまたバスで白川郷を経て、高山に向かうという道筋である。高山からは再び
鉄道である。
この紀行は、はなはだ私の旅心をかきたてた。白川郷にも高山にも行ったことがなかったので、五箇山と合わ
せて行くつもりでこの夏に出かけた。私のたどったのは岩見師とは逆コースであり、岐阜から高山、白川郷を経
て五箇山に向かうというものである。
・・・白川郷・・・
先に訪れた白川郷では合掌造りの民家を改造した店で食事をし、橡餅を食べ、次いで合掌造りの民家をその
まま残した「合掌造り生活資料館」に入った。私は合掌造りは一階も二階三階も人が住むためにあり、大家族が
分かれて住む現代の二世帯住宅のようなものだろうと思っていたのだが、そうではないようだ。上の階は養蚕や
倉庫に使い、一階で生活するのが普通だそうだ。部屋数はかなりある。
その一階で目を引いたのは仏間だった。とにかく仏壇が大きく立派である。広島の田舎でもこれだけ立派な仏
壇のある家は少ないだろう。実は白川郷も真宗の盛んな地で、十三世紀の中頃に親鸞の弟子であった善俊が白
川郷に入って布教して以来、真宗信仰の盛んな土地になったという。親鸞が布教した関東に次ぐ歴史がある。集
落の西に庄川が流れ、東に合掌造りの家が整然と並んでいる。合掌造りは仏間の配置が重要で、火事の時に
真っ先に仏壇を運び出せるようになっており、家の並びには仏間の配置が関係しているそうである。そこで合掌
し続けた人の姿がそのまま合掌造りになったのではないかと思えてくる。
発掘歎異抄73 名に隠されたもの
(2005年10月号)
・・・出世魚・・・
魚に出世魚と呼ばれるものがある。有名なのはブリだろう。私はブリが天然物で、養殖物がハマチだと思って
いたが、そうではないらしい。関東と関西で呼び方が違うのだそうだが、関西では、ハマチはブリになる前のもの
で、ハマチが二段階目、ブリが四段階目で、これが最終段階になるそうだ。体長一メートルくらいになったものを
ブリと呼ぶそうである。昔、我が家で正月にブリ一匹をもらったことがあったが、確かにそのくらいの大きさはあっ
たような気がする。ブリを漢字では「鰤」と書く。魚の師にあたるものという意味なのだろうか。ブリに成る前の幼
魚は先生になることをめざして頑張るのだろうか。
親鸞の名も実はこの出世魚的なところがあり、四段階で考えることができる。知られているものを若い時からの
順に並べると、範宴、綽空、善信、親鸞となる。これまで親鸞の名で語ってきたが、それは最終段階の名である。
親鸞関係のものを読むと普通目にするのは親鸞だが、善信も目にすることがよくある。
・・・弟子として・・・
この変遷がどうして起こったのかというと、初めの範宴が出家した時の名である。親鸞は九歳の時に慈円の下
で出家し、天台僧となった。以後二十九歳まで比叡山での修行が続く。範宴は比叡山時代の名である。その後
何度も述べた辛酉の年建仁元年一二○一年に聖徳太子の示現を受けて、法然上人の下に参じた。この時、法
然上人からいただいた名は綽空である。この名の由来は浄土第四祖の道綽から「綽」の字を、師の法然房源空
から「空」の字をもらったと考えられている。師の字を一字もらったのだからこれは光栄なことである。浄土僧とし
ての名が綽空であった。
親鸞は一生法然上人の弟子であるという意識を持ち続けたので、この法然上人からいただいた名だけで充分
であったはずだ。天台僧としての名は比叡山を下りた時に捨てられるのは当然としても、浄土僧としての名がな
ぜその後二段階も変わったのだろうか。
・・・善信・・・
綽空の名の次に名乗ったのは善信である。綽空の名は浄土教の歴史を知らなければわかりにくいが、善信の
名はそういう知識がなくてもわかりそうだ。文字どおりには「善く信じる」ということだろうと想像がつく。実際親鸞の
浄土教は「信心為本」と言われ、「信」を強調するもので、単純明解なこの名のとおりの思想であったと言えるだろ
う。
他の解釈としては、浄土第五祖の善導と浄土第六祖の源信からそれぞれ一字をもらったとする考え方がある。
最後の名の親鸞は普通には浄土第二祖の天親と浄土第三祖の曇鸞から付けられていると考えられる。綽空、
善信、親鸞で浄土七祖の内、六人の名がそろう。これはそれなりに説得力がある説である。
・・・太子から・・・
しかし本当は違うのではないかと私は思っている。『教行信証』に親鸞の言うところによれば元久二年一二○五
年に「夢の告げによりて」綽空の名を改めたという。法然もその改名を認めた。弟子の立場として師からいただい
た名を改めることは勇気のいることである。この「夢の告げ」とは何だったのか。
『六要抄』にはこのお告げは聖徳太子によるとされている。太子のお告げなら法然上人が認めたのも理解でき
る。太子からのお告げとすると善信の名に思い当たるものがある。それは太子と同時代の人で、日本初の出家
者の名である。この人は物部守屋による日本初の法難を経験した後、ひるむことなく自ら志願して百済に留学し
帰国した日本初の留学僧であった。何から何まで初物尽くしの日本仏教界のパイオニアだった。親鸞の和讃にも
名は出してないが登場する。それが善信である。実はこの人は女性である。太子とともに日本仏教の礎を築いた
この勇気ある人の名を太子は親鸞に与えたのではないか。それは一つには男女ともに往生を勧めるものだろ
う。そしてもう一つ、彼女が受けた日本初の法難がやがて親鸞の身にも降りかかるが、それを越えて進めとのメ
ッセージではなかったのか。
・・・もう一つの三重円・・・
四十八願を三重円で捉えることができるのではないかということを述べた。『無量寿経』にある仏の周りを三回
回るという表現に関係づけた考え方である。その際に一つの考え方が、四十八願を単純に三等分して、十六願
ずつに分ける考え方である。もう一つの考え方は大きさの違う三重円で考えるものである。 コンパスで半径が一
対二対三の三つの円を描くと円周もそれに比例して一対二対三になる。この円周上に外側から四十八願を配当
すると、外側の円に一願から二十四願までの二十四願、中間の円に二十五願から四十願までの十六願、内側
の円に四十一願から四十八願までの八願となる。この配当をするのになぜ外側から配当するのかというと、仏塔
をめぐる修行者の心理としてしだいに内側に近づいていきたくなるのではないかと思うからである。体は内側に傾
くから無意識の内に足は内側へと寄ってくるだろう。中心に如来を置けばそれが修行者の自然な流れに思える。
・・・サインは八・・・
四十八願を順に読むとき、最後の八願は一つのグループを形成し、最終段階を感じさせる。この八願の中の
七願に「我が名字を聞きて」という名号が出てくる。名号が出ない一願には「聞法」が出てくる。これも名号を聞く
ことを前提にしたものと言えよう。この最後の願のグループは如来の名号を聞くことで悟りを得ることを語ってい
るように思える。如来と衆生が呼び合い、一つになる相聞の世界が完結し、ここで本願は円成する。
この八願を一つのグループとして最終段階とすると、ここを独立させたくなる。そうすると八を単位として三つに
分けるには、八、十六、二十四という一対二対三という切り方になる。四十八願は掛け算の九九としては八六に
なる。法隆寺には聖徳太子がこもられたという夢殿がある。夢殿は八角堂である。また親鸞がこもった聖徳太子
創建と言われる京都の六角堂はその名の通り六角形である。これも一つのサインであり、三重円の中では八の
円に八角形、十六の円に八角形、二十四の円には六角形と八角形を描くことができる。
・・・夕日の差すところ・・・
さらにこの四十八願の円は十二支で作る円とうまく対応する。十二支の円は時刻を表すのにも、また方位を表
すのにも使われる。四つの方位では、子が北、卯が東、午が南、酉が西となる。五行にも方位の配当があり、辛
酉は、辛も酉も、いずれも西を表すと前に述べた。四十八願の三重円と方位の円を重ねて浄土教で重視した西
のゾーンを見てみよう。
外側の円と中間の円ではこの西に当たるゾーンに名号の願が並ぶのである。外側の円では名号の第一グル
ープである十七願から二十願、中間の円では名号の第二のグループである三十四願から三十七願がある。内
側の円は先に述べたように西に当たるところだけではなく全体が名号のグループである。仏塔で考えてみると西
から夕日の差すゾーンに名号の本願のグループがあることになる。
・・・阿弥陀系宇宙論・・・
またこの三重円は浄土教の修行図であるとともに阿弥陀仏を中心とした阿弥陀系の宇宙論をも表しているの
ではないかと思える。ちょうど密教で言えば、大日如来を中心とした曼陀羅図のようなものである。この三重円を
我々の住む太陽系と重ねてみると中心が太陽で、外側の円が地球の軌道、中間の円が金星の軌道、内側の円
が水星の軌道に当たる。太陽系を成り立たせているのは太陽の引力だが、阿弥陀系宇宙ではその引力に当た
るのが浄土の太陽である阿弥陀仏の本願力である。
この一対二対三という比率を基にした図としては他に円錐や三角形やピラミッドを考えることができる。古代イ
ンド人の世界観としては須弥山が有名だが、これは円錐として考えることができるし、またそれは仏塔の形にも
近い。この中に底部から順に三対二対一の円を納めることができる。これを上から見れば三重円になる。念仏
三昧から生まれた一つの世界観をここに見て取ることができ、そこに引き込まれていく自分を感じるのである。
発掘歎異抄71 本願関数(2005年8月号)
・・・名号の本願・・・
辛酉の年を求めるy=60x+1の式に入るx の数字が『無量寿経』の阿弥陀仏の願数と関係し、願数と浄土教
の展開が関係しているのではないかと述べた。平安・鎌倉の浄土教についてはそれが言えるのではないかという
気がする。この時の願数は十七願から二十願であり、その内容は称名念仏を中心とするものである。特に十八
願が重視されたが、浄土教で重視した称名念仏に関係する仏の名号が経典に出てくるのはここだけではない。
願文に「我が名字を聞きて」という形で名号が出てくる願のグループが他にもある。三十四願から三十七願まで
と、四十一願から四十八願までの二カ所である。さらに親鸞が重視した信楽は十八願に出たあと、三十五願、三
十七願、四十四願に出てくる。すなわち念仏や名号を説く願のグループが三カ所あり、さらにそこに信楽を説く願
が入っている。従来十八願を重視するために第一の願のグループばかりが注目され、第二、第三のグループは
それほど顧みられなかったきらいがある。しかしそれはその時代との関係で第一のグループに目がいっていた
のだとも言える。
・・・黄金時代・・・
浄土教の展開と願数が関係するとすればあとの二グループが関係してくるのはこれからの時代である。y=60x
+1を本願関数として願数を入れると、xが34のときyが二0四一、xが41のときyが二四六一となる。すなわち今
第二のグループの時代に入ろうとしているところであり、さらに二十五世紀以降第三のグループの時代に入るこ
とになる。
第一のグループではxが17のとき一0二一だった。この関数からは千年や五百年の区切りに近い数字が出て
くる。第一のグループが紀元千年代のはじめ、第二のグループが紀元二千年代のはじめ、第三のグループが二
千年代の中で二十五世紀以降となり、これからの時代が浄土教の黄金時代なのではないかと思えてくる。浄土
教は古い宗教だというイメージは払拭されなければならない。
・・・本願の三重円・・・
これらのことからあらためて四十八願を捉え直してみると、四十八願の配列にある規則性が感じられる。私は
三重円で四十八願を捉えることができるのではないかと思っている。一つの考え方は、四十八願を単純に三等
分して、同一円周上に十六願ずつ並べるものである。中心角は一願につき22.5度となる。ケーキを切るときに
よくする八等分をさらに半分にしたものである。こうすると一願から十六願までが一周目で約千年、十七願から三
十二願までが二周目で次の約千年、三十三願から四十八願までが三周目で最後の約千年となり、四十一願か
ら四十八願までの八願が三周目の最後の半円で約五百年になる。一周目が成立期、二周目が確立期、三周目
が完成期でその後半が最終段階と言えるだろう。
三周するのは経典の中の言葉とも関係する。『無量寿経』に何度も仏の回りを三回回るという言葉が出てくる。
四十八願を説く直前にも「仏を繞(めぐ)ること三?(さんぞう)して」という表現が出てくる。これは四十八願を解くヒ
ントを与えているのだろう。
・・・めぐり続ける人に・・・
『無量寿経』に仏の周りを三回回るという言葉が何度も出るのは仏塔崇拝と関係していると思う。インドで浄土
経典が成立したと言われる紀元一世紀頃には仏塔が立てられ、そこで仏への崇拝が行われていた。それは原
始仏教にはなかったもので、これが大乗仏教を生み出したと言われている。仏塔は外を巡るだけではなく、大き
いものは中に繞道が作られそこを巡る行が行われていたと思われる。
同様の行は日本でも行われ、比叡山では阿弥陀仏の周りを回り続ける常行三昧という行があった。親鸞は恵
信尼の手紙によればその行を行う常行三昧堂の堂僧であったという。そのような行と四十八願は関係しているの
だと思う。かつてインドで仏と浄土を慕い、その行を行った僧に浄土からのメッセージが送られて経典ができ、さ
らに翻訳段階でもメッセージは送り続けられたと想像してみる。
発掘歎異抄70 辛酉の温故知新 (2005年7月号)
・・・太子のメッセージ・・・
親鸞が聖徳太子の導きを受けて浄土教に帰した年である建仁元年一二0一年が干支で辛酉の年に当たること
について不思議な符合があるのではないかと考えてきた。これを私は聖徳太子からのメッセージではないかと考
えている。辛酉の年に革命が起こるかどうかということは大した問題ではなく、古来日本人が慣れ親しんだ干支
の中で、しばしば改元が行われて注目されることが多かった辛酉という年を選んで聖徳太子がメッセージを送り
続けてきたのではないかということだ。
その中に辛酉の年が革命の年に当たることから何か革命的な内容のメッセージが含まれているというのは解
釈の一つである。聖徳太子の施策は革命的であった。親鸞浄土教の思想も日本仏教の中では革命的であった。
親鸞の、肉食妻帯の仏教者という形や、同朋主義、女人成仏という思想は、聖徳太子においてその原形を見い
だすことができそうである。
・・・生きて働く浄土・・・
太子のメッセージが親鸞没後も送り続けられているということは浄土教が今も生きて働き続けていることの証と
もなる。それは一つには浄土の実在を示すことになるが、そこが我々が死後に赴くところというだけではなく、そ
の世界がこの世のあり方についてのあるイデアを発信し、この世界を導き続けていることをも示すことになる。即
ち親鸞浄土教での浄土往生という往相だけではなく、浄土からこの世へという還相も示し、浄土がこの二つの力
の原動力であり、生の根源であることを示している。浄土は革命の砦でもある。
日本浄土教の成立と展開はすでに聖徳太子が日本に生まれる時から、あるいはそれ以前からの、浄土で立て
られた計画に基づいて進んできたのではないかという思いが私にはある。その計画の立案に聖徳太子は深く関
わったか、あるいは立案の中心にいた人ではないかという気がする。その計画の中に辛酉の年を一つのメッセ
ージとして用いることが予定の一つとしてあったのではないかと思う。
・・・六0一の式・・・
聖徳太子在世中の辛酉の年六0一年から始まる辛酉の年を計算するのに用いてきた式がある。y=60x+1と
いう式である。一目見てわかるように、おもしろいことにこの式の中にはすでに六0一という数字が表れている。こ
れまではこの式から出てくるyの数字の方を見て、そこに起きた出来事を見てきたのだが、xの方には何か意味
はないのだろうか。xに入る数字は最も近い辛酉の年であった一九八一年で33、これからの千年紀の初めに来
る辛酉の年二0四一年で34であり、決して大きい数字ではない。これからの千年紀で50に達するかどうかという
数である。
日本浄土教の成立と展開に聖徳太子が深く関わっているのではないかと述べたが、その浄土教の根本経典は
『無量寿経』である。この数字を見ていて私が思ったのはこのxは阿弥陀仏の本願の数字と関係があるのではな
いかということである。漢訳の『無量寿経』ではその本願の数は四十八である。
・・・念仏の千年紀・・・
日本浄土教が盛んになった理由の一つは末法思想の流行である。日本では永承七年一0五二年が末法元年
と言われ、浄土教熱が盛り上がってくる。一00一年からの千年紀の初めのyは一0二一年で、xは17になる。以
後一0八一年でxは18、一一四一年でxは19、一二0一年でxは20となる。このxの17から20という数字は平安
鎌倉の浄土教で重視された阿弥陀仏の願数なのである。
親鸞の『教行信証』では、十七願は阿弥陀仏の名号を唱える行を説く「諸仏称名の願」、十八願が信を説く「至
心信楽の願」、また三願転入という親鸞が自分の歩んだ道を願数との関係で整理するのに用いたのが十八から
二十の三願である。そしてyの数字の前後の時代が源信、法然、親鸞、一遍の活躍した時代なのである。温故知
新という言葉がある。辛酉のメッセージは『無量寿経』と浄土教の展開の関係にまで及び、その範囲は願数の続
くこれからの千年紀にまで達するのだろうか。
発掘歎異抄69 辛酉と女性
(2005年6月号)
・・・金子みすゞ・・・
辛酉の年をめぐる不思議な符合について書いてきた。前回一九八一年までのことを書いたが、その翌年一九
八二年に補足しておきたいことがある。それは金子みすゞの詩の発見である。今では金子みすゞのことを知らな
い人はいないだろうが、彼女が世に広く知られたのは、彼女のことを熱心に探していた矢崎節夫氏が一九八二
年に彼女の詩を発見したことによる。それはまるでそれまで秘せられていたかのような発見であった。
この発見はその前の辛酉の年である一九二一年に親鸞の妻であった恵信尼の手紙が突然発見されたことを
思い起こさせる。金子みすゞは浄土信仰を直接歌ってはいないが、彼女の詩は浄土信仰を感じさせるものが多
く、真宗の人には彼女の詩に共感する人が多いだろう。金子みすゞは山口県の仙崎に生まれたが、母親の結婚
の関係で下関に移り住み、彼女の詩はそこで書かれた。下関は妙好人おかるの生まれた六連島の対岸である。
・・・おかるとみすゞ・・・
実は以前この連載におかるのことを書いたとき、私は金子みすゞのこともいつか書きたいと思い、彼女のゆか
りの地を巡った。しかし思いとどまるところがあり、そのままになっていた。一つの理由は彼女の詩の内容が確か
に浄土信仰を感じさせるものでありながら、例えばおかるのような信心の透徹した人の歌に比べるとき、今一つ
物足りないものを感じるからである。いわばロマンティシズムと信仰との差と言ってもいいかもしれない。
もう一つの理由を言うのははばかられるものがある。それは多くの人が感じるかもしれないことであり、また個
人的な思いも関係している。しかし今回辛酉について考えて、おかると金子みすゞの間にはやはり見えないつな
がりがあったに違いないと思うようになった。もし金子みすゞがこのつながりを意識していたら彼女の人生には別
の展開があり、またその詩もいっそうの深まりを見せたのではなかろうか。彼女の詩の発見が辛酉の年から一
年ずれたのは彼女が予定からずれたことが関係しているのではないかと思えてくる。
・・・恵信尼と辛酉・・・
金子みすゞの詩の発見と恵信尼の手紙の発見に通じるものを感じると言ったが、実は恵信尼をめぐってはもう
一つ興味深いことがある。それは彼女の出身にまつわることである。恵信尼は三善為教の娘と言われる。三善
氏は学問の家柄と言われ、一族では彼女より少し前の時代に三善為康という人が往生伝を二種類書いている。
浄土信仰をもつ家柄であり、親鸞との結婚の背景を感じさせる。
平安時代の三善氏でよく知られた人には平安初期の人に三善清行がいる。この人は菅原道真の失脚にかか
わったと言われ、必ずしも評判のいい人ではないが、辛酉革命を強調した。三善清行は『革命勘文』を書き、革
命が起こることを防ぐために革命の代わりに元号を変える改元を説いた。以来辛酉の年には改元が行われるの
が通例となった。その最初の改元が九0一年延喜元年に行われた。聖徳太子の六0一年と親鸞が聖徳太子に
導かれた一二0一年建仁元年のちょうど中間に当たる。
・・・メッセージの中に・・・
恵信尼の出身である三善氏と三善清行のつながりは同じ三善氏だが、三百年の隔たりがあるためよくわから
ない。しかしこの符合に、彼女の結婚が辛酉の年のお告げによることとその手紙が突然辛酉の年に発見された
ことと合わせて、辛酉のメッセージを伝えようとする何らかの意図が感じられるように思う。そのメッセージの中に
辛酉と女性との関係を伝えるものが含まれているのではなかろうか。
聖徳太子は妻帯者でありながら仏教を説き、その点では親鸞の先駆けである。太子は歴史に残る初めての女
帝である推古天皇に仕え、また太子が推古帝に講説し、また自ら注釈を書かれたと言われる『勝鬘経』は女性で
ある勝鬘夫人が釈尊に説法したというものである。浄土教でいう女人往生や女人成仏と結びつく、当時としては
革命的な太子の女性観がこのメッセージにうかがえないだろうか。
発掘歎異抄68 辛酉続続(2005年5月号)
・・・親鸞の没年・・・
親鸞が聖徳太子のお告げを受けて生涯の大きな転換点となった一二0一年が辛酉の年に当たることについて
何か意味があるのかどうか考えてきた。親鸞を導いた聖徳太子にとって革命の年と言われる辛酉が重要な年だ
ったのではないかと考えてみた。では親鸞の生涯の中で他に辛酉の年はないのか。一二0一年は親鸞二十九歳
の年に当たるが、親鸞は長生きをしたためもう一回辛酉の年を経験している。それが一二六一年、八十九歳の
時である。
親鸞は翌年一二六二年に亡くなった。親鸞の浄土家としての活動は一二0一年の辛酉から一二六一年の辛酉
までの六十年間なのである。また一二六一という数字で思い起こされることがある。一二六0年が一蔀(いちぼ
う)という大きな単位である。キリスト生誕と言われていた紀元一年は実は辛酉の年である。その年から一蔀一二
六0年たった年が一二六一年であり、親鸞没年の前年なのである。
・・・ずれて合う・・・
親鸞が辛酉の年の翌年に亡くなったことである別の符合が起こる。親鸞の三百回忌や六百回忌が辛酉の年と
なるのである。仏教で何回忌という時は亡くなった年を一回と数えるので、亡くなる前年に三百を足した年が三百
回忌となり、六百を足した年が六百回忌となる。それぞれ六十の倍数なので三百回忌も六百回忌も辛酉の年と
なる。親鸞が辛酉の翌年に亡くなったことでこの符合が起こる。
三百回忌の年は一五六一年であり、このころの真宗は一向一揆や石山本願寺の戦いで大変な時代であった。
六百回忌の年は一八六一年であり、幕末の混乱期であった。一蔀一二六0年に一度国家的大変動が起こるとさ
れるが、聖徳太子にとって大事な辛酉の年であり、また日本書紀が神武紀元設定の基準としたと言われる六0
一年から一蔀一二六0年たったのが、親鸞六百回忌である一八六一年だった。たしかに国家的大変動のただ中
であった。太子と親鸞の辛酉の関係は生前だけでなく没後も続いているように見えるのである。
・・・十九世紀から・・・
真宗では他に辛酉の年に何か起きていないだろうか。一九世紀以降で見るとそれが起きているように見えるの
である。一八0一年は前にこの連載で取り上げた六連島のおかるが生まれた年である。辛酉を方位にあてはめ
ると西になると言ったがおかるが生まれたのは本州の西の果て、下関の沖合の六連島だった。しかも彼女は三
十五歳の時に心境が開けるのだが、三十五という数字は『無量寿経』で女人往生を説く三十五願と同じ数字であ
る。
一八六一年は先にあげた親鸞六百回忌であり、幕末の混乱期である。一九二一年は西本願寺の宝庫で親鸞
の妻だった恵信尼の手紙が発見された年である。六百年の年を経て突然発見された。それによりこれまでわか
らなかった親鸞の人生が明らかになった。そもそも親鸞が一二0一年に聖徳太子のお告げを受けて法然上人に
帰依したということは恵信尼の手紙が発見されたことで明確になったことである。しかもこの手紙を発見したのは
鷲尾教導という鳥の名をもった人だった。
・・・次は何・・・
次いで一九八一年は我々にとって最も近い辛酉である。これを述べることははばかられるものもあるのだが、
真宗大谷派(東本願寺)にとって大きな事件があった年であった。真宗の中の二大宗派が本願寺派(西本願寺)
と大谷派(東本願寺)であるが、大谷派には明治時代の清沢満之以来改革の流れがあり、教学と教団の改革が
行われてきた。教団改革は教団と親鸞の子孫である大谷家との関係を変えるもので、一九八一年に大谷派は新
しい宗憲を作り、新しい門首制になった。いわゆる「お東紛争」と呼ばれるものである。
こうして見てくると、辛酉の年に合わせたように何かが起きているように見える。最も新しい「お東紛争」と呼ば
れるものは一種の革命と呼んでいいのかもしれない。聖徳太子の施策は確かに革命的だった。親鸞の教えも確
かに革命的だった。聖徳太子以来の辛酉革命の精神は今も生き続けているのだろうか。
発掘歎異抄67 辛酉縁起
(2005年4月号)
・・・基点はどこに・・・
一二0一年、建仁元年辛酉の年は親鸞が京都の六角堂で聖徳太子のお告げを受けて法然上人に師事した年
とされている。その年の干支である辛酉にはたして何か特別の意味が込められていると考えてよいのだろうか。
辛酉の年は革命が起こるとされた年である。これは干支の本家である中国の讖緯(しんい)説に基づくもので、
『日本書紀』における初代天皇である神武天皇の即位年もこの説を受けて辛酉の年とされたと考えられている。
ただし辛酉の年は六十年に一度巡るからどの辛酉に設定するかという問題が起こる。これについてはさらに六
十年を二十一倍した一二六0年に一度大きな国家的変動が起こるとされる。これを一蔀(いちぼう)と言う。神武
紀元は紀元前六六0年だが、六0一年から一二六0年さかのぼった年に設定されたと考える説がある。その基
点になった六0一年とはどういう年か。これが聖徳太子に関係する。太子が親鸞を導く六百年前である。
・・・太子と辛酉・・・
辛酉の年六0一年は推古天皇十年である。年号は大化から始まるのでまだない。この年聖徳太子は斑鳩の宮
の造営を始められた。これに併設して斑鳩寺(法隆寺)が建てられた。斑鳩の宮は現在の法隆寺東院の位置に
当たる。飛鳥文化の中心地である。太子の頭には辛酉革命があり、その年を選んで斑鳩の宮を造営されたと思
われる。太子は革命的施策を行う本拠地を辛酉の年に造られたのだろう。
この時太子の中でもう一つ意識されたものがあるはずである。それが辛酉の革命に次いで重視される革令で
ある。辛酉の三年後の甲子の年が革令になる。干支の一番目が甲子なのだが、辛酉との関係では辛酉で革命
があり、その後革令があるという順になる。聖徳太子はその革令の年に『十七条憲法』を制定された。『十七条憲
法』は第一条の「和をもって貴しとなす」や第二条の「篤く三宝(仏法僧)を敬え」で知られ、その後の日本の国是
とでも言うべき精神が謳われている。太子は自身にとって重要な辛酉の年を親鸞を導く際にメッセージを込めて
用いられたのだろうか。
・・・太子と鳥・・・
太子と辛酉の関係は革命だけではない。酉の関係がある。それは斑鳩と飛鳥という地名である。斑鳩は鵤とも
書かれる鳥の名である。飛鳥は『万葉集』で地名の明日香にかかる「飛ぶ鳥の」という枕詞が地名に転じたもの
だが、その枕詞の通りに鳥を表している。太子の鳥に対する特別の思いがここに伺える。
一方親鸞はどうか。親鸞の名は天親菩薩と曇鸞大師から採られたと言われるが、鸞とは鳳(大鳥)である。想
像上の鳥だが鶏がモデルになったと言われている。私は鸞の名には曇鸞大師だけでなく、鳥の名を好まれた聖
徳太子への思いも含まれているのではないかという気がする。白楽天が『長恨歌』に歌った二羽の鳥が一体とな
った「比翼の鳥」という想像上の鳥がある。聖徳太子と親鸞は浄土の比翼の鳥だったような気がする。いやそれ
は親鸞の願望だったと言うべきだろう。
・・・辛酉と西・・・
さらに興味深いのは浄土教で重視した方位と辛酉の関係である。干支は十干と十二支の組み合わせだが、十
干は五行を二つに分けたものである。五行とは木火土金水で、これに方位の配当がある。土を中央に置き、木
が東、火が南、金が西、水が北になる。辛酉の辛は五行の金に当たる。金を二つに分けた庚(かのえ)と辛(か
のと)の一つであり、いずれも金に当たるから方位としては西になる。
十二支にも方位の配当があり、子の北から始まり、三十度ずつ配当し、卯は東、午は南、酉は西になる。酉と
西は字体が似ているので覚えやすい。古語辞典や国語便覧で暦法の項目を開くとこのことが図で示されている
はずである。こうして辛酉を方位に当てはめれば辛も酉も西に当たり、西が重なる干支ということになる。阿弥陀
仏の浄土は西方浄土と呼ばれるように西にあるとされた。辛酉はその意味でも浄土教に深い縁がある。辛酉を
巡る縁起の連鎖は偶然に過ぎないのだろうか。
発掘歎異抄66 酉は酉でも
(2005年3月号)
・・・二人の中に・・・
四天王寺で救世観音像を見たことで、私は親鸞と聖徳太子の関係がようやく分かったように思った。それまで
も親鸞の書いた聖徳太子に捧げた和讃を読んで分かったつもりではいたのだが、それまでは二人の関係をどら
かというと外から眺めている感じだった。しかし今回の経験ではその中に入ったような感じだった。これまでは親
鸞経由での間接的な聖徳太子とのつながりだったのが、直に聖徳太子とつながった感じだった。そうして初めて
親鸞と同じ立場に立ったのだと思った。
それで広島に帰ってからもう一度親鸞と聖徳太子の関係を考え直そうと思った。二人の間には我々のうかがい
知れなかった何かが隠されているのではないかという気がしたのである。初めに見直したのが、親鸞が聖徳太子
からお告げを受けた時のことである。比叡山で行き詰まった親鸞は聖徳太子創建と言われる京都の六角堂に参
籠した。百日間通い続け、その九十五日目の暁に聖徳太子の示現を得て法然上人に帰したと言われる。
・・・お告げ・・・
これまでそのお告げの内容が何かということが大きな関心事だった。考えられるのは法然上人に師事すること
の勧めと、結婚の勧めである。結婚については観音があなたの妻になって一生を荘厳するという内容の偈が伝
えられている。法然上人は持戒堅固の清僧として尊敬されていた。それに対して言えば、親鸞は妻帯した破戒僧
なのである。この破戒ということが当時においてどれほど大きな意味を持っていたか、現代の我々からは想像で
きないものがあるだろう。
京都の六角堂と大阪の四天王寺はいずれも太子創建の寺として知られるが、本尊の観音像から受ける感じは
かなり違う。四天王寺の観音像はこれが浄土の太子の姿ではないかと思わせるものがある。神々しい感じがして
崇めたくなるものがある。どちらかというと男性的な感じである。六角堂の観音像はまろやかで女性的な感じであ
る。なまめかしいと言ってもいいと思う。そこで受けたお告げと観音像のイメージはよく合っている。
・・・辛酉の年・・・
私が今回考えたのは前から気になっていたその年である。建仁元年、西暦一二0一年である。『教行信証』に
親鸞自ら書いているところによると「建仁辛酉の暦」である。一二0一年は十三世紀の初めの年だから現代の我
々にとっては非常に区切りがいいし、覚えやすいが、当時の人の年の数え方の基準になっているのは元号と干
支である。元号は頻繁に改元があるので、干支に大きな比重がある。
この年の干支は辛酉である。音読みではシンユウ、訓読みでは「かのととり」で今年と同じ酉年である。干支は
現代では十二支の方しか意識されないが、本来は十干と十二支の組み合わせで六十年で一巡する。還暦という
のはこの干支が一巡してもとの干支に戻ることである。今年は戦後六十年なので、一九四五年と二00五年は同
じ干支で乙酉である。干支は一番目の甲子から始まり辛酉は五十八番目になる。ところが辛酉は六十ある干支
の中の一つという以上の意味があるのである。
・・・革命の年?・・・
以前書いた『日と霊と火』の中で私はこの辛酉について触れたことがある。想像上の天皇と言われる神武天皇
の即位の年の干支がこの辛酉なのである。想像で設定するなら一番目の甲子にすればよさそうなものなのだ
が、五十八番目の辛酉になっている。これは意図的に辛酉に設定されたと考えられている。
なぜかと言うと、辛酉の年は革命が起こると言われているからである。革命とは本来天命が変わって王朝が交
代することである。日本では有史以来天皇家は続いているので革命は天皇家の始まりしかなかったはずである。
『日本書紀』はこの考え方に基づいて神武紀元を設定したと言われている。戦前使われていた神武天皇の即位
年を基準とした皇紀は辛酉から始まる。こうして辛酉は特別な意味をもった干支となった。はたして一二0一年の
辛酉にこのことが関係あるのだろうか。
掘歎異抄65 眼差しと夕日
(2005年新年号)
・・・無限と形・・・
大阪四天王寺での救世観音像との出会いは全く予期しないものだった。期待していなかった理由の一つとして
は四天王寺が創建以来何度も焼け、近くは第二次世界大戦で戦災に遭って消失し、建物も本尊も新しいもので
あり、奈良京都の古寺に行くのとは違うということがある。しかしそれは私の先入観だった。古いから価値があ
り、新しいから価値がないというのは、文化財として見た場合のことである。あるいはオリジナルの原作が価値が
あり、後からそれを模して作られたものが価値がないというのは芸術作品として見た場合のことである。信仰の
立場でのことではない。
ただし信仰の立場で考えたときには問題がないわけではない。信仰の立場から考えたときにはもう一つ偶像崇
拝という問題がある。空という仏教の根本精神を、あるいは無辺の慈悲や無差別の智慧を仏像という一つの形
で表現できるのかという問題である。無限大のものを小さな一つの形で表現できるのか、かえってそれは根本の
精神の矮小化になるのではないかという問題である。
・・・心を占めるもの・・・
以前、魯迅の『故郷』の中で魯迅の考えた偶像崇拝の問題について触れたことがある。魯迅は左翼的な立場
からそれを否定しているのだが、同時に自分の心の中の偶像についても考えを及ばせている。ここが彼の正直
なところである。自分の抱いている希望も手製の偶像に過ぎないのではないかと考えるところである。様々な新
手のイデオロギーや理想社会の実現、あるいは革命といった考え方は実にしつこく我々の心を占めてくる。
それに気付かない人にとってはまったく問題ないだろう。あるいは気付きながらも演じ続けているという人もいる
だろう。宇宙演技という立場から見ればそれもあり得ることである。困るのは気付きながらもどうしてよいのかわ
からないという人である。実はそれが本当の宗教の入り口なのである。自らの心を占めているものも、外にある
ものも空虚なものとして見ることができる目をもつことが入り口であり、転換点である。
・・・何もいらない・・・
このような立場で見ると形あるもので心を占めさせることが宗教の精神と逆行するのではないかと見えてくる。
それは知識でも同様で知識も自分の空虚さを埋める格好の材料になる。そうするとお寺にあるものは宗教に逆
行するものばかりではないか。伽藍も仏像も経典も人を騙す装置なのではないか。
実際にその通りであり、親鸞のしたことは寺もいらない、仏像もいらない、知識もいらない、ただ信心だけを要と
するというものだった。しかもその信心は如来より賜るものだから我々の側には何もない。いわば一種の偶像否
定の立場なのである。本尊にしても親鸞が書いたものが残っているが、南無阿弥陀仏や南無不可思議光仏とい
った名号を書いたものだった。本尊とは宇宙そのものにあるもので紙の本尊は仮のものという感覚だろう。仏像
をもつとか作るという考えはなかったのである。寺もなくあったのは道場だった。
・・・塔の上から・・・
こういう考えが私の中にもあって仏像だからありがたいという考え方はない。ただし仏像は仮のものだがそこに
ある人々の信仰は尊いものだと思っている。私が行った時も手を合わせ見とれるようにしていた老婆がいた。四
天王寺を成り立たせてきたのは建物ではなく、人々の聖徳太子とつながり続けたいという思いだったのだろう。
私のように救世観音の眼差しだけでいいという人の気持ちがこの像を作り替え続けさせたのだろう。
伽藍の中央に立つ五重の塔は鉄筋造りで登ることができる。こんなお寺は他にはあるまい。最上階の回廊を
巡ると寺の全景が見え、西に極楽門とその斜め上に傾きかけた太陽が見えた。この極楽門から夕日を拝むのが
日想観という四天王寺のもう一つの信仰である。どうして聖徳太子信仰と日想観が結びついたのかわからない
が、柔らかい夕陽を見つめているとなぜかそれが自然な流れに思えた。
・・・出会いの眼差し・・・
それは全く予期しない出会いであった。その眼差しは深く私を捉えて離さなかった。撃たれたというのか、飛び
込んだというのか、今でもその眼差しが焼き付いて離れない。本当は前回このことを書こうかと思ったのだが、自
分の中でうまく整理がつかなくてしばらく置いておいたのだ。今でもうまく整理がついてはいない。ただその眼差し
が離れないのだ。本当は心に深く秘して黙すべきなのかもしれない。あるいは私が小説家なら架空の人物の話と
してうまく物語の中に封じこめるべきなのかもしれない。
予期しないと書いたが正確ではない。会うことはわかっていたのである。会いに行ったのは私なのだから。しか
し会えるとは思っていなかった。期待してもいなかった。その人は千数百年前に亡くなったのだから。その人の肖
像は余りにも有名で子どものころから何度も見ている。それを見て高貴な人だとは思えてもそれ以上の感慨は特
に湧かなかった。
・・・変わり果てた姿・・・
その人の姿は見慣れていたあの姿とは全くと言っていいほど違っていた。しかもその像はかなり新しいものの
はずなのである。何度も戦火に遭ってきたのだから。織田信長、徳川家康の兵火、近くは太平洋戦争の戦火。こ
の像はいったい何代目なのだろう。写真もなかった時代に作り直されたなら同じものになるはずはない。さらに作
者が代われば作品としては別物のはずである。芸術ならばそれが常識だろう。寺の建物がコンクリートというだ
けでも出会いの場にはふさわしくない。
にもかかわらず何かが私を捉えたのである。四天王寺金堂、本尊の救世観音像の前に立ったときのことだ。新
しいせいかまだ体が金色に光っている。黒ずんでいるところが微妙な陰影をすでに醸しだし始めてはいるが、奈
良京都の寺の古仏とは比較にならない。しかしそんなことはもうどうでもいい。その眼差しだけで充分だった。し
ばらく前にたたずんでいた。そのままでは参詣者の邪魔になるので脇によけてまた見上げていた。ひょっとして親
鸞も同じ気持ちだったのだろうか。
・・・火の鳥の像・・・
本尊ではあるが秘仏でも何でもない。誰でもいつでも間近に拝めるのである。その像はこの寺を開かれた聖徳
太子を写したものだという。しかし聖徳太子が寺を開かれた時に自分に似せた像を置くはずがない。それでも聖
徳太子を救世観音と同一視することは急速に広まり定着した。四天王寺は救世観音を通して聖徳太子を拝む寺
になったのである。
我々が親しんだ聖徳太子像は朝廷に立つ摂政としての像である。しかしそれは太子の一面に過ぎない。本当
の太子はこの観音のような姿であり、それは俗信とは言えない真実を宿している。この寺は何度も焼けた。この
像も運命を供にした。しかしその都度不死鳥のように蘇った。いやむしろ業火の中でこの世の悲惨を見れば見る
ほどこの世を越えたより確かなものとして蘇ったのではないか。その蘇らせ続けたものがこの像に宿っているの
ではないか。飛鳥の心は火の鳥だったのだ。
・・・二百首の相聞歌・・・
親鸞の聖徳太子信仰は有名である。聖徳太子を奉賛する和讃は二百首にも及ぶ。師の法然上人や浄土七高
僧をはるかにしのいでいる。一応その理由は聖徳太子の示現にあずかり法然上人に出会ったことによるとされ
ている。それはそうだがそれだけでは説明のつかない何かがある。専修念仏という浄土教の前提を揺るがしか
ねないほどのものである。
おそらく親鸞があれほど和讃を作っても誰もあれほど聖徳太子に熱愛を捧げることはできなかったと思う。親鸞
自身も他人にそれを期待していなかったと思う。それでも歌わざるをえない。相聞歌なのである。その和讃に四
天王寺の救世観音が出てくる。「この像つねに帰命せよ 聖徳太子の御身なり この像ことに恭敬せよ 弥陀如
来の化身なり」経典の浄土教を越えた原浄土教がある。親鸞と聖徳太子の出会ったところを説明すればそうなる
だろう。しかし出会いに理由は不要である。
・・・猫と鯉 ・・・
この夏に大阪で研究大会に参加した。大阪に行くのは『キャッツ』を見に行って以来である。さらに『キャッツ』
公演が広島にも来たので、私は『キャッツ』を広島でも見ることができ、何回かこの連載に書いた。
広島での公演中に私の書いたものを鉄道猫のスキンブルシャンクスを演じられた飯野さんに見せて下さった
方があった。そして「猫の浄土教」を描いたという私の解釈を面白がられた飯野さんからサインをいただくことが
できた。ジェニエニドッツを演じられた服部さんのサインも並んでいた。このサインは我が家のリビングの壁を飾
っている。それまでそこにはカープ選手のサインがあったのだが、鯉は猫にとってかわられてしまった。
・・・飛び込んでくるもの・・・
大会の会場が四天王寺の近くだったので、宿をその近くに取り、もし時間の都合が付けば四天王寺にも行っ
てみようかと思っていた。早めに宿に入り、汗をかいたので一階の浴場に行った。時間が早く他の客は一人だ
けだった。広い湯船でのんびりした後、壁際の洗い場で体を洗い始めた時だった。洗い場の上に小さな窓があ
り、わずかに開いていたのだが、突然そこから何かが飛び込んできた。
驚いた私が声を上げたのでもう一人の客も気付いたようだ。飛び込んできたものは床を突っ切りそのまま湯
船に飛び込んだ。眼鏡をはずしていてよく見えない目を凝らして見ると、何とそれは子猫だった。それも近頃珍し
いほどの黒、白、オレンジの毛並みの美しい三毛猫だった。もがく子猫を私はつまみあげ、ミケネコヤマトになっ
て窓から外に出してやった。子猫はパニックになっていたのだろう。
・・・真っ直ぐな道・・・
もう一人の客もこれは驚きますねと言い、笑い話ですんだが、いったいどうして子猫が飛び込んできたのだろ
う。窓の隙間から外を見るとちょうど窓の高さに塀があった。子猫はこの塀から飛び込んできたようだった。塀の
上を歩いていてふと見ると男の肉体美がある。つい見とれて足を踏み外したのだろうか。あるいは『キャッツ』の
ことを書いていた男はどんなやつなのか見に来たのだろうか。
それはないだろうが、真っ直ぐ延びる塀を見て何となく猫の気持ちがわかったような気がした。猫は真っ直ぐだ
からこそ道を踏み外したのだろう。曲がっていれば落ちなかったはずだ。脇見をせず真っ直ぐ歩くのは好奇心
旺盛な子猫には意外に難しいのだ。猫も塀から落ちる。まして人はなおさらだ。きれいな三毛猫で飼い猫かと思
ったが、首輪はなかったような気がする。子猫を助けてから何となく気分がよく、福猫に会ったような気がした。
・・・四天王寺の法輪・・・
大会の終わった日に会場から歩いて四天王寺に行った。広い四天王寺の境内に入ってすぐに立て札を見た。
「猫を捨てないで下さい」と書いてある。この寺には猫が住んでいるのだ。猫の住職がいるのである。さらに近く
で珍しいものを見た。それは石柱に付けられた金色のハンドルのようなものだ。何かと言えば法輪である。手を
触れないのにゆっくりと回り、風向きが変わると逆に回る。立て札との取り合わせが妙だが、猫は動く物に興味
を示すのでこの光る輪に飛びつくのかもしれない。法輪を回す猫を想像して楽しくなった。
四天王寺は聖徳太子が開かれた寺で、真西に向いて開いた極楽門で知られる。ここは極楽の東門と呼ばれ
る浄土信仰の地である。この門に先ほどの法輪よりもさらに立派な法輪が付けられていて、参詣者が回してい
る。門を出ると右手に大きな親鸞像が建てられている。親鸞像を見て、また皆が楽しそうに法輪を回しているの
を見るとうれしくなる。あの道を踏み外した猫もここに来て法輪にじゃれつく時がくるだろうか。ひょっとしてあの
猫はこの寺で生まれた猫で私を誘いに来た招き猫かもしれない。『キャッツ』のグリザベラのように浄土の招き
猫がいてもおかしくない。そう思うと親鸞像も招き猫に見えてくる。浄土の門は全てに開かれている。入らない者
はいたとしても閉じられることはない。
・・・傷だらけの道・・・
私の家から国道に出るまでの間にいつも通る用水沿いの道がある。私が子どものころはもちろん舗装はして
いなかった。今は舗装してあるが、幅はほとんど変わっていない。車同士がすれ違うのが難しく、この道を通り
慣れている人は、すれ違う場所を知っていてそこに近い方の車が待つことになる。そのことを知らない人は鉢合
わせしてどちらかがバックするか、無理に離合しようとして川側に脱輪することになる。スリル満点の道である。
道幅ぎりぎりで車が通ることが多いせいか、この道は川に近い側の路肩がよく傷む。アスファルトに穴が開く
のである。その穴があなどれない。雨水のせいだろう、小さい穴に見えても下に空洞があり、小さく見えた穴の
周辺が数十センチに渡って陥没することがある。こうなるとタイヤがはまれば大変ことになる。その穴をよけて
通るのでただでさえ狭い道がよけいに狭くなる。この道路は補修を繰り返し、到る所にその跡がある。人生のよ
うな数十年に渡る傷だらけの道路である。
・・・敷地の穴・・・
穴が開くのはこの道路だけかと思っていたらそうではなかった。七月の中旬に私の父が住んでいる家の裏側
に突然穴が開いた。家の敷地の中で、そこを通るのは家族だけである。たまたま父が歩いていたら突然地面が
陥没し足がはまりこんでしまった。私が現場を見に行った時にはすでに父が原因を究明しようと地面を掘り返し
ているところだった。
掘り返し始めて驚いたのは、その穴の大きいことである。直径が一メートル深さが七十センチくらいで、その空
洞に水がたまっていた。梅雨明けしたころなので梅雨時の雨が地下にたまり何年もそれを繰り返す内に空洞が
広がったのだろうと思った。水をバケツで汲み出して土で埋めればよいと思ったのだが、汲み出してもしばらくし
てまた水がたまる。
・・・亀裂と空洞・・・
これはおかしい、水道漏れだろうということになり、休日にもかかわらず業者にきてもらった。業者があたり一
帯を掘り返して調べた結果、水道から直接漏れたのではなく、給湯器から二階に送る温水のパイプから漏れて
いるらしいということがわかった。ところがパイプが家の基礎に向かって入り込んでいるために漏れている箇所
が特定できない。結局そのパイプを使わなくするしかないということでパイプを切断することになった。
いったいどうしてこういうことになったのだろう。父の家を建てて二十年以上経つので経年変化も考えられる。
それよりも三年前の芸予地震のせいではないかという話になった。あの時にできた小さな亀裂が冬に凍結を繰
り返し次第に広がり、その亀裂から漏れだした水が地面にたまり空洞を広げたのではないかという話になった。
父の家はあの時の地震でかなり揺れ、壁と柱に隙間ができた。私の友人で室内のパイプが割れた家があった
ので地震が原因だろうということになった。
・・・もう一つの空洞・・・
業者の仕事はパイプを切断するところまでだったので、翌日父が穴を埋め、セメントを割ったところにはセメン
トを張り、見かけ上は以前と変わらなくなった。それにしても穴に足が落ちた時の父の驚きはどうだったろう。数
日してまた父が家の裏を掘り返していた。今度は車庫のあるところである。また地面が陥没したのかと思った
が、そうではなく車の下が沈んでいたので心配で掘ったのだという。今回は空洞はなく笑い話ですんだ。
足下の空洞は確かに恐い。いつも通る道で自分が注意しているからよくわかる。さらにそれが家の敷地でい
つも歩いているところならなおさらだ。しかしその空洞は土やセメントを使えば埋められる。しかし心にできた空
洞はどうやって埋めればいいのだろう。小さな亀裂がいつのまにか広がっているかもしれない。現代文明はこ
れを埋めるものを次々と開発した。より多彩に、より強固に。しかし所詮は虚仮である。仏教の根本精神は「空」
である。心の空洞という虚仮が「空」に転じる。もはや何かで埋め合わせる必要はない。
・・・ポートピアランド・・・
神戸港の近くで夜景を楽しんだ次の日、遊園地の神戸ポートピアランドを訪れた。連休中だったので相当混む
だろうと思ったが、アトラクションの待ち時間はおおむね二十分から三十分というところで、待てる範囲内だっ
た。子どものために行ったようなものなので、子どもを行列に並ばせておいてこちらはベンチに腰掛けて子ども
の順番が来るのを待ち、子どもが乗るときになるとカメラを構えてシャッターチャンスを待つということの繰り返
しだった。誰もが楽しそうで、そういうにぎわいを見ているのも悪くはない。
傍観者というわけではないのだが、多少それに近い立場で見ていると、遊園地というところは回転運動をす
るものが多い。もう一つは上下運動である。回転運動と上下運動が遊園地にある動きの基本のように思える。
回転運動の代表は前日も見た観覧車である。観覧車は遊園地のシンボルと言っていいかもしれない。遊園地
でなくとも最近は街中で大型の商業施設のようなところで観覧車のある施設が増えてきた。遠くから見ても目
立つので広告塔の役割もあるのだろうが、大人でも何か心をときめかせるものがあるのだろう。
・・・回転木馬・・・
今回は観覧車には乗らなかったが、代わりに乗ったのは回転木馬だった。最近の回転木馬は大型化してい
て二階建ては当たり前のようだ。神戸ポートピアランドの回転木馬も豪華なものだった。混んでいたので目当
ての二階に乗れるかどうかと思ったが、運良く乗ることができた。自分は子どもの付き添いなので木馬には乗
れなくてもいいと思ったのだが、子どもの後ろにちょうど空いている木馬があり、自分もそれに乗った。
回転木馬に乗るのは久しぶりである。いつもは子どもだけを乗せて自分は外側からビデオカメラを回してい
るのだが、何となく乗りたくなったのだ。音楽とともに木馬が回転し始めるとそれに合わせて乗っている木馬も
上下運動をする。前にいる子どもが上になったり、下になったりする。あの上下運動は馬が走るときの運動を
まねたものだろうが、人生の浮き沈みに似せているようにも思える。回転木馬には馬車もあるのだが、それに
は上下運動がないので遊具としては今一つである。
・・・遊具と人生・・・
遊園地の遊具に人生を感じるというのは大げさだが、回転運動と上下運動というこの組み合わせは人生の
もっている基本構造と合致するものがあるのだろう。回転しながら上下すると波を描いているように見える。回
転木馬をビデオに撮るのはあの波の動きのおもしろさを撮っているのだと言えるだろう。
神戸港の近くで夜景とともに見た観覧車に「法輪」を感じたと書いたが、夜景の美しさと光り輝く観覧車の美し
さがそれを感じさせたという面が多分にあるだろう。闇の世に光り輝きながら回り続ける姿に感じるものがあっ
たのだろう。しかし仏教にはもう一つ「輪」を使う言葉がある。しかもそれは法輪とは逆の立場で使う言葉であ
る。何かと言えば「輪廻」である。文字通り輪が廻るのである。
・・・二つの輪・・・
法輪と輪廻、動きとしては似たように見える二つはどう違うのだろう。その答えの一つは輪廻には浮き沈み
があるということだろう。六道輪廻と言われるように地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の各界を浮き沈みしなが
ら経巡っている。この上下運動が面白いという見方もできるだろうが、天人の五衰と言われるように無常から
逃れるものではない。「おもしろうてやがて悲しき」という世界である。その動力源は各人の善悪の業や欲望で
ある。
法輪の動力源は法、あるいは如来にある。浄土教ではそれを動かしているのは如来の本願力である。動き
としては往相と還相という二つに分けるが親鸞はいずれも本願力によるとした。自分の力で回れば輪廻とな
り、法の力、如来の力で回れば法輪となる。二つは別ものと考えるより転換するものと言った方がいい。即ち
法輪に転ずるのである。「悪人正機」はその転換点を示す言葉の一つである。
・・・水車・・・
私の家の近くの水田に六月に入って早苗が植えられた。このあたりは以前は水田があちらこちらにあり、
六月になれば人が一列に並んで田植えをする風景がよく見られた。そのあとは水を満々とたたえた水田に
早苗が風に揺れていた。都市化が進み水田は宅地に変わっていった。私の住む地域にはいつのまにか百
貨店ができ、さらにこの秋には八スクリーンの映画館が入った大型商業施設がオープンする予定で、今その
工事の音が家まで響いてくる。それでもまだ水田が残っているのは不思議でもあり、ありがたくもある。
早苗が植えられているのを見ると思い出すのは水車である。水田に水を入れているのは八木用水という江
戸時代に掘られた小川であり、太田川から水を引き入れている。田植えの時期になると水位が上げられ、用
水から田まで延びる細い水路に水が回る。私の子どものころにはさらに用水に水車が建てられて、直接水を
くみ入れるようにもなっていた。水車は子どもの目にはずいぶんと大きく見えた。見上げるような感じだったの
で直径が二〜三メートルはあったのではないだろうか。
・・・永久機関・・・
この水車が回り、川から水がくみ上げられていくのを見るのは楽しみだった。上流から流れてきた水が水
車を回しながらくみ上げれてひとりでに田に入っていく。それが延々と繰り返される。水は常に新しく入ってき
てはそれが田にくみ上げられる。後に永久機関というものができないという話を聞いたが、永久機関をはじめ
に考えようとした人は水車を見て考えようとしたのではないかと思った。
かなり年期の入った水車で、円周にある水をくむ小さな桶のような部分は緑の苔がむしていた。おそらく何
十年も回り続けていたのではあるまいか。ある年それがなくなり、かわりに小さなポンプに変わった。エンジン
のついたポンプでうなり声をあげながら小さいのにどんどん水をくみ上げた。しかし子どもとしてはおもしろく
はなく、もう見る楽しみななくなってしまった。それきりもうその場所で水車を見ることはなくなった。
・・・観覧車・・・
水田に水が入る一月ほど前、五月の連休に神戸で観覧車を見た。神戸港の近くにモザイクという商業施設
があり、食事と夜景見物を兼ねてそこに行った。レストランの目の前に港があり、港をはさんで神戸ポートタ
ワーやオリエンタルホテルが見える。暗くなるにつれライトアップされ、どこか古代遺跡を思わせるような形を
したオリエンタルホテルの青白いライトの点滅は神秘的でさえある。
食事を終えるころにはもう真っ暗になっていた。モザイクから波止場の側に出たとき目に入ったのはモザイ
クの南にある観覧車の光だった。中心から円周までライトアップされ、それがさまざまな色に輝く。回転しなが
ら色が変わっていくので見飽きることがない。いつのまにか一緒にいたはずの子ども二人がいなくなったので
心配したが、まもなく観覧車の方から帰ってきた。観覧車がおもしろくて下に行って写真を撮ったのだと言う。
・・・法輪・・・
その後、港の向かい側にあるポートタワーに昇ったのだが、そこから見てはじめてモザイクや観覧車の全
景がよくわかった。モザイクは巨大な船をかたどっているように見え、満艦飾の趣である。観覧車もそれに負
けない動き続ける電飾である。ポートタワーからは神戸特有の東西に長く延びる光の大河のような夜景が見
える。この光の川の中に浮かぶ船と光をくみ上げる水車のようだった。
そのとき私は法輪という言葉を思い出した。仏陀の初転法輪で知られる言葉である。法輪とは比喩ではなく
真実を言ったものではないかという気がしたのである。仏陀が初めてそれを回したというのが比喩で、法輪
は初めから回っていたのである。子どものとき見飽きることのなかった水車も同じである。流れゆく衆生が浄
土という如来の福田にくみ上げられていく。これこそ永遠に続く永久機関である。見えない水車は今も回り続
けている。
発掘歎異抄59 空中ブランコ(2004年7月号)
・・・テントの中で・・・
春休みに子ども連れでサーカスを見に行った。日本のサーカスを見るのは前回広島で別の団体の興業を
見て以来三年ぶりだろうと思う。その間にロシアの団体の興業を見たこともある。ロシアの団体の興業は体
育館を使ったものだったが、日本の団体の興業はいずれも空き地に大きなテントを張って長期間行う本格的
なものだった。サーカスというとテントを思い浮かべる。大規模に長期間の興行をしようと思えば必然的にそ
うなるのだろうがサーカスにはテントがよく似合う。
何もない空き地にある日突然テントが出現し、夢のような世界を繰り広げる。その非現実的な空間、夢幻
のような世界がテントという仮設の舞台に似合うのだろう。演じる人達は決してそこに居続けることはなく、あ
る日忽然とやってきて、強烈な印象を与えた後、また忽然と去って行く。定住しその安定の中でまた逃れられ
ない息苦しさを感じている者達にはそれもまた魅力である。一所不住という点では昔の遊行僧に似たところ
がある。
・・・現実を吹き飛ばす・・・
そうはいうものの団員にとっては大変な生活だろう。特に子どもの教育は大きな問題だと思う。広島での興
業に当たり、団員の子が転入した幼稚園で園児達がサーカスに特別招待されたという話を聞いた。しかしそ
うして親しくなってもまた数ヶ月で別れがやってくるのである。それが繰り返されるのだろう。
公演にはそんな現実を吹き飛ばすだけの力がある。このサーカスの売り物の一つに金網でできた球の中
を三台のオートバイが高速で縦横無尽に走り回るというものがある。危険行為が大好きな暴走族でも尻込み
するだろう。どうやってタイミングを合わせるのだろうか。サーカスのショーにはたいていは命綱とか防護ネッ
トのような安全対策があるが、これにはヘルメット一つがあるだけである。
・・・ブランコ乗りとタレント・・・
このすごいショーでも全体のとりではない。サーカスのとりは何と言っても空中ブランコだろう。下にはネット
が張ってあるが見上げれば迫力がある。ピエロはわざと失敗してはっとさせる。大技の連続はうならせるもの
があるが、中でも目隠しの空中ブランコは圧巻である。失敗しました、ごめんなさいではすまない。空中ブラン
コ乗りの名にかけて決して失敗は許されない。私が見た日の公演は見事に成功したが、客席からは本当に
目隠ししているのだろうかという声もあった。しかし最後に自分のブランコに戻る時にしがみつくような姿勢が
あり、見えていたらああはなるまいと思った。たいしたものである。
この公演を見る前に地元のテレビ局の番組で運動能力を売り物にするある若手タレントが空中ブランコに
挑戦するという企画があった。目隠しではない。片側から飛んで、もう片方の団員に手をキャッチしてもらうと
いうものだ。飛ぶタイミングが難しいだろうと思った。ところがタレントは飛ぶことさえ、つまりブランコから手を
放すことさえできなかったのだ。一時間の生番組で何度もチャンスをもらいながらとうとうできなかった。
・・・恐怖を越えて・・・
サーカスを見た後で同僚の体育の先生にこの語をしたら自分もその番組を見たと言い、あの飛べなかった
気持ちがよくわかると言った。自分が体育大学時代に高飛び込みに挑戦しようとした時のこと、飛び込み台
に上がって下を見た途端、プールが小さく見えて飛び越してしまいそうで飛べなかったのだという。あのタレン
トも下を見下ろした途端にネットが小さく見え、手を放したが最後、相手に手が届くどころかネットの上にも落
ちないように思ったのだろうということだった。
恐怖から人は何かにしがみつき、それを放すことがさらに大きな恐怖となる。何にしがみつくかは問題では
ない。しがみつくということが身にしみついている。その恐れしがみついている白分に気付くことが悪人正機で
ある。手を放すことは難しい。如来の御手と慈悲の網が必ず受け止めてくれるのだと聞かされても。他力の
信の難しさがそこにある。
・・・棟方志功・・・
「柳宗悦の民芸と巨匠たち展」には柳の発見した民芸の作品ととともに柳と親交のあった作家達の作品を
展示してしていたが、作家達の中で最もよく知られているのは棟方志功であろう。棟方の人気はその作品の
魅力も当然のことながら、その独特のキャラクターによるところも大きいと思う。一種の野生児である。岡本
太郎にも同様の面があるが、岡本太郎の場合は芸術家の家に育ち芸術教育を受け、フランスにも留学する
という芸術や学問の正統的な基盤があった。その上で意図的にそれに反逆したり破壊したりするという姿勢
をとっていた。それは彼のエネルギーが既存の枠の中に収まりきれなかったからである。
棟方ははじめからそういう枠の中にいなかったと言ってよく、認められたのは幸運だったと思う。柳達の民
芸運動のグループに認められなかったら、今日これほど棟方の名が知られることはなかっただろう。柳が棟
方を認めることができたのは作家の名によるのではなく、作品だけに向き合い評価するという民芸作品発見
で培った力があったからだろう。
・・・志功の書・・・
今回の展覧会には柳と棟方の強い結びつきを示す作品が出されていた。その一つは版画(板画)ではなく、
書であった。縦書きの一メートル以上ある大きな書で、太い筆で黒々と「柳仰」と書かれている。実に力強い
筆である。ほれぼれとしてしまった。書の意味は言うまでもなく「柳宗悦を仰ぐ」という意味である。自分を評価
してくれたからなどという打算的なものではなく、心からまっすぐ柳を仰ぐという気持ちが伝わってくる。
これは棟方と柳との結びつきを示すための資料的価値というレベルを越えて立派な作品だと思った。作品
と言っていいのかどうかもわからない。それ以上かもしれない。親鸞が法然にもった気持ちも書にすればこう
なるかもしれない。いやそれよりももっと直接的でまっすぐかもしれない。中世の往生物語に出てくる念仏者
や妙好人の信仰を思わせるようなものがある。柳はこれを見てどう思ったのだろう。おそらく自分に向けられ
たということを別にしてこの書を好んだに違いない。棟方のキャラクターとはこういうものなのだ。
・・・花の言葉・・・
その棟方が師と仰ぐ柳のために刻んだ版画(板画)がある。「心偈(こころうた)」というもので柳の書いた宗
教的な短い言葉を刻んだ十数枚の色紙大の作品である。晩年病に倒れた柳を励ますために彫られたものだ
そうだ。こぶりの作品であるせいか静かな感じがする。柳の言葉だけではなく言葉に添えて仏や草花や鳥が
色とりどりに彫られている。見ているうちに言葉も花のように見えてくる。
棟方は柳の言葉をお経のように読み浄土の中に花のように散りばめたのではないかという気がした。そう
言えば棟方の作品は言葉が彫られているものが多いが棟方にとって言葉は花のようなもので絵画と異質な
ものではなかったのだろう。柳は絵を描かなかったが柳は言葉で絵を描いていたのだろう。この作品は二人
が出会ったところをよく示している。
・・・六字の中で・・・
浄土教の祖師達の言葉に親しんでいる者にとっては特に難しい言葉があるわけではなく、いい言葉が並ん
でいた。ただ短い言葉なので解釈の違いもあるだろう。家に帰って図録に付けられた柳の自注を読んでいた
ら少し私の受け取り方と違う言葉があった。「嬉シ 悲シノ 六字カナ」という言葉である。私の受け取り方は、
嬉しい時も南無阿弥陀仏、悲しい時も南無阿弥陀仏、この世のことはみな南無阿弥陀仏の六字の浄土に浮
かんでは消えていくものだという受け取り方だった。
柳の自注は救われる嬉しさを感じれば感じるほど我が身の悲しさを感じざるを得ないという内容だった。な
るほどその通りで親鸞もよくそういうことを言っている。これは誤解を云々するより、自分の心境にあった受け
取り方でいいのだろう。浄土を思わせるような棟方の版画の影響もあるかもしれない。あらためて思う、「嬉し
悲しの浄土かな」。
・・・柳宗悦・・・
広島で「柳宗悦の民芸と巨匠たち」という展覧会が開かれた。美術から宗教まで幅広い分野に渡り深い見
識をもって評論活動を展開した柳宗悦は私にとってはお手本のような存在である。晩年は浄土教にも深い関
心を寄せ、妙好人の研究もある。一生を愛と美の世界に捧げた浄土の使徒と言ってもいい人である。
柳宗悦はすでに評価の確立している作家の作品ではなく、自らの目でそれまで見向きもされなかったもの
の価値を発見した。美の発見によって美の創造をしたのである。そのようにして発見され紹介されたものの
中でよく知られているのは民芸であり、作家では棟方志功であろう。民芸とはそれまでは職人の作る雑器とし
てしか扱われなかった工芸品に美を見いだしたものである。展覧会がその民芸作品だけでなく、棟方志功を
はじめとして柳の影響を受けたり柳の同志的存在だった作家を取り上げたのは、人を呼び寄せる上では民
芸だけでは苦しいと考えたのかもしれない。
・・・民芸と巨匠・・・
私も柳宗悦の名を聞いたときうれしくなつかしい気持ちがしたが、現代の人々がどれほど柳宗悦のことを知
っているのか疑問で、地味で静かな展覧会になるのではないかと想像していた。しかし行ってみると休日のせ
いか盛況でしかも若い人がかなりいるのに驚いた。柳宗悦が亡くなってからすでに三十年近く経つので若い
人で知っている人は少ないのではないかと思ったのである。前年に棟方志功の展覧会が開かれたせいかも
しれない。
展覧会は四室からなる二部構成になっており前半が柳宗悦が収集した民芸品を展示し、後半が巨匠たち
の作品の展示であった。民芸というと日本の民芸だと思ってしまうがそうではなく柳は朝鮮の民芸の発見者で
もあった。柳の時代、植民地として一段下に見られがちであった朝鮮の美を紹介した功績は大きいものがあ
る。この展覧会でも私の好きな朝鮮の白磁が第一室に展示されていた。
・・・無名の作者・・・
第二室は日本の民芸が中心で、部屋の中央には柳が収集した作者がわからない焼き物が置かれていた。
その中のある陶器に目を引かれた。三十センチほどの高さで、上部がふくらんだごく普通の形の壺だが、黒
一色である。つやのない素焼きのような黒い地肌の上に垂らしたような釉薬の筋が流れている。黒一色の中
に何か表情があるのである。
前の部屋で白磁を見たばかりなので対極にある黒い壺に惹かれたのかもしれない。白磁は白一色だがそ
れだけに魅力を出すのは難しい。洋食器のようにただ清潔なだけに終わってしまうおそれがある。しかし誰に
も好まれる色であることも確かで汚れのない世界への憧れをかきたてるものがある。宗教の世界では白が神
聖な色の中心であろう。柳が朝鮮の白磁に惹かれたのは柳のもつ宗教心からして必然の成り行きだったか
もしれない。
・・・光る筋・・・
黒地の上に自然に垂れたような光る筋は涙が流れたようにも見え、あるいは無の世界からはじめて流れ出
したもののようにも見える。黒というより玄と呼んだほうがいい色かもしれない。黒は宗教的には無明や罪の
表象にも使われるし、あるいは無の表象にも使われる。この壺はどちらにもとれるような作品だが、私には黒
い筋が陶工の流した涙の跡のように見えた。悔恨の涙ではなくあふれて止まらない歓喜の涙のように見えた
のである。
説明書きに目を移したとき「信楽」の文字が目に入った。私にはそれが「しんぎょう」に読めたのだが、言う
までもなく焼き物の里「しがらき」であった。聖武天皇の紫香楽宮のあった滋賀の信楽である。「しんぎょう」と
読めば浄土教で言う救われた喜びをさす。この陶工は「しんぎょう」の体験者で、念仏を唱えながらこの壺を
作ったのではないかと言う気がしてきた。そうなればこれは悪人正機の壺である。柳はこれを古道具屋の棚
の片隅で見つけたという。柳のもつ宗教的感性がこの壺に目を止めさせたのだろう。柳はこの壺とどんな語
らいをしたのだろう。
・・・そのまた前は?・・・
鶏が先か卵が先かという疑問は日常的なことから神学的な問題まで応用範囲の広い疑問である。浄土教
の場合で言うと浄土が先か仏が先かという問いを持ち出すことができる。経典では仏の本願から浄土は生ま
れたことになっている。しかし我々の実感からすると、まず世界があってそこに自分が生まれるのだから、人
が先にあり世界が後から生まれるというのは理解しにくい。仏とは人が悟りを開いてなるものだという仏教の
前提がある。
『徒然草』に有名な話がある。兼好法師が八歳の時に父に質問する。仏とはどういうものかと。父は仏は人
がなったものだと答える。ではどうやって仏になるのかと尋ねると仏の教えによってなったのだと答える。では
その教えた仏はどうやってなったのかと尋ねるとそのまた前の仏の教えによってなったのだと答える。こうし
て父は問い詰められてはじめの仏は天から降ったのか地から湧いたのだろうかと言うしかなかったという話
である。
・・・南無極楽浄土?・・・
兼好は僧になったのだからこの問答が不毛なことはよくわかっている。それでも書いてみたくなるのがおも
しろい。仏が先で浄土が後だと言われても、ではその仏はどこにいたのか、どこから生まれたのかという話に
なる。別の仏の浄土にいたのだとすると、ではまたその仏は、となってしまう。不毛な問答だと言うのは、自分
を離れた一般論として話す限り自分の救いには直接関係ないことである。経済学の理論を完成させるより今
日明日の飯の種をどうするかという方が大事である。
しかし信心の場面になるとこの問いはあながち無意味だとは言えない。あなたが信じるのは浄土が先なの
か仏が先なのか、あるいは浄土が先なのか本願が先なのかということである。浄土が先ならば仏は浄土の
付属物のようになってしまう。口には南無阿弥陀仏と唱えながら実は南無極楽浄土になっている。
・・・ある修道士・・・
こんなことを考えたのは授業で井上ひさし作『握手』を読んだからである。この作品は作者の体験をもとに
書かれたそうだが、この作品に「ルロイ修道士」というカトリックの僧が出てくる。ルロイ修道士は仙台でキリス
ト教の養護施設の園長をしていた人である。主人公の「わたし」はその施設に預けられ卒園し成人したのだ
が、東京にいるわたしを訪ねてルロイ修道士がやって来る。ルロイ修道士は年老いて故郷のカナダに帰るこ
とになったので、帰る前にさよならを言うために卒園生に会って回っているのだと言う。実は先生は重い病気
になっていて余命が短いことを知り、そのことを隠していたのだった。
先生と会話を交わしながら思い出が次々と語られる。そこにはキリスト教の教えを実践していた先生の誠実
で愛に満ちた行動や言葉が登場する。先生は戦争中に収容所に入れられてひどい目にあったという噂だっ
たが、そのことを謝罪するわたしに対して日本人とかカナダ人とかアメリカ人とかあると信じてはいけない、
「一人一人の人間がいる」、それだけだと語る。まさに神の前の平等である。
・・・最後の宿題・・・
先生と語る内に先生の様子がどうもおかしくひょっとしてこれは永遠の別れの儀式ではないか、先生の遺言
を聞いているのではないかとわたしは気付く。上野駅で別れる前にわたしは思い切って聞く、先生は死ぬの
は怖くありませんかと。先生は少し赤くなって頭をかき、天国へ行くのだからそう怖くはないと答える。重ねて、
天国はありますかと聞くわたしに、天国に行くと思ってそのために何十年間神様を信じてきたのだと先生は答
える。
死を前にしての正直な告白だと思う。生涯を恵まれない異国の子弟の養育に捧げた人の信仰は死の恐怖
を乗り越えるために天国を信じ、そこに行くために神様を信じるというものだった。信仰としては天国が先か
神様が先かといえば天国が先だったことになる。これは素朴な浄土教である。それでは天国に行ったところ
で信仰は用済みになるのか。先生が我々に残してくれた最後の宿題である。
発掘歎異抄55 思い出と希望
(2003年3月号)
・・・直線と円環・・・
思い出は過去のことである。希望は未来のことである。直線的に考えるときには方向は逆になる。それで我
々は思い出に浸ってばかりいないで希望に生きようとか、後ろばかり見ていないで前を向いて生きようなどと
言う。一方浄土教では浄土を起点にこの世と行き来する循環を考える。そのため思い出も希望もともに同じ
浄土を思っていることになる。だから思い出がそのまま希望になるということになり、両者は分けることができ
ない。
直線的なものの考え方をするときと循環的なものの考え方をするときにはしばしば両者は別に見えるが、実
は直線と見えるものは大きな円環の一部に過ぎないことがよくある。この地球の上でもまっすぐにどこかに向
かって進むとき、地球を平面として考え、直線的に進むと考えれば出発点には決して帰って来ないはずであ
る。しかし実は地球は丸いので、まっすぐ進めば必ず出発点に帰って来る。だから出発点に向かって進んで
いることになる。思い出と希望も同じ構造をもっている。
・・・『故郷』・・・
最近授業で魯迅の『故郷』を読んだ。中学の国語教科書の中では定番と言ってよい作品である。これは魯
迅が数十年ぶりに帰郷した時の体験をもとに書かれたと言われている。新しい地での生活を始めた魯迅が
故郷の家を売り払うために帰郷する。帰郷した魯迅に故郷の人々は冷たい。それは地主であった魯迅一家
への反感や革命後に新政府の役人となったという魯迅へのねたみのためであった。
その中で魯迅が心待ちにしていたものがある。それは魯迅と会いたがっているという幼友達のルントー(閏
土)との再会であった。ルントーは魯迅一家の雇い人の子であったが幼い魯迅にとっては自分の知らない世
界を教えてくれた小英雄であった。しかし再会した二人の間には悲しむべき厚い壁があり、もはや昔の友情
は戻らないことを知らされる。封建制を打破し平等な社会の実現を夢見ていた魯迅にとっては大きな衝撃で
あった。
・・・偶像崇拝と希望・・・
気が滅入ったまま故郷を後にする夜、船に横たわり魯迅は希望について考える。新しい世代が自分たちの
経験したようなことを味合うことなく新しい生活をすることを。そのとき魯迅は希望と偶像崇拝の違いを考え
る。ルントーが苦しい生活の中で神仏にすがっていることを知っていたからである。神仏にすがったところで
苦しい生活は何も変わらず気慰めの偶像崇拝に過ぎないと魯迅は考える。いわゆる「宗教はアヘン」という考
え方である。
それでは自分の希望はどうなのか。それも手製の偶像で慰めに過ぎないのか。そう考える彼の目に故郷の
風景が浮かんでくる。紺碧の空には金色の丸い月がかかっている。以前はこの景色を思い出すときにはそ
の中に小英雄のルントーの姿もあった自分の心の中の故郷である。この思い出の月に照らされながら地上
の道を思う。希望とは道のようなもので歩く人が多くなれば道になるのだと。
・・・大きな円環の中で・・・
希望は実現しなければ偶像に過ぎないというのは一つの考え方である。しかし思い出と希望と道が一つになっ
たときそれはもはや偶像とは言えないレベルにあると思う。それは人生を貫いて自分を生かしているものであ
って実現するかどうかということがもはや問題ではなくなっている。大きな愛という円環の中に思い出も希望も
ありそれを歩むことが自分の道になっている。円環はどこにいても同じである。それは希望に向かって歩いて
いるとも、思い出に向かって歩いているとも、ただ自分の道を歩いているのだとも言える。
この最後の場面が『キャッツ』の「メモリー」に重なる。月は思い出の場面にふさわしい。ひそやかな愛の象
徴である。希望には太陽の方がふさわしいと思われるだろうが、月に照らされて語られる希望もまた真実味
がある。愛があるとき希望は思い出とともに無意識の隠された宗教になる。愛というこの大きな円環のどこに
あなたはいるのだろう。本願もまたこの円環であり始終はない。
発掘歎異抄54 もう一つの「メモリー」 (2003年1月2月合併号)
・・・「求める」から「与える」へ・・・
ミュージカル『キャッツ』でグリザベラが「私にさわって 私を抱いて」と歌ったのは自分が初めて知った「幸
せの姿」を他の猫達に分け与えようとする利他の精神だということを書いた。グリザベラは娼婦猫だったの
だから人からさわられ、抱かれる機会は他の誰よりも多かったに違いない。しかしそれは相手の求めに応
じただけであり、しかもそれには報酬という対価がある。自分から何かを与えたいと思ったことはなかっただ
ろう。
人はこの世に生まれたときから何かを求めて生きている。食べ物がなければ生きていけないから、求め
ることは我々の本能的なあり方といっていいだろう。やがてそれは動物的本能によるものだけでなく、もっと
精神的なものを含めたものに変化してくる。しかし求めるという基本の姿勢はなかなか変わることはない。
求めることから与えることへの転換はそう簡単にはできないことである。誰でもその転換を迫られるのは子
を持って親になるときである。しかし自分の幸せだけを求めてきた人にとってこれは容易なことではない。
・・・期待のはてに・・・
求める側から与える側に変わることは経験した者にとっては大きな変化だが、求める側にはこのことはな
かなか理解されない。求める側はもっとほしい、もっとほしいと際限なく思うものであり、満足ということを知
らない。自分の求めるものを与えてくれなければ相手が悪いと思うのである。子が親に対して子どものとき
に思う感情はたいていは親が自分に何かをしてくれないという不満である。
イエス・キリストが十字架にかかった理由の一つには民衆が彼を裏切ったという面があるだろう。彼が救
世主として登場したとき初めは偽物ではないかという疑いが起こる。それが過ぎると今度は過重な期待が
かかる。何でも救ってくれるはずだとう思いである。そうなってくるともはや宗教の領域ではなく政治の領域
になるのだが苦しむ民衆にはそれはなかなか理解されることではない。
・・・さわる女・・・
グリザベラが最後に歌った「私にさわって」という思いはイエスにも共通の思いだろう。それはあふれるも
のを持った者の思いである。しかしそれは真の愛、慈悲という性質のものであり、民衆が要求するレベルの
ものではなかった。この与えようとするものと求められているものとの間の落差は彼を悩ませたに違いな
い。グリザベラと、娼婦だったと言われるマグダラのマリヤが重なると書いたが、彼女はそれがわかる一人
だったと思う。
救いを求めてイエスに近づき、本当に彼にさわる人もいた。十二年間長血をわずらった女性がイエスの衣
にさわるという話がある。さわるだけで治してもらえると思ったからである。それに対してイエスは「あなたの
信仰があなたを救ったのだ」と答え、その時に女は癒されたとある。別の伝ではイエスは自分の衣に誰か
がさわり、自分の内から力が出て行ったことに気付いたとある。あふれる何かがあったのだろう。しかしイエ
スがしてほしかったのは彼の命の源にあるものにさわることだった。それが信仰ということである。
・・・「さわって、俺に」・・・
「私にさわって」という言葉を私も聞いたことがある。『最高に生きたい』の中にあるダンテス・ダイジの言葉
である。この世にあるものはすべて解釈だということをダイジが言う。目の前にある飲料水をさしてここに飲
料水があるというのも一つの解釈だし、ここに「命」があるとも言えると言う。それに対して私は芸術家がそう
かもしれないと言う。
その時突然ダイジが「さわって、俺に。もっとしっかりと。もっと、もっと。ありがとう」と言った。戸惑う自分が
目に浮かぶようだ。一般人と芸術家という分別にいる私にもどかしくなり、言葉を越えて一足飛びに「命」を
伝えようとしたのだと思う。私達がともに過ごした短い時間の中でダイジが伝えようとしたのはそのことだっ
た。その人はもういない。これが私の「メモリー」である。念仏は無量寿という無限の命に触れることである。
・・・三度目の・・・
『キャッツ』の中で歌われる曲は名曲ぞろいだが、中でも「メモリー」はこのミュージカルの主題歌と言える
名曲である。この曲が歌われるのは第一幕の終わりの場面と、第二幕の始め、そして第二幕の終わりに近
い場面の三回である。第二幕の終わりではこの曲を歌った後、グリザベラは長老猫に伴われて昇天する。
この曲を歌ったことによって、長老猫はグリザベラをジェリクル・キャッツとして選んだのである。三回目の
「メモリー」からこの昇天の場面にかけてがこのミュージカルのクライマックスと言っていい。
同じ曲なのだが、一回目と二回目、そして三回目は明らかに異なる役割を果たしている。一回目は落ちぶ
れたグリザベラが思い出をなくしたことを悲しげに歌う。二回目は長老猫の示す「幸福の姿」に導かれて子
猫のシラバブがまず「メモリー」を歌い、続いて全員が歌う。そして三回目はグリザベラが思い出を取り戻し
たことを歌う。ところが、一回目と三回目は同じ人物が同じ曲を歌うので、注意しないとその違いを聞き逃し
てしまう。
・・・見えない変身・・・
舞台を見ていて思うのは、人間は見かけに相当左右されるということである。ミュージカルは見て聞くもの
だが、舞台を見ているとまず見てしまう。その見た印象はかなり強いものがある。グリザベラの場合は、一
回目の登場の仕方がいかにもみすぼらしく、年に一度の祭りの場にふさわしくない登場の仕方をする。その
ために他の猫から威嚇を受ける。 第二幕の終わりに登場するときも第一幕と見かけは同じである。ぼろ
ぼろの衣装をまとい、いかにもみすぼらしい。違うのは「メモリー」の内容と歌い方である。この歌う途中あた
りから昇天の場面にかけてグリザベラが光輝く姿に変身してもいいのではないかと素人は思ってしまう。た
だそうすると今度は歌の変化が聞き逃されてしまう可能性がある。ここはじっくりと聞いて彼女の見えない変
身を感じ取るべき場面なのだろう。
・・・自利?・・・
かく言う私もこの最後の「メモリー」の絶唱を聞き取れたわけではない。「お願い 私にさわって 私を抱い
て 光とともに わかるわ 幸せの姿が ほら見て 明日が」この「私にさわって 私を抱いて」というところが
よくわからなかった。第一幕で他の猫達から祭りの場にいることを拒まれて疎外感を味わった彼女が、他の
猫達に自分を受け入れてほしいと懇願しているのかと思った。そうすると「わかるわ」の主語は誰なのだろ
う。これがグリザベラだと他の猫達から愛されて初めてグリザベラは「幸せの姿」がわかることになる。それ
までは「幸せの姿」がわかっていなかったことになり、どうもおかしい。
あるいは「光とともに」とあるので、神仏のようなこの場に見えない聖なるものに向かって「私にさわって
私を抱いて」と言っているのかとも思った。聖なるものの救いを求めて聖なるものの光に包まれ、グリザベラ
は「幸せの姿」を理解したことになる。これは通らない解釈ではないと思うが、「メモリー」即ち誰にでもある
思い出によって幸せの姿を知るという流れからはずれる気がする。
・・・利他へ・・・
こう考えると「さわる」のは他の猫達であり、「わかる」のも他の猫達ということになる。「思い出」によって得
た「幸せの姿」を他の猫達に分け与えたいので自分にさわってほしいということになる。いわば自利から利
他へ踏み出しているのであり、一種の菩薩行である。長老猫としてはグリザベラのこの心境は彼女をジェリ
クル・キャッツにふさわしい存在と認めるに充分なものだったろう。
ロンドン版の詞は「さわる」の前にも「わかる」の前にも同じ「YOU」という主語が入っており間違いないだろ
う。私がわからなかったのは主語を省略する日本語のせいもあるが、日頃の自分の心性の影響だろう。人
に愛されたい、神仏に愛されたいと、愛されたい思いばかりだからだろう。「メモリー」を聞いてもう愛されて
いる自分を思い出そう。
・・・『キャッツ』再会・・・
広島で行われている劇団四季の『キャッツ』公演を見た。昨年大阪で見て以来、一年ぶりである。大阪で
見た後、この連載で何回か取り上げたのでもう書くことはないと思っていたが、実際に見るとまた書きたくな
った。この連載そのものが『歎異抄』をもとにしていて、そこに表された浄土教の世界を描こうとして毎回筆
を執っているのだから、『キャッツ』も『歎異抄』も同じような魅力を持って私に書かせようとしているのだと思
う。二つの世界が重なっていて出所が同じなのだ。
我々見る方もだが、演じる方も魅力を感じなければこれだけ続けることはできないだろう。『キャッツ』を初
演から演じている服部良子さんや飯野おさみさんは広島公演でも出演中である。新聞に服部さんのインタ
ビューが載っていたが、「一回一回が新しい舞台であり、一期一会」との言葉があった。広島公演は好評の
ため二度にわたり延長が決まり、広島公演中の十一月に日本初演から二十周年を迎えることになった。広
島が栄光のキャッツ・シティーとして名を残すことになった。
・・・「唯一の名」・・・
同じ作品を見ても印象に残る箇所は少しずつ変わる。今回の公演を見てもう一度考えたくなったことがあ
る。その一つが「唯一の名」である。この言葉は冒頭で歌われる「ジェリクル・ソング」に続けて歌われる「ネ
ーミング・オブ・キャッツ―猫の名」の中に出てくる。日本語版での詞は「瞑想している猫がいたら その理由
は みんな同じ 深い想いに 沈みながら 猫の心は 思う その名を いうに言えない 唯一のその名を
はかり知れない 唯一のその名を 唯一のその名 唯一のその名・・・」となっている。
「ジェリクル・ソング」の後に歌われるので「その名」を「ジェリクル」と受け取るのが流れとしては自然だろ
う。キリスト教思想を背景としていることを考えれば、唯一の神、救世主、キリストなどと重ねて考えてもいい
と思う。仏教的に解釈すれば仏、如来でもいい。ジェリクル・キャッツに選ばれることとこの瞑想はつながっ
ているはずである。
・・・「HIS NAME」・・・
実際にジェリクル・キャッツに選ばれたのは娼婦猫のグリザベラであり、彼女が歌うのが「メモリー」なの
で、「唯一の名」と「メモリー」の関係を考えようと思った。念のためにロンドン版の原詞を見ておこうと思い、
日本版の詞とロンドン版の詞を比較していたときにある言葉が抜けていることに気付いた。「HIS」である。
「THOUGHT OF HIS NAME」、即ち「猫が彼自身の名を思う」となっている。
こうなると、猫が思う「その名」を、最終的には「ジェリクル」として間違いではないだろうが、はじめから「ジ
ェリクル」としていいのか少しためらいを感じる。猫はまず彼自身の名を思うのである。それは人間から与え
られた名前ではない。他から与えられたのではない、彼自身の名前なのである。人間の名前でも、猫の名
前でも、我々はそれを固有名詞として扱うが、固有とはもとからあるということであり、外から与えられた名
前は本当の意味での固有名詞とは言えない。
・・・「いうに言えない」・・・
外から与えられたのでもなく、また自分で新たに付けるのでもない。いわば記憶喪失になって忘れてしまっ
た自分自身の名を思い出すのである。だから「メモリー」が「ジェリクル」への道になる。自分の名を思い出し
た猫が「ジェリクル」と呼ばれる。気を付けなければいけないのは、彼が「ジェリクル」と呼ばれるからといっ
て、それが彼が知っている自分の本当の名前とは限らないことだ。
その本当の名を言おうとすれば「いうに言えない」が、「いうに言えない」に当たる原語は「INEFFABLE」で、
それには「言語を絶した、言ってはならないほど神聖な」という意味もある。宗教的な深さをもつ語である。
グリザベラは長老猫に導かれて自分の本当の名を思い出したが、思い出したことを歌うだけでそれを語る
ことはしなかった。「ジェリクル」とは本当は名前のない猫なのかもしれない。
・・・土井が浜・・・
下関から北に続く日本海側の海岸は本州の西端になる。美しい海岸線が続くが、ここに弥生文化を考
える上で重要な土井が浜遺跡と人類学ミュージーアムがある。縄文文化や弥生文化については新たに
遺跡が発掘されたり、また測定方法の進歩によって年代の見直しが行われている。最近も弥生文化の
始まりを早める発表が大きな議論を巻き起こした。
弥生文化を考える際には北九州地方が注目されることが多く、私も弥生文化との関係で宗像大社や、
その沖にある沖ノ島に注目してきたが、山口県の西岸も北九州とは一つながりである。実は六連島に
も、音次郎遺跡と呼ばれる縄文時代から弥生時代、古墳時代にかけての遺跡がある。また「六連(むつれ)
」の語源を朝鮮語で集落を意味する「モッアール」に求める説もあるそうで、大陸や朝鮮半島との関係が
考えられる土地である。
・・・西を向く顔・・・
土井が浜が注目されたのは大量の弥生時代の人骨が発掘されたからで、その数は約三百体にもの
ぼる。海岸の小高い丘が埋葬地になっており、現在遺跡の上にドームが設けられて保存が図られてい
る。薄暗いドームの中に入ると砂の上に人骨が横たわっている。今置かれているものはレプリカなのだ
が、知らなければ本物に見える。回廊から中心に突き出たような場所があり、埋葬地の内側に立つこと
ができる。白い砂の上の白い人骨。人はみな最後はこうなるのだと感慨に襲われる。
この埋葬で注目されたのは人骨の顔がみな西を向いていたことである。海岸の小高い丘から、海側、
即ち西を向いて葬られていたのである。いったいそれが何を意味するのか。海側あるいは西に重要な
意味があると考えるのは当然だろう。それを考えるにはこの人骨の特徴を見る必要がある。このドーム
で覆われた遺跡に隣接する人類学ミュージーアムではこの点を分析している。
・・・渡来系弥生人・・・
土井が浜の出土人骨は縄文人とは明らかな違いをもっている。身長が高く、顔が長く、彫りの浅い顔
である。人形埴輪の顔を思い浮かべればいいだろう。ミュージーアムでは日本各地で出土した各時代の
人骨の特徴から自分がどのタイプか示すことができる装置もあり、楽しみながら自分と日本人のルーツ
を考えることができる。島国として孤立しているように見えても、その実、多くの外来の人や物の影響を
受けて、時間をかけて消化し、取り込んできたのがこの国のあり方である。
結論から言えば、土井が浜の人骨は大陸からの渡来人か、あるいはその渡来人の身体的影響を大
きく受けた混血の人々の人骨であると考えられている。「渡来・混血」説と呼ばれる考え方である。一九
九○年代になってさらに中国の山東省の遺跡から出土した戦国時代から前漢時代の人骨との比較研
究が行われ、土井が浜の人骨は「渡来系弥生人」と呼べることが明らかにされている。
・・・源郷を想う・・・
土井が浜の人骨がそろって西を向いていたのは彼らの故郷が海の彼方、西にあったからだろう。自分
たちのルーツとしての西と死後に還るべき国が彼らの中では重なっていたのだろうと思う。ミュージーア
ムには土井が浜で見た夕日の写真が大写しにして飾られていたが、夕日と海の彼方と西は彼らの源郷
を示す限りなく懐かしいものだったのだろう。その思いが埋葬の仕方に反映したのだろう。
我々が現在受け継いでいる浄土教はインド・中国に始まり、日本では源信、法然、親鸞、蓮如と伝授さ
れてきたものだが、仏教としてのこのような法脈とは別にそれを受け入れる下地となる素朴な浄土教が
あったのだと思う。土井が浜の人々は毎日夕日を拝みながら故郷や先祖の土地を思い、また自分も死
後そこに帰ることを夢見たのだろう。先祖崇拝と死後の往生とを求める素朴な浄土教がそこにあったの
だと思う。そしてそれは現在の多くの人々にとっての浄土教と実はそれほど変わらないかもしれない。西
の端のこの岸は昔から浄土にいちばん近い岸だったのだろう。
・・・溶岩の島・・・
六連島を歩いていて土が普通と違うのに気が付いた。赤茶けてぼろぼろした土である。どうやら溶岩
性の土のようだった。山口県では萩に笠山という小さな火山がある。萩湾の東の端にあり、西の端にあ
る萩城と向き合う形になっている。この山の頂上部まで車で行ったことがある。小さな噴火口があり、形
は小さいが立派な火山である。そこで見た土と同じである。六連島は平らな島なので、この島が火山だ
とは思わなかった。見落としたのかも知れないが、火口らしいものはないので溶岩だけが海上に出てき
たのかも知れない。
萩の笠山に登ったとき、海上に幾つもの平らな島が見えたが、あれも溶岩性の島だったのかも知れな
い。萩は明治維新胎動の地として有名だが、ここに火口をもつ火山があるのはこの地にふさわしいと思
う。維新の志士たちはこの山を望みながら自分たちもまた一つの火山になろうとしたのだろうか。同じく
明治維新を主導した薩摩の志士たちは桜島を見ながらエネルギーをもらったに違いない。
・・・天然記念物・・・
火口は見あたらなかった代わりにおもしろいものを見つけた。花畑の中の道を歩いていたときに国の
天然記念物があることを示す標識が立っていた。行ってみると直径二、三メートルの岩がある。表面に
小さな凹凸が無数にあり、珊瑚礁のように見える。説明を読むと「雲母玄武岩」というものだった。火山
活動によってできたもので、世界に三カ所しかないという非常に珍しいものだった。
この説明でこの島が火山だというのは間違いなかった。それにしてもたった一つだけ島の上に転がっ
ていてよく残ったものだと思う。庭石として使えない大きさではない。誰かが興味を抱いて動かす気にな
ればできそうなものだった。ここに火口があって噴き出したマグマが固まって岩となり、そのあと火口が
崩れて岩だけが残ったのではないかと勝手な想像をしてしまう。あるいは、限りなく澄んだ青空を見つめ
ていると、ここが世界の中心でそれを示す目印として天から降ってきたのではないかと思えてしまう。
・・・マグマの岩・・・
西教寺で妙好人「おかる」の立派な記念碑を見てきたが、彼女を記念するには世界の中心にあるよう
なこの岩の方がふさわしいような気がする。重そうな岩だが勝手に「おかる岩」と呼ばせてもらおう。この
島を作っている溶岩と同じマグマから生まれたはずなのだがどうしてこういう違いができるのだろう。人
の心に生まれる信心もそうである。同じ心の中にありながら、我々が作り出す様々な想念とは明らかに
違う。それで親鸞は信心を仏性と呼んだ。仏の心が信心を生むとした。
仏教ではよく信心を言うのに金剛を比喩に用いる。金剛とはダイヤモンドのことである。ダイヤモンドの
成分は何かと言えば炭素である。墨も鉛筆の芯もダイヤモンドも成分は同じである。同じ成分から金剛
不壊と呼ばれる決して壊れない純粋性が生まれる。人の心の定めなさを知るものにとって人の心に壊
れない純粋性が生まれるのは驚異である。
・・・嫉妬と信心・・・
夫の浮気に苦しみ、嫉妬に身悶えしたおかるの心にどうして信心の花が咲いたのか。それを説明する
のは難しい。世界中に火山は至るところにあるが、ここに世界に三カ所しかないという雲母玄武岩がで
きた理由を説明するのは難しいだろう。しかし火山活動のないところに決してこの岩は生まれないだろ
う。形は全く変わってしまっているが、熱く燃えるマグマがなければこの岩は生まれない。
彼女は純粋な愛を求める気持ちが人一倍強かったのだろう。その点において決して妥協できなかった
のだと思う。しかし本当に愛し愛されたいという思いを満たすものは信心の中にしかない。人同士の愛の
中にそれがあるように見えるときはそれは実は信心が開いたのである。慈悲とか神の愛と呼ばれるの
はそういうものである。おかるは歌う。「気狂いばばといわれしわれもやがて浄土の花嫁に」嫉妬も信仰
も人の心の熱である。
・・・渡る海・・・
西教寺で発行している『妙好人おかるさん』という冊子の表紙に六連島の写真が使われている。手前に遠
浅の海岸があり、その先に六連島が写っている。海岸と島がずいぶんと近く見えたので、港の人に写真を見
せて尋ねると、これは大潮のときに撮ったもので、大潮の時はこんなふうに海が狭く見えるが、今の時期はこ
うは見えないと教えてくれた。
船が港を出てまもなくしてその海岸の近くを進んだ。この海があんなに狭くなるとは信じがたいが、おかる
はこの海を自分で小舟をこいで渡り、下関の寺に聴聞に出かけたという。連絡船のない昔はそれが当たり前
だったのだろう。「難度海」という言葉があるが、渡りにくい海も人によってはやすやすと渡れる海になる。「生
死大海弥陀の船この嬉しさを誰が知る」海を渡った者の実感であろう。
・・・山坂・・・
島は平らに見える。海岸の近くには石油タンクだろうか、いくつかの銀色の円筒形が輝いて見える。これな
ら島の頂上部まで行くのは難しくないだろう。下関で聞いた話では、島の人以外で島に渡るのは、釣り人と、
花を買いに行く人と、寺に説教を聞きに行く人だそうだ。その寺に行くつもりだと言うと、今日はお説教はない
ので、今日行く人は釣り人と花を買う人でしょうと言われた。
船の乗客は港に着くといつのまにかどこかに散らばって行った。港の波止場では釣り人が多く見えた。あと
の人は花を買いに行ったのだろうか。寺に向かう道はいきなり急坂になる。おかるは「重荷せおうて山坂す
れど御恩おもえば苦にならず」と歌っているが、この山坂とは島の斜面の坂のことらしい。島の人は港からこ
の坂を登って自宅との間を往復するのが常だったのだろう。この重荷は彼女にとっては自分が背負い、苦し
んだ業という人生の重荷でもあったのだろう。
・・・別の国・・・
今では車があるので急坂の上り下りは昔ほどの重労働ではないだろうが、坂を登りながら家にある車にナ
ンバープレートがないのに気が付いた。はじめは廃車かと思ったが、見かける車がみなそうである。日本の
法律が及ばない国にいるようだ。坂を登るにつれて海の向こうに下関や北九州が見え、本土を離れてしまっ
たという気になる。何か別の国にいるような不思議な気がしてきた。
西教寺は海を見下ろす斜面に建ち、境内には「おかる同行」の立派な碑が海に向かって建っている。すぐ
横に大きな桜があるので、桜の咲く時期にはさぞかし美しいだろう。信心の花を見事に開かせた彼女にふさ
わしい配慮である。「ありがたや心の内に咲く花はみやま櫻で人は知らねど」おかるの歌である。人は知らな
いけれどと歌っているが、彼女の変化はいつしか人々にもわかるところとなった。ふだんはどこにあるのかわ
からない山桜も咲けばその姿は自ずと人に知られる。
・・・海山を隔てて・・・
坂を登りきると突如として視界が開ける。平らな島の頂上部に出たのである。そこはビニールハウスの立
ち並ぶ花畑だった。西に海が限りなく開け、風が心地よい。「あゝうれしみのりの風にみをまかせいつもやよ
いのこゝちこそすれ」ハウスの中は花盛りである。写真を撮りながら歩いているうちに本当にこの世の国では
ないような気がしてきた。天気がよかったせいか、ものみなが輝いている。立木まで光って見え、思わずシャ
ッターを切った。「天国にいちばん近い島」というのがあったのを思い出した。確かニューカレドニアのことだ
ったと思うが、ここは「浄土にいちばん近い島」ではないかと思ってしまう。
帰りの船はいつのまにか集まった乗客の抱えた花束の香りに満たされていた。花を抱いた人はみな幸せ
に見える。デッキに立って島を振り返ると、夕日の黄金の帯が船から島に向かって延びて波に揺れていた。
彼女もこの光の帯の中を舟をこいだに違いない。「海山を西よ東とへだつれど南無阿弥陀仏にへだてなけれ
ば」浄土にいちばん近いどころか、彼女はすでに浄土に住んでいた。
・・・巌流島・・・
このところ毎年のように関門地区を訪れている。下関と門司にまたがるこの地区は観光スポットが多い。何
度行っても行き足りないが、以前から行きたいと思っていたところに巌流島がある。今年NHKの大河ドラマ
で「武蔵」が放送されるのに合わせて島への定期便ができ、行きやすくなった。島には武蔵と小次郎が決闘
する場面の銅像もできたという。込むのを承知の上で連休に出かけた。
下関の唐戸桟橋から船が出ているが早めに着いたせいか思ったより早く船に乗れた。関門海峡を船で通
るのは初めてである。さすがに潮流が早く小さな船は揺れる。島の正式名称は舟島だが、たしかに海峡に浮
かぶ小舟といった感じである。島から関門橋を眺めたが少しもやがかかり趣がある。もちろん決闘のときに
はこの橋はない。目当ての決闘の像は平坦な島の小高いところに向き合っていた。武蔵が櫂を削った木刀
を振りかぶり、小次郎が長剣でそれを受けようとする。二人の像はこのまま永遠に向き合い続けるのだろ
う。
・・・向き合う姿・・・
人と人が向き合う姿は様々である。人に限らず我々は何かに向き合って生きている。人とは何かに向き合
うものだと言ってもいいかもしれない。その向き合うものと向き合い方とによって人生は大きく変わる。如来や
神といった存在も我々が向き合う可能性のあるものの一つである。その向き合い方にはそれまでのその人
の向き合い方が反映するだろう。
浄土教ではその向き合い方の基本が親子関係にたとえられるが、融合・一体化をめざす。禅ではその向き
合い方は真剣勝負である。「仏に遭っては仏を殺す」と言われるように対境を切り捨てる。剣禅一如という言
葉は剣の方から生まれたのだろうが、禅のあり方と剣の道はよく似ていると思う。以前熊本の島田美術館で
武蔵の書画を見たことがあるが、ただ者ではないと思った。剣から禅への道は武蔵にとっては一本の道とし
て続いていたはずである。もし武蔵が巌流島で負けていたら彼があの境地に至ったかどうかと問うのは真剣
勝負を知らない者のひまつぶしだろう。
・・・六連島・・・
巌流島に渡った日の午後、私は下関で訪れたいと思っていたもう一つの島を訪れた。下関の西、日本海側
に浮かぶ六連島である。この島に幕末に「おかる(お軽)」さんという念仏者がいた。中国地方には浅原才市
をはじめ妙好人と呼ばれた人が多くいるが、女性でよく知られたのが六連島のお軽であろう。
六連島には彼女が聴聞に通った西教寺があり、彼女が残した歌が冊子として発行されている。寺で説教の
ある日はかなりの客があるそうだがこの日の船はすいていた。島は花の島として知られ、ビニールハウスで
は色とりどりの花が咲き誇っている。のどかで美しい島である。島の斜面に寺があり、境内に彼女を記念し
た立派な石碑が建っていた。
・・・もつれ髪・・・
この島に生まれた彼女が聴聞を始めたきっかけは夫の浮気だった。島の対岸の北九州に情婦ができたの
である。勝ち気で純情だった彼女はそのために苦しみ、その苦しみを何とかしようとして真剣に聴聞を始め
たという。やがて苦しみは聞いても聞いても教えがわからない苦しみになる。聞かねば苦しい、聞けばまた苦
しいで、身動きできなくなる。追いつめられた彼女は身投げも考えたほどで、今も島には身投げ岩という岩が
あるという。
その彼女に突如として心境が開けたのは三十五歳の時である。三十五歳の時の歌が「聞いてみなんせま
ことの道を無理なおしえじゃないわいな」である。以来彼女は自分の心境を多くの歌に詠む。文字を知らない
彼女に代わりそれを記録したのは彼女を導いた西教寺の現道師だった。死の前年五十五歳の歌。「六つれ
がみといてやるとのおことばに手にもつ櫛もどこえいたやら」武蔵ならもつれた髪を断ち切るだろう。しかし彼
女は「おことば」を聞いただけでもつれをとかすには櫛もいらないという。彼女の戦いには櫛も剣もいらなかっ
た。向き合いただうなずいただけである。
・・・最後の七日間・・・
アンドリュー・ロイド・ウェバーが作曲したミュージカル『ジーザス・クライスト・スーパースター』はイエス・キ
リストがゴルゴダの丘で磔になるまでの最後の七日間を描いた作品である。この作品の主な登場人物で
あるイエス・キリスト、イエスを裏切る弟子のユダ、ユダヤのヘロデ王、ローマ総督として支配の実権を握
るピラトは『聖書』でも登場する重要人物だが、マグダラのマリヤは『聖書』ではイエス・キリストが磔にかか
ったあと、最初に復活の姿を現す場面で登場するだけである。ミュージカルではこの謎の女性に大きな役
割を与えている。この女性の描き方が『聖書』とは最もかけ離れた部分と言えるかもしれない。それだけに
作者の思いもこもっている人物と言えるだろう。
この作品の登場人物をもし三人に絞るとしたら、イエス・キリスト、ユダ、マグダラのマリヤになるだろう。
映画版の『ジーザス・・・』の三人の配役は舞台版と同じだそうだが、高校生の時に映画版を見た私はこの
三人が強く印象に残っている。イエス役が白人、ユダ役が黒人、マグダラのマリヤ役がアジア系の女性
で、その配役に驚かされた。実話として考えれば黒人やアジア人がこの場面に登場するはずはない。イエ
スをめぐり、ユダとマグダラのマリヤを際だたせる配役だった。
・・・イエスを頂点に・・・
この三人の関係はどこか三角関係じみたところがある。まず一つの考え方はイエス・キリストを頂点にお
いてイエスの愛をマグダラのマリヤとユダが争うという構図である。この場合はマグダラのマリヤは元娼婦
として救われた罪人であり、それに対してユダは自分こそ善人と考える人間になる。善人から見れば自分
のような正しい人間よりなぜ罪深いマグダラのマリヤが愛されるのかわからない。
映画ではマリヤがイエスに高価な香油を注ぐ場面がある。それを見たユダはなぜこのような女の行為を
受け入れるのかとイエスを非難し、またこのような高価な香油を金に換えれば多くの貧しい人を救えるの
にとマリヤとイエスを非難する。確かにもっともであり、世の聖職者にはあてはまる意見だろう。ユダは自
分よりもマリヤがイエスに愛されることが理解できない。この場合ユダは愛される悪人に嫉妬する善人と
いう立場になる。
・・・女神を頂点に・・・
一方この三角形は実はマグダラのマリヤが頂点にいて彼女の愛をイエスとユダが争っているという見方
もできる。イエスが最も心を許し愛したのがマグダラのマリヤであり、マグダラのマリヤもイエスを愛し、二
人は精神的に深く結ばれていた。ユダは自分も愛されたい一人の男としてイエスだけが愛されることに我
慢ならなかったという見方である。
ダンテス・ダイジは『十三番目の冥想』の中で、人々がマグダラのマリヤをいじめる気持ちの中にはマリ
ヤの魅力に対する「ある憎しみ」が含まれていたと語っている。ユダがイエスに敵対し裏切ったのは、ユダ
にとっても魅力的なマグダラのマリヤの愛を独占したイエスに嫉妬したのだとも考えられる。
・・・比較を越えて・・・
イエスを産んだ聖母マリヤは一種の女神として崇拝されているがマグダラのマリヤはイエスにとっては生
母以上の女神だったのかもしれない。映画では「エブリィスィング・オールライト」(邦題「今宵安らかに」)を
マグダラのマリヤが歌いながら疲れたイエスを寝かしつける場面があるが、イエスにとってマリヤはかけ
がえのない存在になっている。「メシヤ」とはヘブライ語で油を注がれた者という意味だそうだが、映画でイ
エスに香油を注いだのはマグダラのマリヤである。
二人の間には余人が入り込めない何かがあったのかもしれない。三角関係と言ってもユダの目から見
た場合である。それはユダが比較の世界にいたからである。比較の世界では善人が生まれ嫉妬が生ま
れる。自分の問題に比較は意味がない。この比較を捨てたところに本当の悪人の自覚が生まれる。そこ
に善人が入る余地はない。如来あるのみである。
・・・『キャッツ』広島公演・・・
アメリカとイギリスによるイラク攻撃が近づいた二00三年三月一四日にそれとは全く関係ない思いがけ
ないニュースが飛び込んだ。この連載で取り上げてきたミュージカル『キャッツ』の広島公演の製作発表会
のニュースだった。戦争前夜の重苦しい空気の中で、ほっとするようなニュースだった。
翌日の新聞には製作発表会でグリザベラとシラバブが「メモリー」を歌う写真が載っていた。一七日には新
聞広告もあり、それを読んで広島公演はイラク攻撃と無関係ではないのかもしれないと思った。公演は八
月二日からでチケットの発売は六月二二日から。八月六日は広島の原爆記念日であり、六月二三日は国
内で唯一地上戦が行われた沖縄戦の終結日である。広島公演は平和への祈りを込めた公演なのではな
いかという気がしてきた。
・・・猫たちのメッカ・・・
広告では「この感動は、もはやブロードウェイでもロンドンでも味わえません。」とあった。『キャッツ』誕生
の地ロンドンでの公演が終わったのは二00一年九月一一日のニューヨーク同時多発テロ事件とその後の
アフガニスタン戦争の影響で観客が減少したためだった。戦争で祖国に住めなくなった猫が広島にやって
きて平和を祈る、そんなイメージがふくらんだ。八月六日の夜だけの特別版『ヒロシマ・キャッツ』はどうだろ
う。
八月六日の夜灯籠流しも終わり静けさを取り戻した平和公園に世界から猫たちが集まる。この日年に一
度、平和に貢献した猫を選ぶ祭り「ピース・キャット」が開かれる。それを選ぶのは原爆ドームに住む被爆
二世の長老猫。彼の親は原爆に遭いながらも奇跡的に生き残り、猫の使命はネズミを取ることではなく、
幸せそうな顔をして眠り続けて人々に平和の尊さを教えることだと悟った。彼はこの平和の願いをたてて月
に往生後は本願猫となり、「ホンニャン・キャット」と呼ばれた。こうして原爆ドームと平和公園は世界中の平
和を願う猫たちの新たなメッカとなった。
・・・祖国を追われて・・・
グリザベラはペルシャ猫。長く柔らかい毛並みと大きな瞳で世界の富豪を魅了した。オイルマネーの富豪
達は彼女が大のお気に入り。やがて富豪達はこの猫をわがものとしようと争い始め、争いが嫌いな彼女は
どちらにもいい顔をするうちにふしだらな女と言われた。湾岸戦争の油田の火災で豊かな毛並みはぼろぼ
ろ。再び攻撃を受けたペルシャ湾から日本に向かうタンカーに逃げ込んだ。
シラバブは祖先がタイからベトナムに移ったシャム猫。彼女の親はベトナム戦争に遭いボート猫となって
アメリカに渡った。そこで平和を願うミュージカル『キャッツ・ヘアー』に出演し喝采を浴び、世界貿易センタ
ービルに住みアメリカン・ドリームを体現した。しかし親子の幸せな生活はつかのま、九・一一のテロ事件で
一瞬にして奈落の底に突き落とされた。母猫は死ぬ間際、子猫にペルシャ猫だけには近寄らないように遺
言する。彼女は真の平和を知ろうとヒロシマにやって来る。
・・・テロ猫、保安官猫、結末は?・・・
マキャビティは雑種猫。彼は雑種ゆえに受ける偏見と差別から、猫の世界から血統猫を一掃しようとする
世界平等猫運動に参加し、ついにテロ猫となる。ペルシャ猫やシャム猫が主な標的だったが、現在は新大
陸で栄えるアメリカン・ショートヘアーも標的にしている。彼は「ピース・キャット」をぶちこわしにしようと長老
猫の誘拐をたくらんでいる。
このテロ猫の動きを察知してやってくるのがアメリカン・ショートヘアーのミストフェリーズ。彼はテキサスの
藪(ブッシュ)で生まれ西部劇を見て育った保安官猫。父親も保安官で平和は力で達成されると信じ父親を
乗り越えようと手柄を求めている。毛並み同様頭の中もショートしやすいと言われている。
さてこの結末はいかに。それを知りたい人は八月六日の夜に月を見つめて「メモリー」の曲をかけなが
ら、「ナム・ホンニャン・キャット」と唱えて下さい。月が猫の目に見えてきたらあなたも本願猫の仲間です。
・・・エリオットの猫・・・
ミュージカル『キャッツ』の原作は、T.S.エリオットの書いた『おとぼけおじさんの猫行状記』だが、この
作品はエリオットが勤めていた出版社の家族の子ども向けに書いたと言われている。グリザベラはそこに
は登場せず、エリオットの遺稿から見つかったものを付け加えたそうである。原作に登場する猫はほぼそ
のまま『キャッツ』に登場するが、ジェリクル・キャッツは原作では月夜に舞踏会を開くジェリクル族の猫達
である。年に一度の祭りで一匹のジェリクルが選ばれて天上に昇るという設定は原作にはない。『キャッ
ツ』の宗教性は原作にはないと言っていい。
ただし詩人としてのエリオットには宗教的な作品が多く、キリスト教のみならずインド思想までもとりこんだ
幅広い宗教性が感じられる。人間になぞらえて猫の生態を描いた原作にエリオットの他の作品が持つ宗
教性を組み込んで『キャッツ』が生まれたのだろう。
・・・イエスと「罪の女」・・・
娼婦猫のグリザベラが救われるという設定は、『聖書』の中のイエス・キリストと出会った「罪の女」を思い
起こさせる。その一人は姦淫を犯して、厳格な戒律を守る律法学者やパリサイ人によって捕まえられ、イ
エスの前に引きずり出された女である。彼らは、モーゼの十戒には「姦淫するなかれ」とあり、「それを犯し
た女は石で打ち殺せ」とあるが、あなたはどう思うかとイエスに詰め寄る。
彼らから見ればイエスの愛の教えはユダヤ教の律法を破る破壊的な教えに見えたのである。自分を試
そうとする彼らの魂胆はイエスには見え見えである。ところが何を思ったかイエスは身をかがめて地面に
指で何か書き始める。重ねて詰め寄る彼らにイエスは言う。「お前達の中で罪のない者がこの女に石を投
げつけるがよい。」この一言は深い静寂をもたらした。一人去り、また一人去り、イエスと女だけが取り残さ
れた。そしてイエスは言う。「私もお前を罰することはできない。行くがよい。もう罪を犯さないように。」
・・・マグダラのマリヤ・・・
この女が誰なのかはわからない。イエスが復活して最初に身を現したマグダラのマリヤがそれかもしれ
ない。彼女は七つの悪霊をイエスによって追い出されたと言われる。イエスとの出会いによって罪の子で
はなく、愛の子として蘇った女である。イエスが蘇ったその身を、自分を見捨てた弟子達の前にではなく、
最初に彼女の前に現したのはそのためかもしれない。パウロはまだ闇の中だった。
『キャッツ』の作曲者のアンドリュー・ロイド・ウェバーはイエス・キリストを描いたロック・オペラ『ジーザス・
クライスト・スーパースター』の作曲者として登場した。『ジーザス・・』ではマグダラのマリヤはイエスを裏切
るユダとは対照的に最後までイエスを慕い続ける元娼婦として描かれる。『キャッツ』を作曲するときウェバ
ーの中ではマグダラのマリヤとグリザベラが重なっていたのだと思う。だからグリザベラの思い出はマグダ
ラのマリヤの思い出と言ってもいいだろう。
・・・分かれ目・・・
『ジーザス・・』の曲で私が最も好きなのはマグダラのマリヤがイエスとの出会いによって変わってしまった
不思議を歌う「アイ・ドント・ノウ・ハウ・トゥ・ラブ・ヒム」である。すさんだ生活をしていた自分がなぜ変わって
しまったのか自分でもわからない。しかし彼女が何かを求めていたのは確かだろう。それが何か、イエスと
出会うまで彼女にはわからなかった。しかし出会ったときにはっきりとそれがわかった。彼女は自分を変え
てしまうものに自分をゆだねた。彼女は自分が愛の子であることを思い出したのである。それはグリザベ
ラの思い出でもある。
最も懐かしいものに身をゆだねるのに何の抵抗があろう。しかしなぜか人はそれを恐れる。ユダは自分
の枠の中でイエスを理解しようとし、その枠を打ち破っていくイエスが理解できなくなった。自分を打ち破る
ものに身を任せるかどうかが二人の分かれ目である。それはまた「悪人正機」の分かれ目でもある。
・・・行くと去る・・・
『キャッツ』でジェリクルキャッツに選ばれる娼婦猫のグリザベラの思い出の内容が明かされなかったの
はなぜだろう。劇の展開から考えると、それは重要な要素のはずである。仮に思い出の内容が関係ない
として、思い出以外で彼女が選ばれる理由があるだろうか。ジェリクルキャッツに選ばれるということはき
わめて名誉なことである。しかしそれは選ばれて天国に行くのだからこの世を去ることである。すなわち
死ぬことである。それだけの準備ができている猫が他にいるだろうか。
グリザベラ以外の猫はナンバーワンの猫に選ばれることは求めていても、死ぬことは求めてはいなか
っただろう。彼らが示した思い出はみな誇らしいものであり、それによる称讃を求めたのである。何らか
の形でこの世への執着と結びついていると言ってもよい。しかしグリザベラには誇るべき思い出も名誉も
ない。彼女にあるのは絶望だけである。彼女が求めたとすれば名誉や称讃ではなく、救いであり、みじめ
なこの生からの解放である。
・・・近くて遠い、遠くて近い・・・
この出発点の違いは非常に大きな意味を持つ。他の猫たちがジェリクルキャッツに選ばれたかったの
はナンバーワンの猫に選ばれたかったからであり、そのために自分の力を示そうとする。いわば自力的
な猫たちなのである。しかしグリザベラだけは自分の力を示そうとは思わない。彼女にはそれがないから
である。おそらく彼女は自分がジェリクルキャッツに選ばれるとは思わなかったし、選ばれたいとも思わな
かっただろう。
彼女が最もジェリクルキャッツから遠い存在に見えるようにする演出にだまされてしまうが、天国に行く
条件を救いとこの生からの解放を求めていることと考えれば逆に彼女が最も天国に近い存在になる。こ
ういった逆転現象は宗教ではよく起こる。世俗的価値と宗教的価値が違うからである。長老猫が示した
永遠の幸せもこの世の幸せと同列に考えるわけにはいかない。思い出もまた同様である。
・・・月と思い出・・・
「メモリー」の歌を聞くと月が大事な役割を果たしている。年に一度の祭りは月夜の晩に開かれる。月明
かりの中、月を見て思い出すもの、それがジェリクルへの隠された道なのである。ミュージカル『キャッツ』
の背景にはキリスト教思想があると思うが、私はそれとともに日本の『竹取物語』を思い起こした。かぐや
姫とグリザベラに重なるものがあるように思える。かぐや姫は月の世界からやってきて月に帰っていく。
彼女はこの世ではちやほやされるがそれが月から見れば何の価値もないことを知っている。育ての親と
の別れは悲しいが月に帰るのは必然である。
『竹取物語』は浄土教的な物語だと思うが、月の世界に浄土や天界が重ねられているようだ。月を見る
と何となくしんみりとした気持ちになり、心の奥の忘れていたものが蘇る。グリザベラの思い出をたどれ
ば、美しかった自分、少女時代の自分と自分を愛してくれた親、そして究極的には自分がそこから生まれ
てきた世界とそこにいる真の親の思い出になるのだろう。即ち真の思い出とは本当の自分を思い出すこ
とであり、愛に還ることである。
・・・子猫とともに・・・
誰にも共通する懐かしさがある。そのことを暗示する存在が子猫のシラバブである。グリザベラがひとり
「メモリー」を歌うと言ったが、実は子猫のシラバブが唱和する。子猫だから思い出とは最も遠いはずなの
に彼女が「メモリー」の意味を最もよく理解する。童心が思い出に最もふさわしいのである。
彼女が子猫で、娼婦の意味もグリザベラが嫌われている理由も分からないから偏見なくグリザベラを理
解できるというのも一つの考え方だ。だがそれよりも思い出の本質が人生の長さや経歴に関係ないこと
が最も大事な点だろう。長老猫とは長い人生の果てにそのことに気付いた猫ということになる。浄土から
出たものは浄土に還る。愛から出たものは愛に還る。この環に気付くにはただ思い出せばよい。そうす
れば皆「かぐや猫」である。
・・・選ばれた猫・・・
『キャッツ』でジェリクルに選ばれて天上に昇ったのは老いた娼婦猫のグリザベラだった。どうして彼女
なのか。最も聖なるものから遠いはずの彼女がどうして選ばれたのか。あるサッカー選手はパンフレトに
こう述べていた。「彼女の場合、『自業自得じゃないか、それが選ばれるなんて、お前それはムシが良す
ぎるよ』って思ったりしちゃうんですよ。」
この疑問は当然だろう。直前まで新しいヒーローであるミストフェリーズではないかと思わせておいて、
最後に意外な猫が選ばれる。演出としては確かに効果的である。野球なら9回裏逆転満塁ホームランで
ある。しかしいくら劇とは劇的な展開をするものだとは言え、観客が納得するものでなければだめだろ
う。『キャッツ』が20年以上上演され続けてきたということはグリザベラが選ばれるという結末が支持を得
てきたということである。それは例えば弱者に味方したくなる判官びいきだけで説明できるものなのだろ
うか。
・・・天使に届く歌・・・
前回ジェリクルの条件を述べた。優れた運動能力や意志、勇気といった一般的なジェリクルの条件は
どう見てもグリザベラには当てはまらない。彼女が当てはまりそうなのは歌だけである。「ジェリクルの歌
声は空のかなたに響く 天使に届くメサイア」彼女の歌う「メモリー」は心を揺さぶる何かがある。その歌
声が天使に届くとすれば何が天使に届くのか。歌がうまいというのはこの場合二次的なものであり、問題
はその歌の内容だろう。
それを見る前に一つ頭に入れておくべきことがある。それはジェリクルを選ぶ長老猫の謎のような言葉
である。これは第二幕の冒頭で歌われる。第一幕の終わりにグリザベラの「メモリー」が歌われるので、
幕間をはさんで二つは呼応しているようである。「幸せの姿 束の間に消える 永遠の幸せ望むなら 心
に深く求めるのだ そしてついに 思い出を辿って甦り 新しい形で生まれ変わった命こそ 本当の幸せ
の姿なのだ もう永遠に変わらず 永遠に消えない」
・・・幸せと思い出・・・
新しい命に甦る力をもつ思い出とは何なのか。この世で味わう普通の幸せとは束の間に消えるはかな
いものである。実は本当の思い出と永遠の幸せとはほとんど同じものなのではないのか。この長老猫の
言葉を理解する者が天上に昇るジェリクルになるのではないのか。グリザベラの「メモリー」はまさに「思
い出」である。しかしそれが長老猫の言う永遠の幸せにつながる思い出にかなうのか。
『キャッツ』で示される猫達の生き方はどれもその人生の思い出を語っているとも考えられる。バストフ
ァージョーンズのような世俗的成功を収めた猫の思い出が普通に人が最も望むものだろう。望月の歌を
歌った藤原道長のような心境だろう。あるいは今はおちぶれてしまったが、劇場猫として喝采を浴びたガ
スの言う「『昔は良かった』とつぶやく」のが思い出のよくある形だろう。しかしこれらは長老猫の言う永遠
の幸せにつながる思い出ではなさそうだ。はかない思い出である。
・・・グリザベラの思い出・・・
グリザベラの思い出とは何か。「サイレンス 静けさのなか 思い出をなくし ひとり微笑む あしもとに
散る枯れ葉うずまき 風の嘆きが 町の灯はささやく悲しい運命を 瞳は露にぬれる やがて夜明けか
メモリー 月明りの中 美しく過ぎ去った日を思う 忘れない その幸せの日々 思い出よ還れ」
これが一幕の終わりに歌われる「メモリー」の歌詞である。この歌詞で彼女の思い出が何かわかるだ
ろうか。娼婦として夜毎違う男と過ごした思い出なのか。それは「思い出をなくし」と歌われた方の思い出
だろう。彼女は男のことなど誰も覚えてはいまい。誰とも付き合えば誰とも付き合わないのと同じだろう。
ではその思い出とはある出来事ではなく形をもたない「思い出」そのもの即ち懐かしさそのものなのか。
語るべき思い出を何ももたないからこそ彼女は誰もがもつはずの心の奥の根源的な「思い出」に至った
のか。
・・・跳ねて踊って歌って・・・
ミュージカル『キャッツ』で、年に一度の祭りでただ一人選ばれて天上に昇るという「ジェリクルキャッ
ツ」とはいったいどんな猫なのか。冒頭で全員によって歌われる「ジェリクルソング」がそのことを示し
てくれる。「ジェリクル すべてできる ジェリクルキャッツ やりぬくのさ どんな時でも遊べるのか 冒
険にはいどめるか 夢の中に 天国にも 地獄さえも 友達は? みすぼらしく やせていても するど
い鼻 きびしい目が 何もかもを 見ぬいている お前こそが そうジェリクルキャッツ」「壁をのぼる
綱を渡る 木から木へと かけぬけるぞ 空を飛んで 地に戻って 羽のように 宙を舞うぞ」
これからすればすばらしい運動能力と強い意志、勇気を兼ね備えたスーパーキャットのイメージが
浮かんでくる。だとすれば雄猫が有利そうだ。ただし次の条件がある。「どんな歌でも歌えるか 低い
パート 高い音も 上のCまで出せるのか どんなことでもできるのさ ジェリクルの歌声は空のかなた
に響く 天使に届くメサイヤ」ミュージカルだから歌は大事な条件だろうが、それでも飛んで跳ねるスー
パーキャットのイメージはぬぐえない。はたしてそんな猫はいるのか。
・・・君がヒーロー・・・
この冒頭の「ジェリクルソング」のイメージをもとに次々と現れる猫を見ていく。終わり近くになり、ジェ
リクルキャッツを選ぶ長老猫がマキャヴィテイという犯罪王の猫によって誘拐されてしまう。それがミス
トフェリーズというマジシャン猫によって救出される。並み居る猫の中でこのミストフェリーズの運動能
力は際立っている。私の見た舞台でも明らかに他の猫と違う動きだった。後でパンフレットを見ると中
国出身でアクロバットを得意とする俳優が演じていたのだった。
長老猫を救出したミストフェリーズは「驚いたもんだ 素晴らしい奴さ」と賞賛を浴びる。ヒーローの誕
生である。「ジェリクルソング」のスーパーキャットのイメージからミストフェリーズがジェリクルに選ばれ
るに違いないと思ってしまう。長老猫は彼に救出されたのだから感謝して彼を選ぶに違いない。
・・・アンチヒーロー?・・・
ところが違う。この意外な展開に対しては抗議が出そうだ。私の子どももミストフェリーズだと思った
そうだ。パンフレットにも、あるサッカー選手のコメントが載っていて、彼も自分が長老猫だったらミスト
フェリーズを選ぶと述べていた。サッカー選手としてその動きがうらやましく感動したそうだ。まったくそ
れはその通りで、私も含めて多くの観客が彼の動きに魅了されたに違いない。
しかし違う。かといってジェニエニドッツのような善人猫やバストファージョーンズのような世俗的成功
を収めた猫ではおもしろくない。前回ヒントは「悪猫正機」?と書いたが、実際この劇には人間の倫理
を当てはめれば悪猫であるか、あるいは悪猫を演じる猫が多く出る。その一つの原因は猫達がいず
れも野良猫であり、飼い猫ではないことだ。人間と仲良くしている鉄道猫のスキンブルシャンクスという
猫もいるが、多くの猫は自分で生きなければいけない。だから人間から見れば泥棒でも猫としては当
然の行為であり、人間をやりこめてしまう猫ほど英雄である。
・・・たった一人の歌・・・
こういう倫理の逆転現象が起こるのだが、善悪の基準というものがいかに難しくあてにならないもの
かということがよくわかる。その中で娼婦猫のグリザベラだけは違う立場にある。人間の世界でもそう
だが猫の世界でも娼婦は嫌悪される対象なのである。彼女が祭りの場に近づこうとするとどの猫も敵
意をむき出しにして彼女の参加を拒む。彼女に見たくない何かを感じるとるからなのか。
彼女は舞台の隅でぼろぼろの姿で一人悲しく祈るように歌う。それが「メモリー」である。一幕の終
わりに歌われるこの歌は何か特別の響きがある。ジェリクルの条件。「ジェリクルの歌声は空の彼方
に響く 天使に届くメサイヤ」はたして彼女がジェリクルなのか。
・・・魚の浄土、ネズミの浄土・・・
浄土に住むのは言うまでもなく人間だろう。その他の動物は浄土にいるのだろうか。浦島太郎の行
ったという竜宮城は海の中の魚の浄土と言ってもよかろう。そこに乙姫様しかいないのでは竜宮城に
ならない。鯛やヒラメの舞い踊りがなければ竜宮城らしくない。では浦島太郎は竜宮城でもてなされ
たときに何を食べたのだろう。魚を食べたのでは浦島太郎は魚の浄土の破壊者になるから、海草を
食べたのだろうか。乙姫様も海草しか食べない菜食主義者で、それで美しいのだろうか。
昔話には人間以外の生き物の浄土らしきものが登場する。竜宮城もそうだが、「おむすびころりん」
に出てくるネズミの国はネズミの浄土と言えよう。おじいさんはネズミの国でもてなされる。私の子ど
もが小学校で「おむすびころりん」の劇を演じるのに「ねずみのお国はよいお国、猫さえいなきゃよい
お国」と歌っていた。竜宮城には人間は住めるかもしれないが、猫は住めまい。ネズミの浄土と猫の
浄土も分かれていた方がよさそうだ。
・・・ミュージカル『キャッツ』・・・
昨年劇団四季のミュージカル『オペラ座の怪人』を広島で見たが、それから一年近くして大阪で同じ
く四季による『キャッツ』を見た。『キャッツ』もそのうち広島で上演されることがあるだろうかと思って
いたが、イギリスで一九八一年以来上演されていた『キャッツ』がついに終演を迎えたというニュース
を聞いて、早く見なければと思った。イギリスで終演を迎えることとなったのは、二○○一年九月のニ
ューヨークのテロ事件の影響で海外からの客が激減したことによるそうだ。
子ども連れで見に行ったのだが、子どもに内容が理解できるかどうか不安だった。いろんな猫が出
てきて歌って踊るらしいからおもしろいよと言って連れて行ったのだが、心配は無用だった。大人か
ら子どもまであらゆる客層を引きつけてやまない舞台だった。劇中で「猫がテンジョウに昇る」というこ
とを言っていたので、あの「テンジョウ」は家の天井ではなくて、天国の天上だよと説明したのだが、よ
くわかっていたようだった。
・・・猫の祭り・・・
ストーリーは単純だ。年に一度の猫の祭りで十匹の猫が登場する。その中の一匹だけが選ばれ、
スーパーキャットとして「ジェリクル」の名を与えられて天上に昇る。いわば猫の浄土に行くのは誰か
という話である。そのことが最初に示されるので、どの猫がそれにふさわしいのか考えながら見るこ
とになる。
猫の性格や経歴は様々だ。天上に昇る猫を選ぶのは教会に住むオールド・デュトロノミーという長
老猫であり、投票によるのではない。見終わって私の子が「天国に行くのは死ぬことなのに、それに
選ばれたいだろうか」と言ったがこれは大事な視点かもしれない。
・・・十猫十色・・・
十匹の猫を紹介しよう。はじめはジェニエニドッツというおばさん猫。この猫はネズミやゴキブリも調
教する善意のかたまりのような猫である。次はラム・タム・タガーという突っ張り猫。何でも人の逆をし
たがる超個性派である。次は見るからにみすぼらしいグリザベラという元娼婦の猫。彼女が登場す
ると祭りの場にふさわしくないとして他の猫の敵意にさらされるが、彼女は美しい思い出を歌う。次は
バストファージョーンズという町一番の金持ちで政治家の猫。成功者として満ち足りている。次はコソ
ドロ猫。これだけは男女二匹のコンビで、町中を荒らすやり手の猫。
二幕のはじめに登場するのはガスという元役者の劇場猫。彼は当たり役の海賊猫を再演して見せ
て喝采を浴びる。次はスキンブルシャンクスという鉄道猫。彼がいないと列車が動かないという守り
神のような猫である。次はマキャヴィティという犯罪王の猫。何と彼は祭りの中心となる長老猫を誘拐
してしまう。それを見事に救出したのがミストフェリーズというマジシャン猫で、皆から絶賛を浴びる。
ここまでくると投票で選ばれるのならほぼ決まったように見えるのだが、はたして誰が選ばれるの
か。ヒントは「悪猫正機」?
発掘歎異抄(40) 魂願 (2002年11月号)
・・・講演・・・
私は比較的講演をよく聞く方だろうと思う。人によっては講演よりも本を読む方がいいという人も多
いだろう。本に比べて講演はまとまりのないことが多い。時間切れで終わってしまうこともよくある。そ
れでも講演を聞く価値があると思うようになったのは、生の人間、人格というものから発せられる何か
があるからなのだろう。真宗では聴聞を重視する。それは多くの人々が文字を読めなかった時代に
教えが始まったことにもよると思うが、講話者とじかに接し、じかに聞くことで、聞く者に突如として何か
が起こることを経験的に知っているからだろう。
私が聞く講演は大きく分けて二種類ある。一つは仏教講演であり、もう一つは教育関係の講演であ
る。現代では教育と宗教は別のものという建前があるようだが、元来教育は宗教から発したものであ
ろう。私立学校では仏教やキリスト教の宗教系学校があり、宗教精神に基づいた教育が行われてい
る。この夏に聞いた講演で私は教育と宗教との深いつながりををあらためて認識した。
・・・松蔭の精神・・・
夏は教育関係の研修会が多く、それで幾つかの講演を聞くことになった。なかでも私立学校の団体
による研修会は二日間にわたり四つの講演があり、その間に各学校の教員の教育実践の報告があ
るという非常に密度の濃い研修だった。たまたま私はその研修会の国語の部会で司会を担当するこ
とになっていた。
一日目の午前中には全体会で山口県にある東行記念館の学芸員の方の講演を聞いた。東行記念
館は高杉晋作の記念館であり、私も訪れたことがある。講演は高杉晋作の師である吉田松陰につい
てであった。吉田松陰の生涯と彼が開いた私塾である松下村塾について語られた。吉田松陰がなぜ
あれだけの影響力をもつことができたのか。その答えは松蔭に私心がない即ち無私の精神によると
いうのが、講演者の解釈だった。藩校に行けばあるはずのメリットが何もない小さな私塾に、ただ松
蔭に惹かれた青少年が集まった。無私の松蔭と無心の青少年の出会いから時代が動いた。
・・・自己表現・・・
その日の午後には分科会で国語教育の講演を聞いた。講師を務められたある私立大学の先生は
午前中の講演を聞いておられ、そのことを引き合いに出されながら話された。予定の内容は国語表
現についてであった。
問題は自己を表現するとはどういうことなのかという深い問いであった。現在では自己実現というこ
とがいたる分野で言われ、国語表現もその一部として考えられているが、表現する自己についてはほ
とんど問われることがない。その問いが抜けているのが現在の国語表現の大きな問題点である。松
蔭の無私という自己表現は言葉としては一見矛盾だが、実はそこに答えが潜んでいるのではない
か。
・・・転機・・・
そして自分の体験を話された。この日の講演の前にこれが皆さんに話しをする最後になるかもしれ
ないと言われたので、何かあるなと思っていたが、その通りだった。自分は今癌にかかっており闘病
中である。癌の告知を受けた時にたしかに衝撃を受けたが、それでも比較的平静を保てたのではあ
るまいか。というのは自分はその数年前に心臓発作を起こし救急車で病院に運ばれた。その時に非
常な苦しみの中で突如として意識が肉体を離れ、苦しみがすっかりなくなった。肉体の自分をもう一人
の自分が見おろし、これが幽体離脱というものなのかと思った。それを転機に死をことさら恐れず、た
だ残された時間の中で何ができるかを考えるようになった。
そういうことを考えながら床についたある夜不意に歌が浮かんだ。浮かんだのであり作ったのでは
ない。その歌は「人はみな天使なりけり魂に願い持ちたる神の子なれば」。この歌にある魂の願い、
いわば「魂願」こそが自己表現の核心だと思う。そういう内容だった。みな静まりかえって聞いていた。
念仏者も同じである。転機は正機となり、本願は魂願となる。念仏は自己ならぬ自己表現である。
・・・青葉と若葉・・・
プラタナスの切り株から芽生えた若葉の美しさは落葉樹特有のものかもしれない。ちょうど木が伐ら
れた季節と若葉が旺盛に芽吹く時期が一致したのだろう。これが秋や冬ではこうはいかなかっただろ
う。学校のメインストリートでは枯れたツツジの跡に何本かの松が植えられたが無難な選択だろう。松
のそばには石碑も据えられた。常緑樹の松と石の組み合わせは日本の庭の典型的な形であろう。
また常緑樹と落葉樹の組み合わせ方は庭造りの基本にあるのだろうが、若葉の季節に両者が見せ
る配合の妙は格別のものがある。よく知られているものに松尾芭蕉の「あらたうと青葉若葉の日の
光」という句がある。『奥の細道』の旅の途中、日光で詠まれた句である。常緑の青葉が背景にあり、
その中に落葉樹の新緑の若葉が芽生える。濃い青葉と若葉のみずみずしさ、若葉を透かす日の光
が絶妙のハーモニーを奏でる。地名の日光が詠み込まれているが、日光に行かなくても日本中いた
るところで経験できる光景である。
・・・みどり子・・・
この句とともに私が思い出すのは、中村草田男の「万緑(ばんりょく)の中や吾子(あこ)の歯生えそむ
る」という句である。若葉の季節だが、万緑によって青葉も若葉も詠み込まれている。その緑と呼応す
るように、我が子の歯が生え始めたという句である。幼児のことを「みどり子」とも言うが、そのイメージ
とよく合う。「みどり子」という言葉は『万葉集』のころからある古い言葉だが、この句には 『万葉』の時
代から続いている何かが生きている。
プラタナスの切り株の若葉や枯れたツツジの代わりの松を見ていたころ、授業で『大鏡』と『栄花物
語』を読んでいた。両書とも藤原道長が主人公といってよい。道長の剛胆な振る舞いがいたるところ
に描かれているが、その中で道長も人の子だと思わせる歌があった。「年を経て待ちつる松のわかば
えに嬉しくあへる春のみどり子」長男の頼通に男子の通房が生まれたことを喜んだ歌である。「みどり
子」によって常緑の木に新緑が結びつけられている。道長の喜びがよく伝わる。
・・・命の輪・・・
道長の場合、自ら手にした栄華を一族に伝えたいという気持ちが強かったろう。松という常緑樹に一
族の末永い繁栄への願いが込められている。しかし道長でなくても、我が子、あるいは孫、ひ孫の誕
生には親や祖父母、曾祖父母を安心させるものがある。自分の命が断絶することなく新しく形を変え
て生き続けるという思いかもしれない。それによって安心して死んでいけるという思いである。
同じ頃、妻の祖父が亡くなったが、その葬儀の時、プラタナスの切り株のことを思った。中心が空洞
になる代わりに外側に新しい命が芽生えていく様が、祖父の死とそれをとりまく孫、ひ孫の姿に重なっ
た。九十を越えての大往生だったこともあり、葬儀というよりは一族の命の輪を確かめ合うような場だ
った。生まれて一歳にならない子もいて、無邪気な笑顔にみな吸い寄せられていた。どこにも緑はな
いのだがまさに「みどり子」だった。
・・・常緑と新緑・・・
動物の命には始まりと終わりがある。動物としての命の色は赤だろう。それとともに我々は永続する
ように見える植物に自分の命を重ねてきた。植物の命の色は緑である。赤子にしてみどり子なのであ
る。できることなら常緑にして落葉でありたい、古い自分を捨てて新緑を出したいという矛盾した思い
を含んでいるかもしれない。そういうあいまいさを含んだ上で、緑が命の色なのである。
芭蕉はその俳諧論で「不易」と「流行」を唱えた。変わらないものと変わるものである。それは俳諧に
限らず彼が捉えた命のあり様だったのだろう。芭蕉の辞世の句としては「旅に病(やん)で夢は枯野(か
れの)をかけ廻(めぐ)る」が有名だが、その後に「清滝や波に散込(ちりこむ)青松葉」がある。常緑の
「青松葉」が自分なのだろう。姿を消すように見えてもまた新緑となって新しい姿をとる。緑はそういう
命の色である。念仏も常緑にして新緑である言の葉である。
発掘歎異抄(38) バウムクーヘン (2002年9月号)
・・なぜ枯れたのか・・・
校舎建て替えに伴う植え替えによって枯れてしまったツツジについて、その後のことを報告し
ておこう。捨てられるだろうと思っていたが、やはりその通りになった。ある日園芸業者が枯れ
たツツジを掘り取り、別の木を植えていた。ちょうど作業中に通りかかったので、責任者とおぼ
しき年配の人になぜツツジが枯れたのか尋ねた。その前にある同僚からツツジが植え替えに
弱い木だという話を聞いていたので、確かめたかったのだ。
しかし答えは意外だった。業者によれば、ツツジが木として弱いということはなく、植え替え
た木が古い木だったから枯れたので、若い木なら枯れることはないということだった。たしかに
何十年も同じ場所にあったのだから、相当古い木であったことは間違いない。古くても大きくな
らない木なので、古い木だということに私が気付かなかったのだ。
・・・千手観音・・・
その点は思い至らなかったことなので、その時はそれで納得したが、後で思い出したのは、
切り倒されたプラタナスの古株のことだ。幹の中に空洞ができるほどだから、相当古い木だ。
しかし切り倒されても切り株の周囲から次々と若枝を出している。あの生命力はいったいどこ
からくるのだろう。
小さな命の森と形容した切り株から生まれた新しい枝たちは梅雨時ということも手伝ってか、
日ごとに伸びてゆき、その生長の様子を見るのが楽しみになった。陽が透き通るような若葉の
美しさは自然界の美の中でも際だっている。若葉の一枚一枚が太陽に向かって伸ばされた手
のひらのように見える。その姿は千手観音のようにも見えた。千手観音は一体の像からおび
ただしい数の手を出している。無数の衆生を救うためなのだが、見方によっては奇怪にも見え
る。この木を見ていると千手観音とは像の素材となった木の姿を写したものではないかという
気がした。木の命を仮に人間で表現すると千手観音のようになるのかもしれない。そんなこと
を思っていた。
・・・再び伐られる・・・
しかしその千手観音に見えるまでに生長した切り株もついに再び伐られる日が来た。それは
私が思っていたよりもかなり早かった。この木があった場所は古い校舎のすぐそばであり、新
しい校舎を建て替える際に工事の邪魔になりそうな場所だった。それで伐り倒されたのだが、
工事が始まるまでは生長は許されるだろうと思っていた。ところが工事が始まる前に新しい枝
が刈り取られてしまった。
前に書いたようにこの木は通路に面して、通路側に曲がっていた。車でその前を通る際には
よけるようにして通っていた。今回切り株から生まれた枝は株の周囲に生まれたので、前以上
に広がり、通路にはみ出していた。車から見れば通行の邪魔である。おそらくそれで予想より
早く再び伐られたのだろう。
・・・空より始まる・・・
ある日あるはずの緑の森が消えてしまっているので驚いた。近づいてみると再び切り株が姿
を現していた。前に見たときは新しい枝をかき分けて葉陰の薄暗い中で見たのだが、今回は
遮るものがないので、切り株の姿がよく見える。中心の空洞が見事である。それを見て昔友人
から聞いたバウムクーヘンの話を思い出した。バウムクーヘンが木の年輪を模したお菓子だ
ということは容易に想像がつく。しかしなぜ中心が空いているのかという話になった。それは
心棒を通して回転させながら焼くからであり、空洞のないバウムクーヘンはないのだと友人が
教えてくれた。
仏教や老荘思想を通して空や無に親しんできた私にはこの話は新鮮だった。バウクーヘン
は中心の空から生まれるのである。しかしそれはお菓子の話であって、実際の木とは違うと思
っていた。けれども今回この木を見るとその力は中心から生まれ、空であるが故に水紋のよう
に命の輪が広がっていったのではないかという気がしてきた。再び空に還る前に私にそのこと
を教えてくれたように思えた。千手観音もすばらしいが、その本体は空である。念仏もまた空
より茂る言の葉である。
・・・植え替え・・・
私の勤務している学校はここ数年校舎の建て替えが進められている。それに伴い、植木の植え替えが行われてい
る。数十センチの小さな木から数メートルの大木まで、大きさも種類も様々である。中には植え替え場所がなく、その
まま伐られてしまうものもある。植え替えの前には、植え替えられる木と伐られてしまう木の選別が行われ、テープで
色分けされていた。大きくて立派そうな木が残るかというとそうでもない。大きさのバランスや種類、新しい場所での配
置などを考えて決められたのだろう。人間の都合で運命が決まってしまうのだから、木には気の毒な気もする。
小さい方の代表はおそらくツツジだろう。校舎と校舎の間にできる新しいメインストリートの脇を飾るようにかなりの
数が植え替えられた。事務室や校長室の前に当たる場所であり、校内の一等地である。四月から五月にかけてみご
とな花の帯ができるに違いない。
・・・枯れ死・・・
園芸業者によって植え替えられたので、失敗はないだろうと思っていた。新しい植え込みには散水のホースも引か
れて、常時水が供給されていた。毎日その前を通っていたが、そのうち異変に気がついた。何本かの葉が赤茶けて
きて、何日たっても元に戻らない。私が立ち止まって見ていると、私と同じように関心を持っていたらしい先生から、ど
うも枯れたようですねと、声をかけられた。
枯れ死したのは数本ではなかった。見渡したところ、植え込み全体の何分の一かが赤茶けている。ツツジが植え替
えが難しい木なのかどうか私にはわからない。木が小さく根の及ぶ範囲も小さいだろうから、素人には植え替えやす
い木のように思える。枯れた木は捨てられるのだろうが、ツツジにとって新しい人生の出発は容易ではなかったよう
だ。
・・・植え替えの跡に・・・
メインストリートの中央には別の場所からメタセコイアの並木が移植された。この木が植え替えられた木の中では最
も大きい木だろう。この植え替えは大変だったようだ。校舎の三階に届くほどの高さがあったが、枝をいったん落とし
て幹を布で巻き、水分が失われないように注意が払われていた。植え替えられてからしばらくすると、幹から少しずつ
新しい枝が出てきて、わずかながらに緑の葉が見える。失われた体力を徐々に回復しながら、新しい環境に適応しよ
うとしているようだ。
このメタセコイアの並木が元々あった場所は主がいなくなってぽっこりと穴があき、掘り返された地面はそのままに
なっていた。この荒野のような空き地にある日小さな森ができているのに気がついた。直径数十センチの本当に小さ
な森である。数十本の若木に陽を透かして若葉が茂っている。よく見るとみな同じ葉である。その葉をかき分けてみる
と中から木の切り株が現れた。その中央部はぽっかりと空洞になっている。相当古い木だ。その古株の周囲から若
枝が芽生えていたのだ。
・・・新しい命の森・・・
いったい何があったのだろうと思い返すと、メタセコイアの並木のはずれに曲がりくねったプラタナスがあったのを思
い出した。曲がって通路にはみだしていたので、よけるようにして通っていた。おそらくそれが原因で植え替えられず、
切り倒されたのだろう。中に空洞ができるほど古い木だとは思わなかった。ぽっかりあいた空洞とみずみずしい若葉
は別の木ではないかと思われるほど対照的だ。葉陰にはアリが這い回り、テントウムシの姿も見える。小さな新しい命
の森である。
我々は自分が嫌になると古い自分を捨てて新しい自分がほしくなる。悪人正機にもその要素がある。古い自分の自
覚によって新しい自分を求める。環境を一新したいなどとも思う。環境が変われば自分が変われるのではないかと期
待する。しかしそれは枯れたツツジのように危険を伴う。人間の根本の問題は環境の方にはないからだ。言い慣れた
念仏も古い自分が言うと思う限りは古い念仏である。しかしそこは如来と繋がる命の株であり、新しい言の葉が茂る命
の森が潜んでいる。
・・・観葉植物・・・
我が家のリビングの出窓に小さな竹が置いてある。家を建て替えたときに友人が持ってきてくれたもの
だ。観葉植物としての室内用の竹で、縁起物だそうだ。昔私の父が色紙に描いた朱色の竹を居間に飾っ
ていた。それも縁起物ということだった。竹は節があり、それが礼節に通じるということで、中国では文人墨
客に愛されてきた。室内に置いておくとどこか清らかなものが漂っている感じがする。そのことから一種の
魔除けのようにみなされてきたのかもしれない。
友人はその竹を持ってくるときに、グラスに、色のついた観葉植物用の小さな丸い石を詰め、そこに竹を
植えて持ってきてくれた。それをそのまま日当たりのいい出窓に置いて、ときどき水を注いだ。光合成をす
るので空気と水があれば充分だったようだ。花に比べれば地味だがそれだけに飽きない。また水をやると
いう世話が必要であり、それを通して自分とつながっているような感じがする。
・・・観根植物・・・
初めは観葉植物ということでそのつもりで育てていたがそのうちに別の興味がわいてきた。それは根で
ある。竹だから地下茎のような太い根もあるのだが、細い毛のような根が色つきの丸石の隙間に入り込
み、びっしりとグラスを覆うようになった。竹の生長よりも根の方がむしろおもしろい。初めはひょろ長く安
定が悪いと思っていた竹だったが、小さいながらもグラスに根を張り巡らして自分の世界を作ってしまっ
た。まさに根城である。
グラスにいっぱい根を張り巡らした後はどうなるのだろうと思っていると、水面に根がのぞいてくるように
なった。根が空気を吸っているように見えるのである。水中の酸素が足りなくなった魚が水面に顔を出し
て、口をパクパクさせているような感じがする。こうなるとさすがに放っておけない。いろいろ容器を探した
が、結局金魚鉢に色つきの石を詰めて、そこに植え替えることにした。
・・・網の根と球根・・・
植え替えのときに根の様子を見るのが楽しみだったが、思っていた通り、中までびっしり根が巡り、網の
ように石を包み込み、グラスからは石ごと抜け出た。それをそのまま金魚鉢に移して石をつぎ足した。広
々とした容器に移って次の楽しみはこの金魚鉢全体に新たに根が張るのを見ることだった。
この金魚鉢に突然思いがけない客が飛び込んだ。それは前号に書いた下駄箱で芽を出したチューリッ
プの球根である。球根を春の日光に戻したと言ったが、実はこの金魚鉢に移したのである。球根の養分が
ある間は金魚鉢でも大丈夫だろうと思った。芽が伸びていく様子を間近に見たかったこともあるが、もう一
つの楽しみは球根から根が出て、張っていくのか見たかったのである。しかし球根からはそれほど根が張
っていくようには見えず、葉がどんどん伸びてつぼみもつき始め、限界がきた。そこで球根を土に移すこと
にした。
・・・抱擁し合う根・・・
移し替えようと思って球根を持ち上げようとすると意外に力がいる。うまく抜けたものもあったがいくら力
を入れても抜けないものがある。金魚鉢の中心部においたものほどそうで、抜き差しならない事態になっ
ているのに気づき、舞台をリビングから洗面所に移して悪戦苦闘した。竹の根がチューリップの根とから
みあい、竹の根が網になって、しっかりと球根から出た根を抱きとめている。
球根に悪人正機を見たと書いたが、それを包む摂取不捨の如来の力を見る思いだった。まるで抱擁し
合っているもの同士を無理に引き離すようなことになった。竹の根を一年以上見続けてわかったつもりに
なっていたが竹の根の力はそんなものではなかった。昔川土手には竹が植えてあるのをよく見たが、竹の
根の力が洪水を防いだのだろう。機根という言葉があるが、我々という根がたとえたいした根のようには
見えなくても、それをさらに包み込む根があるとき、両者が結びつく力は大変なものである。宇宙に張り巡
らされた如来の根は我々の機根にもうからまっている。
・・・新学期のチューリップ・・・
今年の春の訪れは早かった。あまりに早くてついていけないくらいだった。我々は人間の方が何でもスピ
ードが速いと思っている。しかし人間には休むということがあるから、いつも同じペースでものごとを進めて
いるわけではない。ウサギとカメのたとえではないが、我々がちょっと昼寝をしている間にカメだと思ってい
た自然に追い越されてしまう、そんな感じのする春の訪れだった。いつもなら春よ来いと思うのが、今年の
場合は春よ待ってくれと言いたくなるような春だった。
私の学校の植物もこの春の動きに合わせてどんどん変化していった。学校には春休みがあるから春休
みが明けるとあっと思うほど様子が変わる。今年の場合は春休み前から桜が咲いていたので、桜と新学
期の組み合わせは初めから崩れていた。代わって目を見張ったのがチューリップだった。色とりどりのチ
ューリップが新学期に咲き揃った。
・・・我が家のチューリップ・・・
春休み前から学校のチューリップが葉と茎を伸ばしていたのを見ていたので、我が家ではどうなのかと
思って春休みに我が家のプランターを見たが、それらしいのは一本しかない。昨年の春にはかなりの数が
咲いたのでその球根を取っておいたはずである。
思い出してみると、チューリップは球根を植えて花が咲くまで長く、しかも咲いてからは花の命が短くすぐ
に散ってしまう。プランターで球根が地面に隠れている間は何もないのと同じに見える。それでは寂しいの
で今年はやめようか、などと話したような気がする。一本だけ芽を出し、茎を伸ばしていたチューリップはど
うやら球根を掘り返すときに取り忘れてしまったもののようだ。家族の者に聞いてみるとどうやらそういうこ
とらしい。
・・・闇の中のチューリップ・・・
それでは掘り取った球根はどこにやったのだろう。どうも記憶がない。もう時期が遅いから今さら植える
つもりはなかったが、一応確かめておこうと思った。下駄箱の中にしまったような気がするが下駄箱なら毎
日開け閉めしているから、目に入るはずである。探してみると、毎日は開けていない棚の奥の方から、見
覚えのある袋包みが出てきた。
あったと思って袋を開けてみて驚いた。何とかなりの球根が芽を出しているのである。真っ暗な下駄箱の
中で眠っていると思っていた球根がとっくに目をさまして自分で伸び始めていたのである。これまでもチュ
ーリップを植えてきたがこういう記憶はない。季節通りに植えていればこの時期に棚の中にあることはない
から当然かも知れない。球根を買ったときも掘り取ったときも固かった。その固さと下足箱の中の乾いた
暗闇と、今ここに柔らかな芽を出していることがどうにも結びつかない。少なくとも日差しと水分という条件
がそろって芽を出すのだろうと思っていた。
・・・光に戻るチューリップ・・・
この春に卒業した私のクラスで生徒が家から里芋を持ってきて水をやり育てていた。受験を控えた自分
たちが芽を出すようにという願いを込めてしゃれで置いたようだ。黒板の横に置いてあったのでその変化
を私も楽しんだ。花は咲かないが、世話をした甲斐があり、里芋は卒業式までには立派な芽を出した。私
もそれを生徒への励ましの話題にした。
願いを込めて世話をされていたクラスの里芋と我が家の球根は大変な違いである。しかしこの見放され
たような球根の示した力こそ本当の球根の力なのだろう。願いは初めから宿っていたのだ。悪人正機は闇
の自覚を通して光に出会うことだが、闇の中でその闇を突き破る力が我々の中にあるのである。人が闇に
閉じこめられ続けることはない。闇が仮のものだからだ。球根には前の春に浴びた光の力がこもってい
た。それが闇の中で再び光に戻ろうとしたのである。放って置いたら自分で下足箱の扉を開いたかも知れ
ない。そんな妄想を抱かせてくれた。それを自分の力などと思わないでほしい。我々は自分でも気がつか
ない願いと力の受肉なのである。芽を出した球根を私は春の光の中に戻してやった。
発掘歎異抄(34)
手と角 (2002年5月号)
・・・生えてきたもの・・・
「岡本太郎と縄文」展で太陽の塔の模型にぶつかったことを書いた。太陽の塔の手にぶつかったと書い
たが、はたしてそれは手と言ってよかったのかどうか、表現に迷った。手というのは人に見立てた表現で
ある。木に見立てれば枝であろう。あるいは鳥に見立てれば羽であろう。抽象作品にそういう見立てをす
ることは作者の意図に反するかもしれない。
太陽の塔は我々の意識の底から生えてきたような作品だと思っている。生えてきたという言い方が木に
見立てたような言い方だから困るのだが、鳥で言えば意識の底から飛び立とうとしていると言ってもよいだ
ろう。もちろんそれは岡本太郎の作品だから岡本太郎の意識の中から生まれたものだが、我々の心とつ
ながったかなり深いところからきたインスピレーションによって生まれたように思える。
・・「坐ることを拒否する椅子」・・・
太陽の塔にぶつかった後も私は会場を巡っていたが、最後の部屋で懐かしいものを見た。それは「坐る
ことを拒否する椅子」と呼ばれる、顔を刻んだ陶製の椅子である。この連載にもこの椅子を取り上げ、『歎
異抄』を「坐ることを拒否する書」と呼んだことがある。私はこの椅子を東京青山の岡本太郎記念館の庭
で見たことがある。岡本太郎記念館は岡本太郎のアトリエ兼住居を改装したものである。庭に置かれた
椅子には岡本太郎も座っていたに違いない。記念館を訪れたとき私はこの椅子に座り、その居心地の悪
さを楽しんだ。
庭にはまた、にょきにょきと角が何本も生えて、たたきにくそうな鐘がつるされていた。たたいてもいいこ
とになっていたので、私もたたかせてもらった。これが本当の岡本太郎とのつきあい方なのかもしれない。
普通の鑑賞とは違い、ぶつかり合うことこそが、岡本太郎との接し方なのだろう。
・・・ぶつける子・・・
会場の説明には座ってもいいと書いてあったが、私はその前のできごとがあったばかりなのでどこかた
めらいがあった。懐かしく思いながら座ろうかどうかと思っていると、ある女の子連れの家族が現れた。後
からやって来た女の子はたぶんその説明を読むこともなく、いきなりその椅子に座った。しかも楽しかった
のか、足をぶらぶらさせて陶器の椅子に足をぶつけて音を出し始めた。この椅子から音が出ることは全く
予想していなかった。岡本太郎に触発された彼女はぶつけることで太郎と共鳴し合っているように見え
た。絵に突進した男の子もそうだったのだろう。
ぶつかり合うことを念頭に置いて彼の作品を見直すと突起が多いことに気付く。縄文土器の炎もそうだ
が、手と言うか角と言うか外に向かって突き出されたものが多い。突き出すものを描こうとすると彼は絵画
に留まれなかった。立体作品にその傾向が強いが、絵画も四方八方に突き出すものを描いていたように
見える。発散し放射する線が多い。その炎の角で我々を挑発し我々の命が触発される。そのぶつかり合
いに本当の爆発が起きるのだろう。近鉄バファローズの角のマークも彼のデザインだそうだ。太郎は命の
闘牛士である。
・・・「角のある書」・・・
太陽の塔の手もあれは世界に向かって突き出された角だったのかもしれない。角で挑発しつつ一方で
両手で抱きとめる。一見矛盾するものがそこには込められているのかもしれない。浅原才市の絵は角と
合掌する手が印象に残るが、それを描いた画家は才市に頼まれて仕方なく角を描き加えたという。それ
がさらに温泉津の像になった。もし岡本太郎が才市の像を作るとしたらどんな像になるだろう。岡本太郎
なら突き出す角も合掌する手も何の抵抗もなく一体化してしまうかもしれない。
世界とぶつかり合うとともに世界と抱き合う。それは我々の基本構造かもしれない。角を矯めて丸くした
り、角を消すのは善人の生き方だろう。そうすれば社会は受けとめてくれるだろう。しかし親鸞は社会にで
はなく、世界に抱き取られることを求めた。悪人正機がそこに生まれた。『歎異抄』も「角のある書」であ
る。我々を命に向かって挑発する。
発掘歎異抄(33)
飛び込む者、落ちる者
(2002年4月号)
・・岡本太郎と縄文・・・
広島市現代美術館で開かれていた「岡本太郎と縄文」展に出かけた。この連載でもとりあげているが、これまで岡本太郎について書くことがあった。今回は特に岡本太郎と縄文との関わりをテーマにした展覧会であり、私のこれまでの言及の仕方と共通するものがある。縄文の美の発見者としての岡本太郎が、制作者としてその美と共通する作品を生みだし続けた軌跡を見せる企画である。
休日しか行くことができないので人が多いかなと思ったが、雨の日だったせいか思ったほどではなかった。その代わりに目に付いたのは親子連れである。土曜日で美術館が小中高生を無料にしていたせいかもしれない。岡本太郎の一番の理解者は子どもだということを聞いたことがある。太陽の塔が作られた時に、おとなは理解できなかったが、関西の子どもにはすぐに受け入れられて大人気になったということを聞いた。おとなは子どもにつれられて岡本太郎を理解したのである。
・・・太郎に近づく・・・
会場には縄文土器の名品が並べられていた。岡本太郎が縄文土器に出会ったのは東京の国立博物館であった。いわゆる火焔式土器と呼ばれるもので、瓶の上部の縁に燃えさかる炎をかたどったものである。私もこれまで幾つか見てきたが、この炎の形を見事に写し出した作品はそう多いわけではない。造形的にも難しいはずだし、複雑になれば焼く時に壊れやすいはずである。さらに作品が完全な形で出土することはもっと難しいことであろう。
今回の展覧会にはレベルの高いものが来ていた。それ以上に興味を引いたのは土偶だった。土偶の表情の多彩さにひかれた。瓶は実用的だが土偶は実用品ではあるまい。何らかの祭祀を感じさせる。岡本太郎の作品は祭りを感じさせ、また顔をテーマにしたものが多いが、確かに縄文に触発されたのだろう。祭りが宗教と芸術の原点だろうが、岡本太郎はその原点で「爆発」する。同世代の本田宗一郎も似たところがある。彼の車作りも祭りに見える。土器の炎に原色の赤を付け、土偶の顔を大胆に拡大すれば岡本太郎の作品に近づきそうだ。晩年の岡本太郎は「縄文はますますおれを真似してきている」と言ったそうだ。
・・・太郎に飛び込む・・・
さて会場の子ども達はどうだったのか。縄文土器にはそれほど見入っているようには見えなかった。色がないのがその原因かもしれない。しかし岡本太郎の作品には何か強烈なものがあったようだ。ある絵を見ていたときのこと、隣にいた家族連れの男の子が突然「あっ」と声をあげて絵の一部を指さして突進し、絵に触れてしまった。一瞬のことだった。親がすぐに引き離したが、係員が飛んできた。私も驚いた。こんなことは初めての経験だった。まるで絵に飛び込んだようだった。
絵はいわゆる抽象絵画だった。いったい何が見えたのか、何にひきつけられたのか聞いてみたかった。私にはいくら見てもそれがわからなかった。この子は初めて岡本太郎の作品を見たに違いない。感じたものを、ここまで素直に直接的に表現されてしまうと、圧倒されてしまう。もはや善悪の問題ではない。
・・・太郎に落ちる・・・
浅原才市の歌に童心があることを書いた。天国は幼子のものである。童心は努力して得るようなものではない。その意味で自力的なものではない。子どもおそるべしである。やられたと思い会場を巡っていると太陽の塔の模型があった。塔の顔が子どもの顔に見えてくる。そう思いながら塔の周りを回っていた。
すると突然塔にぶつかってしまった。塔から突き出た手にぶつかったのだった。見入りながら回っているうちに近づき過ぎたようだった。係員が飛んできたのであわてて謝った。しかし先にわからなかった子どもの気持ちが少しわかったように思った。子どもの場合は隕石が飛び込んだようなものだが、私の場合は星の周りを回っている人工衛星が引力に抗しがたく落下したようなものだった。我執が尽きるとき我々は如来に落下するのだろう。念仏者は子どもに還って往生する。
発掘歎異抄 (32)ゴホンと言えば(2002年3月号)
・・・風邪の子と・・・
今年の正月は大雪に見舞われた。年賀状に踊る春の字がはね返されそうな寒い一年の始まり
となった。風邪をひかなければよいがと心配したが、体が身がまえていたのか、家族みな風邪
をひかずにすんだ。その後数日ずいぶんと暖かい日が続き、三月や四月の気温という日もあった。
年賀状の春の字が嘘ではない暖かさだった。
この暖かさで気がゆるんでしまったのか、子どもが風邪をひいてしまった。三連休の土曜日
からおかしくなり始め、日曜日には熱が出た。休日の当番医に子どもを連れて行ったが、大変
な混雑だった。暖かかったので風邪をひいている人は少ないのではないかと思っていたが、そ
うはいかなかった。待合室のいたる所で咳の音がする。不思議なもので、その音を聞いていると
こちらまで咳をしたくなる。病は気からと言うが、本当にそうなのかもしれない。あちらこちらで
不況の咳の音が聞こえる今の日本もこんな状態なのだろうか。
・・・咳をしても・・・
結局二日間病院に子どもを連れて行き、合計で六時間病院にいた。この間に思い返していた
ものがある。一つは尾崎放哉の俳句で、「咳をしても一人」である。尾崎放哉は大正十五年
(一九二六年)に四二歳で亡くなった。俳句と言っても自由律なので、わずか九音の短詩である。
咳も音としてはきわめて短いが、咳の短さと句の短さと人生の短さが呼応し合っているような句である。
咳とともに思わずもれてしまった感慨だろう。
放哉は結核を病んでいたから、その咳は命を縮めるものだった。この句が作られたのは小豆島の
南郷庵である。小豆島は壷井栄の『二十四の瞳』の舞台だが、田中裕子の主演で再映画化された『二
十四の瞳』でも、大石先生が、肺病を病んで家族からも見捨てられた教え子を見舞う場面がある。
死の病であった結核の患者は、死と孤独に向き合いながら、最後の時を待たねばならなかった。放
哉はこの句を作った冬を何とか乗り切ってまもなく、四月七日に亡くなった。釈尊の誕生を祝う花
祭りの前日だった。
・・・ゴホンとゴボウギ・・・
もう一つ思い出していたのは、浅原才市の咳の詩である。「かぜをひくと せきがでる さいち
が御法義のかぜをひいた 念仏のせきがでる でる」風邪をひいた時の詩だろう。咳と念仏を重
ねて見ている。苦しかったに違いないが、咳も念仏のようなものだと気がついて、咳が出るのをむ
しろ楽しんでいるような感じがある。自分でしようと思ってするのではない咳と、他力の念仏はた
しかに似ているかもしれない。自分の念仏は如来に風邪を染してもらって如来の咳が出るよう
なものである。如来と一緒なのが何よりも才市はうれしいのである。冬は通り越して花祭りの
盛りである。孤独は見つけようがない。
この詩は才市が通った安楽寺の境内に詩碑として建てられている。この詩を選んだのは北原
白秋だそうだ。私は白秋の童謡が好きだが、才市の詩にも童心がある。それは如来が本当の親
で自分が子だと思っているからである。そうして両者は戯れ合っている。浄土のことを極楽と
も言うが、才市にとって宗教はこの世で味わえる無上の楽しみである。
・・・逃げられないもの・・・
丸二日間子どもの風邪とっきあって、大丈夫がなと思っているうちに、下の子に先に染って
しまった。接触しないように気をつけていたのだが、どうしようもない。二人して咳の二重唱
である。これならさびしくないだろう。外堀、内堀と埋められてきて、冬の陣は迫ってきている。
もうじき仲間にされそうだ。
その晩、部屋に一人でいる時についに咳が出た。これはまずい、早く原稿を書いておかなければ
と思い、才市のことを書いたある本を読み返し始めた。そうしてこの咳の詩のところに来ると、
才市が昭和七年(一九三二年)一月十七日に亡くなったと書かれていた。何とその日が没後七
十年目の命日だった。阪神大震災から七年目の日でもあった。私の咳も如来の御催促だったのか。
逃げようがない。
発掘歎異抄 (31)もう一つの不思議 (2002年2月号)
・・・流れてくるもの・・・
日本人の信仰が私の一つの大きなテーマである。その中で浄土教は中心を占めるものだが、
日本人にとって浄土教は一つの宗教にすぎない。日本人の信仰を考える上では仏教だけではなく、
古代から続く信仰についても考える必要がある。そう思い始めて各地の聖地や霊場と言われている場所を
回り始めた。十年かかってようやくそれをまとめることができた。この春には一つの本となる予定である。
昨年の九月に、何度めかの校正を終えて、そろそろ後書きを書こうと思った。そこに浄土教を中心に勉強し
てきた者が、どうして古代信仰について書くのか理由を述べた。普通は浄土教を理解するには、インド・中
国・日本という三国伝来の流れで考える。浄土教の教典がインドで成立し、中国にもたらされ、漢訳されて
中国の浄土教が成立する。さらに中国浄土教の論釈が日本にもたらされて日本の浄土教が成立する。親鸞が
浄土七高僧と呼んでいる流れであり、インドが二人、中国が三人、日本が二人である。現在の我々はこれに
親鸞や蓮如を加えて浄土教を学んでいるので、八高僧・九高僧の流れが浄土教である。
・・・重なるもの・・・
仏教の一宗派として見たときにはこの理解に疑念をさしはさむ余地はない。しかし一方で日本の浄土教は
仏教の各宗派の中でも、最も日本化した仏教だと言われている。親鸞が布教したのは関東の農村部であっ
た。彼らがどうしてこの新しい宗教を受け容れたのだろう。インドからの三国伝来の関係だけではなく、浄土教を
受け容れた日本人の信仰の母体も考える必要があるのではないか。
私が各地を回りながら実感していたのは、古代信仰は力強く今も生きているという思いであった。地層のように
重なる根底部分が生きていて、上に重なるものが生きてくるのではないか。浄土教は三国に伝来し、何人も
の高僧が出たおかげで、精密な教義体系ができあがり、聖典も分厚いものになっている。それに目を奪われて
いると根底にあるものが見えなくなってくる。
・・・地球と宗教の構造・・・
新しい本の後書きの中で、私は宗教の構造を地球の構造になぞらえてみた。地球は太陽から分かれた火の玉で
あった。それが冷えて固まり、地殻ができた。我々はその地殻の上に分かれて住み、それぞれの土地で、国
や文化を作り上げてきた。しかしそれは地球全体として見れば、ほんの表面にすぎない。その固い殼の下には
今も熱く燃えるマグマが対流している。火山は地球の本体が何かを示してくれている。
宗教の中心にあるものもこの燃える何ものかであって、それが、ある人々を通して噴き上がってくる。やがてそれ
が固まり、教義や組織ができてくる。そしてそれができあがると、中心にあるものは忘れられて、まったく個々別々
の宗教であるかのように見える。日本で言えば、神道と仏教は別々の宗教であり、二つが重なって見える部
分は神仏習合と言われている。しかし二つが一緒になったのではなく、もともと一つだったものが、二つの表現を
とっているのではないか。同じ山の二つの火口のようなものだ。そのようなことを書いた。
・・・同じ日に・・・
古い宗教ではよく原点回帰の運動が起こる。それが本来の源泉に戻るのならいいのだが、しばしば教典や
教義という冷えて固まった殻の部分に戻ることになってしまう。何百年前、何千年前に冷えて固まった部分を
取り出して現代に通用させようとする。化石を無理やり生き返らせようとする。そして軋鞭が生じる。原理
運動と呼ばれるものにその傾向がある。
宗教は冷えて固まったものではなく、常に生きて働くものである。ぶつかっているのは冷えて固まってい
る部分である。後書きを書き終えて十年の一区切りとした九月十一日の夜遅く、ニューヨークの同時多発テロが
起きた。私が事件を知ったのは翌朝だった。一つの仕事を終えた安堵感は吹き飛んだ。後書きには「二〇〇
一年秋」と書いたが、この日付の一致は何なのか。ただただ不思議であった。
発掘歎異抄 (30)不思議から不思議へ (2002年1月号)
・・・『歎異抄』と『方丈記』・・・
私が『歎異抄』の参考書として時々読みたくなる本がある。鴨長明の『方丈記』である。こ
の本とのつき合いは『歎異抄』とのそれとほぼ同じくらい長い。高校の古典の授業でその冒頭
を習って以来である。『歎異抄』も高校時代の倫理や日本史の授業で悪人正機の一節が紹介さ
れることが多いので、『歎異抄』と『方丈記』に同じ時期に接した人は多いだろうと思う。
『方丈記』の冒頭は「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶ
うたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」である。川の流れに
託して無常を述べた名文である。『平家物語』の冒頭である「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の
響あり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。」と同様に国語の時間に暗唱させられ
たという人は多いだろう。真宗門徒なら蓮如上人の「朝には紅顔あって夕には白骨となれる身
なり」という「白骨の御文」とともに無常観を述べた文として耳に残っているのではあるまいか。
・・・大火・飢饉・地震・・・
私は授業で何年かに一度『方丈記』を扱っているが、いつも残念に思うのは、教科書に取り上げ
られているのが、この冒頭部分だけであることだ。『方丈記』では無常観を総括的に述べる冒頭の一
章に続いて、長明が無常観を抱くに至った数々のでき事が具体的に記されている。「予ものの心を
知れりしより、四十あまりの春秋を送れるあひだに、世の不思議を見る事ややたびたびになりぬ。」
から以降の部分である。自分もその「四十あまり」の歳になって長明の言うことがもっともだと思え
るようになってきた。
長明があげているのは、安元の大火、治承の辻風、京から福原への都還り、養和の飢饉、元暦の
大地震などである。これらの中には平家による福原還都のように、明らかに人為的に引き起こされ
たものもあるが、多くは事故や災害である。特に地震の与えた心理的なダメージは相当のものであ
ったようで、長明も「四大種(地水火風)のなかに、水火風は常に害をなせど、大地にいたりては
異なる変をなさず」と書いている。それなのに起こった。
・・・世の不思議・・・
これらのでき事の間に直接的関連は考えられない。合理的な因果関係を求めるのは無理である。
だからこそ「世の不思議」と長明は書いたのだろう。これらのでき事一つ一つが考えられない事態
であるとともに、さらにその相互の関連を考えることは無理である。にもかかわらず人はその関連
を考えたくなるものである。
二〇〇一年の九月から十一月にかけてあいついで起きた飛行機事故はまさに「世の不思議」
である。はじめのものは人為的なテロ事件だから説明が可能である。しかしそれ以後のロシア・
イタリア・再びニューヨークと続いた飛行機事故では、相互の関連は考えられない。しかし何
かどこかでつながっているのではないかと思いたくなる。しかし答えは出ない。結局不思議で止まってしまう。
・・・二つの不思議・・・
平安時代の人々はこうした考えられない事態の連続をたとえば末法という言葉で納得したの
だろう。末法は仏滅後二千年から始まるとされ、当時の計算では一〇五二年からと言われていた。
摂関政治が終わり院政が始まるころである。やがて武士が台頭し戦乱の時代が始まる。その中
で長明の言う「世の不思議」が連続する。長明はそれから逃れ、日野に隠棲して仏道に励んだ。
『方丈記』の本当の中心は方丈庵での閑居の楽しみにある。
親鸞もその「世の不思議」を体験した。親鸞もよく不思議を言う。しかしそれは「世の不思議」
ではなく、仏の働きの不可思議である。「誓願不思議」、「仏智不思議」と言われるものである。
「世の不思議」の不安におののく人々が仏に救われる不思議である。「世の不思議」を踏み台
にして仏の不思議に跳入する。そこにおいて不安の不思議は安心の不思議に変貌する。これも
悪人正機なのである。
発掘歎異抄 (29) ショーの結末 (2001年12月号)
・・・二度めと三度めの間に・・・
『オペラ座の怪人』について原稿を書いたあと、もう一度舞台を見に行った。特に結末に至る展
開をもう一度見たい気持ちがあった。もしまた違った印象を受ければ、誌面に載るまでの間に
変更ができると思った。原稿を書く前の二度めに見た時と、原稿を書いてから見た三度めの間
に大変な事件が起きた。ニューヨークの同時多発テロ事件である。
超高層ビルに、ハイジャツクされた旅客機が、相次いで衝突するなどということを誰が予想し
たであろうか。崩れ落ちる超高層ビルとともに、その映像を見た人々の中で、何かが崩れ落ちた
のではなかろうか。
・・・十年の間に・・・
十年前の湾岸戦争の時のことを覚えているが、あの時と今回では生徒の反応がまるで違った。
あのころの日本はバブル経済の時代で世の中全体が一種のハイの状態にあった。戦争の負の面
は忘れられ、最も刺激的で興奮するショーがテレビ画面の向こう側で繰り広げられる。アメリ
カ人も日本人も観客だった。
しかしその後、我々は次々と考えられないような事態を経験してきた。バブル経済の崩壊から始
まった長期不況、阪神大震災、地下鉄サリン事件。阪神大震災の記憶が新しいうちに、鳥取県西部
地震と芸予地震も経験した。この三つの地震の揺れを三つとも私は体験したが、その揺れが来た瞬
間を鮮明に覚えている。これらのでき事を経験するうちに、我々は変わっていったのだと思う。
この事件を話題にする生徒の表情に、湾岸戦争の時のような興奮は見られなかった。「戦争にな
りますかね」と尋ねてきた生徒がいたが、かつてのように戦争を期待するような感じはまったくな
かった。ニューヨークの死者の数は阪神大震災の時の死者の数とほぼ同じようである。しばらくし
てその五千人の中に本校の卒業生がいたことが伝えられた。阪神大震災の時にはそういったことは
聞かなかった。やはり海の向こうのでき事ではなかったのである。
・・・舞台と客席の間に・・・
ミュージカルの本場であるニューヨークのブロードウェイではめっきり客足が遠のいたというこ
とだったが、人々が受けた心理的なダメージは相当のものだったろう。広島での『オペラ座の怪人』
の公演は特に影響を受けなかったようだが、私の場合は重苦しい気持ちをミュージカルを見ること
で少しでも晴らしたいという思いもあって、また出かけた。
『オペラ座の怪人』では舞台と客席の間に吊り下げられた巨大なシャンデリアが怪人によって落
とされるシーンが圧巻なのだが、何ともこれが不気味に見える。パリのオペラ座という最も華や
かな世界の地下に謎の怪人が棲み、自分の要求を突き付け、要求が受け入れられなければシャ
ンデリアを落下させるというのは、ニューヨークの事件と重なるものがある。しかも彼はペル
シャの王に気に入られて王のために迷宮を建てたことがあるという男なのである。彼は醜さの
ために自分を疎外したヨーロッパに対して復讐をする場として芸術の都であるパリのオペラ座
を選んだのである。シャンデリアの落下は彼の力を見せっけ、人々に衝撃を与える最も効果的
なショーである。
・・・ショーとショーの間に・・・
ニューヨークの事件も実害以上にショー的な効果をねらった面が強い。湾岸戦争というショ
ー的な戦争の裏返しなのだろう。テロリストのねらいは的中して、この白昼のショーはテレビ
を通して世界中に伝えられた。多くの人々が映画の一シーンなのではないかと思ったというが、
アメリカが生んだ映画の手法とテレビというショー的メディアを取り込んだ復讐ショーだった
のだろう。このショーに結末はあるのか。あるとすればどうなるのか。
自分の力を見せっけるという自力で愛を得られなかった怪人は、予期せぬ女神の涙という他
力に救われる。超高層ビルに突っ込んだテロリストも白由の女神には突っ込めなかったのでは
あるまいか。そこにまだ救いの芽は残されているように思われる。力を見せつけ合うショーと
ショーの間に女神は立っている。
発掘歎異抄 (28) 怪人正機 (2001年11月号)
・・・『オペラ座の怪人』・・・
広島で上演されたミュージカル『オペラ座の怪人』を見た。二度見たのだが、一度めに見た
日が、国内動員三百万人達成という記念すべき日であった。劇団四季が日本での公演をはじめ
て十年以上経ったということだが、ロングラン公演を続けるのはもっともだと思った。ミユー
ジカルはオペラのポピュラー版と言ってもいいものだろうが、この作品はパリのオペラ座を舞
台として、劇中にオペラの場面が挿入されていることもあり、オペラとしての鑑賞にも充分堪えうるものだろう。
原作はフランスのガストン・ルルーが一九一〇年に書いた『オペラ座の怪人』だが、すでに
四度映画化され、一九八六年にイギリスでアンドリュー・ロイド=ウェバーの作曲によりミユー
ジカルになった。文学・美術・音楽の粋を集めた総合芸術と呼べる仕上がりになっている。ロ
イド=ウェバーの曲は一度耳にすれば忘れられない名曲ぞろいである。その音楽がまだ耳の中で
鳴っている日にもう一度見に行った。
・・・『浄土真宗的』?・・・
一度めに行った時に、帰り際にある人が「浄土真宗的」と言ったのだが、私にはその言葉がピン
とこなかった。私には愛を失った怪人の悲劇と映ったので、救いの宗教である浄土教とはすぐに結
びつかなかった。自分は自分なりの受け取り方で、余韻にひたっていたので、別の受け取り方がよく
わからなかったのだろう。
一度めに見た時に、会場で劇団四季の作成した解説の冊子を買ったので、それをよく読んでおい
た。劇中で歌われる主な歌の歌詞が冊子に収録してあったので、ミュージカルとしての内容はそれ
でほぼ頭に入った。曲がすぐれていると、ついそのメロデイーに乗ってしまって、歌詞の内容を聞
き落としてしまう。一度めはそういう箇所がいくつかあったように思うが、二度めはそれはほとん
どなかったと思う。そして最後の場面ではたして怪人が救われたのかどうか、注意して見ていたの
だが、結果は謎が残ったままだった。
・・・怪人の愛・・・
オペラ座に棲みつく怪人は美しい歌姫に心奪われ、彼女にレッスンをし、音楽の天使として育て
る。彼女は彼女で怪人を亡き父が送ってくれた音楽の天使と思い込んで敬愛する。この時点では二
人の心は音楽という美の世界で融け合っている。しかし彼女が怪人のマスクの下にある醜い素顔を
見、また美しい青年貴族に成長した幼なじみに再会し恋したことから怪人と彼女の関係は変わる。
怪人は嫉妬に狂い彼女を連れ去り、跡を追ってきた青年を人質にして彼女の愛を求める。
この後を言うのはまだ見ていない人には酷なのでやめておくが、彼女が青年とともに去って
行った後に、怪人は「我が愛は終わりぬ。夜の調べとともに」と歌い、消えてゆく。怪人と歌
姫は音楽によって結ばれていたのであり、また歌姫の怪人に寄せる心情は音楽家であった父に
寄せる心情と重なっているので、彼女にとっては怪人への愛と青年への愛は別の次元にある。
青年が現れた時点で怪人の失恋は必然といえる。怪人は美しい娘を奪われる父になるしかない。
・・・原作では・・・
問題は怪人は救われたか否かである。父ならばその運命を受け容れることができる。しかし、
醜さと孤独に沈んできた怪人にはそれは容易ではない。原作を読むと、原作では怪人の魂は救
われたように読める。泣きながら彼女の足下に崩れた怪人は彼女の涙が流れ落ちるのを感じる。
母さえ逃げたという男のために彼女は泣く。「わたしたちは一緒に泣いたのだ」「天にまします
主よ!あなたはこの世のすべての幸福を与えて下さったのだ!」そして怪人は彼女と青年を送りだす。
醜さ故に美と愛を求めた怪人は、求める愛は得られなかったが、女神の涙に救われる。それ
は母の愛と同質のものだろう。それは悪人であることを自覚することによって救いを求める「悪
人正機」と似た構造をもっている。もし心の中がそのまま顔に表れるならば、人は誰もマスク
を付けずにはいられないだろう。
発掘歎異抄 (27) 浄土の電信 (2001年10月号)
・・・聞く教え・・・
親鸞の時代、親鸞が相手にしていた人々は「一文不知」という人々であった。法座のような仏
教の講演を聞く度に、昔のように文字の読み書きのできない人々を相手にした時に仏教の用語
やそれに基づく教えをどうやって伝えたのかということをよく思う。現代でも耳で聞いた仏教
語が、どんな字を使い、何を意味するのかわからないということを聞く。教えの前に用語の問題が
あるのである。
漢語はそもそも同音異義が多く、同じ発音で別の言葉を意味することがよくある。たとえば「ヒ
ガン」と聞いた時に、どういう語を思い浮かべるだろうか。「彼岸」と「悲願」の両方があり
うる。ともに浄土教でよく使う語である。「衆生をヒガンに渡す仏のヒガン」といった使い方
ができる。この場合、前の「ヒガン」が「彼岸」で、後の「ヒガン」が「悲願」である。
・・・ヒガンでも・・・
「悲願」の場合は、本来は仏の願いを意味した言葉だが、それが一般化し、どうしても成し
遂げたい願いにも使われるようになった。「悲願の優勝」といった使い方である。カープファ
ンもカープが長らく優勝から遠ざかってくれたおかげで、仏の境地に近づきつつある。弱小球
団とヒガンでもしかたないが、常勝球団のファンにはこの境地はわかるまい。
「彼岸」の場合は、仏教用語としてしか使われることはないので意味のずれは少ないが、仏
教用語としての「彼岸」にも変遷がある。本来は悟りの世界が彼岸であり、浄土教の浄土もそ
の一つである。それがしだいに先祖供養としての「彼岸会」を意味するようになる。春分と秋
分のころに行われる「お彼岸」がそれである。春分と秋分は太陽の運行によって決まるので、
仏や先祖とは関係ないはずなのだが、古くからの太陽祭祀が、先祖供養、先祖崇拝という「ま
つり」と習合したものと言われている。
・・・聞信・・・
このように、よく使われる仏教用語でも同音異義の判別や、意味のずれといった問題がある
のだから、「一文不知」という人々が、仏教の話を耳で聞いて理解するのは大変なことだと思う。
浅原才市の場合は「一文不知」とまでは言えないが、そのノートに使われている言葉は発音だ
けをかなや限られた漢字で表現している。我々がそれを読む場合は、もとの漢字に復元して読
む必要があるが、意味としての誤用はほとんどないように思われる。それはまだ文字を知らな
い子供が、親の話し言葉を聞きながら、言葉を学習してゆくのに似たところがあるかもしれない。
浄土教では「聞即信」ということをよく言う。それは親の言葉を子供が聞く時の態度と似てい
るかもしれない。子供は音を聞いてから解釈するのではなく、音にこもっている親の意思をそ
のまま受け取る。そこにある言葉は言葉として独立したものではなく、心がそのまま伝わり、
それがそのまま受け取られているのである。言葉という伝達手段に悩む必要はないのである。
親の「以心伝心」が子の「以信伝信」になる。仏と人も同じである。
・・・電信と伝信・・・
しかし教育が発達し人々が文字を知るようになると、この幸せな関係が崩れてくる。幕末か
ら明治にかけて生きた僧侶達は、説法を聞く人々の変化を感じたに違いない。才市のように明治
以降の学校教育を受けていない人の方が、文字を知り、理屈も知った人達より吸収が早かったかもしれない。
七里恒順師もこの変化を感じていた。「然るに今の人達は、智慧が開けて居るから一利一害
がある。」「阿弥陀如来の悪人正機も悪人が捨てられぬのぢゃ。道理の外に立った大慈悲。そ
れに道理を詮議するは、的はづれであらうがの。」と明治十四年の法話にある。
そうして電信の例をあげている。電信の理屈は我々には分からないが使う。同様に「御浄土
に用事が起れば、自分はその道理は分らいでも・局長が阿弥陀如来さまぢゃもの、分らいで何と
しやう。」浄土のデンシンはインターネットよりも速い「伝信」である。
発掘歎異抄 (26) 俗より俗 (2001年9月号)
…神仏の共存…
文明開化の時代を生きた七里恒順師にとって最大の困難は何であったろうか。常識的には王
政復古に伴って起こった「廃仏毀釈」の動きであろう。江戸時代までの日本では神道と仏教の
区別はあいまいであった。神道は白然崇拝と祖霊崇拝から始まったと言われるが、多くの自然
神や祖霊神が共存する多神教であった。そのため仏教の仏すら、新しい外来の神として受容し
うるという面があった。神道の中心を占めていると言われる「天つ神」も、それぞれの土地の
在来の神であった「国つ神」に対しては外来の神であった。
私は以前、松尾芭蕉の『奥の細道』の旅を東北路を中心にたどったことがあったが、芭蕉は
歌枕を中心に、各地の神社仏閣を訪れている。芭蕉は参禅の体験もあり、旅の姿は僧形であっ
たと言われているが、彼にとって神社と寺の区別はほとんどない。聖地や霊験のある所なら、
宗派は関係ない。寺社に限らず、美しい自然そのものも、芭蕉にとっては聖地だったのである。
おそらくこれが江戸時代までの一般的な日本人の感じ方だったのだろう。
・・・廃仏毀釈・・・
ところが明治維新は、維新でありながら、一方で復古であり、天皇の復権とともに、神道の
復権であった。封建権力と深く結びついていた仏教は大きな打撃を受けた。神仏習合は否定され、
寺院の破壊や信者の離散が一時的に起こり、仏教関係の文化財の散失も相次いだ。日本の歴史
の中では「廃仏」はほとんど起こらなかったので、仏教にとっては大事件であった。
仏教に対する攻撃にはこうした復古主義者からの攻撃とともに、もう一つ、開化主義者から
の攻撃があった。明治維新とは復古主義と開化主義という異なるベクトルが変革を求めるエネ
ルギーの中で奇妙に融合していたのである。仏教は両者のはさみ撃ちにあった。開化主義者の
代表が七里恒順師と論争をした福沢諭吉であった。
・・・合理主義者の批判・・・
福沢諭吉の仏教批判の言葉を七里師は説法の中で引用している。「青は藍より出でて、藍よ
り青く、僧は俗より出でて、俗より俗なり。」という言葉である。いわゆる「出藍の誉れ」の
ことわざをもじったものだが、たしかに当たっている面がある。この言葉の引用は明治二十一
年十二月に行われた「御正忌法話」に出てくる。当時の新聞に載った福沢諭吉の言葉だそうだ。
「廃仏毀釈」は明治元年の「神仏分離令」によって起こったものであり、廃仏そのものが目
的ではなかった。過激な行動はまもなく終息した。一方でそれは仏教の側にも革新運動をもたらす
という面もあった。しかし仏教にとっての本当の敵は、文明開化によって進む人々の宗教離れ
であったろう。福沢諭吉が『福翁自伝』の中で述べているところによると、彼が子供のころ、
稲荷の社を開けてみたところ中に石が入つていたので、それを捨てて代わりの石を入れておいた。
そうして人々がそれを拝むのをばかにしたという。みごとな合理主義である。これが仏教のみなら
ず宗教にとっての大きな敵である。
・・・親鸞の俗・・・
「僧は俗より出でて、俗より俗なり」という福沢の批判は、人々がわけもわからずありがた
がっている僧という石ころを捨てて見せているのである。七里師はこの言葉を「凡夫心で考へ
たら実に腹が立っばかりぢゃ」「けれども云われて仕方のないこともあり」と言っている。し
かし仏法から見れば仏の御慈悲をいただいている楽しみがわからないのは「実に可哀想(かわいそう)」
だと 福沢を批判している。
福沢の批判はたしかに当たっている。それは明治時代だけでなく、親鸞の生きた平安時代末
も同様だった。親鸞が比叡山を出た理由にはこのこともあったろう。しかし親鸞は俗化した比
叡山の中で、さらに「俗よりも俗」な自分を見た。その自分を救うのは仏の慈悲より他なかった。
ただ俗に染まったのではない。そこに「悪人正機」の教えが生まれた。「俗より俗なり」とは親鸞
のためにある言葉である。
発掘歎異抄 (25) 沈まぬ船 (2001年8月号)
・・・船のたとえ・・・
七里恒順師の説法には汽車の例えが出てくるが、浄土教を説くのに伝統的に用いられてきたのは
船の例えであった。七里和上の法話でも船の例えはよく登場する。
「弥陀大悲讃法話」では「今我々も生死の苦海に沈み込んで居るものを、阿弥陀如来なれば
こそ、大願の御船を浮べさせられ、常楽涅槃の彼の岸へ乗せて必ず安々と、着けて下さると思
へば、忘られぬ道理ぢゃ、・・・・大悲の願船に乗り込めば御慈悲は常に忘れられぬ。」
これが伝統的な船の例えで、溺れているどんな悪人でも阿弥陀の船に乗って浄土に往かせて
もらうと説く。明治時代になるまで乗り物と言えば船しかなかったから、この比喩は千年、二
千年と使われた比喩である。
・・・保険付きの鉄の船・・・
七里師の時代になると鉄の船が登場するがこれも法話に取り込まれている。「今御浄土参り
の大願丸は、人間世界の港に着いて居りますぞ。此の船は鉄の如く破るることもなく、溺るる気
遣ひなく、生死の海は深くとも、愛欲の波は高くとも、更に憂ひのない大丈夫な保険付き。」
さすが文明開化の時代の法話である。実はこの鉄の船と保険が出てくる「永代経法話」は説
法された年次が明らかになっていない。それを明らかにする一つの手がかりが「保険」である。
私の友人が、ある保険会社の研究所に勤めていて、「保険」という語の由来を尋ねてきたことがあ
った。『大漢和』にも出てくる古い言葉なのだが、制度としての保険を日本に紹介したのは、明治
三年(一八七〇年)の福沢諭吉著『西洋事情』であったようだ。同書は「災難請合」として「生
涯請合、火災請合、海上請合」を紹介している。
現在では保険と言えば、生命保険が中心だが、保険の発生は海上保険であったと言われている。
船で貿易を行う際に、積荷を載せた船が難破すると荷主は大損害を被る。貿易を活発にするた
めには海上保険が必要だったのである。明治時代となり貿易を振興する必要のあった日本でも
まず必要なのは海上保険であった。こうして明治十二年(一八七九年)に東京海上保険会社が設立された。
こういうわけで、この「永代経法話」が行われたのは、明治十二年以降だろうという推測が
できる。しかも法話の保険は船の保険だから、海上保険会社の設立とよく合致しているのである。
さらに浅原才市が博多に行ったのは明治十二年だから、才市が聞いた可能性のある法話である。
また才市は船大工であったから、船の法話は最も身近な例えであっただろう。
・・・七里和上と福沢諭吉・・・
文明開化と七里和上の関係は法話の題材だけではなく、もう一つ奥がある。それは福沢諭吉
との関係である。七里和上は越後の出身だが、二十歳の時、郷里を辞して豊前国に遊学し、さ
らに二十八歳の時、豊後に移り修学を続けた。三十歳までが和上の修学時代と言われている。
天治元年(一八六四年)十一月に七里和上は博多の萬行寺に入り、ここから教化の日々が始まる。
その半年前の五月に七里和上と福沢諭吉が会談しているのである。
当時の福沢諭吉は洋行帰りで、文明開化の必要を高唱し、仏教に対して批判的であった。豊
前に帰郷した福沢は僧侶に論争を挑んだが僧侶はことごとく論破され敵となる者はなかった。
そこで七里師に要請があり、福沢の菩提寺である中津の妙蓮寺で会見が行われた。この論争は「梅
霖閑談」と題されて萬行寺に伝わる。二人は互いに深く敬服したという。
・・・沈まぬもの・・・
保険付き船の例えはうまいが、今はその保険が破綻する時代になった。私の加入していた生
命保険も破綻し、更生の通知が来た。そこに新会社名の由来として、地中海の出口にある不沈
の岩「ジブラルタ・ロツク」のことが書かれている。「荒波にもまれながらも形を変えず、ま
さに安心と信頼のイメージ」だそうだ。この時代、沈まぬものを見付けるのは至難のわざである。
人生の出口にそれが見付かるだろうか。
発掘歎異抄 (24) 阿弥陀仏の御客 (2001年7月号)
・・・説法の人・・・
浅原才市を導いた七里恒順師の説法はどのようなものだつたのか。それを知ることができる
のが、『七里和上言行録』(大八木興文堂)である。千ぺージ近い分厚い本だが、中心となっ
ているのは法話であり、法話だけで六百ぺージ以上ある。意外なことに七里師には著作がなく、
その教えを知ることができるのは法話である。高徳の宗教家や思想家の中には著作がなく、説
法が中心という人があるが、七里師もそのタイプであったようだ。
『七里和上言行録』の初版は明治四十五年であり、以来大正、昭和と読み継がれ、昭和四十
五年に改版されている。明治時代の浄土真宗の人としては清沢満之が有名で、今日でもなお読
み継がれているが、清沢師が学者肌で、思想家であるのに対して、七里師は実践的な宗教家で
ある。七里師の周辺の人々は七里師を法然上人の再来と仰いでいたというが、庶民を相手に平
易な語り口で、諄々と説いて聞かせる法話は、吉水の庵室で京の人々に語りかけた法然上人を
思わせるものがある。
『七里和上言行録』に収められた法話にはそれがいつ行われたか記されているものが多く、
それによると明治三年から明治二十五年までの法話が収められている。才市が博多に行ったの
は明治十二年だから、それ以降の法話が、才市が聞いた可能性の高いものである。法話が明治
二十五年までしかないのは、明治二十六年に和上は中風にかかり、それ以来明治三十三年の帰
寂まで病床にあったからである。
・・・『歎異抄』再発見・・・
『歎異抄』が世の人々に知られるようになったのは清沢満之とその門下の紹介によると言わ
れている。明治三十四年(一九〇一年)東京にあった清沢満之は、雑誌『精神界』を発行し、
ここから暁烏敏、曽我量深、金子大栄といった『歎異抄』の語り手が出てくる。これらの人々は真
宗大谷派(東本願寺)の人々であった。七里恒順師は真宗本願寺派(西本願寺)の人であり、
明治十三年から十五年にかけては本山の執行を務めている。役職に就くことは師の望みではなく、
早々に辞しているが、本願寺派では重要な人だった。
その七里師の法語において、しばしば、『歎異抄』の親鸞の言葉が引用されている。『歎異抄』
への着目は七里師の方が清沢師よりも早かったのかもしれない。そもそも『歎異抄』は親鸞の
説法を抜き出したものなのだから、説法を得意とした七里師が法話に用いるのは当然の成り行
きで、七里師としては『歎異抄』を再発見したつもりはなかっただろう。
・・・阿弥陀仏の列車・・・
『歎異抄』の最も有名な言葉である「善人なをもて往生をとぐ、況んや悪人をや、…」は明
治十七年十二月に行われた「弥陀大悲讃法話」に出てくる。「阿弥陀如来の本願は元々善人聖
者は御相伴、悪人凡夫が御正客、悪人を本として御立て下された。それで御互は罪があればこ
そ御正客となることが出来るのである。」と述べ、汽車に乗る切符のたとえを用いている。貧欲瞋
意愚痴の者が上等の切符をもらい、布施持戒等の善根功徳の者が下等の切符をもらう。悪人が
上等の切符で善人が下等の切符をもらうのが阿弥陀の列車である。
・・・ファーストクラスとエコノミークラス・・・
汽車は当時の最先端の乗り物である。今の新幹線はグリーン車も普通車もそれほど大きな席
の作りの差はないが、当時の上等、下等の差は大きかったろう。最近では飛行機のファースト
クラスとエコノミークラスに大きな差がある。私はエコノミークラスしか乗ったことがないから、
ファーストクラスのことはわからないが、エコノミークラスの乗客が、飛行機から下りた後、
急死するというエコノミークラス症候群が問題になっている。狭い席に長時間座り続けて血行
が悪くなるために起こるのだという。これくらい差があると七里師の法話に合いそうだ。
七里師の法話を聞きに集まったのは庶民が多かったという。堅い席に長時間座って博多まで
来た人も多かっただろう。その人達がこの法話を聞けばどんなに喜んだことだろう。
発掘歎異抄 (23) 罪のせんさく (2001年6月号)
・・・善知識・・・
温泉津町小浜の浅原才市の家から近かった安楽寺は才市のよく親しんだ寺だが、才市は正式
には涅槃寺の門徒であった。涅槃寺は小浜から三里ほど山合いに入ったところにある井尻にあ
った。一九七四年に涅槃寺は江津市後地町波来浜に移転した。『才市同行』の著者である高木
雪雄氏は涅槃寺の住職であり、幼少年時代に晩年の才市をよく知っていた人である。才市の父
である西教は涅槃寺の小僧をしており、才市を念仏の道に導いたという。
才市という稀有の宗教的魂が生まれるにあたっては多くの導きがあった。このような仏道へ
の導き手を善知識と呼んでいるが、才市にとっての最大の善知識は七里恒順師であると高木雪
雄氏は述べている。
・・・萬行寺・・・
博多の繁華街である中洲の近くに祇園町があるが、そこの萬行寺が七里恒順師が長らく住職
を勤められた寺である。現在その近くにはキャナルシティという大規模な商業施設があり、萬
行寺を訪れる際の目印となる。
萬行寺の山門は通りに面して偉容を誇り、まるで本山のような趣きである。最盛時には七里
師の法話を聴くために全国から信徒が押し寄せたという。七里師はここで僧を育てるための私
塾を開くとともに一般の信徒向けの法話を三十年余りにわたって続け、明治三十三年(一九〇
〇年)に六十六歳で帰寂された。現在本堂の前には「お念仏しなされや」という恒順師の言葉
を刻んだ碑が建っている。
七里師の感化力は相当のものであったようで、鈴木大拙が『日本的霊性』にとりあげた近代の
念仏者である伊勢の村田静照和上も七里師のもとで学んだ一人である。『日本的霊性』にも、『妙
好人』にも鈴木大拙は才市が七里師に学んだことを書いてはいないので、鈴木大拙はそのこと
を知らなかったのかもしれない。しかし『妙好人』の冒頭には香林保一という耳も口もきけない妙
好人の筆談が登場し、この人も自ら七里恒順師の教えを受けたと語っている。
・・・小猿の智慧・・・
才市に七里師のもとで学ぶよう勧めたのは父の西教であったと高木氏は述べている。石見で
も七里師の学徳の高いことがよく知られていたようである。才市は船大工であったから、中洲
の船大工屋に出かせぎに行き、そこから萬行寺に七里師の法語を聞きに通った。明治十二年才
市が三十歳、七里師が四十五歳の時であった。
才市が七里師に出会ってから直接示されたという七里師の詩を才市は大切に保存していた。
それは次の詩である。「三十一までなにがえろうなった こざるのやうなちゑばかり こ
ざるのやうなはからひやめて南無阿弥陀仏をいふばかり」
才市の信仰が知識だけのもので、まだ本物になっていないことをずばりと指摘したものだが、
七里師のこのような詩が、後の才市の詩の原型になったように思える。親鸞は漢文ではなく、
和文で書いた和讃という詩を大量に制作したが、七里師の詩や才市の詩は和讃の系譜に連らなる
ものであろう。
・・・三十四年・・・
明治三十三年七里師が六十六歳で帰寂されるまで、才市の博多への出かせぎと聞法は二十年
以上続いたが、才市の心境が開けたのは七里師の没後、才市が五十一歳を過ぎてからではない
かと考えられている。十八歳ごろから聞法を始め、三十四年間かかってようやくその真の味わいを
知ったのである。才市の詩に言う。「仏智不思議を疑うことのあさまし三十四年 罪のせんさ
くするからよ 罪のせんさく無益なり」
三十四年間、才市は「無益」なことをし続けたのだろうか。「罪のせんさく」は悪人正機の
教えにかなうように見える。だが実は悪人の自覚とは悪人の分析ではない。罪のせんさくと罪
の自覚は別なのである。六法全書を覚えても罪の自覚には関係ない。それは七里師の言う小猿
のような計らいである。七里師の没後にその言葉の真の意味に才市は目覚めた。教えの親を失
って真の親に目覚めたのである。
発掘歎異抄 (22) 念仏の鬼ごっこ (2001年5月号)
・・・隠と彰・・・
若林春暁画伯によって才市の角のある絵が描かれたのは大正八年のことである。才市は角を
描き加えてもらってから、この絵を巻いたまま仏壇の横に人の目につかないように隠しておい
たという。才市の歌も人に見せるより自分の楽しみのために書かれていたということだが、才
市という人は自分を隠す人であり、自己宣伝をする人ではなかったようだ。
それでは才市は信仰者として全く無名の存在だったかというとそうではない。この角のある
絵が描かれた翌年の大正九年二月に、才市は時の本願寺の執行長から、篤信の門徒として表彰
されているのである。褒賞の書状とともに、紺紙金泥六字尊号一幅が才市に授与され、その写
真が『才市同行』に載っている。本山から直接表彰されることは真宗の門徒としてはこの上な
い名誉であったろう。
・・・書き加えられた画賛・・・
この表彰がきっかけとなったのか、才市は仏壇の横に隠しておいた角のある絵を安楽寺に持
参し、梅田謙敬和上に一筆書いて下さいとお願いした。謙敬和上の画賛を紹介しよう。原文は
四行の漢文だが書き下し文をあげよう。
「角有るは機なり、合掌するは法なり。
法能く機を摂し、三業を柔軟にす。
火車の因は滅し、甘露の心みちたり。
未だ終焉に到らずして、華台迎接す。」
角のある絵を見た謙敬和上は、すぐこの絵の意味を了解したらしい。画賛の意味を簡単に考えておこう。
「角があるのは凡夫の機根であり、その凡夫が合掌するのは法である。法は凡夫という機を摂め取り、
心口意の三業を柔軟にする。それによって生死の火宅の因は消え、甘露の心に満たされる。
そうすれば臨終を待っことなくして、すでに浄土の仏の華台に迎えとられる。」
・・・四行の中の浄土・・・
はじめの一行はいわゆる「機法一体の南無阿弥陀仏」と言われるものであり、蓮如によって
強調された。南無阿弥陀仏という念仏は南無(帰命)する機である衆生と、阿弥陀仏という法と
が一体になるものであると言われる。その際に衆生は、自分が善人だから仏に帰依するのでは
なく、自らを才市の角に見るようなあさましい悪人だからこそ仏に救いを求めるのだと考える。
二行めは「摂取不捨」を言うものである。仏は帰依する衆生を救い取って捨てない。それに
よって衆生の角のような利己心まみれの三業は柔軟なものとなる。こうして仏に摂取された衆
生は摂取される前と同じようでいて実は違うのである。才市の柔和そのものの顔は摂取不捨を
受けた者の柔和さである。
三行めは「生死即涅槃」や「信楽」だろう。「火車」とは業が流転し生死輪廻のめぐる世界であり、
我々が今住む火宅のような世界である。しかし摂取不捨によってその輪廻の因は消え、心はこ
の上ない喜びに満たされる。
四行めは「平成業成」である。これも蓮如によって強調された。こうして摂取不捨にあずか
った者は死を待たずしてすでに極楽浄土にいるのと同じになる。
・・・消える角・・・
四行の詩の中に浄土信仰の要点が見事に収められている。謙敬師は才市の角の自覚を認めな
がら、その角の変質もまた表そうとしたように見える。才市の要望によって描き加えられた角は、
人や自分を攻撃する堅い角ではなく、仏の手によって柔らかな角になっている。もはや角では
なく芽ばえた仏性を表すかのようだ。詩によって角は消されているように見える。
謙敬師の漢文は解説がないとわかりにくいが、この謙敬師の画賛と呼応するような才市の詩が
ある。「この鬼が 有難や 心の火の手消えるのは なむあみだぶがあるからよ ご恩うれ
しや なむあみだぶつ なむあみだぶつ」この詩で心の火の手という角は念仏によって消えて
いる。現れたり消えたり、才市は神出鬼没の鬼ごっこを楽しんでいるようだ。
発掘歎異抄 (21) 信心の角 (2001年4月号)
…坂の上の親鸞…
ある朝のこと、家の近くの坂道の上に奇妙なものが現れた。笠をかぶった僧侶の影である。やや
笠を傾けてこちらをじっと見ている。市の中心部で、時々托鉢中の僧侶を見ることがあるが、こん
な時間にこの場所にいるはずがない。私の職場の近くには浄土真宗の寺があり、その境内に笠をか
ぶった親鸞像がある。どこのお寺にもだいたい似たようなものがある。私の『歎異抄を読む』の表
紙にも笠をかぶった親鸞のレリーフが使われている。一瞬その姿と重なって見えた。
坂の手前から見えていたその黒い姿は坂を上るにつれてその正体を現した。坂の上を道路が横
切っているが、その道路の向こう側に置かれていたバイクの影だったのだ。バイクの中心から左右
に出ているハンドルが笠に見え、バイクの車体が立っている人に見えたのである。笠が傾いて見え
たのはハンドルが傾いていたせいであった。
正体がわかってみれば何でもないことである。僧侶の姿や親鸞像に見えたのはただの錯覚だっ
た。おかしくなってしまったが、どうしてそう見えたのかと思うと、思い当たる節があった。ちょ
うどそのころ、お寺での講演を頼まれていて、何を話そうかとよく考えていた。学校の帰りには必
ず親鸞像を見ていたが、そのころはその姿が特に目に焼き付いていたのかもしれない。頭を傾けた
親鸞像は、お前は寺で何を話すつもりなのかと問いかけているように感じたのである。
…光る角…
そのバイクはいつのまにかなくなっていた。持ち主があれば当たり前のことだろう。講演も終わ
り、坂の上の像のことは忘れていたある朝、またその姿が現れた。何と今度は笠から白い角が突き
出して光っている。一瞬何かと思ったが、前の経験があるのでだいたい察しがついた。近付くとそ
の通りだった。バイクから突き出たバックミラーが反射していたのである。そのために先にそれが
光って見えたのだった。前回見た時にはその角は全く目に入らなかったから不思議である。
才市の肖像画に角があることを書いたが、才市に角があるという自覚をもたらしたのは親鸞の悪
人正機の教えだろう。そうならば私の錯覚した親鸞像に角があってもおかしくない。白く光る角は
我執の変じた信心の角である。
…魅せられた画家…
才市が自分の肖像画に角を付けさせた時のことが、高木雪雄著『才市同行』(永田文昌堂)に詳
しく書かれている。この絵を描いたのは才市と同郷の温泉津町小浜出身の日本画家である若林春暁
であり、春暁画伯が二十三歳の時の作品である。春暁画伯の実家と才市の家は近くで、画伯は念仏
を唱えながら仕事をしている才市やお寺に参る才市の姿を度々見ていて、才市に魅せられた。そし
てあなたの絵を描かせてくださいと申し入れたという。才市は自分は老人だから描いてもらわなく
ていいと拒んだが、画伯は諦めず何度も通いスケッチをし、とうとう絵を完成させた。
その絵を才市に見せたところ、才市は即座に「これはわしじゃない。」と言った。驚いた画伯が
どこが気に入らないのかと尋ねると、「わしはこんなに好い顔をしておらんよ。わしは鬼だ。すま
んがわしの頭の上に二本の角を描いておくれ」と言った。画伯は抵抗があったものの、その願い通
りに描いた。それを才市に見せると才市は「これが本当のわしだ」と大層喜んでお礼を言ったとい
う。こうしてできたのが角のある肖像画である。
…抜きとられた魂…
才市は昭和七年まで生きた人だから、この時代には写真はかなり普及していた。現在ほどではな
いにしても庶民でも写真を撮ってもらうのはあたり前のことだったろう。しかし才市は写真を撮ら
れるのを嫌ったそうで、そのために写真がほとんど残っていないらしい。
『才市同行』の巻頭には晩年の才市という写真が載せてあるが写りが悪い。昔の人は写真を撮る
と魂が抜き取られると恐れたそうだが、才市もそうだったのかもしれない。しかし彼の信心という
魂は写真よりも絵の方に見事に抜き取られている。
発掘歎異抄 (20) 角(つの)のある人 (2001年3月号)
…温泉津の像…
その像をはじめて見る人は驚くだろう。頭から
二本の角が生えている。鬼かと思えばそうでもな
い。実に柔和な顔の老人が正座合掌し手には数珠
がかけられている。二本の角とその顔はどう見て
もアンバランスである。こんな奇妙な像は日本中
どこを捜してもないだろう。これは島根県温泉津
町にある石見の妙好人として知られた浅原才市の
像である。温泉津はその名の通り湯の町である。
温泉街の元湯の前にその像はある。
浅原才市は嘉永三年(一八五〇年)に生まれ昭和七年(一九三二年)に亡くなっている。真宗の
歴史の中では最近の人である。才市は五十歳ころまでは船大工であったが、転じて下駄職人となっ
た。温泉街に入る手前にある安楽寺の本堂の一角に浅原才市の遺品館が併設されているが、そこに
は才市の作った下駄などの日用品が展示されている。世間的には才市は一職人であり、この寺で熱
心に聴聞する門徒の一人であった。
…鈴木大拙と妙好人…
才市は自らの心境を書き留めていたが、それが
まとめられて鈴木大拙の目にとまった。鈴木大拙
は禅を欧米に紹介した国際的宗教家だったが、禅
を中心とする一方で浄土思想にも造詣が深く、大
谷大学教授を務めた。戦争のさ中、昭和十九年に
出版された『日本的霊性』で、鈴木大拙が妙好人
としてとりあげたのが、蓮如上人に仕えた赤尾の
道宗と、浅原才市であった。分量としては浅原才
市の方がはるかに多く、そこに引用された才市の
歌に鈴木大拙は解説を付すとともに惜しみない讃辞
辞を捧げている。
私は大学生の時にこの『日本的霊性』を読んだ
が、私の読んだ本は中央公論社から出ていた日本
の名著のシリーズの中の一冊であった。この本は
清沢満之と鈴木大拙とを合わせて一巻としてお
り、二人の代表的著作を紹介したものである。清沢満之は真宗大谷派で宗門改革を押し進めた宗教
哲学者であり、浄土教の近代化に夫きな貢献をし
ている。『歎異抄』を世に出したのは清沢満之と
言われている。難解な部分の多い清沢満之の著作の後に鈴木大拙の紹介する浅原才市の歌を読む
と、これこそ本当の信楽だという気がしてくる。
…付け加えられた角…
この日本の名著の中に浅原才市の肖像が載って
いたのだが、写真が小さくて頭の角はよく見えな
い。戦後になって昭和二十三年に鈴木大拙は新たに『妙好人』という本を出したが、ここでも中心
になったのは浅原才市である。この本の巻頭に浅原才市の肖像が載せてある。それには二本の角が
写っている。この二本の角はできあがった絵にわ
ざわざ付け加えさせたものだという。温泉津の元
湯の前の像はこの肖像画を写したものである。
この二本の角が何を表すか。言うまでもなくそ
れは才市の悪人の自覚であろう。才市は若い時に
博打で警察にあげられてから、熱心に聴聞するよ
うになったということだが、博打であげられたこ
とが悪人の自覚の中心ではない。法律という他律
的なものと悪人の自覚は直接結び付くものではな
い。
…心の鬼がなる仏…
才市の歌には自らを悪人として恥じる「慚愧」
と仏の救いにあずかった喜びを言う「歓喜」とが
一体のものとして歌われる。才市の歌は仮名が多
いので、一部を漢字に直してあげてみよう。「念
仏は慚愧歓喜の絶えなしの仏。南無阿弥陀仏のな
せる仏。」、「慚愧の御縁にあうときは、ときも機
もあさましばかり、これが歓喜のもととなる。南
無阿弥陀仏のなせるなり。」
悪人であるが故に救われる。悪人とは無限の命
と光に対して卑小で有限な人間のことである。卑
小なるが故に大いなるものに出会う喜びがある。
むしろ大いなるものはこの喜びを味わわすために
人を卑小なものとして送り出すのかもしれない。
「この悪人は仏を楽しむ、南無阿弥陀仏。仏は才
市が機を楽しむ、南無阿弥陀仏。衆生済度をさせて楽しむ、南無阿弥陀仏。」慚愧の「愧」の字は
心に鬼と書く。鬼であるとわかって仏になるのが
悪人正機である。
発掘歎異抄 (19) 悪人正機と回心 (2001年2月号)
…回心…
「回心」(「廻心」)は仏教でもキリスト教でも
使われる言葉であるが、仏教では「えしん」、キ
リスト教では「かいしん」と呼んでいる。内容的
には重なっており、宗教心のめばえから、仏教で
言えば「悟り」と言ってよいレベルのものまで幅
広いものを含んでいる。宗教的体験の最も重要な
部分を占めていると言ってもよい。
キリスト教では、それまで迫害者であったパウロが、ダマスコヘの途上で光に打たれ、イエス・
キリストの声を聞いて使徒になったことが、回心
の例としてよく知られている。それ故にキリスト
教では仏教以上に回心が重視されるようである。
ウイリアム・ジェイムズも、『宗教的経験の諸相』
において、二章にわたって回心をとりあげ、その冒頭で回心を次のように定義している。「回心する、
再生する、恩恵を受ける、宗教を体験する、
安心を得る、というような言葉は、それまで分裂
していて、自分は間違っていて下等であり不幸で
あると意識していた自己が、宗教的な実在者を
しっかりとつかまえた結果、統一されて、自分は
正しくて優れており幸福であると意識するように
なる、緩急さまざまな過程をそれぞれあらわすも
のである。」
…経験のグローバル・スタンダード…
ジェイムズは心理学者として宗教的経験を考え
るという立場をとっているので、回心をキリスト
教特有のものと考えているわけではない。「宗教
を体験する」とか、「宗教的な実在者」という言
い方で、宗教一般の現象として捉えようとしてい
るようである。この定義は回心を述べる章の冒頭
に置かれているが、すでに様々な回心の体験を考
察した上で述べているのであり、すぐれた総括
に なっている。
「それまで分裂していて、自分は間違っていて
下等であり不幸であると意識していた自己」と
は、まさしく浄土教に言う「悪人」の自覚に相当
する。「宗教的実在者をしっかりとつかまえ」る
のは、キリスト教の場合なら、神や神の愛、イエ
ス・キリスト、聖霊などを感じることを言い、浄
土教の場合は、阿弥陀仏やその慈悲、本願力など
を感じることに当たる。いずれの場合も経験者は
それによって救われ、自己が一新されたと感じる
のである。教義や用語に違いはあったとしても
「経験」はすでにグローバル・スタンダードの存
在を示している。
…自己放棄の心理学…
ジェイムズは回心の体験を考察する中で、そこ
に、自己放棄があることを見出し、「自己放棄の心
理学」という言い方をしている。その特色をよく
示す例として「真の聖者デヴィド・ブレイナード」
の例をあげている。彼は「私自身の解放と救いと
を成就ないし獲得しようとする」工夫と計画に
よって努力していたが、それが空しい努力であっ
たことを知る。「断食したり祈祷したりなどして、
私の信心を神の前に積み重ね、それで自分は神の
栄光を目指しているのだとうぬぼれたり、
ときに
はほんとうにそう考えたりしていたことを私は
知った。」これはまさに親鸞の言う自力の行者で
あり、比叡山時代の親鸞を思い起こさせる。真面
目な修行者が、一度は通る段階である。しかしそ
れは「利己心」によるものなのであり、「自分自
身の幸福を目指していたにすぎなかったのであ
る。」
と知る。
…ダイジョウの念仏…
こうして「私の偽善と欺瞞とのゆえに、滅び以
外のなにものをも神から要求できないことを私は
知った。」まさに悪人の自覚である。この状態が
続いてもはや祈ることもできないで、ある森の中
を歩いていたときに、「いいしれぬ栄光が私の魂
に対して開かれるように思われた。」「私の魂は神
の尊さに酔い恍惚としてしまって、私はまったく
神のなかに呑み込まれてしまった。」「私は自分が
新しい世界にいるように感じた。」
この救いは念仏者も同様である。違いがあるとすれば念仏者の場合、この過程に念仏という冥想
行が入る点である。それにより回心の過程の進行
が促進され、危機が乗り越えられやすくなる。大
乗の念仏で大丈夫である。
発掘歎異抄 (18) プラグマティストの見たもの (2001年1月号)
・・・宗教的経験の諸相・・・
「悪人正機」は宗教的体験によって生まれた教説
であることを述べてきたが、それは親鸞、
あるい
は浄土教の信者に限らないことである。そのこ
とをよく示す例が、ウィリアム・ジェィム
ズ(一
八四二〜一九一〇年)の『宗教的経験の諸相』で
あり、富豊な事例を集めて分析して
おり非常に参
考になる。ジェイムズはアメリカ人だが、医学者
として出発した後に心理学者・
哲学者となった。
一般にはプラグマティズムを説いたことで知られ
るが、宗教の有用性を語
っている。
プラグマティズムは実用主義とか実利主義と訳
される。語源となったブラグマはギリシャ語
で行
動を意味し、理論に対して実践を意味するプラク
テイスも同じ語源から出ている。従って
実践主義
と訳しても間違いではないだろう。プラグマティ
ズムはアメリカ資本主義を支える原理と
見なされ
ることが多いが、その出発点には医学者の発想が
あると思われる。医学は患者を救う
有用な科学で ある。
…役に立つ仏教…
役に立つか立たないか、実用的であるかどうか
と言えば世俗生活だけを意味しているようにとら
れるだろうが、宗教においても、教義だけが空理
空論となって振り回されるよりも、実際に人がそ
れによって救われるかどうかが大切である。そう
考えれば、プラグマティズムは世間的なものに
も、出世間的なものにも共通する考え方なのであ
る。新しい神の国を作ろうとした清教徒の宗教的
実践とアメリカ資本主義の繁栄とを結びつけるの
がプラグマティズムであったと言ってもよいだろ
う。PHPを提唱した松下幸之助の考え方も、こ
のような幅をもった一種のブラグマティズムと
いってよいかもしれない。
奈良時代の日本の仏教や、比叡山の仏教がいか
に高度な理論を備えていたとしても、それが人々
を救う力となりえないならば、宗教として価値が
あると言えるだろうか。自らの救いを求めた親鸞
にとっては救われるかどうかが判断の基準であっ
た。救われる仏教こそが言わば役に立つ仏教で
あった。
…救いとプラグマティズム…
経済の世界なら実用的かどうか、実利的かどう
かの判断は簡単だろう。しかし宗教の場合、救わ
れたかどうかの判断は簡単ではない。主観的なも
のは本人にしかわからない。プラグマティズムで
は満足感とか幸福感を重視するが、宗教にそれが
簡単に適用できるだろうかという問題が起こる。
この点に関してジェイムズの集めた事例は単なる
自己満足の域を超えた真の救いの事例を集めてい
るように見えるのである。『宗教的経験の諸相』を
成立させたのはジェイムズの宗教的体験に対する
鑑識眼と言えるだろう。
ジェイムズの集めたのは欧米の例であり、キリ
スト教に関するものがほとんどである。ところが
そこに書かれている体験はキリスト教の用語を用
いているものの、内容としては仏教にも浄土教に
も充分通用するものなのである。その豊富な事例
を分析し、導き出されていく共通点、それは一種
の法則性と言ってよいだろうが、それが親鸞の語
る言葉と符号するのである。
…救いを伝えるプラグマティスト…
ジェイムズは語っている。救いへの道は「無数
の信頼すべき人々の説明が証明しているように、
一種の反道徳的な方法」であり、「能動の態度で
はなくて受動の態度」による。即ち浄土教で言え
ば他力に当たる。そして「そこへ達するためには、
普通、一つの危機点が通過されねばならな い。
……そしてこのことは(これからたっぷりと
その実例をお目にかけるように)、しばしば突発的、
自動的に起こるのであって、なにか外部の力
によって起こったのだという印象を、当事者に残
すものである。」この危機点の通過がまさに悪人
正機である。宗教の有用性を確信したプラグマ
テイストは結果的に伝道者になっている。
親鸞の発見した救いを多くの人々に伝えたのが蓮如だが、伝道者は教えの有用性を信じる
ブラグ
マティストなのかもしれない。松下幸之助も家電を通しての富の伝道者であった。
発掘歎異抄 (17) 浄土の法蔵 (2000年12月号)
…三願転入…
親鸞が自身の歩みを振り返って整理したものに
「三願転入」と呼ばれるものがある。『教行信証』
に書かれた浄土教の弁証法である。「三願」とは
『大無量寿経』の中に出てくる阿弥陀仏になる前
の法蔵菩薩が誓った四十八願の中で重視された三
つの誓願であり、十八願、十九願、二十願の三願
である。「三願転入」とはこの三願を十九願、二
十願、十八願の順に進んでゆくものである。数字
の小さものから大きいものに進んでゆく方がわか
りやすいがそうなっていない。そうならないのは
親鸞の体験が入っているからである。
十九願は「諸功徳を修し」て往生を願うもので
あり、自力往生を表す。自分でもろもろの善行を
なし、その功徳を積んで往生を願うものである。
二十願は阿弥陀仏の名号を聞いて、「念を我が国
に係けて、諸の徳本を植えて」往生を願うもので、
他力の称名念仏と自力の善行が混じったものであ
る。そして十八願が「心を至し信楽して我が国に
生まれんと欲ひて乃至十念せん」という
「至心信楽」の願である。これが絶対他力を表す
と言われる。
…個人年金的念仏…
往生を自分がするものだと考えれば、自力往生
から始まるのは当然の考え方であろう。死後のこ
とを仮に老後に置き換えれば、一生懸命働いて貯
金をしたり、個人で年金をかけて、それで老後を
安楽に暮らそうとするのと似ている。仏教は諸善
を勧めるが、ちょうど貯金と同じようにそれを蓄
えられるものという考え方があった。それでせっ
せと善に励んで、それを死後の世界の福に当てる
という発想である。これはこれで充分に成り立つ
考え方である。自己責任の法則に貫かれていて
しっかりした考え方である。誰にも迷惑はかから
ず、すべて結果は自分に返ってくる。
この考え方だとできるだけ長く多く善を積んだ
方がよりよい所へ行けることになる。だったら、
若くして死んでしまったらどうなるのだろう。仏
教は諸行無常を説く。明日をも知れぬ命なのに、
明日の命があることを前提にして、それができる
だけ長く続いた方がいいというのは矛盾していな
いだろうか。あるいは自分の善として自分の印の
ついた善を積むとしても、善とはそんなものなの
か。自分のための善ならそれは利己的な善とな
り、利他的なものであるはずの善と矛盾するので
はなかろうか。
…公私併用的念仏…
こうしてはじめて、時間という考え方、蓄積と
いう考え方、自分というものに疑問を懐いて、次
の段階に進んでくる。自分を中心にした自力を
「正」とするならば、それに対して「反」の立場
が出てくる。一応それを自力に対して他力と呼
ぶ。他力とは悟りを開いた仏陀の力であるから、
陀力と呼んでもかまわない。自分というものを越
えたものの力と言っていい。その他力のこもって
いるという念仏をし始めるのだが、長年親しんで
きた自分というものをなかなか捨てきることがで
きない。自力の混じった他力という段階である。
個人年金と公的年金を併用しているようなもので
ある。公的年金が信用しきれないとこうなるか
ら、今の日本の状態に近いかもしれない。
…仏国土の公的年金…
この自分というものの見極めが最も難しいとこ
ろであり、この段階で止まってしまうことが多
い。これを進めさせようとするのが「悪人正機」
であり、自分というものの正体を見切って捨てさ
せようとするものである。十九願の自力の入り混
じった他力から十八願の絶対他力という状態に進
むところである。これはもはや自分というものを
捨てようとするから、自他の区別が必要なくな
る。それで仮に絶対他力と呼ばれる。「反」から
「合」に進んだ絶対他力の段階は「正」の自力と
「反」の他力を止揚したものと言えるだろう。
この段階に進む上で重要なのが「信楽」と呼ば
れる喜びである。信楽は自分で作り出すものでは
ない。自分の中に涌いてくるが自分のものではな
い。これは積むようなものではない。浄土の無尽
蔵の法蔵を開くものである。いつでも支給される
仏国土の公的年金である。
発掘歎異抄 (16) 流行を越えて (2000年11月号)
…体験と法則…
宗教の出発点は何であろうか。一個人の宗教体
験であろう。我々が宗教とかかわるのは既製宗教
が多いから、出発点から遠いのが普通である。一
方で次々と新しい宗教が生まれ、一種の流行にな
る。そこには教祖がいる。彼らが宗教活動を行う
原点は教義ではなく、何らかの宗教体験である。
多くの場合それは霊能力を伴った霊的体験である
ようだ。
仏教の場合、宗教体験は「悟り」という名で知
られているが、その段階まで達する宗教家は少な
いのが実状であろう。悟りにも段階があるが、洞
察力を持つのが普通であり、この洞察力を持った
ときに、体験は単に個人的なものではなくなる。
親鸞の場合は「己証」と言い、法則性が見出され
るようになる。そうしてはじめて教義が生まれて
くる。しかし仏教の場合、長年の蓄積によってき
わめて複雑な教義が形成されている。学問という
形でその教義に接すると、出発点にあったはずの
体験は、いつの間にか忘れられてしまう。そのた
め、教義の学習だけで止まってしまうことが多い。
既製教団の僧侶にはこのタイプの人が多いだろう。
逆に新しい宗教のように、体験の大安売りになる
場合もある。
・・・カリスマと流行…
最近よく耳にするのが「カリスマ」である。教
祖という意味で使われることが多い言葉だと思っ
ていたが、最近の使い方は、「カリスマ美容師」、
「カリスマ・ショツプ」、「カリスマ振付師」といっ
た具合である。昔マスコミで使われていた「カリ
スマ」には超人的な能力をたたえる一方で、理性
的なものを否定し人を惑わすものというマイナス
のイメージもこめられていたように思う。某教団
の事件以来、ますますカリスマはうさんくさいも
のになってしまったと思っていた。ところが最折
になってのカリスマの氾濫である。
大衆文化には流行がつきものだが、そこは思慮
や熟慮とは遠く、感覚の支配する世界である。な
ぜとかどうしてというのはあまり通用しない。軸
のようなものはないから、きわめて移ろいやす
い。芸能の世界もそうであり、そしてどこか宗教
現象と似たところがある。芸能界の用語は宗教の
用語と重っている。アイドルは偶像崇拝の偶像で
あり、タレントは天与の才能であった。流行神と
いうものがあるが、芸能人も一種の流行神であろ
う。カリスマもどうやら宗教語から芸能語・流行
語へ移りそうである。
...捨てられたアイドル...
カリスマはギリシャ語だそうだが、神から与え
られた能力をさすという。それと大衆を心酔させ
る能力はイクオールではないはずだが、両者が結
びついたのがイエス・キリストかもしれない。
しかし大衆の求めたイエス像とイエスの自画像の間
には隔たりがあった。
人々の求めたのは霊能者として奇蹟を起こし
人々をローマの支配から解放してくれる救世主で
あった。イェスはアイドルとして祭り上げられ、
そうして十字架上に罪人として捨てられた。ある
時期まではイエスの現したものと、人々が求め
ものは重なっていたのだろう。人々の求めた奇蹟
とイエスの示した愛の教えはイエスにとっては
体だったが、人々にとっては遠かった。普遍的な
愛の顕現は、気づかない人々には危険な流行に過
ぎなかった。
…流行と浄土教…
浄土教の場合はどうだろう。法然から始まる
土教が人々の心を捉えたのは事実であり、それ
前からの浄土教に親しんでいた人々だけでなく、
新たな人々を呼び寄せた。また若い女房たちが
念仏僧に入れ込むということもあった。一種の流行
だが危険思想と見なされ、法然と親鸞は流罪とな
り都から捨てられた。ただの流行であればこれで
終わりである。
人々を呼び寄せる上では、親鸞の悪人正機は
カリスマ・ショツプの目玉商品であったかもしれ
い。人によっては誇大広告に見えただろう。し
しそこには己証と呼ばれる宗教体験と洞察によ
法則性が潜んでいた。流行を越える普遍性で
ある。その法則性は弁証法と同様だと述べた。
ヘーゲルが弁証法を語る五百年以上前のことである。
発掘歎異抄 (15) 塵労の中で (2000年10月号)
・・・疲労と塵労・・・
「塵労」という言葉がある。もともとは仏教用語で、心を疲れさすもの、煩悩と同じということである。
浄土に対してこの世を穢土とも言うが、
浄土では心には塵は積もらないが、この世では心
に塵が積もる。その塵が心を疲労させる。それが
たまっていけば心は本来のあり方を忘れてしまう
だろう。肉体に疲労がたまり、疲労がたまれば病
気になるのと同じようなものだろう。
夏に人間ドックに入った。予約をしようと思っ
て電話したところ希望の日がとれなかった。受診
者が増えたのかと思ったらそうではなかった。不
景気で宿泊型のドツク利用者が減ったので、宿泊
用の部屋を減らしたのだという。疲れきって体の
充分な手入れもできないまま働かなければならな
いとば何とも哀れな話だが、それが現実なのだろ
う。ドックに入ってごろんとベットに横になって
いると、しばし世俗の世界から離れたような気分
になる。病院の中でも病気で入院しているわけで
はないので気分は楽である。疲労と塵労からしば
し逃れたと思っていたら、結果は再検査だった。
やっぱりたまっていたのである。
・・・芥川の『トロッコ』・・・
芥川竜之介に『トロッコ』という小説がある。
八歳の少年が主人公なので子供向きのお話であ
る。ところがそう思って読んでいくと最後に変わ
る。主人公のその後が書いてある。妻子をもち、
ある雑誌社で校正の仕事をしている男は、「塵労」
に疲れた時、ふと八歳の時の体験を思い出すので
ある。この部分を読んでから、私も塵労に疲れる
とふとこの話を思い出す。
小田原と熱海の間に軽便鉄道の工事が始まって
から、少年はその現場に見学に通う。少年の心を
ひきつけたのは工事用のトロッコだった。ある日
少年にトロツコに乗るチャンスが訪れる。土工が
トロッコを押しているのを手伝おうと申し出たと
ころ許してもらえたのである。押しては乗ってを
繰り返し、ずい分遠くまで来たと不安になってい
たところ突然少年は一人で帰れと言われる。
少年は泣きそうになりながら沈む夕陽を追いかけて
村に向かってひた走る。そうしてすっかり日がく
れた村にたどり着き、母の胸に駆け込んで泣き
じゃくる。後年、塵労に疲れた彼が思い出すのは
この時の帰り道である。
…『トロツコ』と浄土教…
この話は浄土教のもつテーマと重なるものがあ
ると思う。鉄道工事が始まり、そこにトロッコが
ある。少年の心をひく文明の利器だろう。人の心
を誘うものを文明はどんどんと作り出す。ふるさ
との村よりも文明の作り出すもの、その先にある
ものが魅力的に見える。そうしてそれに夢中に
なっているうちに遠くまできてしまい不安がっの
る。
そうしてそこから反転する。楽しむときは他の人と一緒でも、求める時は一人である。少年は身
軽になろうとして、ぞうりまで脱ぎ捨ててしまう。そうして西の村をめざしてひた走る。彼に
とって幸いだったのは線路があったことである。それが村への道をさし示す。そうして光を求め、
母を求めてひた走る。
…反転・母・光…
この反転するところからが悪人正機である。西
の村に通じる線路は、浄土教では教典や祖師の言
葉であろう。『歎異抄』もその一つである。親鸞
にとっては師の法然の言葉が西方浄土を指し示す
ものであったろう。法然の言葉を集めた『西方指
南抄』という書物がある。西を指すのだから指西
と言った方がいいかもしれないが、指南という言
葉も、もともと正しい方角を指し示すことだっ
た。沈みゆく夕陽と母の胸が阿弥陀仏にあたるだ
ろう。
悪人正機の中には、弁証法的な反転、母なるも
のを求める心情、失われた光を求める心情などが
含まれていると書いてきたが、『トロッコ』には
それらが含まれているのである。そうして大人に
なって塵労に疲れた時にこの時の道を思い出すと
いうことは、この時の体験が大人にも通じるテー
マを含んでいるということである。塵労に疲れた
時どうするか。スタミナドリンクを飲む前に考え
よう。
発掘歎異抄 (14) 「時空の囚人」 (2000年9月号)
…進むと退く…
人間は進むことが好きである。目が一方につい
ているからだろうか。引き下がることや退くこと
は苦手である。もし目が後ろにもついていたらど
うだろう。退くこともまた別の進むことだと感じ
るだろうか。進むとか退くという感じ方ではな
く、動くという感じ方しかないかもしれない。進
むと退くというのは同一線上での逆の方向の関係
であり、一方を基準とした見方である。
この体の作りのせいか、人間の作り出した乗り
物は、一方だけを向いている。自動車、列車、船、
飛行機、みな前と後ろがあり、一目で進行方向が
わかるようにできている。そうして速ければ速い
ほどすぐれた乗り物だと思い込んでいる。
…空間認識と時間認識…
私は見たことがないが、世界各地で目撃されて
いるUFOは、空飛ぶ円盤と呼ばれ、写真では円
盤状になっている。これなど前と後ろがわからな
い。一目で進行方向がわからない。子供のころの
漫画にはタコのような宇宙人がよく描かれていた
が、タコの手(あるいは足)はどちら向きにでも
行けそうだから、円盤のイメージと合致していた
のかもしれない。空飛ぶ円盤というものがあり、
そこに宇宙人が乗っているなら、彼らは我々が考
えるような進むとか退くといった方向感覚に基づ
く空間認識とは全く異なる認識をもっているかも
しれない。人間の作り出した乗り物が限界にきて
いるのはこの空間認識に問題があるのかもしれな
い。
この空間認識と密接に関係しているのが時間の
認識であり、普通我々は時間の中を進んでいると
思っている。過去とは過ぎ去っていった方向であ
り、未来とはまだ来ない方向である。この言い方
は進むという行動様式を時間にあてはめているの
である。時間の軸の上をひたすら進んでいると考
えている。
もし空飛ぶ円盤があるとして、彼らが我々とは
違う空間認識をもっているなら、時間の認識も全
く違うかもしれない。彼らから見れば我々はきわ
めて限定された時空の認識しかもっていないと見
られるかもしれない。我々はそれを指摘されるま
で気がつかないのであり、自分が正しいと思って
いる。
…無常と常なるもの…
仏教では無常ということをよく言う。無常は変
化してやまないことだから時間を含む。では我々
は無常ということがわかっているのだろうか。常
で無いものがわかるのは、常なるものから見た時
ではないのか。家でじっとしていれば我々は動い
ていないと思っているが、宇宙空間から見れば、
回転する地球とともに猛スピードで動いている。
無常の認識と常なるものの認識は、本来セットの
はずであり、時間とそれを越えたものとの認識で
ある。
小林秀雄は「無常ということ」の中で、「過去
から未来に向かって飴のように延びた時間」とい
う考え方は、現代の最大の妄想のように思われる
と述べ、現代人は無常ということがわかっていな
い、常なるものを見失ったからだと述べている。
…念仏という宇宙船…
小林秀雄は比叡山に行った時に、昔読んだ本の
一節をありありと、鎌倉時代に戻ったかのように
思い出す体験をしたという。それは比叡山で夜ふ
けに若い女房が鼓をたたきながら澄ました声で歌
う姿であった。不審に思い尋ねる人に彼女は、こ
の世のことはどうでもかまわない、何とぞ後生を
お助け下さいと申していたのだと答えた。彼女に
何があったのかわからない。しかし彼女はこの世
界を越えようとして自分流の念仏をしていたので
ある。
念仏とは何か。その答えの一つは、我々の限定
された時空を打ち破るものであろう。我々が限ら
れた時空の観念から作り出す人生観と世界観。進
むと思っているものは本当に進んでいるのか、あ
るいはどこかに向かって進んでいるのか。我々の
進む先に何があるのか。限定された時空の認識に気づくことは言わば時空の囚人の自覚であり、
親鸞流に言えば悪人の自覚である。それを越えようとするとき念仏が始まる。手作りの宇宙船がそこ
にある。
発掘歎異抄(13)「失われた光を求めて」(2000年8月号)
…無明・無知・原罪…
悪人正機は自分の中の闇を自覚することから進
んでゆく。伝統仏教には無明といういい言葉があ
る。無明とは明かりがないことである。光を見
失っている状態である。この場合の光は智慧の光
と言われる。智慧のある状態はものごとを明らか
に見ることができる状態である。それが失われる
からものごとが見えず暗がりの中にいるのと同じ
になる。だから無明である。
ソクラテスは「無知の知」ということを言った。
世の中の人は自分は賢いと思っている。しかしソ
クラテスは自分は無知だということを知ってい
た。その無知の自覚が起きた分だけ、自分は人よ
り先に進んでいる。それで彼は人々に自分が無知
であることを自覚するように説いた。それが「無
知の知」である。そのため彼は人々の反感を買っ
た。仏教で言えば、無知は智慧のない状態だから、
無明と同じである。「無知の知」は無明の自覚と
いうことと同じである。
キリスト教では原罪を言う。この罪人の自覚
は、自分が悪人であるという悪人正機の自覚と同
様である。聖書ではアダムとエバ(イブ)が蛇に
そそのかされて、知恵の実と言われるリンゴの実
を食べたことから原罪が始まるとされている。知
恵がついたとたん二人は裸でいることに気づいた
という。知恵のつくことが原罪なら、仏教の無明
やソクラテスの無知と逆のようだが、ここの知恵
は仏教では分別知と言われるもので、本当の智慧
ではない。ソクラテスが反感を買ったのも、人々
が分別知をもってそれで知者だと思っていたから
である。分別知が本当の智慧ではないと気づくこ
とから、本当の智慧を求めることが始まる。
…天の岩戸神話…
神道ではどうだろう。すでにスサノオの行動に
悪人正機を見た。それは背いた者が思慕し続けて
再び戻ってくるという意味で同様のものを見たの
だが、闇の自覚から光を求めるという点ではどう
だろう。
闇から光を求めるという点で、最もよく知られ
ているのは、天の岩戸開きの神話である。その
きっかけをつくったのはスサノオである。スサノ
オが高天原で乱暴を働いたために心を痛めたアマ
テラスは岩戸の中にこもってしまう。おかげで
人々は光を失ってしまい途方にくれる。人々に
とって初めての闇の体験であり、闇の自覚であ
る。それまではあるのがあたり前であったのが、
なくなったことによってその存在を自覚し、それ
を求めることになった。
…祭りの原形…
そこで人々は鏡と玉を作り、祭りを行った。光
を呼び戻すための祭りである。鏡と玉というのは
失われた光の神の光と魂を表すのだろう。神を象
徴するものである。そうして踊ることで神を呼び
戻す。祭りの原形がある。
この祭りはもちろん神社の祭りに受け継がれるが、神社に限らないと思う。もうじき盆踊りの季
節になるが、これは先祖の魂を呼び戻すための踊
りである。死者はカミになるというのが日本の伝
統的な霊魂観であると言われるが、今でも死者を
俗にホトケと呼んでいる。これはカミをホトケに
言いかえているだけである。浄土教の念仏者も、
死ねば仏になれると言われるから、死ねばカミに
なるという霊魂観を形を変えて受け継いでいるの
だと思う。盆踊りはカミとなった先祖を呼び戻
し、交流する場である。そして盆踊りと近い関係
にあるのが念仏踊りであり、浄土教では一遍の時
宗が有名である。出雲では須佐神社で念仏踊りが
奉納されている。
…冬至とクリスマス…
失われた光を呼び求めるという天の岩戸神話に
ある心情は光の仏を求める念仏者の心情と重なっ
ているように見える。この神話を自然現象と結び
つけて、日食や冬至の祭りではないかという説も
ある。クリスマスはキリスト生誕を祝うものだ
が、ヨーロッパの冬至の祭りの変形と言われる。
いわばヨーロツパの神道が基盤にあるのである。
失われた光を求める心情が、救い主を求める心情
と重なったのだろう。失われた光を求める心情は
人類共通のものなのだろう。世界のいたるところ
に悪人正機はある。
発掘歎異抄(12)「スサノオと悪人正機」より(2000年7月号)
…浄土教と神道…
ここ二年ほど日本の古代信仰をテーマにして
「日と霊と火」というものを書いている。『歎異抄
を読む』を書いてから、次のテーマとして考えて
いたものである。『歎異抄を読む』を書いたとき
に、日本人の感受性、感じ方というものの上に、
浄土教は花開いたのだと感じ、日本の古代信仰に
ついて考えてみようと思ったのである。
本来浄土教の人間が、古代信仰、特に神道につ
いて考えるということは普通ない。密教の場合は
神仏習合が長く続き、密教家が神道のことを考え
るのはそれほどおかしくないだろう。浄土真宗の
場合は「神祇不拝」という建前があるので、それ
から見れば私のしていることは不可解に見えるだ
ろう。しかし別に難しいことではなく、自分は子
供のときから神社が好きで、鎮守の森で遊び、ま
た子供のときから仏前に参っていたから、両方は
自分の中では全然矛盾していない。真宗が神祇不
拝と知ったのはずいぶんと後のことである。
両方好きなのだから別にそのままでもかまわな
いし、近所の人達も神社にも寺にも平気で参って
いるからいつこうにかまわないし、寺の方もそれ
を黙認しているのだと思う。私はおせっかいなこ
とに両者を考えようとしている。私にしてみれば
これは親鸞の「肉食妻帯」と同じで、黙認されて
いたものを整理しようとしているのである。
…太陽の塔と神道…
岡本太郎と太陽の塔に興味をもったのも、古代
信仰を考えることと関係あり、岡本太郎が発見し
たという縄文土器の魅力を自分も感じてからいっ
そう親近感が増した。太陽の塔について考えたの
も古代信仰の要素がそこに反映していることを感
じたからである。太陽の塔を神道にあてはめれ
ば、表の二つの太陽がアマテラスを表し、真の黒
い太陽がスサノオを表すという配当が可能だと思
う。表の二つの太陽は下の太陽が日を、上の黄金
の太陽が霊を表すと考えてもいいと思う。
神道はムスビを重視するが、神道的ムスビの一
つの例が太陽の塔である。アマテラスとスサノオ
という対極的な二つの神霊がムスビ合わされてい
る。岡本太郎の言う対極主義は神道で言えばアマ
テラスとスサノオの関係になるだろう。高天原で
乱暴を働き追放されたスサノオは出雲に下り、ヤ
マタノオロチを退治し、オロチから出た神剣をア
マテラスに献上している。それが三種の神器の一
つとなるわけであり、両者は和解している。この
スサノオの子孫が大国主命であり、高天原に国譲
りをしたことになっている。
…思慕する神…
スサノオの行動には不可解な面が多いが、彼は
自分のあり余る力をもてあましていたのだろう。
そして母のイザナミを失ったことで姉のアマテラ
スに対する心情は母を慕う心情とだぶっていたと
思う。彼の乱暴は子供がだだをこねるのと似たと
ころがある。スサノオには母性的なものを思慕す
る心情が一貫していたように思う。背いても必ず
戻ってくる。神剣を献上したのはほめてもらおう
と思ったのだろう。愛情表現の一つなのである。
...出雲とスサノオ...
「日と霊と火」を書き続けるために連休に出雲
に行こうと思っていたところ、出雲大社の境内か
ら古代の柱根が発掘され、伝説の十六丈(四十八
メートル)の高さが裏付けられそうだという。復
元図を見ると中南米の太陽神殿のようにも見え
る。同じころ新聞で太陽の塔の展覧会が万博公園
であることを知った。太陽の塔と出雲とが呼応し
合っているような気がした。
連休中三日間出雲にいたが、あらためて出雲は
スサノオの地だと思った。その上に大国主命が
乗っている感じである。興味深かったのは日御崎
神社と須佐神社でそれぞれスサノオとアマテラス
.が向き合って祀られていたことである。まさに対
極主義である。それでいて両者は一体なのであ
る。スサノオは今もアマテラスを慕い続けている
ように見える。光の仏を慕う衆生と同じように。
悪人正機の第一号はスサノオかもしれない。
発掘歎異抄(11)「悪人正機の塔」(2000年6月号)
…弁証法と対極主義・・・
岡本太郎が「悪人正機」に「弁証法的テーマ」
を感じ取ったというのはすぐれた直観だと思う。
おそらく宗門で専門的に親鸞教学を研究した人で
も「弁証法的テーマ」と言われてもすぐにピンと
こない人の方が多いだろう。岡本太郎がどうして
直観的にそれを感じ取ったのかと考えると、自分
の美術活動の中で感じてきたものと重なり合った
のだろうと思う。
岡本太郎の芸術論は「対極主義」と呼ばれてい
る。岡本太郎はパリ大学で哲学や民族学を学んで
いる。弁証法などはとうに承知している。弁証法
を知った上で彼はあえて対極主義を唱えた。弁証
法は「正・反・合」と三段階で進んでいくが、「正」
と「反」がぶつかりあって、さらにそれが止揚さ
れて「合」に進んでいくとき、あまりに安易にそ
れがなされることに警戒をいだいたのだと思う。
…止揚と転向…
すなわち弁証法が一種の教義となってしまつ
て、コースをめぐるように簡単にそれが進んでゆ
くと考えてしまうことは弁証法と似て非なるもの
である。「反」から「合」へと進むものが、それ
までの段階から上がっていく「止揚」なのではな
くて、ただの転向になってしまう危険がある。そ
れで岡本太郎は「正」と「反」がぶつかりあう「対
極主義」を唱えたのではないかと思う。答えのな
い弁証法が対極主義であり、結果的にはその方が
真の弁証法となる誠実なあり方だと思う。
…太陽の塔…
岡本太郎の芸術作品の代表作は大阪の万博公園
に立つ「太陽の塔」だろう。私はこれを日本を代
表する宗教芸術だと思う。私はこれを「悪人正機
の塔」だと思っている。この塔の解釈はさまざま
だろうし、岡本太郎も理論的に考えてこの塔を
作ったのではあるまい。無意識にできたからこそ
すぐれたものができたのだろう。
この塔には三つの顔がある。正面から見ると、下に白い顔、上に黄金の顔がある。もう一つ裏面
に黒に見える暗緑色の顔がある。この三つがセッ
トになって「太陽の塔」を構成している。塔の名
の由来となった太陽を表すのは、正面上の黄金の
顔であろう。これを浄土教にあてはめると光の仏
である阿弥陀仏になる。その下の白い顔が、仏弟
子としての人の顔である。白は善心の色である。
その裏の黒い顔が悪人の顔である。
「太陽の塔」はほとんど正面からしか見てこられなかったのではないかと思うが、背面の黒い顔
があってこの塔の本当の意味がわかるのではない
かと思う。岡本太郎は白い顔と黒い顔の両面を対
極として、それを統合する頂点に黄金の顔を置い
たのだと思う。黄金の顔は仏の顔であるととも
に、衆生の仏性でもある。三つの顔はいずれも人
の顔と考えてもよい。人が真の自分にめざめてゆ
く過程がこの三つの顔である。白・黒・黄金の順
に並べれば、これは弁証法になる。
…太郎の塔…
「太陽の塔」はもとからこの名だったのではな
く、はじめは名は無かったという。岡本太郎は一
気にこの塔を作りあげたという。ミニチュアが先
にできて、それを万博公園に立てたが、名前がな
いものだから、誰言うともなく、「太郎の塔」と
呼んだそうである。しかし岡本太郎がいくらなん
でも自分の名を付けてしまうのは困ると思ったよ
うで、「太陽の塔」と命名したそうである。しか
したしかにこの塔は岡本太郎という一個の人間が
もつ三つの顔を表していたのかもしれない。そし
てそれは岡本太郎に限らず、あらゆる人間のもつ
三つの顔を表していたのかもしれない。
岡本太郎はこの塔は「進歩と調和」という大阪
万博のテーマとは関係ないと言っていたという。
「進歩と調和」は高度経済成長の一方で公害や渦
疎の問題が深刻化した高度成長期の発想であっ
た。そのテーマは現代にも引き継がれているが、
時代の要請から生まれた時代思想である。そんか
ことを考えていたら時代を超えた根源的なものは
表現できなかっただろう。背面の顔がそれを物語
る。表から見れば「太陽の塔」、裏から見れば、「悪
人正機の塔」である。
先頭へ
発掘歎異抄(10)「悪人正機の成就」(2000年5月号)
…教義の救いと自分の救い・・.
悪人を救うという仏と、自分は悪人だという自
覚をもった衆生と、この二つが向き合えば、その
まま救われることになる。ぴったりと符合するは
ずであって、これで悪人正機は成就するはずであ
る。ところがそうはいかない。その救われたとい
うのは教義上のことではなく、これも自覚だから
である。
医者が病気を診断して、この病気にはこの薬が
効くとして投薬しても、その薬が効いたかどうか
は症状が改善されることで判断される。心の世界
ではこれがもっと難しく、症状の改善を判断する
ものは本人の自覚でしかない。教義上救われるは
ずだというのは、理論上病気が治るはずだという
のと同じで意味がない。ということは「悪人正機」
とは、確立された教義上の理論であったとして
も、そんな理論など信じない方がいいのである。
いくら教義上救われるはずになっていても、自
分の中があい変わらず空虚であって、ちっとも満
たされていない。どう考えても光の仏に出会った
という感じがしない。それならばそれが正しいの
である。浄土教では救われることを「安心」とい
う。死後の往生より前に、生きているときの安心
なのである。ちっとも生の不安が解消されなけれ
ば、それは安心を得ているとは言えない。自分に
正直であるしかない。悪人正機の条件は教義に忠
実であることではなく、自分に忠実であること
だ。
…理論と実態…
ここ数年我々は金融機関の相次ぐ倒産を目にし
た。倒れないはずのものが倒れて分かるのは粉飾
決算による実態のごまかしである。念仏者も粉飾
決算になっていないか。あるいは旧社会主義国の
崩壊もそうだった。計画経済という理論上の経済
と、実態の経済が大きくかけ離れてしまった。理
論上成長を続けるはずだなどというのは実態が伴
わなければ意味がない。旧日本軍もそうだった。
教条主義者は現実を見たがらない。自分を支える
信念が崩れるのが恐いからである。
『歎異抄』を読んで救われるはずだと思うなら、
『歎異抄』を捨てなければならない。親鸞は言っ
た。「弟子一人ももたずさふらう。」と。悪人正機
の厳しさはここにある。前回の終わりに述べたよ
うに、「機の自覚」によって、人はむしろ仏から
遠ざかるように感じるのである。その感覚は決し
てまちがってはいない。それ故に仏を求める思い
が強くなる。
…自己放棄…
そしてどうするか。ここでただ人は仏と向き合
うのである。ここに真の念仏がある。純粋冥想と
しての念仏がそこにある。人間の精神が大きく飛躍をとげようとするとき、このような純粋冥想が
ある。形は念仏とは限らない。親鸞の言う「無義」、
道元の言うただただするという「只管」、神道の
「神惟」、あるいはキリスト教の「無償」。こういつ
たものが純粋冥想の精神である。
もはや自分ではどうしようもないとき、自己放
素が起こる。白己逃避ではない。自分から逃げる
のでも、自分を持ち逃げするのでもない。あえて
言えば自分を捧げるのである。そうして人は生ま
れ変わる。仏の子として、神の子として。宗教の
真の神秘がここにある。
…何かがある…
そうしてこのプロセスを後で振り返るとき、何
かそこに必然性があったように感じられる。それ
が理論を生み、教義を生むのである。このプロセ
スを進めているものは何なのか。親鸞はそれを本
願力と呼んだ。本願力のあるところ、どんなに遠
く離れているように見えても、人は必ず仏に還っ
てくる。引力によって彗星が還ってくるように。
このプロセスを弁証法と呼んでもいいだろう。
弁証法は正、反、合と進み、反から合へ進むとき、
止揚が起こる。悪人正機とは、ちょうど反から合
へと進むところに当たる。弁証法はギリシャ思想
に始まり、へーゲルによって確立されたが、人間
精神の動き、あるいは歴史の動きを観察するとき
に見出されると言われる。へーゲルはその動きの
根底に「世界精神」を見た。親鸞は仏や本願力を
見た。名前はよい。何かがある。
発掘歎異抄(9)「悪人正機の舞台」(2000年4月号)
…悪人は正しいのか・・.
「悪人正機説」の最も重要な意味は、岡本太郎
の言ったという「弁証法的なテーマ」だと思う。
しかしいきなりそこに行くよりも、その前段階と
しての二つの意味を考えておこう。一つは仏の側
から見た「悪人正機」、二つめは衆生の側から見
た「悪人正機」である。そしてこの二つが組み合
わさるとき、衆生が仏へと向かって進む、精神の
弁証法的運動法則が示される。
まずは仏の側から見た「悪人正機」。「正機」と
は、まさしく救いの対象とするということであ
る。「悪人正機」にまつわるよくある誤解の一つ
は、「正機」の「正」を、ただしいと思ってしま
うことである。「悪人正機」は、たしかに逆説的
な発想をもっているので、単純に考えて、「悪人
こそが正しいのだ」ととってしまえば、そこから
先の意味はよくわからなくても、新鮮さを感じて
しまう。子供のころ見ているドラマはたいていは
勧善懲悪で、善悪がはっきりしているが、少し大
人向けになると、実は悪と見えたものの方が正し
かったりする。こういう理解もあながちまちがつ
ているとは言いにくく、当たっている面もある
が、言葉の意味からは、ずれている。
…魂の医者…
なぜ悪人がまさしく救いの対象になるのかと言
うと、善人は救う必要がなく、悪人こそ救う必要
があるからである。これは医者と患者の関係とよ
く似ている。健康な人は医者にかからない。病人
が医者にかかる。悪人とは魂の病人であって、心
が病んでいる。仏はそういう人を救おうとするの
である。
昔から人気のある仏様に薬師如来があるが、薬
師とは医者である。昔は医学が発達していないか
ら、病気になると神仏に頼った。薬師如来は病気
を治してくれる仏として人気があった。同様に阿
弥陀仏は魂の医者であって、心が苦しむ人を救っ
てくださる。阿弥陀仏の四十八願がその救おうと
いう誓いを示している。
ただし四十八願の願文には五逆という重罪と、
正法を誹謗するものを除くというただし書きがつ
いているのだが、中国浄土教の大成者である善導
が、それはそういう罪を犯させないための抑止の
ためと考え、実際にはそのような重罪者も救われ
るとした。そのようなすぐれた法を信じよという
ことで「法の深信」ということが唱えられた。
…病気の発見…
このようなすぐれた魂の医学があるとしても、
自分が病気だと思わなければ、医者にはいかな
い。自分は健康だ、元気だと思い込んでいる人ほ
ど、実は危なく、気づいたときには手遅れだとい
うことはよくある。どこか悪いところがあるかも
しれないと思って、検査を受ける人の方が、病気
を発見してもらって治してもらえる確率が高いだ
ろう。
そこで今の自分はどうなのかという自己点検が
必要になってくる。一般には反省というもので
あって、自己をかえり見ることである。人間の目
は外向きにできているせいか、なかなか自分のこ
とは見えないものである。たまには宗教書でも読
んで、はたして今の自分は人間として本当に正し
いのかどうかよく考えてみる必要がある。そんな
ことをしなくても今の自分には苦しみがあるか
ら、どこかよくないのだとわかっているという人
はそれで充分である。
…さあどうする…
自分の悪を知っての苦しみだけでなく、醜さ、
虚しさ、寂しさ、何か満たされていない感じ、そ
ういったものでも同じであり、光の仏を前にし
て、自分の中に影や闇を感じること。これが出発
点である。浄土教では、救われがたい自分を感じ
ることを「機の深信」と言っているが、「機の自
覚」と言った方がよいだろう。これが衆生の側か
らの「悪人正機」であり、二つ目の意味である。
この自覚が生じることは無自覚な状態より進ん
でいるが、気持ちの上ではむしろ仏から遠ざかる
感じがする。知らない方がよかったと思う。誰も
この苦しみをわかってくれないし、自分でもどう
しようもない。これが悪人正機の舞台である。さ
あどうする。
発掘歎異抄(8)「座ることを拒否する書」より(2000年3月号)
…岡本太郎と悪人正機…
一九九六年の一月に岡本太郎が亡くなってから
妙にその存在が気になり、岡本太郎について調べ
たり、書いたりしてきた。この冬休みに、九九年
の十一月に発刊された『太郎神話』という本を読
んだ。この本は岡本太郎の秘書であり養女となっ
た岡本敏子が岡本太郎について書かれた多くの
人々の文章を、年代ごとに編集したものである。
その中に歴史家の奈良本辰也の書いた「神秘に
いどむ文化史観」という文章がある。奈良本氏の
岡本太郎への関心は私自身のそれと非常に近いも
のがあるようで、岡本太郎の『沖縄文化論』や『神
秘日本』をとりあげている。その文章の冒頭に、
親鸞の悪人正機説についての奈良本氏と岡本太郎
の対話の思い出が書かれている。
奈良本氏が、「あの時代の悪人は、それが悪、即
ち仏教の五っの戒律を破らなければ生きられない
ような生活を強いられている漁師とか商人といつ
たものを指すのだと考えるんです。善人は、そう
した悪人のあることによって、自らはいささかの
戒律を犯す必要もない支配階級なんです。」と述
べたのに対して、岡本太郎は「そんなことか、至
極当たり前なんだなあ、もう少し弁証法的なテー
マかと思った。」と言ってひどくつまらない顔を
したという。そのために奈良本氏は自説が新しい
解釈だという気持ちが吹き飛んでしまったという
のである。
…時代と宗教…
奈良本氏の解釈は、鎮護国家の仏教として支配
階級に奉仕した奈良平安の仏教に対して、民衆仏
教として鎌倉新仏教を考えるという線の延長上に
ある。当時の時代背景を考えた解釈である。
哲学や宗教といったこの世的なものを越えた形
而上の世界を扱うものと、歴史や地域といったこ
の世的なものの関係をどう考えるかは難しい問題
であるが、一つの哲学や宗教に、その成立した時
代の背景が影響を与えるのはやむをえないことで
あり、充分に考慮する必要はある。
…対機説法と悪人正機…
仏教では対機説法ということをよく言う。「機」
とは、「機根」のことであり、人々の教えを受け
とる能力のことをいう。「正機」というときの「機」
もこのことだが、一般的には、仏に対して人を指
していると考えてさしつかえない。仏は機を見て
法を説くと考えられた。ということは、人は一人
ひとり違い、また置かれた状況によって変わるの
だから、法もそれによって変わることになる。一
方で、法とは、時代や地域といった制約を越えた
普遍的なものであって、中心はこちら側である。
奈良本氏の解釈は「悪人正機説」を時代状況に
応じた一種の対機説法と考えるということとほぼ
同じになる。そもそも『歎異抄』は親鸞の語録で
あり、対機説法集である。従って目の前の人々の
置かれた状況を充分に汲み取っているはずであ
る。第一章には、「悪をもおそるべからず、弥陀
の本願をさまたぐるほどの悪なきゆえに」などと
いう言葉がある。これなど、肉食妻帯をし、飲酒
もするという仏教の戒律を破って生きている一般
民衆に向かって語ったのだということは充分に考
えられる。漁師ともなれば、日々殺生が仕事なの
である。その人達は親鸞に出会わなかったら救わ
れなかったかもしれない。
…時代思想を越えて…
そのような時代背景だけを考えると、ではいっ
たい現代人にとってはどういう意味があるのかと
いうことになる。戦争の時代なら、殺人という最
も重い殺生を犯しているのだから意味はある。で
は平和な時代はどうか。「悪人正機」を時代思想
にしてしまってよいのか。岡本太郎はそれを越え
たものを感じ取って、「弁証法的なテーマ」と言ったのだろう。この岡本太郎の感じ方は、種々の『歎異抄』
の解釈を聞く私の思いと重なっている。いかにも座
りのいい解釈ほどなぜか心に響かない。岡本太郎
は「座ることを拒否する椅子」を作り、「芸術は
爆発だ」と叫んだ。『歎異抄』もまた、読者が一
つの解釈に居座ることを拒否する書であり、親鸞
の念仏も虚空に向かっての爆発だったかもしれな
い。
発掘歎異抄(7)「いはんや悪人をや」より(2000年1月号)
…理解と誤解のはざまで・.・
親鸞の教えとして最もよく知られているのが、
いわゆる「悪人正機」説だろう。その「悪人正機」
を最もよく表すのが、『歎異抄』第三章の冒頭に
ある「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人を
や」という言葉である。日本史や倫理の教科言に
はよく部分的に引用してあるので多くの人が知っ
ているはずである。その意味では,『歎異抄』の入
り口になっていると言ってもよいだろう。
ところがこの入り口は、実に恐ろしい入り口で
あって、本気でここに首を突っ込んだら容易には
出られないものである。よくこんな難しい言葉が
有名になったものだと思う。多くの人が自分なり
の解釈でこの言葉を理解してわかったつもりにな
るが実は誤解しているというのが実状であろう。
禅には修行を進めるための公案というものがある
が、浄土教にとって「悪人正機」は一種の公案と
言ってもよいだろう。これほど誤解を生みやすい
ものをあえて口にするのは、よほどの自信と勇気
がなければできないことである。
…教えと体験…
しかし実はこの言葉を初めて言ったのは親鸞で
はなくて、法然であったと言われている。これは
親鸞の口伝を集めた覚如の『口伝抄』にも、また
浄土宗側の資料である『法然上人伝記』にも書か
れている。それにもかかわらず、親鸞の言葉のよ
うに思われているのはなぜなのだろう。
おそらく、この教えを説いたのは法然だが、そ
れをその言葉どうりに実践し、さらに後に続く者
に伝えようとしたのが親鸞だという認識が、親鸞
にも、また当時の人々にもあったからだろう。法
然はどう見ても善人、それどころか、清僧、高僧
として阿弥陀仏の化身のように人々に見られてい
た。その法然の説く「善人なをもて往生をとぐ、
いはんや悪人をや」は、自らを悪人と思い苦しむ
親鸞の心を捉えた。自ら救われたという思いが、
法然以上の力強さと大胆さをもって、親鸞に「悪
人正機」を語らせたのだろう。同じ言葉が親鸞を
通ることによって、増幅され、輝きを増したよう
に思う。そこに起こった信仰のドラマがこの言葉
を支えているように思う。信仰は可能性を語るも
のではなく体験である。「己証」の世界である。
.・・善悪のはざまで・
「悪人正機」という言葉がよく知られるように
なって誤解も増えたが、おかげで我々が常識的に
考える善悪は大きく揺さぶられることとなった。
善とは何か、悪とは何か、善人とは悪人とは何な
のか。「悪人正機」を考えようとすることは、こ
の問いかけを受け止めることだと言ってよいだろ
う。固定的な善悪の概念を根本的に揺さぶるもの
をもっている。
それはちょうど固定的なニュートンカ学の世界
に安住していた人々がアインシュタインの相対性
理論の世界に連れ出されたのに似ているだろう。
誰にも共通で一つの基準しかなかったはずの時間
と空間は否定され、光速の不変という絶対性のも
とに、時間と空間は運動体によって異なる相対的
なものとなった。親鸞は、阿弥陀仏という光の仏
の絶対性の前に、人々の考える善悪の相対性を明
るみに出した。
…発見と破壊…
それは発見であるが一面において破壊である。
その破壊は「肉食妻帯」という破戒となって表れ
た。しかしその発見が見えない人にとっては破戒
しか目に入らない。破戒は仏教の破壊と見なされ、
親鸞は日本仏教の破壊者という名誉ある烙印を押
されることになった。
日本の浄土教は源信の『往生要集』によって確
立されたと言ってよいだろう。そこでは善悪はた
しかに判然と分かれ、善人と悪人は分かれ、浄土
と地獄は分かれていた。それによって人間のこの
世からあの世への運動法則は示された。わかりや
すいが救われにくい浄土教である。
法然と親鸞はそれを越えてしまった。法然は可
能性として語り親鸞は実験によって。地獄に落ち
るのが恐くて、誰もしたいがしたくなかった肉食
妻帯という人体実験によって。「地獄は一定すみか
ぞかし」という人にして可能なことだが、発見の
追試に過ぎない。
発掘歎異抄(6)「面々の御はからひなり」より(99年12月号)
...宗教の外面と内面...
宗教という言葉を聞いたとき、人はいったい何
を思い起こすだろうか。寺院、神社、教会。ある
いは葬儀、結婚式といった儀式。こういったもの
は言わば宗教が身にまとっている衣装のようなも
ので、外面的なものにすぎない。それでも人と宗
教とのかかわりはそういった外面的なものから始
まるのが普通である。宗教と言えば、宗教施設や
教団、そこでとり行われる儀式といったものを思
い起こすのは当然とも言えるだろう。
そうしてその次にそのような教団や施設ができる基となった教祖、宗祖と言われる人やその教え
を思い起こすという順になるかもしれない。外か
ら内へという順である。しかし檀家の人でも仏教
の教祖としての釈尊と目本での宗派を開いた宗祖
の名前は知つていても、その教えまで関心をも
ち、理解している人がはたしてどれほどいるだろ
うか。そういう人にとっては宗教は先にあげた教
団、施設、儀式といった外面的なものでしかない
はずで、そういったもののもつ文化財的価値や社
会習慣上の価値を認める程度のかかわり方だろ
う。
これが神道の場合には、そもそも教祖や宗祖と
いったものがあるのかないのかはっきりせず、教
義さえもはっきりしないのだから、宗教としての
神道をとらえることは、仏教以上に難しい。それ
でも、神社があり、鎮守の森があり、祭りがある。
祭りには感謝や奉仕といった精神的価値を含んで
いるから、神道の場合は、外面的なものと内面的
なものが具体的形として一体化していると言える
だろう。
…哲学と芸術…
一方、宗教と近い関係にある哲学はどうであろ
う。哲学と聞いて思い起こすのは、ある哲学者、
思想家であり、またその人の思想や著作であろ
う。哲学となると、外面的要素はほとんど消えて
しまって、内面的なものが中心となってくる。宗
教での教団や施設にあたるものとして、ある哲掌
者に始まる学派や、プラトンのアカデメイアのよ
うな学校がある場合もあるが、哲学にとってその
ようなもののもつ比重は大きいとはいえない。
また同様に美術や文学、音楽といった芸術も、
精神的価値をもつものとして宗教と近い関係にあ
るが、そこでも、ある画家とその作品、あるいは
ある文学者とその作品といったものが中心であ
る。何々派といった美術運動や文学運動があるこ
とはあるが、宗教の教団のようにそれが何百年も
続くということはない。それでもその作品は何百
年たっても鑑賞され続け、愛読され続け、演奏さ
れ続ける。精神的価値を与えるものは、容易に滅
びるものではないことを示している。
…内なるもの…
私が親鸞をとらえようとする時には、彼が表現
しようとした精神的価値を中心に考えているので、
彼のもつ哲学に注目したり、また前回「念仏とい
う絵を描いては破り続けた男」と書いたように、芸
術家のように表現してみたりするのである。教団
の宗祖というだけでありがたがっていたのでは、
親鸞は物言わぬ御本尊と同じになってしまう。『歎
異抄』という書物が残ったことで、大教団の創始
者、あるいは組織者といったイメージとはおよそ
かけ離れた親鸞像を我々は見ることが可能になっ
た。
…親鸞と面々…
教団の組織者というとらえ方を見事にうちくだ
くのが、第二章をしめくくる「このうへは、念仏
をとりて信じたてまっらんとも、またすてんとも
面々の御はからひなり」という言葉であろう。念
仏を取ろうが捨てようが皆さんの御自由ですよと
言っているのである。
親鸞が仮に会社を興したとして、自分の会社の
品物を買っても買わなくてもいいよと言えば、組
織にはマイナスだろう。社長に営業はさせられな
いということになるかもしれない。しかし口車に
乗ってすぐに品物にとびっく客は見る目のない客
である。すぐに別の品物に目移りするだろう。「南
都北嶺」のようなところに。親鸞が求めたのはす
ぐにとびつく信者ではなく、親鸞の感じた真実を
自分もまた感じようとする面々、ひとりひとりで
あった。
先頭へ
発掘歎異抄(5)「地獄は一定すみかぞかし」より(99年11月号)
…どこからどこへ…
人はどこから来て、どこへ行くのか。この問い
は人が哲学や宗教に関心を抱く入り口であり、ま
た容易に解けない問いである。仮にこの問いを抱
いて哲学や宗教に関心を持ったとして、ある哲学
や宗教にもっともらしい答えが書いてあったとす
る。宗教ならそれを信じなさいという言い方もさ
れるであろう。
しかしこの問いに対してはどんな答えも、それ
が他から与えられるものである限り、ほとんど意
味をもたない。せいぜい地図を与えられるくらい
のものである。もちろん、地図がないのとあるの
とでは大きく違う。未知の土地にいて、全く何も
わからないのと、一枚の地図が手もとにあるのと
では、それからの旅に大きな差は出るだろう。し
かし地図は所詮地図であって、実地でも実景でも
ない。地図を見て世界を体験できたと考えたらと
んでもない誤解だろう。
…浄土教の地図…
浄土教にもこの地図らしきものがある。極めて
単純な地図であるが、この世があって、あの世が
あって、あの世には浄土と地獄がある。誰しも地
獄に行くのはいやだから、浄土に行きたがる。念
仏さえしておけば浄土に行けますよというのが浄
土教だから、一生懸命念仏することになる。しか
し続けているうちに疑問が出てきて、本当に大丈
夫なのか不安になってくる。ひょっとしてだまさ
れているのではなかろうかと。もしかしたら浄土
へ行くのではなく、地獄に行くのではなかろうか
と。見知らぬ土地を車で走っていて、太陽が隠れ
たりすると、南へ行っているのやら、北へ行って
いるのやらわからなくなる。
…どこにいるのか…
この問いをもつことは決して悪いことではな
い。いやむしろこの人生を本当に自分の足で歩い
ていくためにはむしろ必要なプロセスなのであ
る。与えられた地図を絶対視する必要は全くな
い。そもそも地図というものは、世界の見取り図
であっても、自分にとって意味がでてくるのは、
自分がその中のどこにいるのかがわかってからで
ある。自分がどこにいるのかわからなければ、地
図はどんなにそれが詳細であっても、役には立た
ない。
関東の人々は親鸞のところに「身命をかへりみ
ずして」やってきた。この旅には地図があった。
関東から京都へ、そしてそれが同時に迷いと不安
から、確かな安心へという心の地図と重なってい
るはずだった。実際に当時の旅は今とは比較にな
らないくらい危険なものだから、親鸞のもとに
たどり着いただけで、もう旅の目的は達したと
思った人々がほとんどであったろう。
ところが親鸞は彼らがもってきた地図を、もう
一度親鸞に確認してもらおうと思って、大事に
もってきた地図を、目の前でばりばりと破ってし
まうのである。「念仏はまことに浄土にむまるる
たねにてやはんべらん。また地獄におつべき業に
そう
てやはんべらん。惣じてもて存知せざるなり。」念
仏は浄土に生まれるたねか、地獄におちる業か、
全く知らないと言うのである。なんともひどい先
生である。
…自分の地図…
そうして親鸞は自分の地図を指し示す。「いづ
れの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一
定すみかぞかし。」(『歎異抄』第二章)自分は地
獄から出発していますと言うのである。あなたが
たは地獄に落ちたくない一心で念仏しているかも
しれないが、自分は地獄から出発している。だか
ら念仏してどうなるかなどという問いが意味をな
さない。そもそもいったいあなたがたはどこにい
るのですか。親鸞のこの問いの強烈さは、人々の
足もとを揺るがしたに違いない。強烈な直下型地
震である。
この世に確かなものは何もない。大地震が起こ
ると我々はそれを見せつけられる。最も強固と
思ったものが崩れてしまう。地図は何度でも破ら
れなければならない。そうして自分の歩いた跡が
自分の地図になる。人に聞かれたらそれを見せる
だけだ。画家なら一枚の絵の前に、何枚も破られ
た絵があるだろう。たまたま『歎異抄』というフ
イルムには念仏という絵を描いては破り続けた男
が写っていた。
発掘歎異抄(4)「別の子細なきなり」より(99年10月号)
…単純と複雑…
ものごとは単純なものから複雑なものへと向
かって進むのを進歩や発展と考えるのか、それ
とも複雑なものを単純にしていくことを進歩や
発展と考えるのだろうか。生物の時間に習う進
化論では、単純なものから複雑なものへと向
かっているように見える。しかし環境が大きく
変化する時には、複雑なものの方が適応できる
許容範囲が狭く、かえって単純なものの方が生
き残りやすいということはあるだろう。高等生
物と言われるものは、単細胞の生物に比べれば
明らかに複雑になっているから、世界は確かに
単純なものから複雑なものへと向かっているよ
うに見える。
では文化の世界ではどうだろう。たとえば学
問の世界はこの複雑きわまりない世界を、でき
るだけ単純化して我々の目の前に示そうとする。
現実の複雑きわまりない世界をできるだけ単純
な世界に置き換えようとしてきたのが、学問の
世界であろう。具体的なものから、抽象的なもの
へと向かうわけである。法則を見出すということ
は、複雑な世界の中に、共通のものを見出して、
それがいっでもどこでも起こる、すなわち普遍的
なものであることを明らかにすることである。前
に述べたニュートンの引力の法則で言えば、イギ
リスのリンゴでも、日本のミカンでも落ち方は同
じである。この発見は喜びである。学問が扱う領
域は多様化し、学問全体として見ると複雑になっ
ているように見えるが、そこに潜む精神は単純化
を志向しているように思う。
…人間の迷い…
人間に迷いはっきものだが、人間が迷うのは世
界が複雑であることが一つの大きな原因であるだ
ろう。物心がつくにしたがって我々はこの複雑な
世界の中に放り出される。都会の雑踏の中で、ば
らばらに動く群衆の中に放り出されたように、ど
ちらに向いて歩いているのかわからない。このよ
うな複雑な世界と複雑な人の動きの中で、自分の
行くべき道を見っけることは至難のわざである。
仏教のことを仏法とも仏道とも言うが、この複雑
きわまりない世界の中で釈尊が発見した存在の真
理である仏法を、人の生きる道としてさし示した
のが仏道である。仏教の根本にはそもそも単純な
ものがあったはずである。
しかし仏教もまた世の中の流れと同様に複雑化の流れをたどることとなる。俗に仏教に八万四千
の法門ありと言われるが、インド、そして特に中国で膨大な量の経典が作られた。子供時代に仏門
に入った親鸞にとって、その膨大な経典の複雑さ
は世界の複雑さと重なっていただろう。その複雑
さの中から、約二十年かけてたどりっいたのが
法然の説く念仏の教えであった。専修念仏とは、
この複雑な世界の中でやっと探し当てた、彼岸
へと続く出口であった。
…念仏の単純さ…
親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけ
られまいらすべしと、よきひとのおほせをかふ
りて信ずるほかに、別の子細なきなり。」(『歎異
抄』第二章)ここでいう「よきひと」とは法然で
ある。その法然の言葉をいただいて信ずる以外
に別の子細はないというのである。親鸞にとっ
ては複雑な仏教の中から、やっとゆきついた単
純明快な教え、それが念仏であった。念仏の教え
のあり方は、釈尊が説いた原始仏教とは異なっ
ているだろう。しかし複雑きわまりない世界の
中で迷う人間に示された単純明快な教えという
点では、念仏もまたすぐれて仏法であり仏道で
ある。
…迷路の誘惑…
『歎異抄』の第二章は晩年に京都に帰った親鸞
のもとに、迷いを生じた関東の人々が教えを乞
いに来た時の言葉である。親鸞にとっては出口
であった念仏が、いつにまにか人々には入口に
なっている。迷い始めればきりがない。この複雑
な世界という迷路の中で、迷い苦しみ出口を探
していた人々が、あらためて別の迷いの世界に
入る必要はない。たとえ仏教という名を揚げて
いても、別の迷路であり迷いの種になるだけだ。
「南都北嶺」(奈良・比叡山)という仏教銀座が、
いかに魅力的に見えようとも。
発掘歎異抄(3) 「摂取不捨」より(99年9月号)
*宗教のグローバル・スタンタード
仏の慈悲はキリスト教で言えば神の愛に相当
するだろう。宗教によって用語の意味にはそれ
ぞれの特徴があるから、簡単に同じとするわけ
にはいかないが、あまり差にこだわって宗派間
に壁を作ってしまうより、共通するものを見出
して、宗教の持つ普遍性を認識する方が意味が
あると思う。前回、宗教と科学について若干述
べたが、現代人にとっては、宗教とは何か、宗
教は人間の生活にとってどういう意味があるの
かということが大事なのであって、宗教間の差
はその次の問題だろう。
これを経済活動になぞらえて言えば、市場経済が世界中に広まることで、グローバル・スタ
ンダードということが言われているが、宗教に
もグローバル・スタンダードは必要なのだろう
と思う。宗教はこれまで各地域の中で閉鎖的な
ブロツク経済を築いていた面がある。無理にそ
れを壊す必要はないが、その枠を越えた目を
持っていないと、結局は衰退の道をたどってし
まうのではなかろうか。私は浄土教は東アジア、
特に日本で発達した宗教であるが、内容的には
充分に世界宗教として通用するものがあると
思っている。そのような意識をもって現代を生
きる浄土教を再構築する必要があるだろう。
*人間の愛
さて、それで仏の慈悲と神の愛に共通するものがあるとして、それと人間の愛との違いを考
えてみよう。別の言い方をすれば、仏の慈悲や神の愛というものは、人間的な愛との違いを考
えることで、意識され、また求められてきた面
があると思う。それはこの世に対して浄土や天
国が求められ、また死に対して永遠の生が求め
られてきたのと同様の構造をもっている。変わ
るものに対して変わらぬものと言ってもよいだ
ろう。
人間の愛は絶えず変化する。男女間の愛がそ
の一つのよい例であろうが、移ろいやすく変化
しやすい。恋愛ドラマがドラマとして構成しや
すいのは変化があるからであろう。ドラマに
とって変化は必要不可欠の要素である。男女間
の愛の変化しやすさに比べれば、親子間の愛は
比較的変化しにくく、特に親の子に対する愛は
一度起こると、そうそう消えるものではない。人
間の愛の中では、親の子に対する愛が、仏の慈
悲や神の愛に比較的近いように思う。私は人は
親となることで、神仏の心を学んでいる面があ
ると思う。
*愛の需要と供給
「摂取不捨」とは救い取って捨てないというこ
とである。信心を起こして念仏する衆生を、仏は
救い取って捨てないということである。「摂取不
捨の利益にあづけしめたまふなり。」(歎異抄−
第一章)この主語は阿弥陀仏である。仏の側から
は、常に愛は供給されており、需要は必ず満たさ
れるのである。別の言い方をすれば、人の側から
仏の方を思う時、片思いのように見えても、相思
相愛なのだということである。人間の愛ではこう
はいかない。男女の間では、自分の側で愛してい
るからといって、相手の方も必ず愛してくれると
は限らない。世の中は圧倒的に片思いの方が多い
はずであって、需要に対して供給はかなり少な
い。慢性的なインフレ状態で、おかげで愛の価値
は高まっている。
*阿弥陀仏のふところ
不安とスリルの中でさまよう男女の愛に対し
て、神仏の愛の何と大らかで懐の広いことか。阿
弥陀仏が太陽神の面をもつことを前に述べたが、
太陽が昇らない日はなく、こちらがまなこを開き
さえすれば、あるいは身を太陽にさらしさえすれ
ば、その光と熱をいっでも受け取ることができる
ように、神仏の愛や慈愛は常に注がれていて、受
け取ろうとする者は必ず受け取ることができる。
太陽の側が自分の都合で出たり出なかったりとい
うことがないように、神仏の愛も、注がれたり注
がれなかったりということがない。
永遠・不変・絶対。これが神仏の慈悲や愛とい
うものの性格である。それを例えば「摂取不捨」
という言い方で表す。抱き取って決して手を放す
ことがない。実に人間的表現であって、しかも人
間にはできないことである。
発掘歎異抄(2) 「誓願不思議」より (99年8月号)
…存在教としての仏教…
仏教は釈尊が悟りを開いた時から始まった。
仏教徒なら誰でもそれが当然と思うだろうし、
歴史的事実と言ってよいだろう。では仏教的真理
はどこから始まるのだろう。仏教的真理を仏教
では「法」「ダルマ」と呼ぶ。「ダルマ」には「存
在」という意味があるから、仏教的真理、仏法と
は、存在の真理を明かしたものと言えるのであ
る。「法」が「存在」であるならば、人が作っ
たものではない。法律は人が作ったものだから、
始まりがあるが、仏法には始まりはない。釈尊は
仏法を作ったのではなく、発見したのである。
私は,『歎異抄を読む』の中で、浄土教を「存在
教」と呼んでいるが、「ダルマ」を説く仏教はそも
そも「存在教」なのである。
…存在教としての宗教と科学…
現代において存在教としての地位を確立して
いるのは自然科学と言ってよいだろう。仏教
に限らず宗教には存在教としての役割があった
が、自然科学の発達とともに宗教の担う存在の
範囲は縮小され、専ら人間存在の面に限られて
きたように思う。宗教と科学が対立するもの
であるかのような捉え方をする人も多く、宗教
は科学の前に敗北したと考える人も多いだろう。
しかし私は存在教としての宗教はいささかも
科学にその領域を犯されているとは思わない。、
まだまだ科学の語る存在の次元は宗教のそれに
及んでいないと思う。将来的には、科学が宗教を、
証明していくことになるだろう。一人の人間が
一生の問に「悟り」という形でなしうるものに、
科学は何百年もかけて、まだたどりっかないで
いるのである。ただし存在は不連続ではないか
ら、存在教としての宗教を考える上で、存在教
としての科学は参考になる。科学的思考に慣れ
た人のためには科学的思考を尊重した上で、
宗教を語ることも必要なことであろうと思う。
…本願力という引力…
浄土教で重要な存在は何かと言えば、浄土と
仏と本願力ということになる。浄土があり、そ
こに仏がいて、そして衆生をそこに引き入れる
本願力がある。この三つがあって浄土教は成立
している。特にこの世にいる人間が浄土と仏に.
目覚め、そこに行く上で大きな役割をはたすの
が本願力である。浄土とこの世、仏と人を結ぶ
のが本願力である。本願は誓願とも呼ばれ、衆
生を救おうという仏の誓いであり、願いである。
それが働く時、本願力となる。この世にいる親鸞
が発見したのは、この本願力であったと思う。そ
の不思議さを親鸞はしみじみと感じている。「弥、
陀の誓願不思議にたすけられまひらせて」これが、
『歎異抄』第一章の冒頭である。
我々にとって大切なのは「本願力」を感じるこ
とである。そうしてその力を我が身に体現し
ていく時に、法然や親鸞のような生き方がで
きるのであろう。私はこの「本願力」を霊的引力
と考えている。そこに働くのは霊的法則と言っ
てよいだろう。親鸞も、阿弥陀仏の働きを説明す
るのに、「自然」や「法則」という言葉を使ってい
る。親鸞にとっては仏の世界は、霊的存在の次
元を含めた一種の自然科学の世界であったと
言ってもよいだろう。白然科学にはいくつかの
重要な法則があるが、中でもニュートンの発見
した万有引力は特に重要な法則である。この万
有引力と、本願力という霊的引力とは対応して
いるように思う。いわば霊的引力をこの世に引
き映した影が、万有引力なのではないかと思う。
…阿弥陀仏の太陽系…
質量を持つもの同士は引き合い、巨大な質量
を持つものは、小さなものを引き寄せるが、仏と
衆生の関係も同様である。ニュートンはリンゴが
落ちるのを見て引力を発見したという伝説があ
るが、リンゴが衆生、大地が仏、あるいは浄土で
ある。太陽系の運行はニュートンカ学によって説
明できるが、仏とは巨大な太陽のようなもので
あり、我々は知らないうちにその周りを回って
いるのである。阿弥陀仏は無量光仏とも呼ば
れ、夕陽を神格化した太陽神ではないかと言
われているが、我々はこの阿弥陀仏の太陽系に
住み、その引力の中に生きているのである。
発掘歎異抄(1) 「耳の底」より (99年7月号)
『歎異抄』は親鸞の晩年の
弟子である唯円が書いたも
のと言われている。この本 の存在が一般に
知られるよ うになったのは明治時代以
降のことであり、宗門の内
外を問わず、というより、む
しろ宗門の外にある人間の
関心を強く集め、親鸞とい
う一人の強烈な存在を人々
に知らしめることになった。
この本を読むと、目の前
に親鸞という一個の存在が
立ち現れて、何かを迫って
くる、あるいは立ち向かっ
てくるのである。私もその
魅力に引かれてきたが、人
に語るまで熟するには時間
がかかった。今回この誌上
を借りて、その一端を紹介 してみたい。
*物語の原点
「よって故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留る所、いささか
か之を注す。」
『歎異抄』の序文の一節である。ここでいう「物
語」とは、物語ることであり、話である。我々は文
字によって歎異抄を読んでいるが、そのもとに
なったのは、親鸞の話であった。小説としての物語
も、本来はお話だったのである。大人は物語を声を出して読むことはしないが、子供ができると、
本を声を出して読み聞かせることが
あるだろう。むしろそれが物語の原点なのである。
親鸞の時代、文字の読み書きできない人の方が読み
音きできる人よりはるかに多かった。現代人が読ん
でもわからないものを、いったいどうやって伝えた
のか、その伝達の困難さは我々の想像以上だろう。
「一文不知」という人々に親鸞は語りかけた。
*親鸞の學んだもの
そのような人々を相手に法を説こうとすれば、お
のずからその中心は話すことと聞くことになってく
る。「話す」ことと「聞く」こと。これは人間のコ
ミュニケーションの原点であろう。いやその前に、
向き合うことがある。電話などというものはないか
ら、向き合わなければ、話すことも聞くこともでき
ない。ということは自分の存在を相手の前にさらす
ことになる。話し言葉以外の多くのものが話す以前、
聞く以前に伝わっているのである。向き合った時に、
もう事は決しているのかもしれない。勝負の世界で
はよくあることだ。教えを受けることが聞くことし
かない人にとっては真剣に臨むのが当然だろう。
そのように真剣に向き合ってくる人に対して、親鸞は真
剣に答えた。「応えた」と言う方がふさわしいだろう。相
手が真剣に立ち向かってくれば、逃げ出したくなることも
あるだろう。あるいは権威によってその刃を押さえたくな
ることもあるだろう。しかし、親鸞はそれをしなかった。
このような真剣な向かい合いというものを「一文不知」
の人々を相手にすることによって、むしろ親鸞は學んだのではないかという気がする。彼らの真剣さの根本には自
分がいっ死ぬかわからないという認識がある。「安全」が日常なのではなく、「危険」が日常だったのであ
る。捨てるものは何もなく、ただ命だけがある。その命さえも明日はわからない。そういう裸の人間が目の前
にいるのである。親鸞もまた捨てた人間である。そうして「信」によって蘇った。自分が語ることができるのは
それだけである。
*語り尽くせぬもの
唯円は「一文不知」の人ではなかった。しかし青年唯円の心はまた求めることにおいて同じであった。その唯円の
「耳の底に留る所」が,歎異抄に書かれたのである。私はこの「耳の底に留る」という言葉が好きである。そ
こに、心と心というものの言いしれぬ秘密が隠されているように思う。地底に眠る鉱脈が、ほんのわずかに地表
に顔を出して
いるような、掘れば掘るほど何かが出てきそうな、そんな
予感を秘めた言葉である。
言葉の「葉」は、「端」に通ずるという。その一端が自
分の心に触れた時に、自分の心はどこまでその根源にさか
のぼっていくことができるのだろうか。容易に足を踏み入れ難いような、それでいて踏み出さなければ座して死
を待
つだけのような、そんな予感がここにある。そうして多く
の人が、語り尽くせぬ「永遠」を語り続けてきたのである。
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